第3章 中世の熊石

 第1節 和人の渡来

 擦文時代に道南地方で、日本人(和人)の文化の代表とされる弥生式土器が発見され、蝦夷と和人の文化的交流がもたれ、平安時代の末期頃には本州北部の和人が、道南地方に季節的に進出して来たと考えられるが、これらの和人が道南地方に定住し、生活するようになるのは鎌倉時代以降のことである、とされている。それまでの間に、歴史的にも和人と北海道に住む蝦夷との接觸は続けられてきた。日本の歴史紀記のなかに第一にこれが取り上げられたのは阿倍(陪)臣の北征である。
 “日本書紀”の斉明天皇4(658)年の項に「阿倍臣船師一百八十艘を率いて蝦夷を伐つ」とあって齶田(あきた)、渟代(ぬしろ)を平定し、渟代・津軽の郡領を定め、有馬の浜に渡島(わたりのしま)の蝦夷を召し聚(あつ)め、大いに饗(あた)へて帰したとある。同5年にも阿倍臣が船師を率いて蝦夷国を討った。その際は飽田(あきた)、渟代、津軽、胆振鉏(いぶりさい)の蝦夷を聚め饗えた。 この時問菟(とびう)の蝦夷が後志羊蹄(しりべし)の地を政所とすべしとし、ここに郡領を置いて帰ったという。さらに6年には阿倍臣を遣して粛慎国(みしはせのくに)を伐たしめたが、このときは陸奥(むつ)の蝦夷を使ったが、或る大河のそばに着くと渡島の蝦夷が一千余がいたという。そして弊賂弁(へろべ)島に帰ったが、〔この弊賂弁は度島(わたりしま)の別なり〕といっている。
 阿倍臣については、別書には阿倍臣比羅夫といわれ、阿部臣は佐渡の島を中心とした水軍の長であり、この北征は、北方にあった粛慎が南下騒乱を起こしたので、これを治定するための軍であったという。この北征で、秋田、能代、津軽等の国名と有間の浜、胆振鉏、問菟、渡島、後方羊蹄、弊賂弁島等の地名が出てくる。有馬の浜は西津軽郡の深浦町にあり、問菟は現在は北津軽郡の小泊村に当り、比羅夫は津軽海峡以北には北上していないという説と、滝川政次郎博士の後方羊蹄は今の余市、弊賂弁の島は古平港頭に比定するという説(地方史研究所編「余市」)、また、河野廣道博士の問菟=苫小牧近くの竹浦、胆振鉏=勇払又は江別、後方羊蹄=江別、苫小牧の間、弊賂弁の島=札幌低湿地帯とする説(北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」)等の説があって、歴史家の間の論争の的となっていて結論は出ていない。
 この時代に突然現れてきた粛慎については、北方種族であるといわれるが、この種族に比定される者として、戦後網走モヨロ貝塚で発見された人骨やその文化によってモヨロ人種と呼ばれる人達であろうという。この人種は今から1500年位前に突然この地方から宗谷、礼文地方にかけて蟠居した種族で、現在のアイヌ系の人達とは全く異なった骨格、文化を持っているので、年代的にも合致するこのモヨロ人が粛慎であるといわれているが、いずれにしても、この阿倍臣の北征は津軽海峡を挟んでのことであることには間違いはないと考えられている。

渡島津軽津
 奈良時代の養老四(710)年の「続日本紀」のなかに、「渡島津軽津の司従七位上、諸君鞍男等六人を靺鞨(まつかつ)国に遣わし、其風俗を観せしむ」とある。渡島津軽津は渡島(わたりしま)、つまり北海道の津軽に渡る口だと考えられ、その場所を松前とする者と、津軽から島に渡る口で、今の十三湖か鯵か沢とする者とがあって定かではない。しかし、いずれにしてもこの時代に政府の港を管理する役人がいて、大陸と交流があったことは、当時、交易交通がその地にまで延びていたことを示すものとして重要な史料である。靺鞨とは中国東北部松花江流域に居住した種族で、阿倍臣比羅夫が北征した粛慎の子孫挹婁(ゆーろ)と同じであるといわれている。この諸君鞍男らの視察は、おそらく朝鮮半島の出兵に失敗し、唐国との連絡を断たれた朝廷が、新たなルートを開こうとしたものと考えられている。
 また、神亀4(727)年靺鞨に近い渤海郡王から派遣された寧遠将軍高仁義ら24人が蝦夷の境に着いたところ、仁義ら16人が殺害され、8人が逃れて出羽に着き、朝廷はこの生存者を入京させ慰問したとされ、それから渤海を通して唐との関係が保たれたといわれ、北方からの中国への交通はいまより盛んであったことを物語っている。

和人移住の始まり
 鎌倉時代に入ると東北地方からの移民ばかりでなく、流刑者が蝦夷地に移送され、定住していく記録が中央の史書のなかにも散見されてくる。「吾妻鏡巻二十二」の建保4(1216)年閏6月の条に、その年2月京都東寺の宝蔵にしのび入り、宝物を盗み捕われた賊徒ほか強盗海賊50余人を奥州につかわすべき由沙汰があり、夷島(えぞが)に放ったとの記録かおり、さらに文暦2(1235)年7月の条には夜討強盗の枝葉は関東に送り、夷島に送るべしとの命令が六波羅に下されたと見えている。これら京都等からの流刑者が蝦夷地に入ることについては記録として残されているが、東北地方の賎民の移住等は記録に残ることなく、それ以前から続けられていたものと考えられる。

義経渡来の伝説
 源義経が衣川の高舘(たかだち)で、藤原氏四代泰衡に襲われ、弁慶らとここで戦死した。「吾妻鏡」によれば、その首は首桶に美酒を浸して鎌倉に送り、腰越で和田義盛、梶原景時が首実見をし、義経に間違いことを確認して埋蔵している。しかし奥州北部から蝦夷地にかけて義経渡来の伝説が多い。「松前旧事記」において蝦夷地の車櫂(かい)は、義経が三厩から道南に向う際、薙刀を船べりにゆわいて漕いだのが始まりだといい、村岡チヤ氏所蔵の「福山旧記」では
 ○文治五已酉年五月十二日
 奥州落同日蝦夷地両山関江渡海す
 松前庄司義行道案内致す
 大将源九郎判官義経公始として泉三郎忠衡、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、信夫太郎元久、同姓小二郎信近、亀井六郎清重鷲尾三郎経春、備前平四郎行貞、増尾十郎権頭兼房、熊井太郎忠光、蒲原太郎廣元、封戸治郎春経、赤井治郎景次、黒井三郎定網、日角小三郎義衡、法印淨玄、御厩喜三太、頼念坊常玄等始として主従百人余わづかに馬六匹引て渡る
 蝦夷地大将張達王討つ、韃靼国江渡る

と書かれている。これを一覧すれば義経主従の勇者の名前ばかりで、蝦夷地、韃靼にまで渡り、果はジンギスカンにまでなるという伝説まで生まれている。本史料は松前藩士の家に永く保存されていたもので、英雄不死の願いが、このような記録を生み出したものであろう。
 義経は確かに衣川の高館で戦死しているが、これを討った泰衡がさらに頼朝に追われ、その残党が義経、弁慶になりすまし、またこの様な伝説をふりまいたと考えられる。泰衡は頼朝との一戦に破れ、衣川を後に蝦夷地に逃れ、再起の軍を興すべく、出羽国贄(にえ)柵(今の秋田県大館市)まで来たとき、郎党河田次郎のため殺され、同勢は四散したが、中には泰衡の願の地蝦夷地に逃れて義経崇拝の伝説を蒔き散したものと考えられるが、このような伝説が道南地方に残されたことは、この時期に和人が多く道南に定着したと考えることもできる。
諏方大明神画詞
 当時の北海道に渡り党という和人が住み付いていたという記録が、「諏方(すわ)大明神画詞(えごとば)」という本に載っている。この画詞は足利尊氏の秘書で、諏訪神社の神官であた小坂円忠が、紛失した画詞を延文元(1356)年再製したもので、そのなかに
 我が国の東北の大海の真中にある蝦夷が千島には、日の本、唐子、渡党の三類の住民があり、その中の一島には三類が雑居している。それらの島の中には宇曽利鶴子(うそりけし)、万堂宇満伊犬(まとうまいぬ)という小島がある。渡党は多く津軽の外ヶ浜に来て交易している。
といっている宇曽利鶴子は現在の函館で、万堂宇満伊犬は松前の地名である。日の本、唐子はその地外国に連なり、面相、風俗も異なっているが、渡り党は和国の人とは異ならず、言葉は粗野だが大半は通じるといわれている。外ヶ浜は現在の青森県青森市から津軽半島を経て西津軽郡の鰺ヶ沢町に至る海岸線を指しているので、道南地方に定着した和人が、蝦夷地で生産した物資を積んで、これらの地方に渡航し、生活物資と交換して帰るという交易経済を展開していたものと考えられ、これら渡り党のなかには、前述の流刑者のようなものもいたと思われるが、この時代に発生した安東氏族間の内紛に敗れ渡島した武将等も含まれていたと思われる。

貞治の碑
 函舘市船見町の称名寺境内に貞治6(1367)年銘の板碑が残されている。この板碑について、秦檍麿筆「蝦夷島奇観」によれば、宝暦2(1752)年箱舘の角屋榊氏が井戸を掘らんとして山際の土を掘ったところ石碑が現れ、その下に丹塗の小祠と甲革の金具、大長刀が出、鍔は九曜の紋が付いていた。また、小祠には髑髏(どくろ)一頭が入っていたという。この石碑には

 貞治六年丁未二月日
 旦那道阿 慈父悲母同尼公□

と刻まれている。碑は輝石素面岩で、中央には安慰摂取印の阿弥陀如来、その足下に右方に善女、左方には善男が蹲踞(そんきょ)の姿を彫り、左には上部に雲上に立つ安慰摂取印の阿弥陀如来の白毫(びゃくごう)から合掌蹲踞する善男女に光明が放たれていて、その下方に前記銘文が刻まれている。
 貞治6年は北朝年号で、南朝の正平22年に当るが、碑面から見ると北朝系の浄土系の念仏行人で、相当身分の高い家柄の出の人であったことが考えられ、同形式のものは奥州北部の安東氏同族の墓に分布されているものも多いので、その関係者が箱舘に渡り住んでいたことが考えられる。

 第1節の2 日持上人の来往

 蝦夷地に中世和人の足跡は少ない。このなかで熊石町には鎌倉時代に渡航した日蓮宗祖日蓮上人の六老僧の一人日持上人の聖跡が残されていて、この時代すでに和人の定着を示すものとして注視されている。
 日蓮上人には
 日 昭 浜門流
 日 朗 本門寺、京都弘通
 日 興 大石寺
 日 向 久遠寺
 日 頂 下総弘法寺
 日 持 国外弘通
と六老僧がいて、各々地域を分担して弘法布教のため活躍していた。
 弘安5(1282)年10月13日、日蓮示寂後、身延山に輪番制をとっていたが、永仁2(1294)年10月六老僧が集り正当十三回忌を終えた後、各々前記地域の日蓮宗布教拡大をする盟約をした。特に日持上人は日蓮が生前予言した仏法は西方から我が国に弘流したが、やがて東方から西域に流通するだろう、を実現するため国外での日蓮宗弘通を果すのが念願であった。


宗祖日蓮上人座像(松前法華寺蔵)

 永仁3(1295)年46歳の日持は、その開基となった駿河国庵郡松野村の永精寺(のちの静岡市蓮永寺)を弟子の日教に托し、1月1日異域布教に出発した。その後の日持の足跡は東北地方に多く、宮城県古川市前田町に日持上人遺跡があり、ここから小牛田―鳴子、十和田(三戸)、法峠を経て青森県黒石市上十川の法嶺院に題目石を残し、ここから笠松峠を経て青森に至り、同市本町1丁目に広布山蓮華寺の開基となる。さらに蝦夷地渡航のため上磯街道(後松前街道ともいう)を北上し、東津軽郡平館村石崎の蠣崎甚兵衛方に仮寓の上、永仁4年蝦夷地に渡航したといわれている。(『日持上人の研究』高橋智遍述、昭和50年4月8日刊行)
 これを承けるかたちで北海道には多くの日持の聖跡が残されている。
 文化14(1817)年安積信撰になる函館市字石崎所在の妙応寺(日蓮宗)経石塚碑文によれば、永仁3年駿河を発した日持は翌4年5月ウスケシ(函館の旧名)に渡り、箱館山の頂上にあった鶏冠形の巨石に題目を書し、ついで石崎にいたり庵を結び、留錫4年後海外に航したと書かれている。近世の硯学者新井白石は“白石先生遺文”のなかでは、「松前ヨリ開洋シ、北高麗ニ至リ、遂ニ一寺ヲ建ツ」とあり、また、市川十郎筆の“蝦夷実地検考録”では、「日持異域に死したるにあらず、是所終焉の地なるべし」と石崎で死逝したとしている如く諸説がある。また、道南地方には多くの日持巡錫の口碑伝説を残す所が多い。前述の函館市の鶏冠石、同市黒岩の題目石、椴法華(とどほつけ)(渡島法華)の伝説、上ノ国町小堀(小森)の法華堂、当町字人住内の七面山等である。これらの仏縁を基に函館市の実行寺、経石庵(後妙応寺)、さらに経石庵檀頭の志濃里館主小林氏との関係によって生じた松前法華寺、小堀法華堂の転進した江差法華寺、また、当町七面山聖跡から発展した光明寺等がある。しかし、これらの遺跡は日持の大陸渡航を裏付けするものではなく、その行動は謎に包まれたままでいた。


石崎妙応寺経石塔

 最近にいたって日持上人の研究が急激に進展し、日持の大陸での足跡発見によって、日持は蝦夷地から中国に渡航していることが確実となった。慶応義塾大学教授前嶋信次の論文「日持上人の大陸渡航について―宣化出土遺物を中心として―」(昭和46年2月16日・静岡市蓮永寺発行)がそれである。
 昭和11年1月中国北京で写真業を営んでいた岩田秀則氏が、東安市場で発見されたという鍍銀の盒(がん)(筒)を買取り所持していたが、終戦引揚の際苦心惨澹して日本に持ち帰り、昭和30年発表され、前島教授の論文となったものである。この盒は中国北西方の蒙古高地と華北平野との中間で張河江に近いところに在る宣化城内の西南角の塔児街の無住の古寺立化寺から発見されたことが分った。さらに盒の中から
 ○沙門日持沐決書 永仁乙末(三)年
 ○御聖師御遺影 永仁乙末年
 沙門日持沐写書合掌
 ○日蓮上人筆曼荼羅
 ○盒銘 爲祝八寿八紀老
 敬贈日持師
 大徳甲辰(八―一三〇四年=日本年号嘉元二年)二月十日
 鄭日昌敬上
の4点が発見され、明らかに日持が立化寺に居住していたことを示す史料となった。この発見によって日持上人の再評価の動きが次第に高まってきているが、その蝦夷地から大陸渡航の足掛りは全くつかまれていない。椴法華からの出航、あるいは松前からという説もあるが、蝦夷地でのその足跡は上ノ国、あるいは最北の熊石まで延びているので、最終的には熊石が日持上人の大陸出発の地と見ることが妥当と考えられる。
 この宣化文書については“日持上人研究”で高橋智遍は僞物説を取り、大いに学会をにぎわしているが、今後共この論争は続くが、中世の鎌倉時代の歴史に熊石町が深いかかわりを有していたということは、この時代すでに和人の定着を示す史料として注目されるところである。

 第2節 安東氏と蝦夷地

 蝦夷地は古代に於いては、津軽と共に出羽の国に所属していたが、鎌倉幕府創立後、津軽地方は陸奥国に編入したので、蝦夷地も陸奥国に属していた。
 中世期陸奥地方の北部に勢力を張っていたのは安東氏である。安東氏の出自は安倍貞任の子高星(たかあき)が、前9年の役(1051~62)の際に3歳で乳母に抱かれて津軽に逃れ、南津軽郡の藤崎に居城し、子孫代々が安東太郎を称した。この藤崎を中心とする安東氏は、鎌倉幕府の北條義時の代(1213~)に「蝦夷管領」に任ぜられ、津軽北西部の京役(公卿等の荘園)を北條幕府の命によって代理管理していた。一方、鎌倉幕府は得宗領(北條氏領地)拡大のため建保7(1219)年地頭代職として曽我時廣を派遣し、津軽平野の中枢部を押えたため、藤崎の安東氏は十三湖に転退をした。
 当時の十三湖は、十三湊(とさみなと)とも呼ばれ、湖も今の10倍余もあり、湖内も深かったので、蝦夷地から交易に来る夷船、また、この夷船がもたらす貨物を求めて集まる京船等で、非常な活況を呈し、「十三往来」にいう「西は滄海漫々として異船家船群集し艫先を並べ舳を調へ湊は市を成す」という状況であった。
 この地に居を占めた安東氏は、貞季の時の正和年間(1312~16)十三湖岸の台地上に巨大な新城を築き、福島城と称した。また、これら海運経済に支えられて、強大な兵力と海車力をもって発展し、北條幕府の回船式目のなかで、十三湊が全国七湊の一つに算えられる程の繁栄ぶりであった。安東氏は福島城の宗家を中心に東津軽の潮方安東氏、西津軽から秋田へかけての西関安東氏、南部地方の下国安東氏と発展し、奥州北部にその威をふるっている。
 元享(こう)2(1323)年から嘉暦3(1328)年にわたる6年間、安東氏の宗家安東季長と別家の西関安東秀久との間に、領界争いから戦となり、これを「安東の乱」と呼ぶが、幕府がようやく平定はしたが、この乱は安東氏の私闘ではあったが、これを平定するのに6年も要した北條幕府の非力は、その幕府倒壊のきざしといわれている。


安東氏居城の福島城跡(青森県北津軽郡市浦村)

 建武の中興によって、北畠顕家、南部師行が奥州を領有することになり、南部氏は元弘3(1332)年糠部(ぬかのぶ)地方(岩手県北部と青森県東南部)に下ったが、津軽地方には曽我氏、工藤氏、多田氏、安東氏らが割拠しており、建武元(1335)年曽我氏同族内で南・北朝勢力を背景にした乱が起きたのを機に津軽地域は50年余にわたって争乱に明け暮れ、幾多の名族が興亡をくり返した。そのなかには蝦夷地に逃れ、さらに兵力を回復して再起した兵家もあったことが推定される。
 南部氏は津軽平野進出を企図して北上し、蝦夷管領家の安東氏と婚略を考え、十三湊福島城主の安東盛季に南部守行の娘を配し、謀略をもってこれを占拠した。盛季は相内村(北津軽郡市浦村)の唐川城、さらに小泊村の柴崎城を経て、嘉吉3(1443)年12月に蝦夷地に逃げ渡った。この嘉吉3年渡航説は「新羅之記録」によるものであるが、「満済准后日記」(京都醍醐寺座主満済の日記)のなかの永享4(1632)年の項に「下国氏弓矢に取負け、えぞが島へ没落」という記事があり、安東盛季の蝦夷地遁入は、「新羅之記録」のそれよりも11年早かったものである。この盛季の蝦夷地での居城した場所は松前であるとする説があるが、定かではない。


安東氏居城福島城説明板(青森県北津軽郡市浦村)

 その後、盛季は津軽の失地回復のため戦かったが死亡し、その子康季、孫義季共に戦没して安東宗家は断絶し、津軽地方は南部氏の勢力範囲のなかに入った。安東氏は鯵ケ沢から深浦方面にかけて勢力を張っていた西関安東氏が秋田地方に進出し、秋田を本拠とした湊安東氏と、能代を中心とした桧山安東氏があり、蝦夷地は桧山安東氏の統轄下に入っていた。
 「新羅之記録」(正保3=1646年作、原本奥尻町松前幸吉所蔵)によれば、下北半島の田名部付近にあった盛季の弟道季の子孫潮潟安東氏の下国政季が、南部氏を逃れ宝徳3(1454)年8月大畑より渡航し、茂辺地(上磯町)に居舘したが、湊安東氏の計らいにより、安東氏宗家の名跡を受け、2年後の康正2(1456)年秋田にいたり桧山安東氏を唱え、能代にあって蝦夷地をも統轄し、松前大舘、茂辺地舘にはそれぞれ同族を配置していた。
 政季が蝦夷地に渡航する際同道した者に武田若狭守信廣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉政通の3人があり、武田氏は上ノ国花沢舘主蠣崎氏に、相原氏は松前大舘主下国氏の副将に、河野氏は箱舘(現在の函館)主となって、それぞれ後の蝦夷他の歴史に関係した。

 第3節 諸舘主の誕生とコシャマインの乱

 室町中期の時代、奥州北部の戦乱は50年余に亘って継続し、安東氏、北畠氏、曽我氏、工藤氏等の名門が敗戦没落し、その落武者が蝦夷地へ逃れたり、また、戦乱を避けて蝦夷地に移り住む者も多かったと考えられる。
 蝦夷という先住民(現在のアイヌ系の人達につながると思われる)の住んでいた平和で、温和な気候と、豊かな山海の産物の多い道南地方は、生活のしやすい所であった。この島に入った和人は多くの先住者たちに囲まれ、気兼ねをしながら過していたが、和人の定着者が増加してくると、文化的、経済的優位をもって迫るようになり、また、和人の多く住む場所にはその村落を防衛するための舘が築設され、蝦夷との対抗防禦の場となった。この道南地方に点在した和人の舘は、1300年代の後半から1400年代の前半にかけ、一斉に築設されたものと考えられている。
 康正2(1456)年春、志濃里(函舘市志苔)の鍛冶屋村で、蝦夷が頼んだ小刀(まきり)の価格や利鈍のことで口論となったことに端を発し、和人と蝦夷との騒乱が起き上った。蝦夷は日頃横暴な和人をこの際、蝦夷地から追い落そうとして、各地に戦乱の火の手が上った。


新羅之記録上巻(奥尻町松前幸吉氏所蔵)

 翌長禄元(1457)年には東部の族長コシャマインを盟主として蝦夷が大同団結して、道南に点在する各舘を急襲した。「新羅之記録」によれば、この乱の際に、道南地方には次の12の舘があり、その舘主、所在地は次のとおりである。

舘 名 所 在 地       主   名
志濃里舘 函館市志苔 小林太郎左衛門尉 良景
箱  舘 函館市函館山々麓 河野加賀右衛門尉 政通
茂 別 舘 上磯町茂辺地 下国安東八郎式部大輔 家政
中 野 舘 木古内町字中野 佐藤三郎左衛門尉 季則
脇 本 舘 知内町字涌元 南條治郎少輔 季継
穏 内 舘 福島町字吉岡 蒋土甲斐守 季直
覃 部 館 松前町字東山 今泉刊部少輔 季友
大  館 松前町字神明 下国山城守 定季
相原周防守 政胤
祢保田舘 松前町字舘浜 近藤四郎右衛門尉 季常
原 口 舘 松前町字原口 岡部六郎左衛門尉 季澄
比 石 舘 上ノ国町字石崎 厚谷左近将監 重政
花 沢 舘 上ノ国町字勝山 蛎崎修理太夫 季繁

 この戦いではコシャマイン軍の勢いが強く、道南の舘は志濃里舘を初戦に次々と陥され、12舘中茂別、花沢の2舘を残し、10の舘は陥されてしまい、和人は海を越えて東北地方に押戻されそうになった。この時、花沢舘主蠣崎季繁のところに仮寓中の武田信廣が、わずかの手兵を率いコシャマイン族長父子と七重浜付近(上磯町)で会戦し、強弓をもって倒したことによって、この乱は平らぎ、和人の蝦夷地定着の基盤をつくった。
 信廣はその功により、舘主蠣崎季繁から来国俊の太刀が贈られ、茂別舘主下国家政も中野路を越えて来会し、菊一紋字の刀を贈り祝った。さらに信廣は蠣崎氏の娘と婚して婿となり、天の川北に洲崎舘を構え(上ノ国町宇北村)一舘主となり、やがて蠣崎氏、松前氏が発展するもとを造った。
 ここで、この時代道南に所在した諸舘主の出自について見ると、大舘主の下国定季は秋田安東氏の同族で、蝦夷地各舘主を統轄する、地頭代的な立場にあり、また、相原氏は下国政季と共に蝦夷地に渡航し大館の副將的地位にあった。茂別舘主下国家政は潮瀉安東氏の末裔といわれ、花沢舘の蠣崎氏は下北半島南部の蠣崎(現在の下北郡川内町)の豪族という。相原氏は甲斐国都留郡、蒋土氏は羽州の出身、今泉氏等は津軽北部に同じ地名のところがあるので、その出生地を冠したものではないかと考えられる。また、小林氏は南部の出身といい、河野氏は北陸海運にかかわりを持った加賀国江沼郡の出身で、南条氏は同じ加賀国の南条郡の出身というように、多くは関連のある出身者が多い。これら舘主12名中8名は安東氏歴代の用いた季の字を使用していることから、何らかのかたちで秋田の桧山安東氏とかかわりを持っていたものと考えられる。


松前家初祖武田信廣像(横浜市松前之広氏蔵)


武田信廣が蠣崎季繁から拝領の来国俊太刀(松前町・松前神社所蔵)

 蠣崎氏の女婿となった武田若狭守信廣については、清和源氏若狭武田の嫡流として名高い武田陸奥守信賢の子として、小浜後瀬(のちせ)山城に生まれ、家督問題から出奔し、関東足利を頼り、流浪して、安東政季に同心して蝦夷地に渡り、このコシャマインの乱を平定したことによって、蠣崎氏を冒し、洲崎舘主となって後に花沢舘主になり、さらに勝山舘を築くなど、蝦夷地南部の代表豪族に出身し、やがて子孫は蝦夷地の領主に繁栄する基礎を築き、明応3(1494)年、64歳で没した。夷王山(当時は医王山)はその墳墓地であるといわれている。

 第4節 道南和人の北上と先住者

 「新羅之記録」によれば、コシャマインの乱当時、蝦夷地に定着した和人の行動範囲は、日高の鵡川付近を東の限界とし、西は余市付近まで活動していたといわれるが、これはこの地方にまで和人が定着したものではなく、季節的に交易船を仕立て、行動していたものと考えられる。
 この室町時代、道南地方に居住した和人は、対岸の津軽、南部地方との交易、さらには蝦夷人との交易によって生活を支えて来たが、和人部落守護の中心である舘も、和人守護の拠点であるばかりでなく、舘の多くが大河の河口を扼(やく)す場所に置かれていたことは、当時蝦夷地の主産物であった鮭を採捕するための権益確保のためにも重要な役割を持っていた。
 漁網の発達していないこの時代では、この蝦夷地第一の主産物である鮭採捕は、秋の時季川に遡上する鮭を、タモ(小形のざる網)あるいはマレック(反転する鈷)で捕え、これを丸干にして出産したものを干魚(からさけ)といい、蝦夷人が丸干をする際、乾燥を早めるため皮に×傷を付けて干したものをアタツと呼んだが、この豊凶は現地住民の生活に直接影響があり、和人の館が河口の台上に築かれたのも、その権益確保という経済基盤の上に立っていたものである。例えば上ノ国天の河の場合は東岸に花沢、勝山の二舘があり、この舘を足場として和人が経済活動をし、西岸は蝦夷人の漁場として併立していたと思われる。
 コシャマインの乱後、その功を賞された武田信廣が、蠣崎氏の女婿となり、天の河の西の従来蝦夷人漁場であった地域に、洲崎舘を築いて、その主要漁場を拡大して行ったことは、和人勢力の北上につながるものと見ることができる。
 「小山家系譜」によると、小山隆政は上ノ国花見岱に舘を構えていたが、後にこの地方に入ってきた蠣崎氏との抗争に破れ、ここから北方の江差町尾山に逃れ土豪と化しかと記されており、蠣崎氏が永正10(1514)年松前大舘移城後は、上ノ国の守護は勝山舘を和喜之舘と改称して同族を配置していたが、和人の北上と共に、その最先端の和人の防衛拠点も次第に北上し、天文年間(1532~54)には江差町西部の泊に舘を構え、松前家三世義廣は、その弟高廣の子基廣を舘主にとしていることからも、上ノ国地方から和人が厚沢部川付近にまで進出していたことを示し、この地域は蝦夷人と和人の混住地となっていたものと思われる。

 第5節 瀬棚・雲石の乱

 長禄元(1457)年のコシャマインの乱後、蝦夷地和人地域の第一の実力者となった蠣崎(武田)信廣は、明応3(1495)年上ノ国で64歳で没し、医王山(後の夷王山)に葬った。その子光廣、孫義廣ともに知略に勝れ、武勇に秀で年と共に蠣崎氏の蝦夷地での地歩を固めた。道南12舘を管領し秋田安東氏の代官として押える松前大舘々主下国山城守恒季は行跡荒く、批判が多かったので安東氏は明応5年討手を差し向けて、これを討ち、大舘は相原彦三郎季胤を守護職、村上三河守政儀を副として守らせた。その後、永正9(1512)年から10年にかけて、蝦夷の大攻勢があり、9年には宇須岸(箱舘)、志濃里、與倉前(志濃里の支舘)等が落城し、舘主は皆白刃し、さらに10年には大舘が攻略され、守護の相原、村上氏も自刃した。大舘の蝦夷攻略は蠣崎氏の謀略によるともいわれている。
 蝦夷地中心舘の大舘の落城により蠣崎光廣、義廣の父子は、同12年小舟180艘に分乗して松前に移り、大舘を徳山舘と改め居城した。そして安東氏に対して移城の理由を使者をもって開陳したが、なかなか許可されず、ようやく蝦夷地の守護という安東氏の代官となり、諸館主を掌握する立場についた。
 同12年には蝦夷の族長シヨヤ、コウジ兄弟が蜂起したが、光廣は和解と称してこれらの人達を徳山舘に招き、酒興の間に謀殺するなどの不信の行為があり、蝦夷との間にしばしば交戦が続いた。
 享禄2(1529)年西部の族長多那嶮(タナケン)が乱を起し、攻め下って来たので、松前家第三世蠣崎義廣は家臣工藤九郎左衛門祐兼にこれを討せ、祐兼は西部瀬田内まで多那嶮を追ったが、ここで討死し、弟八郎左衛門祐致(とき)は敗兵をまとめて熊石まで逃れて来たが、多那嶮軍の追討が激しく、逃げ場を失い雲石の海岸に来たところ、一天俄かにかき曇り、雷鳴がとどろき、黒雲が湧き出し祐致らはこの中に隠れ、追ってきた多那嶮軍は、その奇怪さに驚いて退散したので、祐致らは上ノ国に帰着した。


奇岩雲石

 上ノ国和喜舘(現勝山舘跡と考えられる)で多那嶮軍を迎え撃つ義廣は、舘前に和睦の印として償の品々を並べ、攻撃軍がこれを手に取って喜んでいるところを、舘内の矢倉から強弓を以って射殺し、これを平定した。
 この多那嶮族長の居城は、北桧山町と瀬棚町の境界地点で、利別川に面した川尻付近の台地がその場所と考えられ、また、この台地から利別川を挟んだ向側に兜野という牧野があり、この一帯から兜や刀剣が発見されることから、この地域一帯が工藤祐兼の戦死の地であろうと推定される。また、多那嶮の居城跡と考えられる瀬多内チャシは、昭和40年から3年間、さらに昭和52年から二か年間発掘調査が行われた結果、このチャシは古代から近世初頭にかけて繁栄した住居地とチャシ(砦)であり、特に中世末から近世初頭にかけて、この地方の中心地として発展した場所であることが明確となってきている。
 また、工藤祐致(すけとき)が危難を逃れた雲石海岸の雲石は、松前家の崇敬厚く、雲石の故事として永く伝えられ、岩上に鳴神神社を祭祀しているが、熊石町の地名もこの雲石から発祥したという説もある。


夷王山墳墓群及び勝山館(桧山郡上ノ国町)

 第6節 蠣崎氏の擡頭と蝦夷地

 永正11(1514)年松前氏の二祖に当る蠣崎光廣は、その子義廣と共に蝦夷和人他の中心舘の大舘に移り、舘名を徳山と改めて防禦を固めた。さらに領主秋田安東氏に対し強引なまでの交渉をし、道南12舘を統轄する代官としての地位を獲得した。そして同12年の庶野(シヨヤ)・訇峙(コウジ)の乱や享禄2(1529)年の多那瞼(タナケン)の乱(雲石の変の乱)等謀略によって蝦夷を駆逐し、さらには同5年には多那嶮の聟多離困那(タリコナ)と和睦を結ぶと見せかけて惨殺するなど、二祖光廣、三祖義廣にわたり、蝦夷の信義の厚いのを逆に利用しての背任謀略をもってこれを平定し、次第にその勢力を拡大した。
 光廣が松前移城後の和喜舘(現在の勝山舘跡と考えられる)には同族を配置して、旧領の確保に努めていた。さらに永正9年の蝦夷乱で舘を陥された志濃里舘主小林氏、中野舘主佐藤氏、脇本舘主南条氏、穏内舘主蔣土氏、覃部(およべ)舘主今泉氏、祢保田(ねぼた)舘主近藤氏、比石舘主厚谷氏等は後に蠣崎氏に臣従して舘は廃絶し、箱舘々主河野氏は断絶し、各舘主中では秋田安東氏の支族茂別舘主の下国安東氏のみとなった。「下国家系譜」によれば下国家政没後その子師季が家を継いだが、蝦夷に攻められ、髪を切って清観と号し松前に隠退し、その子重季が蠣崎氏と折合わず、西部瀬田内に退去してここで没し、子孫はまったく蠣崎氏に臣従するようになり、道南蝦夷地は事実上、徳山に居城する蠣崎氏の勢力範囲に置かれることになった。
 さらに蠣崎氏は蝦夷地以外の領主と積極的交流外交を進めた。先ず天文12(1543)年には初祖武田信廣の出生家である岩狭小浜後瀬(のちせ)山城主で、若狭守護職である武田信豊に、三世義廣は志濃里舘主の末裔小林良道をつかわして音物を通じ、さらに同17年には家臣富田廣定を信豊に伺候させ、以後毎年音信を交していたが、宗家若狭武田家は、武田大膳大夫義統(つね)の子孫八郎元明は、織田の武将羽柴秀吉によって天正10(1582)年7月17日自害を命ぜられ、31歳で没し、若狭武田家が断絶したので、この交信は終った。この音信は蠣崎氏の家系の正当性の裏付とし、これを一つの踏台として飛躍しようとする考えであった。
 秋田桧山(現能代市)の蝦夷地の領主安東氏に対し、蠣崎氏は蝦夷地で取り立てる税役の一部を桧山に送り、主家に対する礼を失しないように努め、桧山安東舜(きよ)季も天文19(1550)年蝦夷地に渡り視察をしたが、この行を「東公の嶋渡(しまわた)り」と称したという。蠣崎氏は年に一度桧山に伺候し、臣従の礼を尽し、さらに四世季廣の第六女は舜季の第三子茂季と婚し、茂季は秋田湊安東氏の養嗣子となるなど、その関係を強めた。さらに季廣は長女を旧脇本舘主南條氏の直末廣継に配して上ノ国和喜舘主にし、二女を茂別舘主末下国師季に嫁し、五女を上ノ国比石舘主末厚谷季貞、七女を大舘副守将村上家末の村上忠儀、十一女を木古内中野舘主末の佐藤季連に配するなど道南12舘主の末裔と婚を通じて同族化し、蝦夷地第一の実力者にのし上り、実質的にはその統轄者となった。また、桧山安東氏のほかの実力者とも縁を持ち、三女は北津軽の豪族喜庭季信、七女を秋田の豪族神浦季綱に配することによって奥州北部にもその名を知られるようになった。
 季廣の蝦夷地での実力が拡張されてくると、先住蝦夷人と事を構えることの不利を悟り、これらの人たちと和解する方策をとるようになったが、これが「夷役」の制度である。
 季廣は先ず天文20(1551)年東・西夷長を集めて多くの宝物を与えて歓心をかい、蝦夷人もこれを受けたことによって両者の和解は成立した。また、季廣は西部瀬田内の波志多犬(ハシタイン)を上ノ国天の河に移して西部の族長とし、知内の知蔣多犬(チコモタイン)を東部の族長とし、諸国から蝦夷地に入ってくる商船の納める税役の一部を両族長に与え、さらにこれら交易船が両族長の居住する地の沖を通過する際は、帆を下して敬意を表する等の制度を定めたことによって、両者の間に平和が保たれるようになり、蠣崎氏がやがて松前氏として発展する基礎を築いた。

 第7節 中世の産業・産物

 鎌倉時代から室町時代の中世に住民の生活基盤としての産業にどのようなものがあったかについては、現在のアイヌ系の人達の先祖と考えられる原住民については、すでに第2章で述べた如く、狩猟と採取生活であったが、この時代に北上定着した和人達は、この狩猟採取生活から一歩脱却して貯蔵、加工して交易によって他物品との物々交換をするという経済交流に変化しつつあった時代と見ることができる。
 “十三往来”(北津軽郡市浦村資料編)によれば、「西は沿海漫々として異船群集し艫先を並べ舳を調ひ湊市をなし」とあり、また“十三新城記”では「商船歌を発し舷を控へ……商活市を成し売買先を争ふ。又是此居城之大観なり。」としている。この二書はいずれも室町時代に書かれたものであるが、蝦夷管領である北津軽の領主安東氏の城下で十三湖岸に発展した福島城付近には、北上する京船と道南地方から交易に南下する和人の船や蝦夷の船を総称した夷船が、この十三湖に集まり、物々交換を主体とした商売が盛んに行われ、その和人と夷人の交易接点の場として、十三湖がいんしんを極めていたことを物語っている。
 この時代の蝦夷地の生産物には“庭訓往来”(元弘4―1334)によれば、全国生産物のうち、蝦夷地を代表するものとして宇賀昆布と干鮭の名が載せられている。昆布は往時から特産品として有名で、特に宇賀及び志苔付近の函館市東部の広幅の長尺物が良質で有名であった。中世来には昆布の採れない小浜(福井県)が昆布を塩昆布等に加工して、若狭昆布として関西市場に流していたことは、これら蝦夷地生産の昆布が大量に移入されていたものと想像され、その生産地の中心である志苔の志濃里舘下の国道拡幅工事中、昭和43年7月、35万枚もの渡来古銭が発見された。これは我が国埋蔵古銭としては最大の発見量であり、この蓄財銭も若越地方との昆布流通によって得たものと考えられている。
 中世の時代、道南地方は勿論、東北地方の諸川でも秋季多く鮭が遡上した。漁網の発達しないこの時代には遡上する鮭を捕えることが簡単に採捕できる方法であった。従って住民は川にウライ(梁)を巡らすか、小規模の網を張って鮭を捕えたり、マレックという反転する鈎を使って魚を傷付けずに収穫する方法が取られていた。陸揚げされた鮭は内臓を除去してほとんどは陰干又は陽干をして製品となった。この時代は塩は極めて高価で海産物の加工には利用できないので専ら干製品にしていたものである。アイヌ人は近世になってもよく捕えた鮭の内臓を除去し、その干燥を助けるため皮に×状の傷を付けて製品としたものをアタツと称して交易品の代表としていた事は、中世加工の遺風とも考えられるし、和人は鮭のことを干魚と書いてカラサケと読んでいることからも、蝦夷地中世の漁業生産物の代表としては鮭であったことを物語っている。


アイヌ人の狩猟生活・平沢屏山屏風より(松前町・松本ヤス氏所蔵)

 この時代、鰊(ニシン)も多く回遊していたと思われるが、あまり製品化され交易品となった記録はない。これは漁網もなく大量の鰊を獲ることが出来ず、また、これを獲っても加工、貯蔵の方法が分からず、加工をする人も少なかったので、専ら自家加工をして食料として貯蔵し、僅かに丸干や楚割、身欠鰊、数の子等が交易に用いられていたと思われる。
 また、獣皮は蝦夷地の特産物で、戦国武将の乗馬の場合、足を保護する障泥(アオリ)はラッコ、オットセイ等の毛皮を利用しており、その特産地は蝦夷地であったし、熊や鹿の皮等も多く生産されていたので、古くから朝貢や献上品にこの毛皮が利用され、交易品としても重要なものであった。蝦夷地には鷹や鷲が多く生息していて、鷲羽は弓の矢の方向を定めるため必要で、その生息地は蝦夷地であったので、この真羽の献上等の記録も見られる。
 中世末期の数少ない史料のなかから当時の海産物の流通状況を見ると、永正7(1510)年公卿の三条西実隆が京都曇花院より蝦夷地とみられる昆布が贈られ「長さ三丈余りなり、目を驚かすものなり」(“実隆公記”)とあって、すでにこの期に蝦夷産昆布の京坂地方での流通されていたことを示すものとして注目されている。さらに近衛尚通の日記“後法成寺尚通公記”の永正16年4月7日の条に、「本満寺僧エソヘ渡、昆布一束五〇、夷筵一枚進上」とあって、この時代昆布は貴重品で、公貴問ではこの蝦夷の昆布が贈答品として利用されていたことが分る。さらに“狂言記”に若狭小浜の昆布商が毎年京都に行商し、また、小浜には松前屋という昆布屋があって、この昆布が将軍足利義政に賞味されていた(新城常三の論文「中世の北海道について」)。これらの慣例が江戸初期以降の昆布需要に結びついてくるものと、考えられている。
 また、鉱産物には砂金があったと思われる。知内町大野家所蔵の“大野土佐日記”によれば、荒木大学なるものが元久2(1205)年多くの掘り子を連れて来て知内川流域で砂金の採取を行ったと記録している。この記録は俄かに信じ難いが、“福山秘府”に於ては「応永年中(1394~1427)銀匠の徒、足利の不治を避けて此国に来る者多し」としていて、京都の争乱を避けた後藤一族が越前、加賀に移り、さらにその一派が蝦夷地に入って、道南で交易用の刀装具を作ったといわれ、この蝦夷後藤の作品と思われるものが瀬棚町で発見されており、当町内から発見される可能性もある。