第7編 保健・衛生

 第1章 医療

  第1節 医療施設の変遷

明治前の医療
 徳川幕府が寛政11年(1799)に東蝦夷地の直轄施政に入ったとき、医師を雇って要所に配置し、和人やアイヌたちの疾病治療に当たらせるという施策がとられるようになった。このとき、山越内の会所(勤番所)にも医師を駐在させたことが、文化6年(1809)の「蝦夷渡海記」に「御雇医師成田堯」と明記されていることからも分かる。
 なお、天保15年(1844)の山越内勤番所兵備の中でも「医師一人」と記され、また、松浦武四郎の「蝦夷日誌」巻之六にも同じく「医師一人」と書かれていることからみても、松前藩の復領後も引き続き医師を駐在させていたことが明らかである。しかし、文久元年(1861)6月に勤番所が廃止されたあとの医師配置状況については、史料がないので不明であるが、一応廃止されたものと推察されている。

明治期の医療
 明治の初めごろ、医師松沢某が由追(現、山越)方面で開業していたという言い伝えがあるが、詳しくは分からない。しかも、北海道所蔵の職員表によれば、明治4年(1871)8月に医官鈴木澡浦が山越内詰医を申し付け(箱館府辞令)られ、また、翌5年4月に医師相沢玄理が同じく山越内詰医に任ぜられ(開拓使出張所辞令)ているなど、新政府による官医駐在の事実と照らし合わせてみると、この時代に個人開業医が在ったということは、はなはだ疑わしいことである。
 いよいよ本格的に北海道の開拓移民事業が進められるにあたり、その開拓を担うべき移民の医療問題が重要な要素を持つものであると認識した開拓使は、明治5年以降、各地に官立の地方病院を設置することとした。これにより翌6年には、山越内に函館病院所属の仮病院が設けられた。そして9年5月に「函館病院山越出張所」となったが、「久遠・山越・森・戸井・当別五分署ハ平常事務繁多ニ無之、官員ヲ在勤セシメ候共却テ浪費多クシテ実効少シ、之ヲ廃シテ実際差支無之ニ付、分署、病院出張所等相廃止」(「開拓使日誌」)として、明治10年(1877)4月5日に山越内分署とともに廃止されたのであった。
 翌11年11月には廃止された官立病院を母体として、函館支庁管下の「第二公立病院」が設立されたが、この公立病院の運営は、営業収入のほかに協議費で賄い、さらに翌12年8月からは、遊楽部川渡舟賃の一部を充当するなどの方途が講じられていた。なお、明治14年10月には「山越内病院」と改められたが、当時八雲村の住民は、遠距離ながらも当然この病院を利用しなければならなかった。したがって八雲村の戸口が増加するにつれて、病院設置の機運が急速に高まったので、明治16年10月に八雲村総代は、函館県令に対し維持費年73円の支弁と医療器具を設備するという条件を示して、公立病院の建設願を提出したのである。この願いが認められて「公立八雲病院」が開院されたのは、翌17年9月のことであった。この病院の建物はじめ一切の経費は、徳川家開墾試験場の開墾費の中から支弁され、八雲村における医療施設のはじまりとなった。
 こうして、山越内・八雲の両村にそれぞれ病院が設置されて村民の利便が図られたが、やがて山越内病院は村財政の窮乏によって経営が困難となり、明治27年には専任の医師をおくことができず、八雲病院からの巡回診療によって辛うじて維持するという状況となった。その後、いよいよ継続できる見込みがなくなったので、29年(1896)3月をもって廃止し、開業医遠藤隆則を村医に委嘱して住民の不便を補った。またこのころには八雲病院においても経営が苦しくなり、存続が困難となったため同じく29年5月に廃止された。八雲村では、27年6月から八雲病院の医員として勤務していた増子元朔を、病院廃止のあと村医に委嘱したのである。
 落部村では、当初森村に開設された公立病院を利用していたのであるが、医師の常駐を望む声が高まり、住民協議の結果、明治26年に医師を招くことにしたという。しかし、その当時の記録がないので詳しいことは分からないが、以後来村する医師は通常で2、3年、短いものでは教か月で辞任するという状況で、後任医師の確保に苦労したという。
 当時の村医制度は、村から毎月一定の俸給を支給するほか、診療収入や往診料なども医師の収入になるというもので、いわば現在の委託開業に類するものであったが、こうした村医制度も八雲村では明治40年(1907)3月限りで廃止し、以後はもっぱら開業医に頼ることとなった。
 しかし、落部村では昭和32年の町村合併まで続けられていた。

開業医の変遷
 明治40年(1907)3月に村医制度を廃止してから、村民の医療はもっぱら開業医に依存しなければならないようになった。こうしたことから、これまで村医として委嘱を受けていた増子元朔が、八雲医院(現、相沢鉄工所向かい側)を開業し、本格的な病院経営に乗り出した。当初は増子医院として住初町(現、高校付近)で開院していたが、火災に遭ったため現宮園郵便局付近に移転のうえ経営を続けたという。(昭和32年6月1日付道南民報)その後前記の八雲医院に移り、大正4年(1915)7月には同人の女婿岡部五郎がこれを引き継いで経営にあたった。
 大正8年に岡部は本町(現、電報電話局)に医院を新築し、岡部医院として経営(内科・産婦人科)を行った。同人は戦時中、日本医療団八雲病院の初代院長となり、戦後再び個人開業医として経営を続けたが、昭和26年(1951)に電報電話局が新設されることとなったため、医院建物をこれに譲渡し、規模を縮小して診療所を開設した。
 岡部は、政治にも深い関心をもち、大正14年(1935)から昭和23年(1947)まで4期にわたって町会議員を務め、さらに、昭和7年(1932)から11年まで道会議員として活躍した。また、町公安委員長・都市計画委員・消防後援会長など、数多くの要職を歴任したほか、医療面では町内各学校の学校医や拓殖医などの委嘱を受け、地域住民の医療に献身したのであるが、32年5月に76歳をもって死亡した。
 診療所はその後閉鎖し、函館米穀株式会社八雲出張所の事務所として使用された。
 大正末期には八雲駅前の富士見町で、落合友喜が病院を建て落合病院として開業した。昭和に入って萩谷福寿がこれを引き継ぎ、その後中上助司(のちに鶴見医院跡に移転)、内藤清と移って開業していたが、この建物は戦時中の昭和18年、町が買収のうえ日本医療団に譲渡し、八雲奨健寮として使用された。戦後は函館公共職業安定所八雲分室に一時使用された。
 このほか大正時代には、本町駅前付近で千木良医院、野田生で天野敬蔵が開業医として医療にあたった。天野は大正4年(1915)7月から7年4月まで、落部村医の委嘱を受けた。その後天野医院は閉鎖したので、野田生は無医地区となった。このため昭和21年(1946)野田生町内会が診療所新設期成会を結成、柏木高台に建てられていた飛行機監視舎の払い下げを受け、野田生診療所を新設した。医師は国立札幌病院八雲分院の与座嘉次郎が週3回出張診療を行っていたが、その後平野医師に代わった。26年には常駐医師を招くため診療所を増改築し、小野・小林・渡医師と継続されたが、33年の数田医師を最後に後任を得られないまま閉鎖したのであった。
 昭和24年には石川県出身の園部昌俊が、富士見町205番地の旅館の後を買い受けて病院に改造し、内科・小児科の診療を開始した。その後30年間にわたって地域の医療サービスに努めたが、54年(1979)に病院建物の一部が道路拡幅のためその予定地になったことと、後継者である長男が茨城県で病院を開業することになったことなどにより医院を閉鎖、転出するに至った。
 また、古くは明治45年(1912)5月、函館病院に勤務していた平野 新が、本町81番地で開業、その後本町235番地に平野医院を創設し、自ら院長となり設備を整え副院長に外科専門医を招き、内科と外科を完備して医療にあたった。その後昭和15年(1940)同人の女婿鶴見好夫にこの医院を譲渡し、自らは老齢のため規模を縮小して本町68番地に診療所を開設し、内科だけの診療を行ったが、30年4月に同人が死亡したのでこの診療所は閉鎖された。
 平野医院を引き継いだ鶴見好夫は17年に死亡し、その後を中上助司が買い受けて開業したが、太平洋戦争たけなわとなり同医師は軍医として従軍したため、休院のやむなきに至った。
19年1月に日本医療団八雲病院が設置され、中上医院は同病院の外科分院として同年10月に買収され、副院長に西亦治信が静狩金山病院から赴任した。
 昭和22年(1947)10月に日本医療団は廃止され、西亦は個人開業医(内科・外科)として医療に携わるかたわら、26年から33年2月まで町議会議員を務めたほか、保護司・PTA会長・学校医・文化団体連合会長など、教育文化の面で数々の公職に就いて活躍した。しかし33年2月に同人が死亡したので、医院は休院のやむなきに至った。
 昭和56年現在の当町における開業医は次のとおりである。
 本間診療所(内科・産婦人科)昭和5年(1930)に本間吾市が、本町124番地の料理屋の跡を買収し、内部を改造して診療所を開設した。以後50年余にわたり地域住民の医療に携わるかたわら、町内小中学校の校医を務め、児童生徒の保健衛生向上に尽くした。こうしたことから、北海道知事・厚生大臣・学校保健会長・文部大臣などから表彰を受け、さらに56年には勲5等瑞宝章を授与された。85歳の高齢にありながら、現在なお診療や往診にあたっている。
 与座内科小児科医院 国立八雲病院の内科医師として勤務していた与座嘉次郎が、その後独立して住初町で開業したが、のちに本町199番地に病院を新築のうえ移転し現在に至っている。
 西亦外科胃腸科医院 昭和33年2月に西亦治信が死亡してからしばらく休院していたが、昭和46年に同人の長男である一雄(当時市立函館病院勤務)によって再開され、現在に至っている。
 一方、落部村においては、前に述べたように昭和32年の町村合併まで村医制度が続けられていた。昭和9年(1934)愛山12が村医のとき、入院設備の必要性から隣接家屋を買収し、病室に改造のうえ村立愛山医院として逐次拡充を図り、村内唯一の医療機関として機能を果たしたのである。昭和21年には愛山行永の女婿で元軍医の魚住清が、石川県金沢市から落部に転住して同院の医療体制を充実し経営を続けたのであるが、のちに分離し愛山医院・魚住医院として開業した。
 昭和43年7月に愛山12が死亡したため、同人の女婿池島i州が石川県金沢市から招かれて愛山医院を継承した。その後池島医師は47年10月に町立八雲病院の内科医として勤務し、51年8月洞爺に転出していたが、55年富士見町146番地の1に、内科・小児科・循環器科の池島医院を開設し、現在に至っている。
 魚住医院は引き続き落部で地域の医療にあたっていたが、55年5月に魚住清が死亡したので一時無医地区となり、住民は町立病院や他の病院へ通わなければならなくなった。しかし故人の遺志によって計画中の療養所を、同年7月上の湯地区に魚住金婚湯療養医院として開院した。そして広島県出身の田上広樹医師が主治医となり、入院室も完備して温泉療養と一般診療を兼ね、さらに落部市街地の魚住医院の経営にも携わっている。

魚住金婚湯療養医院(写真1)


歯科医院
大正年代に入ると、歯科医院も開業するようになった。当町では大正初期に渡辺京三が本町277番地(現、そうご電器八雲店)で開業したのが最初と思われる。その後渡辺は東京に転出し、そのあとを当町出身の大島潔が引き受け、昭和に入ってから本町109番地、同18番地へと移転して診療を行っていたが11年に病没した。17年10月に小樽出身の白鳥作造が同所を買い受け、白鳥歯科医院として45年3月同人が死亡するまで診療を続けた。この間白鳥は、町内小中学校の嘱託医として、歯科衛生管理を通じ管内児童生徒の保健衛生の向上に努めたほか、町嘱託員として町内会活動などに長い間貢献した。
 昭和13年(1938)には石川県金沢市から園部昌清が来町し、本町112番地(現、ヤクモ薬局裏)で氏家覚技工士とともに診療を開始した。その後氏家は樺太に転出し、園部は29年に末広町39番地(現在地)に移転した。同人は歯科診療に努める傍ら、町社会教育委員、スポーツ振興審議会委員、体育指導委員、スキー協会会長など数多くの社会教育部門で大きく寄与したのである。
 また、昭和初期には八雲駅前(現、亀やすし店)で田中輝三が開業していたが20年ごろ死亡し、後継者がなかったので機械類一切を陳新泉に売却のうえ廃業した。
 さらに、太平洋戦争中に厚岸から羽田宗規が来町し、本町25番地で歯科医院を始め、その後本町16番地に移転した。また同人の長男皓而は、56年に町立落部歯科診療所が開設されたことから、町と委託契約のうえ出張診療にあたっている。なお、56年には本町174番地に移転し、名称もヤクモ歯科クリニックと改称した。
 同じ戦時中の昭和19年、陳新泉(現姓=鏡)が金森某の招きによって来町し、本町(旧中央通り)で歯科医院を始め、20年に前記の田中歯科医院のあとに移り、25年に本町222番地に移転した。
 戦後の昭和22年、前述した氏家覚が樺太から引き揚げ、25年に本町198番地(現、与座内科医院隣)で開業したが、数年で廃業した。

その他の医療機関
 以上のほか昭和7年に名古与一郎が、本町218番地(現、ルルパチンコホール)で整骨院を経営していたが、終戦後これを閉鎖して札幌に転出した。
 57年現在開業している整骨院等は次のとおりである。
 外山整骨院 八雲町東町30番地
 与沢鍼灸マッサージ所 〃 本町108番地
 八雲長生館治療院 〃 宮園町99番地
 けい愛整骨院 〃 住初町19番地
 八雲五療院 〃 富士見町15番地
 青葉治療院 〃 落部393番地

助産婦
 妊婦の出産を助け、産後をみとり、また、新生児の世話をする女性をいい、過去においては経験豊富な素人の老女がこの役にあたり、「取り上げ婆」とか「引き揚げ婆」とかいろいろな呼び方があって、集落を形成する地域には必ず1人か2人はいたものであるという。職業としては江戸時代から事実上存在したが、明治32年(1899)に内務省から産婆規則が公布され、一定の学問(解剖学・生理学)を修得し実習のあと、産婆試験に合格したものでなければ営業できなくなった。
 当町での産婆に関しては、明治40年「渡島国状況報文茅部郡各村、落部村」(北大付属図書館北方資料室蔵)の項に、「村医一名、現地産婆二名アリ」とあるのが、記録として現れる初めてのものと思われる。しかし、これに記録されている産婆の氏名も資格の有無についても、残念ながら定かではない。
 明治の末から昭和の初期にかけて川口定子、小泉博(はく)、跡辺よしイ、大正から昭和にかけて十倉トヨノ、伊藤カネが八雲で、野田追・野田生で野田タケ、加藤ハツヱが、落部で斉藤ハツノ、山崎ツヨノ、吉田チセが開業した。昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、「生めよ殖やせよ」の時代に入り、あらゆる物資欠乏のなか、しかも交通の便が悪いにもかかわらず、これら産婆たちは出産時には深夜もいとわず介護にあたり国策遂行のため献身的に活躍した。
 また、戦時下隆盛をきわめた上鉛川の中外鉱山には、花巻きみと工藤キミが、同鉱山診療所の看護婦として勤務するかたわら助産婦としても活躍していたが、終戦と同時に一時休山状態となったので、花巻は森町へ、工藤は静岡県へ転出した。
 戦後海外からの引揚者のなかで、八雲市街に住居を定めて開業したものに佐々木シオ、黒岩に遊佐キミがおり、すでに開業していた跡辺よしイ、中谷キミヱ、落合チヨらとともに、医療施設の不備な時代にあって、長い間助産婦として出産看護に努めたのである。
 昭和22年(1947)9月に保健所法が制定されてからは、警察行政から保健所行政の所管となり、23年法律第203号「保健婦助産婦看護婦法」が制定されて名称も助産婦と改正され、「助産又は妊婦褥婦若しくは新生児の保健指導をすることを業とする」ことが明文化されるとともに、厚生大臣の免許がなければ開業することができなくなった。
 昭和20年代後半には助産婦が受胎調節指導員として知事から委嘱を受け、計画出産や妊産婦指導を行うようになった。
 30年代後半になると次第に出産医療施設も整備されて、自宅で出産するものが減りはじめ、病院や産院を利用するものが多くなり、このため助産婦の個人営業は少なくなってきた。
 昭和56年現在町内で開業している助産婦は次のとおりである。
 中谷キミヱ 八雲町相生町66番地
 跡辺テル 〃 末広町152番地
 落合チヨ 〃 落部258番地

日本医療団八雲病院の設立
 大平洋戦争たけなわの昭和19年(1944)1月、岡部五郎が経営していた八雲病院は、国民医療法に基づいて設立された日本医療団に買収されることになり、「日本医療団八雲病院」と改めることとなった。そして移管準備が進められ、同年4月1日に事実上開院の運びとなったが、岡部五郎が「日本医療団医二任ズ、八雲病院長ヲ命ズ」という発令を受けたのは6月22日付であった。
 さらに7月20日には、当時函館病院静狩金山病院の医師をしていた西亦治信が副院長を命ぜられ、また、総合病院的な施設の拡張を図るため、経営者中上助司が応召で休院中の「中上医院」(現、西亦医院)を買収統合のうえ、10月に外科分院として開院したのであった。
 なお、これらの病院敷地は、いずれも町が賃借し、医療団に無償貸付するという協力がなされていた。
 外科分院はもっぱら西亦副院長が担当し、総合病院としての機能発揮が期待されたのであるが、戦局急を告げるにともない、建築や医療用の資材調達が困難になったのはもちろんのこと、医師の不足もあって所期の拡充は不可能となったのである。しかし、衣食住全般にわたる悪条件によって多発する患者の施療に尽くした功績は、大きなものがあった。

日本医療団八雲奨健寮
 青壮年層の軽症結核患者を収容し施療する、いわゆる奨健寮が病院とともに八雲町に設置されることになった。そのためこれに充当する建物は、町のあっせんによって昭和18年(1943)に古河ヨシ所有の元病院建物(萩谷医院跡)が買収されたが、その敷地は病院の場合と同じく、町が賃借して医療団に無償貸付するというものであった。
 こうして準備された「八雲奨健寮」は、翌19年6月に岡部病院長が所長を兼任し、入寮者8名を収容して11月開所式を行ったのである。しかし、終戦によって医療制度が改変され、22年11月には日本医療団が廃止されたので、この奨健寮も病院とともに姿を消したのであった。


 第2節 拓殖医

拓殖医制度
 道は第一期拓殖計画(自、明治43年度 至、昭和元年度)の移民保護の中で、大正6年度以後から北海道に入植する移住民の新開地域で、医療の乏しいへき地に医師を配置して、これに補助を与えて医療に従事させることにした。
 さらに、昭和2年度(1927)以後から開始された第二期拓殖計画においては、拓殖医師および拓殖産婆を任命配置して医療衛生面の充実を図り、その収入補給のため医師に補助金を支給し、また必要に応じ町村において医師の住宅を建築する場合は、その費用の9割以内の補助金を交付することとした。この制度により各町村とも拓殖医師の配置要望が非常に多かったという。
 昭和6、7の両年は、全道的に冷害凶作や水害などに見舞われ、当町の大関地域(現、上八雲一円)もその例に漏れず、地域住民の生計は極度に困難を来す状態となった。一方医療面においては、大正以来地域民によって組織された「博済会」が、その拠金をもって医師を招き地域医療に努めていたが、開業中の医師加賀谷熊之助が昭和8年(1933)3月、森町に転住したことから、無医地区となり医療事情はにわかに悪化することとなった。
 こうした全道的な冷害凶作の善後措置として、8年に道は1両年にて廃止する条件をもって、拓殖医の臨時的な増置を講じたのである。
 これにより内田町長は、同年4月に拓殖医の臨時増置を申請し、翌9年4月渡殖第164号をもって大関地区に拓殖医の新設が承認され、年額900円(昭和14年度から1300円)の補助が決定された。町はさらに種痘医嘱託として、町費から年額600円(14年度から900円)の手当を支給することとし、拓殖医の招へいに努めたのである。

診療所の新築
 昭和9年に渡島管内唯一の拓殖医として承認され、その設置場所は「八雲町大字八雲村字シュルクトシナイ」と告示された。診療受持区域は、字鉛川・トベトマリ・シュルクトシナイ・ペンケルペシュペ・ナンマッカ・キソンペタヌ・トワルべツ・セイヨウべツ・サックルペシペの六方里余と定められた。当時この区域内の戸口は、260戸余、1630人余であった。
 こうして9月に虻田郡留寿都村の医師池田章治が北海道拓殖医に任命され、大関診療所に赴任したのである。しかし当時は独立した診療所は設置されておらず、医師住宅は荒れて破損の状態だったため、徳川農場事務所を一時借り受けて応急修理を施し、これに充用することとした。
 たまたまこの年三菱合資会社社長から道に対し、「農村医療施設資金」として100万円が寄贈され、昭和9年度に40万円を支出することとなり、10月「農村医療施設に関する件」として詳しく道公報で告示された。

北海道庁拓殖医八雲診療所(上八雲)(写真1)


 これにより町は、同年11月に関係書類を整備のうえ医療施設交付金の申請手続きを行い、翌10年2月交付金1500円の承認が決定した。そして3月に診療所新築工事の入札が行われ、梶川勝次郎が1550円で落札し、木造亜鉛引き鉄板ぶき平屋建て51坪(約168平方メートル)1棟が5月20日に完成した。この診療所新築工事に際しては、資材の提供や労力の奉仕など、博済会が中心となり地域一丸となって医療確保に努めたのである。

拓殖医の推移
 昭和9年(1934)10月に拓殖医として開業した池田章治は、大関(現、上八雲)方面一円にわたる広範な地域住民の診療往診に努めたのであるが、12年12月に一身上の都合で辞職した。町は拓殖医の継続設置を申請し、後任として翌13年6月香川県出身で歯舞村村医の大西恵隣が任命されて赴任した。しかし大西医師はわずか三か月在職しただけで、9月には辞職したため再び診療所の医師は欠員となり、地域の医療は危機に陥った。
 このため町は拓殖医の招へいについて、いろいろな手段を講じてその確保に努めたのであるが、辺地のため交通の便が悪いことや冬期間における雪害など、数多くの悪条件が重なり、これに加えて独立営業が難しいという地域の経済状態から、極めて困難な実情であった。このような情勢のなかで、町や博済会の熱心な運動により、昭和18年(1943)3月に至って愛媛県出身の松田義郎が任命されて赴任し、診療所を再開したのである。しかし松田は赴任後間もなく病を得、11月13日死亡した。
 このため後任には八雲市街地の開業医岡部五郎が、19年2月に任命され、出張診療を行うこととなった。さらに診療所には松田義郎の娘猷子が保健指導員として常駐し、地域住民の保健指導にあたった。22年11月松田猷子は町の防疫指導員として嘱託され、引き続き勤務していたが27年9月に病気のため退職した。
 戦後、上八雲地区には開拓移住者が数多く入植したが、交通事情がしだいに好転したことと、診療所に常駐医師が不在になったことなどから、市街地の医療機関を利用するようになり、この診療所は自然休業のまま廃止される形となったのである。


 第3節 町立八雲病院

国立病院の療養所転換
 太平洋戦争が終わったあと、陸軍航空隊病院が「国立病院」となり、逐次総合的な病院としての機能が備わるとともに、入院・外来を問わず急激な患者の増加をみたのである。こうして、地元八雲町民はもちろん、関係地域の住民にとっては欠くことのできない施設として期待を集め、当時道内最高の国立札幌病院をしのぐといわれるほどの発展を示した。
 しかし当時は結核患者がとりわけ多く、入院患者の70パーセントを占め、さらに入院療養を要するものが多いという実情から、厚生省はその対策上昭和28年度からこれを結核療養所に転換し、業務の主力を結核患者の診療に向けることとした。このため、しだいに総合病院的な形を失っていったのであるが、この病院に代わる医療機関のない地域住民にとっては、依然としてこれに頼らざるを得なく、入院・外来ともに約30パーセントは一般患者が占めるという状況であった。
 このことは、結核療養所としての目的を達するうえで、多くの障害になることは当然であったが、やがて完全に療養所化された場合、地域における一般疾病患者の診療に支障を及ぼすおそれが十分に予測できることであった。

病院建設計画の進行
 国立病院の療養所転換の事実を重くみた町では、昭和29年(1954)7月に議会と協議のうえ、日本赤十字社病院を当町に開設するよう陳情するとともに、委員を挙げて積極的に調査を進め、病院建物や住宅をはじめ敷地の寄付もしくは無償提供など、誘致条件について折衝がもたれたのであった。
 こうしたおり道衛生部においては「北海道基幹病院整備計画」の立案中でもあり、国立病院の結核療養所化に対応する医療機関の設置は、住民福祉の上からも急を要する状況であった。このため田仲町長は、万難を排して30年度における「町立八雲病院」建設の方針を固め、道衛生部の指導のもとに建設計画の立案に着手するとともに、この病院を道の計画する地区基幹病院として指定を受けるため、29年12月に「八雲町に福祉施設として総合病院を設置し、人心の安定を図ることはまことに当を得たもの」との渡島支庁長の副申を得て知事に申請し、開設に向けて本格的に動き出したのである。
 翌30年1月に道衛生部から送付された「北海道基幹病院(地区病院、地方病院)整備計画」によると、当地方の地区の中心地は八雲町で、その地域は八雲保健所管内一円と想定されたものであった。
 こうして町立病院建設に関する調査研究・資金調達などの準備が進められ、30年3月開会の第1回定例会に、画期的ともいうべき病院建設に関する議案が提出され、同月26日満場一致をもって設置を議決したのであった。

敷地の選定と工事の設計
 町は議会と協議のうえ「町立八雲病院建設特別委員会」を設けて敷地の選定に入り、東雲町地内農林省所有地をあてる方針を決め、そのうち直接病院用地に予定される5280坪(約1万7424平方メートル)の転用を申請すると同時に、この土地の小作者と離作補償について折衝し、適正な補償料(反当1万5000円、うち7000円を町に寄付)を支払うことで話し合いをまとめた。
 この土地は、大正12年(1923)に八雲町畜産振興のため徳川家から山越郡畜産組合に寄付され、競馬場敷地として利用されるなど、その後数多くの変遷を経たのであるが、昭和21年(1946)に農林省が買収するところとなり、耕作者を対象に売り渡される予定になっていたものであった。しかし、たまたま町が策定した都市計画区域内にある関係で、将来に備えて売り渡しの保留を申請し、あらかじめ確保していた土地であった。さらに国道からこの敷地に通ずる道路敷地も買収して、用地問題はすべて解決したのであった。
 一方、建設の仕様設計は道に委託し、建築部工営課において近代的な感覚と技術をもって、地区基幹病院にふさわしい設計図書が作製された。

建築工事の施行
 町立病院の建築工事は、二か年継続をもって予定し、第一期工事は、診療棟・病棟およびこれらの付属舎など1297平方メートル余で、昭和31年2月28日に10業者を指名して入札を行い、3回の入札の結果、鰹シ原組が落札した。
 工事は途中で設計変更などがあって工期が延長されたが、11月9日にしゅん功届が提出され、若干の手直しのあと26日に受け渡しがなされ、これと同時に施行された電気工事と暖房衛生工事も受け渡しが行われた。
 第二期工事は、管理棟・レントゲン棟・炊事棟・汽缶棟・その他付属舎など1137平方メートル余と、煙突の建設工事で、31年8月30日に12業者を指名して入札を行ったが、3回の入札の結果落札に至らなかった。このため1部設計を変更して、9月25日に5業者を指名して入札の結果、日本ヒューム管(株)(函館市)が落札した。工期は当初翌年3月までを予定したのであるが、冬期積雪寒冷のため工事施行不能期間が長くなったので、8月20日まで延長され、予定より大幅に遅れたが、電気工事・暖房衛生工事とともに2年半にわたった全工事が完了したのであった。
 これらの工事費は、第一、二期を通じて5223万余円であり、このうち公立病院整備費国庫補助金が388万余円で、超債が4200万円であった。

開院準備
 工事の進行に対応して、町は昭和32年(1957)7月31日「町立病院企画室」を臨時に設け、長前田清以下5名の職員を配し、早期開院をめどにし、医療器具の搬入と据え付けの業務や病院職員の募集採用など、種々の準備を進めた。
 いよいよ病院開設の規模態様の決定をまって、9月1日付32医第3756号指令で開設許可、次いで9月5日三二医第三九七〇号指令をもって使用許可を受けたのである。
 これと並行して町は8月30日「町立八雲病院条例」を制定のうえ9月1日から施行することとし、以後は北大医学部関係者の支援を受け、9月16日初代病院長に岩田善輔(内科医・前国立北海道第二療養所医務課長)を迎えたのをはじめ、副院長に納谷文男(内科医)以下各科医師の着任体制を整えたほか、医療技術者など所要職員の勤務体制を整備し、10月3日を期して開院、診療を開始したのである。
 開院当初の診療科目は、内科・外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科の5科目に放射線科を備え、入院病床86床、またこれに対応する医師は院長以下6名(ただし、耳鼻咽喉科医師は12月1日に着任)、薬剤師1名、助産婦1名、看護婦19名、事務職員6名、その他15名の計48名によるスタートであった。

看護婦宿舎と医師住宅の建築
 病院経営上欠くことのできない看護婦宿舎と医師住宅の建設は、病院建築工事の進行とともに大きな課題となったが、頼みとする起債に見通しが立たず、一般財源をもっての調達は困難となった。そのため種々検討の結果、日本住宅公団の特定分譲住宅譲り受け方式による取得を計画して申請のところ、昭和32年(1957)5月24日に譲受承認通知を受け、ようやく実現の運びとなった。
 工事は当然日本住宅公団の発注により、日本ヒューム管(株)が請け負い、11月25日に完成して町に引き渡された。看護婦宿舎(28人収容)は補強コンクリートブロック造2階建て134・75坪(約444・7平方メートル)、医師住宅は簡易耐火構造平屋建てで、一戸建て1棟と二戸建て3棟の7戸であった。

旧町立八雲病院(写真1)


製剤室の建築
 薬品は常に正常な状態での保管が望まれるのは当然であり、さきに述べた病院の使用許可指令のなかにも「薬局に付設する冷暗所は、昭和33年11月末日までに完成すること」という条件が付されていた。このため、期限内完成を目指して鰹シ原組との契約により施行し、11月19日に完成した。
 これは地上9坪余(約29・7平方メートル)、地下5坪(約16・5平方メートル)のものであり、これによって病院創業時における施設の整備が一応完成し、その機能を発揮する体制が整ったのである。

精神科の新・増設
 時代が推移するなかで、精神神経系の患者が年々増加する傾向にありながら、これらを収容する施設は、八雲保健所管内はいうまでもなく、この近隣町村には全くなく、患者は遠く函館・小樽・札幌などに出向いて診療を受けるという実態であり、本人はもちろんその家族は、経済的にも肉体的にも著しい負担であった。
 こうした実態に着目した町は、公立病院としての使命と将来性という観点から、町立病院に精神科を新設し、基幹病院として総合的な機能充実を図る方針を固めた。そして昭和35年(1960)から道衛生部と協議し、同意を得て実現についての具体的な検討を進め、36年7月にこの方針を議会に提案、精神科52床の新設が議決された。
 これにより、入院病棟・渡り廊下・外来診療棟など767平方メートル余を建築し、必要な医療器具や備品類を整備のうえ37年4月1日から診療を開始したのである。
 その後、同科を利用する患者は年々増え、入院患者も定床をはるかに超えることが常態となったため、適正な収容を図るうえでの増床対策が強く要請された。町はこの対策として、比較的軽度の患者あるいは軽快患者を収容する、いわゆる開放病棟施設の増設を計画した。そして昭和44年(1969)に開放病棟243平方メートル余を新築、その他関連施設を整備のうえ同年10月20日から20床を増床し、同科入院病床を74床(含保護室2床)としてよりいっそう機能充実を図ったのであった。

整形外科の新設
 昭和30年代後期における車両の増加による交通事故や、建設作業などによる整形外科系の患者が急激に増加する傾向が強くなり、これまでの一般外科体制だけでは対応に無理を伴うようになってきた。
 こうした実情を踏まえ、さらによりよい医療の提供に努めるため、昭和39年(1964)6月1日を期して「整形外科」を診療科目に加え、近代医療体制の強化を図った。
 これによって入院患者はにわかに増加し、これまでの86床では極度に不足を来したばかりでなく、外来部門でも開院当初の患者数のほぼ倍を数えるようになり、ますます狭くなって救急患者の処置にも支障を来たすようになるなど、施設の弱体が訴えられるようになった。
 町はこうした事態を解消するため、入院病床37床の増設と、外来救急処置室を含む診療棟の整備およびこれに付帯する施設の増築工事を行い、41年10月24日に完成して使用を開始した。
 なお、この増設計画が最終的な段階を迎えていた40年3月、過去7年有余にわたり病院草創期の困難と闘いながら、経営に全精力を傾けてきた岩田院長が、一身上の都合で惜しまれつつ退職し、この事業は2代院長佐々木志郎に引き継がれていた。

結核病棟の新設
 昭和28年(1953)4月以降、結核患者を主として施療にあたってきた国立療養所八雲病院は、その後しだいに結核患者が減ってきたため、その性格を変えて重症心身障害児(者)や進行性筋ジストロフィー症児の収容を中心とする病院に転換を図り、できる限り結核患者の収容を抑え、また他に転院させるなどの措置を講ずるようになってきた。こうしたことから、昭和42、3年ころには結核性疾患の患者が町立病院を訪れるようになったため、やむを得ず一般病床の一部に入院させるケースが多くなった。このため一般病床は常に定床をオーバーする状態が続き、監督筋からもこうした超過状態と結核患者による一般病床利用の解消を強く指摘され、早期解決を迫られたのである。
 町としては、現在収容中の患者を転院させることもできず、また、結核性疾患が近いうちに絶えるという保障もないという現状に立ったうえ、住民福祉の拡充という観点から、独立の結核病棟(木造平屋建て356平方メートル余)と渡り廊下の建築に着手し、昭和45年(1970)10月に6病室20床を完成、国立療養所に入院中の患者を直ちにこれに移して、これまでの変則状態を解消したのである。

小児科の新設と休止
 2代病院長佐々木志郎は、昭和42年(1967)10月31日に在職わずか2年七か月をもって退職したので、当時在職中の内科医岡田守夫が病院長代理を経て43年2月1日3代病院長となった。
 しかし、この欠員補充は思うにまかせず、内科医は院長ただひとりという期間がしばらく続いたのである。幸い院長の献身的な努力により診療ストップという事態は避けられたものの、こうした不自然な体制の早期解決が急務となっていた。
 こうしたおり、医師のあっせんを依頼中の北海道医師対策協会から、小児科医の紹介があったのを機会に同科を開設することとし、46年3月25日に診療を開始した。そして15歳以下乳幼児までの小児専門の疾病治療から健康相談に至るまで、幅広く医療サービスの提供に努めた。しかし同医師も、都合により在職4年にして転出したが、50年4月以降は後任も補充されず、そのうえ施設の不備や経営上の問題もあって、当分休止の状態となった。
 このような医師の転出や診療休止の措置は、子供、とくに乳幼児を抱える親たちにとっては大きなショックであり、ときを同じくして要望が高まりつつあった歯科の新設に併せて、その継続を訴える声が急激に高まってきた。そして50年6月の町議会に「町立八雲病院小児科専門医復活に関する請願書」(八雲町農協若妻会)と「町立八雲病院に小児科並びに歯科を設置されることについての陳情書」(八雲町婦人団体連絡協議会)の2つが同時に提出されたので、これらはともに細部について審査のため、民生文教常任委員会に付託された。同委員会では、町立病院自体の経営状態や施設の調査をはじめ、他市町の公立病院における小児科と歯科の経営状況について精力的に調査を進め、この請願書などを一括採択し、しかも、
 1、小児科再開、歯科新設は早期実現に努力されたい。
 2、施設の現況は改善を要する実情であり、早期に中核病院構想を打ち出す時期にあると考察されるので、その促進に努力すべきである。
という意見を付したうえ、理事者に実現を促すという結論を出し、同年12月開会の定例会に報告、満場一致承認された。
 しかし、議会での再三にわたるこの問題に関する質問に対し、北口町長は「地域医療の充実という点ではもちろん考えなければならない問題ではあるが、経営という観点からすれば現実は厳しく容易ではないので、当面は現状維持を前提とした施設改善に努めていきたい。ただし、国や道の推進するへき地中核病院構想の受け入れについては、51年度以降精力的に検討を進め、できるだけ早い機会に実現できるよう努力したい」と述べ、問題の難しさを繰り返し訴えていたのである。

泌尿器科・皮膚科の臨時開設
 昭和47年9月には泌尿器科・皮膚科を開設し(50年4月まで)、また48年4月に三か月間欠員であった精神科医も補充され、ようやく整ったかにみえた医師の勤務体制も、一方ではこれと相前後する産婦人科医の転出による一〇か月間にわたる休診、さらには耳鼻咽喉科医の転出による週1回の出張診療での急場しのぎ、また、47年5月から約四か月間、東京医科大学産婦人科教室から延べ12人の医師による交代出張診療によって、産婦人科再開の道を探るなど、病院経営はまさしくピンチともいえる状態となった。
 こうした状態のなかで、長く内科医として、また3代病院長として経営に尽くした岡田守夫から、一身上の都合によって転出の意向が示された。このため、以前産婦人科医長として在職したことのある中平成也を、病院長に迎えるべく熱心に招請した結果、47年7月16日に着任し、さらに産婦人科も再開することができたのであった。
 中平院長は就任早々、地方医療において数少ない専門医療分野である泌尿器科と皮膚科について着目し、日赤伊達病院の協力を得て臨時的ではあるが9月8日から開設することになり、毎週2回の診療を行い、これら疾病に悩む患者から大いに喜ばれたのである。しかし、毎週定期の出張に応ずる医師の勤務体制に無理が生じ、その後は週1回から2週に1回としだいに出張回数が減り、ついに50年4月1日の診療を最後に、2年半に及んだ診療を停止したのであった。
 一方、担当医が欠員中の耳鼻咽喉科についても、48年4月から医師を迎えて再開するなど、病院機能の回復と充実に力が注がれていたが、同科医師も都合により52年4月転出したあと、再び休止の状態となった。その後は担当医の補充にめどもなく、しばらく休診を続けたが、函館市内の開業医に出張診療を依頼することができ、53年8月から毎週1回の診療を再開したものの、これまた医師の都合により、翌54年4月限りをもって再び休診することとなった。
しかし55年5月から週1回診療再開となっている。

管理棟の増築
 昭和32年に入院病床86をもって発足した町立病院も逐年増床し、40年度における結核病棟20床と受託伝染病棟を含め、実に232床となり、開院当初の2・7倍にも達し、職員数も2・5倍になるという状況から、管理部門をはじめ至る所に不自由さが目立つようになり、非近代的であるという批判が強くなってきた。
 昭和46年ごろには、病院内外から「地域センター病院構想に基づき全面的な改築を早期に」という声が高まりをみせ、町長もまた地域医療拡充のためこの改築問題の検討を認め、病院内にプロジェクトチームを作って改築計画の調査研究に乗り出したのであったが、折から全世界を揺るがした48年秋のオイルショックによる急激な物価変動は、町財政にも必然的に大きな影響を及ぼし、当時の財政力をもってしては到底これに対応できる状態ではなく、一時これを断念しなければならなくなったのである。
 しかし、近い将来における改築を前提にして、不自由さに耐えてきた管理棟も限界に達したので、差し当たって最小限の緩和策として、50年度においてこれまでの管理棟部分に木造の2階を増設(318平方メートル余)し、事務室を広くするとともに、会議室や更衣室を設けるなど、機能の強化に対処したのである。
 
落部診療所
 落部地区に町立病院の出張診療所を新設することは、町村合併における整備条件の1つとして取り上げられた問題であった。町ではこれを早期に解決して、住民の保健管理の実を上げるため、合併初年度の昭和32年(1957)10月に、落部八幡宮参道沿いの角谷作平所有地210坪余(約693平方メートル)を適地として買収し、翌年1月の臨時会において議決を受け、33年度中に建設することとした。
 この工事は2月3日に着工し、6月30日に完成した。そして7月15日に開設許可、同月18日に使用許可というようにそれぞれ法的手続きを経たうえ、町立落部診療所条例を制定して7月21日に開所したのである。
 この診療所は、総面積60・75坪(約200・47平方メートル)の木造平屋建てで、2病室(4ベッド)のほか、診療室・待合室・試験室・事務室・看護婦室・医師住宅などが設けられ、総工費は266万8000円であった。
 診療科目は、内科・外科・眼科・婦人科・耳鼻咽喉科で、事務職貞1名を専任に配置し、町立病院の医師と看護婦が定期的に出張診療にあたり、当初は町立病院における診療体制との兼ね合いもあるので、内科だけは毎日、その他は毎週1回(午後だけ)という体制であった。
 こうしてしばらくの間は、住民の健康管理のため所期の目的を果たしつつあったが、やがて医師をはじめ関係職員の定期出張は、町立病院自体の運営に支障を来すこととなり、そのうえ、39年には地域内に開業医が増えたことによって、医療事情が好転したということもあり、40年(1965)6月1日から休止の措置をとったのである。その後は2年間地域の医療事情の推移を見守った結果、この診療所がなくても直接支障がないとの判断に立って、42年6月1日には正式に廃止の手続きがとられたのであった。
 なお、この建物はのちに役場落部支所に転用されて現在に至っている。

病院の全面改築
 昭和46年度において北海道が打ち出した地域センター病院構想をさらに一歩進め、へき地医療対策として「へき地中核病院整備事業実施要綱」をもつて、国庫補助金交付の道が開かれた。
 こうした制度の創設を契機に、道衛生部からこの受け入れについて勧奨があったので、町としてもこれを機会に一部増改築をもって施設整備を図ることを考慮して衛生部と折衝したが、町立病院がたび重なる増築によって、いわゆるタコ足的な施設となっている現状からみて、この計画はかえって効率を悪くする恐れがあり、この際全面的な改築を考えるべきではないかという趣旨の助言を受けたのであった。
 この助言を受けた町と町病関係者は、計画を白紙に戻して全面改築を目標に再検討することとしたのである。
 こうした矢先の昭和51年(1976)2月、航空自衛隊高射隊の八雲飛行場への配置受け入れ決定にあたって、町が正式に提示した要望事項のうち、財政的援助を要望する事業の一つとして「町立八雲病院改築事業」が挙げられ、町政の重要課題としてにわかに表面化したのである。
 しかしこの事業が、現実的に「防衛施設周辺の生活環境の整備に関する法律」の趣旨からみて、適用の可否が極めて流動的であり、また、町財政の現状からしても、早急な実現は難しいものとみられたが、病院関係者の要望や一部議会議員の強い要求の高まりとともに、医療福祉に大きな関心を寄せていた北口町長の決断により、ついに53年3月の町議会に「町立八雲病院改築事業」(事業会計予算)が提案されたのであった。
 この予算での建設計画は、53年度を調査設計年度とし、翌54年度から五か年継続で施行、最終58年度に完成するというものであった。しかし、既存施設は開設以来24年余を経過し、施設の老朽化に加えて設備構造上の不備、さらに防災上からも危険な状態にあることから、近代医療を十分行うことができる施設を早期に完成させることが行政の急務と考え、二か年短縮して56年度を最終年次としたのである。
 昭和54年(1979)9月14日に起工式が行われ、請負業者は、建築主体工事が鰹シ原組・戸田建設葛、同企業体、電気設備工事が末広屋電気梶E振興電気梶E山内工業葛、同企業体、給排水衛生空調設僻工事が大信工機梶A設計監理は桂設計鰍ナあった。
 工事着手以来経済の変動も著しく、諸資材の高騰などによって長期的な工事の遂行は容易でない厳しい情勢となった。しかも町としては超大型事業であり、その進行が注目されたのであったが、これらの困難にかかわらず当初の請負金額をもって、56年9月に完成(外構工事一部未完成)したのである。

町立八雲病院(写真1)


 工事費は、建築主体工事が14億600万円、電気設備工事が2億4600万円、給排水衛生空調設備工事が3億9900万円、計20億5100万円で、これに医療機器が2億3590万円であった。
 改築後の病院は、地上4階建ての一般病棟と平屋建ての精神科病棟で鉄筋コンクリート造である。延べ面積は1万1180平方メートルで、旧病院のほぼ2倍となった。規模は、内科・小児科・外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・精神神経科・整形外科・放射線科・歯科の10科分のスペースと、一般病棟155床、精神病棟100床、結核病棟20床で、計275床を有する町村経営としては屈指の総合病院となった。
 この新築落成を祝って、同年11月6日に盛大に記念式典を挙行したのである。こうして近代的な医療機器の完備がなされた町立八雲病院は、道南北部渡島・槍山地方を含めた医療センターとして、大きな期待が寄せられている。


 第4節 落部歯科診療所

町立歯科診療所の開設
 時代が進むにつれて歯科受診人口が自然増加し、昭和40年代中期以降は、町内における3開業医をもってしては対応しきれず、その医療事情はにわかに悪化したため、町立病院への歯科開設をはじめ、診療体制の強化を望む声が自然高まりをみせていた。
 町ではこうした状況を検討の結果、特に地元に歯科医院がないため、受診には必ず交通機関を利用しなければならないという不便をかこっていた落部地区の改善を急務と判断し、昭和48年度において町立の歯科診療所を設置する方針を立てた。
 町は直ちに建設適地を検討、落部38番地内(宮本敏春所有)453平方メートル余を借り受けることとし、8月27日入札を行い、822万余円をもって関谷組の請負により着工した。工事は順調に進み、10月30日に木造平屋建て診療所本屋(141・75平方メートル)のほか、車庫などが完成した。また、これと並行して診療機器と事務用品の整備を進めるとともに、11月14日付八保第二四六号指令をもって開設許可を受け、12月1日から診療を開始したのである。
 なお、この歯科診療所は町の直営ではなく、歯科医羽田皓而との委託契約によって運営されている。

町立落部歯科診療所(写真1)



 第5節 国立療養所八雲病院

創設とその変遷
 昭和18年(1943)当町に陸軍飛行場が設置されたことにともない、旧徳川農場庭園跡地に陸軍航空隊病院が建設されていた。やがて終戦を迎え、20年8月にとりあえず「札幌陸軍病院八雲分院」となり、同じ敷地内にあった旧兵舎などを統合して規模を拡大し、帰還傷病軍人の診療に備えたのであるが、同年12月には厚生省の所管に移って「国立札幌病院八雲分院」と改められ、今日の基礎となったのである。
 昭和22年4月に国立病院の入院規程が改正され、患者の入院資格が撤廃となって一般に開放されてからは、入院・外来患者ともに急激に増加し、当時道内最高といわれた国立札幌病院をしのぐ勢いを示したためその実績が認められ、翌23年7月には「国立八雲病院」として昇格独立した。そして、内科・外科・産婦人科・小児科・耳鼻咽喉科・眼科・歯科を擁する総合病院としての形態を整えたのであった。
 しかしこの地方では当時結核患者が特に多く、入院患者の70パーセント以上がこれに占められ、しかもなお入院加療を要する者が多いという実情から、28年(1958)4月に「国立療養所八雲病院」と改め、結核療長所に性格を転換し、病床も300床に増床されたのである。その後、31年3月に「国立八雲療養所」と改称し、さらに44年(1969)4月には「国立療養所八雲病院」と改められた。

国立療養所八雲病院(写真1)


空から見た国立療養所八雲病院(写真2)


運営の後援
 地元八雲町では昭和23年(1948)4月に「国立八雲病院後援会」を結成し、町費から補助金を支出してその活動を支援した。その後、27年1月には組織を改めて「国立八雲病院運営協議会」とし、当院が円滑に運営されるよう努めたのであるが、結核療養所への転換が進められるにつれてその支援活動も鈍くなり、やがて消滅するという経過をたどった。

付属准看護学院
 准看護婦の養成期間として、昭和25年(1950)4月に発足した国立八雲病院付属看護学院は、28年4月に国立療養所八雲病院付属高等看護学院と改め、次いで31年(1956)4月国立八雲療養所付属准看護学院となり、さらに51年(1976)1月には国立療養所八雲病院付属准看護学院と改められて現在に至っている。定員は1、2年生各30名である。

施設の再転換
 昭和28年以来、結核療養所に性格を転換して運営に努めるとともに、36年(1961)10月に旅行指定医療機関の指定を受け、それ以後は、小児結核・小児慢性症患などの患者の収容にも力を注いできた。しかし、国の結核対策の効果と、医学の急速な進歩によって結核患者が著しく滅少したので、その性格を再び転換し、39年から道内最初で唯一の国立医療機関として、進行性筋ジストロフィー症児の収容を目途に準備が進められた。そして40年4月に同症用40床を新設し、広く道内からの患者を収容したのである。さらに41年12月からは、これまた道内最初の医療機関として、重症心身障害児(者)用40床を新設したのをはじめ、着々その充実を進め、45年6月をもって各120床、計240床の整備がなされ、ここに完全な転換が図られた。
 54年現在では、進行性筋ジストロフィ症児113床、小児慢性疾患児7床、重症心身障害児(者)120床の収容施設と、職員217名をもって運営されるかたわら、当地方の小児科専門医不在を補うため、一般外来に併せて小児科外来の医療サービスも行われている。

財団法人しらかば愛育会
 国立療養所八雲病院に関連した「北海道八雲養護学校」の径緯については、教育編で詳しく述べたが、この学校の児童生徒を保護しその福祉を増進することを目的として、全道的な組織のもとに昭和44年(1969)に後援会が設立された。そして名称を「しらかば愛育園後援会」とし、会長に田仲八雲町長を選任した。さらに後援会はこれを一歩進めて「財団法人しらかば愛育会」を設立し、同愛育会寄付行為を定め、事業としてボランティアハウス「いこいの家」を設置のうえ運営を行うこととした。
 昭和44年10月に木造2階建て延べ330平方メートルの「いこいの家」を、工費1035万円(道費補助500万円、市町村補助200万円、八雲町補助100万円、共同募金配分100万円、その他135万円)をもって宮園町123番地に新築した。この施設には、ロビー・管理人室・浴室・集会室・宿泊室などが設けられ、人所児と保護者の交歓、また、ボランティア活動の拠点となっており、関係する市町村は昭和56年現在道内76市町、道外2市におよんでいる。


第2章 伝染病

 第1節 伝染病の発生状況

明治前の状況
 蝦夷地の伝染病については、文明3年(1471)の疫病や凶作などで多くの死者を出したのをはじめ、天然痘やはしかなどが随時流行して、そのつど多数の命を奪った。そのため蝦夷人の人口が激減したほどであるというが、当時こうした疫病が流行したときは、ひたすら山中に避難するか、病人を隔離するしか手立てがなかったという。
 医学の進歩とともに、ようやく種痘術が普及しつつあった安政4年(1857)に箱館奉行は、蝦夷人が天然痘のため多数死亡するのを数うため、医師桑田立斎らを派遣して、翌5年にかけ暇夷人や和人の別なく種痘を施したのであるが、蝦夷人は種痘を恐れて山中に逃れたため接種は難航し、その実績はようやく半数程度にとどまったという。しかし、それ以後は天然痘も著しく流行することもなくなったのであるが、文久年間に落部の暇夷人に天然痘が流行したとき、かれらは顔になべ墨を塗り、望路や入沢など山間地に数年にわたって避難し、死者は70名に及んだと伝えられている。

東蝦夷地内庖瘡取調日記(写真1)


明治・大正年間の状況
 明治8年(1875)に「予防規則」が設けられ、毎年春と秋の二期に接種するようになり、伝染病対策は軌道に乗ったのであるが、それ以後における主な伝染病の発生状況は次のとおりである。
 明治19年(1886)1月から4月にかけて、茅部・山越両郡でジフテリアが流行し、患省37名、うち死者7名(函館新聞)と報じた記録がある。さらにその年8月には、函館方面から山越内村由追にコレラが侵入して、たちまち伝染戸数20戸となり、発生以来わずか20日間で患者35名を数え、死者は20名に達したのである。
 このため検疫事務所を設け、円融寺の堂宇を隔離病舎にあてて治療と予防や消毒に努め、健康者は酒屋川の上流に難を避けたので、以後の流行を食い止め、9月13日には全く終息した。
 明治40年(1907)の監査報告書によれば、
 本村ニ於テ避病院、隔離病舎ノ設備ナシ、然レドモ伝染病患者発生ノ場合ハ、大字山越内村ニ於テハ元病院ニ宛タル建物アルニ因り之ヲ使用スルヲ得、又大字八雲村ニ於テハ字ワシノスニ充用スベキ適当ナル納屋アルヲ以テ之ヲ使用スルコトトナセリ
とある。
 大正3年(1914)全国各地に発しんチフスが流行したとき、黒岩地区にも患者が発生し、9月中旬までに患者19名、死者2名を出した。このため、町に臨時防疫班を設けて検疫調査を続けるとともに、遊楽部浜通り(現、豊河町4番地)に木造平屋建ての隔離病舎を昼夜兼行によって一週間で完成させ、防疫に全力を挙げた。
 また、大正7年11月にスペイン風邪といわれた流行性感冒が大流行して死者73名を出し、管内の小学校はすべて休校したのであった。

昭和年代の状況
 昭和18年(1943)の八雲飛行場建設当時、作業員飯場から多数の伝染病患者が発生し、防疫に従事した医師や看護婦、町職員らも感染するなど猛威を振るったが、防疫活動が功を奏して流行を防止し、飯場地区内だけにとどめることができたのは、不幸中の幸いであった。なおこの発生状況は、腸チフス38・赤痢16・回帰熱16・パラチフス44・発しんチフス28・デング熱17、計159名という多数のうえ種類も多く、このうち死者は18名であった。
 昭和31年(1956)5月には、黒岩地区に集団赤痢が発生して猛威を振るったが、町や保健所による防疫活動によって、患者は100余名に達したものの、幸い死者を出すこともなく、9月にはおさまったのである。なお、患者が多数であったため、これまで国立八雲療養所と契約のうえ充用していた隔離病舎が狭くなり、急ぎ許可を得て臨時に22坪(約72・6平方メートル)を増設して対応したのであった。
 昭和40年(1965)12月、八雲小学校児童を中心に集団赤痢が発生し、患者多数のため伝染病棟だけでは対応できなくなり、町立八雲保育所(くるみ保育園)を臨時隔離所にあて、国立療養所からも看護婦の応援を得て防疫活動を続けた結果、患者は実に124名を数えたものの、全員回復して間もなく終息した。
 なおそれ以後は、大きな発生がないというよりは、むしろほとんどないといってもよいほどで、散発にとどまっていることは幸いである。


 第2節 隔離病舎

隔離病舎のはじめ
 大正3年(1914)に発しんチフスが流行した際、伝染病患者収容施設として遊楽部浜通りに、隔離病舎を建築したことは前節でも述べたが、この建物は木造平屋建て42坪(約138・66平方メートル)で、応急的に短時日をもって建築されたものであり、その後昭和10年に21坪(約69・3平方メートル)を増築して態勢を整えながら、町営の隔離病舎として長く使用されてきたのであった。
 当時隔離病舎に収容した患者の治療は、その患者の伝染病を診断した医師が、それぞれ出張診療にあたるという方式で運営されたのである。

国立病院への委託方式
 町営の隔離病舎も時日の経過にともなって老朽化し、その運営方式についても非能率的な面も出てきて、改善の必要に迫られていたのである。時あたかも昭和23年(1948)7月、国立八雲病院の独立を契機に、同病院管理の旧軍用建物一棟271坪余=約564・3平方メートル)を、町との委託契約により付属隔離病舎に充用し、伝染病患者が発生したつど、同院医師によって治療に万全を期すこととなった。
 以後は当町の伝染病対策に大きく貢献したのであるが、昭和28年4月に同病院が結核療養所として転換が図られたので、一般診療と同様に委託診療の継続が困難となったことから、再び町による伝染病棟の経営が望まれるようになった。

町立伝染病棟の開設
 こうした情勢に対応して町は、町立八雲病院建設工事の進展に合わせて、これに伝染病棟の併設を計画したのである。この計画は着々進められ、昭和32年(1957)8月23日に申請を行い、12月2日認可を受けて着工し、木造平屋建て95・75坪(約316平方メートル)、6病室15床の新病棟が、翌33年5月30日に完成したのであった。 こうして630万円余を投じて完成した伝染病棟は、施設の維持管理や診療看護の事務について町立八雲病院長に委託され、医療法上は町立病院の併設病棟として管理運営されることとなった。
 しかし、昭和54年(1979)町立八雲病院の全面改築に伴って、本施設の取り壊しを余儀なくされたことから、北海道の財産処分の承認を得て建物を解体し、伝染病棟を廃止、以後の伝染病患者の収容診療については森町長浜美喜夫との委託契約により「森町国民健康保険病院併設隔離病舎」で行うこととなった。



第3章 墓地と火葬場


 第1節 墓地

墓地
 町内における墓地は、寺院境内などにあるもののほか、それぞれの集落の山すそや山あいに共同墓地が設置されている。
 墓地は、明治17年(1884)の太政官布達により「墓地及埋葬取締規則」が制定されて以来、設置・改葬・廃止などの許認可がなされてきたのである。
 八雲町ではこれより先の明治11年、旧尾張藩士が遊楽部に移住した際、ここを墳墓の地と定め、直ちに開拓使に対し「墳墓地御割渡し願」(別記)を申請し、許可を得て遊楽部に墓地を設置したのである。しかしこの墓地は、遊楽部川に近いので出水のたびに川岸が決壊されるということから、常丹坊主山(現、大新79、80番地)に移すため、20年7月に改めて「墓地変更願」を申請すると同時に、火葬場の割渡しについても出願した。これにより翌21年2月15日、600坪(約1980平方メートル)の墓地と5坪(約16・5平方メートル)の火葬場用地が下付された。これが現在の大新墓地(旧鈴蘭部墓地)である。ここには、開拓の礎となった古田知行ら移住者の墓碑が現存している。
 昭和35年2月片桐寿編「八雲のふるつづら」から、徳川家家扶吉田知行と開墾地取締片桐助作が官に申請した入植当時の願書を、それぞれ引用して掲記すれば次のとおりである。

 墳苑地御割渡し願
 今般移住人一同到着仕り候処、墳墓の地これなく候に付、相当の地所相撰び候処、別紙(不明)絵図の地所、耕宅地に相成らざる薄地に候間、百坪程墳墓地として御割渡し相成り度、此段願ひ奉り候也。
 明治十一年十月 東京府華族徳川慶勝家扶 吉田知行
 開拓使少書記官柳田友郷殿

右に対し官からの指今次の通り、

 願の趣聞き届け候事
 但し坪数の儀は実地丈量の上追って相違すべき事
 明治十一年十月廿二日 開拓使大書記官時任為基印

右記録中の別紙(不明)絵図は発見し得ざるも、岡野隆麿翁の言によれば、今の遊楽部浜墓地がそれであるとのことである。然るに後ち明治20年に及び次の墓地変更願を提出した。

 墓地変換及び火葬場新設願
 胆振国山越郡八雲村徳川開墾地移住人墓地の義、従前別紙図面八雲村遊楽部野朱線の地に割渡し相成り居り候処、近年遊楽部川筋変換流勢墓地方位に向ひ衝き来り、出水の度毎に川岸を決壊し、流域漸次墓地に近寄り最初川岸迄の距離百間余りもこれあり候処現今にては弐拾間程の距離に相成り、今日の姿にて今両三回の大水に通はゞ忽ち水勢墓地を侵し申すべく候、付てぱ墓地変換なし下され度く、且つ墓地に沿ひ火葬場新設致し置き度く候、別紙図面八雲村字坊主山朱線の地は道路河川及び鉄道線路に沿はず、現在人家を距る十丁以上土地高燥飲用水に障りなく、且つ将来道路河川の開通及び土地開墾人民移住の支障にならざる場所に候、而して開墾地現在戸数は六上戸に候へども前途弐亘戸以上に増殖致すべき見込に付更に其地に於て墓地六百坪火葬場弐拾五坪御割渡し相成り度く、此度願ひ奉り候也
 明治弐拾年七月廿一日 胆振国山越郡八雲村徳川開墾地取締
 片桐助作
 北海道庁長官岩村通俊殿

右に対する官の指令左の通りである

 願の趣地積六百坪は共葬墓地とし、地積は五坪は共同火葬場として下附す
 但し地位の義は民有地第二種と心得べし
 明治廿一年二月十五日 北海道庁長官代理印

  右書中の別紙図面は発見せざるも、変換墓地とは常丹(トコタン)墓地の事ならん(八雲のふるつゞら・昭和三十五年二月・片桐寿編)
 当時この墓地は砂蘭部墓地と称され、常丹(現、熱田)と大新一円、さらに市街地の一部住民が使用していた。
 その後市街地もしだいに発展し、人口の地加によって墓地の需要が多くなったので、明治42年に300余坪(約990平方メートル)の遊楽部墓地を設置し、大正3年4月2日に許可(設置許可番号2442号)を受けて4155坪(約1万3712平方メートル)とした。この墓地は、市街地・ワシノス(現、立岩)一円と、ビンニラ(現、春日)・学林(同前)・鉛川・奥津内(現、浜松)などの一部住民が使用していた。しかし、敷地の約半分は遊楽部川の河川敷地のため丘陵のうえ湿地が多く、実際に使用できるのは2700坪(約8910平方メートル)程度で、約900戸くらいしか使用できない状態であった。
 昭和23年(1948)5月には、これまでの「墓地及埋葬取締規則」に代わって、「墓地、埋葬等に関する法律」が制定され、以後は保健所において許認可事務が行われることとなった。

大新墓地(写真1)


 戦後、復員者や海外引揚者などにより急激に人口が増えたので、墓地の霊要も増加することとなった。このため町は、昭和24年第七回臨時会の議決を経て遊楽部墓地二号として、既設墓地の隣接地に1677坪(約5534平方メートル)の拡張を申清し、25年7月22日(二五環第二四一七号)をもって許可を受け、現在に至っている。
 なおこの遊楽部墓地に、当町出身で恵庭市白樺町在住の山内一豊から、無縁仏の供養碑として萬霊塔(韓国産みかげ石観音像)一基が寄付され、昭和52年8月7日に開眼式を行った。その後、54年には墓地内道路の一部と火葬場構内の改良舗装を行い、併せて新設墓碑用地の造成など環境整備を行ったのである。
 山越地区は、享和元年(1801)に関所が設けられ安政3年(1856)には円融寺が建てられるなど、早くから海岸沿いに発展した。住民も数多く居住してにぎわいをみせ、明治12年(1879)には山越内戸長役場が設置されるなど、当町でも最も古くから繁栄していた地区である。
 明治13年3月1日に円融寺の周辺地(山越179、259番地)を、共同墓地として申請して許可(警衛第二二〇四六号)を受け、803坪(約2650平方メートル)の墓地を設定した。(それ以前は由追に設置されていたという) しかし、この土地のうち179番地の199坪(約657平方メートル)は、湿地のため使用することができず、259番地はその地続きが高台となって傾斜しており、住民からは他に適地を求めるよう要望されていた。さらに明治36年(1903)10月鉄道が敷設されたことにより、この中心部を貫通することとなるなど、悪条件が重なったため、大正3年に大川正雄所有の畑五反歩(山越422番地)の寄付を受け、第二回村会において設置を議決した。そして新たに申請し、同年12月9日に許可(第七八六九号)を受け、旧墓地から改葬したのである。
 旧墓地は昭和34年9月に議会の議決を経て廃止し、現在は422番地が共同墓地として使用されている。
 また円融寺の墓地に、幕末の書家石井潭香の生母の幕がある。潭香の父善蔵は文化のころ、山越内の関所に勤務していたが、文化8年(1811)に潭香の母が死亡し阿弥陀堂の幕に埋葬したものを、後年村人が現在地に移したものである。
 野田生地区には、野田追川を挟んで両岸に徳川家所有の土地が多かったので、明治24年(1891)徳川家開墾地では移住者を幕集して小作経営を行った。このため人口も次第に増加したが、当時きまった墓地がなかったため、山越内地区の円融寺周辺墓地を利用していた。
 こうしたことから、明治38年の第五回村会において、野田生地区に共同墓地900坪(約2970平方メートル)を新設することについて議決された。
そして42年3月、野田追川河口の海岸沿いに1414坪(約4666平方メートル)の墓地設置の許可を受け、野田生・沼尻・柏木・大木平・赤笹・ガンビ岱地区一円を使用区域とする村営墓地が設置され、さらに大正6年(1917)には、村会の議決を経て隣接する未開地400坪(約1320平方メートル)の付与を受け、火葬場を設置した。しかしこの墓地と火葬場敷地は、長い年月の間に河川や海岸の浸食によって、次第に決壊する状態になった。このため、昭和12年(1937)6月に火葬場を墓地南側に移転し、11坪5合(約38平方メートル)の火葬場を建てて整備した。その後この火葬場は、自動車の普及という影響などもあって使用回数も次第に少なくなり、昭和45年3月限りをもって廃止された。

野田生墓地(写真1)


 また、昭和20年ごろから海岸の浸食が激しくなり、暴風雨のたび大波に削り取られ、埋葬した遺骨が流出するという状況になった。このため、昭和40年に野田生の龍穏寺四世住職菅原先禅が、希望者を募って同寺境内の一部に共同納骨堂(仏光殿)を建て、150基の墓を移して安置した。
 墓地がこのように浸食されてきたため、関係地域の住民から整備についての要望が高まりつつあったのであるが、たまたま昭和47年に八雲町総合開発基本計画が策定され、翌48年には野田生地区への工場進出に関連して、墓地の移転が検討されることとなった。
 町は関係者と協議を重ね、49年9月に移転候補地を野田生市街地から約1・5キロメートル山側に入ったガンビ岱(野田生六区)入口に定め、さらに関係者によって「野田生墓地移転期成会」(会長・小林明義)を組織し、早期実現を図ることとした。町は新墓地の候補地として選定した野田生733、734番地の5236平方メートルを、11月に所有者林敦司と売買仮契約を行った。そして12月の議会で議決を得たうえ、50年6月10日に墓地改葬公告など一連の事務手続を行い、7月工事に着乎して石碑39基と土葬63体の移設を8月5日に完了、7日新墓地において移設法要を執行した。また、無縁仏は龍穏寺に保管を委託して現在に至っている。
 以上のほかに、栄浜・上八雲・黒岩などの各地区に共同墓地があり、これらはいずれも古く、明治の末から大正にかけて設置されたものであるが、史料に乏しく詳細については不明である。いずれもこの時代に開拓のため入植した人々が、その後故人となった人の墓地としてふさわしい丘陵とか山峡を選んで設置したものと思われる。
 現在、町墓地条例に定められているものは次のとおりである。

町墓地条例指定墓地

名   称

位       置

設置許可年月日

許可番号

面積(平方M)

八 雲 墓 地

八雲町豊河町5、9、10、11番地

大正 3年 4月 2日
昭和21年 2月22日

   第2442号
25環第2417号

19,245.6

大 新 墓 地

同   大新79、80番地

明治21年 2月15日
無償下附

 

 2,062.5

黒 岩 墓 地

同   黒岩293、288番地

 

 

 1,059.3

春 日 墓 地

同   春日504番地

 

 

 1,980.0

花 浦 墓 地

同   花浦155番地

 

 

 6,986.1

野 田 生 墓 地

同   野田生733番地

明治42年 3月 1日

   第2269号

 4,666.2

山 越 墓 地

同   山越421、422番地

大正 3年12月 9日

   第7866号

 3,960.0

富 咲 墓 地

同   富咲246番地

明治42年10月13日

   第8744号

 1,290.3

桜 野 墓 地

同   桜野256、297番地

明治43年 7月25日

   第6138号

 1,570.8

上八雲第一墓地

同   上八雲496、487番地

明治42年 3月20日

   第2759号

 5,309.7

上八雲第二墓地

同   上八雲692、693番地

大正 8年 8月22日

   第7167号

99,000.0

鉛 川 墓 地

同   鉛川524、525番地

大正10年 6月18日

   第7890号

 2,280.3

落 部 墓 地

同   入沢357番地

明治45年 2月16日

   第1441号

 2,970.0

栄 浜 墓 地

同   栄浜166番地

明治 7年 1月25日

    第474号

 1,598.3

東 野 墓 地

同   東野197番地

明治 8年 8月 9日

   第6846号

 3,803.0

 これらの墓地のうち使用料を徴しているのは、八雲・大新・落部・野田生の四共同墓地で、このほかは無料となっている。なお、墓地の名称は字名改正によって、八雲地区は32年4月1日から、落部地区は45年4月1日からそれぞれ変更された。
 また、町条例にはないがこのほかに八雲鉱山墓地がある。八雲鉱山の歴史は古く、詳しくは鉱業編に記載したが、この墓地は鉛川地区の国有地内に現存している。しかし、いつの時代に設置されたものかは、その詳細について知る史料が残されていない。ただ、文久元年(1861)に雪崩で死亡したと伝えられる多数の墓碑があることと、鉱山開発のため古くから幾多の変遷があったことなどから、必然的に墓地が設置されたものと思われる。この墓地は、昭和35年4月に町が営林署から借り受け(鉛川国有林39林班ヤ小班4288平方メートル)、八雲鉱山墓地として設置したものである。その後、八雲鉱山の閉鎖にともない無人地区となったことから、昭和55年の契約更新時(5年ごとに更新)に一部を返還し、218・2平方メートル(八雲事業区182林班小班)を借り受けて維持管理を行っている。


 第2節 火葬場

火葬場
 わが国には、古くから土葬・火葬・水葬などの葬法があり、特に土葬は縄文時代に屈葬と伸展葬の二つの基本的な葬法が行われ、これらの名残りとして昭和56年に実施された栄浜遺跡の発掘調査にもその例がみられる。古墳時代以降この土葬は長く続き、死体処理に無理のない伸展葬が一般化したといわれる。

八雲鉱山の墓碑(写真1)


 これに対して、死者の遺体を焼き遺骨を蔵する火葬が、奈良時代以降仏教文化の影響を受けて貴族の間に広まり、これがやがて一般風習となって火葬法が行われるようになった。そして火葬場所とは別に墓が遺られ、木ひつ・石ひつあるいは蔵骨容器に納めて土中に埋葬したのである。
 やがて江戸時代に入ると、永久的な石造りの墓碑が出始め、広く上下の階層に普及して建てられるようになった。さらに再び儒教説に基づく土葬が行われるようになり、次第に一般化して、土葬と火葬が入り交じるようになって明治期を迎えたのであった。
 八雲町における火葬場は、現存する史料によると、上砂蘭部(春日)・ブイタウシナイ(花浦)・サックルペシベ(富咲)の共同墓地以外には、墓地敷地内の一部に火葬場が設置されて死体処理が行われていた。なかでも黒岩と遊楽部(八雲)火葬場が最も古く、明治13年(1880)に設置許可を受けて開始しているが、当時どのような方法で火葬が行われていたかは、詳しい史料がないので実態を知ることができない。
 昭和23年(1948)3月の調査によれば、八雲町内九か所、落部村内三か所の火葬場が設置されており、このうち火葬炉が整備されていたのは、遊楽部・黒岩・野田生・落部の四火葬場で、他はすべて野焼きであった。しかも火葬取扱人は遊楽部火葬場だけで、そのほかは願人が行うというものであった。
 遊楽部火葬場は大正15年(1926)に建築されたが、昭和13年(1938)火災により改築、その後は小破修理で維持されてきた。しかし建物も老朽化し、火葬炉の破損もひどくなってきたので、37年7月に全面的な改築の議決を受け、豊河町9番地に簡易耐火構造平屋建てでモルタル仕上げ、109・9平方メートル、重油型(薪炭併用)火葬炉2基、胎盤焼却炉1基を備えた火葬場を新築した。さらに、その周辺の環境整備を行い、11月に火入式を行った。
 また、53年12月には休憩室32平方メートルが増築され、さらに54年には火葬炉の一部改修と併せて、炉一基を近代的な灯油型に切り替え、現在管内唯一の火葬場として使用されている。
 使用料は次のとおりとなっている。

死亡者が10歳以上の場合

死亡者が10歳未満の場合

死産児の場合

      3,000円

      2,000円

1,500円


 野田生火葬場については先に述べたとおりであるが、落部地区においては施設が整備された火葬場はなく、長い間露天火葬場だったので、衛生上からもまた風紀上からも好ましくなかった。このため昭和10年ころ、「落部青年革新同志会」の有志関口幸太郎や岩間勝三らが、火葬炉の設置について村内一般に呼びかけ、葬儀の際の香典返しを廃止してその一部を寄付するという運動を起こした。これが基盤となって、昭和12年3月の議会で建設の議決をしたのである。
 こうして12年10月字粟ノ木岱(現、入沢)の落部共同墓地内に、火葬炉を備えた火葬場の建設に着手し12月に完成した。工事費1200円のうち、建設寄付金は600円であった。
 昭和32年4月に八雲町と合併し、その後車両の普及とともに、葬儀店でも霊柩(きゅう)車などを備えるようになると、完備された八雲火葬場を使用するようになったため、50年10月1日をもって落部火葬場を廃止した。
 また、さきに述べた八雲鉱山墓地にかかわる火葬場があったが、これは昭和23年「墓地・埋葬等に関する法律」が制定さわ、翌24年、当時盛況を極めていた中外鉱業株式会社八雲鉱業所から、八雲鉱山火葬場設置についての申請がなされ、10月5日「二四環第九〇二号」をもって許可となり、炉を整備した火葬場が新設された。
しかし昭和44年鉱山閉鎖にともない自然的に廃止されるに至った。

使用されている火葬場

名   称

所  在  地

設置許可年月日

許 可 番 号

建 物 面 積

八雲火葬場

八雲町豊浦町5番地

昭和37年 8月13日

37環第6351号

109・886平方メートル


廃止された火葬場

名   称

所  在  地

設置許可年月日

許 可 番 号

廃止許可年月日

八雲火葬場

八雲町豊河町11番地

明治13年12月 1日

警衛第6138号

昭和37年 8月13日

大新火葬場

 〃  字大新79番地

明治21年 2月15日

  不  詳

昭和39年 5月 9日

山越火葬場

 〃  山越421番地

大正 3年12月 9日

  第7869号

   同  右

桜野火葬場

 〃  桜野297番地

明治43年 7月25日

  第6138号

   同  右

上八雲第一火葬場

 〃  上八雲497番地

明治42年 3月26日

  第2795号

   同  右

上八雲第二火葬場

 〃  上八雲692番坦

大正 8年 8月22日

  第7167号

   同  右

鉛川火葬場

 〃  鉛川525番地

大正10年 6月18日

  第7890号

   同  右

茂無部火葬場

 〃  茂無部上山4番地

大正 7年 1月25日

  第474号

   同  右

野田追火葬場

 〃  赤禿野5番地の2

大正 8年 8月 9日

  第6846号

   同  右

黒岩火葬場

 〃  黒岩293番地

明治13年 3月 1日

  不  詳

昭和45年 4月 1日

野田生火葬場

 〃  野田生71番地

昭和12年 6月 4日

 丑第1323号

昭和45年 4月 1日

落部火葬場

 〃  入沢357番地

昭和13年 5月 6日

  第8486号

昭和50年10月 1日



4章 し尿処理とごみ処理


  第1節 山越郡衛生処理組合

し尿処理施設
 昭和42年(1967)1月当町と長万部町は、それぞれの議会において、一部事務組合である「山越郡衛生処理組合」の設立を議決した。これは、かつて農家の肥料として還元されていたし尿も、時代が進んで化学肥料が多く用いられるようになり、各世帯でもその捨て場に困るという切実な問題となっていたので、両町の協議により、共同でこれを衛生的に処理する施設を運営しようというものであった。
 この計画を進めるにあたっては、事務的な検討はもちろんであるが、沿岸漁業に与える影響についても綿密な調査検討がなされた。組合を組織して事業が具体的に進められるなかで、組合議員・漁民代表・保健所関係者などによって、伊達・室蘭・登別・千歳・長沼の五市町の実態を調査し、相互の理解に努めたのである。

山越郡衛生処理場(写真1)


 施設は、両町の町界から1300メートルほど長万部寄りの豊津地区に敷地を求め、加温消化方式・一日当たり36トンのし尿を処理する能力をもつもので、42年8月着工、総事業費9205万円余を投入して翌43年2月に完成し、4月から本格的に業務を開始した。なお、工事半ばに沿岸漁民から建設反対の声が上がったので、鋭意話し合いを進め、42年12月に八雲・長万部両漁協との間に「公害防止協定」を締結のうえ、工事を進めるという経緯もあった。
 この汲み取り収集にあたっては、当初から民間業者への委託方式が採用されており、昭和51年度における当町からの搬入量は548・92トンで、運営経費の負担金は2185万余円となっている。
 このように昭和43年業務を開始したし尿処理施設も、年々収集量も増加し処理量の状況から住民の要求に対応できない状態となり、54年予備貯溜槽の新設と焼却・脱臭の前処理施設の改善をはかり、さらに56年には取水および給水管設備の新設工事を施行して、増大するし尿の処理に万全を期している。
 また、組合の運営にあたっては「山越郡衛生処理組合規約」を制定し、事務所を長万部町役場内に置き、両町の長および議会において互選されたものによって運営され、定数は各5名と定められ、長万部町長を管理者に、八雲町長を議長に充てることが慣例となっている。


 第2節 ごみ焼却場

ごみ焼却施設
 町と町民が協力しあって環境衛生の向上を図り、健康で明るい町づくりを進めるため、町は昭和38年(1963)7月に「八雲町清掃条例」を制定し、八雲市街地だけに限定したものであったが、それまで各家庭で処理していたごみを、9月からは町、が収集車を巡回させてこれを処理する事業を開始した。しかしこの処理方法は、町内の適当な場所を選んで投げ捨てるか埋め立てするという、原始的なものであった。したがって、埋め立て方式そのものが非衛生的であるばかりでなく、周辺地の市街化か進んで、埋め立て場所の付近にまで家屋が建てられるようになり、これ以上継続することは好ましくない状況となった。このため、いよいよ「じん芥(かい)焼却処理」を迫られることになったのである。
 町はこの対策について検討した結果、昭和42年度中において建設する方針を決めた。そして八雲市街地に比較的近く、処理上便利と考えられた熱田地区内の民有地を買収し、塩原工務店による設計・施工・監理方式によって、バッチ燃焼式ごみ焼却炉(処理能力=八時間当たり10トン)「じん芥焼却場」の建設に着手して12月に完成、試運転
期間を経て翌43年5月から処理業務を開始したのである。
 この事業は、当初町の直営方式で実施したが、さらに能率的な運営を図るため、同年10月から民間に委託することとし、希望者の見積り合わせによって久次米正雄と契約した。この方式の採用により、落部衛生協会がこの業者と特に契約して、ごみ処理を開始したのもこのころであった。

焼却炉の増設
 昭和46年(1971)5月に就任した北口町長は、ごみの収集区域を栄浜から黒岩までの国道5号線沿いの集落に拡大することを決め、処理能力八トンの焼却炉を増設し、9月20日から業務を開始した。そのうえ、収集事業開始以来有料であったごみ処理手数料を、一般家庭に限り無料としたのである。
 その後、収集区域は上八雲・上の湯の一部までに拡大され、収集車三台が常にフル回転をし、環境衛生の向上に貢献している。しかし、早くも処理能力を超えるほどごみの量が多くなり、焼却施設の改善を迫られる段階を迎えたのである。

旧じんかい焼却場(写真1)


焼却施設の移設
 昭和43年(1968)5月から業務を開始した熱田地区のごみ焼却施設は、50年代に入って間もなくその老朽化と処理能力の点で、本格的な改善が必要になってきた。
 また、施設の改善と同時に検討の対象となったのが周辺の環境であるが、この施設を設けた当時は周辺に適当な沢地もあり、灰の埋め立て地として長期間利用できるものと期待されたのである。しかし、時代が進むにつれて各家庭から出されるごみの性質に変化がみられたうえ、いわゆる産業廃棄物に準ずる大量でしかも巨大なごみが、ほとんどこの施設周辺の沢地に集中して投げられるようになったため、沢地の埋め立ても予定より早く進行していた。そのうえ国道5号線から一目で見える場所にあり、風致上からも好ましくなく、他の適当な地に移設すべきであるという意見も出されるなど、客観的な情勢変化も加わる状況であった。
 こうして、ごみ焼却施設の改善が町政の課題として取り上げられつつあったおりから、51年当町に航空自衛隊第二十高射隊が配備されたことにより、町は八雲分とん基地周辺ごみ処理施設設置事業として、いわゆる防衛施設周辺整備補助を得てこれを解決することを計画し、関係当局と折衝を進めると同時に具体的な設置場所の検討に入り、適地を山崎地区に求めたのである。
 もちろんこの種の施設を新設する場合、どの地域にあっても容易に受け入れられるはずもなく、山崎地区においても住民の強い反対があって難航したのであるが、町長をはじめ関係者の度重なる話し合いによって、53年に同地区への新設受け入れの了解が得られたのであった。

じんかい焼却場(写真1)


 こうして施設の設置場所に予定した山崎219番地のほかに、道路用地や埋め立て用地など合わせて3万7643平方メートル余の買収交渉を進める一方、実施設計委託・施設基礎調査・水源調査(井戸掘り・ボーリング)・用地確定測量・工事測量など一連の作業が進められ、54年10月6日には起工式が行われたのである。
 この施設は、鉄骨造り一部2階建て約521平方メートルの建物に、一日当たり12・5トンの処理能力をもつ機械化バッチ燃焼式焼却炉2基を設置し、その能力をこれまでより四割ほどアップするほか、集じん装置などの公害防止機械を備えて大気汚染や悪臭対策も解消されることとなった。また、粗大ごみや不燃物の破砕処理施設も併設し、近代的な総合処理施設が完成したのであるが、焼却炉は56年1月7日に火入式、破砕施設は57年1月11日に入魂式を行って、それぞれ操業を開始したのである。この総事業費は7億178万6000円を要した。



第5章 と場

 第1節 町立八雲と場

と場の経営
 畜産の振興と畜肉の衛生的な処理をはかると場設置を望む声が、明治末期になると急速に高まりつつあった。大正元年(1912)8月の改元記念事業として、村有地(学林=現、春日)の小作人有志が、769円余を投じて遊楽部107番地(現、豊河町)にと場と付属建物合わせて三棟40坪余(約132平方メートル)か10月に新築し、私設と場として事業を開始した。
 翌2年6月には長谷川三次郎ほか47名からこの施設が村に寄付されたので、以後は当時における唯一の村営事業として運営されることになり、地域の畜産振興とともに順調に推移し、その生肉は函館や小樽方面に出荷され、市場に声価を高めるようになった。昭和11年(1936)10月には、経営開始以来20数年を経過して老朽化したことと、さらに機能の充実を図るため、工費5042円をもって85・75坪(約283平方メートル)と倍の面積に改築し、当時としては近隣に誇り得るものに改善した。
 しかし、時代の進展につれて肉畜の生産が増え、これにともなってと場の利用も増加したが、この施設もまた老朽化したうえ処理能力も低くなり、利用者の希望を満たすことができなくなったため、昭和40年(1965)に町が新たに建設した「道南畜肉センター」に事業を移し、発展的に消滅したのであった。

旧町立八雲と場(写真1)




第6章 水道事業

 第1節 上水道

上水道事業の経営
 町民の約半数が生活する八雲市街地における飲用水は、長い間井戸水に頼ってきたのであるが、なかには水質が悪くて飲用不適とされるものもあり、また、市街地区の密集度が進むにつれて、水量不足や水質汚濁を招く例が多くなるなど、良質で豊富な飲用水を求める住民の声がだんだん高まりをみせてきた。
 町ではこうした住民の要望に対応し、昭和37年(1962)から関係住民の意向調査を始めるとともに、資金需要とその財源確保について検討を道めた。そしてついに実施の方針を決め、翌38年には水源のボーリングや掘削調査を行って、9月に日本水道コンサルタントに対して認可申請に必要な工事設計を委託し、設置に向けて本格的に動き出したのであった。さらに11月24日、砂蘭部川における流水占用と工作物の設置許可、12月27日水道事業経営認可など所要の手続きを経て、翌39年度から41年度までの三か年継続で工事を行い、42年度から給水開始を目標とすることが議決された。

布設工事の進行
 布設工事は昭和39年(1964)8月1日に着工されたが、以後は一貫して北炭建設株大会社の請け負いによって順調に進められ、41年11月30日に当初の予定どおり主要施設設備が完成した。
 施設の概要としては、(1)給水区域は八雲市街地とし、(2)給水人口は1万2000人を予定、(3)最大給水量は3000立方メートル規模とし、(4)工事内容は、砂蘭部川上流約8キロメートルの地点で集水埋渠により取水し、導水管(5300メートル)によって大新地内の丘陸地に設ける浄水場に導水後、着水井で計量と塩素滅菌を行い、配水池からこれに続く配水管を経て自然流下により各所に配水するとともに、消防水利を確保するため消火栓64基を付設するというものであった。
 この工事費は、直接請負工事費のほかに、設計委託料や関連諸経費を含めると、総額1億3600万円余となり、当時の八雲町にとってはまさしく画期的な大事業であった。
 なお、これと並行する給水装置工事は、41年度は鉄道から西側の地区に重点をおいて約700戸を終え、東側の地区は翌年融雪後に着工して8月に予定の工事を完了した。
 この配水管布設工事の終了をまって41年10月下句からテスト通水を始め、各家庭の台所まで待望の給水が行われるようになり、翌42年1月1日を期して正式に事業を開始した。
 その後、昭和51年(1976)当町に航空自衛隊第二〇高射隊が配備されることとなり、隊の駐屯とその家族などによって使用水量が大幅に増えることになった。このため、54年に「八雲分とん基地周辺水道設置助成事業」として拡張工事を実施し、給水区域を緑町と栄町の一部に広げ、給水人口を1万3000人に増加、一日最大給水量を4500立方メートルに増加した。水源は地下水(深井戸径350ミリメートル、深度100メートル)の利用を計画し、大新地区浄水場付近にボーリング(日水量1500立方メートル)、導水管(鋳鉄管200ミリメートル、延長343・2メートル)沈砂池着水井配水池(P・C造、容量900立方メートル)配水管(鋳鉄管300ミリメートル、延長1671・5メートル、200ミリメートル、1365・5メートル)を自然流下により市街地の既設管と接続し、56年10月31日に完成した。 なお、この工事費は総額2億1660万円余で、このうち補前額は1億2870万円余であった。

八雲町浄水場(写真1)


企業会計の適用
 布設工事が本格化した昭和39年度から、特別会計を設定して経理の明確化を図るとともに、41年(1966)4月には水道課を設置して、円滑な施設整備と給水開始に備えた。その後、地方公営企業法の改正により強制適用を受けることになり、42年度から企業会計予算をもって経理されるようになった。
 開設当初は家庭用ポンプによる井戸水の利用などがあって、必ずしも普及率が良いとはいえなかったが、新設家屋や各種施設への新規導入などにより、次第に普及しはじめ、それにつれて配水管の延長や消火栓の増設があって事業規模が拡大され、いまや町民生活にとって不可欠のものとして定着している。


 第2節 簡易水道

 (1) 落部簡易水道

水資源の不足
 落部市街地区は古くから水不足が目立ち、そのうえ、どうにか確保できた水の質も必ずしも良いものとはいえなかった。落部村ではこうしたことに対処するため、簡易なものでぱあるが昭和4年(1929)字堤の沢に水源を求め、工費1万9000円(うち道費抽前4500円)をもって水道を布設し、区域内住民の約六割に対して、不十分とはいえ飲用水を供給してきたのであるが、時が移り森林の伐採や付近の開発によって、水源の不足がみられるようになった。また、設置以来20数年を経たうえ、当時の施設がすべて木管であったせいもあり、老朽化、が進んで故障が相次ぎ、降雨のたびの汚濁や時には異物の混入をもみるようになり、村民の間には本格的な水道の完備を望む声が高まりつつあった。
 時あたかも八雲・落部両町村の合併問題が大きな事案となり、昭和31年(1956)の夏以来しばしば協議がもたれるなかで、この水道設置問題が落部村民にとって緊急を要するものであることが明らかにされ、合併による新町建設計画の中でも最優先の事業として「落部市街地に簡易水道を布設する」と明示されたのである。

布設工事の実施
 昭和32年(1957)1月1日を期して発足した新生八雲町において、早速事業実施の検討に着手し、5月下旬北海道水道協会に工事設計を委託するとともに、同月招集された合併後初の議会に建設のための予算が提案され、二か年継続事業をもって実現する方針が確認された。
 こうして所要の準備が進められたあと、第一期工事として取水井・ポンプ場・配水池などを施行し、さらに翌33年度には第二期工事として導水管・送水管・配水管など木管布設工事と、これに付随する必要な工事を完了した。また、これと並行して給水装置工事も順調に進み、10月末までに通水検査・排泥作業などを終わり、全工事を完了して11月1日に給水を開始したのである。
 これにより地域住民に待望の良質で豊富な飲用水が供給され、水不足から解放されることになったが、この事業の実施にあだっては、32年6月に伊藤淳一を会長とする水道建設期成会を組織し、常に同会が先頭に立って関係者との交

落部簡易水道水源地の補修工事(写真1)


渉に努めた。また、湧水井の使用自粛による専用給水栓の普及や、これに要する資金の積み立て調達、配水管埋設予定地の解決など、全面的な支援を続けた。この事業の早期完成と円滑な経営開始は、期成会の協力に負うところが大きかったのである。

開設時の規模
 各戸給水工事費を含めて総経費2490万円余を投じて完成した落部簡易水道は、落部と入沢の一部を給水区域とし、計画給水人口3200人(最大5000人)、一日325立方メートルを予定して規模を定めた。そして下の湯地内落部川左岸で伏流水を取り入れる取水井を設け、導水管(3275メートル)によって入沢地内のポンプ場(着水井)に運び、塩素滅菌のうえ送水管(328メートル)を通じて高台地に設ける配水池にポンプ揚水し、以下、配水管によって各所に配水する仕組みである。これにより266の各戸の専用給水栓と八基の共用給水栓(75世帯対象)を通じて各戸に給水するとともに、併せて消火栓11基を付設し消防水利にも供用されるというのが、開設時の規模であった。

改良・拡張工事
 昭和55年、落部川に川向橋が架けられ、落部市街地と川向地区とが最短距離で連結されたことから、同地区に簡易水道を布設することになり、併せて32年に開設した落部簡易水道の改良工事も施行することとなった。このため、水道法の規定により55年1月に、給水区域・給水量・拡張工事・排水池増設・排水管延長・機械器具改良などの変更申請を行い、同年4月に認可となり7月21日に着工した。
 工事は三井・吉川共同企業体によって進められ、1日平均給水量543立方メートル、一人一日給水量218リットル、1日最大給水量740立方メートル、一人一日最大給水量296リットルとし、川向地区にかかわる配水管延長2023メートル(100ミリ口径772メートル、75ミリ口径471メートル、50ミリ口径780メートル)と単口消火栓2基が、川向橋添加方式で行われ、11月17日に完成した。工事費は、改良・拡張を合わせて6247万9000円であった。
 なお、57年末現在の落部簡易水道の規模は、給水人口2092人、戸数637戸、消火栓17基、配水管延長6740メートルとなった。

 (2) 栄浜簡易水道

布設計画の推移
 戸数80戸余、約400人(昭和46年当時)が居住する栄浜地区は、海岸近くに切り立ったがけが迫り、これを中心として高台地と海岸低地に二分されて一帯に水利が悪く、沢水やわき水などによって取水し、辛うじて飲用水を確保するというものが多いという状況であった。
 また、高台地の草地改良やそのほかの開発が進むにつれて、水量不足に拍車を掛けたばかりでなく、飲用不適という指摘を受けることが多くなり、水道布設を望む住民の声が次第に高まったのである。
 このため、昭和46年(1971)3月に「栄浜水道建設期成会」を組織し、早速町長に陳情書を提出して早期実現を要請するに及んで、水道布設の機運はにわかに高まりをみせた。
 町ではこうした動きに対応して実現について検討を加え、当初この地域の状況からみて、森町の石倉地区を含めた一部事務組合方式による広域経営を考慮し、森町理事者と協議を進めたが、石倉地区の状況がさほど切実ではなく、町としての計画もないということもあって、栄浜地区単独設置の方針を決めるといういきさつがあった。
 また、取水方式では茂無部川上流からの導水、あるいは落部簡易水道の分水などを含めて検討し、47年(1972)8月栄浜169番地内で地下水調査のためのボーリング(100メートル)をしたところ、これに必要な水量が確保できることを確認して水源に決定した。
 その後、道衛生部などと協議を重ね、9月開会の定例会において簡易水道布設とその経営に関する議決を経た。そして所要の準備を進めて47年11月正式に経営認可を申請し、翌年3月31日に知事の認可指令(衛施第四二号)を受け、48年に工事を施行することが確定したのである。

エ事の進行
 こうして進められた「八雲町栄浜簡易水道」は、給水人ロ400人規模で、深井戸から地下水を水中ポンプで揚げ、塩素滅菌のうえ送水管(308メートル)をもって高台地に設ける配水池に送り、以下配水管を通じて各戸に給水するとともに、75ミリ口径の消火栓5基を設けるというものであった。
 工事は折あしく石油ショックによる資材の高騰と品不足という時勢を反映して、入札の結果も落札とならず、ようやく株式会社栗本鉄工所(札幌市)と工費1550万円をもって随意契約にこぎつけるという厳しい情勢であった。このため、予定工期より若干の遅れを出したが、49年1月に一部施行不能な部分を跡請として一応完成し、直ちに試験給水のうえ各戸に給水されるようになり、4月1日から正式に営業開始となったのである。 なおこの簡易水道は、準備手続きに要した費用などを含め、総額1860万円余を投じたのであった。

 (3) 野田生簡易水道

布設機運の高まり
 落部簡易水道・八雲町上水道・栄浜簡易水道などの設置に次いで、その布設が要請されるようになったのは、野田生市街地区をはじめ国道5号線沿いに広がる東野・山越・浜松などの各地区であった。
 こうした各地区は海岸線に沿っており、飲用に適する良質な地下水に恵まれないところで、野田生市街地区や東野浜地区では、早くから掘り抜き井戸による周辺住民の共同利用組合方式がとられてきたのであるが、必ずしも十分な水量が得られないという状況であった。また、山越(1、2区)地区でも方々で住民が共同し、付近のわき水や沢水、川水などを適宜浄化して飲用水の確保に努めてきたところが多かった。したがって、これらの地区内では合わせて12の共同利用組合があったのである。
 しかし施設が古くなるにつれて、水源が枯れてくるものや異臭を帯びてくるもの、また降雨出水によって濁るものなどいろいろで、環境衛生向上の面からも簡易水道の布設を望む機運が、急速に高まりをみせたのであった。

施設の布設工事
 町ではこうした実情に対処して早期に適切な施策を講じ、良質で豊富な飲用水を提供して生活文化の向上に資するとともに、防火用水利の確保と地域内産業の振興を図るため、これらの地区に簡易水道を設置する計画を立てたのである。そして昭和51年(1976)8月、施設の設置に関する概要調査に着手し、翌年7月には経営認可申請に必要な書類の作製を委託するとともに、水源のテストボーリングを委託するなど、概要設計の作成について準備を進めた。
 これにより53年3月に議会の議決を経たうえ、給水人ロ1700人、一日最大給水量517立方メートルの「野田生簡易水道事業」の経営方針を決定した。そして同年4月3日工事監理を含む実施設計を委託するとともに、申請の結果同年5月4日に衛施第三九号をもって水道事業経営が認可となり、いよいよ本格的に施行されることとなった。
 工事は53年度から二か年継続で施行することとし、5月26日栗本・岡島共同企業体と契約のうえ、54年9月末の完成を予定して事業を進めた。しかし、工事の半ばにおいてとられた政府の景気浮揚策によって、町もまたこれに対応して単年度実施に切り替え、完成予定を53年11月30日として契約を変更したのであるが、時期的な関係もあって、布設工事のすべてが完了したのは54年3月1日であった。

施設概要と給水の開始
 施設は野田生674番地の4に取水施設(深井戸口径250ミリメートル、深さ100メートル)と浄水施設を設け、ここから野田生511番地の4に設けた配水池(146・4立方メートル2基)に送り、1万9868メートルに及ぶ配水管を通じて区域内の各戸に配水するものである。なおこの間の要所には、地上式単口75ミリ15基、双ロ100ミリ6基の消火栓を設け、消防水利としての活用にも十分配慮した。
 総経費2億5659万余円を投じたこの工事の完成は、54年3月1日に持ち越されたが、工事の進行が早かった野田生市街地区では、これと並行して給水装置工事も進められ、54年1月から試験給水を開始し、2月1日から144戸451人を対象に業務を始めたのである。
 なお、配水管布設工事は3月1日をもって完成したので、予定の全域について積極的に各戸給氷袋置工事が進められ、6月中旬をもって工事を終了し、待望の良質で豊富な飲用水が各戸に送られることになった。

 (4) 黒岩簡易水道

地区の概要
 黒岩地区は八雲市街地から北に約15キロメートル離れた国道5号線沿いにあり、古くから開けた地域で、明治の末から昭和の初めまで漁業が繁栄し、太平洋戦争終了後も、海藻や貝類の養殖漁業に従事するものが多く、また戦後砂鉄事業が海岸一帯で行われ、国道沿線には約200戸、700人余りが居住している。しかし、生活に必要な水は良質なものに恵まれず、大部分の家庭では鉄分の多い井戸水を利用し、なかには近くを流れる沢水を利用するという状態が続いていた。
 こうしたことから、落部・栄浜・野田生地区の簡易水道布設を実施してきた町は、水利に恵まれないこの地区の簡易水道布設について計画し、昭和55年(1980)地域住民を対象に設置についての事前調査を行った結果、住民の72パーセントが賛成の意向であった。
 これにより北口町長は、昭和56年度の施政方針のなかで、新規事業として黒岩簡易水道の新設を表明し、3月の第一回定例会に実施に必要な条例や予算を提案のうえ、議会の議決を得たのである。

布設工事の実施
 工事は昭和56年6月16日に衛施第六七号をもって知事の経営認可となり、給水人口700人、最大組水量90立方メートルの規模の「里岩簡易水道事業」は、栗本・岡島・田中共同企業体が1億2250万円をもって請け負うこととなった。
 7月13日現地において地鎮祭を行って工事が開始された。取水池を黒岩219番地に選定、浅井戸(深さ6メートル)の取水施設を設け、758メートルの導水管により黒岩598番地の4に設置された配水池に送水し、ここから配水管によって区域内の各戸に配水するというものである。工事は順調に進められて12月に完成し、直ちに試験給水を行い、翌57年1月1日から各戸給水(実給水人口634人)を開始した。また、主要個所9か所に消火栓を設置し、消防水利としてもその強化を図った。


第7章 国民健康保険

 第1節 国民健康保険事業

国民健康保険組合
 住民の共同の力をもって医療費の心配をなくし、健康の保持増進と生活の安定を図ることを目的として、昭和13年(1938)4月に国民健康保険法が制定された。八雲町においてもこの法律に基づく組合の設立について調査研究を進め、発起人8名によって18年11月に設立の認可申請をしたところ、同年12月30日付で認可となり、いよいよ「八雲町国民健康保険組合」として発足することになったのである。
 しかし、翌19年3月25日には強制組合に指定されたため、これに件う諸般の準備が整えられ、組合事業として保険給付を開始したのは5月1日のことであった。この事業の開始時には、組合員が1561人、披保険者数は8959人を数えていた。
 組合の事業は療養の給付と助産費の支給、それに保健婦による結核予防・寄生虫予防・伝染病予防の注射、また、薬剤の配布・健康および養護相談などであった。この当時、療養の給付は五割、助産費は一件5円(20年度から10円)であり、保険料は町民税の等級によって20級に分けられていた。
 5月に組合会議員の選挙を行い、無投票で24名を決定し、6月第一回の組合会議を開催して請規程を定め、10名の理事を選任した。そのあと、理事長に宇部町長、常任理事に田仲助役を互選して組合機構も整い、以後は業務も順調に運営された。
 しかし、20年8月太平洋戦争の終結後は、国内経済の混乱や物価高騰の影響を受けて医療費の単価が大幅に引き上げられ、組合設立当時の5倍から7倍という状況になり、円滑な運営を維持することは困難となった。そのため21年8月に組合会議を開き、その対策について審議した結果、大幅な保険料の増額は困難であり、しかもこのまま事業を継続するならば赤字はますます増え、ついにはこれを収拾できなくなるという結論に達したので、同月限りをもって事業を休止したのであった。
 こうして事業休止組合となり、宇部理事長が21年11月に病気のため辞職したあと、長谷川鎰が後任理事長に就任し、組合の再建を図ったのであるが実現するには至らなかった。

現行国民健康保険事業の開始
 昭和33年(1958)12月に「国民健康保険法」が公布されたが、これによれば国民健康保険事業は市町村が行うものとされ、36年4月1日までに実施しなければならないというものであった。そのため当町では、35年度の事業開始を予定して早速基礎調査に着手し、諸準備を進めて体制を整え、35年11月には「八雲町国民健康保険条例」と「同税条例」を判定して、12月1日から事業を開始したのである。当初の対象者は2718世帯、1万3794人であった。
 なお法律の定めにより、この事業の運営に関する重要事項を審議するため設置が義務付けられている運営協議会には、(1)披保険者を代表する委員3人、(2)保険医または保険薬剤師を代表する委員3人、(3)公益を代表する委員3人、計9人の委員を委嘱して円滑な運営を期している。

療養の給付等の推移
 保険事業の最も大きな給付は、疾病や負傷に関する「療養の給付」である。開始当初は被保険者のすべてについて5割給付であったが、38年(1963)4月から世帯主に対して7割給付とし、さらに40年1月から全員を7割給付とした。なお町では、療養者の負担軽減を図るため、国による50年(1975)10月からの制度化に先駆けて、49年7月から療養に要した費用が著しく高額であるときに支給する高額療養費の制度を設け、当初一か月3万円を超える分について支給することとしたが、51年8月の基準改正によって3万9000円に増額されて現在に至っている。
 被保険者が出産したときに支給する「助産費」は、当初1000円であったが、時代に即応しながら随時改善され、49年4月から2万円、50年10月から4万円、さらに52年10月から6万円、56年4月から8万円と増額されている。
 また、被保険者が死亡したときに支給する「葬祭費」は、当初1500円であったものが、随時改善されながら現行(53年4月から)では1万円となっている。

保健活動
 町は昭和35年(1960)4月民生課内に「国民保険係」(41年4月に国民健康保険係と改める)を新設し`国民健康保険事業の実施に対処したが、事業開始とともに直接被保険者の健康の保持増進のために活動する保健婦を常置し、寄生虫予防・伝染病予防・成人病対策・母子健康相談など、幅広い活動を開始した。
 また、46年(1971)9月には、地域の婦人129名を委嘱して「八雲町保健推進委員会」を組織し、保健衛生思想の普及と住民の健康保持増進のための活動を続けている。この推進員の任期は2年で、地域の保健活動に関する問題点を把握して保健婦と連絡をとりながら、母子・成人病などの相談や検診を奨励して協力するというものである。
 45年には「保健施設活動推進モデル地区」の指定町村となり、成人病対策に重点をおき、町ぐるみの総合検診・巡回健康教育・保健衛生カレンダーの配布・全町1日健康の日の設定・健康友の会の設定など、活発な活動を行っている。


第8章 保健機関

 第1節 八雲保健所

保健所の新設
 昭和17年(1942)の末ごろ、道庁内政部長から保健所に充当できる既設建物の調査について内示があり、しばしば町と折衝がもたれた結果、一応昭和18年度において当町に保健所の設置が内定したのであるが、厚生省における予算関係で実現不可能となり、予定した建物は日本医療団の八雲奨健寮に充当することとなった。
 しかし、戦時下における兵力と生産力の源となる国民衛生の向上、とりわけ結核の予防や乳幼児死亡率の低減と、栄養改善などを中心とした保健指導体制の強化が重要課題として取り上げられ、19年には各種の保健指導施設の統合や新設によって、保健所網の整備が図られることになった。そのころ既に道内には、厚生省所管の「健康保険相談所」、逓信省所管の「簡易保険健康相談所」、それに「道立健康相談所」などが分立していたのであるが、これらを統合して保健所法による「保健所」に一元化し、機能の充実を期すこととしたものである。
 道庁ではこうした方針に対応して、既設保健所九か所、統合によるもの一六か所のほか、新設五か所の計30の保健所を設置する計画を立てたが、「八雲保健所」もこの新設五か所の中に盛り込まれたものであった。

庁舎の整備
 庁舎に充当する建物の整備は、道庁との折衝によって町がこれを施行し、道が既設建物として町から買収するという形式がとられることになった。そこで町は、旧八雲町農会の事務所であった建物を5000円で譲り受け、これに所要の建物を付設することとし、20年(1945)4月松原組の請け負いで工事に着手した。
 しかしこのころは太平洋戦争の末期で、本土決戦という局面を迎えて資材は欠乏し、やかを得ず工事は一時中止となり、さらに終戦直後も各種の事情に妨げられて延期を重ね、翌21年4月になってようやく全庁舎が完成したのであった。
 庁舎は木造二階建て111・5坪(約368平方メートル)で、町の農会事務所買収費5000円のほかに建築費5万999円を要したが、これを道に5万円で譲渡し、そのうえこの庁舎建築費充用のため1万5000円を町が負担して寄付するという約束がなされていたので、結局町費の持ち出しは約2万1000円となった。
 こうして庁舎は21年4月に完成したが、これに先立ってこの年初めに着任していた天草初代所長により開所準備が進められ、いよいよ業務が開始されたのである。担当区域は、当初渡島支庁管内ハか町村(尾札部・臼尻・鹿部・砂原・森・落部・八雲・長万部)と檜山支庁管内四か町村(利別・東瀬棚・太櫓・瀬棚)の一二か町村であったが、22年10月今金保健所の設置により檜山支庁管内の4か町村を分離し、さらに翌23年4月には森保健所の設置により、尾札部・臼尻・鹿部・砂原・森を分離、八雲・長万部・落部の三か町村となった。

庁舎の移転新築
 昭和25年(1950)には保健指導体制の充実を図るため、現位置(末広町120番地)に場所を移し、新庁舎の建築工事に着手した。この庁舎は木造2階建て、延ベ166坪余(約548平方メートル)で、完或は翌26年3月であった。
 なお28年6月には庁舎前庭に、東京都の木下繁(昭和48年度芸術院賞受賞)の手による幼児のブロンズ像をあしらった「健康の鐘」が30万円の制作費で建立され、光彩を添えたのであった。

現庁舎の建築
 昭和26年(1951)に新築された庁舎は、20年余りの歳月を経て内部施設とともに老朽化し、また、保健業務も進歩したうえ複雑になり、十分な機能を発揮することができない状態になった。このため45年(1970)の運営協議会総会において「保健所改築」を決議し、道に対して強力な陳情を開始した。しかし道では、33年度から保健所改築計画を立て、これによって毎年計画的に進めているため、直ちにこの計画に乗ることは困難であった。
 こうしたことから運営協議会では、さらに「八雲保健所庁舎改築期成会」を組織し、道と道議会に対して早急な改築を要請しつづけた結果、48年度において江別保健所とともに改築されることとなったのである。
 改築工事は48年6月の着工予定であったが、折からの総需要抑制策の強化と、オイルショックの影響を受けて資材が異状な高騰を示したので、当初の設計を変更しなければならなくなり、9月になってようやく着工された。こうして翌49年3月、旧庁舎跡に鉄筋コソクリート2階建て、223・2坪(約737平方メートル)、総工費7841万円余をもって完成し、内部には、母子・歯科・栄養・結核・衛生教育の相談室や細菌・化学検査室などが整備され、関係地域住民の保健指導に十分その機能を発揮している。

八雲保健所(写真1)



第9章 衛生活動

 第1節 衛生活動の民間組織

民間団体
 環境を美化し、清潔な町づくりを行う衛生活動は、古くは火防衛生組合、火防衛生婦人会、衛生組合などの形で各地域に結成され、それぞれ衛生活動を実施していたが、戦後昭和22年(1947)解散によってその姿を消した。
 しかし戦後の混乱期には、発しんチフスや赤痢などの流行が激しく、これらの事態に対応する必要から、再び衛生関係者の組織化が図られるようになった。
 昭和27年富良野町において、第一回北海道衛生奉仕団大会が開催されたのが契機となって、全道的な組織へと具体化しはじめ、やがて各地の衛生団体の全道的な連合体として、北海道衛生団体連合会に発展した。そして発足当時は「蚊とハエのいない北海道建設」をスローガンに、各地区の環境衛生の向上に努力が重ねられた。
 こうした運動に応じ、昭和35年に野田生婦人会が中心となって、野田生地区の環境浄化に積極的な活動を展開した。この活動効果が著しいことから、全道的に紹介されたり、北海道公衆衛生大会で知事表彰を、43年には野田生中央町内会が「環境衛生改善優良地区」として厚生大臣から全国表彰を受けるなど、数々の受賞に輝いたのである。

衛生協会の設立
 前述のように住民による環境衛生活動は、古くから実施されていたが、昭和33年(1958)4月八雲地区において地区委員97名が参集のうえ、衛生協会設立総会を開催し、5月1日に「八雲衛生協会」を発足させ、規約・事業計画・役員などを定め、初代会長に天羽儀三二を選出した。そして国をはじめ道や町の行う衛生事業と各家庭と連携し、一つの協力団体としての推進母体となり、衛生思想の高揚と普及に努めることを目的として、清潔な町づくりのため活動を続けている。
 また落部地区では、衛生組合の解放後間もなく八雲地区にさきがけて昭和23年落部衛生協会(会長・櫛桁三五郎)が設立され、ごみ処理問題、側溝の清掃、春秋2回の清掃完全実施など環境美化に努めた。
 さらに八雲鉱山地区においても、八雲鉱山衛生協力会(会長・小林所長)を設立し、道の提唱する蚊とハエのいない運動に参加、八雲地区環境衛生モデル地区に選定され、会社を中心に積極的な活動を行った結果、渡島共励会賞、函館労働基準監督署表彰、鉱業所本社から衛生顕彰を受けるなど数々の事績を上げた。
 昭和57年現在の八雲衛生協会長は原田 清、落部衛生協会員は棟方 茂が務め、それぞれ活動を続けている。

食品衛生協会
 昭和22年(1947)に食品衛生法が判定公布され、食品衛生に対する関心も高まり、24年6月には八雲地方食品協会(八雲町、長万部町、会長・小川四郎)が設立された。 協会は、八雲保健所管内において衛生条例により営業するものを会員とし、関係機関と密接な連絡協調を図り、飲食に起因する伝染病や食中毒そのほかの危害発生を防止し、食品の品質、公衆衛生思想の普及、施設の改善などを主な事業として実施することとした。 その後、32年の町村合併によって落部地区の関係者を含み、管轄区域を八雲・長万部の両町とし、八雲・長万部・落部に部会をおいた。45年に「八雲食品衛生協会」と改称し、食生活の改善と地域公衆衛生業務を推進し、食品衛生の向上発展に努めてレる。
 昭和54年現在の会員数は516名、施設数は986を数え、会長は服部内匠である。