第13編 宗教

 第1章 宗教 543

  第1節 アイヌと宗教

アイヌと宗教
 先住民族であるアイヌが住んでいた当時の八雲地区や落部地区における宗教の実態は明らかでないが、残っている地名から想像すると、八雲にハシノスベツというアイヌ語の地名があり、これはハシナウベというイナウ(木幣)が立てられていたところという意味で、心身を清めて神に祈る川の意味であるという。
 アイヌ民族の信仰は、アニミズム(草木や石にも霊魂があると考える宗教)に、シャーマニズム(シベリヤ北部などに行われた巫を中心とした原始宗教で神霊界と交流し、神託を告げるというもので「みこ」「かんなぎ」「いたこ」などと呼ばれる)が加わったものであったという。つまりあらゆるものに霊魂があり、物が傷つくと霊魂は離れて生命は失われるが、霊魂は死滅せず、神の国が地下で人間と同じ生活を続けるものと考えられていた。
 この世で有益なものはよい霊魂口=神がそれに姿を借りて存在している。そのため用が済むと丁重に送り返す。有害なものは悪霊がそれに宿っているのだからこれを排除し、再び来ないようにする。その手段としてシャーマン(巫者)が使われた。シャーマンは、それが善霊であるか悪霊であるかを判断して、それに対処する方法をアイヌに教えてくれる。
アイヌの考えによると、神すなわちカムイは超人間的なものであって、善悪を問わないとしている。
 またアイヌは、自分たちの恐れているものや、直接間接に自分たちの生活を助けてくれるものはすべて神であり、これらの神々はアイヌのために存在し、アイヌあっての神として崇拝した。このうち最も崇拝するのは火の神であり、次に氏神・山神・漁猟の神であった。そしてこれらの神を祭るのは別に社があるわけでなく、どこにでもその神に相当するイナウを造り、それを立てて一定の言葉で神を呼び祈るのである。これをカムイノミといった。
しかし、家では常に火の神や家の神に幣を捧げるだけでなく、祖先の神・山の神・漁猟の神などに捧げる幣を立てる幣垣(ヌササシ)というものがあった。万物に神を認めても、物そのものが神ではなく、神が人間世界に現れる変装と考えていたのである。
 このようにイナウは神をまつらなくてはならないアイヌの大切な祭具であり、町内にもこれを捧げて祈ったと思われる場所が地名(モナシベサキ・オトシベサキ・ヒガシノサキ等)として、残されていたというが、現在ではどの場所を指すのか判然としていない。

イコトルの朝の祈り(写真1)


幣を作るアイヌ(写真2)


熊送り
 アイヌの盛大な祭りとしてくま送りがあった。これは山の神の仮の姿といわれるくまを、アイヌが山の中で命がけで斃(たお)しコタンに迎え、丁重にもてなしをしてお土産の品々をもたせて天に帰す儀式で、これをカムイケンルーといい、くまの子を山の穴で捕まえた場合は、これを背負って帰り大切に育てる。女たちが抱えて授乳したり、粥(かゆ)を与えたりして人間の子と同じようにして養うが、生長するとおりに移し、神から預かったものとして、丁寧に扱った。早ければその年の、遅くとも3年目の11月から1月にかけてイヨマンテを行う。所によって異なるが、尊敬される古老の指揮に従い、厳格なしきたりに背かないようにする。もしそれに反することがあれば神の怒りにふれ、村に不吉なことが起こると信じられていた。日が定まると、酒をつくり、木幣を削り、花矢をつくる。花矢は、黒い矢尻に彫刻を施したもので、くまに当たってもひどい傷をつけないよう工夫され、赤い絹布をつけることもあるという。花矢は一般に50〜60本であったといわれる。その他子ぐまに持たせるおみやげのお供えもちやサケ、ラタシケプと呼ばれる食糧なども用意する。祭りは普通3日にわたって行われる。本祭りの日を迎えると招待客は祭主に従って座につき、厳しゅくな神への祈りを終わると、外の幣場の前で祭りを行う。祭りの中心である子ぐまを送るときが近づくと、男も女もまつり歌を歌い、輪舞する。くまの首に綱をかけ、おりから出すときも、しきたりどおりに行われる。子ぐまに耳輪や晴れ着をつける村もあるという。手草で清め、花矢が射られ、やがて止どめの矢を射るが、この場合は毒矢を用いない。さらに2本の木の間にくまの首をはさむ。くまの解体が先祖伝来の方法で進められている間、綱引き、相撲などの余興が行われるが、解体が終わると神への祈りを行い、くまの頭を屋内へ入れ、貴賓席に祭られたくまの神の霊は、一晩中火の神と歓談し人間たちの祈りと供応を受ける。人間たちは礼をつくして神の霊を慰め、神々へ感謝の祈りを捧げ、古老の踏舞が終わると酒宴に移り夜明けまで続ける。

熊送り(写真1)


 次の日は神への祈りと別れを借しむ儀式を行い、削り花で飾られた頭骨を神の霊として、アイヌコタン(人間の国)からカムイコタン(神の国)へ送る式を行い、イヨマンテを終わる。(北海道大百科事典=北海道新聞社編から)
 こうすることによって神は喜んで昇天し、再びたくさんのお土産を持ってコタンを訪れるという生活的信仰から出発したものである。
 本町においても、こうしたくま送りが行われ、特に徳川義親が、たびたび八雲を訪れ、アイヌの古老とくま狩りを行ったことから、昭和の初期まで盛大に行われた。

アイヌの葬儀
 コタンに死者があると、親族などが集まって泣き、霊魂が再び帰ってこないことがはっきりすると、真っすぐに先祖の居るところに行くように祈り、迷った霊魂が取り付くことのないように、死体の衣服を着替えさせてキナ莚(むしろ)(草莚)に急いで包み、葬列を作って墓地に送り、浅い二、三尺の穴を掘ってあおむけに寝せたまま頭を東にして、生前の愛用品とともに葬り、足下に墓標を立てる。起きると霊魂の行き先である西方に行くためである。墓標も男と女で異なり、形も場所によって違うが、主につえをかたどったものが多いといわれる。
 葬る場所は墓地であるが、墓地のなかったころは人里離れた山の中で、乳飲み子はモセム(玄関兼物置であるさしかけ)の地下に、老人は東の庭にある廃物を捨てるムルクタヌサ付近に埋めたという。乳飲み子は母のそばを離れないため、ムルクタヌサは先祖を祭る場所だからだという。
 死体を葬るには壁を破って臨時の出口から出し、葬り終わると後ろを見ずに家に帰り、帰るときには死者の話をすることさえその霊につかれるのを恐れてしなかった。このため墓参などはせず、死者に関することを言う者があれば、ツクナイ(一種の処罰であって、宝物を出して償わせること)をさせた。
 死者の霊魂はそのまま祖先のいる神の国へ行き、生前と同じ生活をするものと考えられていたので、日常の道具を副葬品とし、男には刀剣・マレップ(漁具)・もり・弓矢・矢筒など、女にはかま・なた・飾り玉などを、男女共通のものでは、マキリ・たばこ・耳輪などを、主婦は弱いものとしてあの世で難儀するだろうからと、なべ・漆器・その他をいっしょに埋葬するだけでなく、葬式とともにその家を焼いて持たせてやるという方法がとられた。これらの副葬品も必ず壊してしまい、刀剣などは光を消すためにわざと塩水に入れてさびるようにし、さやも壊して埋葬したのであった。
 さらに死者の近親者は、着物を反対に着て特別の冠をかぶり、家財道具の位置を反対にするかもしくは焼いてしまう。何年間は普通の人と変わった姿で生活をし、ときによっては名前を変えたという。迷った霊魂が近親者にあだをしないように、また、死霊が迷って帰って来ないようにするためであった。
 変死人などがあったときは、死体を家に運ばず、ニエンアプカシと称して人びとが集まり、力足を踏み鳴らし、刀を抜き連れて行進し、大声を上げて神々に談判した。これは、変事を起こさせた神の怠慢を責める意味のものであった。
 しかし、後にはこれらの習慣はほとんどみられず、死者に対する礼は仏式により行われるようになった。

イコトル爺の葬儀
 昭和7年8月21日に死亡したユーラップのコタン・コロクル(コタンの長)であるイコトルの葬儀に参列した久保田正秋(のち町議会議長などを務め名誉町民となる)の会葬記が、「ゆうらふ第3号」に掲載されているので、それによって葬儀の様子を記してみる。
 イコ爺さんが死んだ。
 侯爵(徳川義親)様御熊狩最初の案内者イコトル(ユーラップコタンの酋(ママ)長)爺さん病臥中、一昨日、遂に逝去。本日葬儀が執行されるので弔意を表すべく、太田(正治)、都築(重雄)、成田の三君と午後、同家を訪づれると丁度、御経の最中、宗旨は禅宗で何等の変りがない。
 トヨ(椎久年蔵、次の酋(ママ)長)の話では、「昔からお経はないが、自分等で弔いをした。お経の代りにお祈りがあって、一時間もやったものだ。此頃は坊さんまかせにして、お祈りはやめてしまった。」とのことである。服装も近親は白衣で変りない。
 午後2時、漸く出棺ということになると、老婦達が、祈るのか、泣くのか解らぬが、異様な声を立てて別れを惜しむ。
 行列は変りないが、先駆は、剣・矢筒・袋(ハンドバック様のガマの茎で編んだもの)を始め、膳、碗、其の他日常使用したものを持つ。剣を持ってくれというので快く持ち、光栄の一番先頭を静かに進むと、後から「爺は、若い頃、足が早かったからもっと急いでくれ」という。墓地は、浜だからすぐだ。墓地に着くと、掘った穴には、小丸太が渡し、上にゴザがかけてある。これをとり、穴の側に棺を下してかけてあった被いをとると蓋はまだ釘が打っていない。やがて蓋がとられたので中をのぞいて見ると、寝棺の中に確か白衣を着た上をキナ(ガマの茎で編んだゴザ)で巻き、合わせ目は本針でとじて横たえてある。其の上、先駆の持って行った種々なものを全部結えてある紐という紐を半分位づつ、未亡人のフッテヤリ婆さんが、泣きながら鎌で切り、膳も碗もこわして入れ、その上を爺さんのアツシ(礼服)で覆い、蓋をして石で釘づけにすると、側に居た婆さん達の泣きは一層激しくなり、掌を上にしたり、或は下にしたり、変った手つきをして別れを惜しむ内に、棺は穴へ入れられる。穴は四尺(120センチメートル)足らずで普通より浅い。そして足の方は一段と低くして草鞋(わらじ)やキナの切れのようなものが入れられる。
 こんどは、用意してあった丸木船の古いのをこわした破片を棺の側のすき、それから上へと入れて覆い、更にその上ヘキナ1枚をかけて会葬者が一握りづつの土を投げ入れると本式に土かけが始まる。そして穴の大きさのままで土は盛り上げられ二尺(60センチメートル)位の高さになると芝生を裏返しにして載せてかためる。
 その頃、フッテヤリ婆さんは、二人の連れと泣きながら腰を曲げて、しおしおと帰って行く。ほんとうに気の毒に見えた。
 盛土が終ると周囲に造花を飾り、前の方は、盛土の前の低い所に、塔婆が建てられ種々なものが供えられ、ローソクが点ぜられ香の煙がゆるやかに立昇ると、「どうか爺さんの最後の送りに、ワッカ(水)をやって下さい。」と、一升ビンに用意してきた水を木彫のどんぶりの深いような器に入れ、碗でこれをくみ、会葬者がかわるがわる塔婆にかける。それが済むと残りの水で手をぬらし、土をつけて塔婆に塗りつける。これで埋葬は完全に終了した。
 塔婆は径四寸(12センチメートル)位の丸木で、先を尖らせ三角錐形に削り下にくびれをつけ、その下を中ふくらみとし、下部を尖らせて土にさし易くした長さ四尺(120センチメートル)位のものである。中ふくらみの下に墨でアイヌ模様を記したのみで、字は一字も書いてない。
 今まで、アイヌの葬式にシャモ(和人)の会葬者は殆んどなかったそうで、われわれの参列を心から喜んで、始めてのことだというておった。
 泰岳智観信士 これがイコ爺さんの戒名である。……以下略……


 第2節 神社

明治前の神社
 当地方における神社の創建は、特に和人移住の早かった落部地方に多くみられたのは当然で、その種類も、恵比須社・八幡社・稲荷社などがあり、豊漁祈願を中心に、住民の崇敬を集めたものと思われる。
 寛政3年(1791)幕府普請役田辺安蔵一行によって書かれたといわれる「東蝦夷道中記」には、
 茂無部 此所二恵比須宮アリ
 落部 此所二昼休所本陣アリ、八幡ノ宮アリ
 野田生村 此所二稲荷ノ宮アリ
 沼尻 此所二稲荷ノ宮アリ
と記されており、和人定住が早かった落部村内には、幕府直轄前から既に神社の造営が進められていたことを物語っている。
 さらに、安政4年(1857)の市川十郎著「蝦夷実地検考録補遺」では、
 茂無部 神社蛭子社享保中再建
 落部 神社八幡宮享保年中再建、稲荷社安永中再造
 野田生 神社蛭子社享保中再建
 沼尻 稲荷社寛政中再建、神職菊地播磨
 山越内 神社ハ諏訪大明神文化四年勧請という。例年五月十八日神事、社務ハ池田典膳也
などと記されている。
 このように当地方の神社は、時代によって呼び方は違うものの、地域の守護神として継続維持されていたことが分かる。

八雲神社
 明治11年(1878)徳川家旧家臣の移住により、遊楽部の開拓がはじめられたのであるが、移住者はその氏神とするため、翌12年に故郷の熱田神宮神符と徳川家歴代の神霊を板蔵の二階に祭り、のちに八雲小学校の一室に移し、産土神(うぶすながみ)として崇拝していた。これが八雲神社の起源である。
 その後、明治17年12月には神殿を新築(現、自衛隊基地内)し、19年に「八雲神社」の創立出願をして6月17日許可を得、同年12月1日村社に列せられた。さらに翌20年には徳川家を経て熱田神宮の分霊を仰ぐべく、氏子総代片桐前作、佐治為泰の両人が神宮に出頭して次の願書を提出した。
 御分霊願
 北海道胆振国山越郡八雲村鎮座産土八雲神社ノ義熟田大神ヲ奉祭候処昨明治十九年十二月村社二被列候二付私共儀氏子総代トシテ御本宮へ参拝仕、皇大神之神御分霊ヲ奉遷シ永ク奉仕致度氏子中挙リテ奉懇願候条右請願御聞届被成下弥敬神ノ志操御引立被成下度此段奉願侯也
 胆振国山越郡八雲村氏子総代
 片桐助作
 同
 佐治為泰
 明治二十年三月一日
 熱田神宮宮司 角田忠行殿
 さいわいこの出願は許可になり、分霊は同年3月23日に到着し、直ちに当社に奉斎した。時の神官は森富崇であった。また、この分霊の奉遷については、次に掲げる証明書によっても明らかにされるとともに、熱田神宮の分霊を祭っている神社は、全国でも唯一のものであることを誇りとしている。
 なお、この分霊奉遷にあたっては、徳川慶勝が明治天皇に、直接奉請して勅許を得たものと伝えられている。
 証明書
明治二十年三月一日付北海道胆振国山越郡八雲村氏子総代片桐助作及佐治為泰ヨリ当神宮宮司角田忠行ニ宛テ、同村鎮座産土八雲神社ニ奉斎スヘキ熱田皇大神ノ御分霊奉戴ニ関シ出願ノ書類ハ別紙写同文ノモノ当時当神宮ニ於テ受理セルコト実証ニ有之従ッテ御分霊ノ儀モ允可セシコト被推定候条此段証明候也
 昭和十九年五月十一日
 熱田神宮宮庁

移住者が新築した社殿(写真1)


改築された八雲神社(写真2)


 このようにして熱田神宮の分霊を祭ったことから、祭神は、熱田大神・天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命であり、さらに昭和9年5月4日には、許可を得て八雲町開拓の始祖と仰ぐ徳川慶勝命を合祭した。
 明治39年11月には神饌幣帛料供進神社に指定され、大正15年に社殿を改築し、昭和6年6月郷社に昇格した。
 戦局急を告げた昭和18年、当町に陸軍飛行場が建設されることになり、その敷地内に含まれることになった当社は、旧制中学校や多くの民家などとともに移転しなければならなくなり、同年10月現在地(宮園町)に遷宮した。
 その後、20年には氏子が協議し、由緒を誇る当社の県社昇格について準備が進められていたが、終戦後の神社制度改革によって実現に至らなかった。

郷社八雲神社(写真1)


八雲神社(写真2)


 当社には、大正10年8月北白川宮成久王殿下、大正14年7月北白川宮永久王殿下および竹田宮恒徳王殿下、昭和9年9月北白川宮祥子妃殿下、昭和50年7月常陸宮華子妃殿下が正式に参拝され、それぞれ松をお手植えになっている。
 宝物には神鏡のほか、北白川宮永久王殿下奉納の洋画をはじめ、徳川慶勝の書簡および額、徳川義礼の額などがある。昭和28年9月に宗教法人として再発足し、現宮司は川口進で、例大祭は6月20日から3日間である。

諏訪神社
 山越内は寛政12年(1800)に徳川幕府の直轄となり、これまでの運上屋に代わって会所や下宿所(通行家)が設けられ、通行人の改めなどが行われるようになってから急激に開けたところである。
 文化4年(1807)に福山(松前)の人が、漁業の繁栄と住民の氏神として、会所から一丁(約109メートル)ほど山手に諏訪明神社を創建した。祭神は建御名方之神であった。
 またこのころには稲荷社もあったが、これは後になって合併されたらしく、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」には、
 山根に諏訪明神の社「稲荷合殿」有
とあることからも推察される。
 こうして諏訪神社は、住民の氏神として崇拝されてきたが、明治9年(1876)10月郷社に列せられ、名実ともにこの地方の中心的な神社となった。
 また、大正4年11月には、神饌幣帛料供進神社(一定の額の幣帛料が、県や町村から供進される神社)となり、昭和12年に神殿を改築した。
 昭和28年4月に宗教法人として登記をし、毎年7月18日を例大祭としており、現宮司は小島冨美雄である。

諏訪神社(写真1)


 諏訪神社に円空の作である仏像が安置されていることについては、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」により、
 円空鉈作り座像の薬師如来を安置す
と伝えられてきたが、昭和28年に函館の郷土史研究家阿部たつをによって、ようやくその実在が確認された。それによると、仏像は一尺六寸五分(50・3センチメートル)の座像で、背銘に「いうらっふのみさらしのたけ」と判読される文字が刻まれているが、みさらしのたけの部分は自信がないと断わっている。
 円空は美濃(岐阜県)の国の人、臨済宗の僧侶で、なた一丁で仏像を彫刻するのに妙を得、寛文5、6年(1665、6)ころ蝦夷地に入り、著名な高山(寺院)に仏像を勧請した人である。この円空か、実際に山越内に足跡を印したものかどうかは明らかでないが、一説には、
 寛文5年砂原内浦神社へ円空か来て海上安全を祈願して仏像を納めたとき、山越内の分を作って留めて置いたと考える方が自然である。(阿部たつを著「江差追分、其他」)
とされており、また、「戸井町史」の要約によれば、諏訪神社の仏像は、寛文6年7月礼文華の洞穴で作ったものであり、背面に「ゆうらっぷみたらしのたけごんげん」と刻まれていたとし、寛政11年(1799)に幕吏松田伝十郎が蝦夷地調査の幕命を受けて渡道した際、背面に刻まれた場所に納めたものとしている。いずれにせよ、円空作の仏像が当社に現存していることは、郷土史を探る上で意義深いものがある。
 なお、安政元年(1854)当時に、山越内の勤番であった石黒太右衛門が奉納した『鮭』の墨絵も残されている。
 由追(山越)にある稲荷神社は、文化2年(1805)に京都の大仏師西田要(案)助をはじめとする数人が建てたもので、文政8年(1825)に江戸の利助という職人が再建した経緯をもつものであるという。
 なお、当初は現在の諏訪神社の場所にあったものを、後年(年代不詳)現在地に移転し、豊漁を祈願して海に面して建立されたが、昭和40年、国道5号線舗装工事により、路線変更(山側に変更)の際、神社の位置はそのままにして、山側に拝殿の向きを変えたものである。

野田生神社
 明治25年(1892)愛知県東春日井郡小野村から野田生に単身移住した長谷川桑次郎が、翌25年入植した父儀三郎の携えてきた天白大神のご神体を、屋敷内に安置した。翌26年には先に入植していた住民が協議のうえ、地域の守護神として岡島清助の所有地に神殿を建て、ご神体を奉遷した。そして樹木などを植えて神社としての体裁を整え、天白天神社と称し8月15日を祭典に決めて執行した。これが野田生神社のはじまりである。
 明治35年に山越内村諏訪神社の御託所となり、野田生神社と改称し例大祭も7月15日に変更、それ以後現在まで続けられている。
 大正7年(1918)に小川伊三郎ら氏子が神社改築委員となり、725円80銭の浄財によって神拝殿を改築した。
 昭和13年(1938)には河原友二ほか9名の氏子から大鳥居が奉納された。翌14年には東ガンビ岱の神社を合祭して、この地区の住民が氏子となった。さらに23年徳川農場から2500余坪(約8250平方メートル)の払い下げ(1万5000円)を受け、神社境内とした。また、25年には沼尻地区の住民も氏子となり、これによって野田生地区一円の神社となったのである。
 昭和37年拝殿屋根と手洗い場の補修工事を行い、境内に植樹するなど周辺の整備を行った。50年には正式に宗教法人となり現在に至っている。
 (「わが郷土野田生」から)

野田生神社(写真1)


恵比須神社(東野)
 寛政3年(1791)5月に野田追・野田生・沼尻などに居住していた和人一同が協議し、松前藩に出願して蛭子社を建立したのをはじまりとする。祭神は事代主命である。
 当初は旧街道(浜通り)山側にあったものを、大正5年1月に現在地に移転改築した。昭和29年3月に宗教法人として登記を行って現在に至り、例大祭は9月20日である。

恵比須神社(東野)(写真1)


落部八幡宮
 当社は、誉田別尊を主神として字賀魂神と八重事代主神を合祭する。宝暦14年(1764)3月、相木仁三右衛門ほか二戸の渡来とともに、知行主新井田家(当時伊織義知)の内神であった八幡宮を祭ったことにはじまり、安永5年(1776)に落部を本村としたとき、これを氏神に定めたという。(社誌には天明2年<1782>と記録されている)
 社殿は、市街道路(旧国道)から落部漁港に通ずる道路の左側で、旧東流寺と隣り合わせ、海に向かって建てられていたが、大正6年(1917)現在地に移転した。
 明治9年(1876)3月村社に定められるなど、地域住民の崇敬を受けつつ推移し、昭和29年3月に宗教法人となって現在に至っている。毎年9月13日から3日間例大祭が行われ、御釜神事や松前神楽などが奉納されている。
 なお、当社の境内にある稲荷神社は、倉稲魂命を祭り、天明4年に村上八十右衛門という人が、願うところあって創建したものという。初めは旧街道(浜通り)の山手、旧八幡宮よりなお東側にあったものを、大正6年八幡宮と同時に移転改築したものである。
 また、境内には北海道名木「御所の松」がある。

落部八幡宮(天明2年創建〜社誌)(写真1)


恵美須社(栄浜)
 文化2年(1805)5月に宮古嘉兵衛が京都から渡道したとき、内神として祭ったのにはじまる。文化7年に地域の有志が協議し氏神として一社を創建、蛭子社と称し事代主命を祭った。
 その後移転改築して現在地に祭り、昭和29年3月に宗教法人となった。例大祭は9月13日である。

恵美須社(栄浜)(写真2)


その他の神社
 前述の神社は宗教法人として登記したものに限ったが、およそ地域の開拓が進み、集落が形成されるようになると、そこには住民の精神的なよりどころとして、また、慰安の中心としての神社がつくられたのである。いまここで数多くの神社の起源などについて明らかにすることはできないが、それぞれ社格や法人格の有無にこだわることなく、あくまでも地域の産土神として、あるいは鎮守の神として崇敬する習慣は、いまなお続いているのである。

稲荷神社(黒岩)(写真1)


山崎神社(写真2)


稲荷神社(由追)(写真3)



 第3節 寺院

円融寺
 文政5年(1822)有珠岳噴火の際、このふもとにあった有珠善光寺が危なくなり、一時の難を避けるため、善光寺三代目弁瑞上人が本尊をヤムクシナイ(山越駅付近)に移し、阿弥陀堂をつくった。その後も火山活動はおさまらず危険状態が続いたので、善光寺を当地に移転する問題も起きたが、松前藩の認めるところとならず、天保7年(1836)に有珠の堂宇が修復されるのを待って、ようやく帰るという経過をたどった。
 本尊が有珠に戻った後も、村人はこの阿弥陀堂を崇敬しつづけていたが、安政3年(1856)現在地に堂宇を建て、翌4年手続きを経て「円融寺」と寺号を公称した。ときの住職は道家信竜であった。
 こうした古い歴史をもつ円融寺ではあるが、明治19年(1886)この地方に流行したコレラ病の隔離病舎に堂宇が当てられたとき、過去帳など歴史上の史料も焼却処分にされて、詳細が不明であることが惜しまれる。その後、堂宇は大正5年(1916)に建て替えられて現在に至っている。
 当寺は善光寺の末寺として浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来、現住職は四代目大川正道である。
 なお、当寺の墓地には幕末の書家石井潭香の生母の墓がある。潭香の父善蔵が文化のころ山越内の勤番所に詰めていた関係上、いっしょに来ていた潭香の母が文化8年(1811)に当地で死亡したので、当初は阿弥陀堂の墓地に葬ったものを後年村人が現在地に移葬したものであるという。

円融寺(写真1)


石井潭香の母の墓(写真2) 


これが発見される動機となったのは、松浦武四郎の「蝦夷日誌」巻六の中の次の記述である。

 阿弥陀堂
 勤番所のうしろの方ニ有、弐間四方斗の小堂、四方ニ柵越(を)結たり。本尊は弥陀三尊の如来、臼善光寺上人毎年七八月比(ごろ)来りて小陸会を修す。夷人人間も北日皆参詣したり、其傍ニ墓所有彼是と見廻す間に友人石井澤香(潭香の誤り)の母の墓所も有りしニ不図落涙なしける。

 この事実を調査するため、函館図書館司書田畑幸三郎が昭和30年6月に来町し、町職員とともに現地調査の結果確認されたものである。墓碑には「常宜院正誉法蓮大姉」と法名があり、俗名は「山越内詰合石井善蔵妻久美」、また、死亡年月日は「文化8辛末年8月13日」と刻み込んである。

龍穏寺
 明治20年(1887)4月、森村の龍泉院住職相馬良高は、山越内宇部金兵衛の懇請により、山城芳蔵方に龍泉院出張所を開設、山本褝戒を教師として派遣し布教に努めたが、当時は檀家不足で経営が困難なため間もなく教師を辞去し、その後に訪れる教師も同様な事情によって辞去を繰り返すという状況であった。
 しかし、明治24年昼間魯宗の巡教を機会に、住民の懇請によって正規に開教することとなり、28年には野田生に移転して本堂を建築し、大正3年(1914)7月に「龍穏寺」と公称した。その後、昭和5年(1930)現在地に再び移転して14年に本堂を再建、さらに53年には老朽化した本堂を大改築して現在に至っている。

龍穏寺(写真1)


 当寺は曹洞宗に属して釈迦牟尼仏を本尊としており、現住職は4代目菅原光禅である。
 なお、昭和37年から児童福祉施設として「こばと保育園」を開設していたが、45年野田生80番地に施設を移し現在に至っている。

妙勝寺
 明治20年(1887)に岡島新左衛門が経文の安置所として野田生に草庵を建てた。この草庵を妙勝庵と称し、初代庵主愚三坊が布教にあたった。修道院的な禁欲主義の道場として知られ、尼僧が庵主となったこともあった。その後「妙勝寺」と寺号を公称(年月日不詳)して現在に至っている。当寺は如来宗に属し、釈迦牟尼如来を本尊としており、現住職は2代目黙見黙山である。



遊国寺
 曹洞宗遊国寺は、明治21年(1888)遊楽部浜(内浦町)に吉岡宗関が、山形県の善宝寺竜王堂に勧請して一宇を建立し、武田蕪ーを開山として竜神堂と称したのにはじまる。海上の安全と水産豊漁を祈願し、その信者は、遠く戸井・汐首海岸から寿都・歌棄の海岸まで及んでいたという。

遊国寺(写真2)


 明治26年に「遊国寺」と公称し、34年現在地に移転した。大正4年8月函館高龍寺より秋野逢仙が新田見師の後を継ぎ住職となり、その後秋野大仙が継ぎ八雲地方における旧寺として栄えた。
 昭和48年12月に納骨堂から出火、本堂をはじめ庫裏や廊下の一部を焼失するという災禍に見舞われた。その後檀家の間で再建計画が進められ、51年10月に鉄筋コンクリート2階建ての本堂建築と仏具整備が完成し、同月7、8日に落慶式が行われた。
 当寺は曹洞宗に属し、本尊は釈迦牟尼仏で、現住職は6代目河西真龍である。

西教寺
 明治37年(1904)に鎌田専観が来町して布教していたが、信者の増加により翌38年に西本願寺説教所を設立し、さらに大正7年仏宇を新築して「西教寺」と公称した。
 当寺は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、本尊は阿弥陀如来で、現住職は3代目吉村善海である。



安楽寺
 明治25年(1892)に落部東流寺の住職藤探道が、八雲に説教所を設立して布教を開始したが、29年上磯東光寺の衆徒阿部真成が在勤となり、その後信徒も増加したので33年に「安楽寺」と寺号を公称し、真成は開基住職を拝命した。この寺号は、徳川義礼が名付けたものといわれており、徳川家定紋入り幕および義礼の額がある。大正6年本堂・昭和25年鐘楼・40年庫裏などを整備した。
 当寺は浄土真宗大谷派(東本願寺)に属し、本尊は阿弥陀如来で、現住職は3代目阿部真諒である。

安楽寺(写真1)


妙秦寺
 明治39年(1906)に池浦泰隆が日蓮宗説教所として八雲神社の西(現、自衛隊基地西北部)に設立したのが妙泰寺の前身である。翌40年本町通り(現、内藤肉店隣り)に移転し、さらに大正8年立岩の現在地に移転、15年に「妙泰寺」と寺号を公称した。
 当寺は日蓮宗に属し、本尊は日蓮聖人奠定の大曼荼羅で、現住職は3代目池浦泰宣である。
 なお、昭和29年からは児童福祉施設として「国の子保育園」を開設している。

妙泰寺(写真2)


透雲寺
 上八雲にある当寺は、大関農場の創設にともない戸数が増加しつつあった明治39年に説教所として設立されたのをはじまりとするが、信徒の増加もあり41年には早くも「透雲寺」と公称するに至った。
 当寺は曹洞宗に属し、本尊は釈迦牟尼仏で、現住職は10代目鈴木雄賢である。

透雲寺(写真1)


善通寺
 黒岩のシラリカ河畔にある当寺は、明治末期に長万部村の善導寺住職山田歓誠が信徒とはかって仏宇を設け、善導寺教会と称したが、大正10年に「善通寺」と公称した。
 当寺は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来で、現住職は3代目向田興倫である。

善通寺(写真2)


浄土寺
 山越内の円融寺3代目住職大川正雄が、大正6年(1917)10月に八雲教会所として現東町282番地に設立し、8年12月から阿部定賢が布教に努めた。昭和24年5月に「浄土寺」と公称した。
 当寺は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来で、現住職は3代目大川光道である。



大徳寺
 真宗高田派に属する当寺は、大正7年(1918)霜広教によって、現相生町97番地に設立された。
 本尊は阿弥陀如来で、現住職は6代目磯貝靖紀である。昭和45年から社会福祉法人として「なかよし保育園」を開設している。
大徳寺(写真2)


八雲寺
大正11年(1922)藤本琢道によって、高野山大師教会八雲支部として現東町269番地に設立されたのがはじまりである。昭和27年8月に「八雲寺」と公称した。
 当寺は高野山真言宗に属し、本尊は不動明王で、現住職は3代目前川孝史である。

八雲寺(写真3)


本現寺
 大正8年(1919)に岡野現相が、本門法華宗仏立講八雲教会として現東町91番地に設立したのがはじまりである。
 昭和23年6月に「本現寺」と公称した。
 当寺は本門仏立宗に属し、本尊は南無妙法蓮華経の大曼荼羅で、現住職は9代目指田教隆である。

本現寺(写真1)


金毘羅院
 昭和16年(1941)3月に真言宗八雲教会と名付け、長谷川宥江によって創設されたが、21年10月「高野山真言宗金毘羅院」と公称し、26年には本堂を現官園町115番地に新築した。
 本尊は金毘羅大権現で、引き続き長谷川宥江が住職を務めている。

金毘羅院(写真1)


願船寺
 明治40年(1907)に安楽寺付属説教所として、規矩大観によって黒岩に開設された。昭和17年(1942)3月に函館市万年寺副住職田中見正が主管者となり、名称を「大谷派黒岩教会」として独立し、22年1月「願船寺」と公称、同人が開基住職となった。
 当寺は黒岩142番地にあり真宗大谷派(東本願寺)に属し、本尊は阿弥陀仏で、昭和36年には本堂と庫裏を建てた。

願船寺(写真2)


東流寺
 落部にある当町最古のこの寺は、真宗大谷派(東本願寺)に属し、文化元年(1804)に相木仁三右衛門ら有志の勧請をいれて落部に定住した知照(加賀の人)によって創設された。津軽陣屋跡の建物をあて、福山(松前)の専念寺の許しを受けて「専念寺落部道場」と称したのがはじまりである。
 天保15年(1841)11月に30坪(約99平方メートル)の本堂を建築し、安教5年(1858)12月(東本願寺北海道開教100年史」による)箱館奉行の許可を得て「東流寺」と寺号を公称し、従来の留守居に代わって初代住職に円領が就任した。
 明治11年(1878)それまで浜通りに面していた建物を、旧国道に向けて再建した。

東流寺(写真3)


 明治7年から東流寺に在り、16年に3代目住職となった藤探道は、特に布教に力を注いだ人で、15年長万部に説教所(西念寺の前身)、同じく25年八雲に(安楽寺の前身)、さらに32年森村濁川でも布教を始め、38年に説教所(香徳寺の前身)をそれぞれ創設して活動し、後年本山から布教功績者として表彰されている。
 昭和8年(1933) 11月、落部177番地に伽藍を新築して移転した。本尊は阿弥陀如来で、現住職は6代目藤徳温である。

建長寺
 東野80番地にあって浄土宗に属する当寺は、明治28年(1895)3月に山越内の円融寺住職白幡秀音が浄土宗説教所として創設し布教にあたったのをはじまりとする。その後関係住民が協議して本堂や庫裏などを建築し、31年5月に函館市の称名寺の末寺「徳川山浄流院建長寺」と公称した。本村の阿弥陀坐像仏は円融寺から下付されたが、これは有珠善光寺からのものという。
 尾張徳川家の菩提(ぼだい)寺が建中寺であるところから、の宇を入れて建長寺とし、徳川家の開拓を記念して山号を徳川山、そして浄土宗の流れであることを院号としたというのが寺名の由来である。
 その後は随時施設を拡張して現在に至っており、現住職は5代目津島単数である。

建長寺(写真1)


法栄寺
 東野277番地にあって日蓮宗に属する当寺は、明治42年(1909)に地域内の信徒が妙見堂を建立したのをはじまりとする。そして大正2年(1913)に森村の一妙寺住職村上寿温が野田追教会所として堂宇を建設のうえ、藤原真純を居住させて布教にあたらせた。
 昭和22年(1947)11月に「法栄寺」と公称した。本尊は日蓮聖人禽定の大曼荼羅とし、現住職は4代目島田義秀である。

法栄寺(写真1)



光聖寺
 落部にあり曹洞宗に属する当寺は、大正後期に野田生の龍穏寺住職昼間宗光が信徒に呼びかけ、堂宇を建てて観音堂と称したのをはじまりとする。
 昭和17年(1942)10月に現消防庁舎のところに移転改築をし、無住ながら「黙照山龍穏寺説教所」としたあと、22年1月に「光聖寺」と公称した。
 22年11月に仮の本堂兼庫裏を入沢377番地に新築移転し、51年に改築して現在に至っている。

光聖寺(写真2)


 本尊は釈迦牟尼仏で、現住職は昭和16年以来定住の白岩光龍である。

妙念寺
 東町245番地にあり、真言宗高田派に属する当寺は、本尊は弘法大師で、昭和2年11月八雲教会として本間妙念が開基した。その後「妙念寺」と寺号を公称(年月日不詳)した。現住職は2代目本間良運である。

妙念寺(写真3)



 第4節 その他の宗教

天理教
 明治35年(1902)7月落部の物岱に「天理教茅部宣教所」が開設されたのが、当町における天理教布教のはじまりであろう。この宣教所は昭和4年(1929)野田生158番地に移転して「茅部出張所」となったが、さらに16年4月教規の改正によって「茅部分教会」となり現在に至っている。現会長は岡部敞二である。
 元町にある「山越分教会」は、明治38年(1905)に平川祐太郎が鷲の巣(立岩)で布教を始め、45年に「天理教山越宣教所」として開設したのがはじまりである。その後市街地に信徒が増えてきたので、大正14年(1925)元町に移転し、昭和16年に名称を改めて現在に至っている。現会長は小西知義である。
 富士見町49番地の「北八雲分教会」は、大正元年(1912)木村権太郎によって「北八雲宣教所」として設けられ、昭和16年に名称を変更して現在に至っている。現会長は坂本盛男である。
 栄町の「都道分教会」は、大正13年ビンニラ(春日)に集談所として創設されたもので、翌14年に市街地の現位置に移転して「都道宣教所」と改め、さらに昭和16年に名称を変更して現在に至っている。現会長は豊田貞市である。
 末広町の「遊楽部分教会」は、大正14年に「遊楽都集談所」として前野兼次郎によって設立されたもので、昭和16年に名称を変更して現在に至っている。現会長は倉地清夫である。
 なお、落部地区では大正14年に茅部分教会が野田生に移転したあと、昭和4年に石原兼次郎が商業を廃業して自宅を改造し「落部宣教所」を設け宣教にあたったが、8年に同人が死亡してからこれを継ぐ者がなく、自然廃絶している。

天理教茅部分教会(写真1)


日本基督教団八雲教会
 明治11年の移住者のなかに、漢訳の聖書を持参したものがあったといわれるが、20年に函館メソジスト教会から伝道のため宣教師が来町した際、立岩の佐治静雄が洗礼を受けたのが、当町におけるキリスト教伝道のはじめであろう。その後しだいに信者が増加してきたので、本町通りに集会所を設けたあと、大正2年(1913)8月に末広町の現在地に教会堂を建設した。
 大正4年9月「日本メソジスト八雲教会」として発足したが、昭和16年12月「日本基督教団」に加盟して現在に至っている。
 なお、昭和26年真野万穣がここに当町初の幼稚園を設置し、以後今日に至るまで幼児教育にも力を注いでいる。

日本基督教団八雲教会(写真2)


八雲カトリック教会
 当町とその周辺には、既に多くの 八雲カトリック教会カトリック信者が散在していたが、当時教会は函館や倶知安などの遠隔地だけにしかなかったため、信者は常に不便を感じていた。このため、昭和31年秋に東町の旧八雲漁業協同組合事務所の敷地と建物を譲り受け、聖フランシス・ザベリヨを奉献する「八雲カトリック教会」を設立し、聖人の祝日である同年12月2日に献堂式を行った。
 教会は当町をはじめ森町・長万部町・瀬棚町などを範囲として宣教活動を続けており、現宣教師はロバート・ジュニイエである。
 なお、昭和33年4月から「マリア幼稚園」を設立し、定員120名をもって幼児教育を行っている。

八雲カトリック教会(写真1)