第8章 初期北海道庁時代
第1節 北海道庁の設置と戸長役場
明治19年1月26日政府は三県一局を廃し、北海道庁を設置し、同年3月開庁することを決定した。明治15年に北海道を3分割した三県一局制は、その地域に即応した行政の推進を目差して施行されたものであるが、しかし、その結果は行政効果は上がらず、費用が多くかかり、開拓使の遺業をわずかに継承するのみで、新規の事業の現出もなく、国民の不評をかっていた。そこで政府は開発と地方行政事務全般を統合し、事務の簡素化と経費の節約を図り、殖民については間接助長の政策をとることとし、また、長官は府県知事と同一地位に置いてはいるが勅任官1等で総理大臣の指揮、監督を受けることとした。
この明治19年1月26日には司法大輔で、開拓使時代は判官として活躍したことのある岩村通俊を初代長官に任じた。2月には道庁課署と理事官が決定され、また前官制で県を置いた函館と根室には支庁を置き、前県令をそのまま支庁長に任用した。3月1日北海道庁本庁及び両支庁は開庁した。この年2月23日には桧山・爾志郡長には丸茂謙吉、久遠外3郡長には林顕三が任命されたが、郡長の中でも重要ポストである桧山・爾志郡長は猫の目の如く変り、20年1月1日には片岡新が、さらには3月10日には添田弼が札幌農学校幹事から郡長となった。また、戸長役場、戸長の任免変革も行われ、19年5月19日には熊石・泊川・相沼内の3村をもって熊石村外2村戸長役場としていたものを熊石村戸長役場に合併変更することが告示されている。戸長浅田雄二郎が任命されたものと考えられる。当時の郡長、戸長の権限は大きく、同年12月28日には勅令で郡長は警察署長を兼任し、分署所在地の戸長は分署長を兼務し、郡書記は警部補を併任、分署巡査は戸長役場の行政事務を補助するように改正されたので郡長、戸長の権限は大きなものとなった。
道庁初期の時代の町村行政は試行錯誤の時代で、前三県一局時代のままであり、只変化したのは戸長が郡役所の勤務から直接、現地の熊石村の戸長役場に勤務するようになった事だけは大きな変革であった。明治21年4月17日一般府県に市制・町村制が施行され、これによって市町村が国の統治末端機関として位置付けたが、北海道はこの適用を受けず、在来の戸長役場制度とその議決協力機関として、明治11年から施行された「総代人選挙法及総代人心得」によって運用されてきた。“差町史・通説二”に於ては、この戸長役場は「結局戸長役場は自治的機構の機関としてよりも、官治的機構の末端に位置づけられ、戸長や吏員は官選が一般的で、国政委任事務の遂行を主務としていた。」ものであって、直接村の自治は総代人によって運用されていたものである。
熊石村戸長役場(北海道繁昌図録による)
戸長役場の運営に必要な経費は、戸長及び職員の給料、旅費、役場費、雑給及び雑費、修繕費は地方費として道庁から支出されたが、その他の費用については明治20年5月10日の北海道庁訓令第30号では、その費用を会議費、区町村費取扱費、区町村費滞納処分費、土木費、教育補助費、衛生及病院費、警備費、その他となっており、それに対応する収入は地価割、営業割、戸別割、水産税割、反別割、(国税)の各種付加税(地方税・村税)によって賄われており、特に村費は「凡そ市町村費ノ費用ハ其基本財産ヨリ生スル収入ヲ以テ之ヲ充テ、猶不足アル場合ニ於テ之ヲ賦課徴収スルヲ本旨トス」(明治27年10月15日道庁訓令第289号=鈴江英一著“北海道町村制度史の研究”)としたが、町村に於てはほとんどの町村は基本財産の利子収入でこれらを賄えるものはなく、従って町村独自の事業は、学校建築、戸長役場建築、橋梁の新築、張替にいたるまで村民の寄附に待たなければならなかった。
また、議決機関としての総代人について、前記論文は「戸長制度の下での議決機関を構成する総代人は、郡町村における金穀公借・不動産売買・土木起功の議決を本務としつつ『時宜ニ寄り人民ノ利害得失ニ関スル事』(「総代人心得」)を包括的に審議する機能を有していた。しかし、1町村2名を定員とし、しかも一定の財産資格を選挙・被選挙要件とする総代人制度をもってしては、従来の村民総集会にかわる住民すべての議決機関としてなお不充分であった。」としている。熊石村の総代人は明治19年代には林政太郎、佐野四右衛門であるが、両人は村を代表する旧家でしかも人格、識見共に秀でた実業家で、村民の選挙によって就任している。この総代人の業務は前記本務をもっているが、平易に解釈すれば戸長役場の業務をその下部から推進して行くという業務と、村会所の運営を主体とした村民の福祉、融和を図り、さらに村費で実現できない事業を村民の協力によって実現させるための働きかけ等に意を用いていた。
熊石村総代の動きと村会所の業務内容を知るための資料として、「明治廿八年度熊石村会所費収支決算書」が熊石町役場に残されている。この年代の村総代は丸谷重三郎、北政太郎で、会所の明治28年度の決算書を村内東、西に2部作製回覧して、決算の承認を求めているもので、これによって村総代人及び村会所の具体的業務内容を知るための得難い資料であるので、その全文を次に掲げる。
(明治)廿八年度熊石村会所費
収支決算報告書
能石村 総代 ■(熊石村総代印)
熊石村総代及び職印
廿八年度熊石村会所費収支決算報告書迅より御覧に可入筈に候得共、該費取扱人無勤、北政太郎氏は商用之為去る四月中三府江罷越村内各に於ても漁業繁雑中に候半ば別紙支払に対す算を取て充分の御取調も難相成候等奉存候に付、依て遷延に打過ぎ候得共、別紙之通り収支決算之報告に及候間、御覧被下度候。別紙支払に不都合又は経費減少之廉等有之候半ば、直接村総代江御申越披下度候。可成経費は節減被度候間此段御承引被下度候也
廿九年五月十五日
熊石村 総代
丸谷 重三郎
仝 北 政太郎
明治廿八年度熊石村会所費
予算課目番号
壱号 村書記給料費
弐号 用紙費
三号 筆墨費
四号 薪炭油費
五号 消耗費
六号 修繕費
七号 両便所掃除費
八号 郵税費
九号 寄附金費
十号 松餝費
拾壱号 諸雑費
明治廿八年熊石村会所費収入之部
一金拾壱円三拾三銭六厘
明治廿七年度会所費支払残金繰越高
一金八拾三円七拾八銭四厘
廿八年度会所費賦課額
一金壱円三拾弐銭壱厘
会所費賦課下夕帳通金予達協議之上下夕帳通り賦課決定ス
合計金九拾六円四拾四銭壱厘
明治廿八年度熊石村会所費予算書
但廿八年四月より廿九年三月まで十弐ヶ月分
一金九拾五円拾弐銭 廿八年度熊石村会所費予算高
一金拾壱円三拾三銭六厘 廿七年度会所費支払残金繰越高
一金八拾三円七拾八銭四厘 廿八年度会所費賦課額
内訳け
金六拾円也 村書記給料費
但村書記壱名月給金五円廿八年四月より廿九年三月まで十二ケ月分
金拾弐円四拾八銭 用紙費
但半紙六メ代金拾円八拾銭壱メ壱円八拾銭半切壱メ
代金壱円弐拾銭百匁に付金拾弐銭名田庄紙四帳代金四拾八銭
壱帳に付金拾弐銭
金弐円七拾銭 筆墨費
但筆取合八拾五本代金弐円五拾五銭、壱本は金三銭、墨六丁代金六拾銭壱丁金拾銭、朱墨三丁代金三拾銭
壱丁に付金拾銭、鉛筆五本代金廿五銭壱本に付金五銭
金八円七拾五銭 薪炭油費
但焚炭弐拾五俵代金八円七拾五銭壱俵拾〆匁入に付
代金三拾五銭
金八拾九銭 消耗費
但書翰袋三百枚代金拾五銭、百枚に付金五円、半紙表紙十枚
代金拾弐銭壱枚に壱銭弐厘、生麹壱斤代金拾銭中■(不明=蝋)四百匁
代金五拾弐銭百匁に付金拾参銭、実子箒キ五本代金拾銭
壱本に代金弐銭
金弐円四拾銭 修繕費
但疉表蓙五枚代金壱円弐拾五銭五壱枚に代金弐拾五銭、
縁布六帳分代金六拾六銭壱帳分金拾壱銭疉八丁刺賃
五拾六銭壱丁金七銭
金壱円弐拾銭 両便所掃除費
但壱年六回分役場にて三回、村会所にて三回、壱回に付
金四拾銭
金弐拾銭 郵税費
但切手七枚代金拾四銭壱枚に付金弐銭、端書六枚代金
六銭壱枚に付金壱銭
金壱円也 寄附金費
但江差招魂祭寄附金
金五拾銭 松餝費
但年末村会所松餝費
金五円也 諸雑費
但予算課目外之支払に宛
明治廿八年度熊石村会所費収支決算報告書
収入之部
一金拾壱円三拾三銭六厘 廿七年度会所費支払残金繰越高
一金八拾五円拾銭○五厘 廿八年度村会所費村中江賦課収入高
合計金九拾六円四拾四銭壱厘
但廿八年度会所費予算金九拾五円拾弐銭に対す金壱円三拾
弐銭壱厘増収ハ会所費賦課下夕帳調整之上村中重遠江
協議之上該下夕帳通り賦課に決定す依て該金を増収す。
支払之部
一金六拾円也 村書記月俸支払
一金拾参円四拾五銭五厘 用紙費前同断
一金弐円拾壱銭五厘 筆墨費支払
一金八円七拾六銭 薪炭油費支払
一金七拾四銭五厘 消耗費支払
一金弐円五拾五銭五厘 修繕費支払
一金拾弐銭 郵税費前同断
一金壱円也 寄附金費支払
一金五拾銭 松前費前同新
一金三円三拾八銭九厘 諸雑費支払
合計金九拾弐円六拾三銭九厘
差引金三円八銭○弐厘過
右過金
一金三円七拾銭 丸谷重三郎預り
一金拾銭○弐厘 北政太郎預り
一金拾八銭 前弐人預り
是は消耗費の内箒キ壱本代二重払に付追て領収分
壱号 村書記給料費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 円.銭 | 支払全 | 過不足残高 |
6、000.0 | ||||
6・ 5 | 4・5両月分給料 佐藤勘次郎江払 | 1、000・0 | ||
7・ 1 | 6・7両月分同 前同人江払 | 1、000・0 | ||
8・28 | 8月分同 佐藤勘次郎江払 | 500・0 | ||
1・12 | 9月分同 前同人江払 | 500・0 | ||
1・16 | 10月分同 佐藤勘次郎江払 | 500・0 | ||
11・23 | 11月分 前同人江払 | 500・0 | ||
12・26 | 12月分 佐藤勘次郎江払 | 500・0 | ||
1・27 | 1月分 前同人江払 | 500・0 | ||
2・29 | 2月分 佐藤勘次郎江払 | 500・0 | ||
3・21 | 3月分 前回人江払 | 500・0 | ||
合計金 | 6、000・0 | |||
弐号 用紙費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払金 | 過不足残高 |
1、248 | ||||
7・15 | 改良半紙六〆代金丸谷重三郎殿江払 | 1、145・0 | ||
8・ 4 | 半切百枚代金北政太郎江払 | 11・0 | ||
〃 〃 | 罫紙壱帳代金前同人江払 | 2・5 | ||
〃 〃 | 会所費切符用名田庄紙四帳代金前同人江払 | 42・0 | ||
〃 〃 | 罫紙拾五枚代金前同人江払 | 2・0 | ||
12・23 | 上ノ半切百枚代金前同人江払 | 12・0 | ||
11・23 | 官米払下用紙代金・為換金手数料印税共奥承了殿江払 | 127・0 | ||
12・22 | 右用紙運搬費佐藤勘次郎江払 | 4・0 | ||
合計金 | 1、344・5 | 不 097・5 | ||
三号 筆墨費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
270 | ||||
7・24 | 筆取合四拾本代金笹原佐太郎殿江払 | 50・0 | ||
8・ 4 | 鉛筆壱本代金北政太郎江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 筆壱本代金前同人江払 | 3・0 | ||
〃 〃 | 上之真書筆弐本代金前同人江払 | 7・0 | ||
11・22 | 文筆四本代金前同人江払 | 14・0 | ||
〃 〃 | 鉛筆壱本代金前同人江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 同舶来筆上壱本代金前同人江払 | 7・0 | ||
〃 〃 | 筆取合三本代金前同人江払 | 9・0 | ||
11・22 | 墨壱丁代金北政太郎江払 | 10・0 | ||
11・23 | 筆弐本代金前同人江払 | 6・0 | ||
〃 〃 | 筆取合拾弐本代金佐藤勘次郎殿江払 | 13・0 | ||
〃 〃 | 筆四本代金矢木末吉殿江払 | 12・0 | ||
2・ 1 | 筆取合拾弐本代金北政太郎江払 | 28・5 | ||
〃 〃 | 墨壱丁代金前同人江払 | 15・0 | ||
2・12 | 筆四本代金矢木末吉殿江払 | 12・0 | ||
2・24 | 同五本代金北政太郎江払 | 15・0 | ||
合計金 | 2、115・0 | 過 058・5 | ||
四号 薪炭油費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
875 | ||||
7・19 | 炭弐俵代金立替分佐藤勘次郎殿江払 | 70・0 | ||
〃 〃 | 炭弐俵代金佐野甚右衛門殿江払 | 70・0 | ||
7・22 | 炭壱俵代金大坂百太郎殿江払 | 35・0 | ||
11・22 | 炭拾〆匁代金北政太郎殿江払 | 35・0 | ||
12・22 | 炭弐俵代金佐藤勘次郎殿江払 | 66・0 | ||
12・26 | 炭弐拾俵代金岸田久四郎殿江払 | 600・0 | ||
合計金 | 876・0 | 不 001・0 | ||
五号 消耗品 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
89 | ||||
7・19 | 箒キ壱本代金佐野甚右衛門殿江払 | 2・0 | ||
8・ 4 | 状袋百枚代金北政太郎江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 半紙表紙三枚代金前同人江払 | 3・6 | ||
1・26 | 箒キ壱本代金佐野甚右衛門殿江払 | 18・0 | ||
11・22 | 状袋百枚代金北政太郎江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 中蝋百匁代金前同人江払 | 13・0 | ||
12・18 | 箒キ壱本代金佐野甚右衛門殿江払 | 18・0 | ||
2・ 1 | 状袋百枚代金北政太郎江払 | 10・0 | ||
合計金 | 74・6 | 過 014・4 | ||
六号 修繕費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
240 | ||||
6・23 | 畳表蓙五枚代金北政太郎江払 | 125・0 | ||
〃 〃 | 畳縁布六丁分前同人江払 | 66・0 | ||
7・ 1 | 畳八丁剌賃とも島谷富蔵江払 | 64・5 | ||
合計金 | 255・5 | 不 015・5 | ||
七号 両便所掃除費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
120 | ||||
八号 郵税費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
20 | ||||
5・26 | 薪材御検査願之儀に付金田郡長行書面 | 2・0 | ||
5・27 | 同到着検査員御出張願に付前郡長行 | 2・0 | ||
7・ 9 | 村史編纂に付材料拝借願前同断 | 2・0 | ||
7・ 2 | 泊川村荒谷甚三郎殿行端書 | 1・0 | ||
7・25 | 薪材及漁具予算書之書面差出郡役所行 | 2・0 | ||
〃 〃 | 軍事公債証書番号違ひに付日米銀行に照会 | 1・0 | ||
88・ 4 | 小学校敷地之儀に付前戸長残田雄二郎殿江照会 | 2・0 | ||
合計金 | 12・0 | 過 008・0 | ||
号 寄附合費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
100 | ||||
7・ 2 | 江差招魂祭江寄附金戸長役場江相渡ス | 100・0 | ||
合計金 | 100 | 100・0 | ||
拾号 松餝費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
50 | ||||
12・28 | 神明講当番阿部佐吉殿江松餝之祝儀払渡ス | 50・0 | ||
合計金 | 50・0 | |||
拾壱号 請 雑 費 | ||||
月日 | 摘要 | 予算金 | 支払全 | 過不足残高 |
500 | ||||
7・ 5 | 臨時筆耕一日分尾山米三郎殿江払 | 25・0 | ||
7・19 | 熊石村所有地地租金立替分佐藤勘次郎殿江払 | 1・5 | ||
〃 〃 | 桧柾三把代金村会所屋根ニ相用ひ候分前同人江払 | 10・0 | ||
9・ | 廿七年度村費未納他に転住之松宮荘助分役場江相払 | 5・0 | ||
8・ 4 | ペン先弐本代金北政太郎江払 | 4・0 | ||
〃 〃 | ペン軸壱本代金前同人江払 | 3・0 | ||
〃 〃 | 薪材検査員之儀に付出江之露口戸長江電報料 | 15・0 | ||
〃 〃 | 軍事公債証書本証領収之際要任状に相用ひ候五厘之証旁印 | 1・0 | ||
紙弐枚丸谷、岩藤両人分 | ||||
1・25 | 臨事筆耕二日分蓮沼友次郎殿江払 | 50・0 | ||
11・ 1 | 札幌旭館滞在之荒井幸作殿江返信料 | 53・0 | ||
11・22 | 佐野四郎右衛門殿村会所費御預ケ之際証書江相用ひ候印紙代 | 10・0 | ||
〃 〃 | 村会所用コンパシ壱組代北政太郎江払 | 100・0 | ||
〃 〃 | 罫紙之板木江用候本藍代金前同人江払 | 10・0 | ||
〃 〃 | 熊石村所有之宅地払下代金立替佐藤勘次郎殿江払 | 4・9 | ||
〃 〃 | 同所有地払下に付前記印紙代金前同人江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 村会所用暦壱冊代金佐藤勘次郎殿江払 | 7・0 | ||
〃 〃 | 廿八年度第壱期村費未納者吉田磯吉、工藤七五郎、松本寅 | 22・0 | ||
吉右三名分戸場役場江支払 | ||||
〃 〃 | 笊壱枚代金佐藤勘次郎殿江払 | 5・0 | ||
〃 〃 | 村総代用提灯弐張代金金太田理吉殿江払 | 30・0 | ||
20年 | ||||
1・27 | 茶飲茶碗三ツ代金新座利三郎殿江払 | 4・5 | ||
合計金 | 338・9 | 過 161・1 |
右之通り収支決算報告に及候間隣より隣江順達支関内字ポンムエ広瀬己之松殿より村会所江返却差下度候也。
廿九年五月十五日
熊石村 総代
丸谷 重三郎
仝 北 政太郎
この資料は西側半分の村民回覧の分で最終の関内ポンムイ岬の広瀬己之松の回覧が終ったら、村会所に返してほしいとしている。
特にこの決算回覧の中では村会所の実質的な業務が明確で、
一、戸長及び戸長役場と連けいを深めながら村の自治を進める。
二、その自治を進めるため、賦課下タ帳を作製協議して維持費を徴収する。
三、この維持費の中から村書記一名を置いて諸般の事務を進める。
四、戸長役場の徴収する村費の納入取りまとめ、未納金の責任支払。
五、村民福祉のための諸施策。
等があり、その会所費の支消は厳密を極めていて、来客用の茶は勿論、来村する役人の昼食代も総て、総代人の負担に帰するという厳密さであった。
この道庁時代の明治19年以降34年までの戸長の任免の年号日は明らかでないが、道庁初期の明治19年には浅田雄次郎が戸長に任命され、25年頃には瀬棚戸長に転出し、露口三松が熊石外2村戸長となっている。
さらに明治32年には戸長が変わり鈴木簾四郎となっていた。
第2節 村の創業
特に明治19年に任命された浅田戸長の行政手腕は秀で、民間活力を村の活性化に導入するための動きをしていたことは、当時の“函館新聞”のなかでも見られ、また鰊漁業の好転によって村民の村起しの動きも活発であった。この明治19年は前年函館地方で発生したコレラが、7月以降道南地方で猛威を揮い、8月に江差付近の感染者は14名に達し、8月31日には熊石村でも男2名が罹患、内1名は死亡し、9月7日現在では熊石村は13名の患者があった。熊石分署長心得中原巡査が死亡したのはこの時である。9月30日現在の函館支庁管内の発生状況は、
郡区名 | 患者発生数 | 内死亡者数 | 全治者数 | 発生者% | 死亡者% |
函館区 | 971 | 789 | 163 | 70・1 | 81・3 |
上磯郡 | 109 | 69 | 13 | 7・9 | 63・3 |
松前郡 | 134 | 90 | 34 | 9・7 | 67・2 |
桧山郡 | 102 | 52 | 26 | 7・6 | 50・9 |
爾志郡 | 23 | 17 | 3 | 1・7 | 73・9 |
茅部郡 | 2 | 0 | 2 | 0・1 | 0 |
久遠郡 | 21 | 21 | 0 | 1・5 | 100・0 |
奥尻郡 | 1 | 1 | 0 | 0・1 | 100・0 |
太櫓郡 | 4 | 3 | 0 | 0・2 | 75・0 |
瀬棚郡 | 8 | 5 | 0 | 0・6 | 62・5 |
寿都磯谷 | 9 | 9 | 0 | 0・7 | 100・0 |
計 | 1、384 | 1、056 | 241 | 0 | 76・3 |
で極めて高く、爾志郡に於ては発生患者のうち73・9%が死亡するという極めて死亡率の高いもので、村民を恐怖のどん底におとし入れ、中には近世時代に流行した庖瘡のときのように畑や山中に仮小屋を建て、逃避する者もあったが、このコレラは10月末にいたってようやく終息を告げた。
20年には、19年より工事を行っていた中山峠(厚沢部から大野に至る)の新道工事が完成し、江差の松沢伊八、畑中半右衛門が江差―函館間の乗合馬車の営業許可を受け、郵便馬車2台、乗合馬車6台を備えて営業を始め、当村からの函館行きも利便になった。また、この年関内は漁業及び船付場として大きく様変りした。関内は西はポンヌイ岬が突出していて北西の風がさえぎられ、村内第1の良港であったところから、熊石の掛澗入港の船も強風の場合は、関内の澗に避難した。また猪股作蔵のような大漁業家が多く、入稼漁夫の数も多かった。従って花柳界も極度のいんしんを極め、浜には浜小屋があって漁期には江差方面の接客女性も多く入っていた。そこで風紀上からも浜小屋を廃して遊廓設置が問題化し、明治17年には字岡下77番地の土地を切り開き、貸座敷8軒、料理店5軒が開店し、1大歓楽街を形成するに至った。この町は当初ドングイの繁茂する地を開拓して形成したので、ドング町と称し、後に茶屋町と称するようになり(“関内よもやま話”三国定雄著)、警察駐在所、風呂屋から芝居小屋もあり、さらに明治20年には遊廓女性の性病を検査する検黴所まで設けられている(関内沿革史、江差警察署沿革史)程で、現在考えることのできないような繁栄振りであった。
21年には村内の有志林政太郎、荒井幸作、佐野秀太郎ら13名の発起で親睦講が前年結成され、村内から広く拠金を集め、村内の3橋を新設しているが、その状況は“函館新聞”に詳細に報道されている。
明治21年1月13日より22日の“函館新聞”“熊石近況”。
四、五年前沢口富士吉氏外道路、学校の大いに改良を協議したが、相談整わずそのままになっていたが、橋梁三ケ所建築に着手せり。
熊石村は北海道屈指の大村落にして、海岸長さ三里餘、戸数凡六百有戸旧幕府の頃にシャモ地と唱え漁業の盛なる地方なりし故、旧幕の時より大いに開かんと奨励され、幕吏山田某、民間にては江州産の佐野某、佐渡産荒井某、三、四の有志の尽力にて良き一方の漁村となりたり。
維新来今日に至るまで当道他郡村に比すれば、この村は内地より移住者少く地に新しき空気少しも流通せず、新しき種は少しも播かず諸事旧態、私利に汲々、共同の利益を図るを知らず、古流の学問は徒らに尊く文明の新説にうとく、新聞一葉すら大切なりと考えて読む人少なく、なお髪を結んで頑々乎として旧弊に安んずる人物少しとせず、人大いに歎息す。新任の戸長活發、林政太郎、荒井幸作、佐野秀太郎等の尽力により近来漸く公開の事業に協力する運にすすむ。
かねて有志十三名で組織する親睦講は多少積立をなし百余円になり、これをもって村内の橋かけて往来に便さんとの意見にて、この積立金百余円を投し、有志を誘導し忽ち五百十余円の巨額をつのり、二十年中に諸橋梁架設悉皆落成。有志の協力を永く銘するため、親睦講の三学を分ち頭字に用ひ、
門昌庵川―親協橋
掛澗川―睦盛橋
雷神川―講信橋
と称し、人々大いに喜び近々旧習を脱し進歩気を引立るべし。
又、同村は従来一定の牧場もなく馬持ちは野放しの習慣なりしが、農作へ数多の害を与ればとて、林、荒井氏発企となり、人々にすすめ去年七月より出金の方を立て凡百十余円をもって、周囲二千間の土手(高さ五尺、幅四尺)を設け、美事の牧場となり、農家及び戸長も共々大喜び、一村改良進歩の計画せんとする傾向なるよし。
とあって、このような公共事業が民力によって設営されていることは、村民の村造りに対する意欲と、鰊漁業収入の大きさを物語っていると思われる。この架橋について“佐野甚右衛門履歴書”では、
渡島国爾志郡熊石村
佐野 甚右衛門
明治二十一年三月中佐野四右衛門外四百九十七名申合渡島国爾志郡熊石村橋梁四ケ所架設候段奇特ニ付其賞木杯壱個下賜候事
明治廿四年十一月廿五日
北海道廳長官(従四位勲四等)渡辺千秋
とあって、その寄附協力者は497名にも達している。
前記表形状には橋梁は4橋となっているが、新聞以外の1橋は不明である。また、この21年は相沼内から関内までの海岸道路が完成し、平田内の海岸の岩礁を貫通する平田内トンネルも完成し、村内道路の初期整備は一応完成した。
平田内旧道トンネルの状況
明治22年に入ると、当村関内出身沢口富士吉が18年奥尻村で始めた禁酒運動は全国的に輪を広げ、道内では札幌に北海道禁酒会本部が設けられた。当村に於ても板谷菊太郎、坪谷賢太郎の両氏が発起人となり、会員を募集していたが、機熟し同年1月7日に発会式を上げた。
この禁酒運動は酒の害を10分認識して、自らが酒を断ち、その上で他の人達にも体験を踏まえて、勧誘して健康な明るい社会を造り上げ人の輪を広げようというものであった。これについて、1月13日の“函館新聞”熊石通信は次のように報じている。
禁酒談話会
昨暮発起せし同会も去る七日の開会をなしたり。当日は風雪強く寒気きびしかりしが、来会者頗る多く、午後三時開会し、
○酒の利益 新井田隆治氏
○禁酒輩振ふべし 松前森松氏
○恐るべきもの何ぞや 板谷菊太郎氏
○須く嗜欲を制して将来の幸福を望むべし 坪谷賢太郎氏
等にて雄弁を以て熱心に酒害を説破せしにぞ、傍聴者のうちには間々ノウノウの声聞こえしが拍手太喝采のために叩き消され実に盛会なりき。
ここに奇聞あり、交誼会事務所の世話方なり小使なり兼務の老人あり、至って正直者なれど酒好きのため、妻もなく、貯蓄もなく諸国遍歴して熊石に来り、聊か職業あれども、飲めば正気を失ひ他に不敬を加えることさえありしが、一月一日新年の回礼に所々を歩き先ず一献との祝儀の酒に根が好物の事なれば、辞議なしに傾けつくし、それからそれへと徘徊せしが、遂に氷の上に足ふみはずし面部へしたかかの傷を生じたり。之が交誼会にては総会の砌りかかる者は雇ひおき難しと新年早々放逐の沙汰となりしに、本人痛く侮ひこの恥辱を雪ぐには断然禁酒にありと覚悟し、丁度七日に禁酒会の総会ありと聞き、改悛の実を表するため己も一席の演説をなさんとてその席に臨み「枯木の花」と題し、自己の経歴演述したるは大に喝采を博したりとそ。
とあり、また、1月15日の同紙には、熊石禁酒談話会の規則等が掲載されているので、次に掲げる。
熊石村ニ開会ナセル禁酒談話会ノ趣旨並ビニ其規則書
熊石村禁酒会設立趣旨
古人謂ヘルアリ、曰ク人生ノ快ハ友ニ如クハナク、快友ノ快ハ談ニ如クハナシト。蓋シ人々ノ親睦シ有益ノ談話ヲ為スヲ以テ人生ノ一大快楽ト言フベキカ。然ルニ今日他行ク所トシテ酒ヲ以テ祝賀宴会ノ絡トナシ百礼ノ会酒ニアラズンバ行ハレスノ妄言ヲ発スルニ至リ、其弊害ノ大ナル枚挙ニ遑アラザルナリ。然リト雖モ、習慣ノ久シキト能ク一朝一夕ノ矯正スル所ニアラズ、故ニ以テ我会員ハ■(不明)々飲酒家ノ非難攻撃スルトコロトナル。
是ノ時ニ当テ吾々禁酒会員ハ、一騎当千ノ勇ヲ揮ヒ、親睦協同シ禁酒主義ヲ拡張セザル可カラザルナリ。今ニシテ意ヲ一ニシ力ヲ協セ自己ノ精神ヲ堅クセザレバ何ヲ以テ風ヲ矯メ弊ヲ正スヲ得ンヤ、茲ニ吾々発起トナリ禁酒ノ談話会ナルモノヲ設ケ、一ハ会員ノ親睦ヲ計リ、快友ノ快ヲ全フシ、一ハ禁酒主義ヲ拡張セントス。
諸君速ニ来り会セヨ
明治二十一年初冬
発起者 板谷 菊太郎、坪谷 賢太郎
熊石禁酒談話会規則
第一章 目的
第一条 本会ハ北海道禁酒会熊石在住ノ会員及ヒ禁酒有志者ノ親睦ヲ主トシ有益ナル禁酒ノ談話ヲ為シ、回主義ヲ拡張スルヲ目的トス。
第二章 名称
第二条 本会ヲ名ケテ熊石禁酒談話会ト称ス。
第三章 位置
第三条 本会ノ役場并ニ事務所ハ仮リニ中歌六番地トス
第四章 役員
第四条 本会ノ会務ヲ総理スル為メ会員ノ中ヨリ投票ヲ以テ左ノ役員ヲ選挙ス。但同数ナレバ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム。
一、会頭 壱名 幹事 壱名
第五条 会頭ハ本会渾テノ会務ヲ総理シ、幹事ハ庶務会計通信等ノ記事ニ従事ス。
第六条 役員ノ任期ヲ六ヶ月トス、但シ任期改選ノ時ハ前任者ヲ再選スルヲ得。
第五章 集会
第七条 本会談話集会ハ毎月第二日曜日午後五時トス。専ラ禁酒有益ノ談話ヲ為スヲ要ス。
第八条 毎年一、七両会ノ総会ヲ開キ事務ヲ商議ス、役員ヲ改選シ会計記録ノ報告ヲ為シ、禁酒ニ関スル演説討論ヲ為ス可シ。
第六章 通信
第九条 本会毎月集会談話ノ要旨、総集会ノ景況ハ其都度北海道禁酒会ニ通信スルモノトス。
第七章 会員
第十条 会員ハ会費トシテ毎月第二日曜日ニ於テ金五銭ヲ納ム可シ。
第八章 雑件
第十一条 本会ニ物品其他ヲ寄付スルモノアルトキハ本会ヨリ謝状ヲ為シ帳簿ニ登録シテ寄付者ノ名誉ヲ永ク保存ス。
第十二条 此規則ハ総集会ノ節、二名以上発議ニヨリ会議ニ付シ改正スルコトアル可シ。
熊石の村民は古来から酒飲みが多かった。青江理事宮の諮問回答書にも熊石村は明治16年に酒酒大山樽(2斗入)800樽、越後1100樽、17年には大山400樽、越後700樽、18年には大山300樽、越後480樽。泊川村は16年には越中20樽、越前230樽、17年には越後28樽、大山30樽、15年には大阪50樽。
相沼は16年に越後100樽、大阪58樽、17年には越中50樽、大阪100樽、18年には越中50樽、越後189樽という大量の清酒を移入している。米が穫れず酒造の発達しなかったこの時代には、北海道に移入される酒の多くは鶴岡、酒田付近で生産される大山酒の2斗樽入が多く、これが越冬期の近い11月頃熊石に陸揚され、各家庭は翌年の鰊漁業清算の際支払することにして青田買し、各家庭では2斗樽を2本程度購入して積んでおくという慣習があった。さらに大阪の灘酒は日本一の高級酒で、北海道内では貴重なものとされていたのに熊石では愛飲されていた。従って酒代さらには酒の中毒症状からの酒害が多発していたものである。しかし、この禁酒運動は一部の村民にのみ行われ、一般には普及しなかった。
また、21年には熊石の産業の中心である漁業の将来を左右する重大な計画が立案された。それはイギリス入港湾技師メークの熊石港の築港計画を行っている。メークはチャールズ・スコット・メーク(Charles ScottMeik)といい、イギリスの有名な港湾技師であったが、日本政府は北海道の港湾の近代化設備をつくり上げようと計画し、政府港湾技師長として待遇され20年3月来日、6月来道道庁土木技師福士成豊らの協力を得て、7月以降、浦河・根室・花咲・釧路・厚岸・浜中・網走・佐呂澗・留萌・増毛・石狩河口を調査して、“北海道各港調査報文第一報”を提出し、翌21年には江差・熊石・福山・函館・砂原・森・室蘭・岩内・寿都・小樽を調査して、“北海道各港調査報文第二報”をまとめている。この報文は現在北海道大学中央図書館北方資料室に保存されているが、メークの熊石築港計画は次のようなものである。
同報一二三頁より一二四頁
熊石築港文抜萃
熊石に居た時、私は入江、即ち、その町の正面にあたる海岸の入江、又砂州、即ち、岩のある暗礁群を避ける場所の、下を掘る為の計画(提案)の概要(スケッチ)を見せられた。
添えてある設計図(No.26)は日本の大きい船や小さい汽船の避難所を設備する為に私が先ず第一に遂行すべきだと思われる事柄を示している。そしてこの計画図をかく事の中で、熊石にいた時、私と一緒に協議した町の代表者達のはっきりした希望によって、私は大きな広がりにまで導かれたと言えるかもしれない。
メーク熊石築港計画書図面
熊石における船の避難場所の為のどんな仕事も大きな費用が必要となる性格のものであろう。と言うのは大波の勢いに耐える為に非常にがんじょうな外側の防波堤が必要であるばかりでなく、防波堤の内側の避難する区域を深くする事と、砂州は堅い質の岩を掘りおこす為、そして又その工事は水面下で仕事が進られる事が求められるという事実の為にも、かなり費用がかかるだろう。
No.26計画図にしめされているような熊石での工事に対する私の見積りは、防波堤等に対しては、65、395・00ドル、そして砂州や防波堤の内側の地域を深くする事に対する見積りは75、000・00ドルである。総額は147、395・00ドルになる。
此見積りは海中での建設工事に経験のない人々には高価に思われるかもしれないが、私は(次のように確信している)その防波堤は、もしそれ等が大波の力に耐える為のがんじょうな性格なものである為にも、それ以上に見積ることがあってもそれより少なくては施工出来ないし、又一方、その港を深くする事に関しては水面下から岩を爆破したり、もち上げたりする為には価格を考慮して、一立方坪あたり、せいぜい(即ち)20・00ドルで充分である。
と確信している。
(松前町・福島憲俊氏翻訳)
と報告しているが、道庁の行わんとする港湾土木事業のなかで、全道21か所の重要港として熊石築港の計画をしたもので、報告書では予め道庁土木技師の福士成豊か熊石に先行して、地形、風向、波高等を地元有志から聞いたが、これを基に素案を作製し、さらに現地入りしたメーク氏が調査をして、最終的な計画案を作製したものであるが、この過程に於ては熱心な地元有志の期待がこの計画に込められていると報告書に記している。
図No.26(報告書ではこのNoを付しているが、同書への添付図面ではNo25が熊石築港計画である)の図面は前記のとおりであるが、この築港計画は、現在の船人澗の中心よりやや東方の掛澗川から磯崎にかけての海岸線から、約400メートル沖合に並ぶ7つの平磯を結んで防波堤を築き、ここから磯崎海岸までの間は2つの磯をつないで防波堤を築こうという計画で、防波堤延長は1200メートルに及ぶ広大な計画であった。しかし、この計画では確かに冬期間の北西の強風は避けることは出来たが、東及び南風の時化の場合は、港内に大波が直進する恐れもあったはずである。このメークの熊石築港計画は実現することなく、昭和時代の築港計画に持ち越された。
明治23年には新制度(戸長役場と警察分署の合同)による総合庁舎としての戸長役場がこの年新築された。それまでの戸長役場は字雲石にあった妙選寺下のハネダシ(海岸に突き出した板倉)を利用した貧弱なものであったが、戸長が警察分署長を兼ねるため役場と分署の両用の機能を持った建物が必要になったことから、村総代林政太郎、佐野四右衛門等が発起人となり、村内有志から寄附を集め、現在の役場位置(字掛澗)に庁舎を建築、3月に完成したが、これはみな村民の拠金によるものであった。
明治25年には村民全体の親睦を計るため第1回の村民運動会を開催しようとする動きがあった。浅田戸長や村内有志の手によって進められ、同年6月見市の地蔵さんの沢で全村民が集まって行われた。磯島靖一氏の懐旧談(故人)によれば、これが熊石村の運動会の始まりで、パン食い競走、二人三脚、兎とび競走、旗取り合戦、綱引等当時としては極めて斬新なプログラムで、春の一日を全村が楽しく過し、その後この運動会は毎年続けられ、後小学校運動会に引き継がれた。 明治25年発行の“北海繁昌記”及び明治29年発行の“北海立志編”に熊石村が多く収載されており、当時の村況を知る得難い資料であるので、次に掲げる。
山田六右衛門本宅 相沼村
山田茂左衛門本宅 相沼村
荒井定太郎商店 熊石村
山田六右衛門 中歌漁場
旅館業山田熊吉 相沼村
■(屋号 カネ五)佐野甚右衛門家本宅 熊石村
■(屋号 カネ五)佐野漁場 熊石村
■(屋号 カネさ)佐野清太郎 中歌
■(屋号 カネ久)佐野季蔵 熊石村
旅宿業大坂梅太郎 熊石村
■(屋号 カサさ)佐野四右衛門 熊石村
■(屋号 カサさ)佐野秀太郎 熊石村
■(屋号 カサ上)・土谷掟右衛門 熊石村
○弋輪島三右衛門 熊石村
荒井幸作漁場 字横澗
曹洞宗門昌庵 熊石村
■(屋号 カネ五)佐野甚右衛門 熊石村
旅宿大坂兵五郎 熊石村
■(屋号 カサ小)赤泊与七 熊石村
■(屋号 カネ又)佐野又四郎 熊石村
第3節 2級町村制の施行
全国的に市町村制を施設し、地方自治を盛り上げようとする動きは、明治21年4月17日法律1号を以って「市制・町村制」が公布された。しかし、この町村制の附則では「此法律ハ北海道、沖縄県其他勅令ヲ以テ指定スル島嶼ニ之ヲ施行セズ、別ニ勅令ヲ以テ其制ヲ定ム」とされていて、北海道への市町村制度の導入は時期尚早であった。これに対し、20年代後半には住民の自治確立意欲と参政権確立への動きとあいまって盛んに論議されていた。また、帝国議会に於ても北海道開拓意見、北海道土地払下渋滞、北海道意見等々多くの問題が提起され、これによって北海道の実情調査に明治26年7月来航した内務大臣井上馨は、その報告書「北海道に関する意見書」に於て、北海道は函館の如き整備された都市もあり、また、その村落によっては旧開地、新開地があって画一的な扱は出来ないので、2種、或は3種の段階を設けて自治執行体制を進めるべきであると論じている。
このような考え方もあってか北海道の市町村制は段階的に行われた。先ず北海道区制は明治32年8月17日勅令第378号をもって改正され、同年10月1日に札幌・函館・小樽に施行された。さらに1級町村制が明治33年3月22日付勅令第51号をもって改正され、同年7月1日で1級町村として16か町村に施行した。このうち道南では江差町、大野村、上磯村、福島村、福山村の5か町村であった。
2級町村制は、明治35年2月21日付勅令第37号をもって全文が改正され、第1次として札幌郡札幌村など全道62か町村に施行された。このうち道南地方のほとんどの戸長役場が村としても自治制を布くことになったが、熊石村もこの2級村制が執行されることになった。1級町村と2級町村の差違はどのようなところにあったかといえば、
第1に1級町村では町村長のほかに助役、収入役を置く、従来の府県の町村制では町村長を名誉職としたが、この改正では有給史員となり、町村会の選挙によって道庁長官が認可し、助役、収入役も町村長の推薦によって町村会が選び、長官の認可となり、その任期についても4年とした。それに対し2級町村は、町村長の任命は長官が発令し、その任期は4年とし、助役は置かず上席書記をもってこれに充て、その発令は支庁長の権限であり、書記の定数は長官が定め、その給料、旅費は北海道地方費から支弁した。また、2級町村は、その地域組織で町村行政の補完的機関として各部(部落)の部長を名誉職として置き、支庁長が任命した。
第2に議会議員選挙、議決関係では、1級町村町村会議員の選挙人としての公民資格要件は、帝国臣民たる独立の男子で、その町村に3年以上居住し、町村内で地租年額40銭以上、直接国税年額2円以上を納め、もしくは耕地・宅地3町以上所有し、公費による貧民救助を受けて3年を経ていない者であった。議員の定数は8人から24人、任期は4年で、住民以外の多額納税者にも選挙権が付与された。
議決関係では
(1) 町村条例・規則の設定。
(2) 町村費支弁事業、ただし国の行政事務を除く。
(3) 歳入出予算を定めること。
(4) 使用料・加入金・手数料・町村税・賦役徴収の法。
(5) 町村有不動産に関する権利の得喪を目的とする行為をなすこと。
(6) 基本財産及び積立金穀等の処分。
(7) 歳入出予算をもって定めるもの以外の新たな義務の負担をなし、権利の棄却をなすこと。
(8) 町村有財産および町村の営造物の管理方法を定めること。
(9) 町村吏員の身元保証を徴しその額を定めること。
(10) 町村にかかる訴訟および和解に関すること。
となっている。この1級町村制に対して2級町村は、道庁長官の監督の強化、議会の議決権限の削減等がある。
まず、公民制を設定せず、町村会議員の選挙権、被選挙権のみを規定し、選挙権は基本的に1級町村と同様の制約ではあるが、住居資格は1年、地租年額10銭以上、直接国税・北海道水産税若しくは両者合せて年額50銭以上の納入者、また、耕地一町歩もしくは宅地百坪以上の所有者、また、総納税人の町村税平均額以上の町村税を納める者となっている。議員定数は人口比により8人より12人までで、任期は2年で全員改選であった。
また、議決関係では2級町村は1級町村に比し、町村費の支弁事業、町村積立金穀処分、町村の造官物管理方法を定める規定がない。さらに町村条例を制定する権限がなく、規則の制定だけが議決事項であった。特異なもの「軽易ノ事件」については書面会議、すなわち議員が一堂に会して討議、議決することなく、書面の持ち回りによって議決することができた。ただし、この場合議員3分の2以上の同意を必要とした。また、町村会の会議の公開性については明文がない。これら2級町村の町村会の簡素化は、1面では執行権の強化につながるものであった。
第3には2級町村は1級町村に比し、道庁・支庁の監督が強化されている。即ち町村長以下職員の任免権を監督庁が握り、間接的に監督するほか、町村会の会議およびその議決に対する取消処分に対して、町村会に不服があっても、この訴願を許すべき規定を設けていなかった。また、町村の事情により支出の一部または全部を地方費から支出しうるものとした。
第4に単独町村事務を維持できない場合の一部あるいは全部事務組合役場の設置をやや詳細に規定した。
以上のような内容をもって2級町村制が実施されることになった。
熊石村は明治35年、従来の戸長役場建物を利用して村役場が開設され、4月1日には村長清水菊之助、収入役に佐野四右衛門、附属員として磯島、中村の両書記が発令されている。村会議員の選挙事務、議会提出議案、特に村規則提案の準備に入った。熊石には明治35年の第1回村会以降現在までの“村会関係綴”或は“村会諸書類綴”か残されている。このような市町村の重要書類が終戦時にほとんど焼却され、現在北海道では羽幌町・熊石町外数か町村分より残されていない。この熊石町に於いても自治体がつくられた明治35年度分は保存が悪かったため、綴の下半分か腐朽し判読のできないものが多いので、村役場開設当初の分については凡そを述べる。村会議員の定数は12名であったと思われるが、前記資料では 佐野 半之丞、天満 与作、加藤 幸作、板谷 菊太郎、佐野 英吉、岸田 久四郎
田村 市太郎、大塚 要吉、八町 忠吉、林 政太郎
の10名となっているので2名の名が欠落していると思われる。
熊石村初代村長 清水菊之助
第1回熊石村議会は明治35年6月15日頃から7月7日頃までの23日余を要する日数をもって、熊石村政の将来の行政規範を決定したが、その議件は次のように多数に及び、村長を議長に懸案の戸数割第1回査定委員長には板谷菊太郎を選んで開会された。その議件は、
第1号 明治35年度熊石村歳入歳出予算案
第2号 村税賦課基準
第3号 収入役付属員給料旅費規程
第4号 北海道税賦課規則
第5号 村税其他滞納者督促手数料規則
第6号 熊石村手数料徴収規則
第7号 熊石村会議員実費弁償額及其支給方法
第8号 熊石村基本財産管理規則
第9号 2級町村制実施ニ付元戸長役場建物敷地備付物品無償付与申請ノ件
第10号 熊石村収入役身元保証金ニ関スル規則
第11号 収入役推薦ノ件
第12号 国有未開地貸付出願ノ件(丸山、便ノ澗)
第13号 同右(泊川村黒岩岱)
第14号 雲石尋常高等小学校第4分教場設置ノ件(鮎溜、見市)
第15号 部長規則
第16号 名誉職吏員実費弁償額及其支給方法
第17号 附加税徴収方法
第18号 寄付願承認之件
第19号 本村大字泊川相沼内村医継続契約ノ件
第20号 本村役場付属員定数之件
第21号 本村学務委員選挙之件
第22号 本村会議規則改正之件
第23号 熊石村明治35年度追加予算表
第24号 伝染病予防救治ニ従事セル者へ手当金給与ノ件
第25号 督促手数料規則改正ノ件
第26号 官有地継続出願ノ件(平田内)
第27号 一時金給与ノ件
等であった。
このうち第1回村会での熊石村の明治35年度の歳入歳出予算は次のとおりである。
収入
科目 | 本年度予算額 | |
円 | 厘 | |
第一款 財産ヨリ生スル収入 | 213 | 954 |
一項 貸 地 料 | 59 | 254 |
二項 公債利子 | 117 | 500 |
三項 森林主副産物払下代 | 25 | 000 |
四項 貸 家 料 | 12 | 200 |
第二款 使用料手数料 | 132 | 000 |
一項 手 数 料 | 132 | 000 |
第三款 雑 収 入 | 337 | 260 |
一項 小学校授業料 | 337 | 260 |
第四款 前年度繰越金 | 700 | 000 |
一項 前年度繰越金 | 700 | 000 |
第五款 国庫補助金 | 152 | 000 |
一項 村医費補助 | 152 | 000 |
第六款 国庫費交付金 | 35 | 550 |
一項 国庫交付金 | 35 | 550 |
第七款 地方費補助金 | 400 | 000 |
一項 地方費補助金 | 400 | 000 |
第八款 村 税 | 5、658 | 196 |
一項 地価割 | 120 | 865 |
二項 所得税割 | 196 | 453 |
三項 国税営業税割 | 127 | 052 |
四項 戸別割 | 1、244 | 375 |
五項 地方税営業税割 | 100 | 119 |
六項 地方税雑税割 | 80 | 714 |
七項 水産税割 | 2、299 | 202 |
八項 段別割 | 32 | 857 |
九項 地租割 | 59 | 899 |
十項 建物割 | 1、396 | 660 |
合計 | 7、629 | 960 |
歳出
科目 | 本年度予算額 | |
円 | 厘 | |
第一款 役 場 費 | 965 | 350 |
一項 給 料 | 470 | 000 |
一目 収入役給料 | 200 | 000 |
二目 付属員俸給 | 240 | 000 |
三目 臨時雇給料 | 30 | 000 |
二項 雑 給 | 130 | 600 |
一目 旅 費 | 28 | 200 |
二目 使丁給 | 102 | 400 |
三項需用費 | 367 | 750 |
一目 備品費 | 40 | 000 |
二目 消耗品費 | 126 | 000 |
三目 賄 費 | 45 | 150 |
四目 通信運搬費 | 120 | 000 |
五目 印刷費 | 21 | 600 |
六目 雑 費 | 15 | 000 |
第二款 会 議 費 | 67 | 900 |
一項 雑 給 | 54 | 000 |
一目 実費弁償 | 54 | 000 |
二項需用費 | 13 | 900 |
一目 備品費 | 3 | 800 |
二目 消耗品費 | 3 | 600 |
三目 印刷費 | 3 | 500 |
四目 雑 費 | 3 | 000 |
第三款 土 木 費 | 30 | 000 |
一項 道路橋架費 | 30 | 000 |
一目 道路修繕費 | 20 | 000 |
二目 橋架修繕費 | 10 | 000 |
第四款 教 育 費 | 4、765 | 502 |
一項 俸 給 | 2、983 | 200 |
一目 訓導俸給 | 1、777 | 200 |
二目 准訓導俸給 | 670 | 000 |
三目 代用教員俸給 | 536 | 000 |
二項 雑 給 | 503 | 162 |
一目 旅 費 | 158 | 150 |
二目 傭人料 | 150 | 800 |
三目 慰労費 | 123 | 000 |
四目 賞与費 | 170 | 000 |
五目 教員恩給基金 | 18 | 212 |
六目 報 酬 | 36 | 000 |
三項需用費 | 1、131 | 460 |
一目 備品費 | 303 | 000 |
二目 消耗品費 | 522 | 310 |
三目 通信運搬費 | 18 | 000 |
四目 雑 費 | 269 | 900 |
五目 賄 費 | 18 | 250 |
四項修繕費 | 147 | 680 |
一目 校舎修繕費 | 147 | 680 |
第五款 衛 生 費 | 126 | 000 |
一項 種痘費 | 38 | 000 |
一目 薬品費 | 38 | 000 |
二項 伝染病予防費 | 85 | 000 |
一目 薬品及器械費 | 78 | 000 |
二目 雑 費 | 7 | 000 |
三項修繕費 | 3 | 000 |
一目 隔離病舎修繕費 | 3 | 000 |
第六款 衛生補助費 | 56 | 100 |
一項 衛生補助費 | 56 | 100 |
一目 衛生組合補助費 | 56 | 100 |
第七款 病 院 費 | 780 | 000 |
一項 俸 給 | 720 | 000 |
一目 村医俸給 | 720 | 000 |
二項 雑 給 | 60 | 000 |
一目 慰労費 | 30 | 000 |
二目 借家料 | 30 | 000 |
第八款 警 備 費 | 205 | 800 |
一項 火防費 | 205 | 800 |
一目 消防夫手当 | 157 | 800 |
二目 器械費 | 10 | 000 |
三目 被服費 | 10 | 000 |
四目 器械置場費 | 6 | 000 |
五目 療治費 | 5 | 000 |
六目 消耗費 | 17 | 000 |
第九款 勧 業 費 | 114 | 000 |
一項 奨励費 | 14 | 000 |
一目 出品物搬出費 | 12 | 000 |
二目 警報信号費 | 2 | 000 |
二項農会費 | 100 | 000 |
一目 農会費補助 | 100 | 000 |
第十款 諸税及負担 | 22 | 608 |
一項 諸 税 | 22 | 608 |
一目 地 租 | 13 | 068 |
二目 地方税 | 9 | 540 |
第十一款 基本財産造成費 | 377 | 700 |
一項 植樹費 | 15 | 000 |
一目 学林植樹費 | 15 | 000 |
二項事業費 | 100 | 000 |
一目 開墾費 | 100 | 000 |
三項積立金 | 262 | 700 |
一目 村有資産蓄積金 | 262 | 700 |
第十二款 雑 支 出 | 66 | 000 |
一項 共同財産管理費 | 36 | 000 |
一目 学林巡視旅費 | 7 | 000 |
二目 敷地料 | 12 | 000 |
三目 共有地管理費 | 7 | 000 |
四目 棒杭費 | 10 | 000 |
二項 行旅病死人費用繰替金 | 30 | 000 |
一目 行旅病死人費用繰替金 | 30 | 000 |
第十三款 予 備 費 | 50 | 000 |
合計 | 7、629 | 960 |
この予算書の下欄に説明があり、予算計上の根拠を詳細に記述してあるが、破損のためその説明を詳述することが出来ない。しかし、この予算書を見ると、国庫補助金、同支出金は割合に少なく、187円50銭で収入の僅か2・4%に過ぎず、地方費においても5・2%と極めて少額である。2級町村の場合は本来役場職員給、学校職員給は地方費(道庁費)で支給されることが原則であるが、実質的には所得税、国税営業税、地方税営業税、水産税等の町村附加税の徴収によって、この人件費に充用している。そして収入の主体を村税と国税、地方税の附加割によってバランスをとっている。
支出については役場費12・7%、教育費は62・5%が主なものであるが、この支出に於ては教育費が大きな比重を占めていたことが分る。しかし、予算内容としては自治体発足ではありながら、警防費、村医費等を予算化して民生安定を図っているほか、財産造成、産業奨励等に意を用いた優良な予算案であることが分る。
第1回の村議会の最大の焦点は村税の戸別(数)割の審査決定で、板谷菊太郎を戸数割査定委員長として査定を進め、次のように決定報告している。
第8款
租課目 | 金額 | 増 | 減 | 附記 | |||
四項戸別割予算額 | 1、244円 | ・375 | 本税金壱円ニ付キ金弐円五十銭 | ||||
査定額 | 967円 | ・000 | 277円 | ・375 | 一戸濯均会壱円割当 九百六十七戸分 |
||
七項水産税予算額 | 2、299円 | ・202 | 本税金壱円ニ付金五十銭 | ||||
査定額 | 1、839円 | ・363 | 459円 | ・840 | 本税金壱円ニ付金四十銭 | ||
十項建物割予算額 | 1、396円 | ・660 | 原案詳記 | ||||
改称 特別割査定額 | 1・711円 | ・260 | 314円 | .600 | 別冊詳記セリ |
右之通査定候条此段及報告候也
明治三十五年七月七日
熊石村会委員会
委員長 板谷 菊太郎■(丸に印)
熊石村長 清水 菊之助 殿
というように、村提出の原案に対しては厳密な査定を加えている。
また、第1回から議員の建議が提出されている。これは鮎溜に簡易教育場設立を願うもので、次のようなものである。
建議
一、大字泊川字見市、大字熊石字鮎溜
簡易教育場設立ノ件
理由 以上両字ニ於ケル学齢児童ノ状態ハ如何、就中見市ノ如キ本村内何レノ学校ニモ各壱里以上殆ント貳里以内ナルヲ以テ通学ノ困難ヨリ従来全く無教育ニ属セルハ何人モ認ムル所ナリ、右設立ニ伴フ本年度経費ハ別紙記載ノ如シ。
本建議ハ歳入出予算ニ先チ討議ニ付セラレン事ヲ望ム。
明治三十五年六月十七日
提出者 議員 天満 与吉■(丸に印)
賛成者 議員 加藤 幸作■(丸に印)
議長 清水 菊之助 殿
簡易教育場経費明治三十五年度概算書
一金百弐拾七円七拾五銭
内金七拾弐円 教員俸給
但七月ヨリ三十六年三月マテ九ヵ月分壱ヵ月金八円
金四円五拾銭 黒板壱枚
金拾五円 薪五棚 一棚三円
金四円〇五銭 炭九俵
一俵金四十五銭
金三円弐十銭 石油一ダース
金弐拾円 書籍、雑器具、其他諸雑費代
金九円 教場充用借家科
但七月ヨリ三十六年三月マデ九ヶ月分壱ヶ月金壱円
附記
以上列記ノ外借家賃、生徒用椅子机其他器具器械ノ必要ナリト雖モ目下ノ財界ニ於テハ到底充分ノ設備ヲ為ス事能ハサルベキヲ以テ便宜ノ方法ヲ取り教授ヲナスノ見込ナリ。
この建議案は採択され、同年10月の第2回村議会にこの予算が上程可決され、この教育場は雲石尋常高等小学校第4分教場として発足した。
戸数割の等級はその家の貧富を表す尺度であるのと、税金の高低を左右するものであったので、議員はもとより、一般村民の関心も極めて高かった。そこでこの査定は厳密を極めていた。明治35年の査定表は残されていないが、翌36年度分が残されているので、次にこれを掲げる。
報告書
第五回村会ニ於テ委員ニ付托セラレタル戸数割賦課方法別冊之通調査候間比段及報吉候也。
明治三十六年八月十三日
熊石村会議員 調査委員
佐野 半之丞■(丸印)
大塚 要吉■(丸印)
熊石村長 清水 菊之助 殿
戸数割賦課法
一金四千三百六拾円也 総高
内訳
一金八百七十二円也 反別割
但明治三十五年度ノ率ニ依ル
一金九百五十円也 戸別割
但全戸数九百五十戸ト見做一戸平均割当
一金弐千五百三十八円也 収入割
但計算上ノ過不足ハ按分比例ニ依ル
1等 | 40戸分 | 78円 | 5人 | 390円 |
2等 | 33戸分 | 65円 | 3人 | 130円 |
3等 | 28戸分 | 39円 | 3人 | 117円 |
4等 | 23戸分 | 26円 | 4人 | 100円 |
5等 | 8戸分 | 20円80銭 | 5人 | 104円 |
6等 | 6戸分 | 15円60銭 | 4人 | 62円40銭 |
7等 | 7戸分 | 13円 | 7人 | 91円 |
8等 | 4戸分 | 10円40銭 | 20人 | 208円 |
9等 | 3戸分 | 7円80銭 | 11人 | 85円87銭 |
10等 | 2戸半 | 6円60銭 | 12人 | 78円 |
11等 | 2戸分 | 5円20銭 | 40人 | 208円 |
12等 | 1戸8分 | 4円68銭 | 35人 | 163円80銭 |
13等 | 1戸6分 | 4円16銭 | 66人 | 274円56銭 |
14等 | 1戸4分 | 3円64銭 | 25人 | 66円 |
15等 | 1戸2分 | 3円12銭 | 50人 | 66円 |
16等 | 1戸分 | 2円60銭 | 84人 | 221円 |
17等 | 7分 | 1円82銭 | 57人 | 103円74銭 |
18等 | 5分 | 1円30銭 | 45人 | 58円50銭 |
19等 | 3分 | 78銭 | 98人 | 76円44銭 |
20等 | 2分 | 52銭 | 43人 | 22円36銭 |
21等 | 1分5厘 | 39銭 | 64人 | 22円26銭 |
22等 | 1分 | 26銭 | 131人 | 31円06銭 |
と等級及び等級金額を定め、各戸の収入に合せて、この戸数割金額を決定しているが、この金額、等級とその氏名には議員に不服があり、再審査をすることになり、委員に八町忠吉、大塚要吉、佐野半之丞を選任して再審査の結果、10月12日の村会で決定を見た。個人別賦課は次のとおりである。
佐野 四右衛門 | 佐野 甚右衛門 | 赤泊 与七 | 山田 六右衛門 | 山田 友右衛門 |
岸田 久四郎 | 稲船 権兵衛 | 土谷 掟左衛門 | 土谷 末吉 | 山田 茂三郎 |
中島 宗太郎 | 輪島 三右衛門 | 荒井 幸作 | 田村 市太郎 | 岩佐 又右衛門 |
岸田 ツタ | 林 政太郎 | 磯島 治左衛門 | 田村 カネ | 佐野 半之丞 |
阿部 佐吉 | 平井 久作 | 岸田 澄蔵 | 野呂 徳松 | 大阪 兵五郎 |
田子谷 玉蔵 | 岩藤 辰蔵 | 永井 直吉 | 猪股 忠治 | 大塚 要吉 |
田村 一治 | 佐野 季次郎 | 紅谷 七右衛門 | 天満 与作 | 土谷 駒吉 |
信田 奥次郎 | 輪島 万蔵 | 赤泊 春太郎 | 水野 三郎兵衛 | 佐野 荘蔵 |
酒谷 要作 | 平井 由太郎 | 荒谷 甚三郎 | 天満 源蔵 | 植川 七右衛門 |
山田 佐久治 | 田中 吉蔵 | 青木 権三郎 | 児島 久作 | 井口 金次郎 |
岩佐 秋蔵 | 中川 亀蔵 | 蛯名 洋太郎 | 板谷 菊太郎 | 佐野 栄吉 |
佐野 弁太郎 | 浜野 学蔵 | 八町 忠吉 | 林 宇助 | 柴田 亀太郎 |
輪島 浅蔵 | 佐野 季蔵 | 岸田 和吉 | 山田 定吉 | 飴谷 平弥 |
山田 倉蔵 | 山田 健五郎 | 秋田 亀次郎 | 中野 勝次郎 | 佐藤 三六 |
猪股 勝三郎 | 黒田 菊右衛門 | 黒田 由松 | 斎藤 杉蔵 | 泉谷 又助 |
山田 倉蔵 | 久保田 富五郎 | 佐藤 徳兵衛 | 三国 定太郎 | 中村 ハン |
加藤 音吉 | 岸田 鉄蔵 | 杉村 久蔵 | 田村 由右衛門 | 荒谷 留蔵 |
佐賀 権兵衛 | 藤谷 清右衛門 | 赤泊 孝太郎 | 伊藤 清四郎 | 小堀 熊吉 |
計良 音次郎 | 山田 和吉 | 長沼 寅吉 | 仙台 幸右衛門 | 余湖 松太郎 |
横田 由太郎 | 計良 留蔵 | 鐙谷 銀之助 | 佐野 権次郎 | 甲谷 マツ |
目谷 久蔵 | 煤谷 兼松 | 田井中 三蔵 | 中村 ハン | 橘 太一郎 |
砂山 松太郎 | 本山 弁吉 | 塩谷 七蔵 | 寺本 文蔵 | 北川 庄吉 |
安本 円海 | 高野 源次郎 | 小西 三吉 | 刀禰 重吉 | 上谷 良太郎 |
大辻 末吉 | 林 又作 | 小田桐 子之吉 | 本間 吾蔵 | 中山 忠明 |
山田 萬吉 | 小沢 恒助 | 安田 安吉 | 小川 庄吉 | 大島 久米太郎 |
能登 三郎 | 松田 篤太郎 | 丸谷 重三郎 | 須川 常次郎 | 佐藤 栄作 |
新木 米蔵 | 小倉 荘五郎 | 阿部 作蔵 | 斎藤 作蔵 | 阿部 藤左衛門 |
関村 夏太郎 | 加藤 春次郎 | 加藤 米吉 | 田村 弥次郎 | 岸田 キク |
万城目 亀三 | 森 兼次郎 | 中村 常太郎 | 佐野 栄次郎 | 岩見 安太郎 |
大坂 百太郎 | 大坂 按太郎 | 甲谷 留蔵 | 福田 新蔵 | 住谷 幾二郎 |
海老沢 実 | 赤泊 ヒナ | 斎藤 要吉 | 磯島 智宝 | 新谷 利三郎 |
酉田 栄吉 | 輪島 三郎 | 辻 徳太郎 | 星野 梅苗 | 佐藤 勘蔵 |
西村 玉蔵 | 油谷 長吉 | 辻村 定吉 | 稲船 竹次郎 | 木村 三吉 |
佐藤 ハツ | 近江 久左衛門 | 滝沢 慶蔵 | 南部谷 権吉 | 荒谷 宗三郎 |
稲船 栄作 | 黒田 間平 | 山田 源三郎 | 佐藤 太三郎 | 三関 新六 |
山田 幸吉 | 沢谷 藤吉 | 篠塚 繁蔵 | 石岡 重五郎 | 関口 寅蔵 |
田村 甚七 | 佐藤 由五郎 | 本間 カナ | 加我 幸作 | 岩山 キセ |
辰野 徳太郎 | 足立 大吉 | 新藤 権六 | 小松原 トヨ | 小塚 留弥 |
本間 兼蔵 | 青坂 庄太郎 | 斎藤 渕太郎 | 天満 与吉 | 藤谷 豊三郎 |
工藤 寅吉 | 荒谷 市五郎 | 竹沢 勇太郎 | 工藤 才吉 | 佐藤 福太郎 |
森 ツナ | 輪島 ナカ | 菊池 九兵衛 | 佐野 直蔵 | 畑中 末吉 |
野呂 柏蔵 | 田中 庄三郎 | 横山 留蔵 | 川道 作蔵 | 三浦 末太郎 |
横田 要吉 | 布谷 岩太郎 | 磯島 残吉 | 木谷 多兵衛 | 佐賀 森太郎 |
平井 良吉 | 荒谷 徳太郎 | 釜田 吉次郎 | 脇坂 菊次郎 | 岩坂 和作 |
輪島 留吉 | 中島 清次郎 | 山田 兼吉 | 伊藤 万蔵 | 杉村 丈吉 |
工藤 万之吉 | 藤谷 吉太郎 | 佐藤 三之助 | 葛西 清吉 | 近藤 常進 |
藤田 勘蔵 | 越前 弥兵衛 | 田村 万蔵 | 折戸 甚太郎 | 川道 季次郎 |
輪島 桃蔵 | 岸田 重次 | 輪島 初太郎 | 阿部 豊次郎 | 阿部 徳松 |
輪島 久太郎 | 能登 仁左衛門 | 輪島 宇市 | 西浜 マサ | 坪谷 治左衛門 |
上谷 柏太郎 | 宮川 鉄三郎 | 佐々木 亀吉 | 佐藤 庄吉 | 佐野 四平佐 |
阿部 兵左衛門 | 花田 藤松 | 知本 吾吉 | 井口 源右衛門 | 飛野 国蔵 |
阿部 善七 | 甲谷 ナヨ | 輪島 由松 | 植杉 廣吉 | 斎藤 儀八 |
近藤 熊次郎 | 佐藤 利作 | 中島 庄次郎 | 若松 善次郎 | 桜井 甚作 |
伊藤 常五郎 | 近江 芳吉 | 小倉 作蔵 | 対馬 惣助 | 寺島 善兵衛 |
風間 サク | 尾山 米三郎 | 池浦 熊太郎 | 工藤 常男 | 磯部 清三郎 |
前田 栄二郎 | 村田 源八 | 梶川 勝三郎 | 川道 為三郎 | 平沢 藤十 |
荒井 ナカ | 輪島 彦市 | 佐々木 繁蔵 | 清水 菊之助 | 西田 三次郎 |
川村 留吉 | 井川 又次郎 | 桂川 末作 | 木村 惣吉 | 田中 久四郎 |
福原 石松 | 佐々木 留吉 | 西村 弥右衛門 | 笠島 伝右衛門 | 長内 福太郎 |
油谷 留太郎 | 長内 房吉 | 住川 留吉 | 笹森 林作 | 中島 力松 |
佐藤 豊作 | 佐藤 菊治郎 | 秋田 仁三郎 | 本間 六太郎 | 平沢 福蔵 |
小黒 金右衛門 | 杉村 三郎 | 天満 豊太郎 | 亀谷 由造 | 手塚 藤八 |
川道 栄三郎 | 猪股 竜太郎 | 坪谷 徳次 | 新川 荘太郎 | 川木 良蔵 |
岩浦 豆吉 | 関村 末太郎 | 佐藤 留蔵 | 佐々木 松太郎 | 平井 留八 |
平井 久蔵 | 吉田 梅吉 | 久保市 金蔵 | 藤巻 喜三郎 | 井川 奥右衛門 |
寺谷 福次郎 | 山 万助 | 新谷 由蔵 | ||
大須田 捨次郎 | 目谷 宅蔵 | 佐藤 利八 | ||
刀禰 長太郎 | 石橋 悟良 | 南條 勧 | 加藤 虎五郎 | 森 太右衛門 |
滝沢 竹五郎 | 稲船 恭助 | 田畑 宇三郎 | 松田 又五郎 | 工藤 又吉 |
伊吹 徳治郎 | 手塚 米作 | 本庄 兼太郎 | 藤谷 房太郎 | 田中 直作 |
加藤 豊松 | 平沢 長太郎 | 佐藤 富左衛門 | 平沢 梅吉 | 亀田谷 勝蔵 |
野上 嘉七 | 布谷 ヒテ | 佐藤 徳太郎 | 藤本 善太郎 | 田中 茂次郎 |
工藤 与助 | 青木 利三郎 | 青木 久次郎 | 藤谷 政治 | 田村 作三郎 |
大須田 助五郎 | 山崎 宗太郎 | 広瀬 己之松 | 松尾 米吉 | 増田 良平 |
下倉 藤六 | 前田 与三 | 高井 幸次郎 | 徳光 嘉七郎 | 田村 小三郎 |
佐々木 市太郎 | 木村 イセ | 宮下 豊蔵 | 永井 才次郎 | 宮本 福太郎 |
塩谷 栄太郎 | 田井中 土佐夫 | 畑中 由太郎 | 畑中 松太郎 | 土谷 房蔵 |
佐野 長太郎 | 田村 多次郎 | 四方 多作 | 目谷 又右衛門 | 佐藤 倉蔵 |
小林 長五郎 | 藤原 留吉 | 加藤 長吉 | 田畑 兼松 | 笠原 又吉 |
滝沢 接太郎 | 長内 権蔵 | 小笠原 八太郎 | 長内 兵右衛門 | 田畑 熊五郎 |
坂井 与次郎 | 稲舟 安太郎 | 正司 津加佐 | 山田 惣五平 | 本堂 玉蔵 |
山田 福蔵 | 稲舟 浅吉 | 門脇 伴次郎 | 浅井 浅次郎 | 油谷 徳太郎 |
山田 吉松 | 東谷 角蔵 | 本村 石太郎 | 笹森 トメ | 手塚 秀蔵 |
杉村 ヨシ | 中島 直吉 | 池浦 精磨 | 荒谷 甚太郎 | 沼浪 勝蔵 |
北川 惣作 | 曽我 三吉 | 加藤 徳蔵 | 加藤 常蔵 | 藤谷 治助 |
杉村 留蔵 | 成田 栄太郎 | 川上 喜代郎 | 笹森 末太郎 | 小坂 勇蔵 |
徳光 長作 | 増川 梅吉 | 山下 房造 | 酒谷 繁三郎 | 木元 重次郎 |
大須田 徳太郎 | 岩藤 見吉 | 折戸 モン | 越野 清助 | 大須田 福太郎 |
白土 茂七 | 神 勝太郎 | 渡辺 謙太郎 | 辻木 利作 | 泉谷 得三郎 |
岩藤 豊作 | 池端 岩次郎 | 山崎 作蔵 | 田村 多助 | 佐々木 秋蔵 |
菊池 多作 | 佐藤 久治 | 山下 光二郎 | 坂本 与右衛門 | 磯島 藤太郎 |
伊藤 力太郎 | 林 甚三郎 | 笠原 定次郎 | 中村 篤三郎 | 輪島 善之助 |
小川 吉次郎 | 草野 サト | 井川 久作 | 中村 巣五郎 | 土谷 鶴松 |
馬谷 安太郎 | 林 タケ | 広瀬 倉作 | 飯田 林作 | 井川 利作 |
輪島 三郎 | 遠藤 長五郎 | 岩松 由次郎 | 加藤 秀三郎 | 加茂 マサ |
上杉 栄作 | 黒丸 宇吉 | 馬谷 常太郎 | 和田 利吉 | 子塚 伝九郎 |
酒谷 佐太郎 | 余湖 金平 | 上田 増蔵 | 伊藤 勇蔵 | 福田 勇吉 |
刀禰 藤蔵 | 林 房太郎 | 林 浅吉 | 山吹 ツエ | 西村 政蔵 |
神馬 猪太郎 | 脇浜 佐平 | 山本 松太郎 | 太田 万之助 | 越後谷 栄作 |
相原 留五郎 | 下島 万次郎 | 吉田 留松 | 数馬 又吉 | 高野 直吉 |
鎌田 鶴蔵 | 平山 平吉 | 滝沢 八兵衛 | 畠山 永助 | 滝沢 岩次郎 |
原 麟三郎 | 川瀬 由太郎 | 藤谷 猪之丞 | 野口 甚兵衛 | 松尾 独門 |
成田 留造 | 小山 ヨシノ | 島谷 与助 | 中山 劫 | 戸田 徳太郎 |
伊藤 民蔵 | 本谷 与太郎 | 川道 達右衛門 | 川道 宇佐吉 | 笹森 岩吉 |
田村 桃太郎 | 佐々木 金太郎 | 小林 武寿 | 笹森 シナ | 輪島 辰蔵 |
竹之内 藤太郎 | 山 安太郎 | 浜野 為七郎 | 中谷 栄太郎 | 加茂 万治 |
能登 石之助 | 山口 徳之助 | 佐々木 熊五郎 | 川原田 勇吉 | 泉 太三郎 |
西田 俊太郎 | 小林 金次郎 | 若山 幸吉 | 増山 仁三郎 | 桂川 石松 |
宮下 慶松 | 越後谷 庄太郎 | 山岸 佐吉 | 和泉 駒吉 | 長内 金作 |
稲舟 権蔵 | 泉 常蔵 | 滝沢 清太郎 | 工藤 勘助 | 富谷 権六 |
三関 栄吉 | 山田 友吉 | 楽 順道 | 越野 大興 | 菅野 善夫 |
稲舟 幸三郎 | 中岡 イサ | 木下 豊吉 | 滝沢 亀太郎 | 金子 栄吉 |
田村 金次郎 | 佐藤 常吉 | 岩浦 清次郎 | 宮内 半蔵 | 市川 儀助 |
藤谷 幸作 | 成田 常太郎 | 木戸 甚助 | 野ロ キセ | 小山 林作 |
岸部 三四郎 | 三国 多助 | 山下 専助 | 川道 友蔵 | 森 幸太郎 |
鈴木 福松 | 古谷 松太郎 | 藤本 トメ | 東 リエ | 足立 惣太郎 |
小山 ヨシ | 高木 清太郎 | 山崎 徳太郎 | 秋野 惣兵衛 | 上野 久太郎 |
三上 定吉 | 網谷 銀蔵 | 小野寺 マシ | 松田 清助 | 岸田 喜蔵 |
戸田 トミ | 石森 由松 | 福田 栄吉 | 河部 作次郎 | 宮本 才太郎 |
凡谷 市之助 | 小山 久吉 | 増川 久太郎 | 藤田 吉三郎 | 輪島 才四郎 |
横田 浅吉 | 樋野 栄作 | 佐藤 平八 | 石田 重郎兵衛 | 土谷 末蔵 |
笹木 市太郎 | 加藤 清五郎 | 天木 喜助 | 増川 栄作 | 阿部 久七 |
藤田 末吉 | 畑中 好太郎 | 大志田 一ニ | 小巻 吉蔵 | 赤泊 政太郎 |
今井 栄吉 | 加藤 利吉 | 小西 彦作 | 清水 甚兵衛 | 菊池 政吉 |
小林 寅吉 | 万平 良太郎 | 岩佐 要治 | 寒長 平太郎 | 木村 友作 |
久米 君太郎 | 荒井 定太郎 | 大志田 チヨ | 小島 九右衛門 | 角谷 熊七郎 |
佐藤 竹治 | 及川 忠兵衛 | 加藤 政吉 | 宮島 常太郎 | 他之谷 権兵衛 |
岸田 嘉太郎 | 長谷川 清夫 | 佐野 吉郎 | 佐野 弥太郎 | 沢口 宇佐吉 |
竹之内 宇吉 | 小川 幸三郎 | 刀禰 藤吉 | 畑中 宇佐吉 | 林 小三郎 |
永井 国太郎 | 紅谷 栄太郎 | 竹村 菊太郎 | 佐藤 五郎吉 | 木村 佐与吉 |
佐野 春先 | 大畑 三力 | 山本 米次郎 | 佐野 政太郎 | 紺谷 市右衛門 |
斎藤 銀八 | 新岡 シマ | 西川 清太郎 | 西村 由松 | 木村 松三郎 |
石岡 長吉 | 大木 キセ | 長尾 ヒデ | 福原 甚助 | 藤村 忠兵衛 |
四平 由蔵 | 小林 為八 | 日角 平治 | 大家 幸太郎 | 藤井 徳三郎 |
古木 亀吉 | 荒野 吉蔵 | 高橋 伊助 | 田村 良之助 | 門脇 トキ |
門脇 久太郎 | 高橋 松三郎 | 田辺 文太郎 | 斎藤 長次郎 | 岸部 佐之吉 |
佐藤 佐代吉 | 岸部 ジン | 斎藤 市五郎 | 成田 歳七 | 荒谷 福造 |
笹森 栄太郎 | 熊谷 貞助 | 神原 勝太郎 | 飯田 シノ | 藤谷 市五郎 |
佐沢 与七 | 土谷 勝太郎 | 佐藤 勝太郎 | 木村 菊太郎 | 星 猪多 |
平沢 善治 | 桂 末次郎 | 後藤 奇嶽 | 金沢 扇雄 | 西谷 カン |
辻見 極太郎 | 吉崎 繁雄 | 森 春松 | 輪島 由太郎 | 川道 春吉 |
野坂 利作 | 輪島 重太郎 | 岩藤 シノ | 石塚 寅次郎 | 大島 政吉 |
日浦 千太郎 | 伊賀物 太郎 | 日景 徳松 | 大島 政吉 | 尾野 秀三郎 |
浜 村吉 | 能登 又太郎 | 阿部 市太郎 | 横田 ソヨ | 能登 三郎 |
池田 リツ | 荒谷 金五郎 | 三上 定吉 | 館谷 権三郎 | 平井 孫兵衛 |
七戸 常吉 | 小牧 林蔵 | 平井 松太郎 | 藤谷 清次郎 | 廣沢 キソ |
大野 熊次郎 | 田村 忠雄 | 高橋 寅松 | 小佐 スヱ | 対馬 勘九郎 |
古川 道順 | 新扨 栄太郎 | 赤泊 音五郎 | 庄内 丈吉 | 新谷 栄作 |
広瀬 秋蔵 | 高田 亀太郎 | 松前 森松 | 佐藤 浅造 | 磯島 秀太郎 |
杉本 テイ | 村上 源作 | ■(丸弘)漬物屋 | 小笠原 文蔵 | 成田 勝之助 |
下斗目 寅古 | 酒谷 治郎作 | 目谷 佐市郎 | 酒谷 友吉 | 酒谷 角太郎 |
岩佐 ジュン | 渡辺 久治 | 古谷 嘉四郎 | 大高 政太郎 | 工藤 平吉 |
中沢 ユキ | 坂本 留五郎 | 豊島 萬平 | 酒谷 忠助 | 杉村 伝次郎 |
目谷 房五郎 | 沢谷 弁六 | 木村 与平次 | 種田 慶吉 | 永井 久八 |
干場 松太郎 | 永井 長作 | 小西 長吉 | 町中 与四郎 | 飯田 宰作 |
酒谷 長作 | 永井 長次郎 | 伊藤 虎吉 | 大江 源右衛門 | 古多 八郎 |
西川 友太郎 | 加藤 末太郎 | 渡辺 音吉 | 小林 キヨ | 斎藤 武 |
板橋 里乃 | 秋田 ミヨ | 田中 淳次郎 | 土谷 五郎治 | 篠塚 繁太郎 |
田中 久三郎 | 近江 重太郎 | 佐藤 惣次郎 | 桂川 按三郎 | 飯田 清造 |
小山 松三郎 | 高橋 豊治郎 | 小浜 幸吉 | 小山 直蔵 | 成田 弁作 |
中川 金次郎 | 小山 栄作 | 山田 勇蔵 | 篠塚 幸三郎 | 明石 亀太郎 |
亀田 サナ | 工藤 栄五郎 | 笹谷 定吉 | 佐藤 幸三郎 | 佐藤 宗三郎 |
石田 石太郎 | 平沢 喜代太郎 | 笹森 二三郎 | 天満 長吉 | 杉村 勝蔵 |
藤谷 弁治 | 寺島 為次郎 | 天満 幸作 | 天満 与左衛門 | 田附 米吉 |
中島 雄太郎 | 手塚 ソワ | 中島 ミヨ | 荒谷 夕子 | 酒井 五三郎 |
野口 作太郎 | 笹谷 永吉 | 石田 キヨ | 小寺 八十八 | 船谷門 重太郎 |
小山 弥五郎 | 猪谷 甚三郎 | 野ロ マメ | 宮本 清助 | 川道 佐吉 |
林 捨太郎 | 花沢 徳蔵 | 赤泊 ヨシ | 今川 シナ | 斎藤 金太郎 |
原 利生 | 天満 邸伊之助 | 野呂 恒吉 | 猪又 トキ | 疋田 勇吉 |
高橋 永里 | 小西 ナヲ | 疋田 利吉郎 | 坂口 弥吉 | 川田 喜三郎 |
菅谷 栄次郎 | 阿部 幸七 | 田村 才助 | 荒谷 末太郎 | 松尾 ミ子 |
杉本 運蔵 | 輪島 惣作 | 松田 孫市 | 坂本 重作 | 小梅 六蔵 |
土谷 林蔵 | 小西 権八 | 戸沢 長七 | 田附 茂右衛門 | 石戸 ナツ |
土谷 末蔵 | 神 留五郎 | 渡辺 従三郎 | 山下 要次郎 | 川合 寅吉 |
本間 久八 | 岩藤 ユヱ | 玉館 直吉 | 小倉 宅蔵 | 中村 佐十郎 |
工藤 多七 | 岩藤 佐之吉 | 佐藤 市太郎 | 佐藤 勝太郎 | 宮本 常太郎 |
篠原 政次郎 | 安友 八左衛門 | 神 国太郎 | 宮島 才治郎 | 加藤 作治郎 |
佐々木 佐吉 | 小西 三蔵 | 宮島 増太郎 | 熊谷 菊太郎 | 館坂 鍬治 |
上野 作松 | 竹中 庄太郎 | 星野 儀一郎 | 木村 三之助 | 青坂 利作 |
青坂 トキ | 星野 慶五郎 | 矢敷 勇治 | 荒井 寅太郎 | 緑 栄太郎 |
与谷 チエ | 紺谷 勝太郎 | 斎藤 留太郎 | 畑中 利作 | 常戸 ミワ |
川本 栄太郎 | 井川 寛蔵 | 田井中 多三吉 | 廣瀬 キン | 野谷 嘉七 |
野谷 伝左衛門 | 酒谷 治郎 | 笠谷 スケ | 半助 キヨ | 稲葉 ヤヱ |
小山 宗吉 | 小山 長吉 | 丸谷 二男太郎 | 佐藤 直吉 | 本庄 兼吉 |
鈴木 兼次郎 | 酒谷 桐太郎 | 西田 官蔵 | 山川 勇次 | 山本 伊佐吉 |
田崎 政治郎 | 阿部 藤作 | 酒谷 半蔵 | 野口 石松 | 杉本 力蔵 |
山本 宇三郎 | 須藤 スワ | 川村 ヲサ | 沢田 千代吉 | 鈴木 八太郎 |
渡辺 米蔵 | 種田 豊作 | 坂井 丑松 | 安岡 トサ | 横田 米太郎 |
井川 チヨ | 輪島 子サ | 輪島 留太郎 | 東 甚吉 | 松平 七左衛門 |
山之上 文右衛門 | 安岡 幸市 | 東 座太郎 | 吉田 卜ミ | 中村 留蔵 |
萩原 幸吉 | 西田 治三郎 | 古坂 キシ | 新谷 七五郎 | 干場 栄太郎 |
永井 幾太郎 | 山田 嘉太郎 | 林 宇佐吉 | 桂川 六太郎 | 西川 常太郎 |
高橋 粂助 | 小笠原 福松 | 長尾 己之作 | 菊池 利助 | 佐藤 安太郎 |
高橋 シエ | 中村 利吉 | 井上 リマ | 駒井 ツセ | 坂谷 惣一郎 |
沢田 留造 | 佐藤 寅吉 | 野ロ ナカ | 成田 ツル | 奥野 フヨ |
山本 松治 | 川上 末松 | 山口 金治郎 | 八木 金太郎 | 経亀 孫治 |
天満 二三郎 | 丸谷 安太郎 | 飯田 重治郎 | 中島 竹治郎 | 大崖 武治 |
小山 リカ | 笹森 マン | 秋田 小太郎 | 荒谷 ナツ | 杉野 岩松 |
瀬戸 慶助 | 伊勢 伊三郎 | 渡辺 庄五郎 | 佐野 キサ | 島谷 みし |
加藤 豊太郎 | 佐藤 シュン | 海老名 福太郎 | 矢部 ミネ | 磯野 甚吉 |
杉村 コヨ | 石田 ヨシ | |||
佐野 キサ | 尾家 チエ | 野上 トメ | 石田 ヨシ | 杉村 コヨ |
近藤 末太郎 | 岸田 貞三 | 原 重次郎 | 秋山 安蔵 | 田村 円似 |
能登 力蔵 | 新 仁右衛門 | 岩佐 六郎 | 加藤 卜ミ | 福田 栄吉 |
玉館 松太郎 | 猩々谷 金蔵 | 渡辺 庄五郎 | 古川 玉吉 | 上野 熊助 |
青坂 朝太郎 | 田中 穣一 | 輪島 留五郎 | 輪島 梅太郎 | 伊勢谷 仁兵衛 |
小山 甚吉 | 酒谷 清 | 山崎 栄太郎 | 畑中 春蔵 | 輪島 常太郎 |
伊藤 宇三郎 | 佐藤 シュン | 持田 竹蔵 | 鈴木 宇之吉 | 松本 伝兵衛 |
福原 石五郎 | 梅本 ツヤ | 小川 治三郎 | 岸田 与三郎 | 岸部 佐之吉 |
藤谷 謙太郎 | 手塚 由太郎 | 三国 甚吉 | 荒谷 キエ | 増田 幸太郎 |
笹森 幾太郎 | 佐藤 徳蔵 | 中井 マメ | 石田 栄七 | 斎藤 由松 |
工藤 キシ | 斎藤 石松 | 赤泊 五兵衛 | (納税者総計1062人) |
明治35年4月1日熊石村長に清水菊之助か発令され、以来、明治年代に於ける歴代村長は次の4人である。
代 | 氏名 | 就任年月 | 退任年月 | 在職年月 |
1 | 清水 菊之助 | 明35・ 4 | 明39・ 3 | 4・0 |
2 | 大瀬直次郎 | 〃39・ 4 | 〃41・ 3 | 2・0 |
3 | 上田 周 | 〃41・ 4 | 〃41・11 | 0・7 |
4 | 泉 慶一郎 | 〃41・12 | 大 5・ 1 | 8・0 |
また、職員は、
明治35年より40年まで
収入役 佐野 四右衛門(38年まで)
上席書記 磯島書記、中村書記
明治41年より42年まで
収入役 岸田 起志太郎
上席書記 佐藤書記、磯島、松根書記(41年中磯島、松根書記に替り加藤、大江書記となる)
であるが、明治42年末時点では
村長 泉 慶一郎
収入役 岸田 起志太郎
上席書記 佐藤 久治
書記 加藤 秀三郎、大江 勇松、亀谷 彦作
付属員 佐野 昌平
村医 兒島 勝郎、吉川 省三、竹田 直一
使丁 林 甚蔵
である。明治45年(大正元年)末には書記定員が1名増加し、
村長 泉 慶一郎
収入役 岸田 起志太郎
上席書記 佐藤 久治
書記 加藤 秀三郎、佐野 勇松、佐野 昌平
付属員 兒島 高次郎
使丁 熊谷 甚蔵
となっている。
部長制の運営
第1回熊石村会で議案第4号として部長規則が可決された。これは村行政の補完として各部落にあって、村行政の滲透のため、窓口的役割を果すという名誉職であった。議決された規則は次のとおりである。
部長規則
本村ノ区域ヲ左ノ四部ニ分ケ各部ニ部長一名ヲ置ク
名称 区域
第1部 大字熊石村字鮎溜、平田内、畳岩、中歌、畑中、幌目、便ノ澗
第2部 大字熊石村字横澗、岡下、丸山
第3部 熊石村字泊川村
第4部 熊石村大字相沼内村
の4部であって、この名誉職吏員の費用弁償手当は年拾弐円と定められている。しかし、この各部長の選任者の氏名は不明である。
この4部制に対して熊石本村地域は広範で一人の部長での職務遂行は困難を来す恐れがあり、部長定数の増加について第2回村会一任となったので、委員3名を上げて調査した結果、部長は6名で実施することが決定した。
その調査報告書は次のとおりである。
第二回村会ニ於テ嘱托セラレタル
部長設置ノ件ヲ左ノ如ク調査セリ
熊石村部長ヲ六名ヲ置キ左ノ区域ニヨリ配置セントス
大字相沼内 一人
大字泊川 一人
支関内 一人
字丸山、幌目、便ノ澗、畑中 一人
中歌、両掛澗 一人
畳岩、平田内、鮎溜 一人
部長ハ各年額金拾弐円ノ手当金ヲ給ス右調査候也
明治三十五年拾月二十八日
委員 佐野 英吉■(角印)
同 加藤 幸作■(丸印)
同 佐野 半之丞■(角印)
として6部制を採用している。
しかし、村役場の職員数は限定されており、村政の村内滲透と、現地窓口事務の補完のため部長の村内均等配分がしばしば問題となり、明治36年の第1回村議で、6部制を14部と大幅に充実することを議決している。
その内容は
部長規則改正ノ件
本村ノ区域ヲ左ノ十四部ニ分ケ毎部ニ部長一名ヲ置ク
名称 区域
第1部 大字熊石村字東掛澗
第2部 大字熊石村字西掛澗
第3部 大字熊石村字中歌
第4部 大字熊石村字畑中
第5部 大字熊石村字幌目
第6部 大字熊石村字便ノ澗
第7部 大字熊石村字丸山
第8部 大字熊石村字岡下
第9部 大字熊石村字横澗
第10部 大字熊石村字畳岩
第11部 大字熊石村字平田内
第12部 大字熊石村字鮎溜
第13部 大字泊川村
第14部 大字相沼内村
とし、報酬としての実費弁償も年12円であったものを大幅に改正し第1部長から第12部長までは年額1円とし、第13部長(泊川村)、第14部長は村役場の支所長的業務が多いので1か年拾弐円と改正している。
さらに明治39年には第13、14部長の事務輻輳を緩和するため、次の様に改正している。
議案第拾号
部長規則改正ノ件
部長規則中左ノ如ク改正ス
第13部 大字泊川村自字見市-至字大谷地
第14部 大宇治川村自字人性内-至字黒岩
第15部 大字泊川村自字冷水-至字大澗
第16部 大字相沼内村自五小澗-至字中歌
第17部 大字相沼内村自字津花-至字喜楽町 付近各字ヲ包含ス
第18部 大字相沼内村字折戸 付近各字ヲ包含ス
明治三十九年一月二十九日提出
熊石村長 清水 菊之助
この結果、部長の名誉職吏員の実費弁償は全く廃止となり、部長は無報償で村政に協力することになったが、明治42年6月4日発令された各部長は次のとおりである。(自明治42年辞令簿による)
第1部長 大坂 梅太郎
第2部長 工藤 常男
第3部長 刀根 重吉
第4部長 大塚 要吉
第5部長 佐藤 富蔵
第6部長 平井 由太郎
第7部長 田村 万蔵
第8部長 本間 兼蔵
第9部長 泉谷 又助
第10部長 輪島 留五郎
第11部長 川村 留吉
第12部長 林 房太郎
第13部長 竹沢 勇太郎
第14部長 土谷 駒吉
第15部長 天満 源蔵
第16部長 山田 六右衛門
第17部長 山田 和吉
第18部長 稲船 権兵衛
が任命され、第1部長から第12部長までは年手当金1円五10銭、第13部長より第18部長までは年手当金6円と決定している。
村会の運営 村会議員は
第1次村会議員 (任期 明治35年6月より明治37年5月まで)
佐野 半之丞、天満 与吉、加藤 幸作、板谷 菊太郎、佐野 英吉、岸田 久四郎、田村 市太郎、大塚 要吉、八町 忠吉、林 政太郎(他に2名あると思われるが不明)
第2次村会議員(任期 明治37年6月より明治39年5月まで)
中島 宗太郎、板谷 菊太郎、林 政太郎、佐野 半之丞、林 政太郎、岸田 久四郎、加藤 幸作、山田 万吉、山田 和吉、八町 忠吉、岩見 安太郎(他に1名あると思われるが不明)
第3次村会議員(任期 明治39年6月より明治41年5月まで)
佐藤 三六、佐野 半之丞、八町 忠吉、山田 万吉、山田 金五郎、加藤 幸作、佐野 四右衛門、山田 和吉、久保田 富五郎、中川 亀蔵、信田 奥次郎、岸田 久四郎
第4次村会議員(任期 明治41年6月より明治43年5月まで)
山田 和吉、久保田 富五郎、佐野 半之丞、中川 亀蔵、八町 忠吉、佐野 四右衛門、大坂 秀三郎、加藤 藤太郎、信田 奥次郎、山田 万吉、大塚 要吉、岸田 久四郎
第5次村会議員(任期 明治43年6月より明治45年5月まで)
一番佐野 半之丞、二番佐々木 吉三郎、三番八町 忠吉、四番佐野 四右衛門、五番信田 奥次郎、六番山田 和吉、七番中川 亀蔵、八番大阪 秀三郎、九番久保田 富五郎、十番大塚 要吉、十一番岩見 安太郎、十二番岸田 久四郎
6月29日辰野徳太郎補欠当選
第6次村会議員(任期 明治45年6月より大正2年5月まで)
一番中川 亀蔵、二番加藤 藤太郎、三番佐野 半之丞、四番田村 一次、五番沼浪 藤吉、六番山田 和吉、七番山田 万吉、八番大塚 要吉、九番岩見 安太郎、十番八町 忠吉、十一番岸田 久四郎、十二番沢野 春吉
この明治未の明治45年の第6次選挙までの間、明治35年の第1回選挙からの連続当選者は佐野半之丞、岸田久回郎、八町忠吉等である。村会の議長は村長が自動的に法制化され、収入役、書記等は番外の説明員として出席した。村会議員は名誉職で月額報償はなく、実費弁償として相沼内、泊川地区より選出された議員は宿泊料込で日額80銭、居住地より一里(4キロ)未満の本村地区議員は25銭が給与された。
議員の多くは生業を持っていて村会の出席率が極めて悪く、流会となったり、流会寸前に議員捜しに吏員が村内を駆け回ることはしばしばであった。この悪弊を直そうとする議員もいて、明治37年には次のような建議案が出されている。
建議案
無届欠席議員ニ制裁ヲ加フル件
第一回村会開催以来毎回無届欠席者ノアラサルナク為メニ屢々休会トナリ又流会トナリ再開会ノ止ム可カラサルニ至ルカクノコトキハ村政機関ヲ遅滞セシメ延ヒテ村行政ニ及ボシ処ノ支障尠カラサルコトニ有之依テ之レカ制裁ヲ加へ其弊ヲ矯メント欲ス制裁ノ條件ニ至テハ本月十二日村会ニ無届欠席者ニ対シ金壱円九拾五銭ノ過怠金ヲ徴スルコトニセン
明治三十七年二月十二日
建議者 佐野 半之丞■(角印)
賛成者 板谷 菊太郎■(丸印)
熊石村長 清水 菊之助 殿
この建議案が採択された結果か、熊石村の議会関係書類には、議員自筆の欠席届が多く綴り込まれている。予算案の上提については予算書類の付記説明には、その算出根拠を紙何枚、筆何本まで詳細に記入しているので、商売を営んでいる議員達はその単価の誤りを指摘して予算金額の改訂を求めるものがあったり、また、地方費から俸給を受けている村長に議会が予算を更生して村長に特別報償金を出したりしている。
明治43年10月30日の第45回村会会議録によれば、第2読会に於て、
第十番(佐野半之丞、) 本員ハ原案ニ対シテ少シク修正ヲ加ヘタキ点アルハ外テモアリマセンガ諸君ニ於テモ御承知ノ通リ昨年来本村ニ於テ頗ル重大ナ事業ニ着手シテ居リマス雲石校ノ改築問題ト伝ヘ本村ヨリ八雲ニ連スル道路開鑿問題ト云ヘ其他種々ノ問題アリタル中ニモ前記ノ二問題ハ本村ニ取リ特ニ重大ナルヲ感スルノテ有リマス而シ各員及村民ノ熱誠ニ依リテ何レモ好都合ニ進渉シテ居リマスノハ御同様満足ノ至リニ堪ヘマセン而シ斯ク好都合ニ運ヒツヽアルノハ村民ノ熱誠モ有リマシヨウケレトモ之ヲ指導シマスル当局者ニ其人ヲ得マセンケレハ本問題ノ如キ今日迄ニ斯ク好都合ニ運フコトハ出来ナカロウト考ヘラレマス殊ニ理事者ニ於テハ昨年末二回モ出札セラレ其筋ニ向テ極力請願セラレタルハ本問題ニ取リ非常ニカアリタルコトト思ヒマス本問題ハ斯ノ如ニシテ今日ニ至タノテアリマシカ其間理事者ノ苦心経営ハ申ニ及ハス経費ノ如キ規定之旅費額ニテハ到底完全ナル尽力ハ得テ望ムヘカラサル次第ナルヲ以テ本員ハ茲ニ村民ノ意思ヲ代表シ理事者ニ向テ相当慰労ノ方法ヲ講セントス其方法トシテ本案予備費ヨリ百円ヲ削除シ第一款役場費二項雑給四目慰労費ヘ百円ヲ増額セントス理事者ニ対シテハ失礼ナランモ村民ノ熱誠ナル意思ノ有ル所ヲ酌量セラレ御承諾アランコトヲ希望ス又諸君ニ於テモ本員ノ修正ニ御賛成セラレンコトヲ併テ希望シマス
第十一番(中川亀蔵) 第十番ノ修正説ニ賛成
第九番(山田万吉) 第十番説ニ賛成
第三番(八町忠吉) 第十番説ニ賛成
第二番(大塚要吉) 第十番説ニ賛成
理事者(村長泉慶一郎) 唯今第十番ヨリ本職ニ対シ非常ノ優遇方法ヲ講セラレタルニ対シテ諸君ノ中ニテモ多大ノ賛成モ有ルカ本職ハ自己ノ職責上当然尽スヘキ事ヲ尽シタル迄ニテ斯ル優遇ヲ受クルハ頗ル心苦シキ次第ニ付折角ノ御厚意ハ深謝スルモ其方法ニ就テハ断然拒絶シマスカラ何卒不悪御合ノ上本修正案ヲ撤回サレンコトヲ希望シマス
第十番(佐野半之丞) 唯今理事者ヨリ辞退セラレタルモ職務上或ハ御迷惑ナランモ特ニ村民ヨリ誠心誠意ヲ以テ聊カ其労ニ酬ヘントスルモノナルヲ以テ特ニ御承認ヲ請フ
第六番(岩見安太郎) 第十番説ニ賛成
第七番(山田和吉) 第十番説ニ賛成
第一番(辰野徳太郎) 第十番説ニ賛成
第十番(佐野半之丞) 全会一致ノ賛成アル次第ニ付特ニ御承認ヲ諸フ
理事者 唯今第十番及其他ノ諸君ヨリ不肖ニ対シテ斯ク迄優遇セラルハ誠感謝ニ堪ヘサル次第ナルモ経費多端ノ場合ニ付不肖ヲ斯ク優遇セラルヽノ費途ヲ以テ他ノ必須ノ経費使用セラレンコトヲ切望ス併テ諸君ノ厚意ヲ謝シ尚将来自己ノ職責ヲ忠実ニ尽サンコトヲ堅ク誓テ置キマス
第六番(岩見安太郎) 休憩ヲ希望ス
議長 休憩ヲ宣告ス
(休 憩)
議長 引続開会ヲ宣告ス
第六番 他ニ異議ナキ様認メラルヽヲ以テ直ニ採決セラレンコトヲ希望ス
第十番 予備費ノ内ヨリ百円ヲ減シ第一款役場費二項雑給四目慰労費へ百円増額ノ件ハ他ニ異議ナキヲ以テ第六番説ノ採決ヲ希望ス
議長 他ニ異議ナキヲ見テ採決ス
本案全部通シテ第十番ノ修正説ニ賛成者ヲ起立ニ問フ
起立者 総数
で、泉村長の雲石尋常高等小学校の建築、八熊道路等村内の重大懸案を解決し、村民の絶大な信頼に対する村民の感謝の表れとして、この慰労金が贈られたものである。この泉村長は官選村長としては最も長く在任し、明治41年12月より大正5年1月まで8か年間村長として活躍した。
また、大正元年12月の更正予算(補正)の定例議会では村会議員が仮議長となって、村会を開会している。
泉村長は体が弱い人だったが、この議会に病欠したため、議員中で互選により仮議長を決め、議事を運営しているが、その際の仮議長は佐野半之丞・岸田久四郎である。
明治36年より明治45年までの間の村会の主な議件は、予算案、税制等を除き、次のようなものであった。
明治三十六年
o川成地免税ノ件
o寄付願承認之件
秋田勝三郎より本二冊雲石小学校へ寄付、磯島治左衛門中歌二十三番地へ建設ノ便所一棟公用ニ寄付。
o農会費補助ノ件 (金百円)
o熊石村有給吏員退隠料退職給与金及遺族扶助料規則
o寄付願承認之件
八町忠告一円七十五銭、田村市太郎二円、佐野半之丞一円七十五銭雲石小学校改築費ニ寄付。
o村医継続契約之件
村医田中穣一本月満期
o熊石村基本財産管理規則改正ノ件
o熊石村有金員土地建物貸付規則
o斃獣捨場設置ノ件
o土地継続使用出願ノ件
o寄付願承認ノ件
安本円海ヨリ五円雲石小学校蓄積金へ寄付。
明治37年
o熊石村相沼内村消防組変更ノ件
熊石村消防組ヲ二部ニ分置
一部 大字熊石村一円
二部 大字泊川村大字相沼内村一円
消防組員ノ数 百三十一名
組頭 一名
毎部ニ部長 一名
小頭 四名
消防手 六十名
o熊石村立病院設置ノ件
村医ヲ全廃シ字畳岩三番地所有建物ヲ病院ニ充テ、大字相沼内村字館平村有建物ヲ出診所トシテ三十七年度ヨリ実施
o熊石村立病院薬価其他収入徴収規程
o熊石村立病院職員俸給及旅費支給規則
o熊石村村医廃止ノ件
o小学校尋常科中裁縫科廃止ノ件
o消防組定数変更ノ件
消防組員ノ数 百二十一名
組頭 一名
小頭 四名宛
消防手 五十六名宛
o寄付願承認ノ件
中川亀蔵金三円関内小学校備品費ヘ、山田六右衛門外四十九名館平二十一番地ヘ建設ノ柾葺建家一棟(出診所)、安本円海金五円雲石小学校積立金ヘ。
o寄付願承認ノ件
佐野四右衛門熊石村歳入経常費ニ金百円
o町村出納臨時委員二名選挙ノ件
o民有建物買上ノ件
字岡下民有建物充用ノ関内巡査駐在所用トシテ村買上ゲ
明治三十八年
o戦死者村葬ノ件
o寄付願承認ノ件
島谷喜平撃剣道具壱組竹刀二本相沼小学校運動具トシテ、荒井定太郎ヨリ杉苗七百本、松苗三百本官石小学校植栽用トシテ
o貸付地変更ノ件
o熊石村議員実費弁償額及其支給方法
o熊石村基本財産特別会計規則
明治三十九年
o熊石村収入役付属員給料額旅費額及其支給方法ノ件
o部長規則改正ノ件
泊川村三部、相沼内村三部計十八部トナル。
o名誉職吏員実費弁償額及其支給方法廃止ノ件
o名誉職吏員実費弁償額及其支給方法(改正案)
o熊石村手数料徴収規則(改正案)
o消防組変更之件
消防組消防手ヲ各部六十名トシ、第二部編成地域ヲ大字泊川村、大字相沼内村トス
o積立ツヘキ金額ヲ歳入ニ編入シ支消スルノ件
o寄付願承認之件
新林仁蔵ヨリ雲石小学校身体検査器械購入費ヘ金二十四円
明治四十年(関係資料ナク不明)
明治四十一年
o熊石村会議員実費弁償額及其支給方法中改正ノ件
o小学校授業料徴収方法中改正ノ件
o学務委員補欠(二名)選挙ノ件
o相沼小学校増築ノ件
o関内小学校増築ノ件
o出納臨時検査立会人選挙ノ件
o一時借入金ノ件
o熊石村公法上ノ収入徴収ニ関スル規則
o産業実地視察ノ件(見合セルコトニ決定)
o学校創立費寄附ノ件(札幌農科大学、小樽高等商業学校創立寄附金四百円見合セルコトニ決定)
o教員講習会費寄附ノ件(桧山管内教員研修二十七円)
o相沼泊川両小学校合併並各小学校舎改築増築ノ件
両校通学区域ノ中央ニ新校ノ位置ヲ指定シ、本年度ヨリ継続事業トシテ校舎ヲ新築セントス
o堤防敷地資下出願ノ件
o学務委員選挙ノ件
明治四十二年
o土地継続使用願出願ノ件
オクノブイシ一番温泉地
o庁立農事試験場設置請願ノ件
o村有財産獲得ノ件
相沼小学校用地学喜楽町八、壱反二歩外
o一時借入金ノ件(金壱千円)
o熊石村工事受負規程設定ノ件
o村有地建物賃貸ノ件
o泊川尋常小学校々舎寄附願承認ノ件
泊川村民代表者土谷駒吉外小学校建物五十二坪五斗新築寄附、コノ金額九百六十一円五十三銭九厘
明治四十三年
o伝染病予防救治ニ従事スル者手当金給与規程改正ノ件
o国有未開地継続貸付願ノ件
o立木拂下ノ件
o熊石村村医規則設定ノ件
o熊石村村医俸給支給方法設定ノ件
o物品売却規程設定ノ件
o使丁給料旅費支給方法設定ノ件
o小学校教員賄料支給方法設定ノ件
o教育基金借入ノ件
雲石小学校改築費トシテ二千円ヲ借入ス(十年償還)
o学務委員選挙ノ件
岸田 久四郎、山田 和吉、岩見 安太郎、佐野 半之丞 当選
o臨時出納検査立会人選挙ノ件
岸田 久四郎、佐野 半之丞 当選
o国債借替ノ件
o基本財産支消及継続償還ノ件
雲石小学校改築費用ニ充タメ基本財産四千円ヲ支消ス
明治四十四年
o寄附願承認ノ件
杉、相沼校門用二本価格金拾円山田六右衛門
o収入役推薦ノ件
o尋常小学校生徒ヨリ授業料徴収ノ件
o寄附願承認ノ件
字掛澗畑四畝弐給歩(三筆)岸田久四郎学校用地トシテ寄附
o村有建物売却ノ件
雲石小学校附属舎三棟
明治四十五年(大正元年)
o熊石村墓地火葬場使用規則設定ノ件
o雲石尋常高等小学校生徒試作場貸付出願ノ件
o熊石村基本財産造成規則設定ノ件
o村有建物売却ノ件
相沼内村字館平所在二十六坪(旧相沼内会所)、泊川村冷水所在二十七坪(隔離病舎)腐朽ノタメ
o尋常科生徒ヨリ授業料徴収ノ件
尋常科第五、六学年生徒一人ニ付一ヶ月拾銭、一保護者ヨリニ人以上通学ハ一人ハ拾銭、一人ハ五銭
o一時借入金ノ件
o臨時出納検査立会人選挙ノ件
岸田 久四郎、佐野 四右衛門 当選
o熊石村墓地火葬場修繕費蓄積規則設定ノ件
o熊石村収入役付属員給料額旅費額及其支給方法中改正ノ件
o学務委員選挙ノ件
加藤 藤太郎、中川 亀蔵、岸田 久四郎、山田 和吉 当選
oオクノブイシ鉱泉出願ノ件
o貸付地部分返還ノ件
国有未開地貸付地見市地区拾五万二千二十九坪五合、雲石道路開鑿工事施行ノ線路部分返還
o小学校樹栽地トシテ無償附与出願ノ件
o部分林拝借方出願ノ件(二千町歩)
第4節 日清・日露戦争と熊石
明治年代に於て熊石村民は、日清、日露の二大戦役を体験した。日清戦争は我が国と清国(現中国)との戦争で、明治27年8月1日に宣戦布告し、翌28年3月30日休戦の条約調印がされ、終結となった。しかし、この時代には北海道に徴兵制が施行されていなかったので、28年3月4日、僅かに屯田兵に動員が下り、臨時に第7師団が編成され、永山少將が師団長となって第1軍に編入されて出征したが、すぐ終戦となり、6月復員解散し、当村とは直接のかかわり合いを持だなかった。
この年から北海道にも軍事力強化のための施策が講ぜられるようになり、28年9月21日には渡島、胆振、後志、石狩の4か国に徴兵制が施行されることが決定され、翌29年3月には陸軍管区表改正が公布され、全国に近衛師団と12個師団を置くことが決定された。5月12日には第7師団が創設され、屯田兵司令部は12月で廃止と決定した。30年8月7日には徴兵令は千島にいたる全北海道に適用されることになり、さらに明治32年10月28日には「陸軍平時編制及び新設増隊各隊人馬増減着手順序改正」が発令され、札幌を中心として第25、26、27、28連隊、野戦砲第7連隊、工兵第7大隊、輜重兵第7大隊が編成されたが、当時の北海道からの現役兵入隊者は1703名と少なく、そのため第1師団、第2師団、第8師団からも兵員が充用され、3579名をもって師団編成され、33年3月25日大迫尚敏中將が2代目師団長として親補された。前師団長の永山武四郎中將は永く屯田兵司令官、北海道庁長官等を歴任していて、將来上川盆地をもって一大軍都を構成する計画を進めていたので、この計画に従って、明治32年7月以降、旭川とその付近に兵営が建設され、33年11月には札幌の第25連隊を除く師団司令部外の各連隊、さらに新設の騎兵第7連隊が上川盆地に展開した。その間に函館には、明治30年11月23日函館要塞砲兵大隊と函館憲兵屯所が同時に開設されている。
日露戦争は明治37年2月10日ロシアと我が国が宣戦を布告して大戦に入ったが、翌11日には道南の住民の心胆を寒からしめる大事件が起こった。ロシア海軍のうちウラジオストックにあったウラジオ艦隊は、開戦と同時にグロンボイ、ロシア、リウリック、ポカツイルの4艦と義勇艦隊の仮装巡洋艦レナ号が、青森県と秋田県堺の櫨作(へなし)崎に現れ、11日午後1時頃、ここを酒田から小樽に向け航行していた全勝丸(319屯=福山町宮崎嘉兵衛所有)と奈子浦丸(1080屯=富山県新湊町南島間作所有)の2艘が、包囲砲撃を受け、奈子浦丸の乗客17人と船員20人はロシア艦隊の拘禁を受けた後、船は撃沈され、全勝丸は全速力で逃れ、午後8時30分福島港に入港し、福島村長に通報し、同夜福島村長から北海道庁へ通報があって事件の全貌が明らかになった。翌12日には福山市内は砲撃によって全滅したという噂が飛び交い、函館市民は家財を捨て続々避難し、小樽では銀行の取付沙汰もあった。当時函館を中心として津軽海峡には軍艦高尾と水雷艇4隻より配置されておらず、住民は戦々競々としていた。道庁は沿岸の各町村長に対して海岸に望楼を作り、ロシア軍艦の来襲の発見通告を命じ、熊石村に於ては、相沼内八幡神社前に望楼を設け、村民が八幡神社に泊り込み海岸の監視を続けた。この6月18日にもウラジオ艦隊3隻が松前小島の沖合で商船新湊丸を砲撃し、さらに福山沖では帆船安政丸、八幡丸が撃沈された。また、ロシア側は拘禁者を介して、この日を期して函館を攻撃すると公言していたので、付近の人心動揺は甚だしかった。その後7月20日朝ウラジオ艦隊のイエスセ少將指揮のロシア以下3隻が3度津軽海峡を通過して太平洋に出、関東沖で汽船3隻を撃沈、2隻を拿捕し、同30日再び海峡を経てウラジオに帰った。道南人を戦慄させたこのウラジオ艦隊は8月14日対馬海峡を南下中、上村中將の率いる第2艦隊に捕捉され、1隻は沈没、他の3隻は多大の損傷を受け、ウラジオ港に逃れ再び出現しなかった。
開戦と同時に韓国に第1軍が上陸、第2軍は遼東半島、第3軍は北進軍と旅順攻囲軍に分れて進撃したが、第7師団については道内の警備と樺太、沿海州方面の動向対応と、ウラジオ艦隊の動向を見るため、道内で練兵に励んでいた。37年8月4日にいたって第7師団に動員下令、留守第7師団(塩谷中將)と野戦第7師団(大迫中將)に編成されたが、野戦第7師団は歩兵12個大隊、騎兵3個中隊、野砲4個中隊、山砲2個中隊、工兵3個中隊、輜重1大隊等であった。編成の完了した野戦第7師団は10月19日旭川、札幌を出発、大阪に到着、11月15日輸送船に分乗して21日までに大連に上陸、第3軍(乃木希典軍司令官)の隷下に入り旅順攻撃軍に参加することになった。
攻撃軍の第3回総攻撃は11月26日に開始され、第1師団1個連隊、第7師団25連隊、35連隊、12連隊の計3105名で特別支隊が編成され、支隊長中村少將以下全員が白たすきをかけて出陣し「白たすき決死隊」とよばれ、松樹山の攻撃に当たったが、山頂20メートル手前でロシア側の果敢な攻撃のため、支隊長中村少將は重傷を負い、第25連隊長渡辺大佐が指揮を執ったがついにこれを抜くことが出来なかった。
日露戦争時の兵士 (島谷護氏所蔵)
励んでいた。37年8月4日にいたって第7師団に動員下令、留守第7師団(塩谷中將)と野戦第7師団(大迫中將)に編成されたが、野戦第7師団は歩兵12個大隊、騎兵3個中隊、野砲4個中隊、山砲2個中隊、工兵3個中隊、輜重1大隊等であった。編成の完了した野戦第7師団は10月19日旭川、札幌を出発、大阪に到着、11月15日輸送船に分乗して21日までに大連に上陸、第3軍(乃木希典軍司令官)の隷下に入り旅順攻撃軍に参加することになった。
攻撃軍の第3回総攻撃は11月26日に開始され、第1師団1個連隊、第7師団25連隊、35連隊、12連隊の計3105名で特別支隊が編成され、支隊長中村少將以下全員が白たすきをかけて出陣し「白たすき決死隊」とよばれ、松樹山の攻撃に当たったが、山頂20メートル手前でロシア側の果敢な攻撃のため、支隊長中村少將は重傷を負い、第25連隊長渡辺大佐が指揮を執ったがついにこれを抜くことが出来なかった。
旅順攻撃はその後戦術を転換し、第1師団を重点指向兵団とし、第7師団が捕力となって203高地の正面攻撃となった。11月27日から開始され、28日には第1師団の主力は全滅し、第7師団の全力を投入し大迫師団長が両兵団の指揮を取り、30日には203高地の攻撃が再開され、先頭に立ったのは歩兵28連隊で、さらに老虎溝山(赤坂山)には歩兵26連隊が主力であったが、激戦4日にしてついにこれを抜くことが出来ず、203高地は血の山と化した。12月4日には第25連隊822名、第27連隊700名、第28連隊900名、工兵7大隊の第7師団の主力で203高地に再突入し、5日には決死隊が203高地西南角に向い、その主力が高地上に登頂し、午後2時頃には西南角を占拠、同夜は高地の補強によってロシア側の再攻を喰い止め、6日にいたって203高地一帯は第7師団の手に帰し、北鎮師団7師団の名を高からしめた。38年1月元旦ロシア側が降伏し、さしもの旅順攻城戦は完了したが、この戦闘に於ける第7師団の損害は戦死2081名、戦傷4676名、計6757名であって、師団兵員の1割が戦死し、20割5分が戦傷を受けるという大きな犠牲を払った。
その後、戦いの主力は中国北東部に移り、3月10日の奉天付近でのロシア軍との戦闘で勝利を得たところから優位にたち、5月には日本海々戦の勝利から、9月16日停戦協定が成立し、平和が訪れた。この2年間の第7師団の被害は戦死3142名、戦傷8222名、計1万1264名で、従軍者の半数が戦傷を受けるか、戦死をしている。熊石村に於ても岸田長吉、加藤秀三、大高孫吉、中村豊作、加藤作蔵、滝沢房三郎の6名が戦死を遂げている。
この日露戦争の戦死者に対し、村は村葬礼をもって遇することにし、明治38年1月村会に於て次のように議決している。
議案第壱号
戦死者村葬ノ件
熊石村出身軍人戦死者ニ対シテハ村葬ヲ以テ葬儀ヲ執行ス
但シ葬儀費額ハ当該年度度入出予算ニ於テ之ヲ定ム
明治世八年一月十九日提出
熊石村長 清水 菊之助
この議案は可決され、予算に於ても戦死者村葬費50円が議決されている。銃後の村民は軍需品の献納、戦勝祈願祭の参加、愛国婦人会の結成と加入、軍人家族保護会の設置、国債募集の協力等村を上げて勝利のため戦争遂行に協力した。特に国債募集への協力は村役場が率先して勧誘し、村は村有基本財産貯金から200円を軍事公債に、学校基本財産貯金中1300円と、備荒基本金中1650円の計3150円で軍事公債を購入協力している。9月16日の休戦協定調印により大戦は終結し、村は村民上げて戦勝祝賀会を行い提灯行列も行われたが、旧松前藩の家老であった松前琢磨は、箱館戦争の際着用した陣羽織に采配をもって参加したといわれている。
熊石招魂社(字雲石台地)
第5節 当代の漁業
この時代の産業の政策の変化および景況を見ると、明治17年5月13日函館県は布達第15号を以って漁業組合条例を制定し、県下各郡に漁業組合の結成を指令した。これは捕魚採藻の取締をなし、物産粗製の習弊を矯正するためとしていて、18年3月桧山を5区に分け、爾志は3区として次のように漁業組合が設置された。
桧山郡第一区江差市街・五勝手村聯合漁業組合 取締弐名・副取締廿名
桧山郡第二区上ノ国・北村大留3村聯合漁業組合 取締壱名・副取締壱名
桧山郡第三区木ノ子汐吹・石崎小砂子4村聯合漁業組合 取締壱名・副取締四名
桧山郡第四区泊田沢・伏木戸柳崎4村聯合漁業組合 取締壱名・副取締四名
桧山郡第五区柳崎伏木戸鰔川小黒部・白名土橋俄虫赤沼館9村聯合河流漁業組合 取締壱名・副取締九
爾志郡第一区乙部小茂内・突府三ツ合4村聯合漁業組合 取締壱名・副取締七名
爾志郡第二区蚊桂相沼内・泊川3村聯合漁業組合 取締壱名・副取締壱名
爾志郡第三区熊石村漁業組合 取締壱名・副取締壱名
(“江差町史史料編第2巻”所収)
この組合設置について相沼内及び泊川は、乙部村支村の蚊桂村と組んで、第二区3村聯合漁業組合となり、第三区は熊石村1村の熊石村漁業組合となり、取締1名(組合員)には佐野四右衛門が就任している。しかし、その活動については“青江理事官諮問回答書”にあるように「其ノ得失ノ如キニ至リテハ創始日尚浅キヲ以テ未タ其ノ結果ヲ見ス」としている。
熊石地方の主漁業である鰊漁業については、この時代に入ると豊漁年があったり、凶漁年があったり、投資事業としてやや不安を感ずるようになったが、然し一攫千金の夢は捨て切れなかった。明治15年以降の管内の水揚げ及びその景状を見ると
明治15年
走り鰊薄漁、4月5日大時化のため施網の流失多し、中鰊中漁、総じて中漁、特に沖合が良く沿岸は薄漁であった。身欠一本(24把入=2400匹)2円50銭。
明治16年
走り鰊近年稀な大大漁、鰊漁網調査
建網=桧山郡38投、爾志郡127投、瀬棚郡52投、太櫓郡15投、奥尻郡3役、久遠郡93役。
刺網=桧山郡4万5152放、爾志郡2万692放、瀬棚郡910放、太櫓郡1060放、奥尻郡676放、久遠郡268放。
これを見ると建網の大規模漁業は爾志郡に集中している。また、久遠郡の多いのは熊石村の資本家の事業が多く、また、刺網では桧山郡が圧倒的に多いのは小前の漁業者が多かったことを示している。(この年4月6日平田内海岸で小判30枚を拾得した者があり、6月5日にはバッタが見日温泉付近で大発生している。)
明治17年
鰊中漁年、差網身欠一本一円三十八銭。桧山郡の生産五万六千八百二十二石、爾志郡三万四千五百三十五石。
(7月15日熊石村バッタ大発生)
明治18年
4月13日熊石豊漁、近年来稀な豊漁。熊石五万六八五〇本、相沼内村一万六五〇三本、泊川村一万一〇〇〇本、計八万四三五三本(一本200尾=約1700万尾)。
(8月22日桧山、爾志郡に麻疹流行、この年前後の鰊漁夫賃金上百円~七十円、中五拾円~四拾円、下参拾円内外。)
明治19年
3月31日より4月1日の走り鰊相沼内村建網八統八百本、泊川村九統千二百三十本、熊石村五十統一万二
千五百本、5月3日~4日熊石村、関内大漁。この年の鰊生産高桧山郡一万九九三九石、爾志郡四万二八四六石。(この年8、9月コレラ大発生、10月末終焉。)
■(□イ-屋号)岸田漁場(明治30年頃)
明治20年
この年建網一統五百程度の漁。例年にない好漁という。
明治21年
中漁。
明治22年
中漁。(前年に発生した米価騰貴に困窮者続出。)
(“江差町史年表”による)
という如く、21年度以降については中漁が持続したが、24年、27年の大漁を除き、25年、28年は薄漁、29年、30年は不漁、31年は大不漁、32年は薄漁、33年は大凶漁と凋落の傾向が表われてきた。この鰊漁業の変遷については、当村雲石の大坂兵造の遺稿“渡島国爾志郡熊石村漁業沿革史”(“江差町史史料編第2巻”収載)があるので、次に掲げる。
渡島国爾志郡熊石村漁業沿革史
明治四十三年筆没 雲石大坂兵造
請負時代ヨリ現今ニ至ル迄ノ状況
鰊漁業ノ創立及当時ノ情況ニ就テハ、今茲ニ確断ナル記載ハ到底吾人ノ能ハザル処ニシテ、又特記スベキ事柄ナシ。只少数ノ村人ニ依リ、小規模ノ方法ニヨリテ営マレタルニ過ギズ、故ニ創立時代ノ事情ハ省略シテ、以下請負時代ニ就テ述ベン。
先ヅ請負時代トハ、何年ヨリ何年迄ト言ウ事モ不明ナルモ、免ニ角請負時代ト称スベキ時アリタリ、夫レハ久遠郡ヨリ西地、即チ当時ヨリ北見国迄ノ西海岸一帯ヲ蝦夷地ト称シテ、其要所ニ運上屋ヲ設ケ、水産物収穫高の十分ノ二、或ハ十分ノ一ヲ徴収シテ、松前家ニ運上金トシテ納付セルモノナリ。而シテ当熊石村ト久遠村トノ境界、蝦夷地即チアイヌ語ニテシャモ(シャモに下線あり)地ト称シテ、其所ニアル番所ヲ、シャモ(シャモに下線あり)地ノ界ノ番所ト名付ケ居タリ。尚熊石村ノ中程ニ御番所アリテ、名主及年寄五人組ヲ以テ経営サレ、水産物ノ収穫ニハ何等制限ナク、且ツ総テ免税ナリ。
其当時ノ戸数ハ約二百四拾戸位ニシテ、鰊漁業ニハ刺網ヲ使用シ、各々相応ノ収穫ヲナス居タリシモ、今ヨリ五十年前安政一・二年の頃、数年間ノ不漁打続キ、為メニ漁民ハ家政ノ困難ヲ感ズルニ及ビ、他所ニ移転セルモノ続々トシテ出デ来タリタレバ、故阿部作左衛門・甲谷久蔵氏等ハ、増毛地方ニ迄モ刺網ヲ持ッテ出漁セリ。又多少資本ヲ有スル、故山下六三郎・田村石五郎及田村善蔵氏等ハ、遠ク小樽・美国地方ニ出漁シ、建網ヲ以テ漁業ニ従事セリ。出漁期ハ毎年正月中旬ニシテ、春廻リト称シテ、三半船ニ準備ヲナシ出般(帆)スルナリ。期間ハ凡ソ七ヵ月ニシテ七月下旬ニ漸ク帰村スルナリ。而テ収穫ノ水産物ハ、増毛地方即チ収穫地方ニテ販売スル事ヲ禁ジラレアレバ、是非共江差或ハ福山へ小廻船ニテ運漕セシメザルベカラズ、其ノ為メニ江差ノ繁華ナル事、譬フルモノナク、俗ニ言フ江差ノ五月ハ江戸ニモナイト言ハレタ位デアル。斯カル事ハ江差自身ニ採テハ非常ナル利益ナルモ、漁業家ニ採ツテハ重大ナル損害ト言ハナケレバナラス。之レト言フモ福山地方ニ於ケル請負人ヲシテ、自儘ニ販売ヲナサシメル時ハ、運上屋ノ支配人タルモノハ、二八トイフ名ノ下ニ徴収シタル荷物ヲ、秘密ニ之ヲ販売シ、只自己ノ懐ヲ肥ス事ニノミ勤ムレバ、是ヲ防ガン為ニ出デタル精神ニ外ナラズ。上述ノ如ク不漁ノ為年々戸数ハ減少セリ、此処ニ於テカ、疑問百出ス。或ル有力者ノ一説ニハ、鰊不漁ノ原因ハ蝦夷地ニ於テ建網ナルモノハ、鰊ノ未ダ産卵セザル以前ニ於テ収穫スルガ故ニ、其子孫ヲ殖スル事能ハザレバ、年々鰊ノ減少スルガ理ナルベシトノ事ヲ確信ス。建網廃止ハ目下ノ急務ナリト深ク思ヒ、其手段トシテ福山ナル請負人ノ棚方ヲ破壊セントシテ、無考ヘニモ漁業者一同申シ合セ、安政元年十一月頃、食料二週間ヲ準へ、山刀或ハ鵞口等ノ道具ヲ携ヘテ出発セリ、然ルニ江差奉行ハ此事ヲ聞知ス、江差町役所門前ニ於テ之ヲ取鎮ントセシモ、暴民ハ破竹ノ勢ヲ以テ役人ヲ強迫シ、暴力ヲ加エタレバ、役人ハ一時人事不肖ニ陥タルヲ見テ、衆人皆驚キ狼狽シ四方ニ散逸シタレバ、漸クノ事ニテ取り鎖メ、江差町九艘川ヨリ詰木石町迄ノ全戸ヲ、暴民等ノ宿家トナス、漁民等ノ願意ハ役人等良キ様取斗ヒ申ベキ旨ヲ聞キ、帰村シタリシ事ノ一珍事アリタリ。
猶江差ヨリ熊石村迄ハ以前ニ上磯ト称シテ、松前領地ニ屈シアリシガ、安政三年ニ至リテ、松前領地ナル乙部村ヨリ熊石村迄ノ八ヶ村ハ、新タニ徳川ノ領地トナリ、函館奉行村垣淡路守ノ支配地トナリ、当熊石村御番所奉職ノ定役山田織之助孝直ヲ長トシテ、下役折江善兵エ衛・小泉某(小泉又左エ門後束ト称ス)・小沢敏次氏等ノ役人来リ、村内ヲ調スルニ、鰊漁不振ノタメ年々村民減少ノ徴アルヲ以テ、山田氏ハ是ヲ患ヒ、少シク農事ニ心ヲ用ヒ、乙部村及相沼内村ニ於テ水田ヲ設ケ、又泊川浜中ニハ製塩スル事ヲ企テタリ、又一方ニハ蚕種紙ヲ戸毎ニ配付シテ蚕業ヲ励令セリ。其方法トシテハ番所ヨリ米金ヲ貸付、其資本ニ当テ、其返納ハ海産物ニテモ相当ノ価額ヲ以テ承引セリ、為ニ収授セル馬鈴薯ノ如キハ、三千有余俵ノ多キニ達セリ、之ヲ函館ニ廻送シテ販売シツツアリタリ、然シ乍ラ冬季ニ至り天候険悪ナル為ニ、送附ハ困難ヲ来シタルヲ以テ、村内ニ水車ヲ建テ、澱粉ヲ製造セリ、斯カル間ニ漁業ニモ意ヲ傾ケ、良ク精通ナル人ヲ選ミテ、小樽方面ニ建網ノ利害得失長所短所ヲ精シク視察セシメ、其利益ナルヲ知ルニ及テ、当熊石村ニモ初メテ鰊建網セン事ヲ許可シタルモ、村民ノ建網ハ鰊不漁ノ原因ナル事ヲ信ジ、誰一人先頭ニ立ツテ企業スルモノナカリキ、コレニ困テ御上自身ガ其任ニ当リテ、久遠郡大田村ニ於テ、小樽ヨリ五助ト言フ船夫ヲ雇入レ、御上ノ配下ニ従ヒ建網ヲナス事トナリ、三半船ヲ初メトシテ漁具一般赤色ヲ以テ染メ、
熊石村・鰊場親方の署名
漁夫ノ着物手拭モ亦皆赤色ノ木綿ヲ使用シ、御上ノ赤網ノ称ヲ受ケタリ。其年幸ニモ三百石以上の収穫アリタルモ、製造ノ方法不行届、夫レガ為ニ過半数ハ其儘ニ捨棄スルノ止ムナキニ至リタリ。当村ニテハ此事ヲ聞キ伝ヘ、字畑中ニ建網ヲ致シ度キニ付、金三百両也及玄米五十俵借用ノ儀申出タルニ、早速ノ許可ヲ得テ、万延元年甲年即西暦千八百六十年、今ヨリ丁度五十年以前初メテ当村ニ於テ投網スル事トナリタリ、之レ建網ノ嚆矢トモ言フベシ、翌年ニ至リテ先ニ蝦夷地ニ出漁中ノ山下田村帰村ナシ、当地ニ於テ建網ニ従事セリ。其結果良好ナルヲ以テ、翌年翌々年ト年を追ツテ建網ノ数続々ト増加ス、明治七及八年ノ頃迄、爾来十五ヶ年間ニ其ノ数将ニ六十統余ニ至リタリ。其後明治廿九年ヨリ卅一年迄ハ鰊薄漁之為メ、一時休業ナシタル多カリシモ、翌卅二年ニ至リ相応ノ取穫アリシカ故ニ、人気引立チ又々意気ヲ鼓舞シテ着業スルモノ多カリシガ、是又卅三年ヨリ仝五年迄ノ不漁ニ会ヒ失敗ニ帰セリ。夫レガ為ニ漁業者ノ困却一方ナラズ路途ニ迷フ有様ナリキ、同六年ニ及ビ非常ナル大漁ヲ示シタル為、次後三四年モ継続スルナラント評判アリシモ、反ツテ卅七年ヨリ四十年迄ハ一尾ノ鰊ヲモ見ル事ナク、漁民ノ困窮此極ニ達シタリ、夫レガ為ニ失望セル人々ハ最後ノ手段トシテ、漁船漁具ヲ他ヘ転売シ、又少シク能カノアル人ハ窮スレバ達スト言フ如ク、血路ヲ樺太出漁ニ志スニ至リ、従ツテ之レニ雇ハルルモノモ多ク、又手早キ人々ハ移住スルモノ日々ニ加ハリ、戸数人ロノ減少夥シキ故ニ、残留民ハ公課ノ負担ハ非常ニ増加ス。苛政ハ虎ヨリモ猛シト言フ古語ハアルガ、実ニ斯ル時ニ於テ良ク肯綮セラルルモノナルベシ。カヽル内ニテ猶当時個人ニテ建網ヲ継続スル人ハ、佐野氏・岸田氏・土谷氏等ノ両三人ニ過キズ、他ハ皆歩方ノ方法ヲ以テ着業セリ。翌四十一年ニ至リ其見込アルヲ知リ、大小三十有余ノ建網ヲナシタルニ意外ニモ多大ノ収穫アリタル為、其有望ナルヲ覚ヘ、活気満々トシテ翌四十二年ニ、歩方ノ方法ニテ従事セシニ、前年ニ比較シ建網ハ稍々減少ノ収穫ナルモ、差網側ハ未曽有ノ豊漁ナレバ、均平スレバ昨年ト等シキ収穫アリタリ、此処ニ於テ来鰊ノ理由ハ、海流ニ好変動ヲ斉シタルモノト知リ、益々趣味ヲ覚モテ当四十三年モ前年ト等シキ方法ヲ以テ、従事スルモノ多ク、又建網モ増加シ刺網モ富ニ加ハリ、皆其豊漁ナラン事ヲ期待シオレリ。
水産税法ノ変遷
明治弐年ハ北海道ニ於テ戦争多ク行レ、特ニ熊石村ノ如キハ其中心点トモ言フベシ。而シテ松前家ニ於テ戦費ヲ費スコト多ク、為ニ翌三年及四年ノ二ヶ年間、漁民ヨリ鰊収穫ノ十分ノ一ヲ、松前城主ニ献納スル様申越来リタリ。而シテ又城主弐年十一月廿七日、本村ヨリ青森ニ御渡海ノ際、戸毎ニ金三円ヅツ授与サレタリ、尚同年秋季ニ至リ玄米一俵ヅツ被下タルヲ以テ、今回ノ申込ニ対シテハ一同異議ナク快諾セリ。而シテ翌三年ハ未曽有ノ大漁、尚四年モ相当ノ収穫アリタレバ、二ヶ年共献納セリ。其当時松前家ニ蔵元ト称シテ、江差蛯神町ニ設アリテ、斉藤左司馬・横山平蔵氏ヲ元詰トシテ、其配下二十人余モ居リ、地方ヲ支配シツツアリタリ、村民ハ其御伝金ト称スルモノモ、二ヶ年間ヲ以テ献納シ終リタルニ、翌五年ニ至リ松前家ハ現政府ニ政事ヲ返還ナシ、万上一系ノ陸下ノ御代トナリタリ、此処ニ於テ現政府ヨリ鰊税トシテ、松前家ニ献納セル如ク、水産物収穫ノ十分ノ一ヲ徴収スベシトノ事ニ付キ、請書ヲ差出スベシトノ事、名主ニ通知アリタリ。然シ漁民ハ其如何ナル理由ナルヤヲ解スル能ハザレバ、之ニ異議ヲ称ヘタリ、夫レヨリ先ニ松前家ニ献納セルモノヲ、斉藤・横山氏ノ両人ハ私慾ノ為メニ、半額以上隠得セル事実モアル様ト、今回ノ鰊税モ或ハ斯カル肝手段ニアラザルヤトノ疑念交々起リ、肝人ヲ斬殺サザレバ止マズトノ意気込ミニテ、遂ニ村民一同五年四月十五・六日頃万端ヲ準ヘ、江差ニ押シ掛ケ日野大主典ニ面会ヲ求メンモノト出発セリ。然ルニ大主典先ニ此事ヲ聞クヨリ早ク、乙部村迄出張シテ村民ヲ説キ伏セ、一時取金集メタリ、大主典ノ快腕賞スベキナリ。其後十日斗リニシテ廿五日江差ヨリ飛脚来リシテ日ク、翌廿六日午後十時、石崎ヨリ江差迄ノ漁民一同町役所ヘ押シ寄セ、今回ノ苛税ノ反響ニ役所及官宅共ニ破裂セントスル故ニ、当熊石村民モ一同出発スベキ様トノ言葉ニ、当方モ皆承諾シテ其日午後八時頃、名主・年寄等モ付添ヘニシテ出達セリ。翌廿六日午前八時頃江差詰木石迄着セン処、如何ナル日取リノ間違ヒカ、江差暴民ハ最早ヤ廿五日午後十時頃町役所及官宅廿余舎ヲ破壊シアリタリ。為ニ別ニ他ニ用モナク帰村セリ。其途中ニ於テ村民ニ反シテ、鰊税ノ請書ヲ提出セル、爾志郡乙部村及小茂内村ノ名主菊地箸蔵、并ニ新谷徳次郎氏ノ両宅ヲ破壊セリ。其最中ニ江差鷗島ノ方向ニ当アリ、ゴウ然タル法螺貝ノ響キ聞エタルニ依リ、暴民ハ兵隊来襲ト知リテ皆其日ノ内ニ逃ゲ帰宅セリ。翌日ニ至リ聞ケバ、黒田長官・阿部重任ノ両人軍艦ヲ導イテ、江差ニ来リタルモノト知レリ。其時ノ響声ハ汽笛ナル事モ知リタルナリ。
其後阿部重任氏村ヲ巡回ナシ、本州内地農民ハ其収穫ニ対シテ、農税ヲ納メ居レリ、之レ国民トシテ一大義務アル事ヲ解キ聞カセバ、漁民モ初メテ其理由ヲ知ルニ至リ皆承諾シ請書ヲ差出セリ。之レ即チ税金ノ初メニシテ、今尚引キ続キ存在スルモノナリ。暴民ノ破壊セル住宅官舎ノ損耗ハ、一戸金壱円八十銭ヅツ徴収スル事トナリ、特ニ村民ヲ罰スルコトナク、過料トモイフベキモノニテ、皆事済シトナリ、此処ニ一段落ヲ告ゲタリ、右之請書ニ因リ、翌六年ヨリ収穫高ノ十分ノ一ヲ、現品ニテ納税スル事トナリタレバ、当村ニ五分方面ノ租税係ノ事務所ヲ設立シ、白井利信ヲ頭ニ、配下十四・五名ヲ以テ一般ノ事務ヲ整理シ、十九年迄継続セリ。然ルニ明治廿年ニ至リ収穫五分ノ金納定税改正トナリ、収税所ヲ置キ人民ノ内ヨリ収税委員ヲ選挙シテ事務ヲ執ラシメタリ。其後仝年収税所ヲ納税所ト改名ス。尚仝年納税所ヲ水産税区役場ヘ、一般ノ事務ヲ譲渡ス事トナリ、役場ニテハ多少ノ改革ヲ施シ、大体ニ於テハ前ノ如クニ継続セリ。以後現今迄格別ナル変遷モ改革モナク、保守的ニ経過セルモノナリ。
明治18年3月、爾志郡第二区蚊柱、相沼内、泊川3村聯合漁業組合、第三区熊石村漁業組合が設立されたが、村民の自覚、理解も薄く、また、大企業漁業家の協力を得られなかったこともあって、その運営は有名無実のようなものであった。明治29年の鰊不漁以来年々生産は下向の一途を辿り、鰊漁業は斜陽化してきた。その経営形態も個人経営から共同経営、さらには漁夫の歩方制へと移向してきたことによって漁業労働者の生活基盤の不安定さがあって、漁夫が団結をして生活の安定、向上を図ろうとする動きが現れてきた。それが明治40年8月1日創立の熊石水産組合の創立である。しかし、この年代の組合員は連年の鰊凶漁のため組合費の負担も容易に出来なかった。そこで組長佐野四右衛門から村長に対して村費の補助方を申請している。これによって当時の組合運営の範囲、活動の方法等が記述されているので、熊石村“町会諸書類綴”(明治35年より40年)綴込資料によって述べる。
組合経費補助之義ニ付願
熊石水産組合ハ明治四拾年五月廿五日北海道庁長官之認可ヲ得創立セリ、而シテ之レカ組合経費ヲ組合員ヘ、賦課シ、之レヲ徴収スルハ当然ノ義ニ候得共、組合員拾中ノ八九八皆村民ニシテ連年ノ薄漁ニテ疲弊シ居ル今日ナルヲ以テ当分ノ内組合ニ専務書記ヲ置カズ、熊石水産税区附属員ヘ嘱託シ其事務ヲ取扱ヘ可成経費節減スル一端トシテ賦課徴収ノ件数ヲ省カント存候。就テハ組合経費予算金八拾壱円ノ内金六拾円ヲ村税ノ内ヨリ補助ノ義御許容相成度別紙組合経費予算表相添此段奉願候也。
明治四拾年十月十七日
熊石水産組合組長 佐野 四右衛門■(角印)
熊石村長 大瀬 直次郎 殿
熊石水産組合明治四拾年 自明治40年8月1日 至明治41年3月31日 経費予算表 | ||||
歳入 | ||||
科目 | 予算額 | 附記 | ||
円 | ||||
第一款 | 加入料 | 21 | 000 | |
一項 | 一時加入料 | 21 | 000 | 烏賊漁業ノ為メ他組合ヨリ一時加入者見込数七十人分一人ニ付金三十銭 |
第二款 | 補助金 | 60 | 000 | |
一項 | 熊石村ヨリ補助金 | 60 | 000 | 熊石村ヨリ補助金 |
歳 出 | ||||
科目 | 予算額 | 附記 | ||
円 | ||||
第一款 | 事務費 | 57 | 350 | |
一項 | 報酬 | 5 | 000 | |
一目 | 正副組長報労金 | 5 | 000 | 組長三円、副組長二円 |
二項 | 給料 | 16 | 000 | |
一目 | 書記給料 | 16 | 000 | 嘱託書記一人一ヶ月二円八ヶ月分 |
三項 | 旅費 | 6 | 200 | |
一目 | 正副組長旅費 | 3 | 000 | 正副組長出張旅費一日金一円三日分 |
二目 | 書記旅費 | 3 | 200 | 書記出張旅費一日金八十銭四日分 |
四項 | 需要費 | 17 | 650 | |
一目 | 備品費 | 2 | 530 | 印章三ヶ弐円拾銭、硯箱一ヶ拾八銭、硯弐ヶ弐拾四銭 |
二目 | 消耗費 | 15 | 130 | 半紙(罫紙共)壱〆参円五拾銭、封筒弐百枚四拾銭、美濃紙二丁参拾五銭、表紙拾枚弐拾銭、 帳糸一把拾五銭、木炭袷六俵八円、騰写原紙一本一円五拾銭、仝インキ一ヶ五拾銭、筆墨料五拾参銭 |
五項 | 通信費 | 3 | 000 | |
一目 | 通信費 | 2 | 000 | 郵便電信料 |
二目 | 運搬費 | 1 | 000 | 運送賃及小包料 |
六項 | 雑給 | 1 | 500 | |
一目 | 傭人料 | 1 | 500 | 臨時使丁其他人夫賃五日分 |
七項 | 雑費 | 8 | 000 | |
一目 | 借地料 | 4 | 000 | 事務所借地料 |
二目 | 印刷費 | 3 | 000 | 諸帳簿用紙二円、定款及細則三十部一円 |
三目 | 修繕費 | 1 | 000 | 事務所内外小破修繕費 |
第二款 | 会議費 | 9 | 950 | |
一項 | 議員会費 | 9 | 950 | |
一目 | 議員出席 実費弁償 |
8 | 400 | 一里以内出席一人一日金二十銭八人、一里以外仝上金六十銭二人各三日分 |
二目 | 会場費 | 1 | 500 | 使丁一人一日二十銭三日分、鉛筆一ダース五十銭、草履十足二十銭、茶半打二十五銭 |
第三款 | 事業費 | 7 | 500 | |
一項 | 水産物検査費 | 7 | 500 | |
一目 | 検査員手当 | 3 | 000 | 検査員手当一人一円三人分 |
二目 | 需用費 | 2 | 500 | 検査証印一円五十銭、印肉壱円 |
三目 | 雑費 | 2 | 000 | 検査用帳簿用紙及筆墨料 |
第四款 | 創立費 | 6 | 200 | |
一項 | 創立費償却金 | 6 | 200 | |
一目 | 創立費償却金 | 6 | 200 | 本組合創立費立替金償却金 |
合計 | 81 | 000 |
この補助金申請に対し、村長は財政難を理由に否定する旨次のように回答している。
明治四十年十一月十五日付
組合経費補助ニ関スル件
客月十七日付ヲ以テ熊石水産組合経費ノ内へ金六拾円村費ヨリ補助願出ノ件ハ補助ノ見込ヲ以テ更正予算ニ編入村会ニ附議候処村費多端ノ今日ニ村本年度ハ補助不相成理由ニテ否決相成候条御了知相成度此段及通知候也
村長名
熊石水産組合
組長 佐野 四右衛門宛
(村役場県議書)
というものである。この一連の往復書類によって当時の水産組合の有り方、活動の状況を知ることが出来る。まず定款の印刷は30部としているので組合員数もその程度と考えられるが、これらの組合員は出資をせず、ただ加入し、運営に要する経費は村費補助によって賄おうとする極めて安易な考え方の組合であって、魚貝の採取日取等の決定程度の事業と、水産物検査の実施程度のものであった。しかし、水産物の検査も予算的には3日程度の予算より組んでいないので、広域の熊石村で数10人よりこれを利用していなかったのではないかと想定され、さらに村費補助を否決された組合がどのような運営をしたかを知る資料がない。
第6節 当代の農業
熊石村は近世時代から道庁設置時代にかけ、農業については見るべきものがなかった。これは熊石は漁業一辺倒の町で、農業を省みなかったことによるが、当期末にいたってようやく農業注視の傾向が表われてきた。
近世に於いては“罕(かん)有日記”(安政4年森一馬筆)に見る如く
熊石宿 蚊柱より三里、寺山屋善四郎に舎
戸数枝村とも三百軒なりと家立山海に沿て出入し壱里許(ばかり)もあるべし。大小豆、大根、午蒡等の畑有りと。…略…
今午食の家当時岡村佐之助といふよし(当十八歳好男子なり)幼年の頃親道軒が家業を教んと奥の広前(弘前)江遣し医業を学はせしが馬僻にて医を好まず遂に家業を捨て、今は村吏を勤るよしなり、午食■(不明)(おわ)て発途より鞍馬に跨て従ひ来り馬術医業其外とも色々の談あり其馬駿足其馭(ぎよ)も亦工(たくみ)なり。
とあるように、漁家の最低必要な野菜の蒔付が行われる程度であったが、馬については人馬継立のために必要な馬が、常時用意されていて雲石台上の野原はその牧野になっていて、前述のような駿足名馬も育まれていた。
明治に入り鰊漁に凋落傾向が出てきた明治17、8年にいたり、函館県令時任為基は、この地方であまり蒔付けしない馬鈴薯を万一の場合の捕食ように作付を勧奨し、種子の斡旋をすることによって、鰊漁業とかち合って省みられないこの作付がようやく初められるようになった。特に久遠では明治19年1月3日に芋祭を開催しているが、これは薯の作付が増加し、11月頃から翌年1月頃にかけ飯米の欠乏を馬鈴薯で捕ったことに感謝しての行事であった。同年2月赴任した久遠外三郡々長の林顕三は薯郡長と字(あざな)される程馬鈴薯の作付を奨励し、これに刺激されて新起(あらき)による畑の耕作が著しく増加した。明治21年、22年は冷害のため全国的な凶作で、そのため諸物価は高騰して恐慌状態が始まり、23年には米価騰貴のため生活困窮者が続出し、村内でも有志が拠金をして救済に当る等のこともあったが、馬鈴薯を作付していた漁家は馬鈴薯の主食によって、この食糧危機を乗り切ることが出来、馬鈴薯作付反別は増加の傾向を示すようになった。
場農井荒)
さらに漁業の不安定を農業によって補おうとする大企業漁業者が多くなってきた。“北海立志編”に掲載された「佐野家小伝―当主佐野甚右衛門」によると、四代佐野甚右衛門は、
氏ハ北海道漁業ノ豊凶得失ニ因り将来大ニ考フル所アリ、明治十三年ヲ以テ荒蕪開墾ニ着手シ、仝村字平田内ニ於テスデニ二十五町ノ耕地ヲ開拓シ、農家数軒ヲ移シ、仝村字関内ニ於テハ殆ント十町ヲ開墾シ…略
とある如く農業投資によって将来の安定を得ようとする動きがあり、また、江差町新村久兵衛の履歴書(“青江理事官諮問回答書”)によれば、
桧山郡上ノ国村支中須田字大谷地荒蕪地三拾五万坪ヲ払下ゲ開墾セント欲シ、当時豪商山田六右衛門外数名ノ賛助ヲ得、総テ十一名ヲ以テ、共同社ヲ団結シ、十三年ニ至り水田弐町三反ヲ開キ、十五年同村天ノ川ヨリ灌田用水ノ溝渠壱里有余ヲ掘割、該社及村民ノ水利ヲ得セシム。同社墾成スル処ノ田拾四町歩、畑七町歩余ニシテ、同支中須田及北大留両村人口大ニ増殖シ、漸々水田ヲ耕作スルモノ多数ニ及ブ。…略…
という如く、大企業の漁業者ですら将来の安定策に農業投資を目論むようになってきている。また、農業圃場の整備や牧野改良も徐々にではあるが進められ、21年1月12日の“函館新聞”には
…又、同村は従来一定の牧野なく馬持ちは野放しの習慣なりしが、農作へ数多の害を与ればとて、林(政太郎)、荒井(幸作)氏発起となり、人々にすすめ去年七月より出金の方を立て、凡百十余円をもって周囲二千間の土手(高さ五尺幅四尺)を設け、美事の牧場となり、農家及び戸長も共々大喜び、一村改良進歩の計画せんとする傾向なるよし。
と漁業偏重の熊石に農業も取り入れ、漁家の安定を図ろうとする動きは次第に強まってきた。その傾向は養蚕(さん)業にも見ることが出来る。開拓使は明治10年大野村に養蚕場を設け、翌11年には一般より伝習生を公募して事業の推進の基盤とし、開拓使も各村に積極的な普及を図り、熊石村内に於てもこの養蚕に取り組む者も現れ、同14年には熊石村で、
蚕種掃下枚数 | 収穫 | 約 | 桑畑 | 栽食本数 |
100 | 一石一斗三舛 | 400円 | 二反三畝 | 933本 |
という状況になっていた。各小学校教室内に蚕棚を設け、児童にも体験学習させる等普及を図った。
牧畜については爾志郡の総括的な統計より残されていないが、これによると
馬 | 明治5 | 明治6 | 明治10 | 明治14 |
牝 | 418 | 365 | 480 | 384 |
牡 | 452 | 423 | 543 | 519 |
計 | 870 | 787 | 1、023 | 803 |
であって、馬の熊石村での飼育頭数は、毎年平均400頭であった。この馬産奨励と村民の畜産意欲の向上のため、荒井幸作らが主唱し、25年5月鮎泊で競馬も行われ、38年5月には相沼では豚を飼育する兼業農家もあった。
この外、植栽については明治25年には荒井幸作が桐の稚苗を七飯村、前田村から取り寄せ植栽したほか、七飯村から林檎苗を取り寄せて植栽し、さらに大麦、えん麦、とうもろこしも栽培した。荒井幸作は熊石農業の大先達であった。
古川岱の開拓
明治41年大竹喜代作を団長とする福島県川沼郡及川村沼の上の住民13家族が、故郷を後に熊石村に出発した。この及川村付近は3年続きの凶作で、村落が困窮のどん底にあったので、新開地を求めて北海道開拓に当ろうと適地の選定をした結果、熊石村相沼内川上流6キロの古川岱が割当てられ、県の斡旋もあり、役場職員の大竹喜代作を団長として13家族が熊石村に向ったものである。
途中、団長の大竹が汽車の扉に腕を挟まれて大怪我をしたり、暴風雨のため汽車が遅れるなど、最初から多難な旅立ちであった。一行は先ず相沼の■(カネ又)久保田旅宿に草鞋(わらじ)を脱ぎ、数日後焼山の麗の空家を利用して、一先ず落着いた。第一陣の入植者は次のとおりであった。
大竹 嘉代作、水下 半次郎、遠藤 徳松、遠藤 某、大久保 某、保谷 某
加藤 太一、遊佐 勝馬、渡辺 某、酒井 多年、安西 伝蔵、家長 幸市
一行は翌日から、焼山から2キロ上流の古川岱までの七曲りの刈分道を拡幅したり、50区近い入植割当地の現地割当に立合い、雨露をしのぐ仮設小屋の建設が先決であった。この古川岱は、ブナやカシワの大木が多く、伐りたおした木の切り株には、子供達が二、三人乗って遊べる程の大さであったという。
笹屋根の掘立が出来上り、各家族は現地に引越し、道路も完成し、入植者は炭焼をしながら畠の開墾に入り、小豆、大豆、キミ、ヒエ、アワ、ソバ、稲キミ、モチキミ、燕麦等を主体に、野菜は大根、ササギ、南瓜等で、馬鈴薯はあまり成果が上らなかったので耕作面積は少なく、後には養豚、養鶏も行うようになった。
これらの入植者の主食はキミ、ヒエ、アワそれに燕麦にモチ稲キミで、これを炊き上げると美味ではあったが、毎日だと飽き、また冷えるとまずくて食えなかった。米粒はお盆かお正月のみで、収入は炭焼き収入の外は春の蕗や竹の子、椎茸、秋は山ブドーや栗、茸などで、これを村に持って来て、帰りには食料品を買って来るという状況であった。初めの開墾は唐鍬(とんが)であったが、のちには段子馬が入り、耕作も大分楽になった。
翌年、第二陣が入植した。
近藤 寅吉、吉田 信一郎、相原 某、伊藤 徳治、宍戸 大一郎、田中 勇作
の6世帯であったが、吉田はすぐ北桧山に移転し、また、第1陣の水下、大久保は福島に畑地を貸してきたので帰郷し、実質16世帯が古川岱の開拓に活躍した。
大正11年見市川発電所が完成したのち、相沼内川にも大規模発電が計画され、同年11月相沼内川水利権使用の諮問が村にあり、その候補地には古川岱が上った。工事は昭和3年8月に開始し、入植者達は移転補償金をもって、ダム下流の野の端地区に移り農業を継続した人もあるが、外に転出した者もある。
団長の大竹喜代作は古川岱から転退後、熊石村で神官となるため江差藤枝家で修業し、昭和3年11月8日付をもって熊石村根暗神社外二社の社司となっている。
第7節 当代の商業
この時代までの商業は米穀、味噌、醤油、酒等の家庭必需物質の調達は、そのほとんどが青田売であり、青田買であった。これは毎年秋に内地商人がこれらの品物を直接船に積んで熊石に来る者、あるいは江差や地場の商人が取り寄せた物を、得意先の家庭に配る。一般家庭はこの物品で越冬生活をし、3月から5月までの鰊生産による生産加工物をもって、6月の節季払いまでに精算支払いをするというものである。しかし、この青田売の代金の中には現物の納入時から支払いまでの金利が計算されていて、割高の商品を買わされていたものであるが、漁民は旧来の慣習からこれを抜け切れなかった。
当村の商店も呉服、太物、雑貨、荒物、酒を販売する程度の店よりなく、これらの商店のほとんどは掛売で、6月、12月の1年2回の節季払をするという方法が取られ、この様な店はこれらの店舗経営と共に、海産物の仲買人をしており、その顧客は、これらの掛買人の漁民であった。
また、鰊漁期には江差方面の商人が船に食料、菓子、酒等を積んで来て、鰊漁でにぎわう浜で商売をする。これを灘売や南蛮売と呼んだが、これも生産品と交換する方法が取られていた。また、佐渡店という店もあった。熊石村の村民の出身者は能登半島や越後の出身者が多かったので、この地方で生産される物に郷愁を感ずる人が多かった。それに目を付けた佐渡の商人が、干柿や干栗、笊や籠等の竹製品等を積んで、6月から10月まで店を開いていたこともある。
熊石村の商家の婦人(島谷護氏蔵)
明治20年代に入り、近代商業に変身脱皮しようとする動きが出始まると、熊石の山田家、猪股家、佐野家のような資本家も、江差に出店を持ったり、農業投資、銀行投資等種々の事業に投資し、その商業活動の幅も広まって来る。その好例が江差銀行創立への投資である。江差銀行は地場商業資本流通の円滑化を図るため、江差町永滝根太郎外9名が発起人となって、資本金10万円で銀行設立の認可申請をしていたが、明治27年8月30日大蔵大臣の認可となり、1株50円とし2000株を公募し、28年2月5日に創業したが、この公募株の中に熊石村からは、
拾株 五百円 熊石村掛澗 輪島 三右衛門
拾株 五百円 熊石村 荒井 幸作
拾株 五百円 熊石村 岩佐 又左衛門
五株 弐百五拾円 熊石打掛澗 鐙谷 銀之助
拾株 五百円 熊石村 荒井 幸作
弐拾株 壱千円 熊石村 佐野 甚右衛門
五株 弐百五拾円 熊石村掛澗 輪島 三右衛門
五株 弐百五拾円 相沼内村 山田 佐久治
拾株 五百円 泊川村 新谷 与三右衛門
拾株 五百円 泊川村 藤谷 仁之吉
拾株 五百円 熊石村中歌 佐野 四右衛門
拾株 五百円 熊石村中歌 佐野 秀太郎
四拾株 弐千円 相沼内村 山田 友右衛門
拾株 五百円 相沼内村 稲船 権兵衛
弐拾株 壱千円 熊石村掛澗 岸田 久四郎
拾株 五百円 熊石村支関内 猪股 忠治
拾株 五百円 同右 猪股 志も
弐拾株 壱千円 熊石村 荒井 定太郎
拾株 五百円 熊石村建之澗 阿部 佐吉
拾五株 七百五拾円 熊石村 赤泊 與七 (“江差町史史料編第弐巻”)
で熊石町からは総計250株、1万2500円が出資されていて、総出資額の12・5%が熊石村民からの出資であって、江差経済に大きな力を持っていたことを物語っている。
また、明治27年12月創立の江差米穀鰊類取引所にも熊石村から次の諸氏が株主となっている。
拾五株 七百五拾円 熊石村支関内 猪股 忠治
拾株 五百円 熊石村ホロメ 赤泊 與七
八株 四百円 熊石村畳岩 荒井 定太郎
七株 参百五拾円 熊石村掛澗 佐野 甚右衛門
七株 参百五拾円 熊石村掛澗 輪島 三右衛門
五株 弐百五拾円 熊石村中歌 荒井 幸作
五株 弐百五拾円 熊石村掛澗 岸田 久四郎
五株 弐百五拾円 同 中歌 佐野 秀太郎
五株 弐百五拾円 相沼内村 山田 友右衛門
弐株 壱百円 相沼内村 山田 佐久治
五株 弐百五拾円 相沼内村 山田 六右衛門
五株 弐百五拾円 泊川村 藤谷 仁之吉
五株 弐百五拾円 泊川村 天満 與作
五株 弐百五拾円 相沼内村 山田 友右衛門
五株 弐百五拾円 相沼内村 稲船 権兵衛
五株 弐百五拾円 熊石村掛澗 鐙谷 銀之助
弐株 壱百円 熊石村中歌 岩佐 又左衛門
五株 弐百五拾円 泊川村 新谷 与三右衛門
弐株 壱百円 泊川村 天満 源造
弐株 壱百円 泊川村 中島 宗大郎
等があり、これらの人達は熊石村の経済を支える重要な地位にあった人達である。
第8節 明治時代後期の交通
明治時代後期において熊石が都市部と結ぶ交通を確保することは、熊石村の死命を制する重大な事であった。従って明治20年代以降、各代の戸長、村長はその整備のため尽力してきた。21年には村民有志497名の拠金によって、村内の4橋が完成し、同年平田内と鮎溜間の岬の間を結ぶ平田内トンネルも完成し、さらに相沼内から関内にいたる海岸道路が完成した。また、23年6月以降乙部から久遠にいたる間の西海岸幹線の改修に着手し、年を追って整備されつつあった。明治34年には江差・熊石間に乗合馬車が開設され、1日1往復運行するようになり、陸路交通は画期的整備が出来たと見ることができる。
一方、海路交通については、明治20年代に入ると北前船による和船輸送は漸次減少し、代って蒸気機関による中・小型鉄船が函館・小樽間を頻繁に運航するようになり、これらの船が熊石にも寄港するようになった。さらに明治32年7月29日の“函館毎日新聞”の船舶出帆公告を見れば 玉浦丸 福島・吉岡・福山・江差・熊石・久遠・瀬棚行
七月三十日午前十時出帆
■(丸M屋号)高橋回漕店
定期魁益丸 江差・熊石・瀬棚行
八月二日午前十時
■(一冠△屋号)服部商店汽船広告
飯岡回漕店
とあって、函館から二つの回漕店扱の船が隔日交代で運航されていたことが分る。また、33年8月の同新聞では■(丸M屋号)高橋回漕店扱の船は玉浦丸と金川丸が交互に運航し、38年には両回漕店扱いで、魁益丸のほか、室蘭丸、福島丸、渡島丸等が熊石に寄港している。
明治40年4月北海道庁の命令航路が函館―瀬棚間に開設され、その命令航路船に尼崎海運北海部の第2近洋丸と東運丸の2隻が、函館■(丸M屋号)高橋回漕店扱で隔日運行しているが、東運丸は“関内よもやま話”(三国定雄著)では150屯としているので、第2近洋丸も凡そこの屯数に近い船だったと考えられる。この命令航路船は函館を基点に江差―蚊柱―熊石―関内―久遠―瀬棚間を隔日運航していたもので、北辰丸(750屯)、礼文丸(550屯)、日向丸(350屯)のような比較的大型船が運航するのは、大正初期以降の事である。
熊石から内浦湾に至る路は比較的近距離で、近世時代から刈分路があって、利用されていたらしく、無量寺過去帳によって見ても、遊楽部鉛山や黒岩(八雲町)等に多くの檀徒が居て、住職が常に八雲に出向いていることからも、この道が多く利用されていたことが分る。明治19年中山峠(厚沢部―大野間)の工事が着工完成すると、八雲―熊石間の八熊道路の開鑿が論議され、浅田戸長から道庁に請願したり、累代の村長もその実現に向けて努力してきた。
明治34年8月、第1期道会議員選挙が実施されて以来、第3期の明治40年8月10日の選挙で熊石村の荒井幸作が全道35人の道会議員に当選した。この時の選挙で桧山は2人区であって、
有権者数640人に対し
当選 荒井 幸作 167票
当選 上林 九郎右衛門 142票
落選 能登 甚四郎 132票
であった。荒井は漁村に育ちながら農業に詳しく、さらに道路議員と称せられるように、北海道の開拓は道路の整備なくしてはあり得ないと叫び、特に八熊道路の着手には執念を燃やしていた。荒井は明治41年12月2日の通常会で、建議案採否の際、建議案第47号をもって、「道路開鑿ニ関スル件」を荒井幸作外2名提案、賛成者佐藤松太郎外2名を以て建議の結果、可決され、ここに村民の永年の夢であった八熊道路が、地方賛で開鑿されることになった。
荒井幸作は明治43年8月10日執行の第4期道会議員(大正2年7月まで任期)にも当選し、側面から八熊道路の地方賛工事の早期着手を働きかけた結果、明治45年度に於て熊石側と八雲側から同時に工事着手となり、この道路用地の殆どは国有未開地であって、村が無償貸付を受けていたが、その用地となる拾五万二千二十九坪五合の土地は国に返還し、工事に着手した。
工事は大正8年一応の終了を見たが、第1次最終完了は、大正10年6月の全通である。
このほか荒井幸作は第4期道会に於ても、明治44年11月12日の通常会の建議案採否の際には、次の5件の建議を行っている。
長官受付第七番 奥尻島道路開鑿ニ関スル件
荒井幸作外三名提出、田村力三郎外三名賛成。
長官受付第十二番 漁獲物処理搬出保護ニ関スル件
荒井幸作外三名提出、小野寺喜兵衛外五名賛成。
長官受付第三十八番 久遠―若伝聞殖民道路開鑿ニ関スル件
荒井幸作外一名提出、小野寺喜兵衛外二名賛成。
長官受付第三十九番 俄虫―乙部間殖民道路開鑿ニ関スル件
荒井幸作外一名提出、小野寺喜兵衛外二名賛成。
長官受付第四十番 乙部村仮定県道政修ニ関スル件
荒井幸作外一名提出、小野寺喜兵衛外二名賛成。
この5件の建議案は総て採決、議決されていて、荒井がいかに桧山の道路問題に献身的な努力を払っていたかがよく分るし、また、この荒井の努力によって桧山の住民が大きな裨益を受けていたかを知ることができる。
第9節 当代の教育
この明治後期は小学校教育の普及が軌道に乗った時代である。然し教育財政的に大きな問題を抱えていた。まず、村予算の約半額が教育費で占められていて、その経常費の捻出すらままにならず、さらに生徒数の増加に伴う教室の増設の問題等があったが、明治38年頃から降って湧いたような鰊漁業の凶漁によって、全く教育行政の執行にも事欠き、学校の統廃合と経費の削減、さらには教員数の減員まで論ぜられる時期であった。
特に熊石村の本校である雲石尋常高等小学校は明治24年新築されたが、教室も少なく、第4分教場まで作り生徒を分散教育していたので、本格的校舎の建築によってこれらの支障を除去する必要があった。そこで村長上田周は、明治41年4月の村会に次のような諮問をしている。
雲石尋常高等小学校校舎改築ノ件
雲石校ハ従来校舎狭隘ニシテ既ニ三分教場ヲ設置シアルモ尚ホ教室ノ不足ヲ告ケ本年ノ如キハ一分教場設置ノ要ヲ感セシモ漸ク収容シタルノミナラス校舎一体ニ腐朽シ之レカ改築ノ急ヲ告ケ且ツ分教場ハ教授上敢テ支障ヲ来ス等ノ事ハアラサルモ経済ノ上ニ於テ至大ノ関係ヲ有シ旁改築ハ現下ノ急ナルモ一時ニ之ヲ改築スルハ村財政ノ許ササル所ナルヲ以テ継続事業トシテ漸次改築セントス但改築スヘキ敷地ハ村有ノ掛澗三百八十五番及三百七十九番ノ畑トス
右諮問ス
明治四十一年四月二十四日提出
熊石村長 上田 周
この諮問に対し村会は、村長の意を了とし、「一、雲石尋常高等小学校ハ現下経費多端ノ折柄、本年度ハ工事着手ヲ見合スルコトトス」と答申している。
上田村長は明治41年4月から11月まで僅か7か月より勤務しなかったが、同年12月着任した村長泉慶一郎は官選村長としては最長の8年間を熊石村に過し、病弱な面はあったが、やる気満々の村長で、鰊凶漁に悩む熊石村に活性を与え、種々の施策を行った村長として有名である。泉村長は雲石小学校の改築の必要性と、段階的増改築の不利を強調し、一気に校舎新築に踏み切ることにし、村会議員を説得し、明治43年5月1日の村会に次にような提案をした。
基本財産支消及継続償還ノ件
本村雲石尋常高等小学校改築費用ニ充ツル為メ熊石村学校基本財産四千円支消ス而シテ其償還方法ハ左ノ如シ
一支消シタル四千円ヲ明治四十四年度より一ヶ年金五百円ツヽ償還シ、明治五十一年度迄ニ全部償還スルモノトス
理由
本村雲石尋常高等小学校ハ今ヨリ十数年前ノ改築シタルモノニシテ校舎ノ腐朽甚シク且ツ教室狭隘ニシテ現今分教室三個ヲ設備シ漸ク焦眉ノ急ヲ凌キツツアリ加之本校舎及分教室共何レモ民有地又ハ借家ニシテ年々支出スル借地借家料ノ如キハ弐百円以上ノ多キニ上リ一面校舎ノ修繕費モ随テ多額ヲ要スル次第ニテ村経済上莫大ノ不利ヲ蒙リツツアリ改ニ本年度ニ於テ是非之ガ改築ヲナサントスルモ工事費ノ全部ヲ村税ニ仰クトキハ莫大ノ賦課ヲナササヘルヘカラス如此ハ村民現今ノ状態ニテハ到底忍フコト能ハサル次第ナルヲ以テ本件学校基本財産ヲ一時支消シ然ル後八ヶ年賦ヲ以テ徐々ニ償還セントスルモノナリ
というものであった。明治41年の村会では徐々に段階的な改築を行うことに基本的合意を見ていた村会も、この泉村長の1年計画とその熱意と努力に賛意を表し、5月1日の村会で原案通り可決決定された。しかし、この4000円のみでの学校建築は無理であったので、次のように教育基金2000円の借り入れも併せて村会に提出した。
教育基金借入ノ件
本村雲石尋常高等小学校改築費ニ充ツルタメ教育基金弐千円ヲ借入セントス而シテ其償還方法利率及財源等左表ノ如シ
教育基金貸付金償還年次表
年度 | 召還元金 | 利子 | 計 | 償還スヘキ財源 | |||
円 | 円 | 円 | |||||
明治44年度 | 200 | 000 | 174 | 997 | 374 | 997 | 当新年度ニ於テ賊課スヘキ戸教割ヲ以テ之ニ充ツ |
仝 45年度 | 200 | 000 | 90 | 000 | 290 | 000 | 仝上(右) |
仝 46年度 | 200 | 000 | 80 | 000 | 280 | 000 | 仝上 |
仝 47年度 | 200 | 000 | 70 | 000 | 270 | 000 | 仝上 |
仝 48年度 | 200 | 000 | 60 | 000 | 260 | 000 | 仝上 |
仝 49年度 | 200 | 000 | 50 | 000 | 250 | 000 | 仝上 |
仝 50年度 | 200 | 000 | 40 | 000 | 240 | 000 | 仝上 |
仝 51年度 | 200 | 000 | 30 | 000 | 230 | 000 | 仝上 |
仝 52年度 | 200 | 000 | 20 | 000 | 220 | 000 | 仝上 |
仝 53年度 | 200 | 000 | 10 | 000 | 210 | 000 | |
合計 | 2、000 | 000 | 624 | 997 | 2、624 | 997 | |
備考 利子ハ一ヶ年拾円ニ付五拾銭トス |
明治四十四年度ニ償還スヘキ利子ノ多額ナルハ明治四十三年六月ニ貸付ヲ受クルモノト予想シ同年七月明治四十四年度末迄テ満一ヶ年七ヶ月分ノ利子ヲ計算シタルニ依ル
償還スヘキ財源ハ当該年度ニ於テ賦課スヘキ戸数割ナルモ従来校舎敷地及分教場等ノ借地借家料及校舎ノ修繕費ハ毎年二百円以上ノ支出ヲ為シツツアルヲ以テ本件償還ノ為メ特ニ戸数割ノ膨張ヲ見ルコトナク一両年ノ後ニテ却テ縮少ヲ見ルヘシト思考ス
理由
本村雲石尋常高等小学校ハ今ヨリ十数年以前ニ改築シタルモノニシテ校舎ノ腐朽甚タシク且ツ教室狭隘ニシテ現今分教室三個ヲ設備シ漸ク焦眉ノ急ヲ凌キツツアリ加之本校舎及分教室共何レモ民有地又ハ借家ニシテ年々支出スル借地借家料ノ如キ弐百円以上ノ多キニ上リ一面校舎ノ修繕費モ随テ多額ヲ要スル次第ニテ村経済上莫大ノ不利ヲ蒙リツツアリ故ニ本年度ニ於テ是非之カ改築ヲナサントスモ工事費ノ全部ヲ村税ニ仰クトキハ莫大ノ賦課ヲナササルヘカラス此ノ如キハ村民現今ノ状態ニテハ到底忍フコト能サル次第ナルヲ以テ本件教育基金ヲ借入レ然ル後前表ノ如ク十ヶ年ノ年賦ヲ以テ徐々ニ償還セントスルモノナリ
と提案し併せて議決となった。
この議決によって雲石小学校は明治43年5月字掛澗385番地(現在の字雲石743番地)の村有畑地を校地に定め、新校舎の新築に着手、9月30日完成した。これによって見日分校を除く3分校は44年1月廃止となり、新校舎に統合された。
泊川尋常小学校の統合廃止問題
鰊漁業の凶漁による村財政の困窮と、泊川小学校校舎の腐朽によって、その校舎再築に苦慮していた村当局は、泊川小学校の外に相沼小学校は明治16年の建築で、すでに65年を経過し、さらに校舎の狭隘もあって再築を迫られていたので、泊川小学校を廃止し、相沼小学校を、両校通学区の中央に当る五小澗に移して、ここに両校児童を収容しようとする計画がもち上った。
明治41年4月24日の村会に村長上田周より次の提案がなされた。
諮問案第四号
一相沼泊川両尋常小学校合併ノ上校舎新築ノ件
相沼泊川両校ハ校舎ノ狭隘ヲ告ケ既ニ本年ノ如キハ仮用教室ヲ設ケ漸ク児童ヲ収容シタル仕合ニシテ之ニ要スル費用モ亦僅少ナラス尚明年ニ至リテハ六年教育ノ全科ヲ施行スルヲ以テ益々狭隘告ケ増築ヲ必要トス然ルニ相沼校ノ如キハ建設以来大ニ年ヲ重ネ校舎全体腐朽シ改築ノ期現下ニ迫レル今日之ニ増築工事ヲ施スカ如キハ其当ヲ得タルモノニアラス殊ニ両校通学区域上ヨリ見ルモ又村経済ノ点ヨリスルモ両校合併ノ断行ハ目下ノ急ト認ム故ニ両校通学区域ノ中央ニ新校ノ位置ヲ指定シ敷地ノ買上処分ヲナシ本年度ヨリ継続事業トシテ校舎ヲ新築セントス
学校敷地
大字相沼村字内五小澗五番
一海産干場 五畝九歩 稲船字一郎所有此買収金百弐拾七円弐拾銭
大字同上六番
一海産干場 七畝弐拾壱歩 山田六右衛門所有此買収金百八拾四円八拾銭
という計画であった。これに対し村議会は「一相沼泊川両尋常小学校ヲ合併ノ上本年度ヨリ継続事業トシテ校舎新築スルコトニ決ス」と答申された。しかし、この答申の両小学校の統合と新校舎の新築、上地買収費を含めると約4000円を要することから、雲石小学校の新築と併せ考えると、到底至難の業で財政的な見通しのつくまで延引しなけらばならなかった。
この報を受けた泊川村民は烈火の如く怒った。泊川村内の子供達が均等に泊川で勉学するのが本当であって、それを2校統合によって泊川小学校の独立性を失い、また、村の精神的な集約の場までを取り上げる事には反対であるという村内の態度を明確にした。そして翌42年には屢々村総会を開いて協議をした結果、区長山田和吉や代表土谷駒吉等が発起人となって、泊川村内で寄附金を集め、学校を新築して村に寄付する、その条件として泊川小学校は、この侭存続させようというもので、明治42年12月泊川村民代表者土谷駒吉より次の寄附願が村長に提出された。
寄附願
爾志郡熊石村大字泊川村字大澗四拾八番ヨリ字冷水五拾弐番澗(ママ)仝五拾五番
一コケラ柾葺四ツ棟梁間五間半 桁間八間 壱棟
但本屋建坪四拾四坪
一廊下三間九尺 此坪数平坪 四坪五斗
一元(玄)関弐間弐間 此坪 四坪
此新築資金 (欠)
右ハ今般大字泊川村民協議決定新築費自弁新築ノ上寄附仕度別紙泊川尋常小学校新築工事設計書及新築仕様見積書校舎正面図地図等相添此段奉願候也
爾志郡泊川村
村民代表者
明治四十二年十二月九日 土谷 駒吉■(丸印)
熊石村長 泉 慶一郎 殿
泊川尋常小学校新築工事設計書
一コケラ柾葺四ツ棟梁間五尺三尺桁間八間 壱棟
但本屋建坪四拾四坪
一廊下三間九尺 此坪数平坪 四坪五斗
一元関弐間弐間 此坪四坪
此銘建坪 五拾弐坪五斗
一建上
柱ノ高サ土台下場ヨリロ桁峠迄十三尺五寸牀ノ高サ弐尺窓ノ高サ弐尺六寸勾配ハ五寸軒出弐尺窓ノ内方五尺ハ寸天井ノ高サ十尺五寸
但西洋式四ツ棟造り外部西洋風下見
張内部ハ板羽目張ニシテ全態日本式竿縁入トス
一右仕様地形石垣土台ヲ据エ付差支ナキ様ニ仕設
右之通り
というものであった。また、この建設予定地については、泊川村民で協議の結果、最も好ましい場所として大澗48番地が上げられ、所有者野上嘉七氏もこの事情を了として、率先所有地の寄附を次のように願い出ている。
寄附願
爾志熊石村大字泊川村
字大澗四拾八番地
一郡村宅地六畝弐拾弐歩
此価格金参拾円也
右地所拙者所有之処今般泊川尋常小字校敷地トシテ寄附仕候間此段奉願候也
明治四十二年十二月十日
爾志郡熊石村大字泊川村
字冷水弐番地
野上 嘉七■(丸印)
というものである。校舎は、玄関、下駄箱、廊下と16坪2教室で、便所及教職員室は在来のものを用いることにし、新校舎建築用地も202坪を用意するという周到な計画だったので村長泉慶一郎は、同年12月16日の定例村会で議案第1号として「一泊川尋常小学校校舎寄附願承認ノ件」、第2号として「泊川尋常小学校敷地寄附願承認ノ件」を上程可決となり、もみにもんだ相沼、泊川小学校の統合はここに終止符を打つことになった。この明治42年は鰊漁凶漁のため村内の沈滞していた時期ではあったが、村内は挙げて寄附に応じ、12月より工事が始まり、児童は一時薬師寺本堂を借りて授業、翌明治43年4月26日校舎が完成し、移転した。
第10節 宗教及び文化
明治年代後半の熊石村の宗教及び文化を語る場合、その最たるは曹洞宗門昌庵住職の星野梅苗を上げることができる。梅苗は宮城県宮城市佐々木右衛門の二男で幼名定次郎。安政5(1858)年宮城在宮野村能持寺で得度、能登総持寺に於て転衣、慶応3(1867)年函館高龍寺で修学後、江差正覚院にあること数年後の明治16年門昌庵住職として入寺した。梅苗は積極的に寺外に出て村民との交流と宗派宣布に努め数年にして村民の衆望を荷なった。
明治18年に梅苗は独力で徳昌小学校を開校したが、自らの理想に反するものであったので村民の喜捨を求め、春の鰊漁期には自ら専用の中漕船に乗り組んで、岩内付近までの各澗に入って鰊製品の寄進を受け、これを蓄積して、これをもって山門右脇に5間に7間総2階洋館造りの学校を建築し、明治22年には私立日徳小学校を開校し、生徒数も70人から80人あったという(故磯島靖一氏談)。教員には村上玉英、龍見英造、下村房次郎、成田松蔵、女教師には水橋すゑ、小野やす等がおり(鐙谷抱圓遺稿)、最も充実した学校であった。しかし、雲石小学校の新築により村の公立小学校入学の勧奨もあったので、明治25年廃校とし生徒は総て雲石小学校に入学させている。校舎は御料局札幌支庁熊石出張所に転用し、さらに明治34年雲石小学校の分校として再利用されている。このように教育一つをとって見ても梅苗の情熱と努力は素晴らしく、文化面にも貢献するところが大きかった。
星野梅苗(星野勝雄氏所蔵)
私立徳昌学校(北海道繁昌図録より拡大)
また、当時の文化人であり知名の氏に2代目児島後庵があった。後庵は蘭法医緒方洪庵の門人松山陶庵の下に学び、箱館戦争の際の箱館病院長高松凌雲とは同門であって、特に眼科の名医といわれた。明治20年頃洋館バルコニー付の病院を建て、近所の児童に洋学を教えたり、村に新風を吹き込んだ。その息勝郎も村医として貢献した。
熊石に明治から昭和にかけ日本画壇に名を連ねた人に鐙谷抱圓がいる。抱圓は父鐙谷銀之助の長男として明治13年8月21日熊石村字掛間(現字雲石6番地)に生れ、名は勝三郎で抱圓はその雅号である。小学校4年卒業後画業を志して上京し、横山大観の内弟子となって日本画を研究し、廣定、大節等の雅号を経て抱圓となった。然し師の大観と折合わず、破門同然の形で独立し、東京、九州地方で採管し、昭和30年故郷熊石に帰り、ここから小樽及び札幌方面にも出向いて、多くの絵を描いた。その絵は小樽銀鱗荘に多く残され、また、函館湯川グランドホテル等にも残されている。
鐙谷抱圓筆高砂(熊石町鐙谷栄所蔵)
当町役場には抱圓筆「槌打の舞」の絵が所蔵されている。この絵は抱圓の代表作と目される意欲を込めて描いた作品で、幕府巡見使が西蝦夷他の巡見に来て乙部村まで来、ここから馬足叶わずと、熊石方面は船から望見して帰ることになっていたが、乙部宿泊の夜、熊石村相沼内村居住のアイヌ人達が謁見に訪れ、男子はメッカ打の演武、女子は鶴の舞を披露することになっていたが、抱圓がこの古実に基づいて描写した傑作と見ることができる。熊石町にはこのほか鐙谷勝彦家にも2点保存されている。抱圓は戦後子息芙美夫氏のところに身を寄せ、昭和37年3月27日、82歳で札幌市琴似町八軒95番地で死亡している。また、その遺稿に“蝦夷ヶ千島拾遺”がある。
抱圓落款拡大
明治から大正期にかけての熊石の文芸については三国定雄氏が関内小学校創立百周年記念に出版した“関内よもやま話”(昭和57年8月刊)によれば、雑俳がこの地方でも江戸中期から始まり、「主に関西よりむしろ北上し、山形、秋田、津軽方面に盛んで、天保から安政年間、箱館―松前―江差、そして、最後に熊石関内に止まったもので、函館には竹風(ママ)会、松前に松風会、江差には霰庵、鴎会、泊には田毎庵あって、明治初年よりお互い交流し盛んであったが、何れも後継者は去り、自然廃退し陰もなくなったが、熊石町吟月社は、今では北海道で独り其形勢を保ち、最近、会員も中年層や女性の新加入を見て、20数名となって、漸次発展の一途を辿っている。」
と述べており、また、吟月社俳人として
明治年代
岩山 一喜、中山 今戸、福岡 福笑、大塚 除風、大坂 花宿、大坂 金丸、岩佐 東海、高橋 北杖、森 北洋、笠原 霜楓、
大正時代
泉谷 大泉、佐藤 浮舟、坪谷 素人、山崎 天橋、長谷川 登亭、真島 歌亭、
等があり、月一度程度、福岡福笑宅を開放して吟月社例会を開いた。雑俳はその幅も広く、題としては長歌、短歌、送り題、笠題、沓題、折り句、一字さし、二宇さし、情歌、等多彩であったという。
また、熊石を代表する文人に佐野情右衛門(雷麿)がある。雷麿は詩文、漢文、和歌に秀で、村名主を勤めたが、天保5(1834)年商用を兼ねて知見を広めるため、松前から13湊を経て、奥羽西岸を南下し、北陸から京都、大坂、伊勢、信濃を経、さらに日本海沿岸を北上して、小泊から江差に着船しているが、出発は同年8月、帰着は翌年5月で、実に10ヶ月間の大旅行であった。この旅行でものした記録、和歌を使って編述した“旅硯”は市立函館図書館に保存されているが、近世蝦夷地定看者の知見、教養を知るため貴重な史料であるばかりでなく、文学的にも高い評価を受けている。その扉には
多飛寿ゞ里
旅の夜な夜なともし火のもとにて 何くれと かき綴りたるを取出し見れば 吾ながらも つたなく かたくななる事のみ おほかるなれば 紙神魚のゑば となし捨てんものにしあれど 初て旅する人の よすがにもならまじかばと 其侭にかき写して(多飛寿夕煙(たびすゞり))と題する事しかり
心をば 硯の海に なぐさめん
筆の命も あらんかぎりは
天保六とせ水無月なかば
佐野の 雪丸誌
とあって、その文章の流麗さ、和歌の巧さがよく現われているが、文中の和歌数種を紹介する。
十三湊(津軽)にて
思ひきや けふみちのくの 旅衣
馬の上にて 月を見んとは
大津(近江)にて
往き返る 人も 大津の町なれや
知るもしらぬも 蝉丸の宮
京都(芭蕉堂)にて
手向とも なれよ
野山の 枯尾花
伊勢(両皇太神宮)にて
我がこころ 神のみまへも 恥かしや
むかう鏡の 照るにつけても