第11編 社会・厚生
第1章 社会福祉
第1節 社会福祉組織
方面委員と救護法
昭和4年(1929)4月に公布制定された救護法が実施されたのは、7年1月からであった。
この救護法の要旨は、(1)65歳以上の老衰者、(2)13歳以下の幼者、(3)妊産婦、(4)不具廃疾・疾病傷痍などで貧困のため生活することができない者を救護することとし、救護の種類は、(1)生活扶助、(2)医療、(3)助産、(4)生業扶助などとされていた。
救護に要する費用は、同一町村に1年以上引き続き居住する者については、その居住町村の負担、その他の者については道府県の負担とし、町村が負担する場合は、国庫から2分の1、地方費から4分の1が補助されるというものであった。
この制度による救護事務の円滑な運営を期するため、各道府県の自主運営ながら方面委員制度が創設されたが、八雲町の委員数は道庁告示をもって10名と定められ、これが設置されたのは10年4月であった。委員は道庁長官が選任し、任期は4年とされていた。
なお、これが11年11月に公布の勅令「方面委員令」によって法制化され、全国一様に実施されたのは翌12年1月からであった。
方面委員は町村長と連絡をとり、担当区内における居住者の生活状態を調査し、扶助を要するものの救護に努め、また、これらの世帯の自立更生を図るための指導に当たった。なお、時局の推移につれて救護法のほかに「母子保護法」、「軍事扶助法」、「医療保護法」などによる救済にもまた方面委員の活動が積極的に行われた。
さらに、「生活刷新実践要綱」、「戦時生活確立要綱」、「銃後国民生活強化要綱」による生活の改善合理化運動の第一線での推進的な役割を果たすなど、国の要請に応じて多角的な活動を続けてきたのであった。
民生委員制度と生活保護
昭和20年(1945)8月、わが国はかつて経験したことのない敗戦というきびしい現実に直面した。そのため、海外から引き揚げを余儀なくされた者、軍需工場の閉鎖で失業した者、戦災によって家業や家財を失った者、一家の支柱を失って途方に暮れる母子世帯など、急速に生活援護を必要とする者が増加していた。こうした社会情勢を背景に、政府は「生活困窮者緊急生活援護対策要綱」を定め、方面委員の手をわずらわしながら当面の急場に対処したのである。
さらに、21年10月からは保護の対象を一新し、国民のすべてに拡大した「生活保護法」が実施されるとともに、「民生委員令」(勅令)が制定され、「社会の福祉を増進することを旨とし、仁愛の精神に依り保護誘被のことに従う」(同条第一条)、民生委員制度が発足したのである。
八雲町では、この生活保護法の施行後は、これまでの方面委員に代わって25名の民生委員が厚生大臣から委嘱されたが(落部村の定数不明)、これらの委員は同法による対象者の発見・調査・保護内容の判定・生活指導などに力を尽くし、民生委員協議会を毎月1回以上開き、保護の万全を期していた。
昭和23年1月には児童福祉法が施行され、民生委員は児童委員をも兼ねることになり、生活援護とともに児童福祉に関する業務を担当することになった。なおこれと同時に、民生委員の推薦は市町村長が行っていたものを、民生委員推薦委員会を組織して適任者を推薦することに改められた。
さらに同年7月には、これまでの勅令にかわって「民生委員法」が施行されたが、この新法の制定によって民生委員の選出をより民主化し、従来の推薦委員会を推薦会に改め、その構成員は議会の同意を要することになった(議会の同意は、28年8月の改正で不要となる)。また、民生委員の資格要件を明記し、指導訓練を重視する規定を設けるとともに、民生委員は「社会奉仕の精神をもって、福祉に欠ける住民の保護指導に当たり、社会福祉の増進に努める」ことを任務とされたのである。
民生委員は、制度発足以来町村ごとに「民生委員協議会」を組織することとされ、八雲町では常務委員(35年から総務となる)に代を追って、久保田正秋・古田秀夫と続き、昭和48年(1973)5月からは小泉武夫が務め、55年12月から林秀男が務めている。
なお、32年4月町村合併直前の民生委員定数は、八雲町が32名、落部村が12名であったが、合併直後には41名となり、その後34年に40名、47年に45名となった。
これら民生委員は、区域内住民の生活状態の調査、要保護者に対する適切な指導、あるいは行政機関の福祉業務への協力など広範にわたり、明るい社会の建設に活動を続けている。
生活保護法は、昭和25年(1950)5月に全面改正され、「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長する」ことを目的としている。保護の種類としては、生活・教育・住宅・医療・出産・生業・葬祭の7種の扶助が規定されており、この法律の施行と同時に民生委員は市町村長の協力機関として位置付けられた。
また、改正前の生活保護の運営は、町村長によって直接行われ、費用負担は国費80パーセント、道費・町費それぞれ10パーセントとなっていたが、26年10月からはこれらの事務の一切が道に移管され、保護費は国費80パーセント、道費20パーセントの負担割合となった。
さらに町では、41年(1966)4月から民生委員が兼務する「社会福祉委員」制度を設け、町が行う社会福祉に関する施策の具現について必要な協力を求め、その推進に努めている。
社会福祉協議会
昭和26年(1951)9月29日には「八雲町社会福祉協議会」が設立された。この協議会は、同年3月に公布された社会福祉事業法に基づき、社会福祉事業の公私関係者やこれに関心をもつものが参加し、町村自らが解決しなければならない社会福祉の問題について調査のうえ、協議を行って対策を立て、これを実践するためのあらゆる手段を講じ、機能を充実して社会福祉事業を発展させ、地域社会の福祉を増進することを目的とした民間の自主的な組織で、社会福祉事業全般にわたる連絡調整や相互協力を図る機関である。
会員は、さしあたって民生(児童)委員や司法保護司などの社会福祉奉仕者をはじめ、公私の社会福祉事業施設や団体の代表者、行政機関の社会福祉関係者などによって発足し、会長に久保田正秋を選任して活動を開始した。こうして地域社会福祉のために活発な活動を続け、49年6月から会長に服部内匠が就任した。
なおこの間、久保田会長は26年9月から29年10月までの3年余、渡島地区社会福祉協議会長も務め、広く社会福祉の向上に尽くしたのである。
協議会は、随時、社会福祉大会を開き、より一層社会福祉の充実に努めるほか、41年2月から公民館で月2回の「心配ごと相談所」を開設(47年11月から社会福祉センターに移り月3回、落部支所で月1回)、また、42年6月からは生活困窮者など、恵まれない人びとに愛の手を差し伸べるため「愛情銀行」を開設し、金品や労力・技術などの預託を受けて奉仕活動を続けている。
しかしこの協議会は、前述のように社会福祉事業関係者によって組織され、しかも行政依存度の強い形で運営されるという弱点があった。このため、昭和46年(1971)にはこうした体質を改善して、住民参加を強化する方策の検討に着手した。
これによって社会福祉事業法による法人化と、全戸加入の会員制による組織化の準備を進め、53年(1978)10月に臨時総会を開いて設立認可申請を決定した。
こうして法人設立について所要の手続きがとられた結果、同年12月22日付厚生省社第一二四七号をもって「社会福祉法人八雲町社会福祉協議会」の設立が認可され、翌年1月23日に登記を完了した。そして従来の社会福祉協議会の財産や事業などの一切を受け継ぎ、法人としての新たな段階に入ったのである。
初代会長には服部内匠が選任され、広報活動や町内会等の地域住民組織を通じて、趣旨の普及と会員数の拡張を図り、全戸加入を呼びかけているが、56年3月現在の加入者は3222世帯で全町戸数の約50パーセントとなっている。
第2節 社会福祉施設
公営住宅
公営住宅法に基づく公営住宅の建築については、第14編、第1章、第4節戦後の住民生活の項において述べるので、本節では省略することとする。
公営住宅(写真1)
公益質屋
明治以来、庶民の金融機関としての質屋は重要な存在で、当町においてもこれを業とするものもあり、手軽に利用できることもあって重宝がられたものである。しかし半面、利息が高いうえ返済期限が切れると、質草を流してしまうという不安もあった。
こうした質屋は八雲町にも数軒開業され、明治・大正・昭和と庶民の間に利用されていた。
一方、町においては住民福祉の見地から、困窮世帯に対して低利の生活資金を融通する機関として「公益質屋」を開設することは数年来の懸案であり、新町建設計画のなかにも取り上げられている事業の一つであった。
そのため具体的な検討を進めた結果、昭和32年12月5日に「八雲町公益質屋条例」を議決のうえ、10日から住初町14番地においてこれを開始した。この公益質屋は、一世帯500円を限度とする小口融資で、月3パーセントの利息であり、利用する人にはある程度喜ばれたものの、利用状況は低調で多くの住民に歓迎されたとはいえなかった。
こうしたことから昭和39年(1964)3月31日をもって廃止されたのである。
公益質屋(写真2)
生活館の設置
地方の生活環境改善のための施設整備事業の1つとして、昭和39年(1964)落部328番地に「八雲町生活館」が新設され、10月28日に落成式が行われた。
この生活館は、国費と道費の助成を受けて、地域社会の生活改善や社会福祉事業に活用するため設置されたもので、補強コンクリートブロック造り、総面積205・89平方メートル、備品などを含めて466万円を要した。
しかし、実際的にはこの年4月から不十分な施設のまま開設した「落部保育所」にも併用されることになったので、必ずしも生活館本来の目的を果たすことはできなかった。
その後、昭和53年(1978)には保育園の建物が新設されて10月に移転したので、一部を手直しして青少年の柔剣道や生活改善のための各種集会など、所期の目的に沿った活用が図られることになった。
なお施設は、保育所併設中の昭和45年に木造平屋建て108・54平方メートルを増設しているので、現在は314・43平方メートルとなっている。
また、49年には国費・道費の助成を受けて、内浦二区に「内浦生活館」を建設した。この生活館は、木造平屋建て132・2平方メートルで、総事業費877万6000円を要し、他の地区と同様にその運営を地域に委託のうえ自治活動と併用の形で利用されている。
内浦生活館(写真1)
青少年会館の設置
勤労青少年をはじめ小・中・高校生の健全育成を目的として、昭和42年(1967)に総事業費1227万4000円をもって、鉄筋コンクリート2階建て延べ429・3平方メートルの「青少年会館」を建設し、同年12月にオープンした。しかしこの会館は53年(1978)10月に総合体育館が新設されたので、施設のより有効な活用を図るため、内部改造を行ったうえこれまで公民館内にあった図書室を移転し、独立図書館として発足した。
青少年会館(写真1)
社会福祉センターの建設
昭和40年代中期までは、町民一般の集会の場に利用される施設として、八雲町公民館(40年9月完成)が中心となっていたが、この公民館も最も大きな部屋を結婚祝賀会などに利用する場合でも、120名程度の収容が限度であり、さらに公式の大きな行事ともなれば八雲小学校体育館を便用しなければならないという不便な状況であった。このため、多数の人員を収容することができ、しかも気軽に利用できる施設の整備を望む声が高まってきた。
こうした情勢下に就任した北口町長は、当時の財政事情からみて必ずしも容易な事業ではなかったが、町民福祉の増進のため早期に解決すべき問題として取り上げ、少なくとも500人から600人程度を収容できる講堂のほか、多目的に利用できるよう配慮した「社会福祉センター」の建設を計画したのである。
この計画に対応して町議会においても、特別委員会(委員長・水野博、委員9名)を設置して、適切な事業の執行が期されるよう側面的に検討を加えた。
この結果、建設適地として買収を予定していた東町48番地(内藤広巳所有)の土地が、福祉センター建設敷地として狭いことが確認されたため、これを児童遊園地に当て、これまで児童遊園地としていた東町287番地を転用することとした。
これにより昭和46年度から二か年継続事業をもって施行し、総工費1億3666万円を投じ、鉄筋コンクリート造り2階建て延べ面積1963・15平方メートルの近代的な施設として完成、47年11月5日にオープンしたのである。
この施設は、568平方メートルの大講堂(ステージ・放送室・準備室などを含む)を中心に、小会議室3・和室4・料理研修室・福祉相談室・浴室などが設けられており、開設以来広く町民に親しまれ、結婚祝賀会などはほとんどがここを利用している。
児童遊園開園式(現、社会福祉センター)(写真1)
社会福祉センター(写真2)
第3節 老人福祉
概況
戦後における社会環境の著しい変動や核家族化による私的扶養の減退などによって、老人の生活は不安定なものとなり、また、老齢人口の増加煩向から老人問題については社会的な関心が高まり、福祉の増進についてその対策が望まれるようになった。
社会福祉センター平面図(写真1)
当町では、昭和33年(1958)にいち早く「敬老年金条例」を制定し、わずかながら年金(のち祝金と改める)を贈り、その長寿を祝い敬老の意を表すことにした。
国においても老後の所得保障の体制を整えるため、翌34年4月に国民年金法を公布し、同年11月から老齢福祉年金の特別支給を開始したのである。さらに老人福祉に対する社会的責任の所在を明らかにするため、38年7月に「老人福祉法」を制定して8月1日から施行した。
この老人福祉法は、老人は多年にわたり社会の発展に寄与した者として敬愛され、かつ健全で安らかな生活を保障されるものであるという基本理念に立ち、国および地方公共団体は老人の福祉を増進する責務を有するものと明確化したが、当町でもこの精神に従い、逐次老人福祉の施策が講じられるようになった。
すなわち、老人クラブに対する設備費や運営費を補助する道を開くとともに、クラブの設立について奨励した。また、44年(1969)1月からは「老人家庭奉仕員」制度を発足させた。
さらに同年4月に道知事から「老人福祉相談員」として井藤七五三が委嘱され、老人問題の的確な把握と、個々の実情に応じた相談や指導に当たることになった。
昭和47年1月からは満70歳以上の高齢者に対する医療費の無料化制度を導入して逐次改善向上を図るほか、49年4月から60歳以上の高齢者と同居するものに対して、専用居室を増改築するための費用を貸し付ける「老人居室整備資金貸付条例」を制定し、高齢者と家族との間の生活環境の改善に努めたのである。
なお、49年8月には社会福祉センターの裏に楽焼き制作用の「好日趣味の家」を建て、老人の生きがい対策を講じた。
さらに53年(1978)9月には福祉バスを購入(500万円)し、老人の教養研修・健康増進・レクリェーションなどに活用している。この福祉バスの購入に当たっては、下の湯の後藤光雄(落部長寿会会員)から100万円が寄付されたのであった。
敬老祝金制度
町内に住んでいる高齢者の長寿を祝福し、敬老の意を表すため、昭和33年(1958)5月に「八雲町敬老年金条例」を制定し、町独自の敬老年金を支給する道を開いた。当初この制度は、毎年9月15日現在88歳以上で、引き続き3年以上居住している老人に対し、年額2000円の金品を贈ることにしていたのであるが、44年から3000円に、さらに45年からは居住要件を廃止したうえ、80歳以上に3000円、88歳以上に5000円と改定された。
なお、昭和46年度からは数え年77歳以上にまで受給年齢を下げて、一律5000円を支給することとしたうえ、50年度からは各種年金との紛らわしさを避けるため、「敬老祝金」と改称して現在に至っている。
老人クラブ
昭和38年(1963)8月に老人福祉法が施行されてから、老人クラブの設立が積極的に奨励されるようになった。
これより先の昭和36年10月、富士見町の紺野勝が自宅を解放して「高砂老人クラブ」を誕生させたのが、当町における老人クラブの始まりである。
老人福祉法の施行後は、クラブの設立が各地区にみられるようになり、42年には町社会福祉協議会の主催で研修会が開催され、各老人クラブの実情発表などが行われた。
福祉バス(写真1)
こうしたことがきっかけとなって老人クラブも次第に増加し、46年3月には17クラブ、会員数737名を数えるまでになったので、クラブ間の連絡を強化するため老人クラブ連合会を設立した。そして初代会長には高砂老人クラブの紺野勝を選任したが、翌年4月から落部長寿会の須藤秀吉が会長に就任して現在に至っている。
なお、56年7月現在の老人クラブは上表のとおりで、23団体、会員数968名に及んでいる。
また各町村でも、それぞれ連合会を組織して活動を行っていたが、これらと横の連絡を結ぶ組織が望まれるようになったので、渡島地区社会福祉協議会が提唱し「老人クラブ相互の連絡協調と交流を深め、老人福祉の向上をめざす」ため、50年5月に「渡島地区老人クラブ連合会」を設立した。そして会長に坂本義夫七飯町連合会長を選任したが、翌51年3月には、副会長であった当町の須藤秀吉が会長に就任して現在に至っている。
老人クラブ結成状況 (昭和56年7月現在)
団 体 名 |
設立年月日 |
会員数 |
会 長 名 |
地 区 |
高砂老人クラブ |
36・10・12 |
50 |
中 屋 末五郎 |
八雲市街 |
寿 老 人 ク ラ ブ |
38・12・ 1 |
60 |
三 浦 ワ一郎 |
〃 |
老人クラブ福寿会 |
40・ 5・ 2 |
51 |
松 浦 定 一 |
東 野 |
熱田遊楽クラブ |
41・ 1・22 |
20 |
溝 ロ 鶴 吉 |
熱 田 |
花園老人クラブ |
41・ 9・ 1 |
62 |
高 橋 ヲリン |
八雲市街 |
立岩老人クラブ羽衣会 |
42・ 9・15 |
47 |
横 井 司 馬 |
立 岩 |
山 越 八 千 代 会 |
42・11・ 5 |
49 |
酒 田 貫 志 |
山 越 |
黒岩千寿老人クラブ |
42・11・13 |
62 |
倉 地 善 六 |
黒 岩 |
山崎若草老人クラブ |
43・ 3・ 2 |
42 |
岡 田 兼 雄 |
山 崎 |
落 部 長 寿 会 |
43・ 3・ 9 |
52 |
須 藤 秀 吉 |
落 部 |
浜松松竹クラブ |
43・ 3・ 9 |
42 |
那 須 徳 蔵 |
浜 松 |
大 新 睦 ク ラ ブ |
44・ 3・ 3 |
30 |
太 田 正 治 |
大 新 |
春 日 慶 寿 会 |
44・ 3・ 4 |
30 |
水 野 治 郎 |
春 日 |
桜 野 桜 寿 会 |
44・ 3・28 |
31 |
岡 島 利 一 |
桜 野 |
野田生長生クラブ |
45・ 8・28 |
44 |
梶 田 義 勝 |
野田生 |
上 八 雲 寿 老 会 |
45・ 9・ 5 |
18 |
橋 本 幸 衛 |
上八雲 |
花 浦 喜 楽 会 |
46・ 1・26 |
20 |
渡 辺 茂 |
花 浦 |
野 田 生 寿 楽 会 |
48・ 3・31 |
60 |
林 又 |
野田生 |
出雲町老人クラブ |
48・ 5・25 |
59 |
野 口 武 治 |
出雲町 |
栄 町 和 楽 会 |
49・ 3・17 |
63 |
千 葉 嘉 一 |
栄 町 |
はまなす老人クラブ |
? |
20 |
斉 藤 亀 吉 |
内浦町 |
さざなみ老人クラブ |
50・ 3・29 |
21 |
畠 山 岩 男 |
〃 |
栄浜老人クラブ |
? |
35 |
菊 地 徳三郎 |
栄 浜 |
老人家庭奉仕員
老衰や心身に障害があっても、その世話をするものがいないため、日常生活に支障がある老人に安らかな生活ができるように、老人福祉対策の一環として、町は昭和44年10月に「老人家庭奉仕負」、いわゆる「ホームヘルパー」制度を発足させた。
この制度は、老人福祉法に基づき国・道・町が費用を分担して行うもので、当初は八雲市街地を中心に奉仕員2名を委嘱し、一人で6世帯を受け持ち、1週間に2回家庭訪問をしてその世話をする活動を始めた。なおこの制度は、原則として65歳以上の老人家庭のうち、低所得世帯を対象とするものであった。
昭和47年4月からは落部地区にも1名の奉仕員を配置し、さらに49年4月から八雲市街地に1名を増員するなど、積極的に事業を拡張し、56年度の実績は八雲市街で18世帯、落部市街で6世帯を世話し、関係者に喜ばれている。
老人医療費の無料化
町では老人福祉対策の一環として、老人医療費の負担軽減を図るため、昭和47年(1972)1月1日から満70歳以上の老人のうち、生活保護法の適用を受けている者や社会保険などで10割給付を受けている者以外を対象に、いわゆる老人医療費の無料化を実施した。これは、道(47年3月から)や国(48年1月から)の実施に先駆けての政策導入であり、しかも所得による制限が全くないという積極的なものであった。
この施策は、各種社会保険制度による法定給付や付加給付を差し引いたもの、つまり実際に個人が負担することとなる医療費について、町が全額助成するというもので、老人の保健の維持や福祉の増進に大きな役割を果たすものとして歓迎された。
さらに、49年4月には69歳まで対象範囲を拡大してきたが、53年2月に所得額のほか多くの制限を付したものの、道の施策として老人医療費助成の対象範囲が、65歳以上69歳までの老人に拡大のみちが開かれだので、これに対応したのは当然であった。
なお、当町においては同年4月から68歳まで(ただし、68歳の者に限り、老人福社法施行令に規定する所得額を超えないことを要件とする)年齢引き下げを行うなど、常に国や道の施策に一歩先駆けた積極的な施策が講じられているところである。
特別養護老人ホーム
昭和38年8月老人福祉法の施行により、65歳以上の老人で常時介助を必要とする者を収容し、養護を目的とする施設を設置することが促進され、市町村および社会福祉法人は、知事の認可を得てこれを設置することができるとされた。
戦後、社会環境の著しい変動により、核家族化か増加し、高齢化社会が進むにしたがって老人の生活が不安定となり、当町においても特別養護老人ホーム設置の要望が次第に高まってきた。
昭和55年4月の調査によると、当町のいわゆる「ねたきり老人」は在宅40名、他市町村施設への入所者38名となっており、さらに潜在該当者のあることが予想されていた。
こうした老人福祉に対応するため北口町長は、55年度の町政執行方針のなかで、特別養護老人ホームの建設を今任期中に実現する旨公約し、その準備を進めた。また、この事業を効率的に運営するためには、法人を組織して運用することが適切であると考え、56年度に社会福祉法人設立準備委員会(委員10名)を発足、5月7日に第一回の会合を行い、法人の名称を「八雲会」、建設する施設の名称を「厚生園」と決めた。
さらに、役場内に特別養護老人ホーム建設準備室(室長・奥田昌喜)を設置し、諸般の準備手続き一切の事務に当たらせた。
敷地の選定については、町内教か所を候補地として検討中であったが、たまたま故久保田正秋の遺族から故人の社会福祉事業に対する遺志によって、大新47番地の4、面積9863・50平方メートルが寄付されたのであった。
これにより工事は7月に着工して順調に進み、12月に完成した。施設は、耐火構造で鉄筋コンクリート平屋建て、面積1699・55平方メートルの本体工事のほかに、暖房衛生設備工事、電気設備工事など総事業費4億1640万円を費したものである。またこの間に社会福祉法人の設立認可を受け、理事長に服部内匠を選任、理事8名、監事2名を選任し、初代園長に小松豪が就任して57年2月1日オープンしたのである。なお、建設準備室長の奥田昌喜は、派遣職員として指導室長に任命された。
この施設の収容人員は50人で、4人部屋11室、2人部屋3室となっており、各室にテレビが備えてあり、使用しやすく配慮されたトイレット、横になったまま入浴できる特別浴槽など、老人に適応した近代的な設備が施され、快適な日常生活が送れるようになっている。
管理運営には、園長のほか事務職員2名、生活指導員1名、同補助員1名、看護婦2名、寮母2名、介助員2名、栄養士1名、給食調理員4名、嘱託医師1名、合計27名が、医師の指示に従い老人の健康管理にあたっている。
特別養護老人ホーム(厚生園)(写真1)
第4節 児童福祉
児童福祉の概要
昭和23年(1948)1月に児童福祉法が施行され、「すべての国民は児童が心身ともに健やかに生まれ、育成されるように努めなければならない」とするとともに「すべての児童は、その生活を保障され、愛護されなければならない」という理念をもって、児童の福祉増進が図られることになった。そして民生委員が兼ねる児童委員が置かれ、児童や妊産婦の保護などの福祉の増進に努めなければならないこととされたのである。
こうした法制を背景に、当町での児童福祉施設としては、昭和56年度現在で、29年7月設立の国の子保育園、30年6月設立のくるみ保育園など常設保育所4、季節保育所4、私立無認可保育所1があり、また、相生児童館など児童館が2、児童会館3、児童造園13を数えている。
なお、国立療養所八雲病院に収容されている重度心身障害児や進行性筋ジストロフィー症児の面会に訪れる父母などの宿泊施設、ボランティア活動の処点として、「財団法人しらかば愛育会」がある。
乳幼児医療費の助成
乳幼児の健康保持と父母らの負担軽減を図るため、昭和48年(1973)4月1日から3歳未満の乳幼児の医療費助成制度を実施した。
このとき実施した制度は、道の施策が1歳以上3歳未満児については、入院に限るという制度付きのものであったが、町で一切の制限はなく、3歳未満児について入院、人院外を問わず、また、歯科も対象とする積極的なものであった。なお、54年1月からは、さらに3歳以上6歳未満児の入院医療費についても助成の対象を拡大した。
町が行う助成とは、各種社会保険制度における保険給付額(付加給付を含む)や、国または道が負担することとなる医療給付額を控除した額としたのは当然であり、昭和55年度においては、5621件、対象人員947名、助成額1289万9537円に及んでいる。
第5節 児童福祉施設
保育所のはじまり
前にも述べたのであるが、当町においては第一次大戦後に結成された愛国婦人会八雲委員区が、昭和3年(1928)元町西教寺の本堂に「愛国婦人会八雲託児所」を開設し、町費の補助もあって農村および一般労務者家庭の幼児を預かり、保護育成を図った。これは3年間継続して行われたが、この託児所の開設が当町における保育施設のはじまりである。
昭和23年(1947)に児童福祉法が制定され、保育所の設置目的として「日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児又は幼児を保育する」ものと定められた。
町立八雲保育所(くるみ保育園)
児童福祉法が制定されたことによって、町においても町立保育所の設置について検討を進め、昭和30年(1955)5月に富士見町の現位置に、木造亜鉛ぶき平屋建て252・45平方メートルを工費183万9800円で新設した。
この保育所は収容人員60名で、30年6月27日から職員5名を配置して委託保育を開始し現在に至っている。
なお、48年10月からは「くるみ保育園」と改称した。
町立保育所(くるみ保育園)(写真1)
町立あかしや保育園
両親が季節的な仕事に従事しているため、子供を十分に養育できない世帯を対象に、落部地区内の有志が協議して運営委員会(会長・伊藤淳一)を組織し、昭和36年(1961)5月18日から季節保育所を開設したのが、あかしや保育園のはじまりである。
設立当初の保育所は、落部八幡宮参道入口の右側にあった町有建物を利用し、5月から10月までの六か月保育として開設したが、建物も古く狭いため不便な状態にありながら、保母3名に対し収容児童は89名という予想外の数であった。
このような運営の状況に対し、地域住民から町営による通年保育の開設を望む声が高まってきた。町はこうした要望と実態を改善するため、町営による運営方策を決め、39年4月24日の臨時会で「町立落部保育所条例」の議決を経て通年制の保育所に位置付け、「町立へき地保育所」として開設したのである。しかし、施設はこれまでの建物であるうえ、定数を4歳児以上で90名としたが、実際には100名近くを収容するということで、不自由さについては全く変わるところがなかった。
ちょうどこの年、地方環境改善のための施設整備事業として、この保育所の裏手に「八雲町生活館」(205・9平方メートル)が10月に完成したので、これを保育所施設に併用することとして移転した。
町立保育所(あかしや保育園)(写真2)
しかしこれにしてもなお十分とはいえなかったので、昭和45年(1970)3月に遊戯室を中心に108平方メートル余を増築し、保育所としての体制を整えた。
こうして施設の整備が進められたのであるが、落部地区には他に保育所や幼稚園がないという実情から、一面では幼稚園的な色彩も強く、収容した幼児のすべてが必ずしも保育に欠けるという実態ではなかった。このため町では直ちに認可保育所とすることを避け、当分の間はへき地保育所としての性格のまま運営を続けたのである。
なお、48年10月にはこの建物の前に大きなあかしやの木があることにちなんで「あかしや保育園」と改称した。
このような保育園の実態は、へき地保育所としての性格を超えたものであり、児童福祉法に基づく認可保育所として運営すべきであるという、その筋からの指導もあったので検討を続けた結果、町は認可保育所とすることに決め、53年度中にこれにふさわしい施設を新築することとした。
建設敷地は生活館前庭の落部330番地に選定のうえ6月30日に起工し、木造モルタル平屋建て、床面積580・5平方メートル、建築工事に3982万7000円のほか、電気工事、外構工事、備品設備費などを含めて総額5344万8000円を投入して9月30日に完成した。
この完成によって町は、児童福祉法による保育所として認可を申請した結果、53年11月1日付渡島支庁長指令(渡社会第2323号)をもって認可され、保母6名を配し「八雲町立あかしや保育園」として運営することとなったのである。
私立国の子保育園
昭和29年(1954)7月に児童福祉施設として国の子保育園が設置された。この保育園は、立岩90番地の妙泰寺住職池浦泰宜が経営し、同寺に併設したものである。施設は231平方メートル余りで、収容人員は60名で保母4名が保育に当たった。
その後、常設保育所の個人経営が不適当であるという指導もあって、法人化を考慮し46年8月「社会福祉法人仏子会」を設立、理事長に池浦泰宜を選出し、厚生大臣の認可を受けて再発足した。
また49年には施設の全面改築を行い、保育の充実を期すると同時に定員も90名に増員、保母6名が保育に専念している。
私立なかよし保育園
この保育園は、昭和45年(1970)3月に堂七徳之らが「社会福祉法人出雲会」を設立し、理事長に堂七を選任のうえ厚生大臣の認可を受け、相生町97番地の大徳寺境内に設置した。設置にあたっては当時住職の中山真暁が専らその掌にあたり、同年4月木造平屋建て416・34平方メートルの施設を整備し、収容人員90名、保母5名をもって保育が開始された。
私立なかよし保育園(写真2)
その後、社会情勢の変化によって保育児童が増加する傾向から、これに対応するため48年と51年に施設の一部を増築したほか、屋内遊戯場の整備を図り、収容定員も120名、150名と増員し、保母10名によって円滑な運営を図っている。
季節保育所等
当町には、現在四か所の常設保育所のほかに、季節保育所四か所、私立無認可保育所一か所があり、各地区の有志などで組織する自主的で任意な運営委員会によって運営されている。町ではこうした季節保育所等に対し、父母負担軽減のため昭和44年度から季節保育所等運営委託料交付のみちを開き、円滑な運営に配慮している。
なお、各季節保育所等の運営についての概要は次のとおりである。
こばと保育園
この保育園は、昭和37年(1962)5月に野田生の龍穏寺(住職・菅原光禅)の経営で開設されたが、地域住民の要望によって運営委員会方式に転換することとなった。このため町は、45年8月に保育所の専用施設として、野田生80番地に町有建物205・12平方メートルを新築してこれに充て、さらに50年度に一部増築(50・22平方メートル)するなど運営の円滑化を図っている。
この保育園の対象区域は山越や東野地区にも及び、常時80名以上の幼児を収容し、5名の保母によって通年保育を行っている。
私立こばと保育園(写真1)
若草保育所
この保育所は、昭和40年(1965)4月に黒岩地域内の母親たちの強い要望により、旧青年会館を利用して季節的な保育所として開設したことにはじまる。
しかし、この建物は老朽化しており、また保健衛生の面からも好ましくないという事情から、施設の改善を望む声が強まった。このため町は、43年8月黒岩120番地に町内会館を兼ねた消防器具格納所の建設と並行して、児童会館(155・52平方メートル)を建築し、保育所に利用することとして体制を整えた。
開設期間は毎年4月中旬から12月中旬までの純季節保育所であったが、51年4月からは通年保育に変更して現在に至っている、なお、定員は30名であるが、入所数は20数名で、保母2名によって保育が行われている。
はまなす保育園
この保育園は、山崎地区住民の強い要望によって、昭和44年(1969)4月から地域会館と併用の山崎消防会館を利用して開設された。しかし当初から保育園専用に建築されたものではないため、内部の不備や狭いことによる運営上の障害が出たので、町は48年4月同会館に38・88平方メートルを増築した。
しかしこれにしてもあくまでも兼用施設のため不便は解消されず、加えて施設は国道5号線沿いにあって、通園時の危険度や車両の騒音に悩まされるという悪条件も重なっていた。
私立はまなす保育園(写真2)
このため町は、昭和54年(1979)山崎142番他の民有地の一部を借りて10月下旬に工事費1420万円をもって起工、12月25日に木造平屋建て200・07平方メートルの保育所を完成、はまなす保育園と命名した。
開設期間は、4月から11月までの八か月で、入所児童は20名前後であるが、この施設の完成によって、54年度からは4月から12月までの九か月、さらに55年4月からは通年保育とし、保母2名によって保育が行われている。
かもめ保育園
この保育園は、栄浜地区住民の強い要望によって、47年6月に旧教員住宅(66平方メートル)を急きょ改造して開設したものである。その際、森町石倉地区住民の要望もいれ、共同で運営委員会を組織しているところに特色がある。
開設期間は通年制で、入所児童は毎年25、6名であり、保母2名によって保育が行われている。
保育園に充てていた建物は、前述のように旧教員住宅を改造したものであり、老朽化のうえ狭いため、町では54年8月にこの建物を解体し、工事費1440万円をかけて新たに木造平屋建て200・07平方メートルのものを新築して10月から使用を開始した。
さくら保育園
この保育園は、昭和47年(1972)4月に花浦(2区)会館を利用して開設されたものであるが、町はさらにこれを充実するため49年7月に同会館に19・44平方メートルを増設した。
開設期間は4月から11月までの八か月で、入所児童も10名前後であったが、53年度からは入所児童が著しく減少して継続が困難になったので、53年3月限りをもって閉園した。
ひまわり保育園(私立)
この保育園は、八雲市街地の3認可保育所に入所できない児童が多い実情から、町内有志によって運営委員会(会長・永洞洋三)を組織し内浦町107番地にプレハブ一部木造平屋建て138・51平方メートルの施設を建築、昭和53年(1978)5月に開園したもので、翌54年には遊戯室90・72平方メートルを増設した。
町はこの園舎建設および遊戯室増設に際し250万円、200万円をそれぞれ補助してこれを支援したのである。
園児の定数は50名としており、開園当初38名であったものが、その後は50名を超える状況で、保母3名によって保育が行われており、現園長は永洞洋三である。
相生児童館
児童に健全な遊び場を与え、また、集団的な指導や子供会の活動の場として活用し、健康な身体と豊かな人間性を育てることを目的に、児童館と児童遊園地を設置するため、町は昭和39年度において相生町29番の9、宅地5581平方メートル余を買収してこれに備えた。
昭和41年(1966)10月に補強コンクリートブロック造り平屋建て、約248平方メートルの「相生児童館」を建設すると同時に、前庭に児童遊園地を整備した。
開館は、当時青少年問題協議会が設定した第一回の”青少年の日”である11月20日に行った。
その後、町教育委員会が提唱しつつあった健康づくり推進の場とするため、おりから閉校した八雲鉱山小学校の屋体を移築し、45年度から二か年継続事業で「スポーツホール」211・5平方メートルを増設した。そして、剣道・バドミントン・バレーボール・卓球などに利用できるようにしたもので、46年6月に完成した。
相生児童館(写真1)
しかしこの建物は、これらのスポーツの普及振興を図るには十分なスペースとはいえなかったので、さらに48年度に117平方メートル余を増築して、ホール面積を328平方メートル余とした。
なお、この児童館は43年度から教育委員会の所管に移し、社会教育委員が兼務する児童館運営委員会を構成して、珠算教室や版画教室、映画会など随時適切な事業を行い、児童の健全育成に取り組んでいる。
その他の児童館等
町教育委員会が直接管理する相生児童館のほか、昭和42年度に建築の野田生児童会館、43年度の黒岩児童会館、47年度の西部児童会館(栄町)、51年度の東部児童館(富士見町)などがあるが、これらはその地域における関係町内会で組織する運営委員会に管理を委託し、実質的には地域会館として活用されている。
第6節 母子福祉
母子福祉
社会的に弱い立場にある母子家庭の福祉対策として、昭和4年(1929)の「救護法」が、12年(1937)に母子家庭の保護と救済を目的として「母子保護法」の制定となり、戦後は戦争犠牲者に対する援護の必要性から、27年(1952)に「母子福祉資金の貸付等に関する法律」が制定されるなどしだいに福祉対策が進められた。
さらに34年(1959)4月の「国民年金法」の制定により、母子年金・母子福祉年金の創設となり、36年には児童手当制度が設けられ、39年7月母子福祉に関する基本法である「母子福祉法」が制定されたのである。
町は、昭和48年(1973)10月から「母子家庭等の医療費の助成に関する条例」を施行し、義務教育修了前の母子家庭などの児童に医療費助成のみちを開いたが、さらに50年7月からはその児童を扶養している母親にも適用している。
母子会
母子家庭という共通の生活環境にある者が、お互に力を合わせて励まし合い研修や親睦を深めて明るく住みよい地域社会づくりに努めることを目的に、昭和34年(1959)9月およそ40名の会員をもって「八雲町母子会」が結成された。初代会長には服部レイが就任し、会の事業目的に従って、会員相互の親睦あるいは児童の育成保護など、積極的な活動を行ってきた。
昭和49年(1974)4月からは平田キヱが会長に就任し現在に至っているが、社会福祉大会への参加、新生活運動、ボランティア活動などのほか各種の事業活動の推進によって、会員も次第に増加し130名を超えている状況である。
また、各町村でも同様に母子会が結成されていることから、同じ生活環境にある者として広く他の団体との協調を深めるため、渡島支庁管内に渡島地区母子福祉連合会が設立され、研修会などの母子福祉活動が行われていたので、49年にこれに加入し、51年から当町の平田キヱが連合会長を務めている。
第7節 身体障害者福祉
身体障害者福祉
終戦後の社会経済情勢が不安定ななかで、体に障害のある人たちの社会的な更生に援護の手を差し伸べ、自らも進んでその障害を克服して、社会経済活動に参加できるように努めなければならないことなど、障害者の福祉の増進と生活の安定を図ることを目的として、昭和24年(1949)12月に「身体障害者福祉法」が公布され、翌25年4月から施行された。
町は昭和48年(1973)10月から「八雲町重度心身障害者の医療費の助成に関する条例」を施行し、その障害の程度が重度の者に医療費助成の道を開いた。また、54年1月からは20歳未満の児童を扶養している者の入院医療費、さらに7月からはこれらの者に扶養されている20歳未満の無職の者の医療費にも適用を拡大している。
身体障害者福祉協会
こうした法の趣旨に基づき障害をもつ人たちが互いに助け合い、また親睦を深めて地域社会活動に参加しながら福祉の向上を図るため、昭和27年6月に黎明館において総会を開催し、「八雲町身体障害者福祉協会」を設立のうえ初代会長に永田親賢が就任した。
その後、北海道身体障害者福祉協会渡島支部に加入して同支部八雲分会となったが、当町の福祉協会そのものの名称が変わったわけではない。
会の事業としては、会員相互の親睦を深めながら、その目的に従って研修会や他町村の活動状況視察、また、渡島支部主催の福祉大会への参加など積極的な活動を続けており、こうしたことから次第に会員も増えて140名を数える状況である。
なお、昭和57年現在の会長は引間二郎が務めている。
第8節 ウタリ福祉対策
北海道旧土人保護法
北海道の先住民族といわれるアイヌ民族を明治11年(1878)「旧土人」と呼称するようになり、これら旧土人が和人に土地を収奪されることを防ぐため、32年(1899)に「北海道旧土人保護法」が公布施行されることになった。
この法律は、旧土人は古くから狩猟と漁労で生活を営み、土地を所有するという観念がなく、明治以降は北海道開拓の進行とともに和人の移民によって生活圏が侵されるようになったため、これら旧土人に対して1戸につき1万5000坪(約4万9500平方メートル)以内の土地を無償で給与するなど、いろいろな保護政策を定めた。こうして施行された法律に基づいて実施された八雲の旧土人給与地の市街宅地に隣接する地域は、自ら耕作するもののほかに和人との間に貸借関係が生じ、しかも賃貸料の受け渡しの経過が年とともにあいまいになり、せっかくの給与地が保護の目的にそわない実情となってきた。このため昭和4年(1929)にこれら給与地の整理を目的として「八雲互助組合」を設立のうえ、規約の設定や給与地整理方法などについて協議した。これによって従来の土地賃貸関係を打ち切り、区画割りをして賃貸料を定め、互助組合長と借他人との間に契約を締結し、賃貸料は3年ごとに組合管理の下に貯蓄を奨励し、それを住宅改良資金に充当するよう指導したのであるが、収入の大部分は一般生活費に充てる実情で、所期の目的を達するには至らなかった。
北海道ウタリ協会八雲支部
昭和21年(1946)社団法人北海道アイヌ協会の設立にともない、町村に支部を置くこととなり八雲支部が設置され、支部長に椎久年蔵が就任し翌22年に互助組合の事業を引き継ぐこととなった。
昭和36年(1961)に開催された同協会定例総会において、「アイヌの呼称は、かつて差別用語として使われ、今も抵抗感を持った仲間がいる。」ということから、名称変更の要求が出されてこれが採択され、「アイヌ協会」を「ウタリ協会」(アイヌ語で仲間または同士の意味)と改称するとともに、支庁単位に支部連合会を置くこととなった。昭和56年現在の北海道ウタリ協会八雲支部長は椎久建夫で会員は47名である。
ウタリ福祉対策
道は昭和36年にウタリ協会が設立されて以来、ウタリ住民に対する福祉対策として種々の施策を講じ、年々その充実を図ってきた。主要施策として、(1)自立更生の助長、(2)就労安定化の促進、(3)産業の振興、(4)生活環境の整備、(5)福祉の向上、(6)住宅の確保、(7)教育文化の振興、(8)組織活動の促進、などを実施している。
当町でもこれらの施策に呼応して、生活環境施設改善事業として、生活館の新設、運営、下水排水路の設置、ウタリ住宅改良事業として、老朽化している住宅の建替え、改修に対する資金の貸付、高等学校等進学奨励事業として、高等学校に修学する者に対して修学資金の助成等を行っている。
また、道はウタリ住民の適正な職業選択等の指導に当たるため、昭和50年度から函館公共職業安定所八雲出張所内に職業相談員を配置している。
第9節 生活保護と年金制度
生活保護
太平洋戦争の終結によって、公的な扶助を必要とする海外引揚者や戦災者を救済するための臨時応急の措置として、昭和20年(1945)12月に生活困窮者に対し、宿泊・給食・医療・衣料・寝具・その他必需品の給与、食糧品の補給などの生活保護を行うことを内容とした「生活困窮者緊急生活援護要綱」が決定され、21年4月から実施された。
しかし、これはあくまでも臨時的な措置にすぎなかったことから立法化が進められ、21年9月に「生活保護法」が制定された。
その後社会情勢の変化にともない、25年にこの生活保護法が全面的に改正され、生活・教育・住宅・医療・出産・生業・葬祭扶助の7種類に明確化された。すなわち、すべての国民に最低限度の生活を営む権利を保障し、生活困窮の程度によってその必要な保護を行い、自立を助成させることを目的としたのである。このほか北海道には特別基準として薪炭扶助も加えられた。
生活保護の運営は、当初町村長によって行われ、費用負担は、国費が8割、道費と町費がそれぞれ1割となっていたが、26年10月からはこれらの保護事務がすべて道に移管され、保護費も国費8割、道費2割となった。
当町における昭和37年度の被保護世帯数は、218世帯694名であったが、55年4月には204世帯386名となり、保護率は1・9パーセントである。扶助の内容は、生活扶助344名、教育扶助64名、住宅扶助238名、医療扶功176名となっている。
年金制度
国民年金制度は、老齢、廃疾または死亡によって生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯で防止することを目的として、昭和34年(1959)に創設された制度である。
34年11月から無拠出年金である老齢・障害・母子(準母子)の福祉年金支給が開始された。
また、35年10月からは拠出年金の被保険者の適用事務が開始され、36年4月から拠出年金保険料の徴収が行われることによって本格的に動き出した。
この制度の発足のとき、既に高齢になっている者への経過措置として、10年年金制度を設け、また45年には5年年金、さらに48年には10年年金と5年年金未加入者への救済、そして救済制度としては最後といわれる特例加入制度を53年に実施し、未加入者などを救済している。