第2章 原始・古代の熊石

 第1節 町内における調査発掘のあゆみ

 私達熊石町に住むものにとって、古代から現在まで、どのような人が、どう生活をしてきたかを知ることは興味深いことである。北海道が歴史時代に入った今から500年位前の住民の産業、生活の歴史はある程度分ってはきているが、それ以前の古代に、この町にどのような人が住み、どのような採取経済と衣食住をして、どのような文化を持っていたかはなかなか知ることができない。
 しかし、戦後時代に入って文化財保護思想の普及、開発事業の推進による埋蔵文化財の発見、考古学の発展等によって古代人の産業、経済、生活、文化が年を追って解明されてきている。とくに、地下から発見される先住民の遺物のうち、木炭層があれば、これを原子核で焼き、その物が生成された年代を測定するC14方法の発見によって、遺物の生成年代が算定されるなど大きな進歩を遂げてきている。
 考古学上で北海道の古代編年を
①先土器文化(1万年以前で、石器だけが発見される文化で、旧石器時代のことをいう)。
②縄文時代(約8000年前から2000年前までの縄をもって紋様を付した土器文化で、細分すると次のように分けられる)。
 縄文 早期 (約8000年前)。
 縄文 前期 (約6000年前)。
 縄文 中期 (約4000年前を中心とする)。
 縄文 後期 (約3000年前より以降)。 
 縄文 晩期 (約2500年前以降)。
③続縄文時代(おおよそ2000年以前の文化で、この時代には各地に構成された土地文化が広範に流通し、特に道南地方では東北地方北部に発達した亀ヶ岡式土器が、流入してくる時代で、土器も変化に富んでくる時代)。
④擦文時代(おおよそ1000年前位の時代で、東北地方に伸びてきた日本人の文化が流入してくる時代で、土器も坏、高坏(たかつき)等の素焼で焼成度の高いものが出、さらに鉄器や紡錘車などを併出するものもある)。
 このように考古学上においては、出土する土器形式によって年代を判断して、その地方の文化の位置付けをしている。それでは熊石町の遺跡、遺物と北海道内の他の遺跡との関係を次によって考えて見たい。

 第2節 北海道の先土器時代

 北海道に人類が住みつくようになったのは、洪積世という最後の氷河期であるウルム氷期のころで、今から2~3万年前だろうといわれている。この時代は現代に比べ気候が非常に寒く、平均6度ないし9度も寒かったから、住む人は毛皮の服をまとっていたと思うし、海水も少なく、現在の海岸線より80~120メートルも低いところに海岸線があったから、間宮海峡や宗谷海峡はもち論、津軽海峡も渡渉できる状況にあり、シベリア地方からマンモスを始め多くの動物や人類が移動してきて住んでいたと考えられ、今の津軽海峡が形成されたのは、トッタベツ亜氷期Ⅰの1万7千年位前といわれている。これは、この時期以降温暖な気候が続き、氷河の融解によって海水が増加したからである。
 (湊正雄著『最近の古地理的変遷』“新しい道史”通巻39号所収)
 現在、北海道には土器を伴わない、古い石器のみを掘出すいわゆる旧石器の遺跡は、戦前は発見されなかったが、戦後は開発や土木工事の深層化によって、ローム層(赤土粘土層)内に貯留されていた旧石器が続々発見されている。
 その最初は寿都町樽岸の昭和29年で、その後、紋別郡滝上町、白滝村、遠軽町など多くの遺跡が発見されている。しかし、その上限は1万8千年程度で、今後はさらに古い遺跡が発見される可能性を秘めているものと考えられる。
 これらの遺跡から発見される石器は、ヨーロッパ旧石器時代の後期マグダレニアン期のものに似たプレード(石刃)、舟底形石器(彫刻刀)などが多く、また、その末期の時代にはポイント(尖頭石器)などが多い。
 旧石器時代の末期から縄文早期時代にいたる約1万年位前の時代に入ると、土器を伴わない細石器のみを出土する遺跡も、虻田郡ニセコ町を始め多くの地域に発見されている。この石器は、前述の石器が大型であるのに対し、小型であることから細石器と呼ばれるもので、これを柄に固定もしくは木製や骨製の軸にはめ込んで、足の早い動物に打込むよう工夫され、狩猟の方法の変化と併せ、石器も変化してきていることが分る。

 第3節 縄文時代の熊石

早期・前期の土器
 北海道から発見されている土器は、戦前においては函館市住吉町から発見された尖底土器が最古のものだといわれてきた。これは土器の台底を持たず、乳房を伏せたような形をしているところから尖底土器といわれ、今から約7千年前の遺跡である。このような底が尖っている土器は、この時代の先住民はまだ底を付けることを知らなかったからだといわれている。
 戦後C14の発達によって、十勝郡浦幌町下頃部から出土した土器は8000年前という早期のものであることが分った。このほか釧路市東釧路、浦幌町新吉野、網走町大曲等からも同年代のものが発見されている。この早期の土器には平底が付されているので、従って尖底土器をもって最古とする定説は消滅した。
 これら早期・前期の土器は、早期については棒の先や貝で模様を付けたり、繊維の撚り紐で土器の表面を圧した条痕紋土器や縄紋体圧痕文土器、網文式土器といわれるもので、最近の発掘調査ではこの系式を持つ土器が、各地で発見されている。
 また、尖底土器は、土器の表面に貝殻の縁や背で模様を書いた貝殻紋の付されているものが多く発見されており、この土器系式は東北地方の北部でも発見されているので、この時代すでに津軽海峡を挟んで、多くの文化交流のあったことを証拠づけている。
中期の土器
 4000年を中心として前後する縄文中期の時代は、それまでの狩猟一辺倒の生活から貯蔵法を考えるようになったことによって、土器も大形化されるようになった。そのためには土器を造る技術にも進化が見られ、従来の土器は粘土だけであったのに対し、植物繊維を混入して粘土間のつなぎを持たせ、土器の製法もある程度地方的特色を持つようになった。
 この時代の土器の模様はすべて縄文で統一されているが、口縁部の模様は豪華であり、縄文土器といわれる所以も、この華麗さから来たものである。この縄文土器は本州北部から北海道にかけて分布しており、また、北海道北部には縄文、蓆文を主体に、特有の刺突文のある北筒式土器があるが、北筒式は津軽海峡から本州地方には進出していない北方系のものといえる。熊石町においても関内遺跡や鳴神A、B、小学校裏、根崎、相沼遺跡等はこの時代の遺跡である。
 この中期の遺跡には多く大規模な貝塚を伴っていることがあり、また、出土品のなかに石器、骨器、装身具、土偶を併出することが多く、また、堅穴も多く発見されている。熊石町では本格的な遺跡の発掘調査が行われたことがないので、いまだ貝塚は発見されないが、太平洋沿岸地域の貝塚は二枚貝を主体に構成されているが、日本海沿岸のそれは磯浜性の貝を主体としていて、磯浜性貝塚と呼ばれている。日本海側にはこの貝塚が極めて少ないが、もし、これが発見されれば、その貝塚中に含まれている動物、魚類、貝類の骨の堆積から、先住民の生活や、その人達の食性、文化を知ることができるので、是非発見したいものである。

後期の土器
 今から3500年前後の時代の土器文化を縄文後期時代と呼んでいる。この時代には北筒式という北海道の北部で発達した土器が、しだいに南下をし、円筒形式土器を使った人達との間に文化の交流が始まった。その影響を受け土器の厚さは薄くなり、模様も沈線文という平面的なやわらかみあるものに変り、土器の形も深い鉢や円筒の形ような単純な形から種々のかたのものができるようになってきた。この土器は江別市野幌で最初に発見されたことから野幌式と呼ばれ、道南地方まで進出してきている。

縄文晩期
 約3000年位前後の時代には青森県西津軽郡の亀ヶ岡から出土した土器を中心として、数百年にわたって、東北地方から北海道中部にかけて発展したのが、亀ヶ岡式土器で、縄文晩期の代表的土器文化である。この土器は厚さはますます薄くなり、形も壺や鉢、皿、注口、台付、人面付など多彩になって、変化にも富み、模様のない部分は磨かれて光沢をもち、なかには朱を塗って描いたものもあるという見事な美術品であるが、併出するものも装身具や土偶も多い。この土器は北海道では道南、特に渡島半島に多く発見されるが、当町においても海岸線に近い遺跡から発見される土器は、この期のものが多い。

熊石町で発見された土器

 第4節 続縄文時代から擦文時代

続縄文文化
 今から2000年位前から1500年位前までの土器編年の時代を続縄文文化の時代という。この時代に入ると東北地方では、それまで発達していた亀ヶ岡式土器が衰退し、九州地方に大陸文化の影響を受けて発生した弥生式土器が北上している。
 この時期、道南地方では恵山付近で発見されたことによって名付けられた恵山式土器の出土が多い。
 この土器は亀ヶ岡式土器より薄手で固く、縄文文化の伝統を残しながら、縄文と線の模様の組み合せで構成され、深鉢、浅鉢、壺等が多い。
 北海道には弥生式土器は発見されていないといわれてきたが、数年前に瀬棚町、松前町で二例の弥生式土器が発見されているので、当町においても発見の可能性がある。

擦文文化
 今から1500年位前から歴史時代に入るまでの時代の間を擦文文化時代といっている。擦文は奥羽地方の弥生式土器から発生した土師器や祝部陶器が、海を渡って移入されるようになると、多分にその影響を受け焼成度の高い、紋様は箆(へら)書と沈線文の擦文土器が多くなる。この形式は高坏など土師器に似て、ロクロを使用した形跡もあり、遺跡からは金属器や紡錘車(糸を織る道具)、漆器、装身具等も発見され、古代人の生活がだんだん私達の生活に近づいてきていることを感じる遺跡である。しかし擦文期の遺跡は現在の海岸線の住宅密築地となっている地域に遺跡が多いので、地下遺構が破壊されていることが多く、年代が新しい割に発見される機会が少ない。

 第5節 熊石の先住民

 熊石町に私達の先祖が定着する以前の古代に、どのような先住民が住み、どのような生活をし、どのような文化を持っていたかを調べることは、町の過去を知る上で極めて重要なことである。しかし、現在では文化財保護法の規制があって簡単に、このような先住民の居住していた遺跡の発掘をすることは許されない。文化庁が発行した“全国遺跡地図 北海道Ⅲ”によれば、熊石町には

文化庁 全国遺跡地図 北海道Ⅲ(熊石町分)

NO. 文化庁NO.225 遺  跡  名 所  在  地 遺跡区分 そ の 他
 1 225 31 関内遺跡 熊石町字関内 遺物散布地
 2 32 関内第二遺跡  〃  〃   〃
 3 33 西浜遺跡  〃 宇西浜   〃
 4 34 西浜第二  〃  〃   〃
 5 35 西浜第三  〃  〃   〃
 6 36 嗚神A  〃 字嗚神   〃
 7 37 嗚神B  〃  〃   〃
 8 38 小学校裏  〃 宇雲石  〃
 9 39 根崎遺跡  〃 字根崎  〃
10 40 根崎第二遺跡  〃 字根崎  〃
11 232  1 平A遺跡  〃 字平  〃
12  2 鮎川洞窟遺跡  〃 宇鮎川  洞 穴
13  3 鮎川B洞窟遺跡  〃  〃  洞 穴
14  4 浜中遺跡  〃 字見日  散布地
15  5 泊川遺跡  〃 字泊川  〃
16  6 相沼遺跡  〃 字泊川  〃
17  7 相沼第三遺跡  〃 字相沼  〃
18  8 相沼第三遺跡  〃 宇相沼  〃
19  9 相沼川□遺跡  〃 字相沼  〃
20 10 折戸遺跡  〃 宇折戸  〃

と20の遺跡が所在していることが確認されている。しかし、これは表土採取や開発工事等の際、発見登録されたものであるが、熊石町に於ては正式な発掘調査が行われたことがないため、その全容は不明であるが、実質的には、この数倍の遺跡が埋蔵されていることが推定される。
 昭和41年熊石町に於ける初めての遺跡発掘調査が行われた。この調査の報告書が刊行されていないので、その詳細を知ることはできないが、発掘の経過と大要は12月1日付の北海道新聞に報道された。それによると、国道229号線上鮎川から平田内の海岸尖端部脇の熊石開発株式会社の採石現場で、メノウをはめ込んだ土偶が11月23日に発見され、調査の結果全国初めてのものであり、緊急調査することになった。調査は吉崎昌一市立函館博物館学芸員(現北大助教授)、斉藤僯市立旭川博物館学芸員、宮下正司江差高校教諭、前野英一熊石高校教諭等が当った。


鮎川遺跡発見の土偶(文化庁買上げ)

 この調査では岬上に突出す海岸には二つの海岸洞穴があったのを国道拡張や採石のため破壊してしまい、採石の中に交って土偶が発見されたものである。この海食洞穴は2本あったようであるが、乱開発のため洞穴は破壊され、穴内の表土も散乱していて、本格的調査はできなかった。
 問題の土偶は高さ15センチ、幅8センチ、厚さ4・3センチの粘土焼成の人形土偶であるが、その頭、胸、腹、腰、四肢の端の8ヶ所に乳白色のメノウ玉(直径6ミリ)が埋め込まれていたが、四肢端と腹は剥離した跡があり、頭、胸、腰にはメノウ玉が埋め込まれて残っていた。発見地点を精査した結果、付近からイノシシの牙を磨いて穴を明けて作った装飾品や、ベンケイ貝を輪状にくり抜いた腕輪等も発見され、今から3000年~2500年前後の縄文晩期の高度の文化をもつ遺跡であることが分った。このような宝石をちりばめた土偶の我が国での発見先例がなく、貴重な発見と大々的に報道された。この発見について、東京国立博物館考古課土偶担当の野口義暦技官は「ウルシやベニガラを体に塗った土偶はあるが、石や貝をはめ込んだものを見たのは例を見ない、目と口にウルシを塗り込んだと思われるものは東北地方に二例ある」とこの発見を評価している。
 この貴重な土偶は発見者の所有に帰し、のち文化庁の要望により政府買い上げとなり、現在は国立民族博物館に収蔵されていて、熊石町に残されていないのは残念である。


鮎川遺跡発掘の石器

 昭和42年9月7日から14日にかけてこの海食洞穴の調査を市立函館博物館吉崎昌一、石川政治両学芸員と宮下、前野両教諭とで発掘調査を行ったが、洞穴は最奥部までで30メートル、内部の広さ幅は4~5メートルあったと推定され、二体の人骨の一部分と縄文後期の典型的上ノ国式土器、さらに縄文晩期の日の浜式土器が発見され、これに伴出してイノシシ、シカ等の獣骨で造った管玉、さらに骨の矢じり、回転もり、釣ばり、動物の歯で造った装飾具、染色された石弾等も発見されたが、洞穴内は北海道内でも珍しい磯浜性貝塚で、動物の骨はシカが圧倒的に多く、クマ、キツネ等もあり、海獣ではトド、アシカ、クジラ、貝類ではアワビ、イガイ(ツブ)、ウニ等の殼、魚の骨等も発見され、先住民の狩猟採取の食性文化の範囲が極めて広く、また豊富で、高度の生活文化を維持していたことが分った。この調査の結果を踏まえ、遺跡は鮎川洞穴遺跡と名付けられた。


鮎川遺跡発掘の骨角器

 このような貝塚遺跡は道内には数多くあるが、太平洋岸地域はアサリ、ハマグリ等の二枚貝を中心として構成されているが、日本海沿岸の貝塚はアワビ、ツブを主体とした磯浜性貝塚で、その例証も少なく、熊石のこの鮎川洞穴遺跡は数少ない磯浜性貝塚として貴重なものである。
 考古学上貝塚は地方の食性文化を知る上で極めて重要なものとされている。その理由は、当時の先住民は総ての生命を全うしたものを1ヵ所に葬るという風習があり、例えば洞穴で生活していた人が死亡したような場合、その場所を祀の場所と定め、そこに破損した土器や食料に供した物の骨や殼を捨てる。また次の時代にも同じようなことが行われて重層遺跡として残るほか、普通の骨等は壌土のなかではすぐ腐朽するが、貝塚では主成分の石灰質の骨等で同化して腐朽せず、永年土中にあっても保存が出来るため、考古学上貝塚は貴重な遺跡となるわけである。
 また、昭和54年、熊石第一中学校前面の畑地から、さらに一基の土偶が小学生によって発見され、現在熊石町教育委員会に保存されている。この土偶は高さ12・5センチ、幅5センチ、厚さ2センチのやや扁平な土偶である。この土偶の頭部には穴が明けられていて、このような類例がなく、首、肩、胸から腰にかけては部分的に沈線文があり、背部には文様がない。また胸には乳房がなく、このような類例のものは北海道では木古内町札刈遺跡、青森県板柳町土井一号遺跡等で発見されたものがあり、これらから類推して縄文晩期の今から2500年位前の亀ヶ岡式文化期のものであると、北海道教育委員会が鑑定している。
 これら二例の土偶で見る如く、本格的な遺跡発掘調査の行われていない本町で、二例もの高度の文化を持つ土偶が発見されていることは、縄文先住民に地域的な高度文化を醸成していたことを示すものとして注目され、今後の本格的遺跡発掘の機会があれば解明されるものと考えられている。


第一中学校前で発見された土偶(熊石町教委保存)

 擦文土器文化の時代の後期の頃の平安時代末期の頃から、東北地方の北部に住む和人達が、動植物の多い蝦夷他の道南地方に渡航するようになるが、これらの和人が定着するのは鎌倉時代の初期以降のこととされている。しかし、この時代から和人が熊石町に住みついたとする考古学、歴史学的な証拠はない。この時代の熊石町の先住民の人達は、現在のアイヌ系の人達に近い、和人側の記録では蝦夷と表現されていた人達であろうとかんがえられる。
 熊石町の町名の起源もこれらの人達が残したアイヌ語で構成されている。熊石の語源について永田方正筆「北海道蝦夷語地名解」で熊石はアイヌ語の“クマウシ”(Kuma ushi)に発し、魚乾竿のある所の意味に発している。
また
 関内 シュプキナイ=茅の多い沢
 平田内 ピラタサンナイ=崖の方へ流る川
 見日 ケネニウシ=アカダモ多き処
 相沼 アイヌオマナイ=土人居る沢
など多くのアイヌ語から発した地名が多いことも、町の過去に多くのアイヌ系と思われる人達が住んでいたことを物語っている。
 蝦夷地に北上定着した和人が、室町時代には多くなり、各地に舘を築いて和人の部落の防禦の足場として勢力を拡大した。15世紀の中頃、道南地方の津軽海峡を中心として12の舘が存在したことが記録され、そのうち上ノ国花沢舘主の蠣崎氏が次第に勢力を拡大し、永正11(1514)年松前大舘守将にと栄達し、領主秋田安東氏の代官となった。四世季廣は天文19(1550)年和人地、蝦夷地の制を定め、瀬田内の蝦夷の首長波志多犬(ハシタイン)を上ノ国の天の河の郡内に置いて、西部の代表者と定め、東部は志利内(知内)の知蔣多犬(チコモタイン)を代表として、この東西内部を和人地と定め、他は蝦夷地とし、また、本州より渡来する交易船より税役を出させ、その一部を両首長に配分し、またこれらの商船が両首長の居所を過ぎるときは必ず、帆を下して敬意を表することを義務付けて、和人と蝦夷人との摩擦を避けるように配慮していた。
 近世に入り松前藩が創設されると、東部は箱舘在の黒岩(字石崎)から西は熊石村在の相沼内村までが和人地と定められ、この地域内には蝦夷の居住を許さなかった。その華夷の国界として相沼内に松前藩の関所があって出入人を検問した。この相沼内関所は松前藩華夷政策を押し進めるための機関として重要なものであった。
 この関所の任務は、相沼内川をもって境界とし、その東側は和人の居住地とし、その西側は蝦夷の居住地と規制し、混住は許さず、和人の蝦夷地への出入の者は、藩庁(各奉行所)が発行する出入切手の携帯が必要であった。和人の蝦夷地定着を許さなかったのは、文化的にはやや優位に立つ和人が蝦夷地に定着した場合、平和な蝦夷の村々に破綻を来す恐れがあり、この広い蝦夷他のなかで兵乱が起きた場合は、小藩松前家の力では到底その収拾能力はなかったので、蝦夷地内の行政、自治、司法はその村落の村長(おさ)に任せるという「蝦夷他の事は蝦夷次第」に任せ、そこに和人が入ることによって摩擦の生ずることを極度に恐れ、和人の進出をこの関所で押えようとしたものである。
 この場合に相沼内川を越えて熊石に定着を許される人達がいた。これは和人地の罪人を処刑する方法として越山(えつざん)と称して熊石村のみに流刑することで、この越山者は蝦夷地の限られた村に流刑されて再び和人地には帰ることが出来ず、延宝6(1678)年の法幢寺6世住職柏巌和尚の門昌庵開創も、越山流刑によるものであったが、これら流刑者の監視も関所(番所)の用務の一つであった。
 林子平著の「三国通覧図説」は近世蝦夷地を中心とした北方地域にロシアの南下進出があり、北辺警備の重要性を説き、太平の世に警鐘を鳴らし、官民の自覚をうながした書として有名であるが、この書のなかに

 蝦夷国の西の方は漫々たる大海にして更に国なし。坪の碑に五方の行程を記して去蝦夷国界一百二十里と刻めり。
 坪の碑は多賀城の門碑なり今の仙台宮城郡市川村は其城、古碑猶存在、
 此の時代は小道にて六町を以って一里としたる事なれば 一丁は六十間一間は六尺也 この碑に記したり一百二十里は則ち今の道のりにて只二十里也。然れば則ち今の桃生郡の辺にて仙台封城の真中也。是古への蝦夷国界也。扨て今の蝦夷国界と言は、松前の熊石(・・)にて多賀城より一千三百二十里、今の道法二百二十里也。

 と記している。壺(坪)の碑といわれる碑は現在も多賀城遺構のうちにあり、日本三大古碑の一つとして保存されているが、この碑には多賀城を中心として五方に通ずる行程を書いたものであるが、その蝦夷国界への道を現時点(1785-天明5年)で、熊石としていて、蝦夷国界の地として、この時代に熊石は識者の間には知れ渡っていた。


多賀城壺の石の碑(宮城県多賀城市所在)

 相沼内蝦夷地居住の蝦夷は近世に入って、西部蝦夷地の代表首長とされていた。寛文9(1669)年日高のシャグシャイン首長の乱の際に救援に出兵した津軽藩の記録「津軽一統志 巻第十(下)」によれば、西夷の状況を
 一、あいぬま内 川有 狄おとなトヒシヽ 家 四十軒
 一、黒岩 家二十軒
 一、けんねち 川有 トヒシヽ持分 家十軒
 一、熊石 トヒシヽ持分其外おとな狄有 家八十軒
 一、関内 松前より三日路是迄馬足叶申候。番所有、是より狄地おとな彦次郎 家二十軒計有
とあって、熊石町内のうち相沼内、黒岩、見日、熊石の地域は相沼内首長のトヒシヽの領分内となっており、関内より瀬田内までの間は、瀬田内の首長彦次郎の領分(太櫓を除く)となっていて、この両首長は西蝦夷地でも強大な勢力をもつ代表的な首長であった。前出の史料によれば関内に番所有と記録されているが、これはシャグシャイン首長の乱によって西蝦夷地から和人地に蝦夷の攻撃があった場合に対処するため、相沼内の外に熊石、関内の二か所に臨時の関所を設けて藩兵を配置していたことが、前掲書(中巻)之二十に
 一松前左衛門 蠣崎次郎左衛門、浅利小左衛門 中野次郎左衛門 蠣崎采女、雑兵五百人程にて、上の国あい沼 熊石 関内三ケ所を堅め罷有候事。
となっており、又、同書では相沼内首長のトヒシヽを西蝦夷他の各地方に派遣し、騒乱の和解の仲介をさせているのを見ても相沼内首長の勢強振りを知ることができる。
 この相沼内首長に対する松前藩の敬意は、その藩政行事のなかに組み込まれている。最上徳内筆の「蝦夷草紙」巻之一“松前総論”の項に
 一、松前より西の方に、日本道風三十里ばかりにして、見市といふ村あり。此処に代々岩之助〔原註 右は蝦夷にしてその名をイワンノシケと言ふ。〕といふ百姓あり。平日は日本の野郎鬢なれども、冬になれば月代を剃ず、蝦夷の体にかへて、正月七日に領主へ吉例に出る。領主は書院の前庭に荒菰を敷てこれに居らせ、領主より濁酒を給はる也。これ蝦夷の道風なり。
として、正月七日西夷の代表首長を招いてオムシヤ(謁見の儀式)を行なっている。この岩之助が、相沼内の首長トヒシヽの末裔で見日に移り住んだものか、トヒシヽの末裔が滅んで、見日の岩之助が代って首長となっていたものかは定かではない。
 徳川幕府は将軍代替の都度巡見使を派遣して、各大名領主の治政を視察させたが、松前藩へは3代将軍家光がその職を嗣いだ翌年の寛永10(1633)年分部左京亮実信、大河内平十郎正勝、松田善右衛門勝政らが来航し、松前藩の領内和人地を視察した。この際は東は箱舘在石崎までと、西は熊石まで巡見することになっていたが、乙部以北は道路が険阻で歩行が容易でないことから、乙部から船に乗り熊石方面を望見して終ったが、その後の巡見使の見分コースはこの例に従ったが、乙部宿泊の夜は、熊石の蝦夷が謁見に出、槌打と鶴の舞とを披露することになっていた。前掲「蝦夷草紙」の“槌打鶴の舞の事”の項によれば、
 一、御代かわりの巡見使は、松前より西方は熊石、東方は亀田村を限りて、是より奥蝦夷には行ざるが先例なり。おのおの松前よりは日本三拾里ほどづゝ隔つなり。この両村に蝦夷人大勢群集し、槌打と鶴の舞とを興行して巡見使を饗応する事先規の定例なり。―略―
となっていて、乙部村に宿泊する巡見使が蝦夷人の風俗、習慣をその目で確める手段として、この行事が持たれ、先ず謁見礼(オムシヤ)の後、土産を下賜し、相沼内首長らが答礼として、男は槌打の舞、女は鶴の舞を踊ることを例としていたが、この行事も西夷の代表としての相沼内首長に対す待遇例の一つであった。このような行事も幕末期には全くすたれ、その影もうすれてしまっている。