第7章 三県一局時代の熊石

 三県一局時代とは、明治15年2月8日から明治19年1月26日まで4年間の行政管轄を指すものである。明治2年7月開拓使が設置されて、北海道開拓の10年計画を樹てて、開拓入植を積極的に進めてきたが、この10年計画の終了とともに、北海道を札幌県・函館県・根室県の三県と北海道事業管理局とに分けて、従来の開拓行政のほか、一般地方行政を司らせることになった。これは北海道の行政範囲が広く、地域によって行政格差があり、また、産業、経済的にも異なるので、その地方に即した行政の推進を目的としての官制改革であった。
 明治15年2月8日には
 札幌県令 開拓大書記官 調所広丈
 函館県令 開拓大書記官 時任為基
 根室県令 開拓少書記官 湯地定基
が、それぞれ発令され、同16年1月29日には
 北海道事業管理局長
 農商務大書記官 安田定則
の発令を見た。
 この官制改革では殖民、山林、農牧場、製造場、農学校、船舶等は農商務省が管轄し、屯田兵は陸軍省に。さらに札幌工業場、炭山、鉄道を工務省に移し、また、16年1月工務省所轄事業も農商務省に移して北海道事業管理局によって運営、管理することになった。
 この函館県に属する桧山地方には明治13年に開設された桧山・爾志郡役所があって市来政胤が郡長で、その下に13名の職員がおり、また、熊石村戸長は田村忠直、相沼内・泊川戸長は加藤忠怒が任命されていた。しかし、戸長は現地に駐在することなく、江差の郡役所に勤務し、月2、3度現地に出張して、村総代及びその補助者の事務を見て決裁する程度であった。
 この函館県の設置によって各戸長役場の整備、統廃合が行われ、明治15年熊石村戸長役場と相沼内・泊川戸長役場が統合合併し、熊石村外2村戸長役場となり、戸長には白井利信が任命された。従来、戸長役場は村会所や村総代宅を事務所として運営してきたが、これを契機に熊石村外2村戸長役場は妙選寺下のハネ出しの建物を利用し、役場として利用され、戸長も常駐することになった。また、一般村民を代表する者として村総代が各村から2名程度置かれ、また、各村の教育行政推進者として2名の学務委員(この以前は学校世話係)と漁業総代がおり、これら主脳者の協議によって村行政は運営された。
 この時代の戸長役場に於ける戸長の職務は次のようなものであった。
 一、布告布達を村内に通達すること
 一、地租及び諸税を取りまとめ上納すること
 一、戸籍及び戸籍諸届けに関すること
 一、徴兵下調に関すること
 一、地所建物船舶売買書入、並に売買に奥書証印のこと
 一、地券台帳に関すること
 一、迷子捨子及行旅病人変死人その他事変あるとき警察官への報告のこと
 一、天災又は非常の難にあい目下窮迫の者を具状すること
 一、孝子節婦その他の徳行の者を具状すること
 一、町村内人民印影簿を整置しておくこと
 一、神社、仏寺の諸届に関すること
 一、河港道路堤防橋梁その他保存すべき什物につき利害を具状すること
 一、漁業許可願、海産干場使用願等に関することの書類の進達に関すること
 一、漁業資金の貸付及び返済に関すること
 一、諸帳簿印鑑の管守に関すること
等であったが、戸長の給料は当初は民費であったが、村民の負担が大きいので、明治8年4月からは官費として支出され、その補助者は民費をもって負担している。
 また、この県設置により従来北海道には3警察署の外は開拓使出張所が警保事務を担当し、郡長は司法警察権も行使してきたが、県設置と共に警察権は各地域に増設される警察署によって行使されることになり、明治15年3月11日には函館県には函館警察署の外に、森、福山、江差、寿都に警察署、函館恵比須町、上磯、福島、久遠、歌棄に分署が置かれた。16年4月には乙部に江差警察署の分署が出来、ここから鰊漁業取締りのため熊石と相沼内に巡査出張所が出来、さらに17年2月江差警察署熊石分署が設置され、独立機関としての建物を新設した。熊石分署長中原宗三郎警部補代理が在勤したのは、この時からである。
 中原巡査の記念碑及び墓は門昌庵境内に建立されている。中原巡査は明治19年突然この地方に襲来流行した虎列拉病(コレラ)の防疫と予防に全力を揮って務め、遂にその感染を受け9月4日殉職死亡し、本道警察官の鑑として“北海道警察史”にも載せられている人である。コレラは水を媒体とするインドのガンジス川に発生した法定伝染病で、消化管が侵されて、嘔吐と下痢を伴う死亡率の高い伝染病で、我が国には中国貿易を通じて文政年間(1818~29)に九州に流行し、この病に罹るとコロリと死ぬことからコロリと呼ばれて恐れられていた。明治に入ると、明治13年5月横浜から函館への入航船客の内患者1名からコレラ病が流行し、明治18年8月には中国人罹患者から長崎で大発生して各地に蔓延し、19年には本道でも罹患者が激増し、3444人に達している。熊石村の者が江差で罹患して帰り、村内にも伝染したところから分署長心得の中原巡査は、部下巡査を督励して、患者の避病院移送から、防疫、予防、また、患家家族の配慮まで昼夜を問わず活躍していたが、中原巡査も遂に罹病し、発病後僅か17時間で殉職したものである。


中原巡査の墓(門昌庵所在)

 この中原巡査の殉職は新聞にも大々的に報道されているが、9月16日付の“函館新聞”は、次の見出しの下に 熊石分署長の死去。
 警部補代理中原宗三郎氏コレラ病死去の仔細。
 熊石地方に於てコレラ流行して因に看護人運搬夫等を雇はんとするも該村は素より近村よりも誰あって之に応ずるものなく何程金額を出さんといふとも更に其詮なし、よって同氏は自ら率先して看病をもつとめ又運搬をもなし、実にかかる労役をも憚(はばか)らず、之に任じたる同氏の尽力は感服のほかはなし。又同氏は該村々の者共へすすめて一朝病にかからば直ちに避病院に入り治療をうくべき旨説諭なしたれば、自己が同病にかかるや否や、自宅治療をなすも苦しからぬ身ながら、しかるときは村民へすすめたる言葉の効力もなしとて、直ちに避病院に入り治療を受けたり。極めて激症なりければ発病後17時間にて死亡したりといふ。実に同氏の如き職務の本分をつくし、これがため死亡したるは惜みて尚餘りあることなり。
ということで、29歳の若さで病魔に倒れ殉職したもので、門昌庵住職を始め村内の有志で同寺境内に墓碑を建立したが、その碑面には
 明治十九年九月五日
 義孝院中山良原居士
 有志者建焉
となっている。また、墓碑の石隣に中原巡査の紀功碑(その事柄を詳細に書いた記念碑)が立っているが、判読した結果は、次のような文面である。
 巡査中原君紀功碑
鳴呼此中原君紀功之碑也君諱宗三郎会津藩藩士敦俊之第三子母新妻氏君幼遭逢国難随母匿民家備嘗寒苦既而誾家移陸之三戸及父母俊與伯兄敦義仲兄重直共来北海道函館為四等巡査兼倹役委員以称共職受一等賞賜四拾金以積年勤労進至一等巡査転警部補代理熊石分署長心得適□僻在人民長之至父子兄弟不相顧無収其屍者於是君躬自擔其屍火之有感染者則諭其父兄人之於避病院以防其蔓延適君罹患疾猶歓粥服薬以巡視其罹疫者家不及腱者連夜人皆称其用心之周遂感其疾気致病不起事年僅二十九実明治十九年九月四日也而其死也闔郷男女識与不□□不哀傷焉官嘉其死職務賜祭祀料三拾金扶助料百金丕君病革謂妻某氏曰余死矣又問友某曰長崎之支那人暴徒之事如何某答曰勿憂即瞑矣蓋恕其処□死得其富也噫嬉如君可謂生尽其職死憂其□者豈易□哉村人相謀碑於門昌庵函館支庁長時任君義其挙捐金替立之佐野某児島某以予同藩人而略始其為人属予紀其功予旦可以不文辞其清我乃其書其由以与之
 北海道庁属 大庭 機撰
 羽沢 侃書
 (本碑面刻文には判読不能の文字もあり、その個所は□をもって埋めた。)


中原巡査顕彰碑(門昌庵所在))

 これによると中原巡査は名は宗三郎で、父会津藩士中原敦俊の三男であった。会津戦争の際は母と共に民家に匿(かく)れ、後父に従って斗南藩として三戸に移り、函館に渡り巡査となったが勤務成績は1位となり、4等巡査から1等巡査に昇進し、警部補代理、熊石分署長心得として部下と共に熊石に在勤中、たまたま発生した伝染病コレラの大流行に身命を賭して活躍し、遂に9月4日行年29歳で殉職した。その行動は村民は勿論、世の賞讃追憶の的となり、函館支庁長時任為基が発起人となり村内有志と協議して顕彰しようということになり、建碑費は佐野某(甚右衛門)と児島某(俊庵)が拠出し、撰文は旧会津藩士で同郷の大庭機、書は羽沢侃が担当したものである。
 この三県一局時代に対する現代の評価は、各県は一般行政機関となり、北海道の開発に最も必要な開拓、殖民事業や屯田兵、或いは開拓使の行っていた直営事業は、おのおの関係各省に分断され、新規の事業も計画できず、お互いの連絡協調を欠いたため事務の渋滞を来し、マイナスの面ばかりが多かったといわれているが、近代化の波は熊石外2村の村々にも押し寄せて来ていた。明治11年に一斉開校した村内の各学校は15、16年には相沼内小学校、関内、泊川の3小学校が新築されて教育内容も充実し、15年の熊石外2ヶ村戸長役場の新設、16年には巡査出張所、17年には江差警察署熊石分署の新設、さらには熊石私設消防組が3村に出来、相沼内にも郵便局が新設された。18年には漁業組合ができ、また関内出身の沢口富士吉が奥尻島で禁酒運動を始め、これが全国的運動に発展するなど、村の近代化への基礎的要件が次第しだいに満たされつつあったが、明治20年の函館県統計表のうち桧山、爾志、久遠、太櫓、瀬棚、奥尻の各郡の戸口は次のとおりである。

郡名 戸数 人口
檜山 4,734 22,039
爾志 1,798 10,464
久遠 672 3,072
奥尻 188 736
太櫓 176 845
瀬棚 424 1,847
7,992 39,003

さらに各郡、各村の戸口の状況は次のとおりである。

村名 戸数 人口
郡役所 江差市街 2,653 12,537
直轄 五勝手 185 923
2,838 13,490
上ノ国外6村
戸長役場区内
大留 12 99
69 398
上ノ国 362 2,231
木ノ子 53 416
汐吹 62 331
石崎 103 532
小砂子 27 180
688 4,187
村名 戸数 人口
泊外4村〃 139 755
田沢 63 344
伏木戸 39 181
柳崎 107 479
鰔川 56 338
小黒部 56 293
460 2,385


村名 戸数 人口
乙部外4村〃 乙部 315 1,879
小茂内 65 479
突符 168 937
三ツ谷 88 595
蚊柱 130 878
766 4,786
村名 戸数 人口
熊石外2村〃 相沼内 241 1,450
泊川 210 1,210
熊石 592 3,018
1,032 5,678
久遠外3村〃 太田 59 249
上古丹 145 735
久遠 158 825
太櫓外3村〃 太櫓 79 325
古櫓多 25 139
良瑠石 25 126
鵜泊 47 255
176 845


村名 戸数 人口
  湯ノ尻 47 282
409 2,091
貝取澗外2村〃 平田内 86 303
貝取澗 97 372
長磯 80 306
263 981
釣掛外3村〃 釣掛 94 351
赤石 25 120
薬師 18 91
青苗 51 174
188 736
瀬棚外4村〃 瀬棚 199 794
梅花都 41 166
中歌 43 247
虻羅 13 82
島歌 128 558
424 1,847

 これを見ると熊石村外2か村の戸数は1032戸、人口5678人で、江差を除く各村では第一の戸口を擁している。これを明治9年の3村戸数に比べれば、12年間で345戸という驚異的戸口の増加を示しており、これは鰊漁業が薄漁になったとは言いながら、3村合せて鰊加工品が、明治16年には2万5548石、17年には2万2351石、18年には2万290石と常に2万石以上の生産高を誇っていたので、戸口も増加の一途をたどっていたものと思われる。
 青江秀北海道庁理事官は、天保5(1834)年阿波国那賀郡西方村に生まれ、政府官員として明治4年紙幣寮出仕以後、鹿児島県、内務省駅逓局、海軍省に勤務。明治19年北海道庁新設と共に同年2月北海道庁理事官に任命された。同年北海道内の開拓使時代と三県一局時代の事業成果を踏まえ、今後の殖民地撰定、開発計画樹立のため、全道を巡り“青江理事官諮問回答書”を作成して長官に報告しているが、当町にもその足を踏み入れ、明治19年代の詳細な調査を行っている。この年代の熊石、泊川、相沼内3村の現況を知る資料としては得難いものであるので、次に回答書の3村分を掲げる。
 熊石村・泊川村・相沼内村
 第一当地ノ財産アル有力者ノ族籍姓名履歴
 北海道庁函館支庁渡島国爾志郡熊石村支関内字岡下弐拾三番地
 猪股作蔵
 天保二年渡島国松前郡木古内ニ生ル父ヲ畑中作右衛門ト云フ。作蔵ハ其第二子ナリ。長ジテ西地所々漁業者ノ雇夫トナル事数年、万延元年作蔵年廿四当村支関内猪股五郎助長女ノ贅婿トナレリ。然トモ五郎助家固貧窶活計殆ト難渋ナリ、茲ゝニ於テ作蔵大ヒニ奮起シテ鰊建網ヲ建設セン事ヲ企図スト雖モ、奈何セン空手ニシテ更ラニ一物タモナシ然ルモ屈セス百方周遊他ノ資ヲ仰キ、明治元年始メテ隣村長磯村ニ漁場ヲ新開シ建網三ケ統ヲ設ケ得テ鰊五百石ヲ収穫セリ。尓来年々多量ノ収穫アリタルヲ以テ頓ニ強大ヲ致シ、今ヤ本村ニ五統長磯村ニ六統合計拾一統ノ建網ヲ有セリ。而シテ明治十八年ハ雇夫百四拾人ヲ以テ鰊弐千石ヲ収穫シタリ。作蔵性豪侠朴直能ク窮民ヲ憐レミ米穀貸与等屢々ナリ而シテ固不学曽テ一丁字ヲ弁セザルモ夙ニ教育ノ重キヲ知リ、明治十一年十月本村雲石校ノ設立ニ際シ金百円ヲ献シテ銀杯壱箇賞賜セラレ後チ又支村関内ト本村ハ相ニ隔絶シテ児童通学ノ不便ナルヲ以テ、明治十六年自ラ金五十円餘ヲ抛チ同地(関内)ニ別ニ家屋ヲ造リ仮リニ学校ニ充テ教員ヲ聘シテ自ラ児童ノ就学ヲ勧誘セシニ遂ニ教場ノ狭隘ヲ来スニ依リ、仝十七年再築ノ議ヲ起シ自ラ金弐百餘円ヲ繰替支出シテ遂ニ関内小学校ヲ建築シ尋テ仝年二月中該建築費ノ内へ金百拾九円ヲ献シ、又曽テ明治十二年十二月中函館市内大火ノ節金拾円及仝月中久遠郡上古丹村出火ノ際五円各其罹災者へ恵与セラレ以テ各木杯壱個ヲ賞賜セラレシ等、実ニ奇特ノモノト言フベシ


猪股作蔵顕彰碑

 北海道渡島国爾志郡相沼内村三十九番地
 山田 六右衛門
 慶応三丁卯年三月生
 右ハ爾志郡相沼内村ニ産シテ累代漁業ヲ以テ生活シ本人父祖ノ遺業ヲ継キ専ラ該業ニ勉励シ、文久三亥年祖父六右衛門創メテ蚊柱村ニ漁業ヲ開キ鰊建網弐投建設シ、雇夫三拾七人ヲシテ鰊七百五拾石収穫セリ、尓来本業ニ従事スル目的ニテ慶応三卯年相沼内村ニ鰊建網三投増設シ雇夫九拾五人ヲシテ鰊千弐百五拾石収穫シ亜テ明治三卯年仝村ニ鰊建網弐投ヲ増設シ雇夫百三拾人ヲシテ鰊千弐百五拾石収穫アリ、又後志国瀬棚郡ニ於テ建網八投ヲ増設シ最モ爾志郡中ニ於テ漁者ノ基礎タラントス。漸次漁事ニ従ヒ明治十八年ニ至ル惣数建網拾五投ヲ有シ雇夫弐百八十人ニテ鰊三千六百石ヲ収穫シ、明治十一年相沼内小学校建築ノ際金六拾円ヲ寄付セリ。仝十二年三月二十二日奇特褒賞トシテ木杯壱個、同十二年十二月十二日函館堀江町火災ノ際救助費トシテ金三拾円寄付セリ、同十三年一月奇特褒賞トシテ木杯壱個麻添へ、同十四年十一月十九日相沼小学校新築ノ際金百五拾円寄付セリ、同年十二月二十三日奇特褒賞トシテ銀杯壱個、同十六年五月二十一日水産博覧会場ニ於テ農商務卿正四位勲一等西郷従道殿ヨリ四等賞牌ヲ拝戴セリ、同十八年十一月五日北海道物産共進会場ニ於テ根室県令従五位勲五等湯地定基殿ヨリ二等賞金五円ヲ拝戴セリ、因テ益々漁場ヲ開キ水産ヲ拡漲シテ倶ニ利ヲ得ントスル計画ナリ。本人性質温順ニシテ普通ノ学ニ完備シ他ノ交際ニ広亘シ寒民親慈ノ心ヲ施シ、言葉ハ穏和ニシテ行状慎正シ村中協議アル時ハ率先席ニ列リ義務ノ一端ニ尽カセリ。
 同上
 北海道渡島国爾志郡相沼内村三拾弐番地
 山田 友右衛門
 明治二己年三月生
 右者爾志郡相沼村ニ産シ漁業ヲ以テ生活シ父亡友右衛門ハ該業ヲ勉励シ、慶応元丑年始メテ相沼内村へ漁業ヲ開キ鰊建網壱投ヲ建設シ、雇夫拾八人ヲシテ鰊弐百五拾石収穫シ爾来継年本業ニ従事シ、明治十一年仝村ヘ建網壱投ヲ増設シ、雇夫五拾三人ヲシテ鰊四百八拾石収穫シ、仝十八年ニハ建網三投ヲ有シ雇夫五拾三人ヲシテ鰊九百石収穫シ、明治十一年十一月十日相沼内小学校建築ノ際金五拾円寄付セリ、仝十二年奇特褒賞トシテ木杯壱個、仝十二年十二月十二日函館市堀江町失火の際救助費トシテ金拾七円寄付セリ、仝十三年一月奇特褒賞トシテ木杯壱個、麻添へ、仝十四年十二月十八日相沼内村小学校新築ノ際金五拾円寄付セリ、仝年十二月二十四日奇特褒賞トシテ木杯壱個麻添へ何レモ下賜セラレタリ。本人生質温良ニシテ言行ハ普通ノ学ニ従事シ漁務益々尽力セリ。
 仝 上
 北海道渡島国爾志郡相沼内村弐拾壱番地
 稲船 権兵衛
 天保十二年辛八月生
 右者爾志郡相沼内村ニ産レ漁業ヲ以テ生活シ、本人該業ニ勉励シ明治七年漁業ヲ開キ始テ鰊建網壱投ヲ建築シ雇人弐拾人ニテ鰊三百石収穫アリ、爾来継年本業ヲ専務トシテ、同八年後志国久遠郡貝取澗村江建網壱投ヲ増設シ雇夫四拾人ニテ六百五拾石収穫シ、仝十一年蚊柱村へ鰊建網壱投ヲ増設シ雇夫六拾人ヲシテ九百五拾石ヲ収獲シ、仝十八年ニハ鰊建網三投ヲ有シ雇夫六拾人ニシテ鰊九百石収穫シ、仝十二年十二月十二日函館堀江町焼失ノ際救助費トシテ金二円五拾銭寄付セリ、仝十三年一月奇特褒賞トシテ木杯壱個、同十四年十二月十九日相沼内村小学校新築ノ際金百五拾円寄付セリ、同十四年十二月二十二日奇特褒賞トシテ銀杯壱個何レモ下賜セラレタリ。本人生質ハ温和ニシテ言行ハ学ハサレトモ業務其他ニ尽力セリ。
 仝 上
 北海道庁渡島国爾志郡相沼内村弐拾番地
 近田 孫八
 天保三壬年七月生
 右者当郡相沼内村ニ産レ漁業ヲ以テ生活シ、本人該業ヲ勉励シ明治十一年始メテ相沼内村宇五小澗へ漁業ヲ開キ鰊建網壱投ヲ建設シ雇夫拾八人ニテ鰊二百八十石収穫、爾来継年本業ニ従事シ、仝十七年仝村へ鰊建網壱投及泊川村字人柱内へ鰊建網壱投ヲ増設シ、仝十八年ニハ鰊建網三投ヲ有シ雇夫四拾三人ニシテ鰊六百石収穫シ、仝十二年十二月十二日函館出火ノ際金弐円五拾銭救助費トシテ寄付セリ、仝十三年一月奇特褒賞トシテ木杯壱個ヲ下賜セラレタリ、仝十六年十一月十六日相沼内村小学校新築ノ際金五拾円寄付セリ。本人性質ハ温順ニシテ言行ハ学ハサレトモ道ニ合ナヒ啻ニ業務ニ尽力セリ。
 仝 上
 北海道庁渡島国爾志郡泊川村弐拾八番地
 右者当泊川村ニ於テ祖先ヨリ漁業ヲ以テ生活シ実父隠居与右衛門ハ弘化三年中石川県能登国珠洲郡飯田村ヨリ渡航シ、最モ該業ニ心ヲ趣シ益々盛業ノ見込ニ倚リ予テ泊川村字大間ニ於テ漁場ヲ用ヒ、慶応三年創メテ鰊建網壱投ヲ建設シ鰊弐百石程ノ収穫アリ、尓来継年本業ニ勉励シ明治十年ニ鰊建網壱投ヲ増設シ、仍チ十三年同村字浜中へ鰊建網壱投ヲ増設シ雇夫六拾人ヲシテ鰊六百石収穫シ、仝十七年仝村字見市へ建網壱投ヲ増設シ、都合五投ヲ有シ雇夫百人ヲシテ鰊千弐百五拾石収穫シ、仝十二年十二月十二日函館堀江町出火ノ際救助費トシテ金五拾円寄付セリ、仝十三年一月奇特褒賞トシテ木杯一個麻添へ、仝十六年十一月泊川小学校建築ノ際金五拾円寄付セリ、仝十八年一月二十六日奇特褒賞トシテ木杯壱個何レモ下賜セラレタリ。本人生質順和ニシテ言行ハ普通ノ学ニ従事シ業務其他ニ尽力セリ。

 第二有力者上・中・下三等ノ区別

熊石村
 上等 五人
 中等 拾人
下等 四拾五人

 泊川村
上等 五人
 中等 弐拾八人
下等 三拾四人

 相沼内村
上等 弐人
 中等 三拾九人
 下等 弐拾九人
 爾志郡熊石村字畳岩拾九番地
 佐野 権次郎
 天保四癸年八月生
 祖先ヲ佐野権次郎ト云フ、能登国珠洲郡蛸島村佐野屋四平ナルモノヽ二男ニシテ寛保年間当道ニ渡リ、松前・江差ニ各々両三年居住ノ末延享ノ前居ヲ当村字畳岩ニ移ス。宝暦・明和ノ間名主役命セラレ勤務中私曲ナキ旨ヲ以テ領主ヨリ諸貢役ヲ免セラル。後桑門ニ入リ栄秀ト号ス、天明八申年五月二十日ニ病死ス。二代ヲ甚吉ト云フ、祖先権次郎妻ノ弟ナリ。子ナシ祖先権次郎ノ子ヲ養テ子トナシ以テ継カシム。之ヲ三代四右衛門ト云フ、天明中名主命セラレ勤務中尋テ病弱ノ故ヲ以テ辞ス。四右衛門ノ第二子清四郎ヲ以テ家ヲ継カシメ権次郎ト称ス(茲ニ四代)弐拾弐歳ニシテ名主トナル、四拾五歳ノ頃村方取扱宜シキ廉ヲ以テ文政二己卯年九月二十三日米拾五俵ヲ賞賜セラル。文政五壬年骨折料トシテ米三俵、手当トシテ仝五俵ヲ給フ。仝甲申(文政七年)年十二月十二日江差代官所へ召サレ、帯刀苗字ヲ允許セラル。五代ヲ権三郎ト云フ権次郎(四代)嫡子ナリ天保六乙未年六月五日父権次郎生存中ノ通リ帯刀苗字ヲ允サレ名主ヲ命セラル。子ノ権次郎継ク(六代目)死ス。二子権次郎継ク(是レ七代目)即チ現時ノ戸主タリ、家計豊裕ナラサルモ相応ノ家産ヲ有シ今猶ホ村内上部ノ地位ニ有リ。
 此他是ヨリ早キ旧家アルベケレトモ事皆煙滅シテ知ルニ由ナシ。
 爾志郡泊川村弐拾八番地
 天満 與作
 文久二壬成年八月生
 祖先(生国不詳)今ヲ距ル弐百年前当道ニ渡航シ、当泊川村ニ移住シ漁業ヲ以テ生活ヲ立テ、家督ヲ養子(石川県能登国珠洲郡上戸村医師藻寄恒斉亡二男)ニ譲リ之ヲ二代目与作ト称ス。漁業ト商売ヲ以テ生ヲ営ミ頓ニ利澗ヲ得テ村内屈指ノ富豪トナレリ、家督ヲ長子ニ譲リ之ヲ三代目與作ト称ス。名主役ヲ奉ス。然レトモ家事ニ勉ムルノ気力ニ乏シキヲ以テ家運衰頽ニ趣キタリ子ナシ(能登国珠洲郡飯田村農増田長三郎亡二男)ヲ家督ヲ継カシメ之ヲ四代目與作ト称ス。朴直ニシテ能ク家事ヲ勉ムルニ依リ、前代ノ如ク村内第一ノ豪トナレリ、茲レ近代ノ與作ニシテ現時戸主ノ実父ナリ家名ハ来タ旧時ニ属セスト雖も村内居住者中ノ旧家ナリ、然レトモ、祖先ヨリノ由緒書ナキヲ以テ年代詳カナラズ。
 仝 上
 爾志郡泊川村字大澗四拾五番地
 荒谷 多三郎
 嘉禾二己酉年一月生
 祖先ハ青森県東津軽郡後■(さんずいに写)村ノ産ニシテ姓名ヲ山田甚五右衛門ト称ス、寛保元年則チ当代ヨリ百九拾壱年前当道ニ渡航シ居ヲ泊川ニ占メ筋骨労働ヲ事トシ漁業ヲ以テ生計ヲナシ、当時田中某ノ懇望ニ任セ、荒谷家ノ姓ヲ名乗リ頓ニ家名ヲ起シ八十有餘年ニ而病ス。長子継ク父ノ名ヲ唱へ之ヲ二代トシ、矢張家事ヲ勉強シ以テ富有ヲ致シ村内富有者ノ内ニ加ハリタリ。又三代目甚五右衛門モ父ニ劣ラス漁業ヲ営ミ家名ヲ挙ケタリ。四代ニ至リ一層富ヲ求ムルト雖モ入ルモ計リテ出ヅルヲ知ラス、由ナキ金額ヲ抛チタル事アルヲ以テ今代ノ甚三郎ニ
家督ヲ譲ル頃ハ村内富豪ノ末位ヲ占ムルニ至ル。

第四当地功労アル名望家人名履歴
 熊石村
之レニ応スルニ第一ニ於テ説明スル猪股作蔵ヲ以テスベシ
 仝 泊川村

 仝 相沼内村

 仝

右三名ノ履歴第一ニ詳カナルヲ以テ略ス。

第五当地人民ノ将来希望スル事業
 熊石村
江差及函館ニ通スル陸路交通ノ便利ナラン事即チ道路開鑿ノ点ニ有ルカ如シ。
 泊川、相沼内村
 仝上

第六維新以来当地ニ於テ著名ナル起業興産ノ実況
 熊石村
当地ニ於テ著明ナル起業興産曽テ閲見スル所ナシ。
 泊川村 相沼内村
 仝上

第七明治十六、七、ハ、三ヶ年別各府県ヨリ移住人并寄留人集散ノ実況
 熊石村
 当地ニ寄留スルハ啻ニ鰊漁業中入稼ノモノノミニシテ則チ三月ノ初ヨリ入リ、六月ノ末ニ至レハ去リテ止マルモノナシ。而シテ僅少ノ移住者亦タナキニ非ラサレトモ、是皆従前寄留シテ既ニ家ヲ成シ居ルモノ更メテ籍ヲ移シタル迄ノモノトス。何ニ由テ然ルカト言フニ、当地ハ既ニ居住シ得テ便宜ノ餘地及農耕ノ業ヲ起スヘキノ土地ナク、海産亦只鰊漁ノ一途ニ有ルノミニテ他ニ生計ヲ助クベキノ途ナシ然レハ永住シテ将来満足ノ生計ヲ立ツル事容易ナラサルノ土地ナレバナリ。今其移住者及寄留者ノ数ヲ挙クレハ左ノ表ノ如シ

熊石村 明治16年度
移住人      弐戸 寄留人   435人 同上寄留人ノ内転居及帰国
1人 371人 同上
  64人 同上
仝   明治17年度
移住人      3戸 寄留人   401人 同上
5人 319人 同上
1人 82人 同上
仝   明治18年度
 移住人 寄留人  453人
362人 同上
91人 同上
泊川村 明治16年度
 移住人 寄留人   96人 同上寄留人ノ内転居及帰国
53人 同上
43人 同上
仝   明治17年度
 移住人           寄留人  167人
115人 同上
52人 同上
仝   明治18年度
 移住人           寄留人  102人
64人 同上
38人 同上
相沼内村 明治16年度
 移住人           寄留人  243人
194人 同上
49人 同上
仝   明治17年度
 移住人           寄留人  210人
130人 同上
80人 同上
仝   明治18年度
 移住人           寄留人 181人 同    
115人 同上
66人 同上

第八明治十六、七、八、三ヶ年移住人并寄留人興産起業ノ実況
 熊石村
移住人并寄留人ノ興産起業セシモノナシ。
 泊川村、相沼内村
亦同じ。

第九明治十六、七、八、三ヶ年別海産物仕向先(即チ売捌所地名)并ニ右船数増減ノ実況

熊石村

仕向地 明治16年 明治17年 明治18年
石高 船数 石高 船数 石高 船数
越中 岩瀬 250 400 300
伏木 2、500 2、100 1、400
浜石田 400 200 250
水橋 2、300 2、000 1、900
氷見 1、800 1、100 850
放生津 400        
越前 敦賀 1、600 1、000 800
坂井 1、100 800 800
越後 新潟 1、800 1、500 1、050
直江津 1、630 1、800 1、740
羽前 酒田 500 380 246
羽後 土崎 600 50 560
能代 600 300 140
陸奥 深浦 250     100
青森 600     354
越中 生地     350 250
能登 小木     400 170
羽後 金浦         40
伯耆         350
16、330 63 13、330 51 11、400 46

泊川村

仕向地 明治16年 明治17年 明治18年
石高 船数 石高 船数 石高 船数
越前 敦賀 180 26 59
越後 新潟 265 492 596
越中 水橋 190        
越後 直江津 120     109
但馬 竹浦 170        
摂津 大阪 293 250 190
加賀 橋立 137 642    
539 150 358
越中 伏木     14 34
能登 小木     36    
陸奥 青森     200 396
1、143 13 1、810 12 1、740 11

相沼内村

仕向地 明治16年 明治17年 明治18年
石高 船数 石高 船数 石高 船数
越前 敦賀 3、056 3、600 2、000
越後 新潟 139 346 350
越中 水橋 284 500 1、000
越後 直江津 400 500 500
但馬 竹浦 350 500    
摂津 大阪 800 800 1、500
加賀 橋立 1、260 205 800
896     150
陸奥 青森 190 220 190
能登 小木     40 130
越中 伏木         530
7、375 27 7、211 24 7、150 22

(本表は一覧表として計上した。)

第十明治十六、七、八、三ヶ年別輸入物品産地名并数量増減ノ実況
 前項輸出ノ減少ニツレ輸入減少ナキ事能ハズ、何トナレバ鰊漁獲ノ薄少ハ民力衰へ購入ノ力ナキニ至ルノ元因ナレバナリ。今其数量減少ノ状況ヲ掲ゲレバ左ノ如シ。

熊石村

産地 品名 明治16年 明治17年 明治18年
数量 数量 数量
越中 2、500 2、300 2、500
越後 1、200 1、300 1、200
羽前庄内 200 100 30
津軽 200 150 50
秋田 400 250 190
大山 清酒 800 400 300
越後 1、100 700 480
津軽 味噌 650 600 550
能登 400 280 260
安芸竹原 300 250 260
越後 醤油 450 400 385
津軽 150 100 100
津軽 3、500 2、800 2、500
越中 11、000 9、500 9、260
若狭 6、000 5、000 4、850
敦賀 600 600 500
越中 11、000 9、500 8、000

泊川村

産地 品名 明治16年 明治17年 明治18年
数量 数量 数量
越中 177 169 43
越後 2、350 2、189 2、056
越前 24 33 12
秋田 58 23 38
津軽 22 17 53
越後 味噌 45 38 54
越中 21 53 28
越中 醤油 15 28 30
秋田 20 30
安芸竹原 50 12 42
越後 醤油 28 22 25
越中 清酒 20        
越後 230 28    
加賀 25 19 19
越前 230     189
越中 150 73 55
若狭 120 189 290
越中 1、850 1、300 2、100
若狭 2、150 1、890 1、085
大山     30    
敦賀     187    
加賀          85
大阪 清酒         50
庄内         150

相沼内村

産地 品名 明治16年 明治17年 明治18年
数量 数量 数量
津軽 19 21 25
加賀 103 157 283
越後 2、890 3、143 2、963
越前 28 16 29
越中 90 55 32
秋田 39 40 38
越後 味噌 49 58 52
越中 38 35 20
越中 醤油 59 30 10
越後 23 50 20
安芸竹原 141 120 45
秋田 23 15 15
越後 清酒 100     189
大阪 58 100    
加賀 23 20 30
越前敦賀 215 220 350
越中 89 100 150
若狭 250 300 350
越中 1、893 2、050 2、090
若狭 2、022 2、350 2、570
越中     50 50
庄内      39 50

第十一明治十六、七、八、三ヶ年農工漁業器械并ニ方法ニ付学衛或ハ実験上ノ改良
熊石・泊川・相沼内三村共ニナシ。
第十弐明治十六、七、八三ヶ年間ニ設立スル諸銀行会社諸組合ノ方法得失并ニ其起業人社員
管庁ノ令ニヨリ明治十八年中漁業組合申合規約ヲ定ム、其方法ノ要ハ収獲ノ季節ヲ定メ、之ニ違ハサラシムル事、不良ノ器械ヲ使用セシメサル事及ヒ規約違犯ノ者ハ出漁ヲ停止シ或ハ違約金ヲ出サシムル等専ラ水産濫獲ヲ防キ殖産ヲ図ラントスルニアリ。其得失ノ如キニ至リテハ創始日尚浅キヲ以テ未タ其ノ結果ヲ見ズ。

第十三明治十六、七、八、三ヶ年商法ノ沿革理財ノ通塞貿易広狭ノ実況
 熊石・泊川・相沼内村
此三ヶ年間商法上著シキ沿革ヲ見ズ、然レドモ次第ニ繁栄ニ至ル、然シテ当地ニ於テ第一ノ生業トスル鰊漁ノ薄少ナルカ為理財通塞驚クベシ、又当地方ノ如キハ貿易ノ彊域固ト限リ、然レドモ近来時ニ汽船ノ出入アルニ至レルハ聊之ヲ進マントスルモノト言フベシ。

第十四明治十六、七、八、三ヶ年人民意向ノ変遷就業ノ更革
 熊石・泊川・相沼内村
三ヶ年同一ノ状況ニシテ敢テ別ナキモノノ如シ、然レドモ十七年以来次第ニ農業ヲ試ムルノ傾向アリ。就中馬鈴薯ノ作付最モ多シ是レ蓋シ近年累続ノ薄漁時ニテ以テ生計ヲ立ツルニ足ラサルニ至リタルモノノ致シ所ナルベシ
第十五当今実行スル各種ノ為替金并ニ保険ノ正金逓送ノ実況
 熊 石 村
各種為替金并ニ保険料ハ末ダ行ワレズ、只熊石村ニ於テ僅カニ五拾円マデ正金逓送ノ取扱所アルノミ。是ノ他ノ二村ハ是レスラアルコトナシ。

第十六海陸運輸ノ便否
陸路ハ砂礫岳巒凹凸シテ馬ノ通行甚タ容易ナラズ、又海路ニ於テハ爾志郡一帯時化早ク殊ニ風浪ヲ避ク可キ港湾ナク実ニ航海者ノ非難スベキ位置ナリト雖モ、夏ヨリ秋ニ至ル間ハ季候モ静カニシテ航海敢テ難義ニ非ズ。
茲ノ時節船舶ノ往来モ尠カラズ、茲ヲ以テ見レバ海陸共ニ運輸ノ道甚タ不便ナリ。

第十七人民夏秋并春冬就業ノ景況
当地人民ノ第一生業トスルハ四月ノ初ヨリ六月ノ末ニ至ル迄ノ間ニ於ケル鰊漁獲ノ業ニ有リトス。斯シ一歳ノ生計ヲ立ントスルモノナリ、然レドモ家計尚餘リアラザルヲ以テ、六月ノ初ニ至リ多ク後志国古宇・積丹・奥尻ノ各郡其他ノ地方ニ出稼シ、鮑及ビ海鼡ヲ漁獲シ(是年□ニ夏商売ト云フ)八月ニ至リ漁期ヲ終リ各帰郷シ又直ニ烏賊漁獲ノ為メ再ヒ該別地方ニ出ヅルモノアリ(是レヲ私商売ト言ヘリ)然レドモ概シテ言ヘバ当地ニ於テ斯ノ業ニ従事スルモノハ其ノ半ニ居ル、十一月帰リ冬ノ間ハ鱈鮃等ヲ漁シ、或ハ入用ノ薪木等ヲ伐ルヨリ翌年漁期ノ取仕度ニ至ル迄一歳ノ間殆ント餘暇ナシ。
 (次に里程・港湾・河川・橋・地名・岬・高山・深林・沼地・大沢等の項があるが省略)
港湾碇舶ノ船舶数
 熊石村 熊石湾 三百餘艘
 泊川村 泊川出入 八拾艘
 相沼内村 相沼内出入 八拾艘

農業ノ沿革及現況
 熊石・泊川・相沼内三村
従前ト異ナル事ナシ、十六年以来漸ク農耕ヲ試ムルノ状況ナリ。就中作付ノ著明ナルモノハ馬鈴薯ナリ茲ニ至ル原因如何ト言フニ、十五年以前ニアリテハ相当ノ鰊漁獲アリ以テ生計ヲ立ツル事ヲ得タルヲ以テ他ニ求ムル事ヲ要セサリシモ十六年以来打続イテノ薄漁到底漁ノミニテ生計ノ不足ナルニ至リタレバナリ。