第2編 先史時代

 第1章 人類の出現と先史時代 

 人類がこの地球上に現れたのは、今から450〜500万年前の新第三紀、鮮新世の初期ころと考えられている。この最も古い人類の祖先は、直立二足歩行をなし、きわめて原始的な道具の使用を行ったと考えられる猿人で、アウストラロピテクスと呼ばれ、アフリカ東部で発見されている。しかし最近では、アウストラロピテクスより古いラマピテクス(1500万年〜500万年前)の化石の発見数が増え、このラマピテクスが、人類の最も古い祖先ではないかと考えられるようになってきた。
 アウストラロピテクスが100万年前まで続いた後、ジャワ原人、北京原人などの原人(ホモ・エレクトス)が出現する。ジャワ原人は、100万年前ころインドネシアに出現し、続いて40〜50万年前に北京原人が出現した。北京原人は、周口店文化という石器文化をもち、火を使用していた。
 20万年前ごろ、第四紀洪積世中期の終わりになると、ネアンデルタール人で代表される旧人が出現する。旧人は、3、4万年前の古ウルム亜氷期の終わりごろまで生存し、世界に広く分布して高度な石器文化を所有していた。また、日本に人類が出現したのも、大分県早水台遺跡、群馬県岩宿遺跡ゼロ文化層などの遺跡からこの旧人のころと考えられる。
 旧人の次には、ホモ・サピエンスと呼ばれる新人の段階に入る。新人は、現代人と形態的にほぼ変わりなく、地球上の居住可能なすべての地域に広がり、あらゆる環境に適応して生活をするようになる。また、石器の製作とその使用方法に大きな進歩を遂げるとともに、洞穴の壁画、土偶、装飾品、彫刻などの偉大な技術も所有していた。やがて1万年前になると、気候は暖かくなり、打製石器を主として使用し、狩猟や採集生活を行っていた旧石器文化に終わりを告げ、農耕社会が開始される新石器時代へ移行するのである。
 このような文献史前の長い人類初期の歴史を、考古学では基本的道具の材質の変遷により、石器時代青銅器時代鉄器時代と、三時代区分を行っている。また、石器時代は洪積世に属する打製石器使用の旧石器時代、沖積世になって磨製石器を多く用い、土器の製作や使用を行う新石器時代に区分している。さきに挙げた猿人、原人は旧石器時代の前期にあたり、旧人の生存時期は中期、新人の出現は旧石器時代の後期にあたる。
 日本は、沖積世以降大陸より孤立した島国となり、そのなかで大陸の影響を受けて独自の文化を営んできた。そのため、日本の先史時代の時代区分は、世界的時代区分とは別に、新石器時代以降は土器の変化を基本とした時代区分が行われている。すなわち、旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代という、打製石器を道具として使用する洪積世の旧石器時代(1万年前)から、土器使用を特徴とし、磨製石器、骨格器を用いた狩猟、漁労、採集経済社会の縄文時代が営まれる。2000年前ごろになると、大陸から水稲作と鉄器が移入され、農耕社会が営まれる弥生時代が始まる。3世紀末になると、本州では農耕社会の発展にともなって必然的に階級社会の成長がもたらされ、小国家が誕生し、日本の古代国家の基盤が成立する古墳文化へと変遷するのである。
 しかし、北海道では本州と多少異なった時代変遷が行われる。それは本州で弥生文化が営まれているころ、縄文時代の伝統を引き継いだ採集経済社会が依然として行われ、7世紀ごろまで続き、この時代を縄文時代と呼ぶのである。8世紀ごろになると、本州で終わりを告げる古墳文化がようやく道西南部に移入され、古墳文化の強い影響を受けた擦文時代が始まる。この擦文文化は鎌倉、室町時代まで続き、アイヌ文化へと移行する。以上のように北海道では、旧石器時代縄文時代続縄文時代擦文時代というように推移するのである。


第2章 旧石器時代

 第1節 北海道の旧石器時代

 旧石器時代の遺跡は、道内各地で数多く発見されている。今までに発見されている遺物で最も古いものは、上士幌町嶋木遺跡、千歳市祝梅の三角山遺跡がある。
 嶋木遺跡は、昭和44年(1969)に加藤晋平や辻秀子によって調査された遺跡で、出土した遺物は、黒曜石の石核、石刃、三角形の石片などである。石器の黒曜石水和層による年代測定では、1万9300年前、1万9000年前という年代が出されている。
 三角山道跡は、吉崎昌一らによって調査され、ナイフ形石器・尖頭器、スクレイパー、石核、剥片が出土したとのことである。C14年代測定によれば2万1450±750年前、黒曜石水和層による年代測定では、2万1000年前という年代が出されている。
 これらの遺跡から出土した遺物の年代からすれば、北海道の旧石器時代は2万年前ほどの寒冷な気候のころに始まり、このころ人が現れたと考えられる。
 嶋木や三角山遺跡の段階の次に、長さ2、3センチメートルほどの小さな石刃を持つ細石刃文化の段階を迎える。この時期の遺跡には、白滝30・33、水口、吉田、札滑など数多くあり、当町のトワルべツ遺跡もこの時代のものである。
 細石刃を所有する段階の次に、有舌尖頭器を保有する文化が営まれた。この時期には本州では既に土器が使用されている。立川遺跡がこの時期にあたり、立川
Vの黒曜石水和層年代測定によれば、8000年前という年代が出ている。
当町においても、千代肇によって有舌尖頭器が同人の言う上八雲第2遺跡東側(上八雲6遺跡と思われる)から採集されているので、この時期の遺跡があると考えられる。

第1図 遺跡分布

名       称 登録番号 所          在          地
オクツナイ遺跡 B16・ 1 八雲町浜松39番地他
トコタン1遺跡 B16・ 2    熱田45番地他
浜松1遺跡 B16・ 4    浜松259番地他
大関校庭遺跡 B16・ 5    上八雲297他
上八雲1(トワルベツ)遺跡 B16・ 7    上八雲287−1他
富咲遺跡 B16・ 8    富咲164,165
コタン温泉遺跡 B16・ 9    浜松283他
大新遺跡. B16・10    大新7他
山越1遺跡 B16・11    山越434他
10 山崎1遺跡 B16・12    山崎154他
11 台の上遺跡 B16・13    東野771他
12 八雲1遺跡 B16・14    出雲町40,41,42
13 シラリカ遺跡 B16・15    黒岩100他
14 小金沢遺跡 B16・16    東野627他
15 浜中1遺跡 B16・17    落部486, 487, 488, 489
16 桜野1遺跡 B16・18    桜野25−1他
17 上八雲2遺跡 B16・19    上八雲334他
18 元山牧場遺跡 B16・21    浜松105他
19 八雲2遺跡 B16・22    相生町116, 117
20 トコタン2遺跡 B16・23    熟田17他
21 浜松2遺跡 B16・25    浜松114他
22 浜松3遺跡 B16・27    浜松224
23 熱田1遺跡 B16・28    熟田223−1,223−2
24 鉄山遺跡 B16・29    浜松517
25 新牧場遺跡 B16・30    東野757他
26 ナンマッカ遺跡 B16・31    上八雲252他
27 トコタン3遺跡 B16・32    熟田62他
28 栄浜1遺跡 B16・33    栄浜92他
29 春日1遺跡 B16・34    春日10, 11, 12, 13, 14, 15
30 上八雲4遺跡 B16・35    上八雲502−1,−2,−3
31 上八雲5遺跡 B16・36       502−1,−2,−3
32 上八雲6遺跡 B16・37    上八雲290−1他
33 山崎2遺跡 B16・38    山崎157,349, 350, 361, 362, 363, 364, 365, 366−2
34 山崎3遺跡 B16・39    山崎157,361, 362, 363, 364, 365, 366, 366−2
35 黒岩1遺跡 B16・40    黒岩275他
36 黒岩2遺跡 B16・41    黒岩257, 258, 259, 261, 262
37 八雲3遺跡 B16・42    三杉町26
38 浜松4遺跡 B16・43    浜松254他
39 山越2遺跡 B16・44    山越350
40 山越3遺跡 B16・45    山越402他
41 山越4遺跡 B16・46    山越324他
42 野田生1遺跡 B16・47    野田迫311他
43 野田生2遺跡 B16・48    野田生355・357.358
44 野田生3遺跡 B16・49    野田生394他
45 野田生4遺跡 B16・50    野田生378他
46 野田生5遺跡 B16・51    野田生303,401
47 桜野2遺跡 B16・52    桜野41−1他
48 桜野3遺跡 B16・53    桜野27−1他
49 浜中2遺跡 B16・54    落部490他
50 栄浜2遺跡 B16・55    栄浜215, 216, 500−12

 第2節 大関遺跡群

 大関遺跡群は、遊楽部川を11キロメートルさかのぼった上八雲地域に発達した河岸段丘上に所在し、大関校庭遺跡・上八雲1遺跡・富咲遺跡・上八雲2遺跡・ナンマッカ遺跡・上八雲4遺跡・上八雲5遺跡・上八雲6遺跡の8遺跡が確認されている。
 遺跡の発見は、昭和34年(1959)大関小中学校グラウンド整地のおりに、同校の知野博教諭によって40数点の石器と石片が採集され、当時八雲高等学校に勤務していた田川賢蔵によって旧石器であることが確認された。その後、八雲高等学校郷土史研究部によって次々と遺跡が発見された。
 昭和35年(1960)には、函館博物館によって大関小中学校校庭と伊藤萬所有地の調査が行われた。この調査を行った吉崎昌一は、民族学研究26巻10号において「白滝遺跡と北海道の無土器文化」と題し、上八雲トワルベツ遺跡A地点中形blade、オシヨロッコ形graver、angle graver、keeld scraperを組み合わせとするもの、上八雲トワルベツ遺跡B地点中形blade、荒屋形graver、峠下形graverを特徴的組み合わせとするもの、上八雲大関遺跡月桂樹葉型の薄手両面加工point、flake−bladeから作られたendlscraper、マッシヴなポイント状scraperなどを特徴とし、bladeをもたない一群。と記している。この中でのトワルベツA・B地点は、現在の上八雲1遺跡と考えられるが定かではない。大関遺跡は大関校庭遺跡に当たる。さらに吉崎は、白滝LOC13同LOC30同LOC33札滑・遠間地点立川(尖頭器)トワルベツB・A大関(?)樽岸(?)として、トワルベツ遺跡を比較的新しく位置付けている。

第4図 旧石器 1−9 ナンマッカ遺跡、2〜8 上八雲6遺跡

 昭和38年、黒曜石水和層による年代測定を取り入れた白滝団体研究会の北海道石器の編年によると、LOC13ホロカ沢Iトワルベツ札滑LOC33LOC30立川という変遷が行われ、トワルベツ遺跡は、細石刃を保有する文化の中で比較的古く位置付けられている。また畑宏明も、白滝13・31峠下型細石核の段階(タチカルシュナイVB下層、浅芽野・本沢・峠下・大正・トワルベツ)湧別技法・ホロカ技法の段階(タチカルシュナイVAV層、札滑・タチカルシュナイVC上層・安住E・白滝33・同30・同32・立川I〜W・安住A)として、トワルベツを古い方に入れている。
 トワルベツ遺跡は先に示したように、編年位置はまだ定かではないが、いずれにせよこの遺跡は細石刃を保有する文化であり、トワルベツB遺跡の黒曜石水和層による年代測定によれば、1万2500年前ころとされていることから、このころ当町の上八雲地区に人が現れたものと考えられる。
 昭和39年には、高文連道南地区郷土史考古学部会によって、伊藤萬所有地において発掘調査が行われ、ブレード、ブレードコア、スクレイパーなどが出土したとされているが、出土遺物についての詳細な報告はなされていない。
 

 第2表 石器群の年代(畑宏明「北海道考古学」による)
    (F:フィッショントラック,C:C14,H:水和層)

  遺 跡 名 年代(y・b・p)
7000− 古田   6600± 500(F)
  虎杖浜   7700± 200(C)
  浦幌   7800       (H)
  立川V   8000        (H)
    9200        (H)
  音更   9200        (H)
10000− 北見   9900        (H)
北上 10300±1300(C)
  曲川 11500        (F)
  吉村 11700        (H)
置戸U・V 11800       (H)
  オショロッコ 12300        (H)
  間村 12400        (F)
  トワルベツB 12500       (H)
  札滑 12500       (H)
  白滝 32 12700       (H)
置戸 I 12800       (H)
  白滝 30 13000      (H)
遠間 H 14100       (H)
  白滝 33 15200       (H)
  白滝 31 14800± 350(C)
  15800± 400(C)
  ホロカ沢 I  16300       (H)
  白滝 27  16600      (H)
白滝 4 16800      (H)
白滝 13 17000       (H)
嶋木  19000       (H)
20000−   19300      (H)
白滝 38 20000      (H)
  三角山 21000      (H)
    21450± 750(C)

 このほかに、八雲町郷土資料館によって採集された遺物を挙げてみると、第4図の1〜4は石核で、1は高さ10・5センチメートル、幅7センチメートル、厚さ7・5センチメートルの円錐形をしたブレードコアである。2〜4は舟底形をした両面加工のコアで、先端部に小さな縦長の剥片を取った跡がみられる。5〜9はブレードで、6、7、8は一部欠損している。プラットホームは6を除いていずれも小さい。石材は頁岩で、2〜7は上八雲6遺跡、1と9はナンマッカ遺跡から採集されたものである。


第3章 縄文時代


 第1節 時代区分

 沖積期に入ると気候は暖かくなり、土器が出現し使用されるようになる。この土器使用の文化は、狩猟・漁労・採集経済社会で8000年の長い間続き、縄文時代といわれる。こうして長い間続いた縄文時代は、使用される土器の移り変わりにより、早期・前期・中期・後期・晩期の5つの時期に区分されている。


 第2節 早期(約9000年〜6000年前)

 北海道で土器使用が始められたころの土器として、サルボウ・アカガイ・ホタテなどの貝の腹縁を押し付けて模様をつけた貝殻文土器がある。この貝殻文土器には、函館市住吉町遺跡、七飯町鳴川遺跡など道西南部を中心として出土する乳房状尖底土器といわれる尖底土器群と、白老町虎杖浜遺跡、大樹町大樹遺跡、帯広市下頃部遺跡など道東を中心として出土する平底土器群の2つのグループがある。貝殻文の尖底土器グループは、関東・東北地方にみられ、この東北地方の文化が津軽海峡を渡り道西南部にもたらされたものと考えられる。
 貝殻文土器の後に、縄文を棒にコイル状に巻いて押捺した絡条体圧痕文や、縄文を押しつけた縄線文、組紐圧痕文などが施文された平底土器群が広がる。
 当町におけるこの時期の遺跡としては山崎1遺跡がある。この遺跡は、山崎駅から1キロメートル北の内浦湾に面した標高20〜40メートルの海岸段丘上に位置しており、昭和55年(1980)5月に発掘調査が行われている。遺跡は縄文時代早期から中期にかけてのものであり、山崎遺跡から出土した早期の土器には、次の3種類がある。
一類=貝殼腹縁文が施文される土器で、第5図1は、口縁部が外反し、口唇の表と裏に貝殼腹縁文の圧痕がみられる。2、3はキャリパー状に口縁部が外反し、3は小突起を有する山形口縁部分の土器片である。
二類=隆起線文と縄文、または隆起線文と格条体圧痕文が施文される土器(4〜6)。
三類=沈線文の施文される土器(7、8)。
 一類は、函館市中野A遺跡などで出土している乳房状尖底土器群で、青森県下北郡東通村物見台遺跡を標式遺跡とした物見台式土器にあたる。二類は、函館市梁川町遺跡出土の梁川町式土器で、三類は、青森県東通村ムシリ遺跡ムシリ式に類似する土器と考えられる。一類の土器年代は、函館市中野A遺跡のC14年代測定によると、およそ8000年前と思われる。

第5図 早器の土器 山崎1遺跡出土(写真1)



 

 第3節 前期(約6000年〜5000年前)

 前期になると道東北部では、格子目、矢羽根など押型文が施文される尖底の温根沼式、朱円式土器や、格子目短冊型の押型文が施文される平底の多寄式、神居式、トコロ10類などと呼ばれる押型文土器が栄えるが、全道的には断片的であるが綱文、縄文尖底が分布する。渡島半島には春日町式土器と呼ばれる縄文尖底土器が分布し、渡島半島以外では斜行縄文や撚糸文が施文される中野式や綱文式土器が分布している。その後、道西南部は東北北部で栄えた円筒土器下層式土器が栄えるのである。
 渡島半島の円筒土器下層式土器について高橋正勝、小笠原忠久によると、ハマナス野I式椴川式サイベ沢
Uサイベ沢V式と編年がされており、さらに椴川式をa、bに、サイベ沢V式を2〜3型式に細分している。
 当町においてのこの時期の遺物は、内浦湾に面した海岸段丘に位置している山崎1、3遺跡、元山遺跡、山越3遺跡、栄浜1遺跡などから出土しており、このうち元山遺跡については詳細が不明であるが、いずれの遺跡からもサイベ沢
V式土器が出土している。当町では現在のところ、ハマナス野I式、椴川式、サイベ沢U式などの前期前半の遺物は検出されていない。
 元山遺跡=山越駅から北西0・8キロメートルの酒屋川左岸に位置する標高20〜30メートルの段丘の酒屋川寄りに所在している。遺跡は、昭和32年(1957)2月20日から30日にかけて、田川腎蔵によって264平方メートルの発掘調査が行われた。同人によれば、6基の住居址と多数の縄文前期の土器、石錘、石冠、石匙が出土し、さらに、前期文化層上に中期の比較的古い円筒土器をもつ文化が認められた。住居地は、3メートル×5メートル、もしくは3メートル×4メートルという規模で、炉は中央部分にあり、柱穴はそれぞれの中央と縁辺に分布していると報告されている。
 栄浜1遺跡=当町と森町との町界を流れる茂無部川の左岸に位置する標高20〜80メートルの段丘上に所在しており、昭和56年と57年に発掘調査が行われている。

第6図 前期の土器 栄浜1遺跡出土

  この遺跡からは、194基の住居址と土壙473基、配石遺構22が検出されており、前期に属すると思われる遺構は住居址2基で、円形もしくは楕円形である。
 土器……土器は、高さ30センチメートルないし40センチメートルの円筒形をした深鉢形土器が多くみられるが、浅鉢形や台付形の器形もみられる。深鉢形土器は、口縁はゆるやかに少し外反し、口縁部の文様帯は狭く撚糸の圧痕による文様が施文されていて、胴部には撚糸文や多軸絡条体が施文され、わずかなふくらみを有する土器群と、口録部が「く」の字状にわずかに外反し、胴行が少しふくらむ土器群、口縁が少し外反し、ゆるやかな山形突起を有する土器群などが出土している。これらはいずれも前期後半のものである。
 住居址……住居址は2基検出され、長軸約8メートルの楕円形または円形をした大きなものが出土している。しかし、栄浜1遺跡においては柱の数や炉の有無については明らかではない。これらの住居は前期後半のものである。

第7図 前期の住居址 栄浜1遺跡





 第4節 中期(約5000年〜4000年前)

 道東では、トコロ6類、トコロ5類、北筒
W式、北筒X式などの縄文の施文された円筒状土器で、円筒土器上層式に影響を受けたと考えられる北筒式土器が分布するが、道南西部地域では、前期と同様に東北地方の円筒土器文化の影響を受けた円筒土器上層式土器が栄える。
 道南西部の円筒土器上層式は、高橋正勝、小笠原忠久によると、古武井a古武井bサイベ沢
Xa→サイベ沢Xb→サイベ沢Yサイベ沢Za→サイベ沢Zb→見晴町式という変遷が述べられている。さらに、中期の終わりのサイベ沢Z、見晴町式の時期には、東北南部を中心に栄えた大木8b、大木9式の強い影響を受けた土器が出土するようになる。
 当町におけるこの時期の遺跡は、内浦湾に面した海岸段丘上に位置している黒岩1、2遺跡、山崎1、2遺跡、浜松1、2、4遺跡、元山遺跡、コタン温泉遺跡、山越1、3、4遺跡、トコタン1、3遺跡、野田生2遺跡、浜中1遺跡、また、野田追川の河岸段丘上に位置する台の上遺跡、桜野1、2遺跡、砂蘭部川下流に広がる扇状地上に位置している大新遺跡、八雲2遺跡が上げられ、いずれも円筒土器上層式土器を出土するが、なかには栄浜1遺跡や山崎1遺跡のように、余市式土器も多少出土する遺跡も見られる。
 これらの遺跡のうち、調査の行われたものについて述べることとする。
 山崎1遺跡=早期の項で述べた遺跡で、報告書の第
V群1類〜3類の土器が中期にあたる。1類は、口縁が外反して平縁で口唇部に鋸歯状の貼付文が施文されている。また、口唇や口縁部に馬蹄形撚糸圧痕文が施されている。2類は、1センチメートルほどの幅の貼付文が施されている。3類は、隆帯上に連続刺突文が施文され、1類はサイベ沢Xb、2類は余市式、3類はノダップUに対比される土器である。
 コタン温泉遺跡=八雲市街地から南東へ4キロメートルの所で、ブユウベ川の左岸に位置した標高20〜25メートルの海岸段丘上に所在しており、昭和20年代から30年代にかけて田川賢蔵によって調査が行われている。同人によると、住居祉と貝塚の集落遺跡と述べられているが詳細については不明である。
 浜中1遺跡=落部市街地の東側に位置している内浦湾に突出した標高10〜14メートルの海岸段丘上の先端部に所在している。この遺跡は、昭和34年と37年の2度にわたり、早稲田大学によって発掘調査が行われたもので、桜井清彦のいう落部遺跡である。同大学の調査によると、縄文時代中期、続縄文時代の遺跡で、円筒土器上層式の住居址が検出されている。住居址は、長径3・5センチメートル、短径2・95センチメートルの卵形で、中央から北寄りに石組みの炉がある。柱穴は竪穴内にはなく、床面は竪穴床面に接して石槍と少数の土器が検出されたといわれているが、報告がなされておらず詳細は不明である。
 栄浜1遺跡=前期の項で述べた遺跡で、調査によって遺跡から検出された194基の住居址のうち192基、473基の土壙の大半が中期に属する遺構と考えられるとともに、中期前半から後半に至るまでの土器が多数出土しており、中期全般を通して集落が構成されていたと考えられている。
 土器……
T(第8図1・2)口縁部が外反する筒形の土器で、4個の突起を有し、口縁部と胴部の文様帯は太い貼付帯で区分されている。また、突起下の口縁部には、同様の太い貼付文がつけられ、口縁部文様帯は4つに区画されている。口縁の文様帯内には2、3本組の撚糸や絡条体が施文され、胴部から底部にかけては羽縄文、斜行縄文、絡条体圧痕文などが施文されている。U(第8図3〜5)Tと器形は類似するが、胴部にわずかなふくらみがみられ、口唇鋸歯状の貼付文が施文され、口縁部に馬蹄形をした撚糸圧痕文が多く使用されている。V(第8図6)胴部がいくぶんふくらんだ器形で、口縁部文様帯の幅は広くなり、施文される貼付文は複雑になる。W(第8図7・8)口縁部が外反し、胴部下半部分がふくらんだ深鉢形で、口縁から底部付近まで斜縄文が施文され、貼付文は口縁部から胴部までつけられるが、貼付帯に縄文は施されていない。X(第8図9〜13)小形で深鉢形をなし、突起は四突起みられるが小さい。地文として斜縄文が施文され、貼付帯はなくなりこれに代わって沈線文がつけられる。Y(第9図2・3)口縁部は外反し、胴部がふくらんだ器形で、地文は撚糸文、その上に円形や直線の沈線文が施文される。Z(第9図1)深鉢形、壺形の器形があり、地文として斜縄文が施文され、深鉢形の土器には突瘤文のある数条の貼付帯が施文される。

第8図 中期の土器 栄浜1遺跡

 

第9図 中期の土器 栄浜一遺跡

 

 以上を大きく分けて7種類の土器が出土しており、TXは円筒土器上層式の土器で、Tは高橋のいういわゆる古武井式、UVはサイベ沢X式、WY式、XZに相当する。Yは東北地方南部を中心に分布する大木8b、9式の影響を受けた土器である。Wは札幌低地帯を中心に分布する余市系の土器と考えられる。
 住居址……中期前半の住居址の様子は、今のところまだ明らかになっていないが、後半の住居址は楕円形をした7メートルほどの比較的大形のものである。また、東北北部の大木系の影響を受けた住居址は、比較的小形のものが多く、楕円形もしくは隅丸方形をなし、炉は中央付近に施文され、土器を床面に埋めて炉にしている。
 中期末と考えられる住居址は、長径8、9メートル、短径3メートルほどの楕円形の大住居と4メートルほどの隅丸形で、中央から少し外れたところに石を並べた炉が施文されている。

第10図 中期の住居址 栄浜1遺跡





 第5節 後期(約4000年〜3000年前)

 後期になると、土器の器形は深鉢形、浅鉢形、壺形、甕形、盃形、台付き、双口形など数多くの変化が現れる。また、いままで石狩・苫小牧の低地帯を中心に、道西南部、道東部と2つに大きく分かれていた文化圏も、ほとんど違いがみられなくなる。しかし、それでも東北の影響を受けた沈線文を主体とする土器が、後期前葉に道南に分布する。
 中葉になると、船泊上層式、手稲式ホッケマ式、エリモB式などのように、平行沈線、縦の沈線、雲形文、入組文、磨消文などが施文される土器が分布する。
 後葉になると、沈線は渦巻文=曲線文となり、また、磨消文、突瘤文はさらに発達した堂林式、御殿山式、栗沢式などが出現するようになる。
 当町における後期の遺物を出土する遺跡は、海岸段丘上に所在するトコタン1遺跡、浜松2遺跡、野田追川の河岸段丘に所在する桜野3遺跡、新牧場3遺跡などがある。
 後期前葉は、新牧場遺跡やコタン温泉遺跡から出土している沈線文主体の十腰内式、入江式土器が分布しており、当町は東北北部地方の強い影響下にあった。中葉になると、浜松2遺跡やコタン温泉遺跡で出土する手稲式、エリモB式が分布するようになり、道央と同一文化圏になるが、その後の後期後葉の土器は、現在のところ発見されていない。
 トコタン1遺跡=熱田川とポン奥津内川に挟まれた標高20〜25メートルの海岸段丘上に所在しており、田川賢蔵のいうトコタン遺跡C地点に相当する。田川によると、野幌式、入江式、縄文の施文される土器、後北式土器が出土しており、縄文時代中期、後期、続縄文時代の遺跡であるとしている。
 新牧場遺跡=野田追川下流の右岸に位置している標高23〜30メートルの海岸段丘上に所在しており、昭和49年(1974)に八雲町文化財調査委員によって所在調査が行われ、このときに第11図1の土器が出土している。土器は、胴部上半部が張り、口縁部がわずかに外反する高さ24センチメートルの深鉢形で、口縁部と胴部下半に横走する3本の沈線が施され、その内に沈線による渦巻文が施されている。

 
第11図 後期の土器 1新牧場遺跡,9〜14浜松2遺跡  2〜8コタン温泉遺跡

 

 コタン温泉遺跡=山越駅から1・2キロメートル北西の標高20〜25メートルの海岸段丘上に所在しており、遺物は沈線文を主体とした入江式に属する土器が出土している。
 浜松2遺跡=八雲市街地から南東側4キロメートルほどの標高20〜30メートルの、元山遺跡が所在する同一段丘の西側に位置している。遺跡からは数多くの土器が表採されており、このうち第11図11〜14は羽状縄文を地文としてIOの突瘤文が施されている。11は斜縄文に横走する沈線が施されている。これは後期中ごろのエリモB式土器である。



 第6節 晩期(約3000年〜2000年前)

 晩期になると再び道南は東北地方で栄えた亀ヶ岡文化の強い影響を受け、東北地方の文化圏に入り込んでしまうのである。道東では晩期の末までその様子はよく分かっていないが、末になると幣舞式、緑ヶ岡式などの土器群が広がり、道央付近にまで分布を広げるようになる。道南部に栄える亀ヶ岡式土器は、野村宗によれば4期に区分される。1期は後期初期に土器文様として盛んに取り入れられた沈線文、磨消文がさらに発達した雲形文、三叉文が施される。2期は、刺突文、爪形文、羊歯状文、雲形文がみられる。3期になると口縁部の大型突起、B状突起、
T字文の文様が主体となり、4期になるとT字文が主体となる。この亀ヶ岡式土器の1期は渡島半島、2期は石狩・苫小牧低地帯南西部まで、3期には同低地帯以東に分布する。4期には全道に分布するようになるとしている。
 当町も早くから亀ヶ岡文化の影響を受けたと考えられるが、この時期の遺物は浜松2遺跡から土器片が数点出土しているだけであり、いずれも沈線と斜縄文が施文されている。

第12図 続縄文時代の土器 浜中1遺跡





第5章 擦文時代(約1200年〜800年前)


 本州と異なった続縄文文化も、8世紀になると本州から古墳時代の土師器と呼ばれる土器が道西南部に移入される。これによって続縄文時代に施文され続けてきた縄文文様は土器から姿を消し、縄文文化の伝統は失われ、これに代わって土器面にはハケ目のような整形痕がみられるようになる。また、古墳文化の影響は土器だけではなく住居にも現れ、住居址内に設けられていた炉はカマドへと変わるのである。このころになると、北海道でアワなどの農耕が行われるようになる。
 擦文時代の終末は、現在のところ十分に分かっていないが、鎌倉〜室町時代に終わると考えられている。
 当町でのこの時代の遺跡にはトコタン2遺跡があり、本州の強い影響を受けた文化が営まれていた。
 トコタン2遺跡=八雲市街地から東南1キロメートルの地点にあり、熱田川左岸の標高20メートルの海岸段丘先端部に位置している。この遺跡は、以前は熱田遺跡と呼称されていたもので、昭和42年(1967)に武内収太、山田悟郎、55年には石附喜三男によって発掘調査が行われた。
 武内・山田の調査によれば、半分以上破壊された住居址1基が検出されている。この住居址は隅丸方形と考えられ、北壁にカマドが設置されている。遺物は住居址床面から2個の甕形土器が出土しており、第13図1は口径20センチメートル、高さ23・5センチメートルで、口縁部は「く」の字状に外反し、横走する擦痕が認められる。胴部には縦や斜め方向に幅0・5センチメートルのナデが見られる。内側には幅1・2センチメートルほどの横ナデが施されている。2は口径14・8センチメートル、高さ12・5センチメートルで、口縁部は「く」の字状に外反し、胴部の内外面に0・5〜1・2センチメートルの横および縦方向のナデが認められる。
 昭和55年の石附喜三男による調査では、この時期に属する土器片2、3点が出土しただけに終わっている。

第13図 トコタンコ遺跡と擦文時代の土器

 

 参考文献

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