第14編 住民生活

 

第1章 住民生活の変遷

 

 第1節 開拓初期の生活

 

徳川家開墾地の生活

 開墾地での苦労は、入植者がこの地へ上陸した時点から始まった。八雲へ最初に移住民として入植した旧尾張藩士が渡道した明治11年(1878)といえば、まだ鉄道は開通しておらず、この年7月、移民先発隊は開拓汽船玄武丸に乗り、東京品川沖を出帆し4日間を費やして函館港に入港した。それから目的地である遊楽部までは道らしい道もない。もとより川には橋が架かっていない。それでも函館から森まではくまやおおかみの通る細い獣道があった。森から遊楽部までの八里(約32キロメートル)の間は、自分の足か馬の背にまたがり、川筋を利用するか先住民族であるアイヌが利用した小道を行くか、いずれにしても馬がようやく通れる程度の道を、国元から持ってきたわずかな所帯道具や衣類を携えて現地入りしたのであった。

 陸路では、ある時は林の中に潜んでいたくまが飛び出して、人の乗っている馬を襲って食い殺したり、人を傷つけることもあったという。

 こうした危険にさらされながら、ようやくアイヌの家が2、30戸と、和人が10戸ばかり住んでいる遊楽部にたどり着き、ひとまず宿屋に落ち着いたのである。そして休む暇もなく、自分たちの住むべき家を造るための準備にかかり、深林の中へ道をつける仕事に追われた。

 先発隊は慣れない手付きでかまを持ち、土地のアイヌを雇って道を開き、木を切り倒し草を刈る仕事に追われ、やがて函館で雇った大工と、函館から船で運んだ材料で住宅を造り、10月に第一回の移住者を迎えたのである。

 こうして新しい住宅ができ、そこへ落ち着いた移住者たちは、その後は直ちに翌年来る第二回目の移住者のため、家を造る作業にかからなければならなかった。そのため毎日谷地へ行って屋根の材料になるかや刈りを始めたが、こうした間にも絶えずくまや蚊に悩まされ続けたのであった。

 第一回目の移住者たちが道を開いたり、家を造ったりしている間に、第二回目の移住者は、先祖代々住み慣れた名古屋で、士族屋敷を売り払い荷物を取りまとめて、翌12年7月27日に四日市港を函館丸に乗って出発し、8月1日に遊楽部沖に着いたのである。そしてアイヌに小舟をこがせて岸辺に着き、その背に負われて上陸し、新しく造られた住宅に一家族ずつ入居したのであった。

 

入植当時の野菜畑(写真1)

 

 我々移住の翌年明治十二年吉田知行宅の西に大根を蒔しに最早抜き取らんとするころ知行は朝起出畑を見廻りしに、立派なりし大根は鋭利なる刃物にて沢山に切られたるに驚き能くみれば巨熊の足あと点々として見えたり、時に知行がおもへらく、移住人は此地に来り寒気と熊に恐れをなしたる場合此有様を知らしむるは開墾の事業に妨ならむと自ら手もて熊の足跡を消し匿し、馬鹿人間の悪戯として了りしが、約二十幾年の後此地に帰り或集会の席上始めて此時の有様をもの語り一同に当時の恐怖を偲ばしめたり、知行は徳川家より開墾事業の委員として遺され責任を帯び移住者を督励し発展を期待せし為斯く深き慮を為せり

 初年移住人 土岐冬麻呂記す

 

 移住者たちの仕事は、まず家の周りの草を刈り木の根を掘って、5日も6日も天日で乾かして火を付け、焼けた跡を唐ぐわで耕し、土を砕いて畑を作り二畝・三畝と開墾した荒地に、野菜や大根、じゃがいもをまいた。

 こうして初年度は筋まき、坪まきなどによって食糧となる大小豆・そば・とうもろこしなどの自給作物を栽培した。

新墾の畑は肥料を与えなくとも収穫はあった。開拓の初期は、一家の1年間の食糧が自給できれば上々であった。

 秋の収穫が終わると、家の近くに穴を掘って越冬用のばれいしょや野菜を貯蔵し、大豆は蒸してこうじを入れみそを造る。小麦やそばはひきうすでひいて粉にして、うどんやそばを作る。このためうすはどこの家にもあり、これを回すのは子どもたちの仕事であった。また、春先にはよもぎを摘んでおき、草もちなどがよく作られた。

 移住者にとって、北海道の冬はまた大変であった。経験のない北国の生活は、雪や寒さとの闘いであり、大雪のため隣家との行き来もできず、移住早々で食糧の蓄えもなく、函館から船で到着する米を板蔵で受け取るよりほかに食物は何もなかった。その板蔵でさえ、大雪が降ると岸辺まで来ている食糧を取りに行くことが出来なかったのである。

 こうして移住者が食糧の欠乏に悩まされたこともしばしばで、一、二升の米を各戸が分け合い、5、6日はかゆをすすってしのいだこともあった。また、せっかく着いた船が遊楽部沖で破船し、移住者たちは乗組員を助けるため、夜中に駆り出されたり、荷物を拾いに出掛けることもあった。

 しかし、遊楽部に入植した旧尾張藩の移住者たちは、いわゆる士族移民で、徳川家の手厚い保護もあって、それ以上飢えに苦しむということはなかったのである。

 すなわち、移住者に対する直接保護として、

 

 初年度 家屋建築費・旅費・農具種苗費・米菜料 計253円

 2年度 米菜料 36円五〇銭

 3年度 米菜料 18円二五銭

 合計 307円七五銭

 以上貸与され5年目から全額を6期に分け、30年間に無利子で分割償却させることになっている。米菜科貸与の詳細をみると、1戸に付人口の多少にかかわらず老幼男女を平均して丁壮5人を目安とし、一人1日玄米5合宛2年目は2分の1、3年目は4分の1とし、菜料も同様一戸5人として一人1日二銭、5人分十銭の割で貸与した。これで不足を生じたものは請願によって無利子で必要量を貸与し満5年以内に償還せしめることにしてある。

 以上は規定による貸与であるが規定外の資金の貸与、または給与がしばしば行われた。一、二例をあげれば明治15年は凶作であったので翌16年に一反歩につき除草出面二人半(七五銭)ずつ作付面積に応じて貸与、15年6月蝗虫撲殺の慰労金50円下賜、蝗虫一箇に付二厘ずつで買上げなど、いろいろな名目で貸与または給与し直接の保護がなされていた。

 (林善茂著 経済学研究所載「徳川農場発達史」=ゆうらふ第一〇号)

 

 このように徳川家開墾地のような企業的な組織の中で入植した移住者は、最初の2、3年は米であるかどうかは別にして食糧が支給されたが、このような後ろ盾のない他地区への独自の移住者たちは、しばしば飢えに苦しむこともあって、漁師の手伝いをして魚をもらったり、ふきやわらびなどの野草を採ってそれぞれ飢えをしのいだという。

 移住者の冬の仕事は、開墾地の中に生えている樹木の伐採であった。使い慣れないのこぎりやおので、2日も3日もかかって大木を切り倒し、それをまた10日ほども費やして小さくまきに切り、そしてこれを雪の消えないうちに家の軒先まで運ばなければならないのである。

 移住当時は、まだ各戸に馬が飼育されていなかったので、積った雪が凍って堅雪になる春3月ころ夜中に各自の家からそりを引き出してその上にまきを積み、ちょうちんで照らしながら山から家まで運んで積み上げる。移住者が自力で得た最初の生活用品である。慣れない仕事のため伐木の下敷きになり、尊い命を失う者もあった。

 春になって雪が溶けてしまうと、冬に切り倒した木の根を焼く作業が始まる。昼夜を問わず焼き払い、再び開墾が始まるのである。

 また、移住者が恐れたものに、寒さのほかにくまの被害があった。くまは移住者の住居近くにまで出没し、畑の作物を収穫前に荒して食べてしまうだけではなく、牛や馬などの貴重な家畜も襲って殺してしまう。こうした被害を防ぐために、度々くま狩りが行われた。それには地理に詳しいアイヌを雇い、鉄砲や仕掛弓(アマッポ)を用いた。仕掛弓はいちい(オンコ)を材料に、五尺二、三寸(約1・6メートル)の長さで、弓の中ごろを平らに削り、弦は鯨の背筋を一か月ほど沼の水に浸したものを乾かし、固くなったところをつちでたたいて細く裂き、それを縄をなうようにして使ったという。これは雨にぬれても伸び縮みしないので調節しなくてもよいからだといわれる。しかしこれでも1週間もすると緩むので、ときどき行って締め直す必要があった。

 仕掛弓はくまの通り道を選んで鉄砲かアイヌのブシ矢(毒矢)を仕掛け、その先へ引いた糸にくまが触れると弾丸か矢が飛び出すようにしたもので、そのため、これを仕掛けた場所には木を削って印を付け、だれが行っても分かるようにしておき、危険を防がなければならなかった。

 また、家の周囲にくまを寄せ付けないために、くまが出たという知らせがあると、一晩中空砲を撃ち続けることもあった。

 開拓当時、開墾に使われた農具は、伐木用ののこぎりとおの、ささ刈りがま・唐ぐわ・平ぐわ・草かきなどであったが、徳川家開墾試験場では明治14年(1881)に七重試験場から種雄馬を借り受け、馬の飼育を奨励するなど、家畜の増殖を図ったので次第に増加し、プラオ、カルチベーターなどの西洋農機具も導入したため、開墾も著しく進展していったのである。

 

徳川家開墾地以外の入植者

 徳川家開墾地へ入植したもののほかに、明治28年(1895)ごろから各地に農場が経営されるようになり、これらの小作人として本州府県から移住するものも多かった。こうした移住者たちは、それぞれの出身地から青森までは鉄道を利用し、船で函館へ渡り 函館からは当時唯一の交通機関である客馬車で森に着き、ここで一泊して森からは海岸を歩いて八雲や落部に到着したのである。国道はすでに開通していたが、海岸の方が歩きやすかったという。落部や八雲の宿に一泊してから目指す農場へと向かったのである。

 また、愛知県からの移住者は、故郷から四日市港まで出て玄武丸という汽船で遠州灘を渡り、函館へ着いて一泊し、ここから小さな船で遊楽部の沖へ来てはしけによって岸辺に着き、アイヌに背負われて上陸のうえ農場へ向かうものもあった。

 目的の農場へ入っても、初めのうちは土地の区画割りをすることもなく、適当に開墾しやすいところを選び、木を切り、ささや草を刈って焼き払い、そこに筋を付けて種子をまくということは、徳川家開墾地へ入植した移住者だちと変わりなかった。作付けするものは、一番先に食糧になるとうもろこし・ばれいしょ・いなきび・あわなどであった。とうもろこしやいなきびは米の代用食で、米を買うことのできなかった開拓当初は、これらの作物は貴重なものであった。また、なたねは現金収入があり、収穫も多かったのでよく作られた。その後でえん麦や大小豆が作付けされるようになった。

 こうして農場に入った移住者たちは、農場主と小作契約を結び、土地を開墾していったのであるが、入植当初は「新墾鍬下年限」という制度があって、3、4年は小作料が免除されるなど、いろいろな契約がなされていた。

 しかし、徳川家開墾地への入植者と異なり、生活に対する保護制度もなく、住居は粗末なもので、草ぶきの丸太小屋を造り、床も丸太で、えん麦の穀を一尺(約30センチメートル)くらい敷きつめ、その上にむしろを敷き、部屋も二部屋くらいで居間の真ん中にいろりを造り、天井から木製の自在かぎをつるし、割りまきを使って火をたいた。ストーブが使用されるようになったのは、大正3年(1914)ころからで、大部分はたき火であったという。入口の戸は、あしで編んでそれにむしろを両面に張り合わせ、戸口にぶら下げるという粗末なものであった。板の間のきちんとした部屋があるのは、農場の事務所くらいのものであったという。

 

漁村の生活

 明治以前の漁業については水産業編で述べたが、明治の末から大正時代にかけてこの地方の海岸では、当時北海道沿岸の至る所で取れていた本場ニシンとは違う茅部ニシンと称する小形のニシンが大量に取れていた。しかも落部と野田追付近は特に多かった。

 この茅部ニシンのほかに、八雲沿岸ではイワシ(バカイワシと称された)が大量に水揚げされ、昭和15年ころまでその全盛期が続いた。

 漁家の数も八雲・落部地方の沿岸には200戸くらいあり、建網の網元とそこに雇われる出稼ぎ漁夫らによって、漁期になると漁村人口は約3倍に膨れ上がった。

 この当時における漁村での1年間の生活状況は、まず正月の行事が終わると、網元では地元の使用人によって漁の準備が始められる。その第一は山仕事で、イワシをかすにするためのまきの切り出し作業を主として、漁船用の「ごろ」「しき木」「かい」などの材料は、1、2月中に他へ発注し、漁具の作製、漁網や漁船の修理などは漁の始まる3月ころまでに終わらなければならない。

 網元や帳場たちは早ければ前の年の12月か遅くても正月の終わりまでに、津軽や秋田地方へ出稼ぎ漁夫の募集に出掛け、3月には漁夫(ヤン衆またはヤトイと呼ばれた)がやって来て浜はにぎやかになる。

 また、仕込み業者が浜の番屋に集まり、各漁場では「網子(あご)合わせ」の酒宴が行われ、網の建て込みも行われて魚がやってくるのを待つのである。

 いよいよニシンやイワシが取れはじめると、この漁の権利を持たない漁民たちは漁夫として雇われ、漁夫以外の男や女たちはおか回りとして、かま炊きやかす干しに従事した。

 水揚げされたニシンやイワシは、もっこで製造場に運ぱれ、大きなかまで煮たものを揚げて圧搾し、それを干し場に敷かれたむしろの上で天日で乾燥してニシンかすやイワシかすを作り、俵に詰め込んで包装したのである。

 こうして漁は、定置漁業の場合春網(茅部ニシン・バカイワシ)、夏網(夏イワシ)、秋網(イワシ・サバ・イカ)、の三段階に分かれて操業され、東北地方から来た漁夫たちは、噴火湾の場合そのほとんどが11月末か12月初めの切り上げまで続けられた。

 漁が終わって「網子別れ」の宴が済むと、出稼ぎにきていた漁夫たちはそれぞれ歩合給をもらい、さらにほかの道内漁場へ向かうもの、あるいは郷里へ帰るものなど各地へ散って行き、漁村は再び以前の静けさを取り戻し、家内労働力をもって雑漁を営むのである。

 漁村での仕事着としては、海上に出て舟の上で動きやすい暖かい毛糸のシャツを着たり、ゴム製品が出回るようになるとかっぱや特長靴などを用いるようになり、また、ネルの布を頭からかぶり鉢巻きをして顔だけ出すという姿が多かった。

 秋になると、女性たちは越冬用の漬物作りに忙しくなる。漬物作りは秋の大仕事で、たくあん漬け・ニシン漬け・切り漬け・なすやきゅうりの本漬けなどは、どこの家庭でも作られた。

 冬になると、女性たちは農村の女性たちと同じように針仕事が待っている。刺し子や手甲・足袋などの縫い刺しに忙しい。

 漁村の娯楽としては、暮れから正月にかけて地域の男性たちはあちこちの家に集まって、花札や板かるた(百人一首)などに興じた。これには少額ではあったが金銭がかけられた。女性たちは「ほうびき」を楽しんだ。これは集まった人数分だけのひもを用意し、その中の1本だけに金を結びつけ、親番の者が全部のひもを待って1本ずつ順番に引かせるという遊びであった。花札などは漁期の合間やニシン待ちの時にも行われ、現金を得ることの多い漁村ではとばくの風習が強かった。

 茅部ニシンのほかにサケもよく捕れた。サケは秋に遊楽部川へ産卵のため上ってくるものを捕獲したのであるが、このサケ漁は、古く八雲に開拓者が入植した当時すでにアイヌたちによって捕獲されており、漁が始まると遊楽部川には各地から人が集まり、最盛期には川の両岸にいろいろな物を売る店が立ち並んだという。アイヌはそれらの店で、大きなサケと一杯の「どぶろく」を交換して飲んだ。密漁もまた盛んであった。

 捕れたサケは馬によって函館へ運ばれる。函館では「ユーラップの鼻曲がり」として有名になり、正月のエビやだいだい、ゆずりはなどと同じように欠くことのできないものとなった。

 明治の末になると茅部ニシンもしだいに不漁となり、これに代わってイワシやサバ・マグロなどの全盛期を迎え、昭和14年(1939)ころまでは好況に恵まれて漁村の景気は比較的良く、生活も豊かであったといえる。

 

 第2節 衣食住の変化

 

 開墾当時の衣類は、郷里から持参してきたもののほかに、通常刺子(さしこ)と呼ばれる綿布を表と裏に合わせ、細かく縫い刺ししたものを着て働き、女性は細いひも帯の前掛けを使い、手ぬぐいやふろしきをかぶって働いた。

 モンペが流行しだしたのは明治35年(1902)ころで、東北地方からの移住者が着用してきたのが始まりといわれ、活動的で暖かいため急速に流行し、各地で用いられるようになった。

 履物は、草履・わらじ、冬はつまごなどのわら製品で、各自の家で作って使用した。

 冬山へ入るときは、モンペをはき、腰までの山着、綿入りの「手っかへし」、きゃはんに毛布や南きん袋の切れで足をつま先まで巻いてつまごを履き、綿ネル大幅の長い布で顔を包んだり、赤毛布(あかけつと)を折って頭からかぶり、首の所を手ぬぐいで縛り、むしろで作った背のうになたやのこぎりを入れて背負うという姿であった。女性は冬期間に仕事で外に出ることはなかったが、外出するときは、わら靴を履き、おこそずきんや綿ネルをかぶり、一家に1枚はある角巻で体を包んだ。

 開墾時代における女性の雨の日や冬の仕事は、繕い物や1年分の衣類の手入れ、赤ん坊の足袋やぼっこ足袋、開墾足袋(ぼろを厚く重ねて糸を剌して底とし、甲を白木綿で作るが、ささなどの切りロから足を守るため板をつけたという人もある)などの針仕事に追われた。

 このような生活の中に、炭焼きとか冬山造材で得た現金が入るようになると、しま柄のボタン付きシャツやメリヤスシャツが入ってくる。青年たちはしだいに夏は紺やカーキ色の木綿、冬は茶色のコールテン作業服、ズボンは乗馬服スタイルのものを着るようになった。

 大正3年(1914)に第一次世界大戦がぼっ発すると好景気となり、特に八雲地方はでんぷん景気といわれる好況が反映して農村に浸透し、ラシャの外とう、ゴム靴などが一般家庭に入るようになり、服装の上にも大きな変化が現れはじめたのである。ゴムの出現はその中で最も大きな変化であった。ゴム長靴は、わらの深靴、つまご、足巻きなどを追放し、地下足袋やゴムの短靴はわらじや開墾足袋、ぼっこ靴を消し去ってしまった。

靴を履くようになってからは、足袋から靴下へと変わっていった。

 また、野良着は丈夫なものが望まれたが、生地・種類・型などが次第に増加してくると、丈夫なうえに活動性が要求され、さらに装飾性が加味されたものが現れた。

 夏は木綿物、冬は暖かいネルを着るようになり、じゅばんや袴下(こした)など下着類は、各家庭がネルの反物などを買ってきて、家族の年齢に応じた型紙を使って作るようになった。

 大正の末になると、農村の女性たちに一定の作業衣姿が定着し、洋風婦人作業衣の講習会や婦人労働服の講習会が各地域で開催され、作業服を洋風に改良して動作が活発にできるようにし、新しい文化を取り入れたものであった。

 一般に軍手といわれる綿糸の手袋も、メリヤスの工業化が進んだこのころから広く用いられるようになった。

 その後、太平洋戦争中になると、物資不足のためゴム製品が姿を消し、再びかつての「つまご」「わら靴」を自家製によって使用する時代が短期間あった。

 ところで農村では、「よそゆき」や晴れ着はもともと和服であり、男性の場合は軍隊への入隊や結婚などを機会に羽織・はかまが作られたが、徐々に背広にネクタイといった都会風の洋服姿が流行しはじめた。もちろん、和服に中折帽や和服に二重まわし(インバネス)を着て革靴を履くという、和洋折衷のスタイルもしばしばみられた。子供や学生にはマントが常用されるようになった。

 

改良婦人労働服(写真1)

 

 女性の服装も男性からはやや遅れて昭和期に入って洋装化が進んだ。それまでの冬期間の外出には「おこそずきん」に「あずまコート」「つまかわ付きげた」などであったが、帽子にオーバーやマント、靴という装いもみられるようになった。男女とも祭りや集会などでは、中年以上の者は和服が多く、青年層は洋服が多いという状況が、しだいに普通となってきたのである。

 こうした洋装化の入ってきた経路は、都市や特定の階層・職業の人にはじまり、次第に市街地に入り、また、軍隊や出稼ぎ経験者などによって、農漁村の一般に普及されたものと思われる。

 小学生などの学生服も普及が早かった。また男性の場合、昭和の初期から在郷軍人分会・消防組・青年訓練所・中学校などの組織が年を追って整備され、それぞれ制服が定められたことも急速な洋服化の原因ともなった。

 女性の場合は、大正15年(1926)八雲に家政女学校が出来て、ミシンを利用して洋裁を教えるようになると洋服が身近なものとなり、愛国・国防両婦人会の服装が筒そでにモンペ、エプロン姿となってから、ズボンに筒そでという装いも多くなっていった。

 昭和12年(1937)に日中戦争が始まり、戦時色が強くなると、「ぜいたくは敵だ」の合い言葉のもとに服装の統一化が進められ、15年には男子は国民服、女子は標準服が定められ、17年には衣料品はすべて切符制となり、地方的な格差は少なくなっていった。

 

八雲高等国民学校制服(写真1)

 

 また、北海道の寒い冬を過ごすため、寝具は古くからいろいろ工夫され、肩の冷えを防ぐことと肩先から冷気が入らないようにするために、丹前を体の上に掛けたり、夜着といって丹前の形の掛け布団を用いたりした。それでもまだしのぎにくいときは、肩当てという薄い小布団で覆って寝た。

 家屋の防寒設備はきわめて不十分で、室内のやかんに入っている水なども朝までに凍ってしまい、また、寝息が夜具の襟に凍りつくことも珍しくなかったので、夜具には十分な工夫をしなければならなかったのである。「ゆたんぽ」や「行火」も、なくてはならない冬の生活必需品であった。

 

 開墾当時の食生活には、前に若干ふれたのであるが、当時の八雲・落部地方は米がとれないため、雑穀の栽培が主体で、あまり変化はなかった。米は買わなければならず、とうもろこしや麦などと混ぜたものが主食として用いられていた。

 とうもろこしは、引き割りにして粗いところを米や麦と混ぜて食べるのが普通で、3分の1が米で、あとはとうもろこしか麦であったという。粉は団子にする。

 そばや小麦は粉にし、手打ちそばや手打ちうどんを作り、ばれいしょ、かぼちゃ、いなきび、あわなども主な食糧とした。

 開墾も一段落し、山仕事や炭焼きなどで現金収入があるようになり、また、欧州大戦後のでんぷん景気で好況になると、米の量も若干多くなった。しかし、このでんぷん景気も一時的なもので、再び粗食に甘んじなければならない時代が続いた。

 やがて酪農に切り換えて乳牛の飼育が盛んになるにつれ、食生活の中にもある程度牛乳やバター、チーズなどが入ってきた。

 主食ではないが大正の末ころからバナナが比較的大量に出回るようになり、運動会などには付き物の果物となった。

このほかトマトなどの果菜や野菜類も広く食べられるようになり、昭和に入るとシュークリームなどの洋菓子が店頭に陳列されていた。

 副食物としてのみそ漬けや山菜利用は古くからあり、移住者が出身地から携えてきた慣習でもあった。春、雪が解けはじめる4月ころから山野に出る、ふき・こごみ・ぜんまい・うどなどは直ちに副食となり、5、6月ころからの、わらびや竹の子などは、ゆでて乾燥したり、塩漬けにして冬期間の保存食とした。

 調味料の砂糖やしょうゆは購入することが多かったが、みそはほとんどの農家がそれぞれの家で造るものとされ、出身地方の造り方を伝えたりして、変化に富んだものもあった。動物性たん白源としての鶏卵は、養鶏の普及とともに自給可能となり、やがては小銭が得られる唯一の商品となった。

 肉類は一般にあまり食べることはなく、特に開拓当時は「4つ足のものは食せず」といって食べなかったという。

 魚は豊漁が続いた昭和15年(1940)ごろまでは、朝早く浜へ行くと、イワシやサバがただ同然で手に入った。

しかし、農村などでは行商人から買ったり、漁の季節になると産業組合などが希望数を取りまとめ、箱で買入れて、イワシ・サバ・ホッケなどを塩漬けやぬか漬けにして保存し、折々の食用や子供たちの弁当のおかずに使った。これら魚の料理として代表的なものに、三平汁と呼ばれる調理法が広く普及した。これは、塩魚とばれいしょその他の有り合わせの野菜類を入れたなべ料理で、三平皿と称する底の浅い専用の皿を使って食べた。

 このほか漬物としては、身欠きニシン・大根・にんじん・きゃべつ・白菜などでニシン漬けを作る家が多かった。たくあんはどこの家でも作られ、洗った大根を縄で何本も縛って軒先につるしたり、束ねて長い横木にぶら下げたりするのは、晩秋の風物詩であった。こうして干し上がったものを、それぞれ味付けに趣向を凝らし、たるに漬けて冬季間の副食物としたのである。また、正月用にサケを塩蔵するものも多かった。

 冬季間の野菜の保存は、家の近くに穴を掘り、わらを敷いて野菜やばれいしょなどを積み重ね、さらにわらをかぶせて土をかけて保温し、越冬用とした。また、家の中には縁の下に「むろ」を造って野菜を入れ、小出しにして使った。

 冠婚葬祭などの特別な場合を除き、全般的に食事は質素で変化に乏しいものであった。

 一方、この当時の漁村における食生活は、農村に比べて米が多く、米以外の主、副食を自給するため、漁期の合い間をみて畑仕事をしたが、これは主に女性の仕事であった。作物は漁期以外の主食の代用となる、ばれいしょ・かぼちゃ・漬物用野菜類が多かった。

 イワシ漁の最盛期になると、激しい労働であるため、日常の食事と盛漁期のそれとでは、内容が大いに異なった。

 このイワシの盛漁期中は、朝・昼・夜とも白米が主食で、麦や南きん米などを混ぜると、漁夫にたいへん嫌がられたという。白米の飯を食べたいだけ食べさせ、これに漬物や三平汁、まくり汁などを添えた。盛漁期の昼は食事を取る時間も惜しいので、陸(おか)回りの「もっこかつぎ」などはおけに入れて置いてある握り飯を、沖に出る者は角おひつに入れた飯とたくあんや塩、みそなどを舟に積み込み、取った魚をみそ汁や刺身にして食べ、そのほかに小昼と称してばれいしょやかぼちゃの塩煮を食べた。

 イワシ盛漁期以外の日常は、米と麦の混食や、ばれいしょ、かぼちゃなどを主食にした粗末なものである。副食の魚類はさすがに豊富であったが、秋や冬には春に漬けておいたすしニシンとか切り込みなどを、季節の魚のほかに用いた。また、春には越冬野菜が乏しくなるので、漬けてあるふき・わらび・ぜんまい・うど・竹の子などの山菜を食べ、6月過ぎから自給野菜を用いた。

総じて漁村における食生活は、農村に比べるとわりあいに豊かであったということができる。

 

 農村における住居の変化をみると、開墾時代を過ぎて、自作・小作にかかわらず一応一定の土地を持つようになって収穫が安定してくると、入植当時に一時しのぎに建てた住居の建て直しがはじまるようになる。

 徳川家開墾地への入植者を除いた一般の入植者の住居は、前にも述べたようにきわめて粗末なものであった。

 第一次世界大戦後、景気の回復とともに土台付きの家がぼつぼつ建てられるようになり、屋根はかやぶきやまさぶきなどで、外部は粗壁に板を張り付けたものが多く、都会風に下見板を張ることは少なかった。

 酪農が次第に盛んになっていった八雲や落部地方の農家では、折れ屋根付きの畜舎やサイロが建てはじめられた。住宅ではないが酪農家として必要なサイロが、大正8年(1919)に立岩の今村文次郎によって、れんが造りで40トン詰めのものが建てられた。これが当町における最初のサイロであるといわれている。

 

徳川家開墾試験場の入植者の住居(第2回)(写真1)

コンクリート壁の住居(写真2)

ピーゼ建築法による粘土の家(写真3)

粘土の家の内部(写真4)

 

 折れ屋根式の畜舎は、2階に干し草などを入れるための洋風形式のものであった。

 珍しい建物としては、徳川義親の外遊によってもたらされた防寒保温住宅の建築があり、大正12年厚さ33センチメートルのコンクリート壁で内部にペチカを有する建て坪39・6平方メートルの純洋式文化住宅を建て、テーブル・椅子・寝台などを備えて場夫を試験的に住まわせ、さらに大正15年にはフランスの一地方で発達したといわれるピーゼ建築法によって、粘土だけで固めた厚さ66センチメートルの壁を有するペチカ付きの建て坪79・2平方メートルの保温住宅が建築された。また、サイロのある風景は、その後北海道の農村を象徴する一つの風物詩となった。

 開墾時代を過ぎて新しい家を建てるにしても、地域や階層によってその遅速がみられたことは当然である。まして地主からみて小作人が、人種が違うくらいあらゆる面で差別されていた当時においては、地主や管理人の住居は、屋敷林を植え込んだ白壁造り土蔵付きの堂々たるものであった。

 また、明治の末ごろから大正初期にかけて、各地に農場が創設されたが、これら農場の事務所の建物も特異な存在であった。

 徳川家開墾地においては、入植当時の事務は開墾地委員の私宅で行われていたが、その後事務所が建てられてそこで行われるようになった。明治21年(1888)には開墾地事務所を廃止して開墾地会所を置き、事務の一切をつかさどることとしたのである。当時の徳川家開墾地へは、中央から高位高官が多数訪れることがしばしばで、これらの貴賓を迎えるために「真萩館」を新築し、池を掘り築山を設けるなどして庭園も整備した。この庭園は、のちに徳川公園と呼ばれ、昭和18年(1943)に八雲飛行場建設のため陸軍に寄付されるまで、町民の憩いの場として親しまれたのであった。

 

真萩館(写真1)

 

 住宅型式の変化は、山間部の農家と市街地近郊農家と比較した場合、市街地から先に目立ってきた。例えば屋根の材料も、まさやトタンといったものから、建材の質、建具の内容などで農村部よりも早く近代化されていったのである。

 農家における住居内部の目立った変化としては、土間やいろりが減っていったことである。かつては入りロに続くところは、多少の手作業ができて物置にも使える土間が一定の面積を占めていたのであるが、やがて物置や畜舎、作業場が出来るとこれの効用も少なくなり、作業衣や履物、小道具の置場になってその面積も次第に小さくなっていった。しかし、完全になくなるというのではなく、入り口がガラス戸付きの玄関という形に変わっても、裏口が靴脱ぎ場とか脱衣所として、玄関よりもむしろ多く使われたのである。また、いろりが居間の中心から姿を消すようになったのは、大正の末ころからまきや石炭をたくストーブが普及しはじめたからで、これをいろりのあった場所に据え付けて使用するように変わっていった。いろりは「つまご」などを履いたままで入ることができる踏込み炉が多かった。こうした土間やいろりの消長は、履物の変化や作業形態、その他の生活様式の変化と深いかかわりがあったという。

 一方、明治末期から大正時代にかけて、漁村の代表的な建物として番屋がある。この番屋は、もともと網元の居住地から離れた漁場に建てられた、季節的な漁夫の宿泊施設であったが、地元の網元が多数の出稼ぎ漁夫を雇い入れるようになると、網元の住居と漁夫の宿泊場所を兼ねた独特の構造をもつようになった。多くは網元の居住部分と土間を隔てて、流しや漁夫の寝部屋、作業用兼食事の場としての板の間が設けられていた。また、就寝のための「なかだな」が造られ、板の間は網直しなどの作業場として使われた。

 盛漁期が続き各漁場には、番屋のほかに漁船・漁具・食糧・製品などを格納する倉庫が建てられ、番屋の屋上には沖の漁況を監視する望楼が設けられた。住居を別にしている網元は、漁夫用に番屋だけを建て、漁期中のみ寝泊まりするものもあった。

 これに対し、一般漁民や雇われ漁夫の住居は粗末で貧弱なものだった。掘立式・石束(つか)式・土台式のものがあり、いずれも木造で平屋建てが多く、屋根はかやか長まさでふき、大正の末期には普通まさを使ったまさ屋根に変わっていった。また、冬期間の強風を防ぐため、いたどり、かや、あしなどで家の周りや風の来る方向に囲いを造った。場所によっては年間を通して囲うところがあり、これを常囲いと称していた。まさ屋根からトタン屋根に変わっていったのは昭和の初期以降で、当初はきわめて裕福な家だけであった。

 昭和10年代に入ると、紙にコールタールを塗ったルーフィングが普及しはじめ、手軽に屋根がふけることから、漁家の屋根の補修には多く用いられるようになった。

 住居の内部は、片側が入りロから裏口まで通し土間になっており、一方の側に部屋が並んでいるというのが一般的であった。母屋の後ろには漁具を入れる掘立式の下屋があり、その裏が海産干場となって海岸に続いていた。便所はおおむね外便所であった。通し土間の居間に面したところに、水がめ、流し台、かまどが置かれて台所を形作り、居間には炉が切ってあり、天井から自在かぎが下げられていた。間取りはほぼ田の字形になっているものが多く、居間の位置は、土間に面した2部屋くらいとおおむね決まっていた。居間は窓もなく穴蔵のように暗いため、屋根に天窓を設けて明かりを取っていた。このような住居が漁家の一般的なものであった。

 また、漁家にはりっぱな床の間や仏壇のある家は少なく、押し入れも少ないので、寝具を畳んで部屋の隅に積み重ねて置くというのが多かった。畳は寝室だけに敷き、ほかは板の間か多い。家具類も一般に少なく、たんすを持っている家も数える程しかなかったようである。もちろんこれには階層によって著しい差があり、巨萬の富を積んだ大漁漁業家や網元などが、しばしばけた外れの豪邸を建てたのも漁村の一特徴であったが、その数は少なかった。

 市街地における住居の状況も、第一次世界大戦後は徐々に変わりつつあった。まず借家が増えはじめ、外見は板張りトタン屋根で、半紙判であった窓ガラスがみの判になり、一応は整ってみえた。しかし、土壁塗りのものは少なく、防寒性からいえば依然として不備なもので、冬には室内で暖まった空気が天井裏に逃げて屋根の雪を溶かし、大きなつららが何本も軒先にぶら下がっているのが普通であった。軒先に氷が付くと、解けた水が屋根から壁を伝わって部屋に落ちる「シガ漏れ」となり、人々を悩ましたものである。

 大正中期に入ると、文化住宅と呼ばれるものがはやりだした。これは折れ屋根の2階建てで出窓が付いており、コールタール、ペンキ、モルタルなどが塗られ、スレートまたはトタン屋根のものが多く、カラフルでモダンな感じがし、内部もまた洋風の応接室などを持つものがかなりあった。

 

市街地の洋風建築(写真1)

遊楽座(写真2)

 

 また、劇場、産業組合、役場、その他この時代に建てられた比較的規模の大きい建物は洋風で、2階正面にバルコニーを設けるのが特徴であった。

 北海道の冬の生活にとっては、暖房設備もまた欠かせないものの一つであった。まきストーブが使われはじめたのは第二次欧州大戦中であるが、秋になるとどこの家でも越冬用のまきを買い込み、それを細かく切って割り、まき小屋に積み重ねてよく乾燥させるという大仕事があった。このまきを燃料とした時期は、かなり長い時代にわたって続いたのである。まき切りも、最初はのこぎりで切り、まさかりで細かく割ったものであり、これを業とするものもあった。昭和期に入ると、丸のこを動力で使って請け負うものもあった。しかし、原木を切り出すまき山も次第に遠くなり、やがて造材業者が国有林から払い下げを受けるようになると、主要な燃料としては価格も高すぎるようになってきた。

 こうして、まきに代わり石炭が徐々に暖房用として使用されるようになった。石炭ストーブもいろいろな種類のものが考案され、貯炭式、投込み式、ルンペンなどが出回り、座敷用と炊事用にも分けられ、前者は暖房専用であったが、後者は炊事や湯沸かしに便利に出来ており、茶の間では専らこれが使用されたものである。

 しかし日中戦争がはじまり、戦線の拡大によってすべての物資が統制になって石炭も配給制となり、量の確保が十分でなくなると同時に、質も徴粉炭かズリに近い低品質のものが多くなった。このため、良質の中塊炭を使用するように考案されていた貯炭式ストーブは使用できず、鉄板製の投込み式ストーブで水で湿した徴粉炭を燃やしたり、工場近くの石炭殻捨て場で、燃え残りの石炭を拾い集める女性や子供たちの姿がみられた。これも当時の燃料不足が、いかに深刻であったかを物語っている。

 

 第3節 昭和初期と戦時下の生活

 

昭和初期の生活

 昭和初期には全道的に冷害や凶作の年が連続し、八雲や落部地方もこうした被害に見舞われて不況時代が続いた。八雲においても学校では欠食児童が多くなって、これらに対する給食を行ったり、教員の俸給も満足に支給されないこともあった。また、農村子女のなかには、人身売買の犠牲になるものもあった。

 こうした不況時代に対応して、いろいろな打開策が講じられ、生活改善運動や経済更生計画を立てて各種の救済事業が進められたのである。

 この時代における農民生活の実態はどのようなものであったか、昭和13年度の全道中庸農家40戸の家計内容を見てみると(鈴木勝俊著「家計費を通して見たる北海道の農民生活」)、1戸平均農家家族7・7人の生活費は、現金961円31銭(65パーセント)、現物508円25銭(25パーセント)、計1469円56銭であり、その構成は衣食住のための費用、すなわち、住居・飲食・光熱・被服・じゅう器などの生活費が全体の67パーセントで、このほかに、教育・交際・し好・娯楽・保健衛生・冠婚葬祭などの費用が33パーセントを占めていた。しかし、家計費の40パーセントを占める飲食費はきわめて少なく、農村食の改善が叫ばれたものであった。住居費も少額で、経常的な修理費程度しかなく、衣料費についても全体の13パーセントであったが、極めて粗末なものであった。保健衛生費と交際費は大体同額で、それぞれ支出の約20パーセントにあたり、次に大きいのは冠婚葬祭費の12パーセントであった。このうち、保健衛生費と冠婚葬祭費は臨時的に支出される場合が多く、これが農家負債の原因になることが多かった。教育費は義務教育費であり、教育費と娯楽費を合わせてわずか8パーセントにすぎず、それも新聞や雑誌の購読費と、わずかな回数の映画や芝居見物がその主なものであった。

 

結婚式(写真1)

 

 以上のような家計費の内容から、昭和初期の農民生活は「粗衣粗食は農村の代名詞」とか「娘3人もてば、かまどをなくする」などといわれ、決して安易なものではなかった。

 昭和12年(1937)7月の蘆溝橋事件に端を発して戦時下の生活 日中戦争がぼっ発し、庶民生活も戦時色が濃厚となり、衣料品や食糧の配給制、農漁村に対する報償物資の特配などが一般に平均化し、やがて都市も農村も区別なく類似してきたのであった。例えば、食生活ではばれいしょやかぼちゃなどの「代用食」の比重が増えたり、麦飯への雑穀混入の割合が増えた。この半面、これまで米食の少なかった地域や階層に、配給制度によって米食が普及し、遂に都市の食事内容に自然食や代用食の占める割合が多くなっていった。

 昭和12年9月に第一次近衛内閣は、国民の戦争協力を求めるため、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久の3つの目標を掲げ、「国民精神総動員運動」を展開し、日本精神の発揚と敬神思想の普及を図ったのである。

 また、戦争たけなわとなって数多くの出征兵士などを見送ったり、これらの兵士に対する千人針や慰問袋の作成が、婦人会などによって行われた。神社では例祭のほかに、国威宣揚や皇軍健勝などの祈願祭や戦勝奉告祭が行われ、銃後後援会組織の拡充強化、青年婦人団体に対する戦時意識の高揚が図られたのである。

 

葬儀(写真1)

 

 さらに、軍事需用品が増大するにともなって消費の節約が強制され、質実剛健の国民精神を育成するために有害とされた、カフェー・遊技場・料理店など、いわゆる風俗営業の新増設は禁止されるとともに、営業時間の短縮など厳しい規制が設けられ、ネオンも消されて街の中は次第に寂れていった。さらに経済統制も強化されて、輸入品である羊毛や綿花の使用が禁止され、これを補うために一時はたぬきやきつね、うさぎなどが盛んに飼育された。

 戦争が激しくなるにつれて、出征や軍需工場への徴用により町から出て行く若者たちが増え、青壮年男子は次第に姿を消し、後に残された老人と女子や子供たちによって家業を続けて行くということになり、その苦労は想像を絶するものであった。こうした労働力不足を補うため、援農部隊や勤労奉仕のため学生などが多数動員されたのである。

 昭和13年(1938)には綿糸やガソリンが切符による配給制となり、このため繊維製品では代用品として人造繊維(スフ)が出回り、自動車の燃料には木炭が使用されるようになった。

 こうして諸物質は戦争完遂のために向けられ、さらに「暴利取締令」や「販売価格取締規則」などが施行されたが、物価は上昇して悪性インフレの進行は庶民生活を強く圧迫した。14年にはインフレ防止のため、9月18日の水準で価格をくぎ付けにする、いわゆる「9・18ストップ令」が出されたのである。

 またこの年「国民精神総動員委員会」が、学生の長髪や女性のパーマネントを禁止し、昭和初期から普及したパーマネントは姿を消していった。9月からは運動の一環として、毎月1日を「興亜奉公日」と定め、人びとは戦場の労苦をしのび自粛自戒の生活を送ることとされた。この日は料理飲食店で酒を出すことも禁止となり、また、梅干しを入れたいわゆる「日の丸弁当」で我慢するなどの申し合わせが行われ、戦争完遂のため庶民生活は厳しく規制されたのである。

 昭和15年(1940)には町内会や部落会が全国的に整備されるとともに、さらに新体制運動が展開されて「臣道実践」を目的として政府に協力する「大政翼賛会」が設立され、人びとの生活に大きな影響を及ぼすに至った。

 また同年7月には「奢侈品等製造販売制限規則」(いわゆる7・7禁止令)が施行になり、ぜいたく品の製造販売が禁止され、街には「ぜいたくは敵だ」などの標語が張られた。風俗営業はますます規制され、マージャンクラブやダンスホールなどは閉鎖となり、飲食店や旅館でも1品につき1円以上の飲食物は禁止し、また一人当たりの飲食代は、朝食1円以内、昼食2円以内、夕食3円以内と規制された。

 この当時の役場吏員の月給は、書記補75円以下、雇60円以下、日給は2円50銭以下と定められ、町長の報酬は年俸1800円であった。

 さらに同年11月には「大日本帝国国民服令」が公布になり、背広にネクタイ姿はしだいに影を潜め、カーキ色の国民服や婦人のもんぺ姿が増えていった。

 これより先の昭和12年10月から「防空法」が実施されて防空演習が行われ、さらに15年に町内会や部落会が設立されたことにともない防空法も改正になり、一般庶民にとって灯火管制は、日常生活に欠かすことのできない重要なこととなった。

 また、貴金属類や宝石類など軍需資材となるものはすべて回収され、寺院の鐘、火の見やぐらの半鐘に至るまで同様であった。

 このほかに廃品回収があり、これによって得た資金で当町から戦闘機2機「愛国第三四二五(北海道第一八雲)、第三四二六(同第二八雲)」と海上戦闘機1機「報国第二二〇三号(八雲町献納機)」が献納された。

 

町民の献納した戦闘機(写真1)

 

 昭和14年(1941)に太平洋戦争がぼっ発すると、軍需物資は極度に増産を要求され、生活物資は一層窮迫の度を加えていった。

 食糧では米穀の配給が16年に切符制から通帳制に変わり、男女・年齢・労働種別によって、それぞれ配給基準量が定められ、外食するにも外食券がなければできなくなった。さらに20年5月には基準量が引き下げられたが、それさえ維持できず、7月には再び引き下げられた。その配給内容も、18年ころからは米だけでなく麦や豆などの雑穀が混ぜられ、米も2分つきという玄米に近いものとなり、人びとは配給された米を一升びんに入れ、竹の棒でついて少しでも白くして食べるようになった。したがって一般の家庭からは、純粋な米飯はしだいに姿を消し、雑穀を混ぜたり、いもやかぼちや類から大根の葉まで混ぜるようになったばかりでなく、かゆにして量を増やしたり、いも類などの代用食で済ませることも珍しくはなかったのである。

 多くの家庭では、つてを求めて農家へ買い出しに出掛けたのであるが、警察に見付かると米・麦は没収されたうえ非国民としてとがめられ、経済統制令違反で罰せられもした。

 人びとは、庭のあるものはそれを畑にしたり空き地を耕し、さらに公園などの公共用地を利用して、生きるための食糧自給に懸命であった。それでも足りず、食用野菜類の調理法が盛んに宣伝され「北海道年鑑1944年版」(昭和19年)には、その数は22種類に上っており、また、ふき・うど・わらびなど、平時でも食用にされていた山菜からクローバ・たんぽぽ・なずな・いたどりなどの野草にまで及んでいた。

 しかし、これらの野草から十分な栄養を補給することは不可能なことで、太平洋戦争開始から1、2年は、質の大幅な低下にとどまっていたが、末期には実質的に配給基準量自体が確保されなくなったことも加わり、多くの庶民はいつも空腹を抱え、栄養失調になるものが多かった。もちろん菓子類などの甘味品もほとんど姿を消し、たばこも19年11月から1人1日6本ずつの配給になり、いたどりの葉やよもぎを代用したのである。

 衣料もまた同様に不足であった。昭和17年(1942)からは本格的な統制(点数制)が行われ、都市では1人年間100点の範囲内でしか衣料品を購入できなくなった。品目別の点数例をみると、背広上下が50点、あわせ1枚48点、ワンピース15点、作業衣24点などであった。繊維製品の欠乏はますます激しくなり、18年には一部衣料品の点数を改正して配給量を下げ、19年からは点数そのものを、30歳以上40点、30歳未満50点と大幅に切り下げられた。そのうえ品物は、耐久性や保温性の面で粗悪なものが多くなり、人びとの生活を一段と苦しいものにした。

 

衣料切符(表・裏)(写真1)

 

 このような戦時下での諸物資の不足は、やみ取引を横行させたうえやみ価格が作られていった。

 昭和20年4月の道庁長官退任時における「長官事務引継書」により、やみ価格の一例を示すと上表のとおりであり、これにより米1俵を一か月分の給料で買い求めることのできる人はごく一部の限られた層だけであった。当時役場職員の給料は上級職で70〜90円、落部村収入役が90円であった。

 

隣組の設置

 日中戦争のぼっ発以来、わが国の国民経済や精神面において、数々の統制が年とともに強化されていったが、住民を地域単位で総括的にとらえるということはなされていなかった。

 昭和15年(1940)に新体制運動が展開されるに及び、地方行政制度の末端組織としての町内会や部落会の設置が、内務省訓令第一七号をもって次のように示された。すなわち、

 「隣保団結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ萬民翼賛ノ本旨ニ則り地方共同ノ任務ヲ遂行セシムル為左ノ要領ニ依り部落会町内会等ヲ整備セントス、仍テ之カ実績ヲ挙グルニ務ムヘシ。」

と発せられ、町内会およびその下部組織として10戸程度からなる隣組が設置されることとなり、国民統制の組織体制が末端まで浸透されることとなったのである。

 北海道においては、昭和15年11月に道庁令第一一一号をもって「町内会部落会規則」を公布し、市街地には町内会、村落には部落会を組織させ、必要あるときは町内会(部落会)連合会を組織できることとした。

 

品   名 単位 や み 価 格 正規の価格との比
衣 料 切 符 1点 1円〜1円50銭   
労働作業衣 上下1着 100円   約 10 倍
地 下 足 袋 1足 8円〜 30円 〃 5〜15〃
粳  精  米 1俵 200円〜300円 〃10〜15〃
砂     糖 1斤 20円〜 32円 〃50〜80〃
で  ん  粉 1袋 70円 〃   25〃
生     鮭 1尾 15円 〃     8〃
す  る  め 1〆 25円 〃  2.2〃
り  ん  ご 1〆 5円〜  7円 〃  3〜5〃
煙 草(きんし) 1個 2円〜  3円 〃  6〜8〃

昭和20年4月長官事務引継書(新北海道史)(図1)

 

 町内会や部落会はその目的達成のために、教化・産業・経済・警防・保健衛生・社会施設および銃後奉公、その他住民の共同生活に関する各般の事項を行うこととし、会長・部長は会員の中から町長が選任すること、ただし会長と警防および衛生部長の選任に当たっては、警察署長と協議するということも定められた。

 隣組はこのように多様にわたって戦時体制を支える重要な柱となり、国の意図に沿った充実と、円滑な運営が望まれたのである。そのため北海道自治協会では、道庁振興課監修による「町内会部落会必携」を作成し、全市町村に配付してその指導強化を図ったのである。こうして町内会・部落会は、毎月1回以上常会を開催し、積極的に住民の協力を促して物資の増産・供出の奨励・配給および消費の規制など、統制経済の面を強く要請したのである。このことは、既に組織母体となる実行組合などのある農漁村は別として火防組合とか衛生組合程度の設置基盤しかなかった市街地の場合は、住民生活に大きな影響をもたらしたのであった。

 例えば、市街地においては比較的孤立した生活を営んでいる者もおり、隣組の常会にも出席しない例がみられたが、これらは欧米流の自由主義者とか個人主義者として人びとから強い非難を受け、さらに物資配給の拡大によって、いやおうなしに隣組の諸行事に参加させられたのである。

 隣組は、建前としては「上意下達」「下意上達」の両面をもつものとされていたが、実際には前者に限られることが多く、官庁の通達か一方的に伝達する場として用いられた。

 そのほかに配給機構の一部を担当し、切符の配布や一部生鮮食料品の配分などが主に義務付けられ、また、国債の消化・貯蓄の奨励・防空演習なども実施したが、なかでも廃品回収や貴金属類の供出あるいは防ちょうについては、隣組の相互監視といった任務も持っていたのである。

 町内会部落会必携には、天照大神や神武天皇などの神勅、あるいは勅語や勅諭などが多く掲載されており、さらに「神拝」の項には各種の祝詞が記され「神国日本」を強調した編集がなされていた。隣組の行事の際には、組長が参集者に対して訓示を行うことがあったが、そのときにもこの必携によって神州不滅、必勝の精神が強調されたのであった。

 八雲町や落部村においても、このような趣旨や目的を達成し、太平洋戦争完遂のために、町内会・部落会を結成するとともに、町内会連合会を組織し、隣組など団結して共同の任務を遂行し、戦時下の国策に協力したのであった。

 

 町内会部落会設置規程

 第一条 本町住民ハ昭和十五年北海道庁令第百十一号町内会部落会規則ニ依り町内会部落会ヲ設置スルモノトス

 第二条 町内会部落会設置ノ目的左ノ如シ

 一 隣保団結ノ精神ニ基キ町内住民ヲ以テ組織結合シ萬民翼賛ノ本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト

 二 国民ノ道徳的練成ト精神的団結ヲ図ルノ基礎組織タラシムルコト

 三 国策ヲ汎ク国民ニ透徹セシメ国政高般ノ円滑ナル運用ニ資セントス

 四 国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用ト国民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ発揮セシムルコト

 第三条 町内会部落会ハ其ノ目的ヲ達成スル為教化産業経済警防保健衛生社会施設及銃後奉公其他住民共同生活ニ関スル各般ノ事項ヲ行フベシ

 第四条 町内会及部落会並ニ町内会聯合会部落会聯合会ノ区波及別表ノ通定ム、町内会、部落会及町内会部落会聯合会ノ会長並ニ副会長ハ町長会員中ヨリ選任ス、副会長ハ会長事故アルトキ之ヲ代理ス

第五条        町内会部落会ノ下ニ五戸乃至十戸ノ隣保班ヲ組織スベシ必要アル地誠ニ於テハ町内会部落会ノ下ニ聯合隣保班ヲ設ケセシムルコトアルベシ、隣保班及聯合隣保班ノ班長ハ班員中ヨリ町内会長部落会長之ヲ選任スベシ

 第六条 町内会部落会町内会部落会聯合会ハ必要ニ応シ其ノ部内ニ社会教化産業畜産経済警防衛生森林銃後奉公納税統計等ノ部ヲ又ハ係ヲ置クコトヲ得(中略)

 第七条 町内会部落会ハ其目的達成ノ為毎月一回以上常会ヲ開催スベシ

 第八条 町内会部落会ハ町長之ヲ統轄ス警防及衛生ニ開スル事項ニ付テハ警察署長ヨリ又森林防火ニ開スル事項ニ付テハ営林署長及森林事務所長ヨリ指揮監督ヲ受クルモノトス

 第九条 町内会部落会及其ノ聯合会ハ規約ヲ設クルコトヲ得、規約ノ設定又ハ変更ニ付テハ町長ト協議スベシ

 第十条 町内会部落会及其聯合会ノ財産管理及会計事務ニ関シテハ前条ノ規約ヲ以テ規定スベシ

 附則

 本規程ハ昭和十六年二月十一日ヨリ施行ス

 

 第4節 戦後の住民生活

 

衣料事情

 終戦直後における衣料事情は、空襲による戦災のため工場などが破壊され、これに加えて原料不足により極度に欠之した。統制団体の在庫品や連合軍から返還された旧軍需品なども、戦災者や引揚者の救護用や、農漁業および山林、炭鉱労務者への増産報慣用に向けられ、一般の人びとにはほとんど配給されない状況であった。

 前にも述べたとおり昭和17年以降は、点数制の衣料切符によって配給が行われていたが、戦局の長期化とともに現物の裏付けがなくなり、切符の交付も停止されたまま、どこの家庭でも手持品でやりくりしなければならなかった。したがって終戦直後の服装は、男は継ぎの当たった衣服に戦闘帽、女はよれよれのもんぺ姿というのが最も一般的であった。

 22年10月から新衣料切符による配給制度が復活し、新たに施行された衣料品配給規則および衣料切符規によって、生産者から卸売店、小売店を経て衣料切符の点数分だけを消費者に配給されることとなった。小売店は消費者の投票によって登録店として指定され、登録店の基準は人口2000人に1店の割合となっており、消費者は道内の登録店であれば、特殊品を除いていずれの店でも購入することができた。この点は生鮮食料品や水産加工品の場合のように、自分の登録店以外では購入できなかったのとは異なり、配給方法に弾力性が持たされていた。

 この新しい切符制度の実施によって、消費者は年間に所定点数の範囲内で繊維製品を購入できることになったのであるが、実際には現物の絶対量が不足のため、最初のころは1人1年間に、タオルまたは手ぬぐい1本、靴下または足袋1足、縫い糸10匁(37・5グラム)、布地1ヤード(約91センチメートル)という程度にすぎなかった。

 翌23年ごろになると、戦時中の企業整理で転廃業を余儀なくされていた業者や、戦災を受けて一時廃業していた者たちによって復活再建された中小企業が増加し、これにともなって衣料品の供給もしだいに順調になっていった。また大手企業も、連合軍総司令部の財閥解体措置などによって打撃を受けていたのが、このころからアメリカ側の占領政策の転換や日本経済の復興とともに規制が緩和され、企業再建の機運が高まり、24年になると衣料事情は著しく好転した。そのうえ当時は金融事情が窮迫して大衆の購買力は減退し、生産者は製品の在庫を抱えて悩むという事態が生じたので、絹・紡毛・人絹・スフ製品などの統制は、次々に解除されていった。そして朝鮮戦争がぼっ発してから2か月足らずの25年8月には「さようなら竹の子生活」とか「買えぬ切符から要らぬ切符へ」というような表現が、新聞紙上でみられるようになり、9月には登録店制度も衣料切符制も廃止されたのである。

 昭和27、8年ごろになると合成繊維や化学繊維が発達しはじめ、次々と新しい繊維の開発と製品化が進められ、ビニロン、ナイロン製品が出回り、さらにアクリル、エステル繊維が進出し、その性質によって固有の用途を持つようになった。例えば、ナイロン靴下・ボンネル、エクスランの下着・布団綿・テトロンのワイシャツなどである。

 新繊維の開発によって、耐久性・色彩の鮮やかさ、軽快性・洗濯の安易性・アイロンかけの不用化・安価など、その優れた性質をますます発揮するようになり、また大量生産され、これらが流行の色やデザインの開発と相まって、消費者の欲望を創造していったのである。

 ファッションモードは東京を素通りし、直接北海道に上陸して流行するといわれるが、まさにそのとおりで、カルダン、ディオールなどのデザインなどが直輸入され、若い男女は競って新しい流行を追っていった。冬のスキーシーズンになると色鮮やかなスキーウエアが店頭を飾り、ゲレンデには一流選手並みのスタイル選手が統出した。また、流行は新しいものを作り出すばかりでなく、古い伝統をも復活させた。すなわち和服が流行しはじめ、中年以上の女性はしだいに和服にかえって行き、若年層もその着こなしが目立って上手になり、成人式の女子の服装も和服が多くなっていった。

 戦時中の衣料生活は、軍事色で灰色に覆われ、粗雑で扱いにくい繊維のうえ品物の欠乏というように、大いに悩まされた婦人たちにとって、戦後の著しい繊維工業の発達によってもたらされた、衣料革命ともいうべき豊富な製品の出現は、まさに狂喜に値するものであった。

 冬期間の服装は、北海道独特のものとして、毛皮・毛糸・厚地のラシャなどの洋装的なもの、また、外衣・深靴・防寒靴・手袋などを発達させていったが、デザインや色彩などしだいに東京と変わらないものとなってしまった。

 

食糧事情

 終戦直後における食糧事情は、外地からの引揚者や復員者などの帰国によって、急激に人口が増えたうえ、戦災による国土の焦土化、国民の生産意欲の減退など最悪の状態に陥り、生産は著しく落ち込んだ。

 配給が順調に行われてさえ量が足りず、栄養が取れないところへ、遅配と欠配が続いた。ばれいしょやかぼちゃなどは食糧としては上等の部類で、雑穀や木の芽、山菜などをむさぼり食い、ときにはみみずの入ったでんぷんかすまで食べて、人びとは飢えをしのいだ。

 昭和22年ごろの農家は、家畜の飼料として生産した雑穀はもちろんのこと、自家保有の食糧まで供出し、いわゆる「裸供出」によって、この食糧危機の時代を乗り切るために協力したのであった。

 町においてもこの当時は、食糧の確保を重要施策として臨んだのであるが、23年11月の配給日数は7日分にすぎず、遅配日数は23日となっており、調味用品のみそ、しょうゆも24年1月分が2月に配給されたり、乳児用や学童に対する甘味品も、月にキャラメル1箱が配給されるだけという状況であった。

 しかしこの年、家庭用塩の輸入が順調に行われ、需給状況が緩和されたので、10月から12月までの3か月分は切符を使用せずに購入することができた。

 24年当時の主食の配給基準量は、年齢別に7段階に区分されており、生後〜1歳は210グラム、2〜4歳は270、5〜8歳320、9〜13歳400、14〜24歳405、25〜59歳385、60歳以上は330グラムというように定められていた。

 こうした厳しい食糧事情は、人びとを栄養失調に陥れ、生き延びるためにはなんとしても食糧を確保しなければならなかった。それが「1億総買出し時代」を出現させたわけであるが、同時に「かつぎ屋」とか「ガンガン部隊」と呼ばれる行商人の集団を発生させた。かれらは道内各地や北海道と本州の間を、列車や連絡船で往復し、統制品である米や衣料品などをピストン輸送し、これをやみ値で売りその利益で生活するやみ商人であった。

 

代用食かぼちゃの出荷(写真1)

 

 終戦直後の鉄道交通は、空前の混乱と危機にさらされ、復員者や引揚者の輸送、さらに占領軍関係の優先利用ということもあって、一般の貨物輸送は完全にまひ状態となり、農漁村からの米や魚業類を消費地に送り込む手段は途絶え、やみ商人といわれた行商人が、断ち切られた需要と供給か1本の線でつなぐ、隠れた流通機構の役目を果たしたともいわれている。このような行商形態が、人びとの生活の上に欠かせない時代背景があったとはいえ、行商人のなかでも米のやみ輸送をしていた「かつぎ屋」の横行は目に余るものがあった。すなわち、行商人も一般の乗客と同じように乗車券を買えば、どの列車にも乗れたため、秩序は大混乱となり一般旅客の批判の的となった。そのうえ統制品に対する取り締まりは厳しく、主要な駅のホームには、押収された米の山が毎日のように築かれたという。

 このような混乱状態を続けながら、人びとは食糧と交換できるあらゆる物を持ち出して、水田地帯の農家を訪れるという風景がみられたのであった。

 こうしたうちにも国内の生産は徐々に増加し、国民もようやく戦争の痛手から立ち直り、生産意欲も出てきた。昭和24年は天候に恵まれたこともあって豊作の年となり、食糧事情もわずかではあるが好転の兆しをみせはじめ、配給にもゆとりが出てきたので徐々に統制が解除されだしたのである。25年にはばれいしょの統制が外され、でんぷんの配給が1日分規制量の1か月分以内であれば自由に購入できるようになり、しかもこのほかに所定の配給も受けられるようになった。さらに7月からは、みそ・しようゆが自由販売となり、主食の配給も米・押麦・小麦粉などとなったほか、乳児用菓子類・ミルク・粉ミルクが統制解除となって、価額の統制も廃止された。

 昭和26年(1951)1月には「主要食糧小売販売業者」の登録制、いわゆる「民営のお米屋さん」が誕生し、消費者がサービスの良い好きな店を選んで登録することとなり、八雲には15軒、落部に6軒の商店が登録され、4月1日から業務が開始された。

 このお米屋さんの業務開始に先立って、3月1日からは雑穀(大豆ほか15品目)の統制が撤廃され、4月からは通帳で配給を受けるのは米だけとなり、麦類やその製品はすべてクーポン券によって購入することとなった。

 こうして食糧事情はしだいに好転し、6月には米食率50パーセント、麦製品50パーセントになったのである。26年当時の主要食糧の小売価額は、1キログラム当たり内地米63円、もち米67円、外米55円50銭、外押麦46円、内押麦45円50銭、小麦粉48円50銭、パン1斤28円、そうめん390グラム24円50銭、冷麦22円50銭であった。

 昭和27年4月には、戦争に突入以来配給統制が続けられ、しかも満足に配給されなかった砂糖が自由販売となり、6月以降麦類の統制も廃止された。

 30年からは農家の米の供出割当制度が撤廃されて、事前売渡制度(これまで行われていた国―道―市町村―農家という割当方法を、農家が自らの判断で政府に米を売り渡す数量を含め、その数量を登録している指定集荷業者へ自主的に申し込む制度)となり、11月からは従来の配給のほかに米の希望配給が3日分だけ行われるようになった。

 翌31年10月からは、これまで7段階に区分されていた配給基準量が、1人1日360グラムに統一され、基本用として内地米10日分、希望配給10日分、そのほか普通外米ともち米が配給されるようになった。32年には基本と希望を合わせて35日分となり、価額も10キログラム当たり850円に改正された。

 34年10月からは、これまで旅行者や入院患者などが必要としていた外食券制度が、東京都を除いて廃止され、基本量も1か月6キログラムと改正された。さらに36年からは8キログラムとなり、消費世帯と生産世帯の区別がなくなった。

 44年に至って消費者と小売店の結び付きである登録制度は廃止となり、基準量も15キログラムに引き上げられるとともに、各種加配米(妊産婦・在宅結核患者・長期入院患者・個人労務者など)が廃止された。そして自主流通米制度(政府が生産者から買い上げしていたものを一部解除して生産者→卸売業者→消費者という段階で自由に取り引きできる制度)が10月から発足し、これによって戦後25年を経てようやく米は一応「食糧管理法」の規制は受けるものの、食糧事情は戦前の姿に帰ったのである。

 

住宅事情

 戦後において国民生活の中心である衣・食・住は次第に回復していったが、そのなかでも一番遅れたのは住宅の建設である。戦災で多くの家が失われたうえ、外地からの引揚者や復員者の受け入れによって人口は急激に増加し、しかも従来の複合家族から核家族化への傾向が強まり、住宅難は都市と農漁村を問わず極めて深刻なものがあった。

 こうした深刻な状況の下に政府は、その緊急対策として、終戦直後の20年11月に「住宅緊急措置令」を公布し、余裕のある住宅を開放して他の家族を収容することを義務付けたり、翌年10月には、引揚者の越冬対策として都道府県の責任において、住宅のあっせんを要請したのであった。

 八雲町においても、21年に引揚者収容施設として、旧軍用兵舎3棟を改造し新生寮と名付け約120世帯を収容したのをはじめ、23年には東雲町に美浜寮3棟14戸を建築した。また、緊急疎開住宅として、豊河町に25年から四か年継続で43棟83戸を建築するなど、引揚者等に対する住宅対策が講じられ、落部村においても引揚者住宅2棟11戸を建築したのである。

 

道営引揚者住宅(写真1)

 

 さらに国においても、21年9月に「地代家賃統制令」を、10月には「罹災都市借地借家臨時措置法」などを公布して、借地権や居住権の保護に努めたのであった。

 しかし、こうした積極的な住宅政策によっても解消は進展がみられず、このため23年度以降は国庫補助による勤労者や一般庶民を対象にした住宅の建設、さらに25年以降には「住宅金融公庫法」「賃貸住宅融資」「公営住宅法」など、住宅建設を図るための関係法令や規則が制定され、各種小規模住宅の建設が促進された。

 公営住宅法は26年に施行されたのであるが、この法律は国および地方公共団体が協力して健康で文化的な生活を営むための住宅を建設し、これを住宅に困窮している低額所得者に対して安い家賃で貸与することによって、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的としたものであった。

 八雲町においては、昭和28年(1953)にこの公営住宅法に基づき、第一種住宅10棟10戸を宮園町に、第二種住宅10棟10戸(昭和55年度取壊し建替え)を出雲町に建築し、住宅事情の緩和に努めた。

 また落部村においては、29年に第二種住宅5戸を落部市街に建築した。

 地域別建築戸数をみると、昭和56年度現在八雲市街地では出雲町地内の240戸が最も多く、三杉町46戸、栄町32戸、宮園町26戸、東町18戸、元町16戸となっており、このほか落部33戸、野田生24戸、浜松4戸で、計439戸となっている。これらのうち29年度から建築された福祉住宅(特別低家賃住宅・引揚者疎開住宅・母子住宅・寡婦住宅・身体障害者住宅など)は、当初道費で建築され、翌々年度に有償で町へ譲渡された。

 年度別建築状況は次のとおりである。

 

生活物資

 太平洋戦争に突入してからは、主要食糧や衣料品だけではなく、生活物資においてもあらゆる面で厳しい統制が行われた。すなわち、青果類・魚介類などの生鮮食料品をはじめ加工食料品、みそ・しょうゆ・塩・砂糖などの調味料、自動車用タイヤ・チューブやゴム靴・地下足袋などのゴム製品、和洋紙・電球・ろうそく・せっけんなどの日用品、そのほか、清酒やたばこ・食用油脂に至るまで、はなはだしい原料不足のために厳しい統制下におかれたのであった。

 

区分/年度 公営住宅 福祉住宅
第1種 第2種 改良住宅 母子住宅 寡婦住宅 身障住宅 その他
28 10棟10戸 10棟10戸
(55年用廃)
 
        20棟20戸
29 10棟10戸  2棟 5戸         10棟26戸 22棟41戸
30  2棟10戸  6棟25戸            8棟35戸
31    5棟24戸   2棟12戸        7棟36戸
32  2棟10戸  4棟20戸             6棟30戸
34           2棟12戸    2棟12戸
36              2棟 8戸  2棟 8戸
37  2棟 8戸  2棟 8戸            4棟16戸
38  3棟 8戸  3棟12戸            6棟20戸
39              2棟 8戸  2棟 8戸
40      2棟12戸          2棟12戸
41  2棟 8戸  3棟10戸  2棟12戸          7棟30戸
42      3棟16戸        2棟 8戸  5棟24戸
44              2棟 8戸  2棟 8戸
46  6棟20戸            4棟16戸 10棟36戸
50  1棟 4戸            3棟18戸  4棟22戸
51  1棟 6戸       2棟4戸    3棟12戸  6棟22戸
52  3棟10戸                2棟10戸  5棟20戸
53  1棟 6戸  1棟 4戸          1棟 6戸  3棟16戸
54 10棟10戸  6棟 6戸           16棟16戸
55  5棟 5戸  6棟 6戸           11棟11戸
56    6棟 6戸            6棟 6戸
68棟125戸 54棟136戸 7棟40戸 2棟12戸 2棟4戸 2棟12戸 31棟120戸 155棟449戸

町営住宅建築状況調(昭和56年12月現在)

 

 終戦直後は、生産力の減退と輸送力の低下に加え、原材料の輸入途絶によって、物資の欠乏はいっそう深刻化したのである。しかし、これら絶対量の少ない生活物資をできるだけ公平に国民に分配するため、政府は昭和21年に「臨時物資需給調整法」を制定し、さらに翌22年には「指定物資配給手続規程」を公布して、切符による配給制度を実施したのである。

 また、戦後における魚類の漁獲高は、北方領土を失ったことや、マッカーサーラインの設定によるわが国の漁業水域の縮小、戦時中の食糧難解決の方策としてとられた際限のない乱獲のため資源は減少し、これに加えて燃料用の油や漁具、漁船も不足して著しい低下を示したのである。21年には鮮魚介の集荷配給統制が再開されて、水揚げされた魚介類はすべて生産地で出荷割当が行われ、それに基づいて消費地に出荷された。消費地では、道の登録を受けた公認荷受機関が、配給計画に基づいて一般消費者の登録小売店に割当数量を配分し、各小売店は自店に登録した消費者に対して、購入切符で配給するという仕組みになっていた。しかし漁獲物の大部分が、道外の消費地に出荷されたため、生産地である本道においては逆に一般消費者に回る量が少なかった。

 一方、野菜や果実については、道が農業会を督励して計画出荷を行い、やみ売買を固く禁止し、一貫目以上の違反者に対しては20年以下の処分をもって臨むという厳しい声明を出した。その結果、生鮮食料品の計画出荷は軌道に乗り、24年4月には野菜の統制が撤廃されて、市場でのせり売りが行われるまでになった。

 家庭調味品としてのみそやしょうゆは、原料の大部分を満洲大豆に依存していたのであるが、戦争がぼっ発して間もなく輸入が途絶えたため、終戦直後の20年8月の配給量は、一人一か月みそ100匁(375グラム)、しょうゆ2合5勺(0・5リットル)程度であった。それも次第に在庫品が底をついてきたので、この危機を乗り切るために芋類などを混入し、統制機関を通じてこれを家庭配給に回わした。

 また、家庭用食塩も不足となってきたため、道は戦時中から、海水を煮詰めて作る自家製塩を奨励し、20年4月には「自家製塩増産推進本部」を設置し、支庁別・市町村別に生産割当を行うとともに、技術指導や施設の改善を実施して、増産運動を強力に展開したのであった。八雲町においてもこれに呼応して、昭和20年の第四回町会において自給製塩事業諸費4000円を計上し、この事業を推進したのであった。

 さらに、調味料としての砂糖については、23年に占領軍の放出によって、主食の代替として戦後初めて配給が行われた。また、化学調味料であるサッカリンやズルチンも横行した。甘いものに飢えていた人びとは、久しぶりの砂糖に喜んだが、その後で5日分の主食の配給を差し引かれたため、やがて砂糖の配給は一般に敬遠されるようになった。砂糖が主食代替ではなく消費者に渡るようになったのは24年からで、その量は1人1か月4分の1斤(150グラム)程度で、乳児には倍の半斤が配給された。

 たばこは、19年1月から町内会や隣組を通じて1人1日6本の配給制となり、20年5月には5本、さらに7月にはわずか3本となった。人々はいたどりの葉やよもぎの葉を採って乾燥させ、代用たばことして不足分を補った。22年ごろになって、成人1人につき男女平等に月50本が随時配給されるようになった。このころは紙巻きたばこは珍しく、荒く刻まれたたばこが多く配給され、愛煙者はたばこを巻く器械を買ったり、きせるに詰めて喫煙した。進駐軍用の外国製たばこを不法に所持して処罰されるものもあったが、基地の周辺で多く出回り、やみで売買されていた。

 

代用たばこ,イタドリの採集(写真1)

 

 酒も1人1か月1合(0・18リットル)程度しか配給されなかった。そのため終戦直後にはメチルアルコールが出回り、これを飲んで失明したり死亡する者も現れ、また、密造酒も流行し、病人が使用する水まくらや湯たんぽに詰めて産地から運ばれた。配給対象には酒もたばこも成年男女一律で、必要でなくても配給になり、不要な人は蓄えておいて他の品物と交換するという、不合理な一面もあった。

 なお、革靴・ゴム靴・地下足袋・マッチ・ろうそく・せっけん・和洋紙・傘・電球・真空管・タイヤ・チューブ・サッカリンなどやそのほか多くの日用雑貨類も、初めは統制要綱によって、通産省から割り当てがあるつど道は統制団体に荷受けさせ、各地区の傘下統制組合を通じて消費者に配給していたが、23年4月以降は卸・小売の登録制を実施し、小売業者や消費者の希望する予約登録の卸小売店舗を通じて配給されることに改正された。

 戦後のこうしたあらゆる物資が窮迫したときに、都市の焼け跡の広場や駅前の空き地には、いち早くやみ市が開かれ、これらは青空市場とか自由市場と呼ばれた。そしてこのやみ市には、不法占拠によって建てられたバラックの中に、衣料品や食料品をはじめ日用雑貨など各種の商品が山と積まれて法外な値段で取り引きされ、統制違反もここでは半ば公然であった。また、禁制品である外国たばこや占領軍の物資までが出回るという有様であった。これらやみ市の商人には、的屋と呼ばれる大道商人、戦勝国民だと気勢を上げる在日韓国人や中国人、それに樺太引揚者などの3つのグループがあった。数の上では日本人が多かったが、実権を握っていたのは韓国人や中国人であった。かれらは自分たちは戦勝国民だと称し、日本の法令を無視して商行為をしたのであるが、敗戦国となったわが国の警察では容易に取り締まることができず、やみ市は治外法権的な地帯として形づくられていった。

 しかし、こうしたやみ市の存在は、連合軍の占領目的にも反し、住民を不安に陥れることから、総司令部によって閉鎖が指令された。そのため政府も21年7月には全国一斉に取り締まりを強化する通達を出し、食管法違反や価格統制令違反を厳しく取り締まったのであるが、実際に検挙されたのは手先の日本人ばかりで、韓国人や中国人などは反抗さえ示した。とにかく公定価格では一足150円のゴム長靴が、3000円に跳ね上がったこともあり、しかもくずゴムによる再生品のため、一日履くと中折れするような粗悪品であった。

 無法地帯同然のやみ市の取り締まりに対しては、進駐軍の強力な手入れがあり、一般商店に対しても総司令部からの命令によって、配給量と公定価格の表示が義務付けられ、公定価格の維持とやみ取り引きの排除が図られていったのである。

 

インフレの進行

 戦後、衣食住の極端な欠乏によって人びとを脅かしたものは、インフレによる一般物価、特に生活必需品の価格が暴騰したことであった。

 このインフレは、終戦と同時に行われた軍需補償金など政府資金の拡大散布や、金融機関の旧軍需会社に対する貸付の増大などにより、通貨は膨張し、激しい勢いで進行していったのである。すなわち、通貨の膨張によってつくり出された購買力と、戦時中に抑圧されていた購買欲が、終戦と同時に解放され、人びとの購買意欲を刺激したため、戦争によって落ち込んだ生産物は著しい価格騰貴となって現れたのである。

 それは、生計費・賃金・企業会計の赤字・公定価格の引き上げ・追加予算・財政赤字という悪循環を繰り返し、インフレを進行させていった。

 こうした状況を、終戦以後の日銀券の発行高によってその推移をみると、20年8月に300億円台であったものが、21年2月には600億円を突破し、22年1月にはついに1000億円を超え、6月末には1363億円、12月末には2161億円に達し、驚くべき膨張を示したのである。これにともなって物価は高騰し、やみ物価に追随して公定価格も幾度か改定された。

 道内主要都市における21年上半期の物価動向をみると、米1升の公定価格が2円88銭に対し、一番安い北見で30円、札幌と小樽が40円、函館が60円と、公定価格の10・4〜20・8倍で取り引きされた。調味料の価格もさまざまで、しょうゆなどは公定1升(1・8リットル)6円が、全道やみ値平均が60円、函館などは100円もしていた。砂糖になるともっとひどく、100匁(375グラム)90銭が、旭川の128円をトップに全道平均で89円もした。統制販売の厳しかったビールでさえ、公定1本(0・7リットル)3円に対し、釧路50円・札幌35円・帯広25円というように、いずれも10〜17倍をもって取り引きされており、まさに狂乱物価の姿をありのままに示し、多少の差こそあれ、当町においてもこれらやみ値は同様であった。

 戦後において生活費が急上昇したのは、20年11月生鮮食料品が統制撤廃された以後であるが、当時厚生省の調査によると、21年のエンゲル係数は72パーセントを示し、昭和11年の34・6パーセントに対比すると、いかに国民生活が飲食費の支出に追われていたかが分かる。もちろん当町においても例外ではなかったのである。

 

インフレ対策

 こうした物価の急激な高騰に対し、政府は昭和21年2月17日にインフレ防止対策として、従来の日本銀行券の流通を停止し、新円への切り替えを行うため「金融緊急措置令」を施行した。またこれと同時に「物価統制令」を公布して新物価体系をつくり、両面から経済再建を図ったのである。

 すなわち、「新円切り替え」といわれたこの措置は、当時生産による物資の供給増加がないまま膨張した通貨を、一挙に縮小しようとしたものであって、旧円を21年3月7日までにすべて銀行や郵便局に預金させて封鎖し、現金引き出しを一定額(毎月世帯主300円、世帯員1人当たり100円、賃金1人当たり500円)に制限したのであった。

 賃金はすべて月額500円を限度として新円で支給され、いわゆる「500円生活」が強制されたのである。

 北海道拓殖銀行の資料によると、この時の道内の全預金残高は30億7400万円で、このうちの約87パーセントに当たる26億8700万円が封鎖されたのである。

 さらに同年3月3日にポツダム命令として公布された「物価統制令」は、戦時中の「価格統制令」(第二次世界大戦中の国家総動員法に基づく勅令で、増産と物価水準の調整をねらいとして、昭和14年9月18日から物価値上げを禁止し、戦時適正価格「公定価格制」を実施、9・18停止令といわれる)「暴利行為取締規則」(前記9・18停止令を補完する法令で、14年にこれまで特定品目を対象としていたのを、全物品を対象として大臣または地方長官に物品販売に必要な命令をたす権限、業務の報告を求める権限を与えて取り締りを強化した規則)を受け継ぎ、商品別に公定価格を設定してこれを超える価格での取り引きを禁止し、別に不当商取り引きの禁止をも規定して、賃金や米価を低く押さえる物価体系を確立し、基礎資材・日用品・雑貨・生鮮食料品などの統制価格を定めたものであった。こうして物価統制は再出発することとなり、その安定についての施策が講じられたのである。

 このような金融施策の非常措置と、新しい物価体系の設定は、一時的には効果をもたらした。当時の日銀券の発行高をみると、昭和21年2月18日に旧円で最高の618億円に達していたが、3月12日には新円で152億円と4分の1に減少して、20年8月15日以降の最低を記録し、物価もしばらくは安定をみせた。

 しかしこれも一時的な現象で、当時生産の上昇はともなわず、政府は物価統制令を施行する半面、基礎物資には消費価格を大幅に上回る生産者価格を設定して巨額の価格差補給金を支出した。そのうえ傾斜生産方式による国家資金の融資を行ったため、通貨は再び膨張傾向をたどり、9月16日には旧円封鎖直前の618億円を突破し、その後も膨張を続けたのである。

 道内の新円も21年4月末で11億1700万円の出回りであったものが、毎月加速度的に増加し、3か月後には22億円、半年後には2・6倍の29億円となった。

 このため政府は、引き続き物価対策を行って物価の高騰に対処し、22年7月にはいわゆる「7月新物価体系」が策定され、工業総平均賃金か1800円とし、これを新物価体系のベースとしたが、翌23年6月にはこの価格体系に再検討を加え、工業総平均賃金3700円をベースとする「補正価格体系」を決定した。このように政府の実施した一連の措置とともに生産は徐々に回復し、輸入物資の増加もあって物価の上昇は次第に鈍化していったのである。

 昭和22年7月には、前年の2月に実施された封鎖預金は解除されたが、12月には連合軍総司令部は「経済安定9原則」を日本に指令し、経済自立の促進を図ったのである。政府もまたその趣旨を尊重して、アメリカのドッジ特別公使の指導を受け、超均衡予算により国民に耐乏生活を求めてインフレの抑制に努め、デフレ政策を進めたのでさすがのインフレも徐々に収束し、物価もようやく落ち着きをみせたのである。

 その後、昭和25年(1950)に朝鮮動乱がぼっ発し、戦争特需という影響を受けて経済界は活況を呈し、鉱工業生産は一挙に回復した。外貨を獲得して国際収支も改善され、これまで食糧増産一本やりの国策は、工業製品を輸出して原材料や農産物を輸入するという方向に転換され、30年ころからは国際市場へ進出して飛躍的な発展を遂げ、いわゆる高度経済成長時代に入るのである。

 

高成長時代から低成長時代へ

 昭和35年(1960)7月には、池田内閣によって所得倍増政策が打ち出されたことにより、高度経済成長はさらに促進された。

 重化学工業を中心に財政投融資が行われたことにより、わが国の経済は毎年類例のない成長率を示し、36年の国民総生産(GNP)は、アメリカ、ソ連に次いで世界第3位となったのである。

 こうした経済の進展は、国民生活を戦前の倹約型から消費型に変え、″消費は美徳″とまでいわれるようになり、テレビをはじめ家庭電化製品などの大量販売と、大量消費時代が続いたのである。

 しかしこの半面、過度の工業化は広範な環境汚染をもたらし、また、石油をはじめとする天然基礎資源の不足を招くに至ったのであった。

 昭和39年に成立した佐藤内閣は、安定成長を目標に掲げたのであるが、40年代前半は依然として高度成長の余波を受け、カラーテレビや自動車などの需要供給が激しく、10パーセント以上の成長率が続いたのである。

 この間、経済を動かす通貨もインフレとともに大型化し、昭和25年(1950)には千円札が発行されるとともに、29年には円以下の小銭が廃止され、さらに通貨の膨張によって32年には5千円札、33年には1万円札が発行され、貨幣価値を大きく変えた。

 こうしてあらゆる面で需要は激増し、経済成長はとどまるところをしらず、しかも設備の近代化で生産過剰の現象もみられ、物価は慢性的なインフレ傾向をたどるという経済状態になったのである。

 特に実質11パーセントという高度経済成長を実現したわが国では、昭和48年10月に中東戦争がぼっ発すると、アラブ産油国は石油の大幅減産を拡大し、さらに原油価格の値上げ攻勢と同時に供給制限に乗り出したことから、これまで買い手市場であった石油資源は売り手市場へと転換し、価格は暴騰してオイルショックが起こり、インフレは再び高進し物価高か一層激しくさせ、さらに世界的なインフレの原因となったのである。

 こうしたオイルショック以後の資源不足時代に入って、高度経済成長を続けることは不可能という認識が広まり、政府は物価対策として投資抑制の方針を打ち出し、総需要抑制策をとったことから、50年の春ごろからようやくその効果が現れ、51年3月には物価上昇率も一けた台に落ち着くようになった。

 しかし、一方では景気回復を長引かせ、雇用不安を表面化させるなどの矛盾を強め、景気・物価両面作戦への転換が強められ、経済は実質6〜4パーセント強の低成長時代を目指さざるを得なくなったのである。

 

 第5節 農漁村の組織と信仰

 

組織と信仰

 農村における地域組織は、入植当時移住団体や農場などを基盤としてつくられていった。特に遊楽部へ入植した旧尾張藩の移住者たちは、農場事務所の指導により、独身者による組織や幼年者を集めて開墾や教育の指導をする組織などが結成された。

 明治の末になると、行政組織や補助組織としての、区・部落会・青年会などが、それぞれの入植地で組織された。特に青年会は、夜学会・弁論会・読書会・品評会などを開催し、活発な活動を続けたのであった。

 やがて、火防衛生組合・消防組・婦人会などができ、農会・産業組合・漁業組合などに続いて、経済団体としての機能をもつ産業組合や畜産組合なども逐次組織化され、これらによる社会的影響も大きかった。このほかに、各種の趣味の会や文化団体も組織されていった。

 移住者が増加すると、その子弟教育のため各地に小学校ができ、これら小学校の通学区域を単位とした範囲は、いくつかの地域を連合させるうえの大きな役割を果たし、開拓当初からあった神社とともに、村全体の共同体的な結合を維持していったのである。

 一般に移住者が開拓地に入植すると、まず第一に地域の中に小さなほこらが建てられ、神が祭られてかれらの心のよりどころとし、祭りを行って楽しんだのである。

 旧尾張藩士によって開墾のくわが下ろされた八雲には、明治12年(1879)に故郷の熱田神宮神符と徳川家歴代の霊を板蔵の二階に祭り、産土神(うぶすな)として崇拝した。これが八雲神社の発祥である。

 各地域に建てられた小さなほこらは、明治以来政府が進めてきた国家神道政策とは全くかけ離れた、あくまでも自主的な地域住民の氏神として造られたもので、開拓の進展とともに次第に神社としての体裁を整えていった。

 開拓の初めに現れた民間信仰は山の神で、これは地域に近い山に神がおり、春には里に下って田の神となり、秋の収穫後にはまた山の神になるという。農山村において特に山仕事を主とする造材人の間では、耕作とは関係なしに信仰され、またこの神は「12」という数を嫌うということから、この日を祭りの日とし、12日には山仕事に入らなかったのである。

 開拓当初は、原野を焼いたり木の根を焼くなど、火を放つことが多かったことから、火の神である秋葉権現(防火・鎮火の神として信仰された神)を祭ることも多かった。

 山の神に続いて現れたのは地神(じがみ)といわれる神で、これはもともと村の神はすべて農の神といわれ、政治の干渉も受けず素朴な形のまま古くから受け継がれ、入植者が移住の際に携えてきて、屋敷内か地域内に祭り、隣近所や同士によって守護神的に祭られるようになったものである。

 地神信仰と並行して行われたのが、馬を使役することの多かった農村地帯での馬頭観音信仰である。道端に馬頭観音像を祭り、馬の供養と併せて守護を祈った。これは馬の歴史とともに盛衰し、第二次世界大戦の終息とともに次第に薄れていったが、その石仏は各地区に存在している。

 このほか、大正時代から昭和にかけて、西国三十三か所巡礼を模倣した「八雲三十三番所」(観音講の人が作る)と、四国八十八か所を模倣した「八雲八十八か所」(大師講の人が作る)があり、それぞれ講を組織して毎月回り持ちで2、30人が集まって講を勤め、また「お山がけ」と称して春と秋の年2回巡礼を行い、巡礼者は経文を墨書したかさをかぶり、鈴を鳴らし御詠歌を歌いながら回ったといわれている。昭和に入ると観音講は仏願会と名称を変えて会旗も作ったという。また、昭和9年ころには弘法大師を信仰する「八雲大師講」ができ、5年程の寒修行による資金で石仏を作ったほか、篤志家による石仏などを町内各所に設置し、やはり年2回巡礼をして歩いたといい、石仏の数は91体に及び現在も残っている。

 この「お山がけ」と称する巡礼も、戦時中は中断し戦後再び続けられたのであるが、昭和30年ごろになると参加人員も減ってきて、自然に中止したのであった。(昭和55年刊・八雲の石仏より)

 時代が移って昭和40年代の車社会に入り、交通事故が多発して死亡者も多くなると、「交通安全地蔵」が道路わきに建てられるようになった。

 このように特定の教団組織や教理体系を持つこともなく、自然発生的に行われてきた民間信仰は、時代の発展とともに宗教のもっている力を利用して権力支配のよりどころとし、その結び付きのなかで、命令や支配を神聖化しようとする神社制度化が行われ、社格などが与えられて一町一村の総鎮守となっていったのである。

 漁村における信仰上の特徴としては、海上安全や大漁祈願を表面に出し、神社を早くから創設し祭神を祭って信仰していたことは、数々の古文書に記されているが、農村のそれと比較した場合、その伝統性を象徴的に表す数多くの俗信があった。例えば、漁に出掛ける前に飯にみそ汁などをかけて食べると舟が波をかぶるとか、家の中を玄関から入って裏口へ抜けると網の中へ入った魚が逃げてしまうとか、出産を汚れと考え一定期間休漁したなどというように、禁忌のことが多かったようである。

 漁村の神社には、各漁場の網元が信仰した屋敷神として、稲荷や弁天・竜神・恵比須などが多く、やがてこれらをまとめて合祭して村の神社となり、社格を与えられて村社・郷社となっていったのは、農村の場合と同じであった。

 このほかに、漁村の宗教的、経済的な組織として、各種の講が行われた。古くから庶民金融の方法として、無尽講や頼母子講などがあり、これは会員が月々一定の掛金を積み立てて資金を作り、くじ引きで順番にその金を落とし、不時の出資に備えたり、参拝旅行などの費用に充当した。

 また、地域全員で行う恵比須講や、仏教各宗派の行う報恩講や観音講が盛んに行われた。いずれの場合も、海上安全・大漁祈願・無病息災祈念が行われ、終わった後はみんなで直会(なおらい)と称して酒宴を開くのが恒例であった。

 このような農漁村における信仰など生活上の慣習は、昭和期の戦時下に入ると、いろいろな制約によってしだいに薄らいでくるのであるが、特に漁村の場合、昭和15年以後に続いた凶漁は、その生活の上にも大きな影響を与えることになったのである。

 

祭りと行事

 農村においては、正月と盆の行事および神社の祭典が年中の三大行事であった。しかし、入植後しばらくの間は、隣近所の者が集まってわずかに「ほお引き」をしたり、ささやかな娯楽によって日ごろの労を慰め合うくらいしか余裕はなかった。ただ、明治11年(1878)遊楽部に移住した旧尾張藩士のなかには、漢詩や俳かいに優れたものがおり、時折集まって歌会などを行っていた。

 入植者も年を追って増加し、ひとまず開墾時代を過ぎて生活もある程度落ち着き、経済的に余裕が出てくるようになった明治の末ごろには、春、秋の祭りや盆踊りが、各地で盛んに行われるようになった。また、移住者たちの子弟を対象とする学校も各地に建てられ、これらの学校の運動会も年々盛んになり、付近住民の欠かせない楽しみな行事となったのである。

 祭りの行事は、もともと7、8戸からせいぜい2、30戸の範囲で行う山神祭、地神祭の段階から、村社、郷社に至るまで変わりはなかったのであるが、やがて八雲の中心的な行事としての八雲神社祭、諏訪神社・落部八幡宮の祭典などがその代表的なものとなり、それぞれ全村行事の形で行われ、氏子役員が行事や予算などを決め、若者たちや青年団に寄付集めから余興の主催まで任せることが多かった。寄付者の氏名は、金額の順に社殿内や境内に張り板や張り紙をもって掲示され、町村内や地域内の序列を示すようになった。祭式は、神職のいない小さな神社では、それに準ずる素養のある人を他町村から頼んで執り行った。

 祭りの余興としては、昼間は神社の境内で子供相撲や草相撲を行うことが多く、夜になると浪曲や芝居を旅回りの役者に演じさせ、舞踊や素人演芸を村の青年団が行った。さらに大掛かりなものとしては、道路で草競馬を行ったり、ばん馬競走を行ったりした。

 市街地には氏子ばかりでなく、周辺の地域から汽車で見物人が集まり、街はみこしの渡御に続いて山車が練り歩き、各町内では山車の飾り付けや出し物に競い合った。みこしは若者たちによって担がれ、着飾った稚児たちが紅白の綱を両側から引っ張って先導した。

 

八雲神社祭典武者行列(写真1)

山車を引く稚児(写真2)

 

 国道筋には臨時の出店がテントを張って両側に立ち並び、見せ物やサーカス小屋も掛けられて、祭りは一層にぎやかなものとなった。

 古くから村に住んでいる家では、それぞれ他町村や他地域の親類や知人を招待し、酒こうでもてなして旧交を温める風習があり、また、近くに住んでいる親類などの家には、朝早く子供たちを使ってごちそうを届けさせたりした。子供たちはごちそうを待って行くと、帰りに小遣いをもらえるのが楽しみなので、喜んで出掛けた。

 学校も休みで、子供たちは晴れ着で飾り、小銭を握りしめて祭り見物に出掛ける。娯楽の少ない村人たちにとっても、一年中で最も待ち遠しい行事であった。

 祭りの日取りも村々によって異なり、宵宮祭・本祭・後祭りと3日間くらい行われるのが普通であった。八雲神社は6月20日から諏訪神社は7月18日から落部八幡宮は9月13日から行われるのが恒例で、現在も続けられている。

 また、神社としての社格の有無にかかわらず、神社のない地域がまずないといわれるのが、日本の地域の特徴で、産土神(うぶすな)としてあるいは鎮守の神として、それぞれの地域には神社があって、住民の精神的なよりどころとなっており、これらの地域においても祭典は、年中行事の第一として位置付けられ、その時期は主に6月から9月にかけて行われるのが恒例となっている。

 

稚児先導のみこし渡御(落部)(写真1)

 

 第二次世界大戦終息後、昭和20年(1945)12月総司令部の神道指令により、神社制度は国から分離され、宗教法人として再発足することとなった。そして、これまで行われていた祭りの行事一切は、奉賛会などの手によって行われることとなったのである。

 戦後、祭りの行事は余興などもしだいに少なくなり、往年のような盛況はみられなくなったのであるが、村人たちにとってはやはり欠かせない行事であり、子供相手の草相撲や露店などが続けられて、わずかながら昔の名残りをとどめている。

 学校の運動会や青年団などが行う運動会も、村の青年男女が公然と一緒に参加できる行事の一つであった。

 特に各地域の小学校で行われる運動会は、学校を中心とした通学区域の、地域社会の交流の場としても重要で、人びとは家業を休んで朝早くからごちそうを用意し、むしろなどの敷物を持って運動場に集まった。そして、紅白に別れていろいろな競技が行われると、太鼓をたたき笛を吹き鳴らし応援歌を歌うなど、家族全員はおろか親類も駆け付けて、運動場は人の山を築くという盛況ぶりを示した。大人たちには日用品が、子供たちには学用品が賞品として贈られていたが、戦時中は賞状だけとなり、それも段々と形が小さくなっていった。それでも子供たちは力の限り一生懸命に競技を続け、家族の応援も変わりなかった。

 もともと明治・大正時代の運動会には団体競技が少なく、個人の力や技を競うものが多かったが、戦時下になると、しだいに訓練や規律をともなう競技が取り入れられ、柔剣道大会や陸上競技大会が行われるようになり、やがて錬成一色に塗りつぶされていった。

 

戦時下の運動会(八雲小)(写真1)

 

 戦後再び運動会は復活し、いろいろな趣向を凝らした興味深い競技が行われるようになった。人びともかつての運動会のように熱中し、地域にとってはまた学校を中心とした地域社会の、唯一の交流の場として位置付けられていることに変わりはない。

 

 第6節 庶民生活の様相

 

大衆娯楽

 第一次世界大戦終了後は、大衆文化時代と呼ばれ、「キング」「婦人倶楽部」「主婦の友」「少年倶楽部」「幼年倶楽部」などといった大衆娯楽雑誌が刊行され、盛んな売れ行きをみせた。

 この時期に娯楽の主要な位置を占めていたのは芝居であった。八雲における劇場は、明治の末に下町(現、元町)の遊楽部橋付近に建てられた「八雲座」が最初で、その後大正初期に「遊楽座」が市街地(現、本町66番地)に建てられた。

このころは芝居が盛んに上演され、人びとは遠くからも見物に出掛けてきたという。

 また映画(当時「活動写真」と呼ばれ、動く写真を弁士が説明していた)も上映されるようになり、上映本数も次第に増えて、生活の中に溶け込んだ娯楽として定着し、上映前には宣伝隊を繰り出して街中を練り歩き、観客を集めたものであった。昭和の初めまでは無声映画で楽隊が付き、弁士が劇場の片隅に設けられた場所で、ろうそくの灯を頼りに台本の解説をしたのである。昭和4年(1929)に発声映画が日本で初めて公開され、やがて八雲地方でも上映されるようになった。発声映画の出現によって職を失った弁士や楽士たちがストライキを行ったところもあったという。大正13年(1924)に八雲座は本町(現、本町56番地)に移転し、遊楽座は昭和4年に廃業した。

 昭和16年(1941)の太平洋戦争開始とともに、戦争賛美や国策映画が強制され、娯楽施設もしだいに衰微し、戦時統制の下で戦争完遂に総力が向けられた。

 戦後再び映画界は隆盛を取り戻し、人びとは長い間抑圧されていた娯楽機関を解放されて、映画館に殺到した。八雲座も経営者が変わって第一劇場となり、26年には中央劇場と第二劇場ができ、三つの常設映画館となってにぎわいをみせた。また、野田生にも劇場ができて興行師が巡業した。

 落部においては、大正8年(1919)に浜通りの(屋号:)角谷旅館が地方巡業の興行師を招いて、映画や浪曲、芝居を見せていた。大正13年には平沢嘉之次郎がこの旅館を譲り受け、その後昭和7年(1932)隣地に「平沢座」を建築して興行を行い、さらに26年に規模を拡大して「落部劇場」とし、興行を続けた。

 これらの映画館は、戦後しばらくの間は人びとの娯楽機関として親しまれ、隆盛をきわめたのであるが、28年からNHKや民間テレビ局が放送を開始したことにより、32年ごろから八雲・落部にもテレビが普及しはじめ、徐々にその台数が増加してきた。これにより映画は、娯楽としての王座をテレビに譲ることとなり、映画館も次第に衰微し、ついには廃業せざるを得なくなり、次々と閉鎖してしまったのである。

 

盆踊り

 盆踊りは、町内・地域でのお祭りや運動会などとともに、娯楽の少ない時代の庶民にとっては得難い年中行事の一つとして定着していた。

 入植当時、何の娯楽もなかった移住者たちは、春の農繁期が過ぎると、村の学校や神社の広場に集まって、盛んに盆踊りに興じた。

 

八雲座内部風景(写真1)

 

 この盆踊りは、明治の末ごろには風俗びん乱などの理由から一時禁止されたが、大正末期には一般に許されることとなった。

 人びとは太鼓や踊りを練習して夜通し踊るばかりか、自分の村だけで満足せずに、友と連れだって数里の道もいとわず他の地域へ踊りに行ったという。

 盆踊りは、最初は出身地それぞれのお国民謡に合わせて国振りに踊るのが通例であったが、後に相馬盆唄や北海盆唄が一般的となり、さらに戦時中には東京音頭のほかに”みんな輪になれ”や”瑞穂踊り”などに親しんで踊ったのである。

 昭和21年(1946)に町は、大衆娯楽である盆踊りを実施することによって、一日も早く敗戦の虚脱放心状態から抜け出し、協調して再建に取り組む意欲の盛り上げを計画した。そして当時の八雲高等女学校長桑山誠一に依頼して歌詞を作り、戦時中から慣れ親しんだ曲調や振り付けによって「八雲音頭」「八雲盆踊り」とし、8月13日から20日まで八雲小学校の校庭で実施した。このように町が主催する盆踊りは当時としては珍しく、NHK函館放送局ではこの模様を録音して全道に紹介したのであった。

 これがきっかけとなって、翌年以降は商工団体や商工業者あるいは青年団・町内会・部落会などの主催によって長く踊り継がれるようになった。

 昭和33年(1958)には町の創基80周年を記念して、新しい「八雲音頭」の制作が計画された。そして広く一般から歌詞を募集した結果、寺川時代の作品が当選し、これを当町出身の作曲家小林 如が作曲、黒川喜佐が振り付けして完成した。しかしこれも数年間は一般町民に普及されていたが自然に忘れられてしまった。

 一方、落部村でも、戦後間もなく大同木材工業株式会社の構内を利用して、盛大に行われていたという。

 こうして盆踊りは、幾多の変遷を経ながら現在も踊り継がれているのであるが、大衆娯楽の少なかった時代に比べれば、かなり低調になったともいえる。

 しかし、この盆踊りが町民の融和協調を図るうえで、適当なものであると判断した町内会等連絡協議会では、全町的な行事として踊りと仮装のコンクールを実施し、その盛り上げを図っている。

 戦後における八雲町主題の歌をあげれば次のとおりである。

 

◎八雲音頭(みんな輪になれ調)

 当時八雲高等女学校長

 桑山誠一 作詞

 

一、八雲よいとこどの畑も

  みのり豊かに花が咲く

  平和の夜明けだそよ風だ

  そうだ夜明けのこの霧が

  晴れて牧場に牛がなく

 

二、八雲よいとこ網おこし

  波の上にも花が咲く

  平和のまひるだ沖上げだ

  そうだ度胸の沖上げだ

  しぶきとべしぶきとべごめもなけ

 

三、八雲よいとこ内浦の

  浜に浜茄子赤く咲く

  平和の夕べだ夕凪だ

  そうだ夕べのこのなぎが

  明日もつづいて群来となる

 

四、八雲よいとこどんと踊れ

  みんな踊れば月が出る

  平和の月夜ださあ踊れ

  そうだ踊ってこの夜が

 

  明けて希望の朝がくる

  (昭和21年)

 

◎八雲盆踊り(瑞穂踊調)

 桑山誠一 作詞

 

一、八雲ナー(ハドッコイセ)

  八雲よいとこ祭の太鼓

  どんと鳴らせば町中が揃う

  揃う心でコリヤェ

  (トコドッコイドッコイサノセ=繰返し)

  踊りゃんせ コリャエ(サテ)

  (サッサヤレコノトコドイセ)

 

二、八雲ナー

  八雲よいとこ山から見れば

  広い牧場に仔牛もふとる

  つづく畠もコリャエ

  花咲かり コリャエ(※)

 

三、八雲ナー

  八雲よいとこ浜へ出てみれば

  沖は大漁で鷗もなくよ

  波の音さえコリャエ

  音頭とる コリャエ

 

四、八雲ナア

  八雲よいとこ太鼓に踊る

  踊りあかせば心も揃い

  町に民主のコリャエ

  朝がくる コリャエ

 

◎八雲盆踊り(東京音頭調)

 桑山誠一 作詞

 

一、踊り踊るならチョイト皆出て踊れヨイヨイ

  山に出た出た銀の月サテ

  (ヤートナーソレヨイヨイヨイ=繰返し)

二、姉も妹も揃って踊れ

  どれがあやめかかきつばた

三、八雲八重垣どの畑みても

  みのり豊かに花ざかり

四、私しや八雲の塩浜育ち

  顔の黒いのは親ゆずり

五、沖に大漁のまねぎの旗は

  あれは八雲のいわし舟

  (昭和21年)

 

◎新八雲小唄

  山本露堂 作詞・作曲

 

一、牛の啼く音に朝霧はれて

  ふかいみどりにそよ風吹けば

  牛乳(ちち)の香りがサイロのかげに

  白いかぶりのあの娘の想い

  誰を待つやら恋しやら

  八雲よい町でエーサよい町

           牛の町

 

二、おどる銀鱗しぶきをあげて

  千両万両の音頭も高く

  男度胸だそれ網おこし

  帰りゃうれしいあの片えくぼ

  流す浮名も月の浜

  八雲よい町エーサよい町

          浜の町

 

三、清い遊楽部の流れを汲んで

  灘も及ばぬ香りの酒よ

  灯るあかりについさそわれて

  のめば恋しい想いも通う

  ほろりとかしたふかなさけ

  八雲よい町でエーサよい町

          夢の町

 

四、村を創って喜の字の祝い

  鮭のさしみに熊のビフも

  遠い昔の思い出ばなし

  ならぶ街なみネオンの光(かげ)に

  行手あかるい夜があける

  八雲よい町エーサよい町

          進む町

  (昭和30年)

 

◎希望の八雲(昭和24年)

  八雲町青年文化会作詞(佐々木章作曲)

 

一、朝は朝霧 牧場の狭霧

  土の香りにホイサ晴れて行く

  空は青空 郭公もないて

  さつき緑の さつき緑の

         風が吹く

 

二、山は濃緑 とど松小松

  続く畑はホイサ花ざかり

  昔なつかし 熊がりまつり

  今じゃ文化の 今じゃ文北の

          大八雲

 

三、赤い浜茄子 浜辺に咲いて

  どんと寄せくるホイサ波がしら

  千両万両だ うろこが光る

  躍れ大漁旗 躍れ大漁旗

        ごめもなけ

 

四、夕べ夕霧 街なみ流れ

  丘のサイロもホイサ消えて行く

  星がまたたく 夜空となれば

  明日の希望に 明日の希望に

        月が照る

 

◎やくも音頭(昭和33年)

  寺川時代 作詞

  小林 如 作曲

 

一、ハアー

  八雲よいとこね

  サテネ サテ サテ

  日本一(ひのもといち)の 酪農どころ

  ならぶサイロに 陽が映える

  アレサ ドッコイ ヤレコノセ

  牧場女乙は きりょうよし

  ヨイ ヨイ ヨイトナ

 

ニ、ハアー

  八雲よいとこね

  サテネ サテ サテ

  浜は大漁 かもめがなけば

  遊楽部名物 鼻まがり

  アレサ ドッコイ ヤレコノセ

  ちょいと浮かれて 顔を出す

  ヨイ ヨイ ヨイトナ

 

三、ハアー

  八雲よいとこね

  サテネ サテ サテ

  そろって咲いたよ 馬鈴薯(おいも)の花が

  今年しゃ豊年 俵山

  アレサ ドッコイ ヤレコノセ

  一家そろって にっこりと

  ヨイ ヨイ ヨイトナ

 

四、ハアー

  八雲よいとこね

  サテネ サテ サテ

  ぱあっと咲いたよ すずらん灯が

  みんな輪になれ シャンシャンとシャン

  アレサ ドッコイ ヤレコノセ

  八雲音頭で ささ踊ろうよ

  ヨイ ヨイ ヨイトナ

 

◎青年の歌(昭和44年)

  大竹 貢 作詞

  山本 函 補詞

  (宮野久幸 作曲)

 

一、風かおるみどりに

  内浦湾の光る海 われら若者

  ふるさとをこよなく愛し

  明日ある町をおこすため

  知恵と勇気をかたむける

     ああ新しいやくもやくもの力

 

二、さかんなるいのちに

  サラベが原の赤い陽よ われら若者

  ふるさとをこよなく愛し

  豊かな幸を求めつつ

  汗をいとわぬ日々を継ぐ

  ああたくましいやくもやくもの力

 

三、夢むすぶ大地に

  そびえて高いユーラップ われら若者

  ふるさとをこよなく愛し

  祖父母の歌を温めて

  八重の雲間にかける虹

  ああうるわしいやくもやくもの力

 

 なお、昭和53年(1978)八雲町百年に当たり、記念事業の一つとして町民の歌(八雲賛歌)と新しい音頭(八雲弥栄音頭)を町としてははじめて制作したが、これについては第3編行政の項で述べたので省略する。

 

ラジオ

 日本でラジオ放送が開始さわたのは大正14早(1925)7月であるが、翌15早ごろ八雲座を経営していた黒川市松(初代)が、小学校に器械を持ち込んで公開したのが当町での最初であるといわれている。この時は「キーキー」という雑音ばかりで、放送は全く聞こえなかったが、そわでもたいへんな人出で、説明だけ開いて満足して帰ったという。当時は無線電話と呼んでいた。昭和3早(1928)札幌を皮切りにラジオ放送が開始されてからはしだいに普及されたが、広く普及され出したのは日中戦争が始まった昭和6早ごろからであった。その後は急激に普及して一家に一台は必ず置かれ、庶民生活の必需品となり、終戦もラジオ放送を通じて住民は知ったのである。テレビ放送が開始されるとラジオの聴最率は下がったが、トランジスタラジオの量産化やFM放送の開始、また、カーラジオの普及など、新しい分野において発展していった。

 

蓄音機

 明治42早(1909)ころ八雲村農会が蓄音機を購入し、冬期恒例の地域巡回相談の際これを聞かせたのが、当町での最初であろうと伝えらわている。蓄音機を運搬するため人夫を雇い、これを背負わせて巡回を行ったところ、浪曲を聴くことができるということで、地域の人たちの集まりは、たいへん成績が良かったという。

 また、市街地の(屋号:)大田商店や(屋号:)大関商店・(屋号:)平野商店なども、店頭に蓄音機を備えて客寄せに使ったといわれ、これらは八雲に入った早い方であったと思われる。しかし、一般に入ってきたのは昭和初期であり、やはり高価なものだったのでその数は少なく、ごく限られた家庭だけであった。当時はレコードを「種板」と称して片面だけ使用するものであったが、のちに両面の種板が出て便利になった。

 その後手動式のバネモーターが電動式になり、雲母の振動板をもつサウンド・ボックスがピックアップと大きく変化し普及していった。

 

テレビ

 テレビが普及しはじめたのは、第二次世界大戦終了後10年を過ぎた昭和30年ごろになってからであり、当時は高価なもので一般庶民にとっては高根の花といわれ、ごく限られた裕福な家庭でなければ取り付けることができなかった。最初のうちは放映時間も決められており、子供番組の時間になると、子供たちはテレビのある家に集まり、テレビを持たない親たちを困らせたものであった。

 昭和32年(1957)函館にテレビ局が開局すると、地元の電気器具店でも受像機が売り出されるようになった。33年には大阪音響株式会社と北海道放送株式会社が、道教育委員会を通じて17インチのテレビ一台を八雲町公民館に寄贈したことにより、公民館ではこれを各種の集会に利用して視聴覚教育の充実を図るほか、一般にも公開したのであった。

 30年代後半になると、高度経済成長政策によって庶民の経済事情も好転するようになり、そのうえテレビの割賦販売制が行われるようになると、人びとは競って購入しだし、急激に普及していったのである。35年にはカラー放送が開始された。

 37年6月「NHK八雲通信部」が設置されて、ラジオ・テレビの取材活動が行われるようになった。

 カラー放送が開始されると、人びとは再びテレビの購入に対さなければならなかった。こうして50年(1975)には一・二世帯に一台と、ほとんど全世帯に普及されるようになり、これまた日常生活での必需品に位置付けられ、一家に二台の時代に入りつつある状況である。

 また、山間地の難視聴区域として、文化の恩恵からしばらく置き去りにされていた上の湯、下の湯地区については、48年に町・NHK・地域住民の3者が協議し、テレビ共同受信施設が設置された。この施設は、山に受信アンテナを立て、ここから有線によって各家庭に電波を送るというもので、設置費350万円は、NHK200万円、町60万円、地元受益者90万円(42戸)の負担であった。さらに、当町一帯がNHK函館放送局の電波を受信できない地域であるため、早くからこれを解消するよう要望されてきたのであるが、昭和49年(1974)11月に野田生の高台地区に無人局ながら「NHK八雲テレビ中継局」が設けられた。

 また、電報電話局、町立病院など公共建築物が高層化されることにより、付近住民への電波障害をなくするため、共同受信アンテナが設置されるようになった。

 

カメラ

 カメラが当町に入ってきたのは、明治35年(1902)ころ市街地で開業した市岡音太郎が最初であろうといわれている。また、アマチュアとしては、当時役場に勤務していた鈴木直次郎が、明治42年に使用したのが初めてで、その後八雲郵便局長の松田武策も使用したという。

 しかしこのころは、大きな行事や記念式典などには、函館から専門の写真屋を呼ぶことが多かった。当時一般には、写真を写されると影が薄くなって”早死にする”という俗信があり、アイヌなどは極端にこれを嫌ったのである。

 また、カメラは高価なもので、ごく限られた愛好者だけに使用されていたにすぎなかったし、やがて長い戦争時代に入るとフィルムなどの諸材料が入手困難になったため、あまり普及するには至らなかった。

 戦後国内カメラ工業は著しい進展をみせ、生産高・輸出額・技術開発・普及度など、すべての点で世界最高の水準に達した。諸外国から「眼鏡をかけてカメラをぶら下げておれば日本人」といわれる程に世界的に普及したのである。

 こうしたことから当町においても、北海道写真倶楽部の支部や、八雲鉱山写真同好会、雄鉾フォトクラブなどのアマチュアグループができ、月例展示会などが行われるようになった。

 現在活動中の団体の主なものは、昭和39年(1964)2月設立のユーラップフォトクラブ(会長・高見健生、会員・12名)と、48年6月設立の無影(会長・若林明生、会員・10名)がある。