第5編 運輸・通信

 
第1章 交通

 第1節 国道開削前の交通

往古の陸海交通
 蝦夷地において和人の往来が盛んになる以前の陸上交通は、海岸の砂地とか砂れき地や台地、原野などを利用して、自然に踏み固めた道路があった程度で、海岸から奥地に入るときは川や渓谷をさかのぼるか、あるいは山の尾根をたどって歩くより方法がなかった。
 当時、箱館から山越内に到着するためには、船を利用するのが便利であったが、陸路であれば茅部峠から大沼の北を経て森に出て、海岸を歩いてくるという経路であった。しかも、この通路にも橋・宿・馬などはなく、アイヌを雇って案内させ、夜はアイヌの家に泊りながら山越内へ着くまでには数日を要する状態であったという。
 また、陸地を横断して太平洋側と日本海側を連絡する通路としては、遊楽部と瀬多内(瀬棚)との間、長万部と歌棄との間などがあったが、これらの道は、アイヌが狩猟のために通る程度で、夏、草やささが生い茂ると、かれらでも通行が困難になることが多く、丸木舟で川を行き来したのであった。遊楽部と瀬多内の途中に「サックルペシュペ」と呼ばれる地名があったが、アイヌ語で「夏季越す路」の意であるところから、冬は通行不能になる通路であったことがうかがわれる。
 松浦武四郎著、蝦夷日誌(巻の四)に、
 イナヲサキ 何神を祭るやら木幣を立、石を積て祭り有也。少しの出岬也。鷲ノ木、落部の村境なり。廻りてしばし行
 モナシベ 人家二十軒計。是またこゝかしこに部落して住す。皆漁者のみなり。小商人一軒、旅龍屋一軒有。此辺昆布取の節は甚賑やか也。(中略)
過てしばし行 三、四丁計行
 タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有(レ)之、まゝ径我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すべし。廻りて
ホンミツ 人家六軒計。漁者のみなり。小商人一軒あり。村内に小流有。小石川。歩行渡り、越て少し岬を廻りて
落部村 従()鷲木村()三里といへり。人家五十軒計。内夷人十軒計。小商人五、六軒、旅龍屋あり。畑少し有。漁者のみ也。此村の前図合船かゝり澗あり。此処は野田追村の会所をこゝにうつして諸事支配するなり。場所勤番の衆上り下りともに此処にて昼飯す。皆泊り宿より送り越し也。馬継所也。村内に浦高札有。(中略)
村を出て 川原をしばし行。此処虎杖・?塊多く、小石原にしてひろし。
落部川 川船渡し。くり船にして急流也。但し、渡し銭一人前廿四文づつ也。然し三、四丁も上へ上ると歩行渡りになる也。(中略)
越て 海岸。小石浜に虎杖・茨等多し。此辺り昆布取小屋一面に立並ぶなり。別て六月中旬より七月は繁華なり。(中略)
クロハゲ 并て少し行 アカハゲ赤土崩崖なり。越て ヱナヲサキ此岬また前に云し何神を祭るやらヱナヲを立て神を祭るなり。小川有。越て モノタヘ広野也。茨・?塊多し。海岸小石浜にて処々小流有也。(後略)
と記され、また、寛政3年(1791)の「東蝦夷地松前よりアッケシ迄道中記」には、幹線の道中について、
 ノタヲイ(野田追)の川は舟渡しあるなり。徒海するも廻り道なり。此辺も渓澗なり。
 ノマジリ(沼尻)小かは沼あり。崎にて是を廻る。皆浜辺より石浜もあれど国々の間なり。
 ヤモキシナイ(山越内)よりヲシャマンベ迄入海の内を輪の如く廻り皆砂浜也。
 先づユーラッフ河舟渡し、壱里程河上り徒渡りあれ(文字不明)洪水の節も不能へし。西(文字不明)平田内村山奥の松山に通路あり。
と書かれ、いちおう当時の道路の様子を知ることができる。
 一方、蝦夷地が松前藩の領地となり、ユーラップや野田追などの場所が開設され、知行主やのちの請負人が、松前から交易のため渡航するようになったころには、二〇〇石から五〇〇石積みくらいの縄綴船(なわとじぶね)が多く用いられた。蝦夷地への航海技術が進歩して普通の船を使うようになったのは、明和・安永(1764〜1780)以後のことといわれている。なお、アイヌが現地で使用する舟は2隻の丸木舟を台にし、これに板をくくりつけたものがあり、丸木舟は川や湖に用い、板をくくりつけたものは海で使っていた。

通行屋と人馬継ぎ立て
 寛政11年(1799)に東蝦夷地を幕府の直轄としてから、道路の開削に力を入れ、一部の海上輸送区間を除いて、箱館からエトロフ島に至る道路を開き、いちおう人馬の通行の支障をなくした。しかし 、この道路も、陸運の困難であったところに特に力を入れたものであった。文化6年(1809)の「蝦夷渡海記」にも、
 ヤマサキ河上道に橋有道良、海岸汐時に寄深ヌカシテ(ママ)馬蹄難進ことあり用心いたす所なり。
とあるように、当地方における本格的な道路開削の形跡はみられず、また、大きな川であるオトシベ川・ノタオイ川・ユーラップ川などは依然として橋がなく、渡し舟を利用していた。
 幕府は、道路の開削と並行して交通の便を図るため、各種の施設を設けたが、特に浦河以東の東蝦夷地10か所に会所を設置したのをはじめ、以後は徐々に増設し東蝦夷地一帯にわたって宿泊の不便をなくするようにした。旅舎は初め会所と同じであったが、後には宿泊専用の別棟が設けられるようになり、これを旅宿所または通行屋と呼ぶようになった。

東蝦夷地道中畧記(写真1)


 会所および通行屋は人馬継ぎ立てのことも取り扱い、急を要する場合には、早馬・早走・早船などの用意があり、あらかじめこれに当たる番人やアイヌ人が決められていた。
 当時この地方では、鷲の木・山越内・長万部にそれそれ会所(通行屋)が設けられて宿泊地となり、その中間にあたる落部と黒岩に昼休所が設けられて、幕吏や藩吏の通行の便が図られていた。
 文化6年(1809)の「東蝦夷地山越内村鑑帳」のなかには、山越内会所の施設として「下宿所」が二か所(20坪と14坪の2棟)設けられていたことを明記しており、また、かなり後の記録である安政3年(1856)の「蝦夷実地検考録」には、「会所は山越内にあり、此地通行屋六軒」と当時の状況を書き残している。
 ただし、さらに後年の記録である「開拓使事業報告」のうちに「函館支庁管内駅路沿革誌」(後述)という書類があるが、そのなかでは、山越内の駅逓が安永2年(1773)に会所を設置し、請負人のもとで運営されたと記されているが、これは当時の歴史的背景からみて、年代の記録に誤りがあるのではないかと思われるがどうであろうか。
 東蝦夷地の各場所には、前幕領時代から官馬を備え、請負人に委託して飼育し、運搬や人馬継ぎ立ての用に供していた。文久元年(1861)5月からは、これまで禁止していた馬の私有を認め、請負人や出稼人に随意飼育することを許可するとともに、運搬継立業の出願を許可することになった。また、同年6月には山越内の関門が廃止され、通行が自由になったこともあって、当地方の交通はますます盛んになったのである。
 さらに、元治元年(1864)には山越内が長万部とともに「村並」となったので、請負人の支配下にあった山越内の会所は村民に下付され、会所帳役2名をおき、年給15両ずつを支給して人馬継ぎ立てを行わせるようになった。

駅逓制度の展開
 会所あるいは通行屋などと呼ばれ、宿泊・人馬の継ぎ立てや通信文の逓送など、いわゆる駅逓業務を行う場所が設けられていたことは、すでに述べたとおりである。
 この駅逓は、和人地では村方役人、請負場所では請負人、そして直営場所では幕吏や藩吏が、それぞれ業務を取り扱ってきたが、主に幕吏や藩吏らのために発達してきたという。しかし、各駅逓の沿革は地域の発展過程において、かなりの差があったようで、「開拓使事業報告・坤」(北海道行政資料課蔵)と題する書類のなかに、明治14年以後のものと思われる「函館支庁管内駅路沿革誌」があり、その概要を知ることができるので、次に関係部分を摘録する。ただし、句読点は読みやすくするため適宜編者において付した。
 落部駅 渡島国茅部郡落部村函館ヨリ寿郡街道ニアリ
 本駅ハ旧幕府ノ頃人馬継立所ト唱へ、其経費壱ヶ年金百五拾円、民費支払トス。明治六年中駅場ト改正以後、落部村平民相木文作取扱人トナリ、同年ヨリ駅費壱ヶ年金弐百五拾円宛民費ヲ以テ支弁シ、明治十二年十月人馬継立所ヲ設クルニ及ンデ之ヲ止ム。
 駅逓取扱人并給料
 松前氏所管ノトキ、乃チ天保十年ヨリ明治六年マデ落部村平民相木文作ナルモノヲ取扱人トナシ、年給金三拾円ヲ支給シ、同年四月退役後同村相木尭太郎江命ジ年給同上、同年九月尭太郎退役シタルヲ以テ佐渡国雑太郡矢馳村平民川上賢輔江命ジ、年給金五拾円、同年十月退役シ、更ニ渡島国津軽郡福山平民星野幾一郎江命ジ、年給金五十円トス。何レモ皆民費ヲ以テ支弁セシガ、明治十二年四月長沢直吉人馬継立所ヲ設立ノ義願出十一月(十月ヵ)三十一日許可ス。
 人馬賃金
 明治三年二月公用及相対賃銭定メラレタルハ森駅ト異ナルナシ。其後人足壱人壱里金四銭、至急割増、昼夜兼行弐倍トシ、馬ハ壱疋壱里金六銭トシ、別ニ割増ヲ収メズ。明治十二年人馬継立所ヲ設ケタル以来、平道人足金六銭、馬金八銭トシ、早追ハ日没ヨリ日出マデハ弐倍五割トシ、日出ヨリ日没マデハ七割五分トシ、通常ト雖トモ夜分逓伝ハ五割トシ、中途夜ニ入ルハ之ヲ参酌ス。
 渡舟場
 落部村中ニアリ、平水ハ六拾間ナルモ、出水ニ際スレバ九拾間余ニ至ル。渡舟購求及其他費用ハ渾テ民費トス。渡守給料ハ壱ヶ年金六拾円、出水ノ際ハ手伝人足壱名金拾五円ヲ以テ雇入ル。渡賃銭ハ男女共壱人壱銭六厘、壱ヶ年ノ収メ高ハ凡見込百弐拾八円トシ、其内訳ヲ推算スレバ則チ左ノ如シ。
 一金七拾五円 渡守給料 弐ヶ年目交換
 一金拾円 渡舟并仮橋修繕費
 一金三拾円 明治二年人民拝借米代金ノ分年賦支弁ノ分
 一金拾三円 駅費ノ内江戻シ入レベキ分
 又野田追川村中ニアリ、渡頭平水五拾壱間、出水ニ至レバ百間余、渡舟購求其他ノ費用ハ都テ民費ヲ以テ支弁シ、渡守給料ハ前ノ如クニシテ、出水ノ時及渡賃等モ亦同ジ。壱ヶ年収入高ハ凡百弐拾八円トス。其内訳ヲ概算スレバ左ノ加シ。
 一金七拾五円 渡守壱ヶ年給料弐ヶ年仝上
 一金弐拾円 渡舟并修繕費仝上
 一金拾円 明治二年人民拝借米代金窮民ノ分年賦支弁ス
 一金弐拾三円 駅費ノ内へ支弁ス
 山越内駅 胆振国山越郡山越内村函館ヨリ寿都街道ニアリ
本駅ハ安永二発已年十二月会所ヲ設置、受負人支配ト相唱ヒ、其後元治元甲子年六月受負人廃セラレ村並トナリ、会所ハ受負人ヨリ返納トナル。同年同月二十八日会所壱棟ヲ無代価ヲ以テ下渡、取扱費用ハ明治六年三月十五日マデ官費支給、后チ民費ヲ以テ取扱フコトトナリシガ、明治十二年十月駅法改正シ、人馬継立所ヲ置カルルニ及ンデ之ヲ止ム。
駅逓取扱人并給料
 旧幕府ノ節元治元年六月廿八日会所ヲ村民ニ下附スルニ当リ、山越内村平民谷五郎同庄助両名会所帳役ヲ命ゼラレ、給料壱ヶ年弐人扶持金拾五両ツヽ賜リ、其他壱ヶ月経費トモ官費支給、会所破損修繕費等ハ村費ヲ以テ支弁シ、右帳役ニテ人馬継立等ヲモ取扱ヒシガ、慶応二年七月十日庄助病ヲ以テ退役シ、羽後国平田郡横手村平民良太ヲシテ其跡ヲ継ガシメ給料亦同ジ。明治三年四月十日右良太退役シ、福山藩卒野村金蔵之ヲ襲ヒ給料亦元ノ如シ。明治四年二月十六日谷五郎退役シ、美濃国大垣平民清蔵ナルモノ跡ヲ続キ給料同断、同年十二月二十四日野村金蔵病死シタルヲ以テ陸中国和賀郡黒沢尻町平民喜八申付ラレ、明治五年五月一日会所ノ名義ヲ改テ駅場ト称シ、更ニ村上清蔵、山田喜八江当分駅場取扱ヲ命ジ、年給金七拾円、工藤清蔵江小使申付、年給拾五円、何レモ官費ヲ以テ支給シ、其駅場経費ハ民費ヲ以テ支弁ス。同六年三月十五日駅場取扱人并小使常居人足トモ給料ヲ廃止シ、村上清蔵江退役ヲ命ジ、山田喜八江壱ヶ年給料及ヒ駅場経費トモ金八拾円ヲ給シ、小使工藤清蔵年給金四拾八円トス。何レモ皆民費ヲ以テ支給シ、且常居人足ヲ廃止シタルヲ以テ村中人民順番ニテ駅場ヲ助クルコトトナス。然ルニ同年二月四日山田喜八退役シタルヲ以テ山越内村平民佐野庄助江申付ケ、給料、経費トモ従前ノ通トス。尋デ同七年二月二十日庄助退役シ、更ニ佐度国加茂郡大和村平民澗山浩平江取扱ヲ申付、壱ヶ年給料及経費トモ金百円ヲ支給セシガ、同十年五月廿二日退役ノ後ハ、山越内村用掛松?(まつおか)勘吉兼勤シ、給料及経費トモ壱ヶ年金七拾円支給スルコトトナス。明治十二年十月駅場更正シタルヲ以テ該駅浅山直方人馬継立所設立ヲ出願シ、同三十一日之ヲ許可ス。
人馬賃銭
 明治三年十月馬ノ賃銭公私ノ区別ヲ立テラレタルハ落部ニ同ジ。其後人足壱人平道ハ壱里金四銭、馬壱疋金六銭トシ、至急ノトキハ人足金六銭、早追ハ金八銭、馬ハ早追ト雖トモ別ニ増員ノ定則ナシ。然レトモ其時ノ景況ニヨリ相対ニテ増賃金ヲ受ケ、明治十二年十月以後ハ平道入金五銭、馬金七銭トシ、早追ハ日没ヨリ日出マデハ弐倍五割トシ、日出ヨリ日没マデハ七割五分トシ、通常ト雖トモ夜分逓伝ハ五割トシ、中途夜ニ入ルハ之ヲ参酌ス。
渡舟場
 遊楽部川渡頭平常四拾間、出水ニ際スレバ八十間余、胆振国山越郡八雲村支郷黒岩駅江ノ道路ヲ串流シ、山越内駅ヨリ壱里弐拾丁ノ処ニ在リ、旧来旧土人相対ヲ以テ賃銭ヲ収入シテ舟渡ヲ為ス。元治元年七月ヨリ山越内村人民壱ヶ年或ハ両三年ヅツ各番ニ交代シテ舟渡ヲ為シ、賃銭ヲ収入シ之ヲ其給料ニ宛テ、渡舟ハ都テ民費ニテ購求セリ。渡賃人壱人弐銭、馬壱疋弐銭五厘トス。

黒岩駅 胆振国山越郡八雲村字黒岩函館ヨリ寿都ニ至ル山道ニアリ
本駅ハ伊達林右衛門、植原六右ヱ門受負人タル節、弘化四年五月同所居住斉吉、慶吉ノ両名江継立所ヲ許可シ、自宅ニ於テ取扱ハシメ、以後変遷アルモ悉皆民費ヲ以テ支出ス。明治十二年十月以降ハ之ヲ止ム。
 駅逓取扱人并給料
 弘化四年五月前ニ記載スル斉吉、慶吉ノ両名江継立所ヲ許可シ、壱ヶ年ヅツ隔番ヲ以テ自宅ニ於テ取扱ヒ公私共継立賃銭ノ内ヨリ五分ロ銭ト唱ヒテ費用ニ当テ収入ス。明治四年二月八日慶吉退役、同所住和平治之ヲ継グ。同八年三月ロ銭収入ヲ廃セラレ、小使壱名ヲ壱ヶ年弐拾五円民費ヲ以テ雇ヒ、其他諸費等ハ右両人自費ヲ以テ隔番ニ取扱ヲ為ス。明治十二年中該村森田和平治人馬継立所設立ノコトヲ請願シ、同年十月三十一日之ヲ裁可ス。

ピリカベツ駅逓所(写真1)


セイヨウベツ駅逓所(写真2)


 人馬賃銭
 明治三年十月馬ノ賃銭公私ノ区別ヲ立テラレタルハ落部ニ同ジ。其後人足ハ一切逓伝ナク、馬壱疋壱里金六銭、至急又ハ早追ニテモ別ニ増賃ヲ要セズ。明治十二年十月以降ハ人足金五銭、馬金七銭トシ早追ハ日没ヨリ日出マデハ弐倍五割トシ、日出ヨリ日没マデハ七割五分トシ通常ト雖ヨリ夜分ノ逓伝ハ五割トシ、中途夜ニ入ルハ之ヲ参酌ス。
 なお、八雲町管内における駅逓の設置・廃止状況を「北海道開拓記念館研究年報、第八号、一九八〇年三月別刷」による、北海道における駅逓の研究(1)によると次のように記載されている。

駅  逓  名

業務開始年月日
設置告示年月日

廃止年月日
廃止告示年月日

取       扱       人

山 越 内 駅

 

 

谷五郎・庄助・良太・野村金蔵・村上清蔵・山田喜八・佐野庄助・澗山浩平・松岡甚吉・浅山直方

黒   岩   駅

弘化4年5月

 

伊達林右ヱ門・栖原六右ヱ門・栖原斉吉・栖原慶吉

落   部   駅

享和3年

 

相木文作・相木尭太郎・川上賢輔・星野幾一郎・長沢直吉

上八雲駅逓所

明治34年12月15日
明治35年 1月29日

昭和20年 7月30日
昭和20年 7月21日

岩間(儀八・兎喜雄・輝雄・貞雄・光雄) 旧夏路改称 昭和8年10月26日

セイヨウベツ駅逓所

大正 2年12月28日
大正 3年 2月 7日

昭和 3年 6月30日
昭和 3年 6月29日

松平喜久松

ピリカベツ駅逓所

大正10年11月 1日
大正10年11月23日

昭和16年11月30日
昭和16年11月30日

高見儀三郎


渡し舟経営
 管内における大きな河川である落部川・野田追川・遊楽部川は、当時橋がないため渡し舟によったのであるが、前幕領時代(1799〜1821)に村並となっていた落部村では、既に民営に属していた。
しかし、比較的旅行者が少なく、その経営が困難な状態であったため、落部川と野田追川の渡し守に対して毎年2両ずつの手当が支給され、その運営が図られていた。
 また、遊楽部川はアイヌが旅行者と相対で賃銭を定めて渡し舟を行っていたが、山越内が村並となったあとの元治元年(1864)7月からは、遊楽部川の渡し舟も山越内の村民に経営させるようになった。その後、明治14年(1881)に八雲村が独立してからは、遊楽部川の渡し舟は八雲村の経営となり、佐久間成信が監督して事業を行った。
 当時の渡し舟賃銭は、その地の実情に応じて定められてきたが、その沿革は不明で、明治15年1月には落部川と野田追川は1人1銭6厘、遊楽部川では1人2銭、馬2銭5厘となっていた。そしてこれらの収入は、それぞれ学校や公立病院の維持費などに有効に使用される重要な財源であった。そのため、明治23年に国道が開通し、川に橋が架けられて渡し舟の収入が途絶えてしまうと、各村ともその財政に大きな影響を受けたのであった。

札幌本道の開削
 開拓使が北海道の大規模な拓殖計画を進めるにあたって、まず取り上げたのは道路の開削で、これは、国防上また資源の開発のうえにも当然のことであった。明治5年には札幌本道の開削に着工し、翌6年夏にこれを完成したが、この路線は、函館から大沼を通って森に至り、森から船で室蘭に渡って室蘭から苫小牧・千歳を経て札幌に至るという経路で、直接当地方を通るものではなかった。そのため、旅行者の大部分は森から室蘭に渡るようになったので、従来旅行者を相手にしていた当地方の宿屋は大きな打撃を受け、その多くはやがて姿を消すことになった。しかし、この道路の開通によって、明治6年10月森と函館の間に駅逓馬車が通うようになったので、当地方から函館に出る場合の所要時間はかなり短縮されることとなった。

入植官費道路の開削
 明治11年7月に遊楽部原野開拓のため先発入地した古田知行は、後続第1次入植者を迎えるため、海岸通りから開墾地に至る新道開設について、開拓権大書記官に対し次のような願書を提出した。
 新道御開設方之儀願
 愛知県士族移住ニ付於東京相願度有楽府海岸通リヨリ開墾地内迄之新道架橋共官費施設之義移住人荷運搬之都合モ有之眼間今般御実測絵図面之通至急御開設披下度別紙絵図面御添此段奉願眼也
 東京府華族
 徳川慶勝家扶
 吉田知行
 明治十一年八月
 開拓極大書記官
 時任為基殿
 この願いは12月12日「願之趣聞居候事」として許可され、翌12年5月に起工し、1097円96銭4厘の工費をもって7月に完成した。これは、内浦町の海岸通りから豊河町・東町を経て現在の役場に通ずるもので、当時はこれを官費道路と呼んでいた。また、翌13年にこの道路の修理が行われているが、これが本町における開拓使による道路開削の初めであった。そしてこの道路は、遊楽部入植者の多くが、開墾地に到着するために第一歩をしるした記念すべき道路となったのである。


 第2節 国道の推移

国道の開通
 明治19年(1886)北海道庁が設置され、全道道路網の開削計画が立てられてから、急速に内陸部の道路整備が進められるようになったが、当地方でも、従来海岸を通っていた原始的な道路を補修した程度の函館・札幌街道に代わり、国道が新設されることとなった。
 工事は、森から長万部に至る16里余、道幅3間の道路と、これに関連した橋を整備するもので、明治21年9月に着工、23年12月の完成であった。これによっ
て、それまで舟渡しであった落部・野田追・遊楽部の三河川にもそれぞれ橋が架けられ、人馬が自由に通行できるようになり、住民をはじめ旅行者に大きな利便をもたらしたのであった。また、国道の開通にともなって、戸長役場・警察分署・郵便局などが山越内村から八雲村の国道沿線に移転し、行政の中心は八雲村へ移行することになったのである。
 それ以来この国道は、幾多の変遷を経ながら常に陸上交通の幹線道路としての役割を果たしてきた。そして、長い間国道4号線と呼ばれてきたが、昭和27年所追跡法により1級国道5号線と改称され、さらに、昭和44年4月から1、2級の区分が廃止されて、一般国道5号線となり現在に至っている。

函館開発建設部・八雲出張所(写真1)


旧函館開発建設部・八雲出張所(写真2)


国道の舗装工事
 昭和32年(1957)落部村と合併したことによって、当町管内の国道延長は32キロ904メートル(栄浜から黒岩まで)となり、 昭和27年に開設された函館開発建設部八雲出張所によって維持管理されている。
 ときあたかも自動車が普及しはじめたころであり、早急な国道整備が要望されていたのであったが、昭和33年に八雲市街地のうち拓銀支店前から元町と本町の境界である備州橋までの205メートルについて、簡易防じん方式ではあるが、初めて管内に舗装が施され住民から喜ばれたのであった。
 翌34年5月には、本格的な舗装工事が着工され、市街地雪印方面への交差点から元町29番地先まで(前記防じん舗装部分を除く)の860メートルを完了した。この工事は、地盤矯正のため路面から80センチメートルを掘り下げ、砂・切込み砂利を投入してアスファルトを流し込むという工法であり、一部地盤の悪い部分ではかなりの難工事であった。

国道舗装工事(写真1)


国道(元町)舗装工事(写真2)


 その後、36年度から栄浜ー黒岩間の改良工事が継続して進められる一方、これに続いて舗装工事が進められ、37年八雲市街地428メートル、38年黒岩市街地1050メートル、39年栄浜ー落部間7286メートル、40年1万4156メートル、41年5389メートル、42年3530メートルが施工され、全面舗装が完了したのである。
また、この間の橋りょう数22橋、橋りょう延長737.22メートルはすべて永久橋に架け換えられたのであった。
 なお、従来国鉄路線と国道の平面交差であった踏切はすべて立体交差に改良し、交通の安全とスピードアップを図った。また、内浦町の自動車学校前の曲線(全長410メートル)は、将来に建設が予定されているバイパスへの取り付け線形を配慮して、国鉄路線をまたぐ陸橋からはじまる下りこう配3パーセント、半径50メートルのS字カーブとなったため、冬期間の路面凍結によりスリップ事故が続発し、ドライバーから「魔のS字カーブ」と呼ばれ危険視されていた。このため、町および関係者の強い要望により、46年6月函館開発建設部落部道路改良事業所によって線形改良工事が行われ、同年末に道床変更の基礎工事を終了し、翌47年舗装工事が施工されたのであった。この線形改良は、こう配1・5パーセント、S字曲線の半径をともに300メートルに設計され、さらに、曲線の前後に緩和曲線を設置し、車道の路肩幅も片側1メートルから1.25メートルに拡幅されたのである。
 また、栄浜から東野に至る路線は、大部分が元の国鉄下り線敷地を転用したもので、従来の国道はのちに町道として移管されて東野栄浜線となったが、依然として急な坂と曲線の多い地域で、今も随所にその面影をとどめているが、落部市街を縦貫する町道が、元の国道の一部である。

八雲市街地の歩道整備とロードヒーティング
 八雲市街地内の国道5号線は、昭和25年から都市計画街路事業が進められ、側溝の整備とともに旧軍用飛行場から転用した石畳を利用して歩道が整備され、一応は街路としての体裁を整えていた。しかし、砂利道であった車道が、昭和37年までに本格的な舗装を完了したのに引き換え、歩道は依然としてそのままであったので、町をはじめ関係者から上級官庁に対し、早期整備について要請したのであった。その結果、歩道舗装工事が函館開発建設部八雲出張所によって計画され、昭和45年から2か年の継続をもって、全長1434メートルにわたり施工されたのである。
 一方、町はこの舗装工事と並行し、歩行者の交通事故防止と商店街の振興を図ることを目的として、歩道にロードヒーティングの布設を計画し、工事費および所要電気料金の30パーセントを補助するという方針を示して関係者に協力を要請した結果、賛同を得てこの事業を実施した。このロードヒーティングは、布設延長697メートル(68名)の部分的な施工にとどまったが、施工箇所については十分所期の成果を上げており、町では46年度から電気料金の50パーセント補助に変更し、その有効活用を奨励しているところである。

国道バイパスの建設
 昭和40年前後において積極的に進められた国道の舗装とともに、車両の急激な増加は、市街 地を貫通する路線にかかわる交通安全の確保や、車両の大型化にともなう公害の発生などを未然に防止するための対策が必要となったのである。このため町では、八雲跨線橋から鷲の巣跨線橋を結ぶ海岸線寄りのバイパスの新設について、国道舗装工事の促進と合わせて開発局など関係当局に対し、早期実現方を陳情しつづけたのであった。したがって当局では、八雲跨線橋を新設するにあたって、既にこのバイパスを新設する構想をもって設計していたのであるが、当時は八雲市街地の交通量がバイパスの新設基準に適合していないという理由もあって、容易に実現の兆しがみられなかった。そのため、この八雲跨線橋はいちじ魔のS字カーブと呼ばれ、交通事故多発地帯となったのである。しかしその後10年、交通量の異常な増加という社会情勢を背景に、函館開発建設部によって調査が進められ、昭和52年度には用地買収費が計上されるに至った。そして最初に遊楽部川以北の鷲の巣跨線橋までの用地買収に乗り出したのであるが、土地所有者との折衝が難航し、翌年度になっても折り合いがつかず着工が遅れたが、54年度に至りようやく用地買収の問題も解決して着工することとなった。そして56年度までに、遊楽部川に延長305メートルの八雲大橋(仮称)の橋脚とけたを架設し、一部路盤整備工事を終了した。57年度には橋の上部工事と南北両側の盛り土や路盤整備が計画され、58年度にとりあえず2車線開通を目指して工事が進められている。
 このバイパスが完成することにより、これまで市街地を貫通していた国道五号線は、市街地南端の八雲自動車学校前の跨線橋から同北端の鷲の巣跨線橋までの4.4キロメートルは市街地を経由せず、海岸側をほぼ一直線に走ることになり、市街地の交通渋滞と事故の危険度が緩和されるとともに、騒音や排気ガスの公害も減ることから、早期完成が強く期待されているところである。


 第3節 国道の主要橋りょう

遊楽部橋
 遊楽部川に初めて橋が架けられたのは、明治21年から23年にかけて進められた森ー長万部間の国道開削工事によるが、同22年の「北海道庁事業功程報告」のなかに「本年度ニ於テハ排水ノ一小部ト道路置上土ノ敷均シ及ビ遊楽府川架橋ヲ余スノ外悉ク成功ス。」とあるところからみて、遊楽部橋の完成は翌23年と考えられるし、森ー長万部間の全線開通もまた23年と推察される。そして、それまで舟渡しであった遊楽部川も、人馬が自由に通行できるようになり、住民や旅行者に大きな利便をもたらしたのであった。しかし、明治27年12月にこの橋が破損して人馬の通行ができなくなったので、村総代吉田知一は翌年修理が完了するまで、臨時に渡し舟を便って不便の解消に努めた。その後この橋についても幾多の経過があったものと思われるが、大正8年(1919)にはハウトラス一二〇尺二連桁橋、三四尺三連の本橋に架け換えられている。
 昭和8年(1933)その木橋も老朽化が進み、人馬の通行にも危険がともなうようになったので、函館土木事務所によって同年7月25日に永久橋への架換え工事が着手され、翌年8月1日に当時としてはこの地方随一を誇る橋が完成、同月14日間通式を挙行した。この橋は、3連連続丁型、鉄筋コンクリート、延長108メートル(径間12メートル・9連)、有効幅員7.5メートルという永久橋で、工費10万9600円 (ほかに上下流護岸石張・鉄線蛇籠工7500円)を要したのであった。町では、この橋と堤防の景観を保護するため「遊楽部橋保勝会」(会長=町長)を組織し、町費を補助してその維持助長に努めた。昭和10年の事務報告によれば、
 「昭和一〇年八月一四日開通記念日二当リ、午後八時ヨリ野外活動写真映写、煙火打上ゲ等ノ余興ヲ挙行スルニ、老幼男女無慮三千人ヲ算ス。以テ此ノ盛況ナルヲ語ル」
とあり、当時これに対する町や住民の関心の高さを示す史料として興味深いものがある。

旧遊楽部橋(写真1)


遊楽部橋全景(写真2)


 その後、昭和27年(1952)に着工された河川改修にともない、30年度において遊楽部橋の4連48メートルにわたる拡張工事が行われ、またその後には交通安全施設整備計画の一環として、歩道が付設されて現在に至っている。
 なお、昭和45年4月には交通量の増加に対処して、開発局土木試験所によって耐荷力調査が実施されたが、当分は使用に耐えうるものと認定された。

野田追橋
 寛政3年(1791)の「東蝦夷地松前ヨリアツケシ迄道中記」のなかに「ノタオイの川は舟渡しあるなり」とあるように、野田追川にも橋がなく、長い間渡し舟を利用していた。
 この川に橋が架けられたのは落部川と同じ明治22年で、しかもつり橋であったものと推測されるが、その当時の経過を記録した史料がないので、詳細については全く分からないのが実情である。
 現在の野田追橋は、昭和27年(1952)7月に着工し、翌年2月に完成したが、高欄付鉄筋コンクリート、丁型床版橋、支間8メートル、有効幅員7.5メートル、工費73万余円をもって架設され、2月18日渡橋式を行って公用を開始した。その後、交通安全施設整備計画の一環として歩道が併設され現在に至っている。

野田追橋(写真1)


落部橋
 落部川には前にも述べたように古くから渡舟揚があり、旅行者や住民は舟を利用していた。
 この川に初めて橋が架けられたのは、明治21年から23年にかけて進められた森ー長万部間の道路開削工事によるものであり、明治22年10月の戸長事務引継の説明書のなかに「本年中橋梁落成侯上ハ渡船金……」とあるところをみると、その完成は22年中のことと思われる。なおこの当時の工事記録によると、幅五間以上の川につり橋を架けたと記録されているので、この橋も初めはつり橋であったと思われる。
 もちろんこの橋は、その後幾度か補修されたり、架け換えが行われたことと思われるが、史料が乏しく詳しいことは分からない。後年これが俗に「弁開橋」と呼ばれ、現鉄橋の下流に架けられた本橋だったことは知られているところである。
 昭和33年に函館本線が改良されて既設線が廃線となり、その敷地が不用になったことから、国鉄と開発局の協議の結果、これを国道に転用して線形を改良することになった。これによって、旧鉄橋を取り除いた跡に昭和37年から永久橋の架換工事が進められた。そして、翌年にはこれにつながる道路の改良工事とともに12月には落部橋が完了し、同月11日渡橋式が行われたのである。その後、交通安全施設整備計画の一環として歩道が併設され現在に至っている。

弁開橋(写真1)


落部橋渡橋式(写真2)



 第4節 主要道路の推移

内陸道路の開削と駅逓の存廃
 明治23年八雲町管内に国道が開通され、内陸部に入植が進むにつれて北海道拓殖費による殖民道路が、続々と開削されていった。すなわち、管内においては明治38年(1905)5月には大新に千間道路、40年10月には山崎道路と八線道路、44年5月には雲石道路がそれぞれ開通した。さらに大正年代では、太櫓に通ずる道路が2年12月、野田生原に通ずる野田追川沿い道路が3年9月、大櫓道路から分かれて利別村に通ずるパンケ道路が5年12月、トワルベツ沿道路が6年6月、というように相次いで開通するなど、殖民道路の延長は83キロメートルに達した。
 また、町道もこれらの道路と並行して開削され、大正9年4月の道路法施行の時点では、国道・準地方費道との重複を含めて71路線、認定延長36キロメートルにも達し、移民の招致や地域開発の促進などに大きな役割を果たしたのである。
 こうして入植者の増加とともに、道路が奥地に延びるにしたがい、明治34年12月に設けられた夏路駅逓所(取扱人・岩間儀八)に次いで、大正2年12月にはセイヨウベツ駅逓所(取扱人・松平喜久松)が、そして10年11月には上鉛川にピリカベツ駅逓所(取扱人・高見儀三郎)がそれぞれ開設され、内陸部旅行者の利便が図られた。しかし、開拓事業の進展にともない、昭和3年にセイヨウベツ駅逓所が廃止され、8年には夏路駅逓所が上八雲駅逓所と改称し上八雲中央地区に移設され、その後、昭和16年にはピリカベツ駅逓所が、20年7月には上八雲駅逓所と相次いで廃駅の運命をたどったのである。
 一方、落部村でも明治25年(1892)に国道から蕨野に通ずる道路が開削され、さらに28年には帝室林野局によって、望路と落部御料地を結ぶ小道の改修、そして38年開局による蕨野・野田追御料地間にも道路が開かれていた。

主要道道八雲熊石線
 明治44年(1911)5月に殖民道路として開削された雲石街道は、その後も長い歳月を費やし、全線が本格的に開通しだのは大正11年(1922)のことであった。しかも、大正9年4月道路法の施行とともに「熊石八雲停車場線」として準地方貧道に編入されたものであったが、郡境付近は依然として険しい難所が多く、車馬の通行もできないという状況であった。
 この道路は当時すでに、わずか八里余をもって東西海岸を最短距離で結ぶ重要路線として認められ、自動車が運行できる路線に改良されることは、関係両町村の熱望するところであった。したがって、この路線が地方振興をはじめ各種の重要な使命を持つものであることが当局にも認識され、昭和5年から4か年継続事業をもって改良工事が行われ、昭和8年にはようやく自動車が運行できる道路となった。この間、八雲と熊石の両町村で期成同盟会を組織し、工事費の一部として1万円(八雲6000円、熊石4000円)を寄付するなど、工事の早期完成を期したのであった。


函館土木現業所八雲出張所(写真1)

 その後この道路は、八雲鉱山のマンガン鉱や沿線農林生産物の搬出路線、また、隣接の熊石町とを結ぶ重要路線としての地位を占めてきたのであるが、昭和27年の新道路法により、八雲市街の国道接続地点から八雲今金線に接続する地点までおよそ5・1キロメートルは、開発道路に指定されて函館開発建設部の所管に属した。さらに、29年3月公式に「八雲熊石線」と称され、しかも、八雲停車場線を分離して起点を開発道路と一致させ、熊石町に至るまでの全線が主要道道として認定された。昭和54年4月1日現在、国道5号線との接点から国道229号線まで33・136キロメートル(うち開発道路5・100キロメートル、道道28・028キロメートル、重用延長8メートル)で、この間橋りょう14橋、トンネル一か所である。
 この道道は、昭和34、5年ごろから函館土木現業所によって逐次改良工事が進められたが、とくに37年10月開発建設部は、国道5号線の接点から役場前・古河商店を経て高校正門地先まで728メートルの改良工事を完了、翌38年11月に砂蘭部橋(延長90・1メートル)を永久橋に架け換えるなど、舗装も積極的に進めていた。
 また、昭和38年には熊石町雲石橋付近から、当町清流橋までの約9キロメートルについて産業開発道路の指定を受け、開発建設部によって全面的な改良工事が精力的に進められた。この工事により路線は約1キロメートル短縮されたが、地すべり地帯を含んだため工事は難航して相当遅れ、全線の指定が解除されて道に引き継がれたのは53年12月であった。その後は土木現業所によって工事が継続され、54年度をもって全面舗装が実現したのである。

道道八雲今金線
 明治30年(1897)植民区画の設定にともなって、当町の内陸部への入植者も次第に多くなり、仮定県道(のち準地方費道、さらに道道と改称)や拓殖道路も漸次開削されるようになった。
 そのなかでも最も早い時期に属するのが、利別村と八雲村を結んだ「仮定県道瀬棚函館街道」で、明治30年にサックルペシペ川まで通じ、33年には胆振・後志の国境を越えて全線が開通された。そして翌34年サックルペシペに夏路駅逓所が設けられて旅行者の便が図られた。当時の駅逓取扱人は岩間儀八で、馬5頭が備えられ、手当として月7円が支給されていた。
 大正9年4月道路法の施行とともに「準地方費道利別八雲道路」として認定され、八雲から北檜山地方に通ずる重要路線となった。しかし、サックルペシペから国境までの間には、朝霧橋・紅見橋など延長60メートル以上の橋をはじめとした多くの作工物があり、しかも長い年月の経過とともに腐朽が激しくなり、昭和10年代を迎えたころには、ほとんど交通不能の状態となった。そのため、作工物も少なく比較的良好な状態にある「咲来別原野道路」(大正15年、越後団体に通ずる拓殖道路として造成されたものと、昭和8年その終点から国境に達し、さらに山頂をたどって利別八雲道路に接続する道路として造成されたものを総称したもので、5キロノートル弱の道路)に準地方費道の一部を変更されるよう、昭和15年10月に八雲・利別両町村長から関係筋へ陳情した結果、17年1月に道庁告示をもって変更された。しかしこの道路は、当町字セイヨウベツから今金町字白石までの16キロメートルの間には、13曲がりや丸山の険しい難所があって、車馬の通行も容易でないという状況だったため、利用者も少なく地方の発展に支障が多かった。そこで、字セイヨウベツから静岡団体を経て国境に達し、さらに今金町字日進を経て田代に至る新路線(大正元年から二か年で造成した八雲太櫓道路の一部と大正5年に造成のパンケ道路を結ぶ路線)に変更し、しかも自動車が運行可能な道路の整備方について、昭和22年以来両町村が協力して関係筋に陳情しつづけた。この結果、道費による改良工事に採択され、昭和24年に着工し、三か年継続によって26年10月に全線の開通をみて一般通行の便が図られた。その後、昭和28年4月新道路法の施行と同時に開発道路に指定され、翌29年3月公式に道庁告示をもって路線変更となり、「道道八雲今金線」の現在の形が出来上がったのである。この路線は、当町鉛川で道道八雲熊石線から分岐して起点となり、今金町で国道277号線に接続する延長37キロメートル余の道路で、これまでの路線に比較して6キロメートルほど延びていたが、急傾斜の箇所も少なく幅も広くなったので、自動車の運行によって時間的にはむしろ短縮されることになった。そのうえ沿線の森林資源の開発が進められ、太櫓今金八雲を連絡して経済交流が図られるものとその成果が期待されたのであった。
 その後、昭和39年度においてペンケル橋が永久化されたのを初めとして改良工事に着手、42年にセイヨウベツ橋、44年に鉛川橋など主要橋りょうの架け換えを含めて、以後改良舗装が進められた結果、53年までに八雲市街から上八雲市街まで改良舗装が完了し、さらに舗装化が進められている。

一般道道八雲停車場線
 大正元年(1920)4月に「熊石八雲停車場線」として準地方費道に編入されたものの一部であったが、八雲熊石線と分離されて、昭和29年(1954)3月に「八雲停車場線」となった。実延長わずか32メートルではあるが、八雲駅と国道5号線や道道八雲港線を結ぶ重要路線である。

道道八雲北檜山線
 この路線は、既成の道路である「仮定県道瀬棚函館街道」からセイヨウベツ橋地先で分岐し、太櫓村に通ずる拓殖道路として開通したのをもってはじまりとする。すなわち、大正元年(1912)に新設されたセイヨウベツ川沿道路、翌2年にその終点から延長して新設のセイョウベツ駱岱間(むじなたい)道路を通じて太櫓村字若松に連絡するもので、その後大正9年4月の道路法施行と同時に、これらの2路線を合わせて「町道八雲大櫓道路」と称した重要路線であった。
 昭和29年3月に道道八雲今金線がこの路線の大部分と、パンケ道路を通じて今金町に達するという路線に変更されたため、この路線は当町管内でわずか2・4キロメートルを残すだけとなった。したがって八雲太櫓線は、八雲今金線の上八雲国有林地内分岐点から発して遊楽部岳のふもとを横切り、北檜山町の二股で国道229号線に接続する路線となったのである。しかし、これが当町と北檜山町を最短距離で結ぶ重要路線であることに変わりはなく、道では昭和32年(1957)3月、「八雲北檜山線」として道道に昇格させたのであった。
 しかし、北檜山町の二股から富里に至る既供用部分では改良整備が進められたものの、富里に至る区間の約7.5キロメートルの道路状況は極めて悪く、実際的には一般に利用されることもないという状態であった。そこで両町からは、改良工事の早期実現について運動を続けたのであるが、容易に採択の兆しはみられなかった。このため両町では、「道道八雲北檜由縁整備促進期成会」を組織し、さらに強力な陳情を繰り返した結果、ようやくこれが認められ、北檜山町側では昭和48年度から、八雲町側では51年度からそれぞれ着工、55年度完成の予定で工事が進められた。しかしその後、経済事情の変動もあって工事は難航し、残念ながら完成は当分先のことになりそうな見通しである。

主要道道八雲厚沢部線
 落部から檜山郡厚沢部村字蛾虫を経て江差に通ずる山道は、古くからアイヌによって径路が作られ「エサシルペシュペ」(江差へ下る路)と呼ばれていた。嘉永3年(1850)松浦武四郎はその著書「蝦夷目誌」に、この径路について、
 「……二十日の夕山越に着す。此辺の人家一宿の旅人何れも家に満ぬ。是皆夷地出稼に入る者也。其旅人の半は江指(差)より厚沢部に入り、エナヲ峠を越て落部へ出来る者どもなり。……
と書いている。また、明治2年(1868)4月箱館戦争の際、乙部に上陸した官軍参謀山田市之丞が指揮する一隊が、この山道を踏破して落部に進攻したところから、一般に官軍道路とも呼ばれていた。
 この道路が、拓殖移民の人達により農林産物の生産上、重要な道路となったことは当然であった。明治43年(1910)落部村戸長岩間勝従が有志とともに、道路開削について関係筋へ再三にわたって請願した結果、大正2年(1913)村置による凶作救済工事として認められ、落部望路間2.7キロメートル余が開通、さらに翌3年9月に望路犬主間5.8キロメートル余が拓殖費で開削されたが、残念ながらその後の工事は長らく途絶えたままであった。
 大正9年4月道路法施行と同時に、落部御料地までを村道落部逆川線、御料地から厚沢部村界までを同落部御料線として認定されたのである。しかし、依然として未整備部分が多かったため、村長佐々木菊松は同年有志とともに北海道会に対し、この殖民道路の重要性について陳情し、翌10年12月に犬主に至る3.5キロメートルが開削された。
 その後、昭和6年(1931)10月に犬主から御料地までの約4キロメートルの開削に着手したが、御料地内は難工事のため期限内完成は見込めず、工期を延長すること数回、工事費も当初の予定額1万円が4万円にも達し、ついに中止に至ったのである。
 戦後、昭和22年4月村長に就任した愛山行永は、中断していたこの路線の開削を函館営林局に陳情した結果、併用林道として開削が決定し、翌23年10月に一応着工された。その後、26年には函館開発建設部によって厚沢部側から、27年に函館営林局によって落部側から、それぞれ本格的に工事が進められ、昭和37年11月総工費3億円余と14年の歳月を費やして完成したのであった。
 この道路は、当時落部側から24.3キロメートル、厚沢部側から8.4キロメートル(開発道路)が開削され、36年12月に渡島・檜山の支庁界に延長140メートルのトンネル(厚雲隧道が貫通し、総延長48キロメートル余に及ぶ全線が開通したのである。

厚雲隧道(写真1)


 この道路の完成によって地域の産業開発はもちろん、太平洋と日本海を結ぶ道路として一段と重要性が増したのである。こうした状況を反映して、従床上の湯までを限り道道落部御料停車場線として管理されていたものを、昭和38年(1963)10月「主要道道八雲厚沢部線」として昇格認定された。そして40年から本格的に改良舗装工事が進められ、53年度末現在、落部上の湯間1万461メートルが舗装され、その後も工事は継続して進められている。

道道桜野野田生停車場線
 明治37年(1904)入植者を迎えて開拓された野田生原(現、岡山県畜産公社北海道桜野牧場所在地)に通ずる拓殖道路として、大正3年から4年にかけて開削されたもので、のちに「町道野田追川沿線」と呼ばれた道路を前身とし、これに「町道野田生停車場線」を合わせて、昭和42年3月31日道道に認定されたものである。
 この路線は、野田生駅前を起点として国道5号線に達し、一部国道との重複を経て桜野国有林に至る18キロメートル余で、認定の翌年度から逐年改良工事が行われているが、昭和48年10月には桜野と乙部町姫川を結んで開通した峰越連絡林道に接続し、日本海側の乙部町に通ずる幹線道路となった。そして、年次計画により改良舗装工事が行われており、53年度末現在で9601メートルが舗装され、なお引き続き工事が進められている。

一般道道八雲港線
 昭和28年(1953)以来進められてきた八雲漁港修築工事の進展と、八雲町漁業協同組合の事務所・荷さばき所・貯水庫など、漁港関連施設の移設計画に対応し、産業道路としての重要性が認められ、昭和42年3月に町道から昇格し「一般道道八雲港線」として認定された。
 この路線は、八雲駅前の国道5号線との接続地点から富士見町・東雲町を経て内浦町の八雲漁港に通ずる実延長1612メートルのもので、町道から引き継がれて改良舗装が完了している。しかしこの路線は、町がすでに都市計画法によって計画決定を受けた街路で、幅員16メートルを予定した「富士見線」600メートルのうち、これと重複する部分が約400メートルあるため、道では都市計画による事業決定を受け、昭和49年から用地買収や移転補償などの業務を進めた。さらに、56年1月に一部事業計画変更の認定を受け、現在事業が進められている。

開拓道路
 戦後、緊急開拓の実施により、入植地に通ずる開拓道路が建設された。すなわち、大新奥地の熊嶺開拓道路が、昭和22、23年にかけて3720メートル開削されたのをはじめ、28年に上八雲地区内八線開拓道路が2620メートル、同28、29年に富咲地区内トワルベツ開拓道路4326万メートルなどが、それぞれ国費によって施工されたのである。
 しかし、これらの開拓道路のほとんどは、国家予算の緊縮方針によって当初から砂利が敷かれず、融雪期にはぬかるみとなって道路の役割を果たすことさえ無理な状態であった。26年以後、ようやくこれらの道路に厚さ10センチメートルの基準で、砂利敷工事が実施されることになったのである。こうして、開墾建設事業で造成されたこれらの道路は、町に移管あるいは管理委託されるものであったが、それには相応の整備が前提条件であった。たまたま28年から続いた冷害に対する救農土木事業の一環として、開拓道路の砂利敷工事が行われたことがきっかけとなり、30年から開拓道路の砂利敷補修工事が制度化され、その後は砂利敷未済の路線は次第に解消されていった。しかし、10センチメートルの砂利では、保水力の高い土質や凍結の深い地域には、期待されたほどには効果が上がらなかった。
 40年代に入ると急激に農業の機械化が進展し、また、一般的にも自動車の運行が増加したことから、これに即した道路構造の改善が必要になったため、主要幹線道路に対しては44年度から道営事業として、開拓地道路補修事業が開始されたのである。
 一方、このように開拓地の道路整備が進められている半面、昭和36年(1961)には、戦後入植者数の最盛期を迎え、一五地区一三六戸を数えるに至ったが、開拓三法の整備が行われた36年以降、辺地入植者の離農が始まり、45年にはわずか九地区二三戸しか残らないという状況となった。それ以後、必然的にこれら開拓地に通ずる道路も特に手を加えられることもなく、ところによっては放棄同然で荒れるにまかせ、次第にその機能を失っていく状態におかれているのが現状である。

林道
 戦後、国有林の官行造材のため、函館営林局によって町村道と併用の林道整備が進められ、山間辺地に通ずる道路整備が促進された。すなわち、昭和24年(1949)にペンケルペシュペ川沿い林道として2860メートル、26、27年には野田追川沿道路4702メートルの新設と1万200メートルの改修など、積極的な林道整備が進められたのである。現在林野庁所管林道は22路線で111キロメートルを超える状況である。
 また、43年に着工し、48年10月まで六か年の歳月をかけて完成した「蜂越連絡林道姫川野田追線」がある。この林道は、当町桜野と乙部町姫川の間を、総延長11・7キロメートル(幅員4メートル)で結ぶ新設路線で、渡島・檜山の両支庁が函館営林局との間に林道開設事業実施協定を結んで施工したものである。これによって、沿線林産資源の開発と同時に、両町を連絡する幹線として果たす効用に期待が寄せられている。
 さらに、管内上の湯地区とわらび野地区を連絡し、沿線の豊富な林産資源の有効活用と、民有林の人工植栽面積を増大するための林道として、「広域基幹林道磐石岳線」の工事が進められている。この工事は北海道が所管するもので、幅員5メートル、延長10キロメートル余を予定して49年度に着工、54年度完成を目指して進められた。しかし、延長か14キロメートル余にするという計画変更もあって、完成までにはあと数年を要する見通しである。工事は、上の湯方面とわらび野方面の双方から進められ、49年に完成した磐石大橋(51メートル)を含めて、53年末までに6・8キロメートル余が開削された。さらに、今後の工事では、林道としては全道で初めてといわれる延長340メートルのトンネルが掘削される予定もあり、早期完成が期待されている。
 なお、これらのほかに町が所管するものとしては、昭和45、46年に施行した下二股線(2000メートル)のほか、第一次林業構造改善事業によって施工した46年の大新線(1800メートル)、48年の東野線(302メートル)などがある。

 第5節 河川

 当町には遊楽部川をはじめ砂蘭部川・野田追川・落部川の二級(道費)河川のほか、普通(町費)河川が大小無数にあるが、主なものだけで24河川を数えることができる。しかし、道費河川については既に第一次改修が行われ、災害発生の危険はおおむね解消されたが、町費河川についてはほとんどが原始河川のままの状態で、災害の危険性を秘めている河川も少なくない状況である。

遊楽節川
 安政4年(1857)に松浦武四郎が探検して「東蝦夷日誌」に詳しく紹介した遊楽部川は、古くからサケの捕獲や増殖を通じて住民と深いかかわりをもってきたが、もちろん自然河川であり、降雨増水のつど川筋が変わって、付近の耕地を流失したり、川沿いの家屋もまた危険にさらされるという状態を、たびたび繰り返してきた。こうしたことは、遊楽部原野への入植以来、村の役職者たちにとっては常に頭痛の種であり、折にふれて官に申請し、普請を繰り返して安全確保に努めたのであるが、当時はあくまでも局部的な応急措置を講ずるにすぎなかった。このため、依然として洪水による災害が度重なったであろうことは容易に想像される。このようなことから、昭和3年に災害復旧工事が行われたが、昭和9年に遊楽部橋が永久橋に架け換え(同年11月河川法準用河川に指定)られたころには、それすらもすでに破損し、またまた憂慮すべき事態になっていた。そのため町では、完全な治水工事の施行について陳情を続けた結果、翌10年に初めて遊楽部橋の下流両岸約700メートルの築堤工事が、地方匡救施設として行われた。しかし、それ以後に予定されていた下流河口までの600メートルについては、時局の関係で中断されたため、この早期完成に併せて全流域に対する治水工事の陳情が、さらに続けられたのである。
 こうして、町が多年の懸案事項として当局に陳情を続けているうちにも、出水災害は繰り返されたが、特に昭和17年と23年の被害は大きなものであった。戦時中の軍用材の乱伐や戦後の薪炭材の伐採による山林の荒廃は、必然的に山地の荒廃と保水力の減退を招き、ついに立岩地内の農耕地や家屋の冠水、流失のほか、道路や鉄道などにも多大の被害をもたらしたのであった。このため沿線住民は、昭和24年9月に「遊楽部川治水工事期成同盟会」を組織して工事の促進を期したのである。そして、町と一体となって行った反復陳情が認められてようやく施行段階にこぎ着けたのは、昭和27年のことであった。この工事は、函館土木現業所によって行われることになり、同現業所八雲出張所とともに、遊楽部川河川改修事務所を兼ねた庁舎が立岩の現位置に新設され、9月5日にこれらの開庁式と治水工事の起工式が同時に行われた。
 本格的な着工をみることになった河川改修工事は、当初、昭和27年から五か年の継続をもって計画され、立岩公園地先から下流河口までの左岸4000メートル、右岸4080メートルの築堤工事を中心に、護岸4200メートル、掘削4000メートルのほか、鉄道橋44・6メートルと国道橋48メートルの拡張を内容とする大工事であった。しかし、工事中途において国家予算緊縮の影響もあって遅れを出し、予定の工事を終えたのは昭和33年であった。さらに昭和56年度から同河川の堤防拡幅事業が計画され、65年度全面完成をめどに事業が進められることになった。
 この計画によると、河口から1400メートル上流地点から国道と鉄道橋を挟み砂蘭部川の合流地点まで約1600メートル区間の左右両堤防の幅170〜200メートルを230メートルに広げ、併せて川の流れも修正するというもので、このため両岸にある建物の移転や用地買収・国道橋の架け替え工事など、総工費約40億円が見込まれている。
 この遊楽部川に初めての木橋が架けられたのは明治23年であり、それまでは渡し舟によって人馬の往来が確保されていた。国道橋のほかには昭和5年(1930)6月に架けられた建岩のつり橋があるだけで、対岸との連絡は不便であった。このつり橋は、昭和8年3月に車馬の通行が可能な木橋に架け替えられ(昭和39年に永久橋に架け替えられ、53年には幅4メートルを7メートルとした)鉛川方面への連絡が便利になった。しかし、春日方面や市街地との連絡は依然として不便であるため、国道橋とは別に市街地と立岩地区を結ぶ橋の架設が望まれていた。
 昭和53年(1978)には町の強い要望が認められ、防衛施設周辺整備事業として、国費補助(80パーセント)による「第二遊楽部橋」(仮称)が架けられることに決定し、7月に起工式が行われた。この橋は、着工後4年を経過した56年9月に総工費4億7000万円をもって完成し、橋長185メートル、連続合成けた、照明灯6基で、橋中央部両側の欄干にブロンズ像「若い人」と「二人三脚」が取り付けられた。そして橋名を一般町民から募集した結果、56年12月に「立栄橋」と決定し、57年9月渡橋式を行って供用が開始された。
 また、国道バイパス建設にともなう「八雲大橋」も、前述のように54年度から工事が開始され、遊楽部川には市街地に連絡する3本の大橋が架かることとなり、地域住民はもとより、産業・経済・文化などの振興に大きく寄与することとなった。

立栄橋(写真1)


砂蘭部川
 遊楽部川の支流の一つである砂蘭部川は清流に属し、古くから八雲市街地の飲用水はこの水系に属するものといわれてきたが、遊楽部川のようにサケはあまり上らない川である。しかし、八雲市街地住民の生活とのかかわりは深く、大正4年(1915)に八雲電気株式会社が設立され、八雲市街に電灯がともされて以後、函館水力電気株式会社の経営に移ってからも、引き続き発電はこの川の水利によったものである。また、戦後の復興整備が進むにつれて、いち早くこの川水を市街地の小河川や側溝に取り入れ、防火用水路として活用するとともに、保健衛生の向上にも大きな効用を果たしてきたのである。
 昭和9年11月に河川法準用河川に指定されてから、管内主要河川の一つとして土木現業所の管理となり、準地方費道熊石八雲停車場線と交差する箇所に砂蘭部橋が架けられた。しかし、この橋も本橋のためたびたび流失し、交通が途絶するという災害を繰り返してきた。このため、昭和38年(1963)永久橋に架け替えられ、ようやく交通路の安定確保が図られたのであった。
 またこれと同じころ、上流8キロメートルの地点に伏流水の取水井が設けられ、上水道の水源として重要な役割を果たしており、市街地住民の生活にとって欠くことのできない河川となっている。
 さらに、この川によって隔てられていた春日地区と大新地区を結ぶ本格的な橋の架設は、地域産業の振興発展という見地からも、永い間の懸案事項であった。しかし、町の財政事情もあって歩行者用のつり橋がかけられていたにすぎなかったのであるが、昭和46年に工費3197万円を役じて永久橋「上砂蘭部橋」が架設され、住民に利便がもたらされたのであった。

野田追川
 明治14年以降昭和32年まで、落部村と八雲町の境界であり、茅部郡と山越郡の境界でもあった野田追川は、その流域に豊かな農耕適地を作り上げた河川であり、昭和19年4月河川法準用河川として指定された。しかし、本格的な治水工事が行われることもなかったため、降雨出水などによって流域一帯の農地に及ぼす影響も少なくなかったが、そのつど災害復旧工事を反復しているにすぎなかった。このため、昭和34年度から局部改修工事が行われ、危険箇所に築堤が施設されて以来、災害の発生は著しく減少することとなった。
 明治19年(1886)に山越内と落部両村の協議によって鮭魚種育場を設け、数年間これを維持したという記録があるが、サケは上るが量産は期待できず、一応サケマス保護河川として天然ふ化に依存していたにすぎなかった。
 昭和28年両岸に造山事業が起こされてからは、この流水が貴重なかんがい用水源として利用され、地域の農業振興に大きな天恵をもたらしている。
 渡し舟に頼ってきたこの川に、初めて橋が架けられたのは明治22年(1889)のことであるが、現在の野田追橋は昭和28年2月に架設された永久橋である。
 また、この川で遮られてきた桜野一区とわらび野を結ぶ橋の架設は、両地域住民に限らず広く熱望するところであったが、昭和53年度において桜野地区農道整備事業の一環として、延長50メートルの「桜野大橋」が架設され、翌54年度に取付道路が完成し、桜野〜わらび野間の通行は一段と便利になった。

桜野大橋(写真1)


落部川
 落部村の中心部を流れ、豊かな農耕地を作り、村の発展に深いかかわりをもってきた落部川は、昭和19年4月に河川法準用河川として指定された。昭和26年入沢地区で造田事業が開始されてからは、そのかんがい用水の供給源となり、いまやこの地域の農業に不可欠なものとなった。さらに、33年に給水を開始した落部簡易水道の取水井が、下の湯池区内の河川に設けられてその水源となるなど、住民生活にとってより深い関係を持つところとなった。
 この落部川では、明治初期には毎年六〇石(四尾で一石)程度のサケを捕獲していたが、その後は次第に減ってきたため、明治18年から鮭魚種育試験を実施したのであるが効果は発揮できなかったという記録がある。さらに、昭和23年から33年まで落部村漁業協同組合がサケの増殖計画を立て、採卵と放流を行ったが大きな成果をもたらすに至らなかった。しかし、さけます水産ふ化場渡島支場ではサケの増殖を目指し、昭和53年2月に発眼卵30万粒を河底に埋設するなど、引き続きサケの上る川としての再生に努力している。
 古くから人馬の往来に渡し舟を頼りとしてきたこの川に、初めて橋が架けられたのは明治22年のことであったが、その後幾多の変遷をたどり、国道5号線が国鉄廃線敷地に移り、現在の永久橋になったのは昭和38年である。さらに上流には2、3の橋のほか、昭和49年には道によって開始された広域基幹林道磐石岳線林道の開削工事に関連して「磐石大橋」(51メートル)が架けられた。また、河口付近で落部市街地と川向地区を結ぶ「落部川向橋」(160メートル)が、函館土木現業所によって53年度から三か年計画で着工され、55年11月3日に渡橋式が行われ供用が開始された。この橋は、鉄筋コンクリート造りの永久橋で、車道幅員は2車線で6・75メートル、幅2メートルの歩道が片側に設置され、工費約4億円が投じられたものである。


落部川向橋(写真1)


 第2章 運輸

  第1節 陸運

定期馬車の運行
 明治の末期から大正にかけて道路が整備されると、物資の輸送方法は次第に変化し、人の背から駄馬へ、そして馬車や馬そりへと移行していったのであるが、明治末期には定期馬車が現れていたらしく、詳しくは分からないが「函館支庁管内町村誌(巻五)」の八雲村の章に、
 現今本村二於テ営業サレツツアル定期馬車ハ明治四十四年ノ創業ナリ。当時既二瀬棚、今金間ニハ定期馬車ノ往来アリシガ、ソノ年ヨリ漸ク今金、八雲間二馬車ヲ通ズルコトトナリ。始メテ八雲・瀬棚間ハ下駄ニテ往復シ得ルコトトナリタルナリ。創業当時ハ旅客ノ好奇心ヨリカ、又ハ道路ノ険悪ノタメカ、常二乗客多カリシガ、其後道路モ改修セラレタルコトトテ次第二其数減
とあり、定期馬車の運行について記している。なお、この町村誌にいう定期馬車との関連については解明できないが、大正3年3月の「函館新聞」によれば、瀬棚の金子和吉が2月から八雲瀬棚間の定期馬車を開業したとも報じている。

自動車運送の進展
 大正期を通じて普及しはじめた交通機関に自動車がある。当町に初めて自動車が入ったのは大正6年(1917)のことと伝えられているが、その後における自動車の普及状況などについては詳しくは分からない。
 昭和5年(1930)4月に立岩の佐治為忠が乗合自動車を購入し、自動車業を始めたのが当町における自動車運送の最初であろうと思われる。また、同年10月に「八雲自動車合資会社」が設立され、八雲|大関(現、上八雲)間に定期自動車が運行されるなど、ようやく自動車交通が普及しはじめた。
8年1月には「八雲熊石自動車合資会社」(代表社員・中田鶴吉)の設立が認可され、事務所を八雲駅前の(写真)武田旅館支店の一部に設置し、融雪をまって運転を開始しているが、同年10月の「函館新聞」は当時の様子を次のように報じている。
 八雲ヨリ熊石二至ル乗合自動車ハ、八雲市街ヨリ上鉛川駅逓所間運転中ノトコロ、十八日ヨリ途中胆振・渡島ノ国境工事個所徒歩連絡六丁ニテ熊石村マデ連絡運転開始シタガ、八雲駅前発午前九時三十分、熊石村鮎溜着午後二時、熊石村鮎溜発午前十時三十分、八雲駅着午後二時ノ一日一往復デ、料金ハ片道大人二円五十銭、小人一円三十銭トノコトデアル。
 しかしこのバス事業が、いつどのような状況で廃業したかについては、記録上明らかではない。

大正中期のフォード製乗用車(写真1)


八雲熊石自動車合資会社(写真1)


貨物運送の変遷
 明治36年に函館小樽間の鉄道が開通したことによって、貨物の運送業務を取り扱う運送店を開業するものが現れたが、これはすべて個人経営であり、会社組織としては昭和2年(1927)5月に設立した株式会社八雲運送社が初めである。この八雲運送社は、既に運送業を開業していた八雲組・高田・丸八・河原田・石渡という五つの運送店が合同して、資本金5万円をもって会社組織として発足し、集荷・小口扱いなどを行ったもので、社業も順調に推移していた。しかし、太平洋戦争がたけなわとなった昭和17年8月、道南通運株式会社の設立によって発展的に解散した。
 道南通運株大会社は、軍需物資の増加にともなう輸送の強化を図るため、鉄道および業界の要請によって、函館本線渡島砂原駅から長万部駅までと瀬棚線全駅の24駅にかかおる運送業者を統合して、資本金60万円で設立されたもので、本社を八雲町に置き、支店を森町と利別村に設けて小運送業・倉庫業・貨物自動車運送業などを経営した。代表取締役は大西信明であったが、昭和19年10月にはさらに発展して日本通運株式会社に合併し、旧道南通運株式会社の区域を統括する八雲支店が設けられ、大西信明が初代支店長に就任した。こうして、昭和20年当時の日通八雲支店は、21か所の営業所と3か所の派出所を擁し、各駅の貨物を一手に引き受ける体制を誇ったのである。しかし、30年代に訪れた自動車運送業の急激な伸展により、鮮魚や小目貨物など中距離の急送貨物は、路線トラックが独占する形となり、国鉄の貨物取扱量が激減して小駅の貨物集約が進められるにつれて、情勢は一変したのであった。すなわち、昭和36年4月の山越・山崎両駅の貨物集約、そして37年8月の函館運送株式会社八雲営業所の進出、その他各方面におけるトラック輸送業界からの進出によって、同支店の規模は徐々に縮小されて営業所となり、事務所も駅真向かいから現位置に移転するという経過をたどっている。

初荷風景(写真1)


日本通運(株)八雲支店(写真2)


バス運行の推移
 戦後、自動車運送業の復興により、函館乗合自動車株式会社が経営免許を受け、管内主要路線に進出してバスを運行させた。当町管内においては昭和25年に八雲熊石、八雲大関に、それぞれ一往復を運転するようになったのが初めである。
 26年7月に函館乗合自動車株式会社は函館バス株式会社と名称を変更し、翌27年5月石倉八雲間の経営免許を受けて運行、28年に八雲函館間に二往復、さらに同年10月には八雲大関線を延長して今金・東瀬棚に通ずる直通バスが二往復運行されるなど、バスによる交通事情は著しく好転していったのである。また、38年に八雲国縫間の三往復や八雲上の湯線の開通をみるなど、路線の拡充が図られるとともに、この年東雲町24番地に八雲営業所を新築して事務所や待合室を整備し、体制を整えたのであった。
 こうして、バスの運行は着実に進展するものとみられていたのであるが、一方では今金・北檜山に通ずる路線と熊石に通ずる路線は、既に休止(時期不明)となっていたのをはじめ、さらにこのころから始まった山間辺地における人口流出の影響を受け、43年当時においては管内のローカル3線、八雲上の湯、八雲上八雲、八雲中外鉱山について7便を運行するにすぎず、いずれも赤字路線となり、とりわけ八雲中外鉱山線は営業係数300という極端な状況を示したため、会社は同年4月限りをもってこの路線の運行を休止したのであった。しかも翌44年10月15日、さらに辺地路線8本の運行休止を決定したが、このなかに八雲上八雲、八雲上の湯の2路線も含まれるところとなり、管内では函館長万部間の路線を残してすべてが休止されたのである。

利用組合によるバス運行
 昭和43年4月に函館バス株式会社による八雲中外鉱山線の休止に対応して八雲鉱業株式会社では、有限会社八雲ハイヤーと契約し小型バスを運行して関係者の足の確保に努めたのであるが、八雲鉱業は翌44年4月をもって閉山したため、この区間のバス運行は完全に廃止されたのであった。
 さらに問題となったのは、その年10月に運休された八雲上八雪線と八雲上の湯線の沿線住民に対する足の確保であった。函館バスから提示された路線運休の意向に対し、町と沿線住民は関係当局にバス運行について陳情を行うとともに、善後策について検討を続けた。この結果、それぞれの沿線住民によって「バス利用組合」を設立し、八雲上八雲間、落部十字街銀婚湯間にマイクロバスを二往復させることについて有限会社八雲ハイヤーと契約を行い、10月16日から運行を開始したのであった。町は、これらのバス利用組合に対し補助金を出して運営に支障のないように努めたのであるが、地域における人口の減少、道路の舗装化、自家用車の増加などによってバスの利用は激減し、この継続は町財政上からも問題となったため、町と関係者の協議の結果、昭和52年9月限りをもって利用組合は事業を停止して解散したのである。
 しかし、このように利用組合方式によるバスの運行を停止したとはいえ、これをもって全く町の施策を打ち切ることもできないのが現実であった。このため、町は次善の策について積極的に検討を加え、関係当局との調整を進めた結果、上の湯線については当時すでに運行を開始していた落部中学校のスクールバスを活用することとし、昭和53年6月「八雲町有バスの運行に関する条例」を制定、同年7月15日から一般住民もスクールバスに同乗し、しかも有料で利用できる方法を採用して、住民の足を守ることに努めたのである。
 なお、上八雲線については、一日二往復・週二回、町有小型バスを運行して、とりあえず住民の足を補ったのであるが、56年4月からは上の湯と同様に条例を制定し、料金を定めて一般住民の利用に供している。

自家用自動車の普及
 貨物の輸送手段として、トラックが徐々に普及しはじめたものの、終戦後しばらくの間は依然として馬車や馬そりであった。また、荷馬車は金輪のものから、荷台が大型でゴムタイヤの車輪を付けた保道車へと移行し、積載能力はほとんど自動車に劣らず、しかも維持費も少なく、悪路ではかえって荷物の破損も少ないことなどから一時期大いに普及し、昭和16年ころ同業者による北海道運搬商業協同組合八雲支部(荷馬車組合)が設立され、組合員80〜100名を擁していた。

自動車台数調

 車種

年次 

貨             物

乗   合

乗   用

軽自動車

特殊車

普通車

小  型

被けん引車

普通車

小型

普通車

小型

4輪

3輪

昭32

19

26

 

 

 

61

35

16

34

 

 

95

40

124

396

20

20

10

 

155

183

80

45

197

893

33

18

10

942

711

191

50

323

1,245

38

49

15

2,459

833

485

53

454

1,477

50

48

28

3,400

610

590

55

594

1,575

49

11

49

42

4,052

675

727

 しかし、わが国の自動車生産が軌道に乗り、石油の自由な消費時代を迎えるとともに、道路整備が進むという社会経済の変化によって自動車が急速に普及しはじめ、やがて荷馬車などによる小運搬に取って代わることとなり、昭和27年6月には前記荷馬車組合も解散したのであった。
 昭和20年代の後期に普及しはじめた三輪車に代わって、35年を前後するころには小型四輪トラックが首位を占めるとともに、バイクや軽自動車が急増の兆しを見せるようになった。そして40年代に入ると、各車種とも著しく増加して交通事情は大きく変化し、いわば自動車全盛時代を迎えたのである。

  第2節 海運

海運のはじまり
 松前藩の成立後蝦夷地に場所が開設され、知行主と場所内のアイヌとの間に交易が行われるようになると、自然に松前地からの往来が盛んになったのであるが、その当時は、道路らしいものはほとんどなく、交通機関としてはもっぱら船が用いられていた。いわばこれが当地方における海運の始まりということができよう。
 寛政11年(1799)に幕府が東蝦夷地を直轄して、これまでの場所請負制度を廃止し、直捌と称して漁業や商業を官営にしたので、これに要する仕入品や産出物は、自らこれを取り扱わなければならないことになった。そのため、蝦夷地御用掛は多くの官船を整え、業務の円滑な運営に努めたので、海運は目覚ましい発展を遂げたのである。
 これらの官船は、当時管内の野田追場所や山越内場所にも出入りしたものと思われ、「休明光記」巻之一に翔風光という一五〇〇石積(一石は10立方尺)の船が、享和3年(1803)にヤムクシナイで破船したという記録があるがその事実を示しているといえよう。しかし、これら出入りの官船も、この地方に適当な船入り間がないため、船は仲合いに係留し、順風を待って入港や出帆のときを定めて運航したという記録が多く残されている。
 こうして船による交通はしばらく続いたが、のちに幕府によって道路の開削が進められるにつれて、要所に駅逓が設置され、陸上交通が盛んになってから、海運は物資の輸送が主なものとなったが、適当な船入り間のなかったこの地方に、海運の発達する余地はなかったものと思われる。

荷物回送願(写真1)


明治年代の海運
 明治2年(1869)に森村の平民長四郎という者が渡海船2隻を造り、同年12月から森室蘭間を航海し、人や物を運搬するようになった(「新稿伊達町史」所載「開拓使事業報告」)のが、この地方における民営海運の始まりと思われる。続いて明治5年には、開拓使が同区間に汽船を就航させるなど、定期航路を開設し住民の利便をはかった。この航路は昭和3年(1928)9月長輸線開通まで続けられたが開通とともに、必要度がなくなり遂に廃止されるに至った。明治11年7月に八雲開拓の先発隊が入植したときは、人は函館から陸行し、荷物は汽船で遊楽部まで運んで陸揚げしている。また、この年の10月に入植した第1回の移住人たちは、東京品川から函館まで玄武丸、函館から開拓使汽船ケプロン丸で遊楽部にやってきたが船入り間がないため、船は沖に停泊し、はしけを使って上陸したり荷揚げをしたのであった。
 その後も引き続いて入植する移住人の生活や、生産に必要な物資の輸送手段を考えなければならなかった。もちろん、入植当初から現地で自給自足できるはずはなく、食料品をはじめ農耕や建築の資材は、すべて函館方面から調達して移入しなければならなかったからである。そのため徳川家開墾試験場では物資輸送の専用船として、明治14年に西洋型帆船「八雲丸」を建造し、函館遊楽部間を運航させた。この船は1873円余を要し、7月29日に進水したが、伝えられるところによると二本マストのりっぱな船であったという。また、遊楽部浜には、運搬する物資を保管するための板蔵が二棟建てられた。その後この船は、国道が開通(明治22、3年)されたころ函館方面に売却されたということである。
 明治30年(1897)民営によって函館森間の船舶通運が始まり、翌31年7月には有珠郡伊連打に「噴火湾汽船株式会社」が創設され、伊達・虻田・室蘭・森・函館の各港への回送にあたった。この回送船が荷物によっては落部や八雲に入ったので、積荷を陸揚げするため大いに利用されたようである。明治32年には落部の宮川慶吉が、これに対応して回送店を経営したが、36年に函館小樽間の鉄道が開通してからは、海運を利用する貨物も徐々に滅りはじめ、この回送店も次第に衰微したという。


 第3章 鉄道

  第1節 鉄道の移り変わり

 北海道における鉄道は、明治13年(1880)に幌内鉄道の一部として、小樽の手宮と札幌の間におよそ36キロメートルが敷設され、11月28日試運転を行い、第一号「義経」、第二号「弁慶」と呼ばれるアメリカ製の機関車が、煙を吐き汽笛を鳴らして走ったのが始まりである。次いで15年11月に手宮幌内間が全通し、その後25年1月までに、岩見沢室蘭間、岩見沢空知太間などに鉄道が開通していった。

函樽鉄道敷設
 函館小樽を結ぶ鉄道の敷設は、明治19年(1886)に岩村道庁長官が開拓事業の一環として取り上げて以来、歴代長官によって計画が取り上げられてきた重要事項であったが、容易に実現する兆しはみられなかった。こうしたなかで、日清戦争後に迎えた全国的な私鉄に対する投資過熱ともいわれる背景のもとに、明治28年2月の北海道鉄道、29年1月の函樽鉄道など、各社から相次いで鉄道敷設の申請がなされたが、いずれも認可されるには至らなかった。
 しかし、一方国会においても、北海道における鉄道敷設の重要性について認識が高まり、明治29年5月「北海道鉄道敷設法」が制定され、予定6線のうちに「後志国小樽ヨリ渡島国函館二至ル鉄道」が明記されたものの、計画としては第二期に編入され、その実現は早くとも10年後という状況であった。
 こうした情勢に対応して、同年6月有志によって再度なされた函樽鉄道株式会社の設立認可申請に対し、翌30年4月に仮免状が下付された。しかし、折からの経済不況のため、株式の募集も予定どおりはかどらず、会社の設立準備も進められないという深刻な事態に直面し、仮免状有効期限延期を二度も出願して許可を受けるという状況で、その設立すら危ぶまれる状態であった。
 明治32年10月、こうした苦難のうちにようやく会社創立総会を開き、函樽鉄道株式会社(翌33年2月、社名を北海道鉄道株式会社に変更)を設立するに至り、いよいよ函樽鉄道敷設がその緒についたのである。なお、その後においても多くの曲折をたどるのであるが、たまたま日露両国間における情勢の悪化を背景として、政府は35年4月に会社の申請を認め、1マイル(約1・61キロメートル)当たり8000円の国庫補助を指令し、3年半をもって全線を完成するよう命じたことから、鉄道敷設の事情はにわかに好転したのである。
 工事はこれ以前の34年6月から一部直営をもって着手されていたが、35年6月から本格的な建設に取り掛かって以来、極めて順調に進められ、亀田本郷(渡島大野)間は35年11月に、本郷森間は36年5月に、そして八雲地方を含む森熱郛間は同年8月完成(11月3日開業)という経過をたどり、37年10月15日をもって、函館小樽中央(高島)間全長159マイル余(約255・9キロメートル)が開通したのである。
 なお、36年8月の森熱郛間の完成時点では、当町管内には野田追・山越内・八雲・黒岩の4駅が開設されたが、鉄道開通による住民の喜びと期待は大きく、11月3日の開通式には、汽車を一目見ようと山奥から弁当持参で出掛けてくるほどであったという。
 こうした鉄道の開通は、旅行の面でも物資輸送の上においても画期的な変革であり、これまでの交通機関であった駅逓をはじめ、山越内方面で繁盛していた旅人宿も、自然に姿を消すこととなった。
 なお、明治39年3月に公布された「鉄道国有法」によって、この北海道鉄道は翌40年7月1日に買収されて国有鉄道となり、さらに42年10月12日には鉄道院告示第五四号によって線路名称が改正され、「函館本線(函館〜旭川間)」となったのである。

管内各駅の開設
 明治36年(1903)11月3日当地方の鉄道開通により、管内では野田追・山越内・八雲・黒岩の4駅をもってスタートしたが、さらに翌37年10月15日に山崎駅を開設して5駅とするとともに、山越内駅を山越駅と改称した。(「北海道鉄道百年史上」)なお開業当初、野田追に機関庫が設置されていたが40年6月30日に廃止され、また、黒岩には給水所が設けられていたのであるが、廃止の経過については不明である。

黒岩駅(写真1)


山崎駅(写真2)


山越駅(写真3)


野田生駅(写真4)


 この鉄道開通時においては、落部村内には駅が全く設置されなかった。当時、会社としては茅部・落部・野田追の順に駅の設置を予定したのであったが、そのころの落部村民の考え方としては、「従来落部は宿場であり、旅人宿・飲食店・その他の商業は、宿場であるがゆえに繁栄したのであって、停車場が開設されることによって旅行者は村を素通りし、そのため村の繁栄が損われる」という意向が強く、停車場設置の反対運動を行ったため、会社ではやむなく計画を変更し、石倉・野田追の二駅を設置してこれに対応したのであった。
 その後、明治40年(1907)宮内省御料局が、落部御料林40年輪伐と官有地三〇〇町歩開放の計画を発表するにおよび、輪伐材の搬出、開放地への農民移住にともなう生産物や物資輸送のため、落部にも駅設置の必要性が認識されるようになった。このため42年、戸長岩間勝従は総代奥田庄兵衛、後藤光太郎、宮川慶吉らとともに、駅の開設について請願運動を続けた結果これが採択され、44年8月5日に落部駅が開設されるに至ったのである。
 昭和19年(1944)9月1日には鷲の巣信号場が設置され、鉄道輸送の増強整備が図られる一方、地域住民の利便が図られていたのであるが、国鉄の合理化計画により、24年8月臨時乗降所となり、37年9月からは遠隔制御信号所として無人化され現在に至っている。

路線改良と鉄道工事
 函館本線開通当初の管内鉄道路線のうち、石倉駅と落部駅の間、特に茂無部から浜中にかけての路線は、旧国道付近で現在の国道5号線の山手側に上るという急傾斜で、現在では考えられないような運転の難所であった。そのため、大正2年(1913)10月に、この急傾斜を緩めると同時に線形の屈曲も緩和する路線改良工事が実施された。しかしこの工事も、現在の国道5号線の位置まで下げたという程度のもので、本格的な改良工事といえるようなものではなかった。
 昭和17年(1942)太平洋戦争はますます激烈の度を加えるにしたがい、輸送力の強化が要求され、鉄道線路の複線化計画が進められつつあった。特に落部駅は昇降場の湾曲がひどく、そのうえ駅構内を挟む双方の地点に急傾斜があって、運転上の難所とされていたことから、この複線化工事と併せて同年秋からトンネルの掘削工事が開始された。
 この工事は、落部野田追間側は札幌市の地崎組が、落部石倉間側は旭川市の荒挺組がそれぞれ請け負ったのであるが、このほかに栃木県下の挺身報国隊や韓国人労務者が動員され、のちには中国人捕虜が動員されて就労した。これら強制就労させられた韓国人と中国人労務者は、それぞれ飯場に収容され、おりからの食糧不足や作業用資材の欠乏のなかにありながら、規律ある行動によって作業に従事したという。しかし、食糧不足から栄養失調となって多数の犠牲者が出たり、日本が敗戦国となった終戦直後にはいちじ混乱を起こし、警防団が出動してこれを鎮めたこともあったという。その後これらの強制連行者のなかには、自国に帰る者もあって、工事はいちじ中止となり、21年に再開されて落部石倉間のトンネルはこの年10月完成したが、工事期間中に事故が発生し、多くの中国人と韓国人労務者が犠牲になったという。これらの犠牲者かどうか判然としないが、昭和52年(1977)10月12日に在日韓国居留民団函館支部団長尹成 学ほか1名が、韓国人遺骨収集のため当町を訪れ、落部東流寺に保管されていた遺体6体と、東町浄土寺保管の2体、合わせて8体の奉安慰霊祭が東流寺で執行されたあと引き渡しされた。


落部駅(写真1)

 昭和20年(1945)6月複線計画のうち石倉野田追間上り単線工事が完成し、在来の路線と併用して一応複線運転ができるようになったので、10月には落部駅を現在地に移転した。このため、上下線乗降場の間があまりにも離れることになって(現在の国道が在来路線の位置)、いちじは駅助役が6、7名も配置されたこともあり、小さな駅としては珍しいことであった。しかも戦争終了後の混乱ということもあって、複線化計画もいちじ中断されたため、落部駅の変則的な形もしばらく続くことになったのである。
 輸送力の増強とスピードアップという時代の要請に対応して、石倉落部間の在来線の路盤を現在地まで下げる改良工事が行われ、昭和33年12月10日にこれが開業された。これによって、石倉落部間が本格的な複線とはなったものの、石倉野田追間については在来線が廃止されたため、落部野田追間は逆に単線区間になったわけである。こうして不用となった在来線跡地の一部を転用したのが現在の国道であり、落部市街地を貫通していた国道が、町道に移管されたのである。
 その後、時代の進展によって複線化の要請はますます高まってきたため、国鉄青函局では昭和39年度から管内複線化工事に着手し、41年9月24日山崎黒岩間、43年9月21日落部野田生間、44年8月29日野田生山越間、44年9月26日山越八雲間と、相次いで複線化が実施された。
 なお、野田追駅は字名と同一にするよう青函船舶鉄道管理局に陳情の結果、34年10月1日から野田生駅と駅名変更がなされた。

八雲山崎間の複線化
 函館本線森長万部間については、複線化の終わっていない八雲山崎間7・2キロメートルの区間が単線として残されている。このため国鉄は、列車運行の円滑化を図るため、54年1月に約30億円の資金を投じ、56年10月の開通を予定して複線化工事に着手、新線は在来線の西側に平行して敷設し、完成後は在来線を廃止しようとするものである。

八雲保線区(写真1)


 工事は、市街地区の用地買収と同時に進められたのであるが、国鉄の財政難による工事費の伸び悩み、函館土木現業所の計画による遊楽部川拡幅工事との関連などで、当初計画は大幅にずれ込み、56年度までに遊楽部川に架ける新鉄橋(約230メートル)の橋脚、市街と国鉄橋を結ぶ高架橋(約180メートル)の一部立岩地区の路盤約1キロメートルが完成、57年度に鉄橋と高架橋の上部を完成させ、高架橋に続く路盤約300メートルの造成を行う計画で進められ、58年度に完成させることとしている。
 この工事によって、町総合体育館駐車場の一部約1400平方メートルが線路敷地にかかり、体育館利用者が駐車できなくなるため、町は国鉄と協議の結果、体育館に隣接する野球場前の現線路用地を含めて3200平方メートルが複線化で廃止されることから、駐車場の1400平方メートルと等価交換することとした。また、野球場前の高架橋下についても、利用者が駐車できるよう国鉄の了解を得ているところである。

貨物集約輸送
 鉄道はその開設以来、旅客の輸送とともに貨物の高速大量輸送を重要な使命とする交通機関であり、駅といえば旅客と貨物の取り扱いをするところと考えられるほど地域住民の生活に密着し、産業の発展に欠くことのできないものであった。しかし、昭和30年代に訪れた自動車の急激な普及にともない、生活物資や生鮮食料品をはじめとする貨物の陸上輸送に依存する割合が必然的に増加し、やがて国鉄の経営に大きな影響を与える要因となっていった。
 国鉄はこうした社会的な変革による経営状態の悪化に対応し、計画的な合理化に取り組む必要に迫られたが、その一つとして貨物取扱量が比較的少ない駅については取り扱いを廃止し、これを集約しようという、いわゆる貨物集約化計画を進めることとしたのである。しかし、こうした国鉄の計画は、当然に季節的な貨物や木材の輸送に重大な影響があり、地域住民の生活に支障を及ぼす大きな変革であった。このため町議会でも昭和34年(1959)12月に「国鉄の貨物集約輸送に対する反対決議」をもってその意向を示し、青函局に対して反対運動を続けたのであった。このような地元の根強い反対もあり、実施時期などで大幅な後退があったものの、時代の流れというべきか、ついに36年4月山越と山崎の2駅について貨物取り扱いが廃止されたのをはじめ、47年3月には野田生と黒岩の2駅にも波及拡大され、55年5月には落部駅も廃止され、現在管内で取り扱いをしているのは八雲駅だけとなった。

八雲駅舎の改築
 明治36年に鉄道が開通されて以来、当町の表玄関ともいうべき八雲駅は、大正4年(1915)と昭和5年(1930)の二度にわたって改築されたのであるが、戦後、乗降客の増加によって待合室は狭くなり、また、木造平家建ての駅舎も腐朽度がはなはだしく、増改築が強く望まれていた。町においても昭和29年以来、この駅舎改築の早期実現について関係当局に陳情を重ねていたのであるが、容易に実現する兆しはみられなかった。

旧八雲駅(写真1)


 しかしその後、駅舎改築を望む機運が町内関係機関にいっそう高まりをみせるに至ったので、昭和41年(1966)4月に町が提唱して「八雲駅本屋改築等推進連絡協議会」を発足させ、本格的にその検討と早期実現を期する運動に入った。こうした情勢に対応して町議会においても、翌42年6月「函館本線八雲駅舎等早期改築促進に関する要望決議」を決議し、運輸大臣・国鉄道総局・青函局など関係機関に要望書を提出するとともに、「八雲駅駅舎改築に伴う鉄道利用債の引き受けについて」を議決して、国鉄利用債7000万円を限度として引き受けることを決定し、本格的な改築促進に向けて運動を展開したのであった。その結果、当初地元で計画した構想を大きく下回るものとはなったが、44年2月の第217回国鉄常務会において、八雲駅改築利用工事2940万円として正式に決定されたのである。44年度の道内駅舎の改築は、八雲・白糠・浜頓別の3駅で、当時の国鉄当局の方針として、いずれも地元で利用債(非公葬鉄道債券)の引き受けで改築するものであった。この決定により町では43年度において利用債2925万3000円を引き受け、この債券を直ちに金融機関に譲渡する方法をとって負担の軽減を図ったのである。
 改築工事は、44年7月2490万円で松原組が落札、10月に完成した。そして、同月14日の鉄道記念日を期してオープンし、午後4時6分発札幌行き急行ニセコ2号から新駅舎による改札業務が開始された。この新駅舎は、鉄筋コンクリート平屋建て、251.1平方メートル(待合室部分123.3平方メートル)と旅客上家施設が199平方メートルで、駅舎改築の記念入場券も発売された。また、この改築を記念して、八雲土建協会など18業者から電気時計一式が寄贈され、駅正面に据え付けられた。

八雲駅(写真1)


改築記念入場券(写真2)


鉄道各駅の利用状況
 明治36年11月に開通した鉄道は、拓殖の進展に大きな役割を果たしたのであるが、明治44年(1911)、昭和29年(1954)、同53年(1978)の各駅における貨客取扱量の推移は下表のとおりである。これをみる限りにおいても、自動車の増加による鉄道輸送への影響が大きいことを知ることができる。

管内各駅貨客取扱量(資料:管内各駅 単位:旅客=人 貨物=トン)

(明治44年 1911)

区分

駅名

落部

野田追

山越

八雲

山崎

黒岩

旅客

乗 客

14,529

,082

35,014

,118

,876

降 客

14,013

,650

34,100

,901

,734

貨物

発 送

,394

,967

11,830

,553

,271

到 着

,941

,700

,875

825

 

(昭和29年 1954)

区分

駅名

落部

野田追

山越

八雲

山崎

黒岩

旅客

乗 客

129,078

83,132

570,256

66,281

173,441

降 客

127,425

82,344

521,187

68,901

171,133

貨物

発 送

,531

,335

40,594

,102

91,713

到 着

,464

,341

35,389

,893

,679

 

(昭和53年 1978)

区分

駅名

落部

野田生

山越

八雲

山崎

黒岩

旅客

乗 客

70,231

44,417

24,690

264,787

15,513

34,872

降 客

56,185

35,529

19,750

211,829

12,409

27,894

貨物

発 送

844

16,072

到 着

2,187

13,556


北海道新幹線建設計画
 全国新幹線網の整備については、昭和47年(1972)6月に東北・北海道・北陸・九州(のちに福岡〜鹿児島間と福岡〜長崎間の2線に数える)の4新幹線の基本計画が決定された。北海道新幹線のルートをめぐっては、関係市町村の間に激しい誘致運動が展開されたのであるが、翌48年10月には日本海回り、いわゆる「北回り」ルートとすることに決定し、54年度開業を目標として計画が進められることとなった。
 こうした動向に並行して北口町長は、当然この地方を通ることが予想される新幹線に八雲駅を設置することは、当町のみならず広く関係町村の発展と、住民福祉の向上に不可欠なものであるとし、檜山支庁管内の各町村長・議会議長・産業団体長らの同意を得て、昭和48年9月にはいち早く連名をもって関係筋へ陳情するなど、積極的な運動を展開したのであった。
 昭和49年10月には、注目されていた停車駅の計画が内定という段階になり、札幌・小樽・倶知安・長万部・八雲・大野・木古内の七か所に設置される案がもたれるに至った。このうち特に八雲駅は、将来南回りルートの開設に備えて設置される長万部駅と、新函館駅になる渡島大野までの90キロメートルあまりの間で保安駅の性格をもたせるものとなり、しかも、在来線が海に近く用地がないという事情と、架線やレールが塩害を受けやすいという事情から、山沿いに新八雲駅を建設しようというものであった。
 しかし、その後の政治経済情勢の変化により、いまだに着工の見通しすら得られず、新八雲駅の実現も極めて流動的で、楽観できない状況である。このため、昭和52年5月に町内各関係機関・団体(14団体)を結集して「北海道新幹線『八雲駅』誘致促進期成会」(会長・北口町長)を組織し、早期着工の促進と併せて新八雲駅の誘致実現のため、強力な運動を展開することとした。その後は関係当局に陳情を重ねるほか、町民の関心を盛り上げるため促進ステッカーなどを各戸に配布して、積極的な運動を進めている。


  第2節 瀬棚線・熊石線の敷設運動

八雲・瀬棚線
 現在では幻の線となったのであるが、大正年代において八雲瀬棚を結ぶ鉄道の敷設は、極めて真剣に、そして活発な誘致運動が展開されていた。明治36年の函樽鉄道開通後、この地方では西海岸の瀬棚に通ずる鉄道敷設が懸案となっていたのであるが、明治44年(1911)に実地測量が行われ、大正2年(1913)に提出された速成請願が帝国議会の採択するところとなり、しかも間もなく分岐点を国縫とするということが鉄道院から発表された。
 これに対し八雲においては、八雲を分岐点として利別に至る経路をとれば、沿線一帯の農林業の生産や地下資源の開発など、いわゆる拓殖鉄道としての使命を発揮するところが大きいことを強調し、国縫瀬棚間に対し八雲瀬棚間を比較線として実地調査を請願した。そして、大正7年(1918)には木村村長を会長として「八雲瀬棚線期成同盟会」を結成し、さらに強力な誘致運動を続けたのであった。
 この結果、大正10年5月に鉄道院建設部から瀬棚線の実地測量隊が派遣され、これによって新たに鉄道敷設法第一条による「日本国有鉄道ノ敷設スヘキ予定鉄道路線」として、同法別表北海道の部一三〇に『胆振国八雲ヨリ後志国利別ニ至ル鉄道』が登録されたのであった。しかし、国縫瀬棚間には明治44年ごろからすでに定期馬車が運行されていたこと、また、大正9年には軽便鉄道の敷設が決定されていたこと、その他の事情によって、ついに大正15年には国縫・瀬棚線が着工され、昭和7年(1932)全線が開通したのであった。こうして、町を挙げて運動を続けてきた八雲・瀬棚線の敷設は、その実現をみることができなかったのである。

八雲・熊石線
 八雲熊石間の鉄道敷設も、かねてから両町村民の要望するところであったが、昭和16年(1941)9月に鉄道省建設局計画課の一行が来町して路線調査を行ったことによって、急に活発な動きをみるようになった。こうした調査を機会に両町村挙げてこの線の誘致運動を進めることとし、同年11月に宇部八雲町長、広川熊石村長、米沢道議らの一行が陳情書を携えて上京し、関係方面に対してその実現方を要望したのであった。
 しかし、鉄道省建設局の意向としては、
 熊石・八雪線の簡単な調査はしたが、ただちに敷設の必要があっての調査というわけでない。調査線は多数あるが、その中から商工省と協議して工事の難易(工費に対する敷設延長の長短)、建設によって開発し得る資源の程度などより四十七、八線を選定したが、企画院から建設資材の割当などの関係で四、五線くらいより着手し得ないと思う。(陳情経過報告書より)
というものであり、一応調査はしたものの、直ちに建設計画に組み入れられるという段階のものではないことが明らかにされた。
 その後も両町村は提携して、関係機関にこの鉄道敷設と併せてその前提ともなる省営バスの運行について陳情を続けた結果、昭和21年(1946)7月にようやく新線敷設の請願が国会において採択された。しかし戦後の混乱と、その後における社会の急激な変化という情勢のなかで、この線の実現もまた夢と帰したのであった。


 第4章 通信

  第1節 郵便

郵便局の創設
 明治維新以前の通信機関は、所や時代によってその呼称や主管者も異なるが、会所・運上屋・通行屋・旅宿所などと称される施設によって、宿泊・人馬継ぎ立てなどを合わせて行う賃金制による書状の逓送という形式、いわゆる駅逓業務の一部として行われるにすぎなかった。しかも、当時は通信といっても一般のものは少なく公の書状が主で、そのうえ受取人は場所請負人や番人に限られるという状況であり、近代郵便制度のそれとはおよそ程遠いものであったといえよう。
 明治4年(1871)に「郵便法」が制定され、翌5年7月には東京函館間に郵便路線が設けられ、函館に本道最初の郵便役所を設置して業務を開始したのであった。その後道内に郵便路線が確定し、本格的に郵便業務が開始されたのは同年10月1日からであった。このときの郵便路線のうち当地方が関係した路線は、函館を起点として森へ至り、森から室蘭に渡って札幌へ、そして小樽に達するという経路で、この間には、大野・森・室蘭・幌別・白老・勇払・千歳・札幌・銭函・小樽の10局のほかに山越内にも郵便取扱所が設置されたのである。
 当時この路線からはずれた地方にありながら、山越内に郵便取扱所が設けられた理由は判然としないが、この路線開業の明治5年10月1日に山越内郵便取扱所(8年1月制度改正により郵便局と改称)が設置され、松田武右衛門が事務取扱人を命ぜられて業務を開始したのが、当地方における郵便局開設のはじまりであった。なお、当時これ以外の地方から郵便を出すためには、郵便役所か郵便取扱所まで出向いて差し出さなれば正式な逓送を受けることができなかったのであるから、山越内の郵便取扱所の設置は、当地方の住民にとって大きな福音であった。
 その後明治7年1月には、新たに森から山越内を通り長万部・岩内を経て小樽に至る郵便路線が開設されたが、12年10月の駅法改正、民営移管の経緯もあって、翌13年1月に落部・黒岩の二郵便局が設置されて業務を開始するなど、住民の利便が図られていったのである。しかしこのころの郵便局は、単に郵便の集配を取り扱うだけで、電信や為替は取り扱わなかったため、送金する場合は森まで出掛けなければならず、電信や為替の取り扱いに対する住民の要望は大きなものがあった。こうした要望にもかかわらず、内国為替や貯金が取り扱われるようになったのは、山越内郵便局で25年5月、落部郵便局では29年7月であった。

八雲郵便局の設置
 明治23年(1890)国道の開通とともに、戸長役場や警察分署など行政の中心が山越内村から八雲村に移るにしたがい、郵便の発着も増加してきたので、八雲村に郵便局設置の要望が高まってきた。そのため徳川家開墾地委員片桐助作ら住民代表8名は、25年6月函館郵便電信局長に対して「郵便支局設置願」を提出するとともに、北海道庁長官に対してもその実現方について協力を要請した。その趣旨は、
 当胆振国山越郡八雲村字砂蘭部ノ義ハ、元ト戸数僅ニ数拾戸ニ満タサリシ一部落ナリシ処、去ル明治拾壱年華族徳川慶勝茲ニ開墾ノ業ヲ創メ、旧名古屋藩士ヲ移シ、爾来勉メテ拓地殖民ニ力ヲ尽シ、年々土地相開ケ戸口相増シ、且ツ二十二年当地ヲ通シ森・長万部間ノ道路新開セラレ、続テ廿三年戸長役場・警察分署モ隣村山越内ヨリ当地へ移転相成、隨テ郵便発着ノ数著シク増加セリ。然ルニ当地ヨリ黒岩郵便局ヘハ三里、山越内郵便局ヘハ壱里半相離レ居リ候。故ニ当地ハ郵便路線ニ当リ乍ラ此ノ如ク郵便局隔離候ニ付、本年ヨリ此線路一日二回ノ発着ニ改メラレタレトモ、当地ハ依然一日一回ノ発着ニ止リ、而シテ該局処在ノ地ニ比スレハ発着共ニ概子一日ノ遅速アリ、今ハ日新ノ世運、信書ノ往復迅速ノ上ニモ迅速ヲ要スルハ人情ノ免カレサル処ニシテ、隣村ト均シク其速達ノ便益ヲ蒙ラン事ヲ当地移民一同懇祈渇望スル処ニ御座候。付テハ何卒当八雲村字砂蘭部ニモ郵便支局御新設被成下候様致度、別紙調書相添此段奉願候也。
 但本条願意御採納被成下該局新設ノ場合ニ相運ビ候節、之ヲ営ムベキ家屋ノ如キ、地方ニテ負担可致訳ニ候ハハ、御差図ノ場所ヘ如何様ニモ設置可致、且ツ亦該局担当役員地方ヨリ申立可然筋ニ候ハハ、恵ニ上申可及、尤其場合ニ於テ身元保証金差出シ候御制規ナレハ、是亦御制規通リ相弁シ可申候条此段申添候也。
とするもので、八雲村住民が一致して庁舎を新築することを条件に、郵便局の設置を要望していた。ただし、この出願は山越内郵便局を八雲村に移転してほしいというものではなく、新たに郵便支局を設置してほしいというものであった。しかし、結果的には明治26年(1893)4月に山越内郵便局を八雲村(現位置)に移して八雲郵便局と改称したのであった。なお、これより先の25年下期には、黒岩郵便局が長万部村の国縫に移されていたので、八雲村と山越内村を通じて一郵便局という体制になったわけである。

山崎郵便局(写真1)


黒岩郵便局(写真2)


 八雲郵便局では、28年2月から電信為替、29年7月から小包、30年3月から電信などと相次いで取扱業務が拡充され、住民生活のうえに大きな利便がもたらされていった。なお、この電信業務を取り扱うようになった時点で「八雲郵便電信局」と称した時期もあったようである。

各地郵便局の推移
 明治の末期各地に農場が興隆し、戸口の増加によって集落が形成されるにつれて、おのずから郵便局の設置が望まれるようになった。
 前にも述べたが、明治5年に山越内郵便取扱所が設置され、その後13年には落部村にも郵便局が設置された。そして宮川大吉が初代局長に任命され、局舎を落部村役場前の漁港へ下がる左側に新築して業務を開始した。その後29年に落部八幡宮参道入口の右側に移転、同年7月に貯金為替業務の取り扱いを開始し、33年2月から小包郵便物、41年11月電信業務、大正5年6月簡易生命保険、14年12月電話通話所開設、15年10月郵便年金業務、昭和8年2月電話交換業務というように業務が拡張されていった。25年には局舎を小学校北側に新築移転し、さらに、49年11月には国道沿いの現在地に新築して移転し郵政業務を行っている。

旧八雲郵便電信局(写真1)


旧八雲郵便局(写真2)


上八雲郵便局(写真3)


山越郵便局(写真4)


 明治42年には野田追郵便局(昭和31年に野田生郵便局と改称)が設置されたのをはじめ、大正元年8月に山越と黒岩の二郵便局があらためて設置された。
 さらに、昭和3年6月に上八雲郵便局、13年5月に山崎郵便取扱所(15年に郵便局となる)というように、各主要地に郵便局が設置されたのである。また、八雲市街地では昭和17年5月に八雲駅前郵便局、22年1月に国立病院前郵便局(31年に宮園郵便局と改称)がそれぞれ設置された。
 なお、昭和25年11月に中外鉱業株式会社の経営する八雲鉱山地区に、八雲町長を受託者とする上鉛川簡易郵便局(31年に鉛川簡易郵便局と改称)が開設され、36年12月には無集配特定局に昇格したのであるが、八雲鉱山の閉鎖によって44年7月限りで閉局した。
 このほか、40年2月には茂無部簡易郵便局、41年3月に野田追東簡易郵便局がそれぞれ設置された。
 55年現在の郵便局の種別数は下の表のとおりである。

旧落部郵便局(写真1)


落部郵便局(写真2)


旧八雲郵便局(写真3)


八雲郵便局(写真4)


郵便局種別表

種   別

普通局

集配特定局

無集配特定局

簡易郵便局

八雲郵便局の現勢
 昭和21年(1946)3月に八雲郵便局が普通局に昇格し、当町における中心局としての地位を占めるに至った。現在の庁舎は昭和29年9月に完成したもので、鉄筋コンクリート地上2階、地下1階、総面積828平方メートル、工事費3000万円を投じたもので、その後これに増改築が施されて今日に至っている。
 昭和24年6月に電信電話の事業を分離して、現行の郵便局体制となったが、その後44年2月から航空小包郵便取扱業務が開始され、開局100年を迎えた47年には、郵便取扱量が45万通に達する発展を示した。


 第2節 電話

電話の開設
 大正3年に第一次世界大戦がぼっ発し、その影響を受けた日本の経済は著しい発展をみたのであるが、特に当町においてはでんぷんを主体とした商取り引きが活発になり、その情報の確保のためにも、長距離電話と同時に市内特設電話の開設が強く望まれるようになった。そのため、これに要する費用のうち村費から1500円、有志の拠出による3000円の計4500円を提供することとして当局に請願を続ける一方、特設電話加入者組合を組織して第1回の申込者65名を募って開設に備えたのである。この結果、これが認められていよいよ工事に着手し、開通をみたのは大正7年(1918)12月であった。
 当初の電話番号の決定にあたっては、1番の村役場と8番の徳川農場を優先的にとり、その他は抽選で決めたという。こうして、1番役場、2番石橋菓子店、3番松川呉服店などというように65番までを決定した。その後加入者も次第に増加し、交換台の増設も行われ昭和30年(1955)3月には加入者381を数えていた。
 なお、地域の加入電話は、昭和2年(1927)から野田追局に、10年から山越局に、そして23年から黒岩局にそれぞれ架設され、同じく30年3月現在で、野田追47、山越24、黒岩19という加入状況であった。
 また、落部村においては、大正14年(1925)12月に落部郵便局内に電話通話所が設けられたのが、導入のはじまりであった。しかし、これは局に設置した公衆電話にすぎず、11台の加入電話を架設して交換業務を開設したのは、昭和8年(1933)12月であった。

農村電話の普及
 昭和31年(1956)以来、電信電話公社では電信電話施設拡充五か年計画に基づき、辺地無電話地域救済のため、農村公衆電話の制度を設けてその設置促進を図った。
 この制度によって、この年8月立岩に農村「甲・乙」電話が架設され16戸が加入したのが、当町における農村電話普及として最も早いものである。
 町では、この農村公衆電話制度に即応して、無電話地域の解消を目指して架設を要請したのである。こうして昭和31年12月に大新会館に公衆電話が設置されたのをはじめとし、翌32年3月に八雲鉱山地区と上鉛川小学校、同年11月に花浦・山崎・鉛川の3地区、33年11月に上の湯・桜野・赤笹の3地区、34年10月に春日・熟田・蕨野の3地区、35年7月には落部川向地区・茂無部などと逐年普及していった。
 また、昭和28年以来陳情を続けていたにもかかわらず、加入予定者の不足と工事費負担が多額であるという点で実現できなかった上八雲地区の電話は、35年12月に「地域団体加入電話」という方式で24基が架設され、八雲町農業協同組合上八雲出張所に交換機を設置して通話が開始された。なお、37年5月には春日地区にも地域団体加入電話が架設され、春日一区会館に交換機を設置して通話を開始したのであるが、この地区は45年2月の農集電話の開通にともないこれに切り替えられた。

有線放送と農集電話
 昭和36年(1961)に八雲町農業協同組合が、農山漁村特別助成事業として有線放送施設工事に着手し、38年3月これを完成、同農協管内農家327戸の加入をもって業務を開始した。この有線放送施設は、一斉放送用増幅器・電源装置・保安器・秘話装置付テレフォンスピーカーなどの機器により、交換操作台を通じて一斉放送・呼出放送・電話交換などを行うことができるもので、農事メモや農事講座なども放送して有効活用に努めた。
 こうした施設の活用は、組合員の生産活動や情報収集に大きな役割を果たしたが、施設の維持に多額の経費を要し、やがてその存続が危ぶまれる状態を迎えたのであった。
 一方、こうした状態のなかで、農漁村地帯においても電話の設置を望む機運が高まり、昭和42年(1967)に「農村集団自動電話制度」が創設されたのを契機として、翌43年に農漁村関係者が一体となって期成会を組織し、この施設の導入実現に努めたのである。その結果これが採択され、45年2月関係地域農漁家441戸に電話が架設されたのであった。これによって、よりいっそう通信網が整備されたので、八雲町農協では同年3月1日限りをもって、有線放送施設を廃止したのである。
 この農村集団自動電話(農集電話)の設置地区は、黒岩・山崎・花浦・立岩・内浦町・上八雲一区・大新・春日・鉛川・熟田・浜松・山越・野田生・桜野地区の全部もしくは一部であった。この電話は一般の加入電話と違って、一本の電話線を多数で使用するため、数軒の家のうちどこかが通話中のときは、ほかの家は利用できないという不便は避けられなかったが、当時としては、地区の産業振興や日常生活の向上に、大きな役割を果たすものとして歓迎されたのであった。
 しかし時代の推移によって、農集電話を一般電話に切り換えて不便を解消するとともに、黒岩・山崎の一部など無電話地帯の解消や、上八雲地域団体加入電話の自動化などの実現を図るため、関係者は昭和51年7月に「八雲町農漁村電話切替促進期成会」を組織し、関係筋に要請運動を開始した。その結果、52年7月の上八雲地域集団加入電話の自動化(当時加人数49)、53年1月の黒岩電話交換局開始にともなう無電活農漁家40戸の解消、そして同年3月16日農集電話の一般電話への切り替え完了など、懸案事項が相次いで解決した。これによって期成会もその目的を達したので、同月27日に祝賀会を行って解散したのであった。

電話のダイヤル自動化
 昭和37年(1962)5月20日から八雲局管内(この時点で山越局管内を統合)の電話が、これまでの磁石式から自動式に切り替えられた。しかし、この自動式は現在のようなものではなく、各加入電話番号が4けたとなり、市内電話に限り相手方の番号をダイヤルすることによって、自動的に連結するというものであったが、当時としては大きな変革であった。なお、八雲から落部・野田生・黒岩などへの通話は、ダイヤルによってそれぞれの局を呼び出し、局から通話の相手方を呼び出してもらうという方法であった。
 さらに、40年12月からは市外電話についても自動即時通話となったが、これも過渡的なもので、札幌・函館・森・今金・北檜山と、その周辺32局に適用され、その他の道内・道外局からは即時受信はできるが、八雲からは103番を通して申し込まなければ通話できないという片道通話方式であった。
 こうした経過のあと、八雲局に自動市外接続装置(SMS)がセットされ、全国にダイヤル即時通話が可能になったのは、昭和43年11月22日からであった。また、48年2月21日からは、八雲局の加入電話に局番がつけられ5けたの電話番号になったのである。
 なお、このような八雲局の近代化に引き続き、いずれも無人局ではあるが、49年10月30日から落部電話交換局が、翌50年7月23日からは野田生電話交換局が、さらに53年1月31日から黒岩電話交換局がそれぞれ業務を開始してダイヤル自動化が図られ、全国即時通話が可能となったのである。
 これよりさきの昭和35年12月から、独自に交換手をおいて業務を続けてきた上八雲の地域団体加入電話は、52年(1977)7月にボックス型の無人自動交換機の設置によって自動化されるとともに、「地域集団自動電話」と性格を変えて多年の不便が解消されたのであった。

八雲電報電話局
 昭和24年(1949)6月電気通信省設置法が施行されたことによって、これまで八雲郵便局で取り扱ってきた電信電話の業務が分離され、これを担当する八雲電報電話局とその管理庁である八雲電気通信管理所が設置されたのが本局の始まりである。
 この八雲電報電話局は、しばらくの間八雲郵便局に同居する形をとったため庁舎が狭くなり、交換機の増設も不可能な状態となった。このため、旧岡部病院跡の建物を買収して改修工事を行い、電気通信管理所とともにこれに移転し、業務を開始したのであった。
 また、同年11月に日本電信電話公社法の施行にともない、電気通信管理所が電報電話局に統合され、現在の基となったのである。
 当初、電報電話局の庁舎に充当した建物は、大正6年(1917)に建築されたもので老朽が激しく、そのうえ電話の需要が増加したこともあって、当時の400加入磁石式複式という交換機では、到底需要に応じきれないという状況であった。このため、局では昭和32年に町と交渉し、国道5号線沿いの町有地1063平方メートルなど必要な用地を買収するとともに、国鉄所有の第二鉄道寮や民家を移転させて、新庁舎を建築する準備を着々と進めたのである。
 しかし、町の強い要望にもかかわらず、公社の財政事情などにより新築計画も定まらないまま推移せざるを得なかったのであるが、昭和35年(1960)11月にはいよいよ着工の運びとなり、翌36年に鉄筋コンクリート2階建ての現庁舎が新築されたのである。
 昭和47年には、電話加入申し込みの滞留消化と市内局番の実施のため、さきに建築した庁舎の裏側に、鉄筋コンクリート3階建ての局舎を増築し、クロスバー交換機を導入するとともに、緊急非常の場合に備えて屋上に。パラボラアンテナを付設、有線に加えてマイクロウェーブでカバーする2ルート方式に体制を整備したが、これによって地上から鉄塔まで50メートルという、町内で一番高い建物となった。
 なお、従来は電話交換業務をそれぞれ各地の郵便局で取り扱っていたが、落部・野田生・黒岩には、無人の電話交換局を設置して自動化を図ったことにより、これらはすべて電報電話局の直営で管理されることになった。
 昭和53年(1978)12月現在における八雲町内の電話施設数は、八雲局の4353(うち上八雲地域集団電話47)をはじめ、落部761、野田生429、黒岩318の合計5861を数えている。

八雲電報電話局(写真1)


落部電話交換局(写真2)


八雲統制無線中継所
 昭和56年(1981)4月に渡島半島北部地域の無線通信網の保守と強化を目的として、八雲電報電話局の施設内に「八雲統制無線中継所」が新設された。
 これは、都市間を連絡する市外通話が有線(電話線)と無線(マイクロ回線)の二方式によって結ばれており、昭和55年八雲寿都間にマイクロ回線が新設され、また、八雲今金間の同回線が増設されたことなどにともない、これまで函館・室蘭・小樽の各統制中継所が分割して保守業務を担当してきた渡島北部地域の無人無線中継所を、一括して管轄し、不時の故障に備えようとするもので、道内では20番目に開設されたものである。
 担当区域は、北が寿都中継所、南が八雲町浜中中継所までで、渡島・檜山管内の北部、後志管内南部の13中継所である。