第6編 公安・消防
第1章 警備
第1節 警察
警察機構の創始と分署の設置
明治2年(1869)榎本武揚を中心とした旧幕府軍と維新政府軍による箱館戦争によって大きな打撃を受けたものの、当時道内最大の都市である箱館の治安維持は、開拓使の当面する課題であった。そのため、数度の変革を経たあと、明治4年9月以来市中取り締まりの任に当たっていた護衛兵を最後に、軍隊による治安維持を廃止し「函館邏卒規則」を定めて本道初の警察機構を設け、邏卒をおいてその警護に当たらせたのが翌5年8月であった。しかし、この当時の取り締まり区域は市中に限り、遠隔地の村々は、たとえ管内であっても取り締まりの必要がないとするにすぎなかったのであるが、その後8年8月に福山と江差に屯所を設けるなど、体制の整備が逐次はかられていった。
同年12月には府県における行政警察規則とほぼ同様の「開拓行政警察規則」を定め、ようやく全道一律の警察機構を整備するとともに、翌9年2月から邏卒を巡査に改め、邏卒屯所を巡査屯所に改めるなどの措置をとった。さらに、10年3月函館支庁管内では、巡査屯所などを改めて函館警察署を置き、同出張分署を設けるとともに、福山分署・江差分署を設置して、よりいっそう体制が整備された。したがって、当地方は函館警察署の所轄するところであったが、明治12年3月には寿都分署と同時に「森分署」が設置(開函甲三六号)されて茅部・山越の二郡を管轄した。さらに、15年3月には函館県がおかれて、函館警察本署が設置されたことにより、森分署は森警察署に改められてこの地方を所轄した。明治17年には森警察署から比較的遠隔の地にあった川汲と長万部に分署が設けられたあと、当地方住民の要望がいれられて、18年7月に次の告示により山越内に「森警察署山越内分署」が設置された。そして分署長に斉藤慎三巡査が任命され、署員は分署長とも2名で、山越内村と八雲村の二か村を管轄区域とした。
告第三十九号
山越郡山越内村ニ警察分署ヲ置キ、森警察署山越内分署ト称シ、山越内・八雲ノ二カ村ヲ管轄セシム。
右告示候事
明治十八年七月二十一日 函館県令 時任為基
なお、この警察分署の設置に際し、山越内村の坂本菊松は庁舎用として建家一棟を寄付したが、これにより函館県令から木杯一組を贈られ表彰された。また、この建家は同時に山越内村戸長役場にも兼用された。
初代北海道庁長官岩村通俊によって、明治19年から20年にかけて官制改正が行われ、従来の支庁を廃して道庁と直結した郡区役所を置くことにするとともに、郡区長に警察署長を兼ねさせ、郡区書記と警部・警部補も相互に兼任させることとした。またこれと同時に、従来の警察分署を廃止し、各町村戸長役場をもって警察分署にあて(この逆の場合もある)、しかも戸長に警部・警部補を兼ねさせるという方針が打ち出されたのである。
こうした一連の改正によって、明治20年6月10日山越内村・八雲村二か村戸長三井計次郎に対し「兼北海道警部補」と「森警察署山越内分署長ヲ命ズ」との辞令が交付され、戸長と分署長の兼任体制に入った。
翌21年3月には、茅部・山越郡役所と亀田・上磯郡役所が合併し、亀田ほか三郡役所が七飯村に設置されるとともに七飯警察署が設けられ、森警察署も分署となったので、山越内分署はその管下に属することとなった。なお、落部村では19年3月に、相木七五三作宅に巡査駐在所が置かれていたが、前述の兼任制度によって20年5月「森警察署落部分署」が設置され、6月に戸長松本賀積が分署長兼務を命ぜられた。さらに、21年3月には「七飯警察署落部分署」となった。
このように行政官と警察官の兼任という簡易な盲判が施行されたのであるが、この間にも本道は目覚ましい発展を続け、各種の業務もまた次第に複雑となり、こうした便宜的な機構の維持も難しい状況となった。このため、24年7月の道庁官制改正によって再び行政官と警察官を分離し、漸次専任官をおく方針がとられた。さらに、30年4月の改正にともない、郡区長や戸長による署長・分署長の兼任は制度的にも廃止されたのである。
しかし、こうした制度的変革の経過はその通説であるとしても、実際にはこれ以前から一戸長役場・一警察分署という方針は崩れており、23年4月には七飯警察署所轄の落部・山越内・長万部などをはじめ12分署が廃止される半面、上磯や木古内と同時に「八雲分署」が新設され、庁舎を八雲村に移して山越内村と長刀部村も管轄することとなったのである。また、落部分署廃止後の落部村は森分署の所轄に属し、再び巡査駐在所が置かれることになった。
明治30年11月北海道庁官制改正にともない、従来の郡役所を廃して札幌ほか18支庁を設置し、亀田外3郡役所は亀田支庁と改められた。さらに、32年10月には亀田支庁を函館支庁と改称し、事務所を函館に移したのであるが、警察署は依然として七飯警察署がそのまま存置され、40年3月にこれが廃止になって函館警察署の管轄するとこ
ろとなった。
なお、この間の30年5月には長万部村に分署が設置され、八雲分署の所轄から離れていたが、39年に分署が廃止されて再び八雲分署の所轄になっていた。
警察署への昇格
大正10年(1921)9月26日、警察力拡大の一環として行われた大幅な組織変更にともない、「八雲警察分署」は「八雲警察署」に昇格し、森分署管内も所轄することとなったが、翌11年には森分署も警察署に昇格したので、八雲警察署は山越郡下だけを所轄することになり、現在の下地がつくられたのであった。
当時の警察署庁舎は、八雲分署となって戸長役場とともに山越内村から移転した明治23年に建築(現、八雲郵便局前で、戸長役場と同居)したもので、30年あまりも経て老朽化したうえ、本署に独立し署員も増加して狭くなったため、早急な改築に迫られていた。しかし、第一次世界大戦後の経済界の不況は、中央・地方を問わず経費の緊縮が強制され、地方費のみによる建築は不可能な状況であった。そのため町の有志は、大正14年7月に「八雲警察署改築期成同盟会」を組織して木村町長が会長となって募金を行い、警察庁舎改築費として1万5000円を北海道地方費へ寄付する方針を確認した。これによって期成同盟会は、募金額1万5326円八二銭(預金利子を含む)のうち1万3500円を寄付し、残金は内部設備費や式典費にあてることとした。なお、このほかに町費から地方費に直接1500円を支出したので、寄付総額は当初の予定どおり1万5000円となっていた。こうして翌15年11月、現位置に木造2階建ての新庁舎と官舎一件が落成したが、落威武は昭和3年(1928)5月26日に行い、寄行者に対し会長から感謝状を贈ったのである。
自治体警察
太平洋戦争が敗戦という形で終わり、軍隊は消滅し治安のすべてを警察が負うことになったが、昭和20年(1945)10月に治安維持法・治安警察法が廃止され、特高と呼ばれた特別高等警察の職員も一斉に罷免された。
こうして、昭和23年3月から実施された警察法によって、明治以来の中央集権的な警察制度が改正され、人口5000人以上の市街地的市町村は自治体警察を維持することとなり、当町にも「八雲町警察署」が設置されたのである。
この警察署は、八雲町一円を管轄区域とし、警部1名、警部補1名、巡査部長2名、巡査18名の計22名が配置され、初代警察長兼署長に警部小林髓輝(23年、警視に昇格)が任命されて発足したのである。
また、警察行政の民主的な管理運営を図るため、警察法第四四条によって設けられる公安委員に岡部五郎・大島勝世・秋野大仙が町議会の議決を径て選任され、委員長に岡部五郎が互選されて就任した。なお、25年3月に岡部五郎が任期満了で退任したあと、後任委員として鈴木永吉が選任され、委員長に大島勝世が就任し、それぞれ警察行政の円滑な運営に努めたのであった。 新制度による自治体警察は、民主化の線に沿って表面上は円滑に推移したようには見えたが、その内容においては余りにも多くの問題を抱えていた。特に自治体における財政負担増は深刻であり、また、組織を細分したことによって警察力は弱体化したのである。こうしたことから、25年の朝鮮動乱発生後において警察力の強化が求められたこともあって、26年6月に警察法の一部改正が行われ、その第四四条に、
「人口五千人以上の市街地的市町村は住民投票によって警察を維持しないことができ、また警察を維持しないこととした後、再び警察を維持することができる。但し二年間は変更できないこととする。」
と規定された。
旧八雲警察署(写真1)
初代八雲警察署長 小林髓輝(写真2)
こうした改正に対し、町村自治体警察の廃止は地方自治の本旨に反すること、また、国家警察の強化は中央集権化を招き警察の民主化を薄くすること、などの理由で存続を主張する意見もあったのであるが、当町においても町議会が中心になって研究と協議が続けられた結果、9月8日「自治体警察を維持しないことを住民投票に付する」旨の議決を行い、9月28日に住民投票を行った。この結果、警察を維持しないことに賛成のもの2811票、反対のもの806票となり、9月30日限りをもって自治体警察を廃止することが決定し、10月1日から国家地方警察に編入することになったのである。
国家地方警察
こうして八雲町警察署は、昭和26年(1951)10月1日を期して「国家地方警察函館方面八雲地区警察署」と改められ、新体制に移行したのである。翌27年5月には隣町の長万部町警察署も住民投票によって廃止となったので、6月から同町の区域も含めて管轄することとなり、長万部警部派出所が置かれた。
また、昭和23年3月の警察法による自治体警察設置の適用が除外されていた落部村は、森町に設置された国家地方警察森地区警察署の管轄区域に属していたのであるが、27年6月1日から八雲地区警察署の管轄下に移った。そしてそれまでの巡査駐在所が部長派出所に昇格し、部長1名、巡査1名が配置された。
このように八雲地区警察署は、一挙に広大な地域を管轄することとなったため署長には警視が配置され、署員も30名から64名に増員されたのであった。
一方、道内の国家地方警察を運営する道公安委員会は、26年9月をもって廃止され、これに代わる組織として五つの方面公安委員会(札幌・函館・旭川・釧路・北見)が設置された。この方面公安委員会は、それぞれ3名の委員をもって組織し、各委員は道議会の同意を得て知事が任命(任期3年)するもので、同年9月1日当町の宇部貞太郎(元町長)が函館方面公安委員に任命された。
北海道地方警察
昭和29年(1954)7月、警察法(新法)の施行により、これまでの国家地方警察と自治体警察のすべてが底止され、新たな自治体警察である北海道警察として統合発足した。これによって当町の国家地方警察も暫定的に「北海道警察八雲警察署」と改組されたあと、同年8月31日をもって「北海道函館方面八雲警察署」と改称されたのである。
なお、北海道警察の組織は、一つの道警本部と5方面本部を置くこととし、それを管理する道公安委員会と、その下にあってそれぞれの方面本部を管理する方面公安委員を設けることになったが、宇部貞太郎は引き続き函館方面公安委員に任命され、さらに31年7月には委員長に就任し、35年7月まで在任した。
大正15年に建築された八雲警察署庁舎は、40年近くを経過し、老朽化とともに狭くなったので、昭和37年(1962)に道費をもって改築されることとなった。工事は5月に起工され、1268万円余の工費をもって同年11月に鉄筋コンクリート2階建て707平方メートル余の新庁舎が現住置(富士見町113番地)に完成した。
なお、昭和35年12月現在の定員は、各駐在所を含めて警察官46名、一般事務職4名の計50名である。
駐在所の設置・廃止の経過
以上述べた警察署の変遷のほかに、駐在所についても設置・廃止の経過をたどってきた。
落部警察官駐在所はさきに述べたように、明治23年(1890)4月に落部分署廃止のあと巡査駐在所となり、昭和27年(1952)6月には八雲地区警察署に所属するとともに、部長派出所に昇格して野田生巡査派出所を管轄してきたのである。その後、41年10月に国道5号線沿いに庁舎を新築して旧落部村役場前から移転し、43年7月に落部警察官駐在所となって現在に至っている。
八雲警察署(写真1)
このほか、現存する野田生警察官駐在所は、明治40年(1907)5月に巡査派出所として設置されたものであるが、これと同時に設置された黒岩巡査駐在所は、警察官駐在所と名称変更を経て、昭和48年(1973)3月限りをもって廃止された。
山越内巡査駐在所は、明治23年9月に分署が八雲村に移転された後に設けられたものであるが、大正14年5月に廃止となり、明治42年6月に設けられたシュルクトシナイ巡査駐在所は、大正15年に大関巡査駐在所と名称変更を経て昭和18年に廃止された。さらに、明治44年5月に設置の上砂蘭部巡査駐在所は、大正15年に廃止され、昭和16年8月に設置された八雲鉱山巡査駐在所は、同23年に廃止されている。
落部警察官駐在所(写真1)
野田生警察官駐在所(写真2)
第2節 消防
消防組の創設
家屋が増加し、人が集団して生活を営むようになると、その区域で発生する風水害や火災などに対し、共同で防衛手段を講じたであろうということは容易に想像されるが、当町における火災予防組合あるいは私設消防組に類するものの古い記録は残されていないので、その詳細について知ることはできない。
北海道における公設消防のはじまりは、明治15年(1882)の札幌で、次いで18年の函館といわれるが、これが法的制度として確立されたのは、明治27年2月発布の勅令「消防組規則」が施行されてからであった。そして同規則に、
「組頭及小頭ハ警察部長若クハ其委任ヲ受ケタル警察署長之ヲ命免、消防手ハ警察署長之ヲ命免」
と明示されたように、消防に開する指揮監督権は、すべて警察署長の権限に属していた。しかし、私設の消防組は別として、公設の消防組はすべての町村に直ちに設置を義務付けるというものではなく、一定水準の市街地的形態に達したと認められる地域に、その設置が求められるというようになっていた。
八雲村において公設消防組の設置が問題となったのは、明治36年(1903)のことであった。当時は開墾地の開発もようやく進展し、ある程度の市街地が形成され、明治35年には2級町村制が施行されたことによっても、警防消火に対する組織の必要性が認められるようになり、所轄警察分署長から村当局に対して協議がなされたのである。これを受けた三井村長は、2月の村会に対し諮問案「消防組設置ニ関スル件」を提出、「其設置ノ必要性ヲ認メル」という答申を得てその節に回答したことから、八雲村における公設消防組設置の素地がつくられたのである。
こうして、明治36年6月11日北海道庁令第七七号によって、公設八雲消防組設置の指定を受けたのであった。しかし当時は、公設とはいいながらも村会で検討されたのは、組頭以下に対する人件費の公費負担の問題であり、その他の消防施設や設備については、当初から受益住民の寄付によることが当然であると考えられていたようである。そのため八雲市街地在住の有志、小林三松・若山与吉・吉田鎌太郎・鈴木秀吉・北谷茂八・三宮三平の6名が発起人となり、警察分署長渡辺安芳など関係機関の協力を得て募金に着手し、住民122名から679円余の寄付金を集めて諸器具を整備し、八雲消防組の基礎を確立したのである。
創設当時の組織としては、組頭1名、小頭4名、消防手40名という体制で、初代組頭には小川助次郎(初代)が就任した。また、消防施設としては、番屋一棟を建築して腕用ポンプ1台を配備し、火の見はしごに警鐘を備え、はんてん45名分という必要最低限のものであった。
二部制への移行
公設消防組設置直後の明治36年11月、函館―小樽間の鉄道開通によって八雲村は著しい発展を続け、大正3年(1941)には市街地の戸数も500戸を超え、なおも増加傾向を示す勢いであった。このため、当時の分署長山本好助、組頭梅村多十郎(明治45年4月30日就任)らは、消防力の不足を憂慮してその増強を計画し、村有志
の協力を得て寄付金776円余を集め、腕用ポンプ1台を補強、番屋2棟、警鐘2個、被服類31名分、その他付属設備として村に寄付手続きがとられた。
初代組頭 小川助次郎(初代)(写真1)
組頭辞令(写真2)
一方、これと同時に警察当局から村に対し、「逐年戸ロノ増加ニ伴ヒ、既設消防組織ニテハ一朝有事ノ日ニ遺憾ノ念斟ナカラズ」という理由によって、二部制の実施と消防手31名の増員が要請されたのである。村会もまたこれに同意して寄付受領の議決を行い、大正3年7月北海道庁令第五五号をもって二部制が実施されることになった。
これによって、組頭に梅村多十郎、第一部の部長に鈴木永吉、第二部の部長に五十嵐平治がそれぞれ就任し、各部に小頭2名を配して新体制に臨み、消防力の強化を図ったのである。
三部制への発展
野田生地区においては、鉄道開通後にわかに戸口が増加し、機関庫が設置されるなど小市街地が形成されつつあったが、大正3年6月この市街地に火災が発生し、18棟18戸365坪(約1204・5平方メートル)を焼失、1万1820円の損害を出す惨事となった。このため、消防組の必要性を痛感した地域の有志は、その創設に尽力し、6年8月に火災予防組合の事業として腕用ポンプ1台を購入、これを母体として私設野田生消防組を組織した。その機構は、部長1名、小頭4名、消防手30名という体制であり、部長には鈴木秀明が就任した。こうして誕生した私設消防組ではあったが、翌7年に機械器具などの一切を村に寄付して、公設消防組へ編入の手続きをとった結果、同年4月北海道庁令第一八号をもって八雲消防組は野田生を含めた三部制が認可され、八雲市街地の一、二部、野田生の三部という組織になった。ちなみに第三部の部長には鈴木秀明、小頭に横田門四郎、小川米次郎が就任した。
なお、大正8年8月に梅村多十郎が組頭を辞任し、10月後任組頭に鈴木永吉が就任した。
創設当時の消防装備(写真1)
動力ポンプの導入
大正8年(1919)に町制が施行された八雲町の市街地は、急速な発展によって家屋も増加したのであるが、その半面、消防力は他町村に比べて遅れているといわれ、有事の場合が心配されていた。そのため有志の間では、ガソリンポンプの早急な購入計画が検討されたのであるが、おり悪く第一次世界大戦の不況に見舞われ、この計画は一時中止の状態となった。
その後、大正10年に函館消防組がガソリンポンプ(12馬力)を払い下げるということを知り、その譲り受けに希望を抱き、不況のなかにもかかわらず、消防後援会(8年1月結成、会長・木村町長)その他の有志が奔走して3000円の寄付金を集めた。そして、日野助役・島崎分署長・鈴木組頭らが出函して交渉の結果、これか2000円で譲り受けることに成功し、同年2月22日に持ち帰り第一部に配備した。これが当町における初の動カポンプ導入であり、この操作についてはかなりの知識と技能を必要としたため、消防手のなかから6名を選んで函館に派遣し、8日間にわたって訓練を受けさせたのであった。さらに、同年5月にはガソリンポンプ1台(14馬力)を2850円で購入して一部に配備し、それまでのガソリンポンプを二部に移して市街地消防力の強化に努めた。これら2台の動カポンプは、鈴木永吉(組頭)を有志総代として町に寄付を申し出、同年7月に町会の議決を経たのであった。
このように動力ポンプが相次いで導入され、機械力の増強が図られたが、これと並行して火防用水路の水源開発について検討が加えられ、当時砂蘭部川の上流に設けられていた発電所の排水を利用して市街地まで水を引く計画を立て、10年6月に火災予防組合が主体となって水路を完成した。
なお、八雲消防組の組頭は鈴木永吉の辞任にともない大正10年6月平野幸三郎(初代)に、そして大正13年3月黒川市松(初代)に引き継がれていた。
野田生消防組の独立
当町の消防組は、大正7年4月に野田生を含めて三部制としたことは前に述べたが、その後の運営経過からみて、野田生はあまりにも遠隔のため指揮統一の上で不便であるという理由によって、これを分離独立させることについて警察分署長から協議があり、大正11年4月に町会もまたこれに同意する旨を答申した。これにより同年5月、北海道庁令第五五号と第五六号をもって組織変更され、野田生消防組が独立し、ハシノスベツ川を境界とする旧大字山越内村一円を管轄区域と定められた。そして組頭に鈴木秀明が就任し、小頭2名、消防手32名を配して新体制をとったのである。したがって当町では、八雲消防組と野田生消防組の二本立てとなり、八雲消防組は再び二部編成に戻って、組頭のほか各部に小頭3名と消防手38名を配する機構となった。
独立後の野田生消防組は、翌12年さらに腕用ポンプ1台(648円)を野田生火災予防組合から寄付を受けて体制を強化した。その後、昭和6年(1931)2月に鈴木秀明が急逝し、新組頭に横田門四郎が就任、さらに11年12月小川伊三郎がこれを引き継いだが、14年4月には警防団に包含され「八雲警防団第四分団」となり、分団長に小川伊三郎が就任した。
八雲消防組の三部編成
八雲消防組は、大正11年5月に野田生消防組を分離し、二部制をもって八雲市街の防火・消防に当たったが、その後戸口の増加に応じて、管轄区域にも変更が加えられるなどの措置が講じられていた。さらに昭和6年には、市街地の広がりと戸口の増加に対処するため、組織を変更して三部割にすることについて警察署長から協議を受けたのである。
この問題について諮問を受けた町会は、直ちに異議なき旨を答申し、これによって同年4月16日北海道庁令第三八九号をもって認可され、現在の形の基となる三部編成が実現したのである。なおこのときの組織は、組頭1名のほか、各部とも部長1名に小頭が2名、消防手は一部と二部が各17名ずつで、三部が39名という編成で、総数83名となっていた。
消防組時代の体制整備
市街地の発展に合わせて、八雲消防組の消防力も年ごとに整備されていった。
すなわち、大正10年に購入し第一部に配置されていたガソリンポンプは、故障がちになったため、15年に新規購入の計画が立てられ、町費2600円、有志による寄付金2600円、これまでのガソリンポンプの下取り額1000円を合わせて6200円をもって、当時最新式といわれたノーザン式ガソリンポンプ(アメリカ製・23馬力)を購入した。
もちろんこのポンプは、優秀な性能を誇ったのではあるが、積載車はあくまでも手引きであったため、多くの人力を要するうえ、出動に際しては迅速性に欠け、時代の要請に適応しないという状態にもなったのである。そこで、昭和8年10月にこのポンプを積載するトラック(シボレー)を購入改造し、機動力の増強を図った。
また、同じく大正10年に第二部に配置されたガソリンポンプは、大正6年に製作された中古品で、使用開始以来15年を経過しており、故障が多く多額の修理費を要するうえ性能も著しく低下していた。このため、昭和7年6月に新フォードコンマーシャル車に森田式ウエヤレースギヤーポンプを装備した消防自動車を購入した。この価格は3300円で、町費と火防組合や一般有志の寄付によったものであり、これが当町における最初の消防自動車導入であった。
昭和6年に新設された第三部には、腕用ポンプ2台が配備されたにすぎなかったので、動力ポンプの設置は当初からの懸案事項であった。そこで火災予防組合が主体となって町民有志から寄付金を募り、昭和10年11月新フォード日本式タービン三輪車を3212円余で購入して配備し、翌11年1月町に寄付した。
フォード日本式タービン三輪消防車(三部)(写真1)
こうして、昭和7年6月の第二部、8年10月の第一部、10年11月の第三部というように相次いで消防自動車が配備され、市街地における機動力は一段と強化されたのである。
なお、昭和11年には四角型鉄骨警鐘望楼(高さ約16メートル)が建設された。これは、町費500円と長塚季雄の篤志寄付300円によったもので、第二部機械置場敷地内(現、富士見町1番地)に建設された。
また、昭和12年6月黒川組頭辞任のあと、小川太郎が組頭に就任したが14年2月在職中に死亡した。
各地消防組の誕生と経過
各地の戸口が増加して集落が形成されてくると、前に述べた野田生地区に限らず、火災の予防と消火活動は、当然に地域住民共同の関心事となり、やがて各地に火災予防組合や私設消防組などが設けられ、公設消防組へと発展していったのである。ここに、黒岩・山越の消防組と落部消防組について概要を記すと次のとおりである。
≪黒岩消防組≫
大正21年(1923)4月に黒岩の古沢徳三が、私費580円を投じて腕用ポンプ1台を購入し、地域の青年を集めて自ら組頭となり、私設消防組を組織した。そして、ポンプ操法などの技術を八雲消防組から指導を受け、同地区の警備に当たったのである。
四角型鉄骨警鐘望楼(高さ16メートル)(写真1)
その後、逐年所要の整備を進めたことによってその成果が認められ、昭和3年(1928)に黒岩消防組の公設について、八雲警察署長から町に対して協議があった。またこれと同時に、同地区の長谷川鎰を代表として、腕用ポンプその他設備一切の寄付申し出があり、こうしたことから同年11月に公設黒岩消防組を創設したのである。そして初代組頭に長谷川鎰が任命され、小頭2名、消防手30名で、被服類は地域の一般寄付120円をもって購入したのであった。
昭和8年2月には、消防組員が過去4年間にわたって受けた各種の手当を積み立てた資金によって、網走消防組からガソリンポンプ1台(14馬力)を750円で払い下げを受けるなど、設備の充実に努力したのであった。同年5月組頭に松本久治が就任したが、14年4月警防団に包含されて「八雲町警防団第二分団」となり、分団長に同人が任命された。
≪山越内消防組≫
昭和3年(1928)山越内の坂田竹三郎が発起人となって私設山越内消防組を組織し、腕用ポンプ1台(850円)その他付属設備を整備して自ら組頭となり、小頭2名、消防手30名を配し山越内の警備に当たった。
その後6年2月に八雲警察署長から山越内消防組の公設について協議があり、町会はこれを妥当と認めて答申した。
これと同時に器具置場その他の設備をもって同年4月、組頭に坂田竹三郎のほか小頭2名が任命され、公設山越内消防組が発足したのである。そして14年4月「八雲町警防団第三分団」となり、坂田竹三郎が副団長を兼ねて分団長に任命された。
公設黒岩消防組(写真1)
≪落部消防組≫
早くから一村を形成し、かなりの戸口を数えた落部市街では、おのずから火災予防に関心が高まり、火災予防組合が組織され、随所にズック製バケツやとび口などを備えてきたようであるが、本格的な消防体制とはいえず、有事の場合が心配されていた。
そのため村内有志の協議によって、大正12年(1923)5月7日組頭に相木国太郎を推し、私設落部消防組を組織して落部を第一部、茂無部(現、栄浜)を第二部とし、腕用ポンプ各1台を備えて発足した。ただし、野田追地区は黒禿の丘陵地帯を挟んだ地理的条件もあって、この組織には加入しなかったという。こうした体制整備を受けて、翌13年12月16日公設の落部消防組となり、地域の防火活動に当たることとなったのであ
る。
昭和11年(1936)7月には、消防自動車1台を4300円(うち村民寄付1800円)で購入し、第一部に配備して機動力の増強を図った。
昭和14年4月に落部警防団が設置されてこれに引き継いだのであるが、初めて野田追地区もこれに編入して第三部となったのである。
防護団と警防団
満洲事変から日中戦争へと戦争が長引くとともに、航空機の発達によって、敵機による本土空襲の可能性が考えられるようになった。そのため、
私設山越内消防組(写真1)
昭和10年下期ごろから、軍部の指導による防空業務遂行の下部組織として、市町村に防護団をつくらせるようになった。しかも昭和12年には、防空法をはじめ防空関係法令の整備が進められ、法的にもこの措置が要求されることとなったのである。
当町でもこうした情勢に対応して、昭和13年10月に防護団を結成し、警護・警報・防火・交通整理・救護などを主な業務として任務遂行に当たった。特に役場の屋根裏に監視時を設け、望遠鏡やサイレンを備えて日夜団員が監視業務に当たったことは、時局とはいえ特異なことであった。しかし、当時警察の掌握下にあった消防組と、町村長の指揮下にあった防護団の二元性が問題とされるようになり、ついに14年1月の勅令第二〇号をもって「警防団令」が公布されるとともに、これまでの消防組規則が廃止されて、4月以降消防組と防護団を統合し、新たに警防団として発足することになった。これによって町においても、
「警防団令第二条ノ規定ニ依リ警防団ヲ設置シ、防空並水火消防其ノ他警防ノ完璧ヲ期セントス」(三月二〇日議決書)
として、これまでの八雲・黒岩・山越内・野田生の各公設消防組と防護団を統合改組し、「八雲町警防団」を設置したのである。
警防団は4月3日に八雲小学校で結団式を挙げたが、発足当初の団長に米沢勇、副団長に坂田竹三郎と田辺定治を配し、定員263名(10月組織変更により284名に増員)で、従来の各消防組を分団とする四分団制をとり、八雲市街を第一分団、黒岩を第二分団、山越内を第三分団、野田生を第四分団とした。なかでも市街地の第一分団では、消防部(三部制)のほか警報部・灯火管制部・交通整理部および防毒部などを設けるという特異なものとなっていた。
こうして警防団は道庁長官の監督下に入り、警察の指揮に基づきこれと表裏一体となって行動し、その服装も消防組時代のもも引きズボンに刺し子法被というスタイルから、黒襟つきの国防色(元陸軍軍服のカーキ色)の団服に統一され、軍隊風の階級章をつけるという戦時色の強いものとなった。
さらに、昭和17年2月には警防団の組織の一部を変更して団本部を設けたほか、第一分団を警護本部と消防本部の二本立てとし、それぞれに部長を配した。
なお、落部消防組においてもこれらの経過については同様であった。
警防団下の施設整備
昭和17年6月、平野幸三郎の寄付によって、第一分団第二部の望楼に警報用サイレン(5馬力)を備えつけ、警報伝達の機能が強化された。さらに八雲町警防団後援会(会長・岡部五郎)から、19年にフォードV8に装備した三段高圧タービンポンプ自動車、20年2月に現本町215番地に第一分団(第二部)格納所40坪余が新築して寄付された。またこの年、八雲漁業会(会長・米沢勇)から第三分団(山越)器具置場15・5坪が寄付されるなど、相次いで施設装備が整っていった。
なお、役場庁舎に設置していた防空監視哨は、種々の不便があるということから、18年に現在の東町会館の位置に専用のものを建てた。また、昭和11年に建設した鉄骨望楼は、戦時の金属回収によって19年4月に撤去されるという経緯もあった。
昭和22年3月には元軍用トラックの払い下げを受けて改造し、ノーザン式ガソリンポンプを積載して第三部に配備したが、このトラックの代金9000円は、全額八雲漁業会の寄付によるものであった。
消防団の発足
戦時中警察の指揮監督下にあって、事実上消火活動に従事してきた警防団は、昭和22年(1947)4月に公布された勅令の「消防団令」により廃止されることになった。このため同年8月「八雲町警防団」を廃止するとともに、それまで私設として地域の警護に当たってきた山崎消防組を公設にして第五分団とし、「八雲町消防団」の組織変更を行い、団長に米沢勇が就任、団員定数を270名としたが、その後24年4月の消防本部設置を契機として団員定数け289名に減員された。
なお、消防機関は創立以来警察が指揮監督するととろであったが、消防の業務を市町村の責務と明確に規定した消防組織法の施行により地方自治体に移管されたのは、新警察法の施行と同時の昭和23年3月7日のことであった。
また落部村においても、22年7月に警防団を改組して「落部村消防団」を設置し、部制をしいて落部を第一部、茂無部を第二部、野田追を第三部とし、初代団長に伊藤淳一が就任した。
火防用水路の推移
大正10年(1921)当町に初の動力ポンプが導入され、その後も消防機械力の増強が相次いで図られた。これと並行して火防用水路の水源開発についても検討が加えられ、当時砂蘭部川の上流に設けられていた発電所の排水を利用して市街地まで導水する計画を立て、同年6月に火災予防組合が主体となって実施した。この用水路は、昭和23年(1948)まで実に26年余にわたって八雲市街地の火防用水の主力として利用されたのであるが、この間、火災予防組合が毎年多額の費用を投じて維持補修に当たったのである。
しかし、戦後火災予防組合も解体し、民間依存による維持も困難になり、また、水路の破損も激しく十分な水量を確保することができなくなった。そこで町は、昭和23年砂蘭部橋からおよそ1キロメートルの上流に取り入れ口を設け、飛行場の外側を流れる幹線用水路の新設を計画して町民の労力奉仕によって掘削し、流量毎分1万5000ガロン、延長717メートルの新水路を12月に完成させたのである。
この水路によって市街地に導入される水は、有事の場合に活用されたことは当然であるが、ふだんは八雲川や真萩川あるいは道路側溝に清流となって注ぎ、環境衛生の保全に大きな役割を果たしてきたのであった。しかしその後、各所に防火貯水槽や消火栓が設けられたことと、道路側溝のもつ役割の見直しや、都市下水路整備事業による小河川の地下埋設など、社会環境の変化によって、昭和40年代に入ってからは消防水利としての機能を失っていった。
消防団初期の施設装備
常備消防体制の整備拡充とともに、消防自動車をはじめ諸施設装備が年ごとに整備されていった。昭和24年(1949)8月にはニッサン49年型に森田式二股バランスタービンを装備したポンプ自動車を購入して消防本部に配備、これまでのフォード車を第一部に配転し、25年7月にはニッサン50年型に前年と同型のポンプを装備して第二部に配置、さらに26年10月には第一分団第三部に配置中の三輪自動車ポンプを囚輔車に装備替えを行ったのである。
また、26年7月には本部に高さ20メートルの鉄骨望楼が建設され、監視体制が強化された。
さらに、28年12月には多年の懸案であった消防タンク車を310万円で購入して本部に配備したが、これは積載容量2・5トン、放水量1分間505ガロンの能力を有するもので、消防勢力の画期的な増強が図られた。なお、このタンク車の購入を促進するため、「水槽付消防自動車購入期成会」を組織し、寄付金100万円を集める母体となった八雲消防後援会の努力は特筆すべきものであった。
常備消防の設置
昭和23年(1948)3月消防組織法の施行により、それまで警察の指揮監督下におかれていた消防機関は分離され、消防事務は地方自治体に移管されることになり、町は4月1日「八雲町消防吏員定数条例」を制定し、吏員20名の配備を目標として常備部を設置することとした。そして23年度には7名の任命を予定し、取りあえず5月に4名の常備員を任命して副団長監督のもとに新体制に入ったのである。
旧八雲町消防本部(写真1)
さらに、翌24年4月1日「八雲町消防本部条例」を公布、即日施行して常備部の名を廃止し、同じく消防吏員20名を定数と規定して消防本部を発足させた。ただし、この当時の消防本部は、条例から見る限りにおいて、現在の消防署的な性格のものであったようである。こうして翌5月1日消防長に米沢勇が団長のまま就任し、消防業務の総指揮をとることになった。米沢勇は、昭和14年4月以来、警防団長、消防団長として団員の統率と施設の改善に尽くし、18年には北海道庁長官から功績状を授与されるなど、その功績は大きなものがあったが、消防長に就任した翌26年12月に病のため急逝し、その死はたいそう借しまれたのであった。
消防長米沢勇の急逝により、当時副団長であった佐久間省一(2代)が、同月後任団長に兼ねて消防長に任命された。
昭和27年4月1日施行の「消防機関設置に関する条例」によって、初めて消防本部を統括機関とし、その下部に消防署と消防団を設置するという現在の機構がつくられたのである。
こうして「八雲町消防署」が開設され、初代署長に司令小林清(非常勤)が任命された。小林署長は責任感あつく、終始消防業務の円滑な運営に尽くしつつあったが、昭和31年2月に急逝した。特に、病に冒されながらも死亡の前日、降雪による防火用水路埋設の被害を排除して用水を確保するため、陣頭指揮をした消防精神は高く称賛され、消防葬をもって弔われたのも当然のことであった。
後任消防署長(非常勤)には、同年4月高地俊弥が任命された。
初代署長 小林 清(写真1)
一方、落部村においても、昭和24年7月に消防本部を設置したのであるが、本部は役場内において村長が本部長を兼ねるという体制をとった。さらに、28年4月に準常備員を配流して定期的に機械器具の点検を行い、同年12月から常備消防吏員1名を配備したのであった。
合併後の消防運営
昭和23年(1957)4月の町村合併により、落部村消防団を吸収して団員の定数を285名とし、従来の組織のほかに3分団を増加して、落部を第六分団、茂無部を第七分団、野田追を第八分団とした。そして団長に佐久間省一、副団長を2名制にして古河四郎と中野清寿を任命し、八雲町消防団の新体制が発足した。
佐久間団長は引続き消防長を兼ね、署長もまた高地俊弥であったが、37年11月に高地署長が病気のため退職し、翌年3月事務吏員水野諄朔が署長に任命され、初めて専任署長が誕生した。なお、佐久間消防長は町議会議員との兼職が適当でないとする事情もあって、これを辞職したので、38年5月からさしあたり田仲町長が消防長事務取扱を兼掌し、総指揮をとる体制とした。またこの間に、消防吏員の定数が増加され、37年3月に22名となり、39年4月には25名となった。
昭和44年4月に団長佐久間省一は、国道5号線山崎地内(消防会館付近)において、不慮の交通事故によって急逝した。このため、町および消防関係者は多年の功績をたたえ、消防葬を執行して弔意を表したが、同年6月に死亡者叙勲をもって従六位勲五等瑞宝章が下賜された。なお、同年5月後任団長には古河副団長が昇格して就任した。
その後46年5月には、北口町長が消防長事務取扱を兼ねてこれまでの体制を継続し、6月には署長に村林栄三郎が任命された。また、同年9月に中野副団長が退任し、代わって斉藤達繁と吉崎芳造が同時に副団長に就任(吉崎芳造は54年5月21日退任)し、この直後には消防吏員の定数が28名とされた。55年3月村林署長が退職したため、後任に野口精一が任命された。
さらに市街地戸数の増加と、消防庁舎が国道5号線沿いに位置することから、国鉄函館本線から西側地区の防災体制を強化するため、55年12月宮園町に、その一部を町内会などの集会にも利用できる西分署庁舎を新設した。これと同時に、消防吏員の定数を36名に増員し、西分署長には中里秀男を任命するとともに、4名の署員を配置した。そして、タンク車1台、通信機器一式を配備したうえ、従来の第一分団第三部の器具格納庫も併設したのである。
本部庁舎の新築
昭和19年(1944)12月に新築され、翌年2月に警防団後援会から寄付された消防本部(署)庁舎は`建築以来20年余りを経過したうえ、国道5号線に面して敷地が狭く、交通量の増加とともに消防自動車の出人りにも危険が伴う状況となってきた。また、事務所なども幾度か増築が行われてはきたものの、職員の健康管理や事務能率の点など、いずれの面からみても、移転新築が緊急を要する問題として検討されていた。
こうした矢先の昭和41年(1966)、八雲漁港の修築工事もようやく進み、近いうちに八雲町漁業協同組合の事務所や荷さばき所などの付属施設を、漁港の背後地に移転しなければならないということに着目した町では、漁協と協議を重ね、その所有地本町150番地2237・6平方メ―トルを買収し、ここに消防本部(署)庁舎と第一分団第二部の器具格納所を新築する方針を決定したのである。
新庁舎は、41、42年度の二か年継続事業として札幌の田畑組によって施行され、鉄筋コソクリート2階建て、建物延べ面積811平方メートルで、1階は車庫・事務所など、2階は消防長(団長)室・講堂・仮眠室などを備えたほか、高さ17メートルの望楼を設け、付帯工事を含めて総工費2365万円を投入して42年10月に完成したのであった。
八雲町消防本部(写真1)
消防器具格納所の整備
消防器具格納所は旧来器具置場と呼ばれ、どうにか器具類を納めておくことができれば、それでよいというような考え方が強かったようである。しかし、消防設備の機械化が進むにつれて点検業務も定期的に行われるようになり、それにしたがい待機(休憩)室などの需要度が高まっていった。またこれと時を同じくして、地域における集会施設の公設を望む声が住民の間に高まりつつあったのである。
昭和30年(1955)に第一分団第一部の器具格納所を元町から本町の現位置に移設した場合や、33年に第三分団(山越)の格納所を改築した場合などは、やはり旧態そのままであった。その後、こうした社会的要請に対応するため、器具格納所と地域集会施設を兼ねた、いわゆる消防会館の建設が進められるようになったのである。すなわち、昭和35年度の野田追消防会館(39年度国道拡張により若干移設)や40年度の第七分団(栄浜)消防器具置場に待機宜を増設して兼用したのをはじめとし、41年度の山崎消防会館(48年度に一部増築)、42年度の黒岩消防会館、43年度の山越消防会館、45年度の川向(消防)会館などと相次ぎ、さらに48年度には栄浜消防会館の新築が行われたのである
第2分団格納所(黒岩)(写真1)
山崎消防会館 (写真2)
川向(消防(会館(写真3)
栄浜消防会館(写真4)
また、これらと異なる専用の器具格納所の整備としては、44年度の第一分団第一部の改築、45年度に現位置に移した第四分団(野田生)の新築、50年度にはより一層の機能発揮を期して黒岩会館から独立し、現位置に移した第二分団などがある。
また第一分団第三部は、昭和35年度に役場前から末広町に新築移転したのであるが、市街地西部地区の戸数が増加したため有事の場合を考慮し、55年12月に一部を集会施設として宮園町に西分署を新築、消防器具格納所を併設したことは、前に記載したとおりである。
落部分遣所の新築
昭和31年に落部村が消防力増強の一環として建築した消防本部庁舎は、翌年の町村合併以来、第六分団の器具格納所となり、消防吏員1名の勤務体制を維持しながら、地域防災の拠点としての使命を果たしてきたのであった。しかし、建築以来20余年を経過するに及んで老朽化が進み、また狭くなってきたことなどから、早急に改築が望まれたのである。そのため北口町長は、こうした住民要望を早期に解決し近代的装備を十分に収容できる分遣所の建築計画を進め、昭和52年度においてこれを施行することとした。そして設計準備にかかるとともに、土地所有者である笹田わかや東流寺などの協力を求めて440平方メートル余の敷地を確保した。こうして建築本体工事は松原組が請け負って6月に着工、鉄筋コンクリート造2階建て、延べ335・34平方メートル(ペントハウス、望楼それぞれ12・15平方メートルを含む)、総工費3600万円をもって11月末日に完成し、12月7日から使用を開始したのである。
旧第6分団器具置場(落部)(写真1)
なおこれと並行して、12月5日に無線基地局の開設許可をとり、連絡指令の迅速と的確化を図るとともに、翌年12月には消防署からタンク車が配置替えされた。また、56年4月からは消防吏員が2名となり、常備体制が強化されたのである。
消防力の強化
消防力の強化については、逐年その整備を進めてきたのであるが、昭和28年(1953)に消防施設整備促進法が制定され、市町村の消防施設に対して国庫補助の道が開かれ、施設整備促進の方策が講じられるようになった。これによって同年度に水槽付消防ポンプ自動車(タンク車)と可搬式動力ポンプ(小型動力ポンプ)各1台が導入され、消防力強化の端緒がつくられたのである。さらに、45年からは当町が過疎地域対策緊急措置法による適用町村に指定されたことから、補助率が3分の2に引き上げられた。また道においても、40年度から低利の消防施設整備資金を設け、消防ポンプ・消防水利・消防団車庫・小型動力ポンプ積載車などを対象に貸し付けが行われ、46年度からは北海道市町村振興基金に統合されるとともに資金枠を拡大し、貸し付け対象も消防庁舎を除く全般に適用されるようになった。
落部分遣所(写真1)
このような制度的変遷のなかで、とくに小型動力ポンプの普及によって、昭和38年度の東野をはじめ、39年度の山越、40年度の黒岩・栄浜、41年度の山崎・野田生、45年度の落部(川向)というように、各分団に小型動カポンプ積載車を導入し、機械化が図られたのである。また消防署では、昭和46年以降タンク車2両の配備体制となり、落部市街でも53年にはタンク車を1両配備して、火災現場への早期出勤態勢と消防機能の充実が図られたのである。
なお、56年末現在における現有勢力は別図のとおりである。
消防水利については、昭和28年に40トン級貯水槽を八雲市街地に設置して防火用水路の不備を補ったのをはじめ、その後も適宜必要な箇所に建設を進めた。これによって53年末現在で40トン級23基、20トン級52基の貯水槽が設置されている。なお、戸口が散在する地帯において自ら防火用の貯水池を設置するものに対し、53年度から町費補助の道を開いてその促進を図った。
消火栓については、昭和33年落部簡易水道の開設により11基が設置されたのをはじめとし、その後上水道や簡易水道が布設されたことによって、56年末では八雲市街地に111基、黒岩に9基、山越・浜松に8基、野田生に10基、落部に17基、栄浜に5基、東野に4基というように、計164基が公設の消防水利として設置されている。
昭和45年(1970)2月24日消防本部に消防無線局(基地局)を開局し、さらに52年12月5日落部分遣所にも無線基地局を開局、56年末で移動局16、携帯局3をもって、緊急連絡や指揮系統の即時的確な通信体系を確立している。なお、この消防無線を利用し、51年度に役場屋上に備えたサイレンと本部庁舎サイレンの同時吹鳴装置を設置して、災害警報の早期的確な伝達が図られている。
タンク1号車(写真1)
消防組織と機構
(1)消防組織(写真1)
(2)分団別敷地・建物面積
区 分 |
竣工(昭和) |
敷地面積(u) |
建物延面積(u) |
備 考 |
|
消防本部 |
42 年 |
2.237.56 |
841.45 |
消防本部望楼 サイレン 7.5 PS |
|
消防署 |
|
|
|
役場庁舎塔 サイレン 7.6 PS |
|
第1分団 |
1部 |
44 年 |
145.45 |
64.80 |
|
2部 |
消防本部内 |
|
|
|
|
3部 |
55 年 |
898.23 |
419.69 |
西分署併設 |
|
第2分団 |
50 年 |
165.0 |
81.0 |
サイレン 1.0 PS |
|
第3分団 |
43 年 |
785.28 |
165.24 |
サイレン 1.0 PS |
|
第4分団 |
45 年 |
345.15 |
80.19 |
サイレン 3.0 PS |
|
第5分団 |
41 年 |
546.14 |
166.05 |
サイレン 1.0 PS |
|
第6分団 |
52 年 |
440.58 |
335.34 |
落部分遣所併設 サイレン 5.0 PS |
|
第7分団 |
48 年 |
310.0 |
155.52 |
サイレン 1.0 PS |
|
第8分団 |
35 年 |
267.75 |
104.13 |
サイレン 1.0 PS |
消防機械現勢表
区分・所属 |
名 称 |
車 名 |
年式 |
機関出力 |
ポンプ型式及び性能 |
購入年月日 |
経過 |
備 考 |
||
ポンプ型式 |
級別 |
|||||||||
消防署 |
市街地 |
タンク1号車 |
イスズ |
56 |
155 |
森田ME−5 |
A−2 |
S56・11・ 4 |
0 |
水2,000L |
タンク2号車 |
二ッサンコンドル |
53 |
135 |
森田ME−5 |
A−2 |
S53・11・30 |
3 |
水2,000L |
||
タンク3号車 |
イスズ |
37 |
140 |
森田ME−5 |
A−2 |
S37・10・26 |
19 |
水2,000L |
||
救急車 |
トヨタ |
53 |
100 |
|
|
S53・12・21 |
3 |
2B型・超短波無線装備 |
||
〃 |
トヨタクラウン |
44 |
110 |
|
|
S44・11・16 |
12 |
1B型・超短波無線装備 |
||
広報車 |
二ッサンセドリック |
48 |
115 |
|
|
S48・11・30 |
8 |
超短波無線装備 |
||
水利巡視車 |
スズキジム二ー |
48 |
28 |
|
|
S48・ 4・27 |
8 |
超短波無線装備 |
||
器具車 |
トヨタトヨエース |
39 |
55 |
|
|
S40・ 7・ 1 |
16 |
超短波無線装備 |
||
小型動力ポンプ |
|
53 |
43 |
ラビットP408 |
B−3 |
S53・11・30 |
3 |
タンク2号車に積載 |
||
〃 |
|
39 |
14.5 |
シバウラ24 |
B−3 |
S39・ 8・ 3 |
17 |
器具車に積載 |
||
〃 |
|
37 |
17 |
シバウラ24 |
B−3 |
S37・10・17 |
19 |
タンク3号車に積載 |
||
第一分団 |
市街地 |
1部車 |
トヨタ |
44 |
130 |
森田ME−5 |
A−2 |
S44・10・ 4 |
12 |
超短波無線装備 |
2部車 |
ニッサン |
40 |
130 |
森田ME−5 |
A−2 |
S40・ 8・10 |
16 |
超短波無線装備 |
||
3部車 |
ニッサン |
43 |
130 |
森田ME−5 |
A−2 |
S43・10・ 9 |
13 |
超短波無線装備 |
||
第二分団 |
黒岩 |
積載車 |
マツダタイタン |
52 |
92 |
|
|
S52・10・ 6 |
4 |
超短波無線装備 |
小型動力ポンプ |
|
52 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S52・10・ 6 |
4 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
48 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S48・ 9・20 |
8 |
|
||
大川 |
小型動力ポンプ |
|
36 |
14.5 |
シバウラ24 |
B−3 |
S36・12・30 |
20 |
|
|
第三分団 |
山越 |
積載車 |
マツダタイタン |
51 |
92 |
|
|
S51・ 9・22 |
5 |
|
小型動力ポンプ |
|
51 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S51・ 9・22 |
5 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
38 |
14.5 |
シバウラ24 |
B−3 |
S38・ 5・10 |
18 |
|
||
第四分団 |
野田生 |
積載車 |
トヨタダイナ |
55 |
95 |
|
|
S55・11・11 |
1 |
超短波無線装備 |
小型動力ポンプ |
|
49 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S49・ 9・15 |
7 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
33 |
14.5 |
シバウラ24 |
B−3 |
S33・10・ 7 |
23 |
|
||
第五分団 |
山崎 |
積載車 |
マツダタイタン |
53 |
92 |
|
|
S53・12・23 |
3 |
|
小型動力ポンプ |
|
53 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S53・12・23 |
3 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
47 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S47・12・ 1 |
9 |
|
||
第六分団 |
落 部 |
1号車 |
ニッサン |
39 |
130 |
森田ME−5 |
A−2 |
S39・10・20 |
17 |
超短波無線装備 |
タンク車 |
イスズ |
46 |
140 |
森田ME−5 |
A−2 |
S46・12・ 6 |
10 |
水2,000L泡200L積載 |
||
2号車(積載車) |
マツダクラフト |
45 |
75 |
|
|
S45・10・14 |
11 |
|
||
小型動力ポンプ |
|
47 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S47・12・ 1 |
9 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
45 |
14.5 |
シバウラB606 |
B−3 |
S45・10・14 |
11 |
積載車に積載 |
||
第七分団 |
栄浜 |
積載車 |
トヨタダイナ |
54 |
95 |
|
|
S54・11・30 |
2 |
|
小型動力ポンプ |
|
48 |
38 |
シバウラB612 |
B−3 |
S48・ 9・20 |
8 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
45 |
14.5 |
シバウラB606 |
B−3 |
S45・10・14 |
11 |
|
||
第八分団 |
東野 |
積載車 |
マツダクラフト |
47 |
75 |
|
|
S47・12・16 |
9 |
超短波無線装備 |
小型動力ポンプ |
|
47 |
25 |
ラビットP405 |
B−3 |
S47・12・16 |
9 |
積載車に積載 |
||
〃 |
|
31 |
15 |
トーハツPNO 53 |
B−3 |
S31・ 4・20 |
25 |
|
救急業務
昭和39年(1964)に日本赤十字社北海道支部から八雲分区に対し、救急自動車1台が配置された。当町では、国道5号線の32キロメートルのほか多くの主要道路を抱えているのに対し、おりからの高度経済成長政策によって自動車の普及も目覚ましく、このため交通事故が増加しつつあり、救急業務の必要性が痛感されていた矢先のことであった。したがって町では、この救急車の有効な活用方法について検討し、翌40年5月消防署に配置替えを行い、消防職員による24時間態勢の任意救急業務を開始し、交通事故による負傷者の緊急搬送をはじめ、急病患者の収容などに努めたのである。
昭和46年6月に人口・交通事故の発生件数などを考慮して救急業務実施態勢を強化するため、消防法および同施行令の改正が行われ、救急業務を実施すべき市町村を指定する規定が設けられたことにより、当町も自治大臣からその指定を受け、法的にも義務付けられた活動を行うこととなったのである。
救急業務開始以来の出動取扱状況は次表のとおりであるが、出動回数は年々増加しており、取扱種別では第1位が急病患者、第2位が交通事故である。
最初に日赤から配置された救急車は、その後歳月の経過により昭和44年度に更新し、業務の万全を期してきたのであるが、52年5月からは消防吏員の過労を排除するため、町の一般行政職の運転手を消防吏員に併任して派遣し、日勤ながら救急車の運転に専属する体制をとって業務の円滑な運営を図っている。さらに53年12月には、社団法人日本損害保険協会から救急自動車1台が寄贈されたので、以後は2台の救急車によって業務が行われている。
救急車(写真1)
年度別救急出動取扱状況(「消防年報」より)
年度 |
出動回数 |
搬送人員 |
40 |
36 |
42 |
41 |
61 |
71 |
42 |
80 |
90 |
43 |
126 |
106 |
44 |
126 |
130 |
45 |
156 |
163 |
46 |
170 |
179 |
47 |
179 |
203 |
48 |
225 |
230 |
49 |
254 |
253 |
50 |
262 |
275 |
51 |
263 |
258 |
52 |
265 |
259 |
53 |
288 |
297 |
54 |
318 |
326 |
55 |
316 |
326 |
56 |
383 |
397 |
消防組以来の歴代首脳
明治36年(1903)6月8日に八雲消防組が創設されて以来、数多くの組(団)員によって郷土を火災から守るという献身的な奉仕活動が行われ、大きな火災もなく過ぎたのであるが、とくにその中にあって率先して組(団)員の指揮統制に当たった歴代首脳は次のとおりである。
消防組歴代首脳
所属名 |
年代 |
氏 名 |
就任年月 |
退任年月 |
備 考 |
八雲消防組 |
初代 |
小 川 助次郎 |
明治36年 6月 |
大正 2年10月 |
|
2 |
梅 村 多十郎 |
大正 2年10月 |
大正 7年10月 |
|
|
3 |
鈴 木 永 吉 |
大正 7年10月 |
大正10年 6月 |
|
|
4 |
平 野 幸三郎 |
大正10年 6月 |
大正13年 3月 |
|
|
5 |
黒 川 市 松 |
大正13年 4月 |
昭和12年 6月 |
|
|
6 |
小 川 太 郎 |
昭和12年 6月 |
昭和14年 2月 |
現職中死亡 |
|
野田生消防組 |
初代 |
鈴 木 秀 明 |
大正11年 5月 |
昭和 6年 1月 |
現職中死亡 |
2 |
横 田 門四郎 |
昭和 6年 2月 |
昭和11年11月 |
|
|
3 |
小 川 伊三郎 |
昭和11年12月 |
昭和14年 3月 |
八雲町警防団第四分団長となる |
|
黒岩消防組 |
初代 |
長谷川 鎰 |
昭和 4年 4月 |
昭和 7年 3月 |
|
2 |
松 本 久 治 |
昭和 7年 4月 |
昭和14年 3月 |
八雲町警防団第二分団長となる |
|
山越消防組 |
初代 |
坂 田 竹三郎 |
昭和 6年 4月 |
昭和14年 3月 |
八雲町警防団副団長に兼ねて第三分団長となる |
落部消防組 |
初代 |
相 木 国太郎 |
大正12年 5月 |
昭和 4年 4月 |
|
2 |
奥 田 金半 |
昭和 4年 4月 |
昭和14年 3月 |
|
|
八雲町警防団 |
初代 |
米 沢 勇 |
昭和14年 4月 |
昭和22年 8月 |
引き続き八雲町消防団長となる |
落部村警防団 |
初代 |
長谷川 信 義 |
昭和14年 4月 |
昭和21年 6月 |
|
2 |
櫛 桁 三五郎 |
昭和21年 6月 |
昭和22年 7月 |
|
|
落部村消防団 |
初代 |
伊 藤 淳 一 |
昭和22年 7月 |
昭和25年 6月 |
|
2 |
大 山 勝 悦 |
昭和25年 7月 |
昭和29年 2月 |
|
|
3 |
新 谷 義 男 |
昭和29年 2月 |
昭和32年 3月 |
町村合併により消滅 |
|
八雲消防団 |
初代 |
米 沢 勇 |
昭和22年 8月 |
昭和26年12月 |
現職中死亡 |
2 |
佐久間 省 一 |
昭和26年 3月 |
昭和44年 4月 |
現職中死亡 |
|
3 |
古 河 四 郎 |
昭和44年 5月 |
昭和58年 4月 |
辞職 |
|
4 |
斉 藤 達 繁 |
昭和58年 5月 |
|
|
また、とくに昭和32年の町村合併以後に限るが、副団長および分団長などの主要ポストにあって、消防団の円滑な運営に尽くした人々は次のとおりである。
消防団運営功労者
区 分 |
氏 名 |
副団長 |
古河四郎・中野清寿・斉藤達繁・吉崎芳造 |
本部分団長 |
長谷川信雄 |
第一分団長 |
古河四郎・菊地幸太郎・長谷川信雄・木下進 |
第二分団長 |
森田潔・古沢竹次郎・古沢新一郎・庄内英一 |
第三分団長 |
坂田武則・本吉栄太郎・小谷竹作 |
第四分団長 |
小林治夫・幸村寿一・河原忠義 |
第五分団長 |
水口亀三郎・田中勝蔵・中里政太郎・水口吉志 |
第六分団長 |
吉崎芳造・小山田近 |
第七分団長 |
長谷川勝・分枝丈吉・佐藤行男 |
第八分団長 |
松浦提三・嵐忠夫・長谷川薫 |
栄誉
明治36年に公設消防組の創設以来、受けた栄誉の数々を挙げれば次のとおりである。
○大正11年(1922)7月
八雲消防組の第一部および第二部が規律訓練に熟達しているとして、金馬簾一条の使用を認可された。
○昭和8年(1933)9月
本町通りの火災防御の功績により、八雲消防組第一部および第二部には金馬簾二条、第三部には同一条の使用が認許された。
○昭和17年(1942)3月
本町通り火災警防の功績が認められ、警防団第一分団に表彰状および表彰綬が授与された。
○昭和17年(1942)12月
警防団第一分団に規律訓練が優秀であるとして、北海道庁長官より表彰状が授与された。
○昭和18年(1943)11月
八雲町警防団に規律訓練が優秀であるとして、北海道庁長官より表彰状と表彰綬が授与された。
○昭和31年(1956)2月
優良消防団として日本消防協会長から表彰され、竿頭綬が授与された。
○昭和34年(1959)2月
成績抜群の消防団として日本消防協会から表彰旗が授与された。
○昭和51年(1976)3月
優良消防団として消防庁長官から竿頭綬が授与された。
消防功労者に対する叙勲・褒賞
永年にわたって消防活動に献身し、その功績が顕著であるとして表彰された人は数多いのであるが、特に叙勲および褒賞をもって賞賜された人々は次のとおりである。
○昭和44年(1969)2月
消防団長佐久間省一が消防功労により、藍綬褒章を受章
○昭和44年(1969)4月
交通事故で急逝した消防団長佐久間省一が消防功労により従六位勲五等瑞宝章を受章
○昭和45年(1970)11月
元第三分団長本吉栄太郎が消防功労により、勲七等青色桐葉章を受章
○昭和46年(1971)4月
副団長中野清寿が消防功労により勲六等単光旭日章を、第一分団長菊地幸太郎が同じく勲六等瑞宝章を受章
○昭和51年(1976)3月
元消防署長高地俊弥が消防功労により勲七等瑞宝章を受章
○昭和55年(1980)3月
元第七分団副分団長亀谷富義が消防功労により勲七等青色桐葉章を受章
○昭和56年(1981)3月
元第二分団長古沢竹次郎が消防功労により勲七等青色桐葉章を受章
消防後援会
古くから、消防の第一線に立つ消防組と地域住民で組織する火災予防組合は、常に表裏一体の関係を保ちながら、地域防災体制を維持する慣習が定着してきたのであるが、大正8年(1919)1月にはこれを一歩進めて、八雲消防組を直接支援する目的で八雲消防後援会が組織され、会長に木村町長が就任した。この当時、消防の施設整備に要する費用は自治体が負担せず、ほとんど寄付金で賄うことが通例となっており、会長に町長が就任しても少しも不自然さを感じさせない時代でもあった。
大正10年2月消防後援会は当町初のガソリンポンプ導入に当たり、寄付金の募集に努めて施設の充実を図ったのをはじめ、団員の慰労や防火思想の普及に努めてきたのである。その後昭和14年(1939)4月に警防団が組織されたことにより、警防団後援会に移行して活動を続けたが、昭和22年警防団の解体によって一応解散したのであった。
警防団の解体後は消防団が誕生したのであるが、施設の早急な整備を願う市街地域の有志は、昭和25年(1950)4月に第一分団の後援組織として「八雲消防後援会」(会長・岡部五郎)を結成し、団員の慰労激励、被服その他の購入援助、防火思想の普及宣伝に努めた。特に28年にはタンク車の購入にあたって、100万円を募金して町に寄付した功績などは高く評価された。このため同後援会は、33年3月消防組織法施行10周年にあたり、国家消防本部長から表彰されたのである。
このような消防団に対する支援協力の傾向は、しだいに各分団ごとに芽生え、相次いで消防後援会が結成され、物心両面にわたる活動が続けられている。
また、消防後援会と性格は異なるが、火災予防という面で活躍している団体に「八雲町危険物安全協会」と「八雲町防火管理者協会」(いずれも昭和40年結成)がある。
消防後援会
名 称 |
地 区 名 |
|
1 |
八雲消防後援会 |
八雲町市街地 |
2 |
黒岩 〃 |
〃 黒 岩 |
3 |
山越 〃 |
〃 山 越 |
4 |
野田生 〃 |
〃 野田生 |
5 |
山崎 〃 |
〃 山 崎 |
6 |
落部 〃 |
〃 落 部 |
7 |
栄浜 〃 |
〃 栄 浜 |
8 |
東野 〃 |
〃 東 野 |
自衛消防隊
公設消防団のほか、町内には自衛消防隊組織が設けられているが、その主なものを挙げると次のとおりである。
消 防 隊 名 称 |
設 備 |
結成年月日 |
隊員数 |
国立療養所八雲病院自衛消防隊 |
小型動力ポンプ1台・防火水槽1基 |
S36・ 4・ 1 |
25名 |
八雲営林署 〃 |
小型動力ポンプ2台・防火水槽1基 |
S38・12・30 |
10名 |
八雲町大関小学校 〃 |
小型動力ポンプ1台・池1基 |
S46・ 6・ 1 |
10名 |
航空自衛隊八雲分とん基地 〃 |
水槽付消防自動車1台・屋外消火栓14基 |
S52・ 1・20 |
4名 |
ヤマハ北海道製造(株)八雲工場 〃 |
消防ポンプ自動車1台・屋外消火栓9基 |
S52・10・27 |
10名 |
岡山県畜産公社北海道桜野牧場 〃 |
小型動力ポンプ1台・防火水槽1基 |
S55・12・13 |
7名 |
婦人消防クラブ
家庭を守る婦人の防火思想普及を目的として、昭和40年(1965)3月山崎地区に結成されたのをはじめとし、56年現在では上記の11団体が婦人消防クラブを結成して、家庭用消火器の点検、防火座談会、消防団員に同行する予防査察など、婦人の立場から火災防止に努めるとともに、分団に対する後援活動も行っている。
ク ラ ブ 名 称 |
地 区 名 |
設立年月日 |
会員数 |
山 崎婦人消防クラブ |
八雲町山崎 |
S40・ 3・26 |
14名 |
東 野 〃 |
〃 東野 |
S40・ 5・22 |
54名 |
川 向 〃 |
〃 落部 |
S41・ 2・11 |
36名 |
入 沢 〃 |
〃 入沢 |
S41・ 2・24 |
16名 |
内 浦 〃 |
〃 内浦町 2.3区 |
S41・ 3・29 |
20名 |
栄 浜 〃 |
〃 栄浜 |
S41・ 4・23 |
48名 |
本 町 〃 |
〃 本町 |
S42・ 2・19 |
21名 |
あずま会 〃 |
〃 東町 1.2.3区 |
S42・ 5・14 |
21名 |
末 広 町 〃 |
〃 末広町 |
S42・ 3・ 1 |
32名 |
野 田 生 〃 |
〃 野田生 |
S55・ 7・29 |
15名 |
山 越 〃 |
〃 山越 |
S56・12・21 |
15名 |
第3節 災害
建物火災の概況
当町は開拓100年を推移するなかで、一般に”大火”といわれる災厄に見舞われることもなく過ごすことができたのは、幸いとして喜んでよいことであろう。しかし、特に大きな火災を挙げれば、明治37年(1904)6月22日に元町の民家から出火し、折からの強い西風にあおられて猛火となり、北谷旅館の土蔵をもって延焼を食い止めたものの、遊楽部橋付近一帯の29戸を焼失したのが最も大きな火災であるといわれる。しかも当時としては、繁華街の半数近くが被災したことになる大惨事であったと伝えられている。
このほか八雲市街地についてみれば、明治40年(1907)2月に中央通りで11戸が焼失し、これ以後はしばらくみられなかったが、昭和11年(1936)12月に本町通りの繁華街で5棟8戸、そして17年7月にほぼ同じ場所で7棟6戸を焼失したのが、比較的大きな火災として挙げられる。その後昭和28年5月に、元町において折からの強風下に8棟11戸を焼失し、238万円余の損害を出したのが最近における大火である。
なお、野田生地区では大正3年(1914)6月に18棟18戸を焼失し、これが野田生消防組創設のきっかけとなっており、さらに昭和16年(1941)に21棟16戸を焼失、損害額は7万円にも達したのである。
また、落部市街では、昭和30年(1955)12月に落部村農業協同組合倉庫付近から出火し、旅館や商店などを含め28戸31世帯が被災したと記録されている。
学校火災としては、明治44年(1911)5月に発生した山火事の延焼によって、上八雲のぺンケルぺシュぺ特別教授場が焼失したのをはじめ、大正2年(1913)1月に野田生の大木平特別教授場が焼失したのが、古い記録であるが、昭和35年(1960)2月に熱田小学校の給食室から出火して校舎を全焼、41年12月に八雲高等学校東校舎が原因不明の出火によって全焼したというのが、最近の事例である。
また、落部村では昭和16年(1941)2月に落部尋常高等小学校が、前日の料理講習後における火ばちの不始末が原因で校舎などを全焼している。
このほか比較的大きな建物の火災としては、昭和23年(1948)12月の逓信講習所(1155平方メートル)、27年10月、野田生の森木工場(432・3平方メートル)、そして48年12月の遊国寺本堂の全焼などがある。
山火の概況
開拓途上における新開地への火入れや、植林地の地ごしらえなどの際、延焼した山火事が随所で数多く発生したであろうことは容易に想像されるのであるが、ここに記録のあるものから主なものを摘録すると次のとおりである。
○明治44年(1911)5月
サランベ地区その他に発生し、民有休一三九町歩、官林三三〇町歩、未開地貸付売払地六三五町歩、合計一一〇四町歩を焼失した。
○大正3年(1914)5月
6日から12日までの間に町内各所(常丹・ビンニラ・湯の沢・建岩・野田生・大新・奥津内・大関・山崎=いずれも旧地名)に発生し、国有林二三二町歩、民有林三二六〇町歩、合計三四九二町歩を焼失した。また、この山火のため民家77棟94戸を類焼するとともに、死者1名、重傷者5名を出し、損害総額2万1360円に達し、開町以来の大山火であった。
○昭和27年(1952)5月
14日から19日までの間に町内各所(赤笹・百万・上鉛川・山崎・熊嶺・上砂蘭部=いずれも旧地名)に発生したが、特に今金町日進方面からサックル、セイヨウベツ一帯にかけて延焼してきた山火は、まれにみる大火となったため、延べ2200余名が消火作業に出動、同月19日ようやく鎮火した。この山火によって国有林一二七五町歩、民有林五〇四町歩、計一七七九町歩を焼失、加えて民家8棟2戸を類焼し、損害額は実に4900万円にも達するという近時最大の山火であった。
(註=文中一町歩は0・9917ヘクタール)
風水害の概況
当町が開拓に着手されてから100年、この永い歳月の間には幾多の風水害が郷土を襲っているのであるが、よくこの災害を乗り越えて今日の八雲を形成したのである。いまその主な風水害を摘録すると次のとおりである。
○大正2年(1913)8月
遊楽部川の出水によって鉄道線路が破壊され、メム川鉄橋付近で列車転覆の事故が発生し、2名の殉職者を出した。
○昭和7年(1932)8月
大降雨のため遊楽部川が出水し、立岩地区の畑約130ヘクタールが冠水したのをはじめ、市街地の大半が床上まで浸水するという災害になった。
○昭和17年(1942)3月
24日市街地に大出水があり、流失家屋1、破損浸水家屋1052戸、道路の決壊四六か所、橋の流失25橋、鉄道線路被害二十か所などに及び、損害額337万円余に達した。
○昭和29年(1954)9月
青函連絡船洞爺丸ほか4隻の沈没をはじめ、岩内町の大火発生など道内各地に大きな被害を与えた「台風15号」は、当町にも大被害をもたらしたが、これは項を改めて詳記する。
○昭和30年(1955)7月
前掲の台風15号に次ぐ大災害として、これも項を改めて記述する。
○昭和31年(1956)3月
17日午前4時ころ、字上鉛川(通称ヤベツの沢)で吉田製材所の造材飯場が雪崩のため倒壊し、そま夫15名のうち9名が下敷きとなる事故が発生、これを救出するため掘り出し作業中に山津波が発生して救援者2名が流されるという二重災害となり、計11名が死亡するという惨事になった。
○昭和36年(1961)4月
4日夜半から5日早朝にかけての豪雨による融雪災害は、管内幹線道路の橋一四か所が流失、道路・堤防・護岸など六六か所が決壊したほか、708戸が浸水、鉄道は11時間にわたって列車の運行をストップするなど、被害総額は1億3056万円余に達した。
○昭和43年(1968)8月
20日夜半から21日にかけて襲った風雨は、農作物・漁網・河川・道路などに大きな被害をもたらし、被害総額は1億2300万円に達した。
○昭和45年(1970)1月
31日と2月1日にかけて襲った低気圧による豪雨のため、管内各路線は交通まひとなり、総額2億2000万円に及ぶ被害をもたらした。
○昭和45年(1970)8月
15、16日にかけて本道を襲った台風9号は、農業関係に大きな被害を与えた。特に浜松の元山牧場の畜舎が倒壊し、乳牛28頭が死亡するという被害も受け、被害総額は386万円余に達した。
○昭和46年(1971)9月
4日と5日の集中豪雨は194ミリという降雨量を記録し、農地および農業施設の流失をはじめ、道路・河川にも多くの被害をもたらし、被害総額は2億2750万円に達した。
○昭和50年(1975)8月
24日の台風6号による豪雨の被害は全道的に広がり、道内の国鉄は至る所で寸断されるという大災害となった。
特に森・石倉間において発生した土砂崩れによって函館本線は埋没し、国道5号線も一時不通となった。このため国鉄道総局では、緊急輸送対策として森―八雲間にバスを運行する一方、土砂に埋没した石谷駅構内の復旧に自衛隊の出動を要請して、1週間後の8月31日にようやく列車の運行が再開されるという状況であった。なおこの間、27日朝から青函航路始まって以来といわれる室蘭回りの緊急措置を講じ、旅客輸送の確保を図った。この台風6号による当町の被害は農業や土木関係に多く、総額3億9124万円に及んだ。
≪台風15号災害≫
昭和29年9月26日に当地方を直撃した台風15号は、当町にとってもいまだかつてない大被害をもたらした。26日は早朝から10メートルないし20メートルの東風が、雨を混じえて吹き荒れていたが、午後2時16分に渡島支庁から台風警報が発せられ、十分に警戒するよう要請された。
午後5時ころいちじ風力も衰えをみせたが、やがて風向きを南から南々西に転じつつ、次第に風速を増して台風の様相を呈し、午後9時30分には平均風速が20・2メートル、瞬間風速は実に35から40メートルにも達する状況であった。このため、午後8時に全町が停電となり、屋根まさ、トタン、看板類は飛散し、板塀は倒壊、屋敷林は倒伏折損するなど、市内の通行は全く困難な状態となり、さらに列車も運転中止となった。
また、突風によって屋根を吹き飛ばされる建物も多く、危険な状態となったので、消防団員は全員配置について警戒に当たるとともに、暴風の中を随時巡回するなど万全を期した。翌27日には午前1時ころから風向がしだいに西に変わり風速もまた減退し、午前5時にはまったく平静に戻るという経過をたどった。
平静を取り戻したとはいえ、瞬間最大風速45メートルというかつて経験したことのない台風によって受けた被害は大きなものがあった。八雲鉱山における家屋倒壊による火災をはじめ、建物・農作物・山林・漁業施設などを中心とした被害は、総額2億7800万円余の巨額に達したのであるが、その損害の概要は次のとおりである。
1、住宅 焼失10棟・44世帯(191人)をはじめ、全壊28棟・67世帯(200人)、半壊28棟・36世帯(197人)という状況であった。
2、非住宅 畜舎・納屋など全壊121棟、半壊47棟を数えたほか、屋根の被害程度にとどまったものは、住宅・非住宅合わせて2900棟余の多くに達した。
3、家畜 畜舎の倒壊によって乳牛・馬・めん羊各1頭が押しつぶされて死亡し、乳牛・馬各1頭が負傷した。
4、漁業関係 大定置の大破一〇か統、小定置の大破八か統、中破八か統、小破九か統を数えたほか、水産加工場12棟とコンブ四〇〇〇貫を流失した。
5、農業関係 春からの冷害気味で遅れていたため、秋作物のうち特に大豆・小豆・ひえ・とうきび・デントコーン・水稲など1965ヘクタールあまりに被害を受け、高台地域では翌年の種子はもちろん、食糧や家畜の飼料にも困窮するほどであった。
6、林業関係 国有林の風倒木八万七七〇〇石(一石=0・18立方メートル)、民有林(屋敷林を含む)の倒伏一万二九二六石をはじめ、元徳川農場跡地(ふ化場・財務部・国立病院などの管理)に属するもの二一六石、このほか4棟の造林小屋に被害を受けた。
7、土木関係 土砂崩れのため道道八雲熊石線200メートルが不通となったほか、町道加老線の護岸などに被害を受けた。
8、鉱山関係 風倒木による送電線故障のため八雲鉱山坑内の揚水ポンプが停止したため、たて坑180メートルのうち140メートルまで水没し、採鉱不能となった。さらに延長17キロメートルに及ぶ索道施設は、支柱162基のうち78基が倒壊して、以後は使用不能の原因となった。
9、その他 電話線や電灯線の被害も大きく、一時は全くまひ状態となった。
台風15号による被害(八雲鉱山)(写真1)
こうした大災害に対処して田仲町長は、翌27日に市街在住の町議会議員の参集を求めて対策協議会を開くとともに、28日には市街地の嘱託員を招集して被災者に対する義援金品の募集について協議する一方、とりあえず食料や毛布を被災地に急送した。さらに関係機関と協議して災害救助法の適用を受けるなど、救急に万全を期したのである。また、全町を一丸とした八雲町災害対策委員会を組織し、民生の安定と産業復興のため応急対策や復旧対策など、それぞれ時宜に即した措置を講じたのである。
被災者に対する義援金品は町内外から続々と寄せられ、現金が54万6408円、物品は毛布・衣料品・炊事道具など934点に及んだ。
なお、こうした大災害にかかわらず、町内において人的被害はなかったのであるが、函館港外において沈没した青函連絡船洞爺丸に乗船中の、立岩の三沢正男(道議会議員)・住初町の松本伊音・緑町の藤原貞子の3名と、北見丸の乗組員で山越の川内武夫の計4名が、不幸にして遭難死亡した。
≪30年7月水害≫
昭和30年7月3日の午後から4日の朝にかけて降り続いた豪雨は、93ミリを記録し、このため遊楽部・鉛川・砂蘭部などの各河川が出水、前年の台風15号に続く大きな被害をもたらした。
特に被害の大きかったのは、これまた八雲鉱山地区で、4日午前1時過ぎに地区内のすべての橋が流失し、交通途絶という電話連絡があり、同3時には電話も不通となって全くの孤立状態となった。そして同日午後2時、鉱山から山越えしてきた連絡員の情報によって、ようやくその詳細を知ることができたのであるが、橋の流失九か所・建物流失6棟15戸のほか、前田建設の従業員2名が行方不明になるという状況であった。
遊楽部川の出水(立岩付近)(写真1)
一方、4日午前2時ごろ遊楽部川の出水によって、遊楽部橋付近の民家が危険な状態となり、避難命令が出され、消防署員、団員、町職員などが警戒に当たった。幸い4時過ぎから減水しはじめたが、遊楽部川鉄橋は依然として危険状態が続いていたため上り列車は山崎から折り返し運転を行い、また奥津内(現、浜松)の鉄橋も橋脚が掘れて危険になったので、午前7時ごろから不通となったのである。しかし午前9時ごろから減水しはじめ、10時ごろには列車の運転が可能となり再開された。
このほか、砂蘭部橋の流失をはじめ被害状況が続々と通報され、この出水がもたらした被害総額は1億4500万円に達した。こうしたことから、復旧対策について緊急協議がもたれるとともに災害救助法の適用を受けるなど、緊密な連係のもとに進められたのである。
被害の概要は次のとおりであった。
1、人的被害 死者3名
2、家屋被害 全壊12戸、流失12戸、半壊6戸、床上浸水124戸、床下浸水63戸のほか、非住家3戸を数えた。
3、農業被害 田畑流失115ヘクタール、田畑冠水319ヘクタールのほか、家畜の水死が牛2頭、馬1頭、めん羊7頭、鶏123羽を数え、農業資材も多数を流失した。
4、水産被害 コンブ礁埋没や貝類の被害が多数に及んだ。
5、土木被害 道路三二か所、橋二八か所、河川二三か所の多数に達した。
6、林業被害 林道一か所のほか、原木やまき材など多数を流失した。
7、鉱山被害 鉱山施設に多くの被害を受けた。特に被害の多かった町道鉛川温泉線は、橋の流失や道路の決壊によって交通途絶となり、食料や生活物資の輸送も不可能な状況で、1日も早い復旧が望まれた。そのため町では、自衛隊施設部隊の出勤について北部方面総監部に陳情した結果、道路補修工事四か所(延長566・5メートル)、橋の架設四か所(延長66・5メートル)、取付道路(延長121・3メートル)の災害応急仮設工事の委託協定を行った。工事は自衛隊幌別駐屯部隊103施設大隊1個中隊(約60名)によって7月26日に着工、8月25日完了という経過で進められ、短時日をもって民生の安定と産業復興に大きく貢献したのであった。
なお、前掲の台風15号と、この7月水害の被災者に対し、天皇・皇后両陛下から内帑(ど)金が下賜された。
戦災
当町には昭和18年(1943)陸軍飛行場が建設されたが、こうした軍事施設かあるにもかかわらず、戦災が少なかったことは不幸中の幸いであった。
昭和20年7月14日午前7時15分ころ、黒岩沖に出漁中の長谷川漁場の引き船2隻が、米軍戦闘機の銃撃を受け、小笠原政貞・馬場正男の2人が戦災死を遂げ、負傷者4名を出した。また、鷲の巣信号場構内において、列車機関士が銃撃を受けて負傷するなど、非戦闘員に犠牲者を出したことも痛ましいことであった。
第4節 交通安全
交通事故の増加
戦後、自動車がしだいに普及増加し、これにより交通事故も徐々に増加しはじめたが、昭和30年代前半では発生件数も極めて少なく、したがって死傷者もごくわずかであった。しかし30年代後半になると、高度経済成長下における産業の著しい伸展とともに自動車が大衆生活のなかに入りこんで、交通事故もまた急激な増加を示すようになった。
特に当町は、延長32キロメートルに及ぶ国道5号線が海岸線に沿って走り、当地方における唯一の幹線道路として日夜通過車両の数も多く、そのうえ、函館―青森間のフェリー就航以来、大型車両の通過量が急激に増加するなど、交通事故発生の要因が重なった。そのため、45年には管内における事故は176件、死者13名という驚異的な発生を示した。41年以降の事故状況は上記のとおりである。
交通安全対策の推進
自動車による交通事故が発生しはじめたころの安全対策は、その取り締まり機関である警察、さらに昭和33年4月に結成された交通安全協会の活動にまつところが多く、ようやく市町村の行政事務として認識され関心が寄せられはじめたのは、事故多発の傾向か強まった昭和30年代後半になってからである。こうした情勢のなかで、昭和37年3月に町議会は、黒川市松ほか8名の議員提案により、当町が「交通安全宣言都市」であることを決議し、この対策について真剣に取り組む姿勢を明らかにしたのである。翌38年10月には、交通安全に関係の深い諸機関や団体を網羅した「八雲町交通安全運動推進委員会」を組織し、町長が会長となって”町民総ぐるみ”の安全運動を展開することとしたのである。
こうして、交通取り締まりの任に当たる警察署と密接な連携をとるとともに、交通安全協会や運転者協会などと一体となって事故防止に当たった。しかし40年代に入ると、ますます増加傾向を示す状況となり、当町は43年に道から「事故多発町村」として、不名誉な指定を受けたのであった。このため町推進委員会では、25名の交通指導員を委嘱し、八雲市街地における児童生徒や歩行者の交通指導と安全の確保に努めるとともに、町が実施する交通安全対策についても、積極的な協力体制を整えた。さらに翌44年4月には、町においても交通安全対策を専任する主査を配したうえ、国道沿線の主要な集落への配備を考慮して交通指導員を50名に増加し、激増する事故に対処したのである。
年度別事故発生状況
(資料 八雲警察署事故統計)
年度 |
件 数 |
死 者 |
傷 者 |
昭41 |
53 |
9 |
53 |
昭42 |
55 |
7 |
87 |
昭43 |
69 |
5 |
111 |
昭44 |
154 |
8 |
275 |
昭45 |
176 |
13 |
154 |
昭46 |
135 |
5 |
222 |
昭47 |
119 |
9 |
203 |
昭48 |
110 |
9 |
207 |
昭49 |
98 |
3 |
166 |
昭50 |
84 |
1 |
162 |
昭51 |
100 |
4 |
143 |
昭52 |
92 |
1 |
152 |
昭53 |
64 |
8 |
109 |
一方、交通安全施設の整備にも配慮し、「交通安全対策特別交付金」によって、道路照明灯・カーブミラー・歩道などを年次計画により整備充実を図った。また、交通事故の犠牲者に対する救済制度として、43年10月から損害保険による「町民交通傷害保険制度」を実施し、町民の加入促進を図ったのである。
昭和45年には、安全運動をより強力に進めるため、推進委員会に専任の推進員を配置し、さらに48年には婦人交通指導員を2名置いて、八雲小学校児童の登下校時の事故防止と安全意識の高揚に努めるとともに、交通安全セットカーにより管内各小中学校・保育所・幼稚園・老人クラブ等を巡回して交通安全教官を開催、安全教育の徹底を期している。
昭和51年8月に町の機構の一部として、交通安全対策室を設けて陣容を強化し、さらに55年11月から交通安全巡回指導員を設け、毎日町内を巡回のうえ歩行者や自転車の乗り方などを指導して危険防止に努めるほか、町で交通指導車を購入し、交通安全運動推進委員会に管理運営を委託、広報活動などに運行している。
第2章 司法機関
第1節 八雲簡易裁判所
「八雲に区裁判所の設置を」との望みを託し、昭和13年(1938)5月に宇部町長は函館裁判所に対して陳情書を提出、これを受けた当局によって町村の交通事情や社会的・経済的諸条件について、翌14年8月まで数次にわたり調査されたのである。しかし、日中戦争の進展にともなう時局の緊迫という情勢を反映して、この陳情はついにその成果を見ることができなかった。
昭和22年5月3日新憲法の施行と同時に「裁判所法」と「下級裁判所の設立および管轄区域に関する法律」が施行されて、全国主要市町村に裁判所が設立されることとなり、当町にも自動的に山越郡下を管轄区域とする「八雲簡易裁判所」が設置されたのである。庁舎には富士見町の旧日本医療団奨健寮の建物の一部を改造してこれに充て、初代判事に小柳恒夫が着任し、5月3日から開庁したのである。なお、昭和26年(1951)からは函館家庭裁判所の出張所も設置され、家事審判決で定める家庭に関する事件の審判や調停も行われるようになった。庁舎は、開庁後間もなく区検察庁と同じ建物を使用してぎたが、老朽化が進んでいるうえ狭くて不便になったため、早くから新築が望まれてきたのであるが、先決である敷地について、位置や環境などの条件に制約されて適地の選定が遅れていた。そのため町でも、これを早期に解決すべく積極的に対応し、26年2月に八雲町同胞援護会(旧在郷軍人分会)所有の土地、いわゆる旧忠魂碑境内地4310平方メートルを選定して60万円で買収、このうち道路用地を除いて3960平方メートルを最高裁判所に譲渡することとして、ようやく敷地の決定をみることができたのである。
八雲簡易裁判所(写真1)
こうして同年9月建築に着手し、12月にれんが化粧積み2階建て370平方メートルの新庁舎が完成したのである。なお、この庁舎の新築にともない、忠魂碑は英霊碑として八雲神社境内に移されるとともに、友愛会館(在郷軍人分会会館)も同地に移され、黎明館の一部として活用された。
簡易裁判所の管轄区域は、前述のように初めは山越郡下だけであったが、昭和27年6月から国家地方警察八雲地区警察署の区域に落部村が編入されたので、警察の区域と裁判所および検察庁の区域が異なることは、住民にとって不便であるという理由によって、これを八雲簡易裁判所と八雲区検察庁の区域に変更されるよう、八雲・落部両町村長と議会議長から陳情したのである。この結果、29年5月1日から落部村も管轄することに変更されて現在に至っている。なお、現在地は末広町184番地である。
第2節 八雲区検察庁
昭和22年(1947)「検察庁法」と「最高検察庁の位置ならびに最高検察庁以外の検察庁の名称および位置を定める政令」によって、八雲簡易裁判所に対応する「八雲区検察庁」が、同年5月3日八雲警察署の一室を仮庁舎に充て、検察事務官坂本平八郎が着任して開庁した。しかし、警察署内の仮庁舎では狭いうえ事務の執行にも支障が多かったので、簡易裁別所と回じく旧日本医療団奨健寮の建物を充当することとなり、同年7月これに移転し、階上を検察庁舎に、階下を簡裁庁舎にそれぞれ充当したのである。さらにこの建物は、昭和24年(1949)2月に八雲町から区検庁舎として国に寄付を申し出、翌25年7月に法務総裁から函館地方検察庁へ受納する旨の指令があり、その所有権を移転したのである。
やがて簡易裁判所は庁舎を新築して移転したので、区検察庁も庁舎を新築することになり、裁判所に隣接して敷地を求め、27年9月着工、同年12月に木造平屋建て234平方メートル余りの新庁舎を落成移転したのである。したがって、先に八雲町から寄付した旧庁舎は、28年9月国有財産特別措置法によって無償譲与され、再び町有財産となった。
区検察庁の管轄区域は簡易裁判所と同じで、当初の山越郡下に加えて29年5月から落部村を編入した。
なお、昭和27年に建築した庁舎は、木造のうえ20年以上を経過して老朽化したため、昭和52年(1977)12月8日に鉄筋コンクリート平屋建て188平方メートルの庁舎に改築し現在に至っている。現在地は末広町194番地である。
第3節 函館地方法務局八雲出張所
一般には登記所と呼ばれている函館地方法務局八雲出張所の前身は、明治32年(1899)4月1日に八雲小学校校舎を模様替えのうえ、元町の一角(平野商店付近)に函館区裁判所八雲出張所として開所したのにはじまる。野村力太郎が初代所長として着任し、八雲・山越内・長万部の三か村を管轄区域とした。
八雲区検察庁(写真1)
その後制度の改革や町の発展にともない、位置や名称の変更がたびたび行われて現在に至っている。すなわち、庁舎は明治37年4月に遊楽部無番地(位置不明)へ、41年5月に同143番地へ、大正元年(1912)8月には砂蘭部野238番地の5へ移転した。この建物は梅村多十郎の所有であったが、昭和13年(1938)9月に31・5坪(約104平方メートル)の建物と、付属土蔵および廊下1棟5坪(16・5平方メートル)を敷地を含めて町が借り受け、修理改造を行ったうえ、月10円で裁判所に転貸するというものであった。
昭和22年(1947)5月には、名称を函館司法事務局八雲出張所と改め、23年8月から供託事務取扱庁に指定され、さらに24年6月に現在の函館地方法務局八雲出張所と改称し、25年8月からは土地および家屋台帳事務を取り扱うことになった。
27年8月には、それまで森出張所の管轄であった落部村を編入したので、事務量は年々増加した。このため庁舎は狭くなったうえ、建築以来30年余りを経過して老朽化し、重要業務の執行や書類の保管面で憂慮される状況となった。こうしたことから、宮園町72番地の敷地250坪余(約825平方メートル)を町が寄付し、29年5月に木造一部ブロック平屋建て33坪(約109平方メートル)の庁舎を新築して移転した。
33年10月には長万部出張所が新設されたので、同町の区域を分離したのであるが、48年3月に再び統合して編入し、長万部と八雲の2町を管轄することとなった。
函館地方法務局八雲出張所(写真1)
29年に建てた庁舎は老朽化して狭くなったので、55年7月、建設地を栄町85番地に決定し、翌56年7月に着工して11月に完成した。この庁舎は、敷地が1378・08平方メートル、鉄筋コンクリート平屋建て309・3平方メートルの近代的なもので、12月に移転して業務を開始した。
第4節 人権擁護委員と保護司
人権擁護委員
昭和22年5月3日に発布された新憲法は、国民の基本的人権の保障を重要な柱として制定され、国民各自は自己の本来保有する権利として自ら擁護しなければならないが、国政の上でも積極的にこれを伸長しなければならないとし、政府の一機関として人権擁護局が法務府(省)内に設置された。
この機関はもっぱら人権擁護事務を担当することとなり、22年7月政令で人権擁護委員令が公布され、さらにこの制度を強化するため、翌24年5月に人権擁護法が制定された。これにより国民の基本的人権が侵犯されることのないように監視し、もしこれが侵犯された場合(人権問題・人権侵犯事件・公害問題・交通事故問題・生活侵害問題など)、その救済のためすみやかに適正な措置を講ずるとともに、常に自由人権思想の普及高揚に努めることをその使命として、市町村の区域に人権擁護委員を置くことになった。
人権擁護委員は、市町村長が選挙権を有する住民のなかから、人格識見が高く、広く社会の実情に通じ、人権擁護について理解のある人を、議会の意見を聞いて法務大臣に推薦し、法務大臣が委嘱することとなっている。
八雲町の最初の人権擁護委員は昭和26年3月に久保田正秋が、落部村においては同じく中村嘉作がそれぞれ委嘱され、函館法務局に属して職務についての連絡調整を図り、情報交換を行いながら必要な資料を収集し、必要に応じて意見を発表するなどの活動を続けてきた。
32年の町村合併により行政区域も拡大されたことから、委員も増員されて54年から4人体制となった。
57年現在の人権擁護委員は、小西治郎、荻野秀雄、小泉武夫、金塚栄子が委嘱されて活動している。
保護司
罪を犯した少年や非行のある少年を正しく直し、これらを保護する施策として大正12年(1923)に旧少年法が施行され、「少年保護司の観察に附する」と定められ、少年が刑の執行猶予・仮出獄・矯正院からの仮退院などの処分が決まったとき、少年保護司の観察に付することとした。これがわが国最初の保護観察制度の採用であり、民間の篤志家に少年保護司の事務を嘱託するというものであった。
さらに昭和14年(1939)司法保護事業法が制定されたことにより、司法保護委員が司法大臣の任命により非常勤・無給の国家公務員として全国の保護区に配置された。これにより少年および成人に対する保護・観察を行う体制が整備されたのである。
戦後、新憲法の制定によって従来の司法保護制度は改正され、昭和24年(1949)7月に「犯罪者予防更生法」が制定されて、新しい更生保護制度が打ち立てられた。そして更生保護の国家機関として全国を8ブロックに分け、北海道には北海道地方少年保護委員会・北海道地方成人保護委員会が札幌市に設置され、札幌・函館・旭川・釧路に少年保護観察所と成人保護観察所が設けられた。その後昭和27年8月に少年・成人が一本化されて北海道地方更生保護委員会となり、保護観察所も一本になって現在に至っている。
昭和25年5月には、保護司法の施行によって従来の司法保護委員は保護司と改められた。
保護司は民間の篤志家で「社会奉仕の精神をもって、犯罪をした者の改善および更生を助けるとともに、犯罪の予防のため世論の啓発に努め、地方社会の浄化をはかる。」と定められ、身分は非常勤の国家公務員で法務大臣から委嘱を受け、保護観察所の委託によって犯罪者の保護・観察・環境調整を行い、その成績を報告し、犯罪者の改善更生活動や予防活動を行っている。
八雲区保護司会は、八雲・長万部の2町で構成し、町ごとに分区をおき、保護司の定数は法で定められ、57年現在の区保護司会は40名と定められているが、現員は八雲分区21名、長万部分区12名の計33名が委嘱を受けている。初代の区保護司会長は昭和27年11月に久保田正秋が就任し、現会長は山本猛である。
昭和57年2月末の区保護司会の取り扱い件数は26件、交通事犯5件であり、期間は1件につき最低で2年、通常は3年から5年を要している。
昭和38年9月に保護司会の活動を援助する団体として「八雲更生保護婦人会」が発足し、社会を明るくする運動などに参加のうえ環境浄化に活躍している。会員は39名で現会長は馬場春江である。