第6章 開拓使治下の熊石

 第1節 開拓使新政と戸長役場の設置

 明治2年松前藩から館藩、館県から弘前県、青森県と変転極まりない政治変遷を経た旧松前藩領の当地方は、明治5年9月20日ようやく開拓使治下に編入されることになった。
 この間、明治4年以降の明治新政府の徳川幕藩体制から、日本近代への動きは旧弊につながる総ての慣例は急速に改善されて行った。明治4~5年の改正されたものの主なものを上げると次のとおりである。
 明治4年
 4月4日 戸籍法を定め、その実施を5年2月1日より施行する。
 7月14日 廃藩置県の詔勅でる。
 8月9日 散髪、制服、脱刀を随意とする。
 8月23日 華族、士族、平民間の結婚を自由にする。
 8月28日 穢多非人の称を廃し平民同様とする。
 10月3日 宗門人別改帳を廃止する。
 明治5年
 1月29日 全国の戸籍調査実施、戸籍簿の編成を行う。
 4月9日 庄屋、名主、年寄等の制を廃止し、新たに戸長、副戸長を置く。
 7月4日 人民所持の総ての土地について地券を交付する。
 8月3日 学制を制定し、学校制度の近代化と学事奨励を図る。
 10月2日 僕婢娼妓の開放を宣言する。
 11月9日 太陰暦を廃止、太陽暦を採用する。
 11月28日 全国徴兵制の発布。
など現在の住民生活に必要な事項で、この2年間で改正または新設されたものが極めて多い。
 明治5年9月旧松前藩地の図籍を引き継いだ開拓使は、江差、松前に出張所を設置し、江差には次の職員を配置し、檜山郡、爾志郡を管轄することになった。
 開拓使大主典 佐郷 綱文
 江差病院医師 日野 泰民
 開拓10等出仕 阿部 重遠
 開拓少主典 西村 利平
 開拓少主典 蛯子 正凞
 開拓史生 谷山 彦兵衛
 同 中島 錠
 開拓使掌 松井 吉衛
 開拓使等外2等出仕 小沢 教治
同 片山 繁
同 宮川 信敬
同 江口 英通
 開拓使等外3等出仕 荒野 宗治
 同 秋山 斉方
 開拓使等外4等出仕 新井田 順造
 同 辻 貞家
 同 津田 守休
 同 熊谷 多三郎
 同 北村 学平
 (明治6年開拓使福山・江差職員録による)
 この江差出張所の任務は、明治新政、開拓使行政の滲透と住民撫育、地方行政の推進、司法行政、裁判権の行使、税役の賦課徴収、産業、開拓の推進等であった。
 これらのなかで最大の課題は、旧松前藩政時代いわゆる佐幕派として地方在住を命ぜられた家臣や、明治新政に批判的な旧藩士が多く、これら不平士族の宣撫と、すでに明治5年2月1日から施行される新戸籍法事務の推進であった。この事務推進のため江差出張所には戸籍調雇中元直、工藤瀬三、加藤士恕、長谷川遷三等を置いて、江差及び管轄村の戸籍調成を急いだ。しかし、その成果は上らないことと、地方行政推進のための戸長役場の設置必須となり、さらに北海道大小区設定もあって戸長、村用掛か設置されることになった。
 開拓使江差出張所管下では、明治6年次のように戸長及び副戸長が発令された。
 2月7日発令
 第14区、第15区戸長
 第14区
 (小砂子村など4ケ村)
 第15区
 (上ノ国村など3ケ村)
 開拓使貫属 高橋 治知
 第20区、第21区、第22区戸長
第20区~第22区
(泊村など13か村)
開拓使貫属 氏家 直方
第25区、第26区戸長
第25区
(蚊柱村など4ケ村)
 第26区
 (熊石村)
 開拓使貫族 田村 忠直
 2月12日発令
 第16区、第17区副戸長
 第16区
 (江差寺小屋町など6ケ町)
 第17区
 (江差酒田町など9ケ町)
 開拓使貫族 酒井 懸十郎
 3月29日付
 第18区、第19区戸長
 第18区
 (浜茂尻町など4ケ町)
 第19区
 (詰木石町など7ケ町)
 井口 節男
 5月23日付
 第18区、第19区副戸長
 開拓使貫族 臼井 庸雄
 9月3日付
 第17区、第17区戸長
 小川 延親
 (区制、管轄町村については鈴江英一著“北海道町村制定史の研究による”)
で、2月7日付の熊石村戸長らの任命を始めとし9月3日付の江差寺小屋町等戸長の任命をもって終った。
 これらの戸長は江差出張所内に在勤し、その管轄村元へは月2回程巡回出張して決裁するという方法が取られた。熊石における戸長役場は相沼内村、泊川村、熊石村に設けられ、各戸長役場には戸長の事務を補助する村用掛及び村用掛助か任命されたが、各村の係は次の者が任命された。
 相沼内村
 村用掛 俵谷 善次郎
 村用掛助 稲船 竹五郎
 同 田中 久左衛門
 同兼 漁民惣代 近田 孫八
 泊川村
 村用掛 石田 久左衛門
 村用掛助 中嶋 宗太郎
 同 北川 与三兵衛
 同 漁民惣代 藤谷 二右衛門
 能石村
村用掛 山下 六三郎
 村用掛助 小倉 宅蔵
 同 佐賀 忠蔵
 同 岩藤 長四郎
 同 田子谷 文吉
 村用掛助兼 漁民惣代 荒井 忠右衛門
 この3村が各々独立して村として認められていたこの時期には、戸長が数村を併任する形で任命され、しかも、その任地は遠く離れていたので、村内の事務補助機関としては村用掛か村政の中心となっていた。また、漁民惣代も戸長を補佐する漁業技術指導者であった。この村用掛の選任には入札選挙で行われ、函館支庁(江差出張所の上部機関)が任命するという方法が取られていた。
 戸長役場の業務は各種選挙の立会、村用費用の分担賦課及び徴収、公費各税の賦課徴収、戸籍、兵事事務の整備充実、村民よりの上申書類の奥印経由、地権書類経由進達等が主な業務であり、その他村民の生活、福利増進、漁業及び漁業権への指導と生産増強対策等の各分野にわたるものであった。


桧山外郡役所(江差町所在)

 また、熊石番所は松前藩から公収の段階で、江差海関所熊石村船改派出所と名前が改められ、明治7年2月段階では開拓使等外3等出仕秋山斉方、同7年8月には同等外4等出仕津田守休が各6ケ月代替交代で勤務し、新規造船の検査と造船役の取立に当たっているが、“熊石村往復公檄”(北海道公文書館所蔵開拓使文書)によれば、明治6年熊石村外2村の新規造船は1か年で中遣(なかやり)船一艘、図合(ずあい)船10艘、三半(さんぱ)船三艘、持符(もちつぷ)船52艘、磯舟40艘計106艘に及んでおり、熊石村に多くの船大工がいて、この山野に自生する飛び檜木(あすなろ)、蝦夷松、椴松等の豊富な自然林を伐採利用して造船しており、西蝦夷地最大の造船工場地であり、それに関連する木挽、鍛冶屋等が多く、これら造船杣取石役と新造船石役の賦課徴収が、海関派出所の主な業務であった。ちなみに前掲史料による明治6年の造船者(船主)は次のとおりであるので、当時の漁業の経営規模を知るため重要であるので、掲げる。
 熊石村
 持符船 能登屋 二右衛門
 同 岩藤 長四郎
 同 関村 三九郎
 同 宮本 伊左衛門
 同 湯崎 又治郎
 同 輪島 権吉
 同 大阪 兵五郎
 同 近江 清次郎
 同 伊藤 市右衛門
 同 磯野 忠右衛門
 同 目谷 宅蔵
 同 井川 喜太郎
 同 木村 松太郎
 磯舟 同人
 同 木村 与兵治
 同 林 浅吉
 持符船 目谷 兼蔵
 同 能登屋 福三郎
 磯舟 菊地 清八
 同 川道 辰五郎
 図合船 赤泊 与七
 磯舟 四方 与太郎
 同 佐々木 惣右衛門
 同 田村 石五郎
 同 坂本 重蔵
 同 寺嶋 源次郎
 図合船 野呂 粂治郎
 磯舟 山下 伝三郎
 三半船 磯島 治右衛門
 磯舟 杉本 伝兵衛
 同 大須田 源右衛門
同 同人
 泊川村
 持符船 久保田 二左衛門
 磯舟 杉村 三治
 持符船 同人
 同 北川 与三右衛門
 磯舟 飯田 由右衛門
 持符船 藤谷 二右衛門
 同 板谷 守五郎
 磯舟 荒谷 忠吉
 持符船 同人
 同 伊勢 喜之助
 磯舟 佐藤 小三郎
 持符船 笹森 林作
 磯舟 中嶋 弥之助
 同 成田 清右衛門
 持符船 中嶋 惣兵衛
 磯舟 手塚 勘七
 持符船 同人
 磯舟 川上 喜兵衛
 持符船 石田 久左衛門
 同 伊吹 弥八
 同 本間 六太郎
 磯舟 成田 源兵衛
 同 佐藤 喜代松
 同 荒谷 三郎
 同 神原 藤左衛門
 同 伊勢谷 市左衛門
 図合船 加藤 治郎右衛門
 相沼内村
 図合船 山田 右衛門
 同 同人
 同 同人
 中遣船 同人
 三半船 山田 儀兵衛
 磯舟 同人
 図合船 同人
 持符船 本堂 忠吉
 同 福士 米吉
 同 石岡 重右衛門
 同 山田 茂右衛門
 同 村田 徳兵衛
 磯舟 同人
 同 金子谷 五郎
 持符船 野谷 六太郎
 同 黒田 米右衛門
 同 車谷 宿松
 同 輪島 惣助
 同 小林 金兵衛
 同 田畑 与太郎
 磯舟 笹嶋 伝右衛門
 持符船 佐々木 喜三右衛門
 磯舟 福原 甚助
 同 笹原 又吉
 持符船 浅井 浅治郎
 磯舟 同人
 持符船 近江 七右衛門
 磯舟 三関 平治郎
 図合船 田中 久左衛門
 持符船 小笠原 綱吉
 持符船 稲般 善一
(註)磯舟 船梁二尺八寸以下、五石迄。
 持符船 船梁二尺九寸より四尺八寸まで、二十五石まで。
 三半船 船梁九尺五寸まで、二十五石より三十石。起し船ともいう。
 図合船 船梁六尺五寸より七尺九寸まで、二十五石より四十九石。
 中道船 船梁八尺より九尺九寸まで、凡そ五十石位より二百五十石位まで。

 第2節 檜山騒動と熊石

 明治5年9月青森県から開拓使管下に編入された福島、津軽、檜山、爾志の4郡について、開拓使はこの4郡の漁業税役の決定を命じ、福山出張所開拓使7等出仕内山国雄と江差出張所大主典佐郷綱文が松前に会して、その税役決定について協議の結果、
 三月十二日同前函館ヨリハ諸郡並ヘテ可然抔申来候ヘ共、昨年青森県所轄中二十分一漁税サヘ江差地方ハ相拒ミ候程ノ事故迚(トテ)モ承服仕間敷ニ付、従来ノ雑税函館振合ニ基キ四十二条其佗有名無実ノ税三条合四十五条ヲ免除シ、且青森県所轄中賑済金ヘ納来候漁税二十分一及問屋口銭ノ内半高ヲ相廃、更ニ鯡(数ノ子白子除・笹目)煎海鼡・干鮑・干鯣・若布・細布ノ税一割ニ相定、可然ニ決議ス
 同十三日布告書取調 春漁ニ差掛候ニ付直チニ布告可然旨函館ヨリ申来候ニ付 同十四日発令左ノ通
 今般福島・津軽・檜山・爾志四郡税則 別紙ノ通改訂候条、区々無洩可為相心得候也。
 明治六年三月十四日
 開拓使七等出仕 内山国雄
 右四郡
 戸長
 中
 副戸長
 (市立函館図書館蔵“福山江差紛擾書類”)
と布告した。この鯡漁業税は従来20分の1の現物役であったものを、一挙に倍の10分の1役に改定しようというものであった。しかし、この税役とは裏腹に明治5年は松前以北の西海岸全域が稀有の鯡凶漁に見舞われ、生活の見通しも立たず、前途は極めて容易ではなく、さらにこの6年の鯡漁期に入っても、鯡の姿は見えず、2年続きの凶漁は必至の時だけに、漁民達は私達の生活を守って呉れないで倍もの漁税をかけるのは不届だと怒り立ち上った。
 4月15日、爾志郡8ケ村役人(村用掛、漁業総代)は改正税5分方御減願として江差に出向したところ、熊石外3村戸長の田村忠直、乙部外7村戸長森忠一はこれを説得したが、然し村役人達は村の総意であると説得に応じなかった。同16日田村戸長は熊石村に帰村した。
 4月27日田村戸長は江差に帰って復命したが、村民は再度検討してほしいと願い出た。乙部・突符村は森戸長の説得に応したが、小茂内・三ツ谷・蚊柱・相沼内・泊川・熊石の6ヵ村は承服しなかった。30日はこの6ヵ村の村役人が総退役を題い出たので、その理由の解辞を求めたところ、
 私共ハ御趣意柄相弁ヘ承服仕候ヘ共、何分愚昧ノ漁民遵奉不仕当惑仕候間、村役進退相窮退役迄モ申上候趣ヲ以御諭御座候ハゝ承服ニ可相成存候故出願候段申出候間、猶懇々説諭ニ及候処、斯迄ノ御教諭一同ヘ申聞候ハゝ御請可申上候間、早速帰村相諭申度六月三日迄ハ猶豫ノ義願出願書幷退役願下ゲ帰村候事。
 (前揚資料)
ということで、村役人は退役を思い止まって帰村した。その後、江差出張所役人と村役人が各村説得に廻り、三ツ谷村から泊川村までは、これに応じたが、熊石村民はこれに応ぜず、さらに乙部・突符両村もこれに同調することにより、反対村民達は更に結集しようとする傾向が表れた。
 この鯡漁業税に反対する住民運動は松前地方でも拡大し、原口村から根部田村まで8ケ村の漁民一戸一人ずつ参加して江良町村泉竜院に集まり、ここから沿道村々の住民を加え福山西入口の立石野まで来た。ここには開拓使福山出張所の役人が出張して説得に努めたが、その間隙を縫って福山市街地になだれ込み、栖原小右衛門宅や税吏、捕吏宅等7戸を破壊するという漁民一揆と発展した。これに対し福山出張所の職員や旧松前藩士等の協力を得てようやく鎮圧した。この鎮圧のため青森鎮台の村田大尉が一小隊を率いて6月13日松前に着き、警備と参加首謀者の探索に当った。
 しかし、一方では熊石地方では事態はますます悪化し、6月9日には熊石船改所が住民によって破壊された。
その届によれば、
 熊石船改所破却御届
 本月九日昼熊石村農民暴動之節、同所船改所台所向及破却候ニ付、御見分済迄同所○○○屋久蔵宅借請御用取扱候旨、唯今同所出張新井田順造ら申来候間、不取敢此段御届上候也
 第六月十三日
 海関所掛
 庶務掛 御中
というものであった。この間熊石村・蚊柱村・水屋村・小茂内村4ケ村民は、更に強願のため5月13日3000人が結集して乙部村まで押寄せたが、佐郷大主典が出馬し説得して解散している。さらに6月6日、五勝手村から茂尻方面の漁民が立上がり、江差豊部内町の豪商斉藤観三を始め、江差詰戸長、租税掛、捕吏等の家屋を破壊したり、家財、衣類を奪取する等の乱暴をしたというが、その際の参加者は5000人にも及んでいたという。この報に接した青森鎮台兵の中村大尉の一小隊は汽船青開丸に搭じて江差へ上陸して暴徒の鎮圧を行っている。
 この暴動事件処理のため開拓次官黒田清隆は長谷部少判官、柳田大主典を従えて6月25日、福山に来て、その対策について説明を受けた上で、開拓使としてもこの紛擾には一斑の責任があるので、漁民側から謝罪文を徴して、後の責任は追求しない。また、この原因となった漁業税役については、10分の1役を撤回して、旧来通り20分の1役をもって課税することとし、この問題は解決した。このほか、鯡着業資金の斡旋、さらに鰥寡孤独、廃疾者等に対し救助の途も考慮することを約して帰札した。
 この紛擾事件は一見税金の値上げに端を発した事件ではあるが、その陰には多くの旧松前家々臣が煽動していた。これは家祿、秩祿の未払等があり、また政府軍として働いていながら新政府から見離されていることに対しての旧士族の策動も多分にあったといわれている。

 第3節 本期に於ける漁業実態

 明治5年春の鯡漁業は白神峠(松前町)から茂津多岬までが稀有の凶漁に見舞われたが、この年以降、鯡は道南地方を離れ、寿都沖付近から積丹半島にかけて群来るという北上傾向が次第に濃厚となってきた。しかし、鯡万石場所の熊石は一獲千金の夢は忘れられず、翌明治6年に期待をかけ着業した。然しこの6年に鯡漁も漁民の期待度裏切る結果となってしまった。その不安の最中、鯡漁業税20分の1を開拓使が税則を改正して、鯡漁業税を倍額の10分の1としたことから、この凶漁不安にあえぐ漁民から高い税役を取り立てようとする開拓使の態度に業を煮やした熊石を中心とした漁民が一揆を起し、それが道南一帯に拡まり一時は不穏な状況にまで立ち至ったが、青森鎮台兵の鎮撫と、黒田開拓次官が福山に来て税の据置きを決断し、さらに不漁困窮の場合の政府資金の貸付けも考慮することを約束して、漁民の動揺をおさえた。
 しかし、明治7年も鯡漁は振わず、これに追打ちをかけるかのように漁期中突風が吹き荒れ、漁網を始め多くの被害を出した。1年程度の凶漁では落ち込むことのないこの地方の漁民も3年も継続しての不漁には全く生活の途もなく、戸長田村忠直は開拓使函館支庁開拓中判官杉浦誠に対し、政府の漁業資金の貸し付方を懇願したが、ようやく9月13日その貸し付が許された。この漁業資本金は雇として働く漁民や小前の漁師はその対象とはならず、網をもって着業する大規模漁業者にのみ貸し付けが許されており、その貸し付けに当っては漁網や漁船等を担保物件として貸し付けるので、その貸付書類はこの時点での熊石、泊川、相沼内3か村の漁業規模を知る貴重な資料であるので、北海道立公文書館所蔵“熊石村往復留”(開拓使文書01466)より転写し、次に掲げる。
 漁業資本金拝借奉願候書附
一金千百圓
右は本年中當村漁民共拝貴之上漁業向行届難有仕合ニ奉存随而今春度々風波之為メ網苦之破損も有之明年魚漁手配差支難渋仕候ニ付別帳ニ人員并引當品取調差上候間出格之以御詮議為漁業資本金拝借被
仰付ヒ下置度奉願上候以上
 第十七大區一小區相沼内村
 漁民惣代兼
 村用掛助
 近田 孫八■(丸印)
 同助
 明治七年第九月十三日 田中久左衛門■(丸印)
 同助
 稲船 竹五郎■(丸印)
 村用掛
 俵谷 善次郎■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通願出ニ付上申候也
 戸長
 第九月十三日 田村 忠直■(丸印)

 漁業資金拝借願人并引當品調書
一金百圓 稲船 権吉
 此引當
 上建網 壱投
一金四拾五圓 近田 孫八
 此引當
 上差網 三拾三放
 中差網 弐拾放
 上持府船 壱艘
一金百圓 伊藤 伝蔵
 此引當
 上建網 壱投
一金百圓 田中 久左衛門
 此引當
 上建網 壱投
一金三拾五圓 佐藤 太郎右衛門
 此引當
 上差網 三拾三放
 上持府船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金三拾圓 山田吉左衛門
 此引當
 上差網 三拾放
 上持府船 壱艘
一金四拾五圓 秋田 三蔵
 此引當
 上差網 三拾三放
 中差網 弐拾放
 上持府船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金四拾五圓 泉谷 酉蔵
 此引當
 上差網 四拾三放
 中差網 弐拾放
 上持府船 壱艘
一金百圓 稲船 直吉
 此引當
 上建網 壱投
一金百圓 村田 徳兵衛
 此引當
 中建網 壱投
一金四拾圓 桂川 和七
 此引當
 上差網 三拾放
 中差網 弐拾放
 中礒船 弐艘
一金百圓 瀧澤 八兵衛
 此引當
 中建網 壱投
一金百圓 山田 藤吉
 此引當
 中建網 壱投
一金三拾五圓 油谷 栄助
 此引當
 上差網 三拾放
 上持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金弐拾五圓 車谷 角右衛門
 此引當
 上差網 拾八放
 中差網 拾放
 上持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金百圓 稲船 竹五郎
 此引當
 中建網  壱投
 合金千百圓
右之通取調奉差上候處相違無御坐候以上
 第十七區相沼内村
 漁民惣代兼
 村用掛助
 明治七年第九月十三日 近田 孫八■(丸印)
 同助
 田中 久左衛門■(丸印)
 同助
 稲船 竹五郎■(丸印)
 村用掛
 俵谷 善次郎■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通相違無御坐候也
 戸長
 第九月十三日 田村 忠直■(丸印)

 漁業資本金拝借奉願候書附
一金千百円
右は本年中當村漁民共拝借之上漁業向行届難有仕合奉存候随而今春度々風波之為網罟之破損モ有之明年魚漁手配差支難渋仕候ニ付別帳ニ人員并引當品取調差上候間出格之以 御詮儀為漁業資本金拝借ヒ下置度奉願上候以上
 第十七大區一小區泊川村
 漁民惣代兼
 村用係助
 明治七年第九月十三日 藤谷 二右衛門■(丸印)
 同助
 北川 與三兵衛■(丸印)
 同助
 中島 宗太郎■(丸印)
 村用係
 石田 久左衛門■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通願出ニ付上申候也
 戸長
 第九月十三日 田村 忠直■(丸印)

 漁業資本金拝借願人并引當品調書
一金弐百五拾圓 天満谷 与作
 此引當
 上建網 壱投
 上圖合船 四艘
 中圖合船 壱艘
 上差網 三拾放
一金六拾圓 加藤 次郎右衛門
 此引當
 中建網 壱投
一金六拾圓 土谷 庄太郎
 此引當
 中建網 壱投
一金拾五圓 杉村 三吉
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網  拾放
一金拾五圓 佐藤 喜三治
 此引當
 上差網 三拾放
 中差網 拾放
一金拾五圓 浦谷 清兵衛
 此引當
 上差網 拾五放
 中差網 拾五放
一金拾五圓 佐藤 幸三郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金拾圓 佐藤 徳兵衛
 此引當
 上差網 拾放
 中差網 拾放
一金五拾圓 北川 与三兵衛
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 三拾放
 上持府船 弐艘
 上礒船 四艘
一金百圓 藤谷 二右衛門
 此引當
 上差網 七拾放
 中差網 四拾放
 上持府船 壱艘
 上礒船 四艘
一金七拾圓 中島 宗太郎
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 三拾放
 上持府船 弐艘
 上礒船 三艘
一金拾壱圓 笹森 五郎兵衛
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 五放
一金拾圓 岩船 菊枩
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾弐圓 荒谷 三郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金拾八圓五拾銭 成田 孫兵衛
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 弐拾放
一金拾壱圓 平澤 勘兵衛
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾弐圓 平澤 長太郎
 此引當
 上差網 拾五放
 中差網 拾放
一金拾弐圓 杉野 岩枩
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金拾五圓 手塚 兵次郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 五放
一金拾圓 石田 安五郎
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾五圓 川上 喜兵衛
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金弐拾圓 小山 喜太郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 弐拾放
一金拾八圓 秋田谷 弥三治
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
 上持府船 壱艘
一金拾七圓 傅甫谷 重兵衛
 此引當
 上差網 拾五放
 中差網 拾五放
 上持府船 壱艘
一金弐拾四圓 北村 藤七
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 弐拾放
一金拾三圓 伊勢谷 市右衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金弐拾六圓 手塚 清兵衛
 此引當
 上差網 三捨放
 中差網 弐拾放
 上持府船 壱艘
一金六圓 天満谷 与八
 此引當
 上差網 拾五放
一金拾五圓 飯田 権兵衛
 此引當
 上差網 弐拾五放
 中差網 弐拾放
一金六拾八圓 澤谷 又四郎
 此引當
 上差網 五拾放
 中差網 四拾放
 上持府船 壱艘
 上礒船 弐艘
一金拾圓 石田 久左衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 拾放
一金拾五圓 本庄 久次郎
 此引當
 上差網 弐拾五放
 中差網 拾五放
一金拾壱圓五拾銭 藤谷 松右衛門
 此引當
 上差網 弐拾五放
 中持府船 壱艘
 合金千百圓
右之通取調奉上候処相違無御座候以上
 第十七大區小區泊川村
 漁民惣代兼
 村用掛助
 明治七年第九月十三日 藤谷 二右衛門■(丸印)
 同助
 北川 与三兵衛■(丸印)
 同助
 中嶋 宗太郎■(丸印)
 村用掛
 石田久左衛門■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通相違無御坐候也
 戸長
 田村 忠直■(丸印)
 (つけ札)
上差罟三拾放加入仕候
 漁業資本金拝借奉願候書附
一金三千六百三拾圓
右は本年中當村漁民共拝借之上漁業向行届難有仕合ニ奉存候随而今春度々風波之為網罟之破損も有之明年魚漁手配差支難渋仕候ニ付別帳ニ人員並引當品取調差上候間出格之以 御
詮儀為漁業資本金拝借破
仰付被下置度奉願上候以上
 第十七大區二小區熊石村
 漁民惣代兼
 村用係助
 明治七年第九月十三日 荒井 忠右衛門■(丸印)
 同
 田子谷 文吉■(丸印)
 同
 岩藤 長四郎■(丸印)
 同
 佐賀 忠蔵■(丸印)
 同
 小倉 宅蔵■(丸印)
 村用係
 山下 六三郎■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通願出ニ付上申候也
 戸長
 第九月十三日 田村 忠直■(丸印)

 漁業資本金拝借人並引當品調書
一金五拾圓 永井 多十郎
 此引當
 上差網 四拾五放
 中差網 拾五放
 上礒船 壱艘
 下礒船 壱艘
一金拾五圓 沢谷 喜六
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾圓 町中 興四郎
 此引當
 上礒船 壱艘
 中礒船 壱艘
 金五圓 沢谷 沢吉
 此引當
 上礒船 壱艘
一金五圓 矢木 万右衛門
 此引當
 上差網 七放
一金拾圓 木村 松太郎
 此引當
 上差網 拾三放
 中差網 弐放
一金五圓 林 浅吉
 此引當
 上差網 七放
一金五圓 柳 福松
 此引當
 上差網 壱艘
一金五圓 木村 与平治
 此引當
 上差網 七放
一金三圓 小林 長松
 此引當
 上差網 三放
 中差網 弐放
一合三拾圓 宮澤 文治郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 七放
 上礒船  弐截
一金弐拾五圓 飯田 久兵衛
 此引當
 上差網 弐拾五放
 上持府船 壱艘
一金拾圓 磯野 豆平
 此引當
 上礒船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金三圓 平島 岩吉
 此引當
 上差網 四放
一金拾圓 杉本 傅兵衛
 此引當
 上礒船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金拾圓 酒谷 源右衛門
 此引當
 中差網 拾放
 中持府船 壱艘
一金拾圓 畑中 四平
 此引當
 上差網 拾五放
一金五圓 酒谷 利作
 此引當
 上差網 八放
一金五拾圓 酒谷 清太郎
 此引當
 中差網 六拾放
 上持府船 壱艘
 中持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金拾圓 川村 又兵衛
 此引當
 中差網 弐拾放
一金七圓 笹森 勇八
 此引當
 上差網 拾放
一金拾圓 大谷 弥兵衛
 此引當
 中差網 八放
 上礒船 壱艘
一金弐拾圓 酒谷 清吉
 此引當
 上持府船 壱艘
 中持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 井川 荒吉
 此引當
 中差網 拾五放
 上持府船 壱艘
一金拾圓 小山 甚吉
 此引當
 上差網 六放
 中持府船 壱艘
一金五圓 町中 力蔵
 此引當
 上持府船 壱艘
一金五圓 町中 佐吉
 此引當
 上持府船 壱艘
一金拾圓 井川 権四郎
 此引當
 上差網 八放
 中礒船 壱艘
一金八圓 小林 小平治
 此引當
 上持府船 壱艘
一金弐拾圓 阿部 藤松
 此引當
 上差網 弐拾放
 上礒船 壱艘
一金三圓 齋籐 新六
 此引當
 中礒船 壱艘
一金五拾圓 町中 吉郎右衛門
 此引當
 中建網 壱投
一金拾圓 菊地 弥十郎
 此引當
 中差網 拾五放
 上礒船 壱艘
一金拾圓 目谷 又右衛門
 此引當
 中差網 拾五放
 中礒船 壱艘
一金弐拾五圓 磯野 忠右衛門
 此引當
 上持府船 壱艘
 中礒船 壱艘
 上差網 拾八放
一金五圓 金谷 傅左衛門
 此引當
 上差網 七放
一金百三拾圓 林 甚三郎
 此引當
 上建網 壱投
一金三拾圓 加茂 多右衛門
 此引當
 中差網 四拾放
 上礒船 壱艘
一金四拾圓 山下 勘四郎
 此引當
 上差網 五拾放
 上礒船 壱艘
一金五拾圓 水野 喜三郎
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 拾六放
 中持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金弐拾圓 新谷 彦右衛門
 此引當
 上差網 弐拾七放
一金五圓 目谷 宅蔵
 此引當
 上礒船 壱艘
一金拾圓 佐藤 三郎治
 此引當
 中差網 弐拾放
一金拾圓 佐藤 喜右衛門
 此引當
 中差網 八放
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 畑中 孫右衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾五圓 畑中 幸右衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
一金弐拾圓 塩谷 庄兵衛
 此引當
 上持府船 壱艘
 上礒船 弐艘
 中礒船 壱艘
一金八圓 田子谷 二太郎
 此引當
 上差網 六放
 中礒船 壱艘
一金五圓 紅谷 七左衛門
 此引當
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 土谷 太兵衛
 此引當
 中差網 三拾放
一金五圓 辻木 喜右衛門
 此引當
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 仙臺谷 幸右衛門
 此引當
 中差網 七放
 上礒船 弐艘
一金拾五圓 花田 吉郎兵衛
 此引當
 中持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金拾五圓 齋籐 佐次兵衛
 此引當
 上差網 弐拾放
一金弐百圓 山下 六三郎
 此引當
 上差網 五拾放
 中差網 四拾放
 上建網 壱投
一金拾五圓 小西 長三郎
 此引當
 上差網 拾五放
 中差網 拾放
一金七圓 伊藤 市右衛門
 此引當
 上差網 四放
 中礒船 壱艘
一金弐拾圓 土谷 政右衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 大須田 酉蔵
 此引當
 上差網 拾放
 上持府船 壱艘
一金八圓 小西 三吉
 此引當
 上持府船 壱艘
一金八圓 岸田 兵蔵
 此引當
 上持府船 壱艘
一金弐拾五圓 土谷 掟左衛門
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 弐拾放
一金百五拾圓 安藤 利右衛門
 此引當
 中建網 壱投
 上差網 六拾放
 上礒船 壱艘
一金五圓 佐野 栄次郎
 此引當
 上礒船 壱艘
一金五拾圓 岩佐 又左衛門
 此引當
 上差網 三拾放
 中差網 武拾艘(ママ)
 中持府船 壱艘
 中三半船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金百圓 磯島 治左衛門
 此引當
 上建網 壱投
一金七拾六圓 宮濱 文右衛門
 此引當
 中建網 壱投
一金五拾圓 齋藤 儀兵衛
 此引當
 上差網 五拾放
 中持府船 壱艘
 上礒船 弐艘
一金五拾圓 寺島 善兵衛
 此引當
 上差網 五拾放
 上持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金拾五圓 尾山 清三郎
 此引當
 上差網 弐拾放
一金拾圓 厚谷 長七
 此引當
 上差網 拾放
 中礒船 壱艘
一金弐拾圓 新保 権太郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 上差網 壱艘
一金弐拾圓 平井 孫兵衛
 此引當
 中差網 四拾放
一金拾五圓 四方谷 與太郎
 此引當
 上持府船 壱艘
 上差網 拾放
一金拾圓 菊地 重治郎
 此引當
 上差網 拾放
 中差網 五放
一金拾圓 輪島 権吉
 此引當
 上持府船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金拾圓 赤泊 乙五郎
 此引當
 上礒船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金百圓 岸田 長佐衛門
 此引當
 上建網 壱投
一金拾圓 佐藤 勘治郎
 此引當
 中差網 拾放
 中礒船 壱艘
一金弐拾五圓 甲谷 久蔵
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 弐拾放
一金五圓 松田 忠太郎
 此引當
 上礒船 壱艘
一金五圓 能登谷 久蔵
 此引當
 上差網 七放
一金四拾圓 赤泊 五兵衛
 此引當
 上差網 三拾放
 中差網 拾弐放
 中三半船 壱艘
 下礒船 壱艘
一金四圓 島谷 清七
 此引當
 上差網 六放
一金七圓 小巻 林右衛門
 此引當
 上差網 拾放
一金拾五円 小倉 清蔵
 此引當
 中差網 弐拾放
 上差網 弐拾放
一金五拾圓 山下 傅三郎
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 弐拾放
 上持府船 壱艘
 中礒船 壱艘
一金三拾圓 倉村 三九郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 五艘(ママ)
 中礒船 三艘
 下礒船 壱艘
一金三拾五圓 泉谷 権太郎
 此引當
 上差網 弐拾放
 中差網 弐拾放
 上礒船 弐艘
一金拾(はり紙) 三拾圓(はり紙下) 阿部 豊次郎
 此引當
 上差網 拾五放
一金三拾圓 阿部 作右衛門
 此引當
 上差網 四拾放
一金五拾圓 岩藤 岩次郎
 此引當
 上差網 四拾放
 中差網 弐拾放
 中持府船 壱艘
 上礒船 壱艘
一金七圓 吹田 弥七
 此引當
 上差網 拾放
一金百圓 小西 弥三郎
 此引當
 中建網 壱投
一金百圓 板谷 兼次郎
 此引當
 中建網 壱投
一金百圓 永井 重吉
 此引當
 上建網 壱投
一金百圓 坪谷 治右衛門
 此引當
 上建網 壱投
一金百圓 田村 万蔵
 此引當
 上建網 壱投
一金拾圓 宮本 猪左衛門
 此引當
 上差網 拾五放
一金六拾圓 岸田 重四郎
 此引當
 上圖合船 壱艘
 中圖合船 壱艘
 上持府船 壱艘
 上差網 三拾五放
一金五圓 大須田 弥左衛門
 此引當
 上礒船 壱艘
一金六圓 高橋 庄右衛門
 此引當
 上礒船 壱艘
一金百圓 猪股 五郎兵衛
 此引當
 上建網 壱投
一金五拾圓 野呂 粂治郎
 此引當
 上圖合船 壱艘
 中圖合船 壱艘
 中三半船 壱艘
 上三半船 壱艘
一金拾五圓 布谷 岩太郎
 此引當
 上差網 拾五放
 中礒船 壱艘
一金七拾圓 西野 七之丞
 此引當
 上建網 壱投
一金七拾圓 森 喜八
 此引當
 上三半船 弐艘
 上持府船 弐艘
 上差網 三拾五放
一金七拾圓 増川 傅九郎
 此引當
 中差網 四拾放
 上三半船 壱艘
 上中遣船 壱艘
 上礒船 壱投
一金五拾圓 山崎 三右衛門
 此引當
 中差網 七拾六放
 中礒船 壱艘
 上持府船 壱艘
一金七拾五圓 坂本 重兵衛
 上差網 五拾放
 中差網 三拾五放
 中礒船 四艘
 中持府船 壱艘
一金七拾五圓 川道 治郎右衛門
 此引當
 上差網 五拾放
 中礒船 四艘
 中差網 三拾五放
 中持府船 壱艘
一金七拾五圓 大須田 弥右衛門
 此引當
 上差網 五拾放
 中差網 三拾五放
 中持府船 壱艘
 中礒船 四艘
一金七拾五圓 川道 卯三郎
 此引當
 上差網 五拾放
 中差網 三拾五放
 中礒船 四艘
 中持府船 壱艘
一金百圓 赤泊 興七
 此引當
 上建網 壱投
 合金三千六百三拾圓
右之通取調奉差上候處相違無御座候以上
 第十七大區二小區熊石村
 漁民惣代兼
 村用係助
明治七年第九月十三日 荒井 忠右衛門■(丸印)
 村用係助
 田子谷 文吉■(丸印)
 村用係助
 岩藤 長四郎■(丸印)
 村用係助
 佐賀 忠蔵■(丸印)
 村用係助
 小倉 宅蔵■(丸印)
 村用係
 山下 六三郎■(丸印)
 開拓中判官杉浦 誠殿
前書之通相違無座候也
 戸長
 第九月十三日 田村 忠直■(丸印)
 この貸付書類を集計すると、明治七年時点で担保物件として上げた漁網や漁船数は次のとおりである。

村名 相沼内村 泊川村 熊石村
借入金額 1,100 1,100 3,630 5,830円
借入人員 16 33 114 163
建網 4 1 10 15
4 2 5 11
       
8 3 15 26
差網 250 770 1,378 2,338
90 397 783 1,220
       
340 1,167 2,161 2,668
図合船   4 2 6
  1 2 3
       
  5 4 9
三半船     4 4
    3 3
       
    7 7
持符船 6 5 25 36
  1 14 15
       
6 6 39 51
磯舟 3 13 40 56
5   39 44
       
8 13 79 100
中遣船     1 1
       
       
    1 1
船数計 9 22 72 103
5 2 58 65
       
14 24 130 168


 この表によると熊石の建網(行成網)だけで26統に及んでいて、さらに差網は3608放にも及んでいる。差網一放は32尺であるので、その延長は3万5000メートルにも及ぶので、熊石付近の海岸には全くの余地がなく建網、差(刺)網が張りめぐらされていたものである。
 この鯡の凶漁は、明治中期以降になって立ち直り、また、活気に満ちた万石場所に立ち返ったが、“北海道漁業史“によれば、明治時代前期の北海道を代表する大漁業家7人のうちに、熊石町の山田喜代治、猪股作蔵の2人が選ばれており、その盛業の状況を、
 山田喜代治 爾志郡相沼内村の漁業者、旧請負人。鰊建網21統、同刺網50放を所有し、漁夫五百人を使役する。21年の収穫高5254石。
 猪股作蔵 爾志郡熊石村の漁業者、漁場11ヶ所、鰊行成網18統、漁船70艘をもち、雇用漁夫200名に及ぶ。外に海産乾場15ヶ所、建物漁舎合せて42棟をもつ。
と記され、熊石町漁業者の漁業規模の大きさに驚きをもって見ており、同年代熊石町の鰊の水揚げは凡そ五万石という驚異的な数字であった。

 第4節 村政の新たな息吹き

 明治6年熊石村は開拓使の第25区、第26区(相沼内、泊川村は25区、熊石村は26区)に編成され、戸長には田村忠直が任命され、相沼内、泊川、熊石の3村を管轄し、各村には村用掛及び村用掛助並びに漁民惣代を置いて村政の事務を担当させた。相沼内村の村用掛は俵谷善次郎、泊川村石田久左衛門、熊石村山下六三郎でこの村用掛の自宅を戸長役場として事務を執り、戸長は月2回程度3村を巡回して決裁をするのみで、普通の場合は開拓使の桧山(江差)出張所で執務していた。
 明治8年2月には海関所熊石出張所が熊石船改所と名称が変更になった。明治8年12月には爾志郡の郡役所としての開拓使函館支庁熊石分署が設置され、戸長及び羅卒(警察官)が熊石に常駐して爾志郡の行政管理に当った。その後明治9年に北海道大小区制の改正により熊石村は第9大区第1小区となり、泊川・相沼内は第2小区と変更になった。さらに同年江差中歌町に桧山(江差)郡役所を置き、桧山、爾志の2郡を管轄することとなった。明治10年には開拓使久遠、瀬棚、奥尻、熊石の各分署が廃止され、その熊石分署を利用して熊石村戸長役場の単独庁舎とし、泊川・相沼内の2村は戸長役場を新築した。
 このような新たな行政の変革が次々と村に注ぎ込まれ、明治9年には海産干場(澗納屋場所)の測量評価が行われ、同10年には北海道地券條例が発布され地券の交付が始められ、同11年には耕地、宅地の実測が行われている。村起しの新たな息吹も次々と起きてきた。明治9年4月熊石郵便局が開設された。初代局長住吉峯次郎の辞令によると
 住吉 峯次郎
 七等郵便取扱役申付候事
 右内務卿之命ヲ以
 相達候也
 明治九年四月十四日
 駅逓頭 前島 密 ■(角印)
とあって、これによって村内の郵逓事務は大いに利便となった。
さらに橋の架けられていない見市(日)川の川渡し賃を開拓使が規制し、明治10年には渡し賃7歳以上7厘、7歳以下無賃、荷物2人持一個4厘、夜中は5割増と定められている。明治11年は熊石町の教育界にとって記念すべき年であった。この年10月18日雲石公立小学校、27日には相沼内公立小学校、同26日には泊川公立小学校が相次いで開校する等の快挙が村民の協力、拠出金によって賄われた。


開拓使発行の地券(滝沢家所蔵)

 明治11年には村用掛か廃止され、戸長役場には村総代及び学事世話係が置かれ、熊石村では初代村総代に佐野麟太郎、学事世話係佐野甚右衛門が村総会で決定された。また、行政の変革では、同年地租(税)が創設され、漁業税は1割から2割の不定率で賦課することに変更され、翌12年7月には北海道大小区制が廃止されて、郡区町村制と変更された。
 また、産業面では11年春の鰊漁業で、漁夫の入稼者は桧山全郡で約6000人であるが、そのうち500人が前借をして逃去し、大きな社会問題となり、13年から14年にかけて主要漁業家が江差に集まって協議し、桧山漁業雇入取締会社を設立し、瀬棚、一艘澗、熊石、木ノ子に出店を置いてその逃亡防止をすることになった。さらに熊石村を始め西在8か村は警察費年々200円を政府に納め、江差警察分署の巡査を毎月各村に巡回させる等、この入稼漁夫の前借踏倒し逃亡は頭の痛い問題であった。
 開拓使行政末期の明治13年7月25日の“函館新聞”(第361号)記事によれば三村の景況について、
 相沼内村 戸数184戸 人口844人 学校あり。
 泊川村 戸数168戸 人口707人 学校、戸長役場、駅場あり。
 熊石町 戸数367戸 人口1,959人 船改派出所、戸長役場、駅場、郵使局等あり。
 租税係派出、江差以北の一小市街と誇称する乙部村あれど一層繁昌の地なり。料理店、湯屋、蕎麦店、餅屋、曖昧的も出没する様子。一夜の枕価一円五〇銭とは姉価騰貴も太甚し。寺院は総体三ケ寺あり。一里餘にして、
 支村 関内  戸数五十戸程。
海岸には浜小屋かけ夜はなかなか繁昌なり。近来目を驚かす事は、本村学校の盛んなることなり。学校何れも生徒に富み家として咿唔を聞かざるなし、感服。感服。

 第5節 学校教育のはじまり

 熊石町の庶民教育は今より実に220年をさかのぼる明和4(1767)年から始まっている。“無量寺過去帳”によれば、
 六月八日
 一生譽龍将覚雲居士
 俗名金井主膳 年七十歳
 生国信州上ノ諏訪本名岩波主膳ト号。
 ○当村ニ医者ヲ識(職か)トシ手習ノ弟子稲之丞、竹松、貞之丞、弥四郎、石之助、菊三郎、万吉、弥六、長吉其ノ外大勢アリ、一寺ノ門前柾屋一軒立ル、是レハ右主膳之居宅ナリ、茶湯料ノ為ニユイケンニ(ママ)ヲ寺門前ニ立者也。
とあって、この年代無量寺門前に住む医師金井主膳が七十歳で死亡したが、生前居宅をもって手習塾を開いていて、多くの子弟を教育したと記録され、実に熊石の教育の始まりと見ることができる。当時の一般庶民子弟の教育は、城下街等では学塾(公私立)があったが、熊石村のような辺地では寺子屋や、このような手習塾が多かった。門昌庵には記録的なものは残されていないが、昔から庫裡を開放して寺子屋を開いていたといわれ、このような寺子屋や手習塾で、読み、書き、算盤と行儀作法が行われていた。


金井主膳の記事(無量寺蔵))

 読みは、いろは48文字から漢字の習熟、実語経、商売往来等の基本教科、また、女性は女大学等によって教養を身につける。習字はいろは48文字や前記教典、村尽し等の手習と算盤等を習い、教養を高め、女子はこの外和裁塾に通って和裁及び行儀を習得する等が一般的な学習であった。しかし、この寺子屋、手習塾には束修、謝儀が必要であった。束修とは稲束のことで、これを米をもって納めることで、毎月その家計の分に応じて米を納め、さらにお盆、暮の年2回金銭をもって謝儀するという方法が取られていた。また、教科書や学習用具の購入等で少なからず金がかかるので、一般の庶民でこれらの塾で勉学出来るのは、極く一部の人達であった。従って文盲者が多く、読み書きの出来る人は村の智識者であった。
 幕末の頃、水戸の漢法医兒島俊庵が熊石に来て医業を開いた。2代目俊庵は江戸から大坂に出、当時大坂で有名な蘭法医緒方洪庵の門人松山陶庵の下で学び、帰って兒島病院を開き、殊に眼科では最も手腕を発揮したという(“鐙谷抱圓遺稿”)。この2代目俊庵は明治8年病院内に寺子屋を開いて10数名の村内青年に新しい教育を教授している。
 私立小学校は公立小学校と競合する形で明治18年に開設されている。門昌庵住職星野梅苗は児童就学の必要性を痛感し、寺内を村民の寄附で改装し、私立徳昌小学校を開校した。この学校は25年雲石小学校に統合するまで続けられ、教員には村上玉英、瀧見英造、下村房次郎、成田松蔵等がおり、女教師では水橋すえ、小野やすもおり、特筆される教育活動が続けられたが、在籍児童、卒業児童数等の明確な資料は残されていない。
 前第6章、第2項の村政の新たな息吹きの項でも述べた如く、明治11年は熊石町小学校教育にとって、特筆される黎(れい)明の年であった。明治新政府は児童の皆就学を目途に明治4年文部省を設置し、明治5年8月に学制が布かれ、同年9月全国一率の小学教則が発布された。同8年3月函館支庁は管内に奨学告諭を出して公立小学校の設置をうながし、また、11年1月には村落小学教則が制定された。この教則は比較的豊かな函館、松前、江差の3地方は正則課程に従い、他地方は総てこれに拠った。この村落教則では小学教科を6科とし、読書・習字・算術・地理・歴史・修身とし、これを具備しない学校は明治13年1月変則小学校とすることが決定された。この発布により各地域で急速に学校設置の気運が高まり、熊石等3村内に於ても村総会で、この学校設置の協議がもたれ、“開拓使事業報告”に於ても、泊川村では「村民協議シ」とあり、小学校を建築した場合、児童一人当り28銭の国庫補助により教員給与は確保できたが、他の教育費用と校舎の建築費と維持費は各村の負担であったので、この小学校建築は容易なものではなく、その開校決断を村として決定するための村内協議が多く持たれた。幸い熊石には漁業大資本家が多かったので、これらの人々の大口拠金に負うところが多かった。例えば“青江理事官諮問回答書”にある如く、猪股作蔵は雲石小学校建設に金100円、山田六右衛門は相沼小学校に金60円、山田友右衛門は金50円、天満与作は泊川小学校にと大口の寄附によって学校建築を容易にし、3村期を一にして明治11年春より小学校の建築に入り、11月には日時を3村が協議して学校開業式を挙行することになった。
この3校の開設と明治前期の沿革は次のとおりである。

公立相沼内小学校
 明治11年の公立相沼内小学校の建設については、村内有志が協議を重ねた結果、学校の新設を決定した。当時の相沼内村総代は西村弥右衛門、稲船権兵衛で、同学校世話係は山田六右衛門、山田友右衛門、桂川七右衛門で、村内各家庭に募金を呼びかけた結果、金額の多寡はあったが村内全戸の184戸から320円の募金があり、その3分の1は両山田家が負担した。学校は同村82番地磯崎神社の境内に24坪の校舎を建築し、10月下旬に完成、公立小学校設置願を開拓権大書記官時任為基宛に提出、11月20日には教員福井冨吉が着任した。
 開業式は明治11年11月27日開校で行われ、開拓使江差分署長市来政胤、同3等属阿部重遠、同御用係林悦郎、2等出仕生田完造及び前記村役が出席して盛大に行われ、公立相沼内小学校はここに発足したが、当時の児童数は22名で、教室は1教室、教師は1人であった。
 また、寄附金320円の使途については、校舎建築費に200円、教場要品、諸器械購入費として90円を要し、残金30円は維持費とした。また、学校維持の方法として、児童の授業料48円、維持費残金30円、さらに村内108戸から集めた胴鰊(身欠鰊を取った残りの鰊で肥料にする)270束を換金して得た48円をこれに充てた。当時、相沼内小学校の1か年の維持費は薪15敷で13円50銭、木炭48俵で4円80銭、教場小使年給20円、灯油1円、試験費50銭、予備費として73円80銭が計上されていた。
 開校3年目にして生徒数は急増し教舎の増築に踏切り、明治14年3月には12坪教室が完成したが、明治16年には生徒数は約4倍に達し、現校舎は狭隘で所期の目的を達することが出来なくなったので、新築5年目にして本格的校舎の建築が村内有志で議論された。この結果どんな犠牲を払っても児童教育の完全実施のため本格的校舎を建築することが7月11日の総会で議決された。この議決には学務委員の山田小三郎氏の熱意と努力に負う処が多かった。7月設計が終わり8月以降本校舎の建築が始まり、中歌17番地に木造2階建洋館造り、表間口9間、奥行4間、高さ19尺、総坪数44・25坪の校舎には、3間3尺×4間教室3、事務取扱所、応接所、教員止宿所、台所、便所と近代教育に必要な十分な施設としての設計が組まれ着手した。これに要する建築費は1716円35銭2厘を要し、山田六右衛門の150円、山田友右衛門の50円、稲船権兵衛150円、近田孫85円等の大口寄附金もあって、その費用は賄われた。完成は12月7日であったが、木造2階建で玄関及び2階は斬新なバルコニー形式を取り入れた、村民の人達も只目を見張るばかりの立派なものであった。(“あいぬま”開校100周年記念誌)
 この学校の建築中の状況を9月18日付の“函館新聞”は、
 全道村落に未だあらざる一大壮観なる校舎を建てるべしと協議一決して、其の費用を予算せしに、凡そ一千六百円余り掛るとの事にて、既に同村有名の富豪(金鱗)山田六右衛門氏に金四百円、同じく山田友右衛門氏に三百円、以下二百円より五十銭に至るまで、夫々有志者の寄附金を集め、既に先きごろより工事に着手し、屋根廻り外部敷板等概略出来に至れり。


明治16年落成の相沼内小

 右は江差柏樹学校に模造し、西洋風の木造2階付にて教場、応接所、教員詰所、当直室、小使部屋等にて坪数凡そ八十坪許りの一大壮観な建物なり。
 これを見ると当初の計画より予算に於てすでに500余円超過していて、両山田家を始め、多くの村民の協力を得て、この村民拠金による相沼内小学校の全道的に有名な校舎は完成した。
 移転開業式は明治16年12月10日行われ、市来桧山、爾志郡長、函館県原学務課員外70名の来賓が出席、70余名の生徒と共にこの一大偉観の校舎の建築を喜び合い、この式に臨席の原学務課員は上司への報告書に「本県下村落の各小学校中絶に其比を見ざる所なり」と述べていることからしても、本校舎が地方では比類のない立派な建物であったかが想像できる。式終了後、来賓及び村民有志70余名は村の学校世話係桂川七右衛門宅に会場を移して祝宴が催され、市来郡長は祝杯攻めに卒倒する程であった。
 この移転開業式の状況についても“函館新聞”12月24日号に掲載されている。
 爾志郡相沼内村相沼学校ハ過ル明治十一年十一月を以て創立し、生徒も追々増加したるため、十三年に至りて教場を増築したるが、益々旺盛に趣き尚狭隘を告ぐるに及びしゆえ、当夏更に一大校舎新築の儀を起し、同村山田六右衛門、学校委員山田小三郎、山田右衛門等諸氏が卒先私材(財)を抛ちて其を賛成せしかば、忽ち一千五百円許りの金額に昇り、弥々新築に着手せしに既に落成を告げたれは、本月十日を卜し其移転式を行ひたり。
 当日臨席の人々は郡長市来政胤、郡書記小川鏡三郎、本県学務課原七等属の諸士を始め各公私立学校教員生徒及び各村戸長、学務委員、有志者等にて午前十一時四十分其式をあげ、郡長以下演説祝文を朗読せるもの六十有餘名あり。式全く了りしは午後三時三十分過にて、一同退散の後、各校生徒、参観人七十餘名へ赤飯と饅頭を与えられ、猶ほ、右諸士有志等七十有除名は、同村富者の一人なる桂川某氏の宅に於て祝宴を催されたり。抑々(そもそも)該校の位置たる村の中央にて道路より十間程隔てたる少しく高所に位し、校舎の構造は総て洋風の二階家にて、教場三ケ所(各十六坪)、其他応接所、教員詰所、小使室等総て全備せざる無し、殊に其他の風景絶妙にして実に村落には珍らしき校宇なりとぞ。
と、全道にこの挙式の模様を紹介している。
 この明治16年4月に相沼内村小学校は、相沼小学校と改称された。
 その後の相沼小学校の変遷
 明治40年8月20日1学級を増し3学級編成となる。
 明治41年4月1日小学校令改正により本年度より尋常科第5年を設ける。但し補修科第1学年生は第5学年に編入、補修科第2学年のみ存置する。
 明治41年4月25日泊川尋常小学校第1学年以上30名を当校に収容。
 明治41年11月27日開校30周年記念式挙行。
 明治42年4月1日小学校令改正により尋常科第6学年を置く。泊川より通学の尋常科5、6学年児童を収容し、従来泊川より通学の第4学年以下の児童は、通学区域を変更し、泊川尋常小学校へ転校させる。
 明治43年1月児童保護者会を創立。
 明治43年6月20日新校舎落成し落成式、運動会、提灯行列を行う。
 大正3年11月7日泊川尋常小学校を本校の泊川分教場とする。
 大正9年より昭和3年まで二股特別授業所開設。
 大正10年10月高等科(修業年限2年)を併置し、校名を相沼尋常高等小学校とす。
 大正15年7月1日相沼青年訓練所認可さる。
 昭和2年5月16日アメリカ人形到着。
 昭和8年4月13日相沼青年学校開校式。
 昭和15年9月13日札幌市黛キヨ氏より二宮金次郎銅像一体寄贈され、除幕式を行う。同銅像は17年8月23日金属回収され石像に変わる。
 昭和16年4月1日国民学校令により校名を相沼国民学校と改称。
 昭和18年1月12日泊川分教場本校より独立して泊川国民学校となる。
 昭和22年4月1日相沼小学校と改称。
 昭和22年5月2日熊石第2中学校開校式(小学校に併置)。
 昭和29年8月26日校舎落成祝賀会。
 昭和29年9月26日台風15号のため校舎の一部破損。


現在の相沼小学校

 昭和33年11月27日開校80周年記念式、祝賀会を開催する。
 昭和37年5月15日町制施行祝賀旗行列。
 昭和43年11月27日開校90周年記念式、祝賀会を催す。
 昭和44年10月27日屋内体育館新築落成式及び祝賀会開催。
 昭和53年1月18日新校舎完成第3学期より使用開始。鉄筋コンクリート2階建、面積1858平方メートル(体育館を除く)、工費2億3250万円、普通教室6、特殊学級、プレイルーム、図工、音楽、図書、視聴覚、理科、準備室(2)、放送調整、保健、配膳、公務補、職員、校長の各室を備う。(使用は昭和53年1月21日から)
 昭和53年8月1日開校100周年記念行典及び祝賀会開催。

公立泊川小学校
 明治11年11月26日、泊川村字大澗10番地の民家をもって校舎に充て、変則小学校(4年修学)として開校した。校舎総坪数は24坪7分5厘で、その経費は村内で負担したが、金額は不明である。翌12年8月に至り、教室狭隘のため4坪を増築した。その後関内や相沼に於て本格的校舎の建築を計画したので、天満与作氏等を中心に村内協議の結果小学校の新築を決定し、天満与作氏は50円を拠金し、村内各家も寄附に協力し、明治16年11月校舎が完成し、12月11日移転開業式を盛大に行ったが、その状況を12月26日付の“函館新聞”(第970号)は次のように報じている。
 泊川学校移転式
 爾志郡第三学区泊川村泊川小学校は去る十一年十一月中開校以来追々隆盛に赴き大いに手狭に至りしを以て学務委員荒谷伝九郎、天満与作両氏其他有志者相謀りて新築にかゝりしが已に工を竣りたるに付、去る十一日其の移転式を執行したり。
 当日の臨席は市来郡長、小川郡書記、原本県七等属其他各村学務委員、戸長、各学校教員、生徒、有志等にて、郡長の祝詞を始め諸氏の祝辞演説等殊の外夥しく、午後一時より式場を開き、同四時二十分に至って漸く式を終え、各生徒、参観人等へ赤飯、餅などを差し出す。
 夫より右の人々七十名餘り皆同村飯田某方に来会して祝莚を開き、夜の十二時頃各々退散されぬ。
 却説(さて)、本校は村の中央の高所にありて位置甚だ宜しく、眺望も随分佳なり。本校は木造平屋にて教場は十五坪と二十坪の二教場あり、又応接所、生徒控所、教員詰所、小使室等も備り、一小村にして此挙あるは実に感心の至りなり。
と泊川村民の教育熱心さと、学校設備の整っているのに驚嘆している。新校舎の完成後の旧校舎は村会所として利用されている。この年2月函館県小学校教則が改正されて、4月より変則小学校を改め、初等科小学校となった。(修業年限3か年で、読書、習字、体操、算術の5科目のみ教授)
 明治17年12月には字見市(見日)の荒谷友太郎氏の板蔵を借り、担当教員佐藤満五郎を派遣して見市分校を開校、生徒数は15名であった。
 その後の泊川小学校の変遷
 明治20年4月1日 初等科小学校を改め、簡易小学校となる。(修業年限3年)
 明治26年 校下学齢児童男子124名、女子93名。通学児童男子68名、女子12名で就学率36・86%。
 明治28年4月1日 簡易小学校を改め泊川尋常小学校となる。(修業年限3年)この年の就学児童の授業料は尋常1年3銭、同2年5銭、同3年7銭、補修科7銭で、月末に徴収していたが、父兄への悪感情、児童への影響を考え、村総会は明治32年から徴収しないことになる。
 明治32年 就学率64・04%もなった。
 明治35年4月 本年度より経費の都合で補修科授業打切りとなったが、村民が村長との交渉結果で、9月から再開した。
 明治41年4月15日 第5学年の児童は相沼小学校通学となる。
 大正3年11月 相沼小学校の分教場となる。児童数は1・2年48名、3・4年44名、計92名。
 昭和17年7月1日 新校舎の建築に着手、同年12月10日完成(教室3教室)。
 昭和18年1月12日 泊川国民学校として独立、3学級編成、児童数195名。
 昭和22年4月1日 泊川小学校と改称。
 昭和23年11月16日 開校70周年記念式典を行う。(卒業生は1028名)
 昭和33年4月 給食室7坪の増築に着手、翌5月完成。
 昭和33年11月16日 開校80周年記念式典。
 昭和35年12月23日 へき地集会室(屋内体育館)完成。
 昭和38年12月10日 新校舎完成し祝賀会を催す。(総面積328・5坪)
 昭和43年11月26日 開校90周年記念式典。
 昭和53年8月 開校100周年記念式典。

公立雲石小学校
 熊石本村地域の小学校教育は明治11年より活発な動きを見せている。佐野甚右衛門履歴書によれば、
 佐野甚右衛門
 学事世話掛申付候事
 明治十一年十月十八日
 函館支庁 民事課
とあって、熊石村に始めて学事世話掛が任命され、開拓使の進めていた教育の機会均等化と普及のためには、先ず各村に小学校の建築が先決である(“北海道教育史地方編一”)との考えから学校の新築をうながしている。また、明治8年3月4日学制が創定され、明治11年には「公私立学校開業式概則」が定められ、さらに小学校則が改正され「正則小学校則」と「村落小学校則及教則」が発布され、熊石地方は5か年修業の村落小学校則に拠ることになり、各村が一斉に学校建築するよう働きかけがあって、前述のように佐野甚右衛門が学事世話掛に任用されたものである。佐野は村内有力者、村用係とも協議し、また、相沼、泊川村も積極的に11月開校を目途に、学校建築を始めたこともあり、熊石村、関内村を校下にもつ雲石小学校を建築することになり、村内有志の寄附募集をした。関内村猪股作蔵の履歴書によれば、「明治十一年本村雲石校ノ設立ニ際シ金百円ヲ献ジテ銀杯壱箇賞賜セラレ」とあるので、その寄附金は校下両村全域にわたって行われていたことが分る。


泊川小学校

 この寄附金をもって元掛間阿部勘十郎の家屋を買収、改修して仮校舎として同年11月11日公立雲石小学校は開校したが、当時の児童数は男56名、女6名、計62名で、校長は高橋治知であった。高橋は、その履歴によると旧松前藩士で、明治4年から9年まで第14、15区(小砂子・石崎・塩吹・木ノ子・上ノ国・北村・大留=上ノ国町)の戸長としており、また、明治9年には第12大区(雨垂石・茂草・清部=松前町)の戸長も経験した人格、識見共に秀でた校長であった。
 明治13年10月には熊石村船改派出所の建物払下げを請願して許可により、内部を改装して校舎として移転した。また、明治16年には村民の寄附により、校舎を拡張し、校内備品を購入整備したようであるが、学校沿革史にはそのことの明記はないが、前記佐野の履歴によれば
 爾志郡熊石村
 佐野 甚右衛門
 雲石学校経営ノ内へ金五拾円差出候段奇特ノ事ニ付依テ其賞トシテ木杯壱個真綿壱包被下候事
 明治十六年十一月二十日
 開 拓 使
 この辞令は開拓使名になっているが、同年では函館県治下であるので、それ以前の寄附によるものであるかも知れない。
 明治15年は平田内に分校を設けたが、翌16年2月火災で焼失した。雲石小学校の校下には関内村もあったが、同村の子供達は地域的に遠隔であるので通学せず、地元の太田耕助塾の通学者は36名に達していることから地元負担により校舎を建築し、公立関内小学校として分離独立した。また、明治17年には本校の見日分校が開設され、同年11月には前年焼失した平田内分校が再建され、授業を再開した。
 このように村内の小学校の公立化を図って児童の収容に努めようとするなかで、児島病院の寺子屋や、明治18年には私立徳昌小学校、明治22年には私立日徳小学校が開校される等公立と競合して私立の小学校設立もあり、公立一本化はなかなか進まなかった。
 明治24年11月雲石小学校の現在地への移転新築が決定し、工事に着手、25年9月工事は完了して学校は移転開校(前記佐野家履歴書)した。この校舎の完成により徳昌小学校、日徳小学校の児童もここに加わり生徒数は、本校だけで約300人に激増した。
 その後の公立雲石小学校の変遷
 明治27年4月 雲石尋常高等小学校と改め、尋常科、高等科の修業年限を各4年とした。
 明治28年 高等科の修業年限を3年と改めた。児童数男226名、女69名、計295名。
 明治29年4月 関内尋常小学校を合併し、西分校とする。
 明治34年1月 西分校が独立し関内尋常小学校となる。
 同年 元掛澗2番地(現在の役場付近)に第1分教場を設置、さらに畳岩216番地(現在の551番地)に第2分教場を設置。
 明治35年4月 元掛澗鐙谷氏の漁具庫に第3分教場設置。
 同年11月 元見市(見日)に第4分教場を設置。
 明治43年9月 元掛澗(現在の雲石743番地)に雲石小学校々舎が完成した。
 明治44年1月 第4分教場以外の分教場を廃止した。
 大正3年11月 再び関内尋常小学校を本校に合併し、関内分教場とした。
 大正5年10月 見日分校を新築した。
 大正12年10月 屋内運動場を新築した。
 昭和3年11月 開校50周年記念式を挙行した。在籍児童本校717名、見日49名、関内100名、計866名。
 昭和13年11月 開校60周年記念式典挙行。在籍児童969名。


雲石小学校運動会(大正時代)=佐野麟太郎写真原板より

 昭和16年4月1日 国民学校令の施行により雲石国民学校と改称した。
 昭和22年4月 新学制の施行により、熊石村立雲石小学校と改称。
 昭和24年 給食調理場を新設して、学校給食を実施した。
 昭和31年6月 本校々舎が新築され、落成式並に祝賀行事が行われた。
 同年9月 関内分校が独立し、関内小学校となる。
 昭和32年10月 子ども銀行が大蔵大臣から表彰された。
 昭和33年11月 開校80周年記念式典挙行。在籍児童数776名。
 昭和37年5月 熊石町制記念祝賀行事に参加。
 昭和43年11月 開校90周年記念式典挙行。在籍児童数本校369名、見日分校45名、計414名。


アメリカ人形の交付式(昭和2年5月12日)=佐野麟太郎写真原板より

 昭和53年8月 開校100周年記念式典挙行。在籍児童数本校268名、見日分校26名、計294名。

公立関内小学校
 明治11年11月熊石村本村及び関内村を校下とした公立雲石小学校が開校されたが、小学校の開設当初でもあり、距離的に隔たっている関内村からの児童の通学には無理もあり、その殆どは村内の太田耕介私塾での勉学が多かった。明治13年7月25日の“函館新聞”(第361号)に於ても関内の景況を報じたなかで、「海岸には浜小屋かけ夜はなかなか繁昌なり。近来目を驚かす事は、本村学校の盛んなることなり。学校何れも生徒に富み家として咿唔(いご)を聞かざるなし、感服。感服。」と紹介している。これは未だ小学校は建築されていないが、村内が一丸となって学塾を経営し、しかもその児童と家庭がひたむきに教育に集中し、各家庭からは教科書を読む子供の声が響き渡っている(咿唔)状況には感心したとしている。関内を代表する大資産家猪股作蔵は貧苦のなかから努力大成した漁業家ではあったが、文盲であったことから子孫の勉学には熱心で、明治11年の雲石小学校建築の際100円を献金している。関内村児童の雲石小学校への通学の不便さを痛感した猪股作蔵は、明治16年私財50余円を抛ち、関内に仮の建物を建て、これを利用し公立関内変則小学校が開校され、太田耕介私塾の児童男子32名、女子2名の34名で、教師は有賀豊一訓導が派遣された。創業当初の熊石村学事世話掛は佐野甚右衛門であったが、15年11月30日には猪股作蔵が任命された。作蔵や村内の小浜藤三郎、沢口富士吉、若山仁三郎、太田耕助氏らは仮小屋での教育を好まず、万難を排して本格的小学校の建築を念願し、百方勧誘して寄附金を集め、明治17年本校舎を完成させ移転開校した。この校舎は総建坪20坪の平家建物一棟で、教室16坪、教員詰所2坪、土間2坪であったが、この工費は200余円を要し、その金を一時、猪股作蔵が立替えたが、寄附金の集まりが悪く、最終的には猪股が119円を拠出して完了することになった。
 この変則小学校は、普通小学校が6等級に分かれているのに対し、4等級教科までを担当するもので、6、5、4、3等級までを関内で教育し、2等級(小学5年)1等級(小学6年)は普通小学校に通学するもので、関内小学校の場合2等級と1等級の児童は近接の雲石小学校に通学するという不便さがあった。
 その後の関内小学校の変遷
 明治28年4月 修業年限3か年の小学校に変更。
 明治29年4月1日 雲石尋常高等小学校に併合され、西分校と改称。修業年限4か年の尋常科を置く。
 明治32年12月 字岡下54番地に新校舎が完成、敷地坪数375坪、校舎建坪94・5坪、2教室、他に廊下26・5坪、職員室、裁縫室等があった。
 明治34年1月15日 独立して関内尋常小学校となり、修業年限4年の尋常科とする。2学級編成。


関内小学校

 明治40年3月 小学校令の改正により修業年限が6か年となる。
 大正3年11月7日 村経済の関係から雲石尋常高等小学校の分教場として、尋常科4年までの2学級編成となった。
 昭和22年10月5日 多年懸案であったグランド拡張整備される。
 昭和28年8月5日 校舎新築落成し、落成式を行う。総工費140万円、桧山建設株式会社請負。
 昭和30年4月1日 当分の間雲石小学校通学の5、6年生を当分教場に通学させる。
 昭和31年9月1日 雲石小学校関内分教場独立して関内小学校となる。同日独立開設の式典並に祝賀会を開く。
 昭和37年11月11日 開校80周年記念式典及び祝賀会開催。
 昭和46年4月 雲石小学校を親校として学校給食を実施。
 昭和47年10月9日 子ども郵便局大蔵大臣賞受賞。同14日開校90周年記念式典。
 昭和49年5月29日 子ども郵便局郵政大臣賞受賞。
 昭和54年11月7日 子ども郵便局、大蔵大臣、日銀総裁表彰受賞。
 昭和55年7月 新校舎完成し旧校舎解体。
 昭和57年8月12日 開校100年式典並に祝賀会を盛大に行う。