第5章 幕末の熊石

 第1節 幕末の動きと熊石

 嘉永~安政期(1848~59)に入ると徳川幕府の終末期に入り、国内的には尊王、攘夷(外国船を打はらえ)論の抬頭、また、倒幕思想の排出等の不隠な行為が多くなり、対外的には外国船の国内への渡航の増加による不安。さらには庶民の封建領主への反発等多くの国内の政情不安が生み出されてきた。
 このような政情のなかで松前藩は第16世藩主昌廣が病のため嘉永2(1829)年退隠し、第17世藩主には昌廣の叔父で第14世藩主章廣の五男崇廣が幕府の選考によって、21歳の若さで藩主となった。崇廣は長い間藩より捨扶持を貰って江戸藩邸長屋に住い、自炊をしながら勉学し、すこぶる下情に通じ、特に外国文化の吸収に努めていたので、藩主に就任すると、家臣を増加して海防に努めたり、大いに藩政を改革するところがあった。
 崇廣が藩主となった嘉永2年6月幕府は崇廣に厳命があり、「松前地方屢(しば)々辺警あり、要害にあるを要するので、特旨をもって築城を命ずる」旨の沙汰があった。従来の松前氏の居館は、私的には城と称していたが、公的には「福山館」であって館持大名であった。それが突如城主大名に格上げされ、築城を許されるということは全くの寝耳に水で、藩を上げて狂喜した。藩主崇廣すら喜びを隠しきれず、国元の松前に三駄早の手紙を送り、
       東にてつき立てそめし白餅(城持)を堅く備えん ふる里の神
と、その胸中を報じている。
 しかし、この築城にも多くの問題があった。火砲に対応するためどのような城を築くかであったが、その築城に当っての設計(縄張り)は当代随一の兵学者である市川一学に依頼することになり、その抱領主である高崎藩主松平右京亮の了承を得た。翌嘉永3年一学は74歳の高齢を押し、その子十郎を補佐として松前に渡った。一学は松前藩の城地として適当な地はどこか、領内を巡回調査をした結果、箱館在の大川(函館市桔梗町)の庄司山付近が適地であると藩主に献策した。これに対し家臣側は全く新しく城地を築造することは財政上不可能であり、松前という蝦夷地第一の城下街を捨てる訳には行かぬと反論し、最終的には幕府の裁定を仰いで松前を城地と決定した。
 築城の縄張り、工事は同3年より安政元(1854)年まで5年間に亘って続けられたが、領民も各村に勤労奉仕を割当られて築城に参加した。また、築城資金は沖ノ口口銭の一分増や、家臣俸禄の一割献金、有力町人の献金等によって賄われ、安政元年10月北方の一大偉観である松前城は完成した。今も町内旧家に残されている叶(かない)印の入った朱色の硯蓋は、献金者に対する藩主よりの落成記念品であった。

松前家第17世藩主松前崇廣(東京都松前鼎一氏所蔵)

 松前城の完成した安政元年、蝦夷地と松前藩にとって全く予期しない事件が起きた。それはアメリカ極東艦隊長官ペリーの来航と、その後の措置であった。
 安政元年神奈川条約によって下田と箱館が開港されることになり、箱館の開港場としての性能を調査するため、ペリー艦隊が箱館に来航することになった。松前藩は家老松前勘解由崇效、用人遠藤又右衛門喜典以下を応接使に任じ、番頭佐藤大庫以下の一隊を派遣して警備に当ることになった。その際の市民への触書を見ると、異国船、異国人を見物をしてはならない。また「所々徘徊いたし、猥りに人家へ立人り、食物等を求め、或は婦女に目を掛け、小児を愛し、寺院抔に長座いたし候……」ので婦女子は大野、市の渡付近に退避し、商売も穏密にし、酒は一切店頭においてはならないという、さながら終戦直後の米軍進駐以上の大騒ぎであった。ペリーの艦隊は4月15日に3艘、31日2艘が来航、司令官のペリーは松前勘解由らの松前藩応接使と話し合ったが、勘解由らは幕府からの連絡がないのでの一点張りでコンニャク問答を繰返し、ペリーは甚だ不気嫌だったというが、しかし、箱館の良港であるのに満足し、5月8日退帆した。
 この神奈川条約により箱館は翌2年3月から開港することが決定した。そこで幕府は現地外交処理決定機関として箱館奉行を設け、また、この奉行の配置によって蝦夷地の警備、開拓をも積極的に進めるため、従来松前藩の領知であった蝦夷島、樺太とその属島を公収することになった。安政2年2月23日幕府は松前藩に布達して、東部木古内以西、西部乙部村以北の東西蝦夷地の島々まで上知し、その管轄を箱館奉行に任ぜた。同年12月幕府は松前藩の領地を知内村から乙部村までとし、公収領知の代替地として梁川(福島県梁川町)と出羽国村山郡東根に三万石を支給され、さらに預り地として出羽国村山郡尾花沢一万三百五十石の管理を命ぜられ、特段手当として年々一万八千両が支給されることになった。従来、一万石家斑の松前氏は三万石家斑に昇格したが、蝦夷地においてはなお松前、江差の二都市を領していたので、優に七、八万石の内実を持つ藩であった。
 箱館の奉行の設置と、松前藩の領地の変更により熊石付近の統轄行政に大きな変化を見ることになった。安政2年いわゆる西在八か村(乙部村より熊石村)は箱館奉行の直轄下に組み入れられることが決定し、その地域支配者として調役下役山田織之丞が任命され、同心組折江善之丈外と共に熊石村に赴任、熊石番所を庁舎として、西在八か村の管理と、番所、沖ノロの監視が行われた。
 この安政2年には熊石村などが中心となる漁民騒動がもち上った。西在を主体とする漁民一揆は寛政2(1790)年にも起きたことがある。この原因は天明2、3(1982~3)年から鯡が不漁となり、その原因は、小前の漁師は定法通り刺網で鯡漁をしているのに対し、場所請負人達はその場所で大型の漁網を使って大量の鯡を取るため、資源が枯渇したとする石崎村から熊石村までの漁民約2000人が、大網の禁止と、租税の免除嘆願の目的で集まり、松前城下に向って行進した。藩も大いに驚いて江良町、清部(共に現松前町)に重臣を派遣して説得した結果、この一揆は四散終了を見た。

松前家17世藩主崇廣書(門昌庵蔵)

 本来大網の使用の許されない鯡漁業について、西海岸各地の場所請負人達は、利益追求のためなかば公然と大網を使用し、天保年間に至っては、これが当り前のことのように普及した。しかし、道南西海岸は年々薄漁となり、小前の漁師は塗炭の苦しみに追い込まれて来た。この原因は大網の使用と笊網(起網)の使用によって魚を根こそぎ獲る結果だと判断した。安政2年4月凶漁にあえぐ熊石から乙部まで西在八か村の漁民500人が、数10艘の船に分乗して、瀬棚から西蝦夷地沿岸漁場の大網を切断しながら北上、古平まで達したところ、石狩在駐の松前藩家臣が来て説諭したので、一行は退散帰郷した。この網切り騒動といわれる漁民一揆について、箱館奉行、松前藩は何らの処分をしなかった。それは漁民の網切り騒動の責任追求をした場合、法令を無視して大綱を使用している場所請負人も罪を受けることになるので、その損害の賠償も出来なかったのである。しかし、大網の使用を全く禁止した場合、せっかく西蝦夷地の各場所がこの網の使用によって、毎年3万人前後の漁業出稼者があって、ようやく開発の緒についたばかりで、この廃止は出稼小漁民の死活問題にもなるので、箱館奉行はその解決策として、鯡漁の不漁は大網の使用によるものではないと考え、安政3年大網の使用を正式に許可し、この問題は解決した。


 第2節 幕政下の熊石

 安政2(1855)年箱館奉行が設置されると幕府は松前藩から蝦夷地を公収し、松前藩の領地は、東は知内村から西は五厘沢まで約100キロメートル間とし、他に奥州梁川(福島県伊達郡)と出羽東根(山形県村山郡)に三万石を与えて三万石家班とし、また出羽尾花沢一万三千石を預り地としたほか、毎年一万八千両を給することとなった。他の蝦夷地は東北六藩の出兵を求めて警備と開拓を進めることになったが、のち同6年9月には、各藩警衛地をその藩に給与し、その藩が領地とすることが決定した。しかし、乙部から熊石までは和人の定往者が多く、熊石には番所もある重要地域であるので、西在八か村については、津軽藩の領地から除いて箱館奉行の直轄地として、熊石番所には幕府の役人を派遣して、西在八か村の管理はこの熊石番所が当り、さらに、出入人の検査、税役の徴収をも行うことが決定され、万一の場合の警備は津軽藩が当ることになった。
 この安政2年には箱館奉行調役下役山田織之丞が熊石番所支配を命ぜられて、同心組勘定役折江善之丈、同小沢敬次と手代数人が共に着任し、その任務についた。しかし、この年には西在八か村の漁民を主体とした西海岸網切り騒動をはじめ、西在八か村が藩政創業当初から松前家の和人支配地で、永くこの治政になじんできたものを、公収という形で箱館奉行直轄地とされたことに対しての復領運動が展開され、西在八か村は一時不随な状況となったが、山田は、これらのことは公収の段階で起き上ったことであるとして不問の立場を取っていた。
 山田織之丞が熊石番所在勤中に全力を傾けて努力した事業に太櫓山道の開鑿(かいさく)がある。箱館奉行は蝦夷他の開発と警衛のために最初に手掛けたことは、蝦夷地内への開拓のため和人定住を勧奨することと、道路整備であった。そのため安政3年には各場所請負人に、その地域の道路の造成を要請した。熊石から久遠、さらには瀬棚までは十分な刈分路もなく、多くは海路を利用することが多かったので、特に緊急を要するものであった。
 その事を知った江差の豪商鈴鹿甚右衛門は、津軽藩領地となった地域の開拓のため太田に入植した北津軽下前村(北津軽郡小泊村)出身の長坂庄兵衛と議し、熊石村から寿都村にいたる山道の私費間鑿を請願した。同年11月箱館奉行堀織部正より次の沙汰があった。
 松前伊豆守領分 江差甚右衛門
 津軽越中領分 下前 庄兵衛
 其方共儀西地熊石村地先、セキナイよりフトロまでの山中凡十二里、自分入用を以て、新道の切開相願、出来の上は先にスッツまでも切開相願段、奇特の事に候。
右場所は海上通路のみにて、陸路無之往来の諸人難儀に及ぶ所、此度願ふ所の道筋出来候上は、往来の便利のみならず、永久の利用莫大なるべし。此上は御開業の御旨意厚く相守り、弥々心力を尽すべし。成功の期を相待つもの也。
 (“北海道史人名字彙・上”原漢文)
とその着業を許可した。しかし、甚右衛門は事業着手を前に死没し、嗣子甚右衛門を襲名、事業の資金面を担当し、庄兵衛は土木技術と人夫手配をすることとし、郷里津軽下前から多くの人夫を集め来って、安政4年3月関内村から久遠を経て、太櫓場所字ラルイシに至る凡そ十二里の山道開鑿に着手した。その監督に当ったのが、熊石番所出役の山田織之丞である。

西地新道切開き絵図(大成町長坂家所蔵)

 この道路工事中を経過した越後村上藩士森一馬は、同年5月24日の“罕有(かんいう)日記”の記事のなかで、関内から貝取澗までの道路状況を

 是より山路営造(フシン)の地なり、坂を上り山路十町許り濱に出、奇岩多く子プスイ地立岩ニツあり。又坂道壱里余りて磯辺に下リカイトリヤ(マ)なり、此地まで連山の腰擘(ツンサ)き抜て新道を作るなれば昇降限りもなく、渓流歩行渡りもしばしばなり。素より欝樹(うつじゆ)茂林多く、時々藤蔓に笠を引かれ、或は垂枝に袖を止めらる、新造なれば途上もいまだ堅実ならず、泥土の深きは四蹄共に埋りて殆と危ふかりし行路難なり。年を経て良き街道ともなるべしにふ(ママ)をし、此造興なくんば熊石に滞留は必定なり。流石(さすが)公領は公領地也。此新開江差町仁右(甚)衛門請負にて造る

とあって、完成された道路の状況を実によく描写している。この森一馬が熊石に雨のため滞留中、山田織之丞は山道現場より昨夜帰着したと記しているので、山田のこの工事に対する意欲の程を知ることができる。
 同年9月太櫓までの工事が完成し、引続いて甚右衛門、庄兵衛によってスッキから島小牧場所まで延長五里(20キロメートル)の狩場山を迂廻する狩場山道のエ事に当り、同5年完成を見た。さらに両名は5年3月から9月にかけて鶉山道(中山峠)の工事も行い、この三道の工事に要した費用は四千七百五十五両に達したといわれている。この工事の努力が報いられ、鈴鹿甚右衛門は幕府から永代苗字を許され、また、松前藩からは士分御先手組席百五十石高を給わり、大正4年には従五位に追贈されている。長坂庄兵衛も苗字を許され、箱館で人夫口入稼業を許され、五稜郭築城の土木作業に従事等の働きがあった。現在、大成町太田居住の末裔長坂恒利氏宅には“太櫓山道間鑿絵巻”が保存されていて、工事の状況を克明に描写している極めて貴重な史料である。
 この時代の熊石番所の用務は、松前藩政時代の出入人の検査と税役収納のほかに、乙部から熊石まで西在八か村の行政、宗教、司法も管理していたようで、乙部村西念寺の“御用寺要留”(文久4=元治元)によれば公宗用の届出も総て熊石番所に届出ていて、
 熊石村御番所江届之事
 以書付御届ヶ奉申上候
 九州筑後之国
 正覚院弟子
 子三十四歳 察榮
 右は今般乙部村西念寺無住ニ付本寺松前福山正行寺ヨリ住職申附り候間、此段御届ヶ奉申上候。以上。
 西念寺 印
 世話方山三郎壱人
 附添之
 御番所
とある如く、その行政の範囲は松前藩政時代のそれに比し広範なものであった。さらに熊石番所は収納事務を熊石村名主に任せていたようで、“佐野家文書”(北大北方資料室所蔵)によれば、
 申 渡
 八ヶ村取締
 熊石村
 名主
 四右衛門
 其方儀去辰(安政三)年以来村々御収納金其外御願相成候処、近年御金高相成、日々手代共差出候ニ付、為御手当年々金拾両ツゝ被下之。
 右大和守殿伺之上申渡。
 (大和守とは箱館奉行小出大和守秀実のことである)
 この申し渡し書によって見ても、熊石村名主佐野四右衛門が西在八か村の収納取締に任じられ、乙部村以北の村々の収納監理に当るなど他村に比し重要事項の処理が多かった。

 第3節 明治維新下の熊石

 安政2年幕府直領下に入った熊石村を始め西部八か村の住民達にとって、従来は松前藩の治政に慣れ親しんできた関係から、何とか松前藩の領地に再編入されることを強く望み、松前領民と共に復領運動に取り組んでいた。安政2年の上知によって蝦夷地が公収され、特に西在八か村がその管轄から外されたことに対する復領運動は、上ノ国名主久末善右衛門を中心として、藩臣とはかかわりを持たず、独自の立場で行われた。松前藩と仙台藩は松前家第5世慶廣の六男安廣が伊達家に禄仕して三千石を領し、また、安廣の長男景長が片倉小十郎の養子となり白石城主となっていて、松前氏とは血縁関係にあったので、復領歎願は仙台藩を通して行われ、安政2年5月には上ノ国村名主久末善右衛門、松前町代中屋藤七、井越与兵衛、要右衛門が代表となって35名で仙台にいたり、同藩士菊地平三郎を介して伊達家に歎願書を提出した。また、遅れて熊石村から多十郎ら5名も加わった。また、松前藩領から熊石村の弥三郎らも加わり41名が江戸に赴いて、老中駕籠訴を行うことになった。
 安政2年10月2日夜四ツ時(午後10時)江戸に大地震、火災となり、江戸の惨状は目を覆う程であったが、旅宿にあった一行は密かにその機を伺い、松前福山藤五郎ら10名と久末善右衛門らに別れて、登城する老中の駕籠に向って駕籠訴をした。その訴状の文言は、
 乍(レ)恐以(二)書付(一)奉(二)歎願(一)候
 松前伊豆守所領の者に御座候。
 去る三月中、乙部村・木古内より、東西蝦夷地嶋々迄一円、上知仰せ出され候処、承知仕り、一同心魂に徹し驚き入り奉り候。領主元祖蠣崎若狭守、享徳中、南部国蠣崎村より西蝦夷地ヲコシリ(、、、、上点強調)島へ渡り、西在上ノ国村と申所へ引移り、籠居の諸浪人を降伏致させ、東西蝦夷人の鋒起を数度取鎮め、其功積恐多くも御神君様深く聞召され、有難くも松前と姓を下し置かる。領主十四代松前志摩守、文化の度奥州梁川へ所替仰付けられ候へ共、文政年中に至り、再び蝦夷地草創の家柄数百年の所領に候へば、旧家格別の儀を思召され、前の如く返し下し置かれ候儀を伝へ承り、下々の私共に至る迄、一統涙を流し、御仁徳を有難く存じ上げ奉り候。一体松前は御地領と訳違ひ、享徳の始より当安政二卯年迄三百七十余年、町・在・屋敷、畑・山年貢収納かつて御座無く、其外エトロフ・北蝦夷地、さては大島を始め、多くの場所々々切り開かせられ、海岸御固め、御築城・アメリカ人五度迄長崎表へ護送、其他打続御物入莫大に御かゝり候へ共往古より御用金等かつて仰せ出されず、况や諸役御用捨、且孝養老人の御賞計り難きは勿論、水火奇難の御手当、五穀実りも無(レ)之地に生れ乍ら、数度の飢饉を無事に相凌ぎ候も、諸国より米穀沢山に御買入窮民を厚く御救ひし置かれ候へばこそ、国元より御他領へ袖乞等致し候者、噂をも承り申さず、数百年の間何不自由も無(レ)之連綿と相続致し来り候も、畢竟御代々の御領主の一方ならぬ御仁恵、別ても当御領主様は、御公儀の御趣意大切に御守、且下々を憐まれ候事前書に彌増し、鰥寡孤独蝦夷の八島に住ひ候者共に至る迄感儀銘肝致し、此上有まじき御殿様、何卒万の一も御恩に報い奉り度と、一同心掛罷在り候へ共、近年打続く不漁にて、御恩の上の御恩、然候処、今般存じも寄らざる上知の仰蒙られ、御先代様千辛万苦の御草創、田徳に一式大切の場所々々召上られ、殿様御不運又漁業のみ渡世仕りて殿様一人を携奉り、父母妻子を養ひ、私共此の後如何に成行き申すべきや、人数ならぬ蝦夷人共に至る迄、糜食失ひ悲嘆に沈み、何となく国中騒々しく、春中より数百人替り替り仙台国へ罷り越し歎願申上奉り候へ共、今にも何の御沙汰も無(レ)之、一同出府仕り願上げ奉るべしと申合せ候共、御固厳重にて、出国の者三人と相成らず、色々手をつくして、下在福島辺より、夜に紛れ小舟に取乗り渡海仕り候。最中逆風に吹き当てられ何国ともなく風に漂ひ行き候所、南部国大澗と申す所へ翌二日漂着仕り候へ共、出判所持仕らざる故、本道中登り難く、野を分け山を越え谷に出、九牛の一毛にても年来莫大の御恩沢に聊か報い奉り度、父母妻子を棄て、昼夜を分たず、一命を捧げ恐れ多くも御乗物に縋り奉る(・・・・・・・・上点強調)。何卒格別の思召を以て、松前・東西蝦夷地・嶋村に至る迄、是迄の通り領主松前伊豆守へ下し置かれ、国中永久安堵相成り候様、厚き御沙汰下し置かれ度、此の段幾重にも死を以て(・・・・上点強調)願上げ奉り候。右願の通り仰せ下し置かれ候はゞ、国中一同挙つて有難き仕合に存じ上げ奉り候。 以 上
 安政二卯年十月
 (“上ノ国村史第一巻”による)
というものであった。駕龍訴は天下の御法度で、これを幕府の重職に対して行った場合は磔(はりつけ)(十字の柱にしばり槍でつき殺す極刑)と定められていて、これを行うことは死につながるため、松前の領民達は正に死を賭しての行動であった。一行の老中駕龍訴は10月16日に一斉に行われたが、幕閣は藩士の心情は分るが、御政道を惑わすような行為は今後あってはならないと、松前家江戸家老を呼び叱り、身柄を引渡した。この16日の強訴は二人一組となり老中堀田備中守、阿部伊勢守、久世大和守、牧野備前守、内藤紀伊守に宛て直訴していたもので、一行は江戸松前藩邸に拘禁された後、松前に帰った。その結果もあって12月4日幕府は上知した蝦夷地の代替地として奥州梁川、東根に三万石を賜り、さらに毎年一万八千両の支給を受け、従来一万石格であった松前氏が三万石家班に列せられている。
 このような幕閣に対する駕龍訴は安政6年にも行われている。これは安政2年幕府の蝦夷地上知後、蝦夷地は、会津、仙台、南部、酒田、秋田、津軽の六藩が出兵して警備に当っていたが、出兵諸藩は幕府の命令とはいいながらあまりに費用が嵩むので出兵を返上しようという動きが表れてきたので、同年9月27日幕府は六藩警備地を各藩の領地として給与するから守備と開墾の万全を期すよう命じた。これによって松前藩の願望である蝦夷他の復領が全く絶たれるのみか、従来、松前藩を通じて場所請負をしてきた大商人とその使用人の死活問題となるし、さらに西在諸村の漁民生活の前途にも大きな不安となったので、松前藩領民は一丸となって復領運動を推進することとなった。
 この復領運動は東西元太郎という仮名の人物が主謀者となっていたが、この仮名の人物は実は藩士飛内策馬らの企てたものといわれる。この行動は松前と江戸で同時に行われるよう計画された。
 西在、東在の領民は12月17日松前城下の東西に、東は大沢村、西は根部田村に結集することになり、各場所請負人や御用達に集合焚出等の依頼を次のように出している。
 以書付奉願候
 御当国之往古ヨリ万代不変難有御仕法ヲ以、自他之御百姓安隠ニ渡世永続仕候処、去卯年御上知後御見聞之通、御国中大小之難渋申計も無御座候。将又今度六家之御大名方江御領分ニ被下候ニ付而は、是迄之御法茂難相立、御上様御難儀御残念之程乍恐奉存上、次には私とも永年之渡世一時ニ尽果眼前今日之凌方ニ相廻り候仕合ニて、何共当惑愁歎之至ニ御座候。
 依之御元成御安堵ニ相成候様何と哉(か)相談仕度、来ル十七日西在并ニ江差付村在々御百姓一同根部田村江集会致候。随而奉願上候も恐多奉存候へ共、前件無餘儀次第柄を篤と御憐察被成下、当日集合之人々江焚出し御賄被成下度、奉願上候。
 以上。
 東西御百姓一統
 十二月十二日
 惣御用達衆中様
 惣請負人衆中様

 尚以本文東西之御百姓一統打寄相談之儀ニ付、西は根部田村、東は大沢村江寄合候間、左様御承知被下成下候。以上。
 (田付家文書、己・末“御触書扣帳”による)
 この東西百姓蹶起大集会は17日、東、西二会場に分れて7000人から8000人が集まる大集会となったが、藩は不隠の行動があってはならないと町奉行をはじめ家臣を派遣して慰撫して、解散させた。この集会には熊石、泊川、相沼内三村の人達にとっても直接経済的に影響するため、直領支配下にありながら、多くの漁民が、この大集会に参加している。
 また、この大集会に呼応するかのように、すでに領民約100名が密かに江戸に出府し、幕閣への駕籠訴を準備し、それぞれ手分けをし、12月16日、18日、同20日に大老井伊掃部頭をはじめ各老中、側用人、若年寄牧野遠江守と駕籠訴をし、さらに第二段として1月(万延元=1860年)19日、同21日にさらに大老井伊掃部頭を始め各老中に駕籠訴をした。前述の如く駕籠訴は磔刑という極刑と定められ、前回の訴人者は松前藩邸に引渡したものの、藩の処置宜しからずとして第17世藩主松前伊豆守崇廣は差控の内旨を受けるに至った。その後、藩は次のような触書を出して領民の自粛を求めた。
 觸 書
 去年十九日、同廿一日御大老井伊掃部頭様御登城先江当地百姓共致御駕籠訴被ニ付、訴状并人等御引渡之上御取締向之儀厳重御達相成候段、今般急早を以申越不容易御場合深く恐入被。右者旧臘御引渡之百姓ニ而御差下し之途中欠外ニ右始末ニ及候由、上を不恐致方不届に付御屋敷内ニ御手当被成置、猶御取締向厳重御手配被成候ニ付而は見当次第捕押、御差下し之積ニ有之候。就而は愚昧之もの共万一不取留流言ホ(等)も成而存、心得違ひ致し候而は以之外候間兼而被仰出候御趣意堅く相守、家業向精出し相励可申候。
 右之趣被仰出候間、此段不浅候次々可被觸知者也。
 町 役 所
 申二月十一日
 と軽挙盲動を慎しむよう触れ出している。この第2回駕籠訴では、松前領民の出府者は100余名に及んでいるが、その氏名を記した史料はないが、熊石外の西在八か村からも参加者があったものと思われる。この幕府の蝦夷地を東北六藩への分与は、蝦夷地の経済を牛耳っている近江商人の死活問題に係ることであるので、近江商人の団体である両浜組合が領主であり幕府大老である井伊掃部頭直弼に直訴して、要望を叶えられそうになったとき、桜田門の変で直弼の死によって、この問題は断絶した。(“田付家系譜”による)
 その後も松前藩からは西部八か村(乙部村から熊石村まで)の返還を陳情していたが、叶えられなかった。
 松前家第17世藩主松前伊豆守崇廣は歴代藩主第一の英傑といわれ、また、諸大名随一の開明派領主として知られ、文武両道に秀でたばかりでなく、外国事情にも詳しかった。国内では尊王攘夷の両論が沸騰していて幕閣においてもそのような人材が必要であった。文久3(1863)年4月28日突然の差紙で登城した崇廣に対し、芙蓉之間に於て老中松平豊前守信篤(亀山五万石)令旨を伝え、寺社奉行に任ぜられた。寺社奉行は譜代大名から選出される奉行で、老中への登龍門といわれ外様大名からの任用は異例のことであった。この寺社奉行の就任には尨大な費用がかかり、家臣の多くは、外様大名である松前氏が何で幕府の為に尽さなければならないかと反対し、また、開明大名松前崇廣を弾劾すべしという掲示が日本橋に出されるということもあり、辞任を申し出、7月13日老中板倉伊賀守勝静(安中三万石)令旨を伝えて退職を認められた。
 元治元(1864)年7月、また差紙があり登城すると、崇廣を老中格に班し海陸総奉行に任ずる令旨が伝えられた。老中は幕閣にあって将軍を補佐して、大政を運営する要職であり、外様でしかも僻遠の三万石の小大名からの登用は、文久3年の越前丸岡藩主の有馬道純に次ぐ異例の人事であった。崇廣は幕府の軍事、外交の変転極まりない情勢のなかで活躍し、そのかたわら乙部から熊石まで西在八か村の再知行を要請していたが、元治元年11月19日、乙部村から熊石間の再知行を許されたので、藩は飛内策馬を熊石に派遣し、箱館奉行の熊石番所責任者大塚定政と図籍の引継ぎを終え、関内村北端に幕領、藩領堺の標柱を建設した。八か村にとっては永年の念願が叶えられ、村民挙げてその復帰を喜び合い、熊石番所は従前の藩政時代同様に運営された。
 崇廣の老中就任は小藩の財政を危殆に陥らせる程の負担であり、さらに長州征伐出兵督軍としての家臣団の増強等のため多大の出費を必要とした。そのため領内場所請負人、御用達、各村々にも寄付の要請や、借上金を行ったりしているが、熊石村に於ても佐野家文書、荒井家文書等に次のような史料が残されている。
 熊石村
 (佐野)四右衛門
 御隠居様(崇廣侯)御儀子年(元治元年)長防御征伐之御供被為蒙候ニ付江差市中在々江御用途金被仰付西在八ヶ村江茂同様被仰付候処、即百両上納候条一段之至ニ候。依之為御賞其身一代年始礼御被仰付、猶御上下一被下之。
 寅(慶応二年)十一月
 (北海道大学中央図書館北方資料室収蔵“佐野家文書”による)
 また、荒井家も七十五両上納し、同様の扱いを受けている。また、前掲北大収蔵史料の荒井家文書によれば、
 熊石村
 (荒井)忠右衛門
 一金五拾両
 右者
 御借上金五月中納之分
 上納無相違者也
 熊 石
 御 番 所 ■(丸印)
 卯(慶応三年)
 二月廿三日
となっていて5月上納の藩借上金を2月上納し、また、別件史料によれば、同年2月分五拾両を当月29日に納入しており、藩財政の困窮の状況も分るが、しかし、これに対応して藩に百両もの大金を貸すことのできる佐野家、荒井家のような鯡漁業の大企業者のいたことも注目されるところである。
 老中松前伊守崇廣は兵庫(神戸)開港の失敗の責任を負わされ、阿部豊後守正外と共に朝譴を受け、国元謹慎、官位を剥奪され、慶応元(1865)年10月帰国の途に就き、翌2年1月8日松前に帰ったが、健康が勝れず4月25日38歳で腹膜炎のため死亡した。藩主の後継は兼ねて幕府との約束もあり、第16世藩主昌廣の子徳廣が21歳で第18世藩主を嗣いだ。
 徳廣は幼時より学問を好み、特に皇学、文学、天文学、書に秀で、“慧星考”、“梅桜植物誌”、“蝦夷島奇観補註”等の著書のある学者であったが、健康に勝れず、特に肺結核、痔疾の病気が亢進していたので、藩主就任後引退の意向を示した。それに対し、松前勘解由、蠣崎監三、関佐守、山下雄城らの崇廣時代の重臣達は、崇廣の子敦千代(後の隆廣男爵)を藩主に擁立しようとした。崇廣が老中として活躍できたのは、これらの重臣達が留守を預り、また、活動の資金を集めて後顧の憂をなくしていたからで、松前勘解由の専断もあり、また、この後嗣問題をめぐって慶応3年ころから老臣と青年家臣団とのあつれきが続き、慶応4年にその動きは顕著となった。

松前家18世藩主松前徳廣(永田富智所蔵)

 同年7月28日尊王を標榜する青年家臣43名は、正議隊と称して藩庁にいたり献白書を提出した。藩主徳廣はその代表である鈴木織太郎、下国東七郎、松井屯の3名から家老下国安芸を通じ事情を聴取し、その結果、藩政改革に乗り出すことになり、筆頭家老に下国安芸、近習頭に前記3名を任じ、松前勘解由、蠣崎監三、関佐守、山下雄城の出仕を停めた。これに怒った勘解由は同志を集め、城中を砲撃しようとしたが、これを留めるものがあり中止し、自宅に謹慎をした。正議隊は藩政刷新のため前記重臣達を処断をすることを藩主の内諾のもとに、8月1日以降クーデターを敢行した。1日には蠣崎監三を殺し、3日には松前勘解由、関佐守を自殺させたが、山下雄城のみは隠れて姿を見せなかった。雄城が自訴し町奉行所で獄死を遂げたのは9月下旬のことである。さらに一蓮の家臣も10余名処分され血で血を洗うクーデターは終った。
 正議隊の下国東七郎、鈴木織太郎、松井屯の3名は藩の執政となり、藩政改革に乗り出した。その第一は館城の築城であった。松前城は前面は海、背面に山が迫り、一度海から砲撃を受けた場合防禦が出来ず、また、松前

松前藩家老松前勘解由(ペリー艦隊写真師ブラウン撮影)(東京都松前鼎一氏所蔵)

 正議隊の下国東七郎、鈴木織太郎、松井屯の3名は藩の執政となり、藩政改革に乗り出した。その第一は館城の築城であった。松前城は前面は海、背面に山が迫り、一度海から砲撃を受けた場合防禦が出来ず、また、松前藩は従来蝦夷地の領主として、漁業を通して沿岸の開発と、交易経済によって立藩してきたが、安政6年蝦夷地が東北六藩に分治されて、松前藩がその特権を失うと、領内の農業開発可能な平野部の開発をして藩庫経済の堅実化を図らなければならなかった。その地域を厚沢部川、天ノ川、知内川流域一帯とし、主力を厚沢部川流域に置くことになった。そこで下国東七郎は箱館にいたり、旧箱館奉行所から図籍を受け取り、5月1日に開庁した新政府の箱館府の知事清水谷公考に会い、クーデターの成功によって藩論が尊王一派に固まったことを報告し、この際藩の人心一新と農業扶植のため館(桧山郡厚沢部町字館)に築城することの許可を求めた。箱館府は築城許可は太政官の決定裁可事項であるので、内諾を与え執政1名が上京して正式に陳情するよう回答を得た。この内諾によって館城の築城は開始した。勿論松前城下は大反対であったが江差は前の江差奉行尾見雄三、現奉行の氏家丹宮が正議隊士であり、館に築城された場合、蝦夷地第一の都市松前の権益が、総て江差及び桧山地方に流れ、江差及び在方の発展を期すことが出来ると力説したので、江差住民は挙げて築城に協力することになった。
 館城は9月3日、下国東七郎が箱館から帰藩すると同時に俄に着手することが決定し、東京へは東七郎が上京して、左記のとおりの陳情書を太政官に提出することになった。
 北陸ノ臣徳廣先代ヨリシテ福山ニ居城候処父伊豆代ニ至リ海警騒擾ノ折柄旧幕府ノ令有之補修増築ノ后既ニ十余年来ニ候へトモ必竟右ノ城地ハ三方山岳ヲ負ヒ一方大海ニ臨ミ其狭キ処ハ海濱相距僅ニ一町許昔ノ天塹ニ比シ候波瀾モ今日ニ至リ候テハ戦艦巨舶倐往忽来ノ捷径ニ相成加之城下ノ人家稠密伏兵待散ノ除地モ無之若海面ヨリ砲発ニ及候節ハ居城ハ勿論街衢トテモ乱撃兵燹之患不可免哉ニ深ク未然ヲ苦憲痛心仕候依之封内之諸所周行熟視為致候処江差属地厚沢部ノ内館ト申箇所河山之流峙天然ノ要地ニ御坐候間旧法ニ不拘至簡實用之工夫ヲ以テ拮据経営城壘創立仕右様基本相建候上ハ拓地勧農モ追々手配行届候ノミナラス第一函府へハ道路近易ニシテ當城ノ如ク遠険ニハ無御座候間一且緩急有事ノ時ニ當リ少人数ニハ候へ共迅発疾走區々之力ヲ奉竭積年勤王ノ鄙忱モ貫徹仕度奉存候尤當城ノ義ハ其任ニ堪タル者ヲ陣代ニ申付人民ヲ鎮静為致候ハ一挙両全ノ義ニ御坐候之悚懼戦栗ノ至リニ御坐候へ共前々奉陳上候件々上下一同ノ志願預メ確定仕候間何卒覆載之皇恩ヲ以テ御垂憐被為遊御採用被仰付度偏ニ奉懇禱候臣徳廣闕下ヲ遙拝シテ誠恐誠惶頓首謹言
 (東大史料編纂所所蔵“北門史綱・巻之第八”による)


館城設計図(北海道大学中央図書館蔵藤枝家文書写)

 この築城は厚沢部川支流糠野川の台上に新規に造営することになったが、設計者については明記されたものはないが、恐らく松前藩士で伊豆韮(にら)山の江川太郎左衛門の下で西洋砲術及び兵学を学んだ竹田作郎ではないかと推定され、また、桧山開発の集約機関を江差に置き、松前法華寺の僧で復飾した三上超順に派遣して当らせ、また、江差居住の豪士関川平四郎を江差在住のまま勘定奉行に任用して築城資金の捻出に当らせた。また、藩の重臣達も勧農司として農業開発可能な地域に派遣しているが、藩家老松前琢磨が熊石居住を命ぜられたのもこの時である。
 9月10日には築城掛鈴木文五郎以下が館に向かい、館、鶉、俄虫、小黒部、江差等の農民を使役して築城に着手しているが、工事中の10月7日館城築城検見と道路改修のため来村した家老蠣崎廣備、布施泉が関係者にそれぞれ慰労金を下賜しているので、それによって築城関係者を知ることが出来るので、次に掲げる。

 口 達
 一各金五百疋宛 築城掛 鈴木文五郎、牧野可也、今井愚一 、鈴木次郎蔵、三浦 巽、石塚知平
 一雪寒ノ折一同骨折相勤候ニ付為御賞被下之尚方今ノ御場合急速ノ御主意深ク察上精々尽力早ク成功可致候。

 土橋村
 一白銀各一枚 蛾虫村
 館 村
 一白銀五枚 蛾虫村川舟運送方、運送馬士共一同ヘ
 一寒サノ折柄是迄格別骨折不便ニ被思召御上様ヨリ為御賞被下之尚此末精々力ヲ尽シ御役方ノ仰ヲ守リ早ク出来可致候。
 江差ヨリ出役
一金三百疋ツゝ 森 省吾、藤山逸蔵、大島吉右衛門、大沢八五郎、新村久兵衛、内藤市兵衛、岡 洋平

 付属
一金弐百疋ツゝ 竹内善兵衛、武藤尽吾、石塚彦右衛門、厚谷七右衛門、上戸円蔵、長谷川直五郎、青山幸次郎、長尾幸三郎、豊川善右衛門、阿部久四郎、福沢佐二郎、金木承造、佐々木治郎右衛門、小川宇兵衛、小林文右衛門

一別段金百疋ツゝ
在方掛材木其他諸事取扱 森 省吾
材木川流ノ掛 石塚彦右衛門
諸小屋掛 青山幸次郎
棟梁 足軽並 濱田仁兵衛
副棟梁 三郎兵衛
土方小頭 幸太郎
同 安五郎
土方総人数足廻シ 清左衛門
一銀四枚 大工木挽桶屋一同へ
というものである。築城は館台地上に方百間の塁壁を廻らし、その中に藩主居館、藩庁、武士居館、賄蔵、米倉を配置し、正門及び後門のほか正面西側に裏門を配置したもので、これを第1期工事とし、第2期は第1期の本丸部分を核として、外郭部分に城壁を築き、東側に突出している丸山に砲台を築く予定になっていた。その規模等については江差藤枝家、増田家に館城設計図が残されていて凡その規模を知ることが出来る。
 館城の第1期工事は10月20日、一応、仮完成を見ることになり、藩主徳廣以下が引き移ることになったが、松前城下では猛烈にこれに反対する動きがあり、藩は反対家臣を斬り殺したり、10月15日には最近世情騒然としているが、藩内の尊王思想統一したことは喜ばしいので盛大な祭礼を行うようにとの布令で、理由のないお祭をしているうちに、藩主徳廣以下はひそかに館城に旅立った。

 第4節 箱館戦争の勃発

 慶応4(1868)年8月19日の夜、旧徳川幕臣海軍副総裁榎本釜次郎武揚は、旧徳川軍の旗艦開陽丸(2、817噸、木造3本檣、400馬力汽船、備砲26門)をはじめ、回天丸(1、678噸、木造3本檣、外車汽船、備砲11門)、幡龍丸(370噸、木造2本檣、汽船、備砲4門)、神速丸(250噸、木造2本檣、内車汽船)、千代田丸(138噸、木造2本檣、汽船、備砲3門)、長鯨丸(996噸、木造、外車汽船、運送船)、長崎丸(341噸、2本檣、鉄鋼船)及び輸送船美加保丸(700噸、木造帆船)、咸臨丸(380噸、木造帆船)の9艘の軍艦及び輸送船で品川沖を出航した。その目的は、徳川家所有の軍艦のうち半数はすでに政府に接収されており、残るものも政府に接収されそうになったので、それを嫌い、会津若松や庄内など旧幕軍と新政府軍との戦闘を支援して、局面の打開を計り、その上で蝦夷地に赴いて、職を失った旗木たちを入植させて、蝦夷地に新たな徳川王国を築こうという計画であった。
 榎本らのこの計画の実行が時期的に遅れたのは甲鉄艦にあった。幕府は海軍力増強のため鉄鋼船軍艦を米国に発注していたが、南北戦争のため製造が遅れ、ようやく回航されてきたのは江戸城開城の寸前であったので、米国は局外中立を守るため、その引き渡しを拒んだ。新政府も徳川方に比べて海軍力が劣悪であったので、この艦を入手しようと交渉していた。


開陽丸(札幌市高倉新一郎氏所蔵)

 この甲鉄艦は原名をストーン・ウォール・ジャクソンといい1358噸と船体は開陽丸の半分程度であるが、木造装鋼艦で300斤ガラナード砲、70斤砲4門を備えた3本檣500馬力の船で、速度に於いても開陽丸の倍近く速かったので、榎本らは何とかこの船を入手しようと交渉したが、買収価格の40万ドルの手配ができず、米国の局外中止もあってまとまらず、ついには船の乗取りも画策したが警戒が厳重で、断念しての出航であった。
 出航した榎本艦隊が館山沖にさしかかると猛烈な台風に遭遇し、開陽丸は舵を損傷し航行不能におちいった。また、幕府軍艦として太平洋を横断した咸臨は、この時期には艦齢超過のため装備、機関を取り外し輸送船として利用されていた。この咸臨は蟠竜、美加保は回天が索綱をもって曳航していたが、この台風のため索綱が切れ、美加保丸は犬吠埼に難破し、蟠竜丸は伊豆沖から清水港にまで流れ込み、同地警備の政府軍と戦ったが破れて船もろとも降伏した。両船には兵員、兵器、食料を多く積んでいたので、尓後の榎本軍の行動に大きな損失を与えることになった。
 9月初旬にいたって榎本らの艦隊はようやく松島湾に姿を見せ、破損個所の修理に専念していたが、9月に入り奥州の反政府軍の戦闘は次第に敗色が濃くなり、9月4日米沢の上杉家は降伏。9月21日には会津若松城陥落、仙台藩も9月10日降伏を申し出るなど敗戦は明かとなった。会津の戦闘に参加していた旧幕軍は、その行先を失い仙台領に向けて逃げ込み榎本艦隊に合流した。ここで榎本らは独り戦闘を続ける酒田藩救援のため千代田、長崎の2艦を派遣し、幕府が仙台藩に貸し付けていた大江丸(160噸)、鳳凰丸(130噸共に帆船)、回春(噸数不明)を回収して流入した兵員の輸送船とし、蝦夷地に向け出発することになったが、軍資金が全くないため開陽丸が船体のバランスを取るためオランダで積んだ銅塊まで売払って軍資金に充てている。
 榎本軍に合流した反政府軍のなかには備中松山藩主で幕府老中の松倉伊賀守勝静(かつきよ)(五万石)、桑名藩主で京都所司代松平越中守定敬(さだあき)(十万石)、老中で唐津藩主世子の小笠原壱岐守長行(六万石)のほか、前陸軍奉行竹中重固、元外国奉行永井玄蕃頭尚志、歩兵奉行大鳥圭介、松平太郎、土方歳三(新撰組)、古屋作左衛門等があるが、松島湾で合流した諸隊は次のとおりである。

蝦夷行脱走兵一覧   (大山柏筆“戊辰役戦史”下巻による)

番号 隊名 隊長 人数 筆者註
一連隊 松岡四郎次郎(三木軍司) 200 後旭隊20人参加
杜稜隊 伊藤善治 74  
彰義隊 池田大隅(菅沼三五郎) 185  
神木隊 酒井良輔 70 高田藩脱藩
伝習士官隊 滝川充太郎(本多幸七郎) 160  
砲兵隊 関広右衛門 170  
工作隊 吉沢勇四郎、小菅辰之助 70   
遊撃隊 伊庭八郎 120  
新撰組 森常吉 150  
10 額兵隊 星恂太郎 252 仙台藩脱藩赤衣隊
11 陸軍隊 春日佐衛門 160  
12 衝鋒隊 古屋作左衛門 400  
13 伝習歩兵隊 本多幸七郎(大川正次郎) 225  
14 小彰義隊 小林清五郎 54  
15 会津遊撃隊 諏訪常吉 77  
    2、360  

であって、これに軍艦、輸送船の乗員890人、また品川乗船陸兵、明治2年にいたって五稜郭に合流した南部藩脱藩見国隊の400人を合せると、蝦夷地に合流した徳川脱走軍の兵力は少なくとも3700人以上と推算される。松島湾を10月9日出帆した榎本艦隊は石ノ巻を経て宮古湾に入り、薪炭の準備をして、10月18日宮古を出港し蝦夷地に向った。
 10月20日の早朝、内浦湾に面した森村の支村鷲ノ木に徳川脱走軍の艦隊が突然出現した。(徳川軍の呼び方については徳川軍、幕府軍、東軍、榎本軍、脱走軍等があるが、当時当地方で呼ばれていた呼び名の徳川脱走軍とする。)
 旧暦のこの日は猛烈な吹雪で、上陸する兵達に蝦夷地の冬の厳しさを知らしむるようであった。
 慶応4年は9月8日に明治元年と改元されたが、この時期の蝦夷地の状況は、箱館には新政府の箱館府(府知事清水谷公考(きんなる))があり、約200の府兵かおり、蝦夷地各地域を分領支配していた東北諸藩は、奥羽戦乱のため駐屯の諸藩兵は総て本国に引揚げ、蝦夷地には松前藩の戸切地出張陣屋の200名、松前城の400名、館城の200名、江差の100名と併せ900名の松前藩兵だけであった。そこで箱館府は奥羽出張の政府軍に対して、防備のための兵力派遣を要請し、特に10月に入っては徳川脱走軍の蝦夷地流入の公算が強まると、しばしばこれを要請したので、秋田方面にあった津軽藩兵200名、備後福山藩兵696名、越前大野藩兵171名を汽船で派遣し、一行が箱館に到着したのは、奇しくも徳川脱走軍の上陸した10月20日である。

箱館府知事清水谷公考(北大北方資料室写真)

 森村鷲ノ木に上陸した徳川脱走軍は、先ず朝廷及び箱館府に対して蝦夷島下付の歎願書を人見勝太郎、本多幸七郎に持たせ、先兵30名を付して先行させ、翌日上陸した大鳥、松平の本隊がこれを追う形となった。一方では箱館の挟撃体制を取るため、土方歳三が将となって額兵隊、陸軍隊を率いて内浦湾の下海岸を進撃しているところを見ると、歎願書は一応の美名的なものであって、箱館進出はすでに戦争開始を前提としていたものであった。
 10月20日夜箱館府に鷲ノ木村駐在の荒井信五郎から次の報告があって、徳川脱走軍の襲来を承知した。
 徳川海軍開陽、回天、蟠龍、神速、長鯨、大江、鳳凰、回春
 右船之内一艘当村着丗(三十)人計揚陸致明六ツ時(午前六時)五百人計揚陸候間湯宿手配可致旨申聞薪五百敷用立可申旨申聞候
 鷲ノ木村 荒井信五郎
 十月二十日
 報告を受けた箱館府は直ちに作戦会議を開き、府兵と松前藩戸切地出張陣屋の兵160名と津軽藩兵200名併せて約500の兵でこれを迎え打つこととし、備後福山藩及び越前大野藩兵をもって五稜郭、箱館市街の警備に充てることとした。
 21日100名の府兵隊、200名の津軽藩兵は七飯村藤山郷に入り、脱走軍側を待ち受けたが、22日夜峠下に宿泊の様子なので、戸切地出張陣屋から救援の松前藩兵の参加を得、午後10時頃、峠下の脱走軍先兵の宿舎を攻撃し、夜戦となった。この時脱走軍の本隊の滝川正次郎指揮の伝習士官隊、大川正次郎指揮の伝習歩兵小隊がすぐ後方にあったので、これを救援し乱戦となったが、府兵側の兵力、兵器共に劣勢で、23日払暁には敗退した。この戦闘が、いわゆる箱館戦争といわれる明治元年戊辰の役、同2年己巳(きみ)の役の初戦であった。
 24日府兵は七飯、大野方面に備後福山藩兵、越前大野藩兵を加えて反抗に出、府兵等は七飯、大川付近で戦い、松前藩兵は主に大野大日社前に防壁を設けて守備していたが、脱走軍は大鳥圭介を指揮官に伝習士官隊、歩兵隊が攻撃、果敢な銃撃戦を展開したが、松前藩側は敗れ、文月でも戦闘して敗れ、戸切地穴平の出張陣屋を焼いて、七重浜を経て五稜郭に合流した。清水谷府知事は軍議を開いて、この小兵力では到底勝利は覚束ないので、一時青森へ避難することを決め、24日箱館港内に在ったプロシヤ汽船に府知事以下府兵、イギリス船には府兵、松前藩兵、大野、福山の各兵、残余は和船を雇い25日早暁箱館を出帆し、26日には青森に到着した。
 徳川脱走軍側は五稜郭は洋式の堅塁であるので充分の戦闘能力が必要であると七飯口、大野口の攻撃軍が大川から神山、赤川方面に展開、本隊も後続したので、26日五稜郭に向って進撃したが、ここにはすでに兵の影はなく銃砲弾薬も散乱していて、無血のうちに箱館市街、弁天砲台も接収し、下海岸から南下してきた土方軍も合流し、五稜郭を本拠とすることになった。

松前城の攻撃
 箱館府の青森撤退によって、蝦夷地に残存する兵力は松前藩兵のみとなった。そこで徳川脱走軍側は何とか話し合いによって蝦夷地の全域を掌握しようと考えた。この25日午後アメリカ汽船オーサカ号で箱館に着いた松前藩士渋谷十郎、安田純一郎ら七士は江戸家老遠藤又左衛門、京都留守居役高橋敬三の2人を斬奸しての帰路であったが、定宿の亀田屋に宿泊したところ、土方歳三が来宿して松前藩協力を申し入れ、取り敢えず和議の使者を出してほしいと要請あり、(渋谷十郎“戊辰十月賊将ト応接ノ始末”)桜井愿四郎に要旨を記して出発させたが、途中福島村に出陣中の総長鈴木織太郎がこれを披見して、藩論を乱すものとして桜井を斬り、抗戦の態度を明かにした。


明治元年戦役配図

 徳川脱走軍の松前城攻略は当初から考えられていたことであり、10月27日には土方歳三を隊長とする松前城攻略軍800名が編成され、五稜郭を発足したが、その配備は次のとおりである。
 陸軍 総数 約800名
 隊長 土方歳三
 先鋒 彰義隊 渋沢誠一郎
 額兵隊 星 恂太郎
 軍監 佐久間悌二、大塚寄之丞
 中軍 陸軍隊 春日左衛門
 後軍 衝鋒隊 永井蠖伸斉
 軍監 岡田斧吉、大島寅雄、蕗田元治
 砲兵 差図役頭取 細谷安太郎
 工兵 差図役頭取 小宮山金蔵
 仏人参謀 プへイ及びカズノフ
 海軍
 回天丸 荒井郁之助
 蟠龍丸 榎本式場
で構成されていた。徳川脱走軍の多くは鳥羽、伏見の戦いから甲州、宇都宮、会津と実戦を経験しており、火器に於ても野戦砲をはじめミニエー及びエンピエール等の「三つバンド」の元込銃という最新式のものであるのに対し、松前藩は未だ火繩銃に「二つバンド」のゲーペルで、服装も着物に野袴、それに胴着、手甲、脚胖に草鞋がけで大・小を差し、それに陣羽織に鉢金といういでたちに鉄砲又は槍をかい込むという前時代的なものに対して、脱走軍側は、仙台藩脱藩の額兵隊の場合を見てもダン袋の黒の洋服、腰に三尺を巻き、大・小を指し、パトロン袋(弾丸入)を下げ、それに黒の陣羽織を着て、韮(にら)山笠を覆り、背中にフランケット(毛布)と食糧を背負って、それに鉄砲を持つという軽装であった。さらに戦闘の場合、黒の陣羽織を返すと赤のフランケットになっていて、敵を威嚇するのに十分であったといい、兵力の差、兵器、装備のあらゆる面から松前藩側は劣勢で勝敗は自明のことであったが、思慮分別もなく、新政府に大義明分を立てようとする正議隊の行動に対し、戦争中に於ても旧佐幕派との間に対立が続いていた。
 11月1日土方軍は泊りを重ねながら雪の中を福島村の一の渡り(宇千軒)から知内村の荻砂里に宿営した。兼ねてこのことを察知した松前藩側は渡辺■(不明)々、目谷小平太を隊長に、福島村から小舟に乗って矢越岬を迂回して、知内村支村の小谷石涌元に上陸し、間道添えに営舎の寝込を襲い、脱走軍側に打撃を与えたが、この2年間の戦争を通じ松前藩側が勝利を収めたのは、この戦いのみである。
 この11月1日午後日の丸の旗を掲げた汽船が一艘松前沖に現われた。松前藩兵が政府軍の船かと見守るうち、いきなり松前城中を砲撃したのは脱走軍の蟠龍丸であった。藩側も城中7台場、城外の筑島砲台を始め8台場から砲撃を開始し、筑島砲台(司令池田修也)の撃ち出したボートホイッスルの24斤の一弾が蟠龍丸士官室に命中し、また、一弾は船の槍出に当ったので、引き返し、途中福島村の神明社前に堡寨を構える松前藩兵を砲撃して箱館に帰った。
 知内村から知内川の一の渡りを渡渉して難路の茶屋峠(福島峠)があり、ここに松前藩砲術方駒木根篤兵衛が、300匁野砲2門を据えて11月2日進撃の脱走軍を砲撃したが、脱走軍は迂回してこの要地を占拠し、藩兵は、山崎(福島町字三岳)に下って戦闘をした。福島村では神明社境内に砲台があり、松前城代蠣崎民部が出張して法界寺に本陣を置き、総長鈴木織太郎が指揮して抗戦したが効なく、兵を白神山道に移し守備を固めたが、この戦いで総長鈴木織太郎は負傷している。
 11月3日、松前藩側約400の兵は城を枕に打死の覚悟で、城中戦闘の準備に入ったが、この日戸切地の陣屋から箱館に出、清水谷府知事以下と合流して青森に逃れていた竹田作郎以下150名がアメリカ船オーサカ号を雇って松前に帰ってきたので戦列に加えた。松前城は城代蠣崎民部、総長新田千里、軍事方(参謀)三上超順が指揮をとり、尖兵を城東及部川口及びその前方に150名と砲9門を配置して待ち構えていた。
 脱走軍は白神山道を通らず、吉岡村不動滝から荒谷村へ11月5日突然出現し、午後から及部川を挾んで激しい砲銃戦を展開したが、脱走軍側は海から回天が援護射撃をし、また、脱走軍側は川口から上流の野越路を越えて来たため破れ、守兵は城中に合流した。土方軍は追々城下内に進出し、先ず馬形野台上の日蓮宗法華寺の台地を占拠した。ここは松前城東側の台地で大松前町、大松前川を挾んだ約400メートル前方に松前城があり、また、11月1日蟠龍丸が砲撃した際威力を発揮した筑島砲台を扼(やく)すことのできる重要拠点であった。土方軍は先ず法華寺台上から直下の筑島砲台をつるべ撃ちに砲撃し、砲台司令池田修也外4名を爆死させた。
 5日午後3時頃から松前城の攻防戦が展開され、回天が海上から援護射撃をするなか、脱走軍本隊は天神坂口・馬坂口から攻撃し、別隊は新坂から寺町へ進出した。城中に於ては竹田作郎、上原久七郎らが搦手門内に野戦砲を並べて、殺到する土方軍を前に門扉を開いて打ち、打っては閉めるという戦術を数回繰返し、多くの損害を与え、脱走軍は城壁に決死の兵を隠し、門の開くのと同時に斬込み、城内は白兵戦となり、また、寺町から堀、塀を乗り越え、進入した脱走軍と、北の丸守備隊長佐藤男破魔らが戦ったが遂に破れ、同日夕刻松前城は遂に徳川脱走軍の手中に委ねられることになった。この城中の戦闘を土方軍として従軍した小杉雅之進は、その著“麥叢録(ばくそうろく)”において、「然レ(■(ども)不明)廉恥ナキ者ナキニ非ス、廣間或ハ廊下等ニテ号返シ合セ戦シモノアリ、衆寡ノ勢遂ニ敵セズ斃(たお)レ旦ツ遁(のが)ル。予テ城中ニ行キシ時襖障子等ニ太刀庇アルヲ見ル、此輩(やから)君曽(かつ)ノ為ニ城ヲ枕テシテ死ス、真ニ松前ノ忠臣ナルベシ」と松前藩士の健闘を讃えており、事実、隠居の身であった田村量吉が72歳の高齢を押して城中で戦い、手負いを受け本丸御殿玄関で割腹自刄を遂げたり、靖国神社に女性第一号で合祀された川内美岐女は、足軽の妻であったが、藩兵の不甲斐なさに悲噴慷慨して鋏(はさみ)で喉を突き自殺するなどの多くの美談が残された。

廃虚と化した松前城下
(慶応3年7月の松前城下 木津幸吉・田本研造撮影 永田富太郎複写)

 松前藩兵は湯殿沢口、寺町から館城に向って逃れたが、その際御用火事と称して寺社や民家に火を放って逃れ、この火災で松前城下の4分の3を焼き、寺院に於いても二十か寺のうち十五か寺が焼かれるという惨状を呈し、松前城下の面目は全く失われた。さらに向寒期に向かって、家なく、衣なく、食料のない住民の悲惨な姿は目を覆うものがあった。

 第5節 館城、厚沢部川での戦い

 松前城を失った松前藩は、館城に藩兵全勢力を結集して最後の拒戦をする考えであった。そこで松前から北上する徳川脱走軍に対しては上ノ国支村の石崎と小砂子の間の大滝に、天険を利した防禦陣地を築き、家老蠣崎廣胖及び江差奉行氏家丹宮ら約250の兵力でこれを固め、松前退却の主力を上ノ国に配置して遊軍とした。一方、藩主徳廣は館城にあって執政下国安芸以下の近臣が守護して、万一の場合は厚沢部河口に下って形勢を見るように計画し、館城には隊長今井興之丞、軍事方三上超順等250の兵力を配置し、さらに大野方面から中山峠を経て館城に到る主要経路の北側稲倉石にも防寨を設け、さらに鶉には水牧梅干の率いる一隊を配置して遊軍とした。
 徳川脱走軍は松前藩は松前城を失った場合は降伏するだろうと観測をしていたが、ますます拒戦の態度を明らかにしたので、11月15日には館城から江差の松前藩兵を殱滅する作戦を樹て、土方隊は11月9日松前を出発した。一方、五稜郭から館城攻撃軍として松岡四郎次郎の率いる一連隊主力の約250が大野、中山峠を経て稲倉石に迫り、12日稲倉石及び木間内の寨門は突破された。そこで藩主徳廣及び世子勝千代及び前藩主崇廣夫人、徳廣夫人らは、執政下国安芸、蠣崎民部、尾見雄三ら近臣70余人に守られて厚沢部川を南下、河口に近い土橋(厚沢部)にいたり、さらに土場(江差町字柳崎)にいたって戦況を観望していた。

大滝の峠(上ノ国町)
 これらの戦乱のなかにあっても、この年起きた正議隊のクーデターと佐幕派の軋轢は続いていた。アメリカ船オーサカ号を雇って戸切地陣屋から青森に赴いた家臣を送って来た安田純一郎、安田拙蔵らは、この船で藩主を南遷させようと上ノ国に赴いた処、執政鈴木織太郎は藩論を乱すものと斬首したことに反撥した家臣らは、職太郎を乱心者として捕縛して重臣達のところに送ったり、家臣相互の間にもいざこざが絶えなかった。
 松前から北上を続けた土方軍は、10日以降、大滝の天険に拠る松前藩兵の抵抗に遭い、困却していた。そのことを五稜郭の榎本武揚に報告すると、榎本はようやく舵の修理を終った開陽丸に乗り組み、松前に来て警備の陸兵を乗せ14日夜半松前を出帆、15日の払暁江差弁天島(鷗島)沖に入り、詰木石浜から豊部内浜に陸兵を揚陸させたところ、江差在留隊は総て上ノ国に出動していて不在であったので、無血のうちに江差を占領した。大滝の松前藩兵の抵抗は激しく、土方らは背後の山からこれを射撃することに成功し、守将氏家丹宮が戦死し、この防禦線が破れたのは14日で、土方らが江差に到着したのは16日である。


開陽丸の錨(江差町招魂社前にあったもの)


開陽丸積載の大砲(江差町文化センター)

 この大滝拒戦の結果の代償は大きかった。15日陸兵を揚陸させたのち、開陽丸は督戦のため詰木石沖(江差)に碇を下して停泊していたが夜半にいたって一瞬のうちに北西の風が吹き荒れ、碇も効かなくなり、詰木石から姥神の海岸に吹き付けられた。榎本をはじめ船将沢太郎左衛門らは必死となって機関の力を上げさせようとしたが間に合わず、海岸のソリ(磯と磯との間)に乗り上げた。この後数日間、榎本らは艦にあって、備砲を一斉に陸岸に向けて撃ち、その反動で離礁しようとしたが、それもならず、23日にはこの急を聴いて回天、神速の2艘の軍艦が離礁曳航のため箱館から来航して作業したが荒天のため渉らず、その間に神速の碇が切断して豊部内に破摧するという重なる大事故となり、開陽丸も旬日を出でずして海没した。榎本は上陸し、順正寺(現東本願寺)の一室にこもり落涙していたというが、この2艘の軍艦を失ったことにより、その後の政府軍と徳川脱走軍の海軍力の均衡が大きく崩れ、政府軍の有利に展開するようになった。
(昭和49年8月以降現在まで江差町で進められている海底遺物の調査蒐集は、この開陽丸の残骸である。)
 一方、館城の攻防戦は、13日木間内(厚沢部町)から鶉に進出した松岡軍はここに宿営した。14日今井興之丞の率いる一隊は下俄虫(厚沢部町)から、軍事方水牧梅干の一隊は上蛾虫から間道添いに松岡隊を攻撃して激戦となったが、水牧が戦乱に疲れ厚沢部川に入って水を飲んでいる処を、背後から槍で突かれ戦傷を負い、乙部に移され、後、熊石門昌庵に入りここで死亡した。
 11月15日は館城決戦の日である。館城には僅か250余人の兵力で隊長今井興之丞、軍事方三上超順が主力となって防禦体制をとっていたが、15日早朝、松岡軍は新雪を踏んで館城を包囲したが、正門を破ることが出来ず、松岡軍の指図役下役越智一■(不明)が正門門扉の下からはいり込み門貫を外して城内に吶喊(とつかん)し、城内各所で斬り合いが行われた。この時、軍事方三上超順は台所から俎板(まないた)を持って防楯とし、右手に大刀を振りかざして戦い、松岡軍の兵1名を斬り、さらに嚮導役伊奈誠一郎に斬りかかったが差図役頭取横田豊三郎がこれを助けんとして二人共傷を受けた。これを見た軍監堀覚之助、差図役黒沢正介の二人が馳付けて超順を斬り、超順は遂に34歳で壮烈な戦死を遂げた。また、隊長今井興之丞も西門口で戦死し、また、兵も11名が戦死し、残余の諸兵は乙部村方面に逃れ、徳川脱走軍は館城は戦略的価値なしと火を放ち、10月20日完成した館城本丸は僅か25日にして消え去った。
 (相沼無量寺の庫裡は後にいたって館城の米倉を移し、改装して建てたものといわれている。)


館城跡現況(厚沢部町字館)


 第6節 藩主の津軽落ち

 館城決戦の敗戦によって、付近守備の兵は多く厚沢部川西部に逃れ、15日には土場(柳崎)に在った藩主徳廣以下一族は、近臣に守られて乙部村に入った。この時、徳廣は敗戦の焦慮と持病の肺結核が亢進していて、野駕籠にゆられながらうわ言を言っていて、さながら生ける屍のようであったと、古老の言が残されている。乙部村で重臣会議がもたれ、この地方に残った藩兵は家老松前右京と総長新田主悦(千里)が指揮して、厚沢部川西岸から乙部の間に防禦線を築いて、藩主一行が無事津軽に落延びるまで、必死の抵抗を続けることになり、17日には全軍に対し、次の布告を出している。
 殿様御儀熊石村ヨリ他方へ御立退被遊候哉モ難計候間御供ノ外ハ一統一度潜伏致シ今後御時節ヲ待上クヘキ事。
 十一月十七日
 軍 事 方
というもので、藩主が立退くまでは必死で敵を喰止め、退去したことが分ったら潜伏して後命を待てというものであった。
 その間に徳廣一行は津軽へ落ち延びるための乗船を求めながら北上した。11月といえば旧暦であるから現在の新暦で換算すれば12月22日頃にあたるので、船々は皆陸揚げをして冬囲いをしていて、引下しても水船になってしまうので適当な船はなく、16日は蚊柱村(現在の乙部町字豊浜)に泊り、17日には熊石に入ったが、藩主徳廣一行は柏巌和尚の崇(たた)りを恐れ、水牧梅干以下の傷病兵を収容していることもあって、門昌庵には泊らず、妙選寺に泊った。熊石内では乗船を求めて探し廻ったが遂に見当らず、18日夜は関内に泊った。
 この間18日には徳川脱走軍が乙部まで追っているので、総長新田主悦、蠣崎廣胖、負傷中の水牧梅干が協議し、徳川方に対しては降伏するから、1、2日の時日猶予をしてほしいと申し入れた。これはその間に徳廣一行の南遷を期しての交渉であった。松前藩兵は乙部から小茂内(現乙部町字鳥山)に引き退いていたところ、徳川脱走軍が突如出現、戦闘となったので、負傷中押して出張っていた水牧梅干は遂にこの戦闘に戦死した。


水牧梅干墓(江差町松岱所在)

 関内でこの報を受けた藩主一行は、これ以北には乗船となる船がないので、目谷又右衛門所有の長永丸二百石の冬囲いを解いて海に浮かべたが、間隙から水が入り、仕方なく村内の二斗樽の酒空樽を集めて船べりに繋り、また、海水汲取用の空樽も50個程積み、藩主以下71人が水主15人に生命を托し、11月19日夜半、怒濤逆巻く日本海に乗り出した。この状況を“北門史綱・九”は次のように記録している。
 船僅ニ二百石熊石村民目谷又右衛門所有長永丸ト号ス。春夏以来共濱頭ニ覆囲シテ船体頗ル枯朽俄(にわか)ニ用ユ可カラズト雖(いへと)モ旁延之ニ換ユルノ船ナキヲ以テ遂ニ之ヲ艤セリ、故ニ進水ニ及ヒ船体接合ノ間隙潮水ノ浸入殆ント船床没セントス終始噴水器ヲ以テ其浸水ヲ防ク、且厳冬風烈浪激ノ航海ニ方リ、枯朽ノ小船其堪ユル所ニアラス、単ニ万死ノ一生ヲ期スルモノニシテ其運命惟(ひとり)彼蒼ニ付スルノミ(彼蒼(かそう)とは空の意味なり)
といっている。また、前掲書によれば、乗船した71人は、次のとおりであると記録してる。


藩主一行津軽落経路

 徳廣(藩主)、勝千代(嗣子)、夫人内藤氏、先夫人相馬氏、邦子、増子、鋭子ノ諸妹子、侍女七人清瀬、春子、清子、園子、琴子、美代子、梅谷 其他
 下国崇教、蠣崎廣備、尾見充興、田崎忠貞、鈴木重載、(渋)谷義恭、蠣崎清彦、武川市逸、岡本長則(村上勇)、松尾守直、松崎成房、土谷高義、蠣崎孝友、杉村治教、青山芝福、瀬尾重教、岡本長守、今井徽、斉藤観、渡辺武雅、熊坂春長、酒井好済、芳山彦克、武藤玄省、早坂元長、廣瀬三右衛門、杉田正明、藤林清信、田中献之、白鳥延武、大野重敬、小野伴二郎、中川冨蔵、古谷竜十郎、石道宇之作、関谷喜兵衛、高橋孫六、冨山平七、鈴木重載ノ母歌子、妻幡子、娚田中鉄太郎、従者十三人。
となっている。この大時化のなかを関内から出帆した一行は日本海を漂蕩したが、浪は高く、船内には海水が入り込むやで正に生死を賭しての航海であった。侍医酒井玄洋好済はあまりの難航に見兼ね、松前家に武田源氏の象徴として相伝されてきた諏訪法性の兜を、稲村崎の新田義貞の故知にならって海に投げ捨て、海神の鎮まるのを願ったという(“松前懐古座談会記録”昭和六年)。20日夜は烈風にさいなまれながら塩吹海岸に吹き寄せられ虎口を脱して洋上に出、21日夜九ツ半時(午前1時頃)津軽領内東津軽郡平館に漂着した。同所守備隊長野呂源太郎は早飛脚をもって藩庁に次のように報告している。


藩主一行の船出した関内浜

 昨二十一日夜九時半頃平館臺場沖江松前志摩守様並御家中共着船相成明ケ八時過平館市中ニ上陸し、然ル処家老蠣崎民部申ニハ所々戦争相成不得止事江差引去又々進撃ニ相成夫よりハケ村熊石ト申処江逃去又々差迫無拠、熊石村より一里西セキナイト申所ヨリ出帆致し、十九日暮六ツ半時(午後七時)乗船、天明帆ヲ揚ケ汐吹村之沢中ニ於テ日暮ニ及ヒ風合悪シク一夜碇泊二十一日天明再帆ヲ揚、同夜九ツ半時平館江着、然処船中ニ而御姫様一人死去之由、尤年齢五歳ニ相成候由、然ル処御当地ニ葬度旨挨拶ニ及申候。尤上陸御人数名前別紙差上申候。
 上陸之節隊長野呂源太郎並隊中一統出張致候ニ付一通リ申上候。
 松前乗船御人数調
一隠居清■(雨かんむりに月)院様
一御子様三人
一殿 様
一御前様
一若殿様
 侍女双方ニ而七人
 御家老
 下国 安芸
 御名代 蠣崎 民部
 御家老

 尾見雄三
 軍事方 田崎 東、鈴木織太郎、谷 十郎
 軍艦(監)方 蠣崎清彦、武川市逸
 武器奉行 岡本 勇
 (以下三十有餘の従士及び従者十三人の姓名を此処に略す)
御人数惣締 七十一人
右之通ニ御座候。以上
 十一月二十二日
 平館斥候
 小田切 亀吉
 江利山 恵次郎
 三 浦 態太郎
 (竹内運平筆“箱館海戦史話”による)


藩主徳広の漂着した平館(青森県東津軽郡平館村)

藩主徳廣の津軽落を知り、さらに熊石から慕君出帆した家臣達もあり、岩谷鼎士外16名の家臣達は、熊石村次郎右衛門(岸田)の三羽船の水主9人が乗り、21日熊石を出航し、22日午後三厩村(東津軽郡)に到着したことが、次の報告で分る。
 覚
 乍恐以書付奉申上候。今昼九ツ時(正后)江差在熊石村次郎右衛門三羽船之頭水夫九人乗ニ而松前様御藩左ニ
 岩谷 鼎士  酒井 強作  酒井 淳蔵
 金田普右衛門 品川 藤五郎 池浦 嘉三郎
 目谷 小平太 鎌田十万里  笹川 高節
 高井 孫作  高橋 覚三  金賀 友太郎
 富山 刑部  佐々木斉宮  間 篤三郎
 下部ノ勘次郎 同左衛門
 締 十七人
 右之通上陸仕候ニ付承候処、松前様当月朔日浅(厚沢)部江被遊御着、同十二日同所御立退ニ而江差江御泊同十三日十四日同所御滞留、同十五日同所御出立乙部村江御泊、十六日同所御立川平(蚊柱)ニ御泊、十七日同所御出立セキナイ江御泊、十九日夜八時頃二百五十石位之船ニ而御家族及御家来四十人位御供ニ而御国表江御立退之御積ニ而被遊御出帆候由。尤前書十七人之面々翌々二十一日夕七時頃熊石村出帆仕御殿様御跡相慕申度心底之由然ニ城下ヨリ相廻賊徒二百五六十位江差表江参候由、尚又当月十二日木間内口より賊徒之間者四人参候ニ付切殺候処山中より二百人位押寄、笹小屋ト申処ニ而戦争ニ及候処賊徒十三人位モ二十二時計宛鶉村ニ而戦争其節賊五六十人位討死松前勢五人手負討死残賊徒同所相固罷在候由。其外当月十五日回天(ママ)丸ニ而江差江賊徒三百人位上陸仕尤右船之義ハ岩江乗上ケ水船之体ニ而江差江押寄同十八日トツリ(ママ)村ニ而一戦ニ及ヒ今日頃ハ熊石辺江賊徒共押寄候由ニ御座候。如何ニモ松前松ニ而度々之戦ヒ殊ニ小勢之処より手段ニ難及様子ニ御座候。乍恐此段御達奉申上候間、宣敷奉願候。 以上。
 十一月二十二日
 三厩町名主
 蠣崎 猶右衛門
 ○同二十三日朝相達御徒目付より
 (前掲史料による)
 この一行は熊石から三厩までを一昼夜を得ない状況であるから、これは全く異例の速さで、恐らく北西の強風に乗り、怒濤の中を突きさいて決死の覚悟で進んで来たことが十分考えられる。


鋭姫を葬った場所(松の木の根元)(青森県東津軽郡平館村福生寺境内)

 藩主徳廣と同行した先代第17世崇廣の五女鋭姫が船中で船酔のため、11月20日年5歳で没したが、遺骸は取り敢ず平館福生院に仮葬し、明治3年8月松前法幢寺に帰葬しているが、いかに戦争中とはいえど一掬(きく)の涙を禁じ得ない。また、長永丸は乗員全員を下船させた後、岸礁に触れ沈没した。
 また、関内から藩主徳廣一行を乗船させた長永(栄)丸の船主目谷又右衛門に対しては松前藩(館藩)から次の賞詞が贈られ、さらに士分の扱いを受けている。
 熊石村
 目谷又右衛門
 客冬御国難之時に当り関内御開纜之砌、年来之御恩沢を体念想像し、御乗船之義に付不一方尽力。殊今夏御■(不明)復之御場合柄を致恐察献金御用途相弁候条奇特之事に候。仍而御沙汰可被成之処、会計御逼迫ニ付迫而御行立まで御賞詞被成置候。


広瀬松蔵に対する松前藩の感状(熊石町教育委員会蔵)


広瀬松蔵官軍肩章(熊石町教育委員会蔵)

 巳(明治二年)十二月
 管 事 局■(角印)
 また、この長永丸の船頭として乗り組み、決死の操船をした関内村の広瀬松蔵は、平館到着後、官軍々艦の水先案内として甲鉄艦に乗り組み、九度の海戦に操船指導したことによって、官軍錦章を拝受して士分の扱いを受け、後、松前藩から感状を受けている。

藩主徳廣の死亡

 22日平館に着到した藩主徳廣ら一行は、津軽藩の厚遇のうちに油川(東津軽郡)を経て浪岡に泊し、25日弘前に至り、薬王院をもって仮営とし、次のように太政官に届け出た。
 今般脱走の賊襲来に付家来共より御届申上置候通り苦戦尽力仕候得共小藩微力防禦行届兼一旦津軽弘前に引揚げ薬王院に謹慎罷在候間此段御届申上候。 以上
 辰十一月二十五日
 松前 志摩守
 辨 事 御 中
というものであるが、これに対し太政官は謹慎に及ばずとの下札をもって書類は返却された。薬王院に在った徳廣は敗戦の衝動と病状亢進のため、夫人と世子のみを枕頭に置いて床臥していたが、11月29日戌刻(午後8時)次のような遺書を残して自刃し、25歳を一期(ご)として絶命した。
 此度不慮の義に付福山城は賊徒の為め被掠奪此処迄落延未だ聢と回復の策無之処身体病弱且懶惰の性質寸功も無之長存候事奉対皇上無面目此処に而自尽相果候もの也。
 十一月二十九日
 徳 廣
 (“松前奉讃会記録”)
 しかし、前述したとおり、徳廣は肺結核と痔疾のため人と逢うにも側臥して逢う程の病人で、しかも柳崎から乙部を経て熊石に向う途中もうわ言を言っていて廃人同様であったといわれ、この自刃に疑問があり、種々調査の結果、家老尾見雄三書付のなかに「殿様敗戦の衝動と積労の余り病状亢進し、二十九日朝まだき鮮血口中に溢れいで止まる処を知らず遂に絶命せり」とあるので、徳廣侯は肺結核が亢進しての死亡であったが、敗戦退避中に藩主が他領で喀血死亡したとあっては、藩の面目も立だないので、重臣が協議して遺書を書き、自刃に見せかけたものと考えられる。


 第7節 松前家臣の降伏と和議

 乙部付近から熊石方面に展開し、藩主の南遷までを必死になって喰い止めていた松前藩兵約500は、到底勝利は覚束なかった。藩主徳廣の関内出船を知った総長新田主悦、副長蠣崎衛士が11月20日賊将佐久間悌二、相馬主計と門昌庵に会して降伏の意を表明した。この時点で家臣の多くは四散し、残ったもの300人は武装を解除され、正式の和議は松前で行うこととし、徳川脱走軍の監視のもとに雪中を松前に向って行進した。
 一行は松前に入ると焼け残った法華寺と正行寺(共に松前町字豊岡)に監禁されていたが、12月1日賊将(人見勝太郎と考えられる)と新田主悦、蠣崎衛士が会見し、和議は成立したが、その際の徳川脱走軍側の申し渡しは次のとおりである。
 申 渡
 一主君之先途ヲ見届度者ハ願ノ通向地ヘ
 渡海差許申、尤モ早々渡海可致事。
 但脱釼ニ不及銃砲等持候義ハ不相成、且銘々所持ノ地面并家作一切売禁ス、妻子召連ノ義勝手次第タルヘシ此方ニテ不養候事。
 一我兵隊ニ加リ度モノハ帯刀ヲ許シ所持ノ地面家作ヲ売払共或ハ妻子ヲ養置候共勝手次第、然レ共当人ハ五稜郭其他我ヨリ命令スル地移住スヘシ事。
 但食料給料ヲ与フル我兵士ニ同シ、尤役々ニ任スル者ハ外並之通与フル事。
 一帰農帰商ヲ願フ者ハ双刀并武器差出シ且許ヲ得并許之印章ヲ請取而後被命地移住農商可致、若達テ松前江差等ニ住居相願候者ハ人物其外吟味ノ上可差許尤容易ニハ難聞届事。
 但他所ヘ移住ノ者ハ所持ノ家作賣払代金少シモ不相渡候事。
 一帰農帰商之者ハ住居ノ土地人別ニ入百姓ハ其所之村役人町人ハ其ノ町役人支配可受事。
 一蝦夷地ヘ移住イタシ候者ハ場所ニ寄少々手当差遣候事。
 右之條々申渡后七日ヲ限リ決心可願出候事。
 十二月
 (“北門史綱・九”による)
 この和議の成立によって、家臣の多くは大・小の所持だけを許され、藩主を慕い降伏の恥をいつの日か必ず雪ぐことを心に誓いながら、津軽に渡海する者が多かった。
 “北門史綱”及び“松前藩福山日記”によれば、松前藩の前記した家臣の渡航者以外の津軽渡航者の主なものは次のとおりである。
 12月1日 参政松井屯外3名青森着
 12月3日 用人古田信和外21人青森着
 12月6日 寄合蠣崎廣興外20人青森着
 12月4日 蠣崎勇喜衛外20人三厩着
 12月15日 家老松前右京外61人三厩着
 明治2年
 1月17日 西川寛作外36人青森着
となっており、この外、便船を得て各個に渡海する者が多かった。
 松前藩の降伏により仮りに蝦夷地を占拠した徳川脱走軍は、12月15日蝦夷地平定の祝賀式を挙げ、箱館在港の軍艦は百一発の砲を放って祝い、士官以上の入札によって主宰を公選した結果、5位以内は
 榎本釜次郎 156点
 松平太郎 120点
 永井玄蕃 116点
 大鳥圭介 86点
 松岡四郎次郎 82点
等856点(札幌秋野家蔵“箱館戦争記録”)で、この結果、榎本釜次郎を総裁とし、五稜郭を本拠とし、慶応の年号を継承することとし、幹部協議の結果、次の役員を選出し蝦夷他の統轄管理と戦争体系の強化を進めることとなった。
 総裁 榎本釜次郎
 副総裁 松平太郎
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭助 同並 土方歳三
 会計奉行 榎本對馬 川村録四郎
 開拓奉行兼砲臺建築掛 澤太郎佐衛門
 箱館奉行 永井玄蕃 同並 中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎次郎
 松前奉行 人見勝太郎
 海陸軍裁判役頭取 竹中春山
 軍艦頭 甲賀源吾
 軍艦頭並 松岡盤吉 根津勢吉 小笠原賢蔵 古川節蔵 浅羽甲次郎
 歩兵頭 本多幸七郎 古屋作左衛門
 歩兵頭並 瀧川充太郎 伊庭八郎 大川正次郎 春日左衛門 星恂太郎 天野新太郎 永井蠖伸斎 渋澤誠一郎 今井信郎 三木軍次 畠山五郎七郎
 砲兵頭金 關廣右衛門 中島三郎助
 工兵頭並 吉澤勇四郎 小笠辰之助
 騎兵頭並 宮重一之助
 (竹内運平筆“北海道史要”による)
 この結果、江差奉行が設けられ、その職には一連隊長の松岡四郎次郎がこれに当り、その管轄範囲は東は石崎から西は瀬棚までとし、熊石にはその一部を分駐させて、軍事状況の監視と行政を行っていた。
 徳川脱走軍の蝦夷地占拠中の行政についての史料は極めて少ないが、脱走軍側は軍資金が全くなく、箱館到着後贋金を造って通用を強制して通貨の混乱を招き、さらに戦争中のため本州よりの入米がないため、生活不安が重なり、物価は高騰し、村々にまで松前藩兵捜しがあり、また、政府軍の進攻の噂等による不安のうちに住民は生活を続けなければならなかった。場所請負人や大店の場合、場所請負金の2年分前納、大店の場合は冥加金の献金等があり、在方でも資産家に対しは借上金を強要しており、“荒井家文書”のなかには、明治2年の次のような領収書が残されている。

領収書

 第8節 明治2年己巳(きみ)の役

 箱館戦争とは徳川脱走軍の上陸から明治2年5月18日の五稜郭の開城までを総称し、これを細分すれば明治元年の分をこの年の干支によって戊辰の役、同2年の分を己巳の役と分類している。
 松前藩は第18世藩主徳廣が徳川脱走軍に追われ、津軽に流寓中に病没し、その後継藩主には徳廣の長子勝千代(後の修廣子爵)が5歳で襲封し、第17世藩主崇廣の子で、大叔父に当る敦千代(後の隆廣男爵)が後見に当ることが決定し、襲封聴届の御沙汰書が明治2年1月9日に伝達され、禁裡守護中であった敦千代にも急ぎ帰国、脱走徒の討伐をするよう沙汰があった。
 敦千代は官軍(政府軍)の徽章である錦の肩章を拝受した銃隊100余名を引具し12月22日京都を発し、12月12日江戸藩邸に入り、20日には松前藩が箱館征討の先鋒の大命を受け、菊御紋章の御旗を下賜され、同日奥州街道を進軍した。一行は2年2月19日弘前に着し、油川から青森に到る間には江戸藩邸、岩代梁川、羽前東根諸所詰の家臣、松前から渡海の家臣等全家臣が出迎え、松前藩の士気は大いに上った。


明治2年戦役要図)

 新政府は青森に本営を置き待命中の清水谷箱館府知事を現官のまま青森口総督として、脱走軍平定の大権を執らせ、12月中に長州兵、徳出兵が青森に入り、山田市之丞(後顕義)が参謀として着任した。1月22日清水谷総督臨場のもと青森石神ケ原各藩兵の調練が行なわれたが、親兵、長州、弘前、伊州、筑後の兵に互し、松前藩8小隊(400人)がこれに参加した。3月3日の青森駐在各藩兵員の調査によれば兵員860人、外に郷夫366人であるが、これを1番隊から8番隊とさらに遊撃、糾武、奇兵の各隊に分けている。この編成表は次のとおりである。

隊名 隊長 副長 軍監 士数 徒士数 足軽数 輜重数 その他
1番隊 麓 逸学 岩谷 鼎士 坂垣 胖 14 10 24 55
2 〃 厚谷 清 工藤 大之進 蠣崎 右忠 14 25 56
3 〃 南条小弁司 鈴木 守 秋野 菊美 18 20 51
4 〃 佐藤男破魔 高木 早雄 藤田 鋭騎 13 29 53
5 〃 竹内 学 佐藤 右馬司 湊 浅之進 14 24 54
6 〃 松崎 数矢 中村 操 枚田 大衛 15 24 54
7 〃 松尾源太郎 増田 鼓平 辻江 輔 10 40 56
8 〃 氏家 左門 和田 斗平 村上 温次郎 12 27 54
遊撃隊 新井田早苗 竹田 泰三郎 小林 頼母 15 33 55
糾武隊 松崎 邊 蠣崎 清彦 井本 新 14 26 52
奇兵隊 蠣崎 衛士 1~7番奇兵手 1隊6人編制 36     43
施条砲掛 田中孫兵治 煩司
中村 厚司
      11
小忽徹炮掛 教師
稲川竹八郎
煩司
稲川竹八郎
      11
 1、2、3番隊統轄
青色隊 総長
松前 右京
参政
松崎 多門
軍事方
下国 美都喜
今井 晦輔
17         17
4、5、6、7番隊統轄
緋色隊 総長
尾見 雄三
蠣崎 靭負之助
謀士
高松 太郎
新田 主悦
布施 泉
明石 廉平
吉井 前
23         23
8、遊、糾、奇隊統轄 
白色隊 総長
下国 東七郎
蠣崎 多浪
福井 淳蔵
村山 左富 21         21
本陣 軍事総裁
尾見 雄三
総官長
松前 右京
蠣崎 靭負之助
下国 東七郎
器機奉行
竹田 得中
      11
政府軍各隊先導   49       49
その他          
   245         728

編成表

 松前藩の戦備については、半数以上の家臣は着のみ着たままに大・小といういでたちで、装備の充実に苦心し、江戸藩邸の吉井前は政府に5万両貸し下げ方を願い出たが、3万両の貸与を受け、さらに軍需物資として政府から、
 一三ツバンド銃 百挺、一胴乱 百、一弾薬 四万発、一雷管 四万四千発、一フランケット 二百枚、一洋服 四百五十枚、一足袋 千足、一蠟燭 五櫃、一ミツマタ
 十二月
 (“布施泉履歴”)
が交付され、また、鉄砲500挺を購入した。また、松前・江差の領民からもひそかに軍資金が届けられ、さらに弘前、黒石の両藩からの援助もあって徐々に装備、兵器も充実し、各兵員には鉄砲1挺、弾薬100発、ラシャ筒袖一着、毛布一枚及び錦章が与えられた。2月23日現在で青森付近に駐在していた兵員は“津軽承昭公伝”によれば、その総数は6146人で数に於ては徳川脱走軍の二倍に近い数に達している。さらに3月には鹿児島藩兵、水戸藩兵、4月熊本藩兵等の参着があり、政府軍陸軍は6944人に達していて、それに海軍兵力、軍夫を加えると、政府軍の総数は1万1952人に達していて、3月以降に於ては海軍の到着次第、渡海征討のできる体制となった。
 3月26日は総長官陣代蠣崎民部は藩兵員を集め次のような悲壮な訓示を行っている。
 旧冬寛裕院様(徳廣侯)御逝主ノ儀ハ脱賊会戦ノ為メニ四百年来ノ封主ヲ被奪候段、上ハ 天朝御先代様ニ対シ奉リ、下ハ衆民ニ向ヒ御申訳無之ノ餘リ全ク以テ御憤死被遊候事闔藩ノ知ル所ニテ、即チ賊手ニ掛リテ御果被為遊候モ御同然ニ候。依之此回恢復ノ奮戦 寛裕院様御本主ヲ中軍ニ奉シ三軍喪服着用誓テ亡君ノ御志ヲ継述地下ノ御憤魂ヲ可奉慰候。万一及敗軍候ハ御本主ノ御供トシテ三軍残ラス戦死ノ覚悟ニ可有之候。
 己三月二十六日
という藩主徳廣の悲憤と各兵員の受けてきた辱を晴す新たな覚悟で戦場に臨むことを誓い合った。
 翌27日には松前藩の軍則五則が発せられ、
 一、兵器ヲ失フモノハ罰ス。
 一、一定ノ食糧ヲ不所持ノモノハ罰ス。
 一、草鞋ノ用意二足ヨリ不足ノモノハ罰ス。
 一、酸味ヲ用意スベキコト。
 一、退テ斬殺セラレンヨリ進ンデ生命ヲ全フスベシ。
と定めている。

乙部材への上陸
 蝦夷地奪回のため政府軍は続々青森に結集したが、渡海に必要な海軍及び輸送船の到着が遅れていた。これは政府軍自体に軍艦が少なく、また、政府軍側諸藩からの借上艦を含めても対等にならないという状況であったからストン・ウォール・ジャクソン号の政府軍取得が海軍戦力の向上にどうしても必要であった。
 この船のことについてはすでに第4節で記述したので避けるが、局外中立の立場から静観していたが、明治元年12月になって、徳川脱走軍について諸外国は、国内反乱軍とみなして局外中立を解消したので、1月15日政府は40万ドルの大金をもって買収し、甲鉄艦と名付て戦闘装備をし、3月8日甲鉄と薩摩藩の春日、長州の丁卯(ちょうぼう)、秋田の陽春と豊安、戊辰、晨風、飛竜の4輸送船で艦隊を編成し品川を出帆した。
 一方、旗艦開陽丸を失った徳川脱走軍にとっては甲鉄が最大の強敵で、この甲鉄を葬むるか、拿(だ)捕することが、海軍力を保つための最大の緊急事であった。両者は互に間諜を放ってその動向を窺っていたが、徳川脱走軍側は政府軍艦隊が3月25日頃に南部の宮古港に寄港することが分った。そこでこの甲鉄乗っ取りのため奇襲をかけることにした。これには回天、蟠龍、第2回天(高尾)の3艦に陸兵を乗せて宮古を急襲し、甲鉄を拿捕する計画であった。しかし、時化のため2艦が遅れ、3月25日の早暁、回天1艘で宮古港に入り甲鉄に肉迫し、空前絶後の海戦となったが、甲鉄に積んでいた2門のガントリック、ゴーン(機関銃)の威力によって失敗し、回天は引き返した。この作戦で第2回天は南部田の浦で政府艦に砲撃され自焼した。政府軍艦隊は26日7船艦で北上し青森に入港した。戊辰丸は宮古で破損したので、負傷者を乗せ横浜に引返している。4月初旬には政府軍の朝陽艦と薩摩藩の延年艦が到着し、また、兵員と軍需品の輸送のためアメリカのヤンシイ、イギリスのオーサカ、アルビヨン、プロシアのオルカン号等の汽船と、16艘に及ぶ和船を雇い上げ、進攻体制はでき上った。
 4月5日政府軍参謀局は第1次蝦夷地進攻先鋒軍を発表した。それによると長州300人、伊(予)州300人、福山300人、松前400人、大野100人、徳山100人の計1500人で、上陸地点を江差の北方乙部村とし、上陸成功後は4隊に分け、松前口、厚沢部の2地域に進出することとした。各兵員は鉄砲、天幕、毛布、合羽、食糧のほか、弾薬は50発限、予備として50発を携行、物資輸送の小荷駄人夫は兵員100人に対して30人の割で配置した。また、戦闘中の合言葉として「問=雲、答=山」、「問=夜、答=明」、「問=雨、答=晴」の暗号を交互に使い、同志討を防ぐ対策としている。
 4月6日松前藩兵は輸送船ヤンシイー号に乗り組み、他藩は飛竜、豊安、オーサカ号等に分乗、多くの上陸用の小舟を曳き、甲鉄、春日、丁卯、陽春の4艦に守られて青森を出航したが、風雨が止まず東津軽郡平舘村沖に仮泊、8日平館沖出帆、9日早朝乙部沖に到着した。
 ヤンシイ号中の松前藩兵は1番隊、2番隊を中心とした青隊(総長松前右京)の144人と8番隊、糾武(きゆうぶ)隊、遊撃隊、奇兵隊の白隊(総長下国東七郎)の216人、ほか田中孫平治隊の大砲一門と人夫91人、計451人であるが、第2次渡航隊として青森に残留した松前藩兵は銃隊5小隊262人、総長付有志27人、大砲隊11人、器械方7人、会計方4人、計311人、さらに嚮導46人、青森詰7人、総長付銃卒14人、病人5人で、松前藩の実質作戦参加人員は834人となっている。
 9日早朝乙部に上陸した政府軍の第1陣は、兵用地誌に詳しい松前藩兵を各前線の先兵に起用し、糾武隊が斥候として上陸を先登し、さらに1番隊以下が上陸、これを迎えて江差から馳付けた徳川脱走軍と、村南の坂上で戦闘を開始したが、領地回復と前年の屈辱を晴そうとする松前藩兵の戦意は強固で、それに長州藩を主体とした近代装備と戦争体験の豊富な政府軍を加えての蝦夷地奪回作戦は、背後には十分な武器、弾薬、食糧の補給もあって、藩兵は1日も早く松前城下の回復を望んでいた。


政府軍上陸の乙部村現況

 この9日乙部上陸と同時に松前藩の奇兵隊半小隊25人を熊石村に派遣し、熊石番所を屯所として徳川脱走軍の警戒と、熊石番所の業務を継続したが、この駐屯は戦争終了時まで続けられた。

各進行軍の状況松前口
 政府軍の蝦夷地奪回の反攻を予期していた徳川脱走軍は、五稜郭を本拠として道南主要地城に次のように兵力を配置して、来るべき反攻に備えていた。
 五稜郭 800人
 箱館 300人
 松前 400人
 江差 250人
 福島 150人
 室蘭 250人
 鷲ノ木 100人
 森、砂原、川汲、有川、当別、矢不来、木古内各2、30人ずつ
 (小杉雅三著“麦叢録”による)
 特に江差には松岡四郎次郎を奉行に、隊長三木軍司の一聯隊を置き、また、奪回作戦の要である松前には人見勝太郎を奉行に、陸軍隊、遊撃隊、彰義隊、工兵隊、砲兵隊を増強し、特に城西立石野を主戦場に想定し、砲台の強化、地上には高さ約1メートルの胸壁銃座を縦横に配置していた。
 9日夕刻江差を占拠した政府軍は、10日には江良町村(松前町)に進んでいるが、上ノ国では松前城奪回軍と苫符(現大留)から分れて笹小屋、稲穂峠を経て木古内に到る軍とに分れた。松前城奪回軍は松前藩兵が先途になっていて、前年の屈辱を晴らし、1日も早く城下を解放したいという必死の念願もあり、また、先兵という立場から後続の長州、徳山藩兵の到着のないのに軍令を冒し、11日には江良町村から札前野(松前町、市街まで11キロメートル)にまで進出した。これに対し脱走軍側は江差より敗走した一聯隊を加え、城西立石野で迎撃する体制をとり、その先兵は札前野下のトッチョの沢に埋伏していたので激しい銃撃戦となり、政府軍は江良町まで敗走し、松前藩側は戦死14名、戦傷17名という大被害を受け、さらに小砂子村(現上ノ国町)まで後退し、また、政府軍総轄三刀屋七郎治の命令によって上ノ国村まで退避した。
 上ノ国で休養と弾薬の補給、後続部隊の投入を得て14日午前7時上ノ国村を出発、同夜は石崎村(上ノ国町)に宿泊し、15日には小砂子村と原口村(松前町)の中間地点に進出し、徳山藩兵と共に布陣したが、松前藩兵はまた進撃して原口村まで進出し、三刀屋統轄より命令違反を追及され、小砂子村に後退した。


札前野激戦地(松前町)

 この日政府軍は第2陣1926人、役夫105人を茂草村に揚陸させて松前口攻撃軍に参加させる予定であったが、作戦の遅れで16日江差に上陸させることに変更した。
 政府軍は後方よりの火器、弾薬、食糧の補給を得て17日一挙に松前城を奪回する作戦を樹て16日には原口村まで進んだが、徳川脱走軍側はこれを察知し、同夜約500の兵力を江良町野に布陣、17日朝ここで約1500の政府軍と衝突、激しい銃撃戦と白兵戦を展開した。政府軍は多くの野戦砲を持っていたほか、海からは春日艦が援護射撃をしたので、脱走軍側は清部村に後退した。この17日政府軍艦の甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、飛竜の5艦が松前市中の各台場、立石野等を砲撃した後、これに加わったので、脱走軍側は折戸、立石野に後退した。
 脱走軍側の兵力は政府軍の約半分の700で、銃器もエンフィールド(イギリス製、前装施条銃)、ミニエー(イギリス、アメリカ等製、前装施条銃)等が多かった(五稜郭開城銃器引渡目録)のに対し、政府軍はスナイドル(イギリス製、後装式施条銃)、レミントン(アメリカ製、後装式施条銃)、スペンサー(アメリカ製、後装式施条銃、7連発)が使用されるという火器、補給共に優位であった。立石野の戦闘は17日午前11時頃から午後4時まで5時間にわたって白兵戦を展開、さらに政府軍は5艘の軍艦が援護射撃をするなどの極めて激しい戦闘であった。この間、松前藩の奇兵隊、遊撃隊、大砲隊が合力して、根部田村(松前町字館浜)の石揚台から中ノ岱、さらに山中から流れ、地蔵山を下って城下に進入し、午後4時には湯殿沢口より城中に突入、白隊下大砲隊長の田中孫平治が三重天守閣上に白隊旗を掲げたので、政府軍艦は砲撃を中止し、松前城は政府軍によって回復した。また、長州、津軽及び松前藩の奇兵隊は長駆脱走軍を追って吉岡村まで出兵した。
 回復した松前城には政府軍参謀原川魁輔が検分して、次の沙汰のあるまで当分の間松前藩に預けることとした。この戦闘で松前藩は16名が戦死し、30名以上が戦傷を負うているが、徳川脱走軍側の被害は大きく、陸軍奉行添役の忠内次郎三、同監軍堀覚之助、同佐久間悌二、遊撃隊頭取岡田斧吉、同本山小太郎、一聯隊頭取杉山敬次郎ら67名が戦死し、遊撃隊長であり幕末の剣豪として名を馳せた伊庭八郎や、フランス軍人参謀カズノフも戦傷を負っている。

二股口の攻防戦
 政府軍の箱館攻撃軍の主力は厚沢部川から木間内、稲倉石、中山峠を経て大野二股、大野方面に進攻する計画で、その主力は松前藩の1、2番隊を中心とした青隊(総長松前右京)指揮の200名と、長州藩兵、福山藩兵、津軽藩兵各100名、計500名の混成軍で、これを松前藩兵が誘導し、4月9日には鶉に宿陣、10日には館村、木間内に進出した。この中山峠越の経路は箱館に進攻する場合の最短コースであったので、徳川脱走軍も戦略的な重要性を考慮し、土方歳三を指揮官とし、伝習隊、伝習士官隊、衝鋒隊、砲兵、工兵等300余名を配置し、上、下二股を主陣地とし、大野川上流の天狗岳、台場山等の各所に胸牆陣地、砲座を構えて政府軍の進攻を阻もうとしていた。
 この二股口の戦闘は12日午後3時頃から開始され、脱走軍側は十六か所の胸壁から乱射し、彼我の銃撃戦は、翌朝午前7時まで16時間に亘る激戦となったが、政府軍は遂にこれを抜くことが出来ず、後退した。この戦闘の状況を、脱走軍側の小杉雅三筆の“麥叢録“は、「此役我兵ノ費ス所ノ弾薬殆ンド三万五千発ニ及ビ、彼兵ハ『スペンセル』、『スナイドル』等ノ銃ヲ用ヒシト見へ銅銭包(パトロン)ノ殼数万地上ニ散布セシ」と戦闘の激しかったことを記録している。政府軍の第1次先鋒軍の装備は一人に付携帯銃弾は100発であるのに対し、脱走軍側はこの2日間で、一人116発以上も射っており、政府軍の後退は弾薬が尽きての事であったと考えられる。
 4月16日には政府軍第2陣が江差に上陸したが、松前藩は3、4番隊を下国東七郎が指揮してこれに参加し、薩摩藩、水戸藩兵等2400人がこの戦線に投下された。この二股□は堅塁で抜くことの出来ないことを知った松前藩兵は、安野呂村(厚沢部町)から杣道ではあるが、山中を経て内浦湾の落部にいたる小径があったので、この道を軍用道路に開鑿して、背後から二股口を挟撃する計画を樹て4月17日から着手した。また、政府軍は援軍と弾薬、食糧が補給され、また、脱走軍側も滝川充太郎指揮の伝習士官隊を増強して決戦に備えていた。


大野町二股激戦地跡

 4月23日福山藩兵の警備していた天狗岳陣地に脱走軍斥候が近づいて交戦となり、同日午後4時頃から翌々25日にかけて激戦となり、政府軍々監駒井政五郎が銃弾を受けて戦死を遂げている。この戦闘の状況を前述“麥叢録”は、
「廿三日敵敢死ノ兵ヲ選ミ又二股ヲ攻ム。我兵前ノ如ク壁ニ拠り之ト戦フ、散更ニ兵ヲ操替頻ニ進我兵前ノ如ク壁ニ拠リ之ヲ守リ不進不退閧(トキ)声山谷ニ響キ打違フ、弾丸疾風ノ花を散スニ似タリ。五稜郭ヨリハ瀧川充太郎頭並二小隊ヲ率ヒ応援ノ為出張ス。此戦争廿三日ヨリ廿五日朝迄ノ連戦ニテ、大隊有餘ノ兵各千発ニ近キ発砲故ニ銃暖ヲ生シ持能ハズ、由之各々桶へ水ヲ貯へ置三、五発ニシテ筒ヲ冷シ代ル代ルニ弾ヲ籠此ノ如クナス事二昼夜亳モ間ナク奮戦ス。」とこの3日間の戦闘がいかに激烈であったかを物語っている。政府軍は長州藩、薩摩藩の精強な兵と近代装備をしてこれを討つことが出来なかったのは、土方歳三という卓越した指揮官のもとで、迎え撃つ脱走軍側の士気が昂揚していた結果で、彼等のパトロン薬莢(やつきよう)は精度が悪い黒煙火薬で、射撃の度に黒煙が上がり、この戦の後全員の顔が真黒で、烏の様だと笑い合ったという話も残されている。
 この徳川脱走軍側の二股防禦軍の健闘によって政府軍はこの堅塁を抜くことが出来ずにいたが、29日にいたって松前、木古内から南下する政府軍が矢不来、富川の防禦線を突破して渡島平野に進出したことから、五稜郭の榎本総裁は二股口が挟撃されることを恐れ、撤退を命令し、同日土方らは撤収し、30日五稜郭に入った。
 安野呂村から落部村に出、ここから迂回して二股の背後を突こうとして行動していた松前藩の3、4番隊が本郷村(大野町)に到着したのは、土方軍が撤退した後の5月2日のことである。

箱館での戦争と脱走軍の開城
 青森口総督清水谷公考(きんなる)は4月28日江差に上陸し、直接戦闘の指揮に入った。29日矢不来、富川の脱走軍側の堅塁を激戦の末抜いた政府軍は、5月1日以降は七重浜から有川方面に進出し、中山峠から二股を越え大野を経て進出した南下軍が合流して、渡島平野を制圧する体制ができた。これに対し脱走軍側は五稜郭を本拠に、箱館、弁天台場、津軽陣屋、四稜郭を足場に市内の防禦に全力を尽す作戦を樹てた。5月2日の夜中には脱走軍副総督の大鳥圭介が3小隊を率いて七重浜を攻撃して政府軍を敗走させ、同3日には大川村(函館市桔梗町)に進出していた大野駐屯軍を衝鋒隊、額兵隊、また、別動隊は七重浜に夜襲をかけるなど脱走軍の動きは活発であった。しかし、兵員、火器、物量共に優位な政府軍は日に日にその包囲網を縮めていた。
 一方海軍に於いては、旗艦開陽を失って脱走軍の劣勢は否めなかった。5月1日脱走軍の千代田艦が政府軍艦を警戒しながら航行中、弁天台場前の浅瀬に乗り上げ、艦長森本弘策は使用不能と見て、機関を破壊して箱館に上陸した。その後満潮となって艦は離礁して漂流し、政府軍の甲鉄に捕獲された。その結果、箱館湾内には弁天台場を背影として回天、蟠龍の2艦があり、政府軍は甲鉄、春日、丁卯、朝陽、陽春が箱館港口から有川沖に展開して2日、3日、4日と海戦を続けたが、5日には蟠龍が汽罐を撃たれ運転の自由を失った。6日には弁天沖から七重浜にかけて艦船の進入を防ぐため設けられていた索條の切断作業が完了し、政府軍艦の湾内進入が容易となった。
 5日には回天が甲鉄の攻撃を受け機関に故障を生じ、弁天台場脇に乗り上げ、浮砲台として砲撃を続けた。この海戦での回天の被弾は105発といわれ、政府軍の春日も17、8発、甲鉄は50余発、朝陽14、5発(石井勉筆“徳川艦隊北上記”)であったといわれ、当時の箱館地方の俗謡にも『鬼の回天穴だらけ』と歌われる程の奮戦であった。
 箱館戦争の終焉(えん)を決定づける戦いは5月11日の海陸決戦であった。政府軍は兵をひそかに箱館市街の背後に送り込んで、市内の占領を企画、11日の早暁決行に移した。この日暁暗、薩摩、筑後、長州、松前の400余の奇襲部隊は豊安丸で箱館山背後の寒川に上陸し、飛龍丸乗船の伊州、津軽の300余は市街西部の山背泊に上陸し、山頂から市街山の手に進出し、弁天台場を背後から攻撃した。脱走軍側は台場の門戸を閉鎖して孤立化したので、両軍は市街の掃討戦に入り、さらに政府軍艦もこれに協力して市街の砲撃をした。一方、有川方面の政府軍も有川、大川方面から市街に進出し、五稜郭から直線コースに当る一本木(現若松小学校付近)の関門付近が主戦場となった。同日午後松平太郎、土方歳三らの諸将が市内奪回のため一本木関門を攻撃したが、付近に布陣した政府軍と銃撃戦となり、土方は近くの異国橋付近で戦死し、また、陸軍隊頭春日左衛門も戦死した。この一本木関門付近の銃撃戦では松前藩の6番隊(隊長松崎数也)、8番隊(隊長氏家左門)が主力となって果敢な戦闘を展開しており、土方を狙撃したのは松前藩兵であるといわれるが、確証はない。この日の戦闘の結果、五稜郭、津軽陣屋、弁天台場は孤立し、脱走軍の降伏は時間の問題となってきた。
 また、この11日、海軍に於ても雌雄を決する海戦が展開された。回天は弁天台場付近の浅瀬に乗り上げ、備砲13門を前面に出し、蟠龍は港内を運転して、5隻の政府軍艦と砲戦を展開していたが、その一発が朝陽艦の火薬庫に命中し、船体は真二つとなって有川沖に轟沈した。しかし、脱走軍側の2艦は持てる砲弾の全部を使い果したので、乗員は弁天台場に上陸、同夜、政府軍兵が両艦に火を政ち、偉容を誇った徳川脱走軍の海軍は全く消滅するに到った。
 12日以降、海軍力を失った徳川脱走軍に対し、政府軍は甲鉄が有川沖から五稜郭を砲撃し、陽春は大森浜沖から津軽陣屋を砲撃し、特に甲鉄の放った主砲70斤砲は郭内に命中し、庁舎の望楼を倒し多くの死傷者を出したが、“南柯紀行”(大鳥圭介著)では、「その後も屢々人を害し衆を悩ませり、ついに夜も家内に臥することあたわず、土堤、石垣を楯となし、畳を布き、屏風を建てゝこれを防げり」と砲撃の的確さを語っている。建立当初は砲撃に対して絶対安全な場所として建設されたはずの五稜郭が、僅かの時日のうちに発達した火砲にさいなまれる結果となり、守る脱走軍将兵の精神的不安をかきたて、脱走者を続出させていた。
 13日箱館市内を奪回した政府軍参謀池田次郎兵衛(薩藩、後陸軍中佐)は、脱走軍側の病院に到り、入院中の会津遊撃隊長諏訪常吉を説いて、榎本ら五稜郭内の脱走軍が無益な抵抗を止めて降伏するよう勧告し、病院事務長小野権之丞、病院長高松凌雲も人道上からの斡旋に乗り出し、五稜郭と連絡をとったが、榎本、松平らは諸将と議したが、諸将は頑強に拒否し恭順の意志のないことを明らかにした。その際の書簡の末尾に『尚々病院罷有候者共篤ク取扱有之趣承知厚意ノ段「トクトル」ヨリ宜敷御伝声被下候。且亦削本二冊釜次郎和蘭留学中苦学致候海律 皇国無二ノ書ニ候ヘハ兵火ニ付シ烏有ト相成候段痛惜致候間「トクトル」ヨリ海軍「アトミラール」ヘ御贈可被下候』(“麥叢録”)と榎本自筆の“海律全書”が贈られ、政府軍からは答礼として海軍参課名をもって麁酒5樽が贈られる等の美談がのこされている。
 14日以降、弁天台場の相馬主計や蟠龍艦長松岡盤吉らと政府軍艦田島圭蔵との接触があり、15日には同台場の食糧が欠乏したので、240人が投降し、同日神山権現台場は262人、16日には権現台場82人が降伏した。この16日政府軍は中島三郎助か守備隊長として守っていた旧津軽陣屋を攻撃し、隊長中島三郎助とその二子恒太郎、房次郎らは刀を揮って激戦し、ついに壮烈な戦死を遂げている。
 同日、榎本は一切の責任を負い自決しようとしたが果せず、他の首脳と共に政府軍に降伏謝罪し、郭内残留の将兵約1000人の助命を嘆願することに決し、同日午後4時頃、白旗を掲げた使者をもってその意を伝えた。
 17日朝6時、榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎、荒井郁之助の4将は降伏談判のため出郭、亀田村神社裏の会見場に於て政府陸軍黒田参謀、海軍増田参謀との間に次のような降伏約条を交換した。
 一総勢六百人内三百人士官。
 一明十八日朝第六字より七字まで榎本等四人出郭申候事。
 一午後一宇より二字迠兵隊出郭。
 一四字より五字まで兵器差出並五稜郭引渡し可申事。 (“箱館戦争と大野藩”による)
という内容であった。此夜の五榎郭内は「総督等衆ト訣飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(“北州新語”)とあって、悲憤と訣別のため痛飲の盃を交した。
 翌18日、4将は亀田村の政府軍本営に出頭し、山田市之丞参謀、有地、不破陸軍々監、前田海軍々監に面会し、次の降伏条約を了承し、投降した。
 一首謀の者陣門へ降伏之事。
 一五稜郭を開き寺院に謹慎の上可奉待天裁之事。
 一兵器悉皆差出可申事。
 この了承によって無条件降伏した榎本ら4将は帯刀を差し出し、轎に乗せられ、長州兵一中隊が護送し、翌日弁天台場の永井、松岡、相馬の諸将も降り、箱館本陣近くの猪倉屋に監禁された。一方、郭内残留の榎本対馬は、兵器、弾薬、食糧等を集積し、受取の前田軍監に引渡したが、山下家文書“五稜郭兵器引渡書”によれば、主なものは次のとおりである。
 一元込銃 百七挺
 一ピストル 四十八挺
 一二ツバンド、三ツバンドミニー銃
 合千六百挺
 一大砲 三十三門
 一米 五百餘俵
 外味噌並干魚其他書籍蒲団雜具類
等と弾薬であった。郭内の兵員は3旗下に分けて収容し、第1旗下伝習士官隊等300余人は薩州、雑兵200余人は親兵。第2旗下は歩兵、彰義隊等200余人は福山、松山藩。第3旗下遊撃、杜稜、神木、一聯、額兵隊335人余は大野、津軽藩が護衛し徒歩で箱館に到り、五か所に分けて監禁したが、その降伏者は1008人(“箱館戦争と大野藩”)であると記録されている。榎本らの領将は21日米船ヤンシー号で青森を経て東京に送られ、他は諸藩預となって、2年にわたる箱館戦争は、ここに完全に終結を見ることとなった。政府軍調査による、政府軍編成参加諸藩の兵員及び戦死傷者数は次のとおりである。

兵隊種類 兵員 職地著日
箱館藩兵 未詳   13人 5人
松前藩兵 1684人   91人 107人
弘前藩兵 2207人 元年10月19日
箱館著
15人 65人
福山藩兵 632人 元年10月20日
箱館著
25人 28人
大野藩兵 170人 同上 12人 30人
長門藩兵 781人 元年11月7日
青森著
18人 51人
徳山藩兵 300人 同上 11人 19人
津 藩兵 199人 元年11月27日
青森著
4人 10人
備前藩兵 541人 元年11月25日
野邊地著尋テ青森ニ轉ス
15人 26人
筑後藩兵 343人 元年11月27日
青森著
1人 9人
薩摩藩兵 293人 2年3月11日
青森著
5人 21人
水戸藩兵 219人 2年3月11日
青森著
7人 21人
親兵3番大隊 未詳 2年3月13日
發遺著日詳ナラス
未詳 未詳
親兵第1・第2大隊 未詳 2年4月11日
發遺著日詳ナラス
未詳 未詳
肥後藩兵 396人 2年4月2日日
弘前著尋テ青森ニ轉ス
   
黒石藩兵 243人 2年4月中
青森著
  2人
甲鐵艦 未詳 2年3月26日
青森港著
7人 33人
陽春艦 未詳 同上   3人
春日艦 133人 同上 6人 14人
丁卯艦 未詳 同上 未詳 未詳
飛龍艦 未詳 同上 未詳 同上
豊安艦 未詳 同上 未詳 未詳
晨風艦 未詳 同上 未詳 未詳
戊辰艦 未詳 2年3月18日
宮古港著尋テ品川海ニ返ル
6人 5人
朝陽艦 未詳 2年4月15日
青森港著
50人 35人
延年艦 未詳 3年5月10日
青森港著
未詳 未詳
合  計 8041人   286人 484人

箱館征討官軍兵員及死傷表

松前藩の終戦処理と住民
 五稜郭開城後、箱館には伏見隊2中隊及び親兵及び在住隊1中隊、松前藩1中隊、津軽藩2中隊の兵を残留させて、箱館の警備と、敗残徳川脱走軍兵士の詮索、住民の安定と戦災復旧に努めた。
 他の松前藩兵は5月23日五稜郭を発足し、25日松前城下に凱旋したが、藩主修廣名代隆廣は、松前城内守兵をもって字根森(松前町)にこれを出迎え、祝砲を放って凱旋式を行い、住民歓呼のうちに城中に入り、幼主修廣は正殿玄関にこれを出迎え、その軍功を賞した。
 この2年間に降って湧いた徳川脱走軍との戦争によって、城下は焼野原と化し、昔日の面影がなく、戦災に罹った住民は生活苦におびえ、藩は財政に破綻を来し、将来の見通しは全くなかった。この様な状況のなかで終戦処理のため徳川脱走軍側潜伏者の詮索と、一般民間人の非協力者の逮捕が行われた。
 5、6、2か月で松前藩に逮捕された者は松前城下118名、江差140名、計258名に達しているが、このうち徳川脱走軍潜伏者は松前83名、江差61名、計144名の多きに達している。
 これら江差逮捕者のうちには脱走軍将兵の外、江差士分で松前藩に戦争協力をしなかった者、また、松前領民で脱走軍に協力した者等であるが、在方の逮捕者では館村7名、乙部村4名、熊石村3名、上ノ国村2名、蛾虫村1名、鶉村1名となっている。熊石村の3名は、徳川脱走軍の兵士で熊石村番所に出張していた大熊直一郎(41歳)、尾室弓太郎(39歳)の2名と、これに協力した熊石村の百姓喜作(44歳)である。これらの逮捕者は総て松前に送られ裁判にかけられ行刑処分を受けているが、町内引廻しの上刎首、梟首となったものは16名、刎首刑8名が主なもので、他に永の押込、蟄居、身分取放、名跡闕所、入墨、渡海、擲、越山、町内払、村替、三所構、急度叱、過料等の処分をなされた者の総数は109名に達している。(“館藩白洲目録“、“松前藩福山日記”による)しかし、熊石村喜作がどのような処分を受けたかは分らない。


 第9節 館藩・館県・青森県

 松前藩のことを明治維新時に館藩とも呼んだ。館城は明治元年10月25日に一応完成し、この時点から松前藩を館藩とする記録もあるが、元、2年の戦争記録は松前藩で統一されているので藩名が館藩と名称が変更されるのは、明治2年6月24日の第19世藩主修廣が藩知事に任命された以降と考えられている。
 新政府の旧幕藩体制否定する動きは、2年1月の薩・長・土・肥4藩主の版籍奉還にはじまり、各藩もこれに同調する動きが強まったことから、6月17日には新政府の諸大名に対する新統制策を発表した。それによると各藩主の版籍奉還を許し、各藩主を藩知事に任命し、公卿、諸侯の称を廃止し両者を合して華族と称するというものであった。
 2年6月24日藩執政下国安芸は指紙により東京城に登城したところ、大廣間入側に於て坊城大弁宰相より                                松前 勝千代
 館藩知事被仰付候也
 明治二年六月廿四日
 行 政 官
の辞令を受け、松前藩の藩籍は正式に奉還され、藩主は館藩知事として処遇されることになった。翌25日藩知事の家禄の制が定められ、知事賄としては封地実収高の10分の1と定め、家臣は士族の呼称をもって待遇することが決定された。しかし、交易経済を主体として財源をこれに求めるという他藩の石高性と異なって立藩している松前家にとって、その実施には多くの障害があり、また、松前、箱館戦争での戦災被害が予想外に大きく、この早急実施は困難であった。
 そこで藩は経済運営と、家臣扶持のため藩札を発行することとなった。“北門史綱・巻之十一”によれば、その発行理由として
 八月朔 藩地平定ノ交輸入船舶等ノ齎(もたらし)来ル貳分金概シテ諸藩ノ贋造ニ係ルモノニシテ通用頗ル渋滞、選抜スル金貨ト雖モ亦其価額ノ低減スルニアラサレハ授受スル能ハサルニヨリ、仮リニ藩札ヲ製シテ藩内ヲ期シテ通用セシメ而シテ藩外ニ携帯スル如キハ其時ニ正金ニ兌換スル事ヲ告示シ、一時救急ノ方ヲ為ス。且金札ヲ五種ニ乃テ一両、二分、一分、二朱、一朱ニ分ツ。
 八月朔ヨリ九月晦ニ迨(いた)ル金札製造額四万七千五百五十八両一分二朱ノ内、支払高三万九千三百六拾七両三分二朱ナリ。
となっているが、松前藩の会計引継書によれば、最終藩札発行高は9万6000余両に及んでいる。しかし、この藩札の評判は悪く、不換紙幣となる公算が強かったので、藩の要請にもかかわらず流通は思うに任せず、流通額は額面の半分程度であった。これに目を付けた大商人等はこの藩札を安価に蒐集し、藩への公課等の納入する等のことがあったので、藩札発行の効果はなかった。
 家臣の俸禄である扶持米の支給に窮した藩は、新政府に対し、8月29日現米8万石と10万両の貸与方を願い出た。9月に入って政府は松前家に対し三万両を拝借金として貸与し、さらに同月14日政府は知事兼廣(勝千代―後修廣)に対し、
 従五位源朝臣兼廣
 高二万石依軍功永世下賜候事
 明治二年己巳九月
という異例の厚遇を受けたが、これすら7、8月の家臣扶持に費され、藩財政に投入される余裕は全くなかった。
 9月18日には府藩県三治の制が発布され、各藩に大参事1名とその下に軍務、民政、会計の権大参事3名と福山城留守居、公議人2名の計5名を置き、少参事3名、権少参事9名を置く行政機構に変更された。一方、蝦夷地は同年7月開拓使の設置と国郡設定により北海道と改称されたが、館藩領域が不確定であるので、館藩公用人より開拓使に対し、その所轄郡界について稟議したところ、開拓使から、館藩の所轄区域は次のとおりであると通達があった。
 福山郡
 東 知内村、木古内村 境立有川
 西 礼髭村、炭焼沢村 境亀ノ下迄
 津軽郡
 従同所
 西 原口村、小砂子村 境鍵懸沢迄
桧山郡
従同所
西 泊村、乙部村 境五輪沢迄
爾志郡
従同所
西熊石村
 是迄有来候境ヲ限ル
 この国郡の制定は、明治2年開拓使が判官松浦武四郎に腹案を練らせ、7月、11国83郡を制定した。この制定の意義は、日本国の版図にある場合、必ず国郡に編入されていたが、蝦夷地はその版図の中に入っていなかったので、正式に日本国の版図の中に編入する目的をもって制定されたものである。そのなかで、乙部から熊石までの西在八か村の地域を爾志郡という郡名を冠したのは、ニシとはアイヌ語の「ヌーウシ」(Nu ushi)で、その意味は豊漁場(永田方正筆“北海道蝦夷語地名解”)で、鰊が大量に獲れ住民の生活が豊かな地方であるので、松浦武四郎が選んだ郡名である。
 9月に入ると館藩に致命的打撃を与える開拓使の政策が打出された。開拓使は札幌に本府を置き、石狩川流域に洋式農業を導入して新たな角度から農業を通して内陸開発をして人口の扶殖を図ろうとし、先進開拓地である漁村については、政策投下の必要はないとしていた。この新農業開拓を推進する全道的統治機関である開拓使が、旧松前藩頭を吸収統合しなかったのは、開拓使政策から見れば異質の旧大名頭で、然も士族が多く、漁業立地の地域の吸収は煩瑣で、異質であったからである。しかし、その地域の沖口運上金は大きく、財源の少ない開拓使は、9月7日従来の松前藩の沖口税役を廃止し、新税を創設することとした。また、9月28日には場所請負制度が廃止され、従来の請負人は場所持と呼ばれることになるなど、館藩の特権は完全に崩壊する改革であった。そこで藩はその撤回方を弁官宛に要請したが、容れられなかった。
 明治3年にいたると物価の高騰は激しく、通年一両一石(60キログラム入2・5俵)の米が一俵4両にも達し、藩入用、家臣扶持の目算が立たず、その試算に於ても収入予定12万4504両に対し、支出予定は24万9800両で、差引12万5296両が不足で、さらに発行した藩札9万7000両の償還を5月迄に3万4570両を引き替えたが、なお6万2430両の引き替えに迫られており、家臣の生活維持も出来なかった。その結果、大参事下国東七郎が、3年5月大阪に赴き、オランダ五番館ピストルユス商社から米、金併せ、10万ドルを借り、松前生産物をもって藩が返済するという契約をしたが、物産返済が出来ず、遂に政府が返済するという事件まで起き上がった。これら扶持米の未払いから、藩重臣に対する不信、明治元年の正議派クーデターの余燼、8歳の幼藩主傅(ふ)重臣の専断に対する批判等の輿論が沸騰し、家臣間の精神的団結は全く失われていた。
 4年に入り家臣の多くは、所持の武具や書画、骨董から家財までを売って糊口をしのぎ、藩は扶待人1日米3合を給し、また、松前城各建物に貼付けていた銅板、銅瓦を取りはずして売却し、各扶待人に一戸当り5両の手当金をようやく支出するという状況であった。
 明治4年7月14日、太政官は廃藩置県の政令を発布し、従来の館藩は廃止され、その藩域をもって館県が設定された。これによって藩知事松前兼廣は辞任を申し出、同日付をもって太政官はその辞任を認め、蝦夷地に徳川幕藩体制下異色の大名として270年間君臨してきた松前家は、政府の政策により、その禄地を離れ、東京に居住することになった。
 兼廣は8月4日、城内大書院に諸士を集め、廃藩置県と、藩知事辞職を布告し、惜別の挨拶をした。その内論は次のとおりである。
 内 論
 今般重大ノ御深算ヲ以テ一般藩ヲ廃シ、県ヲ置ルヽニ就キ、知事免官上京ノ義仰出サルヽモ、今ヤ朝廷ニ於テ万世不抜ノ御洪業立サセラルヽ更始ノ秋ニ際シ、一日モ幼弱ノ身ヲ以テ御旨趣ニ従事セン事豈慚懼ノ至ニ不堪。況ヤ因襲ノ陋習ヲ掃テ、上ハ朝廷ヘ其政績ヲ奏スルナク、下ハ管下ヘ其撫恤ヲ布ク能ワス、遂ニ有名無実ニ列伍シテ方今ノ急務ヲ失フ、然ルニ朝廷絶大ノ眷顧ヲ蒙リ、辱モ今日ニ至ル事、一ハ祖先ノ餘績ニヨリ、一ハ士氏ノ尊奉ニアリテ胸裏ニ忘レサル所ナレトモ、嗚呼時ナル哉。朝旨ヲ奉シ一トタヒ境土ヲ隔離セハ、再会又期スヘカラス、三百年来所轄ノ別緒豈袖ヲ濡ラサヽルナシト雖モ、時勢ノ茲ニ転移スル又其命ナリ。苛モ多年微々ノ垂恵ヲ想像シ、恋々ノ私情ニ迫リ、重大ノ御趣意ヲ軽侮スルノ僻念ヲイタカス、恭順奉戴シテ其分ヲ守リ、其力ヲ尽スヲ得ハ、此予ニ惜別ノ喪懇ナルヘシ。冀クハ各々此旨ヲ体認シ、弥産業ヲ励マレ、明日数百里外隔居スルトモ、政テ浮萍ノ懐ヲナサス、猶将来寒暖ノ通信之アリ度モノナリ。
 辛未(明治四年)八月
 (“北門史綱 巻之拾壱”による)
と惜別の情を分け合った。兼廣及び徳廣未亡人らは8月22日松前を発し、28日函館からイギリス船エーレ号に搭乗して東京に向け出帆した。
 藩が廃され県となった館県は、従来の館藩の行政区域をもって県政が布かれたが、県知事の発令もなく9月まで推移した。館県の帰趨については政府と開拓使との間で協議したが、開拓使設置の目的等については既に述べた通りであるが、異質の旧開漁業と旧藩体制下にある館県の開拓使への編入を拒んできたため、政府もその帰趨に苦慮していた。
 明治4年9月6日、突然館県は弘前県に併合されることが決定された。
 七ノ戸、八ノ戸、斗南、黒石、館ノ五県弘前県へ合併被仰付候事。
 辛未九月
 太 政 官
ということで、北海道の道南地域の館県が弘前県に編入されたが、これは全く変則的なものであった。これによって福島、津軽、桧山、爾志の4郡は、同月23日青森に県庁を移し、青森県と改称したので、当地方もその体制の中に入った。青森県は松前に支庁を設け、松山龍江が松前出張所長官に任ぜられ、11月大属小出光照と共に松前に赴任し、同月9日、旧館県少参事今井徽から一切の事務を引き継いだ。
 しかし、青森県は旧津軽藩領さらに南部藩領、松前藩領と地域的、産業形態的に異なる地域の行政を担当させられ、特に松前地方は海峡を挟んだ遠隔地であって、地域的に不便な地であるので、12月には青森県から史官に対し辞退したい旨を建白したが、史官は12月27日に松前地方統治上遠隔且つ海路のため不便と思われるので、連絡上の小蒸気船の新備方を計画するという回答があったのみである。その後明治5年2月、旧館県地域も課税、行政の困難を理由に、青森県から管轄免除願が大蔵省に提出されたが許可されなかった。また、松前詰の小出大属からも強硬な建白書の提出があり、政府もその対応に苦慮し、開拓使と数度にわたって協議を重ねた結果、北海道全域の行政管理上止むを得ないという大勢を判断した開拓使は9月2日「元館藩地域管轄願」を提出し、政府もこれを許し、次のように指令した。
 開 拓 使
 青森県管轄元館県地方自今其使管轄被仰付候条青森県ヨリ可受取事
 壬申九月廿日
 太 政 官
 (“開拓使制旨録”による)
と、廃藩置県後、その帰属について1年余にわたって転変した当地方は、この決定によって、ようやく青森県支配という変則的行政から逃れ、開拓使の治下に入ることとなった。