第3編 行政

 

第1章 藩暮時代

 

 第1節 前松前藩時代

 

 当町とその周辺は、蝦夷地における近世の先住民族とされているアイヌが、恵まれた自然環境のなかで、それぞれ漁猟を中心として自由な社会生活を営んでいたことは、種々の文献により容易に推察されるのであるが、この地方に和人が、いつ、どのようにして渡来し、先住民と交渉を持つようになったかについては、詳しく知る史料が残されていない。しかし、少なくとも記録的にはっきり現れるようになるのは松前藩の成立以後で、場所が開設されて知行主との交易が行われるようになったころ、すなわち16世紀の末から17世紀の初めと考えてよいのではなかろうか。

 

和人地と蝦夷地

 古来北海道は、和人が渡道する以前は蝦夷と呼ばれる人々によって占められていたのであるが、文治5年(1189)和人が渡島半島南部に住むようになり、松前藩成立(1600年)の当時は、松前地と蝦夷地は完全に区別されていたのである。

 松前地は和人地ともいい、現在の松前町を中心に日本海側の熊石までと太平洋側の亀田付近までで、その他の地方はすべて蝦夷地と呼んでいた。さらに蝦夷地は、西北部の熊石から日本海岸を経てオホーツク海岸にかけて西蝦夷地、東南部の太平洋海岸から根室、国後、択捉を含む知床半島の突端を分岐点として東蝦夷地、と区分していた。

 

松前藩の成立

 松前地は初め津軽の安東氏の管領下にあって、和人地として開けてきた。しかし、和人が次第にアイヌを圧迫し、康正2年(1456)には志濃里でアイヌの少年が殺害されるという事件が起き、これがきっかけとなってアイヌの不満が爆発した。翌長禄元年、コタンコロクル(コタンの長)コシャマインが大軍を率いて決起した「コシャマインの反乱」によって松前地が攻められ、すべてが危うくなりかけたとき、武田信広がコシャマイン父子を討ってこれを平定した。その功を認められた信広が、上ノ国の蛎崎家の養子となって次第に勢力を強め、ついに和人を統一して安東氏の代官としての地位を築き、実質的な支配権を確立するようになった。さらにこの信広から五世の子孫である蛎崎慶広が、天正18年(1590)豊臣秀吉に謁見のうえ蝦夷島主として認められ、秀吉の配下に属して他の諸大名と同じ待遇を受けることになり、事実上、安東氏の支配を脱して独立したのである。しかも、文禄2年(1593)に再び伺侯した慶広の願いをいれた秀吉は、志摩守に任ずるとともに朱印の制書を下賜した。すなわち、

 於(二)松前(一)、従(二)諸方(一)来船頭商人等、対(二)夷人(一)、同(二)地下人(一)、非分儀不(レ)可(二)申懸(一)。竝船役之事、自(二)前々(一)、如(二)有来(一)、可(レ)取(レ)之。自然此旨於(二)相背族在(レ)之者、急度可(二)言上(一)、速可(レ)被(レ)加(二)御誅罰(一)者也。

 文禄二年正月五日 朱印

 蛎時志摩守とのへ

 というもので、先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利が認められたのである。

 さらに慶長4年(1599)、氏を松前に改めた慶広は、天下の政権が徳川家に傾くと、巧みな外交ぶりを示していちはやくとり入り、慶長9年正月、家康から黒印の制書を受けるに至った。この制書の内容は、秀吉の朱印の制書よりいっそう権限が強化されたものであった。すなわち、

 一、自(二)諸国(一)、松前へ出入の者共、志摩守不(二)相断(一)て、夷仁と直に商買仕侯儀可(レ)為(二)曲事(一)事。

 一、志摩守に無(レ)断而令(二)渡海(一)、売買仕侯者、急度可(レ)致(二)言上(一)事。

 付、夷の儀は、何方へ往行侯共、可(レ)致(二)夷次第(一)事。

 一、対(二)夷仁(一)、非分申懸者、堅停止事。

 右条々若於(二)違背の輩(一)は、可(レ)処(二)厳科(一)者也。仍如(レ)件。

 慶長九年正月二十七日 黒印

 松前志摩守とのへ

というもので、名実共に蝦夷全島の支配者として公認され、松前藩の基礎が確立したのである。

 

松前藩初期の居住区分

 松前藩の独立当時は、和人は亀田付近から西は熊石に至る海岸数十里の地に居住し、アイヌも混在していたが、それ以外の地はすべてアイヌが占拠していた。このため、慶広は状況に応じて和人地と蝦実地を区画し、蝦実地には和人の居住を全く許さないようにした。これは、広大な地域の取り締まりを容易にするためであったが、後には夷境に接する亀田と熊石にはそれぞれ番所を設け、蝦夷地出入りの者を検査するようになった。したがって当時の八雲地方は東蝦実地に属し、和人の居住が許されない地帯であったわけである。

          

藩士の知行と場所

  松前藩か独立して多くの藩士を抱えるようになったものの、領内では米が出来ないため、その給与法は、他藩のように石高で与えることができなかった。このため、種々の役料のほか蝦実地を多くの場所に区画し、あるいは和人地の一部を割き、藩士に交易権を与えて知行に代える方法をとったのである。

 蝦実地の中に知行としての場所を与えられた藩士は、アイヌの介抱という名でその場所内のアイヌの必要とする物資を、年1回一定の大きさの船で積み渡り、アイヌの収獲物と交易して帰り、これを城下に集まる商人に販売して利潤を得る制度であった。しかし、給地内であっても採金をはじめ、鷹(たか)の捕獲を業とする鷹待(たかまち)およびサケマス漁、伐木などの業はすべて藩主の権利に属し、特に許しがなければ知行主もその業を営むことができなかった。

 この知行としての場所の給与によって、八雲地方におけるアイヌと和人の交渉が、公式に持たれる動機となったのである。

八雲地方の場所開設

 松前藩政が伸展し、場所の給与が進むにしたがい、和人地に近くアイヌも多く住んで豊かなコタンを形成していたこの地方が、知行地として場所設定の単位に考えられたとしてもごく自然であり、やがてユウラップ場所やノダオイ場所の開設をみたわけである。しかし、両場所とも開設年代を明らかにする史料が残っていないのは残念なことである。

 ユウラップ場所については、知行主である「青山家履歴書」(松前町永田富智識)によれば

国主松前伊豆守慶広公御代

 奉仕年月日不詳

元祖生国加賀国産為芝青山与右衛門

 紋所 葉菊丸

 替紋 厥手四ツ目

 法被 山印用之

 東蝦夷地ユウラップ境西ノ方ユフヲイ川ヨリ東ノ方シツカリ川迄支配所拝領

とあり、これを直ちに開設年代を知る手掛かりとするには多少難点があるとしても、「慶広公御代」という点に主眼をおいて考えることができるとするならば、慶広が嫡子盛広に家督を伝えた慶長5年(1600)6月以前とみることができるのではなかろうか。

 

東蝦夷地ヤムクシナイ絵図面(写真1)

 

 なお、ノダオイ場所に関する史料はさらに乏しく、設定の年代は不明であるが、この場所がユウラップ場所よりも和人地に近いという地理的条件からみて、同時か、もしくはそれ以前と考えても不自然ではないと思われる。ただ、既刊(昭和14年)「落部村郷土史」の中に、執筆者の山田種次郎が古老から聞いた話をもとに、

 「十代藩主松前矩広の寛文九年夷酋シャクシャイン叛乱し、長万部、国縫付近に殺到したるが、是が討伐に松前藩士寄合役新井田権之助知朝手勢を引率して参戦し、大いに功あり、其年十二月論功行賞に際し、野田追場所と称し新井田権之助知朝に始めて本村を賜ったという」

と記しているが、これについては同人も史実の実証はできなかったと付言しているほどで、確実性が薄いものである。

 寛文10年(1670)の「津軽一統志」の松前より下狄地所付の項では、(関係分のみ)

 一、おとさっへ 川有狄おとなアイツライ持分

 一、のたあい とち川(崎)より八里有新井(田)権之助商場狄おとなサルコ

 一、ゆうらっふ 川有青山弥左衛門商場狄おとなハハ [家七軽]

 一、黒岩 同人商場

と記録され、この時代では、ユウラップ場所は青山弥左衛門、ノダオイ場所が新井田権之助と、それぞれの知行主の名が明示されている。

 

場所の区画

 このころの場所の区画は、最初から藩主が明確に区分したものではなかった。このため、場所の境界紛争がしばしばあったようである。野田追場所と茅部場所でも元禄8年(1695)10月に境界論争が起き、結局「中分け」で定めたことが、茅部場所と尾札部場所の境界争い解決の際に引用されていることなどからみても、運用上問題が生じてから決めるという例が多かった。

 野田追場所と茅部場所の境界紛争解決の記録の中でも単に「中分け」とされているだけで、具体的には不詳であるが、後の記録である寛政3年(1791)の「東蝦夷道中記」の中では、 「カヤベ場所、ノタヲイ場所の境にイナウサキと云所、出崎にて蝦夷人幣束を立置、古来此境を仕来りした。追年の境目論に及び運上屋の際、ポンナイと云河是を境とす」

と記されており、この「追年の境目論」という事件が、元禄8年の事件をさしているとみれば、この時から茂無部川を境とすることにしたもので、以前は、現在の町村界よりもさらに森町側に寄っていたと考えられるわけである。

 なお、野田追場所の北側境界は、現在の山越の中央を流れる境川をもってユウラップ場所に接しており、ユウラップ場所は境川から現在の長万部町静狩までと利別川上流の地の一部を区域としていた。

 

松前藩の領民対策

 松前藩の領民には、大別して土着の和人、旅人(たびと)、アイヌの3種があった。藩は、アイヌの統治を容易にし、蝦夷地交易の利を確保するために和人の居住地を限定し、また、和人が常食とする米は、すべて他藩に依存していたため多数の和人が居住することを好まなかったので、和人の増加は極めて遅いものであった。

 藩は制規として、他藩から来た者は、みな福山・箱館・江差三港の「沖の口役所」で検査をし、土地に身元引受人があり、就業の目的のある旅人は滞在を許可し、そうでない者は、直ちにその船で帰させるようにした。また、和人の蝦夷地への土着を禁ずるなど、移住に対し消極的な政策をとってきた。しかし、実際には取り締まりが十分に行き届かず、ひそかに滞在するものが多くなった。

 これに対しアイヌは支配地の大部分に居住し、重要な人民であったにもかかわらず、藩はただ交易を通じてこれを利用するにとどまり、化外の民として固有の風習を守らせ、固有の言語を使用させて、およそ「蝦夷のことは蝦夷次第」という立場で、ほとんどのことはその自由にまかせて干渉しなかった。

 松前藩主が家臣に給地として与えた場所を「箱館6か場所」、あるいは単に「6か場所」ともいい、小安(戸井町)から野田追までの沿岸地帯を、小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追の6か所に分けられた漁業交易区域を指した。この場所を知行することによって、アィヌとの友好関係に入った知行主は、年に一度「介抱」と称して場所に派遣された交易船にアイヌの希望する酒・たばこ・塩などを積んで行って、「オムシャ」という礼を行い、友好のしるしとしての土産を贈り、アイヌはこれに対して土地の産物を返した。このアイヌからの産物が知行主の収入になるというように、全く友好的であり、対等の立場で接触が持たれるようになったのである。しかし、やがて両者の勢力に格差が生ずるにしたがい、オムシャは知行主がアイヌに恩恵を施し、また、掟(おきて)書を読み聞かせる支配的なものとなり、交換の方は純粋な経済的目的となって、アイヌの産物を獲得するために交易船が派遣されるようになったという。こうしたことから、この給地を「商場(あきないば)」、または「場所」といい、この制度を「商場知行制」と称した。

 「津軽一統志」によると、寛文9年(1669)ごろ6か場所に当たる地域の中では、野田追だけが「商場」と記されている。しかしその後、元禄8年(1695)茅部場所が記録に現れ、寛文から元禄にかけて6か場所のうち2か所が記録されており、この元禄期に6か場所一帯が商場として成立をみるようになったのではないかと思われる。

 

場所請負制への移行

 知行主がアイヌとの交易によって取得した産物の売りさばきや、仕込みの資金を得るため、自然に商人と関係が持たれるようになったが、その後次第に複雑になるにつれて、資本的にも技術的にも武士の手に負えなくなるとともに、多額の負債まで抱えるようになった。このため、商人が徐々に実力を発揮し、蝦夷交易の権利を得て場所請負人という名目のもとに、一定の運上金、上納金などを納付して、直接交易を行うようになっていった。

 このように場所請負という変化の生じた年代は明らかではないが、徐々に進行し、やがて藩主の直領までも請負人の手に渡されて、蝦夷交易の全部がこれら商人によって行われることになった。したがって、ノダオイ・ユウラップの両場所も自然にこれら請負人の手に渡っていったものの、その具体的年代は不明であり、「近世渡島地方史」(松本隆著)に、

 「この年間(正徳年間1711〜1715)亀田小安から茅部野田追にかけての場所を箱館在住の角谷吉右衛門が請負っていたという」

という記述があるが、これが今のところ八雲地方における場所請負制度の名を残す最も古い時代の記録となっているようである。

 また、寛保から延享にかけての年代(1741〜1748)に書かれたものという著者不明の「蝦夷商賈聞書」によれば、

 一、ヲトシ部 モナシ部 野田オイ

 此三ヶ場所新井田権之助殿御預リ、出物鯡数子昆布夏出物、冬ハオットセイ沖より寄昆布ヒラヱ囲昆布と申、春大阪船共箱館江下リ右之昆布積申侯。此カヤベヨリヲシャマンベト申所迄十月ハ皆々オットセイ取商売、目形十三〆三四百目迄松前公儀江御取揚ゲ罷成、其外大キ成ハ皆御預り方之分也。右之地秋ハ生鮭モ少々上ル、冬馬足之立間ハ馬ニ而戸切地ト申所より出、又運上金権之助殿江上納、夏之内二百石斗ナル舟ニテ三度通、運上金不同。

一、ユラプト申地青山新五左衛門殿御預リ、右領分オシャマンベ迄出物同断、運上金三ヶ年百五十両新五左衛門殿江納ル、此ヲシャマンベト申所より西海スッツト申所江越ル道有リ。

 

知行主などの表

場所名 知行主 天明6年(1786) 寛政4年(1792)
請負人 運上金 請負人 運上金
ノタオイ 新井田伊織 箱館
江口屋兵右衛門
七〇両 松前
河崎屋新六
六〇両
ユウラップ 青山園右衛門 材木屋藤エ衛門 三〇両 四〇両

 

と場所の産物や請け負いの事実が記されているが、請負人の氏名は明示されていない。なお、少し後の年代になってからではあるが、「新北海道史」によると、場所請負人およびその運上金高は前表のように記されている。

 

蝦夷交易の変化

 知行主から請け負った商人を場所請負人、料金を運上金、交易所を運上屋と称し、請負人の多くは他国から出稼ぎの商人や漁業者で、請負期間は通常3年・5年・7年などを一期とし、その期限が切れるとさらに契約を継続するか、他の請負人と交替するというものであった。

 請負人も、最初は知行主と同じで、交易による利潤を目的とし、その交易方法も知行主のそれと変わるところがなかったのである。しかし、次第に生産技術が進歩するにしたがい、請負人が直接漁場を開き、アイヌを使役して大規模に漁獲するようになった。このため、アイヌは自然にその下に隷属した労働者となり、従来アイヌと内地商人との唯一の接触場所であった運上屋を中心に、番人が滞在し、付近のアイヌを使役して漁業を営む番屋が増設されていった。

 アイヌとの交易所である運上屋がノダオイ・ユウラップに建てられてあったという記録としては、天明6年(1786)の「蝦夷拾遺」に

 ノタオイ 運上屋一戸 海岸七里余

 ユウラップ 運上屋一戸 海岸八里余

というのがはじめてであり、これから5年後の寛政3年(1791)菅江真澄著「蝦夷酒手布利」には、山越内に運上屋があったと書かれているが、これは前者が場所の総称で表わしたのに対し、後者は直接の所在地で表わしたもので、ユウラップと山越内の運上屋は同一のものを指しているものと思われる。

 なお、これら運上屋の場所・規模・態様を知る史料はないが、初期の運上屋は常住する者もなく、交易が済むとコタンの長に管理を任せて引き揚げるのが常であった。しかし、漁業が発達して請負人が直営するようになってからは、番人や稼ぎ方を宿泊させ、雇い入れたアイヌたちを集合させ得る十分な構えとなり、漁具・漁獲物・米などを入れる倉庫も設けられるようになっていったという。

 

和人の移住

 前にも述べたように、松前藩は原則として「蝦夷のことは蝦夷次第」という建前をとり、蝦夷地での和人の居住を許さなかったため、和人は夏期に入稼ぎし、秋、漁期が終わると切り上げて、常住することはなかった。この地方でも少数のアイヌが海岸地帯に居住し、自然にまかせて漁猟を中心とする生活を営んでいるにすぎなかった。しかし、実際には時の移り変わりとともに、取り締まりの目をかすめたり、場所請負人が大網を用いて大規模な漁業を経営するなど、生産技術の進歩にともなう和人勢力が拡張し、自然に入稼ぎするものが増し、越年したり、そこに住みつく和人の出稼人が徐々に出始めてきたのである。

 的確な史実とはいえないかも知れないが、この地方に和人が移り住んだのは、漁業のために宝暦14年(1764)3月に津軽根岸の人、相木仁三衛門・掛村治郎兵衛と南部佐井浦の相木久右衛門の三戸が相伴って落部に移住したのが最初だといわれている。その後漁業の発達につれて移住者が増えはじめ、明和4年(1767)には野田追を本村(もとむら)としたが、落部には仁三衛門からの資金援助により移住する者が多くなり、9年後の安永5年には住民の協議によって落部を本村と改めるに至ったと伝えられている。

 また、ユウラップ場所における和人出稼ぎを記録するものとして、寛政10年(1798)の幕吏中村小市郎による「松前蝦夷地海辺盛衰報告書」があり、その一節に、

 東蝦夷地ユウラップ場所に罷在候百姓善九郎と申者七十歳位、此者南部生国にて五十年程以前飢饉有(レ)之、其節箱館戸切地(註上磯町内)へ相渡致助命、夫より同所において漁業畑作等致し罷在、又四五年前よりユウラップヘ出稼候由。……

という記述が残されているが、場所も生活態様も詳細は不明である。

18世紀末の八雲地方

 寛政3年(1791)の「東蝦夷道中記」の中で、八雲地方の概況について次のように記している。

 新井田伊織給所

 ノタオイ場所モナシベ運上屋あり、オトチベ、ノタオイ、ノマシリ以上四ヶ所にて蝦夷家二十一軒人数四十三人、乙名チウヨー、コシンベ、コテコロ以上三人、小使コムシン、シバシケ、コトナシ以上三人、請負人河崎屋新六、支配人亀次郎、運上金六十両、産物昆布六千駄位、鰊八百連、樺木の皮少々出る処萩木の太き名産なり。廻り六七寸迄あり。

 オトチベの川舟渡し潮干には徒渡をすれど嶢難なり。山奥は西蝦夷地アテロの沢目と合し、山間平地に畑あり、松前人蝦夷人共に耕す。又

 ノタヲイの川舟渡しあるなり。渡海するも廻り道なり。此辺も渓澗なり、広夷所畑を耕す。

 ノマジリ小かわ沼あり。当場所越えて三里をカヤベ場所是より此所を越えて西に向てノタヲイの崎所に出る。崎にて是を廻る、皆砂浜辺より石浜もあれと纔々の間なり。

 ヤモキシナイよりヲシャマンべ迄入海の内を輪の如く廻り皆砂浜也。ユウラップ迄(文字不明)西に向也。暖くクロイワ辺両所に向也。ヲシャマンベに来れば少東に向ふに此間砂浜通り、山もなれ平地なり。

 先つユーラップ河舟渡し、壱里程河上り徒渡りあれ、洪水の節も不能へし。此河上にルベツと云枝川あり。西口平田内村山奥の松山に通路あり。此ユウラップを通り

 ブイタヲシ辺浜堺、原中を通りフイタウバツ徒渡リ、……

 

 第2節 前幕府直轄時代

 

幕府の蝦夷地直轄

 松前藩の蝦夷地統治は、前述のように長く場所制度による交易を行い、営利を業としてきたため、取り引きのため内地諸藩との交流が多くなるにしたがい風紀が乱れ、浮薄な風俗が普及しはじめ、藩士の気風は大いに退廃したのであった。

 そのうえ、一八世紀の後半に至って異国船の来航が多くなるとともに、ロシアの南下が進み、鎖国時代における最初の通商要求ともいわれるラックスマンの根室来航(寛政4年)などにみられるように、北方問題が緊迫化しつつあった。領主である松前藩は、これに対して当然積極的な対策を講ずる責任があるにもかかわらず、財政の困窮と内政の乱れによって、消極的政策しかとらず、そればかりでなく、むしろこれらのひっ迫した状況を隠匿するという態度であった。さらに、場所に進出した請負人の横暴に端を発し、アイヌによる反乱事件が起こるなど、藩にとっては最悪の事態が重なったのである。

 このような事態を憂慮した幕府は、蝦夷地の実態を詳細に調査し、外国との境界取り締まりを積極的にするため、蝦実地の一部を直轄することを決意し、寛政11年(1799)正月、東蝦夷地のうち「浦河から知床岬までとその付属諸島」を向こう7年間、幕府の用地として仮に上地し、蝦夷地経営に当たることとした。しかし、松前藩ではこれに対して「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出たので、幕府はその年8月これも上地して用地に加えることとしたのである。

 こうして、東蝦夷地一帯の直轄に入った幕府は、3年後の享和2年2月これを永久上地することに決定した。さらに、西蝦夷地においても、しばしばロシア人が渡来しているにもかかわらず、松前藩では依然として北辺警備に対する積極的対策をとらなかったため、幕府ではもはや松前藩には辺境守備の実力がなく、手当てが行き届きかねるという理由をもって、文化4年(1807)3月、ついに松前、西蝦夷地を取り上げて、蝦夷全島を直轄することにして、松前藩を陸奥梁川に移封(領地を移し変えること)したのであった。

北辺の警備

 幕府は、蝦夷地警固のため寛政11年11月、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を区域として、適当な所に番所を造り、武器を備えて警衛に努めるよう命じ、警備体制の確立を図った。このため両藩は、翌年2月現地を出発して渡来し、箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させて警衛に当たった。したがって、八雲地方は津軽藩の警備範囲に属していたが、その時の装備は、足軽10名につき鉄砲三丁の割合という程度にすぎなかった。しかも足軽勤番は、元来百姓同様の身分であった者たちで、勤番という仕事だけで長く駐屯しているようでは、健康上にも良くないので、武術のけいこの暇には野菜などを作付けさせるという方式がとられていた。なお、「落部東流寺縁起記」に、「文化元甲子年元津軽陣屋跡の貸下を得て専念落部道場を建つ」とあるが、この陣屋の存否を示す文献がないので明らかではなく、元落部村役場前の土地に因縁があるようであり、津軽藩士巡回の場合に使った建物が設けられてあったのではなかろうか。

 文化4年3月幕府が蝦夷地全島の直轄直後の4月から5月にかけて相次いでロシアによる択捉および樺太、利尻などへの来襲、和人殺害、焼き打ちなどの乱暴事件が発生した。これに対し箱館奉行は、直ちに奥羽の諸藩に4000名の出兵を命じて警戒に当たったが、このとき東蝦夷地帯(国後・択捉を除く)の警備は、すべて南部藩の所轄に変わったので、砂原の勤番所も当然に南部藩士が勤番(文化12年まで)するところとなった。

 

会所の設置

 幕府の蝦夷地直轄の目的は国防にあったのであるが、そのためにはアイヌの撫(ぶ)育を第一の手段とした。そして、これまでの交易の不正を正し、アイヌの不平を取り除いて和人に対する信用を高めるため、誠実に行うことを旨とした。こうしたことから、アイヌの必要とする米・酒・たばこその他一切の品々を取りそろえ、価格も正確に定め、また、品質を吟味し、升目、はかり目などの不正をなくすることが先決であると判断した。 このため幕府は、要所に交易の場としての会所を新規に設けることとし、このほかそれまでの運上屋を会所として引き継ぎ、そこの請負人や下代なども希望するものは雇い入れ、賄い道具や漁具などは現地で購入のうえ、はやばやと交易を開始し、アイヌの生活に支障のないよう配慮した。

 八雲地方は、歴史的には「知内川から浦河まで」が追上地となった寛政11年8月から幕府直轄となり、それまで長く続いた野田追場所の新井田家、ユウラップ場所の青山家の知行が消滅し、翌12年には幕府直轄の会所が設けられるに至ったのである。享和元年(1801)勝知文著の「東夷周覧」に、

 ヤムクシナイ

 松前より行程凡そ三十八里余、此辺の惣名を「ユーラップ」と云、以前松前家臣青山園右衛門給地運上金七十両、寛政十二庚申年正月より御用地となる……

と記してあり、また「蝦夷地湊々測量図」にも

 △ヤマコシナイ自ヲトシべ二里十三丁二十八間、自鷲の木村五里四丁、此地寛政十二申年御用地になる……

などというように、御用地になった年代を一様に寛政12年(1800)と記されていることからみても、直轄決定の翌年からその施策が実施されるようになったものと考えられる。

 こうして、従来場所経営の中心となっていた運上屋が会所と改められて、幕吏が詰合い、運上屋の機能のほかに公務を行う出張役所としての性格を帯び、通行人の宿泊や人馬継ぎ立てなどに当たるための下宿所、米・塩・網・産物などを納める倉庫、大工・鍛冶(かじ)などの作事小屋、厩(きゅう)舎などの付属建物が設けられた。さらに、文化4年ロシア来襲事件以後は、周囲にさくを設けるなど一段と整備された。また、船乗りや漁業者の信仰する弁天や稲荷などの堂社も建てられていった。 なお、会所元以外の番屋でも通行屋を兼ねて番人が詰め、また、宿と宿の間には昼休所が設けられるなど、旅行者の便利が図られたが、この地方の関係としては、鷲の木・山越内・長万部にそれぞれ会所が、その中間にあたる落部・黒岩(シラリカ)に昼休所が設けられていた。

 

酒造所の設置

 当時アイヌとの交易品として、また、労力提供の代償として、最も重要とされていたものに酒があった。しかしこの酒は、内地から持ってくるため、品いたみがあったり、不正が行える余地のあるものであった。そこで、酒やこうじの運賃を節約し、供給の円滑化を図るとともに、質を低下させないよう監督するため、蝦夷地の要所に官営の醸造所を設け、一定の製法を定めて希望者に経営させ、付近の場所に供給した。

 このうちの一つが山越内に設けられたものであり、「山越内場所村鑑帳」によれば、南部大畑から出張の12人がその仕事に従事したとあるが、その所在は具体的には不明であり、現在の函館本線「酒谷川道路」踏切付近と想像されている。なお、醸造所はこのほかに様似・釧路・国後の三か所があったという。

 

会所の行政機構

 会所を中心とする蝦夷地統治の行政は、主要地に役宅を建て、そこに1、2名の幕吏を駐在させてこれを詰合いといい、調役以下をこれに充てた。調役は、数か場所を受け持ってこれらを指揮し、支配人・番人・通辞らを監督してアイヌとの交易・撫育・教導などに従事したのであった。

 さらに、幕吏や警衛の士などの往来が多くなり、道路の開削が進むにつれて、道案内人・飛脚・人足・馬子・渡守などの労働については、アイヌを使役することになった。これには一定の賃米基準を定めて、搾取のないように配慮し、会所の支配範囲一帯のアイヌについては、各地域を支配する乙名、小使のほか、これらを総括する総乙名、脇乙名、総小使などを任命して、住民の統制にも意を用いたのである。

 このようにして、ようやくこの地方にも行政らしい行政の手が差し延べられてきたが、「新北海道史」によれば、松前奉行(文化4年10月以後)支配下の職制の中に、出先の職名として「山越内詰所役」があり、その当時の官吏の配置状況として「ヤムクシナイよりシラオイまで調役一人、下役一人、同心一人」とされていることから分かるとおり、これらの詰合いは、巡回、指揮監督にあたり、直接の会所業務は、支配人や通辞、番人などがあたったのである。

 

野田追場所「村並」となる

 場所請負によって生産が拡大されるにしたがい、蝦夷地に居住する和人が多くなってきたことは前にも述べたが、幕府が蝦夷地を直轄してからも和人地と蝦夷地を区分する制度は、一応これを踏襲した。しかし、松前藩時代の考え方とは異なり、蝦夷地開発のため希望者の出稼ぎを許可し、和人の居住も認めるという方法をとり、蝦夷地を植民地扱いにして本邦の諸制度を適用しないという性質のものであった。

 松前地は、従来は亀田付近までとし、それ以東は東蝦夷地と区分されてきたが、幕府は戸井の小安から野田追にかけては既に多くの和人が移住しており、在来の松前地の村々と変わるところがなくなっていることに着目し、寛政12年(1800)4月12日、特にこれらを「村並」として村政をしき、和人地として扱う決定を下した。

 すなわち、蝦夷地取締御用掛が提出した「蝦夷地並びに箱館近辺取計の廉々申上候書付」の中で、

 一、箱館最寄口蝦夷地ノタオイ迄、日本人多く罷在候ニ付、村役人等申渡、箱館在々同様取扱候積ニ御座候事。

 一、右場所の儀、其外箱館在来の場所人馬賃銭の儀、本邦中の振合を以相定候積ニ御座候事。

という伺いが裁可されたからである。このとき村並の扱いを受けることになったのは、後に箱館六か場所と呼ばれた「小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追」の六か所であった。ただし、これらを村並とする取り扱いは、裁可の年の翌年、すなわち寛政13年=享和元年から実施されたとする見方が一般的であり、これと同時に山越内の境川をもって和人地と蝦夷地の境とされることになり、境川の南岸には境界を明らかにする標柱が立てられたという。

山越内関門の設置

 箱館六か場所が「村並」(村と同格の意)となったことにより、山越内の境川が和人地と蝦夷地の境(一般に「華夷の境」という)までは、出稼人や行商人の出入りが一応は自由になった。しかし、それ以北の蝦夷地への出入りは、一定の制限を設け、往来切手によって通行人の人別を改めるための関門(所)を設けることとし、これを山越内に設置した。

 このことについては、安政3年(1856)、室蘭に在勤して山越内までを支配していた調役石場斎宮が箱館奉行に提出した伺文書の中に

 先年御料の節(編注前幕府直轄時代のこと)は、ウス善光寺参詣、当地の者は其村名主印鑑書付持参往返相改、其余出稼等はいづれも松前、箱館沖ノ口役所切手を以相改、村役人切手にて往返為致候儀無之候

と山越内の関門における切手改めの方法を具体的に述べていることからも明らかである。

 さて、この山越内の関門の設置時期であるが、明確な記録がなく、当町ではこれを「文化の初年」といい、西暦1804年と称しているのに対し、「新撰北海道史」および「新北海道史」のいずれもが享和元年(1801)としており、一致していない。そこでこの相違点にスポットを当てて関門の設置時期について考察してみることにする。

 まず、当町でいう「文化の初年」に関門が設けられたとする説の出所は、明治17年(1884)3月に大蔵省から刊行された「北海道志」巻の二(地理)図説のうち、胆振国図説明の条に「寛政十一年八月箱館奉行ニ隷シ文化ノ初亀田関門ヲ山越内ニ移シ以テ華夷界限トス」とある記述の中から「文化ノ初」という字句に根拠を置き、これが後年いつとはなしに「文化ノ初年」に誤用されてしまったのではないかという見方がなり立つ。確かにこの記述を見た限りにおいては「文化ノ初」という字句は、他と何の関連もなく述べられているので、特に疑問を差し挟む余地もなかったであろう。

 しかし、同じ「北海道志」の渡島国図説明の条では、同様のことについておよそ次のように記述している。

 文化ノ初小安戸井等ノ六所邦人雑居スルヲ以テ内地ニ属シ村名ヲ附シ山越内以北ヲ以テ蝦夷地トナス亀田ノ関ヲ移ス蓋シ此時ニアリ

 さて、この記述の内容を考えてみると事情は一変する。すなわち、落部を含む箱館六か場所を村並とした時期と、亀田の関門を山越内に移した時期を同時としてとらえ、しかもその時期を「文化ノ初」と同じ表現をしているからである。

 なぜならば、先にも述べたように落部村までの箱館六か場所を村並とする決定がなされたのは寛政12年(1800)4月12日であるが、この実際上の施行は、準備期間もあってその翌年からと考えるならば、山越内への関門移設も寛政13年=享和元年ということになり、道史の説に一致することになるのである。

 

通行手形(写真1)

 

山越内関所跡(写真2)

 

 また、後幕府直轄時代になってから、この時代を呼ぶ場合には、総じて「文化度」と称している例が多いため、ここでいう「文化ノ初」を「文化度ノ初」と同義語としてとらえるならば、「寛政・享和・文化を通じた初めのころ」という広い意味をもったものと解することもでき、「文化」という字句にこだわらなくてもよいことになる。

 以上の点から総合すると、説明は不十分かも知れないが、山越内関門の設置時期は寛政13年=享和元年と考えることがごく自然であるように思考されるがどうであろうか。

 

寛永年間の検察所

 従来八雲町、特に山越内村の起源を述べる場合に、

 「寛永年間松前氏其ノ幕下ヲ鎮定スル為メ検察所ヲ設ケ次テ文化ノ初年亀田ノ関門ヲ移スニ及ンデ……」 (大正7年八雲村治績録)

という表現が見られるように、寛永年間(1624〜1643)には既に山越内に検察所が設けられていたという言い伝えがある。もっともこの治績録でも「検察所ヲ設ケタル年月其他記録ノ考證二資スヘキモノナキヲ以テ……」としているように、これを事実として立証できる史料はまったく発見されていないのが現実である。そこでこれを歴史的に見て存在の可否を考察してみることとする。

 松前藩成立以後の蝦夷地統治策は、極めて消極的なものであり、蝦夷地には和人の居住を許さず、アイヌを単に経済的に利用するだけにとどめていたということは、前にも述べたとおりである。それが後に場所請負時代に入ってアイヌに対する圧迫が加えられるようになり、しばしば反乱が起こったが、たまたま寛政元年(1789)に起こった国後、目梨のアイヌ反乱事件の鎮圧を契機として、翌2年に厚岸と宗谷の二か所に番所を設け士卒を派遣したというのが、松前藩か蝦夷地の中に施設らしい施設を設けた最初であるというのが歴史上の定説である。

 したがって、この時点で蝦夷地に属していた山越内に、既に検察所なるものが存在していたと考えることは無理があり、また、仮に検察所が寛永年間に設置されたとすれば、厚岸・宗谷などへの番所設置の年代から数えても最低で145年もさかのぼることになり、到底考えられないことといわざるを得ない。

 なお、こうした言い伝えが生じた原因としては、単なる事務処理にあるのではないかという見方もできる。それは、明治43年(1910)1月の監査調書という書類の中で、

 「山越内村ハ当初寛永年間ニ於テ松前藩ガ幕下ヲ鎮定スル上二於テ同村ヲ以テ要害トナシ検察ヲ設ケタルニ始マリシ……

と書き残しているのに対し、大正元年(1912)10月の監査調書の同様記述中「寛永年間」と書かれた部分をあえて「文化年間」と訂正している事実があることである。これらから推察すれば、当時としても定説化していたわけでもなく、単にこうした書き誤りが後年に伝えられたということが十分考えられるのである。

 こうしたことを総合してみると、この検察所は後年の関門(勤番所)と同一のものを指していると見ることが最も自然と考えられるがどうであろうか。

 

蝦夷地制札

 蝦夷地取締御用掛(箱館奉行の前身)は、蝦夷地取り締まりに当たって、幕府用地であることを明示するため、アイヌに対してなんらかの法制をたてなければならなかった。しかし、いまだ国風も知らないアイヌに対して、本国どおりの法制により刑罰を課すことは厳しすぎ、服従の障害にもなるため、次に掲げるような簡単な三か条の法を定め、会所ごとに制札を立て、アイヌには通辞をとおしてその旨を言い聞かせる方法をとった。

 掟

 一、邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其罪おもかるべし

 一、人をころしたるものは皆死罪たるべし

 一、人を疵つけ、又は盗するものは、其程に応じ咎あるべし

 

 この制札は後の安政4年(1857)の「蝦夷地巡廻日記」の中で、山越内の会所にも立てられてあったことにふれ、3か条記載の末尾に、

「寛致12庚申年正月」

「場所々々の高札皆如斯記有。毎月両三度宛土人え読聞すと云」

と述べて山越内の状況を説明している。

 

山越内関所

 

浦 高 札

 享和3年(1803)幕府は、箱館奉行所を設けて東蝦夷地の経営に努めたが、その統治の実を上げるため、和人地すなわち箱館および付近の村々に制札を立てた。

 この制札は、本制札と浦高札の二種に分かれ、本制札は箱館および主な村々9か所に、浦高札はその他の村13か所に立てたのであるが、「休明光記」によれば、鷲の木・砂原は本制札場(制札6件=省略)としているのに対し、「乙志部」は浦高札場と区分されている。

 これらの制札は、それぞれ文化2年(1805)に立てられているが、当時の制令の形式や時代の背景を知るうえで参考になると思われるので、落部に立てられたとみられる浦高札2件を次に掲げる。

 

 一公儀之船は不(レ)及(レ)申、諸廻船共猥成儀無(レ)之様に被(二)仰付(一)候處、遭(二)難風(一)節は所之者共船之助には不(二)相成(一)、却而破船候様にいたしかけ、荷物をはねさせ、或は上乗船頭と申合不法之儀も有(レ)之様に相聞へ、不屈に候、御料は御代官、私領は地頭より常々遂(二)吟味(一)、毛頭不埓不(レ)仕様に急渡可(レ)披(二)申付(一)候、若此上不埓之儀於(レ)有(レ)之者、後日に相聞候共、其者はいふに不(レ)及、所之者迄可(レ)被(レ)行(二)重科(一)、其上其所之御代官地頭迄可(レ)為(二)越度(一)事。

一御城米近年破船多候に付、今般諸事相改、別而大切に可(レ)仕旨申渡、船足之儀も深く不(レ)入様に、大坂船は大坂奉行、其外国々之船は其所支配之御代官より船足定之處に極印を打、船頭水主之人数を不(二)減少(一)様に急度申付令(二)運送(一)筈に候、依(レ)之湊江寄候船之分は、船頭水主人数並船足極印之通無(二)相違(一)哉送状に引合急度相改、帳面に配置、上乗船頭印形致させ、右書物其所に留置、御料は御代官、私領は地頭江差出し、御代官並地頭より御勘定奉行迄可(レ)披(二)差出(一)候、且又極印より船足深く入候船有(レ)之候はゞ、積候俵数委細に改(レ)之、御城米之外船頭私之運賃を取、他之米穀或は商売之荷物等積入候歟、又は水主人数内定之内令(二)減少(一)候はゞ、私に積入候荷物は其所に取揚置、水主人数不足之分は、其所にて慥成水主を雇せ、為(レ)致(二)出船(一)、其上にて右之譯早速御勘定奉行江可(レ)訴(レ)之事。

一破船有(レ)之節、浦々之者出會、荷物船具等取揚候刻、盗取候歟又は不屈之仕形於(レ)有(レ)之は、船頭より不(二)隠置(一)有體に早速可(レ)訴(レ)之事。

右條々急度可(二)相守(一)若違犯之輩於(レ)有(レ)之は、詮議之上可(レ)披(レ)行(二)罪科(一)、不吟味之子細も候はゞ、其所之支配御代官又は地頭迄可(レ)為(二)越度(一)者也

 辰八月

 

 定

 

一何事によらすよろ(宜)しからざる事百姓大勢申合せ候を徒党ととな(唱)へ、と(徒)とう(党)して志(強)ゐて願ひ事く(企)はだつるをごう(強)そ(訴)といひ、或は申合せ村方立のき候をてう(逃)さん(散)と申、前々より御法度に候条、右類の儀於(レ)有(レ)之は居村他村にかぎらず早々其筋之役所江申出べし、御ほうびとしてとゝうの訴人 銀百枚

 ごうその訴人 同 断

 てうさんの訴人 同 断

 

 右之通被(レ)下其品より帯刀苗字も御免有べき間、たとヘ一旦同断になる共、発言致候ものゝ名前申出におゐては、其科をゆるされ、御ほうび下さるべし。

 

一右類訴人致すものなく村々騒立候節、村内の者を差押ととうにくは(加)ゝらせず壱人も差出さゞる村方有(レ)之ば、村役人にても、百姓にても、重に取志づめ候者は御ほうび被(レ)下、帯刀苗字御免差續(許)、志づめ候もの共も有(レ)之ば夫々御ほうび下しをかるべき者也。

 明和七年四月  奉 行

 

山越内場所内の概況

 幕府直轄の施政が及ぶにつれて、会所をはじめ場所内の整備も進んだが、文化6年(1809)の「東蝦夷地山越内場所村鑑帳」が、当時の様子を最も詳しく記録したものとして貴重な史料である。

 この史料により概況を記すと次のとおりであるが、山越内場所内ではあるが現在の長万部町管内に属する部分は(中略)という形で省略することとした。

 

新版蝦夷土産道中寿56(松浦武四郎)

 

 東蝦夷地山越内場所村鑑帳

 元松前若狭守領分

 寛政十二申年より御用地

一、会所 壱ケ所 但梁間六間桁行拾五間

一、下宿所 弐ケ所 但梁間四間桁行五間壱ケ所同四間に六間壱ケ所

一、板藏 四ケ所 但四間に六間弐ケ所、三間に四間壱ケ所三間に弐間壱ケ所

一、柾板葺物置 壱ケ所 但四間五間

一、茅葺厩 壱ケ所 但三間拾弐間

一、同鯡取小屋 壱ケ所 但三間五間

一、稲荷社 壱ケ所 但九尺弐間

一、諏訪明神社 壱ケ所 但九尺弐間

 此社やまこしない会所より壱丁程山の上にあり。

 酒造方

一、居宅向柾板葺 壱ケ所   但五間に拾五間

一、酒 蔵    壱ケ所   但五間拾五間

一、水車小屋   壱ケ所   但四間五間

 此水車八柄あり。水はやまこしない川より取る。

一、酒造掛惣人数拾弐人

 是は南部大畑より出張年々越年人数也。

 会所番屋附諸漁具

一、漁船図会船弐艘 但船銘栄宝丸、栄通丸

一、鰯 網   壱 通 但八拾目に袋弐ツ添、其外諸道具添あり

一、鯡 網   百 放 但冬鯡網拾五放、春同八拾五放

一、鮭 網   弐 通 但弐百間壱通、弐百四拾間壱通、袋四ツ

一、持夫船   用 船 漁船共九艘

一、場所内御雇人 支配人番人都合拾人

一、在住稼方百性(ママ)家 八軒 此人数三拾人

但何れも家作は茅葺にて銘々漁船弐、三艘宛、其外鯡網 配縄等取持いたし候。

一、蝦夷人家数百五軒 此人数五百弐拾人 内男弐百六拾五人、女弐百五拾五人 此蝦夷漁船五拾三艘

蝦夷人乙名小遣名前

惣乙名クマジ 小遣モトヱ

乙名 セップ ヲハタンネ シュアン セタビリ ウエラン サウケ ソッパ ヤエナンコロ

(中 略)

場所内出番屋

ユヲイ

一 茅葺番屋 壱ケ所 但五間三間

此所鯡漁 昆布取候節計番人壱人相廻り、鯡 昆布取上方改る也。

ユウラップ

一 茅葺秋味番屋 壱ケ所 但五間拾五間

此所秋味の節計番人弐人 蝦夷人雇人召連相廻、会所付鮭網を以漁事いたし、同所蝦夷人も右川は漁事いたし候。

一 茅葺秋味番屋 壱ケ所 但三間六間

此所秋味の節計番人壱人相廻、蝦夷人自分網を以引上候魚を買入に致す。多くの荷物は無(レ)之所也。川鮭漁も多くはなし。

一 茅葺秋味番屋 壱ケ所 但三間7間

此所秋味の節計番人壱人相廻り、蝦夷人自分網を以引揚侯魚を買入に致す。川鮭漁もあれども多くはなし。

出産物

一 鯡 鱈 鮊 昆布 鮭

是は重もの産物也。右の外雑魚あれども蝦夷人飯料 会所賄に成る。年に寄鰯 鱒杯もあれども定式産物には不(レ)成。

一 膃肭臍 是はおしゃまんべ名産にて献上に成、御払には不(レ)成。

一 熊の皮 同胆 是は怪物と唱へ年々あれども多くはなし。

一 自分稼の在方百姓春は鯡 鱈 ?の漁事いたし、夏は昆布を取、蝦夷入も夫々其時々の漁事いたし、膃肭臍は蝦夷人功者のものを撰み、十二月より春三月迄沖合に出る也。二、三月の頃重に漁事あり。女蝦夷は春は山え登り木の皮を取て厚子を織、着用と成る。

一 山越内山の立木は、はんの木、かつら其外雑木沢山あり、薪伐出しの処は会所より凡山え壱里余もあり。春夏秋、蝦夷入共手透々に伐出させ、山越内川え流し候て弁理よし。但高さ5尺横壱丈を壱敷とたて、是を玄米八升を以買入にいたし、会所遣ひ用に成る。

一 春夏は砂原 鷲の木 茅部辺え鯡漁 昆布取雇とて蝦夷人さし遣、鯡漁の節は正二月頃より五月迄かし遺、此給代壱人に付銭弐、三貫文を限り取立、蝦夷人共え不(レ)残相渡し、又昆布取の時節は土用に入八月十五目迄を限り、此雇給は昆布にて取立、壱人に付凡昆布百弐、三十駄を限り取立、産物として積出す也。

一 会所遺ひ用のなす さゝげ うり 大根其外青物類蒔付候へは相応に出来候。又蝦夷人共平地の所へは粟 稗等を作らるる。相応に実る。

山越内場所内蝦夷人住居所々并川々地名

一 山越内より南はユヲイ、北はシツカリ迄平地にて陸通り道よし。川々不(レ)残橋懸渡して人馬とも往来よし。

一 ユヲイ 此所蝦夷家あり。小川あれ共橋掛わたして人馬往来よし。折々瀬替りにて永く橋には成難き所也。此処の野地に湧湯あれ共病用にはならず。此所より山越内迄八丁余といふ。

一 山越内は南を受、海は北にあたりそはまにて、弁才船澗掛あしく、余所より西の方山にて風凌方もよし。

一 会所にて遺ひ用は、木は小流ありて此水をもって朝夕の遣ひ用に成。外に半町程山岸に助養泉といふ名水あり。旱魃にも水きるゝ事なし。今は会所の脇に井戸あり。此井戸え水を引、会所呑用に成る。

一 会所附蝦夷家あり。川々も橋掛渡して人馬とも往来よし。家数其外前に書出し置候。

一 ヲコツナイ 此所蝦夷家あり。川弐ケ所あれ共橋掛渡して人馬往来よし。此山奥三里余行て椴の木沢山あり其外雑木もあり。

一 ハマナカ 此所蝦夷家あり。ユウラップ迄は平地の場所也。

一 ユウラ(ッ)プ 此所蝦夷家あり。大川あれ共馬渡し船あれば人馬とも往来よし。此山奥凡五、六里程も行て椴の木沢山あり。其外雑木も沢山あり。材木伐り出しユウラップ川へ流し弁理よし。此川弐、三百石積の弁才船迄は川入よし。此所に秋味番屋あり。委敷は前に書出し置候。

一 ブイタヲシ 此所蝦夷家あり。小川有共橋掛渡して人馬共往来よし。

一 ヤマサキ 此所蝦夷家有。大、小川弐ケ所有共板橋 土橋懸渡して人馬共往来よし。此所山奥凡壱里半程も行て椴の木沢山あり。材木伐出し方は弁理宜所也。

一 シラリカ 此所蝦夷家有。大、小川 小流れ共拾ケ所あれ共橋掛渡し人馬程来よし。昼休所あり。但柾葺にて梁間弐間桁行六間壱ケ所并茅葺にて四間拾三間の建継あり。此所近辺に椴木沢山あり。材木伐出し方は浜近くにて出し方よし。共外雑木もあり。此所より山

             

東蝦夷御場所絵図(ヤムクシナイ場所)

 

ユウラップの風景

 

越内えは四里半といふ。又おし(や)まんベヘも四里半といへ共至て遠し。

一 クロイハ 此所岩あり。此岩を砕ば見事成小さき名石出る事あり。今は少し。此近辺を蝦名語にハルコツ(ママ)といふ。此所大川小川弐ケ所あれ共、板橋 土橋懸渡して人馬共往来よし。北辺山に椴木 おんこの類其外雑木あり。山えは拾四、五丁も有る。

(中 略)

おしゃまんべよりシツカリ迄地名

一 南は野田追村境ユヲイ迄、北は阿武多境シツカリ迄道法拾壱里余

右山越内場所様子大概書面の通り御座候、以上

文化六巳年正月 中村伊太夫

(東夷竊々夜話巻之拾7)

 

場所の再請負化

 幕府が吏蝦夷地の直轄とともに、場所の直捌を行ったのは、まず第1に、アイヌを反乱させるまでに追い込んだ交易の悪弊か一掃し`アイヌを撫育懐柔するという政治的理由によるものであった。

したがって、交易そのものから利益を上げることは第2の問題であった。しかし、時がたつにつれて、官吏は経済観念に乏しく、むだな経費を要しすぎるという財政的欠陥が生じてきた。このため、場所の交易は再び町人の業として相応の者に委任し、官吏はこれを監督するにとどめ、経費の節約を図る方針を打ち出した。

 文化7年(1810)幕府は、淡路の廻船業者高田屋壽兵衛に択捉島の請け負いを命じたのに続き、同9年に東蝦夷地全域について直捌の廃止を決定し、9月には各場所の請け負いを入札で決め、翌10年から再び請負制度の実施に入った。

 この入札にあたっては、場所請負人としての心得が示されているが、それには、

一、西蝦夷地は従来松前の者に限って入札させたが、今後は東蝦夷地とともに松前、箱館の者は誰でも随意に入札できること。

 二、落札者には希望によって場所にある会所、船舶、倉庫、漁具、仕入品の残りなど払い下げること。

 三、山越内から三石までは小場所であるため、一人で二、三か所を入札できること。

 四、運上金は毎年六月、十月の二回に分けて上納すること。

 五、請負場所で新しい漁業を起こす際には、あらかじめ出願して許可を受けること。

 六、官用書状の継立または急使継送などは遅滞なく行うこと。

 七、官吏および警衛の士卒が通行する際には、人馬の継立などさしさわりのないようにすること。

 八、従来会所に使用していた支配人、番人などをそのまま雇用することは随意なること。

 九、暇夷人の介抱はもちろん蝦夷人に対し不正の取り扱いをしてはならないこと。

 一〇、異国船または怪しい船を発見したならば、すみやかに箱館に注進すること。

 一一、猟虎、矢羽、熊胆、熊皮その他軽物類は元価をもって官で買い上げるので一品たりとも隠してはならないこと。

などが挙げられており、蝦夷介抱の留意事項を盛り込んだり、駅逓の役割や洋上監視注進の義務が課せられるなど、直捌時代における会所の性格も兼ね備えたものとなっていた。

 この入札は、場所・年季・運上金高を書くことにより行われ、最高点をもって落札と決めたが、その結果「山越内場所(従前のユウラップ場所)」は、運上金265両2分で松前の新屋新左衛門と由利屋与兵衛両人の請け負うところとなった。なお、野田追までは既に「村並」となっており、この制度の及ぶところではなかった。

 

蝦夷地直轄の放棄

 松前藩は、幕府の蝦夷地直轄の結果、陸奥国梁川に9千石をもって移封されたが、蝦夷地統治時代にくらべて著しく困窮したため、藩玉章広は復領を願ってしきりに運動していた。一方、幕府においても、直轄の施政によって旧弊が改められ、アイヌの撫育なども軌道に乗りつつあり、しかもロシア船の来航がなくなって両国の平和が回復されたかのようにみえ、北辺警備を軽んずる傾向が生まれつつあった。こうした時代的背景に乗じて、文政4年(1821)12月、老中水野出羽守忠成の独断ともいわれる蝦夷地直轄の放棄、松前氏の復領という幕府決定によって、松前藩は旧領に復帰することになったのである。

 

 第3節 復領松前藩時代

 

松前氏の復領

 旧領に復することを許された松前章広は、幕府からそれぞれ所要の引き継ぎを受け、文政5年(1822)5月松前に帰った。

 復領後の松前藩では、蝦夷地および和人地のすべてを直領と定め、以前に知行地として場所を与えられていた家臣に対しては、米および金をもって支給することとし、蝦夷地の各場所は、幕府の請負人制を踏襲して請負人の統制を強化し、再び以前の悪弊を招くことのないように努めた。

 

勤番所の整備

 松前藩は、藩政執行上の職制を整備するとともに、幕府直轄時代を踏襲して北辺警備にも意を用い、松前に6、箱館に4の台場を設け、このほか和人地内主要箇所5か所に台場を置いた。さらに、東蝦夷地8か所、西蝦夷地3か所の勤番所を置いてその体制を整えた。このうちの1か所として山越内にも勤番所が設けられることになったのである。

 各勤番所は、警備のほか蝦夷地における行政監督を任務とするものであったが、復領後22年を経過した天保15年(1844)の山越内勤番所の配備は「新北海道史」によると、

 頭役士一騎、徒士一人、医師一人、足軽二人、在住一五人、百目筒一挺、五十匁一挺、十匁二挺、五匁五挺、手鎗十筋。

などとなっており、場所請負人が派遣している番人に対し、必要に応じて帯刀させたという在住足軽が15人も含まれている体制で、しかも蝦夷地動番所11の中で最も小規模なものであり、警衛よりもむしろ行政監督や通行人改めに重点がおかれたものと思われる。

 

藩政の荒廃

 松前藩は、復領後においては幕府の意向を体して藩政に努める姿勢にはあったものの、財政は困窮し、綱紀は乱れ、万事に取り締まりが不行届きとなった。しかも、蝦夷地のことは、ほとんど場所請負人に任せ、多くの負担を強いる状態であったので、請負人としてはできるだけ義務を怠り、アイヌの使役についても再びごまかしや酷使が行われるようになっていったという。

 山越内場所の請負人は、文政10年(1827)に藤代屋藤吉、嘉永5年(1852)に伊達林右衛門、栖原六右ヱ門の両名という記録があるが、若干の差違はあるにしても請負人の姿勢は前記のようになりつつあったのであろう。

 

箱館開港と再直轄

 嘉永6年(1853)浦賀に来航した米人ペリー提督の和親通商要求をはじめ、長崎に来航したロシアの使節プチャーティンの和親通商と境界決定要求など、国際的な問題が相次いで発生した。

 これらに対応した幕府は、アメリカの要求を入れ、安政元年(1854)神奈川条約を締結し、下田・箱館2港の開港を認め、箱館は翌年3月から開港した。これにともない、外国人の遊歩区域を5里以内(安政5年の通商条約では10里以内とした)とすることなどを決めたことから、6月には松前藩に命じて「箱館ならびにその付近5、6里の地」を返上させることとした。しかしさらに、英国、ロシアともそれぞれ同様の条約を締結するに至って、再び北辺警備の重要性が増したため、もはや松前藩1藩の能力だけでは警備不能との判断から、ついに安政2年2月、松前の近隣村々を残し、東部は木古内以東、西部は乙部以北とその付属諸島までを再上地させることになったのである

 

 第4節 後幕府直轄時代

 

山越内番所の設置

 幕府は、安政2年2月蝦夷地の大部分を上地し、蝦夷地への施政を及ぼすことになった。そのために設置された箱館奉行は、統治の実を挙げるため、蝦夷地の各要所に役所をおいて、調役下役に同心、足軽を添えて在勤させ、さらに、主要地に調役を在勤させてこれを統轄させることとした。また、組頭が各場所を巡回してその政務を監督するという体制をとった。

 この結果、翌3年におけるこの地方の配置としては、山越内、フレナイ、室蘭、白老、勇払にそれぞれ番所を置いて調役下役以下を配し、これを統轄するための調役を室蘭に配置したのであった。

 

再直轄にともなう警備

 ロシアの南下勢力に対する防衛警備を重要視した幕府は、安政2年(1855)仙台・秋田・南部・津軽の奥羽諸藩と松前藩の5藩に命じ、土地を区分して警衛させることにした。

 これによりこの地方を担当するようになったのは南部藩で、箱館表の出岬の警衛を主とし、恵山岬から幌別までの海岸一帯が持場となった。そこで藩は箱館に元陣屋を建て、室蘭に出張陣屋を、砂原に分屯所を置いて、その任にあたった。最初は長万部にも分屯所を置いたが安政4年8月には廃止された。

 しかし幕府は、蝦夷地が遠隔の地で、しかも広大な土地であるため、永久守備の基礎を固める必要があるとして、安政6年11月、一部の領地を割り渡し、守備と開墾の両方が行き届くようにすることとし、さらに会津・庄内の2藩を加え、それぞれに領地を分割して与え、開拓をはじめその他の経営をゆだねることにしたのである。

 この措置にかかわらず、山越内から長万部、静狩までは、これまでと変わらず幕頷下におかれ、警衛は南部蕩か担当するという形がとられていた。

 この警衛は、幕府倒壊後から箱館裁判所の設置後も継続されていたが、反政府を唱える奥羽の騒乱が発生して明治2年(1869)にはすべてこれを放棄し、江戸へ退去してしまったのである。

 

大野藩の開拓

 越前大野藩は山間にあり、しかも土地がやせていて、石高は4万石と称されてしたが、実収はわずかにその3割にすぎず、財政は著しく困窮を告げていた。ときたまたま安政2年、幕府が蝦夷地の開拓に着手し、その担い手を求めていることを聞き、当時の藩主土井能登守利忠は、家老内山隆佐の建議により、これに参加することとして幕府に出願した。そして、その経宮地を東蝦夷他の山越内境から静狩までと、西蝦夷他の久遠境から棄木(すつき)境までと選定し、翌3年隆佐を蝦夷地総督として視察させたのであるが、藩としての出願は幕府の許可を受けるに至らなかった。

 しかし、この調査に参加した家臣浅出八郎兵衛直躬は、その可能性に着目して山越内場所内の開拓を志し、特に藩主に願い出て安政4年1月許可を受け、子息金八を伴って再び蝦夷地に渡り調査した。この結果、山越内場所を定住の地とすることを決意し、箱館奉行に在住を願い出て許可を受け、その春から直ちに鷲の巣(現、立岩)で新墾開拓の業に着手した。そしてその年10月、藩主能登守からは「その方見込みの筋もあって蝦夷地在住を幕府から許可され、移住することについては希望により現職の御物頭の辞任を認めるからこれに精励せよ。なお、蝦夷地在住中は、向こう5か年間、盆、幕に禄高を金高に直して3分の2を与える」旨の辞令を受けたのである。

 このときの幕府の移住者の募集は、場合によって手当を支給するものとし、さらに成績の良い者は、士分の者は身分を取り立て、庶民には地所と居宅を与えた。そのうえ賞賜手当も出すという積極的なものであり、八郎兵衛は毎年15両の手当を支給されたという。

 この入植開墾地の具体的な位設は、的確な史料がないため明らかではないが、入植直後の状況について、その年仙台藩士玉虫左太夫が書いたという「北入記」の中で「この処エオイ村は土井能登守様の新開の畑あり……」といい、また5月14日の項に、

 (ユーラプツプ川)

 此所に川ありと言う。橋なく舟渡なり。番屋、其処にて休憩、右川を渡り右折れ(左カ)して半里ぽかり奥へ入り、土井様越前の国大野藩主土井能登守利忠の御家来浅山八郎兵衛開墾場へ至る。鷲の巣村と言ふ。逐一見分せしが、此の辺広莫なれど地味宜敷、八郎兵衛の処も可成に見え、只当春初めて開きたるに依り、漸く一町歩に足らざる程なり。此の辺を見れば有志の者定めて痛瘡に堪えざらん。試に土性三品を拉し来る。

 

と記し、ユオイ(現、山越の内)に本処を構えていたこと、鷲の巣地区における開拓が有望なことなどを述べている。

 しかし、八郎兵衛はその後も越前との間を公用のため勤いたようであるが、元治2年(1865)7月その子を残し、妻を連れて越前に帰ったという。

 これは八雲町開拓の草創として記録に現れる貴重なものであるが、その後の経過が不明であるのは残念である。ここに残った子の金八は、後に山越で漁業を営むようになり、その子孫は今なお同地で漁業を営んでいる。

 

見聞記にみる管内の景況

 幕末の北海道は、幕府の再直轄地として、数多くの人々によって巡見・調査がなされた。特に伊勢の人松浦武四郎は諸国を遍歴して博識の士であったが、引き続き北方に関心を持ち、蝦夷地探検を志し、弘化2年(1845)の東蝦夷地調査を皮切りに、翌3年と嘉永2年(1849)の3度にわたって来道し、海辺部を克明に調査して多くの紀行文や地図を残したが、これらは幕末の蝦夷地の実態を知る貴重な史料となっている。特に「東蝦夷地山川地理取調地図」、「蝦夷日誌」などは有名である。数年後の安政3年(1856)には、これらの実績が認められて箱館奉行所雇となった武四郎が、その後3度にわたって内陸を調査して著した「東蝦夷日誌」をはじめとして、数多くの著書を残した。

 このほか、安政年間に入って蝦夷地踏査の必要性が認識され、数多くの調査が行われたが、この地方に関係深いものとしては、安政3、4年にかけて幕府の蝦夷地御取調御用掛前田夏蔭の門人である市川十郎らの調査によって著された「蝦夷実地検考録」、長岡藩主の命を受けて同4年に蝦夷地調査のうえ著した森春成、高井英一による「罕有日記」、あるいは、高遠藩士川地経延による「蝦夷地巡廻日誌」など、競ったように各地の景況、風俗などが書き著されている。

 これらは、当然貴重な史料となっているが、いま、この一々を掲げることは煩雑であり、場合によってはお互いに矛盾する点もあって、かえって紛らわしくなるので、その当時、すなわち19世紀中期において、管内各地がどのようであったかを知る手掛かりとなるように、これらをまとめて記述する方法をとった。なお、文中著書名や著者名についてもそのつど書き表すこともかえって煩雑となるので、著者の姓だけを註記することにとどめる。

◎ モナシベ

  茂梨部または茂無部とも書き呼ばれ、現在の「栄浜」の地帯である。

 隣接森町との境界となっている茂無部川の流れる出崎を当時はイナヲサキと呼んだようである。この出崎の様子を松浦は、「何神を祭るやら木幣を立石を績て祭有也。」と述べており、また市川は、「稲穂岬の辺は沙渚にて原野に接す。」と記していることからみて、この出崎およびこれに続く海岸地帯は、現在より相当先まで陸地であったものと思われる。この埼を回って小高いすそ野地帯には、村落が開けていたようで、松浦は、「人家二十軒ばかり。是またここかしこに部落して住す。皆漁者のみなり。小商人一軒、旅籠屋一軒有。此辺昆布取の節は甚にぎやか也。」と記し、高井は、「家数十軒、外夷戸六軒、村端小川仮橋あり」とその様子について述べている。

 なお、この中心地帯から落部方面に向かう径路について松浦は、「三四丁計行、タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有(レ)之、まま怪我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すへし」と書き、その先にホンミツという地名を挙げ、「人家六軒計。漁者のみなり。小商人一軒あり。」と記しているが、これは、現在のどの辺かはっきりしない。

 市川によれば総じて、「神社蛭子社享保中再建、人民十六軒九十九人、蝦夷八軒三十一人、馬四疋、船十八艘、畑物同上。已年鮮千弐百七十四束、昆布五百石目を取る。鰯、鮭、煎海鼡は少かりき」と記している。

 

 山越内の景況(東蝦夷日誌)

 

蝦夷入口山越内遠望

 

◎ オトシベ (またはオトスベ)

 乙志部、落辺または落部などと書き表されていたが、落部とされて現在に至っている。

 落部川から10町(約1091メートル)ばかりの地点を中心としており、モナシベ、ノタヲイを支村とする本村として開け、八幡宮、稲荷社、道場、地蔵堂各一が設けられており、会所は頭取宅を兼ね、人馬継ぎ立てを行い、手広くきれいな休息所があって、昼飯を提供していた。松浦によれば、「人家十五軒計。内夷人十軒計、小商人五六軒、旅籠屋あり。畑少し有。漁者のみ也。此村の前図合船かかり澗あり」と記し、高井は、「西側町並にて家作も稍よく四十三戸ありと、夷戸十二軒余、会所は内地の旅宿の如し」と著し、さらに松浦によれば、箱館、松前辺から出稼の蒲脛巾(かまはばき)または早馬と呼ばれる妓女があり、色を売っていたという。

 また、この辺りの産物としてニシン・コンブをはじめ数の子・サケ・マス・タラ・カスベーナマコ・ホタテ貝・フノリ・ムラサキノリなどがあった。海岸には造船所もあるし、浜から落部川に沿って山中へ三里ほど行くと、川南に諸病に効き目があるという温泉のことも記されている。その情景について松浦は、「さして山深くなけれども甚物淋しき処なり。湯小屋といふも本の仮小屋にて笹にて屋根をふきたり。此湯清潔にして恐らくは玉気より生ずるものかとおもわれる」と記していることは興味深い。

 落部川岸は広い小石川原となっており、川幅30間前後の場所を上がって徒渉する以外は、アイヌによる渡し舟によって川を渡った。渡し賃は一人前25文で、このほか年に2両の補助が藩や幕府から支給されていた。川を渡れば、「此辺り昆布取小屋一面に立並ぶなり。別て六月中旬より七月は繁華なり。」(松浦)と記されており、漁期になると箱館辺からの出稼人でにぎわっていたようである。

 落部を総合して市川は、「和人五上戸二百七十人、蝦夷二十四戸百五人、逆旅(はたご屋)二戸」とし、近年アイヌが減少していることにふれ、さらに、「出稼三上戸三百人」と入稼ぎを数えている。

 このほか、「和人畑三百五十坪、蝦夷畑四百坪、粟、稗を作る。」と述べ、漁業が専業であるとしており、「馬百五十疋、船百艘、巳年(安政四年)の漁は、鮮六千八百九十束、三千玉、昆布弐千石目を取たり。」とし、これも、「鮭、鰯、荒海鼡は同年尤少し。」と記し、また、コンブについては「五年前迄長崎俵物として駄昆布を納む、今は止ぬ。唯折昆布の胴結(ゆひ)を出す。」と述べている。

◎ ノタオイ

 この地区は野田追川両岸にわたり、長い間野田生または野田追と書き表されてきたが、主として現在の東野地区を指しているようである。この野田追は、昔はいわゆる「野田追場所」の中心地であり、蛭(ひる)子社を祭り、施政上は沼尻、由追を含めてその領域としていた。 落部川を渡り、クロハゲ、アカハゲというがけ下の悪路を通り、小高いモノタイを通って野田追に至るが、野田追川の手前5町ほどの地点を中央としていたようである。

 その景況について松浦は、「人家二、三軒。夷人五、六軒。然し此辺り何れを境ともなくして人家処々に部落する也。」として少ないが、高井は、「両側家立一五六軒、夷戸六軒」と数えている。

 野田追にも造船所があり、ここでは既に文化の初めに幕府の官船「歓厚丸」(1260石)が造られたという記録があるくらい長い歴史があった。

 市川の調べによれば、沼尻、由追を含めて、「人民三十七家百八十五人、蝦夷七家三十五人」とし、4年前の安政元年の「十戸三十九人」に比べてアイヌの減少煩向にふれている。なお「畑五百五十坪余、蝦夷畑地三百坪」と少ないが「野田生の原十町に十八町の経緯と見ゆ。大村落を開へし。」と開拓の可能性にも言及している。しかし、戸口の割に、「馬八十二疋、船七十四艘」を有して漁業の盛んなことを示し、安政4年の漁では、「鯡一万六百二十二束、昆布弐千五百石目をとる。」とし、落部をはるかにしのぐ生産を上げている。

 野田追川は幅20間程で、舟渡し場があり、渡し賃は落部川と同じであった。

◎ 沼尻

 現在の野田生1区と呼ばれる地帯を指すが、松浦は「小川有。此川上に沼有。故に沼尻といふなり」として地名の起源についてふれている。しかし市川は、「沼尻の沼は狭し、六七月の間は水涸るる事常也」といい、松浦も、「水面何もなく蒲生たり。」という程度で、いずれにしても沼らしい沼というものではなかったようである。

 景況としては稲荷社があるほか、松浦は、「人家五、六軒、小商人一軒有也。此辺は冬分は人家皆空虚にして只夏分のみの出張なり。」と書き、さらに「ホロモイ」という地名を挙げて「人家五、六軒」としている。 また、後の高井は、野田追川から4、5町の間について、「曠々たる原上茂草の地なり。」とし、その先に8、9軒、さらに7、8町を距てて2軒、なお10町ばかりで5、6軒の漁家が散在していることを述べ、その家は、「皆漁家にて見苦し。当時昆布を業とす。」と記していることからも、当時はほとんど出稼人によるもので、和人の常住者は少なかったものと思われる。

◎ ユオイ

 湯生、由井、由追などと呼ばれ、現在の山越2区の地帯である。すなわち、境川の南、野田追の一部として開けた地帯で、松浦は、「人家五、六軒、皆漁者と昆布捕なり。小商人一人あり。」と書いたが、後の高井は、「家数三十軒、町並をなし休泊所も見へたり。売婦も抱へ置くよしなり。」とし、市川は、「湯生は廣潤にして沃土也。漁業盛なる故逆旅あり。売女多く寓す。」と、さらに川地は、「此辺人家少なけれども箱館を立て蝦夷一国の盤花の地。茶屋、仕立屋など有。」などと記しており、川地については多少の誇張があるにしても、漁業が盛んで、ごく短い間に相当の発展をみたものと思われる。

 当時は、この地の北端の境川をもって松前地と蝦夷地の境としており、このユオイまでは箱館6か場所の区域に属していたので、これから先の蝦夷地とはその開発の程度に相当な差があった。

◎ ヤマコシナイ

 ヤモキシナイ、ヤムキシナイ、山越内などと呼び伝えられてきたこの地方は、東蝦夷地が寛政12年に御用地となって以来関門が設けられ、蝦夷地出入りの者の改めに当たったことから重要な地となった。しかしこの半面、ここから北の地帯は、和人の往来や居住に制限があったため、漁期に出稼人が入り込む程度で、和人の定住はまれであり、南の地帯に比べて著しく開発の遅れをみせていた。 さて、山越内は、会所・旅宿・通行屋・板蔵・長屋・その他付帯施設を備えたほか、「西の山際より東海岸迄皆柵を結て番所を置く。蝦夷地出入のものの切手を改る也。」(松浦)という勤番所があり、その前に台場が設けられ、2百匁砲1丁が据えられていた。しかし、勤番人は目付1人を頭に数人で、鉄砲も80匁1丁、10匁5丁という軽微なものであった。

 この施設としては、山側に鎮守諏訪明神社があって稲荷社を合殿し、阿弥陀堂もあり、海岸には造船所もあったが、文化年間に造られた酒造所は、このころは廃止されていたようである。

 「関門を出て家立建続き八町にて標木あり」(高井=北から南へ巡行)、「会所の南に土井能登守家来出張宅地阿り、逆旅商店近年次第に櫛比す。畑地大に開たり。」(市川)というように、境川から8町余の間は当時急激に和人も入り込み、ユオイの一部のような形で開かれ、時には地名もユオイと混用されたきらいもあったようであるが、市川は、「此地は蝦夷の界として邏所も阿り、政令の伝播する置郵の首にて人情風俗他に比すれば変化速にて盛衰も早く換れり。」とし、さらに、「方今公領と成ては山越内を蝦夷の首地とするに及ばず。往来の関譏も即て廃せらるべき也。」と提言している。さらに市川は、「定稼定住の者拾九軒、五十七人。」で2年で32人増え、また半面、「蝦夷十軒四十四人」と数え、「元来此地人別少故に虻田に請て年々蝦夷十二人を借る。」として、アイヌの少ないことを説いている。また、「健馬は忍山部(長万部)に十二疋、山越内に二十六疋という。牛五疋を大野村より買来る。船七十九艘。」と挙げているが、管内の牛に関する初めての記録として興味深い。

 なお、山越内から静狩までを1区域とする伊達、栖原両人の共同請負で、山越内場所といわれた時であるため、以下各地ごとの生産量を記したものはない。

◎ブユベ

フヨヘ、フユムメ、フユンベあるいは冬梅、無弓部などと呼び伝えられた地で、今の浜松2区の一部であろう。この地については、あまり詳しい記述はないが、「夷人小屋有。此処浜辺に又番屋壱軒。惣て鰯漁無時は人住すことなし。春秋鰯漁のみ也」(松浦)とするのに対し、市川は、「鯡漁場にて蝦夷家十軒」、「酒、小間物等商ふ店あり(店の前に札を立て大坂酒、越後酒、肴、菓子品と記す、木賃宿にてもあるや小屋も広し、人も多く入り込みたり)過て路傍に牛馬多し(夷中牛は初見なり)山裾は夷戸四五軒あり」(高井)=編註=(北から南へ巡行)と、それぞれ趣の違った記述となっているので、情景も想像し難く、併記するにとどめる。

◎ オコツナイ

 尾児津内、奥津内などと呼ばれた地区で、奥津内川、ポソ奥津内川の注ぐ地帯であるが、ここも、「少しの沢。小川有。歩行渡り。鰯小屋有。前条(ブユベのこと)に同じ」(松浦)「漁家有。渡船場也」(同)と記されている程度で、詳しいことは知ることはできない。

◎ トコタン

 しばらくは常丹浜と呼ばれていた地区で、現在の内浦町2区を指しているが、この地にふれた記述はわずかに「(ユウラップ方面から南下して)又山に進み来て後峰まで高低次第に階級し、且つ深浅の秋色ありて佳景なり」(高井)と述べているにとどまり、人家はなかったのではなかろうか。

◎ ユウラップ

 ユーラップ、結楽府、遊楽部(府)、その他いろいろに呼ばれたこの地は、現在の内浦町一区一帯と、その対岸の一部を指しているものもあるようである。

 山越内に会所が置かれるようになり、この場所が山越内場所と呼ばれるようになるまでは、ユウラップ場所としてその中心をなし、当時はアイヌも多く住み、サケの多くとれた所であったらしい。松浦は、「夷人小屋十四軒。大番屋有。蔵々並に弁天社有。勤番処小休所有。此処小石浜にして魚屋多し。鰯小屋也。」とし、山越内を過ぎて第1の村落をなしている様子を書き、市川は、「昔運上屋有しとぞ、今は通行家、小休所漁家等あり。蝦夷二十四軒百八人、男五十七人、女五十一人。川は船渡」と述べて、この地方でアイヌの最も多かったことを示しており、さらに、「深山熊多し。正月中旬より蝦夷三十人許穴熊を取に行。秋は狐獺を猟す」と、アイヌの冬の生活を記している。

 なお、松浦は遊楽部川のサケについて、「惣て秋味千石の見込は此川なりしとや。惣而此近年は一向に秋味不幾によりて当時の処にては唯鰯漁をば見込のみ也」として、当時の不漁の様子を記し、また、川渡りの様子について、「幅凡五十間とも云り、然し沿革すること夥し。此時は番屋より八九丁も北へ到りて泊りしより翌の丙午の秋は番屋の西の方小休所の下にて泊りたり。以前とは大に深くなりて漸緩くなりたり。」と書いており、川は出水のたびに様子が変わっていることを述べている。

 

◎ ブイタウシナイ

 ブイタヲシ、フエトシナイ、吹田牛、その他いろいろに呼ばれたが、現在の花浦の海岸地帯である。

 市川は、「鯡漁場。蝦夷住す」と書き、当時はアイヌが住み、漁小屋があって、漁期の入稼ぎがあるとしても数は少なく、高井が、「出遠く、草原渺々不毛の地なり」と見るように、その景況を伝える要素がなかったものと思われる。 なお、現在の山崎の海岸については、この当時、人家がほとんどなかったのか、特に地名を挙げている巡行記もなく、経過地の地名としては出てくるが、ブイタウシナイの一部のような扱いで過ごしているようである。

 

◎ ホンシラリ力

 ポンシラリカ川の注ぐ地で、「小川、沢有。山近けれとも木なし。いわし魚屋有」(松浦)、「漁家、番屋、出家小屋多し」(高井)と記してある程度で、アイヌの住居はなく、漁期の入稼ぎによった地帯であり、後に大川と呼ばれ、現在の黒岩と山崎の境界地点にあたる。

 

◎ シラリカ

 白利加とも呼ばれ、シラリカ川の北側が中心で、現在の黒岩を総称していたようである。

 文化年間、ここは官設の昼休所と定められた地で、松浦は、「漁屋有。此処番屋有。夷人小屋有。小流有。浜より少し上小休所有。則勤番人数昼食所也」と書き、さらに高井は、「漁屋番屋にて番人家族共来住す」と記しており、また、市川は、「野田生より移住開墾せる者有。又蝦夷住す。白利加、組縫の蝦夷合て十軒三十九人」と述べている。いずれにしてもアイヌも少なく、やはり入稼人による漁業が中心であったようである。

 昼休所から4、5町ほど隔ててクン子シユマ(黒岩)があり、松浦は「此辺鰯魚屋多し」と記しており、さらに「海岸に大なる黒き岩有。其形ち火?の如し。此岩をわるに中より丸き白石出る也。小なるは雀の玉子、大なるは鶏の玉子の如し。小なる方は冷瓏(ママ)として是を磨見るに光あり。大なる方は光沢少し」と細かく描写しているのは興味深い。

 

シラリカ

 

山越内関門改めの簡素化と廃止 

 幕府は、再直轄の理由の一つとして、蝦夷地に堅実な移民を増加させ、開拓の促進を図ることにあった。このため、道路の開削を進めるにしたがい、その道路に沿って開墾しようとするものはもちろん、旅人宿の営業を希望する者にはこれを許可する方針をとった。また、安政4年(1857)4月には、箱館付諸村から蝦夷へ行く行商人は、これ以後、沖ノロ役所での改めを受けることなく、商品書付に村役人の奥印をもらって山越内番所に提出し、砂原や鷲の木から室蘭に船で渡る者は室蘭に提出すればよいこととし、役銭はいっさい免

除することとした。

 すなわち、次のようなお触れが出されたのである。

 

蝦夷地鎖閉の旧弊御改のため、箱館竝回所附村々人別の者に限、沖のロ改不(レ)及、村役人奥印の書付持参ヤムクシナイにて改請、砂原鷲の木より渡海の者は、モロランにて改請、其外場所々々にては改不(レ)及、且是迄ヤムクシナイにては、袴代と唱、壱人に付銭弐拾五文づつ請取来候由の処、向後差出不(レ)及、尤休泊旅籠代は相対にて相払罷越、勝手次第商売為(レ)致候はば、茶店、旅龍屋等も追々相殖、御開拓の一端にも相成可(レ)申、尤他国より入込候者は、是迄の通取斗候はば、敢て混雑も有(レ)之間敷候。左候はば、其段市在え御触流し可(レ)有(レ)之哉。依(レ)之御触案取調、相伺申候。

 御触案

蝦夷地通行の者便利のため、新規休息茶店又は旅籠屋取建等可(二)差許(一)段は、先般も触置候通の処、追て在住の向も相移、場所々々通行の人数増加いたすに付いては、日用の品々自然手支も可(レ)致間、夫々仕込致、旅商心懸候ものは、箱館並同所附村役人奥印いたし、ヤムクシナイえ差出し、砂原、鷲の木より渡海の者は、モロラン迄差出、何れも役銭等は差出に不(レ)及、尤休泊、旅籠代は相対にて、勝手次第罷越候様可(レ)致、其他場所見斗、於(二)彼地(一)見世取立、住居いたすにおゐては、別て御開拓御主意にも相叶ふ間、総て前々振合に不(レ)拘、見込の儀は十分に順立、可(レ)請(二)差図(一)もの也。

 

 なお、同年6月には箱館ならびに蝦夷地に入稼ぎする「旅人入役銭」という税も廃止するなど、改善に積極的に取り組み、蝦夷地往来の活発化、自由化が図られたのであった。

 この結果、前幕府時代に「華夷の境」とされてから、蝦夷地の入口に設けられ、吏員が在勤して出入りの者を改めてきた山越内関門は、文久元年(1861)6月に廃止されたのであった。

 

落部村の創設と山越内の村並

 寛政12年(1800)4月、村並の扱いを受けるようになった箱館6か場所の地帯は、漁民が次第に増加して、それぞれ一村を形成するようになっていた。これにより、安政5年(1858)には従前の村並を昇格して独立の「村」と改められることになり、公式に「落部村」が誕生した。

 また、この落部村に接続する山越内場所は、依然として蝦夷地であったが、この地方にも漁夫や農民など出稼ぎに来るものが多くなっていた。そこで、従来の請負人である伊達林右衛門と栖原半六が北蝦夷地の請け負いを命ぜられ、この地方の請け負いを辞退したのを機会に、元治元年(1864)6月請負人を廃し、山越内・長万部の二つに分けてそれぞれを「村並」として、奉行所の直轄するところとなった。

 

アイヌ人骨盗掘事件

 慶応元年(1865)10月21日、箱館駐在の英国領事館員によるアイヌ人骨盗掘事件が起きた。

 英国領事ワイスは、人類学研究の資料としてアイヌ人骨の盗掘を計画し、その実施を館員に命じたのである。

 同年9月13日、館員トローン、ケミッシュ、ホワイトレーの3名が、日本人小使千代吉を伴い、森村に来て柳原のアイヌの墓を発掘し、男子人骨一体、女子人骨二体と頭がい骨一個を盗み取り、これを領事館に持ち帰って直ちに英本国に送ったのである。

 この発掘は他人に発見されず、公然の問題にもならなかったので、前記の3名はさらに盗骨を計画し、今度は小使の長太郎、庄太郎を伴い、10月18日に箱館を出発して落部に向かった。

 この当時、外国人には遊歩区域の定めがあり、箱館を中心として10里以内に限られていた。森村は行程では10里以上になるが、地図上の直径をとってその区域内とされ、落部村は行程はもちろん地図上の直径でも10里以上になるのに、箱館は3方が直ちに海に面して遊歩区域がはなはだしく制限されるとして、落部村までの遊歩は黙認していたようである。

 一行5名は、峠下・小沼・森村にそれぞれ一泊し、小使長太郎を森村に残し、21日の昼前に落部に到着した。ひとまず旅籠屋(はたごや)庄六方で休憩し、酒を命じ昼食をとろうとしたが、米飯がなかったため、五升芋(ばれいしょ)を煮させてこれを食べてから、これから海岸に行きかもを撃つのだと言って旅籠屋を出た。

 トローンとケミッシュは銃を持ち、ホワイトレーは箱館から馬の背につけてきた行李(こうり)2個を携え、小使庄太郎はくわを入れたむしろ包みを抱えて直行し、アイヌ墓地に着いて発掘に取り掛かった。館員3人のうち二人が専ら発掘に当たり、一人は銃を持って小使庄太郎とともに付近を巡回して、村民らが近寄るのを警戒した。しかし、村民のなかにこれを見た者があった。岩吉はまきを取ろうとして付近を通り、5間くらいの距離から見ていたが、たちまち一人の館員が銃を構えて立ち去らせ、次に久助がしばらくこれを見ていたが、銃で撃たれるのを恐れてその場を立ち去った。そして岩古、久助の二人は、この状況をアイヌの子供たちに告げたのである。

 トローンらの一行はアイヌ人骨13体を掘り取り、行李に入れて小使庄太郎が背負い、再び旅籠屋庄六方に来て酒を飲んで休憩した。

 来るときトローン、ケミッシュの二人は乗馬であったから、さらに馬を二頭借り上げて館員は全員乗馬し、小使庄太郎は荷馬を率いて帰途についた。その夜は森村に一泊し、翌日は宿野辺村に一泊、23日領事ワイスは大野村まで出迎えに来て夕方箱館に到着した。

 当時落部村では、アイヌの間に天然痘が流行しており、このためアイヌたちは山にこもっていたが、岩吉と久助の二人に事情を告げられたアイヌの子供たちが、翌22日の朝方山に行き、イタキサン、トリキサンの二人に報告した。二人は山ごもり中の他のアイヌとともに山を下りて墓地を見たところ、発掘の跡が明らかなので骨を取り返そうと思ったが、館員らはすでに立ち去った後でもあり、協議のうえ公訴することに決めた。

 落部村年寄平次郎は他の用務によって箱館に滞在中であったため、トリキサンは小使一人と即曰出発し24曰箱館に到着した。箱館会所町に6か場所宿があり、平次郎の宿所もそこなので、ここでトリキサンがいきさつを告げたのであるが、平次郎は「このようなことは、有り得べきことではないから誤解であろう」と再考を促して帰村させたのである。26曰トリキサンはイタキサンとともに再び箱館に出向き、事実である旨を平次郎に訴えたので、平次郎は即曰奉行所に出訴した。

 当時の箱館奉行小出大和守秀實は、即曰組頭勤方橋本悌蔵らを伴い、英国領事館に行って領事ワイスに直接交渉を開始した。この交渉に先立ち、箱館在留の外国人の間には、すでに盗骨のうわさが広まっていた点などから考えれば、英国人側は当初からわが国の官憲を軽視してかかったもので、奉行の抗議に対してもワイスの態度には誠意がなく、領事館へ持ち帰ったアイヌ人骨13体も、館員エンスリーの家に隠し、また犯人であるトローンら3名にはあくまでも事実を否認させ、問題をうやむやのうちに葬り去ろうとしたのである。

 そこで奉行小出大和守は、箱館駐在の仏・蘭・米の三国領事立会の下に領事裁判を要求すると同時に、人骨の返還を厳重に申し入れた。

 こうして第1回の審問が行われたが、奉行所が英国側に対し小使長太郎の引き渡しを要求したにもかかわらず、これを市内の露国病院に隠し、逃亡したと偽って答え、奉行所の属吏が領事館に赴いた際には、トローン、ケミッシュが銃をもって脅す態度に出たのである。英国領事館のこのような行動は、かえって内外人の疑惑を深める結果となり、領事自身がこの事件に関係しているのではないかという疑いを濃厚にした。

 一方、奉行所においても、証人として落部村の旅籠屋庄六と見届人である岩吉、久助を召喚し、また領事館の小使長太郎を捕縛して証拠集めに努めた結果、英国側は窮地に陥り、ついに11月22日エンスリーの家に隠していた落部村分13体の盗骨を奉行所に返還し、犯人3名を領事館内に禁固のうえ領事裁判に付することを申し出た。

 しかし、森村の盗骨についてはなお隠そうとし、人骨は掘り出したが臭気がひどかったので、海中に遺棄したと報告した。

 奉行小出秀實は、領事の回答にある遺棄うんぬんは虚偽の申し出であることを見抜き、また、犯人ホワイトレーが禁固中との申し出にもかかわらず、公然と市中を遊歩している事実を知り、次の3点を重ぬて要求した。

 1、森村での盗骨の返還。

 2、犯人である英国人3名を亀田村にある奉行所の牢獄に監禁すること。

 3、館員エンスリー、ロバートソンも同罪として領事裁判に付すべきこと。

 奉行所の熊度が極めて強硬なので領事ワイスも窮地に陥り、12月初旬に自国の軍艦で横浜に行き、横浜駐在の公使パークスと善後策を協議した。

 公使パークスは、江戸在勤中の箱館奉行格の新藤鉛蔵と会見し、このような犯罪について日本の刑法はいかなる刑が裁量されるかを尋ねるなどして、ことを穏やかに解決しようと次のように提案してきたのである。

 1、犯人は領事裁判に付す。

 2、領事ワイスが落部村と森村に赴き、慰謝料を支払い陳謝する。

 3、森村の盗骨は海中を捜査して返還する。

 この時領事ワイスが公使パークスに対して、森村で盗掘の人骨は、すでに英本国へ送ったことを打ち明けなかったため、海中遺棄を信じていたものか、あるいは、公使パークスが事実を知りながら前記のような提案をしたものかは明らかでない。

 公使パークスと打ち合わせを終えて12月下旬箱館に帰った領事ワイスは、直ちに英国人船匠ポールトを森村の海岸に派遣して海中を捜査させ、あご骨3個と腐朽した頭がい骨1個を奉行所に提出し、森海岸は常に波浪が激しい所なので、投棄した人骨はことごとく砕けて、他は発見できなかったと称し、にせ物をもって一時しのぎをしようとしたので

ある。

 翌慶応2年(1866)1月8日領事ワイスは、犯人を領事裁判に付し、ホワイトレーには12か月の禁固、トローンとケミッシュの二人には各13か月の禁固を宣告した。つまり森村と落部村における二度の犯罪行為に対し、1か所6か月を計上し、小使庄太郎引き渡し要求の際に、銃をもって奉行所の属吏を脅かした二人には、さらに1か月を加算

したものであった。

 領事ワイスは自ら披害地の両村に行き、一分銀千枚をアイヌに贈与して陳謝することを奉行に申し出たが、奉行小出大和守は次のように回答して強硬な抗議を続けた。

 1、アイヌ墳墓の発掘は、英国領事館全体の計画と思われるから、3名だけの処罰では満足できない。領事ワイスをはじめ館員エンスリーらも処罰を受けなければ、当を得たものとは信じられない。

 2、禁固12か月は軽すぎるから、さらに重罰を加えるべきである。

 3、森村海岸から拾得したと称する人骨は、明らかににせ物なので返戻する。

 ところが1月17日、新たに箱館駐在の英国領事としてガワーが着任し、同月末ワイスらが箱館から退去した。

新領事ガワーは、森村で発掘した3個の人骨は、すでに英本国に送付したものであると明言し、必ず本国から送還させることを公約して事件の解決を求め、また、ワイス、エンスリー、ロバートソンらは、公使パークスの処分を受けて箱館を退去することになった旨を報告してきた。

 小出奉行も、ここで初めて英国側の誠意を認めたが、間もなく小出奉行も江戸に引き上げたので、交渉は一時停滞した。

 4月下句には箱館奉行杉浦兵庫頭勝誠が着任し、再び談判の結果、領事ガワーが奉行所支配組頭橋本悌蔵とともに落部村に来て、通詞をもってアイヌに陳謝の意を表し、発掘された諸霊のために祭事を執行するとともに、一分銀千枚(333ドル33セント)を慰謝料として被害アイヌの関係者に分配し、別に出訴費用として一分銀424枚(142ドル)を支払い、落部村分についてはひとまず落着をみるに至ったのである。

 その後も杉浦奉行は、再三にわたり英国領事に解決を促し、約1年後の慶応3年4月に、英国商船エラスムス号が本国から問題の人骨を積んで箱館に入港した。

 奉行所の調査によれば、人骨を収めてある箱は、先年英国領事館が箱館の商人に作らせたものと同一で、人骨数も3個であり、奉行所はこれをもって事件は全く解決をみたものとし、以後この問題の折衝は打ち切られた。

 落部村の関係では、領事ガワーが陳謝に来たとき、東流寺で法要を営み、英国側の慰謝料で石碑を造ってアイヌ墓地に建立した。碑面には上記のように刻まれている。

 

諸霊碑(仮称)

 

 この事件は辺地の1事件であったが、わが国の要求が強硬に主張され、貫徹されたまれな例である。また、治外法権下において領事裁判が適用された実例として、万延元年(1860)に神奈川付近で狩猟を強行しようとし、幕吏を傷つけたため罰金および禁固刑を宣告され、破産にひんした英国人モスのいわゆる「神奈川事件」の場合とともに、珍らしいものであるといわれている。

 北海道史料編纂員阿部正巳が、奉行所の記録などを基礎にして、大正7年に『人類学雑誌』第33巻第5号以下に「箱館駐在英国領事館員アイヌ墳墓発掘事件の顛末」と題して発表され、また、維新史料編纂官大塚武松著の『幕末外交史の研究』(宝文館出版)に「アイヌ墳墓発掘事件」として登載されている。いずれも参照し引用した部分もある。

 昭和10年8月に北海道帝国大学教授児玉作左衛門博土が、学生とともに落部村と森町の返還埋葬されているアイヌ人骨を再発掘した。落部村では、問題の13体のほかに30数体のアイヌ人骨を収集し、東流寺で法要を営んだうえ前記の石碑とともに大学の研究室へ送り、新たに「旧土人之墓」と刻んだ石碑を落部共同墓地に建立した。

 児玉博士の研究により、盗掘されたものもアイヌ人骨であることが実証されたので、英国側返還のものがにせ物でなかったことになり、また道南のアイヌは、日高や宗谷地方のアイヌと比較すると和人化している旨も発表された。

 昭和11年9月に天皇が陸軍特別大演習ご統覧を兼ね本道へおいでになった際、児玉博士は釧路市のご宿所において、この歴史的な背景をもつ頭がい骨を、人類学的立場からご進講申し上げご覧を賜った。

 その後大学研究室から前記の石碑が返還され、現在は八雲町郷土資料館に保管されている。

 

藩幕時代の終結

 260余年にわたって政権を掌握し続けた徳川幕府は、新時代を志向する世論と運動に抗しぎれず、15代将軍徳川慶喜によって慶応3年(1867)10月大政を奉還し、新政府の誕生を迎えた。この結果、蝦夷地は翌4年箱館載判所総督清水谷公考に無事引き継がれ、永く続レた藩幕時代の幕を下ろして、新政府の支配下に置かれるところとなったのである。

 

第2章 町村制施行前の明治時代

 

 第1節 維新後の行政機構

 

新政府による蝦夷地統治

 慶応3年(1867)12月王政復古の大号令によって維新政府が成立し、逐次新政府の機構が整えられるようになるのであるが、蝦夷地統治のための機関として最初に設けられたのは、慶応4年4月12日の「箱館裁判所」であった。この裁判所は、後世における司法機関としての裁判所ではなく、一般の民政を担当する特定の行政機関であった。

 総督に任ぜられた清水谷公考が、同年閏4月26日着任し、箱館奉行から無事引き継ぎを完了して5月1日開庁、新政府による蝦夷地統治の緒についたのである。

 しかし、維新初期における政治機構の変遷はめまぐるしく、この裁判所も清水谷総督が箱館に入る前の閏4月24日には「箱館府」と改称され、総督は「知事」と改められていたのである。そのうえ、翌明治2年7月には箱館府を廃止して、再び箱館裁判所とし、次いで9月30日には箱館裁判所を開拓使出張所と改称するという状況であった。

 

戊辰戦争

 慶応3年末、大政奉還・王政復古ののち新政府は、15代将軍徳川慶喜の内大臣辞任と領地返納を決定した。しかし、新政府に有利になるように薩長藩を中心とした勢力による挑発が行われ、領地返納について反対する旧幕府側は、武力による解決策をとった。こうして翌4年、京都南部の鳥羽・伏見の戦いにはじまり、3月中旬の江戸城明け渡し、9月の会津落城の結果、旧幕軍は降伏した。一方、品川から箱館に逃れた榎本武揚ら旧幕府海軍は、翌年にかけて最後の抵抗を試みたのである。明治2年(1869)5月の箱館戦争の終了までの内乱が、いわゆる戊辰戦争と呼ばれている。

 

箱館戦争との関係

 榎本武揚は脱出に先立ち、勝安房守を通じて「徳川家臣大挙告文」を鎮将府に提出した。これによると、王政復古は1、2の強藩の私意により出たもので、主君慶喜を朝敵とし、城と領地を没収し、家臣を路頭に迷わせた。徳川家臣救済のため蝦夷地の下賜を受けて開墾したいことを申請したが許されず、その困窮と飢餓は日一日と迫っているが、この事情を朝廷に訴えようとしても届かず、あえて一戦を辞さない覚悟をもって、江戸湾を退却する、とその意図を表明したものであった。こうして旧幕府軍艦を率いて江戸湾を脱走し、途中奥羽の戦争を支援したのち、仙台湾で新撰組土方歳三の率いる兵を乗船させ、最後の抵抗拠点として蝦夷地を求めるところとなり、開陽丸以下7隻の艦船に兵約2800余が分乗して北上した。そして明治元年10月20日鷲の木に上陸、その月26日には五稜郭を占拠し、12月15日には全島を平定、政権の樹立を自認して蝦夷地の施政に入ったのである。

 鷲の木へ上陸した旧幕軍は、後方警備のため、落部・山越内・長万部などに分遣隊を駐屯させた。このうち、落部には新撰組の大野某なる者が、隊土梶原以下10数名とともに民家に分宿していたと伝えられている。

 一方、こうした難を逃れて青森に退いていた清水谷総督は、翌2年体制を整えて討伐に出陣し、4月9日乙部に上陸して戦闘を開始した。これら新政府軍のうちの一隊は、頑強に抵抗する旧幕軍に対し、う回して背後から挟撃するため、厚沢部の安野呂から落部に向かった。こうした政府軍の行動を察知した旧幕軍は、これを入沢地区に迎え討つ計画をたて、村民を使役して土塁20数基を構築して抗戦の構えをみせた。しかし、政府軍が落部に近付いたときには、既に鶉の館も落ちて大勢は傾いていた。戦況利あらずと悟った旧幕軍の分屯隊土たちは、いち早く難を避けて退散したため、政府軍は何の抵抗を受けることなく5月4日落部に進駐した。このとき構築されたとみられる土塁は、現在なお数基がその跡をとどめている。また、退散した隊士の中には、潜伏して土着する者や、村民の養子になった者もあるという。

 一方、政府軍は落部に向かって進撃途中、白水沢(上の湯)付近で小戦闘を交じえ(後に付近の畑地から銃が発見された)、うち3名の兵士が戦病死したと伝えられている。この兵士の霊を弔う者は長い間なかったが、大正14年(1925)4月10日付近に住む林兵造(故人)が卒塔婆(そとば)を立て、毎年個人で供養を行ったが、現在ではその遺族に引き継がれ、供養が続けられている。

 なお、落部から安野呂に通ずる江差越道路は、政府軍の踏破以来、俗に「官軍道路」と呼ばれてきた。

 戦に敗れた旧幕軍は、明治2年5月17日ついに全面降伏し、この地方にも数多くの逸話を残した箱館戦争は終結となり、清水谷総督は5月19日本営を箱館に移して戦後の処理に当たったのである。

 

開拓使(庁)の設置

 箱館戦争の進展中においても政府部内では蝦夷地問題、すなわち開拓推進のための機構整備について検討が進められ、戦争終結後の明治2年6月4日に、

 「蝦夷開拓ハ皇威隆昌ノ関スル所、一日モ忽ニス可カラス、汝直正深ク国家ノ重ヲ荷ヒ、身ヲ以テ之二任センコトヲ請フ」

旨の勅書をもって議定、中納言鍋島直正を開拓督務に任じた。

 さらに7月8日、官制の大改革によって、事実上蝦夷地開拓を管掌する「開拓使」を設置し、同13日鍋島を初代長官に任命したが、8月25日には東久世通禧をこれに代えるという経過をたどった。

 東久世長官が諸般の体制を整え、農工移民を伴って9月25日箱館へ着き、同30日箱館裁判所を開拓使出張所と改称して施政に入ったことにより、ようやく新政府による北海道開拓の体制が整えられるに至ったのである。

 なお、漸次開拓業務が進展されるにともない、札幌に庁舎を建築し、明治4年5月札幌開拓使庁と名付けて開拓使本庁を東京から移すとともに、翌6月にはこれまでの開拓使出張所は函館開拓使出張所と改称した。

 

北海道・国郡の設定

 長い間用いられてきた蝦夷地という名称を改めることは、旧体制的意識か一掃し、維新の効果を高めるうえで極めて重要であると考えた政府は、具体的に検討した結果、明治2年8月15日蝦夷地を北海道と改めるとともに、区域を分割して国名および郡名を定めることを布告した。すなわちこのときに、渡島・後志・石狩・天塩・北見・胆振・日高・十勝・釧路・根室・千島の11か国に分けられ、その下に86の郡が設定されたのである。なお、それまで北蝦夷地と称していたカラフトは「樺太」と改められた。

 このとき定められた国郡の分割と命名については、幕末期を通じて蝦夷地の山川地理を詳細に調査し、数多くの地図や文献を著し、当時は開拓判官であった松浦武四郎の意見が大きく作用した。その境界決定の根拠は、ほとんどが前時代の沿革におかれており、箱館6か場所として一歩先に開けた旧和人地の野田追領以南を「渡島国」とし、東蝦夷地の首地であった山越内以東勇払までを「胆振国」と定められることになったのである。

 ここに松浦武四郎の挙げた茅部郡および山越郡の命名の由来を「北海道々国郡名撰定上書」から拾ってみると次のとおりである。

 

 茅部郡 東山越内領境「バロウシナイ」より、野田追、落部、鷲ノ木、沙原通り、臼尻、恵山下、海馬岩を以境とす。但陸路「シュクノッへ」小川の中にて界とす。

 山越郡 止櫛郡、西、茅部郡「ユウオイ」村なる「バロシベウシ」より、虻田領「ネツニシャ」を以て界とし、海岸十里十六丁一郡に仕度候。

 本名「ヤムウシナイ」にて栗多き沢の儀、「ヤム」は栗、「ウシ」は多し、「ナイ」は沢なり。[ヤム」を「ヤマ」と呼事敢て不審にあらず、越後蒲原(和抄名)加麻を加武音便に呼候例御座候。則蝦夷地にて今山越内と呼候様に成居候。又休越(ヤムクシ)、止釧(ヤムクシ)等も可(レ)然奉(レ)在候。

 

分領支配の経緯

 明治2年7月開拓使が設置され、蝦夷地開拓が委任されたが、同月22日、

 「蝦夷地開拓之儀、先般御下問モ有之候通ニ付、今後諸藩士族庶民二至ル迄、志願次第申出候者ハ相応ノ地割渡シ、開拓可被仰付候事」(法令全書)

との太政官布告を出し、「全国の力を挙げてこれに当たる」という分領支配による蝦夷地開拓の方法をとることにした。 開拓使は、この決定による土地の分与に先立って、9月14日開拓使の直轄地および兵部省の直轄地として20郡を重要地に指定し、その地以外の出願を許可する方針をとったが、これにより茅部郡は開拓使の直轄、山越郡は兵部省の直轄と定められ管理されることになった。

 しかし2月以来、会津降伏人の蝦夷地への移住開拓に関する計画支配を業務としていた兵部省は、翌3年1月5日箱館戦争の罪を許されていた元会津藩の松平慶三郎が、旧藩士らの支配をゆだねられることになったのを契機として、北海道の管轄から離れることになった。その後斗南藩主となった松平慶三郎に山越郡と、歌棄・瀬棚・太櫓の4郡の支配が命ぜられ、合わせて旧会津降伏人も兵部省から引き渡されたのである。

 こうして山越内以北4郡の支配に入った斗南藩は、他の分領支配に入った藩が、その成果を挙げることができず、中途で放棄するものが多かったなかで、よく開拓の困苦に打ち勝ち、ささやかながらも成果を上げつつあったと評価されているが、この地方で具体的にどのような事績を上げていたものかは、明らかにする史料は残されていない。ただ斗南藩士高橋常四郎は山越内の開墾係を命ぜられ、小古津内(現、浜松)に移住地を定め、明治4年に7戸18名を入植させた例があるが、これが八雲地方集団入植の初めとされている。

 明治4年(1871)7月政府は、全国の藩を廃して府県を統一するいわゆる廃藩置県を断行し、8月20日をもって分領支配制度も廃止したので、斗南藩の支配もわずか1年8か月をもって終わりを告げ、北海道一円は再び開拓使の直轄となったのである。

 ただし、旧松前藩だけは幕末以来北海道の一部、爾志・檜山・津軽・福島の4郡を領有して館藩と称し、開拓使の統轄外におかれ、廃藩置県によって館県と改称した。その後明治4年9月、弘前県(まもなく青森県となる)に併合されて、その管轄下に入るという経過をたどり、これが開拓使に移管されたのは5年9月20日のことであり、ここに初めて北海道全域が開拓使の支配するところとなったのである。

 なお、小古津内に入植した者たちは、斗南藩の分領支配が廃止された後もこの地に残っていたが、開拓使の保護に甘んじるばかりで、開拓の成果はみられず、わずか7町余(約7ヘクタール)を開拓したのにとどまり、明治15、6年ころまでにはいずこかへ離散してしまったという。

 

本・支庁の設置

 北海道開拓使は、地方の管轄郡を定めるため積極的に調査を進め、5年9月14日札幌開拓使庁を札幌本庁と改め、函館・根室・浦河・宗谷・樺太の5支庁を設置した。ただし、浦河支庁は7年5月、宗谷支庁は留萌支庁と改称する経過の後、8年3月に廃止され、それぞれ札幌本庁に管轄されることとなった。さらに、樺太支庁は8年11月樺太・千島交換条約締結により廃止されるという経過をたどっている。

 函館支庁は、当初は上磯・亀田・茅部の渡島国東部3郡と胆振国のうちの山越郡をもってその管下としたが、この直後に渡島国西部4部(旧館藩領)を収めて計8郡を管轄することとなった。

 

郡出張所の設置

 地方末端における事務を処理させるため、本・支庁設置以前の明治5年2月、山越郡下の山越内村と長万部村の2村と茅部郡下の落部村を管轄する「函館出張開拓使庁山越郡出張所」が山越内に設置され、初代詰員として山本賢が任命された。なお、8月には長万部出張所が設けられて長万部村を管轄したが、8年3月には廃止され、再び山越郡出張所に事務が移されている。

 この山越郡出張所は、明治9年5月25日「開拓使函館支庁山越内分署」と改められ、翌年6月26日には落部村の区域が森分署の管轄に移るという経過をたどりながら10年4月5日、他のすべての分署とともに廃止された。

 しかし、郡区町村編成法により、明治12年7月に茅郡・山越郡役所が森村に設けられ、茅部・山越の2郡を管轄して翌13年1月開庁するなど、これまためまぐるしい変遷をみたのである。

 

村方機構の再編制度

 政府は、維新後における政策遂行を図るため、地方制度の改革整備に力を注いだが、その基本的な考え方としては、中央集権確立のための機構整備であった。すなわち政府は「戸口の多寡を知るは人民繁育の基」という趣旨で、明治4年戸籍法を制定し、翌年その編成(壬申戸籍)作業に入った。その際、戸籍編成のため、従前の町村の区域にこだわらず、特別行政区としての戸籍区を設けて、戸長・副戸長をおくこととし、明治5年4月9日全国的に庄屋・名主・年寄等の職を公式に廃止して町村を代表する地位を解く措置をとるに至った。

このことは、旧来の町方村方体制を破壊し、人民に対する政府の一貫支配体制を確立する意図にほかならなかったという。

 こうした制度的背景のなかにあって函館支庁では、まず函館で三区十五小区を設け、6年5月に「東部4郡(山越・亀田・上磯・茅部)に大小区画を設定、村方名主を廃して副戸長とし、年寄・小頭・百姓代を廃し村用係とする。」という布達を出し、郡村大小区画を定めた。これにより函館の三区画に次いで、四大区亀田郡、五大区上磯郡、六大区茅部郡、七大区山越郡、とそれぞれ郡を単位とする大区に区分されたのであるが、関係分を示すと、

 六大区(茅部郡)三小区 尾白内村、森村、鷲木村、落辺村の範囲

 七大区(山越郡)一小区 山越内村の範囲

という区割りとなり、これによって任命される副戸長は「村の理事者、人民惣代としての機能を継承する」とともに、戸籍吏としての事務その他の国政事務を遂行するという官吏的性格をもつものであった。

 これらの措置により山越内村の副戸長は、道行政資料課所蔵の職員表によれば、次のように松田武右衛門、新井田重吉の2人が任命された記録がある。

 (その一) 第七大区一小区副戸長 函館支庁管内第七大区 一小区山越内村商

 明治六年三月七日拝命 松田武右衛門 年給八拾円 文久五壬午年六月生

 ◇ ◇ ◇

 明治六年三月七日拝命 新井田重吉 年給八拾円 天保六乙未年四月生

 右のように、副戸長が2名発令されたということは、前述の布達でいうように副戸長が名主の改称されたものであることからみても矛盾がある。また、通説的には大小区画の設定が、明治6年5月であるといわれているのに対し、この発令月日が3月7日とされていることなど、理解しにくい点が多い。当地方における村方機構や、その陣容などがどうなっていたのかを知り得る手掛かりが、全くない状況であるから、その真偽を解明することはむつかしいので、これを併記するにとどめる。なお、当時は多くの副戸長が無給であったのに対し、官費80円が支給されているのも珍しいこととされているが、これは山越内村が村並になってから歴史が浅く、民費負担という財政的能力にはまだ欠けていたためであろうと考えられる。

 また、落部村の副戸長に相木堯太郎が就任したが、右のような任命に関する公式記録がないため明確ではなく、「函館支庁管内町村誌」によれば、明治7年と記録されてはいるものの、通常の考え方からすれば、明治6年とすることが正しいのかも知れない。

 

郡村大小区画の展開

 戸籍編成のため一応特別行政区画としての大小区画が定められたが、実際上は本・支庁権限で行われたため、全道的にまちまちのものになった。

 そこで、これを統一するために開拓使は、明治7年5月「区戸長月俸規則」を定めて本支庁に通達した。

 これによると、「区戸長の月俸は本来民費で賄うべきものであるが、戸口繁殖、民産興起による体制が整うまで当分の間官費で取計う」という趣旨で、内容では区吏の職名を正・副区長、正・副戸長および正・副総代の6つに規定し、区長の最高25円から副総代の3円に至るまで10段階に区分されたのである。

 しかし、これらも必置性ではなく、戸口の多寡やその景況などによって正副区長を置かずに戸長に兼務させたり、また、区戸長などをいっさい置かず、総代もしくは副総代にその仕事をさせるという極めて広い幅を持ったものであった。

 これにより開拓使は、旧来の村方自治への介入をいっそう強め、その判断のままに区長以下の職に統一できる道を開いたのであった。函館支庁では明治9年4月18日、函館支庁管内東部四郡で大区に2、3名を残して副戸長の大部分を解職した。 この措置によって当地方の副戸長は松田武右衛門だけを残して、落部村の相木堯太郎、山越内村の新井田重吉、長万部村の竹内弥兵衛などは「副戸長差免候事」としてその職を免ぜられた。そしてここで解任された副戸長らが、以後どのような職についたかを知る史料は少なく、今のところ、

開拓使函館支庁管下第十八大区二三小区戸長明細調(関係分抄)

 相木尭太郎 開拓使管下平民 天保六年十月十日生 第十八大区三小区 副総代 明治九年三月十七日 月給三円 茅部郡落部村

 右之通相違無之候也。

 明治九年十一月調 森分署

 (道行政資料課所蔵「民事課往復留森分署」)

という史料が発見されているだけであり、これもまた、書中任命の3月17日と、前述した解任の4月18日が一致しないことに疑問もあるが、副総代・月給3円ということで任命されていたことを示している。

 

北海道大小区画の実施 

 開拓使は明治9年9月、それまで本支庁ごとに実施していた大小区画を統一して「北海道大小区画」を定め、全道を30の大区、165の小区に再編した。

 この大区および小区の設定は、旧来の町や村を包括し、これをそのまま自治的団体として育成しようとしたものであったようであるが、結局は単に分署や支庁の直轄のもとで、その末端機構として機能するにすぎなかった。

 このとき再編成された区画制度によれば、茅部郡が第十八大区、山越郡は第十九大区とされ、関係分では、

 茅部郡(第十八大区)三小区 森村、鷲木村、蛯谷村、石倉村、落部村、宿野辺村

 山越郡(第十九大区)一小区 山越内村 二小区 長万部村

となっているように、落部村を含む第十八大区三小区などは、六か村を包括する広域的自治機構の醸成をねらったものであった。

 以前の郡村区画時代から副戸長として在任した松田武右衛門は、明治10年5月22日依願差免となり、同日付で澗山浩平、三井勝用の2名に対し、 第十九大区副戸長申付候事

 但し等外四等(月俸六円)ニ准ス

の辞令が交付された。したがって、第十九大区を見る限りにおいては、山越内村担当が澗山浩平、長万部村担当が三井勝用というように、一村一名の副戸長配置だったわけである。

 なお、同年11月12日相木堯太郎が死亡したが、その後任発令の形跡は発見されておらず、第十八大区の副戸長菊地忠兵衛が担当したものと思われる。

 さらに、明治12年3月26日付で、

 第十九大区十二小区戸長三井勝用等外二等(月俸八円)ニ准侯事」

 (道行政資料課所蔵「官記辞令録」)

とあり、三井勝用の戸長昇格辞令が記録されているが、澗山浩平の辞令は不明であり、少し後の5月21日付の函館租税課文書(同前「戸長文書録」)に「第十九大区戸長澗山浩平」宛のものが残されているにとどまるが、とすればその任命は同時か、またはそれと相前後して戸長に任命されていたことが推測されるのである。

 

 第2節 戸長役場の発足

 

戸長役場の設置

 発展が遅れていた北海道はともかく、全国的には人民の利害を直接反映しない大小区画制のもとでも、公的に認められてはいなかったものの、町村民の寄合が事実上の町村の議決機関として継続され、旧来の町方・村方自治の復活を望む声が高まりをみせる状況にあった。

 政府は、こうした社会的背景に対処して、明治11年(1878)7月「郡区町村編制法」、「府県会規則」、「地方税則」の三法を制定し、自治制度の復活を図った。しかし、これらの三法は、当初から北海道を除外していたものであったが、このうち「郡区町村編制法」だけがその翌年から北海道にも適用されることになり、7月からはこれまでの北海道大小区画制を廃止し、郡区町村制が施行され、町村は行政区画であると同時に自治団体としての性格を持つことになった。こうしてこれまでの区戸長などをすべて廃止し、全道90郡、826町村を設定したのである。しかし、実際的には近世の町村自治と異なり、この事務を取り扱う役所を「戸長役場」と称し、官選の戸長をそれに当てるというものであり、しかも、村といってもなお人口希薄な地帯の多い関係もあって、必ずしも一村に一戸長役場を置くというものではなかった。

 この地方に戸長役場が設置されることになったのは、明治12年12月になってからであった。

 開拓使函館支庁第九十八号

 当庁管下各郡内へ別紙ノ通り戸長配置候条此旨布達候事

 但右ノ外ハ郡区長二於テ戸長事務兼掌候義ト心得ベシ

 明治十二年十二月二十五日

 函館支庁

 開拓使大書記官時任為基

 (別紙)

 戸長配置表 (関係分抄録)

 茅部郡落部村

 右へ戸長一人

 山越郡山越内村

 右へ戸長一人

 長万部村

 右へ戸長一人

と布達され、この地方では一村一戸長の配置となり、落部・山越内のそれぞれに戸長役場が設置され、翌日落部村戸長に相木幾一郎、山越内村戸長に三井計次郎が任命された。

 (その1) 相木幾一郎

 茅部郡落部村戸長申付侯事

 准等外三等月俸七円

 明治十二年己卯十二月二十六日

 開拓使

 (その2) 三井計次郎

 山越郡山越内村戸長申付侯事

 准等外二等月俸八円

 明治十二年己卯十二月二十六日

 開拓使

 

戸長の性格

 町村は、戸長の配置により戸長の管轄区域をもって地方団体として認められることになったわけである。しかし、戸長は官選であり、開拓使の定めた「戸長職務概目」でその所掌事務が挙げられ、しかも「その他本支庁長官・郡区長の命令する事項はその命令に服務」としているように、国政事務の遂行を戸長や町村に対して要求できる極めて官治的性格の強いものであった。

 戸長職務概目の内容は次のとおりである。

 戸長ハ布告布達ヲ町村内ニ示シ、地租及租税ヲ取纏メ上納、戸籍徴兵下調、地所建物船舶質入書並ニ売買加印、地券台帳、迷子及行旅病人変死其他事変アルトキハ警察署二報知シ、天災又ハ非常ノ難二遭フ窮追及孝子節婦其他篤行者ヲ具状シ、町村ノ幼童奨学勧誘、町村内ノ人民印影簿ヲ整置、諸帳簿保存管守、河港道路堤防橋梁其他修理保存スヘキ者ニ就キ利害ヲ具状スル等及本支庁長官又ハ郡区長ヨリ命令ノ事務ハ規則又ハ命令ニ依テ服務、其他町村限リ道路橋梁用悪水ノ修繕掃除等凡協議費支弁事件幹理スルハ此限ニ非ズ

 

浦役場の設置

 三井戸長は、明治13年3月茅部山越郡役所から「浦役人兼務相達候事」の辞令を受けた。浦役人とは、浦役場の役人のことであるが、これは明治10年太政官通達をもって船舶関係の事務、すなわち、水産物の検査や出船入船の安全をはかり、案内不十分の船には商売のあっせんをし、海難救助を行うことなどの事務を担当させたのである。こうして海岸地方の主なところに浦役場を設けるという既定の制度により、これが山越内にも設置されることになったのである。しかし、この浦役場の設置によって特別の機構が設けられたものではなく、単に「山越内浦役場」の標札が掲げられ、戸長役場事務担当者の仕事として加重されたものにすぎなかったという。

 なお、この浦役人および浦役場は、いつまで存続していたのかは不明である。

 

郡・村総代人

 戸長役場時代においては、今日のような町村議会の組織はなかったが、一応、住民の利害得失に関する事項について郡長あるいは戸長から協議を受けて、これに答申する職責を担う総代人制度が設けられていた。この総代人には、町村の総代人と郡の総代人とがあり、前者は町村費などについて参与権をもち、後者は郡を代表して郡内の戸数割の決定にあたったのである。

 この総代人の制度は、明治11年の「総代人撰挙法及総代人心得」という布達により創設されたものであるが、これによって従来の「総代・副総代」の名称は廃止され、新しく「総代人」という名称になった。町村総代人の選挙資格要件は、(1)その町村に本籍があること、(2)二〇歳以上の成年男子であること、(3)管内に不動産を所有すること、であり、披選挙資格要件は、(1)、(2)は同じで、(3)として、管内に100円以上の地券を所有すること、もしくは中等以上の身代で管内に不動産を所有すること、などとなっていた。

 こうして町村総代人は、各町村から2名が公選され、区内町村総代人の中から互選により小区総代人が2〜4名選出され、任期は町村、小区ともに2年であった。

 また、「総代人心得」は次のとおりであるが、これによって総代人は、公借・共有物・土木起工だけでなく、制限はあるが村民の利害得失に関する事項も取り扱うようになったのである。

 総代人心得

 第一条 総代人ハ九年十月第百三十号公布ニ依リ、金穀公借共有物取扱土木起工等ノ事ニ預ルヲ以本務トナスト雖、時宜ニ寄人民ノ利害得失ニ関スル事ハ区役所ヨリ議スルコトアルヘシ、但有志醇金ニ出テ一区一町村ノ課出ニ非ル土木起工ノ如キハ本文ノ限ニ非スト雖、一区一町村ノ利害得失ニ係レハ之ニ于預スル事ヲ得。

 第二条 前条ノ場合ニ於テハ、実際民情ヲ酌量、宜ク公利公益ヲ目的トシ、必シモ軽挙アル可ラス。

 第三条 九年第百三十号布告第二条ノ場合ニ於テハ、該条但書ニ依リ其代理トナルヲ得ヘシ。

 第四条 小区総代人、町村総代人管掌ノ区分ハ唯事ノ大小等ニ寄ル者ト雖、第百三十号公布第一条ノ場合ニ於テハ其別ナキ者トス。

 第五条 総代人ノ集会ハ小区ナレハ区戸長、町村ナレハ戸長用係出席スル者トス。

 第六条 総代人ハ給料ナキ者トス。然レトモ公用ニテ旅行スルトキハ、用係ト同ク旅費ヲ給ス。

 (布令類聚)

 総代人の制度ができてわずか2年後の明治13年から、大小区割が廃止されて郡区町村に変わった。したがって小区総代人も消滅して、新たに郡区総代人がおかれることになった。

 郡区町村制は、明治13年1月1日から実施されたが、その年の7月8日付をもって、従来の「総代人撰拳法」と「総代人心得」は改定された。その「撰拳法」によれば、町村総代人は1名または2名とし、郡総代も1名または2名をおくこととし、任期は2年で、毎年その半数を改選することにした。また、選挙資格は、満20歳以上の男子で、その町村内に一か月以上居住するものとし、被選挙資格は、前述の資格のほかに、中等以上の身代で、管内に不動産を有するものとした。

 総代人制度は以後長く存続されたが、明治30年代の一、二級町村制の施行によって廃止された。

 この総代人の活動が実際どのように機能されていたものか、その細部について知ることのできる直接的な史料が残されていないので明らかではないが、明治17年以降において郡総代および村総代を務めた形跡を認められる人々の名を挙げれは次のとおりである。

 なお落部村の総代については、郡・村総代の区分も不明であるが、総代を務めたと認められる人々の名を挙げれば、山戸久三郎・宮川勘之亟・角谷金作・佐々木徳右衛門・奥田庄三郎・宮川清次郎・松浦富三郎などがある。

 

郡総代および村総代氏名一覧

区分 村 名 氏        名
郡総代 八雲村 永田 健・澗山浩平・吉田知一・森田久太郎
山越内村 久末林兵衛・松岡元吉・加我新吉・酒田寅吉
村総代 八雲村 角田弟彦・森田和平治・永田 健・澗山浩平・吉田知一・岩間儀八
森田久太郎・岡野隆麿・杉立正義・小川助次郎(初代)
山越内村 湊治兵衛・高満松右衛門・加我新吉・久末林兵衛・松岡元吉・太田政策
酒田寅吉・山城芳蔵・岡島新左衛門・川内子之松・湊篤三郎・若山与吉

 

村方自治の存続 

 古くから村方の運営については、村中が寄り合って協議するのが慣例であったが、開拓使による郡村大小区画実施以来、総代人制度が設けられたものの、村を単位とする村方自治が否定された形となり、法的な保障は全くない状態におかれた。しかし、町村協議費(町村内限りの入費は、人民の協議で決めるものとされていたため、一般にこう呼ばれた)の分賦その他村民にとって直接生活に結びつく事件の決定には、人民の総集会である寄合いこそ絶対不可欠のものであった。

 このことは、落部村戸長役場建築の項で記載するが、明治18年4月18日付函館新聞の落部通信欄で、

 「本村には毎年一月四日から三日間年始会と唱へ、一年間の村勢をば評議する例規あり。」

と報じ、さらに、

 「然るに昨年中戸長宇津木氏の辞職、村総代の再撰等ありしため、この会も立消への姿なりしが、本年より戸長林久寿氏は村民へ官の御趣旨を説明し、傍ら人智を開発する様専ら尽力ありて村民の尽力を感ずよし」

と報じているほか、新北海道史第四巻に、

 「明治十九年の茅部郡落部村落部川架橋をめぐる一件では、工事請負人の選定をめぐって再度の村中寄合をなし、投票をおこなっている」(落部村役場書類二)

と記し、寄合の議決の有効性に対する法的保証はないが、この決定をもって請負人選定の正当性の根拠の一つとしている。

 なお、八雲村でも明治20年3月8日の八雲小学校にかかわる「学林保護申合規則」に「右之件々村中協議ノ上決定侯ニ付茲二連署侯也」として村内協議に触れている例がある。

 したがって、戸長の立場は官選でありながら、このような議決機関の意向のもとに機能する場合には、村の理事機関の性格を併せ持つというものでもあった。

 

 第3節 八雲村の誕生

 

遊楽部原野の調査

 旧尾張藩主徳川慶勝が、旧臣有志に対する授産の方途を講ずるため、北海道開拓に着目し、明治10年7月入植適地調査のため、家職吉田知行・角田弘業・片桐助作の3名を派遣した。北海道に渡った一行3名は、各地を調査すること三か月、ついに「遊楽部」を適地と選定して10月下旬帰国し、これを復命した。この復命書ともいうべき次の実況概略は、本格的な開拓に着手する直前の遊楽部原野の状況を記録する貴重なものであるので掲記する。

 

◎開拓使支庁管内胆振国山越郡山越内村字遊楽部実況概略

 一、函館港ヲ距ル西北十九里森港ヲ距ルコト百八里、室蘭港ヲ距ルコト東北海陸合セテ二十一里札幌ヲ距ルコト西南海陸合セテ五十五里山越内本郷ヲ距ルコト西一里二十丁支郷黒岩ヲ距ルコト南三里同郡長万部村ヲ距ルコト南八里後志国潮路村ヲ距ルコト東南十七里七重村峠下村ヲ距ルコト東南十四五里

 一、寒暑ノ点度詳ニスル能ハスト雖モ峠下村七重村ニ同シト云ハハ函館ニ比スレバ寒威少シク烈シカラン但シ峠下、七重ト雖米穀、野菜等十分ニ熟スルノ地ナレハ寒気ノ為メニ妨害ヲ為スナキヲ知ルヘシ

 

徳川慶勝

 

片桐助作

 

吉田知行

 

角田弘業

 

 一、地形ハ東北ニ海アリ且ツ東ニ当テ山越内ノ山連綿海浜へ張出シ加之原野中立樹一群ツツ風除ノ姿ヲナシタレハ山背(ヤマセ)(東ヨリ来ル海風ノ名)ノ風害少ナカルヘシ其他田畑養蚕等ニ害アルヲ見聞セス現今開墾ノ実況ヲミルニ雑穀、野菜ノ繁植他ニ比類ナシ支庁の勧業課七重試験場在勤地質家林忠良ノ説ニ当管内第一ノ地ナリト

 一、村用係長谷川仲蔵十六ケ年前ニ聞キタル畑ナリトテ大豆ヲ作レハ即今ニ至ル迄培養セスト雖モ繁植スルコト驚クニ堪ヘタリ

 一、万延元年野田生(遊楽部ヲ隔ツルコト三里)ニテ水田ヲ試ミタルニ二三年目ニ至リテ可ナリ実リタリト云フ今ヲ去ルコト十九年前ニシテ気候大ニ変化シタレハ無論熟スルナラント云フ

 一、遊楽府川、砂蘭部川ハ少シク欠ケアレトモ水害ト云フ程ノ事見聞セス

 一、河水低ケレハ堤防ニ及ハス

 一、河舟ナレハ遊楽府川ヲ遡ル二里ニ及フヘシ海岸ハ船著宜シカラスト雖モ百石積格好ノ船ハ川筋へ入ルヲ得ヘシ荷物陸揚差支ナシ平常漁船(二三十石ヲ積ム)ニテ往復差支ナシ

 一、運送ハ森港迄八里船廻シ(陸路トテ峻路ナシ)森港ヨリ函館へ十一里平坦ニシテ駄送時宜ニヨリテ函館へ便船アリ新室蘭港ヘハ森ヨリ毎日便船アリ唯掛リ場ナキヲ難トス

 一、河面水面ト地面トノ高低詳ニスルヲ得スト雖モ高キコト遙カナリ河水ト雖モ丈余ノ差アルヘシ

 一、木根、石楽ナシ器械ヲ以テ荒起スルモ差支ナシト云フ是モ林忠良ノ説ナリ

 一 、海浜ヨリ二里程奥ルベシペ川ノ辺ニ工藤喜三郎ナル者一戸アリ農業ノ一途ニテ数年来生産ヲ為シタレハ風害寒威堆雪ノ為メ防ゲラルルナキ推知スヘシ鷲ノ巣ニモ二戸アリ是モ同様ナリ

 一、当地ニ於テ是マテ水田ヲ試ミタルコトナシ然雖札幌地方ノ寒気トテモ害ナク且ツ同国有珠郡及前条野田生ノコトヲ以テ彼是比較スレハ掛念ナシト云フモ可ナリ

 一、用材ハ桂、椴松、楢等年々ニ伐リ出シ諸方へ輸出スレハ家屋建築ノ用材トシテ差支ナシ

 一、著手ノ上事業盛大ニ至レハ五百万坪以上ニ及フヘシ

 一、立木ハはんの木、栃、楢、柳、白楊、栗、桑、胡桃ノ類

 一、立草ハ蓬、薄、銀水引、藤袴、女郎花、蕨、独活、牛蒡、三ツ葉、山葡萄ノ類

 一、戸数十戸程、土人三十戸程

 一、産物鯡、鰯、鮭、昆布、鱒、用材

 

開拓の創業

 吉田知行らの報告を受けた徳川慶勝は、開墾事業の有望なことを認め、明治11年5月21日遊楽部の土地150万坪の無代価下付を開拓使に願い出た。この願いは、6月13日「特別ノ詮議ヲ以聞届」として許可されたのであった。この大規模地積の下付は、当時北海道における土地処分に関する成規外としての許可であり、最初の措置であったという。

 土地下付の決定によって、その年7月委員吉田知行らを現地に出発させて、道路の開削や家屋の建築など、移住者の受入体制を整えた。こうして11月営農移民第一陣として、家持15戸72人、単身者10人を移住させた。これが徳川家開墾試験場の草創であり、八雲町創基を記念すべき、比類のない組織的団体移住の初めであった。

 

八雲村の誕生

 徳川家旧家臣の組織的入植以来、開墾試験場を中心としてにわかに戸口が増加するとともに、徳川家の保護のもとに入植第二年次には、早くも開墾費の一部を割いて子弟教育のための「八雲学校」(後述教育編参照)を創設するなど、諸施設も整えられて急速な発展を遂げ、入植四年次の明治14年には、移住人総数47戸、260余名を数えるに至った。

 これよりさき明治12年3月12日徳川家では開墾試験場をもって「八雲」と称する一村の独立を開拓使に出願するところとなった。ときたまたま函館支庁では、その後の町村個々の開発状況に照らして、郡・町村の境界や呼称について相当大幅な検討を加えていた。こうして明治14年7月8日に開墾試験場はもちろん、山越内村の支郷であった遊楽部と黒岩を合わせて分離独立が認められ、ここに胆振国山越郡下「八雲村」の誕生をみたのである。しかし、戸長の単独設置は認められず、これまでの山越内村戸長が兼ねることとされたので、戸長役場の名称は「山越内村外一ケ村戸長役場」と改められ、事務は従来どおり山越内村戸長役場で執行されていた。

 

八雲村命名の由来

 一村独立の出願にあたって「八雲」の名称を挙げるに至ったのは、徳川慶勝の意向によったことは明らかであるが、その命名の起因について的確に伝える史料は残されていない。しかし、今日では須佐之男命(「日本書紀」では素戔鳴尊)が結婚のために新築する家を喜び祝うために歌ったものといわれている、

 や雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を(古事記所載)

という古歌の冒頭「や雲」から採ったものという説が通説となっている。

 なお、この歌は日本古典文学大系によると、

 夜句茂多免、伊弩毛夜覇餓岐、免磨語味爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻 (日本書紀)

 夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曽能夜幣賀岐袁 (古事記)

となっているのを例記しておく。

 ちなみに、この「や雲たつ」は、弥雲が立つの意。立つは勢いのある意で、ほめ詞(ことば)として使われた(注「日本書紀」には妻ごめに「古事記」にはつまごみにとある。意は同義)。八重垣は、幾重にもめぐらす垣。妻ごめには妻を籠(こも)らせるためとも、妻と共にとも解されているところから、慶勝のこの地の将来に寄せる深い期待が込められていたものと思われる。

 このことは、後年八雲市街地の一部に、出雲町、八重垣町(八重垣通り)などの名称が生まれたのも、この歌との深いかかわりを現しているものということができるであろう。

 なお、この村の独立や命名についての記録として、開拓移住人角田弟彦の「胆振日紀」の一節があるので次に掲げる。

 

 二十一日曇天(註明治一四年七月)

 山越内村之内黒岩、遊楽部、開墾地三ヶ所合併向後八雲村と改称すべき旨御布達有之候趣事務所より通辞あり、これは徳川開墾地を一村立として村名は八雲と唱へ度旨兼て従一位様(註徳川慶勝)より開拓使庁へ御出願相成居候処今度許可に相成しものなり、然して遊楽部、黒岩の二字をも合併せよとの御達しは望外事なり、さて八雲の二字は全く従一位様の思召より御撰出遊はされ候なり。後に移り住む人々此儀ゆめゆめおもひたかひてゆるがせにすへからすあなかしこ。

 

国・郡・村界の変更

 八雲村が現在の熱田・三杉町・大新の間を流れるハシノスベツ川をもって山越内村との村界として誕生したことにより、山越内村の区域がこれまでよりかなり縮小された。このため、村民の希望もあって明治14年7月29日の布達により、落部村と山越内村の境界を野田追川に変更され、野田生・沼尻・由追の各地が山越内村に編入された。これにより渡島国と胆振国の境界、茅部郡と山越郡の境界も同時に野田追川に変更されたのである。

 

胆振日紀

 

胆振日紀

 

八雲村徳川家農場沿革略

 明治四四年八月東宮殿下の北海道行啓に際し、侯爵徳川義親代理男爵徳川義恕が言上した「八雲村徳川家農場沿革略」は、八雲村開拓草創期の事績を伝えるとともに、徳川農場の隆盛と八雲村の発展が密接不可分な関係を示す史料であるので、これを次に掲げる。

 

 八雲村徳川家農場沿革略

 明治十年七月故祖父慶勝、北海不毛ノ土地ヲ開拓シテ聊ヵ国家ニ貢献シ、兼テ旧名古屋藩士就産ノ一途ヲ開カント欲シ、家職古田知行等ヲ派遣シ開拓使管内ニ適当ノ土地ヲ求メシム。家職等各地ヲ跋渉踏査スルコト約三箇月十月下旬帰京復命スル所アリ。是ニ於テ愈開墾事業ノ有望ナルヲ認メ明治十一年五月官ニ請フテ胆振国山越郡山越内村字遊楽部官有原野壱百五拾万坪ノ無代価下附ヲ受ク。乃同年六月諸般ノ準備ヲ整へ翌七月委員吉田知行等ヲ現地ニ先発セシメテ道路ノ開削、家屋ノ建築等各般ノ手配ヲ為サシメ、其十一月始メテ民戸ヲ之ニ移ス。全戸ノ者拾五戸、単身ノ者拾名是実ニ本場草創ノ移住人タリ。是月移住人ノ中ヨリ四名ヲ簡派シ開拓使七飯勧業試験場ニ現業生トシテ牛馬ノ取扱、西洋農具ノ使用、馬具ノ製作等ヲ実習セシメ、翌十一月ニハ農間副業奨励ノ為製鋼所ヲ設ケ、教師一名ヲ聘シ移住人一同ヲシテ就テ其法ヲ伝習セシム。是年ハ既ニ時期後レタレバ開墾作付ノ事ハ、各戸唯僅ニ大小麦、囁ロ等数畝歩ヲ播種シタルノミニテ早クモ積雪ヲ見ルニ至レリ。

 明治十二年第二回ノ移住民ヲ募集シ、全戸ノ者拾四戸、単身ノ者四名ヲ移住セシム。六月開墾費ノ一部ヲ割キ八雲小学校ヲ設立シ移住人ノ子弟ヲ収容シテ学ニ就カシム之ヲ八雲村教育機関ノ濫觴トス。

 因ニ記ス。八雲小学校ニ於テ最初ニ薫陶ノ事ニ当リシハ植松稲太ナリシガ在職久シカラズシテ明治十四年退職シ、桜井武ト其後ヲ承ケテ教鞭ヲ執り職ニ在ルコト六年、漸次校ノ面目ヲ改メ明治十九年辞職ス。現校長伊藤直太郎ハ即其後任者ニシテ勤続二十余年其ノ職ヲ奉ズルコト猶一日ノ如シ。本村ノ教育ハ戸ロノ蕃殖ニツレ次第ニ発達シテ明治四十二年末ニハ尋常高等小学校壱、尋常小学校五、教育所四、教授所参、実業補習学校弐、合計拾五、男女教員参拾参名、就学児童壱千五百七拾九人、参拾参学級ニ達セリ。

 八月慶勝嗣子義礼始メテ本場ヲ視察シ親シク移住人ニ論スルニ各其業ニ奮励スヘキヲ以テス。同月製麻教師一名ヲ官ニ請ヒ移住人ヲシテ就テ其製造方法ヲ伝習セシム。十月時任開拓使大書記官来テ開墾ノ実況ヲ視察ス。

 明治十三年二月壮年募集規則、移住人子弟分家規則ヲ定ム。八月牧牛会社ヲ設立ス。九月開拓使函館支庁勧業課ノ委嘱ヲ受ケ向フ五ヶ年間ヲ一期トシ、越後国三面川鮭魚天然種育場ノ方法ニ倣ヒ本村遊楽部川ニ於テ天然孵化ノ試験ニ従事スルコトトナル。仍テ一切ノ経費ヲ開墾費中ヨリ支出シ移住人ヲシテ看護ノ任ニ当ラシム。

 因ニ記ス。此事業タルモト勧業課員三田己蔵実況調査ノ結果、遊楽部川ノ三面川ニ酷似スルヨリ特ニ之ガ試験ヲ本場ニ委嘱シタルモノニシテ、爾後五年間移住人ヲシテ保護看守ノ住ニ当テシメ、大ニ斯業ノ発展ニ努メシガ明治十八年八雲村字砂蘭部、遊楽部、鷲ノ巣有志共同シテ一層ノ種育ヲ図リ、明治三十四年ニ至リ人工孵化ノ必要ヲ認メ茲ニ資ヲ募リ組合ヲ組織シ、天然孵化、人工孵化ノ両事業ヲ併セ行フコトトナル。其後孵化場改築等幾多ノ改良ヲ加へ、明治四十二年以後ハ壱千万粒ヲ孵化シ得ルノ設備整ヒ現在本村鮭魚孵化蕃殖組合員ハ壱百弐拾名ヲ算ス。

 明治十四年第三回ノ移住人ヲ募集シ全戸ノ者拾四戸、単身ノ者七名ヲ移住セシム。七月山越内村ノ内遊楽部及黒岩ノ二部落ヲ分離シテ八雲村ヲ置カル。同月曩ニ下附ヲ受ケタル開整地地続キニ於テ更ニ凡壱百参拾万坪追加ノ義ヲ出願シ共許可ヲ得タリ。八月義礼ノ巡視ヲ機トシ黒田開拓長官ノ来場ヲ請ヒ事務所ニ農産物及製作品ヲ陳列シ其観覧ニ供ス。長官深ク其意ヲ諒トシ拓殖ノ成績ヲ嘉トシ洋種牡牛一頭ヲ贈リ以テ授産ノ一助ト為セリ。是月蝗蟲侵害ノ勢アルニヨリ官特ニ練木大学教授ヲ派シ防禦ニ関スル講話ヲ為サシム。是年洋種胤馬壱頭ヲ官ヨリ借入レ土産馬ニ配シ以テ馬種ノ改良ヲ企テ、且麻製造所、水車各壱棟及函館・八雲間物品輸送専用ノ西洋型帆船一隻ヲ造リテ八雲丸ト命名セリ。同年又官ニ於テ水田試験ヲ行フ為官費ヲ以テ用水路開削工事ヲ施行セフル。然レドモ此水田試作ハ不幸ニシテ殆ド無効ニ終リタレドモ用水路ハ今猶依然トシテ存シ澱粉製造ノ原動力ニ利用セラレ幾多ノ水車器械ノ運転ハ皆之ガ余恵ヲ蒙レリ。

 明治十五年五月移住人補欠トシテ単身移住者六名アリ。六月害虫発生シ老幼之ガ駆除ニ努ム。九月山田内務卿ノ巡視アリ。仍テ収獲物及製作品ヲ陳列シテ一覧ニ供ス。其内真綿、生糸、麻ノ三点ヲ宮内省ニ献上ノ趣ニテ買上ゲラル。同月暴風アリ農作物ノ被害多大ニシテ秋作ハ殆ド皆無ニ帰ス。是年移住人ノ子弟及単身移住者ノ中凡ソ拾名、鷲巣耕舎トイフモノヲ設立シ開墾ニ西洋ノ農法ヲ採用ス。

 明治十六年三月委員吉田知行家令ト為リテ上京シ海部昂織之ニ代ル。七月二十八日官慶勝ニ藍綬褒章ヲ賜ヒ八雲村開墾ノ功績ヲ表彰セラル。翌八月慶勝薨シ義礼家督ヲ相続ス。

 九月二日小松官彰仁親王殿下小樽鉄道開通式御臨場ノ御途次森港ヨリ海路御台臨アリ特ニ場内ヲ御一巡ノ後事務所ニ於テ長田書記官ヲシテ令旨ヲ伝ヘシメラル。其要ニ曰ク。札幌御成ノ期既ニ切迫セラレシニモ拘ハラズ殿下ノ本場ニ臨マセラレタルハ当開墾事業ノ漸ク進歩セルヲ聞シ召サレ特ニ路ヲ抂ゲサセラレタルナリ。然ルニ今航海ノ都合ニヨリ全場ヲ緩々御巡覧アラセラルコト能ハズト雖モ其一斑ハ以テ全貌ノ美ヲ知ルニ足ル。爾今以後移住人刻苦勉励倦マズ怠ラズ、益事業ノ盛大ヲ極ムルアラバ啻ニ国家ノ為鴻益ヲ興スノミナラズ亦旧主徳川家ノ光栄ヲ増スモノアラン。諸氏能ク此意ヲ躰シ其業ヲ力メヨ。本官茲ニ殿下ノ旨ヲ承ケ代リテ一言述ブト。移住人一同深ク之ニ感激シ謹デ令旨ニ背カサランコトヲ期セリ。是年耕作物ハ干魃ニ加フルニ飛蝗ヲ以テシ為ニ非常ノ損害ヲ蒙レリ。

 明治十七年一月事務所ノ経営ニ係ル味噌、醤油製造場ヲ開始ス。五月大雨洪水耕地ニ汎濫シ被害尠カラズ。九月安易元老院議官、西太政官大書記官、官嶋農商務大書記官ノ一行来場開墾ノ実況ヲ視察ス。同月復暴雨浸水耕地ノ被害甚シ。同月委員海部昴蔵義礼ニ随ヒ欧洲へ旅行スルニヨリ片桐助作ニ代ル。是年移住人ノ子弟四五名団結シ鷲巣耕舎ト同方法ヲ以テ野田生耕舎ヲ組織セリ。又公立八雲病院ノ設立アリ。之ガ経費ハ開墾費ヨリ支弁ス。尚事務所ノ直営ヲ以テ製藍及馬鈴薯澱粉製造ノ二業ヲ起セリ。

 因ニ記ス。馬鈴薯澱粉製造事業ハ明治十五年移住人辻村勘治澱粉製造機械ヲ東京ヨリ購入シ来リテ之ヲ馬鈴薯ニ試ミタルヲ嚆矢トス。然ルニ資金不足等ノ故障ノ為終ニ中絶スルノ已ムナキニ至リシヲ是年事務所ノ直営トシテ経営スルコトトナリ角田弘業之ヲ担当シ、器械器具ヲ購入シ、水車工場ヲ造リ稍大規模ノ設計ヲ立テ製造ニ着手シタルモ、当時ニ在リテハ澱粉ノ販路甚ダ狭ク製造亦幼稚ナルヲ免カレザリキ。其後明治二十六年吉田知一、小川助次郎等水車ヲ以テ原動力ニ充ツルコトヲ企テ、之ガ製造上ニ一歩ヲ進メ第四回内国勧業博覧会ニ出品シテ有功賞牌ヲ得タリ。是ヨリ八雲片栗粉ノ名世ニ顕ハル。尋テ之ガ製造ニ従事スル者漸ク多ク、各製造方法ニ工夫ヲ凝シ川口良昌ノ如キハ幾多ノ研究ヲ重ネテ器械ニ改良ヲ加へ斯業ニ一革新ヲ与ヘタリ。カクテ明治四十三年末ノ調査ニ拠レバ製造高壱百八拾七万五千斤、此価格金拾壱万弐千五百円ニ達シ本村農産物ノ首位ヲ占ムルニ至レリ。

同年移住人中退場スルモノ四戸アリ。又養女結婚条例ヲ設ク。

 明治十八年三月本場諸制度ノ改革ヲ行ヒ移住人中前途成業ノ見込ナキモノ八戸ヲ退場帰県セシメ爾後在住者ニ対シ一切直接ノ保護ヲ与ヘザルコトニ定メ本年度ニ限リ人頭貸与米ト粟、大麦、大豆、麻ノ四種播種反別ニ対シ壱反歩ニ付金壱円宛トヲ補助シ以テ移住人ヲシテ独立自営セシムルコトトセリ。顧フニ本場創業以来茲ニ八年徳川家ノ保護ニ依リ開墾ノ成績漸ク見ルベキモノアリト雖モ農事経営ノ方法ハ直接保護ノ厚キニ狎レテ来ダ経済的発展ヲ促スニ至ラズ。従テ自主的思想頗ル幼稚ナルヲ以テ之ヲ等閑ニ附シテ自然ノ推移ニ委センカ故慶勝ノ遺志ヲ水泡ニ帰セシムルノミナラズ、併セテ報効ノ至誠ヲ空フスルニ至ランコトヲ憂ヒ片桐委員其衝ニ当リ、万難ヲ排シテ之ヲ決行シ移住人自営ノ計ヲ確立シテ本場ニ一生面ヲ開キタリ。七月成瀬正肥義礼ニ代リテ本場ヲ視察ス。是年退場者ノ補?トシテ弐戸ヲ移住セシム。又従来移住人需用ノ物品ハ事務所附属板倉ニ於テ払下ゲ来リシガ之ヲ廃シ八雲共同商会ヲ設立シ之ニ補助ヲ与ヘテ営業ヲ開始セシム。之ヲ本村ニ於ケル商取引ノ嚆矢トス。尚本場備荒貯蓄ノ方法ヲ定メ移住人ヲシテ毎戸大麦壱俵、馬鈴薯弐俵(馬鈴薯ハ壱俵拾五銭ノ割ニテ之ヲ現金ニ換フ)ヲ積立テシム。同年米沢ヨリ教師ヲ傭聘シ薄荷ノ栽培並ニ製造ヲ開始セリ。

 明治十九年五月全戸ノ者六戸、幼年者九名ヲ移住セシム。蓋シ幼年者ハ思郷ノ念比較的淡泊ニシテ移住地ヲ己ガ天地トナシ一意農耕ノ業ニ従事シ、成績良好ナルヲ以テ本年ヨリ参箇年間毎歳拾名募集ノ予定ヲ立テタリ。九月屯田兵司令長官永山少将、岩村北海道長官、時任理事官来テ開墾ノ状況ヲ視察ス。十二月八雲神社々格ヲ村社ニ列セラル。

 因ニ記ス。当社ハ明治十一年移民ノ際熱田皇太神官ノ神符ヲ請シテ之ヲ八雲小学校ノ一室ニ奉安シ移住人一同産土神トシテ祭祀シ来リシガ、明治十八年ニ至り官ノ許可ヲ得テ別ニ社殿ヲ造営シテ之ニ奉徙シ、明治二十年ニ至り更ニ熱田神官ニ出願シ御分霊ヲ受ケ、同年三月八雲神社ニ遷座ス。而シテ将来ノ維持八本場ノ内五万坪ト片桐助作寄付ノ地弐万坪トノ収入ヲ以テ之ニ充ツルコトトセリ。

 明治二十年五月幼年者八名ヲ移住セシム。六月松平義生義礼ニ代テ巡視ス。十月堀理事官来場視察ス。是年始メテ新冠御料牧場ヨリ牝馬拾五頭、牡牝馬壱頭ノ払下ゲヲ受ケ之ヲ移住人ニ配布飼養セシム。牧馬奨励ノ為ナリ。

 明治二十一年五月全戸ノ者拾四戸、幼年者七名、小作人五名ヲ移住セシム。小作人ハ愛知県ノ農家ヨリ募リシモノニテ此年ヲ以テ其移住ノ始メトス。七月義礼夫人ヲ伴ヒ来リテ実況ヲ視察シ逗留四十余日ニ及ブ。移住人中壱戸マタ退場ス。是年亦新冠御料牧場ヨリ牝馬参拾五頭ノ払下ゲヲ受ケ移住人ニ配布飼養セシム。

 因ニ記ス。牧馬ノ事業ハ明治十四年洋胤馬(農用)ヲ開拓使ヨリ借入レ之ヲ土産馬ニ配シ雑種ヲ得ント企テタルニ胚胎シ、明治二十年同二十一年新冠牧場ノ輸入ヨリ漸次馬種ノ改良行ハレ、方今北海道中有数ノ産馬地トシテ国設種馬所ヲ設置セラルルノ盛況ヲ見ルニ至レリ。本村由来天然ノ地勢牧畜ニ適シ、加フルニ此ノ如ク官ノ奨励アレバ斯業ノ前途ハ益有望ナリトス。明治四十三年ノ統計ニ拠レバ本村内ノ牛馬数牛壱百六拾弐頭、馬壱千参百参拾七頭ニ達セリ。

 是年開墾地事務所ヲ廃シ、開整地会所ヲ置キ本場ニ関スル事務ハ挙ゲテ総代ニ委嘱スルコトトシ、之ガ総監督ヲ委員片桐助作ニ委任ス。而シテ開墾費ノ支出ハ明治二十五年度限リニ止ムルコトニ決定セリ。是移住人制度ノ終期ニシテ経営方法革新ノ時期タリ。

 明治二十二年七月一日郷約発布式ヲ村社ニ挙グ。義礼代理家令海部昂蔵、郡長中村修之ニ参列ス。是本場移住人自営ノ途立チ徳川家ノ保護ヲ離レテ全ク独立シ、将来自治ノ基礎ナルニ至レルヲ以テナリ。即本場ハ茲ニ植民制度ヲ撤廃シテ小作制度ニ改メ移住人ヲシテ自主自営ノ民タラシメタリ。

 明治二十三年七月二条公爵ノ視察アリ。是年小作人五戸ヲ移住セシム。又戸長役場、警察分署、郵便局等ヲ山越内村ヨリ八雲村ニ移ス。由テ行政、警察、通信ノ諸機関茲二備ハリ従来部落的ナリシ本村ハ、面目ヲ一新シテ一大村落ヲ形成スルニ至レリ。

 明治二十四年五月小作人七戸ヲ野田生ニ移住セシム。八月義礼松平申七ト復実況ヲ視察ス。

 明治二十五年五月移住人補欠トシテ参戸ヲ本場ニ、小作弐拾四戸ヲ野田生ニ移住セシム。

 以上ハ本場創業以来十五年間ノ沿革即士族就産時代ニ於ケル事蹟ノ概要ニ過ギズ、而シテ明治三十五年四月山越内村ノ併合ニョリ八雲村ガ現時ノ如キ大ヲ成シ、尚発展ノ余地アル所以ノ経路ヲ索ヌルトキハ、殆ンド皆此就産時代ノ施設ニ胚胎セザルナキモノノ如シ。其明治二十五年末ニ於ケル植民戸数七拾六戸、人口六百弐人、作付反別四百五拾八町四反参畝拾弐歩ニシテ、創業以来支出シタル経費ノ累計金額ハ金拾六万参千弐百八拾八円余ナリ。爾後十八年ヲ経テ明治四十三年末本場ノ戸数参百拾九戸、人口壱千五百参拾壱人ニ増加シ、初年以来ノ成功地積ハ畑、牧場、山林、道路敷地ヲ合セテ弐千参百八拾五町八反六畝四歩ニ達

 終ニ臨ミ八雲村現時ノ状況ヲ概観スルニ広袤参拾七方里余、北東ハ噴火湾ニ面シ、西南山脈ヲ以テ爾志、久遠、太櫓及瀬棚四郡ニ界シ、北ハろくつ川ニ縁リテ長万部村ニ接シ、南東野四生川ヲ隔テテ渡嶋国茅部郡落部村ト相対シ、遊楽部川蜒々トシテ村ノ中央ヲ貫流ス。戸数参千余、人口壱万弐千八百余、村内ニ村役場ノ外小学校、郵便局、警察分署及五個ノ鉄道停車場ヲ有シ、墾成耕地五千壱百余町歩、農林水ノ産物毎年五拾万円ヲ下ラヌト云フ。是ニ於テカ移住人ノ精励能ク先代ノ遺志ヲシテ空シカラザラシメシヲ見ル。亦聖代光被ノ余沢ナリ。仍テ其大要ヲ記述スルコト此ノ如シ。

 

 明治四十四年四月 日

                                        正五位侯爵 徳川 義親

 

 明治十六年七月二十八日、徳川慶勝は八雲村開墾の業績に対し藍綬褒章を下賜された。

藍綬褒章の下賜

 

 日本帝国褒章之記 従一位勲二等 徳川 慶勝

明治十一年中北海道胆振国山越郡山越内村字遊楽部ノ地百五十万坪下附ノ許可ヲ得旧名古屋藩士族ヲ移シ榛莽ヲ闢キ専ラ農桑ノ業ヲ執ラシム茲ニ五年金額ヲ消費スル二万余円財本ヲ恵貸スル五万余円為ニ恒産ニ就クモノ百有余戸田ヲ得ル百余町歩遂ニ八雲ノ一村落ヲ成スルニ至ル其成績著明ナリトス依テ明治十四年十二月七日勅定ノ藍綬褒章ヲ賜ヒ其善行ヲ表彰ス

 明治十六年七月廿八曰

 奉 勅

 

 賞勲局総裁正四位勲二等 柳原前光

 元老院議官兼賞勲局副総裁従四位勲二等 大給 恒

 

 此証ヲ勘査シ第十号ヲ以テ褒章簿冊ニ登記ス

 

 賞勲局主事従五位勲五等 平井希昌

 賞勲局一等秘記官正六位勲五等 横田香苗

 

なおこのほかにも、大正七年開道五十年記念式典にあたり、本道拓殖功労者として道庁長官から追彰されている。

 

 故従一位勲二等徳川慶勝卿夙ニ本道ノ拓殖ニ貢献シ兼テ旧臣就産ノ途ヲ開カンコトヲ期シ明治十年地ヲ山越郡遊楽部ニ相シテ其下付ヲ得家職ヲ挙ケテ開拓ノ任ニ当ラシメ旧名古屋藩士ヲ移シ榛莽ヲ開キ稼穡ヲ奨メ鑿チ学校ヲ興シ各種副業ヲ設ケテ産ヲ助ケ資ヲ投スルコト七万余金遂ニ克ク其所期ヲ達成セラレ現時人口一万五千耕地五千金町ヲ有スル八雲村ヲ創成スルニ至リタルハ一ニ保護奨励ノ宜シキヲ得タルニ因ル其労効洵ニ欽仰ニ堪ヘス茲ニ開道五十年記念式ヲ挙クルニ当り其功績ヲ追彰シ為銀杯一個ヲ現代侯爵徳川義親閣下ニ贈呈シ併テ感謝ノ意ヲ表ス

 大正七年八月十五曰

 

 北浜道庁長官正門偉勲三等 俵 孫一

 

八雲村開墾地郷約の制定 

 明治11年徳川家は、八雲に開拓移民を送り込むにあたり、成功の見込みがなければ中止する音向で、極めて独創的な計画を立てて開墾地の経営に当たった。すなわち開墾地においては、開墾試験場の名目の下に委員をおき、「徳川家開墾試験場条例」を制定のうえ、これを中心にして事業の運営を図った。この条例は保護条例的な性格のもので、試験期間は二か年とされ、これに基づき移住民に対し衣食費が貸与(3年間)されることに定められていた。

 このため、入植直後の営農状況は、悪天候による凶作やいなご発生など、悪条件が重なって赤字経営が続いたものの、徳川家の補助により辛うじて生活を営むという状況であった。このような状況のため、移住民のなかには農業経営の意欲を失い、次第に退廃の兆しが現れはじめ、試験場から退場するものも出るといった実情であった。

 徳川慶勝は、こうした移住民の現状を聞いて深く憂慮し、明治16年(1883)直書を開墾地事務所に送り、訓戒を達した。

 これより先の15年に、海部昂蔵が徳川家一等家従を拝命して開墾地事務所の委員古田知行を補助するため着任し、角田弘業・角田弟彦その他の有志らと協議のうえ、開墾地の退廃した気風を一掃しようと、11月に「松葵会」を、12月に移住人全員を会員とする「攻玉会」を組織し、翌16年には「青年党」を結成して士気の高揚に努めた。しかし、一度広まった退廃の気風は容易に一掃することができず、やかを得ず試験期間を2か年延長して衣食費を貸与することとしたが、それが慣例となり明治18年まで続けられる結果となった。

 明治18年10月に片桐前作が3代開墾地委員として赴任し、極度に退廃している気風と生活状況をみて驚き、開墾地条例の一大改革を決意し、徳川家の裁可(徳川義礼欧州旅行中のため侯爵夫人登代子)を得て、移住人の自主独立を目的に、19年から条例外の補助一切を打ち切ることとした。そして将来のめどの立たないものには、旅費を与えて帰郷させ、残留者からは請書を提出させて、独立自営制度の実施を断行したのである。しかし半面、営農の基礎を固める諸施設の整備については、積極的な援助が行われた。

 こうして制度の一大改革を断行した片桐に対して、一部の移住人たちから強い不満の声も出たが、残留者は決意を新たにして自立経営達成のため、昼夜を分かたず営農に励んだ。その結果、漸次自営のめどもつき、明治21年(1888)には徳川開墾地事務所を廃して開墾地会所を置き、翌22年7月に88条からなる「八雲邨徳川開墾地郷約」を制定し、八雲神社において郷約発布式を行い、開墾地自治の礎とした。

 第貳組附

 八雲邨徳川開墾地郷約

 郷約主意書

 我徳川侯此八雲草莢地ヲ開キ我等士人ヲ移ス所以ノモノハ他ナシ当時旧藩無産ノ士族年ヲ逐フテ窮迫ニ陥ルモノ多キヲ見我侯深ク之ヲ哀憐セラレ故旧ノ情誼傍観スルノ忍ビザルノ恩慮ト我侯家ノ富貫尊栄自カラ邦家ニ尽スノ義務ナシトセズ是ニ於テカ家計ヲ節減シテ此事業ヲ興シ以テ聊カ邦家ノ恩ニ答へ故旧ヲ思フノ情誼ヲ述ベントスルノ至誠至仁ニ出ズ而シテ実ニ我等士人ヲ待遇セラルルヤ甚タ厚ク当道拓地移民ノ業ヲ興スモノ多シト雖移民ヲ遇スルノ厚キ他ニ其比例ヲ見ザル所ナリ我等士人之ニ応ジタルモノハ一意ニ勤勉倹素家産ノ基ヲ確立シ子孫長ク相伝へ此八雲村ハ我侯家ノ開ク所尾張士人ノ移リタル跡ヲ世ニ顕著ナラシメ以テ我侯家ノ恩遇ニ答ヘズンバアルベカラズ茲ニ開墾着手巳来十年ノ星霜ヲ経我々移民稍自治ノ緒ニ就クヲ得タルヲ以テ昨廿一年九月我侯家開墾地事務所ヲ廃セラレ我々移民ヲシテ漸ク自治ノ民タラシメントス此ニ於テカ我々移民此地ヲ維持スルノ法ヲ設ケザレバ一家一人ニ於テ身ヲ慎ミ家ヲ守ルト雖トモ闘墾地一場ノ不規律ョリ一場ノ体面ヲ汚シ甚ダシキハ一場ノ興廃ニ関スルコトナシトセズ因テ当初郷約ノ主意ヲ尋キ即チ爰ニ此郷約ヲ設クル所以ノモノ也

 明治廿二年七月

 八雲村徳川開墾地郷約

 第一章 移住人ノ心得

 第一条 此郷約ハ開墾地ヲ維持シ開墾地ヲ整理センガ為メニ設ケタルモノ也故ニ此規約ノ行ハルヽト否トハ開墾地ノ興廃存亡ニ関スルモノ也我々移民能ク此意ヲ体認スベキコト

 第二条 移住人ハ政府定ムル所ノ法令ヲ謹守シ及ビ我徳川家開墾条例ノ主意ニ背戻セザル様心懸クベキコト 第三条 移住人ハ日夕事業ヲ勉メ家計倹素ヲ守り以テ開懇地ヲ豊富ナラシメ開懇地ノ光栄ヲ挙クベキ様心懸クベキコト

 第四条 移住人ハ徳義ヲ重ンジ品行ヲ慎ミ漫リニ自箇ノ私利ヲ営マント欲シ開懇地ノ体面ヲ汚スコトアルベカラズ

 第五条 移住人ハ各自何ク迄モ独立ノ精神ヲ立テ自活ノ基礎ヲ定メンコトヲ心懸クルハ勿論ナレトモ亦互ニ一和親睦ヲ主トシ艱難疾病不時ノ災厄ニ遭遇スルモノアレバ相救助スベキコト

 

第二章 移住人徳川侯ニ対スル義務

 

 第六条 我侯家ノ恩恵ニ報ズルノ意ヲ表シ一ケ年一戸ニ付黒大豆小豆扁豆?豆ノ内ニテ五升ト移住人一同ヨリ遊楽部川鮭十尾トヲ毎年十二月捧呈スベキコト

 第七条 我侯家へ毎年七月十二月両度農事ノ景況詳細報告致スベキコト

 第八条 毎年一月一日開懇地監督詰所へ出頭我侯家へ新年ヲ祝スベシ

 第九条 毎年四月十五日十月十五日同上詰所へ出頭我侯家ノ安否ヲ問フベシ

 第十条 此郷約ハ我侯家ノ認可ヲ経テ実行スベキコト

 但郷釣条款中改正加除スル場合ニ於テモ同様我侯家ノ認可ヲ経ベキコト

 

第三章 役員并ニ開懇地会所ヲ設クルコト

 

 第十壱条 開懇地取締リノ為メ左ノ役員并二小使ヲ設クルコト

 一惣 代  壱 名

 一協議人  六 名

 一組 長  未定員

 

八雲邨徳川開墾地郷約

  

 

 但五戸乃至拾戸家屋配置ノ宜シキニ随ヒ組数ヲ分チ一組毎ニ壱名ヲ置ク

 一書 記  壱 名

 一小 使  壱 名

 

 第十二条 惣代人協議人組長互ニ兼務スルコトヲ得ズ

 第十三条 惣代人協議人組長ハ都テ無給タルベキコト

 但惣代当撰者ニシテ公務ノ為メ生計ヲ妨クルモノアルトキハ一ケ年金五拾円已下廿円已上ノ報労金ヲ贈ルコトアルベシ

 第十四条 書記小使ハ相当ノ給料ヲ与フベキコト

 第十五条 開墾地会所ヲ学校側ニ設ケ其合所ニ於テ役員事務ヲ取扱フベキコト

 

第四章 役員撰挙并二任期ノ事

 

 第十六条 惣代協議人ハ開墾地金場ノ投票ヲ以テ金場中ヨリ撰挙シ組長ハ各組限り投票ヲ以テ其組中ヨリ撰挙スルモノトス

 但開墾地内ニ村惣代ヲ任セランタルモノアルトキハ別ニ惣代ヲ撰マズ村惣代ヲ以テ兼ルモノトス

 第十七条 惣代協議人組長トモ撰挙投票ハ都テ開墾地会所ニ於テ役員立合ノ上開緘スルコト

 第十八条 惣代協議人組長共ニ戸主ニ限ラズ家族ノ中タリトモ披撰挙人クルヲ得ベシ

 第十九条 惣代協議人組長トモ年齢廿五年未満及ビ懲役一年以上ノ刑ニ処セラレタルモノ及ビ公費滞納者身代限リノ処分ヲ受ケ弁償ノ義務ヲ終ヘザルモノハ披撰挙権ヲ有セザルモノトス

 第二十条 撰挙権ヲ有スルモノハ丁年已上ノ戸主ニシテ地方税協議費ヲ納ムルモノニ限ルモノトス

 第廿一条 惣代人協議人組長トモ当撰ノ上ハ止ヲ得ザル事故アルニ非ザレバ之ヲ辞スルコトヲ得ズ

  但若シ止ムヲ得ザル事故アリテ之ヲ辞スルモノアルトキハ本場ノ議会ニ付シ其決議ニ随ヒ許否スベシ

 第廿二条 書記ハ惣代協議人協議ノ上之ヲ雇入ルベキコト

 第廿三条 小使ハ惣代之ヲ撰択スベキコト

 第廿四条 惣代協議人ノ任期ハ二ヶ年トシ協議人ハ壱ヶ年毎ニ其半数ヲ改撰スルモノトス但第壱期被撰人ノ半数ハ其任期一ヶ年トス

 第廿五条 組長ノ任期ハ一ヶ年トス

 第廿六条 惣代協議人組長満期解免ノモノヲ再撰スルモ妨ケナシ

 

第五章 役員責任ノコト

 

 第廿七条 惣代ハ勿論協議人組長共開墾地一場ノ栄枯盛衰利害得失ニ注目シ協議人組長ニ於テ心付キタル件ハ惣代ニ申出ツベシ

 第廿八条 惣代ハ開墾地全場ヲ整理シ組長ハ一組ヲ整理スルノ責任アルモノトス

 第廿九条 惣代ハ此郷約其他開墾地全場協議ニ由り成り立チタル制規ニ準シ事務ヲ執行スルコト

 第三十条 協議人ハ惣代ノ顧問ニ心シ及ビ之ヲ補翼スルコト

 第三十壱条 組長ハ惣代ヨリ属托スル事件アレバ之ヲ助クベキコト

 第三十二条 惣代ハ村社学校病院開墾地会所ノ維持学林保管道路橋梁修繕改築等開墾地全場公共ニ関スル事務ヲ統理スルコト

 第三十三条 惣代ハ開墾地全場ノ戸籍ヲ編製及ビ訂正スルコト

 第三十四条 惣代ハ学校病院村社ヲ初メ開墾地全場協議費ヲ以テ支弁スル出納ヲ掌り又ハ調査スルコト

 第三十五条 惣代ハ第七条徳川家へ農況報告ヲ取纏メ整頓スベキコト

 第三十六条 惣代ハ地租地方税協議費徴集ノ手続キヲ為そベシ

 第三十七条 惣代ハ官員及ヒ貴紳来場ノ節之ヲ接待スルコト

 第三十八条 書記ハ惣代ノ命ヲ受ケ事務ヲ整理スルコト

 第三十九条 惣代不在又ハ事故アリテ差支タル節ハ協議人ノ内ニテ之ヲ代理スベシ

 但協議人ノ内惣代ノ代理スベキモノ豫テ惣代協議人組長ノ投票ヲ以テ撰挙候補者ヲ定メ置クベキコト

 第四十条 組長他行又ハ事故アリテ差支タル節ハ組長其組中ノ人ヲ指名シ代理ヲ為サシムベシ

第六章 議会ノコト

 

 第四十壱条 開墾地ノ規約并ニ協議費賦課徴集金額ヲ製(ママ)定スルガ為メニ開墾地会議ヲ開クモノトス

 第四十二条 議員ハ惣代協議人組長ヲ以テ之ニ充ツ

 第四十三条 議会ハ通常会臨時会ノ二種トシ通常会ハ毎年三月之ヲ開キ臨時会ハ事ノ至急ヲ要シタル場合ニ於テ之ヲ開設ス

 第四十四条 通常会ハ惣代ニ於テ其会期ヲ定メ議員ヲ招集スルコト

 第四十五条 臨時会ハ惣代又ハ他ノ議員三分ノ一已上ノ発意ヲ以テ之ヲ開クコトヲ得ルモノトス

 但議員三分ノ一已上ノ発意ニシテ惣代へ申出惣代ニ於テ議員招集開会ノ手続キヲ怠タルコト十日已上ニ及ビクルトキハ発意者ニテ議員ヲ招集開会スルコトヲ得

 第四十六条 開墾地全場ノ経費ハ毎年通常会ニ於テ後年度ノ金額ヲ議決スルコト

 第四十七条 通常会ノ議案ハ惣代臨時会ノ議案ハ発意者之ヲ取調ルコト

 第四十八条 議会ハ三分ノ二已上ノ議員出度ナケレバ之ヲ開クコトヲ得ズ

 第四十九条 議会ノ議論二派已上ニ分レタルトキ同意者過半数ヲ以テ之ヲ決ス二説人員相同ジキトキハ議長之ヲ決ス

 第五十条 議会ニ於テ議員ノ発言ハ都テ議長ニ向ツテ之ヲ述ベシ議員互ニ討議スルヲ得ズ

 第五十壱条 議長ハ議場ヲ整理スルノ権アルモノトス

 第五十二条 通常会ノ議長ハ惣代臨時会ノ議長ハ惣代又ハ他ノ議員ニテ之ニ当ルベシ

 第五十三条 前年度経費決算等ハ惣代之ヲ取調へ後年度通常会ニ於テ之ヲ報告スベシ

 

第七章 貯蓄金穀ノコト

 

 第五十四条 十八年二月我徳川家誘導ノ主意ニ基キ取り定メタル毎年壱戸ニ付大麦十二貫目馬鈴薯二十四貫目貯蓄ノ件ハ今ヨリ向フ十ヶ年ヲ限リトシ此貯蓄金穀ヲ以テ不時ノ災厄非常ノ凶荒ニ備フベキコト

 第五十五条 貯蓄大麦二ヶ年分ハ現穀ヲ以テ蓄積シ餘ハ金ニ換へ駅逓局又ハ確実ナル銀行へ預ケ利殖ヲ図ルベシ

 第五十六条 移住人鱞寡孤独ノ身トナリ或ハ不虞(ママ)ノ災難ニ罹り其身困厄ニ陥り親戚隣保之ヲ助クルモノナキトキハ惣代協議人及ビ其組々長協議ノ上貯蓄金穀ノ内ヨリ一時又ハ日数ヲ限り救恤スベキコト

 第五十七条 前条救恤金穀一時限リノモノハ皮麦弐石乃至金五円日数ヲ限り賑恤スルモノハ一日壱人ニ付搗麦三合乃至金三銭ヲ過クベカラズ

第五十八条 非常ノ凶荒ニ際シ家ニ餘資ナク取続キ行届キ難キモノハ貯蓄金穀ノ内ヨリ一ヶ年ヲ限り貸与スベシ其方左ノ如シ

 壱等一人ニ甘皮麦壱石

 二等一人ニ付皮麦七斗

 三等一人ニ甘皮麦四斗

 第五十九条 貯蓄金穀ノ取締ハ惣代之ヲ掌り駅逓局又ハ銀行預り証ハ協議人年長者之ヲ保管スベシ

 第六十条 貯蓄金穀十九年已下ノ移住者ニシテ其蓄積年数少ナキモノハ今之ヲ補充セシメズ蓄積年限満期ノ上其不足年数ハ尚年々続イテ一年分宛蓄積セシメ補充スルニ至り止ムモノトス

 但後来移住人蓄積ノ方法亦之ニ準スベキコト

 第六十壱条 此ノ貯蓄法ニ従ハザルモノハ第五十七条第五十八条ノ救恤賑貸ヲ受ルコトヲ得ズ

 第六十二条 家貧困ニ迫り蓄積穀物ヲ納ムルコト能ハザルモノハ惣代協議人其組々長協議ノ上延期ヲ許スコトアルベシ

 第六十三条 移住人他方へ転籍スルモノアルトキハ貯蓄金穀元高ヲ割戻シ其殖益ハ分与セザルコト

 但救恤賑貸ノ為メ金穀元高ニ不足ヲ生シタルトキハ其割合ヲ以テ割戻スベキコト

 第六十四条 貯蓄金穀出納ハ惣代之ヲ取調べ毎年通常議会ニ於テ之ヲ報告スベシ

 

  第八章 開墾地取締法

 

 第六十五条 移住人ニシテ開墾地ノ内外ヲ問ハズ結婚スルトキハ豫テ惣代へ届ケ済ノ上履行スベキコト

 第六十六条 男女出生ハ三日間死去ハ即日惣代へ届ケ出ツベキコト

 第六十七条 農業ノ外新ニ他ノ業ヲ営マントスルモノハ戸主家族ノ別ナク惣代へ届ケ出テ許可ヲ受クベキコト

 第六十八条 五日已上旅行スルモノハ惣代へ届くベキコト

 第六十九条 移住人居住地内ニ他ノ出稼人ヲ住ハセ又ハ出稼人ヲ雇ヒ入ルヽ時及ビ出稼人立去り又ハ解雇ノ節ハ五日已内ニ惣代へ届ケ出ツベキコト

 第七十条 開墾地ニ飲食店湯屋業旅人宿其他開墾地全場ノ風儀ニ開スベキ業ヲ営マントスルモノアルトキハ開墾地会議ニ付シ其決議ニ随ヒ許否スベシ

 第七十壱条 移住人婦女ヲ他ニ嫁スル節結納金又ハ身代金杯ト唱へ婿家ヨリ金員ヲ要求シ売婦類似ノ所業為スベカラザルコト

 第七十二条 移住人草?地ヲ焼払ハントスル者ハ北海道庁定ムル所ノ法則ニ拠ルベキコトハ勿論ナレトモ尚ホ其地最寄組長ト惣代ノ許可ヲ受可キコト

 第七十三条 村社祭礼初公会ノ節席次ヲ定ムルコト左ノ如シ

 開墾地監督 惣代 協議人 組長 書記 病院世話係 村社年行司 学林監視人 其他年齢ノ順序ニ従フベキコト

  但学校教員病院医員村社祠掌ハ客座ニ待遇スベキコト

 第七十四条 此取締法ニ記載セザルモノニシテ旧規アルモノハ其旧規ニ拠ルベキコト

 第七十五条 後来移住人ハ此郷約ニ背カザル誓約書ヲ出サシムルコト

 

第九章 懲罰例則

 

 第七十六条 懲罰例則ハ徳ヲ傷ヒ義ヲ破り品行不正ノ徒ヲ懲戒スルヲ主トスルニ非ズ此開墾地ヲ整理スル郷約ノ進路ヲ保護センガ為ニ止ヲ得ズ設クル処ノ例則ナレバ犯則者ハ即チ郷約進路ノ妨害者ナリ故ニ厳重ニ処断セザルヲ得ズ移住人何レモ之ニ触レザル様注意スベキコト

 第七十七条 本約第六十六条第六十八条第六十九条ノ手続キヲ怠ルモノ及ヒ飲酒酩酊ノ上人ヲ欧(ママ)打セシモノ過料金壱円已下拾銭已上ヲ出サシムベシ

第七十八条 本約第六十五条第六十七条第七十二条ノ手続キヲ怠ルモノハ過料金壱円已上拾円已下ヲ出サシムベシ

第七十九条 賭博犯窃盗犯ノ刑ニ処セラレタルモノハ三ヶ月已上五ヶ年已下公会ノ席ニ列スルコトヲ許サズ村役員撰挙及ビ被撰挙ノ権ヲ剥奪ス

第八十六条 公費怠納者ハ一ヶ年已上三ヶ年已下公会ノ節末席ニ就クベキコト

第八十壱条 開墾地公共ノ金穀ヲ私ニ使用シ弁債行届カザルモノハ弁債ノ終ルマデ第七十九条同様処分ス

第八十二条 犯則者ニシテ此懲罰例則ノ処分ニ服セザルモノハ其全家皆孤立単行ノ心得ナリトシ開墾地会所ニテ其人ニ対スル一切ノ事件ヲ取扱ハザルモノトス

 但此場合ニ於テハ其人ニ当ル貯蓄金穀ヲ初メ一場共有財産ハ都テ没収スルモノトス

第八十三条 本約第七十条第七十壱条ニ背キタルモノハ第八十二条同様処分スベシ

第八十四条 此懲罰例則ニ照ラシ処分スルハ惣代協議人及ビ犯則者組合組長審議ノ上断行スベキコト

第八十五条 本約発表前ノ犯則者ハ都テ問ハザルコト

第八十六条 犯則者ノ犯跡百ヶ日已後ニ至リ発露セシモノハ不問ニ置クベキコト

 但第七十条第七十壱条ノ犯則者ハ此限ニ非ズ

第八十七条 過料金ハ備荒貯蓄金ノ内へ加入スルコト

 第十章 定款更正ノコト

第八十八条 此郷約定款ハ開墾地議会ノ決議ニ由リ更正増補スルコトアルベシ

 右十章八十八条ハ開墾地監督惣代郷約創定議員伍長審議ヲ尽シ之ヲ創定シ移住人一同々意ヲ表シ各此郷約ニ服従スベキコトヲ誓約ス即チ一同記名ツ印シテ永世ノ証トス

 明治二十二年七月

 

 第4節 三県分治時代の行政機構

 

三県分治と北海道庁

 維新直後の混迷期において、北海道開拓の事務を委任され、統治と開発に努めてきた開拓使は、他府県の例にならい「廃使置県」の処分を受けることになり、明治15年(1882)2月8日をもって廃止された。これと同時に北海道を、函館・札幌・根室の三県に分け、他府県と均一化する方向を目指すこととなった。

 しかし、その翌日には「法律規則ノ従前北海道ニ施行セサルモノハ、当分ノ内仍ホ従前ノ通タルヘシ」とされ、これまでのならわしを一挙に改正することを避ける方針をとったので、結局は他府県とは趣を異にし、植民地的性格を脱する状態ではなかった。また、2月28日三県の管轄区域は、開拓使時代の支庁の管轄区域を踏襲するものと定められたので、この地方は当然函館県の管下に属したのである。

 こうして三県は、一応他の府県と同様の地方行政を行うこととなったが、開拓使の業務は他府県に比べてはるかに広範にわたるものであったため、それらはそれぞれ関係の深い各省に割り振られて管理されることになった。しかし、工場・試験場・牧場など開拓殖産の各種事業を分割することは、いきおい新規興業を押えて景気の後退を招き、各省資金の融通も困難となり、既設事業の維持継続すら至難な状況となった。このため翌16年1月農商務省の下に「北海道事業管理局」を設置してこれに集約し統轄することにした。これがいわゆる北海道における「三県一局時代」である。

 三県一局による北海道行政の展開は、行政機構や制度が他府県に近づき、漸次拡充の傾向か見られはしたものの、総括的には北海道の実情には適せず、このまま推移するならば、北海道拓殖の大事業の成功を期することはでき得ないという、厳しい批判が生まれるに及んだ。ときあたかも、中央における内閣制度の判定をはじめ、集権的・一元的な行政機構改革を図ろうとする動向を背景として、明治19年1月早くも三県一局のすべてが廃止され、北海道庁として統一組織が設置されるところとなり、初代長官として岩村通俊が任命されたのである。

 

郡区役所の統合

 郡区役所は明治13年1月茅部山越郡役所が設置され、その後三県時代、道庁初期を通じて地方の行政事務が行われてきた。しかし、20年5月岩村長官の歳費節減と官吏定員の節減方針によって支庁が廃止され、以後道庁は地方の郡区役所と直結した行政を執行することになった。

 こうした措直により明治21年森村に設置されていた茅部山越郡役所は、亀田村の亀田上磯郡役所と合併して「亀田・上磯・茅部・山越郡役所」となり、役所を七飯村に置いてこの四郡を管轄することになった。

 

戸長役場の警察機構併設

 明治20年岩村長官は郡区長を召集しての諮問会における施政方針演説の中で、警察機構について次のようにふれた。「開拓の遅れている北海道の広野において、わずかに一集落をなすの地にも郡役所と警察署を置いてそれぞれが相対して事務をとり、照復に時間をかけ、ときには互いに職権の抵触を論じ合い譲らないものがあるなどは最低である」とし、警察官も警察の業務だけではなく、行政事務を補助することが必要であると説いた。こうしたことから、郡戸長に警察署長(警部)を兼ねさせ、郡区役所と警察署を同じ建物に併置し、郡区書記と警部補は互いに兼任するものとした。また、戸長役場は警察分署、戸長は分署長(警部補)をそれぞれ兼ね、巡査もまた行政事務を分担するという特殊な体制がつくり出されることになったのである。

 このような方針のもとに20年6月、山越内村、落部村に分署が設置され、ときの戸長三井計次郎、松本賀積がそれぞれ警部補に兼任されて分署長になった。しかし、形としては一応整ったものの、行政官と警察官相互の併任は、職権の乱用や警察官の本分を尽くせないという弊害が生じた。こうしたことから、複雑化する警察行政に対応するため、明治24年7月には道庁官制の改正により再び行政官と警察官を分離し、漸次専任警察官をおく方針がとられることになった。このため同年8月16日、山越内・八雲両村の上田戸長が分署長兼務を解かれ、専任警察官がおかれることになったのである。

 なお、落部分署はこれより先の23年4月廃止されて巡査駐在所が設置され、森分署の管轄に属していた。

 

落部村戸長役場庁舎の新築

 明治18年(1885)落部村戸長役場庁舎が村民の協力により新築された。その時の状況については、新築事業費のねん出方法について照会した郡長に対して回答した林戸長(第四代落部戸長)の文書を、当時の「函館新聞」が伝えている。

 これらによれば、この新築事業は明治16年の村内協議により、貧富・本籍・寄留の別なく各自六寸角二間長の材木一本ずつを持ち寄り、大工一人を雇い、その他の労力は出役奉仕によって実施する方針となった。しかし、たまたま翌17年には小学校の新築で多額の経費を要するため、この実施は18年に持ち越されたのである。

 18年1月4日定例の村内協議により計画どおり実施することを確認し、そのうえ、畳・建具・サクリ板・屋根まさなどの購入費用に人馬継立営業収入から30円を支出させるという予算を組んだ。こうして7月着工、11月に完成したが、最終的には70円を要し、さらに人馬継立営業収入からはその年の補助金減額などにあって、30円の予定が20円に変更され、50円の赤字を出す結果となった。

 このため、総代や組頭などが「戸長役場の義は村内一般の協有物にして戸長の手数をわずらわすものにこれなく」として協議のうえ、アイヌを含めて一戸五〇銭余の戸別割を分賦して各戸から徴収することとした。

 このことが郡役所に知れて徴収方法などについて照会があり、これに対する戸長からの回答(「戸長・親展録」北大図書館写本所蔵・落部村役場書類)が次のように提出されている。

 御所庶務科より本月七日庶第三六六号を以而当役場新築費用之義如何ナル法方(方法)を以而徴収致タルヤ申出旨照会有之侯処当役場新築費用之義者明治十六年中協議済ニ而一家六寸角長弐間之木材壱本宛持寄大工人夫等者村人足ニ而新築可(レ)致義決定致居候処昨十七年中当村小学校新築相成候ニ付本年?延期相成候趣之処毎年一月四日之義者村内一般打寄其年ニ係ルヘキ費用之予算且等級之昇格等を議定致候習貫(慣)ニ有(レ)之候ニ付本年一月四日村内協議之節前協議決定之通リ執行畳建具サクリ板家(屋)根柾等購入之費用者人馬継立営業より三拾円(是毎年之該営業より村内費用之内へ取立候例規ナリ)差出約定ニ而本年七月中新築ニ着手仕候処段々費用相嵩既ニ落成渡精算仕候得共七拾円金之費用ニ而就(レ)中人馬継立所出金も本年より保(補)助金直(値)下ケニ相成三拾円之処差出兼候趣ニ而弐拾円差出依而五拾円余之不足金相生シ候ニ付過般組頭共召換右金仕(支)出方協議為(レ)致候処戸長役場之義者村内一般之協有物ニシテ戸長之手数を煩スモノニ無(レ)之ニ付村民一統之随意ニ被(レ)為(レ)任度旨一同申出ニ付其意ニ為(レ)任置候処今般聞処ニ拠レハ戸別割を以而組頭ニ於而徴収致居候趣然ルト雖モ別段当役場へ不報(服)等を申出候者も無(レ)之候得共種々苦情等も有(レ)之哉之風聞も有(レ)之候ニ付人民へ雑話之際夫々人民景況を試候処何(レ)も不当之趣申聞候間再協議之義当役場へ申立候上再協議をも可(レ)致間右手統ニ致候而者如何哉之旨申談置候得共是又角別懸念も無(レ)之候哉何レも再協議等申出候モノモ無(レ)之依而総代人組頭へも人民不服之趣ニも相聞候ニ就而者戸別割等ニ而者他之聞も不(レ)宜ニ付再協議致候而可(レ)然義を説諭致候処総代組頭ニ於而申分ニ者数人之事ニ而一致候義者中々難義ニ而仮令等級割を以而賦課スルモ決而苦情ナシトハ難(レ)申五人三人之不報(服)者度外ニ賦シ候外無(レ)之旨申出私ニ於而者落意不(レ)致候得共独断を以而等級割等ニ相定候而者如何ナル苫情を醸候哉も難計候ニ付暫ク人民之居動を視察葛藤をも醸候も有(レ)之候節者取締可(レ)致存居候間此段上申候也

 明治十八年十一月十三日

 落部村戸長 林 久壽

 茅部郡長 櫻庭為四郎殿

 追而役場新築費戸別割之義者旧土人を不(レ)問壱戸五拾銭余之趣ニ有(レ)之候条此段及(二)申添(一)候也

こうして公有の庁舎は完成したのであるが、明治18年11月6日付の「函館新聞」は、

 「お粗末ながらも此程出来たり。是にて先づ従前の借家料を払うにも及ばざることとなれり。右移転開所式は来年の大漁まで見合せ追て施行の見込」

と報じている。

 なお、この林戸長の回答文書の中に「毎年一月四日の義……」と村の運営方法の概要にふれた記述があるが、全般的に当時の村方自治の様子を知る史料として貴重な記録である。

 

八雲村外一ヵ村戸長役場の新築

 明治14年7月「山越内村外一ヵ村戸長役場」は、開設以来旧会所の一部を充ててきたが、18年に山越内村の坂本菊松の寄付によった森警察署山越内分署の庁舎を兼用してこれに移り、山越内・八雲両村の行政事務を行ってきた。そのため、山越内村は一応の街区をなし、戸長役場をはじめ警察分署、郵便局、学校などの諸施設を整えて、主要地としての役割を果たしてきたのである。

 しかし明治20年代に入ったころには、八雲村の開発が伸展し、戸口も増加するにつれて、これらの施設が一方に偏っていて不便であるということで、23年9月15日八雲村に戸長役場庁舎を新築(現、本町八雲郵便局向かい)移転し、名称も「八雲村外一ヵ村戸長役場」と改称したのであった。

 この移転開所式に当たって、ときの戸長松本賀積が述べたとみられる祝辞の原稿が発見されているが、当時の風潮を知る貴重な史料でもあるので次に掲げる。

 祝辞

 予嘗テ之ヲ聞キタリシ・夫事ヲ処シ平ヲ取ルノ官衙其中央ニアリ、四方ニ聞クニ均シク、其管区ヲ総理スルニ便宜ノ地撰マスルハアルベカラザルコトヲ。今政府ト雖モ、地方庁ト雖モ、皆理ニ基キ、情ヲ察シ、地ヲ相テ、以テ創設セザルハナシ。况ンヤ半官半民ナルヤ戸長役場ノ如キニ於テオヤ。官夙二茲二見ルトコロアリシガ、大ニ土木ヲ起シ、此地二移サル。抑モ此地タルヤ管区ノ中央ニアリ、土地肥沃ニシテ開豁、以テ農スルニ宜シク、洋々タル遊楽部川ハ網スルニ適ス。実ニ後来有望ノ土地ト謂フモ誣言二非ザルナリ。此有望ノ土地ヲ開カントスルヤ、先ヅ其地直接ノ官衙ヲ移シ、而シテ人民ヲ導カザルベカラズ。之即開拓ノ極秘カ。土木成リ本日開場式ヲ挙ゲラル。不肖賀積将ニ耳順ニ垂ントスル齢ヲ以テ、苟モ戸長ノ任ヲ荷ヒ、此燦爛タル、此天々タル盛典ニ遭遇スルヲ得、感喜言フ所ヲ知ラズ。此幸、此栄唯老後ノ快トナサントス。雖へ明日職ヲ辞ストモ何ノ憾ミアランヤ。謹而本日ノ祝辞トス。

月  日

官名 松木賀積拝 (上磯町 松本喜久二氏蔵)

 この祝辞の文面からすれば、庁舎の建築工事は官費によったものと思われるがどうであろうか。なお、この移転には当然警察分署も伴ったのであるが、明治26年には郵便局も八雲村に移転したのをはじめ国道の開通、遊楽部橋の架橋などもあって、行政の中心は急速に八雲村に移行したのである。

 

郡役所の廃止と支庁の設置

 

 明治19年1月北海道庁設置以後も、機構の改革や拓殖をめぐって試行錯誤が繰り返されてきたのであるが、30年10月に行った北海道庁官制の改正にともない、従前の郡区役所を廃止してこれを支庁とし、支庁長の地位を高めて職務権限の拡大が図られることになった。この改正による支庁設置は、これまでの郡区役所の移行にとどまるものであったので、千島の紗那支庁を含めて全道19支庁となった。この地方ではこれまでの亀田郡外三郡役所を亀田支庁(七飯村)に改めたのをはじめ、函館区役所を函館支庁(函館区)、松前郡役所を松前支庁(福山河原町)とそれぞれ改めている。しかし、32年10月北海道区制の施行により函館・札幌・小樽の三区に区制がしかれて函館支庁が廃止されたので、亀田支庁を函館支庁と改めて事務所を函館に移し、さらに36年12月には松前支庁をこれに吸収するという経過をたどって現在の渡島支庁の原形が出来あがったのである。

落部村歴代戸長

 大正4年4月落部村は二級町村制が施行されたため、明治12年12月以来35年余にわたった戸長役場は閉鎖された。歴代戸長は次のとおりである。

 柏木幾一郎 明12・12・26〜明15・9・22

 宇津木一掃 明15・9・22〜明17・7・14

 三井計次郎 明17・7・14〜明17・12・2

 山越内・八雲村戸長と兼任

 林 久寿 明17・12・3〜明18・12・26

 松本賀積 明18・12・26〜明22・10・14

 明21・9・17〜明22・10・14 山越内・八雲村戸長と兼任

 田中吉志 明22・10・14〜明24・12・12

 近藤義門 明25・3・8〜明27・6・20

 松浦 翠 明27・6・20〜明30・1・8

 木内忠明 明30・1・8〜明32・3・14

 中山長義 明32・3・14〜明35・2・13

 中野嘉平 明35・2・13〜明35・8・8

 梁川隆平 明35・8・8〜明37・9・27

 伊藤第四郎 明37・9・27〜明38・10・9

 江夏友干 明38・10・9〜明39・11・30

 

戸長辞令書

 

 岩間勝従 明39・11・30〜大4・3・31

 

八雲・山越内両村の歴代戸長

 明治35年4月1日八雲村と山越内村の二村が合併して新たに「八雲村」と称し北海道二級町村制が施行されたため、明治12年12月以来続いた両村戸長役場は閉鎖された。歴代戸長は次のとおりである。

 三井計次郎 明12・12・26〜明14・7・26 山越内村戸長

 同 明14・7・27〜明21・9・17 山越内・八雲二ヵ村戸長(14・7・8 八雲村発足)

 松本賀積 明21・9・19〜明23・9・19(23・9・15 八雲村外一ヵ村戸長役場となる)

 上田貢三 明23・9・19〜明28・11・5(吉田藤八発令されたが赴任せず辞職した)

 丸田成之 明28・12・4〜明30・4・19

 三井計次郎 明30・4・19〜明35・4・1 引き続き八雲村長となる

 

戸口の増加

 開拓事業の伸展に伴い戸口も増加しつつあったが、特に大規模地積貸付により内陸部の農場興隆がみられるようになってからの八雲村の増加ぶりはまことに目覚ましいものがあった。

明治初期から八雲村に二級町村制が施行された直前の34年までの管内人口動態は次のとおりである。

 

管内人口動態

区分 八雲村 山越内村 落部村
年別 戸数(戸) 人口(人) 戸数(戸) 人口(人) 戸数(戸) 人口(人) 戸数(戸) 人口(人)
明治 2 (山越内村に含まる) 53 310 143 687 196 997
   12 (    〃   ) 131 722 146 797 277 1、519
   20 142 698 110 401 137 712 389 1、811
   25 191 1、262 93 697 128 756 412 2、715
   30 423 1、963 220 1、101 288 1、630 931 4、694
   34 744 4、175 325 1、794 316 1、797 1、385 7、766

 

第3章 町村制下の行政

 

 第1節 八雲村の二級町村制施行

 

北海道の町村制施行の経緯

 明治21年4月公布の「市制・町村制」では、北海道は当初から適用除外とされていた。しかし、22年の憲法発布、23年の帝国議会開設などを契機として、道民の参政権の獲得や自治制度の確立を望む声が高まりをみせるようになった。この当時の道民の立場は、一部の地域を除く兵役の免除、国税の一部免除や低税率の適用、あるいは拓殖や地方行政に対する国庫の支出などの保護措置がとられていたものの、衆議院議員の選出権、地方議会、町村自治会などへの参政権や自治権が認められない無権利状態にあったようである。

 こうした状態を打開するための運動が続けられた結果、一般府県のそれとは異なるものではあったが、明治32年の区制施行をはじめ、33年7月1日の一級町村制施行、次いで35年4月1日の二級町村制施行という経過をたどりながらも、一応の成果をみるに至った。

 なお、34年3月に北海道会法が制定公布され、8月10日第1回選挙が行われて道会が設立されるなど、ようやく北海道にも地方自治制度の基礎が築かれてきたのである。

 しかし、北海道における町村制は、旧来の町村のすべてを一、二級のいずれかに格付けするというものではなく、人口の疎密、資力の強弱など町村の実力を勘案して適当に応用するというものであったので、一、二級の区分のほかこれまでの戸長役場もまた存置されるものであると同時に、町村制適用に当たって統治上必要と認める範囲において、町村合併も強制する性質のものであった。

 

二級町村制の施行

 こうして北海道にもようやく町村制が実施され、一級町村制の施行に続いて明治35年4月1日付をもって、全道六二か町村に一斉に二級町村制が施行された。このなかで山越内村を合併して新生「八雲村」として発足するに至ったのである。

 告示は次のとおりである。

 内務省令第七号

 北海道二級町村制ハ明治三十五年四月一日ヨリ施行シ其実施地ヲ左ノ通リ指定ス。但シ数町村合併ノ分ハ現在ノ町村名ヲ大字トシテ之ヲ存ス。

 明治三十五年三月十三日

 内務大臣 男爵 内海忠勝

 町村名 八雲村  所属郡名 山越郡  区域  八雲村、山越内村

 (関係分のみ)

 これにより、従前の八雲村外一カ村戸長役場は八雲村役場となり、戸長は村長と呼ばれるとともに、議決機関として村会が設置されることとなったのである。

 なお、告示に基づき従前の村名は大字名として残され、昭和31年5月1日に字名地番が改正されるまで、長い期間にわたって用いられてきた。

 こうして書記5名、付属員3名を定員として、初代村長には前戸長の三井計次郎が任命された。収入役は村会の推薦によるものとされていたので、書記日野恭三郎が「臨時収入役職務兼掌」を命ぜられていたが、村会成立後初の会議において正式に収入役に推薦され就任した。なお、収入役は職務の性質上、身元保証金を担保するものとされ、その額は村会で80円と定められた。

 落部村については、さきにもふれたように制度そのものが町村の実情に応じた指定制であったので、大正4年4月に二級町村制施行に指定されるまで、旧制の戸長制度がそのまま適用されたのである。

 北海道二級町村制の概要は、当時の町村および町村会の立場を知るうえで参考になるが、主要な点を挙げれば次のとおりである。

 町村行政

 一、町村長、収入役、書記をおく。(助役はおかない)

 一、町村長の任免は長官、書記の任免は支庁長の権限である。

 一、収入役は町村会の推薦によって支庁長が任免する。

 一、書記の定員は長官が定め、支庁長が任免する。

 一、町村長、書記の給料・旅費は北海道地方費より支給する。

 一、町村各地区に部長をおき、その任命は支庁長である。

 町村会

 一、町村会の議員定数は四人から十二人で、任期は二年で全員改選する。

 一、町村長は町村会議長をつとめる。

 一、町村会は町村条例の制定、町村営造物の管理方法の決定、町村費支出事業についての議決権がない。

 一、町村会は軽易の事項について会議を開かず、書面の持ち回りによって議員の三分の二の合意で議決が認められる。

 

初代収入役 日野恭三郎

 

 一、町村会の議決取消処分に対して不服があっても、これの訴願を許す規定がない。

 町村会議員の選挙権、被選挙権

 一、公権を有する満二十五歳以上の男子戸主で一年以上町村に居住している者。

 一、納税額、土地所有が次のいずれかに該当する者。

 地租年額十銭以上を納入する者

 直接国税・北海道水産税もしくはその両方合せて年額五十銭以上を納入する者

 町村税平均額以上の町村税を納入する者

 耕地一町歩もしくは宅地百坪以上の所有者

 

第一期村会議員選挙

 議員の定数については、明治35年4月1日北海道庁告示第四六号をもって布達、即日施行されたが、その定数区分は、

「人口千人未満で四人、千人以上で六人、二千人以上で八人、三千五百人以上で十人、五千人以上で十二人」

を基準としたが、なお、

「町村の状況に依り四人以上十二人以下の範囲に於て之を増減することあるべし」

とするものであった。

 この規定に基づき、当時6000人弱であった八雲村は議員定数が12名と定められ、6月1日画期的な第一期村会議員選挙が、有権者361名によって役場で執行されたのである。こうして衆望を担って当選した村会議員は次のとおりである。

 杉立正義 長谷川寅次郎 井上岩記 上野盛松 竹内幸輔 鎌島秋澄 真田初五郎 吉田知一 飯沼守彦 小川助次郎 河原友二 小泉由喜麿

 この選挙に関し、

 「一、二競争アリテ或ル一名ノ落選者不満ヲ唱ヒ、支庁及道庁へ訴願シタル。成規ニヨリ裁決ヲ与ヘラレ示後ハ何等ノ異状ナク平穏ナリ。」

とし、また、

 「政党政派関係ナキヲ以テ静穏無事ニシテ毫モ軋轢ナル等ナク円満円滑ナリ」

と当時の書類は書き残している。

 

役場庁舎の独立

 二級町村制を施行した八雲村の役場庁舎は、しばらくはかつての八雲・山越内村戸長役場庁舎を使用する許可を受け、八雲警察分署と共同使用してきた。しかし、事務量の増加と吏員および警察官の増員などにより庁舎が狭くなり明治37年4月26日「役場の位置変更の件」を村会で議決し、当時いわゆる登記所に貸し付けていた村有建物(現、本町215番地)を模様替えして庁舎に充用、明治37年中に移転したのである。

 なお、村会ではそれまでの庁舎に会議室がなく、会議のつど寺院や学校を借りて会場にあてるという状況であったので、この庁舎の改造と同時に会議室12坪(約40平方メートル)を増築して、ようやく体制を整えることができたのである。

 

第二期村会議員

 草創期の自治行政に参与した村会議員の任期満了にともなう第二期村会議員選挙は、明治37年6月1日執行され、

 竹内幸輔 神谷信太郎 梶谷広登 佐久間省一 吉田知一 杉立正義 鎌島秋澄 水野照三郎 河原友二 安部祐三郎 真田初五郎 内田文三郎

の12名(再6名・新6名)が当選した。しかし、当選後間もなく、戦時応召のため支庁長の決定により資格要件を欠くものとして失職したもの(水野)、海外渡航により失職したもの(神谷)、などがあり、38年10月1日補欠選挙の結果、岡野隆麿(新)、上野盛松(元)の2名が当選した。

 

北村収入役の就任

 収入役日野恭三郎は明治38年6月病気のため辞任したので、書記北村利吉にその職を臨時兼掌させていたが、8月24日村会において補欠選挙の結果、同人が当選就任した。

 

第三期村会議員

 任期満了にともなう第三期村会議員選挙は、明治39年6月に執行され、次の12名が当選した。

 石田米次郎 井上岩記 内田文三郎 梅村多十郎 岡野隆麿 梶谷広登 鎌島秋澄 河原友二 佐久間省一 杉立正義 竹内幸輔 古田知一

 しかし、翌年4月1日一級町村制施行による選挙制度の変更にともない、これら村会議員はわずか1年足らずで全員失職となったのである。

 

木村村長の就任

 初代村長三井計次郎は、明治39年8月20日病気のため在職中死亡したため、その後任として、38年11月以来長万部村長であった木村定五郎が11月1日に任命されて着任した。

 三井計次郎は、明治12年12月26日山越内村戸長に任ぜられ、続いて14年7月27日山越内・八雲二ヵ村戸長を拝命、この間一時的ながらも落部村戸長をも兼務するなど、21年9月17日まで勤続し、その後官命により亀田郡市ノ渡外五ヵ村戸長に転出したが、30年4月19日再び八雲・山越内二カ村戸長に任ぜられ、35年4月1日二級町村制の施行により初代村長に就任、在職中死亡、退職に至ったわけである。この間、前後通算実に17年余の長きにわたり、しかも、八雲村草創の苦難に耐えて、よく地方自治の振興発展に尽くした功績は、まことに偉大であった。

 

 第2節 八雲村の一級町村制施行

 

一級町村制の指定

 明治30年「北海道国有未開地処分法」の制定を契機として、大規模地積の無償貸付が多くなるにともない、各地に多くの農場が設置され、他府県からの小作人の募集が盛んに行われるようになった。このため、34年ごろから移民が急激に増加しはじめたうえ、36年に鉄道が開通してからはますますその傾向が顕著となり、特に38年には1年間に390戸余、1700余人の増加を記録するなど、39年末には総戸数2016戸、人口1万145人に達したのである。

 こうした発展ぶりを背景として、明治40年4月1日を期して一級町村制が施行されることになったのである。

 内務省告示第二十六号

 北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通り指定シ明治四十年四月一日ヨリ施行ス

 明治四十年三月十二日 内務大臣 原 敬

 山越郡八雲村

 (ほか七飯村、森村など一四か町村省略)

 これが指定告示であるが、北海道における一級町村制の施行は、明治33年7月の一六か町村、35年4月の一か村の指定に次ぐ八雲村ほか一四か町村の二級町村からの昇格指定であって、この時点で一級町村の数は全道で三二か町村となったわけである。

 この一級町村制施行の指定は、指定時戸数で2108戸、人口1万565人という急激な町村の発展を背景として、地方自治の強化を図ったことにあるのはもちろんであるが、一面では北海道における一級町村指定を急ぎ、人件費の負担などを町村に転嫁させ、北海道地方費の負担軽減を図ろうとする政策的意図もあったといわれている。

 一級町村制の概要は、二級町村制と比較してどの程度の相違があったか、その主な点を挙げてみると次のとおりである。

 町村行政

 一 町村長、助役、収入役、書記をおく。

 一 町村長、助役は町村会で選挙し、道長官の認可を受ける。任期は四年とする。

 一 収入役は町村長の推薦により、町村会で選び道長官の認可を受ける。任期は四年とする。

 一 町村書記その他必要吏員の人数は、町村会で議決し町村長が任免する。

 一 町村の各地区に部長およびその代表者一名をおく。その任免は町村長が行う。

 町村会

 一 町村会の議員定数は、八人から二十四人で、任期は六年とし、三年毎に半数を改選する。

 一 町村会の議決事項は次のとおりとする。

 町村条例および町村規則を設定すること。

 町村費で支弁する事業。ただし、国および北海道地方費の行政事務に属するものはこの限りでない。

 歳入出予算を定めること。

 法律命令で定められたものを除く、使用料・加入金・手数料・町村税および夫役現品の賦課徴収の法を定めること。

 町村有不動産に関する権利の得失を目的とする行為をなすこと。

 基本財産および積立金穀などの処分をなすこと。

 歳入出予算で定められたもののほか、あらたに義務の負担をなし、および権利の棄却をなすこと。

 二級

 町村有財産および町村の営造物の管理方法を定めること。

 町村吏員の身元保証を徴し、ならびにその額を定めること。

 町村に係る訴訟および和解に関すること。

 その他、町村会の権職は法律命令の定めるところによる。

 町村会議員の選挙権・被選挙権

 一 公権を有する満二十五歳以上の男子戸主で、三年以上町村に居住し、町村費を納入している者。

 一 納税額、土地所有が次のいずれかに該当する者。

 地租年額四十銭以上を納入する者。

 直接国税・北海道水産税またはその両方合せて年額二円以上を納入する者。

 耕宅地三町歩以上を所有する者。

 

道庁吏員の派遣

 こうして八雲村は明治40年4月1日をもって一級町村制を施行したのであった。このため、規定に基づいて新たに村会議員の選挙、続いて村長と助役の選出を行わなければならなかった。その間、村長の就任まで何か月かの空白期間が生ずるため、規定により道庁から職務管掌として井沢一が着任した。その辞令は次のとおりである。

 北海道一級町村制第百十八条ニ依リ本年四月一日ヨリ山越郡八雲村事務取扱、茅部郡森村事務取扱ヲ命ス。

 北海道庁属 井沢 一

 明治四十年三月二十日

 ここでいう第百十八条とは第8章附則にあるもので

 「此ノ勅令ニ依リ初メテ町村会成立シ及町村吏員就職ニ至ルノ間其ノ職務并町村条例、町村規則ヲ以テ定ムヘキ事項ハ北海道庁長官ノ指命スル官吏二於テ之ヲ施行スヘシ」

というものである。

 また、第2章町村行政第九条には次のようにある。

 町村会ニ於テ町村長及助役ヲ選挙セズ又ハ其再選挙ニシテ仍認可ヲ得サルトキハ更ニ選挙ヲ行ヒ認可ヲ得ルニ至ルノ間、北海道庁長官ハ臨時代理人ヲ選任シ又ハ町村費ヲ以テ官吏ヲ派遣シ町村長及助役ノ職務ヲ管掌セシムヘシ。

 こうして道庁の井沢一が、同時に一級町村制を施行した八雲村と森村の両村の事務取扱を行い、二級町村時代の木村村長は4月1日付で一応書記として発令されるという変則期間があった。

 

村会議員の選挙

 一級町村制の施行により村会議員の定数は20名と定められ、その選挙法は「等級選挙制」といわれるもので、

 「選挙人ハ分テ二級トス、選挙人中直接町村税ノ納額多キ者ヲ合セテ選挙人総員ノ納ムル総額ノ半ニ当ルヘキ者ヲ一級トシ爾余ノ選挙人ヲ二級トス」

というものであった。また、町村会議員は、

 「任期ハ六年トシ毎三年各級ニ於テ其半数ヲ改選」

するもので、いわば現在の参議院議員選挙に類似するものであった。

 また、この選挙は連記か単記かは「適宜町村長ガ告示デ決定スル」制度であったので、この年に限り10名連記で行い上位当選者5名を任期6年、その他を任期3年とするものとし、明治40年5月31日に二級選挙、翌6月1日に一級選挙と分けて行われた。この結果、一級町村制施行後初の村会議員当選者は、

 一級

 佐久間者一 梅村多十郎 岡野隆麿 竹内幸輔 小川助次郎 平野幸三郎 杉立正義 吉田知一 川口治昌 松田就道

 二級

 樋田惣助 安藤丑太郎 松浦外之丞 平向亀蔵 安部裕三郎 村上忠八 鎌島秋澄 古沢与三郎 大竹治作 長屋有二

の各10名であったが、このうち松田就道は一身上の都合で辞職したので、6月14日再選挙により上野盛松が当選就任した。なお、このほかに3名の中途退職者があるはずであるが、該当者は不明である。

 

村長・助役の選挙

 明治40年7月2日、一級町村制施行後における最初の村会が開会され、村長に木村定五郎、助役に斉藤鉄次郎がそれぞれ選挙され、さらに収入役には日野恭三郎が議会の同意を得て就任した。

 

役場庁舎の新築

 一級町村制施行を契機に、明治40年7月役場庁舎を砂蘭部7番の4(現位置)に新築移転し、事務の集中に対処する体制を確立した。

 新庁舎は木造2階建て65坪(約214.5平方メートル)で、工費は1222円を要し、このうちの大部分である1200円は「遊楽部川鮭魚蕃殖組合」からの寄付金によるものであり、また、工事請負人は松井清松であった。

 

初代助役 斉藤鉄次郎

 

八雲村役場

 

 この庁舎は、当時としては最も近代的といわれ、以後昭和36年に老朽化のため現庁舎に改築されるまで、実に54年の永きにわたり、町の行政府の中心としてその機能を果たし、町民に親しまれたのであった。

 明治40年7月14日村民は八雲村の発展と併せて新庁舎落成の祝賀行事を盛大に催して祝福しあったのである。

 なお、このころの職員は、書記6名、書記補3名、雇1名の計10名であった。

 

明治43年定期村会議員選挙 

 半数改選の第1回選挙は、明治43年(1910)5月31日(二級)と6月1日(一級)の2日にわたって行われ、一、二級それぞれ定期改選5名のほか、補欠3名を選挙した。

 しかし、これ以後の選挙については、すべて同様であるが、選挙に関する直接的な史料が残っていないため、一、二級の区分はもちろん、場合によっては中途で辞職者があっても不明な場合があることを、あらかじめ断っておく。

 この選挙結果による改選後の村会議員は次のとおりである。

 改選 安部祐三郎 内田文三郎 河合鍋吉 川口良昌 佐久間省一 中島末吉 長屋有二 平野幸三郎 水野市兵衛 八木福太郎

 補欠 伊藤松太郎 大田半三郎 河原友二

 継続 安藤丑太郎 梅村多十郎 小川助次郎 岡野隆麿 杉立正義 樋田惣助 松浦外之丞

 このうち内田文三郎は、大正2年4月17日農会技術員として本務多忙の故をもって辞職した。

 なお、この選挙の有権者(公民)については、たまたま史料があったので掲げるが、一級では50名、二級で144名と差があり、しかも合計で194名と極めて少数に限られている。ちなみに明治35年の二級町村制時代における村会議員選挙の有権者が361名であったのに比べても相当少なく、公民としての要件のきびしさを知ることができる。

 

三役の改選

 明治44年7月2日の任期満了を控え、同年6月10日の村会において町長、助役の選挙が行われ、村長には木村定五郎が再選されたが、助役には前収入役の日野恭三郎が選挙された。この結果、木村村長は前助役の斉藤鉄次郎を収入役に推挙して議会の同意を得たが、斉藤はその後の記録(明治44年村会会議録)では収入役に就任した形跡がみられず、翌45年5月平野重次郎が収入役に補選されている。

 

大正2年定期村会議員選拳

 大正2年5月31目と6月1日の両日における村会議員の定期改選の結果は次のとおりである。

 改選 稲垣鉾三郎 上野盛松 梅村多十郎 小川助次郎 小川林之右衛門 大島 鍛 大田半三郎 岡野隆暦 樋田惣助 平向亀蔵

 補欠 石井養太郎

 継続 安部祐三郎 河合鍋吉 川口良昌 佐久間省一 中島末吉 長屋有二 平野幸三郎 水野市兵衛 八木福太郎

 このうち稲垣鉾三郎と平向亀蔵の2名は中途で退職しているが、その理由や時期などは不明である。さらに、継続者の中では安部祐三郎が大正3年8月家事の都合により辞職している。

 

河西収入役の就任

 大正5年1月収入役の平野重次郎が病気のため辞職したので、その後任として河西宗一が2月4日就任し、昭和2年2月に解職されるまで10か年にわたり在職した。

 

開拓の碑

 

大正5年定期村会議員選挙

 大正5年5月31日と6月1日の両日にわたって行われた村会議員の定期改選の結果は次のとおりである。

 改選 河合鍋吉 佐久間省一 鈴木秀明 中島末吉 長江時三郎 林 常則 林 弥吉 平野幸三郎 水野市兵衛 八木福太郎

 補欠 伊藤松太郎 平手芳太郎

 継続 上野盛松 梅村多十郎 小川助次郎 小川林之右衛門 大島 鍛 大田半三郎 岡野隆暦 樋田惣助

 

八雲村紋章設定

 八雲村における紋章の設定は、かねてからの懸案であり「曩ニ?々各位ト共ニ考慮工夫ヲ凝シ適当ナル図案ヲ選定中ナリシニ」(村会会議録)と述べられているように、関係者の間で検討を重ねられてきたが、容易に成果が得られなかった。このため、木村村長は「今回本職ニ於テ種々工夫ノ結果図ニ示ス如キ紋章を考案シタル」(同前)として、大正6年4月25日の村会に諮問し、満場一致の賛同を得て翌26日告示二六号をもって上記図柄を村紋章と定める旨を公告設定した。

 この紋章の制作意図について公式に説明する史料は残されていないので明らかではないが、語り伝えられるところによると「周囲を八重雲で囲み、中央は八雲の八の字を図案化し、その下に北海道の象徴である北極星を配した」とされている。しかし、八重雲といわれる部分の図柄は「紋どころ」であるくもの紋様をそのまま利用したものとみられ、「八雲の紋どころ」として最もふさわしいと考えて使用したのではないかとも思われるし、星形については村の永遠の発展を願う気持ちを輝く星に託すという意図があったものとも考えることもできるのである。

 

四代収入役 平野重次郎

 

八雲村紋章

 

 ともかく、こうして設定された紋章は、町制施行後も一貫して「町紋章」として愛用され今日に至っている。

 

 第3節 落部村の二級町村制施行

 

落部村の二級町村制施行

 発展が遅れがちであった落部村も次第に戸口が増加し、一村の形態を整えつつあったので、大正4年(1915)4月1日から北海道二級町村制が施行されることとなった。したがって従来の戸長役場は落部村役場となり、初代村長には一五代戸長の岩間勝従がそのまま支庁長から任命され、さらに最初の村会成立後の6月12日、収入役に白藤権寮が選任された。

 村会は議員定数が8名と定められて、5月に選挙が執行されたのである。しかし当時の関係書類がなく確認はできないが、村会議員を務めたと推察できる人は次のとおりである。

 

大正4年選出村会議員 8名

 相木国太郎 奥田庄三郎 後藤光太郎 矢野 博 宮川清次郎 森岡茂一 宮古善吉 松浦市三郎

 

大正6年選出村会議員 10名(定員増)

 相木国太郎 奥田庄三郎 後藤光太郎 宮古善吉 宮川清次郎 森岡茂一 矢野 博 松浦市三郎 佐々木徳右エ門 森井孝太郎

 

大正8年選出村会議員 10名

 相木国太郎 奥田庄三郎 後藤光太郎 宮川清次郎 宮古善吉 岩間勝従 矢野 博 森井孝太郎 松浦啓吉 羽賀才吉

 

大正10年選出村会議員 10名

 相木国太郎 後藤光太郎 宮川清次郎 宮古善吉 岩間勝従 矢野 博 柴田小三郎 羽賀才吉 加藤英示 稲垣玉次郎

 

大正12年選出村会議員 10名

 なお、公式な史料をもって確認できるのは、この年以降である。

 相木国太郎 猪子政次郎 岩間勝従 奥田耕平 後藤光太郎 野田悦太郎 羽賀才吉 長谷川栄吉 宮川清次郎 矢野 博

 

大正14年選出村会議員 大正14年6月に村会議員の改選が行われたが、定員10名に対し次の8名が当選しただけであった。

 相木国太郎 加我喜三郎 斉藤吉之丞 柴田辰次郎 矢野博 野田悦太郎 長谷川信義 宮川清次郎

 これは、他の候補者がいずれも当選に必要な法定得票数(選挙区内の議員定数をもって有効投票を除して得た数の4分の1)を得られなかったからである。このため、同年9月に補充選挙と、宮川清次郎の辞職にともなう補欠選挙が行われ、佐藤丹次郎・田中辰弥・奥田 鉾が当選した。

 

昭和2年選出村会議員 昭和2年6月の改選による当選者は次のとおりであった。

 相木国太郎 奥田 鉾 菊地富蔵 後藤光太郎 佐藤丹次郎 田中辰弥 野田悦太郎 羽賀才吉 長谷川信義 矢野 博

 なお、このうち12月1日に相木国太郎が辞職したため、翌3年5月23日の補欠選挙で斉藤吉之丞が当選した。

 

 第4節 八雲町の町制施行とその後

 

町制施行の建議

 大正4年10月開会の第6回村会において、建議者岡野隆麿、賛成者佐久間省一(初代)による「八雲村ヲ町ニ改ムルノ件」が議題となった。その提案理由は後述の意見上申書に含まれているので省略するが、村会は満場一致これを採択し、関係方面に対し意見上申書を提出することを決議した。

 さらに、この意見上申書は、議長(村長)の起草をまって可決し、これを道庁長官に提出するに至ったのである。

 こうして村の大勢は、明治35年に二級町村制施行以来13年を経て、早くも町制施行に動き出したのであるが、そのときの意見上申書が当時の村勢の概況や考え方を知る手掛かりとなるので次に掲げる。

 意見上申書

 八雲村会ハ大正四年十月十九日満場一致ノ決議ヲ以テ北海道一級町村制第六十条ニヨリ八雲村ヲ八雲町ト改ムルノ必要ニ関シ左ニ意見上申ニ及ビ候条特ニ至急何分ノ御詮議相成度候也。

 大正四年十月十九日

 北海道山越郡八雲村会議長

 八雲村長 木村定五郎

 北海道庁長官 俵 孫一殿

 記

 抑々吾八雲村ハ明治十四年八月(ママ)始メテ村名ヲ八雲ト称シ、明治三十五年四月二級町村制ヲ施行セラレ、次デ同四十年四月一級町村制実施ノ域ニ達シ、爾来開拓ノ功程年ト共ニ進捗シ、市街ノ状態亦タ漸次発展向上シ、今ヤ連亘戸数七百戸ヲ算ス。加フルニ八雲電気株式会社ノ事業開始ト共ニ一段ノ光彩ヲ添フルニ至レリ。

 而カモ村内墾成耕地八千町歩ニ及ビ農ヲ以テ主トシ、全戸数ノ三分ノニヲ占ム。経営ノ方法日ニ月ニ改善セラレ、漸次混同的集約状態ヲ示シ、永住ノ計着々確立スルヲ見ル。経済的基盤ノ鞏固ナル、又タ漁村ノ比ニアラザルヤ論ヲ俟タザルトコロナリ。

 更ニ交通ノ方面ヨリ観察スルモ、鉄道沿線タルノミナラズ、利別及太櫓ノ両道路ニヨリ瀬棚、太櫓ノ両郡ニ聯絡シ、近クパンケ道路ノ接続及爾志郡熊石ニ通ズル雲石街道完通ノ暁ニ至ラバ、本村市街ハ期セズシテ彼我物資集散ノ中心点トナリ、益々市街タルノ体面ヲ発揮スルニ至ルコト、地勢上亦タ疑ヲ容レザルトコロナリ。加之本村瀬棚間ノ軽便鉄道ハ既ニ線路ノ実測ヲ終ヘ、之レガ速成ノ請願ハ両院ノ採択セラルルトコロナリ、今ハ只起工時期ノ問題ニ属セリ。

 基礎ノ鞏固ニシテ先途更ニ光明ヲ認ムル。夫レ斯クノ如ク大ナルモノアリ。

 此ノ時ニ当リ村ヲ改メテ町ト為シ、以テ人心ヲ新ニスルアランカ。為メニ発展ノ機運ヲ促進シ得ルヤ必セリ。時恰モ曠古ノ大典タル御即位ノ礼ヲ行ハセラルルニ際シ幸ニ微衷ノ採択セラルルニ於テハ永遠不滅ノ好記念事項トシテ人心ニ与フル偉大ナル感化ハ自治ノ成果ヲ挙ゲル上ニ於テ効果ノ尠少ナラザルヲ信ジ、茲ニ意見ヲ上申スル次第ナリ。

町制の施行

 前述の意見上申以来その実現に向けて間断なく運動が続けられた結果、大正7年12月28日道庁告示で、翌8年1月1日からいよいよ村を改めて八雲町と称することとなった。

 北海道庁告示第八百八十六号

 山越郡八雲村ヲ八雲町ト改称シ大正八年一月一日ヨリ施行ス

 大正七年十二月二十八日

 北海道庁長官 俵 孫一

 町ではこれを記念して2月9日八雲神社および諏訪神社で奉告祭を執行し、さらに、2月16日には祝賀会を開催、その夜ちょうちん行列を行って町制施行を祝ったのである。

 これにより、村長木村定五郎はそのまま初代町長となり、村会議員もまた町会議員となった。

 

大正8年町会議員選挙 

 大正8年5月31日と6月1日の両日、町制施行後最初に行われた町会議員の定期半数改選により、次の10名が当選した。

 改選 安部祐三郎 梅村多十郎 川口良昌 大島 鍛 小川助次郎 大田半三郎 鈴木国次郎 谷口鉄三郎 平手芳太郎 増田鶴寿

 継続 河合鍋吉 佐久間省一 鈴木秀明 中島末吉 長江時三郎 林 常則 林 弥吉 平野幸三郎 水野市兵衛 八木福太郎

このうち安部祐三郎は、理由や時期は不明であるが、次の選挙までの間に中途辞任している。

 

大正11年町会議員選挙

 大正11年定期町会議員選挙は5月31日と6月1日の両日執行されたが、その結果は次のとおりであった。

 改選 小川乙蔵 河合鍋吉 佐久間省一 鈴木永吉 竹内辰次郎 中島末吉 林 常則 平野幸三郎(二代) 水野市兵衛 渡辺駒治

 補欠 岡島新八

 継続 梅村多十郎 小川助次郎 大島 鍛 大田半三郎 川口良昌 鈴木国次郎 谷口鉄三郎 平手芳太郎 増田鶴寿

 

宇部助役就任

 明治44年7月以来、助役として精励してきた日野恭三郎は、長万部村が大正12年4月一級町村制を施行したことにより、村長への就任要請を受けて同年12月辞職転出したので、後任助役として宇部貞太郎が選挙され同月25日に就任した。

 

大正14年町会議員選挙

 大正14年町会議員定期選挙の結果は次のとおりであった。

澗山亀三郎 八尾吉之助

 継続 小川乙蔵 河合鍋吉 佐久間省一 鈴木永吉 竹内辰次郎 中島末吉 林常則 平野幸三郎 水野市兵衛 渡辺駒治

ただし、増田鶴寿は同年10月16日病気を理由に辞職し、中島末吉は在職中死亡した。

 

収入役の汚職事件

 八雲町収入役河西宗一は、不正行為の発覚により、昭和2年2月17日旧北海道一級町村制第一一四条により解職されるという事件が発生した。現存する書類では、その不正行為がどのような内容であったかを知ることができないが、函館地方裁判所において審判の結果、同年8月25日、業務上横領と公文書偽造行使の罪により「懲役一年六月に処す」旨の判決を受け服役したという記録がある。また、これと同時にその不正費消にかかわる損害保全のため、町から提訴されていた私訴に対し「四四九五円二八銭五厘」を、町に対し弁償すべき判決が下されたという記録によって概要を知るだけである。

 この事件に端を発し、3月6日の町会では町長木村定五郎の辞職申し出に同意を与えるとともに、町会もまた、

 「今回前収入役公金費消事件ニ対シ議員トシテ監視スルコトヲ得サリシ責任ヲ感ジタルニ困ル」

として議員の総辞職を行った。もちろんこの総辞職は、当町の町村制施行以来初めての問題であり、木村町長もまた3月17日に道庁長官の認可を得て退職が確定したため、以後は宇部助役が職務代理者として町政を執行した。

 木村町長は、明治39年11月村長に就任、一級町村制施行以後は当選5回、20年余の長きにわたって町政を執行し、特に産業組合・農業倉庫の設置・種馬所の設置・庁立八雲中学校・町立家政女学校・同高等国民学校などの創設に大きな功績を残し、任期半ばの退職は大いに惜しまれたのであった。

 改選 梅村多十郎 小川助次郎 大島 鍛 岡島新八 岡部五郎 長江時三郎 幡野直次 増田鶴寿

総辞職による議員選挙

 収入役の公金費消事件に端を発した町会議員の総辞職にともなう選挙は、昭和2年6月10日(二級)、同11日(一級)の2日にわたって行われ、次の20名の新議員が誕生した。

 梅村多十郎 岡島新八 岡部五郎 川口良昌 河野与二郎 斉藤鉄次郎 佐久間省一 高木釜三郎 竹内辰次郎 長江時三郎 幡野直次 林 常則 平野幸三郎 前田 鈴 松川林四郎 澗山亀三郎 村上忠八 山本九平 吉田六蔵 渡辺駒治

 この選挙では前議員10、元議員2に対し新議員8という結果が現れ、新議員の多いのが目立った。なお、このうち河野与二郎は病気のため翌年5月24日辞職している。

 

内田町長就任

 昭和2年3月木村町長の辞職以来、空席となっていた町長の選挙は、9月8日開会の町会において行われ、内田文三郎が当選し同月17日就任した。

 こうして町会議員の総選挙の執行と新町長が誕生し、町政の執行体制も整ったのであるが、その間、町長職務代理者として事務処理を担当してきた宇部助役も、この汚職事件の監督不行届に対し責任をとって辞職を申し出、町会の同意を得て10月1日退職した。

 前収入役の解職後は、北海道庁属藤井?四郎が収入役の職務を管掌してきたが、10月12日小川乙蔵が収入役に就任、さらに、引責辞職の宇部貞太郎も10月20日助役に再選されて就任し、ここに町政の主要人事もようやく落着を見るに至ったのである。

 ちなみに、昭和2年中における町会の招集回数は、実に17回にも及び、現在に至るまで破られない最高回数を記録していることは、当時の大きな混乱を物語っているといえるであろう。

 

 第5節 八雲町創基50年祭

 

町勢の充実

 大正8年(1919)町制施行以来、世帯数2500余、人口1万6000余人を数える大町村に発展しつつあった当町も、第一次世界大戦後に訪れたでんぷん、小手芒(ぼう)など農作物価格の大暴落という農業恐慌に直面し、離農転出者が続出して人口の減少を招くこととなったのであった。

 こうした経済変動に対処しながら、産業団体の拡充強化をはじめ、乳牛導入による酪農業への転換、農業倉庫事業の開始などの施策が実を拓び、ようやく安定期を迎えたのである。また、教育面においては、大正12年北海道庁立八雲中学校の開校をはじめ、町立家政女学校や高等国民学校などが相前後して設立され、次代を担う人材の養成のための施策が積極的に講じられるなど、町勢はいよいよ充実期を迎えつつあった。

 

記念式典と功労者表彰

 昭和3年(1928)は、明治11年(1878)に旧尾張藩士が遊楽部原野に開拓のくわを入れてからあたかも50周年にあたり、町ではこれら先人の労苦をしのび、功績をたたえ、さらに躍進の契機とするため「八雲町創基50年祭」を挙行した。

 8月18日午前8時30分から八雲神社に参拝して奉告祭を行ったあと、午前10時30分から徳川侯爵をはじめ道庁長官代理内政部長細川長平・北大総長代理書記官江口重国・渡島支庁長吉村政次郎ほか官民多数参加のもとに八雲小学校で記念式典を行った。

 

八雲町制基50年記念祭(写真1)

 

 なお、この記念式典において侯爵徳川義親に対し当町開拓の功労を謝して感謝状を贈呈するとともに、多年にわたり町の自治・教育・産業などの分野で尽力した功労者の表彰を行ったが、その受彰者は次の20名であった。

 本村定五郎(自治) 梅村多十郎(自治教育) 佐久間省一(初代)(自治)

 小川助次郎(初代)(自治産業) 石川錦一郎(教育畜産) 大島 鍛(産業)

 川口良昌(自治産業) 岡野隆麿(自治) 八尾吉之助(初代)(養鶏)

 伊藤直太郎(教育) 内田文三郎(農業) 吉田知一(自治産業)

 宇部貞太郎(自治) 故 平野幸三郎(初代)(自治産業) 故 中島末吉(初代)(自治教育)

 故 三井計次郎(自治教育) 故 竹内幸輔(自治産業) 故 増子元朔(医療)

 故 杉立正義(自治産業) 故 松田就道(通信)

 

記念行事

 50年祭の記念行事は、8月15日から19日までに集中して行われた。まず物産共進会は期間中八雲小学校を第一会場とし、第二会場をワシノス会館に付設して盛大に開催、開会式は15日午後1時から、褒賞授与式は18日午後1時30分から行った。さらに17日旗行列、18日ちょうちん行列、19日には80歳以上の老人70名を迎えて敬老会を実施するなど、慶祝行事でにぎわいをみせた。

徳川農場開墾50年記念式

 町の創基と時を同じくして創業の徳川農場においては、8月17日午前11時から侯爵徳川義親および同夫人・令息令嬢・男爵徳川義恕らが参列、来賓として第七師団長渡辺錠太郎中将・道庁長官代理地方課長粟屋仙吉・北大総長代理書記官江口重国、渡島支庁長吉村政次郎・函館市長佐藤孝三郎をはじめ町村長その他数百名を招いて「徳川農場開墾50年記念式典」を挙げ、功労者47名に感謝状と三つ組銀杯を贈呈、式典を終わって大園遊会を開催し、来賓一同に記念品(銀杯)を贈って午後1時散会した。

 

創基50年当時の人口

 当町が創基50年を迎えた時点における管内の人口動態を振り返ってみると次のとおりである。

 

創基50年当時の人口表

区 分 八 雲 町 落 部 村 合  計 摘      要
年 別 戸  数 人  口 戸  数 人  口 戸  数 人 口
明治35年 1、189 6、748 328 1、801 1、517 8、549 八雲村二級町村制施行当時
〃 40年 2、108 10、565 337 2、217 2、445 12、782 八雲村一級町村制施行当時
大正 4年 2、472 14、513 512 3、396 2、984 17、909 落部村二級町村制施行当時
〃  8年 2、535 16、212 557 3、755 3、092 19、967 八雲町制施行当時
〃  9年 2、762 14、413 575 3、141 3、337 17、554 第1回国勢調査
〃 14年 2、530 13、701 555 3、233 3、085 16、934 第2回国勢調査
昭和 3年 2、533 13、729 572 3、323 3、105 17、052  


 

 第6節 新町村制への移行

 

新一・二級町村制の施行

  昭和2年8月に従来の一級町村制および二級町村制が廃止されて、新たに北海道一級町村制、同二級町村制が公布施行された。

  この改正によって、北海道の一級町村については府県町村制が準用されることになり、町村会議員の選挙権・被選挙権において納税や資産の要件が撤廃され、単に2年以来その町村の住民である25歳以上の男子は、原則として選挙権・被選挙権を持つことになるとともに、これまでの等級選挙制も廃止され、いわゆる平等選挙制となった。

 また、これと同時に一級町村では、町村長・助役・収入役の選任に関する監督官庁の認可手続きが廃止された。

 しかし、二級町村制にあっては、選挙制度において一級町村制の2年以来とされている居住要件が、1年以来と短縮されたことと、町村条例を設けまたは改廃することなど議決事項の拡大がみられたものの、大部分は従前の制度が新制度に持ち込まれていた。

 

昭和4年落部村会議員選挙

 普通平等選挙制度施行後初の落部村会議員選挙における当選者は次のとおりであった。なお、この選挙から定数が12名となり、任期は4年となった。

 相本国太郎 池田大作 奥田耕平 川村重吉 北村欣作 後藤光太郎 斉藤吉之丞 田中辰弥 野田悦太郎 羽賀才吉 長谷川信義 林政次郎

 

昭和5年八雲町会議員選挙

 普通選挙制で、しかも等級選挙制廃止による八雲町会議員の総改選挙が、昭和5年6月1日執行され、次の24名が当選した。

 

 熱田美三 石橋善左衛門 植村清記 梅村多十郎 小川伊三郎 岡島新八 岡部五郎 倉地一吉 佐久間省一 斎藤憲彰 斉藤鉄次郎 鈴木国次郎 田辺定治 高見儀三郎 中島末吉(二代) 長谷川鎰 林 常則 平野幸三郎(二代) 澗山亀三郎 前田 鈴 水野順五郎 溝口鎌太郎 米沢 勇 渡辺駒治

 なお、このときから定員は24名となり、任期はすべて4年とされたわけである。

 また、普通選挙制の実施により有権者数は飛躍的に拡大され、選挙当日の有権者は2428名と記録されている。

 

名誉職町長

  昭和6年9月16日をもって任期満了となる内田町長は、9月14目の町会において再選されたが、二期目からは名誉職町長となった。この名誉職町長の制度は、昭和2年改正公布の「町村制」の定めに、

 第六十二条 町村長及助役ハ名誉職トス

 町村ハ町村条例ヲ以テ町村長又ハ助役ヲ有給ト為スコトヲ得

という規定を受けたもので、町長については従前の「有給吏員給与ニ関スル条例」から「名誉職員給与ニ関スル条例」に移行し、報酬および費用弁償が支給されることになったのである。ただし、助役については従来どおり有給とした。

 

 昭和5年普通選挙制による町会議員総改選挙の立候補者(写真1)

 

昭和8年落部村会議員選挙

 任期満了による昭和8年6月執行の定期選挙では、次の12名が当選した。

 猪子金作 岩間勝三 掛村孫太郎 小林銀作 斉藤吉之丞 柴田重吉 関口幸吉 瀬下善一 野田悦太郎 羽賀才吉 長谷川信義 林 兵造

 

昭和9年八雲町会議員選挙

 昭和9年6月10日執行の定期選挙では、次の24名が当選した。

 相沢正之助 熱田美三 植村清記 小川伊三郎 小川四郎 小栗広一 金谷繁一 川内松三郎 倉地一吉 斉藤憲彰 斎藤鉄次郎 田辺定治 高見儀三郎 武田忠雄 中島末吉(二代) 長谷川鎰 長谷川綱治 澗山亀三郎 増田鶴寿 水野順五郎 溝口鎌太郎 八木勘市 米沢 勇 渡辺駒治

 このうち長谷川綱治は家事の都合により翌年8月21日辞職、武田忠雄は一身上の都合により12年9月17日辞職、さらに、増田鶴寿が12年2月10日、相沢正之助か13年1月28日、それぞれ衆議院議員選挙違反により失職している。

 

宇部町長就任

 昭和10年9月16日名誉職町長内田文三郎は、二期にわたり町勢の振興、産業の発展などに尽力し、大きな功績を残して任期満了により退職した。

 

四代助役 小川乙蔵(写真1)

 

七代収入役 安藤太郎(写真2)

 

 これにより同月17日、助役宇部貞太郎が当選し名誉職町長に就任した。ただし、この選挙は町会内部でかつてない激しい競争となり、9月9日選挙の結果、助役宇部貞太郎と議員増田鶴寿とが各10票ずつの同数となり、抽選によって宇部貞太郎が当選するという経緯があった。

 宇部町長就任後、助役の空席はしばらく続いたが、翌11年6月、収入役であった小川乙蔵が助役に選任され、さらに7月には後任収入役として安藤太郎が選任されて就任した。

 

 第7節 戦時体制下の町村政

 

昭和12年落部村会議員選挙

 昭和12年6月1日執行の落部村会議員選挙における当選者は次のとおりである。

 岩間勝三 加藤義春 角谷作平 佐藤菊三郎 斉藤吉之丞 関口幸吉 瀬下善一 野田悦太郎 羽賀才吉 長谷川信義 林 兵造 林政次郎

 このうち、関口幸吉が翌年6月辞任し、須藤秀吉が繰り上げ当選した。

 

昭和13年八雲町会議員選挙

 昭和13年6月10日任期満了による八雲町会議員選挙が執行され、次の24名が当選した。

 熱田美三 跡辺春吉 石橋留清 伊藤義良 小川四郎 小栗広一 金谷繁一 川内松三郎 河原常二 斉藤憲彰 斉藤鉄次郎 佐久間寅八郎 高見儀三郎 田辺定治 中島末吉(二代) 長谷川鎰 長谷川惣三郎 馬場末三郎 舟橋九右衛門 水野順五郎 溝日鎌太郎 山田虎之助 米沢 勇 渡辺駒治

 このうち、河原常二が13年7月、跡辺春吉が同年12月、田辺定治が14年5月、さらに中島末方が15年3月にそれぞれ任期中死亡し、また、山田虎之助が15年5月千葉県へ転出のため辞職している。このため、高佐嘉志蔵(13年7月)、澗山亀三郎(13年12月)、小川伊三郎(14年5月)の3名が繰り上げ当選となった。

 なお、この選挙後6月28日の初議会の日には、午前10時を期して八雲神社に集合して参拝、さらに、議場に帰って神棚拝礼のうえ、自治制50周年記念式典にかかる勅語を奉読するなど、時代をしのばせる儀式が行われた。

 

田仲助役就任

 昭和15年6月助役小川乙蔵は任期満了により退職し、その年11月田仲孝一が助役に選任された。小川乙蔵は大正11年6月から町会議員一期六か年を務めたあと、昭和2年10月収入役に就任以来三選され、任期半ばの11年6月助役に就任して一期務めるなど、地方自治の振興発展に貢献した。

 

戦時配給統制の進行

 昭和12年7月蘆溝橋事件に端を発した日中戦争のぼっ発以来、わが国は急速に戦時色が濃厚になり、国内の労働力や資源は戦争目的第一に向けられるようになり、13年4月これらを法的に統制する国家総動員法が制定された。しかし、戦争の長期化や国際関係の緊張という情勢のなかで、さらに戦時統制を一段と強化する必要に迫られたが、一方では悪性インフレが極度に進行していたので、14年9月18日国家総動員法に基づく勅令をもって価格のストップ令を発布し、その凍結を図ったのである。いわゆる9・18価格の施行であるが、物価の騰貴を押さえることはできなかった。

 さらに、国内の生活物資欠乏は一段と度を加えたため、ついに物資の配給制へと移行し、15年7月の米・砂糖・マッチをはじめとし、自由販売品は一つもないと言っても過言でないほどとなり、住民の生活は極度に悪化していったのである。

 

大政翼賛運動

 昭和15年10月内閣総理大臣近衛文麿を総裁とする「大政翼賛会」が結成され、全国に支部を設置する組織となり、11月には戸塚長官を支部長とする北海道支部が発足、道内14支庁に協力会議が設けられるとともに、更に組織は下ろされて市町村にも支部が置かれた。これにより翌年3月八雲町支部長および渡島支庁協力会議長として町長宇部貞太郎が、落部村支部長として村長辻村美矩がそれぞれ総裁から委嘱されたのである。

 この大政翼賛会は、

「東亜新秩序建設ノタメノ高等国防国家ヲ整備スルニ必要ナ強力ナ国内政治体制トシテノ国民的ナ大政翼賛組織」

と規定され、実践要綱では、

「政府ト表裏一体協力ノ関係ニタチ、上意下達・下意上達ヲハカル。」

とし、既成政党の組織と離れて行政の組織系統を中軸とし、これに諸政治勢力や、団体・有識者を組み込んで、国民生活の統制を中心的な仕事としたのである。

 翼賛会の目標とするところは、(1)国民精神の高揚、(2)国民総力戦思想のかん養、(3)経済新体制の確立、(4)国民運動に関する対策、(5)戦時国民生活の対策、(6)食糧増産対策、(7)労務充足対策、(8)増税対策、(9)中小企業整備統制令、(10)防空対策、(11)大東亜共栄圈の建設などで、これらの目標を達成するための政府に協力する機関として設立されたのである。

 しかも、大政翼賛会は機構を改めて、大日本産業報告会・農業報告同盟・大日本婦人会・大日本青少年団などの系統各種団体の組織を統合し、さらに、町内会や部落会をもその傘下におさめて翼賛運動の徹底を期したのである。

 

翼賛壮年団

 昭和17年1月北海道に翼賛運動実践の一翼を担う翼賛壮年団が発足し、「八雲町翼賛壮年団」、「落部村翼賛壮年団」が結成された。この翼賛壮年団は、大政翼賛運動の推進にふさわしいとされる人物を団員に選び、初代団長に八雲町は田仲孝一(助役)、落部村は岩間勝三が就任し、それぞれの町村の総力発揮に関する施策に協力することになったのである。こうして、生産増強のため農漁業に即した実践運動を展開した。しかし、終戦間近の20年6月、鈴木内閣のもとで国民義勇隊が結成されるに及び大政翼賛会が解散したことにより、その傘下の翼賛壮年団は当然消滅することになった。

 なお、八雲町における翼賛壮年団長は田仲孝一のあと平松慶三郎・太田正治・佐久間寅八郎が、落部村では、岩間勝三・伊藤淳一・徳田昭一が就任した。

 

翼賛選挙

 大政翼賛運動の特異なものに「翼賛選挙」があった。すなわち、太平洋戦争ぼっ発の翌17年、東条内閣は国民統制機関としての性格を強め、「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を定めて4月に行われた衆議院議員選挙をはじめ、6月10日執行の町会議員選挙は戦争完遂を目標とし、国家総力発揮の基底である地方自治の刷新強化のため、真に翼賛の責に任じ得る最適の人材を地方議会に動員する方針が強調されたのである。当町では5月17日準備委員会を開催、詮衡(せんこう)委員15名を挙げ、同月21日八雲神社において議員候補者詮衡会を開き、代表者が神前に次のような誓詞を奉読したあと24名の候補者を詮衡して推薦し、選挙に臨むという方法がとられた。

 誓詞

 一万七千町民の総意を代表し爰に私心を去り、過去に泥まず、個々の立場に捉われず、天地神明に誓って真に町会議員候補者として最適の人材を推薦し翼賛八雲町会の建設を誓い奉る。

 昭和十七年五月二十一日

 八雲町会議員候補者詮衡委員一同

 こうした経緯をもって執行された八雲町会議員の当選者は次のとおりであった。

 熱田美三 石橋留清 伊藤義良 大森藤八 岡部五郎 金谷繁一 川村与作 斉藤憲彰 坂田竹三郎 佐久間寅八郎 佐藤金一 塩野谷嘉蔵 高田冬吉 高見儀三郎 根本 正 長谷川鎰 馬場末三郎 舟橋九右衛門 松本久治 三沢正男 水野順五郎 八木勘市 横田門四郎 渡辺駒治

 このうち、馬場末三郎が同年7月死亡し、長谷川惣三郎が繰り上げ当選した。

 一方、落部村においては、村会議員の任期は戦時特例によって一か年延長されるとともに、17年7月同様な方法で落部村支部により12名の村会議員候補者が詮衡されて翼賛選挙が行われ、次の12名が当選した。

 伊藤淳一 岩間勝三 小川新七 菊地広右エ門 斉藤吉之丞 佐々木栄盛 須藤秀吉 瀬下善一 羽賀才吉 蓮井保一 長谷川信義 藤 不退

 

昭和18年地方制度の改正

 昭和18年3月20日町村制が改正公布され、6月1日から施行されることになった。その目的とするところは、時局の急迫に対して国策の浸透徹底を図る手段の強化であった。すなわち、広範複雑な国家施策の実現のため、末端行政機関である市町村行政の根本的な刷新と、高度の能率化を図ろうとするもので、市町村長の権限強化に重点がおかれていた。

 その改正の内容については詳細にふれることを省略するが、町村役場においては戦時体制の下、米穀をはじめ主要食糧や衣料その他の生活物資の配給を行うため配給係を新設した。また、戦時応召などにより一般労働力が漸次不足を来し、産業に及ぼす影響も増大したため、勤労奉仕隊や労働力の徴用などの事務を行う労務係を新設するというように、係の増設を行って対処したのである。さらに特異な点としては、昭和2年に公布された北海道一級町村制と二級町村制が廃止され、以後は全国府県の町村と同じ「町村制」が適用されることになった。しかし本道の二級町村は、二級町村制が廃止されたものの、5月に勅令「市町村制改正経過規程」および「市制町村制施行令中改正」により、新たに内務大臣の「指定町村」として二級町村制の特質をそのまま引き継いだ。したがって落部村はこの指定町村とされ、

 (1)町村長は北海道庁長官が任命する。

 (2)助役・書記は支庁長が任命する。

 (3)簡易な事件は書面もちまわりによる議決を認める。

 (4)公民の住所要件を一年に短縮する。

などという特例が依然として引き継がれたものであった。

 こうして北海道の町村制は、中央集権を強化し、地方自治の自主性を全く認めないものに変容していったのである。

 

 第8節 終戦直後の町村政

 

戦後の生活困窮

 昭和20年(1945)8月14日ポツダム宣言の受諾通告、終戦の大詔発布、次いで翌15日正午を期して天皇の戦争終結宣言が放送(玉音放送といった)され、国民に対して無条件降伏が知らされた。これによりわが国は、末端の自治住民組織を巻き込んだ、戦争完遂・本土決戦体制から解放され、急転して平和回復への道を歩み出した。8月16日には応徴者・動員学徒・女子挺身隊などの動員が解除されたのをはじめとし、30日在郷軍人会の解散など戦特色の除去とともに、灯火管制の解除・信書検閲の廃止・娯楽機関の復活など、国民生活の明朗化か進められたのである。

 しかしながら当町においては、8月18日戦時を通じて準備が進められていた大阪府戦災集団帰農者31戸、129名の受け入れをぱじめ、被災者・外地引揚者に対する住宅確保や生活の援護、職業あっせん・戦災者・復員軍人・工場離職者などの帰農に応ずるための未利用可能地の実態調査、食糧増産体制の強化と生産物の供出問題ほか、食糧緊急対策、軍放出物資の需給調整など、急変した新時代に即応する住民生活の安定確保が重要課題であった。

 特に食糧は、昭和17年食糧管理法のもとに米・麦・雑穀・でんぷん・ばれいしょ・めん類・パンなど主食および代替品のすべてが国家管理となってから、終戦までは辛うじて配給制によって住民の手に確保されていた。しかし、たまたま終戦の年の20年は、明治43年以来といわれる凶作に襲われ、さらに、朝鮮米や台湾米の輸入が途絶えて極端な不足となった。このため、大豆かすはおろかでんぷんかすなど、従来食糧としては考えられなかったものが、緊急食糧として穴埋めされたり、遅配や欠配となって、当時米の生産がなかった当町においては、住民の食糧事情が極度に悪化し、この対策は町政執行の上にも重大な問題であった。

 さらに、衣料品をはじめ生鮮食料品・調味料・酒・たばこ・その他の日用品から燃料にいたるまではなはだしい品不足のため、その欠乏は住民生活をいっそう深刻なものにしていった。

 一方、労働力が極度に払底していた戦時中には、数多くの韓国人や中共軍・国府軍の捕虜として連行された中国人が、鉄道工事などに低賃金と低給食で長時間の強制労働を課せられ、栄養失調や発疹チフス感染者などが統出し、中には死亡する者も出るという状況であった。こうしたことから、終戦と同時にこれらの不満が一挙に爆発し、団体行動によって食糧や衣服の増配を要求したり、一部には商店を襲って略奪まがいの暴挙に出るなど、治安上の不安も募るという事態もあったが、かれらは間もなく連合軍によって、一部の希望者を残して強制送還されていった。

 その後、占領軍の放出物資の増加や、国内の生産体制の再興が進むにつれて物資の出回りも22、3年ごろから好転しはじめ、食糧もまた24年12月にいも類とでんぷんの統制が解除され、以後、雑穀、麦類へと進み、平和条約発効前後には、ようやくすべての物資が円滑に出回るようになり、生活の安定期に入ったのである。

 

地方自治制度の第一次改正

 戦後改革の重大事項として取り上げられたことに、これまでの中央集権的な行政機構を廃し、地方行政の自立化・民主化を図るという地方政治の転換があった。その改革の第一段階として実施されたのが昭和21年9月制定の東京都制・府県制・市制・町村制などの改正である。このときの改正趣旨は、

 1、地方議会議員の選挙権を一般成年男女に拡張すること。

 2、リコールや議会解散および条例の制定請求など住民の直接参政の道を開くこと。

 3、地方議会の権限を強化し、また地方団体の意志の決定とその決定方法に関しては議会の決定にゆだねること。

 4、首長の選挙は住民の直接選挙によること。

 5、地方行政事務執行の公正をはかるため、選挙管理委員や監査委員の制度をもうけること。

などを柱とするものであり、新憲法に即応した新地方自治制度確立までの暫定措置ではあったが、従前の地方制度に比べると、まさしく抜本的な改正であった。

 こうして北海道に関する特例が排除され、他の一般府県と同様に扱われることになったため、昭和18年以来内務大臣の「指定町村」として特例を受けてきた「落部村」も、一般町村として取り扱われるようになったのである。

 なお、この改正町村制の実施により、町村長などにかかわる名誉職制度や条例制定および主要職員就任の認可制度が姿を消したほか、(1)町村会に正副議長をおき、(2)町村会議員選挙管理委員をおき (3)監査委員を選任するなど、一連の事務が執行され、新体制の整備が進められた。

 こうした改正に応じ町会は、21年10月9日「町会議員選挙管理委員」の選挙を行い、委員に久保田正秋・松田武策・小川乙蔵・田仲孝一の4名、同補充員に秋野大仙・鈴木永吉・長谷川惣三郎・小野瑞穂の4名を選出し、次いで11月3日初の町会議長・副議長選挙を行い、議長に渡辺駒治、副議長に佐久間寅八郎が当選して新制度に対応した。

 なお、11月18日の町会では、町会議員から長谷川鎰、学識経験者から松田武策がそれぞれ監査委員に選任同意され、一応体制が整備されたが、翌22年1月31日佐久間副議長が辞職したため2月25日に監査委員であった長谷川鎰が副議長に選挙され、後任監査委員として斉藤憲彰が選任された。

 

公職追放の波紋

 連合軍総司令部が昭和21年1月4日に発した覚書は、軍国主義者や極端な国家主義者を公職から迫放しようとする指令であり、2月には関係勅令が公布された。これは、同年4月実施の衆議院議員選挙に照準を合わせたものであったが、翌22年1月4日これを大政翼賛会・翼賛壮年団などの市町村支部役員・帝国在郷軍人会の町村の分会長などに拡大する改正公職追放令の実施となり、地方の公職に及んだのである。

 地方の公職として指定されたのは、地方長官・市町村長・都道府県市町村の議会議員・市町村助役および収入役・選挙管理委員・町内会部落会長・農地委員などが主要な公職、その他一般職員が普通公職と区分され、覚書に該当する者は主要公職から直ちに排除され、普通公職にも新たに就くことが許されないというきびしいものであった。したがって、以後公職に就く者は、この覚書に該当しない旨の確認書の交付を受けて関係書類に添付しなければならないこととされた。

 当時八雲町で覚書該当者として指定を受けたのは、軍国主義者あるいは国家主義者の有無にかかわらず、戦時大政翼賛会の八雲支部長を務めた宇部貞太郎、翼賛壮年団長を務めた田仲孝一、太田正治、佐久間寅八郎(二代省一)、在郷軍人分会長を務めた大島謹一、その他憲兵であった者数名があった。一方、落部村においては、落部支部長辻村美矩、翼賛壮年団長を務めた岩間勝三、伊藤淳一、徳田昭一などであった。

 当時公職にあった町長宇部貞太郎、助役田仲孝一らは、これらの情勢に対応し、覚書該当者としての追放確定以前の21年11月、病気を理由に相次いで退職した。また辻村美矩(20年4月渡島支庁在勤)も21年11月依願退職した。このため、主事大塚卯次郎が11月7日道庁長官から「八雲町長臨時職務代理者に選任する」旨の辞令を受け、翌年4月5日初代公選町長眞野万穣が就任するまでの六か月間その職にあったのである。また、21年11月改正町村制による町議会の正副議長選挙で、初代副議長に就任した佐久間寅八郎も翌年1月31日限りをもって一身上の都合を理由に退職している。

 この公職追放は、昭和25年秋から徐々に緩和され、田仲孝一、辻村美矩が同年10月、宇部貞太郎が26年6月などと解除が進んだが、27年4月平和条約発効によって全面的に効力を失った。

 

民主選挙のはじめ

 戦後最初に行われた選挙は、昭和21年4月10日の衆議院議員選挙であったが、これはあくまでも連合軍総司令部の指令に基づく暫定的なものにすぎず、本格的な民主選挙は、この年11月に公布された新憲法の施行にともなう新体制を確立するために行われた各級の総合選挙であった。

 新制度における選挙は、昭和22年4月5日の町長・北海道長官の公選をはじめとして、20日の参議院議員、25日の衆議院議員選挙と続き、30日には道会議員・町会議員の選挙と相次いで行われた。なお、この間の16日には長官選挙の決戦投票も行われるなど、この3月から4月にかけて世はまさしく選挙一色で塗りつぶされるの観を呈した。しかもこれらの投票当日は、駐留軍の監視付きというなかで行われ、数名の米軍軍人が投票所に立ち入り、物々しい様相であった。言葉が思うように通じないうえ、通訳がいても選挙専門用語を通訳できないため、投票管理者をてこずらせるなど、たいへんな苦労のなかで執行されたのである。

 また、地方選挙にあっては、選挙権者の年齢引き下げ(25歳から20歳に)と、婦人参政権実現の最初の選挙であると同時に、首長の公選制実現という記念すべき選挙であった。

 

眞野町長・愛山村長の就任

 昭和22年4月5日には初の民選首長選挙が行われた。

 八雲町では眞野万穣・増田鶴寿・岡部五郎の3名が立候補し、激しい選挙戦を展開したが、投票の結果は眞野万穣が2860票(有効投票の約47・3パーセント)を得て初代民選町長に就任した。なお、当日有権者数は8634人であった。

 落部村においては愛山行永と菊地重次郎が立候補し、愛山が当選した。

 さらに、同時に行われた北海道長官選挙には、6名が立候補して争ったが、法定得票数(有効投票の8分の3)を得たものがなかったため、最高点の田中敏文と次点の有馬英二との決戦投票になり、4月16日に投票が行われた結果、田中が当選して初代民選長官となり、同年5月3日地方自治法の施行によってそのまま「北海道知事」となった。

 

町村会議員選挙

 戦後初の町村会議員選挙は、昭和22年4月30日に執行された。

 八雲町会議員の定数は、人口1万人以上2万人未満の町村で26名とされていた。この定数に対し実に43名の立候補者があり、激しい選挙となった。その結果、

 大久保幸三 八木勘市 伊藤義良 元山耕作 渡辺駒治 久保田正秋 佐藤道夫 塩野谷嘉蔵 溝ロ鎌太郎 小林 清 斉藤憲彰 水元清蔵 小川四郎 成田 勇 黒川賢治 武田忠雄 鈴木善治 佐藤金一 坂田竹三郎 竹村彦治郎 長谷部俊雄 舟橋九右衛門 松本久治 伝法寺健蔵 坂本堅太郎 安井善四郎

の26名が当選し、民主議会の議席を有することになった。選挙後初の議会において正・副議長選挙を行い 議長に渡辺駒治、副議長に小川四郎を選出した。なお、この議員のうち、長谷部俊雄は東京都へ転出のため23年9月20日許可を受けて辞職している。

 また、落部村会議員の定数は、人口2千人以上5千人未満の町村で16名となったが、選挙の結果当選者は次のとおりであった。

 長谷川信義 斉藤吉之丞 大山勝悦 徳田又雄 金子弥市 松本長五郎 後藤光雄 伊藤政一 加我勝美 川口福平 奥田 鉾 宮本勝太郎 蓮井保一 佐々木栄盛 松浦定一 小川新七

 そして議長に長谷川信義、副議長に斉藤吉之丞を選挙して議会運営に臨んだ。

 なおこれらの選挙が行われた時点ては、町村制の規定により「町会」「村会」と称されていたが、22年5月3日施行となった「地方自治法」の規定に引き継がれ「町議会」「村議会」となり、議員も「議会議員」と称されるようになったのである。

 また、同時に執行された道会議員選挙には、渡島支庁管内定数5名に対し13名の候補者によって争われたが、八雲町から立候補した三沢正男(日本社会党)と渡辺駒治(国民協同党)の両名が当選し、道議会の議席を有することになった。

 

戦後初の民選による町会議員 昭和22年当選の町議会議員(写真1)

 

後列(右から)

 大塚卯次郎(助役) 塩野谷嘉蔵 成田 勇 佐藤道夫 久保田正秋 伊藤義良 安藤太郎(収入役) 小野瑞穂(主事)

中列(右から)

  鈴木善治 坂本堅太郎 竹村彦治郎 長谷部俊雄 松本久治 伝法寺健蔵 水元清蔵 黒川市松(賢治) 安井善四郎 北口 盛(主事)

前列(右から)

 佐藤金一 八木勘市 斎藤憲彰 小川四郎(副議長) 眞野万穣(町長) 渡辺駒治(議長) 溝口鎌太郎 坂田竹三郎 元山耕作 舟橋九右エ門

 

地方自治法の施行

 昭和21年11月3日新憲法が公布され、その第八章に地方自治に関する規定が設けられた。その規定はわずか四か条にすぎないが、憲法の中に地方自治の基本原則が示されたという点で、まさしく画期的なことであった。

 こうした新憲法の精神を具体化し、地方公共団体の民主的で能率的な行政の確保を図るとともに、その健全な発達を保障することを目的とした「地方自治法」が22年4月に公布され、その年5月3日憲法発効と時を同じくして施行された。これによって、東京都制・道府県制・市制・町村利か廃止されたが、この法律施行の際、現に道庁長官・市町村長・道会議員・市町村会議員などの職にある者は、この法律により選挙されたものとみなされ、その任期は選挙の日から起算することとされたのである。

 

大塚助役就任

 昭和22年6月30日、八雲町助役に大塚卯次郎が選任された。

 

自治体警察の設置

 戦後目本の民主化を進めるための重要事項の一つとして、総司令部が取り上げたものに「警察権力の徹底的地方分散」があったが、その意図を取り入れた警察法が制定されたのは、昭和22年12月のことであった。

 この警察法は、警察の責務を国民の生命・身体・財産の保護、犯罪の捜査・被疑者の逮捕・公安の維持など、警察本来の責務に限定し、公安委員会制度による民主的な警察管理方式を採用、市および人口5000人以上の市街的町村に自治体警察を維持させ、その他の町村は国家地方警察が担当するということを要点とするものであった。

 この警宗法の制定を見越した内務省は、基準を設けて自治体警察設置町村の認定作業を進めた結果、八雲町管内は自治体警察が、落部村管内は森町に設置される国家地方警察森地区警察署が管轄することになったのである。

 

六代助役 大塚卯次郎(写真1)

 

 こうして、近づく警察法の施行にともなう移行の混乱を避けるため、法の施行前の訓練試策として23年1月1日から全道一斉に新体制方式によって運営することとなった。当町でも12月27日の議会において「警察職員の任命、給与、服務その他必要な事項については、これらに関する条例を定めるの間、従前の北海道警察部の職員の例により」という旨の条例を定め、また、公安委員予定者を定めて仮任命し、予定どおり1月1目から自治体警察体制への移行に対処したのである。

 警察法は昭和23年3月7日から施行され、正式に「八雲警察署」の発足となったので、町では翌8日町議会を開催して関係諸規程と公安委員3名を決定した。この結果、1月からの訓練組織機構のまま警察長(兼署長)小林髓輝以下22名の警察吏員を任命するとともに、その維持運営を図るため公安委員に岡部五郎・大島勝世・秋野大仙の3名が選任されたのである。

 こうして設置された八雲警察署の詳細については、第6編、第1章警備の項で述べるが、26年6月の警察法の改正により住民投票の結果、その年9月30日限りをもって自治体警察を廃し、警察機構は国家地方警察に移管することになるのである。

 

八雲町課設置の変遷

 従来一科および二科制(科長はいずれも助役が兼務)であった八雲町役場の事務機構に、「課制」が導入されたのは昭和5年1月にはじまるが、その分課は総務・経理・出納の3課であり、ほとんどの事務は総務課に集中するという体制であった。その後、17年11月に総務・経済・経理の3課と改めたが、総務・経済の両課長は助役が兼務、経理課長は収入役が兼務するというもので、実質的には係主任制の延長であった。

 終戦後の20年9月には総務・産業・土木・経理の4課制、21年11月には総務・社会・産業・工務の4課制と変遷をたどったが、これらはいずれも「処務規程」の中で定められるものにすぎなかった。

 地方自治法が定められ、その第158条第7項で、

 「市町村長は、その権限に属する事務を分掌させるため、条例で必要な部課を設けることができる。」

とされてからは、課の設置は条例で定めることとされたので、23年3月26日議会の議決を経て「八雲町課設置条例」を定め、総務・教育・財政・産業・民生・工務の6課制とし、新体制が築かれたのである。

 その後、24年5月工務課が建設課に改められ、27年11月には教育委員会の発足により教育課が廃止されて5課制となり、41年4月の改正まで継続された。

 

創基70周年記念

 昭和23年(1948)は八雲町創基70周年に当たる記念すべき年であり、しかも戸口の増加も著しく、3589戸、2万111人を数え、開町以来初めて2万人を超える画期的な年でもあった。

 町では11月20日八雲小学校講堂において来賓その他400名の出席のもとに、創基70周年記念式典を盛大に挙行した。

 この記念式典では、多年当町の自治・開発に尽くした功労者に対し感謝状あるいは表彰状を贈呈したが、受賞者は次のとおりである。

 

 <感謝状を贈られた者>

 徳川 義親(開拓) 宇部貞太郎(自治)

 田仲 孝 一(自治)

 <表彰状を贈られた者>

 故大田半三郎(自治産業) 内田文三郎(産業自治)

 佐久間省一(初代)(自治) 梅村 多十郎(自治・産業・教育)

 小川 乙蔵(自治) 林  常則(自治・産業)

 米沢伊三次郎(産業) 岡島 新八(自治・文化)

 岡部 五郎(自治・衛生) 松田 武策(衛生・文化)

 渡辺 駒治(自治・産業) 八木 勘市(自治・産業)

 幡野 直次(自治・産業) 米沢 勇 (自治・産業)

 このほか永年勤続者(一般職員を含む)に対しても同時に表彰が行われた。なお、この日から3日間、祝賀会や芸能祭が盛大に催された。

 

広報紙の発行

 行政の一般周知を目的として、戦後間もない昭和23年12月、広報紙「八雲町時報」第1号を発行した゜これは謄写版刷りのものではあったが、一応、当面する町政一般について登載した。その後、24年11月から同じく謄写版刷りながら「八雲町弘報」と改題して発行し、25年4月の第5号から活版印刷となり月3回発行、各戸配布という画期的体制へ発展した。

 なお、昭和27年10月17日付の通算90号紙から「弘報やくも」と改め、さらに、32年4月17日付通算249号紙から「広報やくも」となり、34年4月通算318号から月2回発行に変更した。

 次いで43年6月通算529号紙から「こうほう八雲」と改め、44年4月通算549号紙から月刊となり、58年3月現在で通算715号となっている。

 

 一方、落部村においても、昭和6年4月役場職員若林岩雄が編集兼発行人となり「落部村報」を発刊、毎月1日定期発行し村民に配布するという記録があるが、内容および詳細については不明である。

 

 第1節 町長解職請求

 

八雲中学校校舎整備体制

 新学制の施行にともない昭和22年5月八雲中学校とその分校、すなわち、野田生・山越内・山崎・黒岩・大関・八雲鉱山の6校が設置され、さらに、翌23年4月からそれぞれ独立校となった。しかし、この間における校舎の整備や設備充実の費用は、その大部分が地域住民の寄付によって賄われたのであるが、八雲中学校もまたその例外ではなかった。

 八雲中学校は、発足当初、八雲小学校と八雲実科高等女学校の校舎に分散しての変則授業体制であったので、これを解消する独立校舎の整備促進のため、校下関係者は「八雲中学校校舎建設期成同盟会」(会長・真野町長)を組織し、整備資金の調達に乗り出したのである。

 町ではこれに呼応して、旧軍用建物2棟を借り受け、応急の模様替工事を施して校舎に充当し、第1回の卒業生を独立校舎から送り出す方針を定めた。しかし当時は、資材の全量調達が困難を極め、やむをえず1棟の模様替えを第1期工事として、23年2月ようやく施行段階を迎えるに至った。すなわち、2月7日町は、町議会土木委員会の参集(=3名)を求め、工事内容の説明を行い、12日に指名業者5社による入札執行を決め、3月未完成を期したのである。

 

工事入札の経緯

 工事の入札は予定どおり2月12日土木委員立会(=3名)のもとに役場において執行された。この入札に参加した業者は2社にとどまり、開札の結果、松原組6万3800円、北陽工業21万8000円であった。これにより、最低入札者の松原組(社長・松原勝治)に落札を告げ、予定価格の19万2000円も併せて発表し終了したのである。

 

 しかし、問題はこれから起きたのである。入札2日後の14日、町当事者によってこの落札を決めた額が、実は入札心得書に示した「北海道庁工事施行規程に依る」という趣旨に抵触するものであることが判明した。それによれば、落札額は工事の完全な執行を保証する趣旨のもとに設けた「予定価格の3分の2以上」でなければならないとする規定の額を下回わるものであって、しかも松原組の入札書は、不用意にも「10万円」の書き落としということであった。

 町の当事者は、その日急きょ土木委員の参集を求めて協議し、前記2業者の来場を求めて事情を説明のうえ、以前の入札を白紙に戻し、再入札とする旨を告げたのである。しかし、北陽工業から松原組と協議したいという申し出があり、別室で2社話し合いの結果、北陽工業が松原組の10万円書き落としを認めて再入札を棄権する旨の申し出となった。これによって、残るのは松原組だけとなり、町は最初の入札額に10万円を加えた16万3800円で、松原組との間に随意契約を締結して正式に発注する手続きを終えた。こうして工事は翌15日に着工し同月29日に完成、3月9日に工事代金のうち10万円が支払われるという経過であった。

 

議会からの監査請求

 こうした経過は一部町民の間に流布され、疑惑となって問題化し、3月8日に開催された町議会の協議会においても、大きな問題として取り上げられることとなった。

 当時の意見を要約すると、

 1、双方不落札とすべきところ、予定価格を発表したあとの再入札に同1業者を限定して参加させたこと。

 2、2業者の協議を認めたことは、談合の容認につながること。

 3、簡単に随意契約に切り替えて、しかも10万円を増額したことは疑問であり、予定価格そのものに不正があるのではないか。

という点に集中したようである。

 議会の土木委員会(委員長・渡辺駒治=議長)は、これらの問題を明朗化する意図をもって、独自の立場から3月22日7名の公述人を指名して公聴会を開催した。そしてこれまでの事情を説明するとともに公述人の意見を聴き、その状況をまとめて26日に開会された町議会に報告した。しかし、逆に土木委員会や委員長の責任問題に言及するなど、激論が展開され、ついに翌27日監査委員に対する監査請求を決議し、これによる事件の決着を図ることとなった。

 一方、27日の議会に対し八雲町青年政治研究会という団体から提出された「一部青年層の声として具申す。」という文書(文責、田中康弘と掲記)が報告されたが、この文書の一節に、

 「再入札報告書にある土木委員会という字句は虚偽である。公文書偽造ならむや」

という設問を重大ととらえた議会は、その設問の事実関係調査のため、委員7名による特別委員会(委員長・元山耕作)を組織して調査を行い、29日に次のとおり報告を行い承認された。

 1、再入札報告書と称するものなし。

 2、2月14日の工事請負に関し土木委員会記録とあるは、用語の使用に注意を欠きたるも、内容は協議会にして、虚偽又は公文書偽造の構成要素なきよう認む。

 

監査結果の承認

 議会から監査請求を受けた監査委員(坂本堅太郎・松田武策)は、調査の適正を期すため有識者の意見を聴き、さらに道庁技術職員の派遣を要請し、(1)予定価格は適当か否か、(2)工事は仕様設計書どおり出来たかどうか、などを重点に調査結果をまとめ、4月21日開会の議会に対し「出来高による工事総額は、18万6341円44銭となり不正は認められない」旨の報告がなされた。しかし、監査方法やその結果に疑問を抱き、なお再調査を求める立場に固執する議員もあっておさまらず、ついに採択の結果19対3でこの監査報告が承認されるという経過をたどり、公的にはようやく決着をみたのである。

 

町民大会の開催

 昭和23年2月の八雲中学校校舎模様替工事にともなう紛糾に端を発し、3月には八雲町青年政治研究会という団体が生まれ、前述したように町議会に対し具申書を提出し、この真相を明らかにするよう要請する行動となって現れていた。

 しかも、このときの文書で「今回の問題発生の根本原因は全く町長の行政事務に対する知識の貧困、行政手腕の欠如」と唱え、「吾々は既に町民大会を開催する準備を完了している」と付言し、問題の提起を訴えていた。したがって、監査委員による監査進行中の4月13日、八雲座を会場として町政批判演説会を開き、これを更に町民大会(代表・相沢正之助)に発展させて、

 「累積せる失政に鑑み、町将来を憂うるが故に眞野町長の退陣を要求する」

という決議を採択し、翌14日相沢正之助らは「辞職勧告の書簡」を添えて、辞職勧告の決議文を眞野町長に手交するに至った。

 しかし、町長は4月21日の町議会の席上、

 「町民の町政に対する批判があることは当然と考えるし、また正しい輿論に耳を傾けるが、一部町民の方々の指摘し攻撃されるような、引責辞職をしなければならないような失政はない。」

との所信を述べ、辞職勧告には応じられない意向を明らかにしたのである。

 

町長に対する解職請求

 町長に対する辞職勧告を拒否された相沢正之助は、4月17日選挙管理委員会に対して「八雲町長解職請求代表者証明書交付申請」を行い、即日証明書の交付を受けた。こうして、町長リコール推進派は直ちに組織を固めて署名運動を展開し、3349名の署名を集めて5月16日選挙管理委員会(委員長・小川乙蔵)に提出した。

 これを受けた選挙管理委員会では名簿照合の結果、有効署名2951名と確定し、6月11日代表者に通告した。これは、当時の選挙人名簿登録者数8405名に対し、所定の3分の1(2802)を確実に超えるものとなったため、6月15日請求代表者相沢正之助によって解職請求の手続きがとられたのである。

 こうして地方自治法第81条に定める規定により、提出された解職請求は、

 1、現町長は地方自治法第147条、第148条による資格、能力なきものと認める。

 2、重要物資需給調整法を無視し、豊漁再生産に支障をもたらしている。

 3、町民の声に耳をおおうている点が多く見受けられる。

の3項目を要点として理由に上げ、

 「八雲町民の利益擁護のため、八雲町発展のため現町長は不適格として解職を請求する。」

というものであった。

 これに対して眞野町長は7月4日、

 「一部の不正確な情報を針小棒大化して反対せんがための反対理由をデッチ上げたもの」

と述べ、

 「解職されるような失政も落度もない。」

と断ずる弁明書を発表し、全面的にこれと対決する姿勢を示した。

 解職に対する賛否両派は、20日間にわたって論戦・運動を展開し、7月15日の賛否投票にもつれこんだのであるが、投票の結果は、解職反対2754票に対し、賛成2079票となり、眞野町長の信任が確定した。投票状況は極めて低調で、当日有権者7884名に対し、投票率は62.8パーセントにとどまるものであった。

 

議長不信任議決への波及

 町長リコール問題は、議会内部においても解職賛成派と反対派に勢力を2分し、激しい論争が交わされて大きなしこりを生み、リコールの進行とともに議長不信任問題の発生へと波及した。

 すなわち、リコール賛成の立場をとった渡辺議長の行動について、批判を集めたリコール反対派議員佐藤道夫ほか15名は、住民投票にかかる運動が展開中の7月17日、連署して眞野町長に対し「議長不信任案上程の件」を議題とする臨時会の招集請求の手続きをとったのである。

 これを受けた理事者によって招集された臨時町議会は、7月20日開会されたが、激しい論争のすえ採択の結果、16対6をもって原案可決となり「議長不信任」が決議された。しかし、渡辺議長およびこれに反対する議員は、

 「地方自治法中には、議長又は副議長に対する不信任議決に対して、法律上の効果を附与した規定はない。」

として、不信任議決を受け入れる意志はなく、以後も引き続き会議を司会しようとしたため、議会運営は混乱に混乱を重ねたが、双方が歩み寄って1時休戦の形ながらこれが収拾されたのは10月19日のことであった。この件が正式に決着をみたのは、26年3月10日に議長自己の意志による辞職と、不信任議決取り消し両案の同時議決による収拾策であった。

 

住民による監査請求と結果

 昭和23年4月21日議会の請求による監査結果報告が承認され、また、7月25日に行われた住民投票によって眞野町長の信任が確定したのであるが、八雲中学校校舎模様替工事の不正を信ずる一部町民はなお治まらず、8月16日天羽儀三二を請求代表者として「監査請求代表者証明書交付申請書」が監査委員に対して提出された。

 しかし、監査委員は当該事件に関しては既に監査報告済であることと検察当局において調査中であることを理由として却下を主張、請求人はその理由なしとして、約2年間にわたって紛糾が続いたが、25年7月の監査委員の回答を最後に交渉が途絶え、ついに自然決着となった。

 ことの正否はともかくとして、地方自治法施行直後に発生した特異な事件であった。

 

 第10節 町村合併まで

 

田仲町長の就任

 昭和26年4月23日に行われた町長選挙には、眞野万穣・増田鶴寿・田仲孝一の3名が立候補して争われたが、田仲孝一が4976票を得て当選し、民選首長2代目、通算5代目の町長に就任した。

 なお、これにより眞野万穣は一期4年でその職を去ったわけであるが、終戦直後の混乱期にあって、外地引揚者や復員者の受け入れ、就業、住宅などの問題をはじめ新制中学の発足準備、都市計画地域の指定問題に対処した。特に公民館の開設や町民体育大会の実施など社会教育の充実に努力し、また、広報紙を発行して町政周知の手段を講ずるなど、数多くの事績を残した。

 なお、同日行われた落都村長選挙では、愛山行永と岩村金太郎が立候補したが、愛山が当選して引き続き村政を担当することとなった。

 

議員定数削減条例の制定

 昭和25年の第7回国勢調査による八雲町の人口は2万525人となった。これを基礎とすれば、26年4月に執行される町議会議員の議員定数は、地方自治法の規定により30名となることになった。しかし、人口がわずかに2万人を超えるにとどまる状態であり、過去における議会運営の実績に照らしても、現行の26名で行政の運営になんら支障がないという判断をもって、理事者および議会の意見が一致した。そこで、2月27日「八雲町議会議員定数条例」を議決し、その定数を「26名」とし、4月23日執行の一般選挙の日から施行することとした。

 

昭和26年地方選挙

 町長選挙と同時に行われた町議会議員選挙には、36名が立候補し、26の議席をめぐって争われたが、当選者は次のとおりであった。

 八木勘市 黒川市松(二代) 相沢正之助 西亦治信 森 喜一 島崎蒸太郎 坂田武則 池野辰巳 林 惣一 小川四郎 久保田正秋 佐藤金一 溝ロ鎌太郎 長谷川鎰 水野順五郎 坂本堅太郎 竹村彦治郎 鈴木善治 佐藤九右エ門 伊藤義良 小林 清 大久保幸三 佐藤数馬 元山耕作 松本久治 後藤健造

 改選後初の議会は5月2日開会され、議長に小川四郎、副議長に久保田正秋を互選した。

 なお、落部村議会議員の選挙では、

 長谷川信義 佐々木栄盛 蓮井保一 小川新七 大山勝悦 松浦定一 斉藤吉之丞 川口福平 徳田又雄 佐々木孫治郎 知野金一 吉崎芳造 藤 不退 関ロ幸太郎 神戸秀男 佐々木信秋

の16名が当選し、議長に斉藤吉之丞、副議長に長谷川信義が就任した。

 また4月30日行われた道議会議員選挙には、当町から立候補した三沢正男が再選された。

 

官公衙諸団体等連絡協議会

 昭和26年5月「八雲町官公衙諸団体等連絡協議会」が結成された。この協議会は町内に事務所・事業所を有する各官公衙・諸団体・主要会社の長が、相互に理解を深め、提携を強化して協力一致、八雲町の総合開発を推進しようとするもので、会長に渡辺駒治を選出し、その目的に沿って随時協議会を開催して効果を上げつつあった。しかし時日の経過につれて次第に開催回数も少なくなり、いつのころからか自然解消の形となったのが惜しまれる。

 

教育行政の独立

 教育行政の民主化、地方分権、一般行政からの独立をねらいとする「教育委員会法」は、昭和23年7月に公布され、都道府県の教育委員会がその年11月に発足した。しかし、市町村教育委員会については、特例により27年11月1日を期して施行されることになったので、10月5日教育委員の選挙を執行するなど、準備段階を経て体制を整え、教育行政の執行機関として発足したのである。

 

創基75周年記念

 八雲町創基75周年を記念する祝賀行事は、昭和28年9月11日から4日間にわたって繰り広げられた。

 まず記念式典は敬老会を兼ね、9月11日八雲高等学校東校舎講堂において、75歳以上の高齢者を招いて盛大に行われた。さらに、郷土展示会が八雲小学校を会場として4日間にわたって開催され、町民の大きな関心を集め好評を博したが、この展示会は、農畜林産・商工鉱産・美術・生花・郷土写真・生活・衛生・児童生徒作品・消防などの各般にわたるほか、バザーや映画なども添えられ、各官庁・団体・会社・その他一般の絶大な協力を得たものであった。なお、往時をしのび将来を語る郷土振興座談会は、町元老、各層代表者を集めて9月13日黎明館で開催された。

 また、この行事と併せて消防創設ならびに鉄道開通の50周年記念行事も盛大に行われた。

 

優良町村として受賞

 昭和29年1月29日八雲町は優良町村として全国町村会から表彰を受けた。この表彰の内容とするところは、(1)財政の確立、(2)納税成績、(3)役場事務機構の整備、(4)町内各種団体関係方面の円満、(5)公民館活動、社会教育の成果、(6)酪農経営の合理化、などが挙げられており、これらが次の表彰文に集成されたのである。

 

 表彰状

 北海道山越郡八雲町

 協同緝睦地方自治の本義に徹して治績見るべきものがある。

 仍て茲にこれを表彰する。

 昭和二十九年一月二十九日                   全国町村会長 関井 仁

 

 もちろんこの成果は、先人先輩が郷土の繁栄を願い、英知を結集し、幾多の困苦欠乏とたたかいながら獲得したものであることは当然であった。

 この表形状は道町村会を通じ、3月20日に役場で伝達されたが、知事代理・渡島支庁長・渡島町村会長などのほか、地元各公職者や産業団体代表者などが多数参列し、盛大にこれを祝ったのである。

 

天皇、皇后両陛下のご巡幸

 天皇、皇后両陛下は、昭和29年8月第9回国民体育大会開会式にご出席を兼ね、昭和21年からはじめられた全国視察最後の地として、北海道事情視察のため来道された。

 示された日程によれば、8月7日ご来道、8月9日大沼をたち森駅構内で奉迎を受けられたあと、10時51分八雲駅着、駅前において奉迎を受けられ、同10時55分にはご出発という、わずか4分間の奉迎時間ではあったが当町にとっては空前絶後のことであり、万事疎漏のないよう周到綿密な奉迎準備が進められた。

 幸いご来町の当日は絶好の晴天に恵まれ、駅前に特設された奉迎場には、高齢者・旧軍人等遺家族・官公庁首長・公職者・各種団体役員などの席が設けられ、また、幼稚園児をはじめ、小中高校生・その他一般奉迎者、それに近隣町村からも参加があり、午前10時半には「およそ1万1千人余りの人々」(前町史)が参集した。

 特別列車から降りられ、奉迎合にお立ちになった両陛下は、奉迎者の君が代斉唱を受けられ、次いで奉唱合に立った田仲町長の主唱による「天皇陛下・皇后陛下万歳」の奉唱に合わせる奉迎者の声高らかな万歳三唱に、天皇陛下は帽子を高々と挙げられ、皇后陛下は手を振ってこたえられた。

 短い時間の儀式はこれをもって終わり、やがて奉迎者感激のうちに日の丸の小旗を打ち振り「万歳、万歳」と連呼するなかを両陛下は静かに降壇され、田仲町長や小川議長ら奉迎代表者のお見送りを受け特別列車に戻られた。

 こうして、くっきりと浮き出した菊の紋章のある車窓にお立ちになった両陛下は、列車が静かに動き出すと奉迎者に会釈をされながら次の訪問地長万部に向かわれたのである。

 

昭和30年地方選挙

 昭和30年4月30日町村長および町村議会議員選挙が執行された。八雲町長選挙では候補者が現職の田仲孝一だけにとどまったため、無投票当選が決まった。

 落部村長選挙では、昭和28年9月1日法律第二五八号によって公布された町村合併促進法(第12節記載)をめぐって、合併反対を主張する現職の愛山行永と合併賛成を主張する新人伊藤淳一が立候補して激しい選挙戦が展開されたが投票の結果、合併賛成の伊藤淳一が当選した。

 八雲町議会議員選挙は、35名が立候補して激しい選挙戦を展開したが、次の26名が当選した。これらの当選議員の中には新人が14名と過半数を占め、しかも、日本社会党員2名を含む労働組合出身議員など、いわゆる革新系議員6名が初めて議会に進出し、議会内部に会派を誕生させる動機となったのである。

 

天皇・皇后両陛下行幸啓(写真1)

 

 佐久間省一(二代) 田中一郎 河部吉男 岡田兼雄 西亦治信 渡辺好男 鈴木善治 溝口鎌太郎 坂田武則 池野辰巳 久保田正秋 林 惣一 小林明義 長谷川鎰 宮田栄成 服部 稔 三輪豊光 坂本堅太郎 林嶋太郎 渡部正男 中田定行 美野吉三郎 元山耕作 北島光雄 畠山利明 小川四郎

 5月10日に開かれた改選後の初議会で選挙の結果、議長に久保田正秋、副議長に佐久間省一が当選した。

 なお、これらのうち坂田武則(31年5月)、中田定行(32年5月)が辞任したほか、西亦治信(33年2月)、溝日鎌太郎(33年5月)の2名が死亡している。

 また、落部村議会議員には、

 松浦貞一 蓮井保一 金子新一 岩間勝三 知野金一 川口福平 徳田又雄 長谷川勝 佐々木栄盛 吉崎芳造 大山勝悦 白岩 盛 関口幸太郎 生田時次郎

の14名が当選し、議長に徳田又雄、副議長に蓮井保一が就任した。しかし、これらの議員は町村合併のため、昭和32年3月31日をもって自然失職となった。

 

大塚助役退職

 八雲町助役大塚卯次郎は、任期満了により昭和30年6月29日をもって退職した。大塚助役は昭和9年八雲町に就職以来、事務吏員として12年、21年11月宇部町長および田仲助役の相次ぐ辞職のあと町長臨時職務代理者として、戦後混乱期の町政を掌握し、22年6月助役就任以来二期八か年にわたり、眞野・田仲両町長を補佐して主要施策の遂行に当たったのである。

 

北口助役就任

 昭和30年6月29日大塚助役退任後しばらく空席であった助役に、翌31年1月21日総務課長の北口 盛が推薦され、満場一致、議会の同意を得て選任された。

 なお、この年7月11日には収入役安藤太郎が引き続き六期目に就任した。

定例会の変遷

 町村会は古来定例会、臨時会の別なく随時必要に応じて開催されてきたのであるが、昭和21年(1946)9月の改正町村制で初めて「定例会」と「臨時会」に区分され、しかも「定例会ハ毎年六回以上之ヲ開ク」と規定された。このため町では同年11月「八雲町議会定例会条例」を議決して偶数月ごとの6回にわたって開会することを定めた。その後、26年5月から奇数月ごとの6回に改め、さらに、27年の法律改正で年4回、すなわち、3・6・9・12の各月に開会することを決めて運営した。

 また、昭和31年の自治法改正で「年四回以内で条例で定める回数」とされたことにともない、同年10月1日公布の「八雲町議会の定例会の回数を定める条例」で「年四回」と定めて現在に至っている。

 

 第11節 字名地番の改正

 

改正前の宇名

 大正8年に土地整理調査が行われ、その後徳川農場の解放、農地制度の改革にともなう自作農の創設、未墾地の買収や売り渡しなどによって、数多くの土地が異動した。このため字名は80以上にも達し、一つの地番が何百にも分割されるものもでき、民有地の筆致も1万策以上になり、小字名のなかにはアイヌ語をそのまま使用したものも多く、ユーラップコタンの名残りとして、

 ブイタウシナイ・ハシノスベツ・トコタン・ペンケサランベ・ビンニラ・ペンケルペシペ・トベトマリ・シュルクトシナイ・ナンマッカ・キソンペタヌ・トワルベツ・セイヨウベツ・サックルペシペ・シラリカ・ウインネ

などがあり、また、

 遊楽部・砂蘭部・常丹・奥津内・無弓部・山越内・由迫・沼尻・野田生

というように、アイヌ語に漢字を当てたものもあった。こうした種々雑多なものが入り乱れて、複雑を極めていたが、これらを便宜上、通称の町内名や地域名として使用していたのである。また、地域の発達にともなって、その複雑さと不便なことにより、いつのころからかは明らかでないが、サックルペシペを咲来、ペンケルペシペをペンケルというように、簡易な名称を付けたり、セイヨウベツ・トワルベツ・ペンケサランベ・弥之助沢・瀬棚淵などという公簿上の字名を使用せず、大関とか中島農場・百万・赤笹などと適当に称して使用されていた。さらに、大新や学林のように公簿には全くない字名が、公然と使用されていたのである。

 

北海道地図(松浦弐四郎著)(写真1)

 

 特に八雲市街地の字名は、公簿上では「遊楽部」と「砂蘭部」の2つで呼称され、その大部分が無番地であった。しかも遊楽部の字名は、遊楽部川の沿線と大関から鉛川の沿線を下り、遊楽部橋の上下から河口沿岸をハシノスベツ川に至る範囲に及んでいたのである。

 また砂蘭部は、採卵場と八雲小学校・電報電話局をつなぐ線から以南とハシノスベツ川に沿い上流へ、西は砂蘭部川に沿っていわゆる大新地区の奥へと広がっていた。

 このように広大な範囲を包含する字名は、市街地の発展につれて使用する上で不便となり、市街が広がるにともない、

 元町(下町)・本町・中央通り・住初町・材木町(東雲町)・市兵衛町(旭町と富士見町)・日の出町・若松町・信用町・幸町・出雲町

などの町名が生まれた。

 その後、昭和12年の日中戦争ぼっ発により、物資の配給や消費の規制など、経済統制が行われることとなった。15年には町内会・部落会が結成され、42の部落合と市街地には21の町内会が誕生した。そして戸数の多い町内を「○○第一町内会」「同第二町内会」「東部○○町内会」「西部○○町内会」などのように分割した。これらの町内会や部落会は、軍人家族救援・国債引受・防空活動・物資配給などの機関として、戦争協力と国民統制のための機能を果たしたのである。

 終戦後の昭和22年、GHQの指令により町内会等は解散することとなったが、町内の名称はそのまま存続され、住民登録や選挙事務もこれによって整理し、また、主食の配給・入学児童の区分・その他一般の行政事務が行われ、砂蘭部無番地とか遊楽部無番地は、戸籍とか登記の面だけで使用される遺物となった。

 さらに戦後、市街地には国立病院をはじめ多くの官公署が設置されるとともに、海外引揚者や疎開者などの増加により、

 緑町・曙町・新生町・林町・興生町・興和町・錦町

などができ、市街地の発展と、融資住宅や公営住宅などの建設によってますます町内が拡大され、

 新富町(26・9・1)・豊河町(日の出町第四を改称26・10・1)・真萩町(26・11・1)・千草町(曙町から分離29・11・6)・千鳥町(29・12・11)

の五町が誕生したのである。

 このように、数多くの町内が「遊楽部」と「砂蘭部」の字の中に存在していたのであるが、同一の土地について使用されている字名地番は、土地台帳の表示と戸籍上の表示、それに一般に使用されているものとの3種類となり、しかもこの三つが一致しているものは極めて少なく、取り扱いの上に不便と混乱が生ずるばかりか、はなはだしい矛盾が生じ、土地の所在を確認するのにも、郵便物などの配達にも支障をもたらすという状態であった。

 こうした行政上や日常生活での混乱と不便を解消するため、昭和31年(1656)5月1日をもって「字名地番改正」を行い、市街地15、地域14、計29の字名が決定されたのである。

 字名の呼称改正にあたっては、住民本位に進められたが、旧名称にこだわるもの、また、複数の町内が一町にまとまるような地域などでは、それぞれが自町内の名称を主張したため、町当局を困惑させたこともあったが、後記のとおりの決着となった。

 

宇名地番改正

 前述のように混乱状態を呈していた字名地番を改正するに当たっては、その基本的事項の策定ならびに運営に関する諮問機関として、昭和30年10月「字地番整理委員協議会」を設置して協議することとした。この結果、大字は廃止し小字制としてその数を29とすること、字名は地域住民の意見を尊重するとともに当用漢字を用い難解なものは使用しない、歴史的由緒のあるものは残すようにすること、市街地には字を冠しないこと、などが答申された。

 これに基づき、地区ごとに住民の意見を聞き字名の選定を行い、市街地15、地域14、計29の字名を決定し、31年5月1日から施行されたのである。また、これに伴う戸籍簿・住民登録簿・土地台帳・家屋台帳・その他の諸帳簿の改製や訂正事務が行われ、従来の混乱はすべて解消された。

 こうして廃止された大字ならびに字名は、次のとおりである。

 

廃止された大字ならびに字名

大字名 字                    名
八雲村 遊楽部、砂蘭部、砂蘭部野、砂蘭辺、サランベ、サランベノ、ハシノスベツ、トコタン浜中、黒岩、山崎、ボンシラリカ、ロクツ、シラリカ川端、シラリカ、ブイタウシナイ、支黒岩山崎、支遊楽部ブイタウシナイ、鷲の巣、ペトイカリ、古川、ウインネ、鉛川、遊楽部川向、メム川原、中川原、建岩、ウインネツチ、ワシノス、メム川、トワルベツ、サツクルペシベ、ペンケルペシュベ、セイヨウベツ、ビンニラ、上砂蘭部、ペンケサランベ、ユーラップ
山越内村 常丹、ハシノスベツ、奥津内、坊主山、山越内常丹、山越内、無弓部、ブユンベ、酒屋川、向野、鉄山、ヲヤヂノ沢、山越内奥津内、ヲコツナイ、ポン奥津内、ポンヲコツナイ、会所沢、会所山、由追、沼尻、弥之助沢、境野、奥平、堺川上、坊主山下、前浜、境、ガンビ岱、ガンビタイ、野田生、野田追、栗木岱、アサブ沢、アサグ沢、柏木、柏木原、中野、山越内ガンビ岱、新六屋敷、ガロー沢下、野田追基線、野田追西一線、野田追西二線、野田追東一線、野田追(西二線)中二股上、山越内ガロー沢下、瀬棚淵


 

 また、新たに画された町および字名は次のとおりである。

 元町・本町・東町・富士見町・豊河町・東雲町・内浦町・住初町・末広町・相生町・栄町・宮園町・出雲町・三杉町・緑町

 字黒岩・字山埼・字花浦・字立岩・字富咲・字上八雲・字鉛川・字春日・字大新・字熱田・字浜松・字山越・字野田生・字桜野

 この地域に冠された字は、昭和45年4月1日落部地区の字名地番改正の際に廃止し、単に黒岩・山崎などとするように改正された。

 字界の決定によって地番が付けられることとなった。これは各字とも一様に始発点を北方の一角から起こして、街区ごとに蛇行火を採用することとなった。付番例は別表のとおりである。

 

字名改正前の落部

 落部には古くからアイヌが漁猟を生業とし、山野に自生するものを食し、土地所有の考えもなく、自然に溶け込んだ生活を営み、コタン(集落)を形成していた。かれらは文字を持たなかったが、神を祭り、敬語を使用する優秀な民族でもあった。そしてかれらが呼ぶ地名も、地形や自然の現象を表し、それを記録にとどめたのは和人で、全地区にわたりアイヌ語から出たと思われる数多くの地名が存在していた。やがてこれらの地名が字名となり、あるいは転化する過程で漢字が当てられるなど、その数は落部全域で61字名にも及んでいた。

 

付番例(写真1)

 

 明治12年(1879) 12月25日に落部村戸長役場が設置されたが、この当時の行政区域を明らかにする史料はなく、明治19年1月の戸長役場調書によれば、茂無部・野田生(追)・五平岱・二股・クスリ・モノ岱・蕨岱・落部の8字名が記されており、人家の在るところだけに限られていたようである。

 その後移住者が増加して年々発展したが、大正4年(1915)に二級町村制が施行されて落部村となり、行政補助機関として、野田追・市岡・下ノ湯・野田追御料・蕨野・落部・入沢・上ノ湯・茂無部・逆川御料・二股の11地区に区分し、各区に部長を置いた。

 さらに戸数の増加にともない、8年学林、9年台ノ上・落部御料、12年落部浜通、14年川向・落部東、の区が設置されて17地区となった。しかしこの部長制度は、昭和2年10月の一、二級町村制改正によって廃止されることとなった。

 部長制度廃止後も行政の補助機関は必要であったので、全村を落部・野田追・市岡・野田追御料・蕨野・下ノ湯・上ノ湯・落部御料地・二股・茂無部・逆川御料地、と11地区に大別し、これを通称地域名として一般行政事務が執られていたのであるが、市街地を形成している落部については、さらに落部東部・同西部・同浜通り、と細分し、戸数の増加につれてこれらを一、二、三などと分割していた。

 昭和12年、日中戦争のぼっ発によって戦時統制下に入り、15年に町内会・部落会の組織化がなされ、これらの地区はそのまま移行して市街地に町内会、地域には部落会が結成されて、国策遂行のため協力したのである。

 終戦後の昭和22年に町内会部落会制度は廃止されたが、町名や地域名はそのまま存続された。さらに、引揚者などにより戸数が増加したことから市街地に更生区が誕生し、鉄道の関係で施設部、工場関係で帝座(大同)などの区域ができ、駅前に貝森という区域も新設された。

 八雲町と合併した昭和32年当時の市街地の区域は、落部東部一、二、三、同西部一、二、三、四、同浜通り一、二、落部駅前、大同の11地区に区分されていたが、33年8月にこれらの地区を整理統合し、落部第一〜第七町内会および落部浜通り第一、第二の9地区に名称を変更し、この区分によって選挙事務や八学手続き、配給事務・その他の一般行政事務や郵便電信などの業務が行われるようになった。

 なお、地域については従来どおりの名称を使用し、大きな地域では1区、2区などと分けて17地区とした。

 

落部地区の字名改正

 昭和32年(1957)に八雲町と合併した落部材の字名地番は、61字名(別掲)、4566筆に及んでいた。このため、土地台帳・戸籍台帳・住民登録台帳・その他の関連において混乱が生じ、住民が非常な不便を感じていたことは、八雲町の場合と全く同様であった。

 八雲地区においては、既に31年に字名地番の改正が行われていたことから、落部地区の改正についてもようやくその機運が高まり、42年7月に地番改正協議会が設置された。これにより協議がなされた結果、従来の61の字名を八つに整理統合して、落部・入沢・下の湯・上の湯・旭丘・東野・わらび野・栄浜とし、45年4月1日から施行することとした。これらの字名については、地域住民からの要望によるものによって選定したのである。市街地を形成する落部地区については、種々の意見が出されたものの、最終的には従来どおりの字名に決定した。さらに、これまでの町内会と部落会の名称も、改正された新字名に合わせたものとした。

 旧字名は次のとおりである。

 茂無部・茂無部沢・茂無部ガローの上・茂無部上山・茂無部茅野・砂坂・茂無部中ノ岱・茂無部上野・茂無部ネップ坂・茂無部エトコ・茂無部中野・茂無部浜中ノ上・崎ノ上・辰五郎坂沢口・赤禿・滝ノ下・中ツネノ向・布谷岱・イナヲサキ・馬坂ノ下・川尻・折戸・下谷地・黒禿ノ上・白浜ノ上・チョウサ沢・滝ノ上・深沢・サキ・下道・冷水・古川・巻藤・村内・中常・落部・中野・浜中ノ上・栗ノ木岱・入沢・望路・犬主・二股・川向・黒禿・赤禿

野・モノ岱・野田追台ノ上・野田追モノ岱・中ツネノ下・野田追川尻・野田追サルカニノ沢・野田追カツノマチ上・野田追赤川・野田追堤ノ上・野田追上カマベツ・野田追黄金沢・野田追蕨野・野田追奥蕨野・下二股・野田追

 以上のほかに字名でない地名として、落部御料地・野田追御料地・逆川御料地があり、通称では、加賀野・五平岱・一本柳・学林・浜中・堤ノ沢・湯ノ沢・市岡・サイレイ・下黄金沢・茅野・土渕沢・梨木岱などがあった。

 

八雲町全図(写真1)

 

 第12節 町村合併

 

町村合併促進法

 昭和28年(1953)9月1日法律第二五八号をもって「町村合併促進法」が公布され、同年10月1日から31年9月30日までの時限立法として施行された。この法律は、その施行にあたって発表された内閣総理大臣の談話の中で、

 「町村の規模を拡大して適性化を図ることは、地方自治を強化するためにも、現在の複雑な内政の処理を簡素合理化するためにも極めて緊要なことである。」

と述べ、さらに、

 「住民の負担の軽減と福祉の向上を図るために、町村の再編成を断行し、地方自治今後の発展と国政の基盤としての新市町村の建設にまい進せられんことを期待する。」

として、その趣旨目的を強調したのであった。そして、10月30日閣議決定の「町村合併促進基本計画」では

 「昭和31年9月末日までに人口8、000人未満の小規模町村を合併し、町村数を約3分の1に減少すること」

を目的とする方針を決定し、その促進を図ることになったのである。

 こうした情勢に対応して道でもその検討に着手しつつあったが、当時の情勢としては落部村と八雲町との合併案が考えられる成り行きであった。町では29年3月22日定例町議会の終了後、田仲町長から町村合併に関する調査研究を進めるため、任意の委員会を設けることを諮り、賛同を得て議会議員から10名、学識経験者から10名の委員で構成する「町村合併研究協議会」を設置することを決め、4月23日にこれを発足させた。

 一方、道においては、「北海道町村合併促進審議会」を組織し、道内における町村合併の基本計画について諮間中であったが、6月19日知事に対し「北海道町村合併基本計画」が答申された。この中で落部村と八雲町は合併すべき町村として公式に明示されたのであった。答申を受けた知事は、関係町村長に対して8月23日付文書を発するとともに、9月2日八雲町から田仲町長・小川議長、落部村から愛山村長・斉藤議長を渡島支庁に招き、支庁長から合併に対する協力方および議会の議決を経て知事に意見を答申するよう要請されたのである。

 これに対し八雲町では、9月13日町村合併研究協議会を開催し種々論議の結果、「両町村の合併を適切と認める」旨の意見をまとめた。そして同日午後開会の議会においてもこれを協議のうえ、合併方針に賛成の意向を確認するとともに、直ちに正式議案として提案し、即日満場一致をもって原案を可決して知事に答申した。

 昭和二十九年第三回定例議会議案第五号

 町村合併計画に対する意見について

 町村合併計画に関する意見を左記のとおり北海道知事に答申するものとする。

 昭和二十九年九月十三日提出

 八雲町長 田仲孝一

 記

 北海道町村合併基本方針に則って、北海道町村合併促進審議会から北海道知事の諮問に対し答申された町村合併基本計画中、八雲町と落部村の合併に関しては適切と認める。

 同日原案可決

 一方、落部村においては、賛否の意見保留のまま推移し、翌30年3月24日開会の村議会においては多数をもって合併反対を議決したため、両町村の合併はおのずから消極的経過をたどるという余儀ない情勢であった。しかも、同年4月には両町村とも町村長および議会議員の改選があり、落部村長に伊藤淳一が当選し、世上では議会議員も合併賛成者が多数議席を有することになったと伝えられたが、激しい選挙戦の後だけに、合併問題はむしろ相当の冷却期間が必要であるということから、にわかに進展する状況ではなかった。

 

合併促進の兆し

 昭和30年10月八雲町では議会全員協議会を開催し、さらに合併問題の段階的進展に対応するため、従来の「町村合併研究協議会」から一歩進めて「八雲町町村合併促進協議会」に改組し、前協議会と同様20名の委員をもって構成した。そして21日初会合を行い、渡島支庁長を介して両町村話し合いの機会をもち、合併の促進を図ることとした。

 一方、落部村においても11月14日「落部村町村合併促進協議会」を同じく20名の委員をもって組織した。

 こうして話し合いの糸口がつくられたので、同月19日支庁長の主催により「町村合併促進懇談会」が落部村で開催された。しかし、核心である合併問題については落部村側委員に賛否あり、

 1、さきの合併反対の議決が効力を有する限り論議することはできない。

 2、落部村は小村ながらも八十余年の伝統を有し、独立経営は可能である。

など合併反対の主張に対し、合併賛成委員の反論が入り乱れる状況となった。このため支庁長から

 「重要な問題であるから、たびたび会合して合併の機運を醸成するようにしたい。両町村から各10人くらいの委員を挙げて話し合いを進めることにしてはどうか。」

との提案があり、両町村とも異議なく、それぞれ10名の委員を挙げることに決定して散会した。

 ところが、12月2日折あしく落部市街地に大火が発生し、その対策に多忙を極め、町村合併はいちじ停滞の状況となった。しかし、翌31年3月21日落部村では議員8名の提案によって、さきの反対議決を取り消し、八雲町との合併賛成の議決が行われたので、一転して合併促進の兆しがみられるに至ったのである。

 議案第一号

 北海道町村合併計画策定に関する答申について

 昭和三十年三月二十四日合併反対の議決をして知事に答申してあったが、その後の状勢において落部村と八雲町との合併は妥当であると認める。

 昭和三十一年三月十七日長出

 落部村議会議員

 川口福平 松浦貞一

 長谷川勝 金子新一

 白岩 盛 生田時次郎

 吉崎芳造 蓮井保一

 昭和三十一年三月二十一日原案可決

 

法的協議会の設置

 こうした情勢の変化を背景とし、両町村ともさきの支庁長提案により決定していた10名ずつの委員を選任して体制を整え、31年4月30日八雲町役場で初の懇談会を開催した。この席上、ついに「町村合併促進法第五条による法的協議会を設置し、具体的事案について検討を進める」という方針が確認された。これに基づく規約原案の作成については、両町村および支庁と数回にわたって協議を重ねた結果決定された。そして、八雲町が6月15日、落部村が翌16日、「八雲町落部村合併促進協議会」の設置規約案をそれぞれ議決したのである。この協議会は、

 「町村合併に関する調査、新町村建設計画の策定、その他合併に関する協議を行うこと」

を目的とし、委員には両町村とも、(1)正副議長と議員4名、(2)町村長と助役、(3)その他学識経験者など4名、計12名ずつを充てることとした。

 こうして、8月1日両町村長および議会議長による協議会を開催、規約に基づく会長選任について協議し、会長に田仲町長、会長の職務代理者に伊藤村長と決定した。

 その後、8月12日の初会合以来、数回にわたって協議を重ねたほか、既に合併した町村の状況を視察するなど精力的に活動を進め、一応「九月中合併を目途として建設計画を持ち寄り、十分検討協議する」ということで意見の一致をみた。そして、それぞれ作成した建設計画案を持ち寄って真剣な検討に入ったが、結局、落部村側で示した事業量が、当時の財政運営面から考慮して折り合いがつかず、9月20日第5回目の会議を最後に不調に終わったのである。

 さらに、9月30日をもって町村合併促進法が失効したことにより、協議会はおのずからその設置目的を失い、終止符が打たれたのであった。

 

町村合併の勧告

 昭和31年6月30日法律第一六四号をもって「新市町村建設促進法」が制定された。この法律は、

 「町村合併を行った市町村の新市町村建設計画の実施を促進して、新市町村の健全な発展を図ること」

に目的をおくものであったが、特に道の町村合併促進審議会で町村合併をすることが必要であるとされながら、いまだ合併に至っていない町村について、

 「知事は未合併町村の規模が適正を欠き、かつ地勢、交通、経済事情その他の事情に照らし、町村合併を行うことが関係町村の基礎的な地方公共団体としての機能の充分な発揮と住民の福祉の増進のため必要であると認めるときは、昭和32年3月31日までの間において、新市町村建設促進審議会の意見をきき、内閣総理大臣に協議して、あらたに当該市町村に係る町村合併に関する計画を定め、これを関係市町村に勧告しなければならない。」

とされたのである。

 こうした制度に基づき、道が設置した「北海道新市町村建設促進審議会」によって調査が行われた結果、落部村と八雲町との合併は必要なものと認められ、32年1月7日付をもって知事から合併勧告書が出された。この合併勧告書は、1月12日渡島支庁に両町村長と議会議長を招いて、支庁長から交付されたが、その勧告は次のようなものであった。

 勧告書                                  茅部郡落部村

 山越郡八雲町

 新市町村建設促進法第二十八条第一項の規定により北海道新市町村建設促進審議会の意見をきき、内閣総理大臣に協議して別紙のように貴市町村に係る町村合併に関する計画を定めたので、これに基き町村合併を行うよう同法同条同項に基き勧告する。

 昭和三十二年一月七日                           北海道知事 田中敏文

 (別紙)

 北海道町村合併計画(第一次)

新市町村建設促進法(昭和三十一年法律第百六十四号)第二十八条第一項の規定に基き北海道新市町村建設促進審議会の意見をきき、内閣総理大臣に協議し、別紙のとおり北海道町村合併計画(第一次)を策定する。

 

 昭和三十一年十二月二十八日

 

 北海道知事 田中敏文

 

 別表(関係分抜粋)

支 庁 名 合 併 関 係 人  口 面  積
市 町 村 名
渡   島 落 部 村 5、258 192・5
八 雲 町 21、480 546・2

 

合併の実現

 知事からの勧告という形で合併を迫られることになった両町村では、32年1月26日両町村長と正副議長による懇談会を開催し、その対応について協議した。その結果、両町村12名ずつの委員を挙げて協議を進めることで意見が一致し、それぞれ委員を選出して検討に着手した。

 こうして、両町村の希望計画その他所要事項を取りまとめる作業を進め、両町村の代表が支庁あるいは道庁に出向いて打ち合わせや調整を行った結果、

 1、建設計画の事業については、道は最善の努力をする。

 2、合併の時期は事務的に多少の無理はあるが4月1日とすれば、交付税や起債の関係が有利であるなどの理由で、道の強い要請もあり4月1日を期して合併する。

という大筋で確認された。したがって、新町建設計画の調整など関係事務が精力的に進められ、3月10日両町村合併促進委員の協議会を八雲町役場会議室で開催、新町建設計画その他の諸条件を最終確認した。こうして翌11日両町村はそれぞれ臨時議会を開会し、「茅部郡落部村を廃し、その区域をもって山越郡八雲町に編入する」という画期的な議決をしたのである。この議決書の案文は両町村とも同様であるが、落部村の議決書を次に掲げる。

 

 議案第一号

 落部村を廃し八雲町に編入することについて

 地方自治法第七条第一項の規定により昭和三十二年四月一日から茅部郡落部村を廃し、その区域をもって山越郡八雲町に編入することを北海道知事に申請するものとする。

 昭和三十二年三月十一日提出

 落部村長 伊藤淳一

 同日原案可決

 

 議案第二号

 落部村を廃し八雲町に編入に伴う財産処分について

 地方自治法第七条第一項の規定により昭和三十二年四月一日から茅部郡落部村を廃し、その区域をもって山越郡八雲町に編入する場合これに伴う財産処分を別紙協議書の通り定めるものとする。

 昭和三十二年三月十一日提出

 落部村長 伊藤淳一

 同日原案可決

 (別紙)

 

 財産処分に関する協議書

 昭和三十二年四月一日から茅部郡落部村を廃し、その区域をもって山越郡八雲町に編入する場合、これに伴う財産処分を左の通り決定する。

 一、落部村有財産(権利義務一切)全部八雲町に帰属せしめる。

 

 山越郡八雲町長 田仲孝一

 茅部郡落部村長 伊藤淳一

 

 こうして翌12日、両町村長連名をもって北海道知事あてに申請書を提出した。知事は3月27日道議会の議決を経て内閣総理大臣に報告、3月30日総理府告示第134号をもって公告するという経過をたどり、昭和32年4月1日を期して落部村と八雲町の合併が成立したのである。

 総理府告示第百三十四号

 

 町村の廃置分合

 地方自治法第七条第一項の規定により、北海道茅部郡落部村を廃止し、その区域を山越郡八雲町に編入する旨北海道知事から届出があった。

 右の廃置分合は昭和三十二年四月一日から効力を生ずるものとする。

 昭和三十二年三月三十日

 内閣総理大臣 岸 信介

 

第4章 合併後の八雲

 

 第1節 新町の発足

 

新生八雲町の発足

 懸案の町村合併が実現し、昭和32年4月1日を期して新生八雲町が力強い第一歩を踏み出したのであるが、合併の結果、面積736・46平方キロメートル、人口2万6738人(昭和30年国勢調査)となり、全道的にも有数の大規模町村となった。

 この町村合併にあたり要件とされた事項で、特に即日実施された主なものを挙げれば、

 1 旧落部村役場を充用し、その区域を所管する落部支所を設置して、所要職員を配置。

 2 助役の定数を二名とする条例を制定し、旧落部村助役辻村美矩を助役に選任して落部支所長に任命。

 3 副収入役設置条例を制定して、副収入役制を採用し、旧落部村収入役和山惣七をこれに任命。

 4 旧落部村職員は、すべて合併後の八雲町職員として身分を引き継ぐ。

などの措置がとられたことである。

 なお、農業委員会については、両町村とも任期が昭和32年7月19日までであったので、任期中、これを従前のまま継続させる特例を設け、2農業委員会制がとられたのであった。

 

八雲町・落部村合併記念式典(写真)

 

 こうした画期的な町村合併の実現を祝い、4月6日午後1時から八雲高等学校東校舎講堂において、合併記念式典を挙行した。式には道知事代理進藤地方課長、佐々木渡島支庁長、町内外官公職者その他300余名が参列して、盛大にたくましい新町の発足を祝いあった。

 

町議会議員の増員

 町村合併の形式が吸収合併となり、これが実現すれば落部村議会は自動的に消滅することになるため、旧落部村地区からの議員の選出方法は、合併条件の協議の中で取り上げられた問題の一つであった。

 この問題について協議の結果、当時八雲町が昭和26年以来とくに条例を定め、議員の定数を法定数より4名減らして26名としていたが、議員の現員数が25名(昭和31年5月坂出武則が辞職)で欠員1となっている実情を背景として、あえて従前の減員条例を廃止し、議員定数を法定の30名とすることとした。さらに、「八雲町議会議員を選挙すべき選挙区および各選挙区における議員数に関する条例」を制定し、第一区を旧八雲町地域として定数を現状の25名と定め、第二区を旧落部村地域として5名とした。ただし、この選挙区の設定は、現議員の任期中だけに限り効力を有する特例として定められたものであった。

 こうして5名の議員選挙を実施する必要の生じた第二区では、4月25日の増員選挙執行となり、9名の立候補者によって争われたが、愛山行永、須藤秀吉、関口幸太郎、牧野貞一、長谷川信義の5名が当選し、八雲町議会初の30名作制となったのである。

 これら新議員を迎えた初議会は5月2日開会され、久保田議長、佐久間副議長はともにその職を辞任して、新体制による正副議長選挙を行ったが、久保田・佐久間がそれぞれ再選されて就任した。

 

昭和32年八雲・落部合併後の議会議員及び幹部職員(写真1)

 

 後列(右から)

 小泉不二夫(主事) 石垣寿典(〃) 山田 実(〃) 田中一郎 北口 盛(助役) 渡辺好男 牧野貞一 河部吉男 北島光雄 小野瑞穂(主事) 畠山利明 小林明義 小関信雄(主事) 服部 稔 若山吉治(主事) 菊地末吉(〃 ) 和田惣七(副収入役) 浜辺正男 加藤愼一(教育長)

 

  中列(右から)

 辻村美矩(助役兼支所長) 須藤秀吉 関口幸太郎 池野辰巳 鈴木善治 林 惣一 岡田兼雄 長谷川信義 三輪豊光 宮田栄成 前田 清(主事) 安藤太郎(収入役) 大島日出生(主事)

 

  前列(右から)

 西亦治信 坂本堅太郎 伊藤義良 小川四郎 佐久間省一(副議長) 久保田正秋(議長) 田仲孝一(町長) 愛山行永 元山耕作 長谷川 鎰 溝口鎌太郎 林 嶋太郎

 

八雲町史の発刊

 昭和32年(1957) 12月1日「八雲町史」が発行された。 

当町の産業・教育その他各般の今日あるゆえんに思いをいたし、先人先輩の辛苦とともに町が歩んだ輝かしい足跡を集録し、更に永く後世に伝えることを念願した田仲町長は、昭和29年5月15日「八雲町史編纂委員会」を設置し、委員長に宇部貞太郎、委員に久保田正秋・坂本堅太郎・大島勝世・関口恭平・小泉武夫・大塚卯次郎・大島日出生を委嘱して町史編集に着手したのである。

 この町史は、当初は昭和29年末までの記録をまとめ、31年12月完成の目標で進めたのであったが、町勢の急激な伸展期にあったため、途中で編集の範囲を31年まで延期し、さらに32年4月落部村との合併に関する経過を収録するというように変更がなされ、当初の予定より一か年遅れて発行された。直接この編集執筆業務に携わった宇部委員長の功労は多大であり、A5判820頁の中に集大成されたものであった。なお同委員長の助手として吉田広、掛川岩太の両吏員が、精力的に携わった。

 

創基80周年記念

 昭和33年(1958)は八雲町創基80周年の記念すべき年であるため、町は8月1日来賓その他町民多数参集のもと、八雲小学校体育館において盛大に記念式典を挙行した。この記念式典では、多年当町の自治・開発に尽くした功労者の表彰を行ったが、その受賞者は次のとおりであった。

 

 <感謝状を贈られた者>

 徳川義親(開拓) 田仲孝一(自治)

 <表形状を贈られた者>

 故岡部五郎(自治・衛生) 故八木勘市(産業) 故三沢正男(産業) 眞野万穣(自治) 宇部貞太郎(自治・文化) 伊藤淳一(自治) 北口 盛(自治) 折原徳之丞(教育) 茂木多喜治(文化) 小川四郎(産業・自治) 佐久間省一(自治・消防) 河原寿太郎(統計) 安藤太郎(自治) 秋野太仙(社会事業) 森川アサヱ(教育) 久保田正秋(産業・社会) 花岡要之進(消防) 佐藤浪四郎(統計) 佐伯篤光(教育) 古田秀夫(社会・教育) 山本 猛(教育・文化) 太田正治(産業) 中野清寿(消防)

 

 なお、式典終了後の祝賀会の席上、さきに記念事業の一つとして町民一般から公募して制作した「やくも音頭」(作詞・寺川時代、作曲・小林如)が発表されたほか、およそ一か月にわたって記念行事や協賛行事が繰り広げられた。

 記念行事の主なものは上表のとおりである。

 

 このほか協賛行事として、道南家畜共進会・花火大会・全道青年大会・ばん馬競走・第2回全犬類北海道地方大展覧会・消防大会などが開催され、創基80周年に彩りを添えたのであった。

 

創基80周年記念行事日程表

行  事  名 開  催  日  時 開  催  場  所
郷土総合展示会 8月1日から5日まで 八雲小学校
芸能発表会 8月3日 八雲小学校体育館
敬老会(80歳以上)
やくも音頭振付発表
町民運動会 8月10日 八雲高等学校グラウンド
納涼盆踊り大会 8月13日から20日まで 八雲小学校校庭
舟こぎ競技大会 8月17日 落部浜(漁港)

 

昭和34年地方選挙

 昭和34年4月30日町長および町議会議員の選挙が行われた。

町長選挙には、現職の田仲孝一、新人の若狭正義、滝川忠蔵の3名が立候補したが、田仲が3選を果たした。

 町議会議員は、町村合併の際に設けられた選挙区の特例も廃止され、全町一円を選挙区とし、37名の候補者によって争われたが、次の30名が当選した。このうち日本社会党員が4名と党籍を持つものが増加した。

 鵜飼富秋 愛山行永 牧野貞一 北島光雄 池野辰巳 増田正巳 田中一郎 佐久間省一 久保田正秋 堂七徳之 野田武雄 横井司馬 村井梓 美野吉三郎 黒川市松 大山勝悦 畠山利明 鈴木善治 相沢正之助 溝口義春 林嶋太郎 河部吉男 渡辺好男 酒田貫志 木村三作 水野博 岡田兼雄 服部稔 三輪豊光 小林明義

 改選後初の臨時会は5月9日開会され、議長に久保田正秋、副議長に相沢正之助か就任した。

 なお、これら議員のうち、溝口義春が公職選挙法違反で9月に失職したほか、池野辰巳が同年12月辞職、光山行永が36年2月に死亡した。

 

辻村助役辞職

 町村合併以来、落部支所長を務めてきた助役辻村美矩は任期半ばながら、昭和34年5月7日辞職した。辻村助役は、昭和13年9月から20年4月まで落部村長を務めた経歴を有し、さらに、昭和30年10月から落部村助役に迎えられて地方自治の進展に努めた。

 なお、辻村助役の辞任のあと、5月12日落部支所長として副収入役の和山惣七を充てたことにより、助役の2名制を定めた「八雲町助役定数条例」および「八雲町副収入役設置条例」の2条例は、6月16日議会の議決を経て廃止された。

 

役場庁舎の新築

 八雲町役場庁舎は、明治40年(1907)に建築した建物を主体とし、以後数回にわたる増築を経ながら公用を果たしてきたのであった。そのため「新町建設計画」の中でも、

 「現八雲町役場は木造ですでに50年を経過して老朽化し、さらに合併後の職員を収容するには狭隘につき総合庁舎を新築するものとする。」

としていた。

 したがって、町村合併直後に編成された昭和32年度の補正予算には、早くも2か年継続事業をもって予定し、初年度予算を計上、議決を経たのであったが、当時の財政事情として依存財源とする起債に見通しが得られず、その実現に至らなかったという経緯があった。なおその際、庁舎建築位置をめぐって現位置存続の声と移転を主張する声が起こり、いちじは波乱含みの情勢となったが、予算の実行不能とともに自然解消するという一幕もあった。

 こうした状況によって、庁舎の新築は容易に実現しなかったが、老朽度と狭さは極限に達し、危険度も増大することとなったので、昭和35年6月議決を経て、2か年継続事業をもっていよいよ新築する方針を決めた。そして同年9月13日に着工し翌36年8月に完成、9月1日から公用を開始したのである。

 新庁舎は、鉄筋コンクリート造り2階建て、1、2階とも529・2平方メートル、屋上にペントハウス11平方メートルの計1069・4平方メートルの主体部に木造モルタル平屋建ての付属舎が140・3平方メートルで延べ面積は1209・7平方メートルであった。工事費は、建築工事とこれに付帯する暖房衛生設備工事と電気設備工事などの直接工事費合計額で2853万円のほか、書庫移築、車庫新築、調度備品などの関連経費を含めると3662万円を要した。

 また、屋上のペントハウスには、母たちの願いをいれて長谷川甚之助の篤志寄付50万円による「愛の鐘」が取り付けられるなど、当時としては堂々たる総合庁舎となったのである。

 なお、旧庁舎は、八雲町漁業協同組合の鮮魚市場や倉庫群が、まだ現在の消防本部庁舎の位置にあった当時、水産会館建設委員会に払い下げられ、そこに「水産会館」として再建されて漁協事務所もこれに移り、業務の一体化が図られたのであった。

 

議会事務局の設置

 従来、議会の事務局は役場総務課(庶務係)で兼務し、その事務を処理するならわしであったが、役場本来の業務が複雑多様化するとともに、議会運営が近代化するにともない、会議録の調整などで大幅な遅れをみるようになった。また、常任委員会の自主的な活動が活発化して、兼務職員による議会事務の執行は適当ではないと判断される時代を迎えていた。

 そこで、役場庁舎が新築されたのを契機として、昭和36年9月の第3回定例会に議員提案をもって「議会事務局設置条例案」が提出され、総務常任委員会に審査を付託、11月4日の臨時会で委員会報告どおり原案が可決され、同年12月1日を期して設置されたのである。初代事務局長には小泉不二夫が任命された。

 

昭和38年地方選挙

 昭和38年4月30日町長および町議会議員の選挙が行われ、町長には田仲孝一が現職のまま立候補し、無投票で四選された。議会議員には38名が立候補して投票の結果、次の30名が当選した。

 高見正一 牧野貞一 平塚正治 高木万寿夫 松永満雄 村井 梓 伊藤淳一 松木初次郎 久保田正秋 三沢道男 小林明義 三輪豊光 若林七郎 日比野篤彦 黒川市松 関口幸太郎 美野吉三郎 鈴木善治 大山勝悦 佐久間省一 伊藤 弘 酒田貫志 北島光雄 渡辺好男 田中一郎 木村三作 知野金一 増田正巳 水野 博 岡田兼雄

 この結果、政党所属議員は自由民主党2、日本社会党2となった。さらに、5月8日開会された臨時会において、議長に久保田正秋、副議長に渡辺好男が就任した。

 また、4月17日に行われた北海道議会議員選挙では、当町から立候補した樋口哲男が二選を果たした。

 

八雲町議会の表彰

 昭和41年2月11日八雲町議会が優良議会と認められ、全国町村議会議長会から晴れの表彰を受けた。表彰状は次のとおりである。

 表彰状

 山越郡八雲町議会

貴議会は地方自治の本旨にそって議会運営の向上に努めもって住民福祉を増進した功績はまことに顕著であります

よって茲にこれを表彰します

 昭和四十一年二月十一日

 全国町村議会議長会

  会長 内山正盛

                                     役場機構改革

  町における行政事務は、時代の変遷とともに複雑多岐となり、次第に高度化、専門化が要求されるようになってきた。こうした情勢に対処し町では機能分類に応じた合理的な分課を考え、昭和41年3月18日「課設置条例の一部改正」の議決を経て、4月1日から実施することとなった。

 この改革の主なものは、

 1 行政事務が各部門に関連する事務が多くなっているため、総合調整の機能をもつ「企画室」を新設する。

 2 高度化、専門化してきた町税の賦課徴収事務を専門的に処理するため「財政課」を「税務課」に改める。

 3 従来の「民生課」を「町民課」に改めて窓口事務を統合する。

 4 水道事業の整備、給水開始に対応して「水道課」を新設する。

というもので、一室六課体制としたのである。

 また、これと同時に会計事務を、これまでの記帳方式から伝票会計方式に改めて事務の能率化を図った。

 

開町記念日の設定

 昭和41年(1966)は八雲町創基88周年、すなわち、米寿の記念すべき年にあたるため、田仲町長は町議会と協議し、その賛同を得て「八月一日」を開町記念日にすることを定め、同年7月8日町長告示をもってこれを設定した。

 八雲町告示第三十一号

 開町記念日決定の件

 八雲町の創基を記念し、先人の労苦をしのぶとともに、より明るく、より豊かな町を築き上げるために、町民がこぞって祝い、感謝する日として、八月一日を「開町記念日」と定める。

 昭和四十一年七月八日

 八雲町長 田仲孝一

 

名誉町民に徳川義親を推挙

 八雲町創基88周年を記念する事業の一つとして、昭和41年6月17日町議会の議決を経、同月20日「八雲町名誉町民条例」を公布施行した。

 この名誉町民制度は、

 「広く地域社会の開発振興及び産業文化の興隆並びに公共の福祉の増進又は社会公益上に多大の貢献をなし、その功績が顕著である本町住民又は本町に縁故の深い者に対し、八雲町名誉町民の称号を贈り、その功績と栄誉を讃える。」(同条例第一条)

というものである。

 この条例を制定したあと田仲町長は、7月19日の町議会に対し、八雲町振興開発の功労者として徳川義親(当時東京都豊島区に在住)を「八雲町名誉町民」第一号として推挙することを提案、満場一致協賛を得て、8月1日の開町記念日に推挙状および名誉町民章の贈呈を行ったのである。

 徳川義親(明治19年10月生)は、八雲町開拓の祖ともいうべき徳川慶勝から数えて三代目、自ら「最後の殿様」と称し、学徳ともに高く、広く全国的立場で社会公共のために尽くした人であった。八雲町にとっても、徳川農場の経営にあたり、農事の振興、林野の育成を図るとともに、旧制八雲中学校の建設に際しての多額の資金援助をはじめ、高等国民学校長を快諾し、多年農村青少年の育成に努め、さらに、農民の冬期間における副業として木彫りぐまの制作を奨励するなど、当町の産業経済、教育文化の伸展に尽くした物心両面にわたる功労の数々は、枚挙にいとまのないところであった。

 なお、名挙町民の推挙を機会に、義親の徳を慕い、永く後世に語り伝えたいと願う有志一同が「徳川さんを顕彰する会」を組織し、資金を募って八雲町公民館前庭に胸像を建立した。この胸像は、高さ1・5メートルの台石の上に、等身よりやや大きいブロンズ像(製作者・柳原義達)で10月5日除幕されたのである。

 徳川義親は、それから10年後の昭和51年9月6日東京都の私邸において、89歳の高齢をもって死去したが、町では特に義親生誕90年にあたる10月5日、社会福祉センターにおいて、町民有志多数が参集して追悼式を挙行し、惜別と感謝の意を表したのであった。

 さらに、故人の遺志と遺族の篤志により、八雲町民の教育・文化の向上にと図書473冊(時価183万円相当)が寄贈され、町は「徳川文庫」として永く保存し、広く町民の利用に供するため、町立八雲図書館に蔵書することとした。

 

名誉町民 徳川義親(写真1)

 

創基88周年記念

 創基88周年を祝う記念式典は、記念日設定後初の開町記念日である昭和41年8月1日、八雲小学校体育館を式場に、町内外から470余名の来賓を迎えて盛大に挙行された。式典では、まず開拓功労者の慰霊式を行ったあと、徳川義親に対する名誉町民の推挙のほか、功労・善行者に対する表彰を行ったが、その受賞者は次のとおりである。

 <表形状を贈られた者>

 長谷川鎰(自治) 林 兵造(自治) 故児玉玉作(自治)

 故 斉藤吉之亟(自治) 野田生中央町内会(自治) 故 愛山行永(自治・産業)

 故 大島勝世(自治・産業) 長谷川信義(産業) 元山耕作(産業)

 松川林四郎(産業) 橋本直也(産業) 加藤慎一(教育)

 坂本堅太郎(社会事業) 服部レイ(社会事業) 中本六郎(社会事業)

 本間吾市(保健衛生) 本吉栄太郎(消防) 高地俊弥(消防)

 菊地幸太郎(消防) 飯田キリ(節婦)

 なお、この式典の前に、管内小中学校児童生徒の鼓笛隊が、八雲中学校から八雲小学校まで大パレードを行い、いっそう盛り上げたのであった。

 さらに、その夜の花火大会をはじめ、記念講演会・敬老会・町民運動会・舟こぎ競技など数々の記念行事が行われた。

 

落部支所の移転

 昭和32年の町村合併後、旧落部村役場庁舎は、引き続き八雲町役場落部支所として地区の行政事務を行ってきたのであるが、老朽化が激しく改築を迫られるようになっていた。そこで、昭和41年から二か年継続事業として落部公民館を新築することになったのを機会に、旧落部診療所を改築して支所庁舎に転用することになり、41年12月17日からこれに移転して執務を開始した。

 

昭和42年地方選挙

 昭和42年4月28日町長および町議会議員の選挙が行われ、町長には現職の田仲孝一と北島光雄が立候補したが、田仲が五選を果たした。

 また、町議会議員には37名の立候補者があり、30の議席を争ったが、当選者は次のとおりであった。

 久保田正秋 高見正一 松永満雄 溝口義春 牧野貞一 佐久間省一 若林七郎 村井 梓 平塚正治 倉地一明 佐々木繁 高木万寿夫 松木初次郎 関口幸太郎 川上利秋 岡田兼雄 水野 博 黒川市松 鈴木善治 木村三作 大山勝悦 伊藤 弘 三輪豊光 吉崎芳造 伊藤淳一 酒田貫志 大塚豊吉 相沢正之助 日比野篤彦 渡辺好男

 改選後の初議会は5月8日開かれ、議長に久保田正秋、副議長に関口幸太郎が就任した。

 なお、議員のうち佐久間省一が44年4月に死亡し、同年7月平塚正治が転出のため辞職している。

 また、4月15日に行われた北海道議会議員選挙では当町から樋口哲男が三選された。しかし、当選後間もない7月13日に病気のため死亡した。町は同氏が生前、町内外の行政に尽くした功労に対し、同月18日の葬儀の際、表彰状を贈って追賞したのである。

 

八雲町役場落部支所(写真1)

 

地方自治法施行20周年記念表彰

 昭和22年5月3日地方自治法が施行されてから20周年にあたる昭和42年、これを記念する式典が11月17日東京都日比谷公会堂において、天皇陛下をお迎えして盛大に行われた。

 その席上、過去20年にわたる変遷の激しいなかにあって、よく自治運営の創意工夫に努め、住民の福祉増進に貢献したと認められる市町村を選び、自治大臣表彰が行われた。そのなかで当町が「総合経営」(総合的に行政運営がすぐれているもの)の部門で全国127団体の一つとして選ばれ、晴れの表彰を受けた。

 表彰状

 北海道八雲町

貴町は協同一致よく多面にわたりその経営のよろしきを得て地方自治の本旨の実現を図られましたその業績はまことに顕著であり他の模範とするところであります

よって地方自治法施行二十周年を記念してここに表彰します

 昭和四十二年十一月七日

 自治大臣 藤枝泉介

 

八雲町民憲章の制定

 昭和43年(1968)は創基90周年を迎え、開町以来、第一世紀最後の10年を残すだけという時代的な意義を考え合わせ、全町民の生活の指標ともなるべき町民憲章を制定するため、同年6月18日「八雲町民憲章制定に関する臨時措置条例」の議決を経た。そして起草委員会の委員には、おりから活動中の総合開発審議会委員を充てることに決め、7月11日、来る8月1日の開町記念日に発表できるよう、田仲町長から「八雲町民憲章の起草」を諮問したのであった。これを受けた起草委員会では、小委員会を設けて積極的に検討を重ねたのである。しかし、期間が短く拙速に陥ることを避けるため、8月1日の発表延期を確認し、なお十分に検討することとした。

 その後、時間を費やし十分に検討を重ねた結果、翌44年7月18日に案文を決定し、直ちに町長に答申したのである。町長はこれを7月22日開会の町議会に提案し、議決を経て8月1日の開町記念日を期して、告示第四五号をもって発表したのであった。

 

 八雲町民憲章

 わたくしたちの町は、開拓精神にもえた先人によって創業された。

 わたくしたちは、八雲町民であることに誇りをもち、より豊かな将来をつくるために、ねがいをこめて、この憲章を定める。

 1、美しい町をつくろう。

 2、活気にあふれた町にしよう。

 3、つねに進歩する町民になろう。

 

過疎地域の指定

 昭和45年(1970)5月1日、当町は「過疎地域対策緊急措置法」による「過疎地域」に指定された。

 昭和30年代後半におけるわが国の高度経済成長政策は、地域的な経済構造に大きな変動を与え、市町村の人口構成にも大きな影響を及ぼした。すなわち、経済発展の拠点となっている太平洋ベルト地帯の工業地域や大都市に人口が集中しはじめ、その半面、農漁村地帯などでは極度に人口が減少したのである。これは、わが国の人口が年々増加しているにもかかわらず、全国市町村の約90パーセント以上が一定の時期に比較して人口が減少するという事実によって立証された。

 そのなかでも特に人口が急激に減少して地域の生活機能に支障を来たし、生活水準の低下を招く市町村が多くなったため、国は過度の人口減少を防止するとともに、地域社会の基盤を強化して住民の福祉を向上し、所得格差を是正する特別な措置を講ずるため制定したのが「過疎地域対策緊急措置法」である。

 この法律でいう過疎地域とは、昭和35年(1960)と昭和40年の国勢調査人口を比較し、40年の人口が10パーセント以上減少していることと、地方交付税法でいう市町村の財政力指数(基準財政収入額を基準財政需要額で割った指数)が、41年度から43年度までの三か年平均で0・4未満であることの二つが要件とされていた。そして、この要件に該当する市町村については、自治省告示第九八号をもって自治大臣が公示指定することになっており、北海道においては一市六九町村が該当し、その中に当町が含まれたわけである。

 当町は昭和35年の国勢調査人口2万5111人に対し、40年には2万2487人で2624人の減、その減少率は10・4パーセントとなり、当然この人口の減少がこの指定を受けた要因の一つとなっていた。

 さらに、財政力指数については、この当時いずれの年度においても0・3パーセントを下回る状況で、これまた指定基準に該当する実態であった。

 町はこの過疎地域対策緊急措置法による特別措置の適用を受けるため「八雲町過疎地域振興計画書」の作成に着手し、八雲町総合開発審議会の審査答申を経て45年8月19日招集の臨時会に付議した。議会はおりから特別委員会において審査中の「八雲町総合開発計画基本構想」との関連もあるため、なお慎重審議の必要ありとして同特別委員会に審査を付託、9月24日の定例会で委員会報告どおり、原案が可決された。

 この振興計画書は自治大臣へ提出されたが、昭和45年度から49年度までの五か年計画により、事業費総額42億8687万余円、このうち町費は20億3642万余円という事業量を盛り込んだもので、八雲町が今後再び大きな人口流出をみることなく、豊かな住みよい町づくりを目指すというものであった。またその性格は、同時に策定した総合開発計画基本構想を実現するための、当面の必要事項を盛り込んだものであった。

 

北口助役の辞職

 昭和45年8月2日助役北口 盛は、一身上の都合により任期半ばで辞職した。北口助役は、昭和13年町吏員に就職以栄17年余、うち総務課長7年を経て31年1月助役に就任し、勤続すること四期一四年有半にわたり、田仲町長を補佐し、町勢伸展に寄与貢献した。

 

 第2節 町政の進展

 

昭和46年地方選挙

 昭和46年(1971)4月25日町長および町議会議員の選挙が行われ、町長には、現職で六期目を目指す田仲孝一と、助役同期目の中途で辞職して選挙に臨んだ北口 盛、それに再立候補の北島光雄の三者によって争われ、激しい選挙戦となったが、北口が町民多数の信任を得て当選した。

 また、町議会議員選挙には34名が立候補し、次の30名が当選した。党派別では、日本社会党が4名、日本共産党と公明党が各1名、その他無所属24名という状況であった。

 木村三作 松永満雄 山田初蔵 溝口義春 石黒慶市 落合好文 牧野貞一 伊藤淳一 佐々木繁 若林七郎 村井 梓 高見正一 渡辺好男 石橋和二 高木万寿夫 友善 功 松本初次郎 日比野篤彦 工東清長 村山文彦 酒田貫志 倉地一明 川上利秋 黒川市松 大塚豊吉 関口幸太郎 伊藤 弘 水野 博 大山勝悦 三輪豊光

 5月7日開会の臨時会において、議長に牧野貞一、副議長に高木万寿夫が就任した。

 

田仲町長任期満了退任

 田仲町長は、大正11年(1922)3月八雲町書記として就職、昭和15年(1940)助役就任を経て21年11月辞任するまで、24年有半にわたって勤続した。公職追放解除後の26年4月から町長として、連続五期二〇年の長きにわたり、町民の期待を担って町政を執行し、町勢の伸展に尽くした功績は大きなものがあった。

 またこの間、渡島町村会長、北海道町村会副会長をはじめ全道町村関係団体役員をも歴任し、広く地方自治の推進に尽くし、数々の地方自治功労賞を受賞、その功績は高く評価されたのである。

 

小泉助役就任

 新たに町政を担当することとなった北口町長は、6月10日開会の町議会の同意を経て八代助役として小泉不二夫(前議会事務局長)を選任した。

 

役場機構改革

 北口町長は、激しく変動する時勢と複雑多様化する行政に対応し、より専門細分化した事務処理体制をつくるため、昭和46年6月「課設置条例」の一部を改正して機構の再編整備を図った。

 その改正の主なものとしては、従来「産業課」の中に包括されていた経済関係事務を細分し、「農林課」・「水産課」・「商工課」の三課に分割して専門化を図るとともに、労働行政を円滑に推進するため、新たに「労働福祉室」を設置し、きめ細かな行政事務の執行を図った。その半面、これまで総合調整的機能を果たしてきた「企画室」を廃止して企画係と広報統計係を「総務課」に移行し、また「税務課」を「財政課」に改めて企画室から財政係を移行するなどの調整をしたのである。ただし、「労働福祉室」については、昭和47年社会福祉センターが開設されてから、町の分室としてこれに事務所を置いてきたが、労働行政は特に中小企業対策と関連性が強いという点から、昭和52年8月これを廃止して「商工課」に統合し「商工労政課」と改称した。

 また当初の水産課長、商工課長には道から2名の人材を求めた。

 

八代助役 小泉不二夫(写真1)

 

山村振興法の制定

 国は林野面積の占める比率が高く交通条件および経済的・文化的な諸条件に恵まれず、したがって、産業開発の程度が低く、住民の生活文化水準が劣っている山間地における産業基盤および生活環境を整備して経済力を高めるとともに、住民の向上を図り、地域格差の是正と国民経済の発展に寄与することを目的として、昭和40年5月「山村振興法」を制定公布した。

 この法律は、山村振興の目標を定め、この目標達成のために必要な事業の実施に対して国および道が財政的に援助するというもので、昭和50年3月までの時限立法(のちに昭和60年まで延長される)とされた。都道府県知事がこの法律による振興山村として指定を受けようとするときは、関係市町村長に協議し、農林大臣を通じて内閣総理大臣に申請、内閣総理大臣は諮問機関である山村振興対策審議会(のちに国土審議会となる)の意見を間いて山村振興に関する計画を作成し、これに基づいてその振興を図ることが必要適切である山村を振興山村として指定し、公示することとされていた。

 こうした山村振興法の制定公布にともない、振興山村の指定は昭和40年度から逐次行われてきたが、46年12月経済企画庁で開催された山村振興対策審議会の総会において、46年度分の振興山村として、本道関係で二八市町村が指定されたのである。これにより、当町は昭和47年2月3日総理府告示第五号、指定番号第九一八号をもって指定されるに至った。このため道では、町と協議して山村振興計画を作成し、農林大臣を通じて内閣総理大臣に提出しその承認を受けることとなり、積極的な折衝協議がなされることになった。

 

振興対策

 協議の段階においては、当町のおかれている現状の正しい認識と問題点の解明に力点をおき、しかも、北海道総合開発の進展に即応しながら当町の振興を図るという基本方針に基づき、具体的内容として次のような施策を定めたのである。

 

 1 交通施策として

  部落連絡、道々連絡および農林水産物の搬出のための道路整備を行う。

 2 産業の生産基盤施策として

 (1)酪農の生産拡大を図るため、畑地帯の総合土地改良事業、農道整備事業および草地開発事業などを促進する。

 (2)漁業の振興を図るため、漁港の整備、漁場改良造成事業などを促進する。

 (3)林業の振興を図るため、林道開設事業および造林事業を促進する。

 3 産業の経営近代化施策として

 (1)酪農経営の近代化を図るため、家畜用水施設を設置する。

 (2)漁業経営の近代化を図るため、養殖用保管作業施設および蓄養施設を設置する。

 (3)林産経営の近代化を図るため、素材生産施設、造林施設および特殊林産物生産施設などを設置する。

 4 文教施策として

 (1)義務教育の向上を図るため中学校の統合校舎を建設する。

 (2)へき地教員住宅を建設する。

 5 社会生活環境施策として

 (1)社会福祉の向上を図るため、社会福祉センターを設置する。

 (2)へき地医療の確保を図るため、患者輸送車を導入する。

 (3)環境衛生の向上を図るため、簡易給水施設を整備する。

 (4)公営住宅を建設する。

 (5)民生の安定を図るため、消防施設を整備する。

 (6)電気導入事業を行う。

 6 国土保全施策として

 (1)落部川水系等の砂防施設の整備をはかる。

 (2)沼尻地区等の海岸保全施設の整備をはかる。

 (3)復旧治山事業および保安林の改良を行う。

 (4)東野地区ほか一地区の農地海岸保全事業を行う。

 以上施設整備を中心に、六項目の具体的振興の施策を定め、山村振興事業を推進することとしたのである。

 

振興事業の概要

 この山村振興計画に盛られた事業の概要および概算事業費をみると、まず交通施策として町道立岩線の改良=5000万円余、産業の生産基盤施策として土地改良・農道・草地改良・農免林道・造林・漁港整備・漁場改良・造成・こんぶ養殖施設・蓄養施設等=16億3300万円余、産業の経営近代化施策として家畜用水施設・素材生産施設・造林施設・特殊林産物生産施設・養殖用保管作業施設等=6454万4000円余、文教施策として中学校統合校舎建設・へき地教員住宅建設等=3億1245万円余、社会生活環境施策として社会福祉センター・患者輸送車・簡易給水施設・公営住宅・消防施設・電気導入事業等=2億1241万円余、国土保全施策として砂防事業・海岸保全・治山事業・農地海岸保全事業等=5億5472万円余、総事業費概算額で28億2774万5000円に及ぶものとなった。これら事業の財源として、国費15億6792万7000円、道費4億5093万6000円、町費5億9300万9000円(うち起債2億6790万円)、その他2億1587万3000円が見込まれたのである。

 

振興山村農林漁業特別開発事業

 この事業は、既に施行されている山村振興法によって展開される総合的な施策の一環として、一般事業の対象にならない事業(公共事業の採択基準以下のもの)を中心に、農林漁業生産基盤の整備、経営近代化施設の導入、環境整備等に必要な事業を実施して、経営の合理化と福祉の向上を図るとともに、地域格差の是正を期するという目的をもって、昭和41年7月「振興山村農林漁業特別開発事業実施要領」が定められた。

 これによると、事業の実施期間は四か年間継続して行い(年度別実施割合は2・3・3・2)、事業規模は一地域の事業費を平均3000万円、地域ごとに農家戸数、林家(又は漁家)数、耕地面積および林野面積により算出されるもので、当町の場合の基準事業費は9197万5000円と算出された。

 事業内容は実施要領の定めるところにより、各事業種目ごとの実施基準に基づいて実施し、生産基盤整備事業には70パーセント以内(国費50パーセント、道費20パーセント以内)、経営近代化施設、社会生活環境施設整備事業にはそれぞれ60パーセント以内(国費50パーセント、道費10パーセント以内)が助成されるというものであった。

 町は、昭和47年度を第一年次とする50年度までの四か年間にわたる「振興山村農林漁業特別開発事業全体実施計画書」を作成し、47年1月知事に申請、同計画は同年4月農構第二四号指令をもって認可された。

 さらに、全体実施計画を実行するため、四か年間の「年度別実施計画書」を作成、この間事業単価の改訂による事業費の増、あるいは補助金調整による事業費の減など、当初計画に若干の変更はみられたが、事業はおおむね順調に進められたのである。

 こうして実施された事業をまとめてみると、土地基盤整備事業として、入沢・東野地区におけるかんがい排水・暗きょ排水・農道の各整備事業、酪農無水地帯解消のための山崎地区における家畜用水施設の設置、牧草・畑作振興のため上八雲など一四地区のトラクター利用組合に対しトラクター本機10台、同作業機64台の導入、入沢水田機械化利用組合に田植機5台ほか育苗施設を導入するなど近代化施設整備が進められ、また、漁業関係では、落部・八雲両漁業協同組合が事業主体となり、栄浜と山崎にホタテ養殖のための養殖用保管作業施設が設置され、事業費総額では1億170万円であった。

 

振興山村農林漁業特別開発事業全体実施計画書(振興山村農林漁業特別開発事業全体実施計画書より)

事業区分 事業種目 受益
戸数
施行
箇所数
事業量 事業費 負    担    区    分
国 庫
補助金
道 費
補助金
町村費 公庫資金 近代化
資 金
その他
生産基盤整備 かんがい排水
L=165m
4.2ha
千円
4,863
千円
2,431
千円
972
千円

千円

千円
千円
1,460
暗きょ排水 12 15.6? 7,848 3,923 1,569   1,800   556
農道 L=460m 1,662 831 332   300   199
予備費       950 475 189   210   76
小   計       15,323 7,660 3,062   2,310   2,291
経営近代化施設 家畜用水施設 2地区
L=2,900m
6,385 3,192 638 766   1,430 359
養殖用保管
作業施設
34 2棟
259.2u
8,420 4,210 842 1,684     1,684
トラクター 70 14 本機60PS 7台
〃 50PS 3〃
〃 40PS 1〃
作業機 88〃
52,134 26,064 5,210     16,630 4,230
小   計       66,939 33,466 6,690 2,450   18,060 6,273
環境整備 簡易給水施設 11 L=2,605m 4,800 2,400 480 576    1,070 274
小   計       4,800 2,400 480 576   1,070 274
計 (除予備費)         86,112 43,051 10,043 3,026 2,100 19,130 8,762
予備費         950 475 189   210   76
合   計   143     87,062 43,526 10,232 3,026 2,310 19,130 8,838

 

年次別実施計画表        (単位 千円)

事業年次 事業区分 事業種目 事業量 事業費 負担区分
国  庫
補助金
道  費
補助金
町村費 公  庫
資  金
近代化
資  金
その他
第1年次
(47年度)
生産基盤整備 かんがい排水 L=165m4.21ha 4,863 2,431 972       1,460
経営近代化施設 ト ラ ク タ ー 本  機  5台
作業機 35台
19,779 9,888 1,976     6,310 1,605
    24,642 12,319 2,948     6,310 3,065
第2年次
(48年度)
生産基盤整備 暗 渠 排 水 15.6ha 7,848 3,923 1,569   1,800   556
予 備 費   784 392 156   180   56
経営近代化施設 家畜用水施設 L=2.565m 5,050 2,525 505 606   1,130 284
ト ラ ク タ ー 本  機  1台
作業機 12台
7,850 3,925 785     2,510 630
養殖用保管作業施設 1棟 129.6u 4,210 2,105 421 842     842
環 境 整 備 簡易給水施設 L=2,605m 4,800 2,400 480 576   1,070 274
    30,542 15,270 3,916 2,024 1,980 4,710 2,642
第3年次
(49年度)
経営近代化施設 家畜用水施設 L=335m 1,335 667 133 160   300 75
養殖用保管作業施設 1棟 129.6u 4,210 2,105 421 842     842
ト ラ ク タ ー 本  機  4台
作業機 33台
19,205 9,601 1,919     6,120 1,565
    24,750 12,373 2,473 1,002   6,420 2,482
第4年次
(50年度)
生産基盤整備 農   道 L=460m 1,662 831 332   300   199
予 備 費   166 83 33   30   20
経営近代化施設 ト ラ ク タ ー 本  機  1台
作業機  8台
5,300 2,650 530     1,690 430
    7,128 3,564 895    330 1,690 649
合  計       87,062 43,526 10,232 3,026 2,310 19,130 8,838

 

振興山村農林漁業特別開発事業実施状況

事 業 種 目 事  業  主  体 事 業 費 受益面積 事   業   量 備   考
土地基盤整備 落   部   農   協 千円
4,863 
ha
4.2 
かんがい排水 165m 東野地区  
4,343  8.6  暗渠排水 8.6ha   〃
3,505  7.0     〃 7.0ha 入沢地区
1,662  4.0  農   道 460m   〃
経営近代化
施設設備
上八雲第1トラクター利用組合 1,550  86.0  作業機2台 上八雲地区
大木平   〃    〃 3,800  51.0  本 機1台 作業機 5台 野田生地区
熱 田   〃    〃 5,260  66.0  本 機1台 作業機10台 熱田地区  
山 崎第1 〃    〃 4,485  72.0  本 機1台 作業機10台 山崎地区  
山 崎第2 〃    〃 3,115  66.0  作業機6台  〃
上八雲第2 〃    〃 1,760  66.0  作業機2台 上八雲地区
浜 松   〃    〃 5,975  86.8  本 機1台 作業機 5台 浜松地区  
入沢第1  〃    〃 2,815  33.3  本 機1台 作業機10台 入沢地区  
山 崎 水 道 利 用 組 合 13.100  8戸 
乳牛,馬 72 
豚 230 
家畜用水施設
取・配水施設 L=3,542m
山崎地区  
東  野トラクター利用組合 3,205  37.4  本 機1台 作業機 2台 東野地区  
柏木第1  〃    〃 5,220  58.0  本 機1台 作業機 4台 野田生地区
山  越  〃    〃 4,350  168.0  本 機1台 作業機 1台 山越地区  
桜  野  〃    〃 4,915  49.5  本 機1台 作業機 3台 桜野地区  
入沢第2  〃    〃 3,025  33.4  本 機1台 作業機 1台 入沢地区  
柏木第2  〃    〃 5,771  43.9  作業機5台 野田生地区
入  沢水田機械化利用組合 6,594  60.8  育苗施設機具 入沢地区  
      〃 2,285  60.8  田植機5台  〃
経営近代化
施設設備
八   雲   漁   協 5,052  山     崎 平屋建
(腰ブロック付属103.68u 設備1式)
 
落   部   漁   協 5,052  栄     浜 平屋建
(腰ブロック付属103.68u 設備1式)
 
合  計   101,702       

 

議会初の百条調査

 昭和46年4月25日に執行を予定されている町長・町議会議員選挙を間近に控えた4月6日、黒川市松議員はか13名の連署をもって、特に「昭和45年度八雲町一般会計の支出に関する調査」のための臨時会招集要求書が提出された。これを受けた町長は、同月14日に第3回臨時会を招集する手続きをとったのである。しかし、選挙を間近に控えての臨時会でもあり、しかも、審議案件そのものが、正否は別として適当でないと判断して招集に応じない議員も多く、当日は出席者14名、欠席者14名で、結局は過半数に達せず流会になるという経緯があった。

 こうした結果に不満を押さえきれない招集請求側の議員のうち、黒川・村井・若林の三議員が代表して、傍聴者多数の前で記者会見し、昭和45年度に実施された下二股線一般林道開設事業ほか土木費の支出に疑惑があることを訴え、大きな問題を残したまま選挙に入っていった。

 波乱含みのまま終了した選挙後、5月7日に招集された初議会においては、当然この疑惑を解明し、事件の真相を明らかにする必要があるとして、酒田・村井両議員の申し出により、地方自治法第百条に規定する議会の調査権に基づく「昭和45年度八雲町一般会計の支出に開する調査特別委員会」(委員長・村井 梓)を設置し、継続調査とすることを議決した。

 特別委員会は、調査の対象となった各工事について関係人の出頭および証言と、関係書類の提出を求め、また、現地調査にあたるなど、14回にわたって委員会を開催し真相究明に努め、46年9月17日の議会に調査結果を報告したのである。この報告によれは、前述の下二股線一般林道開設事業をはじめ台の上地区農道整備事業、黒岩地区農道改修工事、その他災害復旧工事など数件にわたり、随所において予算の不正流用や事務処理に適正を欠いていることが明らかにされ、綱紀の粛正を望むというものであった。ただし、個人的な金銭上の不正事実は確認できなかったと付言されていた。

 北口町長は、この問題は前任者当時の事件とはいえ、理事者として今後再びこのような不始末のないよう、部下職員を厳に戒め、適正を期する旨の所信を表明したのである。

 地方自治法第100条に規定する議会の調査権行使は初めてのことであり、特筆すべき事件であった。

 

収入役の交代

 収入役安藤太郎は、昭和47年7月10日をもって任期を満了し、翌11日八代収入役に菊地末吉(前監査室長)が選任された。

 安藤収入役は、昭和11年から実に9期36年にわたる勤続であり、およそ全国的にも類例のないことであろう。

 

土地開発公社の設立

 昭和47年(1972)6月法律第66号をもって「公有地の拡大の推進に関する法律」が公布され、地域の秩序ある整備を図るために必要な公有地となるべき土地の先行取得および造成・管理を行わせるため、地方公共団体は「土地開発公社」を設立することができることになった。

 町ではおりから企業誘致を積極的に進めようとしていたこともあり、翌48年3月町議会の議決を経て「八雲町土地開発公社」の設立を決め、4月11日知事認可、5月2日登記完了という経過によってこれを発足させた。この公社は、町からの出資金500万円で、理事には町議会から5名、町の関係職員から4名をあて、また、理事長には助役をあてて運営しているが、設立以来、株式会社蚊竜ヴァンソーイング八雲工場用地の取得、ヤマハ北海道製造株式会社用地の取得造成などをはじめ、道路用地や公営住宅用地などの先行取得に活動し、町政の円滑な運営に貢献しつつある。

 

八代収入役 菊地末吉 (写真1)

 

町木・町鳥・町花の指定

 町ではかねてから町民憲章の目標の一つである「美しい町づくり」を進める方策として「町木」「町鳥」「町花」などを指定して、これらと親しむ環境づくりやその保護、緑化の推進、あるいは情操のかん養に役立てようと検討を進めてきた。この結果、昭和48年5月7日広く関係者や専門家の意見を聞き、町木として「かつら」を、町鳥として「こうらいきじ」を指定した。

 なお、町花については、さらに検討を加えることとして保留していたが、昭和53年5月1日一般に親しまれている「つつじ」を指定し、おりからの開町百年を記念して、エゾムラサキツツジを全戸に配布した。

 

町政モニター制度の発足

 北口町長は、広く町民の声を聞きその意見を町政に反映させることを目的として、町政モニター30名を委嘱した。このモニターは、20歳以上であっても特に昭和年代生まれの若年層に限り、しかも、各階層から職業・地区・年齢・性別などに配慮しながら、なるべく肩書きを持たない一般人を対象に選び、昭和48年10月18日第1回のモニター会議を発足させた。なお、このモニターの任期は1年とし、この間定期的に会議や

 

 町木(写真1)

 

 町鳥(写真2)

 

町花(写真3)

 

文書で意見や要望を町側に伝え、最終の会議で、寄せられた意見や要望がどのように処理されたかを話し合うことにしたのである。

 

役場庁舎の増築

 昭和36年に新築した役場庁舎は、時代の進展につれて行政事務の範囲が拡大し、職員の数も増加してきたため狭くなり、日常事務に支障を及ぼすようになってきた。このため暫定措置として、昭和49年度において増築を計画し、8月に工事が完成した。

 この増築は、鉄筋コンクリート平屋部分114平方メートルと、木造2階部分137・7平方メートルで、これにより窓口も広くなり、事務能率の向上も図られた。

 

議会議員定数の減員

 議会議員の定数は、地方自治法によって人口2万人以上の町村の場合「30人」と定められている。しかし、当町の実態としては、昭和45年(1970)の国勢調査の結果、人口2万345人と算定され、それ以後の住民基本台帳による人ロもほぼ横ばいの状態が続き、しかも、50年の国勢調査では2万人台を割るのではないかと推定される状況にあった。

 こうしたことを背景として、町議会はその見通しと行財政の効率的運用を図るという観点から、おりにふれて議員定数の自発的な削減が問題となり、検討課題とされてきたのであるが、昭和49年12月大山勝悦ほか7名の議員提案により「八雲町議会議員の定数を減少する条例」を議決してその定数を「26名」とし、次に行われる50年の一般選挙から適用することになった。

 なお、50年の国勢調査における人口は1万9260人で、予想どおり2万人台を割るという結果であった。

 

昭和50年地方選挙

 昭和50年4月27日町長および町議会議員の選挙が行われた。町長には現職の北口盛ただ1人が立候補しただけで無投票当選となったが、町議会議員には32名が立候補し、次の26名が当選した。

 高見正一 水野博 高木万寿夫 松永満雄 関口勝正 村井梓 石田初男 石川潔 山田初蔵 伊藤弘 大塚豊吉 黒川市松 大山勝悦 溝口義春 倉地一明 伊藤淳一 牧野貞一 工東清長 三輪豊光 佐々木繁 木村三作 石橋和二 落合好文 嵐忠夫 若林七郎 松木初次郎

 5月6日に行われた臨時会において、議長に牧野貞一、副議長に松永満雄が就任した。

 

収入役の交代 

 昭和51年7月菊地収入役は任期満了となり退職したため、その後任として北口町長は社会福祉センター館長水野諄朔を新収入役として選任、7月2日から開会された定例会において同意を得、11日付をもって9代収入役として任命した。

 

開町記念日における功労者・善行者表彰

 昭和41年に8月1日を開町記念日と定めたことにより、それ以後毎年同日を期して記念式典を開催し、功労者や善行者を表彰するのがならわしとなった。そこでこれを89周年以降に表彰を受けた人々を次にまとめて記録する。

 

9代収入役 水野諄朔 (写真1)

 

開町記念日における功労者・善行者表彰年次表

記念年次 表彰年月日 表      彰      者
創基 89年 昭42・ 8・ 1 石川斌郎(自治)・佐々木孫治郎(産業)・都築達三(同)・池浦泰安(社会福祉)
紺野 勝(同)・長谷川克巳(納税自治)・関戸静子(篤行)
創基 90年 昭43・ 8・ 1 加藤義春(産業)・徳田又雄(自治・産業)・小林晶二(土木)・伝法キエ(節婦)・小川志よう(篤行)
創基 91年 昭44・ 8・ 1 伊藤亀三郎(産業)・井勘八重次郎(自治)・増井和作(社会・納税)・平田キエ(節婦)
創基 92年 昭45・ 8・ 1 須藤秀吉(自治・産業)・井藤七五三(社会)・石田藤十郎(教育・産業)・河井 保(産業)・秋野よしゑ(社会)
創基 93年 昭46・ 8・ 1 長谷川五郎(自治)・加藤喜三郎(産業)・小島 薫(同)・井筒栄三郎(同)・鈴木益枝(教育)
創基 94年 昭47・ 8・ 1 倉地善六(社会)・竹内捨彦(自治)・橋本政之助(産業)・細井末夫(教育)・幸村寿一(消防)
故分枝丈吉(同)・柴崎重行(文化)
創基 95年 昭48・ 8・ 1 故鈴木善治(自治)・安井 貢(教育)・斉藤順蔵(同)・永洞洋三(文化)・稲垣顕蔵(産業)・上仙幸彦(同)
佐々木なお(保健衛生)・加藤ハツエ(同)・吉田チセ(同)・吉田秀夫(社会福祉)・松原勝治(土木建設)・古沢竹次郎(消防)
創基 96年 昭49・ 8・ 1 櫛桁三五郎(消防)・岡野利治(産業)・河井定雄(社会奉仕)・松崎モモョ(教育)
創基 97年 昭50・ 8・ 1 古山丈利(文化)・吉田三四郎(産業)
創基 98年 昭51・ 8・ 1 森石太郎(漁業)・井島辰巳(社会福祉)・吉田秀雄(保健衛生)・斎藤亀吉(納税)
創基 99年   (特に表彰を見合わせる)
創基100年 昭53・10・ 1 第7節八雲町100年記念に記載
創基101年 昭54・ 8・ 1 吉田頼政(福祉)・後藤光雄(教育)・滝 きぬ(保健衛生)・大竹良一(教育)・山本 猛(福址文化)
創基102年 昭55・ 8・ 1 開場 武(建設)・斉藤達繁(消防)・木下 進(消防)・八雲町交通安全協会(交通安全)
創基103年 昭56・ 8・ 1 堂七徳之(社会福祉)・杉野由次(産業経済)・児玉 清(文化)・大島日出生(教育)
創基104年 昭57・ 8・ 1 佐川貞三(建設)・石垣寿典(教育文化自治)・八雲町体育協会(体育)

 

総合開発計画基本構想の策定

 当町が88周年の記念すべき年を迎えたのを契機として、町の社会・経済・教育・文化などの各般にわたる総合的な開発施策の実施を促進し、住民福祉の向上を図るため、昭和41年(1966)12月21日町議会の議決を経て「八雲町総合開発審議会条例」を制定公布した。そして12月29日委員26名・顧問3名・参与8名を委嘱してこれを設置し、翌年1月23日初会合を開いて会長に太田正治・副会長に服部内匠を互選したほか、(1)総務建設、(2)産業経済、(3)文化厚生、の三部会を構成し、それぞれ委員を決めて発足した。

 こうして6月4日開会の町議会に対し、町長は次のことを諮問した。

 

 諮問第1号

 八雲町の積極的な開発振興を図るため、創基100年を目標とする総合開発計画について諮問する。

なお計画の構成については次のように配慮されたい。

 計画の構成

 1、基本構想

 2、基本計画

 3、実施計画

 昭和42年6月2日

 八雲町長 田仲孝一

 この諮問を受けた審議会は、本格的、具体的な検討に着手し、作業にあたっては、資料の収集・現状の分析・関係機関の要望や意見聴取など、あらゆる角度からきめ細かに調査を進めて、45年6月にこの計画の中心となる「基本構想」をまとめて答申したのである。

 町長は審議会からの答申に基づき、同年6月の町議会に「八雲町総合開発計画基本構想策定の件」を提案した。これは、地方自治法第二条の規定により議決を要する案件であり、これを受けた議会もまた慎重審議するため、議員全員を委員とする特別委員会に付託して、閉会中の継続審査を続け、9月24日の第3回定例会において原案どおり可決された。

 この計画は、「八雲町総合開発計画」と称し、その副題として「太平洋と日本海を結ぶ、豊かで調和のとれた広域生活圏の中核都市八雲の建設」と定め、昭和44年度を初年度とする各種の計画とその成果を想定したものであって、昭和55年度までの12か年における町政推進の基本目標として策定したものである。なおこの計画は、開発行政に大きな力をもつ国や道の施策の導入をもって産業基盤や社会開発の整備を図り、さらに、民間産業部門の誘導助長を講じながら目標を達成しようとするものであった。しかも、将来における行政上、経済上のセンターとしての機能充実と拡大が期待され、また、町産業構造の高度化と基礎施設の整備にともなう人口増加も考えられるとして、目標年次における人口を3万人(8950世帯)と想定し、産業構造や生活環境の整備目標を設定している点に特色があった。

 もちろん、これらのほか細かい分析が行われたうえで、当町発展の基本的方向を考え合わせながら、最後に「計画達成の基本方針」として、次の項目を重点的に設定したものであった。

 1、産業基盤の充実

(1)、農業の振興

 ア、酪農業を中心とする適地適作農業の推進体制を確立し、経営の近代化をはかる。

 イ、土地改良、草地造成など積極的に推進し、経営基盤の整備拡大をはかる。

 ウ、国の酪農近代化に並行して優良家畜の導入と増殖をはかり、畜産の振興を推進する。

(2)、水産業の振興

 ア、漁船漁業と栽培漁業の調和を保ち、漁場改良と施設の整備をはかり、水産資源の確保をはかるとともに、加工体制の充実を期し、水産業のセンターとしての発展を期する。

 イ、漁港の改良整備と漁船の近代化を推進し、漁港を中心とする経営を促進する。

 ウ、底せい性魚類の漁場造成と海草類の養殖漁場を造成し、栽培漁業の根拠地としての整備を推進する。

(3)、林業の振興

 ア、公有林、民有休を通じ積極的植林を推進し、森林資源の育成強化をはかり、町有林経営の規模拡大と充実を促進する。

 イ、風致観賞木の植樹を推進し、緑地帯の造成をはかり、みどりを表象する都市の形成をはかる。

(4)、商工業の振興

 ア、本地域における交通の要衝にあたる立地条件を活用し、資源の効率的な利用をはかり、経済交流を高め、地域の経済センターとしての地位の育成につとめる。

 イ、中小企業の経営を改善し、生産性の拡大と流通機構、消費体制の確立をはかり、広域的な経済機能を高め、経営の安定を期する。

 ウ、商業経営の合理化、近代化を推進し、商業圈の拡大をはかり、地域における経済の拠点となる商業機構の整備につとめる。

2、交通通信体系の確立

 道路橋梁の経済的な整備充実をはかる。特に町を起点とする渡島半島地域における日本海沿岸部とを結ぶ道道と国道5号線の活用整備と自動車高速道路のインターチェンジの設置などを推進し、この地域における道路網の中心地としての役割を果たす交通体系の確立をはかる。

 さらに、これらと連結する町道の改良を推進し、安全交通の確保と快適な冬期生活のために対策を積極的に推進する。また、町を拠点とする通信体系の確立を期する。

3、資源の高度利用

 産業基盤の整備と社会開発基盤の整備のため、土地利用の高度化と水資源の多角的な活用をはかり、林産・水産・農畜産資源を一体化した加工工業の開発振興を推進し、企業立地条件の整備と企業の誘致につとめる。

4、社会開発の推進

(1)、労働力の活用と技能訓練の充実

 ア、労働条件、労働環境の整備改善をはかり、研修機関、職業訓練機能などの充実を期することにより、後継者の育成をはかる。

 イ、労働者の近代的雇用制度を樹立し、中小企業のための共同福利施設として中小企業センター、労働会館、青少年研修所等の設置をはかる。また、労働者に対するレジャー施設、生活の安定に資するための援護資金の設置充実につとめる。

(2)、社会福祉機能の強化と施策の推進

 ア、社会福祉関係機関の連帯制を高揚し、機能の充実強化をはかり、社会福祉事業の円滑な推進と住民福祉の向上を期する。そのため、福祉事務所などの設置をはかるほか、指導研修機関として社会福祉センター等の設置につとめる。

 イ、恵まれない人々に対して、憩いの場所、あるいは社会復帰を促進するための健康回復と技能習得訓練の策定、また母子家庭と児童の健全育成に連なる施策を推進し、民間福祉団体の強化育成をはかり、福祉社会の建設につとめる。

(3)、住民の日常生活に直結する環境の整備

住民の日常生活に直接関連する上、下水道施設の整備充実、環境衛生に関連する施策、住民生活の余暇利用に対する施策としての公園、レクリエーションの場などの設置と消防力の充実を期し、住民の生命と財産の保全をはかり、健康で明るく美しい生活環境の整った町づくりを推進する。

 さらに、住民の交通安全をはかるための施策と施設の整備を強力に推進する。

()、終身教育の充実と文化体育の向上

 ア、初期教育と後期教育を通じ、町の産業発展に密着した教育機構の充実と施設の整備をはかり、町民の体力向上をはかるための体育施設の充実を期し、進歩創造性にすぐれた、たくましい心身と情操の豊かな人間形成につとめる。

 イ、教育施設整備および学校統合を推進し、教育の機会均等を高めるとともに、特殊教育施設の整備を行い、児童生徒の教育水準の向上につとめる。

()、保健医療機関の整備と予防体制の強化

予防衛生、公衆衛生施策の充実をはかり、地域に密着した保健サービスの推進を期し、医学の進歩に伴う医療内容の水準と専門化に対応するため医療技術高度化と設備の充実を町立病院を基幹として確立し、救急医療などのほか診療体制の整備を促進する。

 基本方針はこのようにまとめられたが、これはあくまでも「基本構想」であり、いわゆるビジョンであって、この構想をもとに、その基幹的事業についての効果的な実施の裏付けとなる資金計画や内部管理事務の合理化を進める「基本計画」と、それを現実に行財政の中でどのように実施するかを明らかにする「実施計画」が相次いで定められていくわけである。

 

総合開発基本計画の策定

 昭和45年9月の定例会で議決された基本構想に基づき、審議会は各部会において町政の基本的方向と施策の大綱を示す具体的な基本計画について協議を重ねた結果、同年12月10日その策定を終え、町長に答申した。

 これを受けた町では、文章構成の検討、あるいは資金計画作成などの作業を進めたのであるが、46年4月の町長改選により北口盛が当選したことによって新規政策の導入、社会情勢の変化などに対応して既成計画の見直しを行い、47年12月審議会に対して再協議を要請した。このため審議会は総会を開き、検討協議を重ねて最終案を承認し、12月24日町長に対してその旨を通知した。こうして昭和47年度から55年度までの九か年で、総額238億円を見込んだ初の長期総合計画が策定されたのである。

 町ではこの基本計画を具体的に実施に移すための年度別実施計画書、すなわち「町づくり三か年計画」として、毎年度三か年ごとのローリング方式をもって練り上げ、常に時代に即応したきめ細かな計画を立案し、実施に移行することとしたのである。その内容は大別して、(1)都市基盤の整備、(2)産業の振興、(3)教育・文化・厚生の整備、(4)行政・財政を四大柱とし、「道南北部の中核都市」としての飛躍的な発展を目指すものであった。

 

総合開発委員会の設置

 第一次基本計画策定の直後、すなわち昭和47年12月28日をもって総合開発審議会の委員は全員任期満了(第三期目)となった。その後、約一か年空白のまま推移し、翌48年12月議会の議決を経て「総合開発審議会」を「総合開発委員会」と改称するとともに、都市計画審議会の業務についてもこの委員会に統合し、昭和49年8月10日委員22名を委嘱して発足したのである。

 

基本計画の改訂

 昭和47年度に策定した第一次基本計画は、ローリング方式による実施計画により逐年着実な推進が実施されつつあったのであるが、その後の経済・社会情勢のめまぐるしい変化を背景として、実情にそわない部分も見られるようになった。このため北口町長は再び一部改訂の必要を認め、52年8月総合開発委員会に対して諮問し、12月答申を受け、53年度から55年度までの基本計画の改訂を行ったのである。

 

名誉町民の推挙

 八雲町名誉町民は、第一号として推挙していた徳川義親が昭和51年9月に死去してからはしばらく空位となっていた。そこで北口町長は、53年6月開基100年の意義ある年を記念し、永く町勢進展のために尽くした前町長田仲孝一と元議会議長久保田正秋の両名を名誉町民に推挙する議案を町議会に提案し、満場一致賛同を得た。そして開基100年の記念日でもある8月1日、社会福祉センターにおいて推挙式を挙行し、推挙状と名誉町民章を贈るとともに、約300名の有志が参加して盛大な祝賀会を開催した。

 名誉町民となった田仲孝一は、大正11年3月八雲町に書記として就職以来、昭和46年4月に任期満了によって退職するまで、公職追放の間4年有余を除き、実に通算44年余にわたって町勢の進展に尽くしたのである。特に助役二期六年、町長五期二〇年の歴任を通じて残した功労は、まことに大きなものがあった。さらに、全道・全国的な役職にあって自治発展に尽くした功労も大きく、昭和48年11月勲五等双光旭日章受章の栄に浴したのである。

 また、久保田正秋は、およそ13年にわたって徳川農場長を務めたあと、昭和22年4月から46年4月に退任するまで、実に六期二四年の長きにわたり議会議員の職にあり、この間副議長一期、議長四期を務め、円滑な議会運営に尽くした。さらに、社会福祉協議会長23年余、人権擁護委員22年余、防犯協会長16年余、また、八雲町農業協同組合長11年など、数々の要職を歴任して明るい町づくりと産業振興に貢献し、昭和45年11月勲五等双光旭日章受章の栄に浴したのである。

 名誉町民に推挙されたころから病を得て療養に専念していたが、54年11月79歳をもって逝去し、町葬を執行してその霊を弔ったのであった。

 

名誉町民 田仲孝一(写真1)

 

名誉町民 久保田正秋(写真2)

 

昭和54年地方選挙

 昭和54年の統一地方選挙は4月22日に執行されたが、町長選には北口 盛が現職のまま立候補し、無投票で当選した。

 北口町長は、6月開会の定例会において、三期目就任にあたり今後4年間の町政執行方針として「46年町長に就任以来、30年代後半から続いた町の過疎現象を阻止するため、地場産業の振興策や企業誘致による就業安定策を推進し、ドルショック、オイルパニックなどの影響による減速経済下の不況に対応して、数多くの制度による資金を導入のうえ、土木建築などの公共事業やその他の建設事業を実施した結果、町の経済力も漸次向上し、人口も安定した状態となった。こうした社会経済情勢を背景として総合開発計画を推進し、生活環境の整備、教育文化施設の充実、保健体育、その他福祉的な事業を積極的に実施してきたのであるが、時間的、財政的な制約などから、期待したような成果を上げることができなかったため、今任期中において計画中の町立病院の全面改築、ごみ処理場、八雲中学校改築などをはじめ、その他の継続事業の完成を図りたい。また、第一次産業の振興を推進し、調和のとれたよりよい町づくりのため、新しい発展計画を町民参加のもとに樹立のうえ、その実現に努め、渡島半島北部の中核都市建設を目指し、住民全体の生活安定と福祉の向上を図る施策を実施したい。」と述べた。そして重点施策として、1、健康で明るく住みよい町に。2、経済力豊かな町に。3、教育の充実した町に。4、老後の安らかな町に。5、未来に繁栄と夢をもつ町に。の五本の柱を立て、実践の努力目標として町政執行に臨む決意を示した。

 また、町議会議員選挙は立候補者が定数を超え、激しい選挙戦となって4月22日投票の結果、新しい26名の議員が決定した。しかし、当選人村山文彦が選挙直後の4月27日に急逝したので、公選法第九七条の規定により、次点の木村三作が繰り上げ当選となった。この選挙の有権者は1万3553人で、投票率は92・3パーセントであった。

 新しく当選した町議会議員は次のとおりである。

 牧野貞一 寺川時代 高見正一 柴崎弘道 志水賢一 落合好文 松永満雄 石田初男 佐々木繁 溝口義春 工東清長 石川 潔 村井 梓 嵐 忠夫 若林七郎 高木万寿夫 古沢房次郎 関口勝正 石橋和二 倉地一明 佐々木国彦 山田初蔵 水野 博 伊藤 弘 大山勝悦 木村三作

 改選後の初議会は5月4目に開会され、議長に牧野貞一、副議長に高見正一が就任した。

 なおこれらの議員のうち、昭和55年4月に工東清長が、57年12月に石川 潔が死亡した。

 

 第3節 八雲町100年記念

 

100年記念事業の準備体制

 昭和53年は、明治11年(1878)旧尾張藩が開拓を始めてからちょうど100年、すなわち、一世紀の記念すべき年を迎えたわけである。

 このまさしく画期的な意義深い年にあたり、先人の労苦のあとをしのび、過去100年の輝かしい歴史とその栄光に感謝の誠をささげるとともに、次代を担う人々が開拓の歴史にかんがみる機会とし、将来の発展に役立てていく決意を新たにするため、記念式典をはじめこれにふさわしい有意義な記念事業(行事)を実施することとした。

 このため、4年前から準備に入り、49年4月1日には「八雲町100年記念事業準備室」を設置して体制を整えた。

 さらに、各種記念事業が単に町の主唱に陥ることなく、全町民の参加と協力をねがい、お祭りだけの行事にならないようにするため、広く町民の意向を取り入れることとした。こうしたことから51年12月には、町議会正副議長および各常任委員長・各種関係団体長・知識経験者などによる「八雲町100年記念事業推進協議会」(会長・町長北口 盛)を設置し、委員30名を委嘱した。

 なお、当町の開町記念日は8月1日と制定されているが、第1回の推進協議会において記念式典は総合体育館の完成をまって10月1日に行うことに決定した。

 また、記念事業の具体的な内容については、協議会の下部組織として常任幹事会を設置し検討することとした。これにより、52年1月5日付をもって常任幹事29名を委嘱して同月26日第1回の幹事会を関催し、町主催の記念事業と関係諸団体の協賛行事について検討を加えるなど、着々とその準備が進められたのである。

 

テーマスローガンの設定

 過去100年の輝かしい歴史とその栄光をたたえるとともに、二世紀への巨歩を踏み出すにあたり、新たな決意を表すにふさわしいテーマスローガンを、ということで昭和52年9月号広報やくもで一般町民から募集した。しかし、80点の応募作品について選考した結果、最優秀作品に該当するものなしということで、推進協議会の中から起草委員を選任して作成することとなった。この結果、「100年をたたえて築こう豊かな八雲」というテーマスローガンが53年2月9日に答申され、これが採択された。なお、佳作として応募作品の中から5点を選考し、記念品を贈った。

 

町民の歌の制作

 当町には以前から盆踊りなどに使用する音頭が数曲あったが、必ずしも町民に親しまれているとはいえなかった。そこで、100年を契機に新しい音頭と、式典などにも使用できる歌を制作することとし、52年2月12日付をもって専門幹事および参与11名を委嘱した。そして第1回の会議により、著名な作詞・作曲家に委託する方法で検討を加えた結果、北海道出身の八洲秀章に一括委託することに決定した。

 こうして、「八雲賛歌」と「八雲弥栄(いやさか)音頭」は、作詞・作編曲・八洲秀章、唄・原田直之、振付け・五条正雪により、53年3月31日に完成した。

 八雲賛歌

 1、古き歴史を そのままに 流れは語る 遊楽部川(ユーラップ)

 忍苦尊き 開拓の

 祖先の精神(こころ) 承(う)け継ぎて

 築く平和の 美しき町

※おお八雲 共に賛えん (※以下くり返し)

 海幸(うみさち)と山幸(やまさち)満つる 理想郷(ユートピア)

 

 2、大地豊かに 恵まれて

 内浦湾に 陽は昇る

 共に励みて 睦まじく

 感謝と愛と 友情に

 希望輝く 活気ある町

 

 3、明日(あす)の時代に 魁(さきが)けて

 夢ひらけゆく 新世紀

 文化の華(はな)の 咲き香り

 大志抱(いだ)きて 逞ましく

 つねに栄えて 進歩する町

 

 

 八雲弥栄音頭

 

 1、ヤートコリャサ ヨーイトナ (くり返し)

 桜砂蘭部(さらんべ) 深山(みやま)に吉野(よしの)

 娘ごころの 花も咲く ソレ

 ※八雲は良いとこ 弥栄(いやさか)さ (※以下くり返し)

 住みよいところサナ

 (サノ ヨイトヨイト)

 ホンニ ヨイトサノエ

 

 2、のぞむ内浦湾(うちうら) 無限の宝庫(たから)

 どんと獲(と)ります 海の幸(さち)

 

 3、いつも田畑は 豊かに稔り

 広い牧場(まきば)に 牛の群(む)れ

 

 4、山は雄鉾(おぼこ)よ 川遊楽部(ユーラップ)

 のぼる鮭鱒 母の川

 

 5、温泉(いでゆ)たのしや あなたと二人(ふたり)

 胸もときめく 湯の香(かお)り

 

 6、心あわせて 仕事に励みや

 希望輝く 明日(あす)がくる

 

100年記念式典

 世紀の祝典が挙行された10月1日は、まことにさわやかな秋晴れに恵まれ、新装なった総合体育館に内外の来賓約800名を迎えて、午前11時慶祝の花火とともにその幕を開けた。

 まず、八雲開拓の礎となった物故者に対する追悼式が行われ、北口町長の追悼の辞、遺族代表や各界代表礼拝のあと、全員が起立して黙とうをささげた。

 続いて記念式典に入り、青年男女代表による町民憲章朗読のあと町長は「高まいなる町民憲章の実現のため、第二世紀へと更に進歩した町づくりに、すべての英知と活力を結集する。」という式辞を述べた。次いで町の発展に功労のあった個人・団体に対し、表彰状・感謝状の贈呈があり、このあと来賓を代表して北海道知事代理樫原副知事の祝辞に続いて受彰者代表岡田兼雄のあいさつ、原田直之による八雲賛歌の披露が行われ、記念式典は終了した。

 祝賀会は、牧野議長のあいさつにはじまり、衆議院議員阿部文男による祝盃、ともしびコーラスグループによる八雲賛歌、婦人約400名による八雲弥栄音頭の踊り、八雲沖揚音頭保存会による沖揚音頭などのアトラクションのあと、道議会議員阿部恵三男の発声で万歳三唱が行われ、松永副議長の閉会のことばによって午後3時、追悼式・記念式典・祝賀会のすべてが終了した。

 表彰状を贈られた者

 <自治> 牧野貞一、黒川市松、三輪豊光、大山勝悦、村井 梓、渡辺好男、岡田兼雄、伊藤千代吉、安藤太郎、菊地末吉、前田 清、故 小野瑞穂、伊藤政一、故 藤 不退

 <自治産業> 伊藤淳一

 <産業> 菊地廣右エ門、板垣久男

 <産業自治> 川上利秋、木村三作、高木万寿夫、水野 博

 <産業教育> 都築重雄

 <経済福祉> 服部内匠

 <教育福祉> 小泉武夫

 <文化> 鈴木梅子、故 石岡利一、故 黒川キサ

 <体育自治> 松木初次郎

 <福祉自治> 大野康正、岡島宗弘

 <福祉文化> 久下智恵子

 <保健衛生> 本間吾市、羽田宗規、園部昌俊、魚住 清、與座嘉次郎、園部昌清、鏡 新泉、中谷キミエ

 <消防> 故 佐久間省一、古河四郎、吉崎芳造、古沢新一郎、小山田近、小谷竹作、河原忠義、長谷川薫、庄内英一、佐藤行男、水口吉志

 <節婦> 川代敏子、水野ツユ、塩谷トミエ、谷ロケイ、下畑キヨ、須崎冨美、伊藤タマ、坂本マツエ

 <団体> 落部漁業協同組合婦人都、八雲町獣医師会

感謝状を贈られた者

 <嘱託員永年在職> 坂本孫蔵、水野利明、太田次郎、高見宸一、本杉 保、長谷川一治、五十嵐勇、小西健三郎、成田 勇、前田準一、稲垣亀治郎、坂田さわ

 <納税貯蓄組合長永年在職> 大島健男、日比野明巳

 <民生児童委員永年在職> 中谷留吉、平向平三郎、新川武雄

 <団体> 八雲ライオンズクラブ、雪印乳業株式会社八雲工場、北海道新聞社八雲支局

 

主なる記念事業

 町が主催したものや各種団体が協賛した主な事業(行事)は次のとおりである。なお、100年を記念して施行した総合体育館・郷土資料館・図書館の独立などについては、それぞれの項で述べることとする。

 

八雲町主な事業表

事   業   (行   事)   名 実施時期 実  施  場  所 実 施 団 体 名
町民の歌制作とレコードの頒布 3 月 31
町花の制定と苗木の全世帯無料配布 4 月 30
第七回道南ブラックアンドホワイトショー 5 月  5 三杉町家畜市場 運営委員会
ノンプロ親善野球大会  〃  14 運動公園球場 体 育 協 会
開拓100年記念碑除幕式  〃  20 林業研修センター前庭
郷土資料館開館式  〃  20 同 館
100年の森の造成 6 月  6 運動公園
第一〇回道民スポーツ渡島大会夏季大会 7 月  2 運動公園・八小・八中・八高ほか 体 育 協 会
牧場まつり  〃   9 町営育成牧場 観 光 協 会
北海道犬協会渡島支部大会  〃  16 三杉町家畜市場 北海道犬協会渡島支部
NHKラジオ体操(全国放送)  〃  25 八小グラウンド NHK・郵便局
漁船パレード  〃  29 落部漁港・東野・栄浜 落 部 漁 協
花火大会 8 月  1 八雲漁港 観 光 協 会
第一二回八雲ホルスタイン共進会  〃   2 三杉町家畜市場 八雲・落部農協
ユーラップ川下り  〃   6 鉛川〜運動公園 青年会議所
大相撲八雲場所  〃   8 八小グラウンド 実行委員会
道南家畜共進会  〃  11 三杉町家畜市場 運営委員会
石川さゆりショー  〃  15 八小体育館 商  工  会
全町盆踊り大会  〃18・19日 八小グラウンド 町内会等連絡協議会
全道俳句大会 9 月  3 八雲町公民館 八雲俳句会
敬 老 会  〃  15 社会福祉センター    町
100年記念植樹  〃  16 町営育成牧場    〃
日本詩吟学院岳風会八雲支部大会  〃  17 社会福祉センター 岳風会八雲支部
文化講演会  〃  19   〃    町
総合体育館落成記念全日本女子バレーボール優秀チーム招待試合  〃23・24日 総合体育館 実行委員会
100年記念塔の建設  〃  27 さらんべ公園 建 設 協 会
自転車交通広場の造成  〃  30 運 動 公 園    町
100年記念式典 10月  1 総合体育館    町
回顧写真展  〃1〜10 八雲町公民館    〃
町民総合作品展  〃1〜10   〃 実行委員会
NHK歌と民謡のつどい  〃    総合体育館 NHK函館放送局
タイムカプセルの設置  〃   15 さらんべ公園 青年会議所
酪農公園の開設と乳牛母子像の除幕式  〃   28 立   岩 八 雲 農 協
町立図書館の開館 11月  3 町立図書館    町
全町かくし芸大会  〃  19 社会福祉センター 町内会等連絡協議会
記録映画の制作  〃   24      町

 

 第4節 第10回統一地方選挙

 

昭和58年地方選挙

 昭和58年(1983)4月には、地方自治法施行(昭和22年5月3日)以来実施されている統一地方選挙が第10回目を迎え、10日に知事と道議会議員、24日に町長と町議会議員の選挙が執行された。

 町長選挙は現職の北口盛と前町議会議長の牧野貞一が立候補した。現職の北口は「活力のある町づくり」をスローガンとして掲げ、経済力をつける政策を推進することを最重点の公約とし、基幹産業である酪農と漁業の振興策に力点をおき、酪農については、@国営の事業導入により、農地造成などの基盤整備を図る。A複合経営を奨励して所得向上を目指すとし、さらに漁業は、@主力のホタテ養殖を補完する意味で、サケ・マスの大規模な養殖施設を建設する。A漁港整備を推進する。二次産業の分野では、既存企業の育成に力を入れるとともに、雪印乳業八雲工場の再開を含めて企業誘致に努め、また、地元商工業者保護策として大型店の進出を認めない。さらに将来の問題として、地熱開発資源に取り組むとし、このほか、大学誘致によって教育・文化水準の向上を図るなど、各分野において思いきった施策を掲げて選挙に臨んだ。

 一方、新人である前議会議長の牧野は、基本姿勢として、まず住民本位の公平な町政執行を目指すとし、@健全財政の確立、A第一次産業の見直し。B内容の充実した大学の誘致、などを公約に掲げて選挙に臨んだのである。

 連続4期当選を目指す北口は、57年春の出馬表明以来全町的にてこ入れを図り、若年層への浸透にも努めるなど、地盤固めを行って先行していたのに対し、告示二か月前に名乗りを上げた牧野は、現職批判層を掘り起こすとともに地区労とも提携するほか、農村地区にも食い込むなど急速に追い上げをみせた。

 こうしてがっぷり四つに組んで激戦を展開したが、4月24日投票、翌25日開票の結果、新人牧野が6278票、現職北口が6270票という得票数で、わずか8票という有史以来の小差で牧野が町長の座を獲得したのであった。なお、この選挙における投票率は93・55パーセントの高率を示した。

 

町議会議員選挙

 町長選挙と同時に行われた町議会議員選挙は、26名の候補者によって24の議席(57年9月の第3回定例会で定数を2名削減)が争われたが、当選者は次のとおりであった。

 高見正一 山内尊洲 佐々木国彦 岩間勝敏 松永満雄 石田初男 村井梓 大山勝悦 木村三作 寺川時代 佐々木繁 志水賢一 高木万寿夫 池田幸也 溝口義春 落合好文 柴崎弘道 倉地一明 伊藤弘 水野博 土井行夫 古沢房次郎 竹浜俊一 関口勝正

  改選後の初議会は5月12日に開かれ、議長に高見正一、副議長に佐々木繁が就任した。

 

第10回統地方選挙町長・議会議員就任記念(写真1)

 

北口町長任期満了退任

 北口盛は、昭和46年5月町長に就任以来3期12年間、激動する世相の中で町勢の伸展に留意し、種々の施策を進めた。特に昭和47年度から開始された第四次防衛計画に関連して、当町がナイキ基地候補として報道されたことに端を発し、町を二分する渦中で職を辞して町民の意思を問い、再び町長に就任して飛行場の高度活用を図るとともに、住民福祉と産業基盤の整備による生産力の向上を図り、数々の業績を残したのである。その具体的な実績については各編に記載することとし、昭和58年4月30日任期満了により、新町長牧野貞一に引き継ぎを了し退任したのであった。

 

小泉助役の辞職

 昭和46年6月助役に選任された小泉不二夫は、3期12年間北口町長を補佐してきたが、58年4月の統一地方選挙終了後、一身上の理由により辞職した。

 

 第5節 国勢調査と人口動態

 

第1回国勢調査

 政府は行政の基礎資料を得るため、諸外国の例に倣い、明治35年(1902)12月「国勢調査ニ関スル法律」を公布して準備を進めたのであるが、その後日露戦争によって受けた経済的な打撃が大きかったため、実施は延期されていた。大正7年に関係法令を公布し、第1回の国勢調査は大正9年10月1日午前0時現在を期して実施されたのである。

 町においても人口の動態を明らかにする重要な調査でもあったので、前年の10月から役場内に臨時国勢調査課を設置して準備に着手した。八雲町では50(落部村では20)の調査区を設け、各調査区に内閣から発令された調査員を配置のうえ、本調査に対する一般の理解と協力を求めながら、予行訓練を行うなど万全を期したのであった。

 こうして行われた調査の結果は、八雲町では世帯数2762、男7401人、女7012人、計1万4413人で、落部村では世帯数575、男1597人、女1544人、計3141人であった。

 この国勢調査は、大正9年以降5年ごとに行われ、戦後は22年(1947)に臨時調査、25年からは再び5年ごとに実施されている。

 なお、西暦年の末尾が0の年(例えば1970年)、すなわち10年ごとに、人口の年齢別・性別・配偶関係などの基本事項や、産業・職業・失業などの項目に及ぶ大規模調査が行われ、その中間の年は原則として基本事項だけの調査となっている。

 昭和55年(1980)に行われた国勢調査で、第13回を数え、この年の当町の調査区は156で、調査員は152名であった。

 

人口と世帯の推移

 大正9年に行われた第1回国勢調査以前の人口や世帯の推移については、信頼できる史料が乏しくはっきりしないが、当町開拓以来の人口と世帯の推移は次表のとおりである。

 国勢調査の結果から人口動態の推移をみると、世帯数については第1回国勢調査以後は昭和5年まで漸減したが、モの後は増加を示し、

 

第1回国勢調査員(八雲町)(写真1)

 

人口と世帯の推移(八雲村・落部村)

    区分
年次
八雲村 落部村
世帯数 人         口 世帯数 人         口
総  数 総  数
明治11年         143 765 400 365
   16         120 635 325 310
   21         139 736 371 365
   26 337 2,254     150 909    
   31 759 3,807 2,047 1,760 363 1,818 952 866
   36 1,324 6,789 3,620 3,169 366 1,901 978 923
   41 2,444 11,455 6,092 5,363 408 2,355 1,198 1,157
大正 2年 2,460 13,279 6,903 6,376 452 3,512 1,813 1,699
    7 2,533 15,864 8,270 7,594 559 3,664 1,855 1,809

 

国勢調査による人口動態

  区分
年次
八雲村 落部村
世帯数 人      口 世帯数 人      口
総 数 総 数
大正9年 2,762 14,413 7,401 7,012 575 3,141 1,597 1,544
  14 2,530 13,701 7,179 6,522 555 3,233 1,705 1,528
昭和5年 2,600 14,541 7,863 6,678 677 3,966 2,114 1,852
  10 2,825 17,002 9,398 7,604 701 4,207 2,122 2,085
  15 2,709 16,119 8,583 7,536 667 4,140 2,063 2,077
  22 3,512 19,227 9,560 9,667 911 5,092 2,495 2,597
  25 3,675 20,525 10,373 10,152 907 5,375 2,646 2,792
  30 4,079 21,480 10,754 10,726 917 5,258 2,644 2,614
  35 5,180 25,111 12,363 12,748        
  40 5,217 22,487 10,985 11,502        
  45 5,377 20,345 9,784 10,561        
  50 5,561 19,260 9,137 10,123        
  55 6,132 19,819 9,754 10,065        

 

人口もやや増加を続けていることがうかがわれる。特に昭和22年の臨時国勢調査では、前回の調査より八雲で803世帯、3108入、落部で244世帯、952人の増加がみられた。これは、太平洋戦争が終わったことにともなう復員軍人や海外引揚者などの来住によることと、戦後のいわゆるベビーブームによる自然増であろうと思われる。

 またこのころは開拓者として入植する者も多く、八雲と落部が合併した32年までは、両町村ともやや増加傾向を示しており、35年の調査では5180世帯、2万5111人の町勢となった。

 合併後の推移をみると、35年以後は社会情勢の変化によって、戦後入植した開拓者の離農(離農対策などによる)が始まり、さらに高度経済成長政策による都市への人口流出など、いわゆる社会減により人口は徐々に減少しはじめるのであるが、半面、核家族化は年々進み、世帯数は逆に増加を示している。

 こうした時代を背景に、人口の減少理由として具体的な大きな原因とみられるものは、44年(1969)中外鉱業株ェ雲鉱業所の閉鎖による職員の大型配転、50年以降実施された雪印乳業鰍フ合理化対策による職員の配転と、56年の同八雲工場の閉鎖による全職員と家族の転出、自衛隊部隊の車力村への移動、官公庁出先機関の縮小と統廃合などが挙げられる。さらに、戦後30年を経過し、終戦直後の爆発的なベビーブームから、計画出産の指導などによって出生率は低下し、23年の出生数785人に対して55年では244人(いずれも旧八雲町地域のみ)と3分の1以下となっており、こうした人口減が過疎地域指定(昭和45年度指定)の要因ともなったのである。

 町はこれら過疎現象の阻止対策として、46年に企業誘致対策を打ち出し、人口流出の抑制を図った。その結果5工場の立地が実現し、これら企業に就職する地元労働者や関連産業の進展にも好影響をもたらすところもあって、人口流出は鈍化の様相を呈し、昭和50年以降においては若干ながら増加をみるようになり、横ばい状態を示すに至った。

 

第5章 八雲飛行場と自衛隊

 

 第1節 八雲飛行場の建設

 

陸軍飛行場の建設

 太平洋戦争は昭和16年(1941)12月8日米・英に対する宣戦布告により、真珠湾攻撃の奇襲作戦によって開始され、ハワイの軍事施設を壊滅し、続いてマライ・比島・太平洋諸島・蘭印・ビルマ・ニューギニア・ソロモンなどの各攻略作戦に大勝をおさめた。しかし、開戦3年目の18年2月にガダルカナル島を撤退してからは、太平洋の全戦局で攻守ところを変え、日本軍の敗色は次第に濃厚となってきた。

 こうした憂色濃い戦局のさなか、18年4月19日に陸軍航空本部の村田・粂内両太尉一行が来町し、当町に陸軍飛行場を建設する計画のあることが伝えられた。折から函館市へ出張中の宇部町長は急ぎ帰町し、村田大尉らと打ち合わせた結果、飛行場予定地域内の土地および建物所有者など関係者の参集を求め、22日町役場において緊急会議を開催したのである。徳川農場長久保田正秋をはじめ通知を受けた関係者は、全員出席のうえ村田大尉から飛行場建設について説明をうけ、直ちに全員が同意を表明したのであった。これにより翌日から予定地区の実測が開始されたのである。

 このころの様子について、土地を接収されたひとりである太田孝正(故人)によると、津別村に派遣のうえ秋田木材から入手し、列車積込完了まで現場の処理に当たらせるなど、当時は切符制であったにもかかわらず、その困難を克服した結果移転は順調に進み、指定期日までに全農家が完了したのであった。

 こうして移転した農家は次のとおりである。

 1 自作農家

 若山仙之助 市岡文彦 林ユウ 服部武男 宝田浅次郎 都築達三 太田光太郎 太田正治 高見儀三郎 中野茂三郎 服部甫

 2 小作農家

 中里伊三郎 池野松太郎 井上光彦 高見富三郎 水野市太郎 森田好蔵 加藤良衛 中村常吉 村上安雄 幡野豊道

 また、農家以外の移転者は次のとおりである。

 倉地光太郎 杉山清次郎 青柳半次郎 村上正太郎 新田清三郎 堂七徳之

 以上のように、農家21戸、非農家6戸、計27戸であった。

 さらに、このほか立ち退きを命じられた主な施設や建造物は次のとおりである。

 1 北海道庁立八雲中学校

 校舎・寄宿舎・その他付属建物は兵舎に転用し、学校は他に位置を選定して新築

 2 郷社八雲神社

 社殿および社務所・その他付属建物を移転補修

 3 徳川農場事務所

 事務所・倉庫・畜舎・その他付属建物を移転補修

 「正確なことはだれもわからないと思います。でも私たちは『函館と室蘭の間だから』と聞いておりました。………。」

 「変なやつが畑の中を歩いている」というので行ってみたら、兵隊が人夫を使って畑の中を勝手に測量していた。「なんのためにしているのかなあ」と思って、いろんな人に聞いてみたら「八雲に飛行場ができるらしい」という。そんなうわさぱ、まだ雪のあるうちからありました。………。」

 また、同人の日記の一部に、

 昭和一八年四月一一日

 「いも畑再墾始める。さらんべ・大新方面へ飛行場ができる話あり。所有畑かかるらしいのでやめる。」

 二〇日「できるのは本当らしい。一切畑仕事せず。」

 二一日「役場より飛行場のことで、明日出頭せよとの通達あり、益々濃厚なるため仕事せず。」

 二二日「陸軍航空本部より大尉来り、地区その他、さらんべ、中学校、お宮、大新下の地区全部敷地内に入る。八雲の一大変化に人心大いに迷う。」

 二三日「仕事全く手につかず、午後測量実測す。前の道路から以北、住宅はかからぬらしい。」

 二四日「すこし安心し、小山(畑の名)へいも畑耕し始める。午後ハローをかける。」

 (わたしたちの町八雲・指導資料編から)

などと書かれている。

 この飛行場は、八雲町字砂蘭部野地内の約270ヘクタールで、地域内には移住以来すでに3代にわたる農家もあり、渡島管内における酪農の中心地域として土地改良事業の実施直後でもあって、移転先の選定は容易なことでなかった。また、畜舎に付属するサイロや尿だめなどの永久施設は移転が不可能なため新設しなければならず、農家の移転は困難を極めたのであった。しかも、これら対象者の移転期限は、同年6月20日と指定されたため、急ぎ移転先を選定し、自作小作合わせて21戸のうち小作3戸が他町村(長万部1、七飯2)へ転出しただけで、他はすべて比較的近い地域に適地を選んで移転した。

 町では、これら農家の移転に必要な車馬や労力などは町民の奉仕とし、また各種の資材のうち、セメントなどのように他から調達することのできないものは軍から供給を受け、住宅その他の建物の補修に必要な木材は、町職員を北見の津別村に派遣のうえ秋田木材から入手し、列車積込完了まで現場の処理に当たらせるなど、当時は切符制であったにもかかわらず、その困難を克服した結果移転は順調に進み、指定期日までに全農家が完了したのであった。

 こうして移転した農家は次のとおりである。

 1 自作農家

 若山仙之助 市岡文彦 林ユウ 服部武男 宝田浅次郎 都築達三 太田光太郎 太田正治 高見儀三郎 中野茂三郎 服部甫

 2 小作農家

 中里伊三郎 池野松太郎 井上光彦 高見富三郎 水野市太郎 森田好蔵 加藤良衛 中村常吉 村上安雄 幡野豊道

 また、農家以外の移転者は次のとおりである。

 倉地光太郎 杉山清次郎 青柳半次郎 村上正太郎 新田清三郎 堂七徳之

 以上のように、農家21戸、非農家6戸、計27戸であった。

 さらに、このほか立ち退きを命じられた主な施設や建造物は次のとおりである。

 1 北海道庁立八雲中学校

 校舎・寄宿舎・その他付属建物は兵舎に転用し、学校は他に位置を選定して新築

 2 郷社八雲神社

 社殿および社務所・その他付属建物を移転補修

 3 徳川農場事務所

 事務所・倉庫・畜舎・その他付属建物を移転補修

 4 渡島支庁奨励苗圃

 事務所および倉庫を移転

 5 大新農事実行組合会館

 移転

 

大新農事実行組合会館移転売却価格表

  区分
地目
宅地 (坪) 3円50銭 2円50銭   
畑    (反) 450円 270円 150円
原野  (反) 80円 60円 40円
山林  (反) 80円 60円 40円

 

また、移転のともなわない土地だけの買い上げは次のとおりであった。

 小出守一 林常則 幡野直次 八木勘市 石田秋次郎 渡辺乙平 臼渕永造 八雲町農会 岡野利治 吉田秀夫 久保田正秋 太田孝正 前田鈴 鈴本甚五郎 服部正彦 岡野良一 谷内伊太郎 長野宇一郎 神繁夫 小川賢三

 北海道興農公社 竹内信隣 前田幸雄 片桐利左衛門 高見宸一

これら土地の買上価格は、甲・乙・丙の3段階に区分されて次のとおりであった。

 この価格は、当時の法定価格をはるかに超えたものであり、家屋移転補償料、地上地下物件に対する補償料および立木代金、たい肥の運搬費なども計算されて対象者に支払われた。

 また、この飛行場建設に際し徳川家では、宅地350・9坪、畑3町5反5畝26歩、山林9町3反11歩、立木8929本(エゾマツ・トドマツ・カラマツ・ナラ・スギ・ゴヨウマツ・庭木など)などのほか、同農場邸園全地域を軍に寄付したのである。陸軍航空本部では飛行場完成とともに、農場事務所跡(真萩館)に記念碑を建ててこれを顕彰したのである。

 こうして飛行場建設工事は6月27日に地鎮祭を行い、粂内大尉指揮のもとに進められ、11月10日には飛行機の発着を迎えるに至ったのである。

 

付帯工事の設置

 昭和19年に飛行隊長岡村少佐が着任したのであるが、八雲飛行場の装備が戦局に即応しないものであるとして、渡島・檜山・後志の各支庁全管内、胆振支庁の一部、函館市と小樽市などの官民、学校の代表者を招き、付帯緊急工事設置に必要な労力奉仕について要請があったのに対し、時局に応じて満場一致奉仕を督ったので、この計画は直ちに実行に移されることとなったのである。

 工事は、「えん体」、「誘導路」、「隠密飛行場」、「道路・橋・堤防」などで、飛行場の周辺半径4キロメートル余にわたる大規模なものであった。労力奉仕は、伐採・運搬・製材・工作など、職業や経験の有無を考慮してそれぞれの部門を担当した。こうして完成したえん体や橋には、奉仕隊の出身町村名を付けたのである。例を挙げれば、「小沢橋」「狩太橋」(いずれもポン奥津内川に架橋、後志支庁管内小沢村、狩太町=現ニセコ町=の奉仕隊が架橋)などがある。

 各地からの奉仕隊は10日分の食糧を携行し、これに地元の奉仕隊や学徒隊を合わせると、毎日の出勤人員は7000人を数える状況で、当町役場としてはこれらに対する宿舎や物資の調達、各種のあっせん・案内・慰問などに町長以下全職員が不眠不休の活動を続けたのであった。こうして工事は進められ、同年11月に全工事が完成したのである。

 掩 体(えんたい)

 昭和19年の春から秋にかけて、各農家ごとに、土を土堤のように盛り上げ、それに屋根をつけ、中に戦闘機を入れて隠す掩体がつくられた。

 しかし、実際に出来上がったものはほとんどなく、終戦の20年に掩体に入ったものは、黄色く塗ったベニヤ板の飛行機で木の枝などで隠してあったが、上空からは、むしろ見えるように擬装してあった。

 隠密飛行場

 昭和20年の敗戦間近につくられた。牧草地の草をはぎ、土を削って平らにし、その上に小石を敷きつめて地面をかたくし、その上に芝を張った。戦闘機が発着することになっていたが、そのうちに終戦となり使用されなかった。

 三角兵舎

 昭和20年春から夏にかけて、大新の山の中腹に、約30戸位つくられた。屋根だけが三角に出ているが、壁面はすっぽりと地中に隠れ、大きさもそれぞれ幾種類かに分かれ異なっていた。

 兵舎のまわりの立木なども、最低限しか切らなかったので、隣りの兵舎からもよく見えなかった。又屋根も芝を張って擬装したので、上空からも見えないようにしてあった。

 (わたしたちの町八雲・指導資料編から)

 

飛行場の終戦処理

 八雲飛行場の建設に際しては、農地の喪失などのほか、払った犠牲は大きなものがあった。しかし`終戦によって各施設は次のように利用されたのである。

 1 陸軍病院は兵舎を統合のうえ規模を拡げて国立札幌病院八雲分院とし、その後昇格して国立八雲病院となり、総合病院として地方の医療に貢献、現在はすでに改築されたが、国立療養所八雲病院としてその機能を発揮している。

 2 兵舎のうち気象隊の分は昭和22年に八雲税務署庁舎に充て、部隊本部は逓信講習所に、その他の兵舎は学校あるいは引揚者寮などに充てた。

 3 軍官舎(隊長官舎2棟2戸、将校官舎24棟48戸、判任官官舎10棟20戸、計70戸)は、貸し付け・所管替え・払い下げなどによって住宅難の解消に対処した。

 4 飛行場周辺の水路施設はそのまま利用し、市街地やその周辺一帯の水害防止に備えた。

 飛行場用地は、「戦後緊急開拓実施要領」に基づき、農地として利用できる約140ヘクタールを昭和21年4月から1年間、八雲町が事業主体となって一括使用することにつき札幌財務局長から認可されたので、実測のうえ事業計画に基づき、(イ)旧土地所有者、(ロ)林興農社、(ハ)町営農園(町内会に耕作させる)その他に割り当てて耕作させた。

 このほか、事業主体を北海道水産孵化場とする淡水魚族養殖施設のため、同孵化場渡島支場へ若干の面積が配分された。

 その後、昭和23年の秋に米軍によって飛行場滑走路は破壊されたが、朝鮮戦争がぼっ発した昭和25年米軍に接収され、新しく飛行場が建設された。

 この飛行場建設工事は日本舗道が元請けとなり、多くの下請業者が入って米軍のきびしい監督のもとに進められた。

工事は極めて難航しながら27年に完成したのであるが、元請けの日本舗道は大きな欠損を出す結果となり、各業者に食料品や資材を供給していた町内の商店は、多額の未収金を背負い込んだのである。

 この飛行場には26年から八雲飛行基地警備隊として、隊員約380名が採用されて警備にあたったが、その後これらの隊員は、三沢や千歳の飛行場などに配置転換となり、32年に米軍が撤退した時点では、120名に減員されていた。

 

 第2節 自衛隊誘致運動

 

飛行場の自衛隊移管

 旧陸軍によって築設された飛行場の滑走路と誘導路は、昭和23年(1948)駐留米軍指揮のもとに破壊され、いちじは完全に飛行場としての機能を発揮できない状態とされた。しかし、昭和25年朝鮮動乱のぼっ発を契機とする防衛強化の見地から、米軍が再び基地用地として接収し、新たに滑走路と誘導路を築設した。

 接収用地は、旧陸軍が使用していた区域に比べるとかなり縮小されたものであったが、滑走路は全長1・8キロメートル、オーバーランを含めると2・1キロメートルに達する規模のものであり、このほか以前の基地区域外に、特に民有地を買収して給油施設を設けるなど、再び軍事基地としての機能が整えられたのである。

 こうしてその後しばらく米軍の管理化におかれていたが、昭和32年(1957)に駐屯米軍の撤退方針が決定して6月には全員が撤退を完了し、これらの施設はすべて防衛庁に移管され、引き続き航空自衛隊(第2航空団)が管理する方針が打ち出された。

 

自衛隊駐屯反対の動き

 こうした動向を察知した町議会の一部議員は、自衛隊駐屯に反対する機運を盛り上げるため有志議員に働きかけ、昭和32年9月の第3回定例会において、佐久間省一ほか9名の議員による「八雲町の平和都市宣言の件」を議題として提出し、即日これを議決した。

 宣  言

 北海道八雲町は、日本国憲法を貫く平和精神に基いて、世界連邦建設の趣旨に賛同し、全世界の人々と相携えて永久平和確立のために邁進する平和都市であることを宣言する。

 昭和32年9月28日

 八雲町議会

 しかし、一方では自衛隊を誘致してこの基地を活用し、町の発展を期すべきだとする意向も多く、町議会でも自衛隊が駐屯している他市町村の実情を視察するなど、動きは活発であった。ところが、同年12月の第4回定例会では、こうした動きに機先を制する形で西亦治信ほか12名の提案により、八雲飛行場は平和的にして生産的に利用されるべきであるとする「自衛隊駐屯反対決議に関する件」が提出され、賛成多数でこれを可決し、議会としての意思を決定したのである。

 

 自衛隊駐屯反対決議

 八雲町に自衛隊が駐とんすることを反対いたします。

理由

 わが八雲町は80年の長きにわたって営々として郷土の建設にいそしんできました。

 そもそも八雲町の産業構成は酪農を主体とした農業経営と沿岸漁業の基幹産業とそれを基盤にした商業によって形成されておるのであります。

 このたび八雲飛行場の米軍接収解除に伴い防衡庁に移管され、自衡隊が管理使用するという方針が打ち出されるに至りました。

 航空自衡隊の飛行場使用によってその地域の酪農業並に漁業に及ぼす有形、無形の被害は、他の例をみるまでもなく極めて甚大なものがあります。

 このことは高集酪の設定に伴う酪農振興策も漁村経済再建の諸施策にも隘路を生じ、延いては商工業振興の基盤が動揺することを意味するものであります。更に学校教育に与える支障ははかり知ることができないものがあります。飛行訓練の爆音による心理的影響も大きく、特に入院患者は一大脅威を受けるものであり、町が民生安定の大事業として完成した町立病院の経営も阻害することは否定できないのであります。

 八雲町全体の発展の見地に立って最大多数町民の利益を守るために八雲飛行場は平和的にして生産的に利用されるべきものであります。

 以上の理由に基き八雲町に自衡隊が駐屯することは絶対反対します。

 右決議する。

 八雲町議会

 この決議事項は、当然のことながら関係筋に伝えられたが、八雲飛行場は昭和33年3月限りで米軍管理から完全に返還され、4月からは防衡庁の管理下となって、若干の隊員と警備要員を配することとなった。

駐屯反対決議の取り消し

 自衛隊駐屯反対の決議が可決されたとはいえ、あくまでも自衛隊の誘致によって町の発展を期そうとする議員も多かった。

 こうした議員たちは、昭和34年4月の改選による議会構成の変化と、既に八雲飛行場が自衛隊の管理に属しているという現実に立って、まず反対決議を白紙に戻すための動きを起こし、35年1月の臨時会において愛山行永ほか4名が提出した「自衛隊駐屯反対決議取消に関する決議案」が審議されたが、賛否両論の激しい論争が展開された後、採決の結果、賛成者多数でこの決議案は可決され、先の駐屯反対という議会の意思は取り消されたのである。

 

 自衛隊駐屯反対決議取消に関する決議

 一、趣旨

 昭和32年12月21日決議の自衛隊駐屯反対の決議を取消すものとする。

 一、理由

 昭和32年12月21日本議会において自衛隊駐屯反対が決議せられ、その後2ヶ年を経過しているにも拘らず何等の実現もみない。要するに八雲町議会の決議は国家の現状と世界の情勢に対して認識不足に基づく不当の決議である。従って八雲町発展のために貢献する決議でなかったことを認識すべきである。

斯る有名無実の決議を存置することは、八雲町議会の権威に拘るのみならず、八雲町将来の発展を拘束するものであって町発展を阻害すること大である。

依って茲に自衛隊駐屯反対を取消すものとする。

 右決議する。

 昭和35年1月20日

 八雲町議会

陸上自衛隊誘致の賛成決議

 自衛隊駐屯反対を白紙に戻してから、その後はこれといった動きもみられないまま平静に推移したが、昭和38年12月の第4回定例会において黒川市松ほか11名の発議により「自衛隊誘致賛成決議案」が提出された。

 

 自衛隊誘致賛成決議

 1、趣旨

 八雲町に自衛隊誘致することについて賛成を決議するものとする。

 2、理由

 自衛隊駐屯の市町村の現況をみるに、その活動力をもって市町村の発展に寄与するところ大なるものあり、八雲町に自衛隊を誘致することにより益々町発展に期することができるものと確信する。

 右決議する。

 昭和38年12月20日

 八雲町議会

 この決議案は、なお慎重審議の必要性が認められ、特別委員会(委員長・佐久間省一)に閉会中の継続審査が付託された。これを受けた特別委員会は、既に自衛隊が駐屯している市町村の実態等について調査検討を続けた結果、特に公害の少ないと見られる「陸上自衛隊」の誘致に限定することが適当であるとし、原案の一部修正を決めて議会に報告した。そして翌39年3月の定例会において委員会報告どおり、原案の「自衛隊」という字句を「陸上自衛隊」と修正して賛成多数で可決したのである。

 一方、この誘致賛成決議に対して反対の立場をとる町民は「平和を守る会」(会長・宮岸忠孝)を組織し、847名の署名を集めて誘致賛成決議案に反対する請願書を議会に提出していたが、これは、同月賛成少数により不採択と決定された。

 こうして、陸上自衛隊に限定して誘致賛成という議会の方針が決まり、議会や町理事者によって、随時防衛庁当局に対して陳情が展開されることになったのである。

 

給油施設敷地の解放要請と自衛隊誘致

 米軍によって飛行場が再建設された際、燃料補給を容易にするため、新たに土地を求めて相生町地内に給油施設が造られていた。しかし、その後防衛庁に移管されてからも、この基地が高性能機の常時離着陸には不適当であるとしてほとんど利用されないため、給油施設用に特に設けられた鉄道引込線も撤去されて、全くの遊休施設となっていた。

 このため町では、この施設が遊休地として市街地の一部にあって放置されていることは無益であり、これを公共用地として活用すべきであるという観点から、その用途を廃して町に払い下げするよう陳情を続けていた。

 こうした要請に対応した防衛庁では、昭和45年6月に現地調査の結果、要約して、

 「八雲の飛行場は部隊の有無に拘らず戦略的重要地であり、基本的にはあくまでもこれを確保したい。基地は第4次防の中で小規模だが一部隊200名程度の公害のない部隊を考えている。しかし滑走路の拡張は考えていない」

という趣旨の回答とともに、

 「給油施設地区については、未確定ではあるが、およそ半分を住宅用地とし、あとの半分は町に払下げを考えたい。」との説明であった。

 

給油施設  (写真1)

 

 これを受けた町では、議会と緊急協議し、町長と議長連名による自衛隊誘致の陳情書を議会の代表とともに携えて上京、中曽根防衛庁長官その他に対し、当町への早期駐屯を要請したのである。さらに、議会の内部に「自衛隊誘致委員会」(委員長・黒川市松)を設置して、その任期中積極的な誘致運動を続けたのである。

 

陸上自衛隊誘致運動の終息

 昭和39年(1964)3月19日議決の「陸上自衛隊誘致賛成」を根拠として、その後積極的な誘致運動が続けられてきたが、半面、これを容認できない立場の革新系議員は、46年6月の第2回定例会において水野博を提出者(賛成者3名)として、その誘致賛成決議を再び取り消そうとする次の決議案が提出された。

 

 陸上自衛隊誘致賛成決議取消しに関する決議(案)

 主旨

 昭和39年第1回八雲町議会定例会において決議された陸上自衛隊誘致賛成決議を取り消し、基地の平和利用への転換を計り、平和憲法及び八雲町議会で決議されている平和都市宣言の本旨を守る。

 理由

 本年4月防衛庁が発表した第4次防計画により、八雲町は航空自衛隊の配備が明確化されている。このことは、さきの決議案の主旨とい異り、酪農及び増殖沿岸漁業を中心とする八雲町にふさわしくなく、更には市街地に隣接し、公害は必然と言っても良いと思う。この際いかなる自衛隊も誘致すべきではなく、基地の平和利用への転換を強力に推進を計り、町民憲章にもある如く、美しく活気にあふれた町づくりをするためにも、陸上自衛隊誘致賛成決議を取り消すものである。

 以上決議する。

 昭和46年6月30日

 八雲町議会

 

 この決議案は、7月3日の議会に上程されたが結局賛成少数で否決され、しかも、新たに「陸上自衛隊誘致特別委員会」(委員長・黒川市松)を設置して常時活動が進められることになった。

 こうした経緯により、その後、随時陸上自衛隊の誘致運動が続けられたのであるが、昭和47年8月の第4次防衛力整備計画(47年度から5か年)の原案発表に次いで、翌48年1月10日付の「北海道新聞」に

 「4次防の目玉の一つである青函地区のナイキ基地配置について、本道側の候補地として八雲町を内定」

という報道がなされ、八雲基地をめぐる動きは、にわかにあわただしさを加えたのである。

 このような情勢の変化に直面した特別委員会は、陸上自衛隊誘致実現の可能性を確認するため調査の結果、

 「現段階において八雲に陸上自衛隊を設置する計画はないし、4次防の中でもその計画はない」

という意向が確認された。このため特別委員会は48年3月開催の定例会に対し、次のような調査報告書を提出したのである。

 

 特別委員会調査報告書

昭和46年7月3日第2回定例議会において付託を受けた「陸上自衛隊誘致について」は、このたび調査を終了し次のとおり報告する。

 記

 1、調査の経過

  本委員会は付託を受けた「陸上自衛隊誘致について」関係機関の事情聴取と陳情を行い慎重に検討し協議を加えた。

 2、調査の結果

  第4次防衛計画には、陸上自衛隊の配備計画がなく、陸上自衛隊の誘致は困難である。

 こうして、議会の議決に基づく陸上自衛隊の誘致運動は、一応、終止符が打たれたのであった。

 

 第3節 飛行場の高度活用

 

第4次防のナイキ部隊配備計画

 防衛庁は、昭和47年(1972)8月1日、47年度から始まる第4次防衛計画の原案を明らかにしたが、この計画案による航空装備の中でナイキ部隊の編成を計画し、青函地区と沖縄地区に2群を設置する方針が示され、10月9日国防会議を経て公式に決定された。

 こうした経過のなかで、当町へのミサイル基地配備に対する反対の動きが出始めていたが、昭和48年1月10日の北海道新聞に「青函地区の地対空ミサイル基地配備の候補地として八雲町を内定」(前掲)という報道がなされてからは、ナイキ基地をめぐる町内外の動きは、にわかに活発化していった。おりから上京中の北口町長は、防衛庁を訪れて

その事実関係をただしたが、

 「八雲町には飛行場があり候補地となっているが、内定したという段階ではない」

とし、まだ検討中であるという回答を得るにすぎなかったのである。

 

ナイキ基地設置反対運動

 昭和48年1月10日の新聞報道は、町民に大きな衝撃を与えた。

八雲地区労・社共両党・一般町民有志で構成している「八雲町平和運動連絡会議」は急ぎ協議会を開催し、「八雲町へのナイキ設置を絶対反対する」ことを決め、各戸にチラシを配布するなど、広報活動によって世論を盛り上げるとともに、上京中の北口町長の帰町をまって抗議交渉を行うこととした。

 また、基地設置に反対する革新諸団体は、それぞれ上部機関と連絡のうえ、運動の進め方などを検討しはじめたのである。 こうして、議会の議決に基づく陸上自衛隊の誘致運動は、一応、終止符が打たれたのであった。

 

 第3節 飛行場の高度活用

 

第4次防のナイキ部隊配備計画

 防衛庁は、昭和47年(1972)8月1日、47年度から始まる第4次防衛計画の原案を明らかにしたが、この計画案による航空装備の中でナイキ部隊の編成を計画し、青函地区と沖縄地区に2群を設置する方針が示され、10月9日国防会議を経て公式に決定された。

 こうした経過のなかで、当町へのミサイル基地配備に対する反対の動きが出始めていたが、昭和48年1月10日の北海道新聞に「青函地区の地対空ミサイル基地配備の候補地として八雲町を内定」(前掲)という報道がなされてからは、ナイキ基地をめぐる町内外の動きは、にわかに活発化していった。おりから上京中の北口町長は、防衛庁を訪れて

その事実関係をただしたが、

 「八雲町には飛行場があり候補地となっているが、内定したという段階ではない」

とし、まだ検討中であるという回答を得るにすぎなかったのである。

 

ナイキ基地設置反対運動

 昭和48年1月10日の新聞報道は、町民に大きな衝撃を与えた。

八雲地区労・社共両党・一般町民有志で構成している「八雲町平和運動連絡会議」は急ぎ協議会を開催し、「八雲町へのナイキ設置を絶対反対する」ことを決め、各戸にチラシを配布するなど、広報活動によって世論を盛り上げるとともに、上京中の北口町長の帰町をまって抗議交渉を行うこととした。

 また、基地設置に反対する革新諸団体は、それぞれ上部機関と連絡のうえ、運動の進め方などを検討しはじめたのである。

 反対派の主な動きとしては、

◎函館地評 1月10日に八雲町平和連と電話連絡をとり、同日夜開催された同会議の緊急臨時会に地評から代表派遣を決定し、全道労協とも連絡をとりながら、

 「――八雲町はもちろん近隣の長万部・ 森町などの革新団体とも密接に連絡をとりながら反対運動を取り進めて行く――

こととし、取りあえず全渡島地区労連合会議の臨時委員会を開催して、具体的な阻止闘争の取り組み方や予定を決めることとした。

 地評は47年10月に政府が4次防計画を決定し、青函地区にナイキ基地を配備することを明らかにした時点で、既に道南の軍事基地化を警戒する姿勢を打ち出しており「ナイキ基地、八雲に内定」の発表に強い反発をみせていたのであった。

◎共闘会議 函館地区の労働組合会議・民主商工会・新日本婦人の会などで組織している「市民生活を守る共闘会議」は、1月11日に函館市内で会議を開催し、ナイキ基地化反対運動の進め方について協議した。さらに翌12日には同共闘会議の幹事や団体の代表に安保破棄実行委員会函館支部の代表10名が参加して、八雲町平和連を訪れて事情聴取を行い、そのあと飛行場などを視察した。

◎共産党 共産党道委員会常任委員一行は、1月11日に道知事室長と札幌防衛施設局長を訪れ、「八雲ナイキ基地設置の撤回」を強く要求した。一方、共産党八雲町委員会では同じく11日に次のような反対声明を出し、町と町議会の責任を追求することとした。

 1、4次防による自衛隊の増強、軍事基地の再編強化が進められている中で、核弾頭が装備できる危険なナイキ基地を平和都市宣言をした八雲町に配置することは許せない。

 2、平和を望む町民の声を無視して軍国主義政策に協力する北口町政を糾弾する。

 3、臨時町議会の早期招集を要求し、議会の「陸上自衛隊誘致賛成決議」の撤回を求める。

 4、今後の反対運動にトロッキストら暴力集団は介入させない。

◎全道労協・社会党道本部 全道労協と社会党道本部の代表は、1月16日に道副知事を訪れ、本道の軍事基地化に強く抗議したのであるが、話は擦れ違いに終わった。全道労協では26日開催の執行委員会において「八雲基地設置反対特別委員会」を発足させて反対運動を盛り上げることとした。また、現地八雲町においても、地区労が特別委員会を設置し、22日には道南の全地区労が当町において対策会議を開催した。

 さらに、全道労協の対馬事務局長や社会党道本部の泊谷運動局長らは、副知事と会見のうえ具体的な例を挙げて抗議を繰り返したのであるが、副知事は計画は聞いていないと述べるだけであり、道から防衛庁に対して再度問い合わせることとして会見は終わった。

◎平和連 1月15日午後1時から、反対派の中心団体である八雲町平和運動連絡会議(議長・中村周行)や社・共・民などの革新政党・団体の代表と、帰町した北口町長との会見が役場で行われ、まず町長が経過説明を行ったあと、会議側がナイキに対する町長の見解をただしだのに対し、町長は、

 「議会に報告し、町長としての態度を明らかにする」

と答え、会議側から、

 「町長自身がナイキ配置についてどう考えるか、自衛隊誘致で行動したことはないか」

などの質問に対し、

 「16日に議員協議会を開き、経過を報告して議員の意思を聞いてから時期を見て私自身の考え方を明らかにしたい。町長として議会の誘致決議に逆行する行動はできない。これまで自衛隊誘致で単独行動をしたことはない」

と答えた。さらに同会議は、

 「議会の誘致決議は陸上自衛隊となっており、ナイキは航空自衛隊だ。町長自身の考え方を聞きたい」

とただしたが、町長は、

 「私の考え方は持っているが、重大な問題なので住民を代表する議会の考え方を聞かなければ表明できない。ただ現在ある自衛隊の八雲飛行場については、町の発展を阻害するものなので、町に返還して欲しいということは防衛庁に伝えてある」

と答え、両者の会見は終わったのである。

◎反対八団体

 安保破棄諸要求貫徹函館実行委員会・日本民主青年同盟函館地区委員会・函館地方労働組合会議・新日本婦人の会函館支部・函館原水爆禁止協議会・全商連函館民主商工会・函館平和委員会・全国生活と健康を守る会函館支部

 これら八団体は、

 「全民主勢力の統一した力で、八雲ナイキ基地設置をやめさせよう」

と訴えたビラ2万枚を、1月22日のベトナム反戦国際統一デーに函館市内の繁華街で通行人に配布し、署名やカンパ活動を行った。

◎道南特別委員会 1月31日に全道労協と渡島労連・檜山地協・函館地評・社会党などの代表者らは、反対闘争の全体的な指導のため「八雲町ミサイル基地設置反対道南特別委員会」を組織した。そして事務局を函館地評内に設置し、五つの幹事団体のほかに、反安保実行委・道南原水協・護憲会議・道南弾圧対策会議・主婦協などの団体を加え、八雲地区ナイキ基地反対特別委員会(八雲町)に対する支持態勢を確立するとともに、 1、地域住民のミサイル基地反対行動を組織する。

 2、学習会の開催や反対署名運動を行う。

 3、住民決起集会の開催。

 4、議会対策として反対決議の要請行動を行う。

 5、町長が設置反対の意思のない場合、町長リコール運動を展開させる。

などの行動計画を決定したのであった。

 

町内の動向

 1月10日に基地に内定のニュースが報道されてから一か月余、町民は、賛成派・反対派・慎重派とそれぞれ意見が分かれ、これまで静かであった町の中はにわかに騒然となったのである。

 革新政党や平和団体名による「ミサイル反対」の看板が至る所に立てられ、チラシの配布や署名活動などの反対運動が活発に展開された。

 まず2月4日には北海道教育大学函館分校学生自治会を中心とする革マル系学生約70名が、函館から貸切バスで当町に乗り込み、午後2時過ぎ駅前で集会を開いたあと、市街地のメーンストリートである国道5号線から役場前を経て八雲飛行場へ至り、そこから駅までUターンする約4・5キロメートルのコースを、「ナイキ設置絶対阻止」のシュプレヒコールを繰り返しながらデモ行進を行った。道警函館方面本部では、万一のトラブルに備えて機動隊を出勤させるという物々しさであった。デモ隊は時折ジグザグ行進をしたため、機動隊と小競り合いがあり、1名が逮捕された。

 一方、道南の渡労連・函館地評など労働団体や社会党は、2月25日函館労働会館で闘争方針を協議し、函館地評に「道南ナイキ基地反対闘争委員会」を設置のうえ、現地闘争として5項目を定め、3月11日に委員会設置後初の大衆抗議行動である反対集会を開催した。

 当日は午後1時から八雲駅前に、道南28市町村から貸切バス13台に分乗してきた約1200名が、八雲ナイキ反対のゼッケソを着けて参加し、塚田庄平衆議院議員、越前谷忠道議会議員らの激励のあいさつのあと、

 「平和都市宣言を決議している八雲町に、軍事基地を設置することは許せない。平和憲法を守るため最後まで闘う」

という決議文を採択した。このあと市街地約1・5キロメートルをデモ行進したが、途中繁華街でデモ隊の一部がジグザグ行進をしたため、2名が道交法違反の現行犯で道警機動隊に逮捕されるという一幕もあった。行進終了後、塚田代議士らが八雲警察署に対して「不当逮捕である」と抗議し、2名の釈放を要求するとともに、シュプレヒコールを繰り返して気勢を上げた。しかし、午後4時半に同署が2名を釈放したため、デモ隊は引き上げたのであった。

 

道議会の動向

 昭和48年(1973)の第1回定例道議会は、2月26日に招集され、代表質問2日目の3月6日、共産党の川崎守議員(函館市)は、

 「――八雲町にナイキ基地構想があるが、知事は反対か、どうか――

とただしだのに対し、知事は、

 「――八雲町のナイキ基地はまだ決定したものではないようだ。基地の決定については市町村の意向など見極めて対処して行く――

と答弁した。また、9日の本会議における一般質問のなかで、社会党の越前谷忠議員(渡島)は、

 「――防衛庁がナイキ基地設置に内定した渡島管内八雲町は平和都市宣言゛を町議会で決議している。地元住民が基地に反対した場合、国の方針と地元の意向のどちらを尊垂するか。また本道の基地化か進めば、ソ連を刺激し北方領土返還や安全操業問題、日ソ平和条約締結の話し合いに支障が出るのではないか――

と質問したのに対し、知事は、 「――防衛庁では、八雲町にナイキ基地を設置することをまだ決定していないと聞いている。基地設置に当たっては国の方針に従うが、地元住民の意向を十分尊重する。また本道の基地化は日ソの友好に支障があるとは考えない――

と答弁した。

 

町長の反対表明

 陸上自衛隊誘致に動いてきた町議会においても、ナイキ部隊はこれまでの誘致対象部隊と異なるため、これに対応する予備知識を得るため積極的な概要調査に乗り出し、昭和48年2月空知管内長沼町を訪問してその経過と現状を聞くとともに、馬追山の現地を視察するなど研修に努めた。

 しかし、これまで事態の推移を静観してきた北口町長は、3月14日町議会の一般質問に対する答弁のなかで、

 「なるべくならナイキは来てほしくない。町の発展を阻害するものならば、これに反対する」

という態度を初めて表明した。

 その後、5月に防衛庁が発表した部隊配備計画のなかで、航空自衛隊の基地にナイキ基地を設置する方針であることが新聞によって報道された。このため、北口町長は牧野議長とともに上京し、6月12日関係筋に対しその正否についてただしたのであった。しかし、防衛庁側は、

 「八雲は候補地の一つであるが、まだ正式に決まったわけではない。内定した場合は地元に連絡して地元の意向を聞きたい」

という見解を示すにとどまる状況であった。

 こうしたことから、町長らはあらかじめ携行した次の要望書を提出し、「航空自衛隊八雲基地内のナイキ設置反対」

の態度を表明したのである。

 

 ナイキ草地設置に関する要望書

 

 時下尊台益々ご健勝のことと拝察し、心からおよろこび申し上げます。

政務ご多端の裡にも日夜国土防衛と民生安定のためご尽力中のことに対し、衷心より敬意と感謝を申し上げる次第でございます。

 さて去る1月10日の新聞報道につづき、5月26日防衛庁方針として当町に所在する航空自衛隊の基地にナイキを設置する旨の報道がなされたのでありますが、この基地のある場所は、戦前旧北海道庁立八雲中学校や一般住宅が所在し、また農用地として使用されておりましたが、昭和18年太平洋戦争中に飛行場用地として接収され、やむなく緊急疎開し、同18年から19年にかけて陸軍航空本部が飛行場及び部隊兵舎その他の施設を建設、終戦後一旦緊急聞拓地あるいは都市計画区域に編入されたものですが、昭和25年に朝鮮動乱の勃発により、改めて米軍が現基地を建設し、昭和33年撤退と同時に防衛庁所管となった次第であります。

 当八雲町の市街地は別葉写真のとおり東側は内浦湾に面し、北側は遊楽部川、西側は砂蘭部川に挾まれさらに今後新幹線及び高速自動車道路等の建設が予定され、南側は飛行場でさえぎられているのであります。

 当町の将来を展望した場合、地形上どうしても南側に膨張せざるを得ない状態でありまして、将来該基地の用途廃止を願えるならば、新たに都市計画事業を実施して総合的な町の発展策を推進したい念願であり、町民も重大な関心を注ぎつつある折柄、今般新聞報道にあるように航空自衛隊八雲基地内にナイキが設置されるとすれば、この施設は半永久的に夢と希望を失う結果となり、町将来の発展を著しく阻害することは明らかであります。

 このことは全町民の一致した考えでありますので、貴庁の方針決定にあたり自衛隊基地内及びその周辺にナイキを設置することのないよう強く要請します。

 

ナイキ基地設置反対の請願

 昭和48年1月10日のナイキ基地設置内定の報道に接し、直ちに反対行動を起こしていた八雲町平和運動連絡会議は、反対町民の声として5620名の署名を集め、議会に対して「八雲町にナイキ基地を設置することに反対してください」とする請願書を提出した。

 これを受けた町議会は、48年6月の定例会において議題とし、慎重審議するため議長指名の委員9名で構成する 「ナイキ基地設置に関する特別委員会」(委員長・三輪豊光)を設置して閉会中の継続審査を付託した。特別委員会は数回にわたる会議を開き鋭意調査のうえ、10月22日無記名投票による採決の結果、4対4の同数となったため委員長の決するところにより不採択と決定して、同月28日議長に報告した。

 この報告は、翌29日開会の臨時会で審議される予定であったが、この日「防衛庁が八雲ナイキ基地断念」という新聞報道があったため、特に協議の結果、防衛庁の真意を確認するまでという条件をもって議長預かりとなり、本会議には上程されなかった。しかし、12月18日招集の定例会(会期3日)に対し、平和運動連絡会議は先に提出した請願が議会において不採択となることを避けるため、請願書の取下願を提出した。そして19日には議会の強行採決を阻止するために動員した反対町民などで、議場入口を閉鎖したため開議不能に陥った。さらに、翌20日も同様な状態を繰り返して本会議開会を阻止し、ついに会期切れによる自然閉会という異常事態となった。

 この結果、請願書は議会の意思を決定することなく審議未了、廃案という幕切れとなってしまったのである。

 

飛行場用地解放運動の推進

 昭和49年(1974)3月12日開会された定例会において、北口町長は町政執行方針のなかで、特に「飛行場用地解放運動の推進をめざして」という一項を掲げ、次のように所信を表明した。

 自衛隊所管にかかる八雲航空基地は、わが国の独立と平和を守り、その国土防衛上極めて重要な意義をもつものであることは充分理解できるところではありますが、その半面わが町の発展を阻害している事実も否定することはできません。

 このことは機会ある毎しばしば私の主張するところでありましたが、特に昨年ナイキ問題が惹起いたして以来論議の焦点となり、防衛庁においても飛行場地内にナイキ設置の方針を明確に打ち出すに至ったのでありますが、斯くしてそれが万一実現の暁には半永久的に使用されることになり、約150有余ヘクタールの土地は防衛目的のため固定化し、将来において解放の望みを完全に失うこととなり、同時に周辺の土地を含めて八雲町の発展も大きく後退することを意味し重大な問題と言わざるを得ないのであります。

 やがて将来新幹線並びに自動車高速道路も国土総合開発計画の一環として建設が進められることにより、これらに充用されるであろうところの生産性を失する地積もおろそかに見過し得ないのでありまして、わが町の現状と将来を案ずるにおいては、独り防衛要求以外に遊休的存在の飛行場用地は速かな解放を当局に要請し、またその実現を期する上に町議会をはじめ町民各位の理解と協力をいただき強力に推進してまいりたいのであります。さらにナイキ設置問題に端を発して町内外における混乱と町民の対立感情を避けるためにも当局に対し、青森県車力村同様白紙に還元するよう要請いたす考えであります。

 また町長は、この議会における一般質問の答弁のなかで要約すれば、

 「飛行場用地は八雲町の発展のためには必要な区域であるという観点から、その用地内にナイキ基地を設置することに同意することはできないし、反対である」という考えを明らかにした。

 その後町長は、飛行場用地解放について関係方面と折衝を続け、その年10月22日付文書をもって「航空自衛隊八雲基地飛行場用地の解放についての要請書」を防衛庁長官・防衛施設庁長官および三区選出代議士などに対して提出し、早期解放を要請したのである。

 このことによって、激しかった反対運動は一時静観の形となり、町内は平静を取り戻したのであった。

 

 第4節 第20高射隊の配備

 

基地解放運動の断念

 飛行場用地の解放要請は、その後随時続けられ、昭和50年(1975)12月北口町長と松永副議長は、さらにこれを要請すべく防衛庁を訪れたのであるが、これに対し「防衛庁としては遺憾ながら貴意に添い難い」との回答があり、わが国の防衛を必要とする限りにおいては、将来ともこれを解放する意思のないことが明確となった。

 こうした回答を受けた町長は、同月10日に開会された定例会において、「飛行場の解放については断念せざるを得ない状況となった」と報告し、「基地所在のマイナスをプラスに転ずるような方途を考えていきたい」という所信を述べたのである。

 

飛行場活用の決議

 航空自衛隊八雲基地の解放を実現する見通しがなくなった以上、これを有効に活用できる方策を講じ、町の発展に資すべきであるとする町議会の保守系議員は、昭和50年12月定例会最終日の12日、村井 梓ほか2名の提案をもって「飛行場活用に関する決議案」を提出し、審議採決の結果、賛成18、反対7をもって可決した。

 飛行場活用に関する決議

 八雲飛行場の解放について関係方面に強く要請してきたところであるが、昭和五十年十二月一日付回答をもって将来とも解放する意志のないことが明確になった。

 よってこの上は、八雲町の発展のため、この飛行場を高度活用するよう防衛庁に強く要請する。

 以上決議する。

 昭和五十年十二月十二日

 八雲町議会

 なお、この決議に賛成する議員は、いち早く「八雲飛行場高度活用議員連盟」(会長・三輪豊光)を結成して結束を固めたのをはじめ、青年会議所・商工会・建設協会・軍恩連八雲支部・自衛隊協力会などが相次いで議会の決議支持を打ち出し、さらに「自衛隊駐とん促進期成会」(会長・大山勝悦)を組織してナイキ誘致賛成署名を集めるなど、異例ともいえる積極的な行動を展開した。

 こうした町内情勢を背景として、北口町長と牧野議長は51年1月19日札幌防衛施設局を、翌20日には防衛庁を訪れ、議会決議の趣意を伝えたのである。

 

高射隊配備の受け入れ

 こうしたおり、防衛庁では四次防最終年次の51年度を期し、わが国防衛体制強化の一環として、津軽海峡をネットする第6高射群八雲駐屯部隊の配備計画を内定していた。そのため、町長らが議会決議の意向を伝えた直後の1月23日、札幌防衛施設局長一行が来町し、町長に対して高射隊配備に関する協力を要請したのであった。

 施札第一二三号(HFP)

 昭和五十一年一月二十三日

 札幌防衛施設局長 後藤真平

 八雲町長 北口 盛殿

 高射隊の八雲分とん基地への配置について

 今般防衛庁において青函地域の防空態勢の整備をはかるため、八雲分とん基地に航空自衛隊の高射隊一個隊を配置する方針が決定されました。ついては下記により施設整備等の計画を進めて参りたいと考えています。この部隊配置は昭和五十年十二月十二日の貴町議会の「飛行場活用に関する決議」の趣旨にそいうるものと思われますので、何分の御協力をお願いいたします。

 記

 1 設置目的

 青函地域の防空態勢の整備を計る。

 2 配置予定部隊

 昭和五十一年度に臨時部隊を編成し、その後の計圃については昭和五十二年以後の防衛力整備計画において決定されることであるが、できるだけ早い時期に臨時部隊を改編して正規の高射隊を配置したいと考えている。

 なお一個高射隊の規模は次のとおりである。

 

(1)人員 約二百名

(2)主要整備 発射機九 レーダー四 車両約三十

 

 3 施設建設

 昭和五十一年度から二か年にわたり所要の施設を逐次建設する計画である。(以上)

 

 しかしこのことによって、それまで暫時平静のうちにあった賛否両団体は、にわかに行動が活発化し、特に反対派の動きが前にも増して、印刷物の配付、立看板などの林立化、街頭演説、集会デモなどは賛成派の比でなく日に日に激烈なものとなっていった。

 この申し入れを受けた北口町長は、議会の意思尊重の立場で「基本的に賛成」としながらも、「白紙賛成ではなく、町の提示する要望事項の実現について十分配慮されるものでなければならない」と回答した。

 その後、要望事項をまとめて事務折衝を重ね、条件が出そろった段階で議会の了解を得る必要があるため、2月19日議員協議会にその旨報告しようとした。しかしこの日は革マル系学生が役場前で反対集会を開くなど、役場周辺は一日中騒然とし、さらに反対派住民が庁舎内に多数押しかけ、この会議開催を阻止しようと、北口町長を別室に監禁状態にして、長時間妨害の挙に出たのであった。このため致し方なく臨機の措置として、小泉助役が代わって受入条件要望要旨を説明し了解を得たので、北口町長はその瞬間に囲みを脱出し、その夜のうちに出札、翌20日札幌防衛施設局に対して、次に掲げる14項目、事業費総額87億円にわたる要望事項を正式提示してそれぞれに回答を求め、その回答が誠意あるものと判断した町長は、同月23日防衛庁と防衛施設庁に対し、高射隊の八雲分とん基地への配置を受け入れることを公式に文書で回答したのである。

 

防衛庁への要望事項

要       望       事       項 防  衛  施  設  局  回  答
POL(オイルタンク)用地の解放措置を講ぜられたい。 公共施設のための利用であれば計画の具体化をまって十分考慮する。
別表に示す基地周辺の環境整備並びに民生安定対策事業について積極的財政援助をすること。変更のあった場合もまた同じ。 個々の具体的計画について貴町と十分協議のうえ「防衛施設周辺の生活環境整備等に関する法律」に基づき可能な限りその実現に積極的に努力することとしたい。
八雲基地を「特定防衛施設」の指定について配慮するとともに基地交付金の大幅な増額について配慮すること。 前向きで検討する。
基地内及び周辺の危険防止対策について最大の配慮をすること。 当然配慮する。
予算決定のうえは早期に着工し、かつ人員の配置も早急に行うこと。 可能な限り早期に着工、早期部隊配置につとめる。
営外居住隊員の宿舎を早急に建設すること。 早急に建設する予定である。
工事実施に際しては、地元業者を積極的に参加させること。 要望にそいうるよう努力する。
上水道は町上水道を活用するとともに、必要な配水管、消火栓をも貴庁において敷設すること。 町水道を利用し、必要な配水管等の敷設は町水道条例に従い、当局で実施する。
日常の物資、食糧等現地において購い得るものについては、地元を優先すること。 地元優先調達に努力する。
部隊及び町民との親和友好を深めるため町の行事等にも積極的に参加すること。 積極的に参加する。
消防活動は相互に協力すること。 相互に協力する。
危険のおそれのない限り、基地内通行は従前どおり認めること。 従前どおり扱う考えである。
高射隊配置後といえども、可能な限り他の部隊の駐とんを配慮すること。 将来の問題として検討したい。
その他  
 例えば配備の変更等については事前に町側と協議すること。    事前に話をする。
 今後発生する問題については、相互に協議するものとする。   相互協議する。


別表(事業内容を省略し、項目のみを掲記する)

・八雲中央中学校(仮称)建設事業 ・児童公園整備事業
・町立八雲病院改築事業 ・消防施設整備事業(二件)
・じん芥焼却場整備事業 ・防火用水路改修整備事業
・町民体育館建設事業 ・集会施設整備事業(三件)
・町立保育所改築事業 ・交通安全施設整備事業(五件)
・保育所園児輸送バス購入事業 ・郷土資料館建設事業
・ヘき地患者輸送バス購入事業 ・図書館建設事業
・スキー場設置事業 ・運動公園整備事業
・キャンプ村設置事業 ・幹線排水路改修事業
・学校給食センター改築事業 ・橋梁新設事業
・農業用排水路整備聯業 ・町道改良舗装事業(十六路線・総延長四十二粁)
・除雪機械購入事業

 

町長解職請求への発展

 一方、ナイキ受け入れ反対の立場をとる「八雲町平和運動連絡会議」では、町長の受け入れ決定に対して反対署名の獲得に乗り出した。その結果、誘致賛成派と反対派のそれぞれが有権者の過半数を超える署名を集めるという、異常な事態となった。

 町内は、こうして賛否入り乱れる様相を呈したが、反対派はついに町長の解職請求という方針を決めて「明るい八雲を創る町民会議」を組織し、昭和51年(1978)4月8日三沢貞美・中村周行・松橋兼太郎の3名を町長解職請求代表者として、町選挙管理委員会に対し証明書の交付を申請したのである。

 この解職請求で挙げた項目は次の5点であった。

 

 1 「飛行場用地返還運動」の公約を、町民に何の相談もなく合意も求めず、わずか二年で一方的に変更したのは背信行為である。

 2 町民の英知と努力で作られた「八雲町総合開発計画」策定の責任がありながら、その基本である飛行場の移転と用地の平和利用の構想を一方的に変更した。

 3 町百年の大計にも関わり、町民重大の関心事である「高射隊受入れ」問題を議会と全町民の理解と合意も得ず一方的に表明したことは、正に住民不在、独断専行そのものである。

 4 公害がないとしながら一方では基地による迷惑料を取るなど発言は矛盾し、更に満足であると称した受入れ条件の、病院、学校の建設を含む四十七項目、八十七億の事業計画さえ、法的根拠と実現性が薄いことは道議会並びに町議会で明らかにされた。この政治責任は極めて重大である。

 5 中学校の統廃合並びに移転問題は、それぞれ父兄、生徒、地域住民にとって重要問題であり、当然慎重に理解と協力を求めるべきであるにもかかわらず、一方的、独断的に推し進めている。

 こうして申請された解職請求代表者証明書は、4月12日に選挙管理委員会から交付され、賛否両派過熱気味の中で署名運動が展開された。そして5月17日、法定所要数の4494名を超える6279名の署名簿を選挙管理委員会に提出し、同選管では翌18日から内容審査に入ったのである。

町長の辞任と選挙

 こうした解職請求の動きに対し、受けて立つ姿勢を示していた北口町長は、選挙管理委員会における署名簿の審査など法定手続きを経て住民投票が終結するまでには、相当の期間と経費を要することを配意して、署名簿の審査終了を持たずに町民の信を問うことを決意し、昭和51年5月21日牧野議長に辞表を提出した。その辞職理由としては、(1)長期間の町政渋滞と空白を避けること、(2)ナイキ問題で派生した住民間の対立感情や混乱を速やかに回復させて平和を取り戻すこと、(3)解職請求に関連する多額の町費支出を避けること、などであった。

 この辞表は、5月25日開会の臨時会において満場一致で承認されたことにより、北口町長の辞職が確定し、翌26日から後任者が決定するまでの間、小泉助役が町長職務代理者として町政の執行に当たることとなった。

 こうして、ナイキ配備の是非を争点とする町長選挙は、6月13日告示され、反対派の推す無所属大橋治男と、誘致派の推す無所属北口 盛前町長の二候補によって、激しい選挙戦が展開されたが、6月20日投票即日開票の結果、終始国防と調和した町づくりを訴え続けた北口前町長が7331票を得、大橋候補(4644票)を大差で破り三選を果たした。

 これにより、1月以来町内を二分して争い、道議会や国会にまで舞台を延長し、全国注目のうちに展開したナイキ基地設置に対する町民の審判が下り、激しい争いに一応の終止符が打たれたのである。

 

第20高射隊の配備

 町長の解職請求運動が開始されてから選挙終了まで、着工を見合わせていた札幌防衛施設局は、北口前町長が三選を果たしたことにより、町民多数の支持が得られたものと判断し、昭和51年7月13日基地建設工事に着手した。

 航空自衛隊八雲分とん基地内に配備されるナイキ基地は大別して、階下に管理施設と階上に独身隊員が居住する隊庁舎と付属舎、家族持ち隊員用の官舎、ナイキの誘導と目標の捕そくや追跡をつかさどるレーダーが設置される射撃統制地区、ナイキ本体と発射台が置かれる発射地区、の4ブロックからなり、昭和51、52の両年度にわたって建設された。

 こうして、隊庁舎と官舎が整備されるのをまって隊員が配備され、昭和52年1月20日「航空自衛隊第3高射群第20臨特高射隊」(当時隊員134名)の編成式が行われ、いわゆるナイキ部隊が公式に誕生した。その後同年12月27日「臨時」の呼称も除かれ、さらに54年3月31日「航空自衛隊第6高射群第20高射隊」と変遷を経た。隊員は現在約200名である。

 

 

第6章 歴代三役と補助機関

 

 第1節 落部村の歴代三役

 

落部戸長任命以前

 寛政12年(1800)、後に箱館六か場所と呼ばれた「小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追」が「村並」とされたことについては「第3編、第1章、第2節、前幕府直轄時代」の項で述べたが、翌享和元年(1801)11月相木仁三右衛門が「百姓代」を申し付けられたという。

 また、文化4年(1807)の田草川傳次郎著「西エゾ地目記」に、名主治郎兵衛(掛村)と記され、名主の呼称が初めて出てくるが、落部村に名主が置かれたのはいつのころか明確ではなく、また、その氏名も定かでないが、任命は奉行所が行った。

 慶応2年(1866)10月箱館奉行所へ報告した「土人別調書村控」に、名主文作(相木)とあり、道所蔵の古文書綴「明治六年・山越往復・民事課」には、名主相木堯太郎となっているものと、副戸長肩書のものがある。

 明治6年(1872)4月19日に地方制度の改革が行われ、江戸時代の庄屋・名主・年寄等を廃止し、大区・小区制を実施、大区には区長、小区には戸長を置くこととなった。

 こうして落部村では

 1、相木堯太郎 副戸長 明治六年月不詳

 明治九年四月一八日差免

 副総代 明治九年四月一八日

 総代 明治九年一二月

 明治一〇年一一月一二日死亡

 二、菊池忠兵衛 十八大区戸長(森村)

 明治一〇年一一月

 菊池忠兵衛は森村の人であり、明治9年11月の開拓使函館支庁森分署管下第18大区2・3小区戸長正副惣代明細調には、次のように記録されている。(関係分のみ)

 菊地(ママ)忠兵衛 第十八小区副戸長 月給金七円 茅部郡森村

 相木堯太郎 第十八大区三小区副総代 月給三円 茅部郡落部村

 同年12月の森分署の記録には、菊池忠兵衛を戸長に、相木堯太郎ほか1名を総代に昇任しているが、日は不詳である。

 菊池忠兵衛が落部村総代業務を兼務していたということは確認できないが、落部小学校沿革史に「時ノ十八大区戸長菊池忠兵衛之ヲ輔ケ……」と記されていることから推察すると、相木総代の死亡後、区戸長の職で落部村の世話をしていたものと思われる。

 なお、歴代戸長については「第3編、第2章、第4節三県分治時代の行政機構」の項で述べた。

 

歴代村長

 落部村は大正4年(1915)4月1日、北海道二級町村制による村制を施行し、この時戸長であった岩間勝従が初代村長に任命された。二級村の村長は道庁長官の任命であった。

 

 岩間勝従 大4・4・1〜大5・9・14

 佐々木菊松 大5・9・14〜大10・7・31

 佐藤藤太郎 大10・9・17〜大10・11・5 死亡

 管原直次郎 大11・1・18〜大14・10・20

 武石胤介 大14・10・20〜昭2・4・23

 中野隆暉 昭2・4・23〜昭4・10・23 依願免職

 高松新一郎 昭4・10・23〜昭 5・12・18

 萬清冶 昭5・12・18〜昭11・1・30

 東海林三郎 昭11・1・30〜昭12・11・1

 久保正信 昭12・11・1〜昭13・9・2

 辻村美矩 昭13・9・2〜昭20・4・15 退職

 宇野與三五郎 昭20・4・20〜昭21・11・7 依願免職

 

落部村初代村長 岩間勝従(写真1)

 

4代村長 管原直次郎(写真2)

 

8代村長 萬清治(写真3)

 

9代村長 東海林三郎(写真4)

 

10代村長 久保正信(写真5)

 

11代村長 辻村美矩(写真6)

 

12代村長 宇野與三五郎(写真7)

 

13代村長 愛山行永(写真8)

 

14代村長 伊藤淳一(写真9)

 

民選村長

 昭和22年4月5日公職選挙法により、初めて住民による村長選半が行われた。その後、32年4月1日八雲町と合併するまでの村長は次のとおりである。

 愛山行永 昭22・4・7〜昭30・4・30

 伊藤淳一 昭30・5・1〜昭32・3・31 合併により退職

 

助役

 二級町村制を施行していた時代は助役の制度がなく、支庁長任命の書記のうち上席の者がその職務を担当していた。したがって、落部村に助役がおかれたのは、昭和18年(1943)6月1日に一・二級町村制が廃止され、市町村制が施行されてからである。

 松田光重 昭18・6〜昭22・4

 和山惣七 昭22・5〜昭25・6

 奥田保男 昭25・6〜昭30・8

 辻村美矩 昭30・11〜昭32・3・31 合併により退任

 

収入役

 収入役が設けられたのは二級町村制施行の時からであり、村長と書記の給料は道費(地方費)であったが、収入役は村費で負担することになっていた。

 白藤権寮 大4・6〜大9・11

 森岡茂一 大9・12〜昭7・10 大9・11〜大9・12は職務兼掌

 宮川守次郎 昭7・11〜昭11・11

 〃 昭12・3〜昭13・3

 松田光重 昭13・4〜昭17・7

 和山惣七 昭17・12〜昭22・5

 松田光重 昭22・5〜昭25・5

 和山惣七 昭25・6〜昭32・3・31 合併により退任

 

 第2節 八雲町の歴代三役

 

歴代町村長

 明治35年(1902)4月1日北海道二級町村制が施行された八雲村は、その後、明治40年4月1日一級町村制の施行、大正8年(1919)1月から町制を施行し現在に至っているが、これまでの歴代町村長は次のとおりである。

 三井計次郎 明35・4〜明39・8 村長 明35・4、二級町村制施行

 木村定五郎 明39・11〜大7・12 村長 明40・4、一級町村制施行

 〃 大8・1〜昭2・3 町長 大8・1、町制施行、初代町長

 内田文三郎 昭2・9〜昭10・9 町長

 宇部貞太郎 昭10・9〜昭21・11 町長

 眞野万穣 昭22・4〜昭26・4 町長 公選

 田仲孝一 昭26・4〜昭46・4 町長 〃

 北口盛 昭46・5〜昭58・4 町長 〃

 牧野貞一 昭58・5〜現在 町長 〃

 

八雲村初代村長 三井計次郎(写真1)

 

2代村長 初代町長 木村定五郎(写真2)

 

2代町長 内田文三郎(写真3)

 

3代町長 宇部貞太郎(写真4)

 

4代町長 眞野万穣(写真5)

 

5代町長 田仲孝一(写真6)

 

6代町長 北口盛(写真7)

 

7代町長 牧野貞一(写真8)

 

助役

 斉藤鉄次郎 明40・7〜明44・7

 日野恭三郎 明44・7〜大12・12

 宇部貞太郎 大12・12〜昭10・9

 小川乙蔵 昭11・6〜昭15・6

 田仲孝一 昭15・11〜昭21・11

 大塚卯次郎 昭22・6〜昭30・6

 北口盛 昭31・1〜昭45・8

 辻村美矩 昭32・4〜昭34・5

 小泉不二夫 昭46・6〜昭58・4

 山田実 昭58・7〜現在

 

収入役

 日野恭三郎 明35・7〜明38・6

 北村利吉 明38・8〜明39・3

 日野恭三郎 明40・7〜明44・7

 平野重次郎 明45・4〜大5・2

 河西宗一 大5・2〜昭2・2

 小川乙蔵 昭2・10〜昭11・6

 安藤太郎 昭11・7〜昭47・7

 和山惣七 昭32・4〜昭36・1 副収入役

 菊地末吉 昭47・7〜昭51・6

 水野諄朔 昭51・7〜昭58・5

 馬着春夫 昭58・7〜現在

 

 第3節 各種委員会

 

監査委員

 昭和21年(1946)9月町村制の画期的な改正により、町村の経営に係わる事務の管理、出納その他町村の事務の執行を監査するための機関として、町村は条例をもって監査委員を置くことができることとなった。この監査委員は、町会議員から1名、知識経験者から1名の2名を定数とし、町村長が町村会の同意を得て選任、その任期は2年と定められた。これにより当町では、昭和21年11月18日「監査委員の設置及びその事務の執行に関する条例」の議決を経て監査委員をおくこととし、しかも即日、町会の同意を得て町会議員のうちから長谷川鎰、知識経験者のうちから松田武策の両名を選任して、この制度を発足させた。しかし、翌22年2月長谷川鎰が副議長に就任のため辞職し、後任に斉藤憲彰が選任された。

 昭和22年5月地方自治法が施行され、地方自治に関する新制度が確立されるとともに、監査委員制度も整備されたが、特にその任期に変更が加えられ、議会議員のうちから選任する者はその議員の任期中とし、知識経験者のうちから選任する者は三か年と定められた。町では新制度の施行に対応して、同年10月前記と同名の条例を制定し、監査委員の事務の円滑なる執行をはかった。

 昭和38年(1963)6月地方自治法の改正により、翌年4月1日から知識経験者のうちから選任された監査委員を「代表監査委員」として監査委員の庶務を処理する権限が与えられたが、さらに地方自治法の改正により49年(1974)6月1日から知識経験者のうちから選任する監査委員の任期も4年に改正されて現在に至っている。

 なお、監査委員の事務補助は、従来は町長事務部局(総務課)職員が兼務で当たってきたのであるが、複雑多様化する会計事務監査を適正円滑にするため、昭和42年(1967)6月1日「監査室」を設置し、専任の職員を配して体制を強化した。

 また監査委員の制度は、落部村においても地方自治法の施行後これを採用し、適正運用をはかっていた。

 監査委員設置以来委員に選任された人は次のとおりである。

・議会議員のうちから選任された委員

 長谷川鎰(21・11・18〜22・2・25)

 斎藤憲彰(22・2・26〜22・4・29)

 坂本堅太郎(22・5・15〜26・3・31)

 伊藤義良(26・5・25〜30・4・30)

 鈴木善治(30・5・10〜38・4・30)

 大山勝悦(38・5・8〜42・4・30)

 平塚正治(42・5・8〜44・7・31)

 渡辺好男(44・8・1〜46・4・30)

 松本初次郎(46・5・10〜50・4・30)

 倉地一明(50・5・6〜52・3・)

 落合好文(52・3・25〜54・4・30 54・5・4〜58・4・30)

 関口勝正(58・5・12〜現在)

・知識経験者のうちから選任された委員

 松田武策(21・11・18〜24・5・14)

 熱田美三(24・5・15〜33・3・17)

 長谷川克巳(33・5・2〜42・5・21)

 吉田秀夫(42・5・22〜45・5・21)

 岡島宗弘(45・8・15〜48・8・14)

 佐藤貞治(48・8・15〜現在)

 なお、落部村の監査委員を務めた人は次のとおりである。

・議会議員のうちから選任された委員

 佐々木栄盛(22・8・27〜26・4・6)

 大川勝悦(26・4・7〜28・8・26)

 関口幸太郎(28・8・27〜30・4・30)

 岩問勝三(30・5・12〜32・3・31)

・知識経験者のうちから選任された委員

 藤不退(22・8・27〜24・8・26 30・5・12〜32・3・31)

 瀬下善一(24・8・27〜28・8・26)

 岩間勝三(28・8・27〜30・4・20)

 

選挙管理委員会

 昭和21年9月の町村制の根本的改正により、従来市町村長のもとで行われてきた選挙管理事務を分離し、公正な執行を図るために独立した機関として「町村会議員選挙管理委員会」を置くことが規定された。当町においては、この改正法に基づき昭和21年10月9日の町会において、4名の選挙理委員と、同数の補充員を選挙して新体制を整え、翌年の統一地方選挙からこれに対応した。

 次いで地方自治法の施行にともない「八雲町選挙管理委員会」と改められたのをはじめ、22年12月の同法政正により任期が3年(従来は2年)に、そして27年8月改正、9月1日施行により定数3名と改められたが、33年4月改正、6月1日施行により再び定数が4名となり、さらに37年5月の改正によって次期選任の委員から任期が4年となるなど、めまぐるしく変わって現在に至っている。

 選挙管理委員会設置以来委員に選任された人は次のとおりである。

 久保田正秋(21・10・9〜22・3・22)

 松田武策(21・10・9〜23・5・22)

 小川乙蔵(21・10・9〜23・11・14)

 田仲孝一(21・10・9〜21・11・7)

 秋野大仙(22・3・23〜23・3・16)

 長谷川惣三郎(23・5・23〜23・11・14 26・4・3〜26・11・20)

 小野瑞穂(21・11・8〜23・11・14 44・8・1〜46・12・19)

 鈴木永吉(23・11・15〜25・3・2)

 高田金作(23・11・15〜25・8・2)

 関口恭平(23・11・15〜27・9・17)

 田中清二郎(23・11・15〜26・4・5)

 熱田美三(25・3・3〜26・11・20)

 園部昌清(25・8・3〜26・4・2)

 児玉玉作(26・6・1〜26・11・20)

 橋本政之助(26・11・21〜27・9・18)

 服部武男(26・11・21〜28・3・23)

 太田孝正(26・11・21〜38・12・19)

 植村清記(27・9・22〜30・3・24 死亡退職)

 小林孝三(28・3・23〜38・12・19)

 池浦泰宣(30・3・27〜31・9・30)

 日南勇造(31・10・1〜32・12・19)

 吉崎芳造(32・12・23〜38・12・19)

 益子喜久衛(33・6・30〜38・12・19)

 岡野利治(38・12・20〜46・12・19)

 秋野よしゑ(38・12・20〜44・7・31)

 石岡実(38・12・20〜45・3・31)

 大塚卯次郎(38・12・20〜50・12・19)

 服部正巳(45・4・1〜52・5・31)

 井筒栄司(46・12・20〜49・5・31)

 前田清(46・12・20〜現在)

 大野康正(49・6・1〜50・12・19)

 佐伯篤光(50・12・20〜54・12・19)

 佐藤行男(50・12・20〜現在)

 久下智恵子(52・6・1〜現在)

 石川五郎(54・12・22〜現在)

 なお、歴代委員長は、小川乙蔵・関口恭平・服部武男・太田孝正・大塚卯次郎・佐伯篤光・前田清である。

 また、落部村における選挙管理委員会の委員に選任された人々は次のとおりであるが、選任・退任の年月日は史料がなく不明である。

 櫛桁三五郎・伊藤亀三郎・角谷洋平・白川定・加藤義春・鈴本庄三郎

 

公平委員会

 昭和25年12月法律第二六一号をもって「地方公務員法」が公布されたが、同法の完全な実施を確保し、その目的を達成するため、町村では条例で公平委員会を設置しなければならないこととなった。この委員会は、地方公務員法の定めるところにより、職員の勤務条件に関する措置の要求および不利益処分を審査し、これについて必要な措置を講ずることを職務とするものとされた。

 公平委員会は、町村長が議会の同意を得て選任した委員3名をもって構成し、その任期を4年とするもので、当町では昭和26年3月1日「八雲町公平委員会条例」を公布制定し、委員3名の選任についても議会の同意を得て準備を整えたが、いずれも法で定める欠格条項に抵触したため選任手続きがとられず、はじめて委員に宇部貞太郎・秋野大仙・松川林四郎の3名を選任したのは、昭和27年12月24日のことであった。

 しかし、当町に限らず各町村とも職員の不利益処分に関する事件もなく、事実上この委員会の存在は単に形式にすぎないという状況であった。このため、渡島町村会では公平委員会の共同設置について協議を重ねた結果、管内の全町村と一部事務組合が共同して昭和42年4月1日から「渡島支庁管内公平委員会」を設置し、事務局は町村会長を務める町村長の所在地に置くという方針が定められ、まず最初に大野町に置くこととした。したがって同年3月限りをもって八雲町公平委員会は消滅した。

 昭和45年に渡島町村会長に田仲八雲町長が就任したため、同年4月1日から事務局を当町に移してその事務を管理執行したが、田仲町長の退任によって、46年7月1日から後任町村会長の所在地である木古内町に移すという経過をたどった。しかし、木古内町長が在職中死亡したため、再び事務局移動の必要に迫られたが、このように町村会長が異動するたびに事務局を移さなければならないという煩わしさを避ける方法について協議の結果、49年10月から渡島町村会事務局内にこの事務局を設置することに改めて現在に至っている。

 なお、八雲町公平委員会および渡島支庁管内公平委員会設置以来の委員は次のとおりである。

・八雲町公平委員

 宇部貞太郎(27・12・24〜39・1・13) 秋野大仙(27・12・24〜42・3・31)

 松川林四郎(27・12・24〜42・3・31) 大島勝世(39・3・24〜41・3・6)

 橋本政之助(41・3・18〜42・3・31)

・渡島支庁管内公平委員

 河井保(44・12・27〜49・3・31)

 なお落部村では岩間勝三・山戸清・山崎繁一・後藤光雄・伊藤淳一・林丈太郎などが選任されているが、選任・退任・年月日については史料がなく不明である。

 

 第4節 自治活動の変遷

 

部(区)長制度

 町村行政の末端連絡機構として、各地域ごとに互選による伍長が置かれ、戸長(役場)との連絡にあたってきたようであるが、明治35年(1902)4月北海道2級町村制施行とともに、これに代わるものとして「部長」が制度として設けられた。すなわち、同制第六条で「町村処務便宜ノ為町村規則ヲ以テ町村ノ区域ヲ数部ニ分チ各部部長ヲ置クコトヲ得」とし、さらに、「部長ハ名誉職トシ北海道庁支庁長之ヲ任免ス」と定められた。村ではその年5月に「部長規則」を定め、山越内村を併合した新八雲村の区域を13部に分けて部長を置くことにしたが、当時の部長はそれぞれ地域の指導的な立場にあった者が推薦されて任命を受けていた。この部長は「町村長ノ命ヲ承ケ部内ニ関スル町村長ノ事務ヲ補助ス」とされ、具体的には、道庁・支庁・村役場からの通達や布告などの住民への告知、諸税令書の配布、部内における異常報告などが職務とされていた。しかし、所轄の区域が広範囲にわたり負担が重かったので、申し合わせにより任意の区域に伍長を置き、職務を補佐させていたようである。

 明治40年(1907)4月に北海道1級町村制が施行されたことにより、規則を設けて各部に部長のほかに部長代理者を置くことができることになった。これらが名誉職であることはこれまでと同様であるが、選挙権を有する町村公民のなかから町村長が任免するようになった点に相違があった。こうした制度の改正に基づき、同年11月に「部長及部長代理者規則」を定め、適当人物を選んで任命した。

 昭和2年(1927)に町村制および市制町村制施行令が北海道1級町村に準用されることになり、これまでの「部」を「区」に、「部長」を「区長」に、「部長代理者」を「区長代理者」に、それぞれ改められるとともに、名誉職として選挙権を有する町村公民のなかから町村長が推薦し、町村会の議決を経て任命することとなった。

 昭和6年(1931)に「区設置規程」を議決し、同年4月からこれまでの十四区(明治44年1月から施行)を十六区(昭和8年4月から十八区に分割)とし、区長と区長代理者の任期を4年とするとともに、現にその職にある者の任期については4月1日から新たに起算するものとした。

 このような部(区)長などは、町村長の事務を補助する機関として奉仕し、町政の円滑な運営に寄与した功績は大きいものがあったので、町では多年にわたり勤続精励した人々に対し、善行者表彰規程により表彰してきた。

 なお、落部村でも大正4年(1915)4月北海道2級町村制施行とともに部長制度が適用され、村政の補助機関として活動したが、昭和2年(1927)4月の町村制改正によって法的には廃止された。しかし法的根拠は失ったとはいえ、一般住民への連絡機構として欠くことのできないものであったため、村長が委嘱して各区に区長と副区長を置き、その活動によって村政の執行を補完してきた。

 

町政と町内会・部落会

 戦時下における地方行政の方向は、好むと好まざるとにかかわらず、自治の本旨を超越して戦争遂行に対する住民の精神的強化に向けられ、「隣保相助の精神の涵養」や「愛郷心の養成」などに力点がおかれるようになった。地域的な団体、あるいは職業的な団体なども行政の補助機関としての性格を強め、やがて地方行政の体系の中に組み入れられるようになっていった。たとえば、農会・産業組合・農事実行組合・畜産組合・漁業組合・在郷軍人分会・青年団・婦人会などのほか、町内会や部落会に至るまですべての団体が、それぞれの目的や性格にかかおりなく、町行政に対する一体化が図られたのである。

 こうした情勢のなかで、最も重要視されたのは町内会・部落会(以下「町内会等」という)など地域的な住民組織の再編整備であった。

 昭和15年(1940)9月11日内務省訓令第一七号をもって発せられた「部落会町内会等整備指導に関する訓令」は、「隣保団結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ万民翼賛ノ本旨ニ則り地方共同ノ任務ヲ遂行セシムル為左ノ要領ニ依り部落会町内会等ヲ整備セントス仍テ之ガ実績ヲ挙グルニ務ムベシ」とし、その目的として、

 1、隣保団結の精神に基き市町村内住民を組織結合し万民翼賛の本旨に則り地方共同の任務を遂行せしむること

 2、国民の道徳的錬成と精神的団結を図るの基礎組織たらしむること

 3、国策を汎く国民に透徹せしめ国政万般の円滑なる運用に資せしむること

 4、国民経済生活の地域的統制単位として統制経済の運用と国民生活の安定上必要なる機能を発揮せしむること

という四本の柱を立て、かつ町内会等の組織についても詳細に指示したのである。これを要約すれば、町内会等は区域内の全戸をもって組織し、その性格を地域的な組織であると同時に市町村の補助的な下部組織と定義し、会長の選任は従来の慣行によって地域住民の推薦その他によるが、形式的には市町村長が選任するものとした。さらに、町内会等には常会を設けて先に挙げた目的を達成するため、物心両面にわたり住民生活の各般の事項を協議し、住民相互の教化向上を図り、区域内の会合はできるだけこの常会に統合するよう指示したのである。

 また、隣保班いわゆる隣組の設置についても詳細にふれたうえ市町村常会にも及び、市町村長を中心として部落会長・町内会長のほか各種団体代表者などをもって組織し、市町村における各種委員会等もできるだけこの常会に統合するようにしたものであった。

 これを受けて道庁では11月に「町内会部落会規則」を公布し、市町村では「町内会部落会規程」を定めて町内会等の編成を行った。町内会等はその目的を達成するため具体的に、教化・産業・経済・警防・保健衛生・銃後奉公など、必要に応じて部を設け、会長と部長は町長が選任し、しかも会長と警防・衛生の両部長の選任に当たっては、警察署長と協議するということも定められた。

 町では、末端行政組織として活用してきた従来の「区設置規程」を昭和15年(1940)11月30日限りで廃止し、これまで18行政区画であった町内会等を区域の実情に合うよう細分化し、行政の補助機関化を図ったのであるが、この改編は時局を反映してスムーズに実施された。

 また、17年8月には閣議決定によって「大政翼賛会は町内会・部落会・隣保班を指導する組織である」とされ、町内会等は大政翼賛会の下部機構となり、さらに、翌18年3月の町村制改正のなかで「市町村長は町内会部落会およびその連合会の長にその事務の一部を援助させることができる」という規定が設けられたことにより、町内会等が法制度の下で正式に位置付けられるなど、戦時下の末端行政機構としての役割を負わされていったのである。

 当町が15年に配置した町内会等は、その後若干の変動があったが、20年終戦当時の状況は次のとおりであった。

 町内会(25)

  元町第一 同第二 本町第一 同第二 同第三 同第四 同第5 東雲町 富士見町 旭町 日ノ出町 鉄道町 若松町 中央通り 栄町 東部往初町 中央同 西部同 幸町 信用町 出雲町 興和町 黒岩(市街) 山越内(同) 野田生(同)

 <註> 戦後の人口増加と居往区域の拡大につれて、21年に富士見町を東・西に、中央通りを東・西に、中央住初町から分離して錦町を、幸町を一・2に、というようにそれぞれ分割し、また、営林町・曙町・緑町・新生町・林町などが新設され、22年には興生町が新設された。

 部落会(39)

  遊楽部 東遊楽部 常丹浜 砂蘭部 大新 学林 上砂蘭部 加老 中島農場 音無川 ビンニラ 鉛川 上鉛川 八雲鉱山 ペンケル 上八雲 同第三 八線 咲来 鷲の巣 ブイタウシナイ 同山 旭山崎 山崎山 黒岩山 常丹 奥津内 無弓部 向弓 山越内 百万 沼尻 柏木 ガンビ岱 野田生 大木平 赤笹 ガロー沢下 野田生原

 <註> 21年に熊嶺が新設された。

 なお、56年4月1日現在の町内会等は次のとおりである。

 元町一区 同二区 本町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 同六区 同七区 同八区 同九区 同十区 富士見町一区 同二区 同三区 同四区 東雲町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 東町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 同六区 豊浦町 内浦町一区 同二区 往初町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 宮園町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 栄町一区 同二区 同三区 同四区 末広町一区 同二区 同三区 同四区 相生町一区 同二区 同三区 出雲町一区 同二区 同三区 同四区 同五区 同六区 同七区 三杉町一区 同二区 同三区 黒岩一区 同二区 同三区 同四区 同五区 同六区 山崎一区 同二区 花浦一区 同二区 立 岩一区 同二区 大新一区 春日一区 同二区 同三区 鉛川 上八雲一区 同二区 熱田 浜松一区 同二区 同三区 山越一区 同二区 同三区 同四区 野田生一区 同二区 同三区 同四区 同五区 桜野一区 同二区 落部一区 同二区 同三区 同四区 同二区 同六区 同七区 同八区 同九区 同十区 同十一区 入沢一区 同二区 下の湯 上の湯一区 同二区 栄浜一区 同二区 東野一区 同二区 同三区 同四区 旭丘 わらび野

 

嘱託員制度

 戦時下において強制的に大政翼賛会の下部機構に編入され、市町村における末端行政機構として機能してきた町内会等は、連合軍司令部の強い圧力により昭和22年(1947)1月の内務省訓令をもって解散を命ぜられ、同年4月以降は存続できないこととされた。

 町でも当然この訓令によって町内会等を解散させたのであるが、その名称はそのまま存続し、差し当たって支障が生ずる一般行政事務の町民への連絡徹底について特に協力を願うため、22年6月1日に嘱託員制度をスタートさせた。

ちなみに落部村でも同様の方法をとり、駐在員と称した。

 しかし、この嘱託員制度は法的な規定にはよらず、単に行政上の必要によって設けたもので、そのほとんどは町内や地域との連帯を重視し、それぞれの推薦によって町長が委嘱するという方法がとられた。そして、区域内住民への連絡・文書配布・各種調査協力などを主な業務とした。

 また、これら行政区の数は地域住民の増減と密接な関係にあり、適宜異動する仕組みであった。ちなみに22年の制度発足当時は旧八雲町で80であったが、32年3月には93を数え、合併後は旧落部村の28を合わせて121の行政区であった。

 この制度は発足以来30年以上を経たうえ、町政運営上の重要な機関として定着した現在、これを単に慣行上の地位にとどめておくことは好ましくないという意向が強くなったため、昭和53年(1978)3月に「八雲町嘱託員条例」を議決して4月1日から施行した。

 条例化されたこの制度は、基本的にはこれまでと大きく変わるものではないが、(1)町行政の円滑な運営と能率的効果を上げることを目的とし、(2)その身分を非常勤特別職とし、原則として町内会・部落会等の推薦により町長が委嘱すること、(3)任期は原則として2年とすること、などを明確に規定したところに特色があった。この条例施行時における嘱託員は118名であった。

 

町内会等連絡協議会

 戦時中強制的に組織された町内会等は、昭和22年4月をもって解散させられたが、地域住民の自由な意志による親睦行事や冠婚葬祭、環境保全、相互扶助などに重きをおいた住民組織までが全く消滅したわけではなく、むしろ嘱託員制度とともに各地域に定着しつつあった。

 しかも、複雑化する社会情勢に対応して、地域の生活環境の改善や住民相互の親睦強化を図るための自主的な町内会

等が組織されるなかで、落部市街地区や野田生・東町など一部の地域では、既にある程度広域化した連合町内会を組織し、協調して地域の共通問題に取り組む傾向がみられるようになっていた。

 こうしたことから、各町内会等が相互に情報を交換するとともに共通問題について検討し、「明るく住みよい地域社会づくり」を目指すため、全町的な規模による連絡協議会の結成に向けて準備が進められた。これにより112の町内会等のうち93が呼びかけに応じて参加し、昭和49年(1974)7月20日に設立総会を開き「八雲町町内会等連絡協議会」が発足した。

 この連絡協議会は、地域相互の連絡と親睦・情報交換・研究討議などの推進を図ることとしたほか、特に「むだをなくする運動」の推進を重点目標として取り上げ、その後に組織された「生活をみなおす運動推進委員会」と提携し、新生活運動の実践母体として大きな役割を果たすこととなった。

 その後年中行事として「全町町内会部落会研究会」や「全町盆踊り大会」などを開催して連帯を深めつつある。また、53年4月から生活をみなおす運動推進委員会を吸収して組織か一本化するなど、自治活動の中核として活動を続けている。

 

地域集会施設の設置

 古くから市街地にもまた各地域にも、地区住民が気軽に利用できる公的施設は全くなく、それぞれの地域住民が、営農その他の生活上の必要性から共同して会館を建て、それを活動の拠占として維持するのが通例であった。

 しかし、公共社会施設が整備されるにつれて、各地域の住民が融和協調を図り、新しい町づくりを進める住民自治の拠点としての集会施設の設置が望まれるようになってきた。

 こうした要望にこたえるため、昭和28年(1953)に上八雲公民館を建て、35年(1960)には第八分団(東野)消防器具格納所を整備する際、住民が集会に利用できるよう広い待機室を設けるなど、一応の方法がとられてはきたが、今日的にみれば必ずしも十分なものとはいえなかった。

 その後、昭和40年3月をもって久留米小学校を八雲小学校に統合することについての条件の一つとして、地域に会館を建てる方針が示され、40年度に地域会館としては初めての花浦会館が建設されたのである。そしてこれを皮切りに、41年度に出雲町の公営住宅地区と三杉町を合わせた広域地域を対象に出雲町会館を、42年度には豊河町の旧引揚者疎開住宅地域のような狭い住宅で、しかも市街中心部の公共施設にも遠く、地域住民の集会に事欠く状況の同地域の環境改善のため豊河町会館を建てたことなどがきっかけとなって、各地域から設置が望まれるようになってきた。こうして公費による地域会館の建設方式が芽生え、現在では住民自治活動の拠点づくり政策の一つとして定着している。

 地域集会施設は、建設の経過や資金の調達手段などによってその施設の名称は異なるが、地方自治法による「公の施設」としての扱いをせず、単に設置した地域の関係町内会や部落会が組織する運営委員会等によって管理運営しているのが実情である。

 56年現在地域集会施設(兼用施設も含む)として利用されているものは次のとおりである。

 

56年現在地域集会施設表

設置
年度
名   称 所在 利用地区 建物構造 面積u 摘               要
33 赤笹部落会館 桜  野 桜野一区 木造平屋建 36・00 地域住民の集会所として建設されたが、老朽化激しく57年度新築が予定されている。
35 東野消防会館 東  野 東野二区 104・14 第八分団消防器具格納所の整備にあわせて地域住民の集会施設を併設する。
40 花 浦 会 館 花  浦 花浦二区 146・68 久留米小学校統合条件の1つとして建設されたもので当初建築127・24平方メートルに対し、
さくら保育園併用要件整備のため、49年度に19・44平方メートルを増築する。
41 出雲町会館 出雲町 出雲町
四〜七区
105・75 当初出雲町公営住宅地区と三杉町地区の広域利用をかねて99・15平方メートルを建築。
53年度に6・6平方メートルを増築する
山崎消防会館 山  崎 山崎一区 163・62 第五分団消防器具格納所の整備にあわせて地域住民の集会施設を併設する。
当初建築124・74平方メートルに対し、はまなす保育園併用要件整備のため47年度に
38・88平方メートルを増築する。
大木平会館 野田生 野田生五区 49・00  
42 豊河町会館 豊河町 豊 河 町 112・18 引揚者疎開住宅地区を中心に構成する豊河町地区のため83・33平方メートルの
当初建築に対し、45年度に16平方メートル49年度に12・85平方メートルを増築する。
野田生児童会館 野田生 野田生三区 342・63 当初の建築330・48平方メートルに対し、49年度に12・15平方メートル増築する。
43 山越消防会館 山  越 山越一区 158・76 第四分団消防器具格納所の整備にあわせて地域住民の集会施設を併設する。
当初は山越全域の利用をめざしたが今は山越一区を中心として利用されている。
黒岩会館
(含児童会館)
黒  岩 黒岩全区 280・26 当初第二分団消防器具格納所にあわせて地域住民の集会施設を併設、
かつ児童会館(若草保育園)を設置して一体的効用を果たしたが、
50年度に消防器具格納所が別途建築されたことにより、専用の地域会館として整備される。
東野一区会館 東  野 東野一区 132・00   
44 鉛 川 会 館 鉛  川 鉛川全区 72・90 鉛川小学校統合条件の一つとして建設する。
花浦一区会館 花  浦 花浦一区 95・00  
45 上八雪会館 上八雲 上八雲全区 98・92 老朽化した旧上八雲公民館の代替施設として新築する。
柏 沼 会 館 野田生 野田生
一・二区
84・24 柏木・沼尻両地区の共用会館として新設。両地区の頭文字をとって命名する。
川 向 会 館 落  部 落部一〇区 116・25 第六分団川向地区消防器具格納所の整備にあわせて地域住民の集会施設を併設する。
46 内浦町一区会館 内浦町 内浦町一区 95・58 無集会施設解消対策として新設する。
下の湯会館 下の湯 下 の 湯 84・25 同               右
47 春日二区会館 春  日 春日二区 52・87 同               右
西部児童会館 栄  町 栄町全区 231・66 同               右
48 浜 松 会 館 浜  松 浜松全区 84・24 同               右
東野会館
(母と子の家)
東  野 東野全区 178・20 旧部落有会館老朽改築にあたり、町が建設する。
三杉町会館 三杉町 三杉町全区 102・45 既設町有建物を改修して会館に充当する。49年度一部増築し、54年度全面改築する。
栄浜消防会館 栄  浜 栄浜全区 155・52 第七分団消防器具格納所に併設した待機室を地域集会所に兼用してきたが、
48年度に全面改築、規模を拡充して地域会館に供用す。
49 山越二区会館 山  越 山越二区 84・24 既設民有建物を買収・全面改修して集会施設に供用す。
東雲町会館
(労働会館)
東雲町 東雲町
一・二・五区
169・29 八雲地区労働組合協議会事務局を常設、同事務局が管理して運用する。
熱 田 会 館 熱  田 熱   田 104・49 既設部落有会館を町有に移管するとともに、大幅改造整備する。
内浦二区会館
(生活館)
内浦町 内浦町二区 132・20 無集会施設地域解消対策として新設する。
51 出雲町中央会館 出雲町 出雲町二・三
相生町二区
65・00 既設町有建物(旧自衛隊募集事務所)を転用して会館に充てる。
東部児童館 富士見町 富士見町全
東雲町三・四
244・61 無集会施設地域解消対策として新設する。
野田生農業会館 野田生 野田生四区 142・00 同               右
52 山崎二区会館 山  崎 山崎二区 178・00 昭和28年山崎小中学校の移転のあと178平方メートルの部落有会館として
管理してきたが、老朽化もあり、52年度に町有に移管して全面改築する。
東 町 会 館 東  町 東町全区 木造一部二階建 189・41 昭和45年地域の要望に応えて既設町有建物を会館にあててきたが、
52年度に全面改築する。
旭 丘 会 館 旭  丘 旭  丘 木造平屋建 69・41 昭和35年建築の部落会館の老朽化に対応し、町において全面改築する。
大 新 会 館 大  新 大  新 197・40 明治41年大新青年会が民家を事務所として買受けたことに始まり、
大正13年これを売却、別に民家を買収、改築して会館とし、
以後昭和17年移設、43年新築、52年増築する。
53 山越農業会館 山  越 山越四区 94・20 昭和28年建築の部落会館の老朽化に対応し、町において全面改築する。
立 岩 会 館 立  岩 立岩一区 247・06 昭和8年建築の木造二階建部落会館の老朽化に対応し、
町において全面改築する。
落部七区会館 落  部 落部七区 168・59 旧池内ベニヤ工場事務所を買収、改装して会館にあてる。
54 わらび野会館 わらび野 わらび野 82・62 部落有会館の老朽化に対応し、町において全面改築する。
春 日 会 館 春  日 春日三区 147・49 部落有会館の老朽化に対応し、町において全面改築する。
55 西部地区会館 宮園町 住初町全区
末広町全区
宮園町一・二
鉄筋コンクリート
二階部分
231・66 市街地西側地区防災体制強化のため消防分庁舎新設の際
その二階部分を地域集会所として整備供用する。
56 入 沢 会 館 入  沢 入沢一区 木造平屋建 137・09 地域活動育成助長のため旧部落有会館を町で全面改築する。
春日中央会館 春  日 春日全域 197・29 地域活動育成助長のため、生活改善センターとして新築する。

 

花浦会館

 

野田生児童会館(野田生会館)

 

黒岩会館(含児童会館)

 

東野会館(母と子の家)

 

野田生農業会館

 

熱田会館

 

下の湯会館

 

栄浜消防会館

 

上八雲会館

 

大新会館

 

旭丘会館

 

立岩会館

 

山越農業会館

 

山崎2区会館

 

春日会館

 

わらび野会館

 

黎明館

 特殊な建物として八雲神社境内に黎明館がある。これは昭和16年(1941)12月に、元町会議員梅村多十郎が、多年にわたって育成した山林(カラマツ)の一部を国の要請に応じて売却した際、益金のうちから5万円を町に寄付し、これを青年修養道場に併せて生活改善などに使用できる施設、すなわち青年会館の建設費に充当してほしいという旨の申し出がなされた。そしてこの資金は、時局柄資材や労力の関係もあるので、これを5年間預金し、その元利金をもって5年後に建設するという条件が付けられたものであった。

 そのため町では、12月16日に町会の議決を経てこれを受納するとともに、「青年会館積立金条例」を制定し、毎年その利息を元金に組み入れて積み立て、目的の実現に備えることとした。しかし、20年には太平洋戦争が敗戦という時局の急変により、その予定時期がきても寄付者の希望にそった会館の建設は、到底実現できる情勢ではなく、いたずらに時を経過したのであった。

 たまたま昭和26年に、八雲簡易裁判所庁舎を現位置に建設することとなり、その敷地内にあった旧在郷軍人分会会館は撤去する必要に迫られたため、これを契機に「財団法人八雲黎明館設立準備委員会」が組織され、分会会館と旧徳川農場の真萩館(当時、八雲産業株式会社事務所に併設されていた)を譲り受け、この二館を八雲神社境内に移して「黎明館」と称する会館を建設する計画が立てられ、着々準備が進められた。

 また、忠魂牌は、八雲神社境内に移転し英霊牌と改めた。和合会(渠張藩士で八雲開拓のため移住した人々の結成した会)では、新築される会館名を一般町民から募集、「黎明館」と名付け毎年新年の行事を黎明館真萩の間で会員はじめ一般に解放して執り行うこととしたのである。

 こうして黎明館建設の目的として、郷土青年修養の場として、また生活改善や冠婚など各種行事や集会に利用するものであった。当時町内には集会所らしい施設は全くなかったので、町ではこの計画を適当と認め、事業費用に対し町費から35万円を補助したほか、さきに述べた昭和16年以来の青年会館積立金6万9157円96銭の全額を補助し、寄付者梅村多十郎の篤志に報いたのである。

 黎明館は昭和26年9月に完成し、以後各種集会や行事の場として利用されたのであった。

 その後20年を経過した昭和46年、建物の修復が必要となり、9月に黎明館保存委員会(松川林四郎ほか7名)から議会に対し「黎明館修理復元について」という町費助成の陳情書が提出された。これを受けた議会は総務常任委員会に付託のうえ調在の結果、

 「黎明館は、地域住民の町内活動の健全なる発達の場として利用されている実情もあるので、町は必要適切な措置を講すべきである」

と報告された。これにより47年度において町賢100万円を補助し、6月に修復工事が完成して現在にいたっている。

 

生活をみなおす運動の展開

 結婚式・葬儀・その他の慶弔関係行事は、古くから地域による習慣、あるいは出身地による習慣などがあり、それぞれの方法で行われるのが通例であった。このうち結婚祝賀会については〃無駄〃を省いて簡素にし、内容的には有意義なものにしようという考えのもとに、昭和20年代後期において定額の会費制による祝賀会形式が取り入れられ、やがて一般化する兆しがみられるようになった。

 しかし、その他の行事についてはこれといった制約もなく、従来からの習慣によって自由に行われ、かつ年々はでになっていく傾向がみられる状況であった。こうしたことは、行事を実施する当事者にしてみれば経済的にも大きな負担であり、家計を圧迫することにもなっていた。

 このような不合理な点を見直し、できる限り無駄を省き、お互いの負担を軽くしようという考え方が自然に生まれ、これを地域的な実践活動に発展させようとしたのが落部地区であった。すなわち、落部漁協婦人部では昭和42年(1967)に「生活改善のとりきめ」として、

 (1)病気見舞、出産祝、入学祝などは1000円以内で、お返しはしない。

 (2)造船祝、結婚祝賀会などは1000円以内で、引出物をつけない。

 (3)葬儀の際の香典返しをしない。

ことなどを申し合わせ、その実践を期したのである。

 しかし、漁協婦人部という小範囲の取り決めであったため、その趣旨が他の一般住民にまでは容易に徹底しないばかりか、逆にますますエスカレートしてはでになる傾向さえみられるようになった。

 こうしたことから、落部連合町内会では昭和49年早々に、これを地域ぐるみの運動に発展させて実効を高めることをねらいとし、地域の関係諸団体に呼びかけて協議を重ねた。その結果、4月16日に「落部新生活推進委員会」を設立し、結婚祝賀会の会費をはじめ、出産・入学・造船の各祝い、忌中引きなど種々の取り決めをして5月1日から実施することとした。

 これが当町において現在行われている生活みなおし運動のきっかけとなったもので、こうした運動の効果をさらに高めるためにも、全町的に統一して実践しようという声が強まり、町内会等連絡協議会においても討議された。これにより、農・漁・商や、青年・婦人団体などにも呼びかけ、昭和50年(1975)6月19日に「八雲町生活をみなおす運動推進委員会」が設立されたのである。

 この推進委員会では、早速慶弔関係の改善を町ぐるみで実践する方針を決め、町内会等連絡協議会とタイアップして検討の結果、実践目標の細部を決めて同年10月1日から実行に移し、住民の協力を求めた。そして、約1か年実施してようやく住民の協力が得られるようになったことと、さらに経済情勢の変化などに対応して細部について検討をし直し、51年11月1日から内容の一部を改正して現在に至っている。

 その内容は、

(1)病気見舞・出産祝・入学祝などは2000円以内で、お返しはせずお礼ははがきですること。

(2)新造船祝・住宅等建前祝・結婚祝賀会なども2000円以内(54・4・1から結婚祝賀会3000円以内に改正)祝金で、引出物は出さないこと。

(3)葬儀は香典返しをなくし、忌中引きをする場合でも一人1000円以内で済ませること。

などを骨子とするもので、住民の負担軽減と生活の簡素化に大きな効果を上げつつある。

 この推進委員会は、ある程度運動の成果がみられるに至ったので、53年3月をもって町内会等連絡協議会に統合して組織を一本化した。

 

第7章 八雲町出身の道議会議員

 

北海道会法の成立

 明治34年(1901)帝国議会において北海道議会開設についての法案が可決されて、3月北海道会法、北海道地方費法が公布され、引き続き北海道会議員選挙令も公布されて、8月10日最初の道会議員選挙が実施されることになった。

 選挙権資格は次のとおりである。

 1、満25歳以上の男子で、北海道に3年以来居住している者

 2、道内にて3年以来土地4町歩以上所有をするか、または道内にて3年以来直接国税3円以上を納税している者

披選挙権資格は次のとおりである。

 1、選挙権資格に同じ

 2、道内にて3年以来土地15町歩以上所有するか、または道内にて3年以来直接国税10円以上を納税している者

 

道会議員の選出

 第1回北海道会議員選挙は、明治34年8月10日に実施されたが、八雲村からは立候補する者がなく、40年8月の第3期選挙にはじめて杉立正義が立候補したのであった。なお、第3期以後の状況を北海道議会史から抜粋すると次のようであった。

 1、期 日 明治40年8月10日

 2、定 数 35名

 3、侯 袖 68名、途中6名辞退して62名となる。

 4、概 況 前期選挙は日露戦争最中で選挙に対する関心は極めて薄く、函館支庁管内は無競争であったが、第3期選挙は戦後の好況時代となり候補者も多くなった。

 5、函館支庁管内の状況(有権者1、254名)

定敬3に対し5名の立候補で八雲から杉立正義が始めて出馬した。結果は、能戸清五郎(235)、松代孫兵衛(209)、田村力三郎(206)、の3名が当選し、池田醇(189)、杉立正義(81)の2名が落選した。

 

第4期道会議員選挙

 1、期 日 明治43年8月10日

 2、定 敬 35名 立候補者52名

 3、函館支庁管内の状況(有権者2、264名)

定数3名に対し候補者4名で、結果は能戸清五郎(480)、杉立正義(339)、吉田定助(239)の以上3名当選し、葛西耕芳(219)が落選

 4、概 況 定員3名に対し前議員の能戸のほか杉立、吉田が立候補して3者連合運動を行い、外に葛西が出馬して戦をいどんだが、結局連合側の勝利に帰した。

 5、補 欠 大正元年11月1日の第12回通常会で報告

 吉出定助か退職し小松伊三郎が補欠、杉立正義が45年4月死亡のため、7月上野盛松が補欠当選した。

 

第5期道会議員選挙

 1、期 日 大正2年8月10日 3区14支庁

 2、定 敬 42名(7名増) 立候補者67名

 3、函館支庁管内の状況(有権者2、260名)

定員3名に対し4名の立候補者があり、選挙の結果、葛西耕芳(339)、上野盛松(288)、池田醇(269)が当選、城他人が落選した。

 4、概 況 政友系から初期議員であった池田、前議員の上野の外に城が立候補し管内4郡連合会もこの3名を推し無競争の観があったが、前期惜敗した葛西が中立を標榜して名乗りをあげ、猛運動を開始したので政友一色の牙城もその一角がくずれ、結局葛西が最高点を獲得し、新人、城が落選という結果になった。

 

第6期道会議員選挙

 1、期 日 大正5年8月10日 4区14支庁

 2、定 数 42名 この年から任期4年となる 立候補者57名

 3、函館支庁管内の状況(有権者1、996名)

定員3名に対し立候補者4名、八雲町から2名の立候補がでる。選挙の結果中宮亀吉(482)、池田醇(299)、に上野盛松(253)が当選し、川口良昌(232)が落選した。

 4、概 況 政友系の前議員池田と上野を公認候補とし、同志系では新人の中宮と川口を推薦し、上野が最も苦戦したが、中宮が票を取り過ぎたので仲間の川口がわずか一票の差で惜敗した。

 

第7期道会議員選挙

 1、期 日 大正9年8月10日 6区14支庁

 2、定 数 52名 立候補者78名

 3、函館支庁管内の状況(有権者2、345名)

定員3名に対し立候補者4名で、上野盛松が引退し、大田半三郎が新人として立起した。選挙の結果大田半三郎(658)、中宮亀古(444)、池田醇(332)が当選し、原田助八(262)が落選した。

 4、概 況 政友会は第1期以来の古豪である前議員の池田と新人大田を立て、憲政会は前議員の上野が辞退したので同じく前議員の中宮と新人原田を押し立て、大田、中宮は初めから優勢だったが池田と原田は非常な苦戦で、一時原田の方が有望と伝えられたが開票の結果は古豪池田の方に軍配が上った。

 

第8期道会議員選挙

 1、期 日 大正13年8月10日 6市14支庁

 2、定 数 55名 立候補者96名

 3、渡島支庁管内の状況(函館支庁は渡島支庁と名称変更、有権者8、084名)

定員3名に対し立候補者6名で、八雲町から大田半三郎、増田鶴寿の2名が立起した。選挙の結果大田半三郎(1、469)、鍵谷萬次郎(1、368)、川内精作(1、237)の3名が当選し、佐藤元蔵(861)、佐藤岩蔵(647)、増田鶴寿(430)の3名が落選した。

 4、概 況 前議員からは中宮・池田が立候補を見合わせ、政友本堂を標傍して大田一人立候補したのみであり、新たに政友鍵谷・政友系中立、川内、憲政合、増田が出馬したが、さらに選挙間近になって中立を標榜して両佐藤が名乗りを上げ、俄然定員3名に対し6名の候補者が入り乱れて奮戦したが、政本系大田と政友合鍵谷・川内が他の3名を相当引き離して当選した。

 

第9期道会議員選挙

1、期 日 昭和3年8月10日 6市14支庁

 2、定 数 57名 立候補者110名

 3、渡島支庁管内の状況(有権者数26、877名)

定数が4名となり8名が立起したが、このうち八雲から大田半三郎を始め岡部五郎、幡野直次の3名が立起した。

選挙の結果、宇喜多甫(3、207)、川内精作(2、243)、黒島豊七郎(2、232)、大田半三郎(2、052)の4名が当選し、岡部五郎(2、037)、山下順三(1、676)、幡野直次(1、522)、鶴本徳太郎(266)の4名が落選した。

 4、概 況 定員1名増加して4名となり、これに対し10数名の候補者が噂に上ったが結局前議員大田、川内の外に新人6名、合せて8名の多数で非常な激戦を展開した。その政党分野は前期政友および政本系が独占して憲政会が全く歯が立たなかったのに比し、今期は中央政界の情勢を反映して、むしろ民政系が攻勢に出で、大田が政本から民政に転じ、外に黒島、幡野等を立てて必勝を期し、政友系は宇喜多、岡部、山下の3新人を立てて守勢をとり、外に従来政友系と見られた川内は中立を標榜し、また鶴本徳太郎が社民党から打って出た。鶴本は初めから問題にならなかったが他の7名は勢力全く伯仲して予測を許さないものがあった。開票の結果は新人宇喜多は他を引き離して最高点て当選したが、他の川内と前議員2名および岡部は得票差が各々10数票に過ぎないという珍らしい接戦で岡部が惜敗した。

 5、その他 昭和5年4月15日黒島豊七郎死亡により補欠選挙の結果幡野直次が当選した。(昭5、11、17報告)

 

第10期道会議員選挙

 1、期 日 昭和7年8月10日 6市14支庁

 2、定 数 61名 立候補者108名

 3、渡島支庁管内の状況(有権者数30、475名)

定数4名に対し八雲から3名立起、全員当選の快挙を果す。選挙の結果は幡野直次(3、567)、大田半三郎(2、966)、広部大郎(2、639)、岡部五郎(2、339)が当選、三瓶萬吉(2、206)、山下順三(2、197)、千葉文夫(1、789)、宇喜多甫(1、024)が落選した。

 4、概 況 定員4名に対し前期同様2倍の8名立候補した。ことに政友系は同党だけで定員以上の5名乱立、石狩同様同志打の無統制振りである。前期当選の黒島は昭和5年4月死亡し、その補選で出た民政幡野の外前議員は民政大田、政友宇喜多立候補し、前期落選組の政友岡部、山下も出馬し外に新顔として広部、三瓶、千葉が名乗りを上げた。初めは金権候補として三瓶と共に優勢を伝えられた伊藤が引込み途中で千葉がそれに代わったわけである。結果は政友の乱立拙戦がたたって民政の幡野、大田が高点で全勝し、前期高点当選の宇喜多がどん尻で落選という異変を示し、代りに前期次点の政友岡部が最低位ながら当選し、もう1名の新顔も3位で当選した。途中で引込んだ伊藤とともに優勢を伝えられた三瓶は次点落選、前期落選第2位の山下は今度も同様の成績で落選、立遅れの千葉も問題にならなかった。

 5、その他 岡部五郎は昭和11年2月28日辞職した。

 

第11期道会議員選挙

 1、期 日 昭和11年8月10日 7市14支庁

 2、定 数 65名 立候補者144名

 3、渡島支庁管内の状況(有権者敬32、842名)

定数4名に対し9名の立起で、このうち八雲から幡野直次、大田半三郎、米沢勇が立候補した。結果は広部太郎(三、〇〇一)、川村善八郎(2、169)、幡野直次(2、364)、大田半三郎(3、229)の4名が当選、千葉文夫(2、160)、松本隆(1、260)、山下順三(1、117)、米沢勇(1、045)、堀川原三郎(755)が落選した。

 4、概 況 定員4名であるが、この選挙区もまた今までにない定員の二倍以上の9名立候補した。前議員中、岡部以外の広部、幡野、大田は何れも再起し、それに前期落選の千葉、山下も出馬し、新顔としては川村、松本、米沢、堀川等何れも漁村の有力者が名乗りを上げた。その結果前議員の3名は何れも無事当選し、大田は7期以来連続5回当選の幸運で、しかも最高点であった。それに新顔として森の海産商川村が一枚加わった。前期落選の千葉、山下および川村以外の新顔は全部枕をならべて落選した。

 5、その他 昭13、1、12幡野直次が辞職し、補欠選挙で米沢勇が当選(1、338)した。同13、12大田半三郎病死した。

 

第12期道会議員選挙

 1、期 日 昭和15年8月10日 7市14支庁

 2、定 数 65名 立候補者165名

 3、渡島支庁管内の状況(有権者敬33、340名)

定数4名に対し8名立起、このうち八雲からは米沢、幡野、岡部の3名が立候補した。結果は松本隆(2、826)、岩田留吉(2、758)、米沢勇(2、527)、広部太郎(2、290)の4名が当選し、幡野直次(2、240)、稲川広光(2、077)、中村長市(1、667)、岡部五郎(1、087)の4名が落選した。

 4、概 況 定員4名であるが前期議員中、川村は中央政界に進出し、前期当選して13年辞職した幡野と、同期落選して補欠選挙で当選した米沢も共に立候補し、その外前期落選の松本、9期落選の岡部等も出馬し、全くの新人としては青年岩田、中村と稲川が名乗りを上げ非常な接戦であって前議員の民政幡野と新人の政友岩田が入り替り、民政米沢、政友広部は連勝し、前期落選の政友松本が最高点で当選したのに対し、第10期当選の同じ政友派岡部が最下位で落選する等地方政治情勢のめまぐるしさを如実に現わしている。

 5、その他 戦時特例により6年9か月在任す。

終戦後道府制の改正、続いて地方自治法、公職選挙法が公布され、昭和22年4月30日の選挙から4年となった。

 

戦後における道議会議員

 戦後、地方自治法や公職選挙法が公布され、初の道議会議員選挙が昭和22年4月30日に執行された・この選挙には、渡島支庁管内定数5名に対して13名の立候補者によって争われた・当町からは三沢正男(日本社会党)、渡辺駒治(国民協同党)の両名がみごと当選し、道議会に議席を持つこととなった。

 また、26年4月30日に執行された同選挙には、再び三沢正男(日本社会党)、渡辺駒治(農民協同党)の2名が立候補したが、三沢正男が当選して議席を有したものの、渡辺駒治は惜しくも落選した。

 しかし、三沢正男は昭和29年9月26日公務で上京の途中、おりから道南地方を直撃した台風15号によって沈没した洞爺丸の船中にあり遭難死亡したのである。

 その後、34年4月23日執行の同選挙で樋口哲男(自由民主党)が当選し、引き続き38年と42年にも当選のうえ活躍していたが、42年7月病気のため死亡したのであった。

 樋口道議の死亡後は、しばらくの間当町から道議会の議席を有する者がなかったが、昭和58年(1983)4月10日執行の道議会議員選挙に、故三沢正男の長男である道男が立候補した。そして渡島管内定数4人に対して8人が激戦を展開したが、革新系無所属で労農提携を推進した同人が当選を果たした。(当選後に社会道民連合所属)

 三沢は酪農業を経営する一方、八雲町農業協同組合理事、38年から町議1期、51年から同農協組合長2期を務め、亡父の遺志を継いで道議会の議席を有したのであった。

杉立正義 明43年8月当選・明45年4月死亡  (写真1)

 

上野盛松 明45年7月当選・大9年8月満了  (写真2)

 

大田半三郎 大9年8月当選・昭13年12月死亡  (写真3)

 

幡野直次 昭5年5月当選・昭13年1月辞任  (写真4)

 

岡部五郎 昭7年8月当選・昭11年2月辞任  (写真5)

 

米沢 勇 昭12年3月当選・昭22年4月満了  (写真6)

 

渡辺駒治 昭22年4月当選・昭26年4月満了  (写真7)

 

三沢正男 昭22年4月当選・昭29年9月死亡  (写真8)

 

樋口哲男 昭34年4月当選・昭42年7月死亡  (写真9)

 

三沢道男 昭58年4月当選・現在  (写真10)

 

 このように当町からは、戦前戦後を通じて数多くの道(議)会議員を道政の場に送り込んできたのである。なお、明治43年(1910)から昭和58年(1983)までの議員は次のとおりである。

 杉立正義(明43・8当選 明43・4死亡) 上野盛松(明45・7当選 大9・8満了)

 大田半三郎(大9・8当選 昭13・12死亡) 幡野直次(昭5・5当選 昭13・1辞任)

 岡部五郎(昭7・8当選 昭11・2辞任) 米沢 勇(昭12・3当選 昭22・4満了)

 渡辺駒治(昭22・4当選 昭26・4満了) 三沢正男(昭22・4当選 昭29・9死亡)

 樋口哲夫(昭34・4当選 昭42・7死亡) 三沢道男(昭58・4当選 現在)

 

 

第8章 財政

 

 第1節 財政運営の概況

 

会計の変遷

 戸長役場時代における村の財政運営は、一般村費と教育費とを区分して経理していたことが明らかである。明治36年(1903)5月の第2回村会において報告された「明治34年度八雲・山越内村費及び八雲外一村教育費収入支出決算報告」という案件にも示されており、さらに、明治26年(1893)の史料によれば、各学校ごとにそれぞれ予算額を決めて運用していたことを明らかにしている。

 しかし、明治35年2級町村制が施行されてからは、「歳入歳出予算」として一本化され、その中で経常部と臨時部に区分し、施設の整備や各種団体への補助金や寄付金などは臨時部で経理するように改正されていた。

 明治35年度における予算を示すと次のとおりである。

 

明治35年度(2級町村制施行の年)

歳  出  7、785円88銭8厘 歳   入   7、785円88銭8厘
税  収  入 税 外 収 入
役  場  費 1、156円275 地  価  割 43円215 財 産 収 入 1、060円960
会  議  費 150円610 所 得 税 割 23円661 使用料手数料 157円200
土  木  費 50円000 国税営業税割 38円899 雑  収  入 242円800
教  育  費 4、139円681 地方税営業税割 129円950 地方費補助 443円500
衛  生  費 65円200 〃  雑種税割 147円500 国庫下渡金 13円993
同 補 助 費 50円000 水 産 税 割 217円888 地方費交付金 80円958
村  医  費 860円000 反別割付加 47円209 基本金支消 730円850
諸税及び負担 282円631 特別税戸別割 4、132円305 寄  付  金 275円000
基本財産造成 51円450        
村農会補助 240円041        
雑  支  出 140円000        
子  備  費 50円000        
(臨)教 育 費 550円000 4、780円627 3、005円261

 

 なお、戸長役揚時代から引き継いで管理してきた基本財産は、39年(1906)「基本財産からの収入は、特別会計に繰入れるものとする」として普通基本財産特別会計を設けて管理することとなった。

 さらに、太正8年(1919)教育基本財産特別会計を設けて、施設改善に関する準備資金の蓄積をはじめ、同13年から救済舗金特別会計を設定して町民救済資金の蓄積をはじめるなど臨機の資金づくりに努めた。これらは、昭和3年(1928)教育積立金・救済積立金とそれぞれ名称が改められ、特別会計で経理されることになっていた。

 教育積立金は、多額を要する資金需要に対応する蓄積か困難なこともあって昭和8年限りで廃止し、昭和7年の水害凶作義援金として配当された1582円を原資として、9年に備荒基本財産特別会計を創設した。なお、同年度に屠揚積立金特別会計を創設したが、これは屠揚改築資金の積み立てという臨時的なもので、翌10年度限りで廃止されている。

 昭和16年度(1941)には基本財産を普通・特別の区分をなくするとともに、救済積立金を特別会計からはずし、現有高のみを別途管理することと改めたので、予算は再び歳入歳出予算と基本財産特別会計の2本立てとなった。翌17年梅村多十郎が私有山林の落葉松を売却した所得の中から5万円を、青年の修養、生活改善の揚とする青年会館建設のため寄付したので、時局柄これを5年間蓄積し、利殖を計ってから建築することとして特別会計を設けた。

 しかし、昭和19年(1944)には戦局急を告げる時勢を反映して、徹底した単純化、簡素化を図ることとなり、これまでの経常部・臨時部の区分をなくするとともに、特別会計をも通じて一本化する方策が講じられ、それ以後、基本財産の蓄積も全く中止されるに至った。

 このようにして、しばらくは歳入歳出予算だけで財政運営がはかられたのであるが、昭和32年(1957)9月から、町立八雲病院特別会計・町立八雲と畜場特別会計および八雲町簡易水道特別会計の3つが設けられた。また、33年度には土木機械特別会計が設けられたが、これは、特別会計になじまないという特殊性から、わずか1年限りで廃止された。

 その後、35年12月からの事業開始にともない、国民健康保険特別会計を創設し、39年には本質的には差異はないが各特別会計とも「○○事業特別会計」と呼称を改めるとともに、建設中からの経理を明らかにするため、上水道事業特別会計を新設した。

 昭和41年(1966)4月、と畜場事業特別会計を廃して町立道南畜肉センター特別会計を設け、町立病院事業に公営企業法に規定する「財務規定等」を適用することとし、町立病院事業会計をおこした。また、上水道事業も昭和42年度から公営企業法による上水道事業会計とし、企業経営の明確化を図ることになった。

 昭和45年度には事業開始にともない乳牛育成牧場事業特別会計を設け、48年度には同じく栄浜簡易水道事業特別会計を新設した。

 その後、50年1月には、41年4月に設けた道南畜肉センター特別会計は、事業体が道南日本ハム株式会社に変わったため町営事業としては廃止した。また、53年度に野田生から浜松を範囲とする野田生簡易水道布設工事を施行するにあたり、これまでの落部・栄浜の各特別会計を合わせて八雲町簡易水道事業特別会計と改めた。

 したがって、57年現在では、次の6会計をもって町政の運営がはかられているのである。

 (1)八雲町一般会計

 (2)八雲町国民健康保険事業特別会計

 (3)八雲町簡易水道事業特別会計

 (4)八雲町乳牛育成牧場事業特別会計

 (5)町立八雲病院事業会計(企業会計)

 (6)八雲町上水道事業会計(〃)

昭和32年(1957)落部村との合併後における一般会計決算額の推移は右表のとおりである。


一般会計決算額変遷一覧表(合併後)
   (単位 千円)

年度 収入額 支出額 差引残額 備考
32 159,413 165,367 △ 5,954  
33 152,249 164,280 △12,031  
34 158,579 152,546 6,033  
35 200,799 187,109 13,690  
36 263,180 251,293 11,887  
37 294,319 278,118 16,201  
38 388,978 369,578 19,400   
39 496,465 477,937 18,528  
40 561,748 542,102 19,946  
41 598,241 585,720 12,521  
42 702,956 691,776 11,180  
43 768,174 759,784 8,390  
44 877,752 867,615 10,137  
45 968,966 958,761 10,205  
46 1,164,367 1,161,140 3,227  
47 1,381,235 1,333,046 48,189 25,000
48 1,621,653 1,533,177 88,476 45,000
49 2,307,631 2,227,542 80,089 41,000
50 2,517,290 2,452,495 64,795 33,000
51 2,970,040 2,863,505 106,535 63,000
52 3,899,904 3,786,327 113,577 57,000
53 4,914,335 4,808,954 105,381 55,000
54 5,649,847 5,529,054 120,793 61,000
55 6,120,705 6,045,934 74,771 38,000
56 6,205,247 6,101,718 103,529 52,000
備考欄の数値は,財政調整基金繰入額を示す。

 

基本財産の積み立てと運用

 当町は、過去歴代理事者の努力により、一貫して自主・健全財政の運営を基調とし、各種事業の実施にあたっては、その緩急の度合いを配慮して住民負担の急激な増加を避けるという、堅実な姿勢が維持されてきた。

 もっとも、現在のような起債制度が未発達な時代であり、他に資金を求めるにしても道が開かれていなかったこともあるが、戸長役場時代から「基本財産」の積立制度が採用され、財産から生ずる収入は基本的にこれを積み立てて臨時の支出に対応し、これを費消したときは一定の年限や利率などを定めて毎年度の予算から返済するという体制がとられていたのである。

 明治35年(1902)4月施行の北海道2級町村制の中でも、

 「町村ハ不動産積立金穀等ヲ以テ一般又ハ特別ノ基本財産ト為シ、之ヲ維持スル義務アリ」

と明確に定められていたので、村会成立後初の村会において「八雲村基本財産管理規則」を議決し、9月にこれを制定して従来の基本財産をこれに引き継ぎ維持管理につとめた。そしてこの基本財産を費消するときは、そのつど村会の議決を経なければならないものとされていた。

 したがって、村(町)が単年度で特に多額の臨時的支出を要するときは、この基本財産を運用した財政運営がなされてぎたわけであるが、その運用記録としては、

 八雲小学校校舎建築費 2万5000円(大正10・11年)

 旧制八雲中学校寄宿舎建築費 2万8000円(大正13年)

 八雲小学校建築費 2万6000円(昭和4年)

 実科高等女学校校舎建築費 3万円(昭和12年)

などのほか、各学校営繕費に有効に活用され、所期の目的を十分果たしていたのである。

 しかし、太平洋戦争たけなわのころから戦後の経済情勢激変の影響を受けて、基本財産を蓄積できる状況ではなくなり、ほとんどその蓄積は停止され、事実上、有名無実となってやがて廃止されることとなった。

 

起債

 八雲村が借入金によって臨時的支出に対応した記録としては、明治31年(1898)八雲小学校校舎の新築工事費ねん出に際し、村有軍事公債を抵当として徳川家の当主義礼から10か年賦をもって1000円を借り入れたものがある。おそらくこれが起債の最初であると思われるが、これは36年までの6か年で償還を完了している。

 その後、長い間起債についての記録はなかったが、町が財政運営上起債した例としては、昭和6、7年に「凶作救済道路工事費」に充当するため地方費から1万2000円(利子補給あり)、同じ7年度に「歳入欠陥補充資金」として4500円、同16年度に高等女学校営繕施設費に2万2000円を借り入れしたのが主なものであり、このほか昭和6年から始めた「自作農創設維持資金」転貸や、同7年の「山村救済製炭事業資金」転貸のための起債がみられる程度であった。

 もっとも、当町にとって大事業であった大正12年の旧制八雲中学校校舎建築、昭和12年の実科高等女学校校舎建築の主な財源は、有志ほか一般町民の寄行金をもって充当することができたという時代であったことも、大きく影響しているわけである。

 なお、落部村については史料がなく、財政運営の状況については不明であるが、大正6年(1917)の「落部村勢一班」の中に村債として起債1566円68銭が計上されているが、その詳細については明らかでない。

 戦後、昭和25年度以降は、教育制度の改革にともなう63制整備資金・小学校改築・災害復旧工事・消防施設の充実・引揚者住宅および公営住宅の建築など、相次ぐ財政需要に対し、起債は各年度における貴重な財源となり、しかも制度も年々充実して、いまやこの起債の運用いかんによって町政の進展を左右するとまでいわれる時代となったのである。

 第2節 町税その他主要財源の推移

 

明治年間の村税

 明治12年(1879)戸長役場が設けられてからの町村運営費は、住民の財政力に応じ、等級によって賦課徴収する「戸別割」が大宗を占めてきた。しかし、残念ながら史料が残されていないため、これを具体的に知ることができず、ようやくその大要を知ることができるのは、八雲村が山越内村を合併して北海道2級町村制を施行した明治35年以降のことである。

 明治35年度の予算(前掲)でみる村税は、国税に対する附加税として、地価割・所得税割・国税営業税割の3税、地方税に対する附加税として、地方税営業税割・地方税雑種税割・水産税割・反別割附加税の4税、そして特に町村の状況に応じ許可を受けて創設課税する特別税としての「戸別割」があったが、村税収入が総予算額の61・4パーセントを示し、村税の中では特別税戸別割が最も多く村税全体の86・4パーセントを占めており、財政力に応じ村会で各戸の等級を決めていた。

 明治40年(1907)4月、北海道1級町村制施行の年度においては、附加税としての地価割および反別割附加税を廃止し、反別割を特別税として新設した。この年度における歳入歳出予算は別表のとおりであるが、村税収入が総予算額の89・4パーセントを示し、特別税の戸別割と反別割で村税総額の90・2パーセントに達する状況であった。

大正年間の村税

 大正7年度から「義務教育費国庫負担法」によって、小学校の正教員および准教員の俸給の一部が国庫下渡金として交付される道が開かれ、それ以後、徐々に増額がみられるようになったが、市町村の教育費にかかる財政負担を軽減する抜本策とはなり得なかった。

 

明治40年度(一級町村制施行の年)

歳  出  15、956円91銭 歳   入   15、956円91銭
税  収  入 税  外  収  入
役  場  費 4、694円860 所 得 税 割 357円810 使用料手数料 500円700
会  議  費 304円600 国税営業税割 194円880 雑  収  入 666円000
土  木  費 57円000 地方税営業税割 148円830 前村引継金 47円000
教  育  費 7、680円370 〃  雑種税割 376円970 地方費補助 207円700
教育費補助 30円000 水 産 税 割 314円250 国庫交付金 114円320
衛  生  費 218円250 特別税戸別割 11、699円730 地方税交付金 138円240
同  補  助 90円000 〃 反別割 1、170円480 寄  付  金 20円000
勧 業 補助 201円050        
警  備  費 269円450        
諸 税 負 担 51円960        
雑  支  出 528円380        
神  社  費 5円000        
予  備  費 283円420        
(臨)役 場 費 130円600        
(〃)一時借入金利子 245円050         
(〃)教 育 費 1、166円920 14、262円950 1、693円960

 

 大正3年(1914)第1次世界大戦のぼっ発にともなう物価の上昇は、地方団体の財政連言を著しく圧迫する状況となった。このため、大正8年「時局の影響に因る地方税制限拡張に関する法律」によって地方税の制限が緩和されたこともあって、当町においても戸別割・特別反別割を増額して物価の高騰と職員の臨時手当や給斜額の改正に対処していた。

 なお、同年度における町税種目は、所得税制・国税営業税割・鉱業税割・砂鉱区税割・地方税営業税割・同雑種税割・水産税割・戸別割・特別税反別割の9種で、総予算額の70・1パーセントであった。

 大正12年度から遊興税割を課し、義務教育費下渡金も増額されていた。

 

大正8年度(村を町と改称の年)

歳  出  62、671円 歳  入 62、671円
税収入 税外収入
神  社  費
37
所 得 税 割
1、440
使用料手数料
1、911
役  場  費 9、048 国税営業税割 529 国庫下渡金 2、565
会  議  費 287 鉱 業 税 割 96 雑  収  入 5、156
土  木  費 102 砂鉱区税割 前年度繰越金 200
教  育  費 23、211 地方税営業税割 1、900 地方費補助 150
教育会補助 30 〃  雑種税割 1、925 国庫交付金 316
衛  生  費 3、908 水 産 税 割 850 地方税交付金 562
同  補  助 70 戸  別  割 28、379 寄  付  金 2、856
勧 業 補 助 400 特別税反別割 8、821 基本財産繰入金 5、015
警  備  費 917        
諸 税 負 担 390        
教育基本財産繰入 50        
屠  場  費 813        
雑  支  出 3、825        
予  備  費 404        
(臨)基本財産補填 571        
(〃)役場費 2、657        
(〃)教育費 12、521        
(〃)衛生費 3、410        
(〃)土木費 20 43、941 18、731

 

なお、大正6年度における落部村の租税および歳入歳出予算は次のとおりである

大正6年度落部村租税および歳入歳出予算

科    目 金     額 百分比 %
地     租
1,170,320
79.01
営  業  税 81,010 5.47
所  得  税 225,390 15.22
売 薬 営 業 税 4,500 0.30
1,481,220 100.00
戸  数  割 988,820 38.99
水  産  税 251,250 9.91
地  租  割 215,440 8.49
反  別  割 601,160 23.70
営  業  税 193,000 7.61
雑  種  税 262,060 10.33
営業税付加税 9,660 0.38
所得税付加税 10,750 0.42
鉱業税付加税 3,890 0.15
売薬営業税付加税 130 0.01
2,536,160 100.00
特別税反別割 1,042,930 19.15
所 得 税 割 33,360 0.61
国税営業税割 12,100 0.22
水 産 税 割 125,620 2.31
地方税営業税割 96,280 1.77
雑 種 税 割 130,460 2.40
戸  別  割 4,000,990 73.47
鉱 業 税 割 3,890 0.07
5,445,630 100.00
租税ノ負担 科    目 総  金  額 百 分 比 一 戸 当
国     税 1,481,220 15.65
2,680
地  方  税 2,536,160 26.80 4,594
村     税 5,445,630 57.55 9,865
9,463,010 100.00 17,142

役   場   費
1,324

21.30
会   議   費 87 1.40
土   木   費 30 0.48
教   育   費 3,634 58.47
教 育 補 助 費 25 0.40
軍人分会補助費 10 0.16
衛   生   費 58 0.93
村   医   費 180 2.90
勧 業 補 助 費 50 0.80
諸 税 及 負 担 104 1.67
雑   支   出 191 3.07
特別会計へ繰入金 421 6.77
予   備   費 101 1.63
6,215 100.00
臨時部 基本財産支消補填金 120 8.97
公   債   費 150 11.21
教   育   費 987 73.82
勧 業 補 助 費 75 5.60
1,332
合    計 7,552
普通基本財産 経常部 蓄 積 金 1,491 100.00
臨時部 財産造成費 105 100.00
合    計 1,596
学校営繕基本財産 経常部 蓄 積 金 25 100.00
臨時部 一般会計へ繰入金 750 100.00
合    計 775

科    目 予  算  額 百 分 比 %
使用料及手数料
150
1.99
雑   収   入 196 2.60
前年度繰越金 865 11.45
国 庫 交 附 金 0.11
地方税交附金 73 0.97
地方費補肋金 222 2.94
特別会計ヨリ繰入金 750 9.93
村       税 5,288 70.02
7,552 100.00
普通基本財産 財産ヨリ生ズル収入 1,235 77.38
使   用   料 12 0.75
国 庫 交 附 金 41 2.57
地方税交附金 0.06
雑   収   入 35 2.19
一般会計ヨリ繰入金 271 16.90
土 地 売 却 代 0.06
1,596 100.00
学校営繕基本財産 教 育 費 補 助 金 72 9.29
預  金  利  子 0.13
一般会計ヨリ繰入金 270 34.84
基本財産ヨリ繰入金 432 55.74
775 100.00

 

昭和初期の税制

 昭和2年(1927)には、かねてより土地の実況に即応した合理的な等級制の採用が望まれていた「特別税反別割条例」の全文を改正して負担の均衡を図った。それによれば、畑は10等級に区分し、さらにそのうちの1等を甲・乙・丙に分類、宅地は5等級に区分して同じく1等を甲・乙・丙に分類、山林・牧場・原野はそれそれ3等級に分けるなど、細分化を実現し、雑種地・鉱泉地・池沼などは区分なしの平均割で課税することとした。しかし、これらの等級決定は土地一筆ごとに町会の議決を経なければならなかったので、これにともなう数多くの事務址が要求されたのである。

 また、同年地方税制が改正されたことにより、所得税附加税が廃止されるとともに、国税営業税附加税を「営業収益税附加税」に改め、なお、この年府県税として新設された家屋税に附加税を課し、戸別割を改めて「特別税戸数割」を設定した。

 

昭和2年(一級町村制および地方税制など改正の年)

歳   出  134、743円 歳    入    134、743円
税 収 入 税  外  収  入
神  社  費
30
営業収益税割
2、780
使 用 手 数 料
4、455
役   場  費 20、884 鉱 区 税 割 61 国 庫 下 渡 金 19、800
会   議  費 575 地方税営業税割 1、400 雑   収  入 33、441
土  木  費 1、500 〃  雑種税割 5、000 前年度繰越金
教   育   費 60、052 遊 興 税 割 500 地 方 費 補 助 1、548
衛  生  費 4、001 地方税家屋税割 3、500 国 庫 交 付 金 600
警   備  費 3、300 特別税戸数割 40、000 地方費交付金 666
諸      税 823 〃  反別割 12、286 寄   付  金 1、945
補  助  費 836     国民学校補助 800
教育基本財産繰入 50     家政女学校補助 350
屠   場  費 1、573     国 庫 補 助 510
雑   支  出 7、550     特別会計繰入 5、100
予  備  費 988        
基本財産補填 6、581        
(臨)警 備 費 600        
(〃)土 木 費 1、300        
(〃)繰上補充 18、000        
(〃)教 育 費 5、100        
(〃)中学校寄付 1、000 65、527 69、216

 

 昭和3年度から「公有林交付金」が市町村の新規財源として交付されることになったが、これは、従来公有林の総面積四五万町歩から得られる収益を蓄積してきたものを、同年度以降蓄積を停止して市町村に交付することにしたものである。交付額の算定方法は、総額の100分の50を平均割、30を人口割、20を面積割とされていた。

 昭和11年度(1936)には地方財政の格差を救済是正するため、国庫交付金によって調整する「臨時町村財政補給金」が交付され、さらに、翌12年度には制度が整えられ「臨時地方財政補給金」と改められて、特別税戸数割の減税など住民負担の軽減がはかられた。この制度は、14年度まで続けられた。

 

昭和15年の税制改正

 こうした状況のもとで戦時体制下に入った地方財政は、政府の緊縮方針指令にもかかわらず、国政委任事務の累増によって膨張し、窮乏と不均衡の度合いが強まった。この状態を打開するため、昭和15年(1940)に地方税制の全面改正が行われた。町では、同年10月「町税条例」の全文を改正してこれに対応したが、その税目としては

 1、国税附加税として、地租・家屋税・営業税・鉱区税の4税に対する附加税

 2、地方税附加税として、反別税・船舶税・自動車税・電柱税・不動産取得税・漁業権税・狩猟者税・芸妓税の8税に対する附加税

 3、独立税として、町民税・舟税・自転車税・荷車税・金庫税・扇風機税・犬税・給仕人税・傭人税の9税

合計21税となったが、市町村の独立税として多くの税目が新設されたことに特徴があった。なかでも特異な改正は「町民税」という税目が初めて設けられたことであるが、その内容としては「見立てにより毎年度町会の議決を経て定める」というもので、実質的には従前の特別税戸数割と特に異なるものではなかった。

 なお、この税制の大改正にともない、これまでの補給金制度に代えて「地方分与税制度」が創設され、そのうち市町村には「配付税」交付の道が開かれた。しかし、この分与税制度は、地方税や市町村税の負担軽減はみたものの、逆に直接国税は増加する傾向を示し、しかも、中央集権化と自治主義の後退をもたらしたものであったという。

 またこの年、大正7年(1918)に公布された「市町村義務教育費国庫負担法」が「義務教育費国庫負担法」として改正公布され、教員の俸給の負担を市町村から道府県に移管することとなり、市町村の負担が緩和されるなど、大きな改正が行われたのである。

 

終戦直後の税制

 昭和21年(1946)から、これまでの地方税を「道税」と称するようになり、道税である電話加入権税・家畜税・漁業税の各税に附加税を課した。さらに、翌22年度から国税附加税が全廃されたが、新たに道税である地租・営業税・木材引取税・遊興税・電気ガス税・電動機税などの各税に附加税を課し、一方では反別割附加税を廃止した。そして独立税として、屠畜税・広告税・二歳馬税・原動機税・馬そり税・ミシン税などを廃止した。

 このころの税目や課税標準などは、毎年といわず年度中途においても、めまぐるしく変わる状況であったが、昭和23年度における町税は実に40種に及ぶ多彩なものであった。いま個々の課税内容については説明を省略するが、税目は次のとおりであった。

 1、道税附加税として、地租・家屋税・事業税・鉱業税・自動車税・電話加入権税・電柱税・不動産取得税・漁業権税・狩猟者税・漁業税・木材引取税・電気ガス税・原動機税・家畜移出税・建物改修税・余裕住宅税・貸席利用税・特別所得税・鉱産税・酒食費税・入場税・遊興飲食税など23税に対する附加税

 2、独立税として、町民税・舟税・自転車税・荷車税・金庫税・扇風機税・屠畜税・犬税・広告税・接客人税・使用人税・家畜税・馬そり税・ミシン税・養蜂税・立木伐採税・土地利用税などの17税

 

昭和25年の税制改正以後

 戦後の増税につぐ増税により、国税・地方税を通じて税体系が乱れ、国民からは減税が強く要望されるところとなったが、昭和25年(1950)いわゆるシャウプ勧告に基づく税制の大改正が行われ、負担の公平化と地方分権の確立がはかられた。そしてこの改正により、道税と市町村税を完全に分離する方策がとられたため、附加税はすべて廃止されるとともに、従来の地租・家屋税が「固定資産税」として市町村税に移管されることとなった。

 こうして同年9月「町税条例」の全面改正が行われ、町税は、町民税・固定資産税・自転車税・荷車税・電気ガス税・鉱産税・木材引取税・広告税・入湯税・接客人税・犬税の11税目に整理され、一応、現在の税制の基盤がつくられた。しかし、27年4月から入湯税を、同年7月から広告税と接客人税を廃止し、さらに、29年4月からは自転車税と荷車税が統合されて「自転車荷車税」となり、「町たばこ消費税」が新設されるなどの変遷をたどった。また、市町村民税の一部を割いて「道民税」が新設されたのもこのときである。

 その後、昭和31年度(1956)から固定資産税の一部として「国有資産等所在市町村交付金及び納付金」制度が創設された。翌32年4月には町村合併実現にともない必要となったため目的税として「入湯税」を賦課することとした。また、33年4月からは自転車荷車税を廃止して「軽自動車税」を新設し、さらに、36年4月には犬税を廃止した。

 なお、これより先の35年には自衛隊の基地などをもつ市町村に交付される「国有提供施設等所在市町村助成交付金」制度が新設されたのをはじめ、43年(1968)には「自動車取得税交付金」、「交通安全対策特別交付金」が、さらに、市町村道の延長および面積に応じて交付される地方譲与税として46年(1971)から「地方道路譲与税」がそれぞれ道路財源として交付されることになるなど、新規財源が創設された。

 また、昭和48年(1973)には土地の投機を抑え、土地供給を促進する目的をもって「特別土地保有税」が新設され、50年には電気ガス税を「電気税」に改めるなどの変遷を経て現在に至っている。

 昭和57年(1982)現在の税目を整理すれば、普通税で、町民税(個人・法人)・固定資産説(国有資産等所在市町村交付金及び納付金を含む)・軽自動車税・町たばこ消費税・電気税・鉱産税・木材引取税・特別土地保有税の8税と、目的税で入湯税を賦課している。

 昭和53年度(開基100年)における歳入歳出予算は別表のとおりである。

 

固定資産評価審査委員会

 昭和25年7月画期的な「地方税法」が公布され、固定資産税が新設されたことにともない、固定資産課税台帳に登録された事項に関する不服の審査決定などの事務を行うため、市町村長が議会の同意を得て選任した委員(任期3年)3名をもって構成する「固定資産評価審査委員会」を設置することとなった。

 当町では、この規定に基づき昭和26年(1951)10月28日に最初の委員を選任し現在に至っている。

 この委員会が設置されて以来の委員は次のとおりである。

 高田金作 26・10・28〜30・9・27

 大島勝世 26・10・28〜31・9・30

 岡野利治 26・10・28〜32・10・27

 佐藤金一 30・12・22〜35・12・21

 安藤清一 31・12・5〜現在

 大山勝悦 32・11・3〜34・5・1

 石岡 実 34・6・16〜45・3・19

 井藤七五三 35・12・22〜50・12・21

 相木鉄三郎 45・3・20〜現在

 遠藤正雄 50・12・22〜現在

 なお合併前における落部村固定資産評価審査委員会委員には木村仁次郎・加藤義春・伊藤亀三郎・宮本勝太郎・石岡 実が務めているが選任・退任の年月日については不詳である。

 

昭和53年度歳入歳出予算 歳入
                      (単位 千円)

区 分 科      目 当初予算額
町               税 574,629
地   方   譲   与   税 65,000
自 動 車 取 得 税 交 付 金 43,000
国有提供施設等所在市町村助成交付金 20,000
地   方   交   付   税 1,320,000
交 通 安 全 対 策 特 別 交 付 金 4,000
分 担 金 お よ び 負 担 金 138,809
使 用 料 お よ び 手 数 料 33,596
国   庫   支   出   金 672,090
10 道     支     出    金 475,305
11 財     産     収    入 18,369
12 寄       付       金 1,001
13 繰       入       金 100,000
14 繰       越       金 3,000
15 諸       収       入 302,901
16 町               債 569,300
合  計 4,341,000
八雲町国民健康保険事業特別会計 770,518
八雲町簡易水道事業特別会計 155,569
八雲町乳牛育成牧場事業特別会計 28,434
町 立 八 雲 病 院 事 業 会 計 1,003,796
八 雲 町 上 水 道 事 業 会 計 69,136
合  計 2,027,453
総              計 6,368,453

 

昭和53年度歳入歳出予算 歳出
                    (単位 千円)

区 分 科  目 当初予算額
議       会       費 42,238
総       務       費 207,057
民       生       費 543,582
衛       生       費 191,206
労       働       費 10,005
農  林  水  産  業  費 529,264
商       工       費 63,093
土       木       費 614,696
消       防       費 54,459
10 教       育       費 812,297
11 災   害   復   旧   費 125,160
12 公       債       費 256,139
13 諸    支      出    金 5,000
14 職       員       費 880,804
15 予       備       費 6,000
合 計 4,341,000
八雲町国民健康保険事業特別会計 770,518
八雲町簡易水道事業特別会計 155,569
八雲町乳牛育成牧場事業特別会計 28,434
町 立 八 雲 病 院 事 業 会 計 1,003,796
八 雲 町 上 水 道 事 業 会 計 75,426
合 計 2,033,743
総       計 6,374,743

 

 第3節 財政調整制度の推移

 

財政補給金制度

 準戦時から戦時体制へと進み、さらに、昭和6年(1931)にはじまる打ち続く冷害・水害・凶作・凶漁の影響を受けて、地方財政は窮乏を告げ、住民の税負担も増加の傾向をたどっていった。こうした地方財政の全般的な窮迫と、都市と農村の格差を救済是正するため、政府は昭和11年(1936)に国庫交付金によって調整する「臨時町村財政補給金」を交付し、財政窮乏の著しい町村に対して財源の均衡をはかった。この補給金は、町村だけに交付されたのであるが、八雲町には1万763円が交付され、町ではこのうちの3802円を特別税戸数割の減免に充て、住民の負担軽減を図った。12年度には制度がさらに整えられ「臨時地方財政補給金」として範囲も金額も拡大された。すなわち、諸税負担の大小および現行戸数割の軽重その他の事情を配分の基準におき、一定の算定によって八雲町は2万9782円の交付を受けた。これは、雑種税(道税)の廃減税による附加税の減収補てんのほか、戸数割の超過課税減税による減収(昭和10年の国勢調査の世帯数に7円を乗じて得た額を戸数割の課税限度としてこれを超える分)に2万2925円を充用するなど、そのほとんどを減税対策に充当した。

 さらに、13年度には3万1782円の交付を受け、このうち戸数割の減税に2万8518円と、国税などの減税にともなう附加悦の減収補てんのほか、特に時局緊急の経費として応召吏員の補充費用240円、防空監視哨施設費用980円などに充用されたことに特徴があった。

 14年度は一般補給金3万4257円と特別補給金523円、合計3万4780円が交付された。これは、諸税の減税による附加悦の減収補てんと、その残額3万2256円を戸数割の減税に充てているが、宇部町長はこの議案説明の中で次のように述べている。

 「此ノ補給金ニ依ル軽減額ヲ以テ貯蓄報国ノ実践ヲ期シ、国債ノ購入ヲ勧奨セントスル次第ナリ」

 一方、落部村においても八雲町と同様に財政補給金を交付され、応召吏員の補充費、事変にともなう事務処理のための吏員増置費、戦病死傷者の弔祭慰藉(しゃ)費、防空費等に充当しているが、その額については史料に乏しく詳細は不明である。

 

配付税制度

 昭和15年度における税制の大改正により「地方分与税法」が制定公布され、これまでの補給金制度は発展的解消となった。この地方分与税は、還付税と配付税に分けられており、このうち市町村に関係したのは「配付税」に限られ、国税である所得税・法人税・入湯税および遊興飲食税の一定部分を道府県と市町村にそれぞれの事情に応じて配分交付するという制度であった。

 昭和23年(1948)地方自治法の制定にともない地方税制も一部改正となり、還付税が廃止されたため、地方分与税法は「地方配付税法」と改められるとともに、その財源は、所得税・法人税・入湯税の3税となった。

 

地方財政平衡交付金制度

 昭和24年シャウプ勧告により地方配付税制度は廃止され、翌25年度から地方財政平衡交付金制度が創設された。

 この地方財政平衡交付金は、すべての地方団体について一定の基準で標準的な財政需要額を算定し、また、客観的な方法で各地方団体が通常収入し得る財政収入額を算定し、財政需要額が財政収入額を超える額、すなわち、財源不足額を完全に補てんすることによって、すべての地方公共団体に一定水準の行政を保障しようとするものであり、昭和28年度まで続けられた。

 

地方交付税制度

  昭和27年(1952)4月講和条約の発効により、占領下で作られた制度を全面的に再検討するため、同年12月地方制度調査会が発足し、地方財政平衡交付金制度についても種々検討が加えられた。この結果、従来の不備を補うため、29年5月「地方財政平衡交付金法の一部を改正する法律」を制定し、交付基準をより明確にしたうえ、名称を「地方交付税」と改めた。

 この改正によって、地方交付税の総額は、所得税・法人税および酒税の総額の100分の22と定められたが、その後、地方財源の不足補てんやこれら3税の減税による交付税額の減収補てんなどのため、交付税率はたびたび引き上げられ、昭和42年(1967)には100分の32とされ現在に至っている。

 

特別交付税制度

 特別交付税は、普通交付税の算定で補足されなかった特別の財政需要であり、また、財政収入の減少がある場合に交付されるものであって、いわば普通交付税の機能を補完して地方交付税全体としての具体的な妥当性を確保するためのもので、したがって零細な交付額にとどまっている。

 

 第4節 税務諸機関

 

八雲税務署

 税務事務の民主化・適正化を図るとともに、納税者の利便増進を目的として税務署が増設されることになり、従来の函館税務署所管区域のうち、森町・砂原村・落部村・長万部町・八雲町の五か町村と、江差税務署管内の瀬棚町・東瀬棚村・利別村・太櫓村の四か町村をそれぞれ分離し、これらを管轄区域とする八雲税務署が新設されることになった。

 こうして八雲税務署は、旧陸軍飛行場地内の八雲気象隊跡を庁舎に充当し、門内正信が初代署長に赴任して開庁したのは、昭和22年(1947)7月15日のことであった。

 開庁当時は、直税課・間税課の二課によって運営されていたが、27年の機構改革により庶務・管理、さらに、31年総務・直税・間税、46年には総務課・調査部門と変遷し現在に至っている。

 また庁舎は、昭和34年(1959)12月、鉄骨コンクリート平家建て373・2平方メートルが新築され、昭和56年(1981)現在、佐々木孝志署長以下17名の職員により税務事務が運営されており、所管区域は開庁当時と同じである。

 

渡島支庁八雲税務出張所

 道税の適正な賦課と徴収事務の円滑を図るため、昭和28年度(1953)において渡島支庁管内の北部に税務出張所を設置する計画のあることを伝え聞いた田仲町長は、これを当町に設置するよう陳情を続けた。その結果、道独自の調査と相まって当町に設置することが決定され、庁舎を富士見町130番地に新築して、同年10月1日から業務を開始した。開設当時の管轄区域は、砂原村・森町・落部村・長万部町・八雲町の五か町村で、初代所長鶴喰徳治ほか15名の職員が赴任して開所された。

 当町としては、この出張所の設置にあたり、敷地のあっせんにつとめ、さらに、職員住宅二棟三戸(48坪)を寄付するなど積極的な協力体制をとったのである。

 こうして、道税事務が進められていたのであるが、昭和55年(1980)8月、道の行政機構改革にともない渡島支庁に統合されることとなり、30年近くにわたった税務出張所は廃止され、この庁舎には渡島北部地区農業改良普及所と八雲地区林業指導事務所が移転し、普及員・指導員など12名が56年1月から執務することとなったのである。

 

旧八雲税務署(写真1)

 

八雲税務署(写真2)