第12編 労働

 第1章 労働組合

  第1節 労働組合の結成

労働組合の発足
 戦後、昭和20年(1945) 12月連合軍総司令部の強力な指令のもとに、占領下の民主化政策の重要な柱として、労働者の団結と団体行動を保障する「労働組合法」が公布され、翌21年3月から施行されることとなった。
 これによって全国的に労働組合が結成されるようになり、当町においても、中外鉱業・北教組・保線区・全医労・駅・全日通・全逓・全電通・全林野・北海電労・全道庁などの組合やそれぞれの支部が結成され、組合員は約1000名を数えたのであった。
 昭和29年に発行された「北海道労働組合名鑑」によると、当時の労働組合の結成状況は次のとおりである。

組   合   名

代表者名

組合員数

設立年月

中外鉱業八雲鉱山労組

工 藤 清三郎

196

29

225

21・ 3

中外鉱業椛S職組八雲支部

田 中 万 吉

39

41

22・ 5

雪印乳業釜J組八雲支部

浅 田 邦 八

84

14

98

21・ 5

八雲製材労組

佐々木 石五郎

14

16

23・ 4

北海道農材工業株ェ雲工場労組

福 田 勇 助

14

23・ 3

北洋相互銀行職組森支部

亀 田 正 夫

54

13

67

21・ 5

全日通労組道南地区函館支部八雲分会

小野寺 清 悟

182

185

22・ 7

国鉄労組札幌地方本部札幌支部八雲保線区分会

中 田 定 行

175

175

22・ 6

全林野労組函館営林局支部八雲営林署分会

寺 ロ 八 造

49

55

28・ 4

全逓信従組八雲郵便局支部

松 橋 兼太郎

40

45

28・ 2

全電通労組函館地方支部八雲電報電話局分会

畠 山 利 明

48

27

75

28・ 4

国立療養所八雲病院労組

谷   幸 輝

40

72

112

21・ 2

全道庁職組八雲保健所支部

泉 井 秋 男

18

21・10

北海道教職員組合八雲支部

山 本   猛

104

43

147

21・ 3

計      14

 

1,043

172

1,215

 


 このように、昭和21、22年にかけて労働組合が結成されたのであるが、このころはいわゆる組合の揺らん時代で、町内の組合同士は横の連絡がなく、各単産は上部組織からの指令によって活動を展開するといった程度で、メーデーなどで会合するにすぎなかった。
 その後は時代の推移とともに組合に対する認識も高まり、官公署などでも逐次結成されていった。
 昭和56年6月末現在の組合数は、前記「北海道労働組合名鑑」によれば次のとおりである。

種類

産業
分類

組    合    名

所在地

代表者名

組合員数

設立年月

加入上級団体

全山労道本八雲支部

栄町11

渡辺 忠治

   15

 

全山労

建設一般全日自労道本八雲支部

東雲町36

鳰  一公

   83(25)

56・ 4

建設一般全日労

全相銀連北洋相互銀行従組八雲支部

本町223

宇部 建三

    1

33・ 6

全相銀連

全たばこ配送労組地本道南ブロック協議会
八雲分会

富士見町79

工藤 義幸

    2

 

八雲地

八雲町農協従組

末広町161

鈴木 二郎

   62(13)

 

全農協労連

八雲自動車学校労組

内浦町210

山崎 富明

   13

 

 

落部一般労組

落部(駅内)

中田 佐市

   73(24)

40・ 3

道季労

八雲町季節労働者組合

東雲町88

渡辺 忠治

  250(100)

40・ 3

 

全林野函館地方本部八雲営林署分会

出雲町60

堂七 正名

   27(2)

28・ 4

八雲同盟

 

全専売札幌地方本部八雲分会

東雲町38

菅原  隆

    5

24・ 4

八雲地

 

国労道本青函地本長万部支部八雲駅地区分会

本町125

佐々木 繁

   56

22・ 4

八雲地

 

国労道本青函地本長万部支部八雲保線区分会

本町125

清水 正一

  150

22・ 6

八雲地

 

全電通道地本函館地方支部八雲電報電話局分会

本町364

管藤 伸悟

   89(39)

28・ 4

 

全逓道地本小樽地区本八雲地方支部

本町256

長谷川 洋二

  187(1)

28・ 2

函館地

 

全国税道地連道南支部八雲分会

出雲町60

金城 公雄

    1

32・ 2

 

 

北海道国税労組八雲支部

出雲町60

玉井 謙二

   12(1)

32・ 2

 

 

全医労国立八雲支部

宮園町128

桜田  裕

  190(142)

30・ 4

八霊地

 

自治労八雲町職組

住初町138

宮下 平二郎

  208(94)

41・ 7

 

道高教組道南支部

住初町88

小口 明雄

  116(10)

30・ 5

日高教

 

自治労全道庁渡島総支部八雲保健所支部

末広町8

三浦 ヒロエ

   23(6)

21・ 6

 

 

自治労全道庁八雲町協議会

末広町120

佐藤 年三

   23

33・11

 

 

八雲地区労協

東雲町

佐々木 繁

1、104

30・11

全渡地労連

 

八雲地区同盟

富士見町103

浅井 敏行

   80

 

 

 

道南地区季節労働者連絡協議会

東雲町88

越前 谷忠

1、340

47・1

 


 種類
   単位組織組合=独   単一組織組合の下部組織=単   協議組織=協
 産業分類
   B=林業 J=運輸・通信業 E=建設業 L=サービス業 H=金融・保険業 N=分類不能



 第2節 八雲地区労働組合協議会等

地区労の結成
 町村単位に地区労働組合協議会(地区労)の結成を呼びかけ、全道的な組織化を図ったのである。
 このような道内の動きもあって、当町でも昭和28年(1953)に各単産代表者による会合が重ねられ、地区労結成について協議が行われた。これによってその機運も高まり、30年6月11日結成大会の開催にこぎつけ、議長畠山利明、事務局長植村清治を選任し、「八雲地区労働組合協議会」として発足したのである。このとき加盟したのは、中外労・北教組・国鉄保線区・全医労・全日通・全電通・全逓・全林野・国鉄駅・電産・全道庁の11単産であり、会員は約1000名であった。

結成当時の運動
 結成当時における地区労の運動方針としては、

1、町税の軽減対策、2、明るい町の建設、3、青年婦人に希望を、4、農漁民中小企業者との提携、5、健全財政の確立、6、平和と民主政治の確立

などのスローガンを決定し、運動を展開することとしたのであった。しかし、発足直後の地区労としては、執行部役員の転勤や辞任など種々の事情が重なり、思うような活動を展開するには至らなかったのである。
 たまたま30年5月に町内の木材業者が倒産し、従業員の賃金未払い問題が発生したため、未組織労働者ではあったが地区労としてこの問題に取り組み、未払い賃金の獲得という目標のもとに経営者に対し共闘団交を行い、全額に満た共闘のはじまりともいえ、地区労は労働者の団結によって権利を守り.生活防衛をはかるために運動を展開していったのである。

労働会館の建設
 昭和32年に落部村と合併した際、労働会館の設置が施策として示されたのであるが、当時町の緊急課題としては、義務教育施設や公民館の建設など財政負担のともなう各種事業が山積し、この会館は容易に建設される状況ではなかった。このため、45年(1970)12月に地区労ほか三団体から「労働会館建設に関する請願書」が議会に提出され、審議の結果採択されたのである。
 昭和47年11月に社会福祉センターが建設されたのであるが、これは内容的に労働会館の要素も含むもので、町の労働福祉事務を行い、労働問題その他生活一般の相談に応ずるよう、多目的に利用されるべく計画され、この施設の一室が地区労の事務所に当てられたのである。
 その後、49年に町は働く人々の集会の場として、また東雲町の住民も利用できる地域会館を兼ねた木造平屋建て169平方メートルの、集会室・事務室・和室・調理室などを備えた労働会館を建設した。そして地区労と町が「八雲町労働会館の管理運営に関する委託契約」を行ったのである。これにより11月には社会福祉センターから地区労事務所を移転して現在に至っている。

労働会館(写真1)


地区労の活動状況
 八雲地区労は結成以来、上部団体である渡労連や全道労協と密接な連携を保ちながら、勤労者の福利厚生のため活動を続けてきた。特に昭和46年には「地区労理容所」を指定するため、理容組合や商工会などと積極的な協議を重ね、既存業者の生活権を侵害するものではない旨をよく説明のうえ、12月から指定理容所と協定書を交わして開始したのであった。
 さらに年間行事としては、
 1、メーデーの参加、2、労働者福祉活動としての労働金庫の活動、生活共済事業、独居母子・生保家庭に対する福祉活動、3、未組織労働者を対象に労働相談窓口の開設、4、勤労感謝祭行事、5、原水爆禁止八雲町大会の開催、6、生活防衛と消費者活動として合成洗剤の追放、指定店の展示即売会の開催
などの活動を行っている。
 町は、これら地区労の事業に対し、昭和33年度から37年度まではメーデー助成金として毎年度3万円を支出していたが、38年度から順次増額し、50年度以降は40万円として現在に至っている。
 歴代議長は、畠山利明・松橋兼太郎・安中俊平・新富治・宮岸忠孝・畠山利明・千葉一己・萌田志郎・小野重勝・佐々木繁・伊藤弘(現在)となっている。
 なお、56年11月現在における加盟単産は次のとおりである。

季節労働者
 昭和40年の国勢調査による当町の人口は2万2487人を数え、その約5パーセントに当たる1000人ほどの労働者が建設業に従事しており、そのうち約700名が季節的な出稼者であった。これらの出稼労働者は家族と別れての二重生活を余儀なくされるとともに、不安定で劣悪な雇用条件の労使関係におかれ、賃金の不払い問題などに苦悩した例もあり、留守家族の生活難や保障問題など、解決しなければならない多くの問題を抱えていた。
 このため季節労働者の留守家族の援護、出稼ぎ後の生活相談、賃金不払い、労働災害対策などを講ずるため、昭和40年(1965)2月に季節労働者有志によって、「八雲町季節労働者連絡会議」の結成準備が進められ、鉄道寮において結成総会を開催した。さらに3月に商工会で総会を開き、会長に橘一男を選任し、活動目標などを決定したのである。当時の会員はわずか32名にすぎなかったが、この組織化は当時北海道における季節労働者組織の第1号であった。また同時に落部村でも「落部一般労働組合」が結成された。
 結成以来この連絡会議は、季節労働者に対する研修会、出稼ぎ先への連絡、教宜活動、労働行政の推進、地域ごとの班組織化など、時宜に応じて活発な活動を続けたのである。こうした結果、15年後の昭和55年(1980)には会員も増加して265名を数えるに至った。現会長は渡辺忠治である。
 また落部一般労働組合(組合長・中田佐市)の会員も45名に達し、昭和46年八雲地区労働組合協議会に加盟するとともに、組織系統として47年には道南地区出稼者連絡会議に参加、また、北海道季節労働者組合協議会に加入して全道的な交流を図っている。さらに、44年1月から開設された短期職業訓練(機動訓練)に会員を入所させ、技能の向上による雇用条件の改善を図っている。
 町においては、昭和51年度からこれら季節労働者の短期雇用特別一時金の受給者のなかで、なお生活に困窮している者を対象に「緊急就労対策事業」として、毎年2月から3月にかけて、町有林の除伐・小河川の排水整備、不用建物の解体、その他町有公共施設や町道などの除排雪事業を実施している。またこのほか、53年度積雪寒冷地冬期雇用促進給付金制度の有効的な活用を図るために設立された「八雲勤労者企業組合」(理事長・植村鉄男、組合員234名)、「八雲建設更正企業組合」(理事長・松橋兼太郎、組合員99名)に対しても、同じく緊急就労対策事業を実施し、組合員の冬期間失業中における生活の安定確保に努めている。
 さらに、季節労働者援護対策として地域相談員(佐々木 繁・溝口義春・餌取 優)3名を委嘱し、出稼労働者留守家族などの諸相談を行っている。
 このほか、関係機関の協力により、就労前の講習会・研修会・健康診断・出稼ぎ先への指導資料の送付(町広報・議会だより・勤労やくもなど)・労働振興貸付金として労働金庫への町費預託・出稼ぎ地への現地訪問などを実施している。


第2章 職業訓練

第1節 職業訓練施設
 
八雲町共同職業訓練校
 戦後における日本経済の高度成長は、技術革新や重化学工業などの著しい発展にともない、これに関連した建設業、製造業もまた驚異的な伸長をみせ、各部門で機械化が進み技能労働者の需要が増加し、特に小零細経営を中心に、職人的な熟練技能者の雇用確保が要求されるようになった。
 こうしたことを背景に、昭和33年(1958)に「職業訓練法」が制定公布され、離職者の再訓練や在職者の能力開発を行うこととなったのである。
 この法律施行前においては、いわゆる「徒弟制度」と称して古くから行われており、年季弟子として一定期間中、親方と称する職人の家に起居し、技術を習得して独立の職人になっていくというものであった。
 当町においてもこうした徒弟制度は古くから行われていたのであるが、戦後は技術者養成のため、企業(職場)内訓練が実施されるようになった。
 昭和34年から発足した「技能検定制度」(当初は機械・仕上げ・板金・建築大工・機械製図の5職種であったが、54年度では102職種)により、35年に小島秀雄が建築大工二級技能士の資格を取得したのをきっかけに、技能土、職業訓練指導員(以下「指導員」という)の有資格者が年を追って増加し、これら有資格者によって昭和40年「北渡島指導員協会」(会員約100名)が結成され、有資格者の養成に努めてきたのである。
 一方、指導員協会は労働者一人ひとりの職業意識と高度な技術習得の場を確保し、より積極的で計画的な訓練を図るため職業訓練所の創設を目指した。そして41年(1966)「八雲町共同職業訓練所運営委員会」を発足させ、川岸清吉を会長に、木村隆信を訓練所長に選任、末広町87番地に事務所を置き、同年4月から33名の訓練生により、八雲町公民館の一室を借りて普通学科は八雲高校教師、役場技術吏員、実技は技能士・指導員を講師として委嘱、経費は町費補助・事業主・訓練生などの負担で運営することとし、認可申請事務を進めたのである。
 その結果、同年6月21日北海道認定第102号をもって事業内職業訓練認定書が交付され、「八雲町共同職業訓練所」として養成訓練の高等職業訓練課程(3か年)のうち、建築大工・塗装・左官・板金・建具・自動車整備の6職種を訓練科目に、正式に発足することとなった。
 こうして訓練所は開所したのであるが、講師の獲得難や運営面の不慣れ、また、技能士や指導員自体もそれぞれ専業をもって働いていることなど、種々の障害が付随し、円滑な運営を進めることは極めて困難で、訓練も停滞しがちであった。このため、昭和44年3月に所長木村隆信は辞任し、運営は一時行き詰まりとなった。
 こうしたことから川岸運営委員会長は、同年4月に尻岸内中学校長を退職帰町した小泉武夫を二代所長に懇請し、科目を建築大工だけに縮小して訓練所の継続を図った。
 44年7月に職業訓練法が改正され、これまでの共同職業訓練所は共同職業訓練校と名称を変更(所長は校長となる)し、全課程終了前に技能照査を行い、合格した者は「技能士補」と称することができることとなった。
 たまたま43年度後半において、三杉町26番地に開設されていた短期職訓の校舎と合同し、内部改造を行い、従来の会則を変更して「八雲町職業訓練運営会」とし、会長に川岸清吉を選任(46年以降は田中四郎)のうえ体制を整えた。
そして職業訓練と技能検定を主眼に運営が図られ開校以来毎年基準時間を消化し、修了生を業界に送り出したのである。
 この間訓練生は、札幌・函館で開催された全道実技競技大会、渡島事業内職業訓練校ソフトボールや卓球大会などに参加して、技能と体位の向上に努めた。
 しかし昭和56年(1981)には、応募者もなく、また小泉校長が健康上の関係から辞任せざるを得ないこととなり、後任を得られないまま57年4月廃校とし、同時に運営委員会も解散することとなった。
 開設以来15年、この間62名の訓練生を業界に送り、多くの技能士や指導員の有資格者を出し、その大部分は地元で活躍している。

機動職業訓練
 昭和44年(1969)1月に、北海道立職業訓練校訓練規則第二条第二項の規定に基づき、短期の能力再開発訓練が、当町において実施されることとなった。これは道立函館職業訓練所の直轄訓練ともいうべきもので、冬期間失業中の季節労働者が、期間中に失業保険の給付を受けながら、さらに受講手当や通所手当を受給、新たな職種の訓練を受けて能力の再開発や技能向上を図り、職業の安定と労働者の地位の向上を図ろうとする制度で、訓練期間を三か月とし、毎年1月から3月まで実施するものであった。
 このため町は、旧陸軍航空隊の建物で、町が管理している三杉町26番地の施設396・9平方メートルの内部改造を行ってこれを提供することとした。
 訓練科目は「ブロック建築科」とし、コンクリートブロックなどによる建築の技能訓練を行うことにした。そして函館公共職業安定所八雲出張所と連携をとり、訓練生20名を募集し、昭和44年1月10日に開所式を行い、3月までの短期訓練を森崎 勝職業訓練指導員を講師に実施したのである。
 なおこの年、この施設は八雲町共同職業訓練校と共用することになったので、45、46年度は共同職業訓練校と委託契約を結び、47年度からは八雲建設協会と契約して短期訓練を実施し、現在に至っている。
 この間実施された訓練科目にも変更があり、訓練生も年によって定員に満たない場合もあったが、おおむね20名を定員とし、43年度から46年度まではブロック建築科、47年度は「建築科」(定員10名)の鉄筋コンクリートく体工事の型枠工作、配筋およびコンクリート打設における技能習得を訓練、48年度からは「測量科」に、56年度型枠科に変更して実施された。
 43年度から55年度までの修了生は207名に及んでいる。
 また、昭和44年職業訓練法の改正によって、函館職業訓練所は函館職業訓練校と改称され、その後函館専修職業訓練校、51年度から函館高等職業訓練校となり、これまで短期訓練として実施していた公共施設以外における能力再開発訓練をさらに拡充するとともに、対象者の範囲を拡大し、より機動的で弾力的に実施するため、53年度から「機動職業訓練」として実施することとなり、現在に至っている。


第3章 函館公共職業安定所八雲出張所

分室の設置
 昭和26年(1951)11月1日労働省令第24号により、函館公共職業安定所八雲分室が設置された。その目的とするところは、国民それぞれにその有する能力に適当な職業につく機会を与えることによって、工業その他の産業に必要な労働力を充足し、各人の職業の安定を図るとともに、経済の興隆を図ろうとするものであった。
 分室庁舎は八雲町公民館別館に設けられ、分室主任として岡川徳一郎が赴任して業務が開始された。分室の担当区域は、八雲・長万部の両町で、落部村は森出張所の管轄であった。その後庁舎は、駅前の町有建物(奨健寮跡)を充当して移転し利用者の便を図った。

出張所に昇格
 昭和29年(1954)10月労働省令第22号によって八雲分室は出張所に昇格して、担当区域に落部材を編入し、出張所長には高橋正治が赴任した。森出張所は同時に函館公共職業安定所森分庁舎となった。

旧函館公共職業安定所八雲出張所(富士見町)(写真1)


 八雲出張所は昇格とともに年々業務が増加し、求人・求職・就職・失業保険の受け付け・給付業務・政府職員退職手当全業務などの取り扱いを行い、利用者の増加もあって庁舎は狭くなり、そのうえ老朽化してきたため、40年12月に庁舎を東町230番地に新築移転、1月から業務を開始したのである。
 55年現在の出張所長は豊田盛夫である。

函館公共職業安定所八雲出張所(東町)(写真1)