第4編 産業と経済

 

第1章 農畜産業

 

 第1節 開基以前の農業

 

未開時代の農業

 本道の先住民族であるアイヌ人は、元来漁猟民族であるが、全く農耕を行わなかったわけではなく、極めて幼稚ではあったが古くから農業を知っていた。すなわち、農作物は栗(ムンチ)・稗(ビヤバ)・蕪青(アタネ)などにすぎず、鹿の角もしくは木の技で作った鶴嘴(シツタツプ)やかまをもって土をかき、種子をまいて施肥・除草もせず、あわやひえの穂は貝がらを手に持って熟したものから摘み取るという原始的なものであり、これらは主として婦女子の手によって行われた。そして収獲物は副食物とし、また、あわやひえは濁酒を造る原料としていたという。(「新撰北海道史」)

 アイヌのコタンは、当然狩猟や漁労に便利なところに作られ、かれらは芳醇な地酒を造り、大きないろりを囲んで、赤々と燃えるたき火にひげ面を染めながら談笑し、平和な生活を続けていたのである。

 しかし、松前藩か成立して蝦夷一島を支配し、藩士に対する知行に代えて場所を設定、交易を通じてアイヌとの交渉をもつようになってからは、和人の往来も自然に盛んになり、やがて、これら平和なコタンも大きな変化を遂げるようになった。特にヤムクシナイ以南、すなわち、野田追場所から南の地方は「松前地」といって松前藩の領地になり、自然に和人の定住する者が多くなるにつれ、これに反抗するものは追われ、半面、帰伏するものはその地に残って和人と交流し、自然に農耕や狩猟の技術を修得していった。

 時が移って安政2年(1855)に長沢盛至の著した「東蝦夷地海岸図台帳」のヤムクシナイの項によれば

 「この辺は格別の高山なく、平山つづきなり。近山に畑を作り、栗、稗、そば、大根の類、大低(抵)は女子の業とす。えぞ人食料は 手作りの栗、稗、雑魚、魚油、鮭の類を食し、……

とあり、また、安政3、4年の調査について書いた市川十郎の「蝦夷実地検考録」によれば、

 ・落部 畑地三百五十坪、栗、稗を作る。蝦夷畑地四百坪。

 ・野田生 畑地五百五十坪余、蝦夷畑地三百坪。

 ・茂梨部 畑物同上。

などとあるように、この時代はあくまでも漁猟中心の生活であり、農耕は婦女子の副業にも満たない程度のものであったことを物語っている。

 なお、余談ながら明治11年(1878)開拓の緒についた遊楽部原野の中に、アイヌ語で「トイタウシナイ川」と名付けられた川(現在の八雲川のことで一部都市下水路となっている)があったが、トイタは畑仕事をする、ウシはいつもする、ナイは流れのことを指し、総じて「畑仕事をする土地」を意味しているものと思われ、コタンのメノコたちがこの付近であわやひえを作っていたことから、この名が付けられたものと考えられるので、すでにこの地帯でもアイヌによる原始農業が営まれていたことがうかがわれるのである。

 

家畜の飼養

 蝦夷地に和人が入るようになった当時は、馬が唯一の交通機関として利用された。

 八雲地方に馬の記録が現れるのは、寛保か延享年間(1741〜1747)に記録されたと思われる著者不明の「蝦夷商賈聞書」で、交通について、

 1、ヲトシ部 モナシ部 野田オイ

  (前略)冬馬足之立間ハ馬ニ面戸切地と申所より出、……

とあり、また、文化7年(1810)の「蝦夷地湊々測量図」に、

 ・ヤムクシナイ 馬数四十五疋……

と記され、安政2年(1855)の「東蝦夷地海岸図台帳」では、

 ・ヤムクシナイ 惣馬数八十二疋のうち鞍置馬四十疋あり

 ・野田追ユオイ 馬は二十五疋内駒三疋あり

 ・落部 馬は三十七疋内駒六疋あり

と記されるなど、徐々に馬の飼養が増えていることを表し、また、交通上にも拓殖上にも欠くことのできない重要なものとなっていた。ただし、安政5年(1858)蝦夷地では官馬および警衛士の使用する馬のほかは、一般人が飼育することは禁止され、農耕や運搬用に必要なときには官馬を貸し付けすることに定められていたので、ヤムクシナイ以北の馬は官馬に限られていたわけである。しかし、時が移るにつれてしだいに馬の需要が多くなり、官馬だけではこれに応ずることができなくなったので、文久元年(1861)5月になって請負人はもちろん、出稼人でも自由に飼育することが許可されることになった。けれども、馬を他から移入することは極めて困難だったため、飼育には十分注意をはらい、通行などに必要なときはいつでも提供するという条件で官馬を借り受け、所有したいものは繁殖して子馬を得るというのが普通であった。このようにして蝦夷地で、しかも一般人によっても飼育されはじめたのである。

 一方、牛の記録としては、前掲「蝦夷実地検考録」の山越内の項の中で、

 「牛五疋を大野村より買来る」

とあるのが初めてであるが、だれがどのようにして買い入れたのか詳細については不明である。おそらくこれらの牛は、馬と同様役用に使われたものであろう。

 

大野藩の開拓

 安政4年(1857)越前大野藩の家臣浅山八郎兵衛直躬が、幕府の許可を受けて蝦夷地の開拓を志し、山越内に移住して鷲の巣の開墾にあたったということは、既に「第3編、第1章、第4節、後幕府直轄時代」の項で記しているので、ここで再掲することは省略するが、八雲村開拓の草創として貴重な事例である。

 

斗南藩の開拓

 明治3年(1870) 1月に山越郡は兵部省の管轄になって斗南藩の支配するところとなり、12月に藩士高橋常四郎は山越郡の開墾係を命ぜられ、10余戸、30余人を引率して入植した。このうち山越内(旧奥津内=現、浜松)には7戸、18人が入り、残りは長万部村に入植して開墾に着手した。これが八雲地方における集団入植の初めである。 しかし翌4年8月に廃藩置県が行われ、中央集権的な権力成立の政治改革が行われ、斗南藩は斗南県となり、分領支配を免ぜられて山越部は開拓使の直轄地となった。入植者はそのままこの地に残ったものの、事実上は開拓使の保護に甘んじて徒食するにとどまり、明治15年(1882)前後にはどこへともなく離散してしまったという。ただ高橋常四郎は斗南へ帰らず、黒岩に移って農業を営んだが、明治8年神威内に、13年には岩内に移り教員となった。

 こうしたことから推察すると、斗南藩として実際に開墾に従事したのは8か月程度と思われる。

 

 第2節 徳川家の開墾

 

開拓適地の調査

 明治新政府が誕生し、明治2年(1869)6月には藩籍奉還が行われて家禄(ろく)を削減された士族は、生活に大きな打撃を受けたのであった。次いで4年7月、廃藩置県とともに士族の家禄は政府に引き継がれたが、国庫の負担が著しく増大したため、6年に政府は家禄奉還規則を定めて負担の緩和を図った。さらに、8年7月には財政上の理由によって、この家禄奉還規則が一時差し止められ、続いて翌元年8月には、家禄・掌典禄が全廃されるに至って、いよいよ士族への授産が社会的な大問題として取り上げられるようになった。

 こうした社会背景のもとで、旧名古屋藩(尾張)藩主徳川慶勝は、 「二百数十年来の藩士素より営利の道に疎く、刀剣甲冑も手違の損失を防ぐに足らざる」

ことを憂い、明治10年(1877)5万円を第11国立銀行に預託して、その利子を旧家臣の授産に充てることとした。そして名古屋に養蚕工場を興すとともに、旧家臣の就産の道を開くため北海道の開拓を志し、同年7月家職吉田知行のほか角田弘業・片桐助作らを派遣して開拓適地の調査を命じた。

 一行はおよそ3か月にわたって、温暖で運送費のあまりかからない土地を選定する方針で道南各地を踏査した結果、ユーラップ川の流域に適地を選定のうえ、10月下旬片桐一人を函館に残して帰国し、「開拓使管内胆振国山越内村字遊楽部実況概略」という報告書を提出した。

 これによって、いよいよ当地への移住開拓の議が決せられるに至った。

 

移住人渡航願  (写真1)

 

移住人渡航願  (写真2)

 

 

旧尾張藩士の入植

 明治11年5月遊楽部官有原野150万坪(1坪は約3・3平方メートル)の無償下付を出願、同年6月13日許可を受けたので直ちに準備に取り掛かり、吉田知行ら9名を選んで目的地である遊楽部原野に先発させた。

 先発隊一行は東京品川から船で函館に到着、諸準備を整えたのち陸路ユーラップに至り、さっそく草刈りや測量を行いながら創業のくわ入れを行うとともに、道路の開削、住宅や板蔵を建てるなど、移住人受け入れのための準備を進めた。

 こうしてその年10月と11月、開拓使汽船ケプロン丸などで15戸72人と単身者10人合計82人(同年中死亡1人、出生5人)の第1次移住者を迎え、ここに八雲町創基として記念すべき、組織的、本格的開拓の業を興した徳川家開墾試験場の誕生をみたのである。

 なお、引き続き翌12年に第2次移住者家族持ちの者14戸と単身者4人を迎え、さらに14年には第3次移住者家族持ちの者14戸と単身者7人を移住させるなど、次第に戸口も増え、開拓の事業も着々と成果を上げていった。これら移住者の家族たちは、函館で船を乗り換え、再び船でユーラップ浜の沖まで来てはしけで上陸し、準備されていたそれぞれの家に向かったという。

 明治11年から25年までの年次別移住者は次のとおりである。

 明治11年第1次移住者(15戸・単身者10名)住初町に移住(旧と称す)

家族移民
氏      名 備    考
吉 田  知 行 長男知一
角 田  弘 業 弟彦の兄
角 田  弟 彦  
佐 治  為 泰  
永 田    健  
服 部  正 綾  
太 田  正之亟  
伊 藤  信 旧  
吉 田  八 郎  
土 岐  一 風  
鈴 木  重 信  
志 水  久三郎  
山 田  信 勝 明治17年退場
高 木  任 邦 明治15年退場
水 野  忠 順   〃

単身者
氏      名 備        考
岡 野  頼 隆 明治12年一家移住
明治16・4伐木の際死亡
横 井  田鶴松  
平 川  勇 記 通称鍋三郎と称す
井 上  文 治 東京から一行に加わる
赤 尾  政 敏  
天 野  熊三郎  
村 上  善一郎  
高 橋  光 造  
村 瀬  小金治  
植 松  稲 太 稔と称す
明治14・6・2退場



 明治12年第2次移住者(14戸・単身者4名)出雲町に移住(中と称す)

家族移民
氏      名 備    考
箕 田  景 綱 明治18年退場
波多野  太 郎   〃
今 村  燈 八   〃
原    武 雄 明治15年退場
吉 田  忠 実  
都 築  貞 寿  
平 川  昌 盛 明治21年退場
小 泉  幸 年  
森    富 崇  
加 藤  寮 助 通称松次郎
明治15年退場
岡 野    頼  
吉 田  正 勝 通称政一
明治16年退場
中 西  要 資 明治18年退場
島 澤  徳 白   〃

単身者
氏      名 備        考
西 村  梅 六  
飯 沼  守 彦 通称勘十郎
種 野  弘 道 早く帰り東京で弁護士
・家令をしたと云う
川 口  良 武 神主


 明治14年第3次移住者(14戸・単身者7名)三杉町旧飛行場に移住(新と称す)
家族移民
氏      名 備     考
内 堀  龍 眠 明治17年退場
近 藤  鐐太郎 明治18年退場
遠 山  典 国  
辻 村  勘 治  
若 杉  茂 親 茂親明治16年死亡
遺族明治17年退場
川 口  良 長  
一 色    勝 明治18年退場
山 吹  恭 吉   〃
杉 立  正 憲  
海 部  昂 蔵  
佐久間  成 信  
飯 沼  守 由  
林    友 則  
小 寺    ?  

単身者
氏      名 備       考
今 村  文次郎 父燈八明治12年移住
石 川  鍬 吉  
林    吉 盛  
榊 原    伸  
守 田  亀 吉  
片 桐  端 蔵  
桜 井  武 ト 教員



明治15年移住者(一戸・単身者6名)

氏      名 備           考
市 岡  金三郎 養蚕指導者として家族移民
石 原  虎三郎 単身者
関    門之丞  〃
田 島  作 吉  〃
小 菅  柳三郎  〃
中 川  庄 吾  〃
澤 井  作次郎  〃



明治17年移住者(二戸)

氏      名 備             考
片 桐  助 作 徳川家家扶心得、委員として移住年俸200
八 木  周 市 円、藍栽培教師として移住



明治18年移住者(二戸)

氏      名 備       考
小 出  忠兵衛 退場者補欠として移住
本 杉  種 助  〃



明治19年移住者(7戸)

氏      名 備      考
馬 場  逸 学 退場者補欠として移住
神 戸  彦 吉  〃
林    実 雄  〃
太 田  淺太郎  〃
林    八十八  〃
服 部  金 吾  〃
柴 田  鈴 吉  〃



明治21年第四次移住者(14戸)旧飛行場付近(大新と称す)

氏      名 備      考
加 藤  忠 純  
林    松 吉  
河 合  銀次郎  
幡 野  包 道  
太 田  義 時  
熊 澤  亮 輔 明治22年退場
梶 田  半 六  
藤 田  佐 平  
細 川  平十郎  
安 藤  久三郎  
久保田  源三郎  
小 川  富三郎  
真 野  直 秀  
竹 内  義 二  



同年野田生地区徳川農場小作として移住者(5戸)

氏      名 備     考
幸 村  傅四郎  
幸 村  伊 重  
長谷川  芳次郎  
桜 井  久太郎  
服 部  甚 助  



明治23年移住者(5戸)

氏      名 備          考
小 川  助次郎 八雲商会支配人として
樋 田  惣 助 鷲の巣へ入植
大 島  久 健   〃
岩 田  銕次郎  
磯 村  源 助 野田生へ移住



同年野田生地区徳川農場小作として移住者(5戸)

氏      名 備          考
長 江  多 七  
伊 藤  宇兵衛  
鈴 木  重 助  
岡田 弥次左衛門  
落 合 文右衛門  



明治24年野田生地区徳川農場小作として移住者(7戸)

氏      名 備          考
岡 島  清 助  
岡 島  権 七  
磯 村  孫 十  
長谷川伊左右衛門  
杉 浦  泰 助  
佐々木 徳右エ門  
長谷川金左右エ門  



明治25年補欠移住者(3戸)

氏      名 備          考
河 合  惣太郎  
北 野 豊左衛門  
梅 村  多 蔵  



明治25年移住者

氏      名 備          考
長 屋  有 二 野田生の徳川農場用度部として移住


泰西農法の吸収

 明治11年7月先発隊として入地した人々は、第1次入植者の受け入れ準備を進めたのであったが、もとよりかれらは農業に関して知識も経験もない全くの素人であり、開拓使の奨励する洋式農法(泰西農法)について、これから勉強していこうというものであった。明治11年2月開拓使は「西洋農具貸与規則」を設け、十五町歩以上開墾を行う者には、勧業課吏員および現術生徒を派遣して低賃金をもって開墾を応援することとしていた。

 

ヨーク使用の耕牛 (写真2)

 

入植当時使用されたプラウ (写真3)

 

こうしたことから9月開拓便函館支庁技術員川端次郎ほか3名が牛4頭を引き連れ、ソリキプラオ(牛刀)などの西洋農具をもって開墾の指導に来場し、たちまち3万3000坪ほどを荒起こしして移住者の受け入れを援助した。

 こうした器械の威力を見せられた吉田知行は、早速その導入を考え、耕牛5頭購入の便宜取り計らいについて開拓便に出願した。さらに、同年11月には移住人の中から独身の者4名(平川勇記・岡野頼隆・都築田鶴松・井上文治)を七重勧業試験場へ農業現術生徒として派遣し、牛馬の取り扱い、西洋農具の使用、馬具の製作などについて実習させるなど、農法の研究に努めたのである。さらに、翌12年融雪をまって、生徒二人と耕馬4頭を引き連れて来た七重勧業試験場勧業課員三田己蔵から、馬具や西洋農機具の取り扱いをはじめ種子の購入、耕作などの指導を受けたほか、前年来場した川端らも、購入を出願していた耕牛3頭を引いて来て、再び荒起こしの応援をしてくれるという状況であった。

 開墾試験場では、こうした開拓便の援助に即応して施設の充実に積極的に取り組み、耕牛・耕馬をはじめ、各種プラウや所要の農機具の整備に努め、農事振興の基礎を固めていった。

 

家畜の導入

 泰西農法を進めるうえに欠くことのできない牛馬の飼育繁殖が積極的に進められた。なかでも明治14年(1881)3月には、開墾地に接続している遊楽部の地11万坪を借り受けて官民共有牧場を設け、また、函館地方から種雄馬3頭を購入したほか、開拓使七重勧業試験場からもペルシュロン種雄馬1頭の貸与を受けて土産馬の改良を図った。さらに、南部地方から雌牛10頭を購入し、七重試験場から種雄牛1頭の貸与を受けるなど、家畜の増殖が開墾と並行して進められるよう配慮された。

 この年8月に開拓使長官黒田清隆が視察し、開拓事業の奨励のため洋種雄牛1頭を下賜されたことにより一段と牛の飼養機運が助長された。

 このほか、同年株式による大規模な牧牛会社の設立が進められ、吉田知行を社長とする野田生牧牛会社を創設し、同年落部村野田追に施設を設けて牛の飼育事業を始め、逐次事業を拡張しつつあった。しかし、明治28年(1895)の大降雪と飼料不足で死亡する牛が多数出たため事業は閉鎖され、翌29年牧牛会社は解散することとなった。このため、徳川家開墾地では30年にすべてを引き継ぎ、乳牛の一部を名古屋に移し、その他を常丹牧場に移した。

 なお、これよりさき開拓が進むにつれて地力が次第に消耗してきたので、明治18年(1885)初めてクロバー、チモシーなどの作付けを行い、その後年々反別を増加して飼料の生産を増やし、20年には新冠御料牧場から雌馬15頭、雄馬1頭、翌21年同じく雌馬35頭の払い下げを受けて移住人に配布飼育させ、漸次混同農業への移行を企て、堆肥の増産によって地力の維持向上に努めるようになった。

 

願渡下所地  (写真1)

 

開拓草創期の経営

 先発入地した人々が、熊笹(くまざさ)を刈り払い、野菜類を三反歩(一反歩は約10アール)程作付けしたが十分な成果が得られず、秋まき作物として小麦・えんどう・そら豆・菜種などをまいたが全滅の状況であったという。しかし、この苦い経験を生かして農業技術の習得に努めた結果、麻・大小豆・あわ・きび・とうもろこし・そば・野菜などにわたって作目、作付反別を漸次増やしていった。

 当時の記録から作付反別をみると、明治20年の二三町九反六畝、13年の九八町三反五畝、14年の六八町六畝、15年の八六町九反五畝、16年の一一六町五反一畝、17年の一四一町八反八畝とあり、逐年移住者の増加と作付反別の増加につれて収穫高も上昇していった。

 明治15年初期、開拓移住者の農家経済の概況を「北海道農業発達史」によってみると別表のとおりで、経営収支はともなわず、移住人各戸が農家として自立経営を確立することが難しく、このため、徳川家では開墾条令の規定やその枠を超えた特別の貸与など、手厚い保護を与えていた。しかし、入植者の一部には士気の退廃がみられる状況であった。

 

常丹牧場(写真1)

 

 明治18年(1885)3月徳川家開墾試験場では、入植以来7年を経過した実績に照らして諸制度の改革を行い、いたずらに移住人に依頼心を起こさせるような直接保護の制度を廃止し、一戸当たり一定の面積を割り渡して独立自営の精神を促す方針をとるとともに、独立の見込みのない者には、あえて旅費を支給してまでも離農を認めるという措置をとった。そして徳川家開墾試験場を「徳川家開墾地」と改称した。これによって、この年八戸の退場帰県者を出したという。

 

初期開拓者の農家経済概況 (北海道農業発達史I 明15,1882)

   氏 名
項 目
志水久三郎 吉田 八郎 山田 信勝 伊藤 信旧 吉田 知一 佐治 為泰 杉立 正憲
作 付 面 積    町
4.03
   2.10    0.83    1.03    2.68    1.95    1.40
   0.30    0.20      ―      ―    0.20    0.20     ―
粗  収  入  円
302.40
 182.75   53.345   74.10  177.18  123.575   53.50
経  費 飯  米  料   円
97.50
  78.00   78.00   74.75   97.80   97.80   50.00
醤油・塩・石油    7.32   18.64   20.925   19.74     19.584  
衣  服  料   35.00   25.00   20.00   30.00     50.00  
諸  経  費   36.00   50.00   21.00    6.84  120.00   36.00   43.00
農     夫   40.00      15.00   34.80   43.60   19.50   12.00
 215.82  171.64  155.425  156.13  261.40  222.884  104.00
差 引 収 入   87.28   11.11  △102.08  △ 80.13  △ 84.30  △ 99.309  △ 50.05

 

開拓地(写真2)

 

 しかし、この制度の実施にともなって農業経営を安定させる施設については、逆に積極的な方策がとられた。すなわち、共立商社の設立(現、宮園郵便局付近)、備荒貯蓄制度の実施、輪作・牧畜の奨励などが主なもので、特に輪作補助規程を設けて、大麦・大豆・あわなどの輪作を奨励し、地力の維持増進、略奪農業の防止に努めたのである。このように、直接的な援助の廃止にかかわらず、この地に残った移住者たちは、自立経営の意欲も盛んになり、それ以後、作付反別および収穫高は飛躍的に増加し、殊に産馬の振興によって牧草・えん麦などの飼料作物は急激に増え、明治35年(1902)には総作付面積の4割強を占めるに至った。

 

副業の奨励

 農閑期の副業として老幼婦女子による製網・製麻などが奨励された。製網は明治11年入植早々の11月、函館支庁から教師1名を招き、仮製網所を設けて移住人に対してその方法を修得させ、これを継続して行わせたので、15年には二〇五六間(一間は約1・8メートル)を製造するに至ったが、これを頂点として以後急速に減少し、18年には全く行われなくなった。

 製麻も明治12年に教師を招いて製造方法を習い、15年には三三二貫(一貫は3・75キログラム)の生産を上げたものの、これまた急速に衰微し、製網と同様、18年以後は廃業されてしまった。

 また、入植地帯は山桑にも恵まれていたので、養蚕も取り入れられ、明治12年には種紙2枚半の掃立が行われたが、経験がなかったためわずか一石八斗九升(一石は約0・18立方メートル)の収繭を得たにすぎなかった。その後桑苗を植え付け、その成長とともに収繭量も漸増したが、17年には種紙3枚半、収繭量三石三斗二升五合で、大きな発展をみるに至らなかった。

 副業として永続したものに養鶏がある。当時の養鶏は経済的な面からばかりでなく、移住民の多くが郷里で多少の経験もあり直ちに実行できる自信を持っていたので、年々採卵・肉種鶏とも増加して販売または自家用とされるとともに、鶏ふんの肥料化も奨励され普及発展したのである。

 なお、明治17年に愛知県練馬の人八木周市を教師として製藍の業を起こし、また、明治15年には辻村勘治がでんぷん製造機械を購入してばれいしょでんぷんの製造に着手したものの、資金不足などで中止のやむなきに至った。また17年には徳川家開墾試験場においても角田弘業が担当して、でんぷん製造を行ったが、製造方法も幼稚であるうえに販路が狭いということもあって、製藍とともに試験の域を脱することができなかった。

 

鷲の巣・野田生耕舎

 七重勧業試験場で農業技術を修得して帰った独身青年を中心として、移住人の子弟や単身の移住者たちが、明治14年11月開墾試験場の事務所に所属し、牛馬の飼養と農機具の管理に当たる独身舎が組織された。これら独身舎の青年は、大型の西洋農機具をもって各移住農家の応援に歩くことが主な仕事で、「器械方」と称した。だがこれにあきたらないかれらは、翌15年3月およそ10名で立岩に共同経営農場を創設し、「鷲の巣耕舎」と名付けた。

 かれらは、西洋農機具を使用し、最新の知識を傾けて開墾に着手し、また、耕馬や耕牛の牧場を設けるなど、よく働いた。しかし、19年(1886)1月耕舎は火災を起こし、スラシミシン(脱穀機)その他大切な農機具を全焼してしまうという災厄に見舞われたうえ、地力の減退などもあったので、この共同経営方式に見切りをつけ、20年秋をもって耕舎を解散、分割して個人経営とした。

 また、明治16年開進社から譲り受けた野田追地帯の開墾にも鷲の巣耕舎に見倣い、翌17年移住人の子弟ら4、5名が団結して野田生耕舎を組織したが、これは前者のような活動もみられず、間もなく解散した。

 

鷲の巣耕舎(写真1)

 

幼年舎・青年舎

 明治18年3月、徳川家開墾試験場では諸制度の改革を行い、独立自営の精神を促すとともに、「徳川家開墾地」と改めたことは既に述べたが、こうした改革と同時に委員片桐助作は、次代の農業の担い手として幼年者を求めることを考え、士族の子弟で数え年12歳から16歳の者を募集し、両親から離して移住させることとし、翌19年から3か年に24名を幼年舎に収容した。これらのうち、まだ学校教育の終わっていない者は学校に通わせ、余暇に農家の手伝いに行かせたり事務所の牛馬を飼育させ、また、学校教育の終わっている者は野田生牧牛舎や耕舎へ派遣したりした。明治23年(1890)には青年舎と改称して鷲の巣へ移転し、全員教育の終了をまって開墾に専念させたという。さらに、この中から将来の指導者を養成するため、開懇地の費用から学費を出して札幌農学校農芸伝習科(後の北海道大学)へ遊学させた。また、この青年たちが20歳になったときに十町歩(一町は約1ヘクタール)ずつの土地を与え、鷲の巣で自立経営させたりしたので、のちに八雲の中枢的な役割を果たした人物を多く輩出した。しかしその半面、労苦に耐えかねて中途で脱落し、帰県する者も多かったという。

 ちなみにこの幼年舎から出て活躍した人々に、徳川農場長の大島鍛、町長の内田文三郎、助役の小川乙蔵、養鶏家の八尾吉之助、大島叔蔵、バター飴の発明者榊原安茂などがあった。

 明治19年から21年までの幼年舎生は次表のとおりである。

 

幼年舎生(明治23年青年舎と改称)

明治19年 9名 明治20年 8名 明治21年 7名
大 島    鍛 赤 林  五郎吉 小 川  乙 蔵
八 尾  吉之助 高 木  又 市 大 島  叔 蔵
奏    栄 吉     秦    松之助 赤 林  国 麿  
高 垣  要 人   野 崎  雄登吉   小 川  一 吉    
竹 越  休 治     岩 間  岩 吉 榊 原  安 茂
高 木  釜三郎 浜 島  良 八   榊 原  政 広
植 松  鯨 雄     森 川  惟 義   細 川  成 教    
小 沢  鎌次郎   中 村  鏈 造          
森 本  鈴次郎   後に舎生になった人
内 田  文三郎
  後に舎生になった人
片 桐  利左衛門
 
            後に舎生になった人
深 沢  留 蔵
 

注  ◎印 大正11年までいた人
   ○印 明治23年鷲の巣へ移転、青年舎と改称までいた人
   無印 途中退場した人

 

落部地区への入植

 明治19年(1886)6月閣令第十六条で公布された「北海道土地払下規則」により、徳川義礼は落部村野田追および台の上に、20年10月牧場36万965坪5合の貸下げをうけ、このうち野田追地区へ25年5月に次の24戸を小作として入植させた。

 

 亀井 栄三郎 林 多三郎 長谷川 林吉 水野 善三郎 河原 友二 森本 権四郎 長谷川 米吉 谷口 梅次郎 安藤 梅次郎 長谷川 棄次郎 河合 伝三郎 梅村 菊次郎 安藤 代次郎 松浦 曽平 松浦 増太郎 松浦 政右エ門 松浦 周造 松浦 松平 永井 藤四郎 永井 小兵衛 野田 庄八 野田 虎吉 長谷川 與八 松浦 甚兵衛

 

 これらの入植者は、渡航費・小屋掛料を給与され、収穫までの食糧や農機具・種子の貸し付けがなされた。

 また、遊楽部に入植した市岡金三郎は養蚕を好み、野田追の退場者の補欠として特別移住し、森林の中に居を構えて蚕を飼い糸を採り、絹織物まで製した。後に周囲には30戸ほどが入植し、この付近を徳川農場の中の野田追農場中、小字市岡(市岡屋敷)と呼ばれるようになり、後年この部落が市岡と称されるようになったという。

 これとは別に落部地区にも25年から自費移民として愛知県から入植し、入沢・浜中・黒禿・堤ノ沢などの開墾に従事した。当時「鍬下三年」と称し、3年間は借地料が免除され、その後の小作料は反当たり25銭くらいであった。

 こうして落部地区における農業も、移住者の開墾により漸次本格化し、28年(1898)には畑地有税八一町歩、無税一八〇町歩、自作550人、小作60人となった。

 昭和2年(1927)9月には、御料地内三〇〇町歩が自作農創設となり、4年野田生の小川嘉市から物岱地区一二二町歩の農地を買収して21戸の自作農ができた。このとき一人に対する貸付金は、最高2316円、最低400円であった。

 9年9月に徳川農場の小作地が解放され、野田追(市岡地区)29戸、面積二二三町一反一畝二十歩、平均反当33円25銭、合計7万3921円60銭、黄金沢地区6戸、四一町歩、平均反当17円、合計6800円であった。

 

徳川農場の閉場

 明治11年7月徳川家開墾試験場の創設以来、8年目を迎えた18年2月、ようやく開拓の成果を上げつつあるとはいえ、そのほとんどが徳川家の手厚い保護により辛うじて経営を維持するにすぎず、このまま放置するときは、経済的発展はおろか、農家として自主独立のできる状況ではなかった。そのため、これまでの諸制度の改革を断行し、その名称も「徳川家開墾地」と改め、18年度限りをもって直接の保護を与えない方針をとることとしたのである。

 すなわち、18年度に限り人頭貸与米とあわ・大麦・大豆・麻の四種については、作付け一反歩につき1円ずつを補助することとしたが、それ以後は一切の直接補助を打ち切り、独立自営を促すことにしたのである。こうして移住人の中でその意を体して現地にとどまる者には請書に血判を押して提出させ、前途に成業の見込みがなく帰県を希望する者には旅費を貸与することとした。この結果、3月以降8戸の退場帰県者を出したという。残留者に対しては一朝有事に備えて、戸ごとに大麦一俵、ばれいしょ二俵(ばれいしょについては一俵15銭の割合で現金に換える)を積み立てさせることにした。

 さらに、明治21年(1888)9月開墾地事務所を廃止し、これに代えて「開墾地会所」を置き、会所の事務はすべて総代に委嘱することとして、その総監督を3代目委員片桐助作に委任した。そのうえ、これまでの植民制度を廃止し、小作制度としてこの地を維持するため移住民らは協議を重ね、小作人の共同誓約あるいは開墾地の自治法ともいうべき「八雲村徳川開墾地郷約」(行政編参照)を定め、明治22年7月1日徳川義礼代理・家令海部昂蔵(2代目開墾地委員)、部長中村修ら参列のもとに八雲神社において郷約発布式を行い、いよいよ徳川家の保護を離れ、小作人として自主自営に入る基礎が作られたのである。

 開墾費に関する徳川家の支出は、明治25年(1892)限りで全くやめることになったが、同年末における開墾地の移住人戸数68戸、人口602人、作付反別四五八町歩余であり、創業以来支出した経費の総額は16万3288円余であったという。

 こうして徳川家開墾地は、士族就産のための経営時代を一応終了し、一般小作者を募集入植させながら、広く八雲村発展に重大な役割を果たし続け、明治43年(1910)には農場内戸数319戸、1531人に達し、その成功地積は実に二三八五町歩余を占めるに至っていた。徳川家では、旧藩士らがようやく自作農として独立できる状況になったことを認め、移住人75戸に対し九二三町九反余(一戸当たり平均一二町歩余)の分割無償譲渡を決め、45年土地所有権の移転登記を完了したので、いよいよ自作農として独立することになったのである。

 徳川家開墾地は明治45年3月に「徳川農場」と改称し、その他の小作人との関係を保ちつつ経営を続けたが、戦後の農地解放によって昭和23年(1948)10月15日に由緒ある標札は納められたが、創設以来70年にわたり八雲町における産業、文化・教育各般の振興に寄与した功績は、特筆して余りあるものがある。

 

 第3節 農場興隆時代

 

 八雲の開発は旧尾張藩士の組織的集団移住によって創始され、しかも、常に中核的な役割を占めてきたといっても過言ではないが、当時、道庁の進める開発政策により、奥津内(現、浜松)の竹内農場、山崎の石川農場、上砂蘭部(現、春日)の鈴木農場、鉛川の藤川農場、上八雲の大関農場など、大小数多くの農場や牧場が相次いで創設され、農村としての八雲が開発されていったのである。

 これらのうち、主なものを挙げてみると次のとおりである。

 

石川農場

 明治28年(1895)尾張国海東郡蟹江町の蟹江史郎が、山崎地区に一〇〇〇余町歩の払下げを受けて開墾に着手し「蟹江開墾地」を開設したが、同31年愛知県幡豆郡平坂村の石川錦一郎がこれを譲り受けて「石川農場」と改め、小作経営法により引き継いだ。農場の規模としては、畑二三〇町歩、牧草地三〇町歩、植樹地一〇町歩余、放校地一五〇町歩、山林六七九町歩で、小作人46戸を入れて開墾を行った。

 経営にあたっては牧畜思想を普及して、いわゆる略奪的農業経営から合理的農業経営に転換させることに努めた。さらに、明治35年から家畜導入を図って牧場を兼営し、その年アメリカから優秀種雄馬1頭と種雌馬1頭を購入して馬匹の繁殖に努めたため、37年度の種付雄馬数12頭、生産9頭に対し、42年には種付雌馬数69頭、生産69頭と増加し、大正2年(1913)の農場所有馬は種雄馬3頭、内国産洋種雌馬6頭、豪州産洋種雌馬9頭を数えるに至っだ。

 また、畜牛においても明治39年イギリスから優良雌牛を2頭、44年には同じくイギリスから種雄牛1頭をそれぞれ輸入して基礎牛の繁殖に努めた。これによって、40年には種付雌牛15頭、生産11頭であったのに対し、大正5年には種付雌牛34頭、生産34頭に達する状況であり、農場の所有牛としても大正2年の時点でエアーシャー種種雄牛8頭と種雌牛60頭、同雑種雌牛17頭を数えるという発展ぶりであった。

 こうして優良牛馬の繁殖に努めた結果、明治39年の北海道物産共進会、あるいは43年の第1回函館区外8郡畜牛共進会、その他数々の共進会において優秀な成績を収め、その成果をいかんなく発揮した。

 さらに自ら製酪場を設け、明治40年生乳七三石二斗三升をもってバター五二五斤(一斤は600グラム)を製造したのをはじめ、年々生産を伸ばして大正元年(1912)には五五〇〇斤を製造、「笹印バター」と名付けて、北は樺太、南は神戸までその販路を拡張したのであった。

 明治44年8月大正天皇が東宮にあり、本道行啓の際、この笹印バターが北海道畜牛馬組合連合会から捧呈され、お買い上げの光栄に浴したのであった。

 このように牧畜の振興に力を注いだほか、常に小作人による植林や農耕を奨励したので、大正2年度には畑二九二町歩、牧草地六八町歩、放牧地三五〇町歩という農用地が開発され、小作者も100戸を数えるに至ったが、昭和6年および10年の2度にわたり北海道民有未墾地開発資金貸付規程によって自作農創設の道が開かれると、いち早く農地を解放して自作農を創設し、農場を閉鎖したのである。

 以上のような優れた農場経営と、山越郡産牛馬畜産組合長として畜産業の発展に尽くした農場主石川錦一郎は、大正10年10月、中央畜産会から表彰を受け、功労章が贈られた。

 

大関(だいかん)農場

 明治28年(1895)大阪の人長谷川寅次郎・井上徳兵衛・下関の安井作次郎・大井重吉の4人が、北海道の拓殖事業を志し、字ユーラップと字トワルべツ(現、上八雲と富咲の一部)にまたがる地区を選定し、一〇四二町九反歩の貸し付けを受け、移民を募って「大関農場」を創設した。

 農場では移民の安住に意を用い、社寺を建て、学校や病院を設立した。さらに、八雲市街地に「大関商店」を設けて、生活物資の仕入れ供給や生産物の集荷販売などに努めて農場経営の安定を図ったので、いちじは120戸の小作農を数えるまでになった。しかし、この農場も例外ではなく、第1次世界大戦後の不況のあおりを受けて離農者が続出したため、農場経営は急激に悪化し、大正11年(1922)に徳川家に譲渡されて「ユーラップ農場」として再開されることとなった。

 昭和9年(1934)場主徳川義親は、農場中六三二町九反を解放し、民有未墾地開発資金によって38戸の自作農を創設、ユーラップ農場を閉鎖した。

 

鈴木農場

 明治29年(1896)東京の鈴木義宗・桜井郁次郎・千葉県の畠山禎治が、上砂蘭部(現、春日)地内に開墾適地一三九七町歩、その他一三九町歩、計一五三六町歩の貸し付けを受けて「八雲農場」(のちに鈴木農場に改める)を創設し、愛知県と福井県から小作人13戸を入植させたのに始まる。その後、逐年移民を募集し大正7、8年ころには120戸ほどを数えるまでになったが、その直後に訪れた農村恐慌により農家戸数は急激に減少していった。その結果、上砂蘭部、加老、音名川(いずれも現、春日)などの40数戸をもってその経営は継続されたが、昭和23年(1948)7月、農地調整法により畑二九五町歩、採草地一二一町歩、合計四一六町歩が国に買収され、40戸の自作農が創設されて農場を閉じた。

 

久留米農場

 明治30年(1897)9月福岡県久留米の人井上岩記と福島県安積郡寺久田村の川口誠夫(岩記の義父)・大坪実・斉藤常盤の4名が、字ブイタウシナイ地内(現、花浦)に官有未墾地五〇〇町歩の貸し付けを受け「北海道久留米殖民組合農場」(一般に久留米農場≠ニ呼ぶ)を開設し、翌31年3月福島県から小作人22戸、60余名を移住させたのが始まりである。

 この農場地内は泥炭湿地帯が多く、良好な条件にあるとはいえないものであったが、37年には墾成地二六五町歩、小作人76戸(区画割は1戸一〇〇間四方で一万坪が標準)を数えるに至った。

 しかしこの農場は、明治42年(1909)3月神奈川県大磯郡台町の人岡田正三の所有に移り「岡田農場」と称されることになった。岡田農場はさらに山林五〇〇町歩の払い下げを受けて農場に編入し、畑三〇〇町歩、牧草地五町歩、放牧地一八三町歩、道路一二町歩と合わせて一〇〇〇町歩の農場経営としたが、五〇〇町歩の山林は農場直営とし、立木は小作人(当時45戸)の薪(しん)炭用として払い下げられ、営農の援助に向けられた。

 岡田農場は石井養太郎を管理人として第1次世界大戦による好況時代と、その直後に訪れた不景気時代などを経験しつつ経営を続けたのであったが、農場主岡田正三は経済上の事情から昭和4年函館の人近藤清太郎ほか1名に譲渡、さらに近藤から昭和5年(1930)3月、青森県三戸郡五戸町の高橋庄七に移譲し「高橋農場」と称されることとなった。

 高橋農場では伊藤熊次郎を管理人に定めて事業に着手し、特に四、五町歩の造田事業を行ったがこれに失敗、おりからの経済事情も加味して経営が悪化し、昭和9年12月青森市大字寺町の青森信託株式会社に競落のうえ移管されたが、16年1月にはさらに八木勘市の所有に移り「八木農場」として経営が進められた。

 こうして、たびたびの経営主の変更により小作争議が絶えなかったが、特に八木勘市は16年12月、小作人に対して小作契約の解除を通知したため、本格的な小作争議に発展した。翌17年4月第1回の調停裁判から延々6か年、16回に及ぶ審理の結果、21年4月に各戸の小作地は従来どおりと決定されたのであった。

 昭和21年10月「自作農創設特別措置法」が施行されたことにより、八木農場についても翌22年3月から農地の買収が行われ、25年12月までの間に畑二二八町歩、採草地八八町歩、計三一六町歩が37戸の農家に売り渡され、自作農が創設されたのである。 こうして、久留米殖民組合農場岡田農場高橋農場青森信託株式会社八木農場と変遷してきたのであるが、この間における小作契約、小作規定について参考までに一部記載すると次のとおりである。

 北海道久留米殖民組合農場規程

 第一粂 本組合ニ属スル胆振国山越郡八雲村ノ土地ハ久留米殖民組合農場卜称シ本規程ニ拠リ小作セシムルモノトスル

 第二条 本組合農場ノ土地ハ小作人一戸ニ付一万坪ヲ標準トシ甲乙二種ニ分チ貸付スルモノトスル

 第三条 本組合農場ノ小作人タラント欲スルモノハ左ノ書式ニ依り戸籍写吉ヲ添へ土地貸付願書ヲ農場事務所ニ差出スベシ

 土地貸付願

 私儀貴組合農場規程ヲ遵守仕リ別紙墾成程度書ノ通無相違墾成可仕候問甲乙種ノ土地御貸付被成下度戸籍写書相添へ此段奉願候也

 年月日

 在籍地名及現住所

 願人 姓名 印

 在籍地名及現住所

 保証人 姓名 印

久留米殖民組合御中

 

 墾成程度書

 胆振国山越郡八雲村久留米殖民組合農場ノ内種

 一未開地一万坪 貸付願地積

 内

 一何坪 明治何年何月迄ニ墾成

 一何坪 明治何年何月迄ニ墾成

 一何坪 明治何年何月迄ニ墾成

 一何坪 明治何年何月迄ニ墾成

 〆

 右之通無相違墾成可仕候万一違約候節ハ御貸付地全部御引上被成候トモ聊カ異議無御座候也

 年月日

 願人 姓名 印

 保証人 姓名 印

 久留米殖民組合御中

 第四条 本組合ハ小作願人ニ対シ確実ナルモノト認ムルトキハ第十六条ノ契約証ヲ渡シ又ハ本契約前仮契約ヲ為スコトアルべシ

 第五条 本組合農場ノ小作人ハ移住旅費開墾費及ビ小屋掛料ニ係ル諸費ハ自弁トス

 第六条 本組合農場ノ土地ハ貸付期限ヲ四ケ年間以内トシ巳ムヲ得ザル事故ノ外延期セサルモノトス

 第七条 本組合農場ノ貸付地ハ毎年其約束シタル墾成配当坪数ヲ検査シ若シ其墾成配当地積成功セサルトキハ貸付地全部ヲ返還セシムルモノトス但此場合ニ於テ其墾成地及小屋掛等ニ要セシ費用請求セルコトヲ得ス

 第八粂 本組合ハ本組合農場ノ小作人ニシテ其借地ヲ第六条ノ年限内ニ成功セシモノニ甲種ノ土地ハ其成功地八反歩乙種ノ土地ハ一町歩ノ地積ヲ給与スルモノトス尤モ給与スル地積ノ個所ハ本組合ノ指定ニ従フべシ

 第九粂 本組合農場ノ小作人ハ移住五年目ヨリ給与地ヲ除キ毎年十一月三十日限リ反ニ付時価ノ小作料ヲ納付スベシ

 第十条 本組合農場内ノ道路及排水溝ノ開設ハ其幹線ニ当ルモノヲ本組合ノ負担トシ其支線ニ当ルノヲ小作人ノ負担トス

 第十一条 本組合農場貸付地内ノ樹木ハ本組合ノ許諾ヲ得スシテ濫ニ伐採シ又ハ売却スルコトヲ得ズ

 第十二条 本組合農場ノ貸付地ハ場所ノ都合ニ依リ風防又ハ薪炭用地トシテ貸付地積ノ十分ノ一以内ヲ未開ノママ存置セシムルコトアルべシ

 第十三条 組合又ハ公共用ノ為メ必要アル場合ハ貸付中ノ土地ト云ヘトモ返還セシムルモノトス

但此場合ニ於テ家屋取去其他ノ費用ハ官庁又ハ起業者ヨリ払渡可キ金額ノ外小作人ノ負担トス

 第十四条 小作人他ニ退転若クハ其他ノ事故ニテ小作権ヲ他人ニ売買譲与セントスルトキハ必ス本組合ノ承諾ヲ受クべシ若シ此手続ニ背キ執行シタル者ハ其効ナキ者トス

 第十五条 本組合ニ於テ小作人ニ給与スル成功地及薪炭用地ハ本事業結了ノ年(即チ明治三十八年)ニ所有権譲与ノ手続ヲ履行スルモノトス

 第十六条 本組合ハ本組合農場ノ小作人ニ対シ組長理事及ビ支配人ノ捺印アル本組合農場規程一部ヲ頒置シ以テ小作契約ノ証トスベシ

 第十七条 本組合農場ノ小作人ハ勤倹貯蓄ヲ旨トシ奢侈二渡ルヲ許サズ若シ故ナク会食飲酒ヲ恣ニシ其他風俗体面ヲ害スルモノト認ムル片ハ退場ヲ命ズルコトアルべシ

 久留米殖民組合農場

 組長 川口誠夫 印

 明治三十一年             

 

 理事 井上岩記

 支配人

 (「花浦郷土史」より)

 

西田牧場

 明治35年(1902)札幌の本田正昇が久留米農場の隣接地に、畑六五町歩、牧場五〇町歩、山林八〇町歩などの貸し付けを受け、42年7月成功検査を受けて付与されたあと、東京の西田喜代に移り「西田牧場」となり、主として宮城県から小作人を入れて開墾し成果を上げた。

 その後、大正元年(1912)1月管理人の渡辺浜太郎が一括買収し、さらに、5年に益岡周治の所有となり「益岡牧場」と改称して小作経営を続けたが、昭和20年(1945)9月小作人の要望を入れ、農地改革に先立って耕作者6名に全地を分譲して牧場を閉じた。

 

宮村農場

 明治36年(1903)7月札幌区の宮村朔三が字向野(現、浜松三区)で、畑八〇町歩、その他三三八町歩の貸し付けを受け、愛知・新潟・石川県などから小作人を移住させて小作経営を行った。農場は大正元年の調べで28戸の小作人を数えるに至ったが、山岳に連なる丘陵地帯で表土の流失が激しいという悪条件もあって経営不振となり、昭和19年に全地を当町の平野幸三郎に譲渡して農場経営を閉じた。

 戦後この地は緊急開拓地として、未墾地八一町五反歩余が買収されるとともに、約三一町歩の畑が買収され、2戸の耕作者に売り渡されたほか、牧野として四九町四反歩が山越牧野組合に売り渡された。

 

岩磐農場

 明治36年福島県の吉田定之助・佐々木鉄五郎・金沢治右エ門・根本隆治の4名が、境野・弥之助沢(現、山越)の地域において二九〇町歩の貸し付けを受けたのをはじめ、同44年(1911)さらに隣接地に二八〇町歩の貸し付けを受け、これを合わせて「岩磐農場」と称し、主として根本隆治が管理に当たり福島県から小作人を入れて経営した。

 しかし、この地帯は傾斜が急で耕地に適する面積が少なく、わずかに畑が一五〇町歩、その他は植樹地や防風林地などという状況で、小作人も35戸であった。しかも、でんぷん・ばれいしょの不況の直撃を受けて離農するものが続出し、農場は経営不振に陥ったので、大正8年(1919)新開善吉に移り、さらに、昭和4年(1929)函館市の小林熊太郎に移るという経過をたどった。その後、昭和9年には民有未墾地開発資金貸付規程に基づいて五四三町歩余を30戸の小作人に譲渡され、自作農が創設された。

 

若松農場

 明治36年に函館の若松英太・若松忠次郎の2人が、黒岩と山崎の中間丘陵地帯において一〇六四町歩余の貸し付けを受け、愛知県のほか主として東北地方から小作人を募集して入植させた。

 明治の末期には畑四五〇町歩を開墾し小作人も50戸に達したが、略奪農業による地力の減耗や生産力の低下と、離農者の続出という経過をたどり、農場は経営不振となったため、昭和7年(1932)2月函館市の柳沢善吉・川端午之助に売却して農場を閉鎖した。その後、昭和20年(1945)6月、東京都の三井物産株式会社に移り、さらに、27年八木勘市がこれを譲り受けて牧場経営を計画したが実現するに至らなかった。

 

中藤農場

 明治30年(1897)三重県の重野健次郎・丸山善一らが、字黒岩の高台地区に未開地の貸し付けを受けて農場経営に入ったが、38年に至っても開拓進展のあとがみられなかったため返地処分を受けた。

 翌39年2月には、長野県の中藤弥太郎ほか2名が七二五町歩の貸し付けを受けて経営し、41年成功をみるに至った。小作戸数は59戸に及んだが、この地帯は丘陵波状地帯であるため表土の流出がはなはだしく、生産も減退の一途をたどり、離農者が続出して経営困難となった。

 このため、大正4年(1915)北海道拓殖銀行に譲渡され、その後数回にわたり所有者が変わり、昭和20年9月には栃木県の中村辰三郎へと移った。

 

大橋農場

 明治43年(1910)瀬谷重雄に付与された土地一五〇町歩を、その年東京の福島新平が買収して小作経営を行った。立岩と花浦の境界地帯から岡の山に至る区域で、小作人15戸を入植させたが、大正6年東京の大橋新太郎に、同9年には株式会社大橋本店に所有権が移動した。大橋本店では、森町鷲の木と長万部町中の沢の両農場と合わせて経営していたが、戦後全地区が自作農創設特別措置法によって買収され、それぞれ耕作者に売り渡された。

 

竹内農場

 奥津内(現、浜松)で漁業を営んでいた竹内幸輔が、明治18年(1885)に未開地の払い下げを受けて「竹内農場」を創設し、小作経営に入ったといわれている。しかし、具体的な内容について知る手掛かりがないのは残念であるが、大正年間から昭和初期にかけて、農場面積三〇三町歩、小作人25戸を収容していたという。

 浜松小学校に入る地点の国道沿いに農場事務所を建て、周辺一帯に多くの黒松を植栽し庭園風にあしらっていたので、部落の人々はここで運動会などを行い親しんでいた。昭和40年に国道拡張工事のため若干の松が伐採されたが、今なおその面影をとどめている。また、45年3月には記念物として町の文化財に指定されている。

 

後藤農場

 明治末期、落部地区にも農場経営を行うものがあった。明治24年(1891)に発生した濃尾地方の大地震により被災者となった岐阜県安八郡三城村加賀野の人後藤光太郎は製紙業を営んでいたが、被災後団体を組み渡道し、当初森村字上濁川で後藤農場を経営したが、その後37年落部に転住した。このころの農場経営について、明治37年鴻文社刊、澤石太著「北海道旅行案内」に後藤農場の移転前の記録として、

「森村管内中大農場とも称すべきは石倉村字上濁川地方に存するのみ、即ち土居農場・日野西農場(日野西子爵の経営に係る)・吉田農場・藤井農場・後藤農場(美濃団体)・北農場(越中団体)等にして、目下何れも開墾中にて未だ著しき農産物の見るべきものなきが如し。」

とこの地方の農場の様子が記されている。

 

渡辺牧場

 明治36年秋田県由利郡象潟町の渡辺文八郎・斉藤善次郎の2名が、落部村字二股に牧場地の貸し付けを受け経営を計画した。しかし40年に道庁に提出された「渡島国状況報文」の中で渡辺牧場については次のように報じられているが、斉藤牧場についてはふれていないところをみると、斉藤善次郎は着手しなかったようである。

 「落部村字二股ニアリ東ハ落部川ヲ以テ限り北西ノ東半部ハ民有地、西半部ハ官林ニ接シ南方ノ東部ハ民有地、西部ハ官林ニ連ル、貸付面積八十二万三千三百十七坪全地高低甚シカラサルモ平地ニ乏シク「シコロ」「ブナ」「ハンノキ」「ホー」等ノ疎林ヲナシ樹下概シテ笹多シ地表壌土三四寸ノ下一尺五寸乃至二尺ノ細密ナル火山灰アリテ地味肥沃ナラサルモ穀菽牧草ノ播収ニ難カラス

 当牧場ハ明治三十六年(空)月ノ貸付ニシテ三十七年度ヨリ向フ十ヶ年ヲ以テ全部成功スル予定ナリ 場主ハ秋田県由利郡象潟村ノ人 金穀貸付業渡辺文八郎ニシテ資金ヲ送リ目下石田永治ナルモノヲシテ之カ管理経営ノ任ニ当ラシメ居レリ

 現在牧場内ニハ炭焼、小作ヲ合セテ十四戸アリ内山形県人六戸・石川県人二戸・秋田県人二戸・栃木・岩手・岐阜及ヒ北海道ノ者各一戸ニシテ炭焼専門七戸、小作兼炭焼四戸、小作専門三戸ナリトス何レモ宿野辺・濁川附近ヲ偏歴シテ此ニ来レル者ノ如シ炭竈現在十四枚、年々八千俵餘ノ産出アリト云フ炭ハ悉ク石倉停車場ヲ経テ函館ニ輸送ス現在耕地ハ約二十町歩餘ニシテ小作人ガ食用トシテ稲黍・粟・馬鈴薯・大麦・燕麦・蕎麦・玉蜀黍等ヲ耕作シツツアリ孰レモ収穫良好ニシテ新墾ヨリ今日迄三年間善ク其収量ヲ持続セリト云フ

当初ハ牛蕃殖ノ目的ナリシ後年馬蕃殖ニ目的ヲ変更シ三十九年十二月許可ヲ受ク目下馬七頭アリテ炭ノ運搬用ニ供シ居レリ

 事務所一棟畜舎(空)棟牧柵延長約三千間管理人ノ語ル所ニ依レバ着手以来道路橋梁建物等ニ費ス処約二千円ニ達シ而シテ木炭ヨリノ収入ハ今日迄約千五六百円ナラント云フ

 海岸国道ヨリ当牧場迄約三十町餘 細道アリ平担(坦)ニシテ馬車ヲ通スベシ

 新墾ニ対シ一反歩六十銭宛ノ開墾料ヲ与フルモ再墾ヨリハ一反歩二十五銭乃至三十銭ノ小作料ヲ徴収ス

と報告されている。

 

その他の農場・牧場

 前記の農場や牧場の創設にとどまらず、明治末期には農場を開設するものが増えた。トワルべツ(現、富咲)に吉植農場・増田農場・葵農場、黒岩に渡辺農場、山越内に新関農場、八線(現、上八雲)に石川農場などのほか、多くの農場や牧場が開かれたが、多くは山間丘陵地帯で土地条件が悪かったため、経営困難を極めて成功したものは少なかった。

 

団体入植

 明治2年(1869)開拓使設置以来、本道への移民政策は続けられていたが、19年(1886)に北海道庁が設置され、25年「団結移住ニ閑スル要領」が定められて府県からの小農民誘致、保護政策が積極的に進められた。すなわち、団体移住の奨励、貸付予定存置制度(移住者の具体的保護方法で、戸数が30戸以上の集団で1か年10戸以上ずつが移住する場合1戸につき1万5000坪の貸付地を3か年だけあらかじめ用意しておくという制度)の採用、渡航船車賃の割り引きその他の渡道保護などを積極的に行うようになった。

 こうした移民政策を背景として、八雲および落部地域にも明治末期から大正初期にかけて、各府県からの団体入植をみるようになったのである。

 明治37年(1904)から39年にかけて埼玉県の入植者20戸が鉛川地区の茂木農場へ、また、上八雲八線地区に岩手団体7戸、相馬団体11戸、福島団体6戸、ナソマッカ地区に福井団体5戸、トワルベツとサックル地区に越後団体27戸、セイヨウベツ地区に静岡団体7戸など、主として上八雲地区に入植し開墾を行った。

 大正3年(1914)には、安井弥市郎を団長とする加賀団体27戸、同5年ころには岩手団体・静岡団体が黒岩へ入植し、さらに6年、北海道移民募集によりセイヨウベツに近藤角兵衛を代表として5戸18名の福井団体が入植する

など、未開地の開発が盛んに行われたが、いずれも市街地から16キロメートル以上の遠隔地にあり、道路交通の不便と、加えて入植地は傾斜地が多いため表土の流失がはなはだしく、これらの悪条件が重なって生産は年々減退して離農者が相次ぎ、数年にして荒廃地と化したところもあった。

 

許可移民

 大正12年(1923)関東大震災直後、内務省は移住者に対して1戸当たり300円の移住補助金を交付する許可移民制度を定め、道庁がこの事業を執行して許可移民事業と称した。昭和4年(1929)「北海道自作農移住補助規程」を定めてこの事業を拡張し、自作農となる目的で本道に移住して特定地の貸し付けを受け、あるいは民有未墾地を買い入れて入植する場合、1戸に対し移住補助金300円以内、住宅建設補助金として50円を交付した。

 この許可移民制度に基づいて、昭和5年ペンケルペシュベ地区(現、上八雲)に3戸、6年8戸、7年3戸、6年山崎に1戸、8年サックル(現、富咲)に5戸、と入植し、これら入植者は、当初冬期間は薪(しん)炭の生産や造材に従事したが、資源の枯渇と土地の疲弊で逐次離農するものも多く、定着したものは半数にも満たなかった。

 

 第4節 ばれいしょの栽培とでんぷん製造

 

ばれいしょの普及

 ばれいしょは西暦1600年前後にオランダ人によってジャワから長崎に伝えられたものといわれ、その後、高冷地帯(甲斐・信濃・上野など)を経て徐々に北進し、18世紀の初めころには既に北海道に普及して、寒冷地帯における救荒作物として定着しつつあったという。明治政府(開拓使)もまた本道農業の開発を進めるにあたり、早々とこれに着目し、重要作物として外国産種子ばれいしょを数々輸入試作して適正品種を選別のうえ、これを開拓移住民に無償配布するなど普及に努めたのであった。

 当町におけるばれいしょは、明治11年徳川家開墾試験場において開拓使七重勧業試験場からアーリーローズ種8俵の配布を受けて作付けしたのが始まりとされ、その後、札幌から移入したスノーフレーク種とともに栽培されたが、結果はいずれも良好で当地方の適作物であることが確認された。このためばれいしょの作付面積は急激に増加したのである。当時の農業統計(八雲・山越内二か村)によれば、26年の二七町歩に対し33年には三一五町歩を数え、およそ12倍の増反を示し、しかも、総作付面積の30パーセントを占める勢いであった。

 このようにばれいしょの作付増加の要因は、当地方の気候風土に適したものであったことは当然であるが、また一面では、日清戦争後における経済情勢の変化にともない、大麦・小麦などに代わってばれいしょを原料とするでんぷん製造が脚光を浴びるという、時代的な背景があったからである。

 

でんぷん製造の振興

 ばれいしょを原料とするでんぷん製造は、明治14年(1881)に辻村勘治がわさびおろしで擦り下ろし片栗粉を造り、翌15年販売を目的として東京から小型の製造機械を購入して着手したのが始まりであったが、技術が未熟なため歩止まりが悪く、経費がかさんで収支のバランスがとれず資金不足となり間もなく中止した。このため、17年にはこれを徳川家開墾試験場の直営とし、やや規模の大きい施設を設けて事業の振興を図ろうとしたが、すべて人力に頼るという幼稚な方法であったため、経費を要する半面生産は上がらず、しかも販路が狭いということもあって、これもわずか5か年で事業を廃止したのであった。

 

川ロ式でんぷん製造器  (写真1)

 

 その後しばらくは、わずかに2、3戸のものが手作業による器械で自家用を製造するくらいで、その発達をみるには至らなかった。

 しかし、明治25年(1892)河井鍋次郎、小川助次郎、吉田知一らが製造を開始し、原動力を水車に変えて労役を省き、製造効率を高めて注目を集めつつあった。さらに、翌26年事業に着手した川口良昌は、でんぷん製造が八雲地方における農村工業として最も適当で、有望な事業であることを提唱し、林常則らとグループをつくり、先進地である千葉県や埼玉県の方法を調査しながら、製造工程の改善を続けた。この結果、30年にはついに「川ロ式でんぷん製造器」を考案完成したことは、特筆に値するものであった。この製造器は、手通し・仕上通し・丸通し・沈澱槽・滓送り・粉塊挫などの装置改善をはじめ、すべて水車による動力を作業工程に導入して省力化し、よりいっそう製造効率を高める方法を創案したのである。この画期的な技術改良により、開墾地直営時代には一俵一二貫目(45キログラム)のばれいしょからでんぷん六斤(一斤は600グラム)しか製造できず、しかも、一目三〇俵内外の原料を消化するのに6、7人の労役を要していたのに対し、生産歩止まりも一二、三斤とおよそ2倍に上昇し、所要経費も約3分の1程度という好成績を上げるようになったのである。

 こうした先覚者の努力によって、その有益性が一般に認識されてでんぷん熱は急激に上昇し、明治30年には製造戸数が24戸であったのに対し、37年には241戸を数えるに至り、生産量も一二三万八九三〇斤、生産額9万5358円に達し、水利のあるところには必ず製造所があるといっても過言でない状況を示していた。

 なおこの間の28年には、小川助次郎・吉田知一らの生産したでんぷんが第4回内国勧業博覧会で3等銅牌と有功章を受けた。

 川口式製造法の普及にともなって「八雲片栗粉」はますます名声を博し、原料ばれいしょの作付けも明治39年には三二〇一町歩という驚異的な面積に達していた。また、当時の品種はでんぷん含有量の豊富なアーリーローズ、プライステーカー、アリービューティ・オブ・ヘブロンなどが主として栽培されていた。

 

八雲片栗粉同業組合

 でんぷん製造事業の普及により明治36年(1903)12月、同業組合法によって、「八雲片栗粉同業組合」の設立認可を受け、翌37年4月に創立総会を開いて定款などを議決した。しかし、時あたかも日露の国交が断絶して、でんぷんの原料となるばれいしょが「軍用切乾芋」の製造に向けられるという異変もあって、この同業組合は足踏み状態となり、事業の発足をみることができなかった。

 しかし一方では、組合の早期活動開始を望む声が高まったので、翌38年5月あらためて創立総会を開催、定款その他を議決して7月認可を得、翌月から事業を開始した。同業組合は八雲村のほか長万部・落部・森の各村を区域とし、初代組合長に内田文三郎、副組合長に川口良昌が就任(明治44年以降組合解散まで川口良昌が組合長を務める)、製品検査を行って品質の向上、荷造りの改善等を図り、品質を雪・月・花の3等級に区分、商標を作り全国および海外にまでその名声を博するようになった。特に、明治38年ころまで東京市場において第1位を占めていた千葉県産のでんぷんを"制圧し、40年には早くも全国第1位の高値で取り引きされるようになったことは、同業組合の偉大な業績であり、当町の産業史上特筆すべきものであったが、大正13年(1924)7月には解散のやむなきに至った。

 

第1表 でんぷんの商標(八雲片栗粉同業組合)(写真1)

 

第2表 片栗粉の袋詰と箱詰(写真2)

 

 なお、こうして八雲片栗粉が生産を上げ、声価を高めるに至ったのは、川口式でんぷん製造法を発明し、かつ同業組合の運営に尽くした川口良昌の功績に負うところが大きかった。こうしたことから、大正7年8月開道50年記念式典に際し、拓殖功労者として道庁長官から次のような表彰を受けたのである。

 

 夙ニ本道澱粉事業ノ不振ヲ憂ヒ其原因製造機械ノ不備ニ在リト為シ明治二十六年之ガ改善ニ潜心シ刻苦考究五星霜隊二川口式澱粉製造器ヲ案出シ大イニ労費ヲ省キ生産ヲ増セリ是ニ於テ各地翕然トシテ之ニ倣ヒ為ニ澱粉事業ノ勃興ヲ見ルニ至ル更ニ同業組合ヲ組織シテカヲ斯業ノ発展ニ効シ以テ今日ノ隆盛ヲ馴致セルハ其労効洵ニ称スベシ茲ニ開道五十年記念式ヲ挙クルニ当り其功績ヲ表旌シ為記念銀杯壱個ヲ贈呈シ併セテ感謝ノ意ヲ表ス

 大正七年八月十五日

 北海道庁長官

 正四位勲三等 俵 孫一

 

でんぷん景気とその結末

 大正3年(1914)第一次世界大戦のぼっ発によって、ばれいしょでんぷんは一躍重要な海外輸出品となった。そのため茅部山越郡農会では、耕うん、肥培などの技術指導に努力しながら、反当収量百俵を目標に原料ばれいしょの増産を奨励したので、折からの大戦特需によるでんぷん価格の暴騰とあいまって、いわゆる「でんぷん景気」という好況を呈したのである。

 収穫期ともなると地元の労働力では間に合わず、他町村から多数の人々が芋掘り出面として入り、運搬のため日本海方面の漁村から馬を連れて出稼ぎにきたため、八雲の旅館には必ず馬小屋が設けられるようになり、また、農家のなかには金側時計をちらつかせて歩くものもいたほどであったという。

 しかし大正7年に戦争が終結し、翌8年講和条約の締結とともに、ヨーロッパにおいてもオランダやドイツのでんぷんが市場に復帰するようになると、あれほど好況を誇ったでんぷんは価格も急激に暴落し、しかも、安くても売れないという極端な不況に陥った。そのため、でんぷん製造事業は急転して不採算事業に落ち込み、多くの設備は放置されて荒れるにまかせ、製造工場はほとんどが影をひそめるようになった。

 また、ばれいしょの作付面積は好況にまかせて増加しつづけ、連作につぐ連作で土地を責め、火山灰土壌をいため尽くすという状況であり、この不況到来によって経営困難となった農家は、荒れ果てた土地を残して離農転住するものが続出し、農家戸数の著しい減小を招くこととなったのである。

 

第1表 片栗粉同業組合設置前後におけるでんぷん生産及戸数

設     置     前 設     置     後
年次 産 出 数 量 価      格 製造戸数 年次 産 出 数 量 価       格 製造戸数

26

7,925
円   厘
435.875


38
千  斤
1,621,925
円  厘
94,635.375

251
27 12,560 728.480 39 1,742,775 113,280.375 246
28 14,000 840.000 40 1,636,575 114,560.250 258
29 15,560 1,011.400 11 41 1,749,300 162,684.900 225
30 55,000 3,960.000 24 42 2,057,875 162,567.125 251
31 97,675 6,251.200 33 43 2,833,050 206,812.650 288
32 189,725 11,952.675 38 44 4,226,100 300,053.340 340
33 358,125 25,426.875 66        
34 628,325 47,624.375 89 2,689,126 212,440.954 407
35 1,176,525 96,475.050 167 3,907,500 293,025.000 421
36 1,940,475 74,642.750 205 5,083,425 372,839.500 509
37 1,238,930 95,358.010 241 7,047,675 507,716.000 564
        5,463,675 753,589.200 568
        10,350,000 1,602,000.000 573

注 1斤=160匁=600gr= 1.3228ポンド(資料「徳川農場発達史」)


 

 第5節 種子用ばれいしよ栽培の展開

 

 

種子用ばれいしょへの転換

 明治年代から大正初期における八雲・落部地方のばれいしょの生産は、でんぷん製造のための原料用として展開してきたのであったが、第1次世界大戦後におけるでんぷん事業の衰退によって、離農転出など農家戸数の減少とともに、作付面積も著しく減少した。しかし、依然としてこの地方の適作物として耕作が続けられ、おおむね四〇〇町歩程度の作付けが維持され、存続した水車による数か所の工場により、毎年若干のでんぷんが生産されていた。

しかし、原料用ばれいしょ生産好況のなかで、それに甘んずることなく、いち早く種子用ばれいしょの生産対策をはじめ、品種の改良や疫病予防の研究などに取り組んできた先覚者たちの努力が実を結び、やがて「男爵薯」を主要品種とする種子用ばれいしょの主産地へと発展するのである。すなわち、川口式でんぷん製造器を考案した川口良昌や茅部山越郡農会の試験研究をはじめ、大正4年に徳川農場事務所が設置した「八雲馬鈴薯研究所」の栽培試験などにより、種子用ばれいしょ生産の先進地としての地歩を築きつつあったのである。

 男爵薯は、大正12年ごろから疫病回避性品種として栽培され始めていたが、道内外からの種子の分譲申し込みに対応してこれを紹介したことから、種子用として定着し、昭和3年(1928)には既に約八〇〇俵(正味60キログラム入り)を移出するまでになっていた。この数量は、当時ばれいしょの移出地帯として知られていた狩太村の一〇〇〇俵、白石村の三〇〇俵、豊平町の二四〇〇俵(いずれも各町村農会扱い)などをはるかにしのぐものであった。

 八雲町における種子用ばれいしょの移出量の推移をみると、昭和8年には五万六〇〇〇俵と飛躍的に増加し、11年六万二〇〇〇俵を数えるなど、以後の移出量は全道移出量の1割前後を占め、19年には実に一二万三〇〇〇俵の出荷量を数えるに至り、北海道におけるばれいしょの主産地としての地歩を築いたのである。

 

種子ばれいしょの移出量  (「北海道農業発達史U」)
(単位 千俵)

年次 昭和3 10 11
北海道 602
八雲町 16 26 17 32 56 36 40 62
年次 昭和12 13 14 15 16 17 18 19 20
北海道 1,027 884 634 531 975 1,272 1,253 1,354 678
八雲町 83 72 82 53 105 112 120 123 14

 

ばれいしょ反当平均収支(八雲町)(「北海道農業発達史I」)
支 出
          (大正5,1916)(単位 円)

耕鋤費 整地費 作条費 種子費 播種費 肥料費 施肥費 中耕除草 培土費 堀取費 運搬費 公課費
0.50 0.20 0.15 2.00 0.40 4.00 0.20 1.00 0.20 1.20 0.60 0.20 10.65
収 入
収量
(俵)
単価 金額 差引
益金
所得 1俵の
容量
収量
(〆)
〆当
単価
推定平均
栽培面積
1戸当
推定所得
1戸当
推定純収益
30
0.45
13.50 2.85 6.10
12.50
3.75 3.64
4.0
244.00 145.60

 

ばれいしょの山(写真3)

 

種子用ばれいしょ生産の発展

 昭和25年(1950)5月に「植物防疫法」が制定され、「新たに国内に侵入し、または既に国内の一部に存在している病害虫のまんえんを防止し、優良な種苗を保全するための検疫を実施する」こととなった。翌26年産の種子用ばれいしょから、ビールス病・疫病・輪腐病・凋萎病・青枯病・黒痣病・瘡痂病(昭和30年度から粉状瘡痂病も加えられる)を対象とする植付け前の原種の審査から始めて、種子用ばれいしょ栽培を定める圃(ほ)場検査、ばれいしょ生育中3回にわたる圃場検査、掘り取りの生産物検査という4段階にわたる徹底した防疫検査が実施されるようになった。また、「防疫補助員」が任命され、病株の抜き取りや圃場検査の立ち会いが行われるようになった。

 さらに、採種農家はこの植物防疫法の規制を受けるほか、27年5月に制定された「北海道種馬鈴薯生産販売取締条例」とその「施行規則」により、生産者の登録、原種の配付制限、採種圃の選定および生産管理などについて規則が加えられ、生産者の資格要件も定められて、従来のように自由な生産は認められないこととされた。

 こうした統制強化という時代的変化こそあったが、既に明治以来ばれいしょの生産地として確固たる地位を占めていた当町は、依然として先進地である地位は変わらず、渡島管内においては亀田村とともにその主産地としての地位を保ったのである。

 

 第6節 産馬の盛衰

 

産馬の飼育

 文久3年(1863)5月蝦夷地人民にも馬の飼養が許されてから、移住民の間で使役用馬の飼育が進められるようになった。しかしその詳細を知る手掛かりはなく、具体的なものとなると明治初期における落部村戸長役場の記録によらなければならない。すなわち、明治11年6月官民共同で当時落部村区域内の字モノダイ野に落部村牧場(46万870坪で馬165頭)と、字沼上野に落部村支由追牧場(24万8955坪で馬72頭)の2牧揚が開設されていたという記録がそれである。

 なお、明治14年(1881)8月から9月にかけて行われた天皇の東北・北海道ご巡幸に際し、茅部郡役所から供奉諸官の乗馬10頭の手配方依頼が落部戸長役場に出され、戸長相木幾一郎は所要馬を取りそろえて差し出したと認められる記録などもある。また、翌15年5月には岩手県盛岡の人瀬川安五郎が犬主に牧場を開設して馬22頭を放牧し、その年7月には野田生牧牛舎で馬100余頭をはじめ牛・豚・鶏などを飼育していたと伝えられている。

 八雲における馬の飼養を伝えるものとしては明治15年の晩秋、鷲の巣耕舎で耕馬耕牛牧場を設置、さらに16年、第1回移住の平川勇記・井上文治の2名が、花浦方面で牧場を経営し、40頭余りの北海道和種(通称ドサンコを飼養したという記録があるが、両人はまもなく事業を廃止して鷲の巣耕舎に譲渡したという。このころの馬は、体高が1・2メートルから1・3メートルくらいの土産馬で、使途も駄搬あるいは乗用にあてられていたが、さらに農耕用としての改良が取り上げられていた。

 こうした背景にあって徳川家開墾試験場では、明治14年4月官よりペルシュロソ雄馬一頭を借り受け土産馬の改良を計画し、さらに17年「南部産第1号」と称する種雄馬を移入して使役および交配に用い、18年には開拓使からトロッター種雄馬の貸し付けを受けて鷲の巣耕舎に配するなど、産馬の改良に意を用いた。さらに、20年には新冠御料牧場から雌馬15頭、雄馬1頭を、翌21年には雌馬35頭の払い下げを受けて着々産馬の改良を図った。また、23年には函館時任牧場から繁殖雌馬として一回雑種3頭を借り入れて馬匹の改良を奨励し、31年にはペルシュロソ種およびトロッター種の種雄馬を購入、さらに、この年牧場組合を作るなど、その改良促進に力を注いだのである。

 明治35年に山越内村を合併して2級町村制を施行した前後を通じて、各地に農場が創設され、農家戸数の増加とともにばれいしょでんぷんの好況により耕地が拡大し、これにつれて農耕用具も改良されて畜力器具が普及しはじめ、農耕馬の需要がますます多くなった。そのため、明治39年に杉立正義ほか14名により牛馬の改良と組合員相互の利益を図るため「山越郡産牛馬組合」を組織するなどの動きもあり、馬匹の頭数も著しく増加して、明治41年には八雲村だけで実に1320頭を数えるに至った。

 また、この馬匹改良に意を用いたことは落部村においても同様であり、明治36年には野田追の農家が組合員80人をもって「野田追産馬組合」を組織し、新冠御料牧場から種雄馬「第二キューバーズ号」を購入して産馬の改良に努めたのであった。

 明治34年10月第1回函館区外八郡馬匹畜牛共進会が八雲を会場に開催されたのをはじめ、大正2年(1913)9月第3回函館区外10郡連合牛馬共進会、さらに、6年9月に第5回共進会が八雲を会場に開催されるなど、大規模な共進会が八雲と函館を会場として交互に開催されたことからみても、当時既に馬産地八雲の地歩が築かれていたことをうかがい知ることができる。

 こうした馬匹改良に努めていたおり、すなわち、明治44年8月23日皇太子(大正天皇)の本道行啓に際し、八雲駅において優良雌馬39頭を台覧に供したほか、特に立岩樋田惣助所有の雌馬アルジェー号を北海道産牛馬連合会から八雲号と改称して献上したのであった。

 

八雲物産共進会(八雲小学校(写真1)

 

函館市ほか10郡畜産共進会  (写真2)

   

種馬所の誘致

 明治39年(1906)に馬政局官制が公布され、内閣に直属して馬匹の改良繁殖その他馬政に関する一切をつかさどることになるとともに`地方に種馬牧場3`種馬育成所1、種馬所15が設置されることになった。これは、日清、日霧雨戦争の経験から日本軍馬の劣等性が認識され、馬政の一新が図られることになった結果であるという。この方針に基づき北海道には種馬牧場二か所、種馬所一か所の設置が決まったのである。

 産馬改良に熱心であった当村としては、この計画に接すると早速行動を起こして40年に期成会を組織し、会長にはときの函館支庁長竜岡信熊が、委員長に八雲村長本村定五郎があたり、隣村長長部村と提携して適地を長万部村字幌内(現、豊津)に選定、誘致運動を展開した。翌41年馬政局の実地調査の結果、同所が適地と認められ、42年9月5日内閣告示をもって「長万部種馬所」の開設が決定された。

 この種馬所は総面積966町歩余、常時60余頭の種雄馬を飼育し、4月中旬から5月上旬にかけて検査を実施して4月中旬から約80日間を種付期間としたが、ほとんど八雲の人が利用したといわれるほどであった。

 こうして、この地方における産馬改良に努めたため、明治末期から大正初期にわたる軍馬育成に貢献するとともに、この地方が本道屈指の馬産地といわれるゆえんとなったのである。

 

長万部種馬所 (写真1)

 

 この種馬所は、昭和4年(1929)「胆振種馬所」と改称、さらに、21年5月「胆振種畜牧場」と改められて一般家畜飼育者の指導業務にあたるなど数次の改変を経たが、24年5月をもって廃場となった。

 

競走馬の飼育

 農耕用馬を中心とする馬匹の改良が進められる一方 明治の末期には競走馬の飼育も盛んになり、国道などを利用して競馬会が開催されていた。明治44年(1911)7月には八雲競馬会が徳川家開墾地から用地(現、宮園町地内)4町3反歩の無償譲渡を受けて競馬場を設置し、その年8月に第1回の競馬会を開催した。これが一層の刺激となり、その後各種共進会に入賞するものや、東京・横浜などの競馬クラブに進出したり、函館競馬に出場して優勝するものもあったという。

 その後、昭和3年(1928)山越郡産牛馬畜産組合が徳川農場などの後援により、巨額の費用を投じて東雲町に組合事務所と競馬場を新設し、6月に相馬神社を移転して奉納競馬を行った。競馬場は、馬券売場・検査所・さじき・きゅう舎などの施設が整備され、以後は14年まで毎年春秋2回競馬が行われた。特に6年1月に地方競馬として公認されてから盛んになり、サラブレッド、アングロアラブ、アラブなどの軽種系馬を飼養するものが増加して、いわば競走馬全盛時代ともいえる様相を呈し、函館をはじめ関東・関西など、中央の競馬にも出場するような優秀馬を生産するほどであった。

 

八雲競馬場(現、宮園町境内)  (写真1)

 

地方公認八雲競馬場(現、町病・八雲中敷地)  (写真2)

 

 しかし、八雲競馬は昭和3年に開設以来、常に赤字に悩まされながらも辛うじてその命脈を保つにすぎなかったが、14年9月の秋季競馬を最後に、翌15年の地方競馬規則廃止にともなって競馬場は閉鎖されることになった。そしてこの競馬場跡地は、酪農販売利用組合が渡島畜産組合から借り受けていたが、21年の自作農創設特別措置法により国が買収するところとなり、その後、主として八雲中学校の敷地と町立八雲病院敷地に転用された。

 

軍用資源としての産馬

 八雲は早くから軍馬の購買地として指定され、徴発令によって数多くの馬が買い上げされていた。ちなみに日清戦争当時の明治28年(1895)における徴発馬の平均価格は、6歳馬で25円、8歳馬で40円、9歳馬で33円という状況であった。

 その後一貫した産馬改良と相まって、随時、軍用馬の徴発が行われたものと思われるが、農家戸数はもちろん耕地の増加につれて馬匹頭数は激増し、明治44年(1911)には八雲村だけで1679頭を数えたあと、頭数は一進一退を続け、大正5年(1916)の1718頭を最高としておよそ1500頭を前後していた。

 しかし、昭和6年(1931)満洲事変のぼっ発以来、再び軍馬購買はもちろん大陸輸出馬の需要が増加した。そのため国は「優良牡馬奨励規則」を公布し、農林省が奨励金を交付して中間種系の繁殖を奨励したため、サラブレット系、アラブ系などの軽種や、ペルシュロン系の重種は次第に減少し、重半血種、中半血種が大宗を占めるようになった。こうしていちじは名をはせた純血種などが、影を潜めるようになったのである。

 特に昭和14年(1939)4月には、国が馬の種付を独占して馬格の改良繁殖を図った「種馬統制法」、さらに、優秀軍馬の確保や徴発を目的とした「軍馬資源保護法」などが制定され、馬産は軍馬政策の中に完全に組み込まれた形態であった。しかし敗戦によって中断し、軍馬資源保護法は20年11月に廃止されるとともに、種馬統判法も23年7月の種畜法の制定にともなって廃止された。さらに、25年5月制定された「家畜改良増殖法」によって、馬もようやく家畜一般の規定によるところとなったのである。

 

戦後馬産の動向

 「馬も兵器」といわれた戦時中はもちろん、戦後においても農業は依然として「畜耕・手刈・馬搬」という形態で進められていた。このため、耕馬・輓(ばん)馬のいない農家はなく、経営規模の大きな農家では2頭以上を飼育するものも少なくなかったので、馬匹頭数はなお相当数を数え、昭和27年(1952)当時では、八雲・落部を合わせて2042頭で、かつての全盛期に匹敵する状況を示していた。

 しかし、昭和30年前後から飼養頭数は減少傾向をたどりはじめ、特に30年代後半には、国策として高度経済成長政策が打ち出されたことにともない、農家数の急激な減少がみられるようになった。さらに、機械産業の発達によって農業も機械化が進められ、馬耕プラウその他の畜力農機具が姿を消しはじめ、しかも、道路事情の好転により農村にも自動車が普及して荷馬車や馬そりが不必要となり、馬はその効用を失い頭数は次第に減少していった。これは当町だけではなく全国的な傾向であり、40年には全町の飼養頭数は731頭となって27年当時の約3分の1となり、53年にはわずか65頭を数えるだけとなった。農業の機械化にともなってこの減少傾向はさらに続くものとみられ、いまや馬は希少価値の観さえ呈している状況である。

 なお、馬の飼養戸数・頭数の推移は別表のとおりである。

 

年次別馬の飼養頭数調 

年次 頭 数 年次 頭 数 年次 頭 数 年次 頭 数 年次 頭 数
明治11 11 明治27 178 明治43 1,332 大正15 1,581 昭和17 1,404
12 17 28 156 44 1,679 昭和 2 1,597 18 1,519
13 47 29 146 45 1,315 1,630 19 1,526
14 67 30 165 大正 2 1,295 1,632 20 1,396
15 111 31 217 1,519 1,670 21 1,120
16 133 32 215 1,624 1,704 22 1,292
17 406 33 266 1,718 1,581 23 1,252
18 383 34 450 1,539 1,485 24 1,398
19 333 35 785 1,496 1,577 25 1,522
20 345 36 870 1,212 10 1,592 26 1,625
21 375 37 732 1,216 11 1,592 27 1,638
22 206 38 834 10 1,333 12 1,287 28 1,622
23 231 39 903 11 1,509 13 1,271 29 1,583
24 206 40 968 12 1,559 14 1,349 30 1,458
25 170 41 1,320 13 1,470 15 1,393 31 1,359
26 184 42 1,222 14 1,557 16 1,445    

本表は落部村との合併前の八雲町の数値である

 

農用馬の飼養戸数・頭数推移調

年次 飼 養
戸 数
飼養頭数 年次 飼 養
戸 数
飼養頭数 年次 飼 養
戸 数
飼養頭数
昭和32 914 1,456 昭和41 636 711 昭和50 168 173
33 888 1,351 42 602 680 51 88 92
34 877 1,140 43 585 638 52 66 81
35 870 1,084 44 542 578 53 65 65
36 821 1,196 45 463 480 54 64 64
37 799 1,116 46 355 358 55 49 49
38 770 993 47 304 306 56 43 46
39 738 815 48 255 259 57 39 44
40 660 731 49 214 217      

(農業基本調査)

 

 

 第7節 酪農業の進展

 

酪長の芽生え

 明治13年(1880)開拓の効果的な進展のため、畜力を導入した有畜混同農業の経営を志した移住人らは、株式による有楽部牧牛舎の設立について協議し、その準備を進めていたが、翌14年徳川家の大口出資もあり、「株式会社野田生牧牛舎」を設立し、落部村宇野田追に施設を作って牧牛をはじめとする家畜の飼育事業を開始した。社長は吉田知行、実務監督は横井田鶴松で、軌道に乗ったのは15年といわれ、その年7月には乳牛42頭のほか、馬数頭、豚1頭、鶏253羽を飼育していたという。

 その後、社長の職を去りロンドンに旅行中の古田知行から、明治18年10月開墾地委員片桐前作にあてた書簡の中の一節に、

 「……中略……目下野田生にて牧牛を為し漸く牛乳を産するも未だ牛乳の人体に必需なるを知らざれば之を需要するものなく徒らに之れを放擲する如きこともあるべく:::中略……然れども肉食牛乳の必要を知り運搬交通の便利能く開くるの時に至れば何程野田生の牧牛を拡張するも近傍二、三箇村の需要にも足らざるべく……

と牛乳の需要について説き、酷農の将来性について強調している。

 したがって、牧牛舎ではこうした考え方を基調として牧牛の飼養経営が図られたものと思われるが、明治28年(1895)のまれにみる大降雪のため飼料か不足し、死亡する牛が多く出て事実上失敗に終わった。このため、翌年この牧牛舎を解散して土地・建物および畜牛の全部を徳川家開墾地が買収のうえ、30年に常丹(現、熟田)へ施設を移して牧場を開設し、搾乳牛は名古屋に運んで市乳を始めたという。

 一方、これより先の明治24年、農業経営研究のためアメリカに遊学していた佐治静雄が帰町し、立岩に土地の払い下げを受けて大きな牛舎を建て、酪農を経営したので、その影響を受けたのかようやく一般にも乳牛を飼育する傾向がみられるようになったというが、史料に乏しくその経過は不明である。

 明治39年(1906)山崎の石川農場で牧牛事業に着手し、イギリスからヱーアシヤー種雄牛2頭を輸入し、翌40年バター製造を開始してから着々増殖拡充を図り、大正元年(1912)に5500斤、6年には6500斤のバターを「笹印バター」として本州方面へ売り出したことについては前述したが、まさしく当町酪農業の先駆者として果たした業績は大きなものがあった。

 なお、大正4年小寺格蔵が従来の短角牛に代えてヱーアシヤー種雌牛を入れ、また、翌5年には今村文次郎が当町で初めてといわれるホルスタイン種雌牛を、さらに6年には同種雄牛を入れて増殖を図るとともに、分離器を購入してバターを製造するとともに、8年にはこれまた当町で初めてといわれるれんが造り40トン詰めのサイロを建設(このサイロは一部改造されて三沢牧場内に現存するという)するなど、一部篤志家の経営にとどまるものであったとはいえ、酪農業導入への素地が作られつつあった。

 また落部村においても、大正元年に森岡茂一が有志37人を募って畜牛組合を作り、木古内からヱーアシヤー種雄牛37頭を購入し、さらに7年にも斎藤吉之丞らとともに畜牛10頭を導入するなど、有畜混同農業への移行が試みられていたのである。

 

酪農業への転換

 当町農業の主軸をなしたでんぷん原料用ばれいしょの栽培が全盛を極める一方、「有畜混同農業」を志向する姿勢も芽生えて畜牛の飼養熟が高まりつつあったが、大正7、8年ころの飼養頭数はわずかに200頭内外を数えるにすぎなかった。

 しかし、第1次世界大戦後に訪れたでんぷん価格の大暴落は、当町の農業に致命的な打撃を与えた。耕地はいわゆる略奪農業のあおりを受けて地力の減退や荒廃を招き、このため農家は生計の維持が困難となり、一挙に離農転住する者が続出して農家数は極度に減少し、農村地帯の様相を一変させるに至ったのである。

 こうした一大危機に直面した当町の農業再生のため、先覚者たちは英知を集め、勇断をもって志向したのが乳牛を取り入れた「酪農」への転換であった。すなわち、消耗減退した地力をよみがえらせ、窮地に立った八雲の農業を再建安定させる道は、この地の気候風土に適合した酪農以外にはないという考えに立ったのである。

 このような一大改革に直面し、これに共鳴した当時の徳川農場長大島鍛は、大正9年(1920)農場内の農民を説得して各部落に「畜牛組合」を組織させ、酪農業への転換機運の醸成を図った。そして、農場長自らが連帯保証人となって北海道拓殖銀行から資金を借り入れ、翌10年に野田生・大新の両組合が知内村・木古内村から雌牛を共同購入して飼養させ、その振興促進を図ったのである。また、翌11年には梅村多十郎が、練乳会社の分工場誘致に必要な乳牛頭数を確保するため、木古内・知内・上磯方面から58頭の雌牛を購入し、一般農家や小作人に貸与して酪農の普及に努めた。

 こうして、関係機関・有志・農民らの一体となった努力により、大正12年(1923)の694頭に対し翌13年には1106頭となり、昭和4年(1929)には2000頭を超え、翌5年には乳牛2476頭、飼養戸数も787戸に達し、乳量3万1875石、その金額46万8881円となるなど、酪農八雲として目覚ましい発展を遂げたのである。

 乳牛の増殖にともなって堆厩(だいきゆう)肥が増産され、耕地も次第に肥よくとなり、さらに、各部落に設立された農事改良実行組合が農会その他関係機関の指導を受け、立毛品評会、堆厩肥奨励会などの増産対策を講じたので、その経営も漸時改善されたのであった。

 なお、落部村でも野田追の斉藤吉之丞が主唱し、大正10年(1921)に野田追畜牛組合を設立して酪農の振興に努め、昭和2年には木古内から乳牛23頭を導入するなど、積極的な有畜混同農業への転換が進められていた。

 

牛乳処理工場の誘致

 明治40年(1907)山崎の石川農場でバターを製造したのをはじめとし、大正6年(1917)には鷲の巣で今村文次郎が牛乳の分離器を購入してバターを製造するなど、当時生産された牛乳は個人経営の製酪に依存せざるを得なかったのである。

 しかし、大正9年八雲農業の活路を酪農に求めて以来、積極的に乳牛増殖に乗り出し、翌10年には一般農家にも普及して飼育頭数も313頭となり、なお増加の傾向にあった。このため、町長木村定五郎をはじめ梅村多十郎・川口良昌・幡野直次ら有志が相計り、生産される牛乳の販路確保のため練乳会社の分工場誘致について奔走したが、当時会社側では分工場設置の採算ベースとして、乳牛400〜500頭に達することを条件として示し、その実現が危ぶまれる状況であった。

 この分工場誘致の可否は、八雲酪農の盛衰にかかわる重大問題であるだけに、町を挙げての誘致運動と石川農場や今村農場の牛乳出荷協力、梅村多十郎による乳牛の新規導入などの努力によってようやく必要頭数を確保し、会社側と熱心に交渉した結果、翌11年6月北海道煉乳株式会社が八雲産業組合のでんぷん工場を改造して仮施設ながら集乳所を造り、牛乳の受け入れを開始したのである。

 こうして、当町が後に全道有数の酪農地と称される基礎が築かれたのであるが、翌12年7月には同社が八雲工場を建設して本格的な操業を開始し、当町だけではなく、隣接する落部・長万部方面の牛乳も汽車輸送をもって集荷したのである。

 

落部集乳所と放牧 (写真)

 

酪農の不況と牛乳騒動

 

 前述のようにようやく軌道に乗り、安定したかにみえた当町の酪農ではあったが、その転換期となった第一次大戦後は、海外からの乳製品の輸入が増加してわが国の乳業界を圧迫し、これに加えて長期にわたる不況の影響を受け、生産乳価の低下や練乳会社の受け入れ制限などとなって生産者にしわ寄せされるなど、全般的に酪農家が不利な立場におかれ、必ずしも楽観できる情勢ではなかった。

 特に、大正12年(1923)9月の関東大震災に端を発する乳製品輸入関税の一時免除があり、安い外国産乳製品が増加して国産乳製品は多量に滞貨を生ずるなど、市況はますます悪化する状態であった。こうしたことから、乳業会社では原料乳価格を引き下げ、牛乳検定の強化による不合格乳(2等乳)を増加させ、練乳製造の制限を図ったため、酪農家は大きな打撃を受ける状況であった。そのうえ、2等乳はバターの製造原料となるにもかかわらず、その買い入れ価格がきわめて安価であるのに対し、生産者が子牛の飼育用として会社から購入する脱脂乳は相当な割高となるなど、不合理な点が多かった。

 このように、会社側と生産者側とは常に利害が対立し、両者間の紛争が絶えなかった。

 しかし、過剰2等乳についての不満を頂点として、生産者を結束させることとなり、酪農民が共同の力をもって組織的に工場を経営し、さらに、販売機関を設けて酪農業の強固な基礎を作るため、大正14年(1925)5月産業組合法に基づく「北海道製酪組合」を作り、翌15年3月には組織を変更して「北海道製酪販売組合聯合会」(酪聯)とし、全道的組織へ発展の足掛かりが作られていた。

 このように、酪農を取り巻く深刻な状態が、直接間接を問わず、転換初期における当町の酪農にも少なからず影響を及ぼしていたものと思われるが、これが具体的な問題として現れたのは昭和6年(1931)のことであった。すなわち、同年7月当町にある大日本乳製品株式会社(昭和2年9月北海道煉乳株大会社が名称変更)の八雲工場では、これまで1升14銭7厘であったものを9銭3厘5毛まで一挙に36・4パーセソトに及ぶ乳価の値下げを行ったのである。

 しかも、原料乳の受入れ制限も予定していることが通知されたことによって、にわかに問題が表面化した。牛乳に対する依存度を高めつつあった農民の驚きはもちろん大きく、死活問題でもあった。当時、乳業会社内に事務所をもつ道南酪農組合と称する組合があったが、この組合にはこうした大きな問題に対処する能力はなかった。このため、この際、直接自らの手で牛乳を処理しようとする農民団結派と、やむを得ない処置としてこれを容認する会社擁護派の二派に分かれ、互いにしのぎを削って争うという、いわゆる牛乳騒動が起きたのである。

 農民団結派は10月20日に会合を開き、自らが出資して「酪農組合」を結成し、自らの手で牛乳を処理しようと図っていた。しかし、こうした農民団結派の動きにかかわらず、会社では12月ついに5割の受け入れ制限実施を通告して即日実施することとしたため、いよいよ事態は深刻化した。この事態を憂慮した渡島支庁長は急きょ、渡島・桧山・後志・胆振の関係各町村長を伴って酪聯を訪れ、善後策を協議したのである。その結果、 1、道庁と協議して会社の制限牛乳を処理解決すること。

 2、生産者は今後会社側のいかなる申出があっても「生産牛乳は生産者自ら処理することを立前とし各町村産業組合において牛乳を統制し、各産業組合は北海道製酪販売組合聯合会(酪聯)に加入し聯合会により処理加工する」ことを原則とする。

 3、12月末日迄に聯合会に加入の手続きをすること。

 4、会社の所要牛乳はすべて聯合会から供給するものとし生産者個々で販売しないこと。

という原料乳統制の方針が酪聯との間に確認された。

 さらに、酪聯と乳業会社の間では、翌7年1月15日「原料牛乳と乳製品の統制協約声明書」を発表し、

 1、酷聯が責任をもって乳業会社の必要とする原料牛乳を供給すること。

 2、乳業会社は、バターを製造販売しないこと。

 3、酪聯は練乳の製造販売をしないこと。

を主旨とする三大原則を確認し、いわゆる分業制度を確立したのである。

 

大日本乳製品(株)八雲工場 (写真1)

 

北海道酪農販売組合連合会八雲製酪工場  (写真2)

 

 こうして、昭和7年(1932)1月「八雲酪農販売利用組合」が設立されるとともに、酪聯の八雲出張所が設けられ、2月から大日本乳製品株式会社八雲工場の設備を利用して、バターの製造を開始したのである。当時の集乳区域は、八雲のほか狩太・黒松内・長万部・瀬棚などに及び、翌年8月から既存工場の向かい側に製酪工場の新設に着手し、9年3月から操業を開始したので、生産牛乳はこれら統制協約に沿って合理的に処理されるようになった。なお、この間の8年10月に大日本乳製品株式会社八雲工場は、明治製菓株式会社八雲工場と変わっていた。

 このような激しい牛乳騒動が行われている間にも、当町の乳牛頭数は増加の一途をたどり、昭和8年には3040頭、飼養戸数783戸、1戸平均3・8頭となり、搾乳量は実に2万2140石に達していた。

 しかし、乳牛頭数の激増にともなう飼料作物の栽培とその研究がおろそかになっていたため、乳質が低下し、生産牛乳の70パーセソトが2等乳になるという新たな難問題に直面したのである。

 このため、北海道畜産試験場、北大農学部その他関係機関による総合調査の結果、酸性土壌の改良と牧草の栽培技術などに関する適切な指導方針が立てられ、飼料作物を中心とする輪作体系を取り入れた本格的な「酪農方式」の確立が図られていったのである。

 

トリコモナス禍の克服

 昭和11年(1936)5月乳牛増殖の大敵ともいわれる「トリコモナス原虫」による伝染性流産が留萌管内幌延町に発生し、全道畜牛界を恐怖に陥れた。この年10月には当町鉛川部落にも牛の異常な流産が発生したので、同部落の全畜牛(雌146頭、雄3頭)について検診を実施したところ、雌43頭(30パーセソト弱)、雄3頭(100パーセント)にトリコモナス原虫が発見された。

 このため、町では急きょ同部落に対し防疫体制を強化するとともに、道庁に対しても速やかな防疫班の出動を要請し、現地に防疫班本部を置いて検診と治療に万全を期したのであった。もちろん鉛川部落においても全部落民が一致協力してこの対策にあたり、検診所の設置から防疫作業の分担、資材の調達など全面的な協力を続けた結果、その成果が実り、翌12年4月には完全にトリコモナス原虫を撲滅することができた。こうして、猛威を振るった鉛川部落のトリコモナス禍は、とりあえず終止符を打ったのである。

 しかし、事態を深刻に受け止めた宇部町長は、その年さらに全町畜牛の検診を実施するため、関係農民に呼びかけて全町一丸とする「防疫組合」を結成し、町長自らが組合長となり、各部落に検診所その他を設けるとともに、道庁に対し本格的な防疫班の出勤を要請した。道庁においてもこの要請に応じ防疫班を設置し、検診を反復して治療に努めた結果、トリコモナスによる多くの雌牛の生殖器病が回復、また、原虫保有牛も減少し、そのうえ、繁殖障害となる他の疾患も治癒するという効果も合わせて、すこぶる良好な成績を上げたのである。しかも、近隣町村で牛を他管内へ移出する場合は、当町まで引き付けて検査を受けなければならなかったのに対し、既に検査合格証を有する当町の牛は、いつでも移出できるという副次的な効果も現れた。

 しかしこの半面、重大な事態も発生していた。すなわち、種雄牛のうちそのほとんどがトリコモナスに感染していたことである。このため道庁では、

 一、実質内感染種牡牛は屠殺処分に付し、補充種牡牛には購入価格の五割を補助する。

 二、包皮内感染種牡牛については各畜産組合において、責任をもって治療する。

という方針でこれに対処したが、当町の感染種雄牛のうち実質内感染は2頭で、その他は包皮内感染であったため、畜産組合の治療にまつところとなり、更新は認められないという実情であった。たとえ包皮内感染でも実際には種付け不能であり、治療によって回復するとしても長期継続治療を必要とするため、種付けの適期を失い搾乳不能期を生ずるので、農家にとっては大きな打撃であり、当町酪農の前途にも大きな障害になりかねない問題であった。このため町長は、酪聯の平松工場長、明治製菓の須藤工場長その他の有志とともに、再三にわたり八雲の実情を訴え、罹患全種雄牛の更新を陳情しつづけた結果、容易に既定方針を変更しなかった道庁も、6月25日ついに罹患種雄牛全部の更新を認め、また、購人種雄牛について価格の五割が補助されることになったばかりでなく、種雄牛の購入についても道庁の積極的なあっせんにより、急速に新種雄牛を導入することができたのである。

 

乳牛感謝の碑建立

 大正9年(1920)徳川農場内の各部落に畜牛組合を結成し、八雲農業再生のため酪農への転換を期してから、発展への苦難の道をたどったことは前述したとおりであるが、それからちょうど20年目にあたる昭和14年(1939)には、乳牛頭数3494頭、飼育戸数835戸、一戸平均4・2頭を数えるまでになった。

 この酪農振起20年を記念するとともに、八雲農業の振興に貢献してきた乳牛に感謝の意を表すため、八雲酪農販売利用組合の敷地内に、同組合・酪聯八雲工場・明治製菓八雲工場の三者共同によって、いわゆる「乳牛感謝の碑」を建立した。碑は、高さ2・28メートル、幅も同じくらいの自然石に、時の道庁長官半井清の揮ごうによって農民の喜び 乳牛に感謝と深く刻み込まれたもので、8月2日多数の関係者や農民が集まり、乳牛感謝祭とともに盛大な除幕式を行った。

 

乳牛感謝の碑 (写真)

 

 これは、幾多苦難の道をたどり、ついに安定した酪農の域に達した農民の心情をよく表現したもので、以後は毎年盛大な感謝祭が続けられている。しかし、昭和16年(1941)には飼養頭数3623頭を数えるに至ったものの、戦争の影響を受け、これを頂点としてその後しばらくは減少の傾向をたどったのである。

 

畜牛結核病の発生

 昭和11年(1936)から12年にかけてトリコモナス旋風に悩まされながらも、全農民が一体となってこれを撲滅したのであったが、17年に至って今度は畜牛結核病の発生により、再び打撃を受けることとなった。

 畜牛結核病については、明治36年(1903)に施行された「畜牛結核予防法」に基づき、毎年1回定期の臨床検査とツベルクリソ熟反応によって予防対策が講じられていた。ところが結核牛の発生状況をみると、昭和11年に5頭、12年に1頭、13年に4頭と比較的少なかったが、14年に18頭、15年に22頭、16年に28頭と徐々に増加しつつあり、17年には33頭の罹患牛を数えたのであった。

 このため町は、全町農家の理解と協力を得るとともに、道庁畜産課家畜衛生係の総動員によって、その撲滅を期して全畜牛の結核検査を実施したのである。この結果、第二次臨時検査で160頭、第三次検査では52頭を発見し、合計245頭の罹患牛を出した農家は、経営上や経済的にも大きな打撃を受けることになった。こうして、農家は不安のうちにその年を送ったが、翌年実施された検査では罹患牛はわずか4頭という好成績に終わり、その後も大きな発生をみることなく推移している。

 

戦時下の酪農

 昭和16年(1941)3月北海道の乳業会社は北海道興農公社に統合され、当町の明治製菓株式会社八雲工場も酪聯の製酪工場も同時に興農公社の工場となった。また、これと並行して農業団体の再編成も進められ、酪聯・北連・産業組合北海道支部の三団体統合という形で、酷聯は同年10月に解散した。

 こうして、興農公社の名のもとに全道の乳業を統一し、戦時下諸統制の中で各種事業を包含して発展を続けることになったのである。

 戦争が激しくなるにつれてすべてが戦時体制下に組み込まれ、農業経営においても地力の維持増進を主眼とする酪農は、米・麦などの主食供出を第1主義とする政策に押され、一方では戦線の拡大によって男子壮年者の応召や、軍需工場への徴用が顕著となって、基幹労働力は相次いで家を離れ、残された年寄りは婦人と子供を相手に営農を続けなければならない状態となった。このため耕地は次第に荒廃し、乳牛の管理も思うにまかせず、頭数も減少する傾向が現れてきた。

 昭和18年には農会や産業組合、牛馬畜産組合が統合されて農業会となり、会長には町長が就任するというように、戦時統制が一段ときびしくなった半面、当町の乳牛頭数は3000頭を割り、終戦後の21年には2068頭と、昭和4年の飼育頭数まで後退したのである。さらに、終戦によって復員者や海外引揚者を迎え、食糧難を切り抜けるための農業生産統制はいっそう強化され、土地という土地は可能な限り食糧増産に向けられたため、乳牛の飼育は次第に困難となり、牛乳の生産は著しく減少した。22年の統計によれば、乳牛頭数2185頭、飼育戸数712戸、1か年の産乳量1万3730石で、昭和16年に比べると頭数で40パーセント、乳量で48パーセントの減となり、酪農の前途に不安すら感じさせる状況であった。

 

酪農青年研究会

 未知の世界に挑んだような当町の酪農経営の前途には、さまざまな障害があり、数多くの問題に直面したのもまた当然であった。しかし農民はこの苦難に立ち向かい、酪農振興にひたすら取り組んだのであるが、昭和4年に八雲町畜牛改良会の有志31名が、品種改良を目指し従来のエーアシャーに代えて、札幌近在からホルスタイン種(オランダのホルスタインの産種で、からだが大きく、黒白のはん点があって搾乳量が非常に多いのが特徴)雌牛31頭を導入し、今日の基礎品種のもとを作ったりしたのも、その努力の現れであった。

 またこのころ、酪農経営について常に起こる数多くの問題を共同研究し、これを解決してゆこうとする農民グループ「八雲酪農科学研究所」と称する組織があった。もちろんこの組織は、特定の研究施設や事務所をもったり、専門の研究員を置いたりしたものではなく、いわば共同研究グループにすぎないといえばそれまでであるが、農会や徳川農場、乳業会社の協力も得て、土壌の改良・防風林の造成・飼料の栽培(特に赤クロバー)・落等乳の原因究明などの諸問題に取り組み、当町酪農の発展に尽くしたのであった。昭和21年には、恵庭の福屋茂見牧場主を講師に招いて勉強会を開催したが、これが現在なお継続している冬期酪農学校の始まりである。

 戦後、酪農経営の危機に当面しつつあった昭和22年、北海道酪農協同株式会社(21年12月興農公社を改組、雪印乳業の前身)が全道の工場に「酪農青年研究会要綱」を配付し、いわゆる酪青研の結成を呼びかけた。この結果、町内主要部落をはじめ、全道各地に続々と酪青研が結成されたので、さらに全道的な連合組織を作る動きに発展し、同年7月27日野幌機農学校で創立総会が開かれ「北海道酪農青年研究連盟」が結成されたのである。そして初代委員長には、八雲酪農科学研究所時代から酪農経営の改善研究に経験豊富なうえ、酪青研の創立にも尽くした当町の太田正治が選任された。また、同年12月には町内各酪青研をはじめ、三和・今金・蘭越・京極・狩太などの各町村を含めて、当時20の単位団体をもって酪青研八雲地方連盟が組織された。なお、北海道酪青研連は、30年12月東北地方に区域を拡大して北日本酪農青年研究連盟と改称し、さらに、38年12月には全国に広めて日本酪農青年研究連盟と組織を改め、発展的拡大が期せられた。この酪青研の発足当初から委員長となった太田正治は、42年12月に勇退するまで、およそ20年にわたりその職を務めて活躍したのであった。

 また、太田委員長勇退のあと43年に常任委員となった当町の加藤孝光は、45年から副委員長を務め、さらに、53年から当町出身として二人目の委員長となり、全国的な立場で酪農界の発展に尽くしている。

 なお、全道7ブロック協議会相互の連絡交流を図り、道内における共通問題を研究討議するため、46年11月に北海道協議会を設立し、同じく加藤孝光が会長に推されて現在に至っている。

 また、昭和39年(1964)2月に八雲地方連盟では、全国初の女子研究会を組織し、生活改善に力を注いでいる。

 

酪農家等の海外実習

 昭和23年発足した前記「北海道酪農青年研究連盟」(以下、酪青研と称す)は、「北海道の酪農を世界的水準に到達させる。」ために、北欧における酪農の実態を研究し北海道に取り入れようと、昭和27年5月委員長太田正治が第一陣として雪印乳業、北海道バター、八雲農協その他関係団体の経済的援助を得て渡欧し、約1年半にわたりデンマーク、スェーデン、ノルウェー、ドイツ、オランダ、アメリカの小中酪農家に住み込み、経営の実態を体験し、28年10月帰町した。帰町後道内各地をはじめ岩手県などで巡回講演を行い、さらに「私の見たデンマーク」を著し酪農経営の改善に努めたのである。こうした太田委員長の渡欧実習を契機として、酪青研をはじめ各酪農事業団体の後援のもとに海外実習のため渡航する酪農家が年を追って増加するようになり、半面近年海外からの実習生も来町するようになり、国際的に交流を深めるようになった。

 こうして数多くの海外実習生は農村改善の原動力となって活躍している。

 また、これとは別に道が昭和48年から56年まで、隔年実施した青年、家庭婦人海外研修事業「道民の船」に対しても毎回各界より数名の青年婦人が参加し、東南アジア、中国を訪問、友好と親善を深めたのである。

 

畜産振興対策

 太平洋戦争の影響を受けて家畜頭数が減少傾向を示すようになったことに対し、戦後、道および関係機関では、寒冷地帯における本道の安定的発展を図るため、各種の畜産振興対策を展開した。

 すなわち、道は昭和23年(1948)「畜産振興5ヵ年計画」を立て、無牛農家の解消に乗り出し、翌24年には「北海道家畜貸付規則」、いわゆる、道有雌牛の貸付制度を創設したのである。この制度は、無牛農家に対し市町村または農協を経由して貸付し、貸付雌牛が生産した最初の子牛を返納することによって無償で母牛を払い下げるというもので、当時適切な振興対策として歓迎されたものであったが、この制度は一応31年度で打ち切られた。しかし、返還子牛の再貸付は46年度まで続けられていた。

 当町においてはこうした制度の施行を受けて、25年4月「八雲町家畜貸付条例」を制定し、25年度大関地区(現、上八雲)、野田生原地区(現、桜野)に各10頭をはじめ、26年度大関地区ヘエーアシャー種7頭、27年度奥津内(現、浜松)、常丹地区(現、熱田)へ5頭を転貸した。さらに、町単独の事業として26年度から29年度まで毎年10頭ずつを購入して無牛農家に貸付し、32年度にはこの基礎牛は53頭に達した。これら貸付牛については、毎年春秋2回「貸付牛飼養管理品評会」を開催して飼養管理に努めたのである。

 また、昭和33年4月に道は「低位経済農漁家畜産振興条例」を制定し、酪農振興の枠外にある零細農漁家を対象に、めん羊・鶏・豚などの中小家畜を集団的に導入することを奨励し、この事業を実施する市町村に対して必要資金を貸付するなどの施策を講じた。これに対応して当町では、同年6月「八雲町低位経済農漁家畜産振興条例」を制定し、主として鶏・豚の中小家畜の貸付事業を行うこととし、八雲・落部両農漁業協同組合や開拓、養鶏農業協同組合を通じ、45年度まで毎年豚200頭前後、鶏7、8000羽の予算を計上して、零細農漁家の経営安定の一助としたのである。

 このほか、道は畜産振興対策の一環として、乳牛の飼養管理の改善を図るため、26年から全道的に乳牛経済検定事業を実施することとし、飼養乳牛の産乳能力を的確に把握してその向上を期すことを目指し、酪農家を組織して「乳牛経済検定組合」設立を奨励した。これにより当町では、同年部落ごとに単位組合を設立し、支庁および道の連合会につながる「八雲町乳牛経済検定組合連合会」を設置し、経営改善のための一種検定と乳牛個体の検定である二種検定を実施したのである。

 

人工授精の普及

 北海道における牛の人工授精は、昭和16年(1941)に農林省が主催して千葉市の畜産試験場で開催した、人工授精講習会の出席者を中心として、真駒内の農業試験場畜産部で試験的に行ったのが始まりといわれている。その後、18年2月に渡島・檜山・後志・胆振支庁管内の関係技術員10数名が当町に参集し、人工授精の講習会を開催したことが、当地方への普及の端緒となった。

 この人工授精の効用に着目した八雲農業会が、単位団体としてはまさしく全道に先駆けて、直ちに事業を開始した。ときあたかも、アメリカから輸入した種雄牛カーネーション・ガヴァナーキャナリー号から精液を採取し、太田孝正所有のホルスタイン種雌牛第三ローズ号に授精して受胎させたのが当町における人工授精の始まりといわれ、以後、技術の進歩とともにその効用もようやく認識されるようになったのである。

 昭和23年(1948)3月八雲町農業会を改組して八雲町農業協同組合が発足したが、このころから人工授精に対する指導方針もようやく確立し、本格的にその普及を図るとともに、町内種雄牛の選択と部落における種雄牛飼養管理費の節減が図られた。

 科学技術の進歩により、昭和24年8月ごろから「卵黄クエン酸緩衝液」による精液の冷凍法によって長期活力保存が可能となり、受胎率の向上と遠距離輸送に画期的な進歩がもたらされたので、25年5月アメリカの天然資源局リッチ氏の好意により、シカゴ市のカーチスキャンデー牧場の優秀種雄牛2頭から採取した11頭分の精液の分譲を受けることになった。この精液は「空飛ぶ精液」と呼ばれ、シカゴから羽田まで空輸され、いちじ農林省家畜試験場に入ったあと汽車で当町に到着し、5月12日に10頭の雌牛に授精されたが、その結果、春日の三輪豊光所有のアイダロッタ・コロンダイク・アーチス号1頭だけが受胎し、翌年雄牛を出産した。この雄牛はアイダロッタ・マスターピース号と命名され、後に種雄牛として木古内農業協同組合の人工授精所で5年間供用され、優秀な成績を上げたという。

 この人工授精が広く本格的に実施されるようになったのは、昭和22年に制定された「家畜人工授精所施設補助規則」が実施されてからであり、これにより道内に同年18か所、翌23年二一か所をはじめとして、26年には総数八九か所が設置されたが、その半面、これが乱立気味となり、早くも事業運営に困難が生じ、有畜農業の発展を阻害するのではないかと懸念される状態であった。

 

道南農業共済組合北渡島支所(写真1)

 

八雲人工授精所(写真2)

 

 このため道は、「家畜人工授精所5ヵ年計画」を立て、人工授精網の組織化や運営の合理化を図りつつ、施設の充実と技術面の向上に努めることとした。そして全道を11のブロックに分け、それぞれにメインステーションを設けて優秀種雄牛の配置を計画し、道南(渡島・檜山)においては地理的要件と乳牛密度などを考慮して、当町にメインステーションが置かれることになったのである。

 こうして、昭和27年4月に道南生産農業協同組合連合会(道南生産連)が八雲町農業協同組合の人工授精所施設を借り受け「道南家畜人工授精所」を設立して新発足し、初代所長として勾坂 啓が就任した。

 昭和29年度は、八雲町と落部村の一部を合わせて1552順に授精し、さらに、函館地区酪農協同組合をはじめ、七飯村・大野村・森町・砂原村・長万部町・北檜山町・今金町および知内村の各農協に1061頭分の精液を分譲した。受胎成績も27年度80パーセント、28年度で86・2パーセントであったが、29年度は89パーセントと逐次向上し、人工授精に対する依存度はますます高まっていった。

 こうした情勢に対応した八雲町農業協同組合は、昭和30年(1955)1月、れんが造38坪(約126平方メートル)の人工授精所を新築して道南生産連に貸し付けし、乳牛増殖センターとして事業の拡充と推進に備えたが、さらに道南生産連では37年10月出雲町60番地内に人工授精所を新築し、これに移転して業務の充実を図った。

 その後この人工授精業務は42年4月ホクレンに移管、さらに48年4月には道南農業共済組合へと引き継がれ、北渡島支所設置とともに「北渡島家畜診療所」と称され、当町管内を対象範囲として運営されている。

 

家畜保健衛生所と酪農検査所

 乳牛をはじめその他の家畜衛生の向上を通じて畜産の振興に寄与するため、昭和25年(1950)3月に公布制定された家畜保健衛生所法によって道は条例を定め、29年までに全道四〇か所に家畜保健衛生所の設立を計画した。そしてその一つとして27年7月12日「北海道八雲家畜保健衛生所」が、相生町100番地内(雪印乳業所有地)に開設され、初代所長に宮森正雅を迎えたのである。

 この衛生所は創設当時、長万部・八雲・落部・森・砂原・鹿部・臼尻・尾札部の八か町村を管轄区域とし、家畜衛生思想の普及と向上、家畜伝染病の予防(牛の結核病・馬の伝染性貧血病)などに努め、家畜の導入増殖に基づく有畜営農の推進に寄与したのである。

 また、昭和16年(1941)7月北海道酪農検査規則の公布により、北海道牛酪検査所を北海道酪農検査所と改称し、原粉乳検査が開始された。そしてこの業務の適正な運営を図るため、24年7月に同検査所八雲駐在所が設置され、山越郡一帯と後志支庁管内(余市町・喜茂別町・留寿都村を除く)を担当することになった。なお、この当時落部村は木古内駐在所の担当区域に属していた。

 この駐在所は、前記家畜保健衛生所の新設にともなってこれに移転し、北海道原粉乳検査条例(27年7月公布)に基づく原料乳の検査と、その品質改善を主たる任務として関連業務を担当している。その後、数次にわたる機構の変更のあと、46年9月に管轄区域を函館市と渡島・檜山両支庁管内に拡大、さらに、48年5月に「北海道酪農検査所八雲支所」と改称するとともに、従来の区域に後志支庁管内の島牧・寿都・磯谷・虻田の各郡下町村を加えて広域化するところとなった。

 

八雲家畜保健衛生所(写真1)

 

 なお八雲家畜保健衛生所は、これより先の40年4月、道の一部機構改革により函館家畜保健衛生所に統合され、また、酪農検査所はこれまでの事務所で農業改良普及所としばらく同居していたが、49年11月に相生町108番地に新庁舎を建築、併せて検査施設を整備してこれに移転した。

 しかし、昭和55年度道の機構改革により酪農検査所は廃止されることとなったが、56年4月社団法人道生乳検査協会道南事業所が同検査所の施設をそのまま借り受け、所長(花山文雄)以下3名により従来同様生産者団体から乳業メーカーに引き取られる合乳のほか、生産者農協間の個乳検査を実施している。

 

 第8節 高度集約酪農地域の建設

 

酪農振興法の制定

 終戦期を前後に当町の乳牛頭数が著しく減少し、いちじは酪農の危機とさえ叫ばれたのであるが、食糧事情が次第に好転するとともに北海道農業の振興策として、酪農業の振興を中心とする種々の施策が講じられ、乳牛導入の促進・無牛農家の解消・有畜農家の創設事業などが進められ、漸次好転しつつあった。

 一方、国においても昭和29年(1954)、酪農振興の基盤を確立し、酪農の急速な普及発展と農業経営の安定に資することを目的として「酪農振興法」を制定し、8月7日から施行した。この法律は、まず第一に集約酪農地域の制度の設定を唱え、その地域の農業の発達を図るため、酪農を振興することが必要と認められる一定の地域を、都道府県知事の申請に基づき農林大臣が指定することを定めた。

 都道府県知事は、この集約酪農地域の指定を受けるためには、一定の地域を定め、その地域内に乳牛をどの程度導入するか、飼料の自給度をどの程度にできるか、生乳生産者の共同集乳組織をどのように整備するか、乳業設備をどうするか、乳牛の改良増殖のための施設(人工授精施設など)や乳牛の保健衛生施設をどうするか、酪農経営の指導体制をどう作りあげるか、などについての計画、すなわち、「酪農振興計画」を一定の手続きによって作成して農林大臣に提出し、これを受けた農林大臣が適当であると認めた場合、その地域を集約酪農地域として指定するというものである。

 こうして指定された集約酪農地域には、あらゆる酪農振興政策の集中が明確に打ち出されたのである。たとえば、有畜農家創設事業・乳業施設合理化資金の融通確保・草地改良事業など、酪農振興計画を実施するための必要経費は予算の範囲内で補助すると定められたもので、昭和30年度から集約酪農地域の建設事業が展開された。

 この制度に基づく本道の集約酪農地域は、30年度の七か所のあと31年度は八雲地区を含む一一か所、さらに32年度に六か所が指定されて合計二四か所となり、これに包含される市町村は145で、本道の主要酪農地帯はそのほとんどが集約酪農地域として指定されたのである。

 

八雲地区集約酪農地域の指定

 昭和28年(1953)7月農林省畜産局は、前記「酪農振興法」の制定に先立ち酪農経営を行うに適した、自然的・経済的立地条件を備えた地域を選定し、地域内の酪農生産の経済化を促進し、営農の安定確立と良質安価な酪農生産物の供給を行いうる酪農地域の建設を図るため「集約酪農地域建設要領」を発表し、その地域選定基準や資金調達についての細部が定められた。

 この要領は、当時酪農振興策として酪農関係町村から歓迎され、各地区ともこぞって地区指定を目指して陳情がはじめられた。当町においても同年12月、当初道庁案に示された八雲地区、すなわち、長万部町・八雲町・落部村・森町・砂原村の五か町村の関係者が集まって、地区指定を受けるため一丸となって運動することを決め、翌29年1月関係方面に対して陳情書を提出するなど、運動を開始したのである。その結果、道の進める地区設定作業とあいまって地区指定の可能性が高まってきたので、いよいよ受け入れ態勢を強化するため所要の準備を進め、同年4月「八雲地区高度集約酪農計画推進委員会」を結成し、会長に八雲町長、副会長にその他の各町村長を決めた。また、北海道集約酪農地域建設期成会常任委員に田仲八雲地区会長を推すこととしたのである。

 北海道集約酪農地域建設期成会(副会長・八雲町三沢正男=道ホルスタイン協会長)は、当時加入している17地区の代表者を数次にわたって上京させ、道が提出した候補地域17について全部の指定を陳情させたのであった。こうして、昭和30年8月農林省は、全国から申請中の69地区のうちから31地区を指定するに至ったが、北海道からは厚岸・釧路・西紋別・大樹・名寄・胆振の7地区に限られ、八雲地区は残念ながら指定されなかった。

 その後、関係筋から酪農家の少ない砂原村を地域に包含することは不適当ではないかとの指摘を受けたことから、砂原村の了解を得て地区から除外し、新たに計画書を作成して農林省へ提出したのは、30年12月末のことであった。また、指定を受けるため必要な要件であった生乳の一元集荷の問題も、種々の曲折はあったが翌31年1月までに各町村ともそれぞれ協定が成立して調印が行われていた。さらに、31年2月には従来の組織を変更し「八雲地域集約酪農建設期成会」として、地域指定のため強力な運動を展開することとした。

 こうして昭和29年以来、関係機関団体の協力のもとに指定について運動してきた結果、31年(1956)9月21日農林省告示第六〇七号をもって「八雲集約酪農地域」として指定されたのである。

 農林省告示第六百七号

 酪農振興法(昭和二十九年法律第百八十二号)第三条、第四条及び第七条の規定により、昭和三十年十二月十日農林省告示第十八号(酪農振興法に基き集約酪農地域を指定する件)の一部を次のように改正する。

 昭和三十一年九月二十一日

 農林大臣 河野一郎

 胆振東部集約酪農地域の部の次に次のように加える。

 八雲集約 北海道 山越郡の内 八雲町、長万部町

 酪農地域 茅部郡の内 落部村、森町

 (関係分のみ抜粋)

 

 集約酪農地域として指定が決定し目的を達成したため、10月11日八雲地域集約酪農建設期成会の総会を開催してこれを解散した。そして同月25日、八雲地域の酪農振興を推進するとともに、近く開設が予定される酪農事務所に対する協力体制を確立するために規約を定め、「八雲地域集約酪農建設協議会」を結成し、会長には田仲八雲町長、副会長に川村長万部町長、中野森町長、伊藤落部村長ほか役員を選出した。

 また、集約酪農建設に協力し、地元八雲町の酪農振興に寄与することを目的として、11月27日に八雲町酪農建設協議会を組織し、会長に田仲町長、副会長に久保田八雲町農業協同組合長をあてたほか、細部に専門部会を設けて、それぞれ活動を展開したのである。

 集約酪農地域の具体的な計画の樹立と指導にあたる機関である「八雲地域集約酪農事務所」は、32年1月旧八雲町公民館別館に開設、初代所長に宮森正雅家畜保健衛生所長が発令され、いよいよ集約酪農建設の緒についたのである。

 当時の計画によると、八雲地域の現況は乳牛5465頭、乳量四万九〇〇〇石(八雲町分=3340頭、三万二二〇〇石)であるが、この指定による5年後には、乳牛9200頭、乳量一〇万石(八雲町分=4500頭、六万石)に増殖、増産するものであり、画期的な計画として評価され、これが完成後はこの地方の経済に大きな効果をもたらすものと期待されたのであった。なお、この計画を実現するために、次の諸点を基本要件として上げ取り組んだのである。

 1 土地利用の増進

 土地の利用区分を明らかにすること。耕地・草地・林地に区分し土地を最高度に利用するとともに未利用地の開発を促進する。

 2 土地条件の整備

 明暗渠排水を完備し、客土を行い、土地利用を増大する。混層耕・心土耕を行うとともに堆厩肥の増産をはかり地力の増進をする。

 3 草地改良

 永年牧草地、採草地などを全面的に改良して生産を向上させる。

 4 農牧道の整備

 土地の利用を促進するため農道、牧道を整備し、酪農経営の合理的運営をはかる。

 5 農機具の整備と導入

 土地改良・耕土改良・草地改良などに必要な大型農機具を導入して速やかな改良をはかる。

 6 土地保全

 耕土防風林の造成と森林資源の保護造成、山腹安定のため治山事業を行い農地の保全をはかる。

 7 酪農施設の整備

 牛舎の合理的な改善をはかり、サイロ・堆肥舎を計画的に整備し経営方法の改善をはかる。

 こうした方針のもとに関係農協の努力とあいまって、酪農家による草地改良や施設整備事業などとともに乳牛導入が積極的に進められた結果、八雲地域の集約酪農建設事業は多くの成果を上げ、昭和37年3月31日集約酪農事務所を閉鎖したのである。

 

 第9節 乳牛飼養状況の推移

 

乳牛飼養状況の推移

 大正9年(1920)ばれいしょでんぷん製造の不況から脱し、恒久的な八雲農業の安定を図るため酪農業へ転換を進めてから、その後順調な増加傾向をたどってきた乳牛は、太平洋戦争へ突入の危機をはらんだ昭和15年(1940)の3642頭をピークに減少しはじめ、終戦直後の21年には2068頭となり、昭和4年当時の頭数にまで後退する状況であった。

 しかし、戦後の世相も次第に安定し、国や道が講じた各種の酪農振興対策によって26年ころからようやく回復の兆しが見られたうえ、28、29、31年などと続いた冷害凶作のたびに強調された有畜農業振興の施策により、無牛農家の解消や地力の維持造成が図られたため、この間においても順調な増加傾向をたどることができた。

 その後、昭和32年(1957)落部村との合併によって飼養頭数は3813頭(862戸)となり、さらに折から推進された集約酪農地域建設事業とあいまって、以後は着実に増加を続け、39年には6000頭、48年には8000頭、そして53年にはついに多年の目標であった1万頭に達したのである。

 しかし、一方の飼養戸数は、27年以降における諸制度の施行、開拓農家の乳牛の導入などによって増加し、32年には862戸に達したのであるが、その後における開拓農家の離農や水田専業農家への転向という状況だけではなく、高度経済成長政策の影響を受けて、農業経営の近代化に対応できなかった農家や、後継者難のため離農するものが続出したため激減の一途をたどり、43年には568戸、48年には432戸、そして53年には352戸となり、32年当時の41パーセントとなったのである。

 こうした飼養戸数の減少に反した飼養頭数の増加は、酪農家個々の経営規模の拡大を示すものにほかならないが、これは、昭和36年(1961)11月における「畜産物の価格安定等に関する法律」の制定、さらに、40年6月の「加工原料乳生産者補給金等暫定措置法」の公布による不足払い制度などにより、乳価に一応の安定がみられたことも、多頭数飼育に踏み切らせる要因の一つとみることができるであろう。しかも、39年度から実施された農業構造改善事業による酪農基盤整備、特に「地区を超える事業」として町営育成牧場を設置して41年度から育成牛の受託を開始したこと、さらに、北海道酪農近代化計画(41〜46年度)、第二次北海道酪農近代化計画(46〜52年度)などの酪農振興策に基づいて策定された町の計画、「乳牛1万頭の実現」を目標に進められた各種事業の成果であった。

 

牛の飼育頭数調(その1 旧八雲町)

年次 頭数
明治11
12 11
13 10
14 27
15 52
16 64
17 52
18 52
19 36
20 48
21 56
22 54
23 60
24 51
25 68
26 51
27 56
28 58
29 73
30 72
31 76
32 40
33 35
34 36
35 36
36 40
37 84
38 92
39 96
40 87
41 101
42 186
43 162
44 267
45 187
大正 2 257
172
174
184
214
256
176

 

牛の飼育頭数調(その2 旧八雲町)

年次 頭 数
大正 9 201
10 313
11 448
12 694
13 1,106
14 1,160
15 1,338
昭和 2 1,560
1,790
2,025
2,476
2,531
2,755
3,040
3,393
10 3,196
11 3,299
12 3,059
13 3,282
14 3,494
15 3,642
16 3,623
17 3,489
18 2,995
19 3,108
20 2,768
21 2,068
22 2,185
23 2,175
24 2,118
25 2,195
26 2,201
27 2,308
28 2,602
29 2,707
30 3,207
31 3,304

 

乳牛の飼育戸数・頭数および牛乳生産量調

年 次 戸 数 頭  数 生産量t
昭和32 862 3,813 7,298
33 856 4,136 8,174
34 858 4,552 9,047
35 859 4,608 9,968
36 819 5,215 10,044
37 803 5,239 10,337
38 776 5,733 11,803
39 743 6,038 11,981
40 673 5,651 11,958
41 649 5,715 11,916
42 600 6,083 12,657
43 568 6,471 14,188
44 544 6,929 15,458
45 504 7,209 16,407
46 478 7,494 17,305
47 449 7,695 18,228
48 432 8,370 19,078
49 412 9,074 20,227
50 391 9,106 21,504
51 384 9,484 24,124
52 359 9,948 26,930
53 352 10,814 28,928
54 348 10,619 31,612
55 338 11,236 31,330
56 328 11,842 32,375
57 314 11,932 33,508

汪 1 飼育戸数・頭数は農業基本調査による
  2 牛乳生産量は各農協事業報告による

 しかし、こうした乳牛1万頭の目標達成の成果は、多年の夢がかなえられたものの、おりからの全国的な牛乳の需給緩和の影響を受け、いわゆる、牛乳の生産過剰問題がクローズアップされ、昭和53年以降の乳価据え置きに加えて、生産調整の道を選ばなければならないという、酪農界にとってかつてない厳しい情勢となったのである。この深刻な事態に対処して、消費拡大運動をはじめとする適切な施策によってその前途に活路を見いだし、今日まで続けられた酪農民の努力と、土地や施設、農機具に対する多額の投資に報いられる酪農経営の到来が期待されるのである。

 

 第10節 養鶏

 

副業としての養鶏

 名古屋コーチンといわれる品種が生まれたほど愛知県は養鶏が盛んであったが、その愛知県からの移住者によって開拓された当町では、入植早々から副業として鶏を飼育するものが多かった。すなわち、明治12年(1879)徳川家開墾試験場で26羽飼育と記録されており、以後142羽、292羽、600羽、729羽と年々増加をたどり、販売または自家用とされ、さらに、鶏ふんの肥料化も奨励されたのである。

 明治14年に古田知行が新種黒色コーチンを移入してから養鶏と呼ばれる域に達したというが、このころ養鶏の普及が比較的早かったのは、単に経済的な面ばかりでなく、移住民の多くが郷里において多少なりとも養鶏に対する経験があったため、他の副業と異なり容易に手懸けることができたからだという。したがって副業として広く普及し永続したが、品種も前述の黒色コーチンをはじめコーチン、ハンボルグ(23年、杉立正義が移入)、バフォーピングトン、褐色レグホン、バフブリーモスなど多種に及んだものの、体型・卵型ともに現在のものより小さかったという。

 

養鶏場の誕生

 八雲における養鶏思想はますます向上して全農家が飼育するまでになり、品種の改良と飼養管理の改善によって年々生産を増加しつつあったが、特に鷲の巣(現、立岩)の八尾吉之助は養鶏事業に熱心で、明治33年(1900)に東京からハーワード系白色レグホン種1雄10雌を移入し、その増殖によって純粋種として広く行き渡らせたため、いっそうの普及をみるようになった。その後、鷲の巣部落内に大島・飯沼・志水などの養鶏場が設立され、そのほかにも、50羽から100羽程度の副業的な飼育が随所にみられるようになった。

 八尾養鶏場では、明治38年に東京から重技式孵(ふ)卵器を購入、次いで米国サイファー社製孵卵器1台を購入して使用したところ、その成績が良かったので同社製孵卵器2台を輸入した。また、札幌興農園から育雛器2台を入れるとともに、貝殻粉砕機を入れて孵卵能力の増進と省力化を図った。さらに研究を重ねた結果、八尾式仮母器(育雛器)を発明して養鶏事業の発展に貢献したことは、特筆すべきことであった。

 また、その他の養鶏場でも孵卵器を購入したり自ら考案するなど、事業の伸展を図ったので、年間孵化数も1万数千羽を数え、その他初生雛は村内はもちろん北は旭川方面、南は函館方面まで広く販売した。なお、60日雛、100日雛は本道各地のほか、弘前・樺太方面へ移出し、鶏卵も主として小樽・札幌・函館・東京・樺太方面に出荷される状況であった。当時飼養されていた品種としては、ハーワード系白色レグホン、名古屋コーチンが多かった。

 なお、八尾養鶏場では大正10年(1921)に点灯法を考案して産卵率を向上させる方式を発見してから、他の養鶏場でもこの方法を用いて成績を上げたのである。

 

八雲家禽(きん)組合

 養鶏戸数は、大正2年(1913)で1277戸、4年で1430戸、6年には1602戸を数え、しかも、50羽以上の飼養戸数だけでも162戸に達していた。こうした養鶏事業の発展に対応して「八雲家禽組合」という申し合わせ組合を結成し、種禽の改良や生産物の販売その他相互の利便を図るため活動していたが、その後、種々の事情により集荷の統一が困難となり解散したという。

戦前・戦後の養鶏

 昭和3年(1928)鷲の巣の小寺恪蔵が、アメリカからアトキンソン系白色レグホン1雄2雌を直輸入して品種改良を手懸け、5年には大島養鶏場で同国純ハリウッド農場系アトキンソン白色レグホンの種卵を輸入し、それぞれ雛を育成販売したが、このころから各戸に相当数が飼育され、いわゆる、養鶏の最盛期に入ったのである。

 しかし、昭和12年7月、日中戦争ぼっ発以降、飼料や労働力不足という事態に直面し、養鶏八雲の往時の状態を持続することができなくなってきた。さらに、太平洋戦争後の養鶏は、農家自家用の庭先飼養を除いては飼料の調達が困難となり、飼養羽数はいちじ大きく後退した。この半面、ヤミ卵価の異常な高騰などのための混乱期もあったが、鶏卵需要の増加と飼料や労働力の好転によって、再び本格的な養鶏場を復活させることとなった。

 すなわち、昭和28年に立岩の八尾養鶏揚が再開して、マッターホーン式1万羽孵卵器を導入、孵卵・育雛・販売を開始し、32年には大島養鶏場も再開するとともに、農家による副業としての養鶏も復興してきたのである。これにより飼養羽数も徐々に増加し、昭和24年の6483羽、27年の1万2077羽に対し、31年には1万9351羽に達した。

 時代の推移につれて鶏の飼養形態や技術に著しい変化が見られ、昭和35年ころにはケージ養鶏が奨励されるようになった。これは、棚状に飼育室を重ね、少数ずつを区切って立体的に飼養するもので、小面積で多数が飼養できるためその後は急激に普及し、現在ではほとんどがこの方法によって飼養されている。

 一方落部村においても、農家の副業として「卵で日収、牛乳で月収、作物で年収」と宣伝されたが、明治38年(1905)で10羽未満92戸、50羽未満44戸を数え、成鶏595羽、雛489羽という記録があるが、これからみるとたしかに副業の域を出なかったようである。

 大正15年(1926)には岡島清十が八百数十羽を飼養して養鶏業を開始し、順調に歩み出したのであったが、昭和2年の夏、伝染病の発生によって一夜にして過半数が死亡し、夜が明けてその死鶏を見たときは、ただぼう然としてなすすべを知らなかったという。こうした先人の労苦が教訓となり経験となって、次第に養鶏事業として定着してきたのである。

 

養鶏農業協同組合

 養鶏がようやく復活しはじめた昭和26年(1951)11月3日「八雲町養鶏農業協同組合」が設立された。組合員は189人、出資金は6万9000円で、初代組合長に都築達三が就任し、飼料の購入・品種の改良・販路の開拓などを目的としてその機能を発揮するため、組合員は懸命な努力を続けたのであった。こうした努力によって組合の声価も高まり、しかも養鶏業界はますます発展期にあったため、32年には組合員310人、出資総額30万5000円に達し、鶏卵取扱高2000万円、飼料取扱高2500万円となったのである。

 しかし、時代の推移によって組合は経営不振となり、昭和39年(1964)6月29日解散のやむなきに至った。

 

八雲町養鶏農業協同組合(写真1)

 

 なお、昭和38年6月町は低位経済農漁家畜産振興条例の規定によって、この組合に対し39年3月の償還期限と、理事全員の連帯保証を要件に、鶏購入資金120万円を貸付したのである。ところが組合は、おりからの経営不振のため間もなく解散の兆しが見られたので、債権保全のため特に償還期限を繰り上げて弁済を求め、組合から17万1744円の償還と、連帯保証人の理事14名から60万円が補てんされたものの、なお42万余円の未償還金を残して解散したのである。

 したがって、町は保証人となった旧理事と協議し、極力徴収に努めた結果、21万5000円の償還が約定できたものの、資金そのものが組合員に対する転貸という性格のものであり、これ以上旧理事に負担を強いることは無理であると判断した田仲町長は、41年1月20日の町議会に債権21万3256円の放棄を提案して議決を得、問題に決着をつけたという特異な行政ケースもあったのである。

 

養鶏の現況

 ケージ養鶏方式に移行し、多数羽飼養が可能となった情勢を反映して昭和36年には飼養戸数755戸で3万2000羽を超え、前途になお希望を抱かせる状況であった。しかし、この直後における高度経済成長政策のあおりを受けた農家数の急激な減少の影響と、副業的傾向を廃して専業的な傾向を強めるとともに、においを含む環境衛生面からも市街地周辺での飼養が敬遠されるというような状況を迎えた、このようなことによって転廃業者が続出し、飼養戸数は40年で410戸、45年で222戸、50年で111戸というように減少し、50年にはわずか50戸を数えるにすぎなくなったのである。

 一方、飼養羽数は昭和47年にこれまで最高の3万7670羽を数え、各飼養者ごとの経営規模が拡大したことを示していたが、その後は飼養戸数とともに減少をたどり、53年には長い間保った2万羽台をついに割ったのである。

 年次別飼養戸数および羽数は別表のとおりであるが、この減少傾向はなおも続くものと予想される。

 

鶏の飼養戸数および飼養羽数(農業基本調査)

年 次 戸 数 羽  数
昭和32 927 30,093
33 886 25,613
34 826 30,663
35 819 23,080
36 755 32,015
37 747 28,738
38 738 32,973
39 538 20,292
40 410 20,765
41 409 20,044
42 404 28,281
43 340 31,468
44 299 24,587
45 222 27,070
46 200 36,958
47 189 37,670
48 153 37,488
49 129 30,261
50 111 25,415
51 71 21,613
52 50 20,046
53 55 18,461
54 54 14,461
55 47 10,077
56 37 10,345
57 29 10,217

 

 第11節 養豚その他の家畜

 

養豚の動機

 豚が八雲において初めて飼育されたのは、明治18年(1885)のことと思われる。それは、徳川義礼の欧州旅行に随行してロンドンに渡った海部昂蔵(2代目開墾地委員)が、野田生牧牛舎の実務監督である横井田鶴松あてに、その生活様式にふれながら、感じるままを書いて送ってきた明治17年11月30日付けの手紙のなかに動機があると思われるからである。すなわち、その手紙のなかには、(前略)さて此地に到り毎朝食膳に必ず卵二つと塩豚肉(既ち臘乾(ハム)、これは当国に限らず佛も米も皆然り)三、四片を供し、大いにその慈味を覚え候。就いては吾兄曽て該品を製する由を関知せしことを想起して頻りにその実試あらんことを希望に堪えず。もっとも俄に生豚の多数を購入して、その製造を専らにすることは固より一朝一夕にできることには之無く、ただ先ず三、四を試みに飼養し、やや蕃殖するを待って吾々の口腹に充つるだけなりとも(則ち近きより遠きに至るの道なり)自製することを得ば、我等の常に熱望する飲食改良の一端とも相成り、いよいよ豚児の増殖し、製法の熟達に従い、遂に販売・外輪の盛大をも計るべきことがらに候えば、早速七飯位より数頭の払い下げを乞い、吾兄これを負担し、深切に飼養の意は無きにあらずや。幸に賛成ならば篤と片桐兄等と相計らい、費額は僅々たることにて弁ずべく候間、何卒その計画これ有りたく候。右は此の地に来り間もなく突然のことを申すようなれども、これ則ちヨーロッパ風純粋の仕事に当り猶予なき秘密の伝に御座候。(後略)

 (註=この手紙は、都築省三著「村の創業」より引用したが、できるだけ原文の感じを残しながら、ところによっては現代風に意訳し、しかも、読みやすくなおしてあることをお断りしておく。)

 とあった。この手紙を受け取った横井はさっそく片桐委員長と相談し、七飯から数頭の豚を購入して野田追の牧牛舎に運び、ハムやベーコンも作られたが、当時の人の好みに合わず成功しなかったといわれ、これが豚を飼育した始まりと思われる。

 

副業的な養豚

 養豚は副業としての普及も進まず、明治の末ごろようやく農家に1、2頭が飼育されはじめたものの、全体としてはわずかなもので、種類はヨークシャー種とバークシャー種であった。

 その後、大正3年(1914)第一次大戦がぼっ発し、加工食品の製造工場として函館にハム工場が設立され、また、その前年には当町にと畜場が新設されたこともあって、にわかに養豚が盛んになり、飼養頭数も急激に増加した。しかし、家畜の防疫態勢が整備されていなかった当時としては、集団的な飼養によって大量に罹病するおそれと、価格の不安定が懸念されたこともあって、あくまでも副業の域を越えず、8年に戦争が終結すると世界的な不況に見舞われ、養豚は再び下降線をたどっていった。

 昭和年代に入ってからも、低い水準のまま目立った増減もなく、農家でないものが副業として市街地で、しかも残飯などで飼養していたにすぎなかった。太平洋戦争の終結した後もその傾向はしばらく続いたが、食生活の変化にともなって肉食の占める割合が高くなり、価格の上昇もあって農家の収入源として考えられるようになってきた。さらに、従来は主としてでんぷんかすや残飯を煮たえさがほとんどであったのに対し、配合飼料が出回ってからは多頭数飼育も可能になるなど、情勢の変化がみられるようになったのである。

 

専業的養豚への移行

 こうした情勢の変化とともに、昭和29年(1954)デンマーク式多数飼育法が普及されてから次第に飼育頭数も増加し、種類も一代雑種からランドレースなど成長の早いものが飼育されるようになった。さらに昭和33年からいわゆる「低経資金」による豚の導入が図られ、36年には八雲町農業協同組合が、道南における種豚基地として農林省から「養豚センター」の指定を受けた。同農協では出雲町60番地に施設を設け、直営をもって運営を始め養豚の奨励に乗り出したのである。しかし、この養豚センターには専門の技術員がいないこともあって、運営はなかなか軌道に乗らず、しかも、昭和40年に亀田に道南生産連の種豚センターが設置されたこともあって、あまり伸展はみられなかった。

 昭和40年12月町は年間2万5000頭のと殺解体処理を可能とする「道南畜肉センター」の業務を開始するとともに、ハム、ソーセージ、ベーコンなどの加工工場の誘致に関連し、町費を補助して養豚増殖を奨励、41年度から数年次にわたり優良種雄豚と種雌豚の導入に力を注いだ。これによって若干増加の傾向はみられたのであるが、期待したような伸展がみられないばかりでなく、飼養頭数はようやく横ばい状態を続けつつあったものの、飼養戸数はむしろ減少をたどったのである。

 こうした経過のなかで養豚は農漁家の副業時代を終わり、専業的養豚に活路を求める者によって維持され、大規模な経営形態がみられるようになってきた。昭和53年には、個人では最高400余頭を筆頭に、50頭以上を飼育するものが14戸を数え、また、株式会社八雲ファーム下の湯農場では1700余頭を飼育する大規模経営が進められるなど、養豚業にも大きな変革が訪れており、将来に期待されている。

 豚の飼育戸数および頭数の推移は前ページの別表のとおりである 

 

豚の飼育戸数および頭数の推移調

年 次 戸数 頭 数
昭和32 125 289
33 128 289
34 209 648
35 209 662
36 450 1,542
37 292 1,233
38 169 701
39 161 676
40 161 961
41 127 792
42 150 1,152
43 114 967
44 66 933
45 78 1,351
46 66 1,485
47 52 874
48 49 977
49 49 1,309
50 34 1,316
51 29 1,282
52 34 3,137
53 32 3,935
54 30 2,065
55 24 2,338
56 17 2,113
57 15 1,902

(農業基本調査)

 

 

めん羊

 当町におけるめん羊は、大正4年(1915)に立岩の小寺恪蔵が、檜山郡館村から2頭を購入して飼育したのが最初である。第一次大戦後には羊毛政策上、めん羊の全国的な増殖計画が立てられ、道庁においてもこれを奨励したこともあって、町内のあちこちで飼養されるようになった。

 しかし、当時はせっかく毛を刈り取っても、これを買い取るところがなくて処置に困ったといい、また大正13年には、徳川農場で大きな機械でホームスパンの製造を始めていたが、あまり能率の良いものではなかったという。そのうえ、めん羊の飼育方法もよく分からなかったため、しばしばガスを起こして死亡するものも多く、結局は良い成績を上げることもなく、やがて姿を消していった。

 太平洋戦争が終わったあと物資不定のため、再びめん羊が飼育されるようになり、年ごとに飼育頭数が増加していった。特に、25年にはオーストラリアから種めん羊114頭が輸入されるとともに、本州からも大量に移入されて、ほとんどの農家でそれぞれ2、3頭以上が飼育されるようになり、価格もいちじは1頭8000円前後の高値を示していた。また当時は、衣料品が不足していたため原毛の価格も良く、各戸でも簡単な紡毛機を使って毛糸を作り、セーター・手袋・くつ下などを手編みしていたが、編物機の発達と本格的な紡毛工場の出現により、生産した原糸と毛糸または生地と交換するなど、大いに利用されたものであった。

 しかし、昭和28年牛に肝蛭(てつ)保虫牛が発見されたことをはじめ、衣料事情の好転や乳牛の増加にともない、飼料の関係と人手不足などによって次第に減少し、34年ころにはほとんど見られなくなった。

 

 第12節 自作農創設と農地改革

 

民有未墾地の開発

 明治30年(1897)前後から大正初期にかけての国有未開地の大地積処分は、本道における土地開発を促進させたが、その半面、不在地主および民有未利用地を増大する弊害をもたらし、土地の合理的な開発を阻害する要因ともなっていた。こうした大地積未利用地の開発を促進するとともに、堅実な自作農を創設するため地主に対して解放を求め、さらに一方では、自作開墾者を募集してこれに土地購入資金を貸し付け、民有未墾地を開発する計画が「北海道第二期拓殖計画」の一環として進められた。

 具体的には、昭和2年(1927)8月に「民有未墾地開発資金貸付規程」が施行され、一人当たり一五町歩以内で購入価格は2000円以下であることで、道庁長官の許可を受けた場合は、土地購入資金は直接地主に支払われ、買受者は年利率3・5パーセント(のちに2・5パーセントとなる)、据え置き五か年、償還期限二五か年という条件で政府に返済するというものであった。

 当町においてはこの規程に基づき、昭和4年から資金の貸し付けを受けて、石川農場で六三九町歩余を49戸に、ユーラップ農場(元大関農場)で六二二町歩余を38戸に、元岩磐農場(小林熊太郎所有)で五四三町歩を30戸に解放して、それそれ自作農を創設したのをはじめ、昭和13年までに二〇七七町五反歩余、資全13万2594円をもって125戸の自作農を創設したが、年度別、部落別創設戸数および面積は別表のとおりである。

 

 

年度別自作農創設戸数面積

年 度 戸数 創設面積
 昭和4 36町7620
 5 125町0600
 6 40 540町2716
 7
 8 11 270町6522
 9 46 785町2506
10 12 202町8619
11 23町1822
12 61町6617
13 31町8202
125 2077町5504

 

部落別自作農創設戸数および面積

部 落 名 戸数 面    積
上 八 雲 37 602町3206
山 崎 第 一 101町1924
〃 第 二 40 538町6309
境 川 上 125町0600
セイヨウベツ 20町5817
野 田 生 原 27町2917
赤 笹 36町7620
鉛 川 15町0000
黒 岩 22町5213
ペ ン ケ ル 27町1003
坊 主 山 17町6011
百 万 20 543町4604
125 2077町5504

 

既墾地の自作農創設

 当町における既墾地の自作農創設事業は、大正15年(1926)道庁の定めた「自作農創設総持資金貸付規程」による起債を受けて実施するため、昭和6年(1931)2月に「八雲町自作農創設総持資金貸付規程」(翌7年3月転貸規程と改める)を設定したのに始まる。そして町会議員の中から5名の自作農創設維持委員を挙げて、適正を期しつつ実施したのであるが、6年度から19年度までの間に転貸資金12万6300円をもって、面積四三四町七反歩余を解放し、67戸の自作農を創設した。

 こうして、いわゆる農地改革に先行した「耕作者の農地の取得」施策を積極的に実施したのであるが、その年度別戸数および創設面積は別表のとおりである。

 

農地改革

 昭和20年(1945)12月9日連合軍総司令部から発せられた「農地改革に関する覚書」によって、おりから国会で審議中の「農地調整法の一部改正案」が可決され、わが国農業史上かつてない農地の一大改革といわれたものであったが、次いで21年6月総司令部から再度の勧告を受けた政府は、同年10月第二次農地改革法ともいわれる「自作農創設特別措置法」と「改正農地調整法」の二法を判定公布し、あらためて農地改革の徹底遂行を期することとなったのである。

 

自作農創設維持資金転貸規程により創設された自作農面積等

年次 戸数 面   積
 昭和6 22町8500
 7 40町5110
 8 16町9800
 9 15 92町8008
10 17 84町3700
11 37町7512
14 34町5512
19 104町9613
67 434町7813

 

 この自作農創設特別措置法は、

 「小作者の地位を安定し、その労働力の成果を公平に享受させるため自作農を急速且つ広汎に創設し、以て農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図る。」

ことを目的とするものであり、北海道の場合は在村地主の小作地面積四町歩、自作地一二町歩を超える部分については政府が強制的に買収することができ、その買収する農地の決定は農地委員会が行うこととされた。

 また、農地調整法は、

 「耕作者の地位の安定および農業生産力の維持増進を図るため農地関係の調整をすること。」

を目的とし、農地委員会の組織などについて規定していた。

 こうした法制によって当町においては、一四四〇町歩を所有する66人の不在地主と、保有面積三町一反歩を除いた土地を買収されることになった在住地主にとっては、まさに致命的な打撃であった。しかし、農地の買収は法の定めるところにより着々と実施され、昭和22年3月31日の第1回から、自作農創設特別措置法最後の27年10月10日の第26回までに、田一町歩、畑二八八三町歩余、採草地七九五町歩余、宅地1万5546坪余のほか、建物21棟、農業施設一式を買収した。これらは地主の理解と協力によって、その大部分を22、23年の二か年で遂行することができたのである。なお、買収にあたって重要問題となった対価は、反当たり田で144円、畑で61円六七銭八厘という額であった。

 一方、落部村における買収実績は、22年7月2日の第2回から25年12月2日の第18回までに、畑二九一町歩余、採草地四一町歩余、宅地1283坪余という状況であった。

 また、こうして買収された農地は、都市計画区域あるいは法人や団体の借入地、沿岸漁民などの零細耕作者などに存置を必要とするごく一部の畑・採草地を除き、八雲町においては786戸、落部村においては延ベ111戸の農家に売り渡したが、これらの土地のほとんどが従来の借入地であった。

 

農地買収実績

  町村別
区 分
八   雲   町 落   部   村
買 収 地 積 買 収 対 価 買 収 地 積 買 収 対 価
1町0000 1,440円00 ― 
2,883町3328 1,802,462円84 291町3628 168,692円52
採 草 地 795町2007 170,369円72 41町1802 7,165円80
宅   地 15,546町07   16,532円00 1,283町38   2,435円50
そ の 他 建物21棟
農業施設一式 
     
地主数 在 町 延べ168人   43人  
不 在 延べ 97人   20人  

農地売渡実績

 町村別
区 分
八   雲   町 落   部   村
売 渡 地 積 売 渡 対 価 売 渡 地 積 売 渡 対 価
1町0000 1,440円00 ― 
2,852町3018 1,802,462円84 274町1112 157,031円04
採 草 地 794町8200 170,257円62 41町1802 7,165円80
宅   地 15,546町07   16,532円00 1,283町15   2,435円50
そ の 他 建物21棟 
農用施設一式
494,775円36    
売渡農家数 786戸   111戸  

 

農地委員会

 昭和20年11月と翌21年10月の2回にわたって農地調整法が改正され、農地調整の目的と内容が大幅に改められたうえ、その任にあたる農地委員会が必置性となり、しかも、委員は地元耕作者ならびに農地所有者の公選によるところとなった。この改正法による第1回の選挙は、定数10名で21年12月に行われ、一号委員(小作層)に佐藤清一、佐藤数馬、中野茂三郎、都築達三、水野順五郎の5名が無投票当選となり、三号委員(自作兼小作層)も梶田久勝、渡辺駒洽の2名が同様であったが、二号委員(地主層)だけが投票となり、幡野直次、八木勘市、小川四郎が当選した。そして初代会長には幡野直次が選任されたが、兼職禁止の政令(衆議院議員選挙立候補)により失職したので、久保田正秋が繰り上げ補充によって委員当選し、23年1月会長に選任され、さらにその年5月久保田会長は渡島函館農地委員連絡協議会の会長に就任した。

 農地委員会は、わが国における農地の一大改革に対処し、事案の審議と解決に難航を極めながらも、よくその機能を発揮したが、自作農家の増加にともなって24年に農地調整法の一部が改正され、定数10名の中で小作委員2名、地主委員2名、自作委員6名となり、同年8月19日に第2回選挙が行われた。その結果、一号委員(小作層)に岡田兼雄、元山耕作の2名、二号委員(地主層)に小川四郎、長谷川鎰の2名、三号委員(自作層)に八木勘市、都築達三、梶田久勝、水野順五郎、佐藤清一、渡辺駒治の6名がそれぞれ当選し、9月2日の初委員会で渡辺駒治が会長に選任されたが、道議会議員との兼職禁止によって辞任し、後任会長に元山耕作が選任されて任期中在職した。

 なお、落部村でも同様に農地委員会が設置され選挙が行われたが、21年12月の第1回選挙では、一号委員に北村欣作、奥田 鉾、千葉茂八郎、石井吉蔵、皆川繁雄、二号委員に後藤光雄、蓮井保一、笹田菊次郎、三号委員に斉藤吉之丞、野田武雄の定数10名が当選し、会長に斉藤吉之丞が選任された。

 さらに、24年8月の第2回選挙では、一号委員に北村欣作、千葉茂八郎、二号委員に宮川利彦、野田武雄、三号委員に須藤秀吉、松浦貞一、斉藤吉之丞、深川勝三郎、外山菊松、長谷川勝の10名が当選した。

 

農業委員会

 農地委員会の手によって農地改革の事務も順調に進められ、食糧の生産もいちおう戦前の水準に戻りつつあった国内事情に即応し、これまでの農地調整法に代わって次の段階に移行することになった。すなわち、昭和26年(1951)3月「農業委員会に関する法律」が公布され、同年8月から「農業委員会」の発足をみることになったのである。

 これは、従来の自作農創設および農地調整など、農地改革の実施機関としての「農地委員会」をはじめ、食糧増産、供出の執行、議決機関である「農業調整委員会」、さらに、農業改良事業の諮問機関としての「農業改良委員会」の三委員会を統合したもので、農民の自主的な立場における行政関与によって、農業生産の向上はもとより経営の合理化を図り、農民の社会的、経済的地位の向上に貢献する真の農民代表機関とすることを念願として生まれたものであった。その後、29年には「農業委員会等に関する法律」と改められ、農業委員会は市町村だけに存置することとなり、都道府県には「都道府県農業会議」を置くことになった。

 農業委員会は市町村行政委員会で、選挙による委員と選任による委員で組織され、委員の選挙権と被選挙権は、その市町村内に住所を有する年齢20歳以上の者で、30アール以上の農地の耕作者および同居の親族、またはその配偶者とされた。選任による委員は、農業協同組合と農業共済組合が、各組合ごとに推薦した理事各1名と、議会が推薦した学識経験者5名以内の者を町長が選任することとなっている。

 農業委員会の権限としては、執行機関として町内の農業に関する行政事務を独立して執行するとともに、行政庁の諮問に応じて答申するという諮問機関としての性格を合わせもつというものであり、その主なる事務は、

 1、農地法等に基づく農地等の利用関係に関する調整及び自作農の創設維持

 2、土地改良法等による農地等の交換分合に関する事務処理

 3、農地等の利用関係の斡旋・争議の防止・農地事情の改善・農業振興計画の樹立と推進・農業経営の合理化・農民生活の改善等に関する事務を処理し、農業及び農民に関する調査研究と啓発宣伝

 4、農業及び農民に関する事項について意見を公表し、他の行政庁に建議することができる。

などである。

 こうした制度の経緯に応じ、昭和26年7月20日初の選挙を執行し、八雲町・落部村それぞれの農業委員会が発足したのであるが、32年の町村合併後も両農業委員会は同年7月の任期満了まで存続し、その後金町一つの農業委員会となった。農業委員の選挙および選任の経過は次のとおりである。

 

昭和26年7月20日選挙(任期 昭和29年7月19日まで)

八雲町 ○選挙委員(15名=無投票) 伊藤信一・溝ロ鎌太郎・井戸政蔵・小谷義男・太田正治・梶田久勝・林 惣一・吉田頼政
  都築達三・鈴木吉次・伊藤千代吉・
 岡田兼雄・渡辺駒治・松本久治・佐藤清一
○議会推薦(3名) 元山耕作・三沢正男・八木勘市
○農協推薦(1名) 幡野直次
○共済推薦(1名) 久保田正秋
落部村 ○選挙委員(15名) 稲垣顕蔵・笹田亀四郎・長谷川勝・小川新七・北村欣作・瀬下善一・千葉茂八郎・蓮井保一・皆川繁雄
 吉田喜代八・加藤義春・川上利秋・竹村 誠・松浦提一・野田武雄
○推薦委員(5名=推せん区分不明) 伊藤淳一・深川勝三郎・斉藤吉之丞・須藤秀吉・須藤秀夫


昭和29年7月選挙(任期 昭和32年7月19日まで)

八雲町 ○選挙委員(15名=無投票)溝口鎌太郎・小林実雄・伊藤千代吉・梶田久勝・鈴木吉次・佐藤清一(29年8月死亡)
  那須徳蔵・小谷義男・林 惣一・横井司馬・伊藤信一・吉田頼政・松本久治・太田正治・神戸周太郎
○議会推薦(3名)八木勘市(29年11月死亡)・三沢正男(29年9月死亡)・元山耕作
○農協推薦(1名)渡辺駒治
○共済推薦(1名)久保田正秋
落部村 ○選任区分不明ながら次の16名在任 瀬下善一・稲垣顕蔵・深川勝三郎・長谷川勝・千葉茂八郎・松浦貞一・笹田亀四郎
 川上利秋・北村欣作・斎藤吉之丞・
 加藤義春・伊藤政一・伊藤淳一・蓮井保一・須藤秀吉・小山忠男

注 昭和32年4月1日町村合併後も二委員会制をとり「八雲町八雲農業委員会」「八雲町落部農業委員会」として任期中継続した。

昭和32年7月選挙   (任期 昭和35年7月19日まで)

○選挙委員(23名=立候補24名)千葉忠次郎・鈴木吉次・伊藤信一・鈴木甚五郎・神戸周太郎・梶田久勝・小島芳一・野田武雄・
 横井司馬・蓮井保一・長谷川鎌次郎・猪子兼三郎・笹田亀四郎・伊藤千代吉・林 惣一・那須徳蔵・松本久治・森 仁作・太田正治・
 井上光彦・長田豊作・林嶋太郎・千葉茂八郎
○議会推薦(3名)元山耕作・伊藤淳一・渡辺駒冶
○農協推薦(2名)久保田正秋・長谷川信義
○共済推薦(2名)岡田兼雄・須藤秀吉


昭和35年7月選挙   (任期 昭和38年7月19日まで)

○選挙委員(23名=立候補25名)倉地兼光・鈴木吉次・神戸周太郎・伊藤千代吉・千葉忠次郎・宮田栄成・小谷義男・鈴木甚五郎・
 長谷川鎌次郎・伊藤信一・平向平三郎・長田豊作・松浦提三・野田武雄・横井司馬・笹田亀四郎・太田正治・鈴木吉盛・蓮井保一・
 井上光彦・佐藤九右エ門・加藤義一・林嶋太郎
○議会推薦(3名)元山耕作・渡辺駒治・三輪豊光
○農協推薦(2名)久保田正秋・長谷川信義
○共済推薦(2名)岡田兼雄・須藤秀吉


昭和38年7月選挙 (任期 昭和41年7月19日まで)

○選挙委員(20名=無投票)倉地兼光・高木良吉・鈴木吉盛・鈴木甚五郎・横井司馬・松浦提三・森 仁作・伊籐千代吉・林 済一・
 笹田信吉・嵐 忠夫・蓮井保一・佐藤九右衛門・林嶋太郎・井上光彦・林 増雄・伊藤信一・長田豊作・加藤義一・小谷義男
○議会推薦(3名)伊藤淳一・鈴木善治・小寺浩一
〇農協推薦(2名)久保田正秋・長谷川信義
○共済推薦(2名)岡田兼雄・野田武雄


昭和41年7月選挙任期   (昭和44年7月19日まで)

○選挙委員(16名=立候補19名)小島芳一・梶田久勝・伊藤千代吉・伊藤信一・干葉忠次郎・横井司馬・岡田兼雄・林 要一・
 嵐 忠夫・井上光彦・伊藤政一・長田豊作・林嶋太郎・稲垣義一・鈴木甚五郎・笹田信吉
○議会推薦(2名)伊藤淳一・高木万寿夫
○農協推薦(2名)太田正治・長谷川信義
○共済推薦(1名)水野 博


昭和44年7月選挙任期  (昭和47年7月19日まで)

○選挙委員(16名=無投票)伊藤千代吉・嵐 忠夫・稲垣義一・中野均一・横井司馬・千葉忠次郎・舟橋信義・岡田兼雄・井上光彦・
 小島芳一・伊藤政一・安藤信次・岩田正作・梶田久勝・井戸 淳・八木重郎
○議会推薦(2名)鈴木善治・渡辺好男
○農協推薦(2名)高木万寿夫・伊藤淳一
〇共済推薦(1名)水野 博


昭和47年7月選挙任期  (昭和50年7月19日まで)

○選挙委員(16名=立候補18名)千葉忠次郎・五十嵐勇・加藤孝光・中野均一・土井行夫・太田 保・石田正雄・長谷川日出夫・
 井戸 淳・岡島忠利・安井輝歳・伊藤千代吉・安藤信次・岩田正作・服部 稔・溝口茂信
○議会推薦(2名)岡田兼雄・渡辺好男
○農協推薦(2名)高木万寿夫・伊藤淳一
〇共済推薦(1名)水野 博

昭和50年7月選挙任期    (昭和53年7月19日まで)
○選挙委員(16名=無投票)柴田重次郎・加籐孝光・伊籐千代吉・長谷川日出夫・岡島忠利・服部 稔・五十嵐勇・中野均一・
 土井行夫・安井輝歳・太田 保・石田正雄・井戸 淳・岩田正作・溝口茂信・安藤信次
○議会推薦(2名)岡田兼雄・渡辺好男
○農協推薦(2名)高木万寿夫(中途で三沢道男に更迭)・伊藤淳一
〇共済推薦(1名)水野 博


昭和53年7月選挙任期   (昭和56年7月19日まで)

○選挙委員(14名=無投票)柴田富男・安井輝歳・中野均一・長谷川日出夫・五十嵐勇・岩田正作・平野春夫・安藤信次・土井行夫・
 本杉家治・井戸 淳・太田 保・岡島忠利・溝口茂信
○議会推薦(2名)渡辺好男・日比野篤彦
○農協推薦(2名)三沢道男・伊藤淳一
○共済推薦(1名)水野 博

昭和56年7月選挙任期    (昭和59年7月19日まで)
○選挙委員(14名=立候補16名)佐藤国彦・安井輝歳・本杉家治・杉本光男・太田 保・日比野新一・岡島忠利・海藤弘士・
 伊藤千代吉・平野春雄・土井行夫・長谷川日出夫・柴田富男・岩田正作
○議会推薦(2名)高木万寿夫・林 増雄
○農協推薦(2名)渡辺好男・嵐 忠夫
○共済推薦(1名)水野 博


  

 第13節 戦後の開拓

 

集団帰農と入植者

 太平洋戦争も終末に近づくと、米軍の本土空襲は日を追って激しくなり、全国の主要都市は空襲により焦土と化し、戦災者が激増して住宅と食糧事情は最悪の状態となっていた。こうした事態に対処して政府は、昭和20年(1945)5月に次官会議で決定された「北海道疎開者戦力化実施要綱」によって、戦災疎開者の北海道集団帰農計画を策定した。この業務を円滑に遂行するため、道は同年6月「北海道集団帰農者受入要綱」を定めこれらの帰農者を受け入れ、就農による生活の安定を図るとともに食糧増産に資するため、20年度を第一年次として集団帰農による開拓者の受け入れを開始したのである。

 当町においてもこの計画に基づいて20年8月、大阪府から31世帯127名が、音名川(春日)・セイヨウベツ(上八雲)・奥津内(浜松)・常丹(熱田)・大新などに分散して入植した。これらは主として沖縄出身者で、移動の途中青森で終戦を知るという状況であったため、のちに沖縄への帰国が認められると大部分のものは離町したのである。

 また、その年9月に元樺太大谷修理廠従業員(代表者・林嶋太郎)の一団36世帯116名のほか独身男子34名と女子13名が、八雲飛行場跡地に入植するため来町した。しかし、このうち専農者20世帯が中川郡止若に転出したので、残りの従業者をもって林興農社を組織し、三杉町地内にあった旧軍用修理工場を活用、かつての機械工作技術を生かして農工・水産・発動機・その他の器具の修理事業を兼営しながら、旧飛行場内農耕適地の貸付を受けて農業に従事したが、事業の伸展をみることなくやがて解散した。

 

緊急開拓と入植者

 敗戦による国土の縮小と、引揚者や復員者の増加にともない、食糧増産は日本人の死活にかかわる緊急課題であった。こうしたことから政府は、昭和20年11月「緊急開拓事業実施要領」を定め、全国的な戦後開拓を開始したのである。

 一方、未開発地を多く抱えていた北海道では、この政府決定に先立ち、20年10月「北海道戦後開拓実施要領」を定め、国有地・御料地・官有地などの農耕適地の選定と、貸付入植に全力を挙げていた。

 旧軍用八雲飛行場跡地も、農耕適地一四〇町歩を緊急開拓地として指定を受け、旧所有者と林興農社の一部従業員の 耕作用地に解放されたが、この土地は25年5月に連合軍に接収されることとなって開拓地から除外された。

 昭和21年5月に大新地区の奥、国有林地内一〇〇町六反歩余が開拓地として選定され、この年八雲鉱山の離職者や外地からの引揚者など15戸が入植し、開拓地(熊嶺地区と俗称)を創設して開墾事業を開始した。特に23年1月には、道庁から5台の電力抜根機を借り受けて開墾を実施し、さらに、15万円の工事費をもって1万2000メートルの配線を行って電灯を新設するなど、開拓事業は積極的に進められた。

 

戦後の入植戸数  (昭和29年まで)

 地区
年次
熊嶺 常丹 無弓部 トベトマリ トワルベツ セイヨウベツ ナンマツカ キソンペタン 八線 サツクル ブイタウシナイ
20                   
21 15                 21
22                
23            
24                  
25                
26            
27                    
28     13           20
29          
20 14 22 10 94

 

 このほか、同年中に上八雲の一部に属するセイヨウベツに4戸、キソンペタンに2戸が入植し、また、落部地区でも下二股に16戸、逆川に7戸が入植して開墾建設事業が実施された。さらに翌22年以降においては、自作農創設特別措置法により未墾地を買収して入植するものが増加し、29年までに八雲地区に入植した開拓者は、別表で見るように94戸に達した。これらの入植者に対しては、営農資金の貸付、住宅建築の補助など、種々の補助施策が講じられ、開墾建設事業が進められたのであるが、既存農家の耕地に比較して多くの悪条件を背負い、その苦労は並々ならぬものがあり、開拓の苦闘が続けられたのである。

 

開拓振興対策

 戦後緊急開拓が始まって以来、昭和21年から27年までの北海道の夏季は、比較的高温多湿の気候に恵まれて開拓営農も順調な伸展をみせていた。しかし、28、29、31年と連続して本道を襲った冷害、水害、風害は、開拓者に致命的な打撃を与え、なんらかの特別措置を講じない限り、営農の維持継続は不可能といわれるまでになった。ようやく開拓初期の段階から経営規模の拡大に移行しようとするときにあたってこの連続天災は、生産の減少はおろか負債の増加となって現れ、経営基盤の弱い開拓農家にとっては大きな痛手であったわけである。

 こうした状況に対処して農林省は、31年度から不振地区対策など種々の施策を講じたが、特に32年に「開拓営農振興臨時措置法」を制定して、33年度からいわゆる「第一次開拓営農振興対策」を実施し、金融措置の方途を講じて営農改善を図ろうとしたが、抜本的な解決策とはならず、局部的なてこ入れにすぎなかったため、高度経済成長の谷間におかれた戦後開拓の収拾はおぼつかない状況であった。

 このため政府は、昭和35年(1960)開拓関係法律の改正整備(開拓三法の改訂)を図って、開拓者の営農をようやく軌道に乗せるとともに、同年農林省は「過剰入植地等対策要綱」を制定して、戦後無計画に入植させられたために生じた過剰入植地や営農不振地区にメスを入れ、地区の意見に基づいて開拓者の一部を計画的に地区外へ移転させ、引き続き農業経営を行う開拓者の土地面積を拡大して、経営の安定を図ろうとしたのである。

 当町においてはこの要綱に基づき、21年以降に16戸が入植した上サランベ地区(春日)を対象に4戸の移転を行ったのをはじめ、36年に4地区9戸、37年に1戸、38年に2地区6戸というように、開拓農家の移転を講じ過剰入植の調整を図った。なおこれによる移転費は、一戸当たり35年度15万円、36年度以降30万円が奨励金として交付されたが、その負担区分は国が3分の2、道が3分の1の割合であった。

 

離農助成対策

 開拓関係法律の改正準備を行い、開拓者の負債に対する条件緩和が図られたものの、これにしてももはや営農を振興する抜本策とはならず、しかも、わが国の農業を取り巻く諸情勢からますますその近代化と構造の改革が要請され、こうした情勢を背景として昭和37年度(1962)において、開拓地の実態調査(開拓総洗調査)が実施されたのである。その結果、38年度に第二次振興対策が樹立され、開拓農家個々の経営内容により三つに分類し、それぞれ適切な対策が講じられることになった。すなわち、

 第一類農家=すでに営農が確立し、対策を特に要しないもの

 第二類農家=営農未確立で振興対策により、援助の必要なもの

 第三類農家=本人の希望により、営農を期し難いとして、離農対策等の施策を講ずることとするもの

と位置付け、

 1、二類農家については基本建設工事の完了した地区から五か年計画で順次地域指定を行い個別計画を樹立させて旧債の整理と農用施設、家畜および農用機械の導入を図る。

 2、一類農家については、すでに開拓農家の卒業生として、一般農家の対象として指導を加えることとし、固定化負債のあるものについては41年から自創資金により借換が行われた。

 3、三類農家、即ち営農の振興が期し難い農家に対しては、離農希望者には離農助成、その他には負債整理対策が講じられた。

以上のような対策を38年から42年まで実施することとしたのである。

 また、三類農家対策の一環として、新たに「開拓者離農助成対策」が打ち出され、39年度から積極的に進められることになった。この対策による離農補助金は、当初45万円が交付されたが、その後物価の変動に応じて増額され、42年度から50万円、44年度から55万円、46年度から60万円(予定者に対しては50万円)が交付された。

 この対策に基づいて昭和39年度から45年度までに離農した当町の開拓農家は別表のとおりであるが、こうした離農者の大半は辺地入植の開拓者であり、その背景には、交通不便のため生産物の運搬、冬期間の集乳体制などの条件が悪く、負債を重ねて機械化を進めたり、経営規模の拡大を図って設備投資を行っても、さほどの収益は期待できないという悩みがあった。さらに、若年労働力の都市への流出のため、労働力は不足して離農するものが続出し、そのほとんどが市街あるいは本州・函館・室蘭・札幌などの都市へ、労務者として転出していったのである。

 最盛期の32年には136戸を数えた当町の開拓農家も、45年にはわずかに23戸が残留するだけとなった。

 こうした離農跡地は、既存農家の採草地、町有または部落有の放牧地や植林地に転用されるなどの利用が図られた。

 

開拓農業協同組合

 戦後積極的に開拓が開始されたものの、事業は遅々として進まず、入植者の窮状は計り知れないものがあった。昭和22年11月農業協同組合法が施行されたことによって、開拓事業に対する国の各種補助金やその他の開拓資金の受入れ窓口として、また開拓者の、開墾・建設・生産・生活などの促進と安定を図るため、各地において開拓農協の設立が進められるようになった。

 昭和23年11月落部村において「落部村開拓農業協同組合」が組合員26名、出資金18万円をもって設立され、組合長に吉川芳雄が就任し、事務所を落部村役場内に置いて発足した。

 

年度別開拓者離農状況

 年次
区分
39 40 41 42 43 44 45
地 区 数
離農戸数 34 15

 

 また、八雲町においても同年12月には「上八雲開拓農業協同組合」と「熊嶺開拓農業協同組合」が設立されたが、この両組合は29年7月に合併し、翌30年4月「八雲町開拓農業協同組合」として新たに発足、組合員103名、出資金4万円、組合長に堂七徳之が就任した。そして事務所を八雲町役場内に置いて、入植者の受け入れ・入植にともなう諸手続き・統制物資の配給・開墾建設事業・指導調査などにあたった。

 しかし、組合の運営上必要な確定財源もなく、補助事業や融資事業を対象とした賦課金に大部分を依存するという実情であり、しかも、わずかの賦課金は事務費にも満たないという状況で、苦しい運営を強いられたのである。

 もちろん、時宜に応じて施行された各種施策に対応して組合業務は続けられたのであるが、昭和35年(1960)、国の開拓者離農助成対策制度の発足に前後して離農者が相次ぐようになり、さらに、45年に実施された開拓営農総合調整事業、負債整理対策、営農指導員や開拓保健婦制度の廃止など、開拓行政の縮小整理にともなって、実質的に開拓農協としての事業は終了することになった。したがって、落部村開拓農業協同組合と八雲町開拓農業協同組合は、46年3月にそれぞれ解散総会を開催のうえ、精算人を立てて向こう1年間に残務整理を行うこととし、残りの組合員は一般農業協同組合に加入、20数年にわたる開拓農協の苦闘の歴史を閉じたのであった。

 

 第14節 戦後農政の勤き

 

農業改良普及事業

 農業改良普及事業は、農地改革や農業協同組合法の施行などとともに、戦後の民主化政策の一つとして特徴あるもので、昭和23年(1948)7月の「農業改良助長法」の施行によってその緒についたものである。

 この法律の施行にともない、道は同年10月経済部に農業改良課を新設し、食糧増産達成のために暫定的に設けられていた「食糧増産技術員」をその指揮下におさめて、正式に改良普及事業を発足させた。こうして、同月八雲町農業協同組合事務所の中に、食糧増産技術員として都築重雄が駐在し、さらにこの事業を運営するために「八雲地区農業改良委員会」が組織されたのである。翌24年4月には「八雲町農業改良相談所」が設置され、都築重雄(昭和28年所長となる)、大友三雄の2名が普及員として配置された。制度発足当時の改良普及員は、専ら農業の技術普及指導にあたり、農民生活の改善を助けるというサービスに徹し、農家の庭先やほ場を巡回訪問して実地指導にあたった。

 その後、時勢の推移にともない普及員の数も、25年には3名、26年には4名と年々増員され、29年には農業改良普及員1名が減じられたが、それに代わって生活改良普及員1名が配置されるなど、制度の改正にともなって逐次整備拡充されていった。

 昭和32年4月町村合併により「落部村農業改良相談所」と統合し、農業改良普及員5名、生活改良普及員1名となり、翌33年には道条例の定めるところにより「渡島支庁八雲地区農業改良普及所」と改称された。

 刻々と移り変わる農業情勢に対応して、普及員の業務内容についてももちろん変化し、時宜に応じた活動が要請されたが、39年には普及所の組織体制の再編整備が始められ、「普及事業の刷新強化を図るため、新たに普及指導活動(農業・青少年・生活)専門技術員を設置して改良普及員の普及活動の計画の樹立及び計画に基づく活動方法の指導にあたらしめる」ことになった。

 

渡島北部地区農業改良普及所(写真1)

 

 昭和33年に普及所開設以来八雲農協内にあった事務所を、36年に農協前に移して独立し、さらに、40年八雲家畜保健衛生所跡に移転、56年1月には渡島支庁八雲税務出張所跡に移転して現在に至っている。歴代所長は、都築重雄・鳩岩雄・石橋三郎・菅原 広・時田敏美である。

 

積雪寒冷地単作地帯振興臨時措置法

 昭和26年(1951)3月「積雪寒冷地単作地帯振興臨時措置法」が公布施行され、本道をはじめ東北・北陸など14道府県の全域と、これに隣接する12府県が指定を受け、それぞれの市町村が樹立する農業振興五か年計画に基づいて国が総合的に助成するという道が聞かれた。

 当町においてもこの法律の趣旨に基づき、26年11月「八雲町農業振興五か年計画」を樹立し、(1)土地条件の整備、(2)生産施設の拡充、(3)経営生活の改善、を柱に総事業費2億4217万円余に及ぶ事業の推進を期したのであった。しかしこの事業は、結果的には必ずしも所期の目的を達成できなかったようである。したがって、積雪寒冷地帯の本道をはじめとする府県の強い要請のもとに、図法に基づく新たな助成事業として、昭和28年から三か年にわたって農村振興総合助成事業が実施されることとなったが、28、29、31年と続いた冷害によって、農業経営は大幅な後退を余儀なくされ、これまた目立った成果を上げることができなかった。

 

31冷害とその対策

 本道を襲った昭和28年の冷害と風水害、29年の台風15号による水害と冷害、さらに、31年の冷害と連続して発生した凶作は、当町もその例外ではなく、農民に大きな打撃を与えた。特に31年の冷害は大正2年以来の凶作といわれ、後に「31冷害」と呼ばれるほど被害は大きなものがあった。

 こうした連続の冷害大凶作のため、多くの中小農家は負債の累積を余儀なくされ、しかも、その固定化によって深刻な問題に発展したのであった。このため道では、30年に「農家負債整理促進条例」を制定し、積極的に農家経済の再建を図ろうとする者に対して、対策資金の貨付けその他の助成措置を講ずることとした。

 当町においてもこれらの措置に対応し、負債農家の経済再建を推進してその経営の安定化を図るため、31年10月に条例を制定し、町長の付属機関として、農業協同組合・農業委員会・開拓農業協同組合などの代表者からなる「八雲町農家経済再建委員会」を設置し、必要な調停・あっせん・諮問・指導を行うこととしたのである。

 また、12月開会の臨時町議会において、冷害救農土木工事が議決され、町道の改良工事や河川の護岸災害復旧工事、砂利採取事業などを実施し、食糧対策として配給食糧の確保、開拓者救済のためのCAC救援米の配布などの措置がとられた。

 

マル寒資金

 こうした連続の冷害凶作を背景として、昭和32年4月に寒地農業振興のための特別立法制定の運動が起こされたため、農林省をはじめ政府機関における調査検討の結果決定されたのが、33年5月制定の「北海道畑作改善要綱」であった。これは、経営不振にあえぐ畑作農家の営農改善に必要な資金を、農林漁業金融公庫資金を原資とし、低利長期の金融対策を講ずるというもので、当時としては最も有利な営農改善資金であった。

 しかし、これは法制度として確立していない点に不安があったため、本道の農業関係機関はこぞってその立法化と、融資条件の緩和について強力な運動を続け、ついに34年4月「北海道寒冷地畑作営農改善資金融通臨時措置法」(マル寒資金)が判定され、本格的な営農改善事業の開始をみたのである。この法律では、一定の条件に合致する「寒冷地畑作振興地域」を指定し、道知事はその地域ごとにあらゆる角度から検討し、7〜10年後に到達すべき営農改善計画を立てさせ、これによって貸付適格の認定を受けた農家については、長期低利の営農改善資金、いわゆるマル寒資金が農林漁業金融公庫から融資(100万円以内)されることとされた。そしてこの制度は当初5か年間で終了する予定であったが、その後幾度か延長改正され昭和63年3月末までとなり、また、融資限度額も酪農主体で1400万円、その他で900万円となっている。

 当町ではこの制度が創設された昭和33年度に、上の湯と上八雲の2地区で10戸の農家が貸付適格の認定を受け、営農改善が行われたのをはじめとして、翌34年度には、黒岩・富咲・大新など16地区が指定を受け、建物建設や農機具購入などを主体とした営農改善計画が推進されたのである。

 

新農山漁村建設総合対策

 昭和26、7年を境としてわが国の農林水産業の目覚ましい復興にともない、農林水産物の過剰傾向と価格低下の現象がみられ、他産業との所得格差が目立ちはじめたため、ようやく総合助成方式による農山漁村振興施策が望まれるようになった。こうした情勢のなかで検討され、昭和31年(1956)から実施されることになったのが「新農山漁村建設総合対策」であり、いわゆる新しい村づくり≠ナあった。

 すなわち、31年4月「新農山漁村建設総合対策要綱」が制定され、31年度から地域の状況に見合った農山漁村自立計画を策定して、総合的な発展を図ろうとするものであり、同年度から五か年の間に小経済圏としての農山漁村地域を指定し、それぞれの地域ごとに設置する振興協議会に自主的な計画を立てさせ、その事業の実施に必要な経費に対して補助を行い、推進を図ろうとするものであった。

 当町は昭和34年度(1956)に計画樹立地域に指定されたので、基礎資料の整備と振興計画の策定にあたった。そしてこの事業を円滑に推進するため、地域を「八雲地域」と「落部地域」に分け、町長・議会議長・農業委員会長・農業協同組合長・漁業協同組合長・土地改良区理事長・森林組合長などのほか、青少年クラブや青年婦人組織を代表する者などにより、それぞれの地域ごとに「農山漁村振興協議会」を組織し、対策推進の総合的な連絡調整にあたった。

 その結果、翌35年度に「特別助成地域」として知事の指定を受け、同年度から三か年にわたって特別助成事業を実施したのである。事業は当面必要なものに限られたが、特に36年度に八雲町農業協同組合が事業主体となって実施した農事放送施設は、八雲地域管内農家327戸にテレフォン・スピーカーを設置し、農協に本部を置き相互に通信できるもので、農業情報や技術の指導などの連絡ができるようにしたものであり、農村生活にもたらした利便は大きかった。

 また、落部農業協同組合では共同集荷所1棟のほか動力兼用ミスト機19台を導入して近代化を図り、八雲町漁業協同組合では水産貯水庫、共同船揚場建設などのほか魚群探知器2台を入れ、落部漁業協同組合では魚群探知器6台を入れるなど、経営の合理化を図った。なお森林組合では下刈機を八雲で5台、落部で6台導入し、土地改良区では馬そり客土などを実施したが、これらが農山漁村の本格的近代化の第一歩となったのである。

 

第15節 農業構造改善事業

 

農業構造改善事業のねらい 

 昭和36年(1961)6月に制定された「農業基本法」に基づき、国は工業予定地域を除く全国3100市町村について農業の均衡的な発展を期すとともに、農業従事者の地位の向上を目的とする経営の近代化を図るため、36年度から7か年にわたって毎年度特定地域を選定し、農業構造の改善に関する必要な事業が総合的に行われるよう指導と助成を行う方針を定め、「農業構造改善事業」を展開することとした。

 この構造改善の基本的な考え方としては、農業が経済行為として成立するための要因、すなわち、農業経営の要素となる、土地・労働力・生産手段・土地利用・生産構造・加工販売手段・環境のあり方とその結びつきなどを総合的に検討し、計画的に改善していくことにあり、とりわけ、農業経営規模の拡大と生産の選択的拡大・適地適作・主産地形成の確立などを主なねらいとしていた。

 まず、前者としてあげた経営規模の拡大については、労働単位当たりの所得向上を図るため、分散農地の集団化・土地の整備・草地および土地改良事業などを行い、大幅な土地利用の改善を図るとともに、家畜の導入・営農の機械化を推進して経営の合理化ならびに近代化をねらいとする。そして後者については、経済の発展、所得水準の上昇にともなう需要の動向を見定め、需要に応じた農業生産の拡大を図り、販売や流通市場での優位性を保つため、適地適作・主産地形成を積極的に推進するなどの点がその基本的な指針となっていた。

 またその事業は、農地の集団化・かんがい排水・農道などにかかわる「基盤整備事業」、畜舎建設・機械導入・集荷・貯蔵・加工施設などの「経営近代化施設」の二本立てとし、その事業主体はあくまでも共同経営体をもってあてるというもので、個人事業については対象としないこととされていた。さらに、その事業量は全国平均一地区で1億2000万円となっており、そのうち3000万円が融資事業で、残りの9000万円が補助事業となる。そして、一地区の事業期間は約3年で、さらに、新たな地区で第二次事業の認定を受けると倍の事業量を行うことも可能としていた。

 これに対する資金調達については、融資単独事業(主として個人施設)は農林漁業金融公庫から3分5厘の低利資金の導入方法があり、さらに、農地や林地取得の場合もその長期融資の道が開かれていた。また、補助事業については総体で5割、基盤整備事業については約7割の補助があり、さらに、事業費から補助金を差し引いた残額の8割については、同公庫から融資(6分5厘)を受けられることになっており、資金ねん出についての農家の負担はかなりの軽減措置がとられていたのである。

 

当町における構造改善事業

 こうした画期的な農業振興政策の実施にあたり、当町では初年次の昭和36年に「農業構造改善計画地域」の指定を受け、町内の各関係機関と協議を重ね、実施体制の整備と基礎調査を中心に準備を進めるとともに、特に対象農家に対して事業の啓発宣伝に努め、道・支庁から担当者を招いて説明会を開催するなど、趣旨の徹底を図ったのである。

 こうして37年度に計画を立て、38年度から事業を実施すべく準備を進めたのであるが、実施地区の選定や事業内容の決定などが遅れたため「春日」地区を後期にまわし、第一次の事業実施地区として「河北」・「中央」・「落部」の三地区を決定し、さらに、地区を超える事業として「八雲町乳牛育成牧場」の建設事業の実施を決め、39年度から3か年計画をもって着手した。

 当初の計画によれば、これら関係地域の基幹作目を原料乳におき、ばれいしょ・てん菜を補完作目とし、この計画の完了後においては乳牛1万頭の飼育を目標としつつ、乳牛育成牧場の設置により本州各地に優良種雌牛の移出を目指すところに特色があった。しかも、各地区の生産を増大して酪農経営を助長するとともに、主産地形成を目指すため、土地基盤整備を図り、農業機械を導入することによって、毎年減少傾向にある労働力の不足を補いつつ、営農集団の育成により近代化を促進することをねらいとしたものであった。

 最初の調整時点で後期にまわした「春日」地区とともに、当初250ヘクタールの予定に対し290ヘクタールまでに用地が拡大されたため、乳牛育成牧場の行う補完事業が第二次事業として認められ、総体的には39年度から44年度までの6か年を実施期間として事業を展開し、当町酪農の発展に多大の成果をもたらしたのである。

 

構造改善事業の概要

 昭和39年度から6か年で実施された当町の農業構造改善事業は、地区を超える事業として実施した育成牧場を除き、四地区における補助事業は総額2億544万円(うち、国・道費補助1億2581万円)に達し、さらに融資単独事業で1億6104万円の事業が行われた。

 これらの事業実施地区は既に酪農化の進んだ地帯であったが、なおいっそう経営の近代化が図られ、一大酪農地帯の形成が進められたわけであるが、その主な事業の概要は次のとおりである。

1、土地基盤整備事業

(1)、一般長道整備事業

 町が主体となり、39年度で花浦地区の1000メートル、台の上地区の2136メートルの整備、40年度で大新地区の1678メートルの整備が行われた。

(2)、かんがい排水事業八雲農協が事業主体となり、大新地区の2610メートル、立岩地区の2100メートルを実施、また、第二次事業では春日第一地区の270メートル、同第二地区の2640メートルなどが実施された。

(3)、草地造成改良事業

 八雲農協が事業主体となり、春日地区で38・8ヘクタールの草地造成、あわせて牧柵4597メートルを設置した。

(4)、耕土改良事業

 落部農協が主体の事業で、下層土の活用を図るため、39年度から3か年で高台地125ヘクタールの反転客土を実施し、飼料畑への転換を図った。

2、経営近代化施設事業

(1)、トラクター導入事業

 河北地区で8台(作業機48台)、中央地区で6台(同32台)、落部地区で3台(同19台)をはじめ、第二次事業で春日地区に6台(同57台)が、それぞれ利用組合単位で導入され、多頭数飼育の実現に向かって活用の道が開かれた。

(2)、家畜用水施設

 八雲農協が事業主体となり、幹線1万3935メートルの導配水管を布設し、大新地区58戸、1530頭の乳牛に供給する家畜用水の確保を図り、多頭数飼育の基盤を増強した。

(3)、追込舎・監視舎の建設

 既に造成の開拓パイロットの補完施設の一つとして、追込舎(1296平方メートル)と監視者(26・7平方メートル)を建設し、施設の効用を増大させた。

第一次農業構造改善事業補助事業実績

 区分
年度
事業種目 事業主体 事 業 量 事業費 負 担 区 分
国 費 道 費 その他
39 土地基盤
整備事業
一般農道
整備事業
花浦地区延長
     1,000m

橋梁1,暗渠2

待避所3,取付道路7
千円
1,999
千円
1,098
千円
399
千円
502
台ノ上地区延長
     2,136m

橋梁2,待避所3,

取付道路7
3,074 1,690 610 774
40 大新地区延長
     1,678m

橋梁2,取付道路4
3,629 1,995 725 909
39 大新地区
かんがい
排水事業
八雲町農協 延長  680m
 74.3ha
7,954 4,374 1,590 1, 990
40 延長1,930m
 98.6ha
25,154 13,834 5,030 6, 290
39 立岩地区
かんがい
排水事業
延長2,100m
 252.4ha
 15, 666 8,615 3,133 3,918
39 落部地区
反転客土
事業  
落部村農協 耕起50ha 2,400 1, 320 480 600
40 耕起30ha 1,580 869 316 395
41 耕起45ha 3,120 1,716 624 780
    64, 576 35,511 12, 907 16, 158
39 経営近代化
施設事業
中央地区
トラクター
導入事業
利用組合 本機2台作業服16台 5,227 2,393   2,834
40 本機4台作業機16台 7,997 3,668   4,329
39 河北地区
トラクター
導入事業
利用組合 本機7台作業機45台  20, 882 9,555   11, 327
40 本機1台作業機 3台 2,023 926   1,097
39 落部地区
トラクター
導入事業
利用組合 本機1台作業服 9台 3,053 1,397   1,656
40 本機2台作業機10台 4,663 2,135   2,528
40 大新地区
家畜用水
施設
八雲農協 幹線13,935m
1,530頭分58戸
16,523 7,665   8,858
  60,368 27,739   32,629
合                 計 124, 944 63, 250 12, 907 48,787

 

第二次農業構造改善事業実績
(1)上地基盤整備事業

 区分
年度
事業種目 事業主体 事 業 量 事業費 負 担 区 分
国 費 道 費 その他
42 春日第二地区か
んばい事業
八雲町
農業協同
組合

2,273
千円
31,073
千円
17,089
千円
6,214
千円
7,770
43 春日第二地区か
んばい事業
370 4,418 2,429 883 1,106
春日第一地区か
んばい事業
270 4,812 2,646 962 1,204
春日地区草地造
成改良事業
ha
38.8
6,452 3,226 1,290 1,936
春日地区牧野隔
障物設置事業
 m
4,597
1,006 503 201 302
合            計   47,761 25,893 9,550 12,318


(2)経営近代化施設

  区分
年度
事業種目 事業主体 事 業 量 事業費 負 担 区 分
国 費 道 費 その他
42 トラクター
導入
春日第1,2,3
利用組合
本機3台
作業機32台
千円
13,674
千円
5,941
千円
 
千円
7,733
43 トラクター
導入
春日第1,3
利用組合
本機2台
作業機15台
10,881 4,727   6,154
44 トラクター
導入
春日第1,2,
3利用組合
本機1台
作業機10台
6,145 2,665   3,480
追込舎
監視舎建設
ビンニラ利
用組合
追込舎 1,296u
監視舎26.73u
2,038 882   1,156
合            計 32,738 14,215   18,523

(3)融資単独事業
事業種目 受益範囲 実施主体 事 業 量 事 業 費
畜    舎   戸
68
個  人  68棟9,616u    千円
121,127
サ イ ロ   38      38基     13,620
堆 肥 盤   11  11基1,048u      3,610
農    舎    8   8棟645u      3,840
乳    牛    1      13頭      3,150
農機具格納庫  172 利用組合  14棟1,531u     15,690
合            計    161,037

 

 (渡島管内農業構造改善事業のあゆみ)

 

3、融資単独事業

 畜舎68棟、サイロ38基、堆肥盤11基、農舎8棟のほか、トラクター利用組合の農機具格納庫14棟が建設された。また、乳牛13頭(1戸)の新規導入が図られた。

 

乳牛育成牧場

 農業構造改善事業のなかで、地区を超える事業として町が事業主体となって計画された乳牛育成牧場は、原料乳の主産地形成と多頭数飼育化促進の実現に向け、子牛の預託育成と優良資源のかん養を目的として、昭和39年(1964)事業に着手、第一次、第二次を通じて前後5か年にわたって造成された画期的なものであった。

 終戦後開拓地として新規入植者を迎えたハシノスベツ地区(熱田)を、育成牧場の適地と選定した町では、おりから経営不振によって苦闘していた土地所有者と交渉のうえ用地の買収を進め、開拓財産を含めて284ヘクタール余の用地を確保した。そして4か年をもって204ヘクタール余の草地を造成するとともに、育成乳牛舎1棟836平方メートル(サイロ2基、尿溜、堆肥盤各1基など付設)・農機具格納庫・監視舎・牧夫住宅などを建設し、さらにトラクター2台を導入するなど、総経費8464万円を投じて本格的な育成牧場を造成した。(資料=「八雲農業の概要」)

 こうして、搾乳と育成を分離した専門酪農の形成を目指したものとして、その効用に大きな期待を集めながら預託牛の受け入れを開始したのは、第一期造成工事の完成間近かな昭和41年6月3日であった。

 この育成牧場は、当然関係農民の期待を担っての開設ではあったが、現実的にその後の預託状況をみると、夏期間ではおおむね300頭以上が入牧して所期の成果を上げたとはいえ、冬期間ではおよそ50〜60頭の収容というのが通例で、経営上不健全な状態であった。このため47年11月から翌年5月まで、試験的に冬期間の預託を中止して状況を観察し、その後再び冬期預託を実施してみたが、越冬預託牛はようやく90数頭にとどまる状況であった。

 

牧場の造成            (単位 千円)

   区 分
事業種目
事 業 量 事 業 費 内 訳
総 計 補助金 町 費







草 地 造 成 187ha 20,222 13,370 6,852
牧    道 3,271m 8,228 5,758 2,470
牧 さ く 15,592m 2,875 2,011 864
育成乳牛舎 牛舎1棟836u,サイロ2基
尿溜堆肥盤1基,サイロアンロ−ダ
バンクリーナーバドック
19,708 9,024 10,684
放 牧 施 設 監視台1棟     54u
給   水     7か所
1,401 641 760
農機具格納庫 1棟97u 1,203 550 653
トラクター 本 機 44.5PS 2台
作業機       14台
6,768 3,099 3,669
小    計   60,405 34,453 25,952






用 地 買 収 284.34ha 9,242   9,242
電 気 導 入 3相
L=1,200M低圧架線
1,627   1,627
用 水 施 設 導水管  L=2, 886m
貯水槽1期 住宅3戸配管
2,100   2,100
牧 夫 住 宅 2棟       112u 1,673   1,673
有 線 施 設 有線放送施設2か所 73   73
連 絡 道 路 牧道牛窓間   L=86m 184   184
連絡用自動車 1台 785   785
二 輸 車 1台 93   93
小    計   15,777   15,777







草 地 造 成 17.2ha 3,000 2,100 900
牧    道 500m 2,888 2,021 867
牧 さ く 1,820m 464 324 140
薬 浴 施 設 薬浴槽・体重計 1,221 500 721
小    計   7,573 4,945 2,628






環 境 整 備   456   456
附 属 便 所 1棟 278   278
監視馬用小屋 1棟 156   156
小    計   890   890
合     計 84,645 39,398 45,247

 

 

 このようなことから、町ではこれ以上冬期預託を続けても増加の見込みがないという情勢判断をもって、49年度以降冬期間は全面的に停止することとしたのである。

 この牧場は、市街地から約7キロメートル離れた丘陵地帯で、最も高い地帯からは市街地全景や噴火湾、八雲飛行場などが眼下に広がり、さらに、遠く有珠岳や羊蹄山、駒ヶ岳の諸峰も一望できる。また、緑の草原に放牧されている若牛を眺めながら、のどかな気分に浸れるという牧歌的な風景を生かし、酪農と結びつけた観光地の一つとして着目され、昭和48年からは観光協会の主催により牧場まつりが開催されて、町民の行楽地として定着しつつある。

 こうした半面、牧場の周囲は多くの丘陵地や小山に囲まれ、また、民有畑地も在ることから、毎年9月下旬から11月上旬にかけて北海道特有のくまが出没し、作物が荒らされることが多いうえ、昭和54年には入牧中の預託牛1頭が襲われて死亡するという事故が発生し、猟友会会員の出勤を要請して射殺したのであった。この時期になると牧場職員は日夜くまの警戒に苦労している状態であるが、前記事故の発生以後は預託牛が襲われるという事故はないものの、付近で2頭が射止められている。

 なお、46年7月には町職員房間稔が、放牧中の預託牛を捜索していた際、トラクター事故によって殉職するという痛ましい出来事があった。

 

 第16節 機械化の変遷

 

西洋農機具の導入

 開墾当初に使用された農機具といえば、ささ刈りがま・唐ぐわ・平ぐわ・草かきなどであり、西洋農機具の導入については第1章第2節において若干記載したところであるが、明治11年9月入植間もない徳川家開墾試験場において、開拓使函館支庁七重勧業試験場から派遣された技術員が、耕牛4頭掛けのプラウで荒地約四町歩を耕起したのがこの地方における西洋農機具使用の初めといわれる。これにより開墾試験場では、移住人のうちの独身者や子弟の一部の者を七重勧業試験場に現業生として派遣し、機械類などの取り扱いを実習させたのである。かれらは帰村後、開墾費の援助を受けて大農経営を計画し、鷲の巣(現、立岩)に大農舎を建てて欧米式の農法を試み、サルキプラウ、リーパー、シラスミシン、カルチベーターなどの洋式農具により開墾作業に着手した。結果は十分な成果を得られなかったとはいえ、西洋農機具を導入して農業経営を行ったということは、忘れることのできない画期的な事実であった。

 明治の半ばころから各地で農場経営を行うものが多くなったが、なかでも明治31年(1898)に開設した山崎の石川農場の小作農家では、42年ごろには畜力農機具は再墾プラウ18台、ハロー12台、カルチベーター12台を使用していたという。

 開墾が進み、八雲特産のばれいしょ栽培が盛んになるにしたがって作付面積も拡大され、農機具も次第に研究改良されていった。日露戦争前後からこれまでの平ぐわに代わって、プラウ、ハロー、カルチベーター、播(は)種器などの西洋式農機具が、一般に使用されるようになった。

 また、馬産の奨励にともなって頭数も増加し、馬耕農業が普及するようになり、耕うん技術の発達と運搬能力の増大によって、畜力農機具や馬車・馬そりの台数も著しい増加を示した。

 徳川農場内における大正初期の西洋農機具の普及は次表のとおりであるが、大正3年(1914)には延べ223台、農家1戸当たり1・3台であったものが、8年には延べ430台、1戸当たり2・3台となり、3台一組として計算すると76パーセントの普及率で、当時の3分の2の農家が完全な馬耕農業を営んでいたわけである。

 第一次世界大戦終了後、農産物価格の暴落と、開拓以来続けられた略奪農業による地力の低下によって農家経済は極度に疲弊した。これを立て直すため徳川農場では、農事試験・栽培試験などを行うほか経済試験を開始するなど、積極的な農事奨励に重点をおいて、たい肥増産や畜舎改良に援助を与えた。大正12年(1923)8月には「動力利用供給所」を新設し、農産物の生産量の低下防止と労働能率の向上のため、動力機械農具の利用普及を図り、トラクター、エンジン、スレッシャー、スプリーダー、エンシレージカッター、グラインダー、デスクハローなどの洋式大農具を購入のうえ、その使用方法を研究実習するとともに、ほとんど実費に等しい料金で小作人その他一般農家の依頼に応じて、再墾・脱穀・エンシレージ切り込み、その他の作業を行った。しかし、これらの動力機械農具の利用普及は、必ずしも所期の目的を達するには至らなかったが、エンシレージカッターによる青刈りとうもろこしの切り込み作業は、極めて好成績を示し、その結果サイロを建てるものが増え、酪農の発展を促進するうえで大きな役割を果たした。

 大正12、3年ごろを境に、八雲地方は穀しゅく農業が漸減傾向を示し、乳牛の増加とともに飼料作物や天然草刈地は増大の傾向に転じ、これによる農業経営の省力化と機械化を促進するに至ったのである。

 

 

デスクハローとハロー
  年 次
種 類
大正3年 4年 7年 8年
プ   ラ   ウ 84 116 148 147
ハ   ロ   ー 75 97 129 139
カルチベーター 64 92 134 144
馬     車 50 58 85 91
馬  そ  り 103 118 148 137

(資料 徳川農場発達史)

 

 この時代における西洋農機具や馬車・馬そりの台数をみると次表のとおりであるが、プラウ、ハロー、カルチベーターなどの畜力農具が、前時代に引き続いて一層の普及をみたばかりでなく、生産費節減のための動力機械器具の使用が新たにみられるようになり、プラウ、ハロー、カルチベーターはいずれもこの時代に著しく増加し、大正9年(1920)には延べ435台、農家1戸当たり2・4台であったものが、昭和5年(1930)には延べ551台、1戸当たり2・8台となり、3台一組として計算した場台の畜力農具の普及率は93・3パーセントに達し、おおむね全農家が完全な馬耕農業を営むこととなった。

 馬耕農業の普及とともに馬車や馬そりの台数も増加し、大正9年に馬車96台、馬そり143台であったものが、昭和5年にはそれぞれ152台、203台と増加し、大部分の農家がこれらを所有するに至った。

 しかし最も著しいのは、発動機、脱穀機、エンシレージカッター、ヘーカッターなどの脱穀調整関係の動力農具類で、少数の農家ではあるが漸次普及され、経営の合理化と生産費の節減が図られていった。

 

フォードトラクター(写真1)

 

徳川農場におけるトラクターによる牧草刈り(写真2)

 

 一方、大正の末から昭和にかけて、畜力農業の発達を背景にしながら、昭和6年にぼっ発した日中戦争が長期激化するにつれて農村青壮年層の労働力が払底し、生産力が減少したため、従来の畜耕手刈りの作業体系から次第に各作業部門における機械の改良、技術開発研究の過程を経て、特に戦時下の大農具や機械化導入の奨励により、漸次、動力による作業体系へと移行したのである。

 昭和20年8月有史以来の敗戦に終わった直後のわが国の農業生産は、極度に悪化して食糧難に悩まされつづけた。政府は食糧増産の奨励を重点施策として、国民の食糧確保に努めたのである。

 また、終戦直後製品市場の閉鎖や縮小によって、苦境に立だされた機械工業界は、一時的に農機具製作に進出して急場をしのぎ、企業の安定化を図った。このため、一般機械工業の技術開発と研究が進められるとともに、道の奨励もあって農機具工業は短期間ではあったが異常な発展を遂げることとなったのである。したがって生産性向上のため従来の人力農機具は減少傾向をたどり、これに代えて防除用・収穫用畜力農機具が発達し、動力耕うん機やトラクターの急激な伸びが目立ってきたのである。

 

農機具年次表(資料「徳川農場発達史」)

   年 次
種 類
大正
9年
10年 11年 12年 13年 14年 15年 昭和
2年
3年 5年
プ  ラ  ウ 147 187 200 211 198 194 187 187 188 208
ハ  ロ  ー 144 184 189 176 177 182 174 180 164 169
カルチベーター 144 187 193 181 179 183 176 179 165 174
馬     車 96 116 131 142 141 156 157 165 151 152
馬     橇 143 162 202 219 192 200 204 205 181 203
ト ラ ク タ ー
デスクハロー
播  種  機
モ ー ア ー
スプリーダー
発  動  機
スレッシャー
エンシレーヂカッター
ヘーカッター
脱  穀  機

 

農用機械化の促進

 戦後、農業近代化のための一連の施策のなかで、著しい進展をみせたのは機械化である。

 これは、北海道農業が気象や土壌などに見られる悪条件のなかで、安定した農業経営を行うためには、さきに推奨された有畜化とともに、適期作業の実施という見地から求められた当然の結果であるということができる。

 もっとも当町における農用機械の導入は、耕土改良事業のために昭和26年(1951)の道有トラクターに代表されると思われるが、このころ道をはじめとする上部指導機関では、農業生産のよりいっそうの拡大を図るため、機械化の促進に取り組む姿勢を強めており、昭和28年の「農業機械化促進法」の施行を契機として、一般農家に対する普及浸透を図ったのである。

 さらに、31年度に「農業改良資金助成法」によって資金貸付の道が聞かれてからは、それまで一部の有力な上層農家に限られていた動力機械やトラクターなどが、比較的経済力の弱い一般農家にも容易に導入することができるようになり、機械化の普及は次第に進展していったのである。

 昭和35年(1960)における主要動力農機具普及状況をセンサスによって見れば、上表に示すとおりであるが、当時の専業農家625戸に対する割合からみても、発動機・電動機・動力脱穀機・動力カッターなどが広く普及しつつあることを示しており、酪農を主体とする当町農業の特徴を現し、飼料調整用として必要欠くべからざるものであったのである。

 

主要動力農機具普及台数  (昭35センサス)

区分 動 力
耕耘機
農 用
トラク
ター
発動機 電動機 動 力
脱穀機
動 力
籾摺機
動 力
噴霧機
動 力
散粉機
動 力
カッタ
動 力
揚水機
農用ト
ラック
オート
三輪
個人有 15 405 116 297 22 421 26
共有 40 23 12 25

 

 戦後における機械化の特徴は、病害虫防除に対する飛躍的な伸展であり、農薬の種類や生産の増加にともない、あらゆる作物の防除に及んだことである。これには動力噴霧機がなければその効果が果たせなかったのである。このように防除機は、農業生産の安定に重要な役割をもって農業の近代化に深く浸透し、現在における農業技術の進歩の一翼を担ったといえる。

 昭和35年度から3か年にわたって実施された「新農山漁村建設総合対策事業」のなかで、落部村農業協同組合が事業主体となって導入した動力兼用ミスト機19台は、落部地域の農事組合単位に貸し出されて共同利用が図られたことも機械化促進の好例であろう。

 このようにして、35年以降は各種農機具の導入が盛んになり、戦前のいわゆる「畜耕手刈」といった作業体系は再編集約化され、人力および畜力依存から脱却して、逐次動力機械を中心とした作業体系に移行しつつあった。ただこの時点ては、主として病害虫防除用作業機や脱穀調整過程の動力化、畑作畜産用収穫調整用など、生産力を増大させるための農機具に限られている段階にすぎなかった。なお、こうした動力機械化進行の背景には、農家個々の資本力が高まりつつあったことはもちろんであるが、農業改良資金制度の創設によって資金融通の道が聞かれたことが大きな要因となっていた。

 しかし、一方では、農業における労働力の減少が年ごとに進行する傾向を示しており、その半面では、地力の減退にともなう耕土改良、肥料投与の増加、適格な防除対策など、高度な生産性を維持するために大きな労働力が要求されるという事態に当面し、いきおい集約的な農業経営が期待され、作業体系の変革を求められるに至ったのである。

 

営農機械所有状況(農業基本調査結果表)  昭38

区 分 動 力 耕 耘 機 農 用 ト ラ ク タ ー
駆 動 型 けい引型 所有戸数と
台   数
30馬力未満 30馬力以上
農家数 台数 農家数 台数 農家数 台数 農家数 台数 農家数 台数
個人有 60 61 12 12
共 有

 

動力耕耘機所有の推移(農業基本調査結果表)

区分 ト  ラ  ク  タ  ー 動  力  耕  耘  機
年度 個 人 共 有 個 人 共 有
37




14

10

72

72



77

74
40 33 34 117 25 150 59 81 82 81 82
43 179 192 266 49 448 241 10 11 10 11
46 208 249 214 59 422 308 37 38 42 41
49 313 419 76 15 389 434

 

 

 こうした情勢を背景とする昭和38年における当町の各種営農機械の所有状況は上表のとおりで、動力耕うん機の普及は、落部・野田追両河川水系の水田地帯に多く見られたものの、農用トラクターについてはようやく萌(ほう)芽期を迎えたという程度にすぎなかった。

 

トラクターによるデントコーンの切り込み(写真3)

 

(1)農業構造改善事業による導入された農用機械

  区分
年度
事  業  主  体 事  業  量 事 業 費
本 機 作業機
39 中央トラクター利用組合
セット
16
千円
5,227
河北     〃 45 20,882
落部     〃 3,053
40 中央     〃 16 7,997
河北     〃 2,023
落部     〃 10 4,663
41 育成牧場 14 6,768
42 春日第1,2,3利用組合 32 13,674
43 春日第1,3   〃 15 10,881
44 春日第1,2,3 〃 10 6,145
  25 170 81,313

 

(2)振興山村農林漁業特別開発事業により導入された農用機械

 区分
年度
事  業  主  体 事  業  量 事 業 費
本 機 作業機
47 上八雲トラクター利用組合
 

千円
1,550
大木平    〃 3,800
熱田     〃 10 5,260
47 
〜49
山崎第1   〃 10 4,485
山崎第2   〃   3,115
48 上八雲第2  〃   1,760
浜松     〃 10 5,975
入沢第1   〃 2,815
49 東野     〃 3,205
柏木第1   〃 5,220
山越     〃 4,350
桜野     〃 4,915
入沢第2   〃 3,025
柏木第2   〃   5,771
  10 64 55,246

 

 しかし、翌39年度から実施した農業構造改善事業によって、25台のトラクターと付属作業機170台を導入し、農業機械利用集団であるトラクター利用組合を関係地区に結成して機械化作業体系を確立したのをはじめとし、47年度からの振興山村農林漁業特別開発事業のなかで、経営近代化施設として10台のトラクターと付属作業機64台を導入し、同様に作業体系を確立した。

 

(3)各種事業により導入された農用機械

 区分
年次
事   業   名 事  業  量 事 業 費 事業主体又は
利用組合数
本 機 作業機
39〜41 緊急飼料作物増産対策事業
セット
千円
9,337
八雲町農協
41 甜菜栽培用機械導入事業 6,456 春日外1
42 飼料作物増産対策事業 7,102 八雲町農協
43 地域特産農業推進事業 2,885 熱田
44 てん菜生産強化緊急対策事業 2,430 上八雲外1
47〜48 飼料作物生産合理化事業 14 22,435 熱田外2
50〜51 緊急粗飼料増産総合対策事業 12 78 108,996 山崎外11
52〜53 酪農近代化団地育成事業 31 137 268,864 上八雲外2

 

 またこのほか、各種増産対策によるもの、すなわち、飼料作物増産対策で23台、甜菜生産強化対策で3台、畑作営農機械促進対策で1台、地域特産農業推進対策で1台、さらに、52年度から実施の酪農近代化団地育成事業で31台のトラクターと、それぞれに付属作業機がセットで導入されるなど、機械化は著しい進展を遂げたのである。もちろん、ほ場整備にともなう動力耕うん機からトラクターヘの移行、酪農経営の合理化・近代化を目指した導入などによる個人有トラクターの増加傾向は、それにも増して強力なものがあり、いまや畜耕手刈りの形態はほとんど姿を消したのである。これらの事業により導入された農用トラクターおよび作業機は前ページ以下の表のとおりである。 このように各種事業により農用機械の導入が進められてきたのであるが、その所有形態は共同・利用組合有からしだいに個入有の増加傾向を示すようになり、昭和57年度における農業基本調査により、当町の農用機械所有農家数と台数を見れば上表のとおりである。

 

農用機械所有農家数および台数

区        分 個 人 所 有 共 同 所 有 利 用 組 合 有
農家数 台数 農家数 台数 農家数 台数
動 力 耕 う ん 機 79 81
農 用 ト ラ ク タ ー 339 575 35 15 137 70
フォレージハーベスター 29 29 65 22 80 26
ヘ イ ベ ー ラ ー 133 134 65 26 28 14
ビートハーベスター
ポテトハーベスター 11 11 13
稲麦用動力刈取機 50 50
コンバイン 自 脱 型 57 59
普 通 型
米 麦 用 乾 燥 機 69 97
動  力  噴  霧  機 145 145 83 25 38 13
動  力  散  粉  機 66 66
動力田植機 歩 行 型 34 36
乗   用 36 36
ミ ル カ ー バケット型 199 371
パイプライン型 86 86
バ ル ク ク ー ラ ー 272 273
農 用 ト ラ ッ ク 320 362

(昭和57年農業基本調査)

 

 第17節 農村電化

 

終戦直後の農村電化

 終戦当時における電化地帯は、市街地とその周辺および既設配電線の布設地に沿った集落に限られ、それから一定の距離を超えた農村地帯には電気が導入されていなかったため、灯油ランプやカーバイトで明かりを取っているにすぎなかった。

 このため八雲町農業会では、昭和21年(1946)8月に近接主要地域に対して負担金工事による電気導入を呼びかけ、いわゆる農村電化事業計画を進め、ようやく関係者の協議が整い、受益者によって組織した農村電化協会が事業主体となって22年2月事業に着手した。しかし、おりからの極端な物資の欠乏により事業は難航し、幾度かざ折の危機に直面したが、そのつど関係者の努力によって切り抜け、6月から7月にかけて逐次工事は完成し、明るい農村生活が営まれるようになったのである。この電化工事は、工事費564万円をかけて大新・立岩・花浦など13地域の434戸に対して1736の電灯をともすとともに、48戸に対し動力用電気を導入したもので、農村電化の第一歩であった。

 また、大新地域では将来を予測して千間道路の未端まで動力用3相線を布設していたので、その奥の開拓地である熊嶺地域において翌23年1月に道から電力抜根機5台を借り受け、工事費15万円をもって約1万2000メートルの配線工事を行い、7月に送電を開始して開墾事業の促進を図ったことは特筆すべきことであった。

 しかし当時の電化事業が、全地域・全農家を対象にしたものではなく、同一地域内であっても、一定の距離を超えると対象から除外されるという制約のあるものであった。しかも、山間辺地への集団入植者が増加するにつれて未点灯戸数も増加したため、時の推移とともに辺地における農村電化の要望が漸次高まってきた。

 このため道は「農山漁村電気導入事業」を起こし、昭和24年(1949)から5か年計画による道費の助成措置をもって、小水力発電などによる電化促進策を講じた。この制度によって、セイヨウベツ(上八雲)の渡辺駒治を代表とする上八雲自家発電組合員81戸が、翌25年に465万余円(うち道費補助約130万円)の工費をもって、出力13キロワットの小水力発電施設建設に着手して26年11月に完成、地域内の家庭に点灯して農村生活に潤いをもたらした。さらに、27年7月には配電区域を8線地区まで拡張したのであった。

 昭和27年12月には、全国的な未点灯農山漁家解消対策として「農山漁村電気導入促進法」が制定され、本格的な法制度として明確化されたのである。この制度に基づき31年5月に八雲町農業協同組合が事業主体となり、鉛川・上鉛川地区と、既設の上八雲地区の自家発電による配電施設を接続し、合わせて160戸に対して共同自家用受電方式による電力供給が行われたのをはじめ、33年には加老地区(春日)の9戸に配電されるなど、徐々に農村の電化が図られたのである。

 

辺地に対する電気導入

 昭和27年(1952)に国は「農山漁村電気導入促進法」を制定し、開拓地および離島に関する電気導入に対して補助する措置をとったのであるが、その他の地域については依然として融資策にとどまるのみであった。しかし、残された未点灯地帯はいわゆる辺地に属し、もはや融資だけで対応できる状況ではなくなっていた。

 このため、さらに電気導入の促進を図る目的をもって、昭和34年(1959)に法律の改正が行われ、既存農漁家に対しても国費補助による措置が拡大されることとなった。こうして、資金的にも電気導入が容易になったことにより、未点灯地域は共同自家用受電あるいは小水力発電などによって導入が図られることになった。

 しかし、当町において共同自家用受電地帯として残る地域は、いわゆる電気供給限界地域といわれる地帯であり、電力会社の既設配電線を延長して行うものであるため、会社の採算ベースなどの厳しい制約もあって、必ずしも容易に導入できるという性質のものではなかった。

 こうした情勢のなかにあって、関係農協の努力により、国・道および町の補助を得ながら逐次辺地に対する電気導入事業が進められた。昭和35年12月多年の懸案であった上の湯地区に共同自家用受電施設ながら30戸に配電し、翌36年12月には上八電・富咲地区の115戸に対する施設改良配電などをはじめ、38年に浜松地区13戸、逆川地区(栄浜)3戸、39年に百万地区(山越)6戸、黒岩三岱地区7戸、桜野地区25戸、落部二股地区8戸、40年に黒岩地区3戸、41年にガンビ岱地区(野田生)5戸などと、相次いで新規導入が図られたが、42、3年に導入した6地区6戸をもって、未点灯世帯はすべて解消されたのである。

 

一般供給電気への切り替え

 共同自家用受電方式によって電気導入は進められたのであるが、その受益者は一般供給地区に比べて電気料金はきわめて高く、そのうえ、施設の維持管理についても責任を負わされ、困難をきたす状況であった。したがってこれらの不利を解消するため、供給方式を一元化して共同自家用受電施設を電力会社に吸収移管し、一般供給電気に切り替える方策が上部機関において検討され、再三再四協議が続けられた。その結果、北海道電力株式会社から「農電組合の老朽化した施設を一般供給地なみに改良すること」を条件として吸収する旨回答が出され、昭和42年度を初年度とする「北海道における共同自家用電気施設の北電移管6か年計画」が実施されることになった。

 こうした制度運用を背景として、昭和42年度に落部御料(上の湯)の10戸をはじめ、43年度に百万・ガンビ岱・黒岩三岱地区など18戸、44年度に鉛川・上八雲の115戸、45年度に春日・桜野の27戸、46年度に浜松の8戸など、相次いで施設改良事業が行われ、それぞれ北電に移管を完了し、全戸の一般供給電気への切り替えが行われたのである。

 

年度別電化工事実施表

区分
年度
地   区 受益戸数 事業主体 事業費 負   担   区   分 備考
国道費 市町村費 受益者負担 北電負担
25 セイヨウベツ 81 渡辺駒治 千円
4,655
1,298   3,357    
27 八     線 渡辺駒治    
35 上  ノ  湯 30 落部村農協 2,523 317    
上  八  雲 115 八雲町農協 11,730 6,720 816 4,194    
38 浜     松 13 1,574 849 293 432    
熊     嶺 18 2,397 1,865 150 391   辺地電気改良事業
39 百     万 1,520 440 820 220 40  
黒     岩 1,388 512 588 258 30  
桜     野 25 5,803 1,832 2,993 918 60  
下  二  股 落部村農協 1,624 726 573 275 50  
40 黒     岩 長万部農協 583 300 141 120 22  
鉛     川 34 八雲町農協 7,698 2,798 2,892 2,008   辺地電気改良事業
41 ガ ン ビ 岱 2,221 500 1,471 250    
42 落 部 御 料 10 落部村農協 185     185   一般供給事業
43 百万・ガンビ岱
黒     岩
18 八雲町農協 2,039 1,230 71 733
44 鉛川・上八雲 119 13,309 6,570 435 非3,120
3,164
20
45 春日・桜野 27 4,489 2,179 1,160 1,150    
46 浜     松 1,428 930 176 320  

 (資料・北海道農山漁村電化のあゆみ)

 年度別電化工事は上表のとおりである。

 

動力電気導入事業

 昭和42年(1967)以降、急激に伸展した乳牛の多頭数飼育にともない、酪農経営の機械化と省力化のため、動力用電気の導入が強く要望されるようになっていた。

 こうした状況を背景として検討を進めつつあった道では、昭和48年(1973)「農漁村動力電気導入事業実施要領」を策定した。これは、農業協同組合および水産業協同組合などが事業主体となって、農山漁村電気導入促進法に基づいて行う農漁村電気導入事業、すなわち三相電気切替事業に対し、国および道が補助金を交付するという制度で、電気を動力源として機械化を図ろうとするものであった。

 当時、酪農を主体とする当町の乳牛飼育頭数は8370頭、飼育戸数432戸で、1戸平均20頭を数える状況であり、これに要する酪農家の労働量は容易ならぬものがあったため、町ではその要望にこたえてこの事業を助成し促進を奨励した。これによって、48年に春日地区26戸を対象とする動力電気導入事業が行われたのをはじめ、49年に八雲地区で178戸、50年に落部地区で28戸と、3か年に総事業費6488万円を投じて232戸(全戸の70パーセント)を対象に実施されたのである。

 この結果、酪農家にバルククーラー(牛乳冷却装置)、ミルカー、バンクリーナーなどの電力機器の導入が促進され、経営の近代化が図られたのである。

 

 第18節 土地改良事業

 

下層土活用の研究

 当町の土質は、遊楽部川・野田追川・その他の流域と鷲の巣(立岩)・ブイタウシナイ(花浦)・山崎の泥炭地を除いては、大部分が火山灰土である。それにもかかわらず、明治11年(1878)に入植のあとしばらくは無肥料で相当量の収穫を上げることができたのは、非常に長い年月を費して蓄積された若干の腐植質土があったためで、その後続けられた略奪的農業経営のために、やがて薄い表土が火山灰と混ざったやせた砂土に変わってしまったのである。

 こうした実態に着目した徳川農場の指導者が、昭和7年(1932)にこの火山灰とその下層土を活用して肥よくな耕土に改良し、生産効果を上げるための研究に着手して、9、10年にわたる深耕試験の結果、相当の成果を上げていた。またこのころ北海道農事試験場においても、山越郡一帯の耕地を地下5尺以上も掘り下げた科学的な実地調査が行われ、八雲の大部分を占めている土層(地表よりA層=15、B層=10、C層=25センチメートル)のABC各層のうち、最も地味の肥よくなのはC層(第3層)であることが確認されたため、第3層破壊工作の研究が続けられたという。

 また、昭和15年(1940)に徳川農場と八雲町農会は、北海道農事試験場の協力を得て砂蘭部と大新高台の二か所にそれぞれ試験畑200坪(1坪=3・3平方メートル)を設置し、スコップで1尺5寸(1尺=30・3センチメートル)の深さに掘り起こし、混層耕を実施して普通耕との比較試験を行った。さらに、この研究には明治製菓株式会社八雲工場でも土壌分析のために実験室を開放し、専門技術者が1年間数10回の分析を続けるなど、全面的な協力によって進められ、この試験結果は農民に対する大きな指標となったのである。

 なお、翌16年には混層プラオとそのけん引動力などについて研究するため、宇部町長を会長とする「八雲耕土改良研究会」を組織し、北海道農事試験場や北海道大学などの指導を得るとともに、町もまたこの研究に対して町費100円を支出し、事業の進展を図ったのである。しかし、当時は戦時体制下にあった関係から、トラクターの燃料入手が困難な状態であり、しかも、畜力による1尺5寸余の混層耕プラオのけん引が不能という事態となって、計画はいちじ中断することとなったのである。

 

土地改良事業の創始

 当町における農地総面積の70パーセントは火山灰地といわれ、しかも、火山灰層は南東に向かうに従がって深くて粗く、北西に向かうに従がい薄く細かくなっており、駒ヶ岳の影響が大きいことを示している。

 また、遊楽部川北側の泥炭地や野田生・大関盆地(上八雲)その他の山ろく地帯では地下水が高く、湿地となって生産性が極めて低くなっているのが常態であった。

 こうした泥炭地帯や湿地帯を改良して農地の生産力を増強するため、前述の耕土改良研究と時期を同じくする昭和9年(1934)、凶作対策事業として野田生の湿地帯約10町歩について助成を得て「暗渠(きょ)排水」事業を実施したのが、土地改良事業の初めといわれている。

 この事業の設計指導は渡島支庁拓殖課が行い、吸水渠は粗朶(そだ)やささの結束を用い、集水渠は函樋、出口に木箱の水門をつけた幼稚なもので、いわゆる「粗朶暗渠」と呼ばれるものであった。

 その後、戦時食糧増産の要請に応じ、昭和16年に砂蘭部農事実行組合を1円とした約35町歩、翌17年には隣接する大新地区に約20町歩を、いずれも初めて排水土管を埋設する暗渠排水事業が実施された。特に砂蘭部地区は、道南における土地改良指導集落の指定を受け、道の指導を直接得て事業を実施したので、その施行方法や効果などについて広く啓発するところが多かったのであるが、残念ながら翌18年には、この地域一帯が飛行場建設のため陸軍に買収されることとなった。

 なお、昭和17年には大関の盆地を中心として、約10町歩に粗朶による暗渠排水工事が道の設計と指導のもとに実施された。しかし、冬期工事のため掘削深度の不足と、付帯明渠排水の道路側溝利用などの不備のため排水不良となり、十分な効果を発揮できないという不満はあったが、個々の農家による自給自足の土地改良事業としては高く評価されるものであった。

 

河北地区の土地改良事業

 昭和18年(1943)には、戦時下における緊急食糧増産対策として「北海道土地改良5か年計画」が立てられ、排水と客土が主要事業として実施されることになった。しかし、太平洋戦争下のため資材や労力の欠乏と、土地改良事業に対する認識の低さも重なって、計画の進展は容易ならぬ困難がともなったが、労働力の補充には小中学校をはじめ高等女学校の生徒に至るまで、体位向上と称して勤労奉仕に動員された。またこの年、暗渠排水に必要な土管製造のため、北海道興農公社の経営による八雲土管工場が新設(相生町)されたことにより、逐次事業が推進されることになった。こうして、当時においては多年の懸案であった鷲の巣(立岩)・ブイタウシナイ(花浦)・山崎の各地区において、およそ1000町歩にわたる泥炭地の土地改良事業が積極的に実施されることになったのである。

 

鷲の巣地区

 鷲の巣地区は、地域の中心を流れているメム川がその上流にある山林の荒廃により、降雨のたびに土砂が流出して河床を高め、出水のつど沿線の農地が冠水して年々被害を増大する状況であった。このため、メム川流域から岡の山一円の改良計画を立てて申請し、道の実地調査によってこれが採択となり、メム川の切替え工事とともに延長2580メートルに及ぶ「鷲の巣第1幹線排水溝」の設計がなされ、国費をもって昭和18年11月に着工、19年3月に完成したのである。

 この幹線排水溝に関連して、明渠排水と暗渠排水工事が地区住民の協力によって順調に実施され、21年までに286町3反歩の改良と、約2000メートルに及ぶ明渠排水工事を完了した。さらに、鷲の巣とブイタウシナイ地区の境界にあたり、岡の山から太平牧場北側を経て遊楽部川に至る「鷲の巣第2幹線」延長2429メートル余が、18年12月から翌19年3月までの冬期間函館土木現業所の直営で実施されたが、これは大部分が町内や地域そして各職場などの勤労動員によって行われた。

 

ブイタウシナイ地区

 ブイタウシナイ地区は、その大部分が八木勘市の所有地であり、小作地として活用する農地以外の不毛の原野を開発するため、昭和16年以来心血を注いで努力していたのであるが、1600メートルの「ブイタウシナイ第1幹線」と、2200メートルの「同第2幹線」の両排水溝が国費をもって施行されると同時に、これに付帯する明渠排水溝1万2000メートルと121町歩の暗渠排水工事に積極的に取り組み、19年までにこれを完了したのである。

 その後、終戦前後の混乱期にあって、この事業はいちじ停止状態となったが、戦後食糧増産緊急対策として再び土地改良事業が推進されることとなり、土地所有者である八木勘市は道ならびに農林省、農林中央金庫などの協力を得て、昭和27年までに全地区426町歩の事業を完了した,さらに同人は、多年の計画であった塵芥集積処理場(鉄筋コンクリート造、472坪)を亀田町に建設し、年間1万数千トンの堆積発酵腐熟の塵芥を同農場に貨車輸送して肥培客土を行ったが、これは、泥炭地開発にとっては特筆すべき事例であろう。

 一方、昭和16年に同地区内の小作者37戸は、地主から小作地の部分的返還要求を受け、その後6か年にわたり小作争議が続けられたが、これが逆に小作者を団結させることとなり、地主への対抗心は一面で小作地にかかる土地改良事業を促進する導火線ともなっていた。

 また、昭和18年秋、ブイタウシナイ川1500メートルの改修工事が全額国費をもって実施され、この流域206町歩にわたる畑地の改良が促進されるとともに、さきに完成をみた第1幹線の効用をよりいっそう高めるため、鉄道を横断して遊楽部川に至る約1100メートルの排水溝が新設され、同地区における土地改良事業の効果は著しく上昇したのである。

 

山崎地区

 山崎地区は、昭和の初期に石川農場が農地を売り渡して自作農を創設した当時、従来の小作人が農地に付随するかんがい用水の権利を得て維持管理にあたったが、一般に排水不良が多く、生産性が極めて低い状況であった。そのため、鷲の巣、ブイタウシナイ地区に次いで昭和19年春から土地改良事業を計画したのであるが、太平洋戦争たけなわの時期でもあり、労力の不足と播種期などの関係もあって、計画はいちじ中止のやむなきに至った。その後、勤労学徒の動員と地域指導者の熟心な提唱によって事業はようやく着手されたものの、おりからの労務需給や食糧事情など、最悪の条件が重なって多くの困難がつきまとった。また、事業の遂行をめぐって地域内指導者間に意見が対立し、再び中止という事態になった。しかし、その後協力関係が調整されて事業は再開され、着手以来5か年間で国費による明渠排水溝3か所2564メートル、改良面積二七六町歩、付帯明渠排水9889メートルを完成し、さらに、農道改修とかんがい溝補修を合わせて行い事業効果を高めたのである。

 

馬そり客土  (写真)

 

耕土改良事業の展開

 戦中および終戦直後における土地改良事業は、排水・客土・かんがいを三大事業として進められてぎたのであるが、戦後、引揚者や復員者による人口急増と食糧難解決のための「緊急開拓実施要領」策定とともに、昭和22年度(1947)を最終年次とした「北海道土地改良5ヶ年計画」の継続として「酸性土壌改良」を加え、道は23年度から単独事業として、低位経済農家に対する石灰購入費に対して助成の道を開きその促進を図った。

 当町における農耕地の大部分は、開拓以来の農耕に加え、硫安・過燐酸石灰および硫酸加里など酸性肥料の連用によって耕地の酸性化が進み、地力は減退する一方であったため、食糧増産に応ずるためにはこの酸性土壌改良事業の実施は緊急を要するものであった。このため町は、「堆肥盤設置奨励規則」を定めて有機質肥料の増産を奨励するとともに、「耕土改良事業奨励規則」を定めて昭和26年度から酸性土壌矯正事業を奨励したが、特に27年の「耕土培養法」の公布とあいまってさらに奨励され、32年度までの継続実施をもって地力の増進対策が講じられたのである。

 また、北海道の農耕地は全道的に火山性土・重粘土などの特殊土壌地帯が多く、農業の安定振興を阻害する大きな要因となっている実状に着目した道は、これを心土耕・混層耕によって耕土改良を図ることとし、26年度を初年度とする「第一次耕土改良7か年計画」を立て、トラクターおよび付属農機具などを国費と道費をもって購入し、これを土産連を通じて単協に貸し付けるという方式の事業を実施して推進を図った。この制度に基づき、心土耕・混層耕による耕土改良事業を促進するため、昭和26年10月に八雲町長業協同組合は、地区土産連を経て小松D30型トラクター一台、さらに、28年5月に同50型トラクター一台の貸付を受けたほか、29年(単年度)には特にケース53馬力トラクター一台の貸付を受けるなど積極的に取り組んだが、これと並行して事業主体である同農協では特にドイツ製混層耕プラオを購入して、作業効率の向上を図った。また、この耕土改良事業に対する負担を軽減するため、農林漁業資金(利率年5分・1年据置・5年償還)が融資されるなど、資金面における手当ても講じられていた。

 しかし、残念ながら第一次耕土改良事業に関する史料はまれに散見される程度で、その事業量も明確に知ることはできない。道においても事業の実施経過については、綿密な追跡調査を行ってその好成績が確認されていたうえ、おりから襲った31年の大冷害においても、これら耕土改良実施地区における被害程度が、未実施地区よりは比較的に低いということが実証された。このため、耕土改良事業の必要性が再認識され、道は32年に改めて「第二次耕土改良7か年計画」を立てて、国有機械の導入を図りつつこれを継続実施したのである。

 

心土耕・混層耕実施状況調

  年度
区分
32 33 34 35 36 37 38 39 41
戸 数(戸) 78 60 50 39 53 23 33 15
面 積(ha) 76 63 46 37 46 22 27 11
事業費(千円) 221 123 93 73 93 45 54 23

 

 当町における耕土改良事業のうち、心土耕・混層耕の32年度以降の実績は上表のとおりであるが、このほかに小団地開発事業として、立岩と上八雲地区で馬そり客土が実施されたり増反開墾促進事業として浜松地区で全額道費による客土事業が行われるなど、事業は着実に推進された。

 

農業基盤整備などを軸とする土地改良

 昭和30年代における農政の方向は、食糧増産第一主義から農工間の所得格差の是正と、生産性向上のための農業生産基盤の強化に向けられた。こうしたことにより、昭和35年度から37年度にかけて実施された「農山漁村建設総合対策事業」の一部として、当町では上八雲と入沢地区において馬そり客土が実施された。なおこのほか、農業協同組合や土地改良区の団体営事業として、それぞれ土地改良事業が実施されていったのである。

 また、昭和39年度から実施された農業構造改善事業のなかでも、経営近代化施設の導入セットとなった土地基盤整備事業として各種の事業が実施されたが、その概要については「農業構造改善事業」の項に記述したとおりである。

 

土壌調査

 昭和39年(1964)7月農林省北海道農業試験場に委託し、当町管内の農耕地と採草放牧地五〇〇〇町歩を対象とする土壌調査が実施された。

 これは、農用地の土性を化学的に分析のうえ、農業技術や土地の耕土改良を理学的に診断しようとするもので、検体を採取して、分析・土性改良・施肥基準の設定を行い、生産性の増大を図るという目的のもとに、三〇〇間方眼に一点の調査点で、計467点の調査坑(縦90センチ×横60センチ×深1メートル)を掘り、地質調査を実施したのである。

 調査内容は外業調査と内業調査に分けられ、外業調査として、

 地形・地質・母材・土性・構造・粗密度・粘性・地表水の有無・地下水の高低・傾斜・侵食・旱害時の土壌の状態などが調査され、内業調査として、

 水分の礫・含量・粘土・コロイド・腐植・全窒素・容量・比重・燐酸吸収力・置換容量・置換性塩基・同石灰・同苦土・塩基飽和度・pH・全酸度の特異酸度などが調査され、この結果を「八雲町土壌地質図」として作成したのである。

 

国営直轄明渠排水事業

 <春日地区> 春日地区は、湿地帯で生産性が低いうえ、毎年河川がはんらんして営農に支障を来していた。このため、昭和39年度と40年度において、国営により大規模土地改良事業の調査が進められた。これにより40年度から44年度にかけて、遊楽部川の支流である音名川・加老川の一部と、この周辺の流域34・47平方キロに及んで直轄事業として明渠排水路が施行された。

 この工事は、総事業費1億9554万6000円をもって、第一幹線排水路3929メートル、落差工17か所、護岸4414平方メートル、橋りょう工5か所、合流工4か所、土砂溜工1か所、第二幹線排水路として909メートル、落差工3か所、橋りょうエ1か所となっており、これの完成によって受益面積627ヘクタールの農地の生産性が確保された。

 <北部地区> 山崎・花浦・立岩地区を包含する八雲北部地区は、排水状態が悪いため融雪時や長雨が続くと河川がはんらんし、田畑や牧草地が冠水して農作物に被害をもたらすことがたび重なるという状況であった。

 このため、44年度から国営による大規模土地改良事業の調査が進められ、46年度全体設計がまとまり、47年度から55年度までの9か年計画で、1460ヘクタールに及ぶ受益面積を対象に、直轄明渠排水事業が開始された。

 

北部地区明渠排水事業 写真

 

 この事業は、総事業費5億1500万円で、幹線排水路4系7条(ワシノス・大平・ブイタウシ・花浦・早瀬・宮前・山崎の7幹線、総延長9038メートル)と、橋りよう7か所が整備され、農地の生産性向上が期待されている。

 <中部地区> 大新・熟田・浜松の各地区を包含する八雲中部地区は、古くから開けた酪農地帯であるが、排水系統は自然河川のまま放置されていたため、融雪や大雨による出水時にしばしば決壊やはんらんを起こし、農作物に大きな被害を与えていた。

 このため、昭和46年度から国営による大規模土地改良事業の調査が進められ、49年度から58年度までの10か年計画で、受益面積1215ヘクタールに及ぶ排水網の整備に着手した。

 この事業は、総事業費8億5800万円で、幹線排水路3系4条(大新・ハシノスベツ・熟田・ポン奥津内の4幹線、総延長1万5220メートル)を整備することにより、酪農経営の安定向上に大きく寄与するものと期待されている。

 <上八雲地区> 上八雲地区の排水系統は自然河川のため断面が狭く、また河床も高く、加えて屈曲がはなはだしいため、融雪や大雨による出水時には農作物に被害を受け、さらに地下水の排除が十分でないため営農上大きな支障となっていた。

 このため、49年度から国営による大規模土地改良事業の調査が進められ、53年度から58年度までの6か年計画で、受益面積380ヘクタールに及ぶ排水網整備に着手した。

 

中部地区かんぱい事業  写真

 

 この事業は、総事業費3億1000万円で、幹線排水路2条(大関・二区排水幹線、総延長6600メートル)を整備することにより、経営の安定向上に大きく寄与するものと期待されている。

 

中部地区広域営農団地農道整備事業

 当町の酪農地帯は、内浦湾に注ぐ各河川沿いに発達したが、これらの地帯を縦貫する農道がないため、生産物の集出荷には海岸線を走る国道5号線に2度出なければならず、時間を要するうえ冬期間の除雪にも非常に支障を来していた。

 このため、昭和47年度から北海道が事業主体となり、大新地区を起点として熟田・浜松・山越などを縦貫し、野田生地区の道々桜野野田生停車場線との交差点を終点とする総延長1万3581メートルに及ぶ八雲中部地区の広域農道が着工された。

 事業内容は、幅員7・5メートル、車道幅員5・5メートルの2車線で、56年度までに春日地区の国道277号線との交差点から終点である野田生地区までが開通し、車両の通行が可能になった。

 その後、57年度から舗装工事が進められ、58年度全面完成を目指している。

 なお、この事業に関連して春日地区と大新地区を結ぶ上砂蘭部橋が、47年度に完成した。

 この農道によって利益を受ける面積は、約5600ヘクタール、440戸で、農畜産物の集出荷や大型農業機械の運行などに利便がもたらされ、酪農基盤の整備に大きな役割を果たすものと期待されている。

 

中部地区広域営農団地農道整備事業  写真

 

黒岩地区道営草地開発事業

 近年、乳牛の多頭飼養にともない、個別耕地面積8・5ヘクタールでは、飼料基盤が不足となってきている。このため、黒岩地区の丘陵台地に適地を求め、昭和52年度において道営による草地開発事業の調査が行われ、53年度から58年度までの6か年計画で、154・8ヘクタールに及ぶ草地造成に着手した。

 この事業は、総事業費4億6200万円で、主な内容としては、放牧専用地154・8ヘクタール(うち採草可能放牧地50・8ヘクタール)・道路3路線6330メートル・このほか、電気導入施設・家畜保護施設・牧場用機械・格納舎・特認施設などとなっている。これの完成後は、夏期610頭の乳用育成牛の預託を受け、管理運営は八雲町農協が行うこととなっている。

 なおこの事業は、当初国営大規模草地開発事業として調査を行ったのであるが、土地条件が悪く利用効率が低いため、道営で実施することに変更したものである。

 

道営富咲地区開拓パイロット事業

 この地区は八雲市街地から約20キロの遠隔地にあるが、近年、乳牛の多頭数飼育にともない牧草の不足を来たしていることから、上八雲地区農家の強い要望により、道営による開拓パイロット事業が実施された。

 この事業は、昭和41年度と42年度で調査設計がなされ、43、44年度の2か年で施行された。内容は、総事業費3758万6000円で、牧草地85・1ヘクタール、道路2条3880メートルが造成された。

 

道営トワルベツ地区農道補修事業

 町道トヮルベッ1号線(現、富咲1号線)は、昭和26年度から28年度にかけて北海道が代行開墾建設事業として造成改良したものである。酪農を主体にしたこの地区は、地形が山地のため1戸当たりの耕地も拡大しにくい状態で、牧草の改良が重要となっていた。このため、トラクターの導入が必要であり、共同作業の機械化による営農確立を目指し、近代化、合理化を図るうえで道路の規模構造を改良しなければならなかったのである。こうしたことから道が事業主体となって、44年度から46年度にかけて農道補修事業が実施された。

 この事業は、総事業費4084万7446円で、路盤改良700メートル(幅員5メートル)、橋5か所を整備した。

 

東野地区道営かんがい排水事業

 東野地区は当町における米の主産地であり、野田追川を水源として野田追頭首工から取水し、東野幹線用水路に導入している。しかしこの用水路は、昭和29年(1954)に施行された土水路で漏水が多く、用水不足を来たすうえ維持管理費も増加していた。このため、51年度において道営によるかんがい排水事業の調査が行われ、52年度から56年度までの5か年計画で事業に着手した。

 この事業は、総事業費3億1500万円で、受益面積207ヘクタールを対象に、総延長3985・19メートル(うち不施工区間81メートル)の用水路が改良されることになっている。

 

東野地区過疎基幹農道整備事業

 昭和45年に施行された過疎地域対策緊急措置法により、過疎地域における市町村が管理する基幹的な農道で農林大臣が指定するものの新設または改良であって、その工事を市町村が施行することが財政的、技術的水準からみて、著しく困難または不適当であると認められたものについて北海道が代行して実施することとなった。これによって当町においては、国道を起点としてわらび野小学校に至る町道東野桜野線が指定を受け、48年度から53年度まで、国費・道費それぞれ50パーセントによる総事業費1億1645万円をもって事業が実施された。主な事業内容は、路盤改良6777メートル(幅員6メートル)、橋1か所(10メートル)である。

 

海岸農地保全対策事業

 当町の海岸は低平たん地が多く、漂砂が少ないため高潮による被害は年々激しく、侵食が著しく進む傾向にある。このようなことから背後の農用地を保全するため、農林水産省所管の保全区域において北海道が事業主体となり、次の各地区の農地保全対策事業が実施されている。

○     八雲地区(山崎)

 事業費 9億9050万2000円

 事業量 消波護岸工2305メートル、船掲場5か所100メートル

 事業着手 昭和36年度

花浦地区

 事業費 6億円

 事業量 消波護岸工1340メートル、船掲場3か所60メートル

 事業着手 昭和51年度

野田生地区

 事業費 3億5268万2000円

 事業量 消波護岸工1219メートル、消波堤249メートル、突堤工18基1038メートル、船揚場7か所60メートル

 事業着手 昭和42年度

東野地区

 事業費 3億4085万円

 事業量 消波護岸工1068メートル、突堤工17基861メートル、階段工1か所10メートル、船揚場1か所47メートル

 事業着手 昭和46年度

 

 

 第19節 主要農作物耕作状況の推移

 

耕作状況の概要

 当町における農作物の耕作状況についての推移を見る場合、まず第一に上げられるのは、明治末期から大正中期にかけて盛んに栽培されたでんぷん原料としてのばれいしょであるが、第一次世界大戦の終了後はでんぷん価格の暴落により、いち早く種子ばれいしょへ転換してこれを基幹作目とし、しかも、広くその主産地としての名声を博しつつ伸展してきたことに尽きるといっても過言ではないであろう。そのうえ、この種子ばれいしょへの転換と並行して進められた乳牛の導入、すなわち、酪農業の振興に対応する飼料作物の増加は当然のことであった。

 しかし、昭利12年(1937)にぼっ発した日中戦争が長期化するにつれて強化された生産統制は、国民の食糧作目、軍需、輸出農産物の増産を目的とする計画生産から始められたが、これによりえん麦、亜麻・とうもろこし・飼料作物・菜種などは、作付面積や反収目標まで設定され、一定生産量の確保が計画されるところとなり、従来の作付状況に大きな変化をもたらしたのであった。すなわち、14年には主要作物のすべてが時局作物として指定され、生産確保を要する作物として、軍需農産物・国内自給・必要農産物・輸出農産物・食糧作物・工業原料作物等とされていた。こうして、食糧増産のための緊急対策により、米・麦・ばれいしょなど主要食糧の供出が制度化されて、当町の農作物も多様化し、豆類のほか麦類・あわ・いなきび・ひえ・そばなどの類も多く作付けされたのであった。

 終戦後においても、食糧不足という時代の情勢を反映して供出制度が継続されたため、この傾向はしばらく続いたが、やがて食糧事情が安定してくるにつれて、農作物の作付状況にようやく変化がみられるようになった。すなわち最も大きな変化は、落部川・野田追川両水系に見られた稲作農業への転換があげられ、その成果もまた大きなものがあった。水稲については特に項を改めて掲げるものとし、まず、その他の畑作の推移を追ってみることとする。

 早くから酪農を主体とした農業の確立を目指して振興を図ってきた当町の畑作は、当然のように飼料作物が第1位を占めてきたものの、高度集約酪農事業の最終年次にあたる昭和43年度(1968)でさえ2403ヘクタールで、全体の60パーセント弱にすぎず、豆類・ばれいしょ・えん麦・特用作物などの換金作物が相当面積を占め、依然として酪農畑作型農業の域を脱していなかった。しかし、その後展開された種々の酪農振興対策による乳牛の増殖と専業化が進むにつれ、飼料作物の作付けは年によって差があるものの、およそ連年にわたって増え続け、昭和51年には5379ヘクタールとなり、耕地全体の87パーセントを占めるに至った。

 このようにして当町の農業は、酪農専業あるいは水田専業農家の誕生をみた半面、戦前戦後の主要作物は年々減反傾向を示し、46年には麦類はほとんど消滅してしまい、また36年当時、飼料作物に次いで作付面積の多かった豆頬などは、米国からの大量輸入による国内自給率の低下によって、49年にはわずか54ヘクタールとなり、当時の14パーセントにまで減少したのである。

 さらに、主産地として名を高めてきた種子用ばれいしょは、35年当時の400ヘクタール強を頂点として、以後は次第に減少をたどりはじめ、41年には300ヘクタールを、45年には200ヘクタールを割り、その後も200ヘクタールを前後している状態である。これは、戦後食糧事情の悪かった時期には、主要畑作物のなかで最高の反当カロリー生産量を上げることから著しい増反を示し、府県春作用採種圃産種ばれいしょの供給地として、当町ではこの府県の消費量により作付面積も増加していった。また、35年前後になると栽培技術の向上や病害虫防除の徹底、採種組織の確立などにより反当収量は増加し、府県の需要増に対しては反収増で応ずるという形で作付面積は停滞し、300ヘクタール前後を続け、43年以降は急激な減反を示すのである。こうした傾向は、本州府県における種子用ばれいしょの自給体制が年々確立し、その販路が縮小されつつあるのと、経営の単純化と労働力の減少から栽培面積も減少を示しだしたのである。

 このほか、特記すべきものにてん菜があるが、これもまた項を改めて述べることとし、昭和34年以降、最近20年間における各主要作物の耕作面積は上表のとおりである。

 水 稲 昭和17年(1942)に食糧管理法が制定され、米は政治米価と共済制度による価格保障によって生産者米価は他の畑作物に比較して割高であり、さらに、政府との契約栽培という安全性を備える利点に恵まれ、農家は安心して作付けすることができたため、戦後における水田造成熟は全国的に高まっていった。

 

主要農作物作付面積の推移 
          (単位:ha)

  区分
年度
水   稲 ばれいしょ え ん 麦 豆   類 特用作物 飼料作物 野 菜 類
34 176.4 385.7 318.4 450.1 313.3 2,403.5 126.8
35 232.2 403.8 304.9 294.4 3,026.4 95.4
36 254.0 339.2 390.6 390.0 205.6 2,830.9 78.5
37 372.8 314.3 376.3 446.8 135.3 2,919.3 79.9
38 312.9 294.3 266.4 241.1 106.7 1,936.7 75.9
39 310.4 291.8 270.7 107.7 3,101.7 75.8
40 320.1 301.2 219.9 144.9 133.8 2,805.8 60.7
41 344.4 300.8 185.6 151.7 141.9 3,259.9 64.2
42 411.3 247.8 191.6 136.0 113.8 2,923.5 57.5
43 527.8 258.8 180.1 115.0 94.6 2,873.1 39.9
44 557.1 224.8 186.3 88.6 117.4 3,202.2 53.2
45 447.6 162.9 56.0 73.6 82.2 3,370.3 21.7
46 428.6 192.9 54.3 96.2 74.3 3,544.9 40.4
47 386.8 201.1 37.4 99.1 72.1 3,777.6 38.9
48 393.9 183.3 30.9 60.0 49.6 3,898.1 48.8
49 411.6 181.4 54.1 16.4 4,057.4 58.2
50 434.0 242.0 24.0 115.0 14.0 5,072.0 111.0
51 486.5 195.8 16.7 49.1 15.4 5,379.1 46.4
52 495.2 185.7 15.4 48.2 10.8 4,633.9 44.9
53 488.0 180.1 6.9 44.7 8.3 4,395.1 47.6

(農業基本調査)

 

 

 当町における水田は、戦後間もないころ山崎地区を中心に、全町で約20ヘクタール前後の作付けにすぎなかったのであるが、昭和26年(1951)11月に落部村入沢地区で造田事業が行われ、稲作の有利性が確認されたのを契機として、造田面積は次第に拡大されていった。

 この当時、入沢地区では薄い表土の下が厚い火山灰層であるため、水田造成は不可能であると考えられており、容易に賛成しなかった農民に対し、村長愛山行永をはじめ農民有志加藤義春や佐々木栄盛らが熱心に説得し、「入沢土地改良区」を設立して造田事業の推進に尽くした功労は特筆すべきことである。

 さらに、野田追地区においても伊藤亀三郎らが発起人となり、28年7月から造田事業を開始したが、対岸である野田生地区の梶田久勝や山田初蔵らもこれに呼応して事業に参画し、野田追川左右両岸地帯において「野田生土地改良区」を設立、組織的な造田事業が続けられたのである。

 こうしたことが当町における水田造成のきっかけとなり、以後各地区で造田が進められ、昭和32年の町村合併当時109ヘクタールにすぎなかったものが、44年には557ヘクタールとなり、わずか12年間で5倍以上に増加したのである。しかし、このころから顕著になった米の余剰に対応するための生産調整として、46年度から開始された「稲作転換対策事業」、さらに、51年度から切り替えられた「水田総合対策事業」によって、その作付面積は徐々に減少し、53年には488ヘクタールになっている。

 てん菜 当町におけるてん菜の歴史的背景をみると、明治22年(1889)に札幌製糖株式会社が苗穂に設立された当時、徳川家の家令古田知孝(ママ)が大株主になってこの会社の設立に参加していたことが「北海道農業発達史」に記録されているので、詳細は不明であるがすでにてん菜についての関心が持たれていたものと思われる。しかしこの会社は、不祥事や原料不足、糖価の低下などという悪条件が重たって常に経営は不安定であり、29年に操業を停止し、34年に解散という経過からみて、その実績はみるべきものがなかったのであろう。

 なお、大正末期において立岩で試作されたという記録もあるが、これも詳細については不明である。

 昭和6年(1931)に満洲事変がぼっ発し、軍需が増大するにつれて訪れた好況にともない、昭和10年北海道に製糖工場の建設計画が発表されると、当町を含めた全道18か町村によって活発な工場誘致運動が展開された。その結果、当町への誘致は残念ながら実現しなかったが、11年に磯分内(北糖)、士別(明糖)に製糖工場が建設され、当町には明治製糖株式会社八雲駐在所が設置されて、てん菜が奨励作物として普及されることとなった。

 駐在所が初めて設置された当時は、まき付け、間引き・薬剤散布・収穫という作業体系が、多くの労力を必要としたため農家の不評を買い、駐在員は秋の収穫が終わると翌年春早くから農家を戸別訪問し、三拝九拝して作付けを頼んで歩く状態であったという。

 第二次世界大戦がぼっ発し、製糖資本も再編され、昭和19年には明治製糖株式会社が道内装新工場を統合し、北海道興農工業株式会社(昭和22年、日本製糖株式会社と名称変更)として発足した。そして、乳牛飼育とてん菜を結びつけた保護奨励策が打ち出されたのであるが、道南地方には製糖工場がなかったため、作付面積は依然としてわずかなものであった。

 戦後、連合軍による占頷下の政策の中で、てん菜に対する保護奨励策がいったん打ち切られたうえ、交通の混乱などもあってその生産は減退したが、24年から保護奨励策が再開されるとともに、環境が整うにつれて作付面積・収量ともに次第に上昇する機運をみせはじめた。さらに、27年に砂糖の統制が撤廃され、28年には「甜菜生産振興臨時措置法」が制定されて、最低価格水準が保障されたため、ようやくてん菜生産は興隆の道が開かれたのである。34年には「甘味資源自給計画」が立てられ、伊達の台糖株大会社道南製糖所が操業を開始したことから、道の奨励とあいまって、てん菜の作付けは著しい増加を示したのである。なおこれにより、これまでの日甜株式会社八雲駐在所は台糖株式会社八雲原料事務所と名称が変わった。

 こうした情勢を背景とした当町のてん菜作付状況は、32年の183ヘクタールに対し、3年後の35年には364ヘクタールと2倍の伸び率を示して将来に期待したのであるが、36年以降はおおむね減少傾向をたどりはじめ、50年にはわずか9ヘクタールとなり、53年には4・65ヘクタールと極端に減少したのである。この激しい減少の要因はいろいろ考えられるが、戦中戦後を通じて食糧増産を強制された農民は、食糧事情の好転にともなう主要作物の統制撤廃により、収益性の高い商業的農業生産へと転換し、最低価格水準を保証されているてん菜が、当時としては他の一般作物より優位であり、価格の安定性が魅力となって作付面積は増加していったのである。また、反収においても35年までは上昇をたどっており、他の作物と比べて収益性は有利に展開していた。しかし36年以降の反収は、若干の増減はあるが38年までは下降状態を示す。これは、1戸当たりの耕地面積が少ない当町においては、適切な輸作体系のもとに作付けされず、せいぜい2、3年程度であったため、地力収奪の激しいてん菜は、地力の減耗を促す結果となり、反当収入は価格そのものの低さもあったが、米に比較するとかなりの差があり、米価の上昇や豊作などによって畑地の水田化か促進され、加えて多くの労働力が要求されるてん菜は、次第に減少するという結果になったものと思われる。

 昭和43年(1968)に、大日本製糖(本別)、芝浦製糖(北見)、台糖(伊達)の3工場が合併して北海道糖業株式会社が設立され、当町の事務所は同社道南製糖所八雲原料事務所と名称を変更した。

 昭和32年以降のてん菜作付面積および収量の推移は別表のとおりである。

 

てん菜生産の推移

  区分
年度
作付面積 収   量 反   収 作付戸数 t当原料
価  格
32 ha
183.76
t
3,935.27
t
2,142
565
5,250
33 240.40 5,183.01 2,156 651 5,250
34 333.93 7,233.40 2,166 772 5,250
35 364.12 8,019.26 2,202 748 5,250
36 279.22 4,378.54 1,568 668 5,465
37 205.06 3,934.27 1,919 533 6,015
38 119.46 2,263.01 1,894 392 6,500
39 118.63 2,303.44 1,942 337 7,236
40 158.25 3,860.15 2,439 355 7,217
41 155.19 4,070.94 2,623 343 7,200
42 120.12 4,030.51 3,355 302 7,330
43 101.00 3,121.64 3,091 267 7,500
44 158.25 3,860.15 2,439 355 7,650
45 76.10 2,395.04 3,147 207 7,835
46 79.22 2,578.22 3,255 187 8,068
47 74.42 2,325.29 3,125 155 8,304
48 36.62 1,457.87 3,981 80 8,799
49 15.73 693.74 4,410 32 15,000
50 9.12 297.17 3,258 19 16,000
51 6.38 250.87 3,932 17,000
52 5.02 174.36 3,473 18,120
53 4.65 123.92 2,665 18,470
(北海道糖業KK資料)

 

 

 第20節 農家戸数と経営規模別の推移

 

農家戸数の推移

 一般に農家という場合は、それ相当の規模の農地や家畜を有するものを連想しがちであるが、農業基本調査では、(1)10アール以上耕作するもの、(2)家畜など年間販売額が7万円以上(時代によって金額の変化があった)のものを、農業を営むものの定義に含むことになっており、しかも、以上の条件に該当して他の業種と兼業する場合、農業収入を主とするものは「第一種兼業農家」、その他の収入を主とするものは「第二種兼業農家」と区分されていることを念頭に置かなければ、その実態を知ることはできないので、あえて最初におことわりしておく。

 こうした対象範囲からみた昭和32年(1957)の総農家戸数は1452戸であったが、10年後の42年には975戸で、およそ3分の2に減少し、さらに、10年後の52年には593戸となり、3分の1強に減少するという状況を示している。これを平均的にみれば、年々3パーセントずつ減少したことになる。このような減少の要因はいろいろ挙げられると思うが、終戦直後に緊急開拓者として入植したものや山間辺地の借家が、高度経済成長政策が展開された30年代の後半において、若年層が都市や工業地帯へ流出するという状況から、後継者を失ったばかりでなく、農業経済も厳しい現実に直面して転換を余儀なくされ、35年に策定された「開拓農家離農対策制度」による開拓農家の離農だけにとどまらず、既存農家の離農が続出したことがまず第一に挙げられよう。

 しかし、開拓農家が当時の経営状態からみて早々に離農することは理解できるとしても、これが辺地の既存農家に波及し、さらに、市街地や国道沿線からさほど遠くない農村地帯にも及び、かつての集落が全戸転出となり、無人地帯となったところも数多く現れるなど、当時としては想像もできなかった現象が随所に見られた。36年当時に675戸を数えた専業農家も、10年後の46年には400戸台を割り、昭和56年にはわずかに307戸を数えるのみという現実は、おそらく、だれも予測できなかったことであろう。

 

農家戸数の推移調
       (戸)

  区分
年度
総  数 専 業 一種
兼業
二種
兼業
32 1,452
36 1,364 675 175 514
42 975 528 187 260
43 930 526 176 228
44 916 424 154 338
45 804 409 157 238
46 740 392 128 220
47 673 363 100 210
48 647 331 145 171
49 636 338 130 168
50 620 334 131 155
51 609 342 112 155
52 593 339 105 149
53 580 324 113 143
54 558 314 104 140
55 530 311 103 116
56 512 307 98 107

45,55年:世界農業センサス
50年:農業センサス
その他は農業基本調査による
以下同じ

 こうした農家戸数の推移は上表のとおりである。

 

経営耕地規模別の推移

 

 戦後わが国の農業は、食糧増産を至上命令とする供出時代を経過したが、昭和30年代には戦前の水準まで復活した工業化、そして高度経済成長政策によって迎えた重化学工業時代への移行による過疎・過密現象が、農業経営の上に与えた影響は実に大きなものがあった。

 すなわち、すでに幾度か触れてきたように、農村人口の都市や工業地帯への流出による労働力の減少、農業就業者と他産業就業者との間の所得格差の増大などが、大きな社会問題となったのである。これに対応して既存農家は、農業経営の合理化や機械化を進める一方、離農跡地の取得による経営規模の拡大など、いわゆる経営の近代化を図る必要に迫られたのであった。

 昭和36年(1961)こうした時代を背景として、自立経営農家の育成を目的とした「農業基本法」が制定公布されてから、よりいっそうの経営改善策として、経営規模の拡大に力が注がれ、水田・畑ともに1戸当たりの経営面積が次第に拡大される傾向が現れたのである。また、酪農においても、既に多頭数飼育を目指して経営規模の拡大が図られつつあったが、41年に採用された加工原料乳価に対する不足払制度を契機として、急速な伸展をたどるようになった。

 

経営耕地規模別農家戸数の推移
                           (戸)

 規模別
年度
0.5ha
未満
0.5
1.0
1.0
3.0
3.0
5.0
5.0
7.5
7.5
10.0
10.0
15.0
15.0
20.0
20.0
以上
35 401 89 200 287 314 123 17 1,432
40 335 49 117 217 289 149 36 1,199
42 303 92 162 205 141 61 975
43 238 44 82 115 223 135 86 930
44 260 38 63 87 192 143 107 22 916
45 171 35 74 78 160 144 111 23 804
46 149 35 64 64 138 122 130 26 12 740
47 119 22 57 59 124 112 117 42 21 673
48 106 20 54 68 105 105 119 43 27 647
49 104 24 48 57 99 111 111 56 26 636
50 102 23 46 51 81 118 109 60 30 620
51 97 26 46 47 81 101 110 68 33 609
52 101 22 44 38 75 90 109 75 39 593
53 92 23 47 32 70 87 113 72 44 580
54 77 15 29 20 35 73 92 107 110 558
55 71 22 36 26 58 75 112 68 62 530
56 60 19 33 34 53 71 107 69 66 512

 

 このような状況を軸として、当町における経営規模別農家の推移をみると、昭和35年当時は5〜7・5ヘクタール層が全農家数の22パーセントを占め、また、5ヘクタール以下の層が68パーセント強を占めるという状況で、小規模経営階層が極めて多かった。これに対し、40年以降には7・5ヘクタール以下の層は年々減少の傾向をたどり、逆に10ヘクタール層以上の経営規模をもつ農家が増加している。もともと当町の農業は、一部の水田専業農家を除けば、酪農を主体とする農家が圧倒的に多く、しかも、多頭数飼育の傾向か強まりつつあるなかで、経営規模の拡大が望まれるのは当然であるが、昭和50年代に入り極端に現れた牛乳の需給緩和を反映して、54年末から牛乳の生産調整が行われ、酪農家をはじめとする関係者の模索は当分続きそうである。

 

 第21節 農業振興地域制度とその対応

 

農振地域の指定と整備計画

 昭和30年代後半に展開された高度経済成長政策は、地域の社会構造や経済情勢に著しい変化をもたらした。特に重化学工業の異常ともいえる進展は、農村労働力を吸収して農家戸数を減少させる要因になると同時に、無計画状態ともいえる土地の流動化によって、農地転用が盛んに進められるという傾向がみられるようになっていた。

 このため政府は、昭和44年(1969)7月に「農業振興地域の整備に関する法律」(農振法)を制定公布して、農業振興地域制度を実施した。この制度は、農振法に基づき農業の健全な発展と国土資源の合理的な利用を図るため、知事が農業振興地域(農振地域)の指定や農振地域整備計画の策定に関して必要な「農業振興地域整備基本方針」を定めて農林大臣の承認を受ける。この基本方針に従って指定を受けた市町村長は、一定の要件により「農振地域整備計画」を立て、この整備計画をマスタープランとしてそれぞれの事業ごとに個別の計画が策定され、事業が実施されるというものであった。

 こうした趣旨のもとに、国の農業施策は農振地域整備計画を基本にして、総合的に集中して実施するという総合農政へと転換し、特に国の補助などによる事業のうち、(1)農業生産基盤の整備・開発事業、(2)農業生産近代化施設の整備事業、(3)農地保有の合理化事業、などは原則として農用地区域を対象として実施されるほか、農産物の広域的な流通加工、近代化施設の整備事業、家畜生産に関する事業などは、原則として農振地域を対象に実施されることになったのである。このほか農振地域には、租税特別措置法と地方税法において所得税・法人税・登録免許税および不動産取得税について、それぞれ軽減がとられるなどの便宜が講じられた。

 当町では昭和45年(1970)10月、この農振法による地域指定を受けたことにより、その推進体制として、町・議会・農業委員会・農業協同組合・農業改良普及所・その他農業関係団体等の代表者17名からなる「八雲町農業振興整備促進協議会」を設置した。そして、向こう10年間を想定した農用地利用計画案を策定、「農用地区域」と「市街化区域」の上地利用区分案について一定の期間関係者に縦覧させ、これについて異議のある上地所有者や権判者の申し立てを受けて必要な調整を行う措置をとったのである。

 これは、前述のように農用地区域と指定された場合は制度上の補助や融資が受けられる半面、土地利用の制限を受けるのに対し、たとえ現在水田や畑であったとしても、それが市街化区域に含まれるものである場合には、今後農政上の補助や融資による事業は困難になるという制約がともなうためであった。

 こうして、当町の農振地域整備計画の最終案は、46年3月に町農業振興整備促進協議会の承認をもって「八雲農業振興地域整備計画」として策定されたのである。

 

整備計画の概要

 こうして策定された農振地域整備計画によれば、当町では既に農業構造改善事業・明渠排水事業・草地改良・海岸農地保全対策事業などによって生産基盤が着々整備されつつあるとはいえ、計画策定時の農用地面積は、混木林を含めて6727ヘクタールにすぎない状況にあった。このため、さらに未刊用地や原野の開発を図り、農道網の整備を促進しながら経営の規模を拡大し、経営の安定を図るという効率的な土地利用計画を樹立することを基本的な構想とし、およそ14000余ヘクタールの農用地造成を目標として定めた。

 その後、社会経済情勢の変化に対応し、時宜に即した軽微な変更を進めてきたが、時の推移に応じ町政の方針にも大きな変革を来し、おのずからこの計画の見直しを迫られることとなった。このため、特に知事に申請して昭和49年度に「特別管理地域」としての指定を受け、50年3月に改めて農振地域整備計画を策定したのである。もちろんその後も、必要に応じて随時軽微な変更が加えられて現在に至っている。

 この計画によると、現在農用地である土地であっても、海岸保全地区として整備する地帯、工場立地調査地区(野田生)などの特殊地帯および都市計画により市街化の対象となる区域、あるいは集落区域(黒岩・立岩・上八雲・野田生・落部)内に介在する農用地、温泉観光地として開発を適当と認める地域(上の湯・下の湯)などを適宜除く半面、現状では山林・原野であっても町の開発計画による乳牛飼育目標の12000頭(のちに11200順に変更)を達成するため、河北・上八雲・中央・落部の4地区を設定し、それぞれ所要の畑地や草地資源の開発を計画し、合計12000ヘクタールの農用地確保を目指している。

 また、当町の農業経営は牛乳と水稲を基幹作目とし、ばれいしょ・てん菜・肉牛を補完とする営農体系であることを明示し、したがって、農業経営形態を酪農専業・酪農畑作・水田専業・肉牛畑作の4種に分類したうえ、それぞれに目標とする営農類型を設定、その目標に沿って未刊用地の開発を促進し、農業経営規模の拡大を図るとともに、昭和38年ころから顕著となった離農跡地の分割取得現象を見直し、交換分合による農地の集団化を図ることを提言している。

 こうして、土地基盤整備を前提に大規模な自立経営農家の育成を目指し、併せて農業機械化作業体系を確立して経営の近代化に努めるが、特に酪農専業型の増加によって見込まれる多頭数飼育に対処して、育成牛の共同放牧場、草地の共同利用、飼料収穫量の増加、肥培管理の向上などを図り、適期収穫を期することを目指すものとしていた。

 

  目標営農類型の表

類  型 経営農用地等面積 作  目  構  成 労働力構成 資  本  装  備 目標所得
酪農専業 畑  20・0ha
その他2・0ha
22・0ha
・乳牛
  成 牛30頭
  育成牛
10頭
・牧草畑
17・0ha
デントコーン3・0ha
基幹労働2人
補助労働1人
乳牛舎一棟340u、サイロ三基250m、尿溜一基60m
堆肥場一基120u、格納庫一棟66u、
トラクター50PS1・1/2台、
作業機11・1/2台、(大型1/5)バルククーラー(1000l)一基
千円
5、000
酪 農 畑  15・0ha
その他1・0ha
16・0ha
・乳牛
  成 牛18頭
  
育成牛7頭
・牧草畑
10・5ha
・馬鈴薯0・8ha
てん菜0・5ha
デントコーン3・2ha
基幹労働2
補助労働1人
乳牛舎一棟170u、サイロ二基200m、尿溜一基50m
堆肥場一基100u、格納庫一棟66u、
トラクター50PS1/2台、
作業機15・1/2台、バルククーラー(600l)一基
4、300
水田専業 8・0ha
その他0・5ha
8・5ha
・水 稲7・5ha 基幹労働1人
補助労働1
農舎一棟100u、堆肥舎一基100u、農具庫一棟66u、
トラクター46PS1・1/2台、作業機1/6台、田植機一台、
動力除草機一台、スプレーP1/5、バインダー1/5、
コンバイン1/30
4、300
肉牛畑作 14・0ha
その他16・0ha
30・0ha
・肉 牛100頭
・牧草畑
10・0ha
馬鈴薯1・0ha
・てん菜1・0ha
・その他2・0ha
基幹労働1人
補助労働1人
畜舎一棟500u、尿溜一基140m、堆肥場一基280u、
格納庫一棟66u、トラクター46PS1/5、作業機10・1/5台
4、000
(基礎10頭)
(肥育50頭)
(素牛40頭)

(昭和50年3月八雲農振地整備計画基礎資料

(昭和50年3月八雲数振地域整備計圃基礎資料)

 目標営農類型を示すと次表のとおりである。

 

 第22節 主要農業団体の変遷

 

生産組合の誕生

 明治38年(1905)に鷲の巣(立石)の有志が、山林の部落所有を目的として、産業組合法に基づく「鷲の巣生産組合」の設立認可申請書を道庁に提出したのが始まりである。

 これより先の明治33年、「北海道農業者の設立する産業組合に関する勅令」が公布され、道庁においてもこれを奨励していたときでもあり、鷲の巣生産組合の設立は直ちに認可となった。これにより、組合長小寺殻、理事今村文次郎、専務理事内田文三郎が就任して、農業法人組合として発足したのである。

 この組合は、明治33年に設立した農業組合を解散し、さらに強力なものとして、生産物の販売や食糧の購買事業を行ったのであるが、組合運営の不慣れと未熟なこともあって多額の負債を抱え込み、43年には各役員が負債を分担して解散したのであった。しかし、組合の解散によって農民は急激に不便を感じ、再び組合の設立を望む声が高まったので、大正元年(1912)12月に村長木村定五郎は、改元記念として全村的な組織である生産組合設立の準備を進め、「八雲肥料共同購入組合連合会」の設立へと発展していったのである。

 

八雲肥料共同購入組合連合会

 明治33年(1900)に北海道農会が設立され、明治の末期にはその下部組織はほとんど全道に普及していた。そして、郡農会や町村農会の段階では、早くから肥料の共同購入を行っていたものもあったが、40年に北海道拓殖銀行が新たに肥料資金の貸付業務を開始したことによって、北海道農会における肥料共同購入体制が急速に進展した。

 北海道拓殖銀行の肥料資金貸付条件を要約すれば、()農業者20人以上連帯、()貸付金額は一人平均50円以内、()肥料の購入を農会その他確実な会社に委託して、貸付金はその代金に直接支払うこと、などとしていたが、北海道農会でも「肥料購入仲介内規」を定め、「安価低廉ニシテ品質優良ナル」肥料を供給することに努めたので、この共同購入事業は逐年発展しつつあった。

 こうした情勢のなかから、さらにこれを統一して連合会を組織し、所要の数量を一括して購入することによって安価・良質な肥料が入手できるとして大正元年(1912)12月、村内6部落組合の代表者が役場に集合して創立総会を開催し、改元記念事業として「八雲肥料共同購入組合連合会」を設立した。そして、会則・入礼人心得書・契約書案などを制定して体制を整え、地力の維持と生産の増強に備えたのである。

 こうして、第1回事業として大正2年に6組合284戸で、大豆かす5570枚、過リン酸石灰3690叺(かます)を購入したが、大正5年には16組合1320戸を数え、大豆かす3万4300枚、過リン酸石灰1万5310叺に達するほどであり、この肥料共同購入組合連合会が後に「産業組合」設立の動機ともなったのである。

 また、大正6年には落部村栗ノ木岱に組合員22名をもって「落部肥料共同購入組合」が、同入沢に組合員23名をもって「入沢肥料共同購入組合」がそれぞれ設立された。

 

八雲町農会

 明治33年(1900)2月に農会令が発布され、その年8月八雲村と山越内村の区域を包括する「八雲外一ヵ所村農会」を設立したが、35年に2級町村制が施行されたことにより、38年の通常総会において「八雲村農会」と改称された。そして、農会の目的達成を図るため、区域内に農区を設定(20農区)し、大区に農区長を、小区に組長をおいて組織を整え、農区長は農会の評議員を兼ねて総会の代表者に充てるなど、その円滑な運営を図ることとした。

 農会は、講習・講話会の開催、農具の改良・自給肥料の普及などを当面の事業とし、41年から4年間は養蚕奨励の一助として簡易養蚕伝習所・生繭殺蛹干燥場・模範桑園・繭共同販売所などを設置した。また、37年に最初の農産物品評会を開催し、さらに、42年から大正6年までの間に7回にわたる大規模な共進会を開催した。このほか、肥料の共同購入に対して補助金を交付するなどの事業を行ったが、農区においても立毛および堆肥品評会を開催するなど、農業の振興を図った。

 また農会は、試作兼採種圃を経営するため、大正4年(1915)7月に字サランベノ83番の4(現、末広町213番地辺り)の畑四反四畝二四歩を買収して事業を行ったのであるが、昭和8年(1933)7月農会事務所建築費に充てるためこの土地を売却した。

 農会の設立当初は、毎年度経費の大部分を町費からの補助で賄ったのであるが、大正7年度から会費を反別割として分賦収入方法を定め、畑一反歩につき五厘、牧場一反歩につき一厘の割合で徴収し、次いで会員割も徴収するなど、経済的基盤の拡充を図るとともに、技術員を置いて耕うんや肥培の改善指導に努めた。

 当時八雲は、陸軍糧抹廠札幌派出所のえん麦購買区域に編入され、毎年多量のえん麦を供出したので、主要な夏作物として農家経済にも大きな役割を担ったのであるが、農会はこの契約から下検査や供出など一連の事務に多忙を極め、特に契約を完全に履行して、糧抹廠の購買区域としての責任を果たすための苦労は容易なものではなかったという。

 農会は設立以来役場内に事務所を置いていたが、事業の進展拡充にともない独立した事務所の建築が急務となった。

このため、昭和8年9月に木造2階建て40坪の事務所を新築(現、公民館敷地内)して事業の推進を図った。

 昭和10年前後における農会は、全道的にも充実活動期ともいうべき時期で、その事業も多岐にわたったが、特にこの時期以降は恐慌や凶作の襲来、戦争のぼっ発などのため、農村に対する政策はきめの細かさが求められ、てん菜奨励・病害虫防除・採種圃、苗圃経営・配給改善・各種共励会・自給肥料奨励・農業実行組合奨励・講習講話会・副業奨励・経済更生計画指導・農家簿記指導など、多彩を極めたのであった。

 しかも、12年の日中戦争ぼっ発のあと一連の統制法が公布され、13年末からは農林省によって農業生産の計画化が進められるに及び、農会はその推進機関として重要な役割が課せられたのである。

 なお、中央、地方を問わず、統制の進行にともない、農業の再編成や団体統合の論議が高まり、戦時農業生産の拡充を期する方向に進められたが、昭和19年1月農業団体法によって解散の命令を受け、4月に「八雲町農業会」が発足するまで、一貫して当町の農業発展に寄与したのであった。

 この農会創設当初の会長には杉立正義が選ばれたが、杉立は間もなく郡農会長に当選したため、明治34年4月に補欠選挙を行い大島鍛が就任した。しかし同人は37年4月に辞任したので、村長三井計次郎を名誉会員に推薦したうえ会長に選挙したが、三井村長死亡のあと明治39年12月に同様の方法によって村長木村定五郎が会長に就任し、昭和2年3月まで20年余にわたりその職を務めた。その後、昭和2年4月から7年1月まで徳川農場長大島鍛、7年3月から10年3月まで町長内田文三郎、10年4月から19年3月まで八木勘市がそれぞれ会長を務めた。

 

八雲町信用購買販売利用組合

 明治33年(1900)3月「産業組合法」が制定されたが、これはわが国における協同組合組織の法制として最初のものであり、中小農商工業者が任意に組合を結成して、積極的に共同経済事業を営むことによって経済上の障害を打開し、その地位の向上を図ることを目的としていた。この法律に基づく組合には、信用組合・販売組合・購買組合・利用組合の4種類があり、その組織として、無限責任・有限責任・保証責任の3種が認められ、7名以上の組合員があれば地方長官の許可を受けて組合を設立することができるものとなっていた。

 大正6年(1917)村長で時の農会長であった木村定五郎の提唱によってその年2月「有限責任八雲信用購買組合」を設立し、組合員285名、初代組合長に木村村長が就任、事務所を役場内に置いて、いわゆる産業組合の第一歩を踏み出したのであった。組合の事業目的は、組合員の預貯金の便宜をはかり、資金の貸し付けを行うとともに組合員の営農または生計に必要な物品を購買し販売するほか、加入予約者の貯金を取り扱うことなどであった。

 大正7年5月に事務所を現在の末広町(現、八雲農協所在地)に移転し、この年7月に「生産事業」を追加して「有限責任八雲信用購買生産組合」と改称した。

 同年法律の改正によって、信用組合や生産組合の事業拡張と、市街地信用組合制度が分離されるとともに、農業倉庫法が施行されたことにより、翌8年1月「農業倉庫」の認可をとり、5月大田半三郎、梅村多十郎の両名が共同経営する商業倉庫2棟(れんが造り160坪)と製粉施設か1万5200円で譲り受けて事業を開始した。

 さらに、大正11年(1922)5月には「利用事業」を追加して「八雲信用購買生産利用組合」と改め、9月に事務所を新築した。次いで15年6月、山崎に農業倉庫の支庫を設置するなど拡充の一途をたどり、また、昭和2年「販売事業」を追加して「八雲信用購買販売利用組合」とし、いわゆる産業組合としての全機能を備えた組織に発展した。

 昭和3年6月に組合長木村定五郎が退職し、7月2代組合長に幡野直次が就任したが、木村組合長は組合設立から全機能を備えた組織に発展するまで、幾多の困難を克服し、障害を打開して八雲の産業伸展に尽くした業績は多大であった。

 昭和4年5月、野田生に組合の購買品配給所を設置して野田生地区農民の利便を図り、さらに、翌5年4月には落部村の野田追・市岡・蕨野、二股などの各地域88名を入会(16年3月に脱退)させて事業の拡充を図るなど、生産の拡大増加と販路の開拓、種子用ばれいしょ主産地としての地位確保をはじめ、戦時下における農家経済の安定と、組合財政の健全化に努めたのであった。

 昭和18年(1943)3月戦時体制の強化と、団体統合の機運に即応するため制定された農業団体法によって、翌19年1月解散を命ぜられ、4月「八雲農業会」に改組されたのである。

 

八雲農業倉庫(写真1)

 

八雲産業組合(写真2)

 

 この間、幡野組合長は昭和12年7月に退職、14年4月から16年9月まで八尾吉之助、16年10月から19年4月に八雲町農業会が設立されるまで久保田正秋が組合長を務めた。

 

八雲酪農販売利用組合

 昭和6年(1931)の牛乳騒動、すなわち、乳価の暴落と買入制限の危機に直面した酪農家は、農業者自らの組織によって生産牛乳を処理し、酪農の基盤を強固にするため、翌7年1月「八雲酪農販売利用組合」を設立して組合長には八雲信用購買販売利用組合長の幡野直次が就任した。

 組合の事業は、乳牛の改良・乳質の向上・原料乳の統制、飼料の自給改善などを主とし、乳牛の飼養管理指導・優良種雄牛の輸入・乳質改良会・飼料多収穫品評会・産業視察・集乳施設の整備・サイロの建設奨励・応召家族酪農相談所の設置など、積極的な活動を行った。

 特に系種改善のため昭和11年5月にアメリカのカーネーション牧場から優良種雄牛2頭を輸入したほか、道有貸付種雄牛を導入し、組合直営として普及に努めた。さらに、18年2月には人工授精講習会を主催し、これを実地に行って良好な受胎成績を確認して人工授精への関心を高め、全道に先駆けて年々その施設を整備し、乳牛の増殖改善に努めたのである。

 なお、この組合は設立当初から落部村の野田追・市岡・蕨野・二股・台の上などの各地域を包含していたが、農業団体法により解散命令を受けたことによって、18年12月限りをもって区域変更となり、落部村の組合員は落部村農業会に属するところとなった。

 組合は、事業の拡充につれて昭和11年5月相生町に事務所を新築し、翌年6月に2階会議室を増築するなど体制の整備が図られたが、19年4月農業会の設立によって解散するまで幡野組合長が在職し、組合の目的遂行にあたったのである。

 

八雲町農業会

 昭和12年(1937)にぼっ発した日中戦争は、これまでの農業形態を一変させ、戦争完遂のため農業における供出・配給・生産・労働力など、全般にわたって統制が強化された。そして、その実践のため18年3月31目「農業団体法」が公布されたのをはじめ、「農業団体施行令」やこれに関連する各種規則が公布され、9月から施行されたのである。これは、既成の農業団体を解散して、決戦下の農業国策遂行のため、農業会に統一しようとするものであった。

 昭和19年1月1日付で北海道庁長官から八雲町農会・八雲信用購買販売利用組合・八雲酪農販売利用組合の3団体に対し、「農業団体法第八十八条ノ規定ニ依り其ノ法人ニ対シ解散ヲ命ズ」との指令が発せられ、各受命法人からは指定の期日までに、財産目録・貸借対照表・組織者名簿などを道庁に提出することが指示された。

 一方、同日付で「八雲町長業会」設立委員に、八木勘市・久保田正秋・幡野直次・川口良昌・林常則・三沢正男・宇部貞太郎の7名が道庁長官から指名されたので、これら設立委員によって準備が進められた。こうして、会則・議事細則その他の農業会設立に関する案件の準備が順調に進められたが、役員人事は最後まで難航し、ついに結論をみないまま3月29日に設立総会が開催された。

 このため、役員人事は各実行組合長を委員として選考することにしたのであるが、これも結論を出せず「会長及副会長ノ推薦ハ道庁長官ニ一任シ、理事監事ハ会長ト旧三団体長ニ一任スル」という報告になり、賛否両論に分かれて紛糾したのであるが、結局選考委員の報告のとおり決定し、当日道庁長官代理として出席していた野口農政課長から、会長に宇部貞太郎、副会長に幡野直次・久保田正秋、顧問に八木勘市がそれぞれ推せんされて総会は閉会した。

 

八雲町農業会(写真1)

 

 4月1日付で八雲町農業会の設立認可と宇部会長の道庁発令があったことにより、会長と旧三団体長の四者による協議の結果、理事に渡辺駒治・河原寿太郎・斉藤憲彰・太田孝正・星川幸吉、監事に林 常則・柴崎義雄・三沢正男を選任し、4月6日に設立登記を完了した。

 こうして農業会は、農業に関する国策に即応して従来の三団体の事業を統合し、運営の合理化を図りつつ戦時下における悪条件のなかで、生産の維持・供出の推進・貯蓄の増強・遺家族の援護などに努めたのであるが、特に酪農の八雲としては、育児用粉乳とカゼイン生産の緊急性にともなう牛乳の割当生産や、ばれいしょその他食糧農作物の供出など、多くの難事を抱えたのであるが、官民一致協力してよくこれに対処した。

 昭和21年(1946)2月に宇部会長が辞任し、同年3月13日副会長幡野直次が二代会長に就任したが、翌22年11月農業協同組合法とともに公布された「農業協同組合法の制定にともなう農業団体の整理などに関する法律」によって農業団体法は廃止され、この法律施行の日(同年12月15日)から数えて八か月以内に解散されることになっていたが、事実上「八雲町農業協同組合」の設立により、これに事務の一切を引き継ぎ解散したのである。

 

八雲町農業協同組合

 戦後、連合軍指令のもとに行われた民主的な諸制度の改革のなかで、昭和22年(1947)に施行された農業協同組合法に対応した関係農民は、翌23年1月に新協同組合設立の動きを起こし、設立発起人横井司馬ほか72名による設立準備会を開催、定款作成委員を挙げて起草を進めるなど、準備は順調に進み、翌2月8日に「八雲町農業協同組合」創立総会を開催するに至った。総会においては、定款の承認や役員選挙など所要の手続きを経て3月3日に知事の設立認可を得た。そして3月29日設立登記を完了し、いよいよ民主的な協同組合として発足したのである。設立当時の組合員は859名で、理事は久保田正秋以下17名、監事は太田孝正以下3名で、初代組合長には理事の互選によって幡野直次が就任した。

 こうして設立した協同組合は、終戦直後の食糧危機や思想混乱などの時代を背景としながらも、役職員や組合員の強力な団結のもとに、所期の目的に向けて各種の事業を推進したのである。特に、昭和25年5月空飛ぶ精液として注目を浴びた、アメリカからの乳牛精液の輸入による優良乳牛の生産に取り組んだのをはじめ、27年には道有トラクター4台の貸付を受けて、心土耕、混層耕による耕土改良事業を開始、さらに、ブルドーザー1台を導入して団地整理などを行ったことは、設立初期の事業として画期的なものであった。

 昭和30年(1955)4月に幡野組合長が辞任し、翌5月に久保田正秋が組合長に就任した。ちょうどこのころ、高度集約酪農地域指定に関連して、牛乳の一元集荷問題の解決が急務とされていたときであり、明治乳業への出荷者との精力的な折衝が続けられるなど、難問題もあったのであるが、31年9月には指定を受けることとなったのである。しかも、高度集約酪農地域建設事業には積極的に取り組み、当町酪農発展の強力な推進母体となることはもちろん、33年から実施の「農業生産拡充五か年計画」を樹立して、生産販売額倍増計画の推進に努めたのである。さらに、この生産拡充計画は第二次・第三次へと引き継がれ、組織を挙げて八雲町農業進展の原動力となってきた。

 そのほか、農業発展の母体として尽くした事業は数知れないものがあるが、昭和35年度から三か年で実施された「新農山漁村建設総合対策事業」による36年度の有線放送施設の開設、また、39年度からの「農業構造改善事業」、40年以降の「団体営草地改良事業」、「団体営客土事業」、「団体営暗渠排水事業」などの土地基盤整備事業、さらに、48年度からの「農漁村動力電気導入事業」、「各期送集乳路線除雪対策事業」、あるいは、51年度からの「酪農地域総合対策モデル事業」による経営近代化施設整備事業など、時代の推移に対応しつつ、地域農業振興のための各種事業を実施してきたのである。

 昭和53年(1978)には「農業振興五か年計画」を策定し、目標年次である57年度の生産額を、農産物で4億7000万円、畜産物で48億1000万円と設定し、一戸平均1781万余円を長期目標として各種の事業を推進することとしており、その実現に期待が寄せられている。

 この間、大正11年(1922)に建てられた事務所や購買店舗は組合事業の伸展によって狭くなるとともに老朽化したため、昭和42年(1967)11月に事務所と店舗を新築した。さらに、45年6月には在来の八雲駅前倉庫を改築して、いわゆる「農協第二スーパー」を設置するなど、業務の範囲・規模ともに拡張の一途をたどった。また、各種共済事業・営農指導事業、そして農業基盤整備事業など、広範な活動によって経営の安定と合理化を図り、そのほか、燃料事業・車両機械事業・搬送事業など多岐にわたって組合事業を運営しつつ、組合本来の事業である信用・販売・購買の各種事業を通じて組合員の農業経営はもちろん、日常生活まで密接不可分の関係に立つに至っている。

 こうして発展を続けた組合は、昭和57年(1982)4月現在で、正組合員673名・4団体、準組合員159名・16団体を数え、職員数99人を擁する大組織となった。

 2代組合長久保田正秋は、11か年を務めて41年5月に退任、その後、43年12月まで太田正治、51年5月まで高木万寿夫、57年4月まで三沢道男が務め、現組合長は6代渡辺好男である。

 

八雲町農業協同組合(写真1)

 

落部村農会から協同組合まで

 落部村における農業団体のはじまりは、明治33年(1900)9月24日農会令によって、組合員350名をもって設立された「落部村農会」とみられ、事務所は落部村戸長役場に置かれた。

 一方、大正3年(1914)3月に落部住民の金融機関として「勤行会」が設立されていたのであるが、その後、農民有志から産業団体法に基づく認可団体設立の機運が生まれ、大正6年7月に組合員60名、出資一口50円をもって創立総会を開き、資金貸付と預貯金の便宜を図るため、「有限責任落部村信用組合」を設立して8月2日に認可を受けて発足したが、これもまた事務所を村役場内に置いて運営していた。

 しかし時代の要請に応じて、昭和7年(1932)12月にこれまでの信用事業のほか、購買と販売事業を併せて行うこととして「有限責任落部村信用購買販売組合」と改称し、翌8年3月には「有限責任」から「保証責任」に変更して組織を強化したばかりでなく、その年12月には事務所を現在地に新築移転して機能を充実した。さらに、翌9年11月には利用事業の認可を受けて「保証責任落部村信用購買販売利用組合」と改称し、産業組合としての全機能を備えた組織に発展したのである。

 

落部村信用購買販売組合(写真1)

 

 なおこの間には、大正6年(1917)設立の「落部肥料共同購入組合」(22名)と「入沢肥料共同購入組合」(23名)が昭和8年(1933)に発展的解消して前記組合に合併し、また、昭和6年の牛乳騒動に対処して翌7年4月設立の「保証責任落部村酪農販売購買組合」(組合長・奥田耕平)も、昭和10年5月同様に吸収合併するなどの推移を経て、ますます発展を遂げていた。

 時が移り戦局たけなわの昭和18年3月、農業諸団体を統合する農業団体法の公布により、翌19年1月1日付をもって、従来の農会と信用購買販売利用組合は同時に解散を命ぜられ、国策に沿った農業会の設立勧奨に即応して、同年2月1日「落部村農業会」設立の認可を受け、3月24日に設立登記を完了し、組合長に落部村長辻村美矩が就任して戦時下における運営を行ったのである。しかしこの農業会は、後述する農業協同組合の発足をもって必然的に消滅することとなるのである。

 昭和22年(1947)12月施行の農業協同組合法による新協同組合設立の動きが翌23年1月に起こされ、井勘八重次郎以下20名による設立発起人会と設立準備会を経て、3月7日落部小学校において創立総会を開催し、3月25日に認可を受けたあと、4月16日に設立登記を完了した。こうして、いよいよ「落部村農業協同組合」が誕生し、現在における組織の第一歩を踏み出したのである。設立当時の組合員は428名、理事9名、監事3名の構成で、初代組合長には長谷川信義が就任し、職員は14名であった。

 しかし、当時野田追地区の農民は、地理的な交通不便を理由に独自の組合を設立すべく準備を進め、野田追・黒禿・蕨野・下二股・野田追御料地を一円とする「落部村野田追農業協同組合」(組合長・土井裕平)の設立を決めて申請し、23年4月30日に認可を受けて一村二組合制となったが、翌24年7月に経営基盤の強化という観点から両組合によって話し合いがもたれ、落部村農業協同組合に吸収合併という形で統合が実現し、野田追に支所を置くこととして、ようやく現体制の基礎が築かれたのであった。

 こうして強化された組合は、24年9月当時の衣料不足に着目して組合直営の紡毛工場を新設し、ホームスパン生地の製造を開始して一般に喜ばれたものであった。しかし、やがて衣料事情が好転するようになり数年で中止することとなったのであるが、時代の推移をしのばせる異色の事業としてあえてここに特記した。

 戦後、不安定な社会経済情勢のもとにおいて、数次にわたる冷害や風水害の影響を受けて、間もなく組合は多額の負債を生じ、26年に農業協同組合再建整備法の適用を受けることとなった。このため、役員と組合員が積極的に再建計画の策定に参画してその実現を図ったのであるが、28年以降も打ち続く冷害凶作に見舞われるなど経営悪化はさらにつのり、より強力な再建計画をもって臨もうとしたやさきの30年12月、農協精米工場から出火して事務所・店舗・農業倉庫・職員住宅など、6棟743平方メートルを焼失したほか、付近民家にも延焼して開村以来の大火となり、再建途上の組合に大きな衝撃を与えた。

 

落部村農業協同組合(昭和31年建築)(写真1)

 

落部村農業協同組合(昭和54年建築)(写真2)

 

 こうした苦境に立たされた組合ではあったが、関係者の協力によって翌31年9月に事務所を新築するとともに、財政再建にも全力を注いだのである。

 一方、地区内農業は、入沢地区で昭和26年(1951)から、野田追地区で昭和28年から、それぞれ造田事業が進められ、経営形態に大きな変革がもたらされようとしていたおりから、昭和31年9月には落部村も「八雲集約酪農地域」のなかに組み込まれたことによって、組合もまた地域の酪農振興に取り組むこととなった。そして、32年度に国有貸付牛20頭を導入して無牛農家の解消に努め、33年度にはトラクター1セットを導入し、心土耕・混層耕に活用して土地基盤整備事業を実施した。さらに、35年度には農山漁村建設総合対策特別助成事業の枠の中で、動力兼用ミスト機19台を導入するなど、経営基盤の強化拡充に努めた。

 なお、組合経営主体の事業をみると、土地基盤整備事業(圃場整備・反転客土・かんがい排水・暗渠排水)・電気事業・農道整備事業など数多くあり、そのすべてを挙げることはできないが、地域内の動向をみる資料として、組合の販売事業のうえで米の伸び率が最も著しく、品目別では昭和39年に牛乳生産を技いて第1位となり、42年には総額の3分の2強を占めるという状況を示したのである。

 また、組合本来の事業である信用・販売・購買事業のほか、組合員の福祉向上と生活安定のため共済事業として長・短期共済を実施し、41年3月には簡易郵便局法による簡易郵政事務実施の認可を受け、東野の農協野田追支所に「野田追東簡易郵便局」を開設し、地区内組合員の利便を図っている。

 さらに、組合の下部組織として各地域に農事組合(10組合)、同婦人部(9組合)、農協青年部が結成され、生産力の増進と組合員の経済的、社会的地位の向上を図るために積極的な活動が続けられている。

 また、昭和54年10月には、総工費5000万円をもって、鉄筋モルタル2階建て、315平方メートルの事務所を旧事務所の隣接地に新築した。

 歴代組合長は次のとおりである。

1、産業組合時代

 宮川清次郎 自、大6・9〜至、大14・3

 奥田耕平 自、大14・3〜至、昭7・3

 長谷川信義 自、昭7・3〜至、昭19・3

2、農業会時代

 辻村美矩 自、昭19・3〜至、昭20・5

 宇野与三五郎 自、昭20・8〜至、昭21・3

 長谷川信義 自、昭21・4〜至、昭23・8

3、農業協同組合時代

 長谷川信義 自、昭23・4〜至、昭24・4

 須藤秀吉 自、昭24・4〜至、昭28・6

 長谷川信義 自、昭28・6〜至、昭46・5

 伊藤淳一 自、昭46・5〜現在

組合員および職員数

 正組合員 122名

 準組合員 37名

 団体 6

 計 165

 職員数 男 6

 女 6

 計12

 

農協合併問題

 昭和32年(1957)4月1日に八雲町と落部村が合併し、行政区域は八雲町に包含されたのであるが、管轄する農業協同組合の区域は従来どおりであり、当町には一町二組合ということとなった。

 この時点において、八雲農協と落部農協の合併は一応の課題として取り上げられたものの、当分は現状のままということで二組合体制が維持されていた。しかし、その後しばしば問題として提起され、特に43年と47年にはかなり具体的な計画として取り上げられたが、これもまた機が熟さず中断状態となっていたのである。

 一方、北農中央会においては、社会経済情勢の変動にともなう農協情勢や、多様化する組合員の要望に対処する体制づくりを目指し、昭和50年度から「農協合併新三か年計画」を策定し、一町村一単協を目標として合併を図るという機運が醸成されていた。

 こうした、全道的に進められつつある合併機運を背景として、八雲・落部両農協の合併は、再び町農政の重点事項の一つとして取り上げられ、50年2月には道・北農中央会などの指導機関とともに、合併問題懇談会が開催されたのである。その結果、「八雲・落部農協合併推進準備委員会」を結成して積極的に推進することで意見の一致をみた。こうして、50年4月開催の八雲、落部両農協の通常総会において、それぞれ合併推進を図るという決議がなされたのである。したがって、同年7月24日に開かれた第1回委員会では、

1、合併日時は、昭和五一年三月一日とする。

 2、名称は、「八雲町農業協同組合」とする。

 3、事務所は、現八雲農協所在地に置く。

 4、昭和50年12月に合併推進協議会を設ける。

 5、昭和51年1月に合併予備契約調印を行う。

 6、両農協合併総会を経て2月下旬合併認可を申請する。

という基本事項を決定し、さらに、翌51年1月14日に合併予備契約の調印を終え、両農協の臨時総会において承認を待つばかりとなったのである。

 しかし、51年1月23日に開催された八雲農協の臨時総会では「合併は時期尚早であり、現体制の整備が先決」であるとして反対の意見が多く、総会は紛糾した。こうして投票の結果、合併賛成298票、反対266票で、合併に必要な総数の3分の2に達しなかったためこの案は否決とされ、問題は振り出しに戻されたのであった。

 

落部村農業協同組合東野支所(写真1)

 

 

岡山県畜産公社の桜野牧場

 一般にはあまり知られていないが、岡山県と北海道は畜産部門において相互に密接な依存開係にある。つまり、岡山県産の和牛は年間約200頭が道内に移入され、また、道からは乳用種雌牛約1000頭、乳用種雄子牛約1500頭が移出されている状況にあった。

 こうした家畜の交流を背景としながらも、岡山県では大家畜資源が徐々に減少の傾向を示し、しかも、都市化の拡大と工業の集積、新幹線や中国縦貫道路の開通など交通網の整備にともない、民間資本による周辺土地の取得とその開発が進み、畜産用地の確保が著しく困難な状況になっていた。

 このような情勢を打開するため岡山県では、飼料生産の基盤に恵まれ畜産の適地とされる北海道に牧場適地を求め、肉用牛生産牧場建設構想を進めていたが、昭和48年(1973)にこの構想が当町に持ち込まれたのである。そこで町は道と密接な連絡をとりながら、受け入れ要件について岡山県と再三にわたり交渉を続けた結果、桜野地区(旧野田生原)およそ200ヘクタールにこの牧場を受け入れることになったのである。この地区は、昭和初期に60余戸が入植したのであるが、その後離農者が続出して昭和49年にはわずか4戸を残すだけとなった過疎地帯であった。

 こうして、昭和50年に施設の具体的な建設計画が策定されるとともに用地買収が行われ、51年度から牧場建設が進められたのである。

 

岡山県畜産公社北海道桜野牧場(写真1)

 

岡山県畜産公社北海道桜野牧場(写真2)

 

 その事業計画によれば、まず用地141・7ヘクタールを県が買収して、事業主体となる「社団法人岡山県畜産公社」に貸し付け、

 1、和牛の生産 繁殖雌牛(黒毛和種)150頭を基盤として子牛生産を行い、育成または肥育のうえ現地で払い下げるほか岡山県内へ移出する。

 2、優良乳用牛の育成 北海道南部地域の血統優秀な乳用雌子牛を購入し、常時60頭をめどに育成のうえ岡山県へ移出する。

 3、乳用肥育素牛の育成 乳用雄子牛(初生牛)を購入して六か月程度哺育し、育成後、肥育素牛(年間育成頭数800頭)として岡山県へ移出する。

 4、農業後継者研修 大規模経営を志向する岡山県内農業後継者の研修を行う。

 5、その他 良質な乾草の移出・北海道への和牛の供給など北海道との連携地点として活用する。

などであり、昭和51年度からの三か年間で団体営草地開発事業により草地97ヘクタールの造成のほか、牛舎等の関連施設を整備することを計画とする画期的なものであった。

 

八木農場と太平洋農場・同牧場

 本編第1章第3節農場興隆時代の項で述べた久留米殖産組合農場は、明治30年(1897)に開設され、その後岡田農場高橋農場青森信託株式会社と変遷し、昭和16年(1941)に八木勘市に移り、「八木農場」として経営が進められたが、永年にわたる小作争議など種々の曲折があったものの、25年12月までにはすべて解決し、37戸の自作農が創設された。

 青森信託株式会社から買収したこの土地は、その大部分が八木勘市の所有となったのであるが、自作農創設後は泥炭不毛の原野だけが残った。農場主八木はこの原野を開発するため土地改良に心血を注ぎ、国費や道費の導入を図って、明渠排水やごみによる客土とその付帯工事を実施したことについては、先にも若干触れた。

 当時国内は太平洋戦争がたけなわであり、あらゆる産業を動員して軍需生産に拍車をかけ、国民の食糧不足もまた極限状態にあった。こうした状況を背景に農場主八木は、この泥炭地の土地改良を行い、大豆・小豆・ばれいしょ・かぼちゃなどの作付けを行ったのである。しかしこのころは、労働力が払底している時期でもあり、遠く青森・岩手・秋田などの各県から女子労務者を募集し、食糧増産に努めたのであった。

 一方、こうした開発事業を行ううえで多額の資金を要するため、戦後間もなく「八木農業協同組合」を設立し、農林漁業中央金庫から融資を受けて事業を進めた。

 しかし、昭和29年(1954)12月に八木が病没したため、事業の推進に支障を来すこととなって経営は悪化し、これに加えて28、29、31年と続いた風水冷害の影響を受けて事業は進展せず、融資を受けた資金の返済計画も立てられない状況になった。

 このため町は、昭和35年(1960)関係機関団体とともに「山崎・花浦地区開発対策期成会」を組織し、善後策について協議を重ね、国や道に働きかけてその打開策を講ずるとともに、「八木農場開発専門委員会」を設置して各種の調査を行った。

 この間、36年にはカトリック酪農学校の建設とか、藤田観光株式会社の買収計画などがさまざま取りざたされ、道や金融機関など関係者による調査研究と協議が重ねられた結果、37年に藤田観光が買収のうえ開発するという計画が持たれた。そこで町は同社の誘致について積極的な運動を続け、道や道議会にも強く要請したのであった。しかしこの誘致運動も、種々の事情によってついに実を結ばなかったのである。

 39年に至り、太平洋汽船株式会社が同農場所有地の概況を調査し、農地取得のための法人である有限会社太平洋農場と同太平洋牧場(社長・秋山 龍)を設立のうえ、牧畜・牧草生産販売を目的として同地を買収(太平洋農場71万8799平方メートル、太平洋牧場1959万8757平方メートル)し、山崎377番地に本社を置き、40年7月にくわ入れ式を行って新しく発足したのである。

 これにより、当町の長い年月にわたる懸案事項であった八木農場開発問題も、ようやく解決したのであった。

 

第2章 林業

 

 第1節 開拓と森林

 

開拓以前の森林

 「開道以前は本道到る処山林ならざるはなし……(下略)」(開拓使事業報告書)とあるように、北海道の大部分はうっそうたる原始林に覆われていたことは明らかであり、遊楽部連峰をはじめ雄鉾、砂蘭部岳など渡島半島を縦走する山脈を背面とし、噴火湾に面する八雲・落部地方もまた森林資源の豊富な地帯であった。これら豊富な資源も、開拓着手以前はわずかに先住民族の自家用材や燃料として利用されているにすぎなかった。さらに、松前藩が統治するようになってからも、この地方では依然として専業的伐木はみられなかったが、場所請負人が進出して次第に和人の越冬するものも増加し、また、魚かす製造が盛んになるにつれてまきの使用も増えはじめたため、海岸付近の樹木が徐々に伐採される傾向にあったものと思われる。

 

幕府直轄と森林

 幕府がこの地方に直轄の施政を及ばした寛政12年(1800)の暮れ、遊楽部川上流の森林資源に着目した蝦夷地取締役御用掛松平信濃守らは、翌年正月、蝦夷地のことについて総括する任にあった若年寄立花出雲守に対し、その伐採について伺いを出し、2月12日に許可を受けた次のような記録がある。

 「酉正月廿日、出雲守殿江信濃守上(レ)之。二月十二日伺之通承附、御直返上。」

 〔十七〕箱館蝦夷地ニ而取計方品々奉(レ)伺候書付

 (前略)ユウラップ川上材木当用ハ伐出、山荒不(レ)申様心附、(中略)伺之通被(ニ)仰渡(一)奉(ニ)承知(一)候。

 二月十二日 松平信濃守

 (ほか三名略す)

 (前略)

 一、箱館並松前辺材木伐出し手遠ニ而、普請並船打立等差支候儀も御座候。蝦夷地ユウラップ川上材木多場所ニ付、伐出し、箱館江相廻し置候ハバ、夷人ども冬分之稼も有(レ)之候間、是亦山林荒不(レ)申様掟を出し、若木伐出しを相禁候而、抜々伐出し候義取計候ハバ、箱館、松前等不自由之儀も無(レ)之、場所渡世も出来可(レ)仕哉ニ奉(レ)存候。

 (後略)

 申十二月

 松平信濃守

 (ほか三名略す)

 <休明光記付録巻六>

 これによって当地方で本格的な伐木が行われたと思われるのであるが、それに関する伐採の場所、方法、伐採量などを知る手掛かりは全く残されていない。

 寛政12年に幕府が野田追場所までを村並とし、しかも、蝦夷地での和人の居住を許すようになると、人馬の往来も盛んになり、和人の移住もようやくその数を増すようになって木材の需要も自然に増加し、森林の伐採もしきりに行われるようになってきたものと思われる。

 

開拓初期の状況

 しかしこの当時では、伐採量が多くなったとはいいながら、総体的には微々たるもので、明治11年遊楽部原野に旧尾張藩士が入植した当時では、なお原生林が生い茂り、オオカミ、ヒグマなどがひんぱんに出没する状況であった。当時の林相をみると、遊楽部川沿い付近一帯は、ヤチダモ・ドロ・カツラなどの巨木を主林木として、アカダモ・トチ・ハンノキ・ヤナギなどが繁茂し、海岸線に近いさらんべ台地には、カツラ・ナラ・シナ・クリ・セン・カシワ・クルミ・オンコを主とし、山間地近くになるにしたがってトドマツが多く、これにナラ・ヤチダモ・カエデ・ブナ・トチ・ホオなどの混交林が繁茂していたと伝えられている。

 このような所へ入植し、大樹と取り組み開墾をなしとげるということは容易なことではなく、移住した人々がまず第一に手掛けなければならなかったのが伐木で、ことに旧士族たちは、慣れない手にのこ一丁、まさかり一丁を持って立ち向かわなければならなかったのである。そして、これら伐採した木々は、一部自家用材や薪炭用を除いて、多くは開墾の邪魔ものとして連日連夜焼き捨てられたという。

 

明治初期の造林

 この地方ではまだまだ本格的といえる状況ではなかったとしても、次第に各地で開拓が進められ、耕地が拡大するにつれて山地の荒廃が随所に見られるようになったため、山林経営の方法について施策が講じられるようになった。すなわち、明治5年(1872)7月に函館支庁では、各村における家屋建築用材や薪炭材、さらに、売木をそれぞれ無許可で伐採したり、伐採許可前に注文者から手付け金を受け取ることを禁止し、翌6年3月には「山林仮規則」を布達して植樹を奨励するなど、積極的な施策が講じられつつあった。さらに、11年10月には「部分木仕付条例」を函館支庁管内に布達し、植付立木の1割を官の収入とし、9割を人民に付与する規定を設け、有志者に官有山野の借地植樹を奨励するなどの方策も講じた。

 この条例に基づいて山越内村(由追)の湊治兵衛は、明治15年裏山にスギ5000本、ヒノキ3100本の造林を出願し、許可を得て植栽をはじめた。しかし、計画半ばにして治兵衛が病没したため目的を果たせず、これを返地したという事例があるが、これが記録でみられる当地方における山林植栽の初めであろう。

 また、徳川家開墾試験場では入植早々の明治13年、七重勧業試験場にナシ・リンゴ・ブドウ・ウメなどのほかスギ・ヒノキなどの苗木2050本の払い下げを出願し、翌14年にこの払い下げを受けて移住民に植えさせたのをはじめ、連年数千本の苗木を移入して植栽した。これらは、当初良好に成育していたというが、原始林のまま残されていた海岸線の防風林が伐採されてから、塩分を含む強風に災いされ次第に枯れてしまい、昭和の初めころにはついにリンゴも結実しなくなってしまったという。

 このほか、養蚕奨励のための桑苗の栽培も行った。 明治30年(1897)ころ、開墾地事務所内(現、国立療養所八雲病院地内)に屋敷林的ながらカラマツを植え付けたが、これらは八雲地方におけるカラマツ植栽の初めと見られているもので、後年伐採を免れたものを見る限りにおいては、みごとな大木に成長していた。

 明治33年には久留米農場主井上岩記がブイタウシナイ(現、花浦)から鷲の巣(現、立岩)にかけて、カラマツの献木を出願し、35年に成苗3800本を延長3600メートルあまりに植え付けたが、結果は良くなかったという事例もある。

 

徳川家開墾試験場植樹林産一覧表 (徳川農場資料)

  年次
種別
明治12 13 14 15 16 17 18 19 20
果  木
540

1,336

2,877

8,302

8,502

10,460

2,815

2,815

2,815
桑  苗 3,300 4,330 16,306 16,306 16,306 16,306 6,331 6,331 6,331
林  木 2,080 2,380 3,460 4,230 4,230 11,496 1,925 1,925 1,925
みつまた 1,513 520 520 520 520 330 330 330
こ う ぞ 2,900 1,200 1,200 1,200 1,200
木  材 850石000 1,689石110 904石516 595石668 900石000 355石000 400石000 1,064石000
ま  き
170.0
435.0 576.0 596.5 594.5 740.0 650.0 776.0 545.0

 

 当時学校経営の経費ねん出は各村とも非常に苦慮していた。このため学校運営の安定をはかるため明治17年(1884)に八雲小学校では、音名川と砂蘭部川の中間の土地46万余坪を学校林として無償払い下げを受け、伐木植栽の計画を立てて保護管理に当たっていたのであるが、31年この立木を校舎新築の借入金返済の財源にするため売り渡し、そのあと村有小作地に転用して開墾したため、起業するには至らなかったが、こうしたことからこの地区を「学林」と称するようになった。35年5月校舎の西側に防風林としてトドマツ180本のほか、カラマツ・サクラ・ウメなど520本を植え付け、また、40年には遊楽部村有地に、スギ・カラマツ約1000本を児童の手によって植栽しているが、これらは学校における植樹としては古い事例であろう。

 明治44年東宮殿下御来道記念事業として、常丹村有地(現、熱田)にスギ9000本を植栽し、また、八雲・大関・常丹の各小学校にアカマツ・カラマツ・クロマツなどの苗木を交付して校庭内に記念植樹をさせたが、これらのうち、スギ・アカマツは生育が不良で、常丹村有地のスギは大正4年にカラマツと植え替えした。

 

大正年代から終戦期の造林

 大正時代に入ると民間においても漸次植林が行われるようになってきたが、6年(1917)3月に道庁では「樹苗補助規程」を設けて補助金交付の道を開き、植樹を奨励する施策を講じていた。しかし、第一次世界大戦の好況の波に乗って、山林は急激に耕地化される傾向がみられたのに反し、大正9年には世界的な経済恐慌による農家の転出などで、一気に荒廃地が続出し、当町においてもその面積が一二〇〇町歩に及ぶ状況であった。このため道庁においては、同年「荒廃地造林補助規程」を設け、荒廃地一団地一町歩以上の造林、天然造林地五町歩以上の造林に対して相当の補助金を交付することとした。その結果、天然造林のほか、耕作放棄の畑地に植樹するものが増加し、カラマツ・スギなどによる緑化が進められた。しかし、当時の民間造林は、主としてカラマツが大部分で、本道特有の樹種を植栽するものが少なかったため、昭和2年(1927)以降、道庁では「樹苗無償交付」と「特殊樹植造林補助」を実施し、エゾマツ・トドマツ・クルミ・ヤチダモ・ナラ・ヤマナラシ・ホウ・ドロ・イタヤなどのうち一反歩以上(昭和10年以降一町歩以上)の造林者、特に農家に対して苗木を無償交付するとともに、造林費、防火線設置費の補助を行うこととしたので、造林するものも年々増加し、昭和16年には33万6000本の交付を受け、大いに効果を上げた。

 こうした積極的な補助政策により、民有林の造林意欲が助長され、その実績を上げつつあったのであるが、昭和16年に太平洋戦争がぼっ発すると、直接軍需資材をはじめとして、まくら木その他軍需産業関連の木材需要は急増し、これらの資材を供給するため乱伐が続けられ、山林は荒廃の一途をたどり、造林の効果は全く薄らいでしまった。

 

戦後の造林

 戦後農地改革により緊急開拓地として、カラマツ・スギ・トドマツなどの人工造林地や天然林野など一八四八町歩(八雲町)の民有地が買収され、さらに、山林所有者がその所有を制限されることを恐れて、せっかく植林した林地を売却しようとする傾向も現れ、このため、一時的に造林が停滞するという事例も少なくなかった。そのうえ、戦後の復興用資材等の需要がますます増大することに応ずるため、民有林において無計画な伐採が続けられ、しかも、伐採跡地の造林はほとんど行われず、造林未済地は増加する一方であった。そのため、至る所で水害や山崩れが発生する危険な状態となり、国土保全のうえからも憂慮すべき問題となったのである。

 しかし、昭和25年ころからは世情も平静化し、経済事情もようやく好転するようになると、山林資源の重要性が認識され、25年1月には「国土緑化推進委員会」が設置されるなど、郷土緑化のため計画的な造林が実施されるようになった。特にこの年「造林臨時措置法」の公布と、開拓と林業の調整を図るための「北海道緊急造林奨励条例」および「同施行規則」の制定は、民有林の造林奨励に一段と効果を発揮し、カラマツ・スギなどの植栽によって山地の緑地化も図られ、昭和28年ころには戦前をしのぐまでになった。

 なお、昭和32年町村合併当時の民有林は二万三二一三町歩であった。

 

 第2節 町有林と民有林

 

町有林の推移

 落部村においては、明治33年(1900)7月に国有未開地売払許可を受け、入沢に九町歩余を取得した記録があり、八雲村よりは相当以前から村有林としての取得管理が行われていたことを示している。

 続いて35年2月、二級町村制施行による合併前の山越内村が植樹の計画をし、字坊主山(山越)に二〇町歩余の国有地を借り受けた。この国有地は急傾斜地が多かったため、しばらく放棄したままであったが、善良なる財産管理という趣旨から、明治43年これに混種植樹をすることとし、函館営林区署からアカマツ2万5000本の無償下付を受けて植樹したのをはじめ、その後も追加植樹を続けた。これが町有林(山地)の人工植樹の初めといわれ、この土地は大正7年(1918)5月に国有未開地処分法によって無償下付を受けている。

 大正11年11月道庁告示によって、町村の経営に限り用地払い下げの道が開かれたことに対応して、町は同年12月に共同放牧地売払出願の議決を受けて申請し、13年に山崎団地二〇〇町歩あまりの国有未開地の売り払いを受けたのをはじめ、翌14年には八線(現、上八雲)団地六九町歩余と上鉛川(現、鉛川)団地七七町歩余の指定売り払いを受けた。しかし、これらは事実上共同放牧地としての効用を果たさず、立木は主として製炭用原木として処分された。さらに、昭和6年(1931)にも同じく共同放牧地として、大関(現、上八雲)団地九〇町歩余の売り払いを受けたが、これらのすべては21年に目的を変更して「共同薪炭林」として管理されることになった。

 これら共同放牧地=共同薪炭林の大部分はカバを主とし、他はブナ・イタヤ・ミズキなどの二次林で、林相はきわめて貧弱であったが、当時はこれらが町有林の主軸となり、昭和13年に道庁拓殖部の指導のもとに編成された「町有林施業案」の中に組み込まれ、事業が進められつつあったが、戦局が急を告げる段階となって施業は計画どおり進まず、やがて終戦となったのである。

 

戦後の町有林

 昭和25年(1950)から森林施業計画をたて、翌26年字坊主山と山崎の両団地にスギの造林を行ったのをはじめとして、町有林の育成に着手した。さらに29年には、小・中学校児童生徒に愛林思想を普及し、併せてその収益をもって学校営繕費などに充当することを目的とした「学校林造成管理条例」を定め、八雲中学校ほか9校に二十町歩余の学校林を設定した。

 しかし、時代の進展につれて学校ごとの管理は不能であることと、学校営繕費は昔と違って当然町財政全体の中で考慮すべきであり、学校林として特定学校に所属せしめる理由がないという事情から、昭和47年12月に同条例を廃止し、これらのすべてか一般町有休に編入し、一体化した施業計画の中で育林が図られている。

ちなみに、学校林廃止時には14校で43・26ヘクタールであった。

 昭和32年4月町村合併によって落部村有林もこれに包含し、所有面積も拡大されたが、この時点においては旧八雲町の造林地に特に見るべきものがなく、成育林のほとんどが落部村有林に見られたということから推察しても、落部村では相当以前から人工造林に意を用いてきたことがわかる。

 

第1表 町有林の現状(昭和49年現在)
         (単位 ha)

 区分
種類
面 積 内           訳
人 工 林 天 然 林 末立木地
普 通 林 523.04 291.32 222.80 8.92
制 限 林 (90.96) (75.48) (15.48) 42.56
430.88 142.60 245.72
合   計 (90.96) (75.48) (15.48) 51.48
953.92 433.92 468.52

注( )書は森林開発公団による分収造林地

 

 その後町有林の造成事業もようやく軌道に乗り、39年に下二股(現、上の湯)の開拓離農跡地37ヘクタール余を買収、また、40年に開拓離農跡地を買収した大新団地の90ヘクタール余については、特に森林開発公団と分収造林契約を締結し、うち造林可能地81ヘクタール余にはトドマツを早期に植林するなど財産造成に力を注いだ。

 

第1表 合併当時の山林および原野の所有別

  規模別
区分
1反
〜3.0
3.0
5.0
5.0
1町
1.0町
1.5
1.5
2.0
2.0
3.0
3.0
5.0
5.0
10.0
10.0
20.0
20.0
   以上
山林 世帯数 19 15 41 54 67 59 89 164 101 154 763
面 積 42 59 277 1,345 1,569 2,017 2,542 12,527 16,215 195,537 232,130
原野 世帯数 158 104 86 47 53 100 287 437 17 1,294
面 積 331 312 774 456 574 2,170 17,220 36,301 2,210 6,500 66,848

 

第2表 上記専兼別世帯数

  総
専業 第一種兼業 第二種兼業
第一次
産 業
第二次
産 業
第三次
産 業
小 計 第一次
産 業
第二次
産 業
第三次
産 業
小  計
世帯数     737   23 760 763
比 率     0.4% 0.4 96.59   3.01 99.60 100%

 

第3表 所有別・樹種別林野面積および蓄積量

 所有別
樹種別
国  有  林 市 町 村 有 林 部 落 有 林 私  有  林 合     計
面 積
(町)
蓄 積 量
(石)
面積 蓄 積 量 面積 蓄 積 量 面 積 蓄 積 量 面  積 蓄  積  量
とどまつ 405 2,491 111 795 2,257 730 35,468 1,251 41,011
からまつ 440 390 75 8,046 19 1,584 200,602 2,118 209,047
す  ぎ     76 1,245 46 36 572 6,321 694 7,602
ま つ 類 2,112 8,990         74 2,186 8,993
ひのき類             24 8,013 24 8,013
天  然
広 葉 樹
28,510 4,809,960 555 65,640 805 94,480 19,354 2,129,000 49,224 7,099,080
そ の 他 2,231 875             2,231 875
33,698 4,822,706 817 75,726 875 96,782 22,338 2,379,407 57,728 7,374,621

 

 昭和49年度調査の森林施業計画書によると、町有林の総面積が953・92ヘクタールで、うち普通林523・04ヘクタール、制限林430・88ヘクタールとなっており、今後の成育が期待されている。なお、町有林の現況は前ページの表のとおりである。

 また、昭和32年4月落部村と合併時点における山林の状況は前ページ以下の表のとおりである。

 

徳川農場と山林

 明治11年に徳川慶勝が、士族授産の目的をもって開拓使に遊楽部原野150万坪の無代価下げ渡しを願い出、許可を得て徳川家開墾試験場を創設した。そして移住人を募集のうえ開墾事業に着手し、多年保護指導を加えた結果、旧藩士もようやく自作農として独立できるようになり、徳川農場関係の成功地積は、明治43年までに畑・牧場・山林・道路敷地を合わせて二六三二町五反四畝四歩に達した。そのうち九二三町九反四畝二三歩が移住人に分割譲渡されたので、残存地積は一七〇八町五反九畝一一歩となり、畑地は専ら小作人によって耕作された。

 

第1表 造林・伐採の状況

  区 分
種別
造 林 面 積 伐  採  面  積  お  よ  び  石  数  
用 材 林 用  材  林 薪  炭  林
人工造林 天然林 人工造林 天然林 面積 石   数 面積 石   数 面 積 石   数
針葉樹 からまつ
2,690

2,690

 
 
 
     
す  ぎ 236 236 100     100
とどまつ 3,318 3,318 13 1,000     13 1,000
小  計 6,244 6,244 14 1,100     14 1,100
広葉樹 やちだも 10 10
738
50,900
397
88,754 1,135 139,654
小  計 10 10 738 50,900 397 88,754 1,135 139,654
合  計 6,254 6,254 752 52,000 397 88,754 1,149 140,754

※(新町建設計画書による)

 

 開拓当初、開墾地において各種の林木を植樹したことについては、第1節で述べたところであるが、明治21年(1888)官に願い出て大野養蚕所の払い下げを受け、植林を開始したのが農場における山林事業のはじまりである。大野農場の山林は大野村字向野(現、大野農業高校前身地)と文月の両部落に約二二〇町歩、すべて人工造林で、カラマツ・マツ・スギ・ヒノキなどを植え、これらの成育とともに木材の伐採量も年々増加し、特に大正3年以降は欧州大戦の影響による木材価格の高騰によって好況を呈した。こうしたことが刺激になって、大正6年八雲においても原野地を買収し、本格的な山林経営に着手するようになったものと思われる。もちろんこれ以前においても、農場内の急傾斜地や砂れき地などで耕作に適さない土地にカラマツとかスギが植えられていたが、その面積は比較的少なかった。

 大正6年に字遊楽部(現、立岩)において平野幸三郎ほか6名から原野趣六〇四町二反九畝二七歩を買収し、また、翌7年には同地の接続地において神谷信太郎ほか1名から原野趣一一四町九反四畝二七歩を、さらに9年には字砂蘭部において伊藤直太郎と川口良昌から五二町一畝六歩を買収したのをはじめとし、10年には宇遊楽部とトワルベツにおいて大関農場一〇四二町九反一畝二七歩、増田農場七六〇町七反六畝一一歩のほか字妙蘭部において二八町四反八畝一三歩を買収し、13年には野田生川の上流字ガロー沢下(現、桜野)において服部伝次から山林六二四町六反九畝六歩を買収するなど、山林事業を強化するため民有地を買収し、天然更新による造林が計画された。

 こうして買収した農場内の未開地や荒れ地に造林が行われ、昭和6年(1931)には山林面積が二九四四町九反四畝八歩に増大し、農場経営の重点は次第に山林事業に集中されていった。 

 山林収入が増大しはじめたのは大正4年ころからで、全農場収入のウエイトでは大正4年14パーセント、5年28パーセントと増加し、8年47パーセント、ピーク時には12年の62パーセントにも達した。しかも農場収入がつねに増加を示しているにもかかわらず、一方の主要な収入源である小作料は、大正2年から昭和7年まで予算を上回ったことが4度よりなかったというが、これをみても山林収入の果たした役割は大きい。売り上げの内訳をみると、大正7年から13年までは炭材のウエイトが高く、木材売却代の47パーセントから99パーセントを占めていたという。大正14年から昭和5年まではまき材や苗末代が主体をなしていた。特に注目すべきことは、大正7年ごろから人工林材と思われるカラマツ・スギ・ヒノキ・クロマツなどが伐採の中心となっていた。当時の林産収入は別表のとおりであるが、これらが、どのようにして、どこに販売されたかは明らかではないものの、山林経営が本格化してきたことを示している。(「北海道農林研究」第三九号抜粋)

 なお山林事業の本格的な経営によって、苗畑の面積も大正4年には三反歩であったものが、7年には七反歩に拡大され、カラマツやスギのほかにニセアカシヤ・クロマツなどが育成され、苗木の自給を行うほか残りは希望者に売却された。

 大正12年9月関東大震災の発生にともない木材価格が急騰した。こうしたことから場主徳川義親は、山林事業が有望であることを重視し、既存山林以外に新たに他農場の荒廃地を買収し、八雲山林および野田生山林を創設した。そして大正11年以来部分水規程を設け、小作人に奨励して農場内の未開の原野や荒れ地に植林させたので、山林面積は飛躍的に増大した。また、苗畑の面積も山林拡張と植樹熱の高まりによって次第に拡大された。特に大正14年には、それまで八雲地方唯一の苗畑経営者であった八雲農園の解放を機として、一挙に一町五反歩に拡大した。

 

徳川農場林産収入内訳

品   目 大正7年 8  年 10 年 12 年
丸太(本) 2,585 5,712 6,491 178
落 葉 松 9,847 15,886 5,060 4,547
479 2,351 2,792 990
130 212 23
闊 葉 樹 258 131
闊葉樹角材
524

14,296

694

790
シキ
1,518
654 4,680 587
枝及び柴木
5,527
3,192 964 2,425
木   炭
29,417
14,490 18,000 24,000
苗木 カラマツ
531,200
475,000
ス  ギ
50,000

(資料 徳川農場統計一覧)

 

 なお、山林面積の増大にともない、合理的な経営方針を確立するため、昭和2年7月に徳川林政史研究室勤務の林学士と東大教授を招き、その指導監督の下に大野農場山林施業案を調査作成した。また、同年11月には大島徳川農場長の命により、山林係竹内信隣が信州木曽地方の林業視察に派遣され、さらに昭和6年6月には、北大教授によって八雲と野田生の山林視察調査が行われた。

 この時代における農場の林産物販売数量は別表のとおりであるが、昭和年代に入ると販売数量は一般に減少傾向を示すが、これは、関東大震災後の復興資材として、木材の需要が急激に高まり、価格の高騰によって八雲および野田生山林の成木が多く伐採されて残木が少なくなり、その結果、用材や薪炭材の生産が減少したことと、これに加えて昭和恐慌時代と呼ばれる経済界の不況が押し寄せたためである。

 しかし、山林事業そのものは黒字となり、小作地経営よりもはるかに有利なものであったことは否定できなかった。

 こうしたことから徳川農場では、昭和8年以降、経営の重点を山林事業に集中することとし、小作地経営については、これまでの保護主義を廃して漸次解放し、小作人の自作農化を図ることに基本方針を決めた。

 

徳川農場林産物販売実績  (大13〜昭5)

  年次
品種
大正13年 14 15 昭和2年
落 葉 松(本) 4,997 7,412 4,132 4,005 4,398 5,029
11 183 93
4,093 2,475 1,507 1,280 4,713 6,545
19 56 63 57 100
闊 葉 樹 67 10 502 629
同 角 材(石) 218 306 46 78 19 90
薪  (敷) 276 703 801 673 629 445
枝 及 柴木(束) 1,815 1,869 3,645 3,975 4,202 2,963
木   炭(俵) 15,000 10,500 3,570 1,345

 

 昭和8年4月には農場長が大島鍛から久保田正秋に代わり、山林事業の一層の推進が図られ、山林地主としての色彩を強化したのである。

 昭和23年(1948)10月の農地解放後は、徳川家所有の山林(当時2300ヘクタール余)その他一切を譲り受けて「八雲産業株式会社」を設立し、取締役社長村瀬直養、八雲出張所長大島勝世で事業を開始した。

 歴代農場長は、杉立正義・大島鍛・久保田正秋・大島勝世であり、八雲産業鰍ヘ村瀬から渡辺修三を経て徳川義宜へ、八雲出張所長は大島(勝世)から太田正治を経て落合操となっている。

 昭和56年現在2660ヘクタールの山林経営を行い、伐木および植林事業を実施するほか、苗畑2・5ヘクタールを有している。また、大新高台地区において、約50頭の黒毛牛の飼育事業も行っている。

 

民有林の推移

 明治初期における民有林の沿革を詳しく知ることはできないが、明治19年(1886) 「北海道土地払下規則」により未開地を林地として払い下げを受けた者があったので、これが初期に属するものであろうと思われる。

 明治30年(1879)に「北海道国有未開地処分法」が制定されたが、この法律では開墾・牧畜・植樹などを目的とする土地はこれを貸し付けし、起業成功のときは無償で付与することを規定し、また、開墾を目的とする貸付地であっても、そのうち1割は防風林や薪炭林として保有することが認められていた。こうした制度の活用によって、明治30年でわずか一七〇町歩にすぎなかった民有林も、以後は逐次増加していった。なお、明治41年の法政正により山林の売り払いを受けるものが増えたことも、民有林の増加に拍車をかけたのであった。

 もちろんこの間、山林につきものの山火事に見舞われることも多く、民有林の経営は必ずしも順調な経過をたどったとはいえないが、植樹や薪炭を目的とする土地の取得、あるいは、牧場や農耕地の目的で貸し付けを受け、その後起業方法を変更して民有林として経営するものも増え、昭和11年(1936)にはこれらの面積が八雲で二万町歩にも達した。しかし、これらの林相を概括してみると、未立木地が四〇〇〇町歩もあり、人工造林面積はわずかに八五〇町歩にすぎず、その他は天然濶(かつ)葉樹となっていて、蓄積石数は三八五万石と数えられていた。また、これらの所有者は全体の8割が不在地主であり、こうした所有形態が民有林の生産力を低下させる要因となっていた。

 昭和16年以降になると、造材が戦時経済の基本産業として重要な使命を帯びたのであるが、木材需要が急であった

ため乱伐や過伐が避けられず、林地は著しく荒廃するに至ったのである。

 戦後、荒廃した森林を回復させるための各種の施策が講じられるようになるとともに、農家経済の好転によって山林の売買も盛んになり、特に地域有の共同薪炭備林地の設定がみられるようになった。

 昭和22年10月に鷲の巣農事改良実行組合(27年1月愛林農業協同組合となる)が、徳川家から山林三七〇町歩余を取得したのをはじめ、27年には大新農業協同組合が一四二町歩を購入、続いて奥津内・山越愛林農業協同組合が山林を取得して管理するようになり、これらの面積は一〇二〇町歩にも及んだ。また、農家個々の所有山林は、小面積ではあるが一定の財産として所有する傾向が強まり、不在地主の手から在往者の手へと移行した。

 しかし、昭和40年ころから約10年にわたって全国的に起こったいわゆる「土地ブーム」により、上八雲・鉛川・春日・立岩その他町内各所において、開拓離農跡地を含む大地積が不動産業者によって買収され、はなはだしいものは一反歩程度の細切れの小面積に分割し、主として道外在往者を対象に誇大宣伝のうえ売り払われるという状況を招いたのであるが、その移動面積は400ヘクタールとも500ヘクタールともいわれた。こうした時代の流れのなかで、共同薪炭備林地としての目的を失った浜松愛林農協(昭和32・4・18名称変更)や山越愛林農協もまた道外の業者に所有山林を売り渡したのもこのころであった。

 

民有林の現況

 昭和50年(1975)の調査によると、民有林は全町森林面積の42パーセントである2万5627ヘクタールを占め、蓄積量は143万1586立方メートルで、樹種はトドマツ・スギ・カラマツが多い。そしてこれらの林地は1655戸の林家によって所有され、在町所有者1074戸、不在町所有者581戸である。林地の保有規模では0.1〜3.0ヘクタール未満が834戸と52.5パーセントを占め、平均所有面積は6.9ヘクタールと少なく、小規模林家が多いことを示している。

 保有形態別森林面積の内訳は上記のとおりである。

 

 第3節 林産工業の推移

 

林産工業のぼっ興

 開拓の初期においては、伐採木のほとんどが開墾の邪魔ものとして焼き捨てられたのであるが、やがて開拓も進みようやく人びとの生活が落ち着くようになると、利用・販売を目的とする伐木に進展していったのである。こうしたなかにおいて、明治16年(1883)岡野山(現、立岩)で開墾のため伐木作業が移住者の手によって行われ、その作業中に伐木の下になり、移住青年2名(岡野頼隆・海部市松)が犠牲となるという事故も発生した。

 

保有形態別森林面積調   (単位=ha)

    区分
保育形態
立  木  地 無 立 木 地 そ の 他 合  計
人 工 林 天然林 伐採跡地 未立木地
国 有 林 4,410 27,000   1,134 1,670 34,214
町 有 林 448 512   61   1,021


個  人 2,331 8,628 1,005 11 11,978
社寺有林 3,200 8,796   1,633 20 13,649
小  計 5,531 17,424 2,638 31 25,627
合   計 10,389 44,936 3,833 1,701 60,862

(昭和51年刊八雲農業の概要から)

 

 明治24年(1891)徳川家開墾地惣代吉田知一は、入植者の冬期副業奨励のため、砂蘭部川・音名川・鉛川各流域のドロの木の払い下げを受けたが、これを大新の入植者竹内義二が遊楽部橋のかたわらにマッチ軸木製造工場を造り製品化し、翌25年に20万束の生産を上げ、函館港から大阪と神戸地方に出荷した。また、このころは各地でマッチ軸木の製造が盛んであったので、ドロの木の原木移出も行われたが、まもなく経済の変動と銀貨の暴落に加え日清戦争の影響を受けて振るわず、休廃業のやむなきに至った。

 明治29年ころには国交の回復にともない清国向け杭木の需要が増加し、ヤチダモ・セン・ナラ・シコロなどの伐木が盛んになり、これらは仲買人の手を経て輸出されたが、さらに内外の需要増加により伐木事業は年を追って活発となった。そして37、38年の日露戦争後には、各種の事業が興隆したことによって需要が増大したのであるが、次第に乱伐の傾向さえみられるようになったのである。

 こうした動向に対応して木工場が出現したのもこのころで、明治41年(1908)には重松喜一郎が鉛川で木管・げた工場を興したのをはじめ、44年11月には函館の藤沢藤太郎が、大沼にあった50馬力の蒸気機関を持ってきて製材を始め、その後、大正5年には川口良昌・岡野隆麿の両名が、市街地に「八雲木工場」を設けて建築材や箱材を製造した。(この八雲木工場は、その後種々の曲折を経て熱田国四郎の経営に移り、昭和17、8年ころまで続けられた。現イワイ建設付近)

 またこの年、渡辺駒治がセイョウベツ(現、上八雲)で水車による木工場を興してでんぷん箱の製造を行い、のちに水力タービンを大型化して建築材やまくら木の製造を行った。

 大正年代に入ると木材価格は暴騰し、徳川農場においては農場での不安定期に直面したこともあって、木材好況期を契機として山林経営へと転換していった。大正年代における農場の林産収入は次表のとおりであるが、農場全体の収入における山林収入のウエイトは極めて高いものであった。

 大正13年(1924)12月に天羽製材所ができ、15年7月電気機具によって製材を行ったが、昭和7年にこれを吉田三四郎に譲った。そのほかに藤田・浅利などの製材所もでき、昭和2年には冬野製材所が操業するなど、林産工業は次第に活況を呈した。これらに要する原木は、主として旧区画地や民有林からの搬出が多く、トドマツ・セン・シナ・ナラ・ヤチダモなどが多かった。

 

徳川農場林産収入

   年 次
品 目
大正7年 大正8年 大正10年 大正11年
(本)
2,585
5,217 6,491 178
落 葉 松 9,847 15,886 5,060 4,547
479 2,351 2,792 990
130 212 23
闊 葉 樹 258 131
闊葉樹角材
524

14,299

694

790
シキ
1,518
654 4,680 587
枝および柴木
5,527
3,192 964 2,425
木    炭
29,442
14,490 18,000 24,000
苗木 カラマツ
531,200
475,000    
ス  ギ
50,000

 

八雲木工場(旧八雲冷蔵敷地)(写真2)

 

 落部村においては、昭和2年に犬主(現、上の湯)で岩田松太郎、茂無部(現、栄浜)で岩田喜作が、それそれ木工場を開業していたが、これらは12、3年ころ相次いで廃業した。また、昭和8年に森から転入した木村卯吉が、落部橋の付近で木工場を開業し、ベニヤ単板の製造を行い盛況をみたのであるが、日中戦争がぼっ発した12年に応召したため、15年に施設を小樽の新宮商行所属の愛別工場に売却した。

 また当時、帝国産金株式会社(社長・石川博資)は朝鮮や本州、北海道では生田原などで金山鉱業を経営していたが、時局柄金の需要が減ったことと、軍用の木製飛行機用単板製作の話もあったことから、昭和18年3月に愛別ベニヤ工場から前記の落部工場を買収し、帝国産金株式会社落部工場とした。こうして帝国産金鰍ヘ翌4月に入沢に新工場を建設したが、6月には資本金100万円をもって別会社の帝産航空株式会社を創設のうえ、前記工場をこの会社の落部工場とし、愛別ベニヤ工場から買収した工場は解体したのであった。

 新設された会社の工場長は、現在札幌市在住の建築家田上義也であり取締役であった。

 会社新設と同時に落部工場は軍の指定工場となり、木製飛行機に使用する航空用単板製造が主となった。こうして従業員400人を擁するまでになったが、戦時下の食糧難時代でもあり、ブイタウシナイ(現、花浦)で農場を経営し、食糧を自給自足するという態勢固めまでしたのである。

 昭和20年8月終戦と同時にこの会社を閉鎖し、帝国産金株式会社落部工場と名称を変更したが、軍の指定工場だったため同年秋には進駐軍の立ち入り検査が行われた。22年に同工場は閉鎖され、24年には大同木材株式会社がこれを買収することとなった。

 

木炭の製造

 伐木が行われるようになると、生活必需品としての木炭製造が盛んになってきた。明治13年(1880)の落部村戸長役場の記録によると、木炭1200俵420円の生産を上げている。また、43年には炭焼業者60人が、犬主や二股(現、上の湯)方面でかまど65基を設け、36万貫、9000円を産出したという。

 八雲村においても炭焼専業者あるいは農家の兼業という形で製炭を行うものが逐次増加し、明治42年には3万1000貫、44年には70万貫を生産し、この多くは函館地方に移出されていた。その後大正年代に入り、第一次世界大戦による工業用木炭の需要によって生産はいよいよ増加し、大正6年(1917)には90万貫を突破する勢いであった。そしてこの好況は昭和6、7年ころまで続いたのであるが、9年ころになると乱伐によって原木不足を招き、生産量も30万貫内外に落ち込み、原木の供給先を国有林に依存するようになった。

 こうした状況のもとで生産業者は経営の安定を図るため、木炭同業組合を設立して生産と販売を組織化し、製品の改良と自主検査を実施したのである。しかしこの組合の自主検査は昭和14年(1939)4月道営検査に併合、44年3月まで実施したが同年4月、団体の自主検査に移行していった。

 日中戦争ぼっ発以来、あらゆる資源が欠乏をきたし、木炭は食糧に次ぐ軍民必需物資となった。すなわち、米・英の圧力によって日本に対するガソリンの補給路が断たれたため、やむなく代用として木炭ガスを使用しなければならなくなったのである。このため政府は「築窯補助」の規定を設けて増産を奨励する半面、「薪炭配給統制規則」を公布して木炭の需給体制を確立する方策を講じていた。そして昭和18年(1943)には、製品はすべて政府買い上げの重要物資としたのである。すなわち、生産者は直接政府に売り渡し、政府はこれを指定配給機関に売り渡して消費者に配給するという方法がとられたのである。

 こうして戦争が激しくなるにしたがい増産につぐ増産が強制された結果、原本が次第に切り尽くされると同時に労力不足ともなったのである。

 戦後に至っては、原木不足によって廃業するものが続出し、昭和30年代にはほとんど姿を消したのであった。

 

戦後の林産工業

 太平洋戦争終給のあと、復興資材の生産に続いて昭和25年(1950)朝鮮動乱の影響による木材の新規需要によって、生産は拡大する一方であった。しかしこのころになると、道南一帯に多く産する「ブナ材」は、従来の薪炭材から一転して高度利用に着目され、インチ材としての生産が始められて昭和25年から輸出されるようになった。また、ブナ材は乾燥技術の向上により床板材(フローリング)として活用の道が開け、さらに、第二種まくら木原木の不足を補うため利用が多くなり、昭和28年には加工施設として野田生に木材防腐工場が設置された。これは、木材の集約的な利用を図るため、木材防腐法に基づく中小企業協同組合法による工場で、道南地区の特産ブナ材の高度活用を期し、防腐処理を行い耐用年数の延長を図るという目的で、年産まくら木15万丁、電柱8000石、橋りょう材500石の製品を、注薬缶、多骨式ボイラー80馬力の電動機によって処理されるものであった。

 このほか、八雲市街地に八雲製材所、農業協同組合製材所、野田生に森木工場が操業したが、森木工場は27年10月に火災のため焼失し、そのあとを道南木材株式会社が引き継ぎ操業したのであるが、これまた42年7月に社長の樋口哲男が急逝したため閉鎖し、農協製材所も中止するに至った。

 一方落部村においては、昭和22年5月に帝国産金落部工場が閉鎖され、24年に大同木材株式会社がこれを引き継いで操業したが間もなくこれも閉鎖し、36年静内町に本社を有する池内ベニヤ株式会社が落部工場として合板、フローリングなどの生産を行い盛況を極めた。しかし、その後木材界の不況によって49年10月に同工場を閉鎖し、静内本社と統合するのやむなきに至った。

 

馬そりによる原木運搬(写真1)

 

 昭和38年には三杉町の国有地内に株式会社ミカドフローリング製作所が事業を開始し、床板を製造して本州方面に出荷している。

 これら製材業者も次第にその数が増えてきたことにより、39年には「八雲地区製材協同組合」を設立し、渡島管内の八雲・長万部と後志管内の黒松内・寿都・島牧の四町一村の製材業者13名によって、木材の共同生産、共同購買と販売・価格協定などを行うことを目的として発足、初代理事長には長万部町の前川政行が就任した。その後54年に定款変更を行って八雲・長万部の木材業者のみとし、56年現在八雲1、長万部3製材業者によって構成されており、理事長は八雲町の阿部清夫である。

 また、昭和43年に函館に本社をおく相馬株式会社が、花浦の国道沿いに327平方メートルのチップ工場を建設し、道南一帯から素材を集積してチップの生産を行い、年間約1万2000立方メートルの製品を王子製紙に出荷している。

 また、昭和51年度からの第二次林業構造改善事業の一環として、55年に八雲町森林組合が事業主体となり、東野地区に小径木処理工場438平方メートルを新築し、製材・賃引きのほかチップ生産を行い王子製紙に出荷している。

 製材所としては、八雲に吉田製材所の後を引き継いだ三木製材所と、八雲製材所がある。また、落部では林製材所が操業していたが、50年ころ建築材の販売に転業し、56年3月をもって廃業した。

 

原木の山(写真1)

 

 第4節 林業構造改善事業

 

制度のあらまし

 昭和39年(1964)7月、林業の発展と林業従事者の地位の向上を図るとともに、森林資源の確保と国土保全を期するため「林業基本法」が制定された。そしてその第五一条で、

 「国は小規模林業経営の規模の拡大その他林業経営の基盤の整備及び拡充、近代的な林業施設の導入等林業構造の改善に関し必要な事業が総合的に行われるように指導及び助成を行う等必要な施策を講ずるものとする。」

と林業構造改善事業の実施を規定した。これによって国は、林業構造改善事業促進対策要綱を定め、39年度から一定の市町村を指定して年次的に事業実施に対する助成の方途を講じた。

 それによると、事業計画樹立の主体は市町村とし、実施主体は市町村・森林組合・農業協同組合・その他森林所有者の協業体とされた。そして、一地域当たりの標準事業費を7000万円とし、具体的な事業区分を、(1)経営規模の充実、(2)生産基盤の整備、(3)資本整備の高度化、(4)早期育成林業経営の促進、(5)協業の促進、と定め、これらに該当する事業に対して、国は2分の1((2)と(3)の事業に対しては別に道が5分の1)を補助し、残りの経費については、農林漁業金融公庫の資金のなかに林業構造改善事業関係資金の枠が設けられることとされたのである。

 

第一次林業造改善事業

 町はこうした制度に基づき、森林資源の開発と林家の経営安定を図るため、昭和43年度から地域指定の検討を進めた。その結果、

 (1)、民有林面積の人工林率を最終的に66%に引き上げ、生産性の低い天然林や無立木地等を人工林に更新して経済性を高める。

 (2)、小規模林家の経営規模を拡大するため林地の流動化(小規模林家に町が斡旋して林地を供給する)をはかる。

 (3)、本町における民有林は国有林と市街地の中間に位置し南北に走り、面積は広範にわたり、既設林道は国有林道が主で、外に農道が利用されている。民有林道はわずかに0・2キロメートルが開設されたにすぎず、林道を開設して作業効率を高める。という基本方針を柱として事業の実施方法を定め、昭和45年度(1970)に指定を受けたのであった。そして、46年度からの3か年計画にそって事業が進められたが、事業費6200万円をもって、林道の開設・素材生産・造林・特殊林産施設の設置などを主な事業として計画を終了した。その主なものは次のとおりである。

1、林道の開設

 林道は総事業費の約48%、2958万円を投じ、大新線1800メートルと東野線3020メートルの二路線を造成した。

2、素材生産施設の設置事業

 特認事業であるログローダー1台(240万円)を含め、トラクター2台、チェンソー3台などが導入されて機械力が整備され、素材生産は全量森林組合による直営体制が築かれた。

3、造林施設の設置

 資材人員輸送車1台と刈払機37台の導入を中心とする機械化によって、造林作業の効率が高められた。

4、特殊林産物生産施設の設置

 黒岩・上の湯・栄浜の三地区に対する施設で、それぞれフレーム1棟のほか、穿孔機・チェンソー・加湿器などを入れ、しいたけの生産拡大をはかった。

 

林業構造改善事業実績

事 業
区 分
事 業
種 目
受益
戸数
事業内容 事業費
(千円)
 負  担  区  分 (千円)
国 庫
補 助
道 費
補 助
市 町
村 費
公 庫
資 金
自 己
資 金
経営基盤の
充実事業
林地流動化事業 1団地10ha面積測量 60 30 30
小 計   60 30 30
生産基盤の
整備事業
大新線 47 巾員4m
延長1,800m
14,091 17,607 3,098 8,874
東野線 33 巾員4m
延長3,020m
15,488
小 計 80 4,820 29,579 17,607 3,098 8,074
資本装備の
高度化事業
素材生産施設の設置 387 トラクター   2台 11,738 19,596 1,126 6,065 2,816
トラック    2台 3,879
チェンソー   3台 253
機械保管倉庫155.37u 4,510
造林施設の設置 387 資材人員輸送車 1台 1,660
勤労軽架線 1台 265
刈 払 機 37台 2,194
移動宿泊施設48.60u 523
ソ ノ 他 298
特殊林産物生産
施設の設置
15 フレーム3棟176.7u 3,529
加 湿 機  3基 135
穿 孔 機   3台 45
人工ホダ木663u 258
チェンソー 3台 316
小 計     29,603 19,596 1,126 6,065 2,816
その他の事業 協業の推進 387 トランシーバー1組 42 1,379 960 419
オートバイ 1台 123
測量器具  1式 64
協業樹立推進費4ha 129
特認事業ログローダー
   1台
2,400
小 計     2,758 1,379 960 419
合  計     62,000 38,612 4,224 8,874 7,025 3,265

これらの事業をまとめると前ページの表のとおりである。

 

第二次林業構造改善事業

 第二次林構事業は、昭和38年度(1973)から地域指定が始められたが、当町では50年度に指定を受け、翌51年度から4か年計画による事業の実施となった。第二次の林構事業は、一地域当たりの平均を2億4000万円とされたが、当町の基本構想としては、零細森林所有者の強化拡大と森林組合の発展を図ることをねらいとし、(1)素材生産施設の設置、(2)チップ生産施設の設置、(3)協業活動拠点施設の設置、などを主とするもので、総事業費2億5600万円をもって計画された。

 この計画に基づいて第一年次を51年度とし、二年次、三年次、四年次(54年度)と年次別事業実施計画が立てられたが、三年次、四年次においては事業の計画変更が行われ、新規事業も加えられて54年度に第二次林構事業は完了したのである。その主なものは次のとおりである。

1、素材生産施設の設置事業

 トラクター2台、トラック2台、林内作業車1台をそれぞれ導入したほか、昭和53年度東野地区に山元貯木場1万5363平方メートルを新設した。

2、造林施設の設置事業

 15人乗り人員輸送車1台、29人乗り1台、チェンソー5台を導入した。

3、特殊林産物生産施設の設置事業

 栄浜にフレーム1練と付帯機器などを設備し、しいたけの生産拡大を図った。

4、協業活動拠点施設の設置事業

 協業活動の円滑な推進を図るため、林業者の実技訓練・集会・宿泊施設として、昭和52年度に「林業研修センター」を設置した。この施設は鉄筋コンクリート造2階建、延べ530平方メートル余をもって八雲町公民館敷地内に建て、教材・備品類などを含めて7414万円余を要した。

5、特認事業

 

山元貯木場(東野)(写真1)

 

第二次林業構造改善事業年次別実績表

事業区分 事業種目 事 業 内 容 年   次   区   分 事業費
51 52 53 54
経営基盤
充実事業
  集約育林枝打  40ha       1,260 1,260
資本装備の
高度化事業
素材生産施設の設置 トラクター12t  1台 9,365       17,307
  〃   7t  1台     7,942    
林内作業車     1台 4,900       4,900
トラック 12t  1台   7,887      
  〃   8t  1台     8,172   16,059
機械保管倉庫
     1棟167u
    8,800   8,800
山元貯木場
1か所15,363u
  9,978     9,978
ログローダー   1台       7,440 7,440
ク レ ー ン    1台       5,180 5,180
造林施設の設置 人員輸送車    2台  15人乗
1,167
   29人乗
2,504
  3,671
チェンソー    5台 572       572
ト ラ ッ ク    1台        2t
1,756
1,756
特林施設の設置 フレーム外附属  1式  1棟
4,603
      4,603
協業の推進事業 協業事業計画樹立促進事業 協 業 事 業 計 画 書     432 300 732
航 空 写 真 整 備     110     110
写 真 格 納 庫       158   158
協業活動拠点施設の設置 集 会 宿 泊 用 建 物    1棟
70,809
    70,809
教   材・備   品   3,332     3,332
特認事業 特認事業 小径木処理施設  1件       56,758 56,758
管理棟1棟69,66u     5,380   5,380
は く 皮 施 設  1式     6,465   6,465
合            計 20,607 92,006 37,459 75,198 225,270

(資料 八雲町産業課)

 

 戦後造林した森林が間伐期に入り多量となった間伐材の付加価値を高めるため計画されたもので、さきに整備した山元貯木場の敷地内に53年度剥皮施設、管理棟・機械保管庫などを建設した。なお、これらと同時に建設予定の小径木処理施設は経済の低迷、業界不況という情勢を反映して繰り延べとなり、最終年次の54年度に実施した。

 第二次林構事業の実績は前ページの表のとおりである。

 

 第5節 森林組合

 

森林組合の変遷

 昭和14年(1939)3月、森林法の大幅な改正にともない、初めて北海道でも適用されることとなった森林組合制度は、特に五〇町歩以上の山林所有者で自ら施業案を編成するものを除き、その他中小の森林所有者に対し、実質的な強制によって各市町村を単位とする森林組合を設立させ、所有森林について施業案を作成させてこれを実行させようとする性格のものであった。

 このため、各市町村とも組合の設立が急務となったのであるが、当町では昭和18年2月に同意者258名をもって「追補責任八雲町森林組合」が設立され、初代組合長に町長宇部貞太郎を選任した。しかし組合は、戦時下の統制のなかで、薪炭の生産確保や戦時用材の供出など国策の遂行に努めることになり、とうてい施業案の編成には至らない状況のままで終戦を迎えた。昭和23年組合長に渡辺駒治が就任し、25年には北海道森林組合連合会の協力によって施業案が編成され、初めて総合的な森林経営に乗り出すこととなったのである。

 昭和26年(1951)6月に森林法の全面的な改正が行われ、森林組合制度に民主的な変革がもたらされた。すなわち、従来の強制加入から加入脱退が自由となり、土地中心主義から協同組合原理に基づく人的結合体としての組合に改められ、出資一口以上で組合員個々は平等の権利を特つということになったのである。

 こうした改革にともない、これまでの組合は27年3月までに組織変更をしなければならないこととなったので、その年1月17日「八雲町森林組合」と改め、単独施業者の加入も含めて組合員総数373名、加入面積一万四〇〇町歩と拡大された。

 一方、落部村においては、昭和17年7月に「追補責任落部村森林組合」を設立し、初代組合長に辻村美矩を選任したが、これもまた27年3月31日「落部村森林組合」(当時組合長・宇野与三五郎)と組織が変更された。

 しかし、新組合に変更されたとはいえ、両組合とも経営の実態はさほど変わったところもなく、造林用苗木のあっせんや造林事業補助金の申請窓口となるなど、主として行政関連事務を処理するにすぎなかった。

 

合併による組織強化

 組合の経営基盤の整備拡充を図るため、昭和41年(1966)6月に八雲町森林組合と落部村森林組合が合併し、新生の「八雲町森林組合」(組合長・元山耕作)を発足させ、専任職員を配置してその充実を図った。43年4月伊藤淳一が常勤組合長となり、本格的な組合直営の受委託事業を開始、44年7月には日本大学および森林公団との三者契約による分収造林事業の実施を契機として、本格的な協同事業を展開するところとなり、また、46年からは林業構造改善事業計画によって、地域林業の振興と林業経営の安定に努めたのである。

 

八雲町森林組合(写真1)

 

 46年11月には出雲町に1436平方メートルの敷地を買収し、木造2階建事務所218・2平方メートルを新築したほか、付属棟や機械設備も整備し、それまで役場内にあった事務所を移転して独立したのであった。昭和56年現在で、組合員は819名である。

 

 第6節 国有林

 

御料地

 明治23年(1890)8月に落部村総面積の60パーセントにあたる一万一六一八町歩余が、皇室財産すなわち御料地に編入された。その内訳は落部御料地六五三〇町歩余、逆川御料地三二一八町歩余、野田追御料地一八六九町歩余で、檜山との国境の分水嶺を境とした地域であった。

 御料地内の樹種は、ブナ50パーセント、イタヤ20パーセント、その他30パーセントの混生林であり、広葉樹として、ホオ・ハン・セン・シナ・カツラ・針葉樹として逆川地区にトドマツ、江差越地区にゴヨウマツが若干植生している。

 御料地に編入されてからの立木処分は、明治23年に用材八尺〆(2・75立方メートル)の払い下げがあったという。

 明治24年11月に宮内省御料局函館支局森駐在員事務所が設置されて、落部村内の御料地を管理していたが、28年1月には同支局落部分担区員駐在所が、現役場支所前の電々公社無人中継施設の所に設置され、駐在員が常駐した。38年には御料林40年輪材と三〇〇町歩の開放が計画され、輪伐材の搬出、開放地への農民移住などが行われたのである。41年1月には宮内省御料局が帝室林野局に改められた。

 昭和2年(1927)9月に御料地内の農耕適地二九〇町歩に山林・原野の一部を加えて自作農を創設した。また7年には、逆川御料地内にトドマツ0・91ヘクタールを人工造林としては初めて植樹し、次いで10年にトドマツ1・29ヘクタールを植樹、以後18年までトドマツを各地区に1〜5ヘクタール程度植樹してきたが、戦時下に入り労力不足も影響して造林は中止されたのであった。

 昭和22年3月帝室林野局が廃止されて御料地は国有に移され、5月には林政改革が行われ、国有林・御料林は農林省所管となり、本道には五営林局が設置され、落部村内の御料林は函館営林局の管轄となった。

 営林局管轄になってからは、林道の造成や人工造林が積極的に実施され、二股地区担当区員事務所、江差越地区担当区員事務所が設置されたほか、入沢地区に苗圃も経営して造林に努めている。

 

官林監守の変遷

 明治11年(1878)10月「山林監守人規則」が定められ、各地に監守人を配置し、山林の巡視や各種条例・規則の違反調査および山火防止等に努めることが規定された。これによって山越内にも13年1月に山林監吏が設置され、長万部・山越内・落部各村を管区として担当することになった。

 明治35年(1902)11月北海道庁殖民部林務課森派出所八雲保護区員駐在所が設置され、さらに41年6月には函館営林区署が設置されて、八雲に同営林区署八雲森林監守駐在所がおかれ、森林行政事務が行われた。大正2年(1913)6月に函館営林区署は札幌営林区署の管轄に入って函館営林区分署となり、八雲はその管轄下に属した。その後、大正7年の林政機構改革によって森林監守を廃し森林主事となり、森林監守駐在所も森林保護区員駐在所と改められた。さらに、昭和3年(1928)札幌営林区署に属していた函館分署が、再び函館営林区署となり、当町の保護区員駐在所もまたその管下に属することになった。

 昭和10年6月には、檜山営林区署管下の瀬棚・太櫓二郡が函館営林区署に移管されるなど、いくたびかの変遷を経て管内国有林の管理が進められてきたのである。

 

営林区署の設立

 昭和18年(1943)に道庁は、森林行政確立のため営林区署の廃置分合を行うこととし、函館営林区署の管轄であった山越郡・瀬棚郡・太櫓郡を分離して「八雲営林区署」を開設する計画をたて、同年7月八雲町に対し、この計画を実現する要件として、

 1、庁舎は昭和20年度に建築の予定であるが、それまで庁舎に充当する既設建物を町において無償提供ができるか。

 2、国費で庁舎および官舎を建築するが、これに要する敷地の寄付ができるか。

という申し入れがあった。これに対し町は、諸種の事情を勘案しつつ積極的に協力することを約束した。

 こうして計画は順調に進み、旧八雲高等国民学校校舎(現、八雲町公民館所在地)を仮庁舎に充当することを内定し、7月28日付道庁告示をもって、昭和18年9月1日から設置されることが正式に決定したのである。

 なお、設置当初のハ雲営林区署の担当区城は、

 (1)、山越郡のうち長万部町静狩川の流域を除く一円

 (2)、茅部郡落部村一円

 (3)、瀬棚・太櫓両郡の一円

とされていた。

 諸般の準備が整い、初代署長には前美深営林作業所長杉原四郎が着任し、9月1日をもって開署された。

 また、庁舎および官舎の建設予定敷地については、石川清一から1563坪を町が買収し、翌19年6月国へ寄付したのであるが、戦局の悪化や敗戦という事態に直面して庁舎の建築は予定どおり実施できず、この敷地はその後現在の営林署職員住宅敷地に充当された。

 

林政機構の改編

 昭和22年(1947)5月に林政機構の改編が行われ、国有林の管理は農林省に移されるとともに、道内には札幌・旭川・北見・帯広・函館の五営林局が設置され、その下部機関として営林署が置かれることになった。これによって八雲営林区署は函館営林局の管轄するところとなり「八雲営林署」と改称し、翌23年12月旧軍用敷地内に木造平屋建て81坪あまりの新庁舎を建築してこれに移転した。

 同年10月には東瀬棚営林署が開庁され、瀬棚・太櫓の二郡を所管することとなったのでこれを分離するとともに、長万部町静狩川の流域が倶知安営林署から移管され、さらに、29年7月には森営林署が開署されて落部川流域以南の地域はその管轄に属することとなった。

 また、前にも述べたとおり、落部村の御料林は函館営林局で管理することとなったのである。

 

八雲営林署(写真1)

 

昭和53年度現在における国有林の利用状況は、以下のとおりである。

保安林(面積 ha)

総数 水  源
かん養林
土砂流出
防 備 林
土砂崩壊
防 備 林
飛  砂
防 備 林
土砂流出
防備林見込地
33,791 33,791

 

貸付使用 (面積 ha)

総     数 温鉱線
用 地
鉱 業
用 地
電気通信
事業用地
道路水路
用  地
建 物
敷 地
その他
件 数 面  積
48 111.64 0.01 21.51 36.91 51.52 0.22 1.47

 

 

事業の概要

 

立木・製品別の収穫材積   材積(m3)

立 ・ 製 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
用 薪 用  材 薪炭材 用  材 薪炭材 用  材 薪炭材
総 数 9,550 0  7,004 0  5,342 0 
立 木 販 売 4,978 0  6,246 0  4,962 0 
製 品 資 材 4,572 0  758 0  380 0 

 

製品の生産量と経費  材積(m3)経費(千円)

区 分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 生産量 経  費 生産量 経  費 生産量 経  費
総 計 6,436 73,380 2,112 11,100 2,562 10,571
素 材 完 了 5,741    1,838   2,279  
未 了 695   274   283  
末木枝条        

経費は総生産量に対する総経費である

 

立木・製品の販売量と価格  材積(m3)経費(千円)

区分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 材積 価額 材積 価額 材積 価額
総 計   90,398   51,341   48,573
立木販売 4,574 17,452 6,152 23,999 4,817 16,902
製品販売 6,102 72,946 2,319 27,342 2,345 31,671

 

造林事業量と経費  面積(ha)経費(千円)

区 分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 面積 価額 面積 価額 面積 価額
総 計   168,106   205,784   100,359
更     新 258 46,800 192 43,812 190 36,111
補     植 33 680 55 951 34 696
保     育 2,686 49,535 2,863 60,295 2,957 33,160
そ  の  他   71,091   100,726   30,392

 

種 苗  生産数(千本)面積(u)

 区  分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 生産数 苗畑面積 生産数 苗畑面積 生産数 苗畑面積
総 計 千本
1,089.4
u
612,205
900.4 558,106 千本
963.2
u
555,800
針葉樹 ス    ギ        
ト ド マ ツ 1,043.4    884.6    963.2   
カ ラ マ ツ          
そ の 他 1.8        
広 葉 樹 44.2   15.8      

 

治 山  面積(ha)経費(千円)

 区 分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 数量 経費 数量 経費 数量 経費
総 計    27,748   44,785   52,098
山地治山施設 m
327
12,987 m
417.9
16,027 m
493
28,828
地すべり防止
700
12,815 資材運搬路
1,299
25,578
619
21,213
海岸砂防地造成    
保  安  林 1.73 1,233 1.73 1,731 9.05
2.10
900
事業施設・共通   713   1,449   1,157

 

林 道  延長(m)経費(千円)

 区 分 年 度 51  年  度 52  年  度 53  年  度
数 量 数量 経費 数量 経費 数量 経費
総 計   63,887   72,220   54,793
林道 新  設 1,330 20,509 m
779
530
27,905
1,820
改  良 670 13,418
15,000
215
5,600
14
修  繕
94,000
51,469
96,800
51,496
105,000
25,054
貯木場(新・改修)
固定資産・その他

(管内概要から)

 

営林署等の所在地、管理面積、事業量

名     所 所  在  地 管理面積・事業量
八 雲 営 林 署 八雲町 出雲町60 ha
37,707
野田生担当区事務所 野田生466 7,182
八雲担当区事務所 栄町 13 3,757
鉛川担当区事務所 栄町 13 4,791
南大関担当区事務所 上八雲二区 4,253
北大関担当区事務所 上八雲二区 4,398
黒岩担当区事務所 黒岩159 1,768
国縫担当区事務所 長万部町 字国縫 4,268
長万部担当区事務所 字長万部 3,284
二股担当区事務所 字双葉 3,966
北大関造林事業所 八雲町 上八雲二区
八雲種苗事業所 大新6の2 u
161,346
長万部種苗事業所 長万部町 字富野 u
450,859
二股製品事業所 字双葉 u
2,300
二 股 貯 木 場 字双葉 u

(1979 管内概要より)

 

 

第3章 水産業

 

 第1節 明治前の漁業

 

先住民の漁業

 北海道が蝦夷地として和人に知られるようになった相当以前から、先住民族であるアイヌが、海浜や河岸にコタン(集落)を形成して、漁や狩猟を行って自給自足の生活を営んでいたことは、まったく疑いのないところであり、当八雲地方もその例外ではなかった。また、「落部」という地名がアイヌ語の「オ テシュ ペツ」(川尻に漁筍(やな)をかける所の意)を起源としているといわれるように、かれらのコタンは河岸や海浜から形成されていったのである。

 もちろん、アイヌによる当時の漁法は幼稚なもので、川にやなをかけて上ってくるサケを捕えたり、丸木舟を操ってやすで突き、たも網ですくうなどの方法に限られていた。また、オットセイ狩りなどのため丸木舟で沖に出るにしても、あまり遠くまでは行くことができなかった。漁期を見極めるにも、自然現象の変化から判断したといわれる。その一例として、晩春、砂蘭部岳の中腹に雪がニシンのような形(これを「ヘロキ・ウパシ」と呼んだ)で残り、これが解けないうちはニシンが捕れるといって漁を続け、また、漁に出かけるとき椀(わん)のような器物を頭に乗せてこれを落とし、その状態によって吉凶を占ったという。

 

時代の変遷

 アイヌの自由な天地であった蝦夷地に、徐々に和人が移住しはじめるようになったのであるが、これらアイヌと和人との間に本格的な交渉が持たれるようになったのは、松前藩の成立以後と考えられる。すなわち、松前藩が成立して蝦夷地を統治するようになってから、家臣への知行として蝦夷地を適当に区画して場所を与え、知行主がその地域のアイヌとの交易によって得た品を持ち帰り、これを売りさばいた利潤をもって収入にするという、特殊な方法が講じられるようになってからである。

 こうした経緯のなかで東蝦夷地に属していた当地方に、野田追場所とユーラップ場所が設定され、家臣への知行地として給与されたのである。したがって、これら野田追場所やユーラップ場所に限らず、場所の給与によって交易権を得た知行主と地元アイヌとの対等交易から接触がもたれるようになったが、やがて勢力的には知行主が優位に立ち、さらに、商人による場所請負時代に移るにつれて、和人がアイヌを使役して直接漁業を経営するようになっていったので、漁法も急速に進歩し、大規模化するなど様相が一変したのである。

 また、一方では、場所請負人が自らの利益を得るため、升目・量目をごまかしたり、粗悪な品々を渡すなど不正なことが多くなり、アイヌはこれらの行為を憎むようになって、各地で紛争が起きる原因ともなった。

 特に、野田追場所を含む箱館六か場所は、和人が移住して土着する者が多く、和人地と同様になっていたので、幕府が蝦夷地を直轄した翌年の寛政12年(1800)3月には、これらを「村並」(村と同格の意)に扱うことを決めて場所を廃止した。こうして、正式に和人の居住が許されるようになってから、急速にその文化が伝えられ、漁法の進歩や生活様式の変化がみられるようになったのである。

 この六か場所村並の記録は次のとおりである。

 一、箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ迄、日本人多く罷在候ニ付村役人等申渡、箱館在々同様取扱候積ニ御座候事

 右之通取計申候ニ付申上置候以上

 (寛政十二年)申三月

 松平 信濃守

 石川左近将監

 羽太庄左衛門

 これらの措置により、和人地と蝦夷地の境を山越内とし、蝦夷地へ通行する者の切手を改める関門も亀田からここに移されたのである。

 

漁獲物の推移

 当地方の漁獲物について記されているものとしては、元禄13年(1700)の「元禄御国絵図」という地図のなかで、地名には南から「かやべ・おとしっぺ・のたへ・ゆうらっふ・くんぬい」の順で記入されており、ゆうらっふと記された地先海面部分に、単に「膃肭臍(おつとせい)有」と記載されているのが、今のところ最も古い記録とみられている。

 また、享保2年(1717)に幕府巡見使の書いた「松前蝦夷記」(別名を「松前蝦夷地覚書」ともいう)にも、

 一、土産之品出ル所

 一、膃肭臍

 蝦夷地之内 おとしっへ、のたへ、ゆうらっふ、くるぬい、しつかり、へんへ、おこたらへ、うす、えとも、と云所に多取り申よし

とあり、噴火湾一帯は数少ないオットセイの産地として知られていたようである。

 その他の産物については、享保年間(1716〜1735)のものとみられる著者不明の「蝦夷商賈聞書」のなかから摘録すれば、数量は不明であるが次のものが記録されている。

 

 鯨を取るアイヌ

 獣漫瀾に浮游する時は其側必鳧の如き鳥群れり夷其鳥を見て舟を漕事いかにも静に其間凡拾間計にこぎよせ○○を以て是を擲獲す(写真1)

 

 一、ヲトシ部 モナシ部 野田オイ此三ヶ所新井田権之助殿御預出物

 鯡、数子、昆布夏出物、冬ハオットセイ沖ヨリ

 一、ユラプ

 右領分ヲシヤマンベ迄出物同断、運上三ヶ年百五十両

 その後しばらくは当地方の産額を明らかにする史料が見当たらないが、現在森町字本茅部町にある「鰊供養塔」が、宝暦7年(1757)に建立されたのは、その当時、箱館・亀田・茅部・その他の村々にかけて、春ニシンの大漁が続き、乾製した一部を除いてさばききれない状況となったため、これらのニシンを土中に埋めて処理し、漁業者一同がその霊を慰めるためのものであったと伝えられていることから、落部沖合いをはじめユーラップ方面まで相当量のニシン漁があったことが想像される。

 また、「北海道漁業史稿」(北水協会編)のなかに、

 文政5年(1822)尾札部村年寄役飯田家三代与五左衛門は東渡島随一の漁業家であって、この年落部村物岱に鰊漁場を開拓し、同所の断崖を削り、海浜を改修して大工事を行い沿岸漁民を驚嘆させた。

とあり、これも往時のニシン漁の盛況を物語る事例といえる。ただし、この事業の成果などについては、地元においては何も現在まで伝えられていない。

 コンブは前掲の「蝦夷商賈聞書」のなかに、

 寄昆布ヒラエ、囲昆布ト申、春大阪船ハ箱館江下り右之昆布積申侯

と記されているが、その数量については寛政3年(1791)の「東蝦夷道中日記」のなかで、野田追場所のコンブ六〇〇〇駄と記録されているのが初めてであろう。コンブは50枚を一把とし、四把を一駄として計算していた。

 しかし、このころはすでに長崎俵物(清国への輸出品)と国内需要の増加によって、コンブの生産が増加の傾向をみせていたが、当時は尾札部(川汲)あたりを中心として下海岸地方にかけてのコンブが品位も良くて珍重され、湾内産のものは一段劣るものとされていたのは現在と同じであったようである。

 当地方の状況を踏査した記録「東蝦夷地海岸図台帳」による嘉永7年(1854)の様子をまとめてみると、

 ヤムクシナイ

 筒舟五艘、通行舟壱艘、持府舟二十五艘、川渡高舟三艘、えぞ舟六十五艘あり。去寅年(一八五四)の産物産高を聞しに、(中略)甲割鯡六百束、鰯の粕九百五十六本、秋味鮭六百四束、筋子四十樽也。

 野田追 ユオイ

 舟は筒舟壱艘、持府十艘、磯舟九艘あり、網は鯡鰯引網大綱壱流、鯡差網二百三十放。(中略)

 去寅年この所の出産物は、鯡の〆粕六千八百七十五貫目、鰯〆粕なし、去丑年は三百貫目あり。駄昆布壱万弐百六駄、折昆布六千五百把、いりこ五十斤、灘鱒弐百五十本、秋味鮭六百本。

 落部

 舟は筒舟弐艘、持府四十艘、磯舟十二艘あり。

 網は鯡鰯引網大小二流、鯡差網弐百五十放。

 寅年出産物は鯡〆粕六千八百七十五〆目、鰯〆粕はなし、去丑年は千九百五十〆目有、駄昆布一万百八十六駄、いり子百斤、折昆布五千八百把、灘鱒百五十本、秋味鮭九百本、漁油は柏二十五〆目より弐升五合か三升位とれる。

 茂無部

 舟は筒望舟一艘、持府十二艘、えぞ舟四艘あり。

 網は鯡鰯引綱一流、鯡差網八十放有。

 寅年出産物は鯡〆粕千九十三〆目、鰯〆粕なし、去丑年は三百〆出る。駄昆布三千六百五十八駄、折こんぶ二千七百把、いり子五十斤、灘鱒百五十本、秋味鮭四百本。

とあり、必ずしも全容を知ることはできないが、当時におけるこの地方の漁業概要を知る手掛かりとなるであろう。

 

 第2節 明治年代の漁業

 

漁業制度の改革

 明治年代に入り、開拓使による場所請負制度の廃止(明治2年)、漁場持制度の廃止(明治9年)など、漁業制度に改革が加えられていったが、すでに当地方の山越内場所は元治元年(1864)に村並となり、伊達・栖原の請負を最後に請負制度が廃止され、漁場経営希望者には出願によって貸付するものとされていたし、漁場持の改定もなかったので、落部・山越内の両村ともこの制度の改革には直接のかかわりを持つものではなかった。

 しかし、全道的には封建的な漁場支配体制は一応消滅し、漁業は地方行政官庁の布達によって保護取り締まりが行われることになったのであるが、漁場の占有利用に関する規定は必ずしも明確ではなく、これらをめぐる紛争が絶えず発生する状況であったという。

 明治10年代後半に訪れた不況は、漁業者に特に深刻な影響を及ぼしたのであるが、函館県は17年5月に「漁業組合条例」を公布し、漁業組合を組織させて漁業者はこれに加入するものとし、組合は申合規則を定めて水産物の乱獲の防止とその改良に努めることとするなど、水産業の取り締まりと振興奨励にあたったのである。

 しかし、漁場紛争は北海道に限らず全国的にわたっていたので、政府は19年5月に「漁業組合準則」を公布し、漁業の権利を一括して漁業組合に免許することとした。そして、その具体的な内容については組合内部の取り決めに任せることによって、漁村の秩序を維持しようとする方策がとられた。

 道庁は同年11月この準則を管内に布達したが、すでに規約の認可を受けた漁業組合などは、今後規約の改正をするときにこの準則による組合を組織することとされた。しかし、当時すでに組織されていた三組合(落部・山越内・八雲)に対し、この準則が直接どのように作用したかは明らかではない。

 明治17年(1884)5月13日付函館県甲第十五号による漁業組合条例は次のとおりである。

 漁業組合条例

 第一条 本県管内に於て、捕漁、採藻の業を営むものは都て此条例を遵守せしむ。

 第二条 漁業組合は鮭漁・鰊漁・烏賊・鱈漁・雑漁(一切の漁を云ふ)及採藻の各種に区分す。

 第三条 組合は一町村又は数町村連合して一組となし、総代及副総代を公撰せしめ其区域は郡区長の指定する処に従ふべし。

 第四条 毎一組に於て申合規則を定め水産濫獲の弊害を予防し従来の改良の方策を謀ることを勉むべし。

 第五条 申合規則は毎組合の内本県在籍漁民をして草案せしめ正副総代連署郡区長を経由して県庁の認可を受くべし。

 但他府県下より寄留出稼の漁民は県庁の認可したる申合規則に対し、更生又は異議を陳述するを得ず。

第六条        漁業者は其漁業をなさんと欲する町村の組合に編入し正副総代に付其事由を述べ組合に編入したる証として甲号雛形の鑑札を受け執業のときは必ず携帯すべし。

 

 第七条 漁業者雇夫も亦前条に同じく乙号雛形の鑑札を受け携帯すべし。

 第八条 正副総代は組合に係る経費を組合より徴収すると雖も郡区長の認可を経て施行するものとす。

 第九条 正副総代は組合一切の庶務に従事し水産上の事に付県庁の諮問に答ふべし。

 第十条 正副総代は其組合より各漁収穫の報告を受け漁期の末期に至り之を一貫し置くを要す、尤漁期間中雇入逃亡、漁網、船具等の流出に罹りたる損害をも調査すべし。

 この条例を受けて次のように漁業組合規約を定め、函館県令時任為基へ許可を申請したのである。

 こうして設けられた漁業組合の代表者の呼称である「総代」も、明治18年5月には「漁業取締人」に、さらに、23年からは「漁業頭取」と改められたが、各組合の歴代代表者は次のとおりである。

 落部村漁業組合 相木七五三作・中村平次郎・佐藤嘉次郎・大山亥之丞

 山越内村漁業組合 坂本菊松・加我新吉・松岡元吉・酒田寅吉

 八雲村漁業組合 厚谷久三郎・佐藤徳三郎・古沢徳太郎

 山越郡第十三組山越内村漁業申合規約を例示すれば次のとおりである。

 山越郡第十三組山越内村漁業申合規約

 此規約ハ明治十七年本県甲第十五号布達漁業組合条例ニ依り規約スルモノニシテ此組合ニ編入シ漁業ヲ営ム者渾テ此規約ヲ遵守シ違背スヘカラス依テ其目的ヲ定ムル左ノ如シ

 総則

 第一章

 第一条 組合区域内ニテ捕魚採藻ノ業ヲ営マントスルモノハ漁業組合条例ニ依り組合ニ編入シ成規ノ手続ヲ経テ営業スヘシ。

 第二条 此組合ニ編入スルモノハ組合親睦ヲ旨トシ互ニ困難ヲ救援シ無謂其営業ヲ拒絶スルノ弊ヲ一洗シ魚藻繁殖ノ点ニ注意シ各自ノ営業ヲシテ益々隆盛ナランコトヲ勉ムヘシ。

 第三条 捕魚採藻ニ関スル願伺届ハ渾テ組合総代人連印スヘシ

 第四条 各自ノ使用スル捕魚採藻ニ関スル器械ノ員数代償ハ口頭又ハ書ヲ以テ総代ニ於テハ兼テ一張簿ヲ製シ明瞭ニ登録スヘシ、尤モ新調破損等モ同様ニ取扱ヲナスモノトス

 第五条 各種ノ漁業採藻トモ終期ニ至ラハ其収穫ヲ明瞭ニ記シ総代人ニ届出ヘシ

 第六条 各自収獲物ハ結束製造トモ充分注意ヲ加へ俵函及結束中へ出産人名ヲ略記セル木札ヲ捜入スヘシ。

 第七条 捕魚採藻ニ際シ不良ノ器具(潜水器若クハ方言引網等ノ類)ヲ以テ漁業採藻ノ業ヲナスヘカラス。

 第八条 総テ建網ヲ以テ漁業ヲ営ムモノハ其割渡ヲ受ケタル位置外へ猥リニ転スヘカラス。但拝借海面図内ト雖モ胴網ヨリ沖垣網ヲ付着スヘカラス。

 鮭漁

 第二章

 第九条 鮭建網揚ハ陸ヨリ沖へ四〇〇間幅一〇〇〇間(六尺一間トス)ト定ム、但シ従前海面拝借ヲ受ケタルモノハ此限ニ非ス。

 第一〇条 鮭建網ニ用ヒタル碇(方言マツカイ、イカリ等)終業直チニ怠リナク取片付鰯曳網等ニ必ス碍害セサルヲ要ス。

 第一一条 鮭差網ハ建網浮標碇ノ内へ入ルヲ許サス。

 第一二条 浮標ナキ差網へ他差網ヲ投入セラルルモ決シテ苦情ヲ唱フルコトヲ得ス。

 第一三条 鮭引網ハ鯡鱒引網ニ異ナルコトナキモノトス。

 鯡漁

 第三章

 第一四条 鯡建網間数ハ陸ヨリ沖へ三〇〇間幅三〇〇間ト定ム(六尺一間トス)但シ従前海面拝借ヲ受ケタルモノハ此限ニ非ス。

 第一五条 鯡建網ニ用ヒタル碇等ノ所置方ハ第一〇条ノ例ニ依ルヘシ。

 第一六条 鯡差網場ハ建網場所ノ外差支ナシト雖モ建網ノ前後凡五〇間ヲ距り建網ノ碍害ニナラサル様役入スルモノトス。

 第一七条 鯡差網ヲ海面へ投入スルハ必ス日没以前ニ限ルモノトス。但シ日没前風波ノタメ投入スル不能カ魚ノ群集タルトキハ本条ノ限リニ非ス。

 第一八条 鯡建網並ニ差網トモ追鯡ノ入稼ヲ拒ムコトヲ得スト雖モ差網営業者ハ日没前ニ上陸スヘシ、但シ本条ノ場合ニ於テハ網ヲ投下スル地ノ組合惣代人へ届出ヘシ、尤モ日帰網ハ届出ルニ及ハス。

 鰮鱒

 第四章

 第一九条 鰮差網ハ何レノ海面ニ於テ施行スルヲ得ルト雖モ甲ノ船ニ於テ見留タル魚ヲ乙ノ船ニテ猥リニ網ヲ投下シ漁業スルヲ得ス、但シ本条ノ場合ニ於テ苦情有之節者其近傍ノ漁夫(船頭ヲ云フ)三名以上立会之レカ可否ヲ定ムルモノトス。尤モ日帰ハ一七条但書ノ例ニヨル。

 第二〇条 鱒建網ハ陸ヨリ沖へ四〇〇間幅五〇〇間(六尺一間)ト定ム、但シ従前海面拝借ヲ受ケタルモノハ此限ニ非ス。

 第二一条 鱒曳網差網ハ何レニ於テ役入スルモ妨ケナシト雖モ他ノ組合部内ニ於テ該業スルモノハ其組合総代ノ指揮ヲ受クベシ。

 第二二条 他人ノ釣縄(方言ハイ繩等ヲ云フ)網等ニ妨害セサルヲ要ス。

 採藻

 第五章

 第二三条 昆布採取期間中ハ本船ヲ設置シ採収ノ可否ハ総テ本船ノ指揮ニ従フモノトス。

 第二四条 昆布採取ノ為他ノ組合ヨリ入稼ヲ為スモノハ其組合総代ヨリノ添翰ヲ持参スヘシ。尤昆布干場ヲ要スルトキハ差支ナキ様懇切ニ世話スヘシ。

 第二五条 甲ノ組合ヨリ乙ノ組合区域内へ来リ日帰リ採藻ノ業ヲ為スモノハ予テ正副総代へ届出正副総代ニ於テハ乙ノ組合総代へ通知シ置クモノトス。

 第二六条 汐干昆布ハ収獲スルニ当リ真昆布ヲ収獲スルヲ得ス。

 第二七条 捕魚採藻ノ内左ノ二種ニ限リ収獲期日ヲ定メ正副総代ヨリ予テ組合中へ報告スヘシ。

 一、昆布 一、煎海鼠

 第二八条 組合総代及村総代人ハ品位乾上等ニ予テ注意スルハ勿論且ツ結束前後右収獲人ニ就キ実地点検スヘシ。但シ本条ノ場合ニ於テ収獲人ハ総代人ノ点検ヲ拒ムコトヲ得ス。

 第二九条 毎年昆布採収後鮭漁業ノ余暇ヲ以テ昆布発生ノ碍害物ヲ除却シ且ツ該藻生殖ノ為メ海中へ石ヲ役人スルヲ要ス、但シ他ヨリ入稼ノモノハ昆布収獲後本条ノ費料トシテ船一艘一人ニ付(一五歳以下無料)金五〇銭ヲ差出スヘシ。

 第三〇条 煎海鼠漁ハ小ナルモノ必ス捕獲スヘシ。

 違約処分

 第六章

 第三一条 此申合規約ニ違フモノハ金六〇円以下一円以上ノ違約金ヲ差出サシムヘシ。若シ違約金ヲ差出難キ無資力者ハ一日以上七日以内ノ出漁ヲ差止ムヘシ。

 第三二条 違約者アルトキハ総代ニ於テ充分審按シ違約金ヲ差出サシムルノ金額ヲ詳悉シ戸長ヲ経テ郡長ノ認可ヲ受ケ施行スルモノトス。

 第三三条 違約金及昆布播殖ノタメ徴収シタル金額ハ常ニ戸長役場ニ貯蓄シ置キ本村殖産上ノ費用ニ宛ツ、尤モ此支出ヲ要スルトキハ郡長ノ認可ヲ経ルモノトス。

 会計及事務

 第七章

 第三四条 本組合二係ル諸費用ハ渾テ暦年ノ始メニ当リ予算ヲ製シ郡長ノ認可ヲ経テ施行スヘシ。尤モ該費ノ補助トシテ漁業者携帯ノ鑑札一枚に行金五銭ヲ徴収正副総代ニ於テ之レカ出納ヲ明瞭ニスヘシ。但シ漁業二従事スルモノハ一五歳以上男女ヲ不問其種類毎下附スヘシ。

 第三五条 総代ニ於テ組合ニ係ル諸費ヲ成丈節減シ毎年末取纏メ収支明細書ヲツクリ組合ニ報告スヘシ。

 第三六条 正副総代へ為勤労ト一ヶ年金三〇円支給シ且ツ漁業上ニ付出張ノ節ハ為旅費ト一日ニ付金五〇銭ヲ支給スヘシ。

 第三七条 此規約施行上差閊アルトキハ当組合ノ内本籍漁民決定ノ上県庁ノ認可ヲ経更正スヘシ。

 第三八条 正副総代任期ハ満二ヶ年トス、但満期改選ノ節ハ前任ノモノ再選スルモ妨ケナシ。

 

漁業法の制定と組合の改組

 明治34年(1901)4月に漁業法が公布(翌35年7月1日施行)され、漁業権・漁業取り締まり・漁業組合・水産組合・漁業雇用関係の取り締まりに関する規定が設けられた。こうして、政府による統一的な漁業制度が確立されるとともに、漁業権(定置漁業権・区画漁業権・特別漁業権・専用漁業権など)も初めて法制化され、しかも、私権として明確に規定されるなど近代化が図られた。そして、漁業組合は沿岸漁民のため共同漁業権を享有し、また、それを行使するための権利義務の主体として認められることになったのである。

 さらに翌35年5月には漁業組合規則・水産組合規則が公布され、6月に漁業法施行細則(庁令)が発布されるなど、一連の関係法令が整備されたが、これら新制度の施行によって従来の漁業組合準則(明治19年制定)による漁業組合は水産組合と改称されることになった。

 この当時における水産組合の主要な事業は、これまでの漁業組合時代と同様ではあったが、漁業組合が漁業権と結びついた経済事業団体の性格を待ったのに対し、いわば生産指導ならびに繁殖保護団体という性格を待つものであったという。こうした制度による詳しい経過は不明であるが、明治36年2月12日森村に「茅部山越水産組合」が設立され、山越内村に同水産組合第17区事務所、八雲村に同第18区事務所が設置されているので、これらから推察すれば、落部村にも同第16区事務所が設けられていたものと考えられる。

 また詳細については不明であるが、落部村ではこの新しい漁業組合制度によって組合設立の準備を進め、40年3月19日に「落部村漁業組合」を組織したと伝えられており、翌41年4月23日には農商務大臣から専用漁業権五種(コンブ・ナマコ・タコ・ノリ・ギンナンソウ)の免許を受けたという記録が残されている。なお、北海道漁業史によっても明治36年の岩内漁業組合の設立を先駆けとして、40年までの新組合設立数が「落部」を含めてわずか24を数えるにすぎないので、落部村漁業組合の設立は全道的に見ても早い方であったといえよう。

 明治43年、漁業法の全面改正(翌44年4月1日施行)、漁業組合令(同前施行)、44年漁業組合登記規則(同前)などの制定にともない、漁業組合に関する規定は一段と整備された。すなわち、改正漁業法において、

 漁業組合ハ漁業権若クハ入漁権ヲ取得シ又ハ漁業権ノ貸付ヲ受ケ組合員ノ漁業ニ関スル共同ノ施設ヲ為スヲ目的トス。

として漁業組合の目的が拡大されたほか、

 1、漁業法の規定により設立したものでなければ、名称の中に「漁業組合」なる文字を用いてはならないこと。

 2、漁業組合の設立は主たる事務所の所在地で登記しなければ第三者に村抗できないこと。

 3、組合の設立は地区内に住所を有する漁業者五人以上の発起で、区域内漁業者の三分の二以上の同意が必要であること。

 4、地先水面の専用漁業権は組合にのみ免許すること。

などが定められた。

 こうした制度の拡充を受けて、全道各地に漁業組合の設立機運がみられたが、当町においては大字山越内村を区域とする「山越内村漁業組合」が組合員99名をもって大正8年(1919)5月30日に、また、大字八雲村を区域とする「八雲村漁業組合」が組合員155名をもって同年6月4日に、ともに設立の認可を得てそれぞれ登記を完了した。

そして、各組合とも地先海面について専用漁業権の免許を受けるなど、目的達成に向けて運営されたのである。

 しかし、この間における水産組合の興廃についての史料は全くなく、詳細は不明である。

 

漁業の景況

 明治時代の景況については系統的にまとめた史料がなく、断片的な史料によって推察する程度にすぎないが、明治11年(1878)の函館新聞の「農事通信」によれば、落部村の概況について次のように報じている。

 落部村は戸数一四〇戸許、人口七三〇余、漁業は石倉村に同じ。(中略)海産は鯡・鰮・鮭・鱒・昆布・鯖・海鼠等にて、去年の収穫は生鯡が三百石程、同〆粕五百石余、鰮〆粕三十石、鮭五十石許りなりし……

 また、明治18年にはイワシの大漁の状況について、

 山越郡八雲村字山崎及び黒岩、長万部村字ポンペツ等合せて十二か所の鰯漁業出稼ぎは去る6月30日より鰯漁に着手し、本月(七月)一八日まで凡そ千百余石取揚げその内一人にて最も多く取上げしは二百四十石余なりしという。尚沖合の模様至って宜しければ土用に入らば定めて多額の収穫あるべし……

と報じ、さらに19年の「農事通信」は、

 胆振国山越郡八雲村は六月十一日頃より鰮海岸に寄せ来り、同月十五日頃より漁業に着手し、同月二十五日頃に至りては沿岸一面の鰮漁にして其寄来ること頗る盛なり。日数二十五、六日間の収穫高千五百弐拾八石九斗壱升壱合にして、昨年に比すれば三百六拾九石三升三合増たり。山越郡の如きは毎年芒種(陽暦六月五日ころの称)前候より鰮寄来るに、本年は六月十一日頃より寄来る徴候を現出せしに依り、同月十五日頃より投網に着手せしに魚網に充満せり。

とあり、またサケ漁については、

 胆振国山越郡山越内・八雲の両村は、九月廿日より建網五か統、差網二四九放、大房四、従事者二〇三名。

と報じている。なお、山越内のコンブについては、 本年は鎌卸しの日より好天気続きにして干燥最も宜し。昆布採取のみ使用する船は無之候共、昆布採取中使用する船は持符及磯舟を使用するものなり。

とあって、当時使用した漁船は、持符7、磯舟17で、従事者は24名であり、製品は主に島田昆布、長切昆布などとして、函館地方の海産物問屋へ販売されていたという。

 

遊楽部漁場の実況

 明治20年(1887)10月25日の函館新聞は、遊楽部漁場の実況を次のように詳しく伝えている。

 抑も遊楽郡の漁場と云ふは引網場所只一ケ所にして、此は往時伊達某、栖原某の受持場所なりしが、文久二年請負返上のときに際し、同所の住人竹内宇吉なるもの之を継ぎ、維新の後に至り、遂に同人の所有と為り、明治六年養子竹内幸助(輔)之を譲り受け、爾来年々同所に於いて鮭引網を業とし来りしが、明治十六年に至り、俄に函館県達に依りて遊楽部河口海面横へ三百間、沖へ五百間の中は毎年三月より六月まで、十月より十二月まで年中六ヶ月の間、一切漁猟を禁ぜられてより以来、現に河口海辺に漁場を所有せる竹内幸助(輔)すら、尚且つ漁業を営むことを得ず。況んや他の人をや。決して網を入るること能はざるべし。(これ遊楽部川に明治十二年より鮭種育場を設けある為なり)唯種育場の監守人のみ報労として十月より十二月まで三ヶ月間は毎一週日に一回づつ河内に於て引網を為すことを特に許され居るのみなれば、昨年までは誰も此辺に於て引網・建網等を以て漁獲したるものあらざりき。本秋に至り竹内幸助(輔)始めて河口の南二百間許の海岸に鮭建網場を拝借せしより、尋で河北一里弱の所に開墾地の佐久間某等が鮭漁場拝借を出願したる程なれば、新紙に見ゆる如き函館の商人某が一昨年始めて引網を為せしなどは少しも形の無き話にて、其糸網なれば荒磯にて花々しき漁獲なく云々は甚だ可笑し。他所は知らず。此土地にては糸網にあらざれば引網は自在ならずと思わる。又佐久間某の仕入にて五投の建網を建るなど見ゆれども、そんな沢山の網は何処へ建てる積りにや。本年鮭網の建場と云ふは、此近傍にては山越内村宇沼尻、同村字会所前、同村字武弓部、八雲村字遊楽部、同字武威仆の五ヶ所に過ぎず。而して某内沼尻は山越内村の共同網、会所前は竹内幸助(輔)、武弓部は山戸多忠の網にて、已上三ツは大網と称する建網なり。遊楽部は又竹内幸助(輔)、武井仆は佐久間某が釜谷村の黒田万兵衛とか云ふ者と組合にて建つる網の内、已上二ツは俗に取措(とりおき)と称する大網三分の一乃至二分の一許の小さき建網なり。網の大小は暫く措き、此辺已に建つべき余地なし、彼の五投の網は何処の海に投ずる積りにや。甚だ解すべからず。雑報の事柄は実際の仕事と大に相違せるものあるに依り取消しを求めん為め、当地方鮭漁場の実況を叙すること此の如し。」附言「ホツキの如きは何でも宜けれども、昨年こそ少々干北寄も見へたれども、本年は少しも取れた風も、干した風も見得ず。盛に製造し居るなどは何処の話にや。以ての外の風説なり。」鮭魚は本年こそ当り年と見得、已に建てたる沼尻・会所前等は中々漁獲ありし由、税は少く、又小役人に始終納屋を探がさるる去年までの様な五月蠅こともなき故、人気極めて宜し。

 この記事は、10月11日の同紙に掲載された記事が事実に相違ありとして取り消しを求めるため、村の世話人木村某が投稿した文章である。ちなみに、その誤報といわれる記事は次のとおりである。

 字遊楽部にては函館商人山本巳之松氏が一昨年始めて鮭魚の引網を建たりしが、糸網なれば荒磯の為めに花々敷漁獲なく終に中絶し居たりし所、本年は同所開墾地居住佐久間某氏の仕入にて建網五統を以て漁獲に着手の由に聞く。又此頃よりホツキ貝を頻りと収穫し、干貝に製したるが、中々の良品なれば、弥盛んに製造すると云う。

 

落部・山越内村界の確認

 明治21年(1888)道庁では全道の漁場調査を実施し、「石狩・後志・渡島漁場ノ如キハ境界雑錯議絶ヘサルヲ以テ、漁場ノ区域、方位、沖出間数ヲ実測シ、妄点壟断ノ弊ヲ一洗セリ」としているが、当時山越内村と落部村との境界、特に海面区域について紛争が繰り返されていた。そのため、明治27年7月亀田郡外三郡役所から係官の出張を求め、両村総代人立会交渉の結果、その境界を再確認のうえ、次のような請書を提出して問題を落着させた。これについては、落部村においてももちろん同様の請書を提出したものと思われる。

 落部村ト山越内村トノ村界確認

 御請書

北海道渡島国茅部郡落部村及同道胆振国山越郡山越内村トノ村界ノ議ニ付、年々多少両村民間漁業季節ニハ紛紜勝ニシテ為メニ居合上不都合ニ付、曽テ判明之通、区画設定方申請中ノ処、明治二七年七月二十五日亀田外三郡書記海老名保真殿御出張実地調査相成、両村総代人立会交渉ノ末、左ノ事項ニ決定致候ニ付此段連署ヲ以テ御請仕候也。

 第一 国境、都村界共ニ従前御確定ノ通、名称野田追川中央ヲ以テスルコト

 第二 海面ノ区域ハ其年ニ天変ノ川流、則チ川ロヲ以テスル事 以上

 明治二十七年七月廿五日

 北海道胆振国山越都山越内村

 総代人 松岡元古

 但シ本人不在ニ付立会セス

 同上

 総代人 若山与古

 同上第十三組

 漁業頭取 加我新吉

 同上山越内外一ヶ村

 戸長 上田貢三

 亀田郡外三郡書記

 海老名保真殿

 

明治末期の漁業

 明治40年(1907)の八雲村の漁獲高をみると別表のとおりであるが、これによれば、当時の漁業はニシンの豊・凶によって漁家経済が左右されていたようである。ちなみにニシンだけについてみると、41年には三二一〇石、43年には三五〇〇石などと豊漁を示していた。

 しかしこのころ、村で作成する公文書の中では、

「当村水産業は年を逐うて漁獲減少し、之に加うるに当業者多く、旧慣墨守し、改良進歩を図るの思想に乏しく、啻に漁族来遊を待って獲得するに過ぎず。故に漁族来遊厚薄によって豊凶を決せらるるにあり。豊不共に自然に倚るの状態にして更に見るべきの成績を認めず」(事務監査調書)

と酷評するような状況でもあった。

 しかも伝えられるところによれば、いわゆるニシンブームも、明治の末に大不漁に見舞われて以来凶漁が続き、倒産するものも出る有様であったという。

 

明治40年八雲村漁獲高調

区 分 漁獲量 産  額
ニシン
1,899

24,616
サ ケ 338 9,544
イワシ 295 3,605
サ バ 40 399
カレイ 98 870
合 計 2,670 39,034

 

 また、イワシの漁法としては定置網以外に引き網、巻き網なども行われていた。

 明治の末から昭和の初めにかけて、漁業の全盛時代を迎えた当時の八雲沿岸の状況について、内浦町に在住して漁業経営を行っていた高田冬吉は、

 私は森町から九歳のときに一家と共に八雲に連れられて来たのは明治三七年(一九〇四)のことだった。当時ちょうど鉄道の敷設工事をしていたころで、そのころ八雲には、もう一〇〇戸以上の漁家が入り込んで漁を営んでいた。今とは違いその当時は、北海道沿岸の至る所でニシンが取れていたように、噴火湾でも本場ものとは違った茅部ニシンが相当に取れていた。小ニシンの地引き網とともに、サケ・マス漁ももちろん盛んであった。ニシンは建網で取り、明治四二年ころは大々漁の時期で、三〇〇石以上は水揚げされていたろう。そのころはこの八雲で建網は一〇か統程であったから平均しても三〇〇石は取れていたことになる。そのほかにニシンの刺し網も盛んで、一〇〇石は水揚げされていた。明治の末期ころは、今の景気ではとても想像のつかないものすごさであって、漁期に入ると業者が尾札部あたりから山崎の浜に番屋を建てて集まり、ちょっとした村を浜辺に現出させるブームを巻き起こしたものであった。ところがこのニシンは毎年四、五月に取れるので気温が高くて身欠きに出来ず、全部かすにたいた。今思えば全くもったいない気がするが、当時にすればしかたのない程取れたのだから、かすにたいて肥料にしたのも無理からぬことだった。

 サケの定置も八雲には六か統くらいあったと思ったが、一か統平均三〇〇石(一〇〇石で六〇〇〇尾)は水揚げしていた。今のように密漁はなかった。塩蔵もしくは鮮魚のまま函館・札幌方面および内地の富山県に出荷された。サケは定置を持たない業者は捕獲することはできなかった。それでも刺し網で正月用サケを取り、保存に縁の下に隠していたもので、どこの漁家でもそうしており、正月になればこのサケを台所に教本並べて下げ、食べていたのも懐かしい思い出である。これが大体昭和二年ころまで続いていた。

 ホッキ貝も明治の末期ころは、夏・冬を問わず一日二〇〇〇〜三〇〇〇個も取った。価格は一〇銭で二五個から四〇個という安値であったが、それでも一〇円は一日に水揚げされ、一か月一〇日間出漁して一〇〇円くらいになったから、小漁師も楽な生活をしていた。

 ニシン場のヤトイも一か統平均して一五人はいたろう。地方からでなく大抵は地元で補っていた。このニシンブームも明治の末期ころ大不漁にみまわれ、倒産するものも中にあったようだ。大正五年ころになって再びニシンは来たが昔程でなく、ポツリポツリと来る程度だった。噴火湾のニシンもこのころで一応終止符を打って華やかなイワシの時代に入る。

 イワシの取れだしたのは大正八年ころからで、回遊状況がよくなり、業者も目をつけ始めだした。最盛期は大正末期から昭和一五年ころまではいつも大漁、同時にマグロも取れはじめ、冷蔵船もあまり取れるのでもて余し、浜に捨てる現象さえ起きた。昭和七、八年ころは一尾六〇貫(二二五キログラム)もある大マグロが、たった七円の相場のときもあった。イワシかすの価格も、昭和六年は一〇〇石(六斗詰、一六六俵)で八〇〇円であった。イカも併せて取れたが、処置に困り一〇貫目(三七・五キログラム)一五銭くらいのただ同様で、天気の悪い日は棄てるときもあったくらいだ。昭和七年から一四年までが文字どおり浜はイワシで沸き返り、景気のよいことはこのうえもなかった。特に昭和八年、この年は最高記録の一七〇〇万貫(六万三七五〇トン)のイワシを水揚げするという空前の大漁で、大漁の日でなくとも海の色がイワシによって変わって見えたというくらいだから全くすごかった。漁業協同組合もあるにはあったが、漁師の景気もよかったせいで無いも同然、大した必要もなかったのだろう。漁協がよくなったのは、米沢勇氏が組合長として就任したころであった。

 このイワシの最盛期のころは、南部・秋田方面から出稼ぎに毎年二〇〇〇人のヤトイが入っていたろう。多い番屋で八人のヤン衆を拘えていた。八雲市街の人たちも出面に来、馬車はもちろんかす干しに来ていた。発動機船を持っている一流漁場が八雲に五〇戸以上はあり、朝、網起こしが済んで、この発動機船が沖合に停泊している風景はみごとなものであった。水揚げも一流業者で平均して二万円は魚かすだけで上がり、魚油・雑魚を入れて一〇万円は昭和七、八年ころ上がったから、今三〇倍に計算しても一年に三〇〇万円以上の収入があったことになる。

 このイワシもやがては切れるようになり、昭和二三年ころには全く取れなくなり、勇ましいソーラン節も聞かれなくなった。

 うま酒に酔いしれた漁夫たちは、今でも夢を見ている。「夢よもう一度と」と。

 しかし、戦後のひどい凶漁の傷跡は余りにもきびしく、夢からは覚め、浅海増殖に力を入れ、海に石を投げ入れコンブを採ることを覚えた。

 その成果を五年目の昭和三二年には三〇〇万円の収穫があり、ようやく再建に立ち上がる漁民の姿を今見ることができる。

 昭和三三年八月一日当時六三歳(『八雲新報』記事より)

と往時の盛況を伝えている。

 

 第3節 大正以来の漁業

 

イワシ漁業の盛衰

 第一次世界大戦の影響を受け、大正年代に入って漁業経済は好況を呈した。大正8年(1919)の八雲地区における漁家戸数は、専業159戸、兼業67戸の計226戸であったのに対し、翌9年には、専業177戸、兼業57戸の計234戸を数えているように、専業漁家の増加が目立った。そしてこのころになると、イワシの漁獲に増加の傾向が見られ、大正8年に三二〇〇貫であったものが、翌9年には三万貫を産し、その後、大正末期から昭和13、4年ごろまでのおよそ20年間は、イワシの全盛時代といわれる活況を呈したのである。

 特にこのイワシは、大正末期から飛躍的な増加を示し、大正14年に三六九万貫余を数えてから順調に推移し、昭和8年には実に一四一七万貫と有史以来の漁獲高を記録した。また、これにつれてイワシ建網数も昭和2年に二三統のものが、昭和8年には五二統を数え、さらに発動機船も大正末期の5、6隻に対し、このころでは22隻に増え、毎日大漁旗をなびかせて出漁する盛況が続いたのである。こうして生産されたイワシの大部分は肥料用魚かすとして販売され、その副産物として魚油が生産された。

 

大同魚糧(株)八雲工場(写真1)

 

イワシの漁獲風景(写真2)

 

 一方、落部地区においてはすでにボタンエビの生産地として名声を博しており、イワシに対する依存度は低いものがあったが、大正13年6月に茂無部(現、栄浜)の菊地松太郎が、初めてイワシ落網を使って好成績を挙げてから次第にイワシ漁業が盛んになり、相次いで大謀網が経営されるようになっていった。

 このイワシ漁の最盛期のころは、岩手・青森・秋田方面から、八雲で2000人、落部で300人あまりの出稼人(雇・やん衆・神様などと称した)が入り、多い所では80人もの出稼人を雇い、番屋と称する建物に収容して漁を行った。

 こうした好況を反映して、昭和6年11月に東遊楽部(現、八雲町漁業協同組合事務所所在地)に佐々木魚糧株式会社が、翌7年には茂無部に高村善太郎が、それぞれイワシを原料とする「フイッシュ・ミール」製造工場を設立するなど、昭和時代の噴火湾は日本3大イワシ漁場の一つに数えられ、八雲・落部とも主体漁業となり、生産の首位を占めるに至った。昭和初期における主要魚種の漁獲高と生産額は上記のとおりである。

 

昭和初期におけるニシン・イワシ・マグロの漁獲高

漁種
数量・金額

年度
・地区別
ニ  シ  ン イ  ワ  シ マ  グ  ロ
数  量 金  額 数  量 金  額 数  量 金  額
昭和 八 雲 6,400 640 3,831,040 268,173 1,100 880
落 部 26,650 3,460 889,550 88,950 300 450
八 雲 10,080 907 4,874,240 194,970 31,467 15,734
落 部 4,950 792 574,800 38,740 12,340 3,702
八 雲 7,520 602 4,976,000 149,280 11,270 5,635
落 部 70,040 4,903 504,700 15,141 990 396
八 雲 35,360 3,172 5,689,280 170,678 428 163
落 部 9,500 950 179,100 12,537
八 雲 9,440 661 14,168,000 425,030 8,515 2,555
落 部 6,230 810 540,900  32,450 30 17

(単位 貫・円)

 

 しかし、こうして全盛を誇ったイワシ漁も、全国的なマイワシ回遊の減少により、昭和17、8年を境にして年々減少の一途をたどりはじめ、19年には皆無の状態となった。戦後21年には若干回復を示したが期待した漁獲高はみられず、噴火湾のイワシ漁業は衰退し、これまであまり多いとはいえなかったサバやイカが、年によっては漁獲高の首位を占めるようになった。しかし、全体的な水揚高は依然として減少を続け、回遊魚族に依存する漁業の転換を迫られるようになっていったのである。

 

小手繰網漁業の推移

 大正の初期になってから発動機船が普及しつつあったが、湾内角類の乱獲や地方沿岸漁民との摩擦を防ぐため、北海道庁は大正9年(1920)に「機船による底引網漁業取締規則」を設けて、噴火湾内における発動機船による操業を禁止した。このため、発動機船は無動力船3、4隻のえい航に用いられたのが普及のはじまりといえる。

 しかし、日中戦争から太平洋戦争へかけて戦時体制が強化され、漁業においても軍需はもちろんのこと、動物性たんぱく質の供給源として重要な役割を負わされる一方、昭和16、7年以降に訪れたイワシ漁業の衰退にともなって、関係漁業者は他の漁業への転換を余儀なくされることとなり、カレイ・スケトウタラを目的とした小型機船底引網漁業、すなわち、小手繰網漁業へと転換が進められたのである。

 このことは、さきの噴火湾内底引網漁業禁止の措置と関連して多くの問題が発生し、「噴火湾漁業調整委員会」の設置によって調整を図った。しかし。この活動だけで小手繰網漁業の増加を食い止めることができず、密漁という形で年々増加の傾向をたどり「噴火湾漁業史稿」によれば、昭和16、7年ころすでに湾内全体着業数193隻を数え、そのうち落部42隻(22パlセント)、八雲15隻(8パlセント)を数えていたという。

 こうした状況のうちにも戦局は急を告げ、19年3月「機船底曳網漁業臨時特例ニ関スル件」(農商務省第一二号)に基づき、これまで禁止されていた小手繰網漁業が、戦時中の食糧増産という目的のもとに地方長官の許可漁業として初めて認められる道が開かれた。しかしこれには、「漁場の往復のみにラセン推進器を使用する手繰網漁業」という制限付きであったものの、こうなると名目は別として実際上は操業全般に動力が使用され、しかも、経営不振に陥っていた定置漁業者などは、競ってこれに道を求めその経営に入っていった。

 もちろんこうした小手繰網漁業は、カレイやスケトウタラだけではなく、網にかかるあらゆる魚類を捕獲してしまうという状況であったため、噴火湾内の漁業資源全体を必然的に破壊し、間もなく漁獲物の若齢化や漁獲高の減少を招き、沿岸漁業の衰退を導く要因ともなった。こうしてこの小手繰網問題は、噴火湾内だけではなく全道沿岸漁場の荒廃につながる問題として、クローズアップされたのであった。

 このため道水産部においては、ついに小手繰網漁業全廃の方針を打ち出し、昭和24年「小手繰網漁業整理要網」を定めて翌25年から減船に乗り出した。当然この整理は沿岸漁民に大きな反響を与え、種々の論議が交わされたが、小手繰網漁業者も荒廃する漁場の実情を認めざるを得なかったため、これに応じて年々減船を重ね、ボタンエビ漁に関する一部の例外が認められて若干期間の延長があったものの、31年までに全船が整理されて小手繰網漁業は姿を消すことになった。

 

トド駆除対策

 小手繰網漁業が姿を消し、湾内漁業は主として刺し網や小定置漁業へと転換していった。しかしこのころから、その数は少ないものの毎年11月から翌年5月にかけて、北大平洋に生息している巨大な海獣トド数十頭が群をなして南下し、湾内に設置してあるカレイ刺し網・建網・スケトウ刺し網・雑網などの漁具を荒したり、回遊するスケトウタラ・カレイ類・タコ・その他生息する雑魚を食べ荒し、多大な被害をもたらすようになった。このため噴火湾沿岸八市町(砂原・森・八雲・長万部・豊浦・虻田・伊達・室蘭)と10漁業協同組合(砂原・森・落部・八雲・長万部・豊浦・有珠・伊達・虻田・室蘭)が協議の結果、昭和30年代に「噴入湾トド対策協議会」を結成した。そしてトド回遊の時期にはそれぞれ関係市町のハンターに依頼のうえ、ライフルや散弾銃をもって駆除にあたり、これに要する経費は各市町と各漁業協同組合が負担することとした。

 昭和56年現在の協議会事務局は室蘭漁業協同組合にあり、会長は同組合長の北山秋男である。

 

漁村の疲弊と振興対策

 戦前・戦中における当地方の漁業は、イワシ・サバ・ニシン・マグロなどの回遊魚族を主体とする定置漁業を中心として発展し、また、これに依存するところが大きかったのであるが、戦後、これら魚族の回遊が減少して定置漁業の経営が不安定となり、規模の縮小や着業統数の減少を余儀なくされる状況を迎えたのである。

 さらに、小手繰網漁業による乱獲によって荒廃した噴火湾内漁場における総漁獲高も年々減少し、漁民の経営基盤をいっそう不安定なものとしていた。こうして、生産の中心となる対象を失った漁業者の目は、必然的に湾内に残された海藻や貝類に集中し、その漁獲高は年々増加する傾向をみせはじめた。

 しかしこれらの資源は、もとより沿岸全漁業者の需要を満たすほどの量もないため、漁業者の生活は極度に困難な状況となり、漁期以外には砂鉄採取人夫や造材夫などとして他産業に就業する者が多くなるなど、漁村の疲弊は極限に達し、漁業の危機とさえ叫ばれる状況であった。

 こうした事態に対処して関係機関が一体となり、不安定な定置漁業依存から脱して、地先海面の魚田改良を行い、浅海増殖の振興により漁民の生活安定を図ることを目的として、昭和26年に八雲町漁業振興委員会を組織し「 八雲町漁業振興5か年計画」を策定した。

 この計画は、

 1、漁業協同組合の再建整備にもとづく組合組織の強化。

 2、漁業経済確立のための定置漁業の整備統合。

 3、浅海増殖事業による魚田の改良。

 4、資源の繁殖保護と漁獲方法の合理化。

 5、魚付林の造成などを骨子として各種事業を強力に実施する。

というもので、これらの方針により27年から始められたコンブ礁築設(大正3年にコンブ礁投石は行われたが、その後中断)のための投石は、それ以来継続して実施され、さらに、貝類(ホッキ貝)の保護増殖のため禁漁区域を設定したほか、ホタテ増殖施設を設けて養殖試験に乗り出すなど、積極的な対策が講じられた。また、淡水魚族の養殖を目指して、アユ・カラフトマス・ワカサギなどのふ化放流試験も行われた。

 一方、小手繰網漁業が整理廃止されるにともない、カレイ類などの底生性魚族をはじめ、その他の資源も徐々に回復の兆しをみせ、特に高齢魚を対象とする刺し網・延べ縄などによる漁獲量はかなり増加して、30年ころには一応前途に明るい見通しが得られるようになった。こうして、沿岸漁業はしだいに浅海漁業に重点がおかれるようになるのである。

 

魚田開発入植 

 戦後、イワシ建網の衰微やエビ手繰網が不振となった半面、海外引揚者、復員者および二、三男の分家などによって漁業者が増加し、前浜でのコンブ採取を主とする程度の漁家経済は、昭和24、5年ころを頂点として、その生活が極度に困難な状況にあった。

 このようなときにあたって策定された北海道総合開発第一次5か年計画の一環として、水産食糧の増産と漁村過剰人口の調整を図るため、奥尻村西岸地区、豊富村稚咲内および幌延村音類地区、枝幸村山臼および音標地区・雄武町元稲府地区・斜里町ウトロ地区・羅臼村知遠別地区の6地区を選定し、漁民の入植が計画されていた。

 

コンブ礁投石(写真1)

 

 当時、漁民の窮状を憂慮してその打開策に腐心していた落部漁業協同組合長関口幸太郎は、漁民の移住による過剰解消と、これを基点とする村内漁民の出稼ぎ地を確保する考えのもとに、この魚田開発入植に参加を呼びかけるとともに、渡島支庁・道庁とも協議を重ねて現地調査の結果、羅臼村の基地を候補と定めた。

 その後、村長・議会代表・漁民有志などによる現地視察と調査を経て、26年4月に入植希望調査を行ったところ、申込者は22戸にも達したのであるが、現地受入側と協議して選考の結果、9戸の入植を決定して準備を進めたあと、同年9月に現地へ出発させたのである。その第一陣となったのは、菊地岩雄・木村金四郎・野口国武・石岡定一・菊地兼太郎・中村浩太郎・逢見市太郎・桶谷善四郎・白山福次郎の9戸であった。このうち、木村金四郎・桶谷善四郎・白山福次郎の3戸は、家庭の事情などで定住をあきらめ、翌年早々に帰郷した。

 翌27年にもさらに9戸が入植したほか、船大工・かじ工・水産加工などを目指す者の移住が行われ、その成果が期待されたのであった。その後、これら入植先の労務不足に対して落部地区からの出稼ぎも活発になり、また、職を求めて羅臼へ転住するものが出るなど交流が盛んになった。

 第一陣で入植した菊地岩雄は、のちに羅臼町議会議員・羅臼漁協理事なども務め、他の入植者もそれぞれ安定した生活を営んでおり、この入植は一応成功したものとみてよいであろう。

 

サケ・マス流網漁業への出漁 

 小手繰網漁業の整理や回遊魚族の不振により、他に活路を求めなければならなかった定置漁業者の一部の有志は、沖合漁業への転換を企図してサケマス流網漁業へ進出した。

 すなわち、昭和28年5月に室蘭沖から十勝沖を経て釧路方面を操業区域として、奥寺文男所有の幸運丸、米沢優所有の勢運丸、高田冬吉所有の第二宝山丸、木村三作所有の新栄丸(いずれも10トン未満)の4隻が出漁したが、船体が小型なのと湾外での操業に不慣れなこともあって、期待した成績を挙げることができず、1年限りで中止してしまった。

また落部地区においても同じように、漁業協同組合が第一・第二・第三幸栄丸(いずれも20トン級)3隻を造船、組合員20数名で船団を組み釧路方面に出漁、30年まで3か年操業を続け、疲弊した漁家経済に潤いをもたらしたのであった。

 

北洋漁業への出稼ぎ

 明治29年(1896)ロシアのコナク会社がデンビーと合同して、函館から漁夫46人を雇い入れ、カムチャッカで漁業に従事させたのが、日本人の北洋進出の初めといわれるが、以後は漁場の拡大とともに雇用が増加され、古老の伝えるところではあるが、明治33年ころすでに落部村の漁夫もこれに参加するようになっていたという。

 大正3年(1914)に創設された日魯漁業株式会社は、その後数社を併合してしだいに勢力を拡大し、カムチャッカの缶詰業の統一をはじめ、北洋漁業独占の観を呈するようになったが、落部村ではこの日魯漁業に雇われる船頭を多く出したため、これにともなう漁夫の出稼ぎも多くなるという関係が生じた。北洋への出稼ぎだけでも多い年で150人あまりを数えたが、5月に出発して7月末か8月初めまでには帰村し、コンブ採取ができるということで、これを生業の一部に組み入れている者もあったわけである。

 しかし、これら出稼ぎ漁夫に対する雇用契約時の支度金前貸しや、漁場切り上げ時の精算賃金が、本人への直接払いが慣例であったので、ときによっては飲食代に消えてしまって、家計に悪影響を及ぼす例もみられた。このため、大正15年11月25日「落部村出稼漁夫供給組合」を結成して事務所を落部村役場内におき、雇用契約書の作成、前貸金の貸付、精算賃金の支払い、渡航手続き書類の作成など、一切の事務を処理してその弊害の防止に努めたのである。その後、組合は「落部村出稼労務者保護組合」と名称を変更し、出稼ぎ者に必要な物資のあっせんも行った。

 もちろん、漁夫の出稼ぎ地は、北洋に限らず樺太・増毛・留萌などのニシン場所もあったが、昭和7年の落部村の実績によれば、道内が43、樺太が22に対してロシア領が115と圧倒的多数を占めていた。

 しかしその後、道内のニシン漁場が不振となり、その方面への出稼ぎは全くなくなって北洋への出稼ぎだけが残っていたが、これも太平洋戦争の拡大や終戦後におけるマッカーサーラインの設定によって、全く途絶えるという経過をたどった。

 このマッカーサーラインは平和条約の発効とともに撤廃され、北洋漁業も母船式サケ・マス漁業が再開されるようになると、再び日魯漁業株式会社の事業員としての出稼ぎが復活し、落部地区を中心として毎年多数を送り出すようになった。これら事業員は北洋出漁の手続きを円滑にするために組合を組織してきたが、昭和42年8月「落部北洋事業員組合」と改め、組合長に町長の就任を要請して円滑な運営を進めている。

 しかし、北洋漁業は制限漁獲量の減少によって、母船の減船という厳しい状況を迎え、出漁事業員も大きく減少し、ひところは120名前後であったものが、53年には21名程度に落ち込んでいる。

 

 第4節 漁業制度の改革

 

漁業法の改正

 昭和8年(1933)漁業法の改正、翌9年に漁業組合令の改正が相次いで行われ、組合経済事業のよりいっそうの強化が図られた。この漁業法改正の要点は、

1、漁業協同組合の権利能力を拡充し、そのもとで新たに組合員の一般経済の発達に必要な共同施設を行うことができること。

2、対外的な特定の経済事業を行う組合は責任組織によること。

などであった。

 そして、組合は責任組織によるものと、そうでないもの、その責任組織には、無限・有限・保証の三種、さらに、このうち組合員が出資するものを漁業協同組合とし、出資しないものを漁業組合とすることなどが定められた。しかも、責任組織を採用することによって、漁業組合ははじめて近代的な経済団体としての地位を確保することができることになったのである。

 こうした制度改正にともない、各漁業組合とも着々と改組準備を進め、八雲村漁業組合は昭和10年12月27日に「無限責任八雲漁業協同組合」として、山越内村漁業組合は翌11年1月18日に「無限責任山越内漁業協同組合」とそれぞれ認可を受け、新組合へ移行した。また落部村漁業組合も、これより先の10年8月29日に「無限責任落部村漁業協同組合」に改組の認可を受けて新組織に移行していた。

 こうして各組合は、組合員の漁業の発展および経済活動の拡充に力を注ぎ、資金の供給・貯金の取り扱いなどを通じて組合員の地位の向上に努めた。なお、このような活動の強化に対応し、当時八雲町役場内に事務所をおいていた八雲漁業協同組合は、昭和12年12月に東町(現、カトリック教会)に事務所を新築した。また、山越内漁業協同組合も14年2月に山越駅前に事務所を新築するなど、組合の機能も逐次充実されていった。なお、落部村漁業協同組合も10年11月に、落部十字街から浜に下がる途中の左側に事務所を新築移転した。

 

戦時下の漁業制度

 昭和12年(1937)日中戦争のぼっ発以来、国内ではあらゆる面において戦時体制が強化され、特に太平洋戦争の進展につれて物資が極端に欠乏し、すべての資材は強力な統制下におかれる状態となった。こうした背景のなかで政府は、昭和18年9月「水産業団体法」を公布(翌19年1月施行)し、従来の漁業組合・漁業協同組合・水産会・水産組合などに解散を命じ、水産関係団体を統合して、漁業者は漁業会、加工業者は製造業会に統一することとした。

 これによって翌19年2月21日、

 「水産業団体法第八十九条ノ規定ニ依リ其ノ組合ノ解散ヲ命ズ」

との指令があり、同日宇部町長ほか組合役員の中から4名に対し、

 「八雲町ノ区域ヲ地区トスル八雲漁業会ノ設立委員ヲ命ズ。」

という発令により、具体的にその設立を指示されたのである。したがって、時局に対応して早々と準備が進められ、3月1日に設立総会を関催して八雲漁業会会則などを可決、会長に米沢勇を選んだほか、理事5名、監事2名を選出して設立を決定した。そして、即日申請、即日認可という経過とともに、米沢勇を会長に任命する発令があって即日登記を完了し、戦時下の水産業における国策に沿って「八雲漁業会」は発足したのである。

 また、落部村においても同様にこの制度は適用され、ほとんど同時期に「落部漁業会」が設立されて会長に辻村美矩が就任し、その後21年2月に須藤秀吉が2代会長に就任したのである。

 しかし、こうして強制的に設立された漁業会は、その実際的な機能において、漁業権を享有し経済事業を行う点については従来と変わるところはなかったが、戦争遂行という目的のために行われたところから、民主的な協同組合の特色は全く失われ、統制事業を行う国の下部機関へと変わっていったことは他の産業と同様であった。

 

戦後の漁業制度

 昭和20年(1945)太平洋戦争が敗戦という形で終結したことによって、戦時下における統制的体制であった各種組織団体の民主化が叫ばれ、さらに、21年マッカーサー司令部覚書「政治的経済的地位に対する追放覚書適用の件」等々その民主化は促進されていった。

 漁業制度においても24年2月に「水産業協同組合法」が施行され、従来の漁業会は漁業協同組合に改組されることになり、「水産業協同組合法の施行にともなう水産業団体整理に関する法律」によって、八雲・山越・落部の各漁業会は、それぞれ解散と漁業協同組合の設立準備を進めたのである。

 こうして、所定の手続きを経て新協同組合の設立が図られたが、旧八雲漁業会の区域を分割して昭和24年4月30日に組合員251名をもって八雲漁業協同組合、同年5月14日に組合員59名をもって黒岩漁業協同組合の2組合が設立されたほか、同年5月31日組合員190名をもって山越内漁業協同組合が、また、9月15日に組合員442名をもって落部漁業協同組合がそれぞれ設立された。その後、組合の組織強化という指導もあって、28年4月に黒岩漁協は八雲漁協に吸収合併された。

 組合はその設立の目的を、

 「組合員が協同して、その漁業の生産能率を上げ、経済状態を改善し社会的地位を高めること。」

とし、組合員には、

 「地区内に住所を有する漁民で、一年のうち一二〇日以上漁業を営み、またこれに従事するもの。」

を正組合員とし、

 「組合の地区内に住所または漁業の根拠地を有する漁業生産組合や、組合の地区内に住所を有しない漁民で、その営みまたは従事する漁業の根拠地が地区内にあるもの。」

を準組合員とし、組合の行う主な事業(水協法一一条)として、信用事業・購買事業・組合員の漁獲物その他の生産物の運搬・加工・保管または販売事業などとされていた。

 

海区漁業調整委員会

 昭和25年(1950)3月14日に新制の漁業法が施行されたが、これは、従来の封建的な漁場所有制度を廃止して、沿岸漁場の全面的な整理を行うこととしたものであった。すなわち、旧漁業権は新漁業法施行後2か年以内に一斉に消滅させて新漁業権を免許し、戦前、漁村に多くの弊害をもたらした漁業権の私有化を廃止して、漁民相互の共有化を図ろうとするものであった。

 漁業権には、定置漁業権・区画漁業権および共同漁業権の三種があり、その体系が確立されたのであるが、これらを詳しく述べることは省略するが、いわゆる新漁業法によって、水面の総合的な利用の確保を図るための民主的な機構として設けられたのが「海区漁業調整委員会」制度である。委員会は漁業者および漁業従事者の選挙によって選出された委員と、知事の選任する委員によって構成され、漁業調整上において強大な指示権をもち、新漁業権の免許や再配分に大きな役割をもつものであった。

 こうして全道に49海区が設定され、関係分として「八雲・長万部海区漁業調整委員会」と「茅部北部海区漁業調整委員会」が設立されたが、その構成は公選委員がそれぞれ11名、知事が選任する学識経験者2名、公益を代表すると認められる者1名の合計14名とされていた。これによって昭和25年8月に公選委員の選挙が行われ、八雲町から坂田竹三郎ら6名が当選、このほか、学識経験者として大沢健太郎、公益を代表する者として大塚卯次郎(当時町助役)がそれぞれ選任された。また長万部町からは、公選委員5名、学識経験者1名が選出されて委員会が組織され、同年10月大塚卯次郎を会長に互選し、事務所を長万部町役場内において発足した。

 茅部北部海区の関係では、落部から公選委員として関口幸太郎、学識経験者として須藤秀吉が選任された。さらに、27年の選挙で公選委員として関口幸太郎・宮古金一、学識経験者として藤不退が選任されその職にあたった。

 この委員会は、発足以来新漁業制度や委員会の趣旨の普及徹底を図るとともに、よく漁民の声に耳を傾け、免許申請者の適格性審査や沿岸増殖対策などに努めた。また、噴火湾内の関係海区との共通問題を協議するため、隣接の茅部北部・有珠虻田・室蘭の各海区とともに昭和26年3月「噴火湾連合海区漁業調整委員会」(2以上の海区を合した海区に設置される)を設置し、広域的な見地から漁場計画の樹立、海区間の調整、小手繰網漁業の整理などに協力しあい、創設初期の困難な時代における円滑な運営を図った。

 昭和29年7月に海区の改正が行われて従来の全道49海区が24海区とされ、山越郡と茅部郡の8か町村(当時)をもって「渡島北部海区漁業調整委員会」となり、事務所は森町役場内に移された。しかし、この構成員数はこれまでと変わらず、29年、31年、33年、35年の各選挙では、当町から常に2名の委員が当選してその職にあたった。

 昭和37年7月には全道24海区からわずか10海区に改編され、函館市を含む渡島支庁管内町村を一体化した大海区制が採用されて、その名称も「渡島海区漁業調整委員会」と改称し事務所も渡島支庁内に移された。39年8月にはその構成も変更され、公選委員定数9名、学識経験者からの選任4名、公益代表者からの選任2名となり、任期が4年に延長されるなどの変遷をたどって現在に至っている。

 渡島海区という大海区制となってからは、当町から公選委員を送り出すことができず、わずかに昭和39年8月北口盛(当時町助役)が1期4年問、公益代表委員として選任されたにすぎなかった。その後、昭和47年8月に村田次郎、51年8月には村田次郎と工東清長の2名がそれぞれ公選委員としてこれに参画している。

 海区漁業調整委員会制度の創設以来、八雲町および旧落部村から選出された委員は次のとおりである。

 茅部北部海区漁業調整委員会

 開口幸太郎(二期四年)・宮古金一(一期二年)

 八雲・長万部海区漁業調整委員会

 坂田竹三郎(二期四年)・奥寺文雄(一期二年)・浅利始郎(二期四年)・高田金作(同)・沢田石雄(同)・清水要之助(同)・亀谷友吉(一期二年)

 渡島北部海区漁業調整委員会

 高田金作(一期二年)・坂田竹三郎(同)・橋本政之助(同)・森石太郎(二期四年)・沢田石雄(同)・佐々木孫治郎(一期二年)

渡島海区漁業調整委員会

 村田次郎(二期八年目)・工東清長(一期四年目)

 

 第5節 漁業生産の推移

 

戦後の漁業生産

 戦後における噴火湾海域の漁業生産は、昭和20年ごろまではマイワシを中心として暖流系回遊水族を対象とした定置漁業が大部分で、その漁場価値は極めて高く、日本三大イワシ漁場に数えられるほどの好漁場と称されていた。

 しかし、全国的なマイワシ資源の衰退とともに湾内の漁業生産量も激減し、21年当時の生産量は15年ころの約30パーセント内外にすぎず、全道の状況と比較して著しい低位生産地帯となったのである。

 しかも、漁業生産量が減少したとはいえ、依然として定置漁業の占める割合は極めて大きく、総生産量の約65パーセントは落部・森付近を中心とした定置漁業で占める状況であった。

 したがって、湾内漁業者の大部分である漁船漁業者は、残りの35パーセント内外によって経営を維持しなければならないため、その経営内容は非常に零細なものとなった。その結果、総経営体の60パーセントが漁業所得だけでは家計を維持することができず、漁業賃労働・砂鉄採取人夫・造材人夫などの兼業によって補っていたが、これらの兼業収入によってもなお赤字のものが多数であり、しかも、生活水準は全道の平均的レベルからかなり低位な状態におかれていたのである。

 こうした状況のなかで、昭和31年小手繰網漁業の全廃と、その後における浅海増養殖事業の進展によって、不振をかこっていた沿岸漁業にもようやく回復の兆しがみえはじめたものの、30年代の漁獲高についてみると、32、35、36、38年の4か年は4000トンを下回る凶漁に見舞われており、本格的な回復の状態ではなく、漁家経済も困窮から脱したとはいえなかった。

 しかし、前掲の年度以外はおおむね4000トン以上の生産高を示し、40年度ではスケトウタラの3173トンをトップに総量6500トン余を数え、以後は安定して常に6000トンを上回る生産を上げ、45年には1万トンを突破する生産を示した。

 これらの内訳は別表のとおりであるが、これを見ると、昭和50年以前では魚類が首位を占め、次いで貝類、海藻類、水産動物の順と変わらず、しかも、魚類を除いては増減の変動が激しく、総体に占める割合も低いものがある。

 しかし、36年度以降魚類のトップの座を守ってきたスケトウタラが50年から生産量を急激に減少しはじめると、これに代わって養殖ホタテの生産が急速に増加を示し、生産額では50年度から、生産量においても51年度から、貝類が首位の座を占めるという大きな状況変化を迎えたのである。

 ここで、しばらくの間首位の座を占めてきた魚類の変遷をたどってみると、33年に1361トンと魚類の総生産量の58パーセントを占めていたイワシ漁は、翌34年には481トンと激減し、以後も年々減少を続けて40年には全くみられない状況となった。これは、全国的なマイワシ回遊の減少とともに、噴火湾地帯のイワシ資源も極度に枯渇したためで、これを対象としていた定置漁業者の受けた打撃は極めて深刻なものがあった。

 またサバ漁については、34年の1605トンと、この年の総生産量の54.3パーセントを示したほか、37年の675トンがこれに次ぐ程度で、その他皆無の年も含めて期待できない状況となり、いわゆる暖流系水族の生産量は年々減少し、ニシンに至っては全く幻の魚となったのである。

 こうして暖流系水族が激減する一方、37年ころから寒流系水族であるスケトウタラ漁が増加し、40年以後における八雲地区沿岸漁獲高の大部分を占めるようになり、これにともなう水産加工業者の増加をみることとなった。しかしながら、50年の2、3月と6月以降、太平洋沿岸釧路沖から胆振・渡島沖にかけて、広範囲にわたるソ連漁船団の無謀操業によるスケトウタラ、サバの乱獲と漁具への被害、さらに、52年3月ソ連の専管水域200カイリ設定によって締め出された韓国漁船の噴火湾沖における無謀操業などの影響を受けて、スケトウタラ漁は激減し、これまでこの漁に依存していた八雲地区沿岸漁民は、再び新たな危機に追い込まれることになったのである。

 また、同じ寒流系水族であるカレイ類は、漁業資源の管理方策とともに、31年から始められた魚礁築設事業などの効果が現れて、おおむね安定した生産量を上げるまでに回復し、45、6年には2000トンを超える生産量を示すに至っている。

 

生産額の推移  (単位 千円)

区分
年度
魚  類 水産動物 貝  類 海 藻 類 総生産額
32 56,379 34.9 27,056 16.8 10,944 6.8 66,941 41.5 161,320 100
33 62,827 50.9 9,735 7.9 16,630 13.5 34,356 27.7 123,548 100
34 67,649 58.2 8,215 7.0 22,769 19.6 17.703 15.2 116,336 100
35 53,105 27.2 6,898 3.5 27,222 14.0 107,866 55.3 195,091 100
36 55,637 36.8 11,014 7.2 38,714 25.6 45,620 30.4 150,985 100
37 85,358 44.3 14,962 7.8 58,261 30.2 34,125 17.7 192,706 100
38 90,355 29.2 14,982 4.8 57,152 18.5 147,254 47.5 309,743 100
39 98,605 36.1 22,609 8.2 49,657 18.2 102,554 37.5 273,425 100
40 186,901 58.1 22,658 7.0 60,406 18.8 51,718 16.1 321,683 100
41 175,148 55.8 29,475 9.4 58,437 18.6 50,740 16.2 313,800 100
42 170,045 45.5 36,542 9.8 50,668 13.6 116,124 31.1 373,379 100
43 204,248 58.2 33,703 9.6 50,284 14.3 62,752 17.9 350,987 100
44 165,958 37.1 32,994 7.4 101,738 22.7 147,053 32.8 447,743 100
45 288,601 50.0 45,704 7.9 119,840 20.8 123,351 21.3 577,496 100
46 341,534 45.1 56,094 7.4 135,556 17.9 224,385 29.6 757,569 100
47 371,222 48.9 57,449 7.6 145,771 19,2 184,309 24.3 758,751 100
48 429,709 46.8 80,460 8.8 216,998 23,6 190,455 20.8 917,622 100
49 539,240 39.2 86,925 6.3 408,322 29.6 343,243 24.9 1,377,730 100
50 472,242 30.3 110,402 7.1 928,545 59.6 47,450 3.0 1,558,639 100
51 394,403 14.9 56,801 2.1 2,047,053 77.3 150,550 5.7 2,648,807 100
52 891,188 16.3 40,534 0.8 4,493,666 82.3 33,368 0.6 5,458,756 100
53 664,307 13.3 34,084 0.7 4,125,385 82.4 183,590 3.6 5,007,366 100
54 741,471 31.8 142,380 5.9 1,280,866 53.1 245,800 10.2 2,410,517 100
55 763,739 35.3 80,738 3.7 690,763 32.0 626,405 29.0 2,161,645 100
56 795,242 29.5 81,087 3.0 1,659,356 61.6 159,460 5.9 2,695,145 100

(北海道水産現勢)

 

生産量の推移  (単位 トン)

区分
年度
魚  類 水産動物 貝  類 海藻類 総漁獲高
32 1,748 49.8 843 24.0 314 8.9 605 17.3 3,510 100
33 2,342 57.1 1,092 26.6 414 10.1 254 6.2 4,102 100
34 2,995 71.5 392 9.3 693 16.5 113 2.7 4,193 100
35 1,524 46.9 444 13.7 557 17.2 722 22.2 3,247 100
36 1,529 50.2 483 15.9 647 21.3 385 12.6 3,044 100
37 2,862 67.5 357 8.4 818 19.3 201 4.8 4,238 100
38 2,013 56.6 244 6.9 628 17.7 669 18.8 3,554 100
39 3,901 68.0 860 15.0 477 8.3 495 8.6 5,733 100
40 4,960 76.0 856 13.1 564 8.6 149 2.3 6,529 100
41 4,368 74.2 1,012 17.2 368 6.3 137 2.3 5,885 100
42 5,669 84.2 528 7.8 336 5.0 197 3.0 6,730 100
43 8,782 93.5 179 2.0 255 2.7 179 1.9 9,395 100
44 5,254 85.2 130 2.1 457 7.4 326 5.3 6,167 100
45 10,020 92.5 177 1.6 469 4.3 168 1.6 10,834 100
46 9,326 91.2 228 2.2 410 4.0 260 2.6 10,224 100
47 9,928 91.0 328 3.0 465 4.3 188 1.7 10,909 100
48 8,604 87.3 489 5.0 593 6.0 174 1.7 9,860 100
49 13,383 85.0 396 2.5 1,638 10.4 323 2.1 15,740 100
50 6,301 56.7 501 4.5 4,264 38.3 56 0.5 11,122 100
51 2,045 20.5 350 3.5 7,408 74.4 156 1.6 9,959 100
52 4,793 21.8 112 0.5 17,029 77.4 64 0.3 21,998 100
53 2,494 12.9 34 0.2 16,594 86.0 175 0.9 19,297 100
54 2,404 31.5 278 3.6 4,713 61.8 235 3.1 7,630 100
55 3,160 51,5 206 3.3 2,288 37.0 487 7.9 6,141 100
56 2,468 29.4 163 1.9 5,578 66.3 204 2.4 8,413 100

(北海道水産現勢)

 

(一)   魚類生産量および漁獲額  (単位 トン・千円)

区分
年次
サ    ケ イ ワ シ サ   バ ニ シ ン スケトウタラ カ  レ  イ そ  の  他 小     計
32 34.6 6,951 865.0 12,671 41.0 1,507 130.5 10,294 4.1 124 310.3 12,775 362.5 12,057 1,748.6 56,379
33 83.3 15,262 1,361.1 21,025 228.2 3,692 5.5 418 0.4 16 383.4 11,725 279.7 10,689 2,341.6 62,827
34 61.3 13,117 481.5 7,781 1,605.1 20,633 16.4 834 24.9 650 333.7 11,965 472.3 12,669 2,955.2 67,649
35 20.0 6,050 487.3 9,954 91.0 2,397 75.6 4,008 19.3 484 419.9 16,235 410.6 13,977 1,523.7 53,105
36 35.7 8,364 177.3 2,912 190.9 3,608 100.3 3,610 332.7 8,172 267.6 11,879 424.6 17,092 1,529.1 55,637
37 90.0 21,683 55.8 1,641 674.7 9,422 24.6 1,538 1,041.0 16,614 165.3 7,641 810.8 26,819 2,862.2 85,358
38 75.1 26,267 83.2 1,683 10.5 346 64.0 5,425 1,003.5 20,568 274.8 15,657 502.1 20,409 2,013.2 90,355
39 29.8 12,493 14.1 329 1.2 22 7.5 437 2,853.6 44,001 342.6 16,791 651.9 24,532 3,900.7 98,605
40 36.8 14,771 0.3 11 - - 171.8 5,921 3,172.7 92,367 497.3 25,231 1,081.1 48,600 4,960.2 186,901
41 28.0 12,792 16.3 223 143.0 1,123 153.0 12,817 2,737.9 71,749 466.3 30,733 823.3 40,711 4,367.8 175,148
42 25.6 11,606 - - 10.0 176 - - 4,411.8 76,762 366.6 26,504 854.6 54,997 5,668.6 170,045
43 23.0 12,561 20.0 80 3.0 68 - - 7,387.0 93,956 652.0 43,523 697.0 54,060 8,782.0 204,248
44 - - - - 15.0 830 - - 4,112.0 57,217 727.0 37,539 400.0 70,372 5,254.0 165,958
45 - - 25.0 225 342.0 4,316 - - 6,847.0 109,126 2,098.0 96,624 708.0 78,310 10,020.0 288,601
46 36.0 17,943 - - 2.0 54 - - 6,226.0 129,955 2,164.0 121,669 898.0 71,913 9,326.0 341,534
47 64.0 34,701 16.0 475 151,0 2,755 - - 8,308.0 201,272 812.0 78,731 577.0 53,288 9,928.0 371,222
48 104.0 58,135 - - - - - - 7,220.0 190,051 833.0 116,009 447.0 65,514 8,604.0 429,709
49 49.0 37,889 347.0 5,217 355.0 5,334 - - 10,200.0 255,059 1,918.0 155,976 514.0 79,765 13,383.0 539,240
50 85.0 68,375 12.0 298 173.0 3,761 - - 3,960.0 102,652 1,212.0 199,454 859.0 97,702 6,301.0 472,242
51 137.0 102,568 34.5 869 188.0 5,419 - - 526.0 21,003 840.0 164,104 319.0 100,440 2,045.0 394,403
52 443.0 377,491 5.0 198 23.0 857 - - 3,075.0 241,966 807.0 171,641 440.0 99,035 4,793.0 891,188
53 310.0 276,306 108.0 2,176 2.0 78 - - 1,080.0 96,493 790.0 180,177 204.0 109,107 2,494.0 664,307
54 391,0 264,683 - - 7.0 198 - - 530.0 49,125 983.0 304,441 493.0 426,972 2,404.0 741,471
55 412.0 241,331 32.0 1,080 8.0 194 - - 1,412.0 151,260 774.0 235,518 522.0 518,426 3,160.0 763,739
56 1,147.0 489,194 105,0 1,084 2.0 56 - - 118.0 11,483 775.0 186,857 321.0 106,622 2,468.0 795,242

 

(二)   水産動物生産量および漁獲額  (単位 トン・千円)

区分
年次
イ   カ タ   コ ナ マ コ 毛 ガ ニ その他カニ ウ   ニ エ   ビ そ  の  他
32 26.0 770 51.8 1,939 - - - - 9.5 430 - - - - 755.5 23,917 842.8 27,056
33 3.6 101 35.0 1,692 - - - - 3.0 172 - - - - 1,050.4 7,770 1,092.0 9,735
34 10.3 125 57.1 3,081 - - - - 19.3 1,384 - - - - 305.7 3,625 392.4 8,215
35 0.2 6 30.7 1,954 - - - - 23.2 1,103 - - - - 389.7 3,835 443.8 6,898
36 15.7 378 44.5 3,286 - - - - 23.6 950 - - - - 399.4 6,400 483.2 11,014
37 27.7 863 20.3 1,655 - - - - 9.2 455 - - - - 299.7 11,989 356.9 14,962
38 23.9 368 25.1 2,396 - - - - 17.3 923 - - - - 178.0 11,295 244.3 14,982
39 5.3 318 34.7 3,941 37.9 2,102 7.6 668 21.8 1,335 5.5 220 16.1 5,202 731.4 8,823 860.3 22,609
40 1.4 58 31.8 4,135 34.9 3,021 6.6 467 38.7 3,332 6.3 328 6.0 2,608 730.0 8,709 855.7 22,658
41 5.2 172 38.6 6,019 26.2 2,453 2.5 250 11.6 854 8.2 453 24.2 7,151 895.2 12,123 1,011.7 29,475
42 - - 44.5 5,651 43.9 4,232 3.4 225 54.7 4,376 22.3 1,498 49.0 15,910 310.0 4,650 527.8 36,542
43 - - 33.0 4,676 54.0 6.284 2.0 182 34.0 4,939 15.0 759 32.0 16,594 9.0 270 179.0 33,703
44 6.0 434 45.0 4,587 34.0 4.284 - - 17.0 2,906 0 2,428 28.0 18,355 - - 130.0 32,994
45 2.0 148 75.0 11,059 33.0 5.634 - - 28.0 1,893 0 2,678 39.0 24,292 - - 177.0 45,704
46 6.0 706 73.0 15,742 13.0 1,961 - - 91.0 6,710 0 665 45.0 30,310 - - 228.0 56,094
47 4.0 752 38.0 8,239 20.0 3,468 7.0 1,320 20.0 2,333 1.0 2,286 43.0 26,048 195.0 13,003 328.0 57,449
48 52.0 6,275 40.0 8,436 28.0 5,633 40.0 10,377 17.0 2,353 0 2,154 21.0 26,152 291.0 19,080 489.0 80,460
49 77.0 23,861 23.0 6,215 9.0 2,561 15.0 2,366 73.0 9,029 1.0 677 61.0 33,955 137.0 8,261 396.0 86,925
50 100.0 25,806 4.0 1,106 2.0 771 18.0 6,581 - - - - 27.0 26,083 350.0 50,055 501.0 110,402
51 15.0 6,089 4.0 1,518 2.5 452 12.0 4,850 - - - - 15.0 17,191 301.0 26,701 350.0 56,801
52 7.0 2.526 3.0 1,459 1.0 371 14.0 8,433 3.0 1,282 - - 8.0 18,906 76.0 7,557 112.0 40,534
53 6.0 4,032 0 201 6.0 1,966 18.0 13,901 - - 0 927 4.0 13,057 - - 34.0 34,084
54 183.0 86,041 23.0 13,394 10.0 3,022 27.0 17,641 - - - - 7.0 19,643 28.0 2,693 278.0 142,380
55 114.0 35,267 29.0 16,998 4.0 1,742 21.0 9,954 5.0 2,923 0 922 3.0 9,361 30.0 3,571 206.0 80,738
56 60.0 27,499 56.0 20,540   1,760 34.0 15,443 5.0 1,413 - - 4.0 14,432 - - 163.0 81,087

 

(3)貝類生産量および漁獲高   (単位 トン・千円)

区分
年次
ホ ッ キ 貝 ホ タ テ 貝 そ  の  他
32 307.0 10,562 6.5 382 313.5 10,944
33 412.9 16,536 1.1 94 414.0 16,630
34 683.6 22,227 9.8 542 693.4 22,769
35 554.3 26,441 2.4 781 556.7 27,222
36 633.4 37,661 13.8 1,053 647.2 38,714
37 796.2 57,015 21.4 1,246 817.6 58,261
38 603.0 55,290 25.4 1,862 628.4 57,152
39 437.9 45,971 4.6 853 34.0 2,833 476.5 49,657
40 538.4 57,704 1.7 402 23.5 2,300 563.6 60,407
41 340.2 55,474 1.1 316 26.4 2,647 367.7 58,437
42 300.9 45,296 5.4 1,358 30.0 4,014 336.3 50,668
43 231.0 46,969 14.0 1,961 10.0 1,353 255.0 50,284
44 415.0 93,810 12.0 3,764 30.0 4,164 457.0 101,738
45 435.0 113,818 13.0 3,032 21.0 2,990 469.0 119,840
46 391.0 131,808 8.0 1,765 11.0 1,983 410.0 135,556
47 389.0 128,657 70.0 15,782 6.0 1,332 465.0 145,771
48 312.0 153,398 265.0 61,388 16.0 2,212 593.0 216,998
49 160.0 84,430 1,468.0 321,035 10.0 2,857 1,638.0 408,322
50 106.2 76,616 4,141.0 850,284 17.0 1,645 4,264.2 928,545
51 78.0 65,462 7,258.0 1,969,924 72.0 11,667 7,408.0 2,047,053
52 46.0 37,650 16,838.0 4,430,794 145.0 25,222 17,029.0 4,493,666
53 25.0 20,988 16,386.0 4,073,654 183.0 30,743 16,594.0 4,125,385
54 1.0 1,005 4,675.0 1,267,922 37.0 11,939 4,713.0 1,280,866
55 20.0 17,483 2,251.0 659,718 17.0 13,562 2,288.0 690,763
56 73.0 60,989 5,473.0 1,586,840 32.0 11,527 5,578.0 1,659,356

 

(4)海藻類生産高および生産額   (単位 トン・千円)

区分
年次
コ  ン  ブ ワ  カ  メ ノ   リ そ  の  他
32 605.2 66,941 605.2 66,941
33 253.9 34,356 253.9 34,356
34 112.5 17,701 0.3 112.8 17,703
35 722.0 107,866 722.0 107,866
36 382.9 45,439 1.2 149 0.7 32 384.8 45,620
37 201.0 34,125 201.0 34,125
38 668.4 147,195 0.7 59 669.1 147,254
39 495.0 102,444 0.2 110 495.2 102,554
40 147.0 51,156 1.7 461 0.1 101 148.8 51,718
41 135.6 50,355 1.1 330 0.1 55 136.8 50,740
42 194.0 115,024 1.0 215 2.3 885 197.3 116,124
43 153.0 57,290 6.0 1,822 20.0 3,640 179.0 62,752
44 312.0 142,110 4.0 1,640 920 10.0 2,383 326.0 147,053
45 142.0 105,224 24.0 7,611 2.0 10,516 168.0 123,351
46 250.0 217,600 9.0 3,273 1.0 3,512 260.0 224,385
47 185.0 182,600 3.0 925 784 188.0 184,309
48 164.0 187,050 10.0 3,405 174.0 190,455
49 322.0 342,022 1.0 1,213 323.0 343,243
50 56.0 47,450 56.0 47,450
51 156.0 150,550 156.0 150,550
52 63.0 33,219 1.0 149 64.0 33,368
53 175.0 183,590 175.0 183,590
54 235.0 245,800 235.0 245,800
55 487.0 626,403 487.0 626,405
56 204.0 159,460 204.0 159,460

 

漁船数の推移

 漁業を経営するために必要な生産手段として重要な漁船の、昭和32年以降における八雲地区の階層別推移をみると別表のとおりであるが、漁業形態が湾内を主体とし、しかも、沿岸浅海漁業が中心であることから、すべて10トン未満層に限られているといっても過言ではないであろう。

 これを総体的にみると、当町の総漁船数は37年(1962)の900隻を境にして年々減少をはじめ、44、5年を下限に再び増加の傾向を示し、50年以後は700隻をやや上回る程度で推移している。しかしその内訳をみると、動力船は全体的に年々増加の傾向にあるのに対し、無動力 船は37年の684隻をピークに急激な減少をみせ、漁船総数減少の要因は、結局無動力船の減少によるものということができる。

 一方、動力船の規模別変化をみると、3トン未満が圧倒的に多く、なかでも1トン以上3トン未満層は39年には300隻を超え、さらに、50年には500隻を超えるという増加を示し、総数の70パーセント以上を占めている。昭和32年当時の無動力船は総数の71パーセソトであったものが、40年には32パーセント、46年にはわずか2パーセントの13隻になっている。しかし動力船とはいっても、旧来の無動力船の船尾にモーターを取り付けた、いわゆる船外機付きのものが多く、しかも、3トン未満のものが大部分を占めて、沿岸漁業を中心とする小規模経営が支配的であることに変わりはなかったのである。

 昭和45年ごろからのスケトウタラの盛漁につれて、10トン未満層の動力船が次第に増加したのであるが、不振時代を迎えた50年以降は再び減少しはじめており、全体に占める割合も極めて少ない。

 こうした漁船増減の現象は、そのまま当町における漁業基盤の動向を象徴し、総体的に浅海増殖事業に移行したことを示しているといえよう。

 

階層別漁船数の推移

区分
年次

動力船
動        力        船 合 計
1トン
未 満
1.0
〜2.9
3.0
〜4.9
5.0
〜9.9
10.0
トン以上
昭32 581 81 34   121 702
33 575 84 36   126 701
34 526 118 38   168 694
35 450 10 141 40 34   225 675
36 625 14 148 41 12   215 840
37 684 15 147 40 14   216 900
38 435 22 243 42 11   318 753
39 261 99 335 57 15   506 767
40 244 112 339 62 4    517 761
41 88 106 335 57   506 594
42 98 105 338 61 513 611
43 58 101 338 64 13 518 576
44 24 74 224 16 323 347
45 17 108 345 57 16 527 544
46 13 105 344 54 27 531 544
47 13 104 358 47 40 550 563
48 13 108 389 43 47 589 602
49 12 95 432 41 47 617 629
50 12 87 515 58 45 706 718
51 71 525 72 29 698 699
52 63 542 104 26 736 737
53 50 502 146 46   744 745
54 48 473 148 53 723 724
55 34 477 152 53 717 718
56 29 475 155 52 712 712

(北海道水産現勢)

 

 

  第6節 増養殖の推移

 

ホッキ貝

 かつて貝類の生産主体を占めていたホッキ貝については残念ながら古い史料がなく、わずかに明治43年(1910)の生産八八八貫(3326キロ・222円)という記録(状況調書)がみられる程度にすぎない。しかし古老の語り伝えではあるが、明治の末ころは夏冬を問わず1日に2、3000個も取ったので、価格も25個から40個で一〇銭という安値であったが、それでも1日に10円程度の水揚げがあり、一か月10日出漁しても100円くらいになったので、小漁師でも楽な暮らしをしていたものだともいい、これに対する依存度の高さと乱獲ぶりを示す例話となっている。

 後年の昭和9年(1934)北海道水産試験場函館支場編輯による「噴火湾及水族の消長」によれば、

 「北寄貝は湾内の至る所の沿岸に棲息しているが、比較的濃厚な地帯は長万部、静狩から八雲に至る海区で河川の注ぐ砂泥質の海底で水深四尋乃至八尋を最も適応する地帯として棲息している。」

と伝えているうえ、近年の乱獲による不振について触れ、その増殖方法として、

 「ヒトデ類及び有効性食肉巻貝類の駆除をはかり、有害動物を駆除して繁殖率と採取率が平行を保つように講じたならば、往年の盛況を復活することはあえて困難なことではない。」

と有望性について述べ、その当時の当地方における漁獲高を上表のように記し、相当の生産があったことを示している。

 もちろん、こうした依存度の高いホッキ貝資源を保護するため八雲漁業会(協組)では、いち早く採取期間の自主的な短縮や禁漁区の設定など、積極的な対策を講じたのであった。

 

ホッキ貝漁獲高   (単位 貫・円)

年次
区分
地域
昭和4年 昭和5年 昭和6年 昭和7年 昭和8年
数量 金額 数量 金額 数量 金額 数量 金額 数量 金額
落  部     20 12 100 28 150 56 80 16
八  雲 30,500 11,800 53,340 13,335 56,280 11,236 50,440 10,048 55,500 25,100

(噴火湾及び水族の消長・北水試函支)

 

 昭和26年には不振にあえぐ漁業の振興五か年計画が樹立され、直ちに事業に着手したのであるが、その中でもホッキ貝に対する比重は大きく、町は関係漁協と協調して貝の不生息箇所を万鍬(マングヮ=マンガ)と称する熊手の形をしたもので耕し、28、30の二か年にわたって幼齢貝の移植を試みた。このほか、黒岩から内浦町にかけて5万坪(約16万5000平方メートル)を耕起してその増殖を図った。また、29年から10数年にわたってヒトデ採取を奨励し、買い上げするなど繁殖障害の除去に努めた。特に34年度から43年度まで連続して稚貝(場合によっては成貝)を移入のうえ放流し、また、47年には432万粒の稚貝を移植するなど、その増殖を図ったのである。しかしホッキ貝の漁獲高をみると、37年の796トンをピークにして、その前後はおよそ500トンを上下することを維持していたものの、40年ごろからわずかずつ減少を示しはじめ、49年には100トン台に落ち込み、51年にはさらに悪化して100トン未満となり、往年と対比して到底考えられない状況となった。

 こうした生産量の減少理由としては、当然に資源そのものの減少が挙げられるが、49年ごろからはじめられた「マングヮ」の動力使用による傷貝の死滅や、海底環境の悪化などが原因となっているものとみられており、このまま放置すれば遠からずホッキ貝絶滅の危機さえはらんでいるため、ついに53年以来全面禁漁によって、資源の維持培養を図ることになったのである。

 このような関係者のたゆみない努力と並行して、別途に進められている大規模増殖場関発事業離岸堤式防護施設による成果とによって、再び往年に迫る生産量が回復できるよう期待されているところである。

 

ホタテ貝

 前掲「噴火湾及水族の消長」によれば、

 「帆立貝は噴火湾全域に棲息しているが、比較的濃厚に棲息している海区は、室蘭湾頭より伊達町稀布に至る海区と有珠虻田を経て八雲に至る地域に棲息しているが、八雲を除いて他は漁業として経営の成立つ程のものではない。」

とされている。また、明治26、7年ごろには殼長六、七寸(20〜23センチメートル)の大型のものを採捕していたという。

 しかしその後は、カレイなどの刺し網にかかったり、野田生山越の漁民が八柵で採取した時代もあったが、漁獲高は微々たるものであり、その原因として考えられることは、湾内は深い底質泥土であるため、種苗の窒息死と、ヒトデなど害敵の被害による繁殖障害であるとされてきた。

 昭和20年代に訪れた沿岸漁業の慢性的な凶漁対策として、これまであまり重要視されなかった海藻や貝類が注目され、浅海増殖・栽培養殖漁業の拡充強化が叫ばれるようになった。こうしてこのホタテ貝の増殖事業が着目され、町は山越漁業協同組合とタイアップして、28年5月にわら網を用い増殖施設50坪(約165平方メートル)を設置した。その結果、稚貝の付着状況が良好なことが確認されたので、さらに翌年もこれを実施し、30年には稚貝一〇〇貫(375キログラム)を人工採苗して放流するなど、ホタテ貝漁場の造成に努めたのであるが、これにしても生産量の増加までには達せず、低迷状態を脱することができなかった。

 ホタテ貝の養殖が本格的に始められたのは、漁業構造改善事業が実施された昭和41年以降のことで、この年6月上旬、個人経営体1、漁協青年部2が、採苗盆、HZフィルム、松葉式採苗施設を用いて天然採苗を行った結果好成績を収めたので、9月に中間育成収容数個人分10万粒、青年部5000粒(昭和42年度改良普及事業計画・八雲地区水産改良普及所)の種苗を得ることができた。

 これがホタテ貝増養殖のきっかけで、漁業構造改善事業と相まって八雲・落部両漁業協同組合による増産計画が立てられ、地場放流のための漁場造成事業を実施し、害敵であるヒトデ駆除のための消石灰の散布、また、侵入を防ぐための漁場周囲への捕獲器の設置などを試みるとともに、45年に種苗15万8000粒を放流して積極的に事業を推進したのである。

 さらに46年からの第2次構造改善事業の一環として、ホタテ貝採苗および中間育成施設が、八雲沖に4台、落部沖に9台設置された。これは、産卵期の5月いっぱいに水温8度〜10度(摂氏)の海中に施設を入れたあと、7月中旬に粟(あわ)粒ほどに成長した段階で濃密度などを調査し、8月中旬〜下旬に1センチメートルほどに育ったものを、中間育成施設(1基180メートル)に移し替えて集約し、3センチメートル程度の稚貝になる11月末から12月初句に各地区に供給して放流するもので、ホタテ稚貝の安定供給を図ったのである。

 こうした積極的な増養殖事業の実施と、湾内の肥よくな水質などによる好適な環境に恵まれ、事業開始以来その生産は飛躍的に増加し、51年には7258トンの生産量、19億7000万円の生産額を上げ、貝類総生産額の96・2パーセントを占めるという、八雲地域沿岸漁民にとって最大の収入源となったのである。

 一方、養殖施設の設置は、各漁業協同組合に与えられている区画漁業権の区域内だけに認められているため、八雲・落部両漁協では施設の増加に対応するため、区画漁業権の拡大策を図るなど各種の対策が進められたのである。

 さらに、ホタテ養殖漁業の伸展にともない、漁民から強い要望となっていた養殖作業用突堤が50年栄浜地区に建設された。これは、縦・横35センチのH型鋼20本を海中に打ち込み、延長65メートル、幅5メートルの真っすぐ沖へ向かって造られたさん橋で、取付道路、防護さくなどを含めた総事業費は3014万円であった。これによって、養殖かごの清掃や入れ替え、資材搬入などの作業が容易になり、漁港を持たない地区の作業効率のアップに大きな役割を果たすこととなった。

 

噴火湾ほたて漁業育成協議会

 昭和40年代後半に実施された第2次沿岸漁業構造改善事業のなかで、漁業者のたゆみない研究と努力によって急速に伸長したホタテ貝養殖漁業は、当町における漁業生産の主体となりつつあったが、もちろんこれは当町だけではなく、広く噴火湾の全域において発展し、昭和50年の生産額は実に60億円に達して、湾内漁業の大部分を占めるに至ったのである。

 しかし、こうした急成長を遂げたホタテ漁業の、健全で恒久的な育成発展と安定を図るためには、漁場利用・管理技術・流通対策・環境保全など、広い分野にわたって問題点を持ち寄り、関係機関や団体が積極的に研究協議する共通の場を設ける必要性が痛感され、51年4月有志の発起により「噴火湾ほたて漁業育成協議会」が組織された。すなわち、当町をはじめ砂原・森・長万部の各町と、胆振支庁管内の室蘭市・伊達市・豊浦町・虻田町など、噴火湾沿岸の各市町村長や漁協組合長のほか、関係行政機関・団体・研究機関をすべて包含した組織であり、その活動の成果が期待されたのであった。なお、初代会長には森漁協組合長の加藤初五郎が選任された。

 

ホタテ養殖(写真1)

 

ホタテ貝毒問題

 昭和49年(1974)に青森県陸奥湾で発生した養殖ホタテ大量へい死と同様の兆候が、51年ごろから噴火湾内にも現れ、噴火湾ほたて漁業育成協議会では、52年2月函館水産試験場などの試験研究機関に養殖許容量調査を委嘱し、究明に乗り出した。

 昭和53年7月1日噴火湾産の養殖ホタテに、プランクトンが原因と見られる毒性が含まれていることが道衛生研究所の試験で発見され、6月29日以降に出荷されたホタテ貝の返品と回収が保健所を通じて指示された。

 この毒性は、ゴニョラックス属のプランクトン毒性(ゴニョラックス・カテネイラ・フンカワンと名付けられた)で、貝がプランクトンを食べることによって貝内に蓄積し、人がこれを摂取すると手足がしびれ口がもつれるなどのまひ症状を起こすもので、最小限致死濃度は3000〜30、000Mu(マウス・Muはマウスユニットの略称で、毒性の単位、1Muで体重20グラムのねずみを15分間で死亡させる)とされ、かなり幅はあるがわが国では食品衛生法による許容基準がないため、米国の蓄積基準値である「4Mu」を準用して、採捕の禁止や出荷停止の基準としていた。

 道衛生研究所が行っている「栽培漁業生物検診事業」として、ホタテ貝の毒性試験を行ったところ、豊浦産の貝から5月以降微量の毒性が検出されていたが、6月27日には最高13・8Mu、中腸腺(せん)(消化器、ウロ)からは97Muという高い濃度の毒性が検出された。このため、同衛研において湾内漁協の検体について再試験を行った結果、むき身部分で、豊浦産16・9Mu、長万部9・49Mu、森7・8Mu、虻田6・5Muという準用蓄積値を上回わる結果が出たため、さきに述べたような指示がなされたのである。

 さらに道は緊急対策会議を開催し、噴火湾沿岸の豊浦町では毎日、また、室蘭・長万部・森・砂原の4か所では3日おきに、毒性4Mu以下になるまで継続して定点観測を行うこととしたのである。

 こうして、急激な発展を遂げ、昭和52年度において生産量・生産額ともに首位の座を占めるに至った養殖ホタテ漁業にとっては、まさに青天のへきれきともいえる大問題となり、漁民生活をおびやかすこととなった。

 このため町議会においても、53年に「ホタテ対策協議会」を、さらに54年には「ホタテ対策特別委員会」を設置し、生産者団体と行政側などの意見統一を図ることとした。そして漁民の負債償還条件の緩和や負債整理資金の導入、利子補給などの施策を講じ、経営の安定化に努めたのである。

 しかしその後も原因不明によるへい死貝は増え続けたので、漁民は生産の自主規制を行い、毒性値に応じて殼つき、ウロ抜きボイル加工、貝柱の3本立てで出荷体制を組み、検査によって毒性値が基準を下回った場合に限り操業することとした。このため、52、53年においては1万6000トン以上の生産であったものが、54年には4600トン、55年には2200トンと極度に落ち込んだ。こうしたことから漁民は、研修会を開催して養殖方式(丸カゴ方式耳っり方B式)などを研究し、安定経営に向けて懸命の努力を続けている。

 その結果、徐々に回復の兆しを見せはじめ、八雲・落部両漁協においても、これまで以上に養殖技術や管理に留意するとともに、養殖ホタテ枚数の規制を徹底し、貝毒が発生する時期を含めた周年出荷体制の確立を目指している。

 

コンブ

 噴火湾における海藻類の主体をなすコンブは、噴火湾だけではなく全道各他の沿岸において産出し、その歴史は古く、すでに西暦715年(霊亀元年)に「昆布を献す」と旧記にあり、本道の重要な海産物でもあった。

 往古、コンブを採るのはアイヌが自分たちの食料とするためのものだけであったが、宝永年間(1704〜1710)に東部日高の漁民がこれを採り、寛保元年(1741)にコンブ100万斤を長崎俵物として輸出するという官命あり(「松前年暦歴捷経」)、と記されているのが商品としてのはじめと思われる。八雲地方の沿岸においてもコンブの産出は多く、安政6年(1859)に落部で折コンブを出荷している記録があり、そのほか種々の文献に断片的ではあるがその生産量が記されていることは、明治以前の漁業の節で記したとおりである。

 このようにコンブは湾内の浅海部全域にわたって生育し、その生産量は昭和15年(1940)に38万貫であったものが、31年には64万貫にまで増加し、沿岸漁民にとって期待できる資源であり、依存度の高いものであった。

 したがって、戦後漁業資源が次第に枯渇して浅海増殖の重要性がクローズアップされるようになると、八雲・落部の沿岸においても、昭和26年以来年次社内によって、コンブ礁築設のための自然石投入やコンクリートブロックの投入事業などが積極的に進められたのである。

 

コンブの漁獲(写真1)

 

 この結果、昭和32年・35年・38年など魚類の生産が少なかった年は、たまたまコンブが3年周期の豊漁の年にあたり、その年の生産高の20パーセント内外の生産を上げ、漁家経済の安定に大きな役割を果たしたのである。

 しかし、40年以降の生産は種々の要因によって必ずしも3年周期の豊漁にはならず、少しずつではあるが減少傾向を示しているものの、依然として総生産額の20パーセント以上を確保し、当地方の水産物としては重要な位置を占めている。

 

森・落部間海面境界の協定

 昭和19年(1944)前浜コンブ採取について支障があるとして、落部・森漁業会の2者間で次のような海面境界についての協定書が交わされた。

 森・落部両漁業会境界線暫定協定書

 森・落部両漁業会海面境界ハ、両町村地上境界ヲ基点トシ南北ニ対シ三五度ヲ劃スル線ヲ以テ境界ト為スハ既ニ昭和五年十一月六日農林省登録済ナルモ茂無部川中心線ヲ以テ地上境界ト為スニ当リ流曲線ノ変形及旧陸橋ノ位置替ヘ等微細ナル点ニ於テ境界決定ニ遅疑ヲ生ジ昆布採取期ヲ前ニ支障ヲ来シタル処今回両関係者現場ニ立会ヒ境界及測定基点ニ関シ暫定措置トシテ左ノ通リ協定シ操業上円満協調ヲ約シタリ。

 協定録

 茂無部川コンクリート陸橋中央地点ヲ元標トシ規定角三五度ヲ成ス東北微北ノ線ヲ以テ境界トシ海面ヲ貫キ対岸小臼山(小有珠山)ノ頂上ニ到ル見透シ線ヲ以テ協定線トス。

 但シ昆布採取ニ際シテハ特ニ戦局逼迫ノ秋徒ラニ個々ノ利益ニ囚ルハ恥ツベキコトニテ仮ニ境界線ノ見誤リニヨリ二・三間海面区域ヲ交錯混合スルコトアリタル場合ト雖モ故意ナラザル限リ円満協調ヲ基トシ隣保共助精神ヲ以テ善処スルモノトス。

 右ノ通リ暫定協定ス。

 昭和十九年七月十七日

 落部漁業会 会長 須藤秀吉

 森漁業会 会長 砂子賢次郎

 (ほかに立会人として、理事・総代・主事の記載があるが、双方共に省略した。)

 

ボタンエビ

 噴火湾特産の「ボタンエビ」は、明治39年(1906)に森村の山一印の川崎船が、砂原村の沖合で地引き網を用いてこれを捕ったのが最初といわれている。落部村の漁民もこれにならって明治44年10月にエビ漁を試みたところ、予想を上回わる成績を上げたため、徐々にこれに着業するものが増えていった。

 エビ漁は10月から翌年3月まで川崎船で出漁し、沖合2、3里の所で打瀬網(手繰底引き)を引く漁法であり、1隻の乗組員は4、5人を要したが、漁期間の風向きなどは落部が最も恵まれていたので、やがて先進地をしのぎ、ボタンエビは落部特産の観を呈するようになった。

 乗組員は歩方契約を慣例として月ごとに精算する方法がとられ、漁獲総額から諸経費を控除したものを配当するのであるが、船主は「船歩」と称して漁網や漁具の使用代償に2人分を受け取り、残りを乗組員に配分するというものであった。乗組員は「乗子」と称し、各自食糧を持参して自宅から働きに出たが、その稼ぎ高は明治末期で月7、80円、大正年間では200円前後、昭和12年ごろで収100円くらいになり、この漁期間は村内の景気も活気にあふれ、料理屋や飲食店も大いににぎわったものであるという。

 大正12、3年ごろには亀田・茅部郡下から川崎船をもって入稼ぎするものが300余名となり、落部を根拠地とする船数が100余隻にも達するなど、盛況を示したこともあった。また、湾内での発動機船による操業が禁止されていたにもかかわらず、虻田方面から落部沖合にきて発動機船でエビ底引き漁業をするものが出るようになったため、渡島支庁ではたびたび監視船を出動させて警戒し、だ捕に努め、ときには海上で追跡することも珍しくなかったという。

 昭和10年(1935)にはエビ漁が許可漁業となり、従来の出漁船80隻あまりが60隻に制限され、管内の許可区域も落都だけに限定された。しかし、隣接する町でもエビ漁許可の要望が強かったため、13年9月には関係漁業組合の協議によって、入会漁業の名目により森町15隻、八雲町7隻が承認された。

 ボタンエビはきわめて声価が高く、東京をはじめ本州各都市ばかりでなく、札幌や道内主要都市へ出荷されていたが、昭和11年9月に天皇陛下が陸軍特別大演習御統監ならびに地方行幸のため来道されたおりには、9月27日から10月7日までのうちの7日間、1150尾を御料品として献上するという光栄に浴したのである。

 エビ漁は、渡島管内では落部村、胆振管内では豊浦村の専用漁業の観があったが、15年8月に沿岸12の漁協が協議した結果、自由入会漁業に変更した。そして川崎船85隻を220隻に増加し、川崎船5隻以上の引き船として発動機船が使用できることに協定された。

 しかし、これまで許可漁業として漁船を制限してまで保護してきたものを、このような協定をしたことによって結局は乱獲の原因となり、当然のように資源が枯渇するという状況を迎えたのである。

 このような手繰網漁業による資源の乱獲は、噴火湾ばかりではなく全道沿岸に及んだため、道庁では24年に小手繰網漁業全廃の方針を定め、26年までに整理を行ったのである。

 

落部ボタンエビとイワシ漁(写真1)

 

 エビ漁に依存するところが大きかった落部村の漁民は死活問題として陳情に陳情を重ね、ようやく全面的な減船は保留となって26年に30隻が許可されたが、その後27年に4隻、28年に5隻が減船され、31年には全船の許可が打ち切りとなったのである。

 産額は年によって増減はあるが、大正7年に320貫、大正末期37万貫、昭和11年7万貫(8万4000円)、同12年6万5000貫(9万1000円)などの記録がある。

 許可打ち切りとなってからもエビ漁に対する落部漁民の執着は強く、このため密漁する者が続出し、「海のギャング」とか「ギャング化する密漁船団」などと新聞ダネになることがしばしばあり、32年まではこのような状態が続いたのである。

 またこの当時、かごによる漁法を試みたものもあってよい成績を上げたようであるが、次第に盛んになってきたスケトウタラの漁期と重なるため、生業とするには至らなかった。

 

ノリ・ワカメの養殖

 戦中戦後を通じて暖流系回遊水族の減少にともない、噴火湾漁業は浅海増養殖へと転換していったのであるが、当町におけるノリ・ワカメの養殖事業は、昭和36年(1961)に初めて着手したのである。

 しかし、当初これに着業するものは極めて少なく、町は委託事業として38年からノリ・ワカメの養殖試験を開始した。これは道費と町費をもって若干の経営体に試験研究を委託したものであった。八雲町漁業協同組合においても、青年層を先進地である有珠に派遣して、養殖加工技術の習得にあたらせたのであった。この結果、良好な成績を収めるものが出てから、これに着業するものが続くようになって本格化し、38年に浮動式10柵を入れ、続いて15柵、26柵、24柵と連年新規施設を増設して増産体制が築かれていったのである。

 一方、38年にノリ加工器具一式が八雲・落部両漁協に導入されて生産に対応し、さらに、41年には発芽管理器2台を導入するなど着々整備されていった。

 こうしたノリ・ワカメ養殖企業化の奨励に加えて、41年度から開始された構改事業の中心が養殖漁業にあったところから、八雲・落部内漁協では43年度から沖合養殖保全施設事業および漁場造成改良事業を実施した。さらにこれらの事業に関連して、44年に八雲町漁協が事業主体となって「のり・かき等処理施設」1棟を設置したほか、翌年には「のり種苗培養施設」1棟、「乾燥施設」1棟を設置するなど、健苗の確保と栽培期の延長、共同加工による品質の向上と製品の均一化を図ったので事業は順調に推移した。こうして45年度には干ノリ54万枚(1052万円)、ワカメ24トン(760万円)の生産を上げた。さらに養殖技術や加工技術の普及を図るため、技術職員を配置して研究を重ねた結果、日産3万枚の生産を上げるまでになり、養殖漁業の中心として期待されたのである。

 しかし加工原料の不安定と、新規事業であるため種々の障害が生じ、これに加えて47年1月の激しい南東風による大しけによって、各経営体は壊滅的な打撃を受け、再起不能な状態になったのである。このため、ようやく軌道に乗りだしたノリ・ワカメ養殖事業は、ここにおいて行き詰まり、これに代わって養殖ホタテヘの転換が奨励されたことから、不振のうちに終止符を打つ結果となった。

 

ワカサギ

 昭和28年(1953)4月に町は遊楽部川鮭鱒保護協力会の協力により、網走湖からワカサギ卵2億5000万粒を移入してふ化放流したところ、多量の漁獲をみることができた。これに力を得て引き続き29、30年と連続して放流し、また、31年から33年にかけて地元採卵によるふ化放流が試みられたが、期待した成果は得られなかった。

カラフトマス

 昭和26年(事業主体・同前)に100万粒、27年に90万粒をふ化放流し、28年には遊楽部川で2000尾、沿岸で推定2000尾を漁獲したという記録があるが、その後は継続せず中断の状態である。

 

クルマエビ

 昭和41年(1966)に八雲町漁協と町がタイアップし、山口県秋穂からクルマエビの幼体50万尾を移入のうえ、八雲港沖合に放流してその成育に期待した。その後、水産試験場、渡島支庁水産課などの支援を得て2回にわたる採捕試験を行ったのであるが、1尾も採捕できず失敗に終わった。

 

アワビ

 昭和35、6年度と42年度において、八雲地区水産改良普及所がアワビ稚貝を移植して漁場造成を図ったのであるが、以後中断して大きな成果を期待できる状況には至らなかった。

 

アユ

 遊楽部川におけるアユの増殖を目指し、昭和26年(1951)に朱太川(寿都郡)からアユ卵100万粒を移入したのをはじめ、27年300万粒、28年500万粒(地元採卵100万粒)、29年750万粒(同300万粒)など相次いで放流して、ある程度の成果を上げたのであるがその後はしばらく中断となっていた。

 しかし、河川環境の保護と遊漁者に対する資源増殖のため、48年には再び遊楽部川をアユの上る川にしようということが計画された。そして、八雲町漁協の準組合員になっている釣り同好者の組織である「遊楽部川鮎増殖協力会」に委託し、琵琶湖から移入した稚アユ5万尾を放流したのをはじめ、以後も連年放流しているが、現在のところ一部の釣り愛好者を楽しませる程度にすぎず、必ずしも良好な成績を挙げるに至っていないのが実状である。

 

水産動物

 噴火湾内における水産動物の主なものとしては、エビ・タコ・イカ・カニの類