第10編 文化

 第1章 文化

  第1節 八雲の木彫りぐま

奨励の端緒
 徳川農場主徳川義親は、くま狩りの殿様と呼ばれるほど狩りを好み、しばしば山間辺地に出掛けたので、農民の貧しい生活に直接触れる機会も多く、常に農民生活の向上に深い関心を寄せていた。
 たまたま義親が、大正10年(1921)から11年にかけて、第一次欧州大戦後のヨーロッパに旅行し、ドイツ、フランス、スイスなどの農民生活を視察した際、スイスでくまをモデルにした木彫りの民芸品が売られているのを見付け、これを八雲農民の副業に奨励してその生活向上に役立たせようと考え、見本となる木彫りぐまを買い求めて帰国した。またこのほかにも、盆・フォーク・ペーパーナイフなど、参考になる多くの民芸品も買ってきたのである。
 そして翌12年に八雲を訪れた義親は、これらの見本を農民に示し、出来上がった製品はすべて買い上げることとして、制作を試みるよう奨励したのであった。

木彫りぐま第1号
 大正13年(1924)3月に徳川農場では、奨励している副業的な工芸品の制作普及と技術の向上を図るため、第1回農村美術工芸品評会を八雲小学校で開催した。この品評会には、竹細工・刺しゅう品・木細工・粘土細工・わら細工・木彫品・その他多くの作品が出品されたが、その中にスイスの木彫りぐまをモデルに制作した大新の伊藤政雄の作品が出品されたのである。これが北海道における木彫りぐまの記念すべき第一号となり、当町が誇りうるその発祥地となったのである。
 この作品を見た義親は、八雲でもくまの彫刻が可能であることを確信し、伊藤政雄と十倉兼行(東京、号・寒山)を講師に、徳川農場内で随時講習合を行い、さらに積極的に木彫りぐまの制作を奨励したのであった。

木彫りぐまの普及
 昭和3年(1928)1月に八雲農民美術研究会が結成され、次第に副業として定着していった。
 この農民美術研究会は、自らの生活向上のため、農業者で美術工芸品を制作する者を主な会員とし、このほか特別な技術を有する者も入会できるものとしていたが、実際には後者の会員がかなり多かった。
 作品は、農閑期に自宅で作ることができ、さらに郷土色をもった土産品となる室内装飾品や実用品という方針で、制作対象品目を定めていた。こうして多くの工芸品を制作したが、その中でも木彫りぐまやこれを装飾用にあしらった工芸品が最も好評を博し、売れ行きも良かったので、自然に木彫りぐまの制作が中心となり、技術はますます向上していった。
 八雲の木彫りぐまが、その後各地で行われた展覧会などに出品して入選するようになると、次第に声価を博して海外にまで紹介され、販路も拡張されていったのである。

農民美術研究会によるくま彫り(写真1)


木彫熊北海道発祥の地記念碑(写真2)


 制作数量も次第に増加して、昭和6年(1931)には3891個、7年には5347個を生産した。またこのころになると、木彫りぐまの制作販売を専業にする者も現れ、生産に拍車がかけられてきた。
 昭和11年10月の北海道特別大演習の際、中里伊三郎制作の木彫りぐまが、バター飴・ばれいしょ・マンガン鉱などとともに台覧の光栄に浴した。また、13年5月に賀陽宮恒憲王妃殿下が八雲駅通過に際し、ご覧に供した9個の木彫りぐま全部をお買い上げになるなど、郷土の特産品としての地歩を築き続けたのである。
 しかし太平洋戦争がたけなわとなったころには、こうした美術工芸品はぜいたく品とされ、木彫りぐまの需要は極度に滅って生業として維持することは困難となり、ほとんどが転業するとともに、八雲農民美術研究会もいつとはなしに消滅したのであった。
 この中にあって、茂木多喜治(号・北雪、昭和51年12月没)と柴崎重行(号・志化雪)の2人は、その苦境にも負けずによく伝統を守り、それぞれ独自の作風をもって制作を続けたのであった。
 現在当町では、茂木多喜治・柴崎重行の影響を受けた引間二郎・加藤貞夫が専業としている。
 また町教育委員会では、発祥地としての伝統を残すため、昭和46年から木彫り講座を開設して普及に努めている。
 さらに53年10月には八雲町100年を期して、「木彫熊北海道発祥の地」と刻した記念碑を徳川公園内に建立した。


 第2節 文化財

文化財
 先人から継承してきた文化遺産は、郷土の歴史や文化を正しく理解すると同時に、将来における新たな文化の創造に欠くことのでぎない貴重なものであることは言うまでもないことである。

 こうした重要性が認識され、昭和43年(1968)11月に町議会民生文教常任委員会委員を主体に、教育委員、社公教育委員らによって、町内史跡などの実態調査をし、保護の必要性を強調する報告を行った。
 この報告に基づき検討を進めた結果、翌44年3月「八雲町文化財保護条例」を判定し、同年5月に文化財調査委員を委嘱のうえ具体的な調査を開始、9月に第一回の文化財を指定したのであった。なおこの条例では、国と道の指定を受けた文化財以外の文化財で、町内にあるもののうち重要なものを、(1)有形文化財、(2)無形文化財、(3)民族文化財、(4)記念物、の4種に区分し、保存や活用に関する必要な措置を定めたものである。
 文化財調査委員および現在指定されている文化財は次のとおりである。

・文化財調査委員
 都築 重雄 昭44・5・1〜46・11・30
 小泉 武夫 〃 〜現在
 相木鉄三郎 〃 〜 〃
 大島日出生 〃 〜 〃
 長谷川洋二 昭46・4・1〜 〃
 佐伯 篤光 〃 〜 〃

・八雲町指定文化財
1 有形文化財
 新刻日本輿地路程全図 一幅

 この地図は、安永2年(1773)に長久保赤水によって作られたわが国最初の日本全図をもとに、安永4年に同人によって作られた新刻版である。
 大正15年(1926)に山越内小学校の古雑書類の中から発見されたもので、同校は開校当初、旧山越内関所の会所の一部を校舎に充てたことなどを考えれば、この地図は同関所で使用したものと推定される。なお、昭和9年(1934)4月に同校理事者が協議して校宝に指定した。
 昭和44年(1969)9月18日に文化財として指定し、郷土資料館に寄託されている。

 重訂萬国全図 一幅
 明治4年(1871)に大学南校(東京大学の前身)から改訂出版されたもので、山越内学校の開校当時に指導用として使用されたものである。この地図も山越内小学校の校宝に指定されている。
 昭和44年9月18日に文化財として指定し、郷土資料館に寄託されている。

 壺 二個
 熱田の遺跡から出土したつぼ形土器(土師器)で、奈良時代(710〜784)のものと推定され、当時和人がこの地に居住していたことを証明する貴重なものである。昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

 八雲村創業餘談 二幅
 明治11年(1878)に入植した徳川家開墾地の開拓状況を知ることのできる貴重なものである。角田弟彦の胆振日紀を参考にして、十倉寒山が絵と文を執筆し、大正13年(1924)に服部正定が編集したものである。昭和44年9月18日に指定し、八雲産業株式会社に保管されている。

 スイス製木彫這い熊 一個
 大正11年(1922)に徳川義親がヨーロッパを旅行した際にスイスで購入したもので、農民に冬期間の副業を奨励するためにモデルとして使用されたといわれ、これによって木彫りぐまが普及されていった。
 昭和44年9月18日に指定し、八雲産業株式会社が保管していたが、同年11月に公民館に寄託され、現在は郷土資料館に保存されている。

 北海道木彫熊第一号 一個
 スイス製木彫這い熊をモデルに、伊藤政雄が大正13年に最初に制作したもので、これが北海道における木彫りぐま第一号である。
 昭和44年9月18日に指定し、八雲産業株式会社が保管していたが、同年11月に公民館に寄託され、現在は郷土資料館に保存されている。

 刀 一振
 関兼常の作といわれ、浅山八郎兵衛が大野藩主土井能登守に願い出て山越内に移住した際、代々浅山家に家宝として伝えられていたものを持参したものであり、数少ない古刀として貴重なものである。
 昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館に寄託されている。

浅山家の家宝 関兼常作の刀(写真1)


 石鏃 六個
 富咲の伊藤千代吉所有の畑から採集されたもので、数少ない旧石器時代のものとして学術上貴重な資料である。
 昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

2 民族文化財
 ヨーク 一個
 明治15年(1882)に組織された鷲の巣耕舎で使用されたものである。当時の馬は体形が小さく力がなかったので、耕作には牛を使ったが、この牛の間隔をとるために用いたものである。
 昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

 家庭用澱粉製造器 一個
 明治末期から大正初期にかけて使用されたもので、当時の食生活を物語る貴重な資料である。昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

 いも切り 一個
 明治末期から大正初期にかけて使用されたもので、水田のない当地方では、ばれいしょを細かく刻んで白米と混ぜて炊き、米を節約したという。当時の食生活を物語るものである。
 昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

 鯨の骨 一頭分
 明治30年代にユーラップアイヌの長が舟で乗り出して捕ってきたものである。当時は沖まで出て捕獲する技術を持っているアイヌは少なかった。捕獲した後は鯨祭りをしたものであるという。
 昭和44年9月18日に指定し、郷土資料館で保存している。

3 記念物(史跡)
 山越内関所跡
 昭和28年(1953)に山越内青年団によって碑が建てられた。このほかに関所や会所当時に植えられたオンコと赤松があり、また夜泣き石もある。
 国道5号線沿いの山越小学校横にあり、昭和45年3月19日に指定した。

 御所の松と碑
 明治33年(1900)に落部アイヌの長辨開凧次郎が、皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を祝い、子ぐま2頭を献上した記念に拝領した「御所の松」のなかの1本である。昭和11年(1936)に辨開宅から落部八幡宮の境内に移植され、2個の自然石にその由緒を刻み後世に伝えている。
 昭和45年3月15日に指定し、その後47年3月には北海道自然保護条例によって記念保護樹木に指定されている。

 徳川農場事務所跡
 昭和18年(1943)に八雲飛行場建設のため陸軍に接収されたが、終戦後は厚生省の所管となった旧徳川公園の中に、この農場の由来を記した陸軍建立による碑がある。
 昭和45年3月19日に指定した。

鯨祭り(写真1)


御所の松と碑(写真2)


御所の松の由来(写真3)


 竹内農場事務所跡
 浜松の国道5号線沿いにあり、明治39年(1906)に竹内幸輔が開いた竹内農場事務所跡で、黒松が茂り風致景観上からも保存の価値が高い。
 昭和45年3月19日に指定した。

 以上が八雲町文化財保護条例による指定文化財であるが、このほかに条例によらない文化財の主なものは、有形文化財として、 八雲サイロ第一号(立岩)・山越内教育所使用教科書(46点)・箱館御役所蔵書(11点)
 民族資料として、
 丸木舟(2点)
 記念物(史跡)として、
 函館戦争陣地跡(入沢)・八雲焼窯跡(大新)・鈴木農場記念碑(春日)・松浦武四郎と稲荷神社(山越)・木彫熊発祥地と碑(宮園町)・鉱山墓地(鉛川)・角田弟彦の碑(宮園町)・八雲開墾記念碑(住初町)・開拓者上陸第一歩の地(内浦町)などがある。


 第3節 郷土資料館

郷土資料館
 先人が残した文化遺産は、歴史や文化の正しい理解のため欠くことのできないものであり、将来における文化の向上発展の基礎として、これを適切に保存しなければならないものである。
 こうした観点から町では、昭和27年(1952)9月に旧公民館の別館に資料室を設けた。しかしこの建物は古いうえ狭かったので、保存や管理の面からこれまで収集した資料を保管するにとどめ、新しい資料を積極的に収集するには至らなかった。

郷土資料館(写真1)


常設展示場資料状況(昭和54年10月)

区  分

テ  ー  マ

資料数

備   考

八雲の歴史と風土

動 物 と 樹 木

40

林業センター入ロ

自 然 と 風 土

11

 

大 昔 の 八 雲

82

 

八雲の先住民族

46

 

山越内の繁栄

21

 

開拓の人と生活

ユーラップの開拓

51

 

開拓者の生活

140

 

消防のあゆみ

20

 

学校教育のあゆみ

28

 

郷土の文化遺産

61

八雲焼 木彫熊

八雲の産業

農業のあゆみ

23

 

酪農のあゆみ

71

養蚕舎

林業のあゆみ

26

 

漁業のあゆみ

98

 

鉱業のあゆみ

46

 

工業のあゆみ

217

 

商業のあゆみ

69

 

その他

廊 下 展 示

 

野 外 展 示

 

1,059

 

(収蔵資料数 6,314点)


 昭和40年(1965)に公民館が新築され、耐火構造の資料室39.68平方メートルと、展示の場となる郷土室121.53平方メートルが設けられたが、これより先の39年10月に、資料収集のため公民館郷土室協力員40名を委嘱し、資料の調査を進めていたので町民の関心も高まり、進んで寄託もしくは寄贈する者が多く、十分に満足できる状態でこの郷土室を開館することができたのである。
 その後も町民の協力によって資料収集が常時行われたので、増加の一途をたどり、そのうえ大型の資料も収集されるようになった。このため、町有の住宅の空室や車庫の一部を利用して保管しなければならなくなった。しかしこれらの保管場所とする建物は、古い木造のものが多く、適切な管理とはいえなかったので、関係者からは資料館と収蔵庫の建設の必要性が強く叫ばれるようになった。

郷土資料館の状況(写真1)


 こうしたことから、教育委員会を中心に検討が進められ、昭和51年(1976)にはこれらの計画が具体化し、翌52年度に工費5739万余円をもって建築に着手、11月これを完成した。そして資料展示の準備を進め、53年5月に開町百年を記念して「八雲町郷土資料館」が開館したのであった。
 建物は、鉄骨造り2階建て延べ776・93平方メートルで、1階を収蔵庫、2階を展示場とし、公民館と林業研修センターを渡り廊下でつなぎ、一体化した管理のもとにおかれた。
 なおこの建物は、簡易生命保険積立金還元融資と工場再配置促進費補助を受けて建設したものである。
 資料館には既に6000点を超える資料が収蔵されているが、常設展示品はおよそ1000点(別表)程度であるため、できる限り計画的に特別展を開催して広く町民に公開し、文化遺産に接する機会を多くするよう努めている。


 第4節 文化団体

文化団体連合会
 昭和23年(1948)に国民の祝日として文化の日が定められたが、これと前後するころから、文化に関する多くの分野で、それぞれ愛好・同好の人たちによってサークルが作られ、これらを公民館が側面から援助して次第に活発な活動が行われるようになった。そして文化祭や町の各種記念行事における展示会などで積極的な協力が続けられたのである。
 こうして活動を続ける各種団体の連合体をつくり、計画的な文化活動を行うことの必要性を痛感した関係者は、昭和30年9月に「八雲町文化団体連合会」(文団連)を組織し、初代会長に西亦治信を選出して発足した。
 それ以後は文化祭における展示会や芸能発表会などの、企画調整の中心団体として活躍し、八雲町文化の向上に尽くした功績はきわめて大きいものがある。

団  体  名

設立年月

会員数

は ま な す 画 会

昭29・11

15

八 雲 書 道 会

昭35・12

37

八 雲 書 友 会

昭36・ 4

15

ユーラップ・フォートクラブ

昭39・ 2

10

八  雲  俳  句  会

昭21・ 4

30

八  雲  短  歌  会

昭23・11

12

八雲手芸趣味の会

昭43・ 5

25

菊   友   会

昭35・ 4

20

八  雲  郵  趣  会

昭35・ 5

10

茶   道   連   盟

昭40・10

60

華   道   連   盟

昭50・ 8

八  雲  銀  鈴  会

昭41・ 8

42

八雲音楽鑑賞協会

昭40・ 9

820

ともしびコーラス

昭31・ 7

20

八  雲  民  謡  会

昭37・10

21

江差追分八雲支部

昭42・ 4

25

江差追分落部支部

昭51・ 1

27

八雲沖揚音頭保存会

昭49・ 1

25

八  雲  三  曲  会

昭47・ 5

30

八 雲 邪 頭 保 育 園

昭48・ 4

19

リコーダー同好会

昭48・ 5

12

八雲舞踊サークル

昭53・11

12

日 本 舞 踊 研 究 会

昭45・ 3

12


 55年現在この文団連に加盟している単位団体は上記のとおりである。
 なお、文団連の歴代会長は、西亦治信・本多 正・後藤久蔵・横山忠雄・徳田又雄・永洞洋三である。


 第5節 電化

ランプから電灯ヘ
 八雲市街地に電灯がつき、ランプとカンテラの生活に別れを告げたのは、大正4年(1915)5月7日のことである。すなわち、大橋正太郎らが発起人となり、会社組織による電気事業経営の準備を進め、専務取締役に矢野柔一を選び、資本金1万5000円をもって大正4年4月に「八雲電気株式会社」を設立した。そして砂蘭部川の遊楽部川落ち口に、小規模な水力発電所を設置して送電を開始したのである。当初の発電施設は、25馬力、4次式水車で出力18K・V・A、供給電力1404キロワットという小規模なものであったが、これまでのランプのほや磨きから解放され、明るい生活ができるようになった喜びは大きかった。
 大正6年にはこの電気事業を村営に移して、より一層の拡充を図ろうということが提議され、会社側と交渉のうえ3万4000円で買収することとして村会に議案が提出されたが、価格不相当を理由に否決された経緯がある。
 その後電灯数が増加するにつれて供給量が不足となり、電灯も暗くなってきたので、会社は大正9年に4万円を投じて、砂蘭部川上流に発電所を建設して需要にこたえた。こうして発電量が増え、電灯も明るさを取り戻したので、春の花見時には出雲町通りの桜を電灯で飾り、仮装行列などを催してにぎわいをみせたのであった。
 しかし、その後の会社経営は不振に陥り、再び町営移管の案も出されたが実現されず、結局は大正11年11月をもって函館水電株大会社に合併したのであった。

電気料金値下げ騒動
 八雲地方の電気事業は、こうして函館水電株式会社の経営下に入ったのであるが、当時の電気料金は函館市に比べて郡部の方が割高という状況であった。このため、利用者のなかからは自然に不満の声が高まり、昭和2年(1927)には各地で値下げ運動が起こった。渡島町村長会でもこの問題を取り上げ交渉委員をもって会社側と折衝を重ねたが、「郡部における経営には、特殊の事業の存するあり莫大の欠損を見つつあり俄に要求に応じ得ず。」として期待される回答は得られなかったのである。

八雲電気株式会社の株券(写真1)


八雲電気(株)発電所(写真2)


 したがって情勢はそのまま推移したのであるが、昭和8年(1933)3月28日「八雲町電燈電力料値下げ期成同盟会」が組織されるに至って、運動は一気に高まりをみせた。これに対応した町会でも翌29日に函館水電に対し、電灯料3割5分、動力料3割の軽減を求める建議案が、当日の出席議員全員の提案によって審議され、即日議決された。
これにより、議長(内田町長)からその趣旨を述べる意見書を作成して、会社側に対し審議を要請したが何も回答が得られなかった。
 このため同盟会では、同年5月からついに料金不払いをもってこれに対抗したが、会社側もまた強硬で、断線を強行しようとする動きに出たので、同盟会ではランプ1000個を購入して結束を固め、徹底抗戦の構えをみせる状況であった。ついに会社側では9月に料金不払い者に対する断線を行ったが、同盟側ではこれに同情して消灯するものもあり、会社側との対立はますます深刻化し、暗黒となった市街地では、自警団を組織して治安維持に努めたのである。
 こうして長期化する紛争に解決の見通しも得られないまま、暗いランプ生活で年末を迎えようとする人びとの間には、次第に焦りの色が濃くなり、ひそかに点灯するものが出るなど足並みが乱れ、同盟内部での感情的な対立も随所でみられるようになってきた。
 こうしたときの12月23日、国民待望の皇太子殿下誕生により、これを祝って会社が3日間の無料点灯を行ったのをきっかけに、さしもの電気争議も一挙に解決の方向に向かい、翌9年1月には次のような協約を結ぶことによって、停戦ということになったのである。

 停戦協約
 八雲町対水電会社ノ争議ハ左ノ条件ニ依リ停戦ス
 一 会社ハ消燈セル者ニ対シ無条件ニテ接線点燈スルコト
 二 停戦期間中ハ現行ノ料金ヲ支払ウコト但シ料金ハ各町ニ於テ此ヲ取纏メ毎月末迄ニ会社ニ支払ヒ会社ハ之ニ対シ相当ノ手数料ヲ支払ウコト
 三 「サービス」ノ改善等ニ付テハ相当ノ考慮ヲ為スコト
 四 延納金ハ水電会社対当事者間ニ於テ協定スルコト
 その後この函館水電は帝国電力株式会社を経て、昭和26年(1951)から北海道電力株式会社の経営に移り現在に至っている。
 また農村地帯にあっては、終戦直後の農村電化を皮切りに着々と拡充され、現在では無電灯地帯がゼロとなったばかりでなく、広く動力用三相電気が導入されて、地域産業の振興に欠くことのできないものとなっている。

落部村営電気事業
 大正4年5月から八雲村で、翌5年5月から森村で、それぞれ電気供給事業が起こされ、関係地域では各戸に点灯されて明るく便利な生活に入ったが、こうした状況の下で落部村民の電気導入に対する願いは切実なものとなった。
 しかし、既設の電力会社としては、隣村の落部まで各戸に配線することは不可能であり、その実現は容易ではなかったのである。
 このため、大正11年(1922)3月に開催の落部村会において、村営で電気事業を実施することが議決され、函館市瀬川猪三の請け負いで配線工事が行われて、翌12年9月18日から落部・野田追・茂無部に点灯された。当初の計画では電力を八雲電気株式会社から購入する予定であったが、工事中途の11年11月に同社は函館水電株大会社に合併されたため、この会社から購入したのであった。
 その後函館水電は帝国電力株式会社に組織替えされたが、昭和10年(1935)に村との電力供給契約更新の際、会社から事業買収の申し入れがあったので、村会の議決を経て電気工作物の一切を3万円で売却することとし、次の条件を付けて11月1日に引き渡しを終わり、村営電気事業の幕を下ろしたのである。

 一 配電区域ハ村営当時ト同様タルベキコト
 ニ 配電料金ハ隣接町村ト同額トスルコト
 三 従業員ハソノ儘買主ニ於テ引受就職セシムルコト

 その後昭和13年(1938)八月には、入沢・黒禿・望路地区にも配電されるようになり、配電区域も逐次拡大されていったが、戦後の農村電化事業によって無電灯地域は解消されたのである。

帝国電力(株)八雲変電所(現、相生公園)(写真1)




 第6節 新聞

新聞
 遊楽部に移住した旧尾張藩士たちは、当時の知識階級に属し、学問の素養もあったことから、早くから朝野新聞や郵便報知新聞などが読まれ、函館新聞を購読するものもあった。
 明治維新以前におけるわが国のニュースの伝達といえば、江戸時代から「お触れ書き」と「かわら版」があり、高札(立札ともいう)に掲げられるお触れ書きは、奉行所が一般庶民に法令やおきて、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場やつじなどに立てて徹底するものであり、かわら版は、市民社会の事件や話題を伝える、民間の報道紙であった。
 明治9年(1876)4月に当時函館の有力者であった渡辺熊四郎ら16名が発起人となり、5000円を集めて新聞発行を目的とする「北溟社」を創立し、明治11年1月7日「函館新聞」第一号を発行した。初めは5日ごとにタブロイド判4ページの洋紙印刷で、一部一銭二厘、紙面は24字詰め26行3段組み、一面は官令欄として政府や開拓使などの告示とか布達を掲載し、二面以下にニュース・投書・経済記事・市況・広告を載せたものであった。これが北海道における新聞発行の初めであり、遊楽部に入植した移住者たちもこの函館新聞を購読するものが徐々に増えていった。
 当町で初めて地元新聞が発行されたのは、大正13年(1924)6月の「八雲新報」である。この新聞は、地元有志が匿名組合組織によって八雲新報社を創設し、社長に福島新平が就任のうえ、小型輪転機を備え付け5日刊で毎号2000部を発行した。
 次いで大正14年11月に小畑弥一郎が「北海時事新聞」を、昭和3年(1928)2月に門間金五郎が「八雲日日新聞」をそれぞれ発行したが、北海時事新聞は昭和5年ごろ廃刊になり、これに代わって半田嘉重の「八雲新聞」が発行された。これらの新聞はいずれも週刊か旬刊で、地方色豊かなものであった。

八雲新報(写真1)


 しかし昭和15年(1940)4月には、こうした既刊の3紙が、軍部の報道統制によって合同させられ、「八雲合同新聞」として続刊したが、翌16年10月には資材不足もあって廃刊のやむなきに至り、地元紙は一時途絶えたのである。
 戦後、資材が出回るようになった昭和21年(1946)3月、久下幸記によって「八雲新報」が復刊され、その後新聞名を一時「道南新報」としたが、再び「八雲新報」とするなどの変遷を経ながら、週刊紙として発行を続けた。
 さらに、31年6月には眞野万穣が、週刊の「道南民報」(800部)を発行した。
 しかし、地元新聞は執筆陣に人材を得難いのが常で、永続がむずかしく「八雲新報」は久下幸記の死亡により昭和42年(1967)に廃刊となり「道南民報」もこれと同じころ自然休刊となり、現在では固定した地元紙は全くない。
 一方、地方紙では「北海道新聞」が現在最も多く購読されており、中央紙では、読売・朝日・毎日の3大紙と日本経済新聞がこれに次いでいる。


第2章 旧字名と伝説・逸話

 第1節 旧学名の由来

ユーラップ
 町内の字名はその地域の特徴を現したものが多いが、ユーラップも当町最大の遊楽部川からとっている。この川は、昔は水量が今の10倍もあり、川を挟んでユーラップアイヌとサル(沙流)アイヌが対立していた時代があったという説から想像すると、運河のような遊楽部川の流れが浮んでくる。
 山越内場所のできる文化元年(1804)以前は、黒岩から山越にかけての海岸一帯の場所の名称として使われていたが、場所名が山越内場所と変わってからは、現在の内浦町一区から豊河町・東雲町の一部と東町・本町・元町・住初町にかけての名称として残った。
 安政3年(1856)の市川十郎著「蝦夷実地検考録」によると、
 「ユは湯なり、ラップは下る義なり。」
とあり、また、北海道アイヌの研究家ジョン・バチェラー博士著「アイヌ語事典」によっても、湯の流れる川と解説している。
 さらに、安政4年、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」にも『この源に温泉あり』と記されていることからみても、湯の流れる川といったものであろう。
 語源としては、イ・ウ・ラプ・ぺッというアイヌ語であるとする説がある。
 「イ」は意味を強める接頭詞、「ウ」はお互いに(が・の・に・を)ということで、共にの意味にもなる。「ラプ」は群をなして下りること。ここでは支流がたくさん集まって流れ下る意、「ぺッ」は川のこと。
したがって語源は「共に流れる川」で、支流が多い川の意である。
結埓府、有楽府、有楽部、遊楽部などとも書かれている。

サランベ
 これも川の名であり、サラ・ウン・ペッが語源であるという。
 「サラ」は尾で体の後についているので部分の最後という意をもった言葉。「ウン」はそこにある(いる、入る)、「ぺッ」は川。
 すなわち「尾にある川」と訳す。北海道蝦夷語地名解(永田方正著)で尾川と訳し、
 「此川ハ、ユーラップ川ノ支流ノ内ニテ一番川下ニアルヲ以テ此名アリ」としており、「東蝦夷日誌」には、
 「メム(右小川)過て(廿余丁)サラベ(左川巾七、八間)名義終りの義也。此川第一川下に有る故也。」(サラベはサラウンベッと言うところを、こう聞いたと思われる。)
とあり、また、ユーラップコタンの長といわれた椎久年蔵は、
 「サル・ウッペッサル・シ・ぺッ萱(かや)原のある川だ。」
と語っており「サラ」はすいている、空いている、地が表れているという意もあるので、サラウンベッは、すいている(所)にある川とも訳せる、ともいわれているが、どんな空地であったのかは不明である。
 公簿上では、砂蘭部・サランベ・砂蘭部野・サランベノ・サランヘなどと使われていた。

ペンケルペシュペ
 これも川の名であったが地名にもなった。(殖民地区画制度による区画線第五線目に当たるので五線ともいわれた)略してペンケルとも呼ばれ、これが山に登ってペンケ岳の名が生まれている。片蹴可辺(ペンケルベシべ)と書かれた所がある。
 ペンケ・ル・ペシュ・ペが語源で、
 「ペンケ」は川上の意、パンケの川下に対している。「ル」は道、「ペシュ」あるいは「ペシ」はそれに沿って下る意。「ペ」はもので、ここでは川を指している。「ルペシュペ」は地方によっては「ルベシュベ」あるいは「ルベシベ」ともいわれ、山を越えて向こう側まで行ける通路となる川の名とされる。
 これらの語源から「上にある方の山越え道のある川」という意味に訳すことができる。ちなみに、
 サックルペシュペ=夏に山越え道をする川
 パンケルペシュペ=下にある山越え道のある川
 マタルペシュペ =冬の山越え道のある川(鉛川のこと)
などの地名がある。
 「東蝦夷日誌」には、
 「ペンケルペシペ(左川巾五、六間)是上の山越と云義也。往古人家有りしと。水源高山有、字多く是を越るや見日川の源に出ると。」
と記されており、「北海道蝦夷語地名解」では、
 「ペンケルペシュペは上ノ路、北路ニ順テ下レバ爾志郡「ケネオチ」(見市)川ノ水源ニ出ヅト云フ。」
と解訳されている。

ポピポンナイ
 鉛川のペンケルペシュペ川が遊楽部川へ注ぐ個所から200メートルほど下流の小さい沢の名を、ポピポンナイと称していた。字名ではないが、明治10年(1877)の開墾地選定調査報告書である「開拓使庁管内胆振国山越内村字遊楽部実況概略」に、
 「海浜ヨリ二里程奥ルベシペ川ノ辺ニ工藤喜三郎ナル者一戸アリ……。」
とあるのは、この沢の付近であったと伝えられている。
 椎久年蔵の語るところによれば、
 「ポピポン・ナイでポピポ(という人の)沢という意味だという。「ポ」は子、「ピ」は小石・小球・種子などの意で、いずれも小さいものに関係ある言葉である。ポピポは人名だが、その意味は小さい口で、ちょびちょび飲み食いすることであるから、この人は口の小さい人であったろう。」
と言っている。
 「北海道蝦夷語地名解」では、
 「ホペポナイ、ホペポ川、「ホペポ」ト云フ老夷ノ居リシ処ナレバ名ヅクト「アイヌ」等云フ。」
 「東蝦夷日誌」には、
 「ホヘポナイ(右小川)名義、引込し所と云カ。」
と記している。

ビンニラ
 ビンニラといわれる所は、音名川の西方、遊楽部川の南岸一帯の地域であった。この地名の起源について、椎久年蔵は次のように語っている。
 「昔アイヌは音名川の少し西側、今の八木さんの牧草地辺りで畑を耕作していた。ところがこの畑へしかがやってきて作物を食い荒らすので、非常に困っていた。アイヌたちは一計を案じて、畑の周囲を高い木のさくで囲み、二、三か所だけは特別にさくを低くし、その内側に先を鋭く切りとがらせた木を逆さまに刺し並べて置いた。夜中になると畑の回りにたくさんのしかが集まってきて、元気のよい大きな雄しかは、さくの低い所を跳び越えて畑の中へ侵入、着地瞬時に植え込んであった木に腹を刺されて死んでしまった。多い時には一晩に数匹の戦果を上げることができた。畑の作物は安全、居ながらにしてしかの皮や肉が手に入り、まさに一石二鹿であった。このようなことがあって雄しか(ピンネ)死んだ(ライ)という言葉のピンネライが、そこの地名になってしまった。」

トベトマリ
 ド・ぺッ・オマ・イが語源で、二つの川がある所という意味である。これは川の真ん中に島ができ、川水が二つに分かれた状態になることで、大正の末に大水があり、流れが一つになったという。
 「ド」はツといわず、ツとトの中間のような発音で、ドと表し、二つという意。
 「ぺッ」は川、「オマ」はそこにある(居る、現れる、入る)「イ」は所の意。

シュルクトシナイ
 上八雲市街地入り口のところに、かつて「七曲がり」という坂があった。そこにある沢がシュルク・タ・ウシ・ナイという沢で、この沢が遊楽部川に流れ込む所がシュルクタウシハッタラといわれた。シュルクタウシナイが、大関山(上八雲)一帯の地名となるころには、いつしかシュルクトシナイと変わっていった。
 「シュルク」はとりかぶとの根、アイヌが毒矢に用いたブシを作る原料。「タ」は掘る、掘り取る、打つ、汲むなどの意。「ウシ」は動詞の後につけば、ある動作がそこでいつも繰り返して行われること。「ナイ」は沢の義。
 全体としては、とりかぶとの根をいつも掘り取る沢、という意味をもった沢の名であった。

メナシウンマッケナシ
 上八雲市街地はずれの遊楽部川にセイヨウベツ橋が架かっている。この橋を渡って右手に折れ、「十三曲がり」を経て夏路へ向かう道がある。また、橋を渡り水産ふ化場の方へ少し行った所に、昔松井某という家があり、その向かい側の辺りがメナシウンマッケナシといわれていたという。
 語源は、メナシ・ウン・マッ・ケナッで、
 「メナシ」は東ということ。ここでは根室国目梨郡をいうとされている。「ウン」はそこに居る。(ある・入る)「マッ」は女・妻のことで女性という意。「ケナッ」は川端の木原。まとめると東国の女の居た木原となる。
 この地名は次の伝説から生まれたものであるという。

メナシ・ウン・マッケナシの伝説
 セイヨウベツからサックルペシペに行く途中にある13曲がりのふもとの地名で、メナシ(根室国目梨郡の者)、ウン(そこに存在する)、マッケナシ(娘)、と呼んだ所があるが、これについては次のような伝説がある。
 ある年の冬、ユーラップコタンの若者がそろってサックルペシペやセイヨウベツの山々にくま狩りに出掛け、たくさんの獲物を背負って山から下り、シュルクトシナイの上陸地から舟に乗ろうとすると、この地では見慣れない一条の煙が立ち昇るのが見えた。若者たちは、「来た時にはあんな煙は見掛けなかったが、だれか居るのだろうか?」と疑問に思い、煙の昇っている所へ近づいてみた。すると、しか皮などを身に着けたメナシマツ(東の娘)が二人、仮小屋を造って住んで居たのである。若者たちがこの娘に事情を尋ねると、メナシアイヌの同士打ちがあった際、コタンの長はかれんな娘たちをこの難から逃すため、姉妹を小舟に乗せて沖に放したのであった。行方の定まらないこの舟は、波間に漂うこと幾十日、奇跡的にも親潮に乗り、ついに日本海側の瀬棚付近に漂着した。しかし、2人の娘はホッとする間もなく、人目を避けて食物を求めながら山また山を歩いているうちに、サックルペシペからセイヨウベツの辺りに出たのであった。
 これを聞いた若者たちは深く同情し、「今は家に届けなければならない獲物があるので、春になったら必ず迎えに来るから、それまでここで待っているように」と言い残して、自分たちの持っている食物を与えて帰ったのである。
 春になり、雪解けを待って彼女たちをコタンに迎え、モリ、オトシベのコタンの長と相談して二人を隣りのコタンヘ舟で送り、平和を取り戻したメナシのコタンに無事送り届けたのであった。
 また一説には、メナシ(東の方)から来た女神のいた所の意味であるともいわれている。

トワルベツ
 「東蝦夷日誌」に、 「トワルは温泉の事也。此源に温泉有故号(ナヅ)く。依て白崩石多く流有。」と記されているが、温泉があったことは確認されていない。遊楽部川の支流のうち一番大きな川で、上八雲市街地の北側にあり南向きに流れている。
 ドワル・ペッが語源で、「ドワル」はなまぬるくなる。(ある)、「ぺッ」は沢の義。
すなわち「なまぬるい沢」と訳されている。

セイヨウベツ
 上八雲の遊楽部川支流の名であり、現在さけ・ますふ化場のある一帯を呼んでいた。
 セィ・オ・ぺッが語源で、「セイ」は貝殻、「オ」は二つ以上のものがそこにある。(生じる)、「ペッ」は沢の義。
 すなわち「貝殻のだくさんある沢」という意味で、この貝殻は支流のポンセイヨウベツ川のがけにある瀬棚層の化石の貝殻を指している。
 「ポン」は小さい義。

ナンマッカ
 南海何と書く所が上八雲に、ナンマッカと書いた所が野田生のもと柏木原といった付近に、ヤンワッカと書いた所が上八雲にあった。語源は、ヤム・ワッカ・ナイで、それがナンマッカとなまったものである。
 「ヤム」は冷たくある(なる)こと。「ワッカ」は水。川水などに対して飲用になるきれいな水。「ナイ」は沢の義。
 つまり「冷たい飲める水」「冷水沢」という意味である。
 「東蝦夷目誌」に、
 「ヤムワッカナイ(右小川)冷水川との義。此辺より危急流にして屈曲たり。」とあり、「北海道蝦夷語地名解」には、
 「ヤムワクカナイ冷水川。」
と記されている。

キソンペタヌ
 キソンペタヌは、山の方へ真っすぐに向いた沢のことをいい、ピシュンペタヌといえば、浜の方へ向いた沢のことをいう。
 アイヌたちがくまを求めて山へ入るときの目標にしたものであるといわれている。アイヌには、山々を歩いてくまの穴を発見すると、付近の木に印を付けて、山の神にそのくまの穴が自分の所有であることを誓う習慣があったという。

ガロまたはガロー
 春日地区に「賀呂川」「賀呂」があり、桜野地区に「ガロー沢」「ガロー沢下」があり、栄浜にも「ガロ」と「ガローの上」があるが、いずれも本来は「ガロー」で、カル・オが語源である。
 「カル」は回る・巻く。川の水が大石に当たって巻いて流れる意か。「オ」は複数で、そこにある(生ずる)の意。
 したがって「カロ」は、大石があって水が巻く、ということのようで、「ガロ」と濁音でいうのは和人の発音であろう。

 註 道内各地にこの名の所があるが、いずれも大石のある所という点では共通している。アイヌ語でないという説もあるが、それは濁音だからということで否定しているので、「カロ」から変わったと考えれば、やはりアイヌ語であろう。

オトナ川
 オフアナ(乙名)の川といわれたもので、この名で呼ばれるようになったことについては、次のような話が伝えられている。
 「この川は昔からサケが多く上っていたが、ある年の秋、深いよどみにひとりの若者が死体となって沈んでいた。調べてみると、この若者はユーラップの川向かいのサル(沙流)のアイヌで、この川にサケを密漁にきて殺されたものであることが分かった。そこでユーラップコタンの長(乙名)は、アイヌ間の対立を避けるため、この川のサケ捕獲の権利を三か年だけサルアイヌに与え、その後は乙名の管理する川という裁きを下してこの事件を解決したということから乙名の川と呼ぶようになったといわれている。」ヲトナ川・音名川・音無川などとも書かれている。

学林
 八雲小学校の資産を確保するため、明治14年に音名川と砂蘭部川の間の土地払い下げを申請し、明治17年に43万3000余坪の許可を受けた。これにより同20年に学林保護申合規則を制定して管理することとした。それ以来この地を学林と称するようになった。
 なお、公簿上では学林という学名はない。

大新
 明治11年(1878)に旧尾張藩士15戸がユーラップに第一次入植者として移住し、現在の役場から高校周辺の住初町一帯に居住した。この地を「旧」とし、翌年の第二次14戸が入植した出雲町一帯を「中」、14年に第三次14戸が入植した三杉町一帯を「新」と呼んでいた。そして21年に第四次14戸が入植した奥砂蘭部一帯を、大いに新たなりとして「大新」と命名した。この当時は、大新も含めて旧・中・新の移住民だけで1つの部落を構成し、「徳川開墾地」と総称していた。(「大新90年史」)公簿上「大新」という学名になったのは昭和31年5月(字名改正)以降である。

ブイタウシナイ
 もともと川の名で、プイタウシナイ・プイタウシュナイ・フエトシナイ・ブイタヲシ・吹田牛・向田牛内川・ブイタウシ川・武井倒内など多様に書かれている。プィ・タ・ウシ・ナイが語源で、「プイ」は、えぞのりゅうきんか(流金花・流泉花・やちぶき)の根。「タ」は打つ、断つ、切る、据る、汲むなどの動作を表す。
 「ウシ」は動詞の後へついて、いつもそこで何かの動作が行われることを表す。「ナイ」は沢の義。すなわち「やちぶきの根をいつも掘る沢」という意で、椎久年蔵は、
 「昔アイヌは冬季間生野菜が食べられなかったので、春、雪が解けると一番先に青々と伸びてくるやちぶきの根を競って掘り取って食べた。食べるにはまず湯がかなければならないが、意地の悪い人が湯がくと苦味が取れない。そこでコタンの中から心の素直な人を頼んできて湯がいてもらった。余分に採れたものは乾燥しておいて冬になったら煮直し、油を入れて煮詰めるいわゆる油あめにして食べるとたいへんおいしかった。」と話していた。

常丹
現在の内浦町2区の辺りの名称が常丹といわれ、開拓が進むにしたがって横山に至るまでの広い地名となっていた。昭和31年の字名改正によって「熱田」となった。八雲では専ら常丹と書かれていたが、他の地方では常潭とか床丹などと書かれている。ト゚・コタンが語源で、
 「ト゚」はもとのとか、無くなったの意で、「コタン」は部落とか村とも訳すが、1軒でもあればやはりコタンといわれた。一般に廃村(前にコタンがあった跡の地の意)と訳せる。
 「北海道蝦夷語地名解」には、
 「ト゚コタン〓廃村、根室国西別ノ「ト゚コタン」及忍路郡ノ「ト゚コタン」ハ並ニ廃村ノ義ナレトモ厚岸ノ「トコタン」斜里郡ノ「トコタン」ハ沼村ノ義ナリ(To)ト(Tu)ト発音同ジカラズ義又異ナリ。」とある。
 また、内浦町2区には昔小さな沼があったという話もある。

オコツナイ
 川の状態に付けられた名が、オコツナイ川とポンオコツナイ川の2本の川となり、後に地名として用いられるようになった。奥津内・興津内・小古津内・尾児津内などと書かれていた。オ・ウ・コッ・ナイが語源で、
 「オ」は川尻・川口など川の海に落ちる付近のこと。「ウ」はお互い(が・の・に・を)。「コッ」はくぼみ・くぼ地・へこんだ路・沢・谷などの意。「ウコッ」となれば二つの川が合流して一つになった様をいい、それが交尾するという意に用いられた。
「ナイ」は沢・川の義。
 「蝦夷実地検考録」では、
 「魚尾を並べて結合たるを云ふ川瀬其結べる状に似たりとて名となる。」
とある。
 また、「東蝦夷日誌」には、
 「其義犬の番如く頭二つに成故号く。」
とあり、いずれにせよこの沢の有様を呼んだものであろう。このほかに、ヲコツナイ・ポンオコツナイなどの地名がある。

ブユベ
 海岸にある岩の付近の名称が、奥の高い所までの地名となった。
 語源はプイ・ウン・ぺといい、
 「プイ」は穴・岬・こぶ山・やちぶきの根などいろいろな意味があるが、ここでは穴と解したい。「ウン」はそこにある。(居る・入る)「ぺ」は物、ここでは岩か。
 すなわち「穴がある岩」の義で、「東蝦夷日誌」には、
 「フユベとは大なる白き穴ある石ありし故なり。」
と記されており、いずれも岩礁のある地のことをいったものである。冬梅とも書かれている。

向野
 和名で、昔はブユンベのなかにあったが、山越内の発展にともなって、酒屋川を挟んで会所沢の向かいの野といった意味で呼ぶようになったのであろう。

酒屋川
 和名である。「東蝦夷日誌」に、
 「サカヤ川(橋有、夷家五軒、畑多し)是山越内の元地也。文化度此所へ南部大畑より酒造人来り水車を仕懸、酒を造りし故此名残りしか。」とあり、文化より後の時代にいつとはなしに酒屋川と呼ばれてきた地名と思われる。
 酒造所は、蝦夷地に和人が多く入るようになったため幕府が造ったもので、山越駅の西側にある踏切付近にあったとみられている。

山越内
 ヤム・ウク・ウシ・ナイが語源で、
 「ヤム」は栗のいが、栗の意。「ウク」は取る。「ウシ」はいつもそこでその動作が行われる。「ナイ」は沢、川の義。
 明治2年(1869)松浦武四郎の「北海道々国名撰定上書」に、
 『本名「ヤムウシナイ」にして栗多き沢の義、「ヤム」は栗、「ウシ」は多し、「ナイ」は沢なり、「ヤム」を「ヤマ」と呼事敢て不審にあらず、越後蒲原(カマハラ)和抄名 加麻を加武音便に呼候例御坐候、則蝦夷地にて今山越内と呼候様に成居候、又休越(ヤムクシ)、止釧(ヤムクシ)等も可然奉存候。』
とあり、享和元年(1801)に滕(トウ)知文の著した「東夷周覧」には、
 『ヤムクシュナイ「ヤム」は栗なり、「クシュ」は行くことなり、「ナイ」は沢なり、按ずるに此所栗多く生じて、夷人常に栗拾いに行くことあり、故に号けしならん。』
と記してあり、そのほか「蝦夷実地検考録」、「東蝦夷回浦図絵」、「蝦夷地順廻日記」などにも山越内について記載されているが、いずれも似たような解説がなされている。

新六屋敷
 山越内地内に「新六屋敷」の地名があった。これは明治4年(1871)4月太政官布告の戸籍法第七則、戸籍の起源に「区内ノ順序ヲ明ニスルニハ番号ヲ用フベシ。故ニ毎区官私ノ差別ナク臣民一般番号ヲ定メ、其ノ住所ヲ記スニスベテ何番屋敷ト記シ、編成ノ順序モ其ノ号数ヲ以テ定メルヲ要ス」とあり、わが国最古の戸籍法によって地名として残されたもので、北海道としては珍しい存在であった。

由追
 ユ・オ・イが語源で、「ユ」は温泉、「オ」は(二つ以上)そこにある、「イ」は所の義。
つまり湯のある所の意。湯笈・湯生・油井とも書かれており、「蝦夷実地検考録」には、
 「湯生は広闊にして沃土也。漁業盛なり。故に逆旅あり売女多く寓す。温泉ありという。海岸に出る水硫黄の臭を聞く。然れども湯の在所を知らず。」
とあり、北海道蝦夷語地名解には、
 『ユオイ温泉アル処、蝦夷紀行ニ云フ、水気温ナル側ノ草ヲ分ケテ見レバ小池アリ温泉湧キ出ヅ甚ダヌルシ。今由井ト云フハ「ユオイ」ノ説ナリ。』
と解説している。

沼尻
 トーブッが語源で、
 「トー」は沼、「ブッ」は沼や川への入口(アイヌは入る、和人は出るという感覚で川尻、沼尻と訳す)
すなわち沼の尻と訳し、沼尻という地名になった。蝦夷実地検考録には、
 「沼尻の沼は狭し、六、七月の間は水洞るる事常也。」
とあり、また東蝦夷日誌では、
 「川上に沼あり、その沼は長さ廿町、巾六〜七町、水面何もなく蒲生いたり。」
と記している。

柏木
 トムニといい、柏の木の多い原という意味である。この地内に、中野・柏木原・栗の本格・アサブ沢・アサグ沢・オヤジ沢などがある。

野田生
 椴の木の多いところともいわれたが、ノダヘからノダオイになったといわれている。
 海岸が、ふっくらした鈍い岬で凸凹しているので、その形を「ノタ・オ・イ」といった。「ノタ」は頬、「オ」は幾つかあるさま、「イ」は所の義である。それが「ヌプタイ」といわれた所も含めた広い字名となり、落部寄りと区別して野田生と書かれるようになった。
 古い地図には「ノダヘ」とも出ていた。

ガンビ岱
 和名で、ガンビ(樺(カバ))の木、アイヌ語でべッタの木が多かったため呼ばれたものと思う。
 また、この地を第五農区とも呼んでいたが、これは昭和の初期に八雲町農会の選挙区が第五農区であったことから残った地名で、この地内に西ガンビ岱という地区もあった。

大木平
 和名で、大木の多くあったところといったものである。明治29年(1896)に移住民が入植した当時は`この辺りは大木がうっそうと生い茂り、これを切り倒してあちこちに積み重ね、昼夜兼行で焼いたという。奥平とも呼ばれていた。

黒岩
 クンネ・シュマが語源で、
 「クンネ」は黒くある(なる)暗くある(なる)の義。「シュマ」は岩、石のこと。
すなわち黒岩という意味である。「北海道蝦夷語地名解」では「クンネ・シュマまたはクンネ・シララ」が語源で、
 「黒岩ノ原名、此岩二小サキ白玉デリ、透明愛スベシ。」
とある。

シラリカ
 「北海道蝦夷語地名解」では「潮溢ル小川」と訳され、同意義で近くに「ポン・シラリカ」の地名があった。

山崎
 古くはアイヌ語のフル・エムコであったもので、「坂ノ半分」と訳され、黒岩方面から見ても山崎平野部から見ても、海岸段丘が崎のように見えたので山崎の名称が生まれたものと思われる。

住初町
 旧尾張藩士15戸82名が、明治11年10月12日に入植してここに住み初めた。名のとおり住み初めの町名として残されている。当時はさびしいところで、樹木や草が茂っているので隣も見えず、ふろをもらいに行くのにもちょうちんをつけて行かなければ、くまが逃げて行かないといわれた。明治31年に八雲小学校が移転し、40年には役場庁舎が建設され、昭和になってから実科高等女学校ができ、18年には旧制八雲中学校が移転して来た。

元町
 昭和31年5月の字名地番の改正の際、元町と定められた。旧尾張藩士が最初に居住したのは住初町であるが、移住者の家があるだけで、市街地としては形作られてはいなかった。市街地らしいものが最初に出来だのは、ユーラップ橋の付近で、本町通りからみると地盤が一段と低いので「下町」と呼ばれていた。
 明治22年には国道が出来て住民は新道と呼んでいた。翌23年に遊楽部橋が完成し、渡船場が廃止され、橋のたもとに家が建って市街地らしくなってきた。燐寸軸木工場、小川酒造店、料亭、八雲座などが出来、続いて石垣豆腐店、鈴木永吉菓子店、平野幸三郎商店、佐久間省一商店、川口蹄鉄店、古谷商店、その他数多くの店や旅館が出来たが、明治37年6月21に火災が発生し、29戸程焼失してしまった。

出雲町
 徳川慶勝は「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を」という素戔鳴尊の歌を愛し、八雲の町名をこの歌からとり、さらに第二回の移住者たちは、入植したその地を出雲町と名付けた。昭和31年の字名地番の改正に際しても、住民の希望によってそのまま残された。
 この出雲町のほかに、住初町から徳川農場に至る通りを、八重垣町といったり、八重垣通りと呼んでいた。また、最初に移住した服部正綾が現在の役場前に住んでいたことから、この付近を服部町とも呼んでいた。

落部
 ヲトシ部という地名は古く、享保年間(1716〜1735)の記録で、場所請負制度関係では最古のものとみられる「蝦夷商賈聞書」の中に記されている。アイヌ語でオテシュベツ(川尻に魚筍(ヤナ)を掛ける処)、オ(川尻)、テシュ(川魚を捕る魚筍)、ベツ(川)、といい、アイヌが落部川の近くにコタンをつくり、川口に魚筍をかけてサケやマスを捕り、原始生活を営んでいたのをそのまま呼称したものと思われる。しかし発音が難しいので、和人はオテシベまたはオトシベと呼んだ。記録にある文字も、乙志部あるいは落辺などと使われていたが、後に「落部」と一定したものである。

野田追
 先の「ノタオイ」という海岸の名が、野田追と書かれて、野田追川両岸の広い地域の字名となったが落部野田追は、字名改正で東野と変更された。

蕨野
 ワルンベヌ(蕨のある野)という意で、わらび野には昔かなり多くのわらびが生えており、ワルンベヌを直訳して蕨野としたものである。アイヌはわらびをワルンベヌまたはワラムビといい、和語と非常に似ており、野をヌというのもきわめて似た発音で、上古時代には大和民族も野をヌといった。「万葉集」にも「東(ひんがし)の野(ぬ)に」または「春日野(かすがぬ)」と詠まれている。

黒禿
 クリパケ(雲の多い所)という意で、クリ(雲)、パ(名詞の後につける助詞で、多い意)、ケ(場所)である。黒禿台地は、音は決してはげ地ではなかった。むしろ樹木のよく茂った林野であった。また、落部側のがけを見ても、白赤色の砂岩または泥板岩で、黒禿の感じではない。落部のコタンから見た黒禿高台の上には、雲が掛かって、森林の暗さと共に憂うつなものがあったことが想像される。

物岱
 モヌプタイ(小さな平丘の森林)といい、モ(小さい)、ヌプ(平たい丘地)、タイ(森林)である。物岱も野田追と同様に台丘林野であった。ただ地域が小さいので、モを冠して小さい意を表したものと思われる。

入沢
 イルエサラ(くまの足跡ある莎草(スゲ)の原野)という意で、イルエ(くまの足跡)、サラ(莎草(スゲ)の生えた原野)である。またイルエサンで熊の通った道が、そこで浜の方へ下っているという説もある。
 市街から奥に入り込んだ沢と解して入沢とするという説もあるが、入沢は沢というには余りにも広い平野である。
 イルエサラすなわち、くまの足跡のあるかや原と見る方がふさわしい。事実古老の話にも、昔は現在の十字街近くにくまの足跡があったということから、やはりイルエサラが転化して入沢と呼ばれるようになったと思われる。

望路
 ポロニセイ(大いなる断崖)という意で、望路という地名は全道各地にみられる。下の湯の望路も大きながけだが、大の意だけをとってポロと呼んだのが通称になったという。古老の話によれば、現在の望路に入る道路は、昔は入沢奥から左手の山地にがけ道として通じていたという。望路入口の左手の洞穴は、往古落部川の水流が突き当たって浸食したもので、人工ではない。したがって、ここを川が流れていたために、左手の山腹のがけ地に道を通じたものであるという。このためアイヌは、大きながけを恐れながら歩いたのであろう。なお、ポロはアイヌ発音で、これを和人はボウロと濁音化したものと思われる。

犬主
 イヌンウシュナイ(漁猟小屋のある川)という意で、イヌン(漁猟のため出張して宿泊する仮小屋)、ウシュ(いくつかある)、ナイ(川)である。犬主の地名も道内各地にみられる。多くは川の中流で、アイヌの漁猟用仮小屋のあったところであり、コタンから遠いところでは、仮寝の小屋を必要とするので、粗末なものを建てたのであろう。

上の湯
 カムユ(上方の温泉)という意で、上の湯温泉が発見されたのは大正14年(1925)であるが、これ以前の古い時代にも浴舎があったという。温泉はいつも渓谷に湯煙を上げているので、和人が発見する前にアイヌが発見していると思われる。アイヌ語でも湯をユと発音するので、道内各地にユナイ・ユウペツ・ユウプツなど温泉に関係する地名がみられる。また、上方をカムまたはカンというので、落部川を上って発見した温泉の意で、カムユ(上の湯)と呼んだものと思われる。
 ただし、下の湯は後に和人が付けた地名であるという。

茂無部
ムンナウシュペ(雑草の生長する所)の意で、ムンナ(雑草)、ウシュ(主語の形容詞化で、盛んに雑草を茂らせる意)、ぺ(所)である。太古この茂無部一帯は、雑草が盛んに生い茂っていたものと思われる。ムンナからモナとなり、モナシュペがモナシベに転化したのであろう。
 参考文献
 北海道蝦夷語地名解(永田方正著)
 アイヌ語事典(ジョン・バチェラー博士著)
 日本地名解
 落部村郷土史 八雲地名研究(未定稿・小泉武夫)


 第2節 伝説

怪猫退治の話
 辨開凧次郎の住んでいた通称馬坂と呼ばれていた付近に、毎夜一丈(約3・3メートル)余りの怪僧姿の化け物が出るといううわさが起きたのは、明治39年の晩春のころだった。
 その年8月15日の満月の夜半、落部の宮本 某が、うわさの馬坂付近を通行中に怪僧が現れ、両眼らんらんとして襲いかかったので、悲鳴を上げて凧次郎の家へ逃げ込んだ。凧次郎の長男勇吉は猟銃を携え、アネコ、タメコの2匹の犬とともに現場に駆けつけたところ、例の怪僧姿の化け物が、草むらの柳の細枝に居たので、猟銃をもって射殺した。この化け物をよく見ると、尾の先端が三つに裂けた赤白の猫であった。
 勇吉の武勇伝は直ちに新聞に報道され、重量四貫目(15キロ)に達する猫ということで、近郷から見物に来る者もあり、後に「蝦夷径猫退治劇」として、函館や森などで上演されたという。
 この話には後日談があり、森でこの劇が上演されたときに凧次郎が見に行ったところ、猫は四貫目くらいであったが、凧次郎の妻を鬼婆に仕組んであったため、凧次郎はたいへん怒って、村岡格(凧次郎が尊敬していた森村の医師)を通じて大いに抗議したとのことである。(「落部村郷土史」)

落部のくま送り
 落部にまだ和人が渡来せず、アイヌだけの天地に平和な生活を営んでいたころ、茂無部にタルサンという若者が住んでいた。この若者が所用のため和人地近くへ出掛けたが、深夜になっても帰宅しない。そこで翌朝仲間が探しに行くと、島崎川(森町)の河岸にタルサンの厚司(アッシ)があり、そのほかの所持品が川上へ次々と散乱していた。草の上の足跡を探しながら川上へたどって行くと、既に半身くまと化したタルサンが、がけを登りつつあるのを発見した。仲間は大声で彼の名を呼んだが、みるみるうちに全身がくまとなり、ついに草むらに去ったという。それ以来くまを捕るたびにその首に神酒を供え、タルサンの霊を弔う例となった。
 以上は、茂無部乙名ヒラの妻の語るところであるが、落部アイヌの間に長く語り伝えられており、くま送りも聯関凧次郎が生きていたころはしばしば行われ、長万部や遊楽部からも同胞(ウタリ)を招待したという。盛装したおきな(エカシ)が、父祖伝来の陣羽織で集まり、縫取模様の厚司で着飾った娘(メノコ)の群れる有様は、まさに一巻の絵巻物であったという。 (「落部村郷土史」)

ルコツ岳のくま老人(カムイエカシ)
 八雲と長万部の町界になっているルコツ川の上流に、ルコツ岳(531・9メートル)という山がある。
 昔、日高の沙流から来た人たちが、この近くのポンシララというところに住んでいた。この一族の一番上の兄にあたる老人が、ある日他のコタンのお祝いに招かれて行ったまま、いつまで待っても帰って来ない。そこで先方に問い合わせたところ、老人はすぐに帰ったという返事であった。人々は心配して山の中を探しているうちに、老人の足跡を発見したのでそれをたどって行くと、足跡はルコツ川に沿って山の方へ行っている。しばらくそれを追って行くと、途中の木の枝に老人の持っていた弓が掛かっていた。その弓を持ってなおも跡を探して行くと、今度は老人がいつも持っていた袋が木に掛かっている。それでいよいよ間違いないということで山に登って行くと、老人の右の足跡がいつの間にかくまの足跡に変わっており、さらに少し行くと左の足跡も変わってしまい、その跡はルコツの山に登って行っているので、
 「老人はくま(カムイ)になったのだから、後をつけることはよそう。」と言って一同はコタンヘ帰って来た。するとある晩、夢の中にその老人が現れて、
 「ルコツの山の主が年寄りになって、天に昇ってしまったので、自分がその代わりにルコツ山の主になることになったのだ。」
ということを知らせた。
 それからこの山に登った老人のことを「ウレポロクル・カムイエカシ」(蹠(あしあと)の大きい神なる翁(おきな))といって尊敬し、くまの捕れない時には、このくま老人(カムイエカシ)に酒を上げて、祈りを捧げたものであるという。 (岩田弘司輯「八雲の地名と伝説」)

雄鉾岳の伝説
 鉛川の上流、渡島と檜山の国境にある雄鉾岳(999・3メートル)は、カムイエロシキ(神様がそこに立っているところ)、あるいはウカイヌプリ(お互いに背負い合う山)ともいわれて、昔から神聖な山とし、ふもとのコタンで神に酒を上げるときは、コタンの中から選ばれた1人の古老によって上げるのがならわしであった。
 それは、昔ユーラップコタンに悪病が流行したとき、古老たちはこの山に酒を上げて祈ったところ、山の神様が山上に立って、悪病の魔神を追い払ってくれたことがあり、その後も山が燃えて灰が降ったときにも、やはりこの山の神様が現れて灰を吹き飛ばしてくれたという。
 また一説には、この山の陰に沼があって、この沼に毒気を吐く主が住んでいるので、沼の辺りの草木はその毒気に当たって枯れ、人もここに近づくと毒気のために死ぬといわれている。カムイエロシキという名は、そのために付けられたのであるという。 (岩田弘司輯「八雲の地名と伝説」)
 雄鉾岳は江戸時代に和人によって名付けられたもので、あまり高くはないが山の形が美しく、登山には手ごろな山として人気があり、八雲ワンダーフォーゲルが毎年登山大会を開催している。

遊楽部岳の巨鳥
 渡島と檜山の国境にそびえる遊楽部岳(1275・5メートル)は、昔日高の山中にいた片羽の長さが七里もある大きな鳥が、外国へ行くときに休む場所であったので、ウー(泊る)、ラップ(翼)といったのである。しかしこれは、後世になってから地名の解釈に付け加えられた話で、ユーラップは温泉(ユー)の流れ下る川という意味である。

黒岩の伝説 そのI
 八雲市街地周辺は、昔ユーラップといったが、ここのコタン(集落)は、室蘭に居た人たちが来たのであるという。その移住のときにちょうど駒ヶ岳が噴火して、降灰のため舟が進まなくなってしまった。そこでコタンの長は神々に酒を上げ、無事に目的地に着けるよう祈ったところ、急に何者かが一同の乗っている舟を背負って走り出した。しかし、あまり早くて舟がひどく揺れ、転覆しそうになったのでまた祈ったところ、今度は静かな者に肩を替えてくれたので、揺れることなく無事に黒岩に着いた。それから神の使いによって無事に着いた黒岩の地を尊いものにしたという。(高倉新一郎輯)
 もう、一説には、
 サル(沙流)に、男の兄弟6人と女の姉妹6人の、宝物をたくさん持ったアイヌの兄妹たちが住んでいた。ずいぶん勢力のあった家だったが、村のアイヌたちはこの家をねたみ、ことごとく兄妹たちに意地悪をし、敵にしていた。
 このため兄妹たちは、サルに居づらくなって旅に出、舟で室蘭に来たとき、1番上の姉は室蘭の男と結婚した。残りの11人の兄妹たちが室蘭から舟出したとき、駒ヶ岳が噴火してたくさんの軽石が湾内に流れ出し、舟は全く動くことができなくなってしまった。兄妹たちは力を合わせて一生懸命に舟を押したが、結局どうにもならなかった。そこで1番上の兄が、男のカミギリ(海の神)に祈ったところ、鯨が出て来て先立ちし案内を始めたが、潮が早くて舟を操ることができなかった。次に2番目の兄が女のカミギリに祈ったところ、女の鯨が出て来て今度はうまく舟を動かすことができた。そしてポンシラルカに舟を着けてここに住むようになった。ポンシラルカとはシラルカ川(黒岩)の南の方にある小さな川の辺りで、シラルカとは岩を意味し、黒岩のことをシラルカという。シラルカに対するポンシラルカは、小さな岩を指したものである。
 (都築重雄「八雲の地名と伝説」ゆうらふ6号)

黒岩(写真1)


黒岩の伝説 その
U
 黒岩は昔ルクチといったいそで、ここに大きな黒い岩があるので、和人が黒岩というようになった。
 昔トイマコタン(遠い異国)のアイヌたちが、サントミ(軍勢)をまとめて舟でここのコタン(集落)に夜討ちをかけてきた。いよいよ岸に近寄って上陸しようとすると、目の前にたくさんのアイヌがたむろしているのに驚き、われ先にと舟をこいで逃げ去り、コタンは何の被害も受けなかった。トイマコタンの連中が敵と見たのは、実はルクチの黒岩の姿であった。このためアイヌたちは、コタンを守ってくれるシュマカムイ(石神)として崇拝し、イナウ(木幣)を祭って礼拝したという。
 (菅江真澄「蝦夷廼天有利」)
 大正時代、黒岩の海岸を通りかかった1人の女性が、岩の上に立つ竜神を見たといううわさが広がり、地域の人びとは大漁や海難防止を祈願しようとして、昭和初期に岩の周囲にさくを設け、小さなほこらを建てて御神体を安置した。しかし、この岩は波をかぶるためにほこらの損傷が激しく、黒岩神社に移した御神体を除いて跡形もなく波にさらわれてしまった。昭和48年、住民によって再建計画が立てられ、岩の上に赤い鳥居とほこらが設けられ、それを結ぶ橋やあずま屋なども建てて入魂式が行われた。


 第3節 逸話

青森歩兵第五連隊の八甲田山遭難とアイヌによる捜索
 明治35年1月青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第三一連隊が、それぞれ小・中隊を編成して、八甲田山踏破の雪中山岳行軍を実施した。
 これらの連隊は、第八師団の第四旅団に属しており、ロシアを仮想敵国とし、もし開戦ともなれば、酷寒地装備・寒地教育に準備不足が考えられるとして、師団幹部の協議の結果で実施されたものである。
 八甲田山(標高1585メートル)は、青森と弘前の中間であり、双方から出発してこの山あたりですれ違うという計画を立て、厳寒・積雪期として1月下旬が選ばれたわけである。
 歩兵第三一連隊は福島大尉を隊長に、尉官・下士官を主体として兵卒若1000名を加えた小隊編成であり、これに「東奥日報」の記者が随行したのであるが、この隊は無事であった。
 一万、歩兵第五連隊は、第二大隊の第五〜八中隊から各一個小隊に当たる人員を選出し、ほかに第一大隊と第三大隊から伍長を参加させて一個小隊とし、5個小隊からなる中隊編成とした。総員210名は神威大尉が指揮することになったのであるが、編成外として第二大隊長山口少佐ほか8名の大隊本部が随行し、明治35年1月23日の早朝に営門を出たという。こうして翌24日には早くも遭難し、神威中隊は199名の犠牲者を出したのである。

辨開凧次郎(写真1)


 歩兵第五連隊が明治35年7月23日に『遭難始末』を発行したが、その付録部分の「北海道土人」の章に次のように述べている。
行軍隊遭難ノ事変アルヤ聯隊長ハ一刻モ速二其踪跡ヲ確メ死体ヲ発見シ以テ家遺族ヲ尉籍セン「ニ努カシ之ガ為メ有利ナル手段ハ如何ナル俗説俚諺モ之ヲ採用スルニ吝ナラザリシガ思ヘラク北海道土人ハ勇悍ニシテ且ツ寒気積雪二経験アルモノ或ハ用ヒテ功ヲ奏スルアラント依テ第8師団参課長二謀ル参謀長之二同意シ即チ書ヲ函館要塞司令官二贈リテ土人雇入ノ労ヲ委ヌ司令官因テ北海道胆振国(渡島国の間違いである)茅部郡森村医師村岡格二嘱ス村岡格斡旋ノ結果同郡落部村聯関凧次郎・同勇吉・有櫛力蔵・板坂(板切が正しい)是松・碇宇三郎・板木力松・明目見米蔵(末蔵が正しい)ヲ得タリ由テ直二之ヲ聯隊二報ジ2月10日ヲ以テ屯営ニ到着シ翌十一日ヨリ捜索業務ニ従事スルコトトナレリ抑モ北海道ノ地タル冬季ノ寒冷東北地方ノ比ニアラス積雪亦常ニ数尺ヲ越ユ故ニ其土人ノ雪ト寒気ニ対スル経験ハ到底本土人ノ預想(ママ)シ得ザル所ナリトス宜ナリ其被服タル繻(ママ)袢袴下ニ綿入一枚ヲ着シ股引ヲ穿チ麻製脚袢ヲ用ユ而シテ其上所謂「アツシ」ナルモノヲ被ヒ足ニハ鮭皮鹿皮若クハ馬皮製ノ靴ヲ穿チ而シテ各人悉ク懐ニ狐ノ頭骨ヲ携フ曰ク護身ノ神ナリト斯ノ如クシテ身体軽捷其働ヤ敏活山野ヲ跋渉スル平地ヲ行クガ如シ……
 依頼を受けた函館要塞司令官が、アイヌ人雇い入れを森村の医師村岡格に委嘱したのは、その年1月に築城部函館支部長陸軍工兵大尉西川勇が、公務出張中に行方不明になった事件があり、その捜索にアイヌ人を参加させるために尽力した実績があったからではないかと推測される。この事件にも辨開凧次郎・同勇吉の2名が参加して協力したため、両名に感謝状が贈られているが、その文面は次のとおりである。
 辨開凧次郎
 今回築城部函館支部長陸軍工兵大尉西川勇公務出張中行衛不明ノ変事起ルニ際シ自ラ進ンテ捜索ニ任シ雪ヲ排シ危険ヲ浸シ勇敢熱心事ニ従ヘリ其発見ノ効ヲ奏セザルハ遺憾ナリト雖トモ義務心ノ深キト堅忍トハ誠二嘆賞スルニ餘リアリ因テ聊カ感謝ノ意ヲ表ス
 明治三十五年一月
 築城部函館支部長臨時代理
 築城部本部々員
 陸軍工兵大尉正七位勲五等 牧野嚴馬
 辨開勇吉にも同文の感謝状が贈られている。
 『遭難始末』からその後を移記する。
 夫ヨリ当地方土民ヲ嚮導トシ主トシテ駒込河谷ノ捜索ニ任シ独立事二従ハシム彼等奮激懸崖ヲ降リ河水ヲ越へ終日勉励曽テ疲労ノ声ヲ聞カズ越ヘテ二月二十五日ニ至り陸軍歩兵少尉三神定之助ヲシテ其指揮ヲ司ラシムルニ至リ土人等之ヲ栄トシ益奮励
  危険ヲ冒シテ渓谷ノ間ヲ奔走シ幾十仭ノ絶壁ヲ昇降シ寒冷切ルガ如キ渓水ヲ渡リ時ニ奔湍ニ陥ツテ将ニ溺レントスルノ危殆ニ瀕スルモ顧ミザルガ如キ彼等ガ一身ヲ賭シテ奉公ヲ効スノ精神歴々見ルベク勇壮豪気身体強健ナル三神少尉ヲシテ時ニ一歩ヲ譲ラシムルニ至レリ(中略)
 既ニシテ三月中旬辨開勇吉・碇宇三郎・板木力松家事ヲ以テ去リ更ニ村本国太郎及凧次郎ノ次子勇次来ル年齢漸ク十四?幹甚ダ大ナラズ一見可憐ノ小児ナリト雖モ既ニ幼ヨリ父ニ従フテ山中ニ狐狸羆熊ヲ狩リ豪胆強壮長者ヲ凌グ故ニ捜索隊ニ在リ其動作実ニ壮者ヲシテ後ニ撞着セシムルモノアリ斯ノ如クシテ此一行ハ四月十九日ニ至ルマデ六十七日間連続捜索ニ従事シ得ル所死体十一其他行軍隊ノ遺棄セル武器装具等ヲ得タルハ蓋シ枚挙ニ遑アラズ其発見ノ位置ハ悉ク駒込川及其両岸最嶮難ナル場所トス
四月中旬ニ至リ捜索ノ業務大ニ進捗シ且ツ土人モ又自個生活ニ必要ナル時機トナリ多少思郷ノ念ナキニアラザルヲ以テ十九日全ク其任ヲ解キ郷里ニ帰ラシメタリ
斯ノ如ク土人ガ聯隊ニ尽シタル功績僅少ニアラズ故ニ聯隊ノ彼等ヲ遇スル又頗ル厚ク其給養ハ一日一人ニ与フル飯米一升ノ上ニ出デ而シテ酒ハ其嗜好ニヨリ平均一升ヲ与ヘシモ其効果ヲ挙タルノ日ハ殊ニ増給ヲナシ又其賃金ハ一日ノ額辨開凧次郎・有櫛力蔵ハ二円他ハ一円五十銭宛ヲ支給シ且ツ三月上旬賞与トシテ金円ヲ与ヘ帰還ニ際シテハ聯隊長ノ名ヲ以テ各人ニ感謝状ヲ附与シ添ユルニ同ジク金円ヲ以テス而シテ猶彼等ノ志願ニヨリ三神少尉報告ノ為メ弘前師団司令部ニ赴ノ便ヲ以テ該所ニ誘導セシメ市内ヲ一巡シテ師団司令部並ニ宮衛兵営ノ状況市街ノ光景ヲ観覧セシメタリシカバ彼等感泣只管其待遇ノ厚キヲ謝シ叩頭数次廿一日函館航行ノ便船ニヨリ帰還シタリ
 遭難死体発見のつど軍医が検案し、その結果は辨開凧次郎にも通報されていた。この通報書は散葉あるが、次にその一例を記しておく。
 昨日大滝平ノ東方駒込川ノ上流ナル渓間ニ於テ貴下等発見セル四名ノ死鉢ヲ取調フルニ其姓名左ノ如クナルヲ判明セリ依テ右通報ス
 明治丗五年二月十五日
 第八哨所ニ於テ
 陸軍一等軍医 坂 忠義
 辨開凧次郎殿
 死躰姓名
 陸軍歩兵伍長 小野寺熊次郎
 仝 山影運蔵
 陸軍歩兵一等卒 谷藤徳太郎
 仝 二等卒 佐々木栄太郎
 右四名ハ歩兵第五聯隊ノ雪中行軍ニ於ケル遭難者ナリ年少の辨開勇次が捜索に加わるには、村岡格を通じて志願したものであり、その出発に先立って村岡から歩兵第五連隊宛に提出した手紙の控を紹介する。
 青森
 歩兵第五聯隊御中
 北海道渡島国茅部郡森村
 村岡 格
 当道茅部郡落部村旧土人凧次郎二男辨開勇次(十四歳)事兼テ行軍捜索志願罷在候院処昨夜貴隊ヨリ辨開勇次外一名直チニ出青可致旨電報ニ接シ拝承仕候
則本日ハ夫々手配之上明二日当村出発不日右勇次貴隊迄出頭可致候条無事貴着之上ハ一先父凧次郎勤務ノ箇所エ赴キ候様御指揮被成下殊ニ本人ハ未ダ年少之者ニ付行先等間違無之様此儀ハ別テ劣生ヨリ願上候茲ニ本人義ハ少年ナガラ剛胆ノ性ニテ十歳ノ頃ヨリ父兄ト共ニ熊狩ノ伍ニ加リ熊洞狐穴ヲ出入スルナド殊ニ山野ヲ跋渉スルノ動作ニ於テハ反テ父兄ニ優ル所有之候ト愚考仕候
 却説貴電報中オウクラゼンロクノ二メイト有之候ハ全ク大黒善六ニ可有之同人義ハ元来当村ニ在テ商業ニ従事迚モ雪中捜索等為シ可得者ニハ無之右ハ勇次事今般志願之趣聞熱望罷在候故右善六ニ於テハ常々ノ交誼ニ依リ然カモ勇次ノ動作ハ能々承知之事故此際大々的ノ利器ト認メ黙止スルニ忍ビズ同人ヨリ父凧次郎ナル旨ヲ鼓シタルニ依ルノ事ナラント愚考仕候得共此義一旦大黒善六江通シ候処迚モ出頭致兼候趣意ハ尤モ有之事ト存候
右次第故善六義ハ見合今般当地ヨリ函館ヲ経テ貴着迄夫々諸方へ依頼書ヲ持セ勇次一名丈出発為致申候右&~御執成被成下度候先ハ草々奉願上候
 敬具
 三十五年三月一日
 築城部の感謝状、死体に関する通報書および歩兵第五連隊に差し出した手紙の控えは、いずれも森町公民館の「村岡文庫」に所蔵されている。
 昭和46年9月に、新田次郎著『八甲田山死の彷徨』という小説が刊行されたが、この遭難事件を扱ったものであり、その終章に「北海道からアイヌの一行を迎えて遺体の捜索に当たらせるという一幕もあった。」と述べられている。
この小説では、士官の姓を変えているので申し添えておく。

御所の松の由来
 大正天皇が東宮の時代、明治33年5月10日結婚の儀が行われ、国を挙げて奉祝したのであるが、落部のコタンの長エカシバこと辨開凧次郎もお祝いの意を表するため、子ぐま2頭を捕え、雌をサルルン(鶴の義)、雄をイチンケ(亀の義)と命名して献上を願い出たところ、受け入れられる旨が内務省を通じて伝達された。そこで凧次郎は、村岡格(森村に置かれていた公立病院の医師、アイヌ語に通じていた)を通訳兼付添人とし、子ぐまを携えて上京した。
 6月12日両人は東宮御所に出頭し、凧次郎は大奥御苑の平治門から入って大樹の下に特設した休憩所に控え、村岡は奉献の式を執行する場所、出御の機会、進見の順序等を宮内省職員と打ち合わせ、表御座所の庭前をその場所と定めた。
 この日は田中光顕官内大臣も出席し、挙式の前に渡辺内蔵頭から「古式に悖(もと)らぬように」とのご内意も伝えられ、凧次郎はアイヌの盛装をして、古式どおり奉献式を行ったのである。
 式の後、黒田東宮武官長は、村岡に対して凧次郎の上京以来の感想、アイヌ人の古式の礼、神の種類および敬礼の事柄などを尋ねられ、詳細に答申した。その後、両人が別席に控えていると、中山東宮侍従長が職員3名を従え、「此度ハ大儀ニ存スル、此品々御所ヨリ下シ置カル」と令旨を伝え、次の品を拝領した。
 一 御紋章付器具
 一 御紋章入御菓子
 一 御紋章入巻莨五百口
 一 銘酒日ノ出二十瓶
 一 全章飛鶴模様付御手箱二個
 一 千本松の御盆栽三十二本
 右の千本松は、平安奠(てん)都のころから京都御所の庭にある赤松の実生を、自ら植えられたものという。この千本松に命名をお願いしたところ、「御所の松」と命名賜ったのである。
 その後 明治天皇、皇后、英照皇太后の御召輦(れん)・御料馬・馬場の拝観を許され、御所内の別席でかん酒付きの昼食を賜った。
 時あたかも明治天皇、皇后は、品川御用邸へ御成りの際で、特に御引見の栄を得、帰路は車3両を与えられ、面目を施して退下した。
 子ぐま献上に対しては、次のような一書をいただいているが、現在は松前城に展示されている。これは後年村岡格の子孫から松前町へ寄贈されたもので、村岡格の先祖が松前藩の御典医であった縁故によるものと推察される。

 北海道渡島国茅部郡落部村字落部
 辨開凧次郎
 一 小熊 牝牡 弐頭
 右
 皇太子殿下 御結婚奉祝ノ為メ
 獻納候段 御満足 被
 思召候事
 明治三十三年五月十日
 東宮大夫 侯爵 中山孝麿
 拝領した「御所の松」は、辨開の居宅近くに移植したほか、落部八幡宮の境内や森村村岡格宅にも分植されたのであるが、後年辨開の子孫が分散し、居宅跡も荒れてしまい松の枯れ死にが出たので、落部青年団日進分団員が五十嵐嘉吉宮司と相談して八幡宮境内に移植し、これと一緒に次の石碑も移転した。
 (表) 御所之松
 (裏) 明治庚子六月旬ニ恩錫
 落部八幡宮の拝殿前左側に、御所の松と同じくらいの年輪の赤松が1本ある。拝領当時に分植したものではないかと思われるが、記録的なものがないのが残念である。

小ぐま献上の額(写真1)


 辨開凧次郎は、御所の松など拝領の光栄を永く子孫に伝えるため、次のアイヌ語を石に彫らせてあるが、この石も八幡宮境内御所の松のさく内にまとめられた。
 ウベンチマイレカムイ ウエベクニ シンダカタアムイルイネド ヘベリ クドラ ムラオカトヱンドラルイネグシュ ウエベテキサマ クコシリバルイネグシュ ポロコッチヤサマ クコイブグコオンカミテキサマ シュンクイナオニ ウナオカイベ アヱンコ ニタタルイネ ヒスカンアヱントラルイネ クコヘブニ ヱンカスケ トカプベベアキヤ ヱンカランルイヌ クネトハケ イカシマ イオトアン シケカル ションノ ワムネワムネ オンカミクキルイネ ケライクシュ アイヌケウトム ラメバカリタン シュンク レイトラノ ゴショノマツ アヱンコランケルネ タプネアンクシュ アミチサンテク イカネベカクホツパグニグラム イシカルナ トワシアンクニヤイコベベケレアンツキ ピリカルヱタハンナ
 オテシベコタン ヱカシバ
 碑の上部に上の図のような辨開凧次郎の家章があり、下部に凧次郎の左手の平が彫られている。
 碑文は、文学博士金田一京助が次のように意訳したといわれている。
 役人に連れて行かれて、天子様にお目通りして、すぐ玉座の近くまで行って、何べんもおじぎをして、おまけに宮中の色々な所を拝見し、天子様から松に「御所の松」という名をいただいた。この光栄を子孫に伝える。
 御所の松のさく内にもう一基の碑があり、次のようなアイヌ語が彫られている。落部八幡宮五十嵐一彦宮司は、「辨開の屋敷内に薬師如来をまつったほこらがあり、その近くにあったものだと聞いている。」と語っていたが、正確な由来は不明である。解読が望まれる。
 セリマカ オロワシカシマ ヤイッカラプテ シロカニ トモヱノカハ タンベアニ シュンクイナオニ オウシケタ アッテケン アレベタハン エカシバアキ クネルイネ トキウク
 碑の上部に、=字形と線による三つどもえ様の図が彫られている。

辨開凧次郎の家章(写真1)


辨開凧次郎使用の品々松前町所蔵(写真1)


村岡家寄贈コレクションについて(写真2)


(写真3)


(写真4)


(写真5)