第10章 昭和前期の熊石村
第1節 行政変革と村の行政
昭和前期とは昭和2年から昭和20年までとして記述を進めるが、この年代は前半の不凶克服から始まり、自力更生による村起し、町民の等しく渇望していた船入澗の完成、そして戦争遂行の国策から村行政の変化、さらには町民の戦争下に於ける生活と苦難の歴史をまとめる。
先ず、この時代に於ける村理事者村長の就任、退職は次のとおりである。
8代目村長 関 琢次郎
大正14年11月より昭和3年5月7日まで、3年6ケ月在任の上、東瀬棚村長に転出。
9代目村長 菅原 直次郎
昭和3年5月7日より、昭和7年4月7日まで3年11ケ月で奥尻村長に転出。
10代目村長 大戸 昇六
昭和7年4月7日東瀬棚村長より、昭和8年4月17日勇払郡穂別村長に転出、1ケ年勤務。
11代目村長 松田 熊吉
昭和8年4月17日幌別郡幌別村長より、昭和11年4月9日奥尻村長に転出、在任3ケ年。
12代目村長 山内 禎介
昭和11年4月9日より、昭和14年4月8日乙部村長に転出、在任3ケ年。
13代目村長 西田 豊平
昭和14年4月8日根室郡和田村長より、昭和16年5月15日退任の上、故郷金沢に帰る。在任2年1ケ月。
14代目村長 廣川 恵蔵
昭和16年5月15日江差町助役より、昭和18年3月17日肺炎のため病死し、村葬を執行す。廣川村長は背丈1・80メートルもあり、やや痩せ形で、酒を嗜む人であった。
15代目村長 久保 正信
昭和18年4月9日苫小牧町助役から、昭和21年11月7日公職追放により失職。久保村長は釣りが好きで、非常にきさくで、よく人とも逢ったが酒は飲まなかった。
9代 菅原 直次郎
10代 大戸 昇六
11代 松田 熊吉
熊石村村会関係綴及び議決書、会議録に添付の事務報告書(前年度の村動向の主なもの)によって当時の職員状況を見ると
昭和4年
村長、菅原 直次郎
収入役、佐野 眞一郎
庶務係主任、書記 中条 長吉、書記 補岸田 専治
統計係、土木・勧業係主任、書記補 大川 久次郎
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 瀧 嘉一、書記補 佐野 兵栄、書記補 田村 順治
庶務係、戸籍・兵事係、書記補 加茂 廣治
昭和5年
村長、菅原 直次郎
収入役、佐野 眞一郎
総務係、庶務係主任、書記 唐沢 次郎作、同書記 岸田 専治
統計係、土木・勧業係主任、書記補 大川 久次郎
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記瀧 嘉一、同書記補 佐野 兵栄、書記補 田村 順治
庶務係、戸籍・兵事係、書記補 加茂 廣治
12代 山内 禎介
13代 西田 豊平
14代 広川 恵蔵
昭和7年
村長、大戸 昇六
収入役、佐野 眞一郎
総務係、庶務係主任、書記 唐沢 次郎作、同書記 佐野 兵栄
財務係主任、書記 亀沢 義一
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
土木・勧業係主任、書記補 大川 久次郎
統計係主任、書記補 田村 順治
船入澗築設工事監督、技師 熊沢 謙允
船入澗築設事務係、書記 福田 勝次
昭和8年
村長、松田 熊吉
収入役、佐野 眞一郎
庶務係、庶務係主任、書記 唐沢 次郎作
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 沢村 才蔵
土木係、勧業係主任、書記補 大川 久次郎
庶務係、書記補佐野 兵栄
統計係主任、書記補 田村 順治
財務係、書記補 髙田 惣五郎
一般事務補助、雇 村田 光義
船入澗築設工事監督、技師 熊沢 謙允
船入澗築設事務係、書記福田 勝次
昭和10年
村長、松田 熊吉
収入役、佐野 眞一郎
総務係、庶務係主任、書記 唐沢 次郎作
戸籍・兵事・教育係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 岸田 喜太郎
財務係、書記 髙田 惣五郎
土木・勧業統計係主任、書記補 大川 久次郎
財務係、書記補 田村 順治
衛生係、書記補 相田 光義
庶務係、雇 坂村 礼三
昭和11年
村長、山内 偵介
収入役、佐野 眞一郎
総務係、庶務係主任、書記 唐沢 次郎作
戸籍・兵事・教育係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 岸田 喜太郎
土木係勧業統計係主任、書記補 大川 久次郎
財務係、書記補 田村 順治
財務係、書記補 髙田 惣五郎
衛生係、書記補 相田 光義
庶務係、雇 坂村 礼三
昭和12年
村長、山内 偵介
収入役代理者書記、書記 岸田 喜太郎(佐野収入役応召による)
庶務係主任、書記 唐沢 次郎作
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 岸田 喜太郎
土木勧業統計係、書記補 森 敏太郎
庶務係、書記補 田村 順治
財務係、書記補 髙田 惣五郎
教育衛生係、書記補 相田 光義
財務係、書記補 坂村 礼三
昭和13年
村長、山内 偵介
収入役、唐沢 次郎作
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
社会統計係主任、書記 田村 順治
財務係主任、書記 髙田 惣五郎
庶務・勧業土木係主任、書記補 栄田 端午郎
財務係、書記補 荒井 忠資
教育衛生係、書記補 相田 光義
財務係、書記補 坂村 礼三
農事係、農業技手 岸田 喜八郎
書記 佐野 眞一郎(応召)
昭和14年
村長、西田 豊平
収入役、唐沢 次郎作
庶務・勧業土木係主任、書記 亀田 義一
戸籍・兵事係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、書記 髙田 惣五郎
統計係主任庶務係、書記補 田村 順治
庶務・勧業・土木係、書記補 荒井 忠資
財務係、書記補 佐々木 市太郎
勧業係、書記補 岸田 栄次
勧業係、技手 岸田 喜八郎
庶務係、雇 大塚 正輝
戸籍・庶務係、臨時雇 瀬川 フサヱ
(応召)書記 佐野 眞一郎
(応召)書記補 松田 菊三郎
昭和15年
村長、西田 豊平
収入役、唐沢 次郎作
総務係主任、書記 佐野 眞一郎
庶務係主任、書記 安田 多吉
財務係主任、髙田 惣五郎
土木・勧業統計係主任、書記補 松居 栄
調整・職業係主任、書記補 田村 順治
戸籍・兵事主任、書記補 荒井 忠資
財務係、書記補 佐々木 市太郎
統計・勧業・庶務係、書記補 松田 菊三郎
調整・勧業係、書記補 岸田 栄次
庶務係、臨時雇 赤泊 カツヱ
戸籍・兵事・庶務係、臨時雇 瀬川 フサヱ
財務係、臨時雇 仲尾 節子
(応召中) 大塚 正輝
昭和18年
村長、久保 正信
助役、吉田 政治
収入役、唐沢 次郎作
書記 松居 栄、谷口 好忠、田村 順治、荒井 忠資
書記補 松田 菊三郎、赤泊 茂松、大塚 正輝、岸田 浩、瀬川 フサヱ、木谷 正男、本村 豊作、丸山 稔、高倉 政一、板木 一郎
昭和20年(9月末現在)
村長、久保 正信
助役、吉田 政治
収入役、唐沢 次郎作
書記 髙田 惣五郎、荒井 忠資、松田 菊三郎、岸田 栄次
書記補 赤泊 茂松、佐々木 市太郎、大塚 正輝、清水 末五郎、橘 宇一、佐賀 実、甲谷 栄一、本村 豊作、久保市 トミヱ、田子谷 レイ
事務員 土谷 ツネ、井川 京子、福岡 テル
臨時事務員 岡田 ノブ、沢野 武
給仕 煤谷 トモ、花田 美代
村会議員
村会議員は明治35年の自治制(2級町村制)施行以来、議員の任期は2年であったが、昭和3年の地方自治法の改正により任期は、1級町村と同じく4年となり、議員定数も12名から18名となったが、昭和前期の村会議員は次のとおりである。
昭和2年現在
1 平山 平吉、2 大野 喜作、3 田村 一治、4 輪島 留五郎、5 佐野 栄吉、6 田中 岩吉、7 荒井 幸作、8 山田 万吉、9 辰野 徳太郎、10 斎藤 幸作、11 福岡 駒次郎、12 加藤 誠二 (番号は議席)
昭和3年6月改選結果
1 斎藤 幸作、2 大塚 忠五郎、3 田中 岩吉、4 杉田 儀一郎、5 中川 亀蔵、6 福岡 駒次郎、7 輪島 留五郎、8 武田 広治、9 佐野 幸作、10 大野 喜作、11 根上 常吉、12 山田 万吉、13 杉村 恭三、14 辰野 徳太郎、15 田村 一治、16 荒井 幸作、17 岸田 作太郎、18 荒田 彌六
昭和7年6月改選結果
1 辰野 徳太郎、2 武田 広治、3 根上 常吉、4 荒田 彌六、5 中川 亀蔵、6 加藤 誠二、7 杉田 儀一郎、8 長沼 清、9 岸田 作太郎、10 松田 菊蔵、11 平山 平吉、12 斎藤 幸作、13 大塚 忠五郎、14 山田 万吉、15 福岡 駒次郎、16 佐野 幸作、17 杉村 恭三、18 大島 力蔵
昭和11年6月改選結果
1 杉村 恭三、2 輪島 留五郎、3 辰野 忠治、4 斎藤 幸作、5 岸田 作太郎、6 加藤 誠二、7 松田 菊蔵、8 平崎 千秀、9 櫻井 初五郎、10 長沼 清、11 武田 広治、12 大島 力蔵、13 中川 亀蔵、14 大塚 忠五郎、15 町田 徳治、16 福岡 駒次郎、17 新谷 曰一、18 荒田 彌六
昭和15年6月改選結果
1 平崎 千秀、2 輪島 留五郎、3 大塚 忠五郎、4 長沼 清、5 大江 金蔵、6 杉田 儀一郎、7 稲船 浅次郎、8 山上 福一、9 武田 広治、10 斎藤 幸作、11 佐野 幸作、12 杉村 恭三、13 櫻井 初五郎、14 加藤 誠二、15 岸田 長太郎、16 工藤 才太郎、17 田村 秀三郎、18 福岡 儀一
昭和19年6月改選結果
1 平崎 千秋、2 輪島 留五郎、3 、4 長沼 清、5 大江 金蔵、6 杉田 儀一郎、7 稲船 浅次郎、8 山上 福一、9 、10 斎藤 幸治、11 佐野 幸作、12 杉村恭三、13 櫻井勧五郎、14 加藤誠二、15 岸田長太郎、16 工藤 才太郎、17 田村 秀三郎 (欠番は不明)
部長及び区、区長制度
村の各部落における連絡機関として設けられ、この部組織によって、村自治は大いに振興されてきたが、昭和3年の地方自治法の改正により、従来の部及び部長制度は廃止され、昭和3年度から区及び区長制度(任期4年)で新発足することになり、昭和3年4月26日の第2回村会において区の地域割、区長、区長代理者が選任されたが、その第1回任命者は次のとおりである。
区名 | 区域 | 区長名 | 区長代理者名 | |
第1区 | 字東掛澗 | 佐藤 又七 | 沢谷 重次 | |
第2区 | 字西掛澗 | 足立 大吉 | 戸田 徳太郎 | |
第3区 | 字中歌 | 田村 千万蔵 | 越野 清松 | |
第4区 | 字畑中 | 荒谷 留蔵 | 平井 由太郎 | |
第5区 | 字幌目 | 佐藤 富蔵 | 赤泊 勝太郎 | |
第6区 | 字便ノ澗 | 大塚 忠五郎 | 万谷 梅太郎 | |
第7区 | 字丸由 | 岸田 作太郎 | 岸田 定太郎 | |
第8区 | 字岡下 | 佐々木 友次郎 | 高田 亀太郎 | |
第9区 | 字横澗 | 土谷 俊太郎 | 佐々木 房吉 | |
第10区 | 字畳岩 | 輪島 留五郎 (辞任に付) 佐野 秀太郎 |
漬野 藤吉 | |
第11区 | 字平田内 | 井川 又次郎 | 目谷 又五郎 | |
第12区 | 宇鮎溜 | 四方 幸作 | 佐藤 春松 | |
第13区 | 大宇泊川村 | 自見市 至大谷地 |
沼浪 藤吉 | 佐藤 八三郎 |
第14区 | 大字泊川村 | 自人住内 至黒岩 |
百田 熊一 | 松田 菊蔵 |
第15区 | 大字泊川村 | 自冷水 至台潤 |
杉田 儀一郎 | 佐藤 喜作 |
第16区 | 大字相沼内村 | 自五小潤 至中歌 |
茶碗野 清太郎 | 加我 長五郎 |
第17区 | 大字相沼内村 | 自津花 至喜楽町 |
島谷 喜平 | 小山 幸三郎 |
第18区 | 大字相沼内村宇折戸 | 根上 常吉 | 田畑 与佐次郎 | |
第19区 | 大字相沼内村 相沼内川東側上流一帯 |
遠藤 新三郎 | 近藤 寅吉 |
その後、昭和5年4月1日付をもって第19区を廃止し、第17区に統合することとした。その理由は、村会議決書によれば、
理由 第十九区内ノ相沼上一円ノ土地ハ前年函館水電株式会社ニ於テ買収発電所建設上該地ニ堰堤ヲ築設シ一大貯水池ナシタルニ依リ該部落民ハ全部他ニ転住シタル為メ本区内に於ケル現住者二、三戸ニ過キサルノミナラス将来戸数増加ノ見込モナキニ依リ本区ヲ廃シ之レヲ第十七区ニ併合シ以テ事務ノ簡捷ヲ期セントス。之レ本案ヲ提出スルノ所以ナリ。
昭和五年二月二十四日提出
熊石村長 菅原 直次郎
この原案は2月26日原案可決となっている
第1回区長選任者は昭和7年4月任期満了し、代理者も12月任期満了となったので、それぞれ5月10日、12月26日の村会で選定された。第2回選任者は左の通り。
区名 | 区 長 名 | 区長代理者名 |
第1区 | 辰野 志治 | 横田 友一 |
第2区 | 戸田 徳太郎 | 藤田 正義 |
第3区 | 田村 千万蔵 | 木谷 留吉 |
第4区 | 荒谷 留蔵 | 佐賀 森太郎 |
第5区 | 山下 勝次郎 | 赤泊 勝太郎 |
第6区 | 萬谷 梅太郎 | 佐野 定一 |
第7区 | 岸田 定太郎 | 櫻井 甚作 |
第8区 | 高田 亀太郎 | 渡辺 庄之助 |
第9区 | 土谷 俊太郎 | 佐々木 房吉 |
第10区 | 荒田 彌六 | 加我 萬治 |
第11区 | 井川 又次郎 | 坂本 唯一 |
第12区 | 四方 幸作 | 佐藤 春松 |
第13区 | 沼浪 藤吉 | 佐藤 八三郎 |
第14区 | 百田 能一 | 天満 豊太郎 |
第15区 | 中島 常三郎 | 荒谷 彦次郎 |
第16区 | 茶碗野 清太郎 | 加我 長五郎 |
第17区 | 島谷 喜平 | 荒谷 兵市 |
第18区 | 平崎 千秀 | 田畑 与佐次郎 |
第2次区長は昭和11年4月、同代理者は12月それぞれ任期満了し、第3次任命されたものは次のとおりである。
区 名 | 区 長 名 | 区長代理者名 |
第1区 | 石田 福松 | 横田 友一 |
第2区 | 戸田 勝太郎 | 藤田 正義 |
第3区 | 田村 千萬蔵 | 木谷 留吉 |
第4区 | 荒谷 留蔵 | 河部 策三郎 |
第5区 | 山下 勝次郎 | 赤泊 勝雄 |
第6区 | 萬谷 梅太郎 | 能登谷 兵作 |
第7区 | 岸田 定太郎 | 櫻井 甚作 |
第8区 | 高田 亀太郎 | 輪島 一郎 |
第9区 | 上谷 俊太郎 | 佐々木 房吉 |
第10区 | 加我 萬治 | 濱野 藤吉郎 |
第11区 | 井川 又次郎 | 岩佐 又一 |
第12区 | 四方 幸作 | 佐藤 春松 |
第13区 | 沼浪 藤吉 | 佐藤 八三郎 |
第14区 | 百田 熊一 | 天満 豊太郎 |
第15区 | 中島 常三郎 | 酒谷 長太郎 |
第16区 | 茶碗野 徳太郎 | 加我 長五郎 |
第17区 | 島谷 喜平 | 荒谷 兵市 |
第18区 | 竹内 友吉 | 田畑 与佐次郎 |
第4次区長、同代理者
昭和15年5月20日区を13区とし、次のように区長及び代理者が選任された
区名 | 区長名 | 区長代理者名 |
第1区 | 西村 末太郎 | 熊谷 栄助 |
第2区 | 田畑 与佐次郎 | 荒谷 兵市 |
第3区 | 山田 岩吉 | 辰野 仁蔵 |
第4区 | 大井 幸寿 | 酒谷 長太郎 |
第5区 | 佐藤 佐太郎 | 新木 喜次郎 |
第6区 | 四方 幸作 | 木村 今五郎 |
第7区 | 山内 常吉 | 西田 仁三郎 |
第8区 | 加我 萬次 | 濱野 藤吉郎 |
第9区 | 佐々木 房吉 | 林 義次 |
第10区 | 岸田 定太郎 | 赤泊 喜代七 |
第11区 | 萬谷 梅太郎 | 田村 亮治 |
第12区 | 田村 千萬太郎 | 平井 幸作 |
第13区 | 戸田 徳太郎 | 中森 玄仙 |
このような変遷を経た区及び区長制度は、町内会組織の完成と、その活動によって、この制度の活用の要をなさなくなったところから、昭和17年3月31日限りで廃止となった。
学務委員
○昭和3年9月任命
(村会議員より選任)
福岡 駒次郎、荒井 幸作、山田 萬吉、大野 喜作
(一般より選任)
田村 市太郎、本間 吉太郎、平崎 千秀、加藤 誠二(他に小学校長2名)
○昭和7年任命
福岡 駒次郎、田村 市太郎、中川 亀蔵、本間 吉太郎、加藤 誠二、中島 常三郎、山田 萬吉、平崎 千秀、富樫 保蔵、三浦 忠洸
○昭和11年任命
中川 亀蔵、加藤 誠二、平崎 千秀、辰野 忠次、佐野 麟太郎、本間 吉太郎、藤谷 市三郎、山田 萬吉、針谷 為治、三浦 忠洸
○昭和15年任命
加藤 誠二、平崎 千秀、大江 金蔵、大塚 忠五郎、佐野 麟太郎、本間 吉太郎、山田 萬吉、松田 菊蔵、針谷 為治、本間 喜八郎
○昭和19年
小学校長2名のみ任命
昭和年代に入り、昭和3年の地方自治法の改正により、昭和3年3月31日限りで従来の部及び部長制は廃止され、3年4月には区制及び区長、区長代理者が発令された。また、従来明確でなかった助役に相当する上席書記の位置付が明確となった。さらにこの年の選挙から村会議員定数は12名から18名と変更された。この昭和初期の村行政変化の主なものを上げると次のとおりである。
昭和4年
○二股特別教授場昭和3年度限り廃止となる。
(二股地区は函館水電株式会社の貯水地となるため)
昭和5年
○雲石道路改修着手。
○雲石尋常高等小学校改築。
昭和2年より昭和11年まで10年間戸口
年度 | 戸数 | 人口 | 男女内訳 | 職業別戸数内訳 | |||||||||||||
男 | 女 | 漁業 | 農業 | 物品 販売 |
運送 | 仲買 | 牛馬 売買 |
宿業 | 理髪 | 湯屋 | 料理店 | 飲食 | 製造 | 其ノ他 | |||
昭和 2年度 | 1、062 | 6、510 | 3、398 | 3、112 | 738 | 21 | 108 | 32 | 25 | 4 | 9 | 6 | 4 | 3 | 4 | 19 | 89 |
昭和 3年度 | 1、078 | 6、609 | 3、450 | 3、159 | 752 | 21 | 108 | 32 | 25 | 4 | 9 | 6 | 4 | 5 | 4 | 19 | 89 |
昭和 4年度 | 1、092 | 6、694 | 3、494 | 3、200 | 762 | 27 | 82 | 38 | 31 | 1 | 8 | 7 | 3 | 5 | 2 | 23 | 103 |
昭和 5年度 | 1、148 | 6、808 | 3、516 | 3、292 | 775 | 25 | 84 | 38 | 32 | 2 | 9 | 7 | 2 | 6 | 5 | 23 | 140 |
昭和 6年度 | 1、152 | 6、831 | 3、525 | 3、306 | 798 | 25 | 87 | 38 | 32 | 2 | 10 | 9 | 2 | 7 | 5 | 23 | 114 |
昭和 7年度 | 1、152 | 7、430 | 3、799 | 3、541 | 855 | 25 | 87 | 35 | 28 | 2 | 10 | 9 | 3 | 6 | 6 | 23 | 63 |
昭和 8年度 | 1、156 | 7、426 | 3、913 | 3、513 | 849 | 25 | 87 | 38 | 26 | 0 | 11 | 10 | 3 | - | - | 11 | 96 |
昭和 9年度 | 1、156 | 7、329 | 3、814 | 3、515 | 853 | 26 | 89 | 41 | 26 | 0 | 12 | 11 | 3 | 11 | 84 | ||
昭和10年度 | 1、209 | 7、409 | 3、814 | 3、595 | 855 | 26 | 106 | 28 | 67 | 55 | 72 | ||||||
昭和11年度 | 1、196 | 7、287 | 3、729 | 3、558 | 849 | 31 | 106 | 28 | 67 | 55 | 60 |
昭和2年より昭和11年まで10年間の主要漁業収入調
年度 | するめいか | すけそうたら | 総生産額 | 漁家戸数 | 魚家一戸当たり 平均収入 |
||
貫数 | 金額 | 貫数 | 金額 | ||||
昭和 2年度 | 円 79、100 |
円 157、409 |
円 749、735 |
円 108、975 |
円 746、047 |
円 738 |
円 1、010 |
〃 3 〃 | 164、560 | 416、400 | (ママ) 273、913 |
164、264 | 1、216、078 | 752 | 1、617 |
〃 4 〃 | 85、296 | 164、264 | 740、114 | 111、017 | 763、010 | 762 | 1、001 |
〃 5 〃 | (不明) | 775 | |||||
〃 6 〃 | 59、280 | 74、100 | 684、500 | 82、140 | 498、789 | 798 | 625 |
〃 7 〃 | 74、630 | 74、630 | 601、700 | 78、791 | 395、232 | 855 | 462 |
〃 8 〃 | 81、397 | 81、397 | 849、208 | 101、913 | 668、918 | 849 | 787 |
〃 9 〃 | 64、920 | 64、920 | 1、551、361 | 186、163 | 824、419 | 853 | 967 |
〃 10 〃 | 16、920 | 16、920 | 1、267、980 | 190、347 | 815、678 | 855 | 954 |
〃 11 〃 | 34、105 | 34、105 | 976、852 | 146、528 | 1、159、871 | 849 | 1、366 |
昭和6年
○7月船入澗工事着手、工事監督員、事務書記任用。
○8-9月豪雨のため被害多し。
昭和7年
○満州事変発生によって、村内兵事々務多忙となる。
昭和8年
O青年訓練所廃止となり、4月1日付をもって、雲石、相沼両水産青年学校出来る。
O打ち続く凶漁のため村内困窮し、11月政府払下げ米四百石をもって、急場をしのぐ。
O熊石村を雲石村と改称する案を村長から村会に提出し、保留となる。
O船入澗完成。
昭和10年
O政府払下米682俵を村内配付(10月より12月)。
O7月より9月にかけ豪雨数回。
O第1回指導聚落として丸山部落が指定される。
O明太(みんたい)の製造技術向上のため、4月臨倉品評会を行う。
昭和11年
O教育召集、演習召集で入隊する者26名に及ぶ。
O6月25日より27日まで津軽地区特別防衛演習の実施あり、防空監視哨も作る。
O9月熊石村振興委員会発足、委員91人に及ぶ。
O10月天皇陸軍特別大演習統監のため来道、函館柏野練兵場御親閲に当村から144名参加。
O10月3―4日の台風で村内稀に見る大惨事となり被害16万8000余円に及ぶ。
O経済更正計画立案。
昭和12年
O雲石小、相沼小共に増築。
O聖旨奉体記念事業起きる。
O11月熊石村防護団結成。
O12月国民精神総動員運動始まる。
O熊石村出動軍人後援会出来る。のち銃後々援会と改称。
O防空監視哨2か所に出来る。
O漁業協同組合3組合に分かれる。
Oこの年召集令状の下達多く、出征兵士激増。
昭和13年
O4月1日熊石村職業紹介所できる。
O7月19日初めての戦死者の村葬を行う。
O方面委員常務委員に佐野幸作、副常務委員に武田広治任命される。
O熊石村農地委員会発足、委員9名。
昭和14年
O社会教育委員3名任命される。
O江差職業紹介所聯絡委員8名任命される。
O熊石警防団結成される。団員150名。
O熊石村自作農創設維持奨励規程できる。
O桧山地方に赤痢大発生、当村でも14名の患者でる。
O字地番変更答申。
昭和15年
O字名、地番改正実施。
O区を13区制とする。
O22部落会出来る。
O物資配給制度でき、防空演習多く行われる。
昭和16年
O栄鉱業所大谷地方面探鉱。
O村有林施業案編成。
O国民学校令により小学校を国民学校と改称する。教頭制度出来る。
O太平洋戦争突入。以後、戦時一色となる。
O体力法施行され、体力章検定始まる。
昭和17年
O区設置規程廃止
O年度内泊川分校を改築し、泊川国民学校となる。
O9月第7師団師団演習。
O熊石村森林組合結成。
O職業紹介所が国民職業指導所となり、徴用、勤労動員多くなる。
昭和18年
O3月村長広川恵蔵病没し、村葬を行う。
O8月熊石村参与条例出来る。
Oほんだわら、いたどり採取始まる。
O物資配給困窮の度を加える。
O熊石産業組合できる。
昭和19年
O発疹チフス流行。
O八雲飛行場掩体壕築設、石炭輸送、石炭山への勤労報国隊など出動。
O国民学校2部授業。
O熊石村開発期成会設置。
O国民登録10月より始まる。
昭和20年
O総動員警備実施。
O熊石漁業会できる。
O熊石村出身住吉礼治氏1万円を寄付し、育英資金とする。
O8月15日終戦。
以上が熊石村の昭和前期に於ける主な行政の変化であるが、第2節以下で、その内容を詳述する。
第2節 漁業の変化と船入澗の築設
熊石村の主産業であった漁業の大宗をなすものは鰊漁業であったが、大正期に入り、大正3年以降全く鰊が獲れなくなったことにより、鰊漁業者は転換を余儀なくされ、奥地漁場へ歩方漁夫として出稼し、鰊漁業終了後はカムサッカ方面への日魯漁業への出稼、帰村後はイカ釣漁業、さらに冬期の助宗鱈漁を経て生活するという、漁業方式の一変した生活様式と変化した。
その後、熊石の主漁業として登場したのが、イカ釣漁業である。道南近海には多くイカが回游していたが、需要も少なく自家用食料として加工保存するに過ぎなかった。幕末箱館開港によって清国貿易が本格化し、鯣製品が輸出されるようになると、上磯郡矢越岬近海で漁獲が本格化し、明治以降に於ては年々生産額が増加し、鰊凶漁後はその代替漁業として登場してきたものである。本町に於ては明治37年の鰊凶漁後関内村がこの漁業に着目し、川崎船30余隻をもってこの事業に当ったのが初めとされている。
大正末期に入ると、この夜間、沖合で操業するイカ釣漁業を石油動力という速度、安全度の高い漁船に改良し、漁獲の増加を図ろうとする動きが漸次現われている。大正30年から15年までの統計で見ると
大正13年 動力船2艘、無動力船713艘
大正14年 動力船2艘、無動力船714艘
大正15年 動力船なし、無動力船716艘
で、大正13年初めて石油発動機船が登場するが、これすら自動車の廃品エンジンを川崎船に装着するなど模索の段階であって、企業化はされていなかった。焼玉エンジンによる発動機漁船がこの村に出現したのは昭和4年頃からで、船入澗の着工した昭和7年頃から急激に増加しと昭和7年から11年までの5年間に発動機漁船が倍以上に増加し、漁業が近代化、スピード化されてきている。
年度別機動船・磯舟数
年度 | 動力漁船数 | 磯船数 |
昭和7年 | 25 | 684 |
昭和8年 | 28 | 573 |
昭和9年 | 43 | 579 |
昭和10年 | 50 | 594 |
昭和11年 | 51 | 500 |
この様な趨(すう)勢を踏まえて船入澗の築立は、純漁村としての熊石村としては最重点的に、早急に実現を要する懸案事項であった。そのため代々の村長を始め村会は、機会あるごとに陳情を重ねてきた。熊石村に築港計画が持たれたのは、すでに明治21年の道庁港湾技師長シーエス・メークの調査に始まっているが、この際の計画は、現在の港頭部分と根崎尖端部分と結んだ築港の計画で、その予算計画は凡そ次のようなものであった。
熊石港湾修築並埋立費概算調
(御雇工師メーク氏ノエ事施行)
一金七萬弐千五百六拾円五拾銭也
内訳
金参万六百五拾四円也 埠頭費
金五千六百八拾参円五拾銭也港内石垣費
金参千円也 港外地所埋立石垣費
金壱万七千八百弐拾五円也 港内埋立七千百三十坪費但壱坪弐円五拾銭ノ見込
金壱万五千四百円也 港外埋立五千百坪費但壱坪弐円七拾五銭ノ見込
差引
金八千九百拾弐円五拾銭不足
右之通概算如期
明治二十四年十一月三日調
工学士 伊藤 隆三郎■(丸印)
というものであった。
その後、明治40年には道庁技師杉野敬次郎、技術員佐藤菊次郎外1名が来村調査をしたが実現を見ず、累代の村長は熊石漁業振興の拠点として船入澗築港の実現を最大懸案としてきた。特に中野隆暉村長はこの事業に積極的に取り組み、大正10年村有志を網羅して熊石船入澗修築期成同盟会を組織し、さらに北海道築港期成同盟会に加盟、さらには、帝国議会に請願し、政友会幹事長中西六三郎の斡旋により国会採択となったが、この際は在京熊石出身者も大いに活躍をした。鐙谷抱圓の述懐によれば、
大正十年頃中野村長が東京に往って熊石漁港築港問題を帝国議会に請願する事になった。村会議員も往く筈であったが、経費其他の都合で一人で上京、佐野甚之助、林甚之丞等に運動を依頼した。佐野甚之助は当時在京中の鐙谷勝三郎、佐野常太郎、金成庄作(旧姓小島)、田村市郎等を招き熟議した結果、時の政友会幹事長中西六三郎に交渉する事となり、鐙谷勝三郎が選ばれて案内役となり中野村長を伴って議事堂に至り、折から内閣不信任問題で混雑中の中西六三郎と面談。其夜中西の宿舎で前記の諸氏と共に面談、其翌々日は東京会館に於いて中西氏と晩餐を共にし懇談の結果、政友会の決議案として議会に提出する事となり、遂に其目的を達したのである。此事を知らないで、後日某々等が自分等の手柄のように云ふのは滑稽である。
(“鐙谷抱圓遺稿”による)
この国会陳情採択を踏まえ、北海道庁は熊石村に船入澗築設の実施設計を行うことになり、大正11年2月道庁港湾課技師沢田実氏が来村し、地元側の意見を聴き設計を編製した。その目諭みは次のようなものであった。
熊石漁港工事費予算書
一金四十万八千三百円也
内訳
金弐拾五萬四千円 第一期工事費
金拾五万四千参百円 第二期工事費
工費ノ継続年期及支出額
一、第一期工事ノ着手ヨリ満二ヶ年以内ニ完成シ第二期工事ハ資力充実ノ後ニ着手スルモノトス即チ右ノ如シ
工事費継続年期及支出額
種別 | 第1期 | 小計 | 備考 | 第2期 | 合計 | |||
第1年度 | 第2年度 | |||||||
監督費 | 円 8、158・500 |
円 8、158・500 |
円 16、317・000 |
円 8、158・500 |
||||
工事費 | 3、050・000 | 3、050・000 | 3、050・000 | |||||
機械器具費 | 20、 00・000 | 20、500・000 | 8、210・000 | |||||
護岸工事費 | 5、244・500 | 3、371・860 | ||||||
西防波堤費 | 169、255・160 | |||||||
東防波堤費 甲百五十五尺 | 15、390・130 | 15、390・130 | ||||||
仝上五尺 | 34、441・770 | |||||||
乙及頭部 | ||||||||
亀腹工事費 | 11、002・160 | |||||||
仮締切工事費 | 14、442・000 | |||||||
工場斜路其他工事費 | 2、000・000 | 2、000・000 | ||||||
浚渫費 | 60、927・920 | |||||||
諸雑費 | 18、691・900 | 18、691・900 | 7、895・020 | |||||
仮架橋費 | 1、000・000 | 1、000・000 | ||||||
予備費 | 2、711・000 | 1、795・770 | ||||||
計 | 254、000・000 | 154、300・000 | 円 408、300・000 |
この設計はメーク氏の掛澗、根崎方面への築設計画に対して、それより西方500メートルの雲石崎に堤防を築設し、その内部を浚渫、護岸をするというものであったが、さきにメーク氏の算出した工事費は7万2562円50銭に対し、第一期、第二期工事費の合計は40万8300円と6倍もの工費に当るため、村関係者はこのような厖大な工事費では、村は到底負担は出来ないので、国庫補助金の増額と村費逓減、事業予算について減額方を申し入れた。これによって大正13年山野技手が出張調査して設計変更し、昭和3年12月さらにその手直しを要望し、同4年8月岸技手が来村調査をして、工事設計図、予算書の交付を受けた。政府、道庁共に昭和初頭の財政窮迫から着手に踏み切る事ができずにいた。しかし、乙部村船入澗は昭和4年6月に着手し、6年には完成見込みであるのに当村は、未だ着手の目途もたたないのは不合理であると道庁長官を始め関係者に陳情攻勢をかけていたが、6年3月に提出した請願書は、次のようなものである。
請願書
一、渡島國爾志郡熊石村ニ船入澗築設ノ速成ヲ謹テ請願仕候也
理由
多生懸案タル本村船入澗築設ニ関シテハ古キ歴史ヲ有シ明治二十二年以来之レカ速成ノタメ数十回ニ渉リ請願シ陳情セルモ未タ實現シ能ハサルヲ甚タ遺憾トスル所ナリ抑モ本村ハ檜山支廳管内ニ於ケル唯一ノ純漁村ニシテ全村挙テ近海漁業ヲ以テ生計シ來リシカ近海魚族モ逐年減少ノ傾向ニアルト共ニ沿岸漁業ハ其ノ頂点ニ達シ今後漁業ノ発達ハ主トシテ沖合漁業ヨリ遠洋漁業ニ進出セサルヘカラサルヲ自覚シ在來ノ漁船漁具ノ改良及各種漁業ノ改善に努力シ漸次其ノ諸ニツキ今ヤ石油発動機船ヲ購買シ着々其ノ歩ヲ進メツヽアルモ如何セン遠洋漁船及発動機船ヲ碇繋スルニ足ル船入澗ノ設備ナキタメ斯業ノ発達ヲ阻害スルノミナラス風波■キ春冬ノ候往々覆没又ハ人命ヲ損スルノ惨ヲ醸セル苦験ニヨリ斯業ニ従事スルモノ年々減少ノ状態ニシテ一日モ忽諸ニ附スヘカラサル大問題ナリトス而シテ是等漁船ハ概ネ資力ノ乏シキ小漁民階級カ負債ノ苦痛ニ忍ヒテ資金調達造船シタルモノニシテ一度難破ノ厄変ニ遭遇センカ再ヒ造船ノ資ヲ得ルノ途ナク殆ンド失業状態ニ陥り延イテハ産業ノ萎縮不振ヲ招キ漁村経済ヲ救フベカラサル動揺ヲ来スト共ニ民心危機ヲ孕ムノ惧ヲ有ス
本港湾ハ去ル明治二十二年十一月北海道廳ニ於テ工師並技師派遣調査ヲ嚆矢トシ明治四十年技師杉野敬資氏ノ担當ニ依リ精密調査ヲ行ヒ更ニ大正十一年二月澤田土木技師派遣セラシ(町村費支弁)実地調査ノ上設計豫算ヲ編成セラレ其工事総額四十萬余圓ヲ要セリ爾來国費支弁ヲ以テ船入澗修築速成ヲ請願陳情セシ處大正十弐年三月帝國議會ノ建議案トシテ提出セラルヽヤ貴衆両院ニ於テ採択ノ幸運ニ浴シタルモ之カ實施ノ機會ヲ得スシテ荏苒其ノ今日ニ至リタリ其後拓殖計画ノ改訂ノ結果道廳補助規程ニ依リ築設ノ止ムナキニ至リタルヲ以テ大正十三年六月山野技手出張精査ノ上設計変更セラレ昭和三年十二月更に小規模ノ計画ヲ樹テ再調方申請ヲナシタリ幸ヒ道廳常局ノ諒解ヲ得昭和四年八月岸技手派遣セラレ實地調査ノ上該工事設計図豫算書等ノ交付ヲ受ケタルヲ以テ補助申請ヲ提出セリ之レヲ以テ見ルモ天恵ノ利施行ノ難易ハ詳述ノ要ナキモ其ノ築設容易ニシテ而モ工事費多額ヲ要セサルハ深ク確信スル所ナリ之ノ築設ヲ見ンカ實ニ之等幾多ノ危険ヲ除去シ漁民ハ安シテ其ノ業ニ服シ且ツ其ノ生産額ハ柔魚、鮪、鰤、?、■(魚花)、大羽鰮等主トシテ實ニ数百萬圓ヲ突破スルニ至ルヘキハ火ヲ見ルヨリ明ナリ
而モ多年懸案タル八雲町熊石間自動車道改良工事ハ昨五年度ヨリ起工セラレ本年度継続起工スルヲ見ルニ至レリ而シテ本村ハ檜山支廳管内中最モ鉄道沿線ニ近ク函館本線八雲驛ハ僅カ二八里二十六町二到達スヘク亦タ隣村貝取澗村長磯海岸開鑿工事モ愈々本年度ニ於テ起工セラルルヲ以テ該道路完成ノ暁ハ無限ノ寶庫ハ展開セラレ從テ久遠郡爾志郡ハ勿論延イテ奥尻郡各村ノ産業ハ勃然トシテ興リ本道路完成ト相俟ツテ海陸共ニ一大革新シ得ヘク再ヒ昔日ニ倍スル活況ヲ呈スルハ贅言ヲ要セサル所ニシテ國家ノ祥事ト言ハサルヘカラス
由來本村ハ村経営上幾多案件ノ急施ヲ要スルモノアリト雖モ本村ハ多年カムサッカ、沿海洲、樺太及道内出稼漁夫一千百人以上ナルモ本年ノ如キハ三分ノ一モ雇用不能ニ至りタル現況ニ鑑ミ此儘推移スルトキハ益々窮乏ニ沈倫スルヲ以テ船入澗築設ノ有無ハ本村ノ死活問題ニシテ前記災厄ニ対スル豫防ノ施設ハ軈テ漁村ノ興亡ニ係ル重大且ツ尤モ急施ヲ要スル案件ナルヲ以テ爰ニ完全ナル船入澗ノ築設ヲ行ヒ漁船碇繋ノ安定ヲ期シ以テ災厄ノ豫防並ニ現下漁村不況ニ際シ失業防止ニ善處シ併テ産業振興上速ニ本港築設セラレンコトヲ渇望スル所以ナリ
昭和六年三月二十八日
爾志郡熊石村長 菅原 直治郎
熊石村漁業組合長 岸田 作太郎
北海道廳長官 池田 秀雄 殿
土木部長 西山 茂 殿
檜山支廳長 御村長太郎 殿
熊石船入澗完成祝賀会状況
昭和7年5月にいたり熊石船入澗築設工事は認可の指令を受け、また、国庫金借入れ起債手続も完了し、同年工費7万8000円を以って旭川市西村組と随意契約を締結した。また、工事の設計、監督には北海道帝国大学卒業の工学士熊沢謙允が監督技師として9月16日発令、また、福田勝次が船入澗修築事務書記として9月30日発令され、10月初め盛大な着手祝賀会を開いて、いよいよ工事は開始された。
その間昭和7年6月1日、村会議員選挙で6人の新人議員が当選したこともあって、同年6月27日から始まった第4回村会では、ここ数年来の凶漁から漁民の生活は困窮のドン底にある時、然も政府米の払い下げを受けて糊口をしのごうとしている現況下で、自治体が厖大な借債を持つことは好ましからずという意見があり、この際着手を延期すべしという議員が4名あり、それに対し、船入澗の築設は町民永年の悲願であり、今この機熟し、ようやく認可され、着手しようとする段階で、延期することは村民の意志を欠くばかりか、行政庁に対しても不信を招くので、財政的困窮は分からぬではないが、工事に踏み切るべきであるとする議員8人あって、対立し、採決の結果、着手と決定する一幕もあった。
船人澗完成図
工費の昭和7年度分は7万8000円であったが、10月工事着手のため工期が遅れ、5万1750円は昭和8年度に継続繰越となり、8年度の工事費予算は12万1750円となり、工事総体額は14万8000円をもって昭和9年3月完成し、4月盛大な完成祝賀会を催し、大坂商店では、これを記念し4枚1組の「落成記念絵はがき」を発売している。
船入澗完成時発売の絵はがき(北大北方資料室収蔵)
本村船入澗の完成後は、地域的に遠隔なためこの船入澗を利用できない相沼内、泊川の二村落に船入澗を造成すること、また、関内村に小船溜を設けることに焦点が向けられた。本村船入澗構築中の昭和7年10月大戸村長は佐上北海道庁長官に対して、相沼内村に船入澗を新設するよう次のような陳情書を提出している。
陳情書
一、渡島国爾志郡熊石村大字相沼内村ニ船入澗ヲ築設セラレンコトヲ謹ンテ請願仕候也
理由
我村ハ海岸沿線五里ヲ有スル純然タル一大漁村タルハ檜山支廳管内中屈指ノモノタルハ世人ノ等シク認ムル処ナリ従テ紺碧洋々トシテ際崖ナク魚族モ亦多ク今ヤ漁撈モ其ノ向上ヲ見沖合漁業等発達ノ域ニ進ミツヽアリ依テ村内字掛澗地内ニ船入澗築設ノ認可ヲ得已ニ其ノ工ニ着手セントセリ然ル処現船入澗ヲ距ル三里半即チ相沼内村ハ戸数約六百人口約三千五百余人ハ漁撈ヲ以テ本業トセリ然ルニ近年打続ク農漁山村ノ不況ニヨリ困憊其ノ極ニ達シ日常生活ノ資ニモ若痛ヲ訴フルノ憫情察スルニ餘リアリ昨年ヨリ政府拂下米ノ給與ハセラルヽコト壱千貳百俵ニ達シ猶是カ継続拂下米ノ要給ヲナシツヽアリ此時ニ當リ偶々漁村匡救対策トビア國費船入澗築設ノ議アルヲ聞ク恰モ隣村乙部船入澗ヲ距ル四里ノ地点タル相沼内村人口三千五百生死ノ岐路ニ彷徨セルヲ御憫察給ハリ是非共是レカ築設御計画ニ追加セラレンコトヲ伏シテ及嘆願候也
昭和七年十月六日
爾志郡熊石村長 大戸 昇六
北海道廳長官 佐上 信一 殿
しかし、この陳情に対し、泊川村は同じ事情にありながら、相沼内村のみを優先的に扱うのは甚だ不都合であると申し入れし、以後の陳情には相沼内、泊川の二村に船入澗を築設して欲しいと、二村併列で2か所に船入澗築設を要望した。昭和12年道庁港湾課長に提出した陳情書にも「実地御調査ノ結果相沼内、泊川両部落ニ各一ヶ所ノ予定地ヲ選定セラレタルモ」とあるように、なかなか折合いがつかなかった。
道庁に於ては資金面、経済効率からして、この二村に1か所の船入澗計画でなければ今後の立案には応じられないとする、道庁港湾課長の指示に対し、各部落、村会ではその打開策を協議の結果、道庁に於て適当と認める一か所に、二村共用の船入澗を築設してほしいと、次の嘆願書が出された。
嘆願書
本村大字相沼内村及大字泊川村ハ今回協議ノ結果、従来ノ行掛リヲ放棄シ、当方面ニ対シ一ヶ所ノ船入澗ヲ築設セラルヽ様協議相纏リ候ニ就テハ何卒御庁ニ於テ尤モ好適ノ地点ヲ御選定ノ上急速実現セラレ両部落漁民多年ノ熱望ヲ達セラレルヽト共ニ漁民ヲシテ安ジテ生業ニ励マシムル様御済ヒ被下度茲ニ村民一同ヲ代表シ村会議員一同連署ヲ以テ梱願仕候。
昭和十二年七月 日
爾志郡熊石村大字熊石村
村会議員 辰野 吉治
同
同 斉藤 幸作
同
同 新谷 日一
同
同 岸田 作太郎
同
同 大島 力蔵
同
同 中川 亀蔵
同
同 荒田 弥六
同
同 輪島 留五郎
同
同 大塚 忠五郎
爾志郡熊石村大字泊川村
村会議員 松田 菊蔵
同
同 杉村 恭三
同
同 加藤 誠二
同
同 杉田 儀十郎
爾志郡熊石村大字相沼内村
村会議員 長沼 清
同
同 桜井 勧五郎
同
同 町田 徳治
同
同 平崎 千秀
同
同 武田 廣治
従来の行き掛りを捨て二村一体となって1か所の船入澗築設を推進することを確約したというものである。この嘆願書を添え、村は一刻も早い船入澗の築設を次のように訴えている。
昭和十二年七月二十九日
爾志郡熊石村長 山内禎介
北海道庁土木部長中村忠充殿
陳情書
本村大字相沼内村及大字泊川村ハ従来何レモ一箇所宛ノ船入澗予定地ヲ確執シ各部落互ニ之レガ築望シ来リシモ今回両部落協議ノ結果急速実現方ヲ懇望スルノ余リ過去ノ確執ヲ放棄シ両部落一致御庁ニ一任スルコ卜ヽ相成候処由来両部落ハ附近沿岸ニ於テ稀ナル漁場ニ恵マレ然モ利用戸数五百有余戸年生産額三十六万円ニ上リ就中■漁業ハ全道ニ冠タルモノアリ斯ル当方面ノ現有勢力ト発動機ノ分布状態及将来著シク激増ノ趨勢ニアル大勢ヲ御賢察ノ上何卒両部落ニ尤モ適応セル好適ノ地ヲ御選定規模大ナル船入澗ノ築設ニ就キ特段ノ御高配相仰ギ度謹而陳情仕リ候。
しかし、この年以降日中戦争、太平洋戦争のため、この船入澗築設の願望は実らず、戦後に持ち越すこととなった。
カムチャッカ 鰊漁場出稼を偲(しの)ぶ座談会
開催年月日 昭和61年1月23日
開催場所 熊石町福祉センター
出席者
字相沼 滝沢 石五郎(72歳)、字相沼 南部谷 一郎(79歳)、 字相沼 木村 武之助(73歳)
宇関内 古谷国太郎(77歳)、字泊川 松田菊太郎(76歳)
島谷町史編纂委員長
島谷 熊石町から鰊が消えたのは大正3年以降といいますが、住民は生活の活路を求めて、毎年1500人以上の人が、カムチャッカ、樺太等の鰊漁場に出稼して、大正から昭和初期にかけては、村の重要な産業でした。しかし、終戦後はこれらの漁場へ行くすべもなく伝説化しています。町史編集を機会に、この座談会でこれらの記録を残し、将来に伝えたいので十分に発言して下さい。最初にカムチャッカ出稼から始めますが、出かける前の準備は。
木村 昭和6年頃、久保村長や脇坂漁業組合長が尽力して出稼供給組合を作り、出稼者の保護に努めてくれましたが、熊石村には日魯漁業会社になるまでは、カムサッカでも日本の小規模漁業会社が数多く進出していて、その当時は待遇も割によかったが、6年から8年にかけ、日魯に吸収合併されるようになってから、日魯の独占企業で、労働者も大変でした。
松田 熊石からは熊谷、田村、山田等の船頭が行っていて、船頭は1人で2、30人の漁夫を連れて行きました。私はランチの機関士として行きました。最初は東邦水産会社の南キスカ漁業でしたが、昭和6年の合併以降は、カムチャッカになりました。
木村
松田
滝沢
古谷
南部谷
滝沢 1月末頃までに就労が決まって、5月から9月まで働いて70円から90円位で食費は取られませんが、月にすると15円から20円位です。小学校を出たばかりの青年も遊んでいるより口減らしに行った方が良いと出掛ける人が多かった。
古谷 就労が決まると安田写真館で、左側に自分の名前を書いたパスポート用の写真を取り、これと印鑑を付けて送ると会社でパスポートを申請していました。5月2、3日頃、寝具と肌着の梱包をもって函館に行き、日魯の合宿所(番屋)に入りましたが、共産党などの思想を持った人は、どこで調べるのか雇われなかったようです。
島谷 カムチャッカの漁場にはどんなところがありましたか。
滝沢 南キスカのエーチャン、カムチャッカのカム河、ソーボツ(カニ)、南オロスコィーカセ、エムエート、オリウートル、等が多かったようです。
木村 日魯の罐詰工場はカムチャッカだけで42か所もあり、罐詰は1分間で120個もできました。私達北海道人は漁夫として働き、内地から来た人は主に雑夫として働きました。これらの漁場の中でカム河が最大で、ここはマスノスケ、紅ザケ、秋味、銀ザケの順に凡そ月日の決まったころに来るので引揚も遅かった。
南部谷 5月5日頃から10日頃にかけて船に乗って出掛けますが、税関の検査が終わって乗船すると、漁夫は網の上だとか蚕棚のような寝台で、船は最大の信濃丸を始め笠戸丸、五福丸、第十五幡栄丸、龍宝丸、海運丸等がありました。
滝沢 カムチャッカまでは早い船で5昼夜、普通は7昼夜でしたが、凡そ10日と見ていましたが、中には流水で20日間接岸できない場合もありました。船の中での酒や嗜好品は自分で買って持って行きましたので、酒を飲む人、博打(ばくち)をする人、編物をする人とさまざまでした。
島谷 むこうへ着いてからの労働生活は。
木村 船が陸岸へ着いてガラガラと錨を下す音と共に地獄の生活のようなものでした。着いて4、5日は本船と陸の間の荷揚作業です。何せ白夜で午前2時頃まで働かされ、食物は握り飯と沢庵漬でふらふらしながら働き、次に網の型入れです。1200間(約2キロメートル)沖合にアンカーや土俵、建組をし網入れするのに3週間はかかり、本格的漁獲は6月20日頃からでした。とにかく1日3時間位より眠らないし、食べるものは味噌汁などはなく専ら握り飯、筋子に糠漬だけでつらかったものです。
古谷 カムチャッカでは地方部長―工場主任―船頭―親父(副船頭)―船頭手伝い―陸人夫廻し―カラクリ番長―職工―艫(とも)―表―磯舟乗等の役付が決まっていて、一般の漁夫や雑夫は絶対服従であった。
南部谷 カムチャッカの東海岸はあまり海が荒れなかった。海が荒れて沖に出られない時は、箱詰め、サケの塩切りなども手伝わされたが、一番困ったのはあそこの蚊はやたら多くて大きくて刺されると吹出物が出るので困った。
日魯漁業労働者への出発通知(写真-1)
島谷 楽しかったことは何かありましたか。
松田 お盆の13日から15日頃までの3日間はそろそろ切揚も近いので慰安会が催される。この時には船漕競走や角力や仮装大会、演芸会まで催され、それぞれの優勝者は賞金と酒を貰えるので、わざわざ道具を持って行く人もいた。
島谷 切揚はいつ頃でした。
木村 8月20日過には本船が迎えのために来ますが、今度は生産物の沖積みや、帰りの仕度で10日位もかかり、8月末にカムチャッカを離れ、9月10日頃に函館に着きました。
滝沢 役付漁夫は土産にマス20本、イクラ、筋子それぞれ1箱でしたが、一般漁夫は何も貰えませんでした。それでも一般の人はベコと言って隠して持って来たものを港内で本船に物売りに来る船に投げ込んで隠して持って来た人もいます。帰りの税関の検査は厳重で、特に共産党のビラや宣伝文や本は絶対に持って帰ることは許されませんでした。
島谷 それでは次に鰊場出稼についてお聴きします。古谷さんのところは樺太には漁場があったそうですが、熊石から随分多く樺太に行ったそうですね。
日魯漁業労働者への出発通知
木村 熊石は助宗の漁業が3月末まであるので2月末頃から準備に入る北海道内には行かず、3月末から始まる樺太へ行った訳です。
古谷 先ず関内だけで鰊場へ行かなかったのは漁業者では3人だけでしたから、町内漁業者の9割までが鰊場に行きました。樺太は鰊が獲れるのが、5、6月ですから助宗漁が終わってから行けたから良かったのです。 3月の末になると越後付近から漁夫を乗せた汽船が熊石の沖にかかります。すると荒井回漕店の艀(はしげ)で夜具と着替の梱包を積んで本船に乗ります。汽船には新高丸、越後丸、神通丸等がありました。今晩船に乗ると一昼夜で樺太の西海岸に着きました。女の人たちも随分行きました。
松田 漁場に着くと先ず雪投げ、薪割りをしてから網の型枠造りに入り、沖船頭や磯舟乗の指示で網下しをしますが、それが終わった晩はお酒が出ます。
古谷 樺太の初鰊漁は4月7日ということもありましたが普通は10日頃、中心漁期は4月30日頃からです。樺太でも漁夫が100人位のところもあり、また、10人位の小さい処もあったが、大きい漁場では、人夫廻し総監督―大船頭―副船頭―船頭手伝い―沖船頭―副沖船頭(親父)―沖船頭手伝―表手伝い―磯舟乗―陸廻り、が役付でした。
松田 沖船頭は起し船に乗っていて、寝てもサワリという糸を持っていて、海がざわめいて鰊が群来て網に入ってくるのをこのサワリで、網起しの時期と枠船の準備を判断し、大船頭の号令一下網起しに入る。そうなっては飯も、握り飯に沢庵だけである。沖揚した鰊は三半船で陸へ運ぶと、女の人たちがモッコで納屋へ運び、大きなところではトロッコを敷いていましたが、寝不足でトロ押が桟橋から転落するものもありました。
木村 納屋(ローカ)に入った鰊を今度は婦人たちが、鰊ツブシをします。鰊ツブシは指で腹を裂き、内臓やササメ(笹目)を取って藁でつなぎます。これは20匹を1束とし、これを50束で1本といいます。これを干竿にかけて納屋に運ぶのをシリツナギといいます。そのシリツナギは夫婦者の男性がします。この鰊ツブシをしていると手甲をはめ、手が汚れていて、小便をするのも出来ない。また、時間も惜しいので、座っている脇に中腰になり、親父(夫)が尻をまくって小便をさせ、紙で拭いてやるというので、シリツナギと言ったが、普通の人で一日7、8本、手早い人では12、3本をこなす人もいた。
南部谷 鰊場はカムチャッカに比べ食べ物は良い方で、キャベツの身の入った味噌汁と沢庵、たまには鰊の焼いたもの、煮物等があった。
古谷 樺太では春鰊の後、5月末から6月にかけて油鰊が獲れるので、早く帰る人は5月末、普通は7月末でした。出かける時の旅費は親方持でしたが、帰りは自分持でした。
滝沢 切揚の精算で漁夫は70円位の手取りでしたが、精算では九(く)・一(いち)が問題になりました。九・一は利益の一割を漁夫に配分しますが、それは船頭や幹部で相談して配分し、一番九・一、二番九・一というふうに別れて行きます。それは抜群の働きをした者に対してのボーナスで、5円位貰って帰りました。
島谷 大正期から昭和前期の漁業出稼者の実態を明らかにすることができ、本当に有難うございました。
第3節 交通機関の変化
熊石村は桧山支庁管内に於ては中央部に位置するが、支庁所在地の江差町までは52キロメートル余、さらに函館までは140キロメートルを要するため交通は極めて不便の地であった。江差町と当村関内間は大正13年以降に江差町大桧乗合自動車会社の24人乗フオード乗合自動車が運行され始めたが、昭和期に入って一日二往復となった。これが江差に通じる唯一の交通機関であったので、殺人的混みようで乗り残される者も多かった。この乗合自動車も12月中旬より4月初めまでは運休となり、8人乗の客馬橇が運行されたが、熊石-乙部間は一日一往復、乙部-江差間は二往復で、しかも乗り替え、運賃高もあって江差に出るのも容易ではなかった。
熊石村としては、熊石-八雲間の八熊道路が大正10年完成し、この間は僅か34キロメートルの短距離であるので、この道路を利用して八雲、函館へ直接結んだ方が、村の将来に大きく貢献すると考えていた。しかし、この八熊道路は幅員が僅か六尺から八尺で、到底自動車の利用は出来ず、せいぜい荷馬車と徒歩者が利用する程度であった。
そこで、この道路を拡幅して自動車道にしようとする動きは、すでに大正14年以降、繰返し陳情、請願がなされていた。同年の北海道庁長官及び北海道会議長に対する請願書は次のようなものである。
請願書
一、熊石八雲間道路改良工事施行方ノ件
熊石ヨリ八雲町ニ通スル道路ハ明治四十二年ニ起工セラレ大正十年ニ完成シ此ノ道路ノ開鑿セラレタルニ依リ久遠郡久遠村以南ノ住民及函館札幌方面ヨリ往復スルモノニ對シテハ大ナル利便ヲ得ルニ至リタルモ現在ノ道路巾ハ六尺乃至七尺ニシテ加フルニ各所ニ急坂多ク車ヲ通スルコト不能ナルノミナラス人馬ノ交通ニモ容易ナラサル所多ク本道ハ久遠村以南江差町ノ十八里ノ間ニ於ケル鉄道線路ニ連絡スル道路ハ本線ノミニシテ最モ必要ナル路線ニ有之既ニ自動車及客馬車営業ノ計画ヲナシツツアルモノアルモ前述ノ状態ニシテ道路経済上ニ於テ将タ交通政策上ニ於テ甚タ遺憾ニ堪サル次第ニ有之候ニ付速カニ改良工事ヲ施行セラレタシ
一、熊石江差間道路改良工事施行方ノ件
熊石村ヨリ江差町迄十二里餘此ノ間江差乙部間乙部村大字蚊柱村ヨリ熊石村ニ至ル間ハ車馬ノ交通稍々容易ナルモ大字蚊柱村ヨリ大字乙部村間三里餘ハ人馬ノ交通スラ容易ナラサルノミナラス危険甚タシク本路線ハ今ヨリ三十四、五年前ニ開鑿セラレタルモノニシテ其後多少ノ改良ヲ施サレタルモ今尚舊態ノ儘ニシテ加フルニ當地ハ漁業及取引関係上江差乙部トハ密接ノ関係ヲ有シ常ニ住民ノ往復繁ナルヲ以テ急速改良工事セラレンコトヲ
右謹テ請願候也
大正十四年十二月九日
爾志郡熊石村長 関 琢治郎
桧山水産会熊石支部長 田村 一治
北海道会議長 秋山 常吉 殿
北海道庁長官 中川 健蔵 殿
この八熊道路整備事業はひとり熊石村だけの力で実現できるものではなかったので、昭和4年菅原直次郎村長は八雲町と連絡しつつこの実現を期すべく、8月24日に出函し、八雲町長と同道して、函館土木現業所に到り、この道路整備を両者で陳情した。また、同年10月18日には八雲町長内田文三郎氏が町議4名と道路状況を調査し来村し、今後の協力方を申し入れ、両者で陳情を重ねた。
この結果、昭和5年2月熊石―八雲停車場線の準地方費道は昭和5年度から7年度まで3年間で改良工事が実施されることになった。当村もこの工事に協力するため労務材料費として5年度1000円、6年度1500円、7年度1500円の計4000円支出することになり、同年8月20日の八雲町で行われた道路起工式には大戸村長が参列した。工事は予算の関係上昭和8年度に3・716キロメートルが繰り延べとなり、最終的には昭和8年8月完工を見た。
昭和9年より熊石自動車株式会社が設立され、定員10名乗りのバスが1日1往復ずつ八雲―熊石間を運行した。しかし、昭和11年3月字オクブイシの見市川架設の雲石橋が中央部から折損墜落し、9月には豪雨のため道路肩の破損が多く、同12年の春までバス運行は中止されていた。その後再開されたが、昭和17年には油類の消費規制の強化によって運行は全く中止となった。一方江差―久遠、熊石―八雲間バス路線の省営バス化の運動も計画されたが、実現を見ることがなかった。
八雲―熊石間の乗合自動車
昭和年代に入り国縫―瀬棚、木古内―江差間の国鉄布設が計画されると、江差から瀬柵までの桧山海岸国鉄線の布設計画がにわかに抬頭し、江差町長を会長として桧山鉄道期成会が設けられた。昭和9年八田鉄道次官が視察するのを機に積極的運動を展開することになり、9月8日には青森へ江差町長、太櫓村長と共に松田熊吉村長がこれを出迎え、連絡船中で桧山鉄道布設方について陳情し、さらに現地調査方を申し入れた。この結果、9月17日には八田次官が江差に来て現地調査をし、当村からは松田村長、大野・輪島村議も出席して要望したが、実現するところとはならなかった。
瀬棚線は昭和7年11月1日今金―瀬棚間が全通開業し、江差線は昭和11年10月湯ノ岱―江差間が全通開業したので、その後の焦点は桧山から函館本線を結ぶ最短路線として江差―熊石―八雲を結ぶ鉄道布設も計画され、陳情を続けていたが遂に実現を見ることはなかった。
太平洋戦争が勃発した昭和16年以降は石油、揮発油等の消費規制が厳しくなると乗合自動車は木炭を燃料として走る木炭バスと変わった。バスの後部に鉄のかまどを載せ、それに木炭を詰め、点火、送風してガスを起こし、このガスの燃焼によって走る車と変わったが、車には力がなく、坂道では男子は皆下車して押し、車掌はいつも鼻の下が真黒であった。戦後進駐した米軍は、これらの車を見て、日本人の最大の発明であると言ったが、戦争中の日本はそれ程窮迫していたのである。
第4節 青年学校の設置と戦争化への道
青年訓練所が各高等小学校内に開設されたのは大正15年7月1日である。この青年訓練所設置の理由は、一般の高等小学校の卒業者は徴兵検査までの5年間家事を手伝い、公民的教育がなされないまま経過するので、その間日本国青年としての教育を身に付け、さらに軍事教練をも学習しておく機関として設けられたのが青年訓練所である。
しかし、昭和期に入り国内の軍事化が進み、特に昭和6年9月18日満州(中国東北部)奉天北方柳条溝付近で発生した南満鉄道の爆破事件を契機として、この鎮圧に動いた日本からの派遣駐留軍の関東軍との間に事件は拡大し、昭和8年5月末の停戦協定まで続けられたのが満州事変である。政府はこの戦争には不拡大方針をとりながら、一方では国内総力の戦力化と軍需生産化へ指向したが、特に徴兵適齢期青年を予備兵力化するための指導教練機関として、この青年訓練所の拡大強化を図るため、青年学校の開設を考慮し、昭和7年に青年学校設置法を発布し、壮丁青年中小学校高等科卒業者は入学を義務化し、昭和8年4月1日で青年訓練所を廃止し、同年4月1日をもって高等小学校内に青年学校を併置して発足することとなった。
熊石村では同8年2月の定例村会で、第1号議案として「青年訓練所廃止ノ件」として、雲石、相沼の2青年訓練所を4月1日限り廃止し、議案第2号では「水産青年学校設置ノ件」を可決し、4月1日より雲石水産青年学校、相沼水産青年学校がそれぞれ雲石・相沼の両尋常高等小学校に併置することとなった。この学則は、雲石水産青年学校の例を取れば次のようなものである。
雲石水産青年学校学則
第1章 目的名稱及位置
第一条 本校ハ實業補習学校規定ニ依り設置シ水産業ニ従事スル者ニ對シ水産ニ関スル智識技能ヲ授クルト共ニ徳性ノ涵養ニ努メ国民生活ニ須要ナル教育ヲ為スヲ以テ目的トス
第二条 本校ハ雲石水産青年学校ト称シ爾志郡雲石尋常高等小学校ニ併置ス
第2章 編成及修業年限
第三条 本校ノ課程ヲ本科、高等科トス
第四条 修業年限ヲ定ムルコト左ノ如シ
男子部 本科二年、高等科四年
女子部 本科二年、高等科二年
第三章 学年、学期、教授季節及教授時刻
第五条 学年ハ毎年四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ル
第六条 学年ヲ分ケテ左ノ三学期トス
第一学期 自四月一日 至八月三十一日
第二学期 自九月一日 至十二月三十一日
第三学期 自一月一日 至三月三十一日
第七条 教授ノ時刻ハ学校長ニ於テ適宜之ヲ定ム
第四章 休業日
第八条 休業日ヲ定ムルコト左ノ如シ
一、祝祭日、二、札幌神社例祭、根崎神社祭、
三、学校長ニ於テ必要ト認定ノ日
第五章 学科目及其ノ程度並教授日数
第九条 本校ノ学科目、学科課程 教授時数ヲ定ムルコト左ノ如シ
男子部
本科 | 高等科 | ||||||||||
学科目 | 学科課程 | 1年 | 2年 | 計 | 学科目 | 学科課程 | 1年 | 2年 | 3 | 4 | 計 |
修身公民 | 道徳ノ要旨 公民心得 |
25 | 25 | 50 | 修身公民 | 道徳ノ要旨 公民ノ心得 |
20 | 20 | 20 | 20 | 240 |
普通科 | 普通文講読 地理歴史ノ大要 実用数学 |
75 | 75 | 150 | 普通科 | 講読・国体 国勢ノ大要 実用数学 |
60 | 60 | 60 | 60 | 240 |
水産 | 水産大要 本村水産上適切 なる事項 |
100 | 100 | 200 | 水産 | 本村水産上適切 ナル事項 |
60 | 60 | 60 | 60 | 240 |
教練 | 体操・教練 | 50 | 50 | 100 | 教練 | 青年訓練規定 教練・武術 |
100 | 100 | 100 | 100 | 400 |
計 | 250 | 250 | 500 | 計 | 240 | 240 | 240 | 240 | 960 |
女子部
本科 | 高等科 | ||||||
学科目 | 学科目 | 1学年 | 2学年 | 計 | 1学年 | 2学年 | 計 |
修身公民 | 道徳ノ要旨作法・公民心得 | 20 | 20 | 40 | 20 | 20 | 40 |
国語 | 普通文の講読作文 | 40 | 40 | 80 | 20 | 20 | 40 |
数学 | 算術(筆算、珠算) | 25 | 25 | 050 | |||
水産 家事 裁縫 |
本町水産上適切ナル事項 衣食住、育児、看護、家事等ニ関すル一般 ノ事項。通常袋服ノ裁方、縫方、繕方。 |
185 | 185 | 370 | 200 | 200 | 400 |
計 | 270 | 270 | 540 | 240 | 240 | 480 |
第六章 講習会及其ノ他ノ諸会
第十条 本校ニ於テハ左ノ事項ヲ行フルコトアルヘシ一、講習会講話会、研究会 二、通信教授、掲示板教授 三、視察旅行 四、其他
第十一条 本校ニ入学シ得ルモノハ高等小学校卒業又ハ之ニ準スベキ者
高等科ニ在リテハ前期ノ課程ヲ終了セル者トス
但シ前項ノ外男子部ニ在リテハ満十六才以上ノモノハ特ニ高等科ニ入学スルコトヲ得
第十二条 本校ニ入学セントスルモノハ第一号書式ノ入学願書ヲ学校長ニ差出スベシ
第十三条 入学ハ毎学年ノ始トス 但シ場合ニヨリ臨時入学ノ許可スルコトアルベシ
第十四条 他ノ学校生徒ニシテ轉入学ヲ志願スルモノアル時ハ学校長ハ之ヲ相当学年ニ編入スルコトヲ得
第十五条 退学セントスル者ハ其ノ事由ヲ具シ保護者又ハ雇傭主ノ連署ヲ以テ第二号書式ノ願書ヲ学校長ニ差出スベシ
第八章 修業及卒業
第十六条 各学年ノ課程ノ修了ハ平素ノ学業成績及操行ヲ考査シ出席日数等ヲ?酌シテ之ヲ認定シ第三号書式ノ修業証書ヲ授典
第十七条 各科ノ課程ヲ修了セリト認定シタル者ニハ第四号書式ノ卒業証書ヲ授与ス
第九章 授業料
第十八条 本校ハ授業料ヲ徴収セス
第十章 賞罰
第十九条 学校長ハ品行方正学業優等ニシテ精勤ナル者又ハ奇特ノ行為アリテ他ノ模範トスルニ足ル者ニ対シ之ヲ表彰スルコトアルベシ
第二十条 本校生徒ニシテ校則ニ違背シ生徒タル体面ヲ汚辱スル等非違ノ行為アルトキハ之ヲ懲戒ス其ノ処分ハ謹慎、停学又ハ退学トスル
附則
第二十一条 本学則施行ニ関スル細則ハ学校長ニ於テ之ヲ定ム
この学則によれば熊石の場合は実業補修学校規程によって設立され水産業に従事する青年に対し、水産に関する智識技能を授け、徳性の涵養と、国民生活に須要なる教育を為すを以て目的としているが、国民生活に須要なる教育が国家の要求する軍事教練であった。修業年限は男子本科2年、高等科4年の計6年、女子本科2年、高等科2年計4年であるが、男子本科の場合水産学科と普通科、教練が主体であるが、高等科は教練が主体となった。女子の場合は家事、和裁に公民教育が次ぐという教育内容であった。
校長は各髙等小学校長が併任され、水産学科授業は水産学校出身助教諭を当て、当初軍事教練は師範学校出身者で短期現役兵として士官適任証を授与されている教員を充てたが、後には在郷軍人中指導力のある者が、指導員として任用されるようになった。
同年5月17日には
雲石水産青年学校長 富樫 保蔵
相沼水産青年学校長 三浦 忠洸
が、髙等小学校長と併任発令され、いよいよ開校発足した。
この青年学校の発足は、村の民俗、習慣等に大きな変化をもたらした。それまでは男子の労働服もドンザや刺子等の和服労働が多く、僅かにカムサッカ方面への出稼ぎ漁夫が労働服を支給され、着用しつつあったが、青年学校はカーキ色の軍服を模した制服に、編上革靴に巻脚胖に制帽となったことによって、和服が次第に姿を消し、着物に下駄の着流し姿が見られなくなった。女子は着物に袴が制服とされたが、後にはセーラー服を着用するものが現われ、更に戦時中には着物にモンペが目立つようになり、生活様式や青年学校での料理の普及、また、軍隊経験者による食事の嗜好変化など村内の民俗面では大きく変わりつつある時代であった。“昭和8年熊石村事務報告”によれば、この水産青年学校は兼任校長2名、兼任助教諭8名、その他の職員16名で、生徒数は男子264名、女子99名、計363名であった。また、この年6月18日雲石小学校で執行された徴兵検査では、
検査 壮丁数 100名
その内 甲種 35名
乙種 18名
丙種 19名
丁種 6名
その他 6名
で、そのうち終決処分は
現役兵 16名
第一補充兵 25名
第二補充兵 28名
徴集免除者 19名
兵役免除者 6名
兵籍編入者 1名
在学徴集延期者 4名
で、青年学校卒業者の兵役就役者が年と共に増加した。
相沼青年学校査閲(寺井鉄一氏所蔵)
満州事変には、昭和7年9月第7師団から兵員約三分の一に当る混成第14旅団(旅団長少将服部兵次郎)が編成、渡満し、大興安嶺作戦、熱河作戦、河北作戦に従軍し、昭和9年3月帰還した。同8年時点でこの混成第14旅団には熊石村からは次の諸氏が所属し、7月9日凱旋帰郷し、各種団体共催で歓迎会を催している。
歩伍長 伊藤 浩、歩伍長 斎藤 市郎、歩上(下適)紅谷 義雄、歩上(下適)手塚 末作、歩上 宍戸 昇、輜上(下適)佐野 武蔵、砲上 藤村由太郎
の7名であったが、このほか同年末満州方面に出征中の当村出身軍人は次のとおりである。
木村 良雄、宮崎 光次、中村 豊吉、経亀 政吉、松田 勝栄、遠藤 幸作、油谷 治三郎、島谷 誠司、佐々木 貞吉、山上 俊雄、花田 作郎、藤谷 留蔵
日本の軍事強化と共に、青年学校を通して青年の有事予備軍化への動きが次第に強まり、軍事教練時間数も多くなってきたが、日本の軍事化への一つのまとめといわれるのが、昭和11年天皇が来道統帥した北海道大演習である。この大演習は我が国最後のもので、我が国の軍事能力を一点に集中したものであったが、これには御親閲として各青年学校生徒も参加した。
天皇が北海道大演習統監の後、小樽から軍艦比叡で函館に向われる10月9日の夜半、村内は提灯行列でこれを奉迎し、また、村役場内に天機奉伺所が設けられて、一般村民の拝賀が許された。10月10日の函館柏野の天皇御親閲には、青年学校男子71名、女子26名、計97名、青年団男子22名、女子17名、計39名、在郷軍人8名、計144名が参列している。これは国家の時代要請が青年に向けられていることの証左と見ることができる。なおこの天皇御巡幸の際には次の村内諸氏に御紋菓の下賜があった。
高齢者 伊藤 清四郎
高齢者 岸田 キク
高齢者 輪島 マサ
節婦 新保 ユワ
節婦 岸田 トミ
戦病歿人遺族軍 大高 リヨ
戦病歿人遺族軍 加藤 ツサ
戦病歿人遺族軍 岸田 トミ
傷痍軍人 佐藤 又作
この大演習のあった昭和11年には日本の軍事化に向けて多くの準備段階が行われていた。この年在郷軍人で演習召集、帰休兵召集を受けたものは24名、教育召集者が2名あったほか、津軽地区特別防衛訓練が行われている。この訓練は道内地方の防衛のために何をなすべきかを住民に理解させるための訓練で、津軽要塞司令官を統監に6月25日から28日までの4日間行われ、熊石村にも「熊石村防衛演習委員会」が設けられ、21日には予行演習が行われた。この演習では灯火管制、防火、防護団の編成の外、青年学校生徒をもって防空監視哨を設置、哨長は学校指導員、哨員は生徒をもって充てるなど、次第に臨戦体制への中に住民が組み込まれて行った。
昭和11年 柏野天皇御親閲記念写真 (若松小学校前 島谷護氏所蔵)
第5節 昭和初期の民俗
昭和初期は熊石町にとっても民俗の変換期であった。明治・大正期は幕末からの風俗、習慣がその侭受け継がれていた。都市の一部に於ては家屋、服装、食事の変化を見た家庭もあるが、それは特定のものであった。都市から離れた漁村では全く変化がなく、大正12年1月1日見市発電所の完成によって熊石村に文化の灯といわれた電灯が灯り、ようやく近代文化の仲間入をしたものである。しかし、衣服、労働着等は圧倒的に和服が多く、昭和5~6年頃の小学校の入学式を見ても、学生服を着た子供は1人か2人であった。これが出稼者が多くなり、また、昭和8年青年学校の設置により、青年服、編上革靴、ゴム長靴、メガネ靴等が出廻り、和服姿は日一日と減退し、昭和6年の満州事変以降では着流しは敵だという戦時意識もあって衣生活に大きな変化を見せ、さらに風俗、習慣、住居、食生活にも大きな変化を見せてくる。食生活についても四つ足動物の肉は不浄のものとして食わず鶏肉だけを食べていた漁民が、都市との交通の利便、接触によってこれらを食うようになり、鶏卵やバターは肺結核の者の滋養食としてより食わなかったものが、これらの配給制によって一般家庭の食用にまで供され、この配給制度によって都市と漁村の食生活の格差を完全に打ち破るなど、昭和期は正に民俗の転換期であった。
筆者が“水産北海道”(通巻27号)に掲載した「昭和初期の渡島・桧山地方漁民の生活」があるので、これを次のように掲げる。
1、漁業生活の推移
明治末期以降ニシン漁業を失った渡島・桧山地方の漁業は、わずかに噴火湾沿岸のイワシ漁業を除き、まったく低迷していた。ニシン漁の代替えとなる漁業を見い出すことができず、道内漁業関係業務の労働給源地化している。大正12年におけるニシン漁業労務者のうち、この地方から47パーセントを供給していることからみても、いかに前浜漁業が不安定となり出稼ぎに頼っていたかを知ることができる。これら渡島・桧山地方の漁業生活者の労働生活暦をまとめてみよう。
1月 小正月が過ぎると漁民は自家用薪材の伐り出しのため2週間ほど山にはいる。これは部落の共有林や官林、地方費材などの払下げを受け、来年度に家庭で炊く燃料を伐り出すのである。地方によって異なるが、五(ごつ)・一〇(とう)(幅二尺×高さ五尺×長さ一〇尺)、五(ごう)・八(はち)(幅三尺×高さ五尺×長さ八尺)をもって一棚単位とする薪を一戸10棚ほど伐り出して山積しておき、山で枯したものを、9月水送して冬期間の家庭燃料にし、余ったものは売り捌いて木代および労賃の一部に充てるようにしていた。冬期間金銭収入の少ない家族にとって、1月から2月の岩海苔摘みは貴重な収入で、寒中時化の海岸に出てこの仕事をした。
2月 1月末から各村にはニシン漁業、北洋・千島漁業の周旋員(職業紹介法施行後は選考員)がいて、出稼組合と連係を取りながら出稼漁夫の選考をする。ニシン漁業への出稼ぎは労働期間も短かく収入も不安定で、前借金も旅費に若干上積みされる程度であったから、2・3月の無収入期にこの金で食いつなぎ、出発の際は旅費もなく周旋員に泣きつくことが、しばしばであった。
それに引き替え北洋のカニ工船やサケ・マス漁業は日魯漁業会社が主体であったから、収入も安定し、労働時間も長く、前借金も多くできるので、北洋漁業で働ける者は羨望されたが、ここへの出稼ぎは世襲的に継続されていて新規の割込みはなかなかできず、周旋員も会社の幹部職員となっているため質の悪い者を送ると、あとでその責任を負わされるので選考は厳重であった。前借を50円程度借り、旅券申請用の写真を撮り、これを添えて役場の職業係に旅券を申請しておく。
3月 2月末からニシン出稼漁夫が出発する。畳表(シチド)に補強のため綿糸で編んだ網をかぶせ、寝具や衣類を入れて鉄道便で送り、トランクには肌着や日用品を入れて出発した。コールテンのズボンや乗馬ズボンにトツクリセーター、漁場の名前を染め抜いた印半纏に長靴、新しいタオルで頬被りという姿が多く、毎年の行事のためか、しばしの別れにも家族はなんらの哀別の情を示さなかった。日魯漁業など北洋出稼者も準備にはいるが、これらの人たちは親会社から揃いの作業服が支給されていた。
4・5月 留守家族にとって最大の関心事は出稼中の夫や家族の出稼先の漁況であった。新聞等で大漁だというと、皆がにこにこ笑い、不漁だというとふさいでいた。ニシン漁出稼者の多くは分方(ぶかた)で雇われているため九一の手当や、大漁時の特別手当にありつけるからである。5月の桜見の終わったころにニシンの出稼者たちが土産の身欠ニシン、すしニシン(ニシンの塩糠漬)、数の子等を特って帰ってきて、出稼ぎしなかった家にも配る。これは冬期間の食料にしたり、秋のニシン漬など正月の料理に用いるため大切に保存していた。
6月 海の穏かな晴れた日を選んでワカメ採りが行なわれる。この月には各村々の最大の行事である小学校の運動会が行なわれる。娯楽の少ない当時としては、この小学校の運動会とお盆、村祭、お正月が各庭の最大の行事であったから、各村は仕事を休んで子供とともに一日を過すならいであった。
7月 中旬ころからこの地方の中心漁業であるイカ釣漁が始まる。昭和初期までは川崎船で帆をかけたり、櫓を漕いで出漁していたが、昭和5、6年ころから急に発動機漁船に転換した。また作業用衣もそれまでは木綿布にボイル油を塗った木綿合羽であったが、このころからゴム合羽が普及するようになった。漁法は夜間沖合いでイカをしやくり針のような釣針で釣り上げるが、底釣の場合はヤマデ針を使い、イカが波間に浮いてきた場合トンボ針で釣っていたが、集魚灯を用いる科学漁法も進んでおらず、昭和12年ころまでは万年凶漁的漁業であった。7月末ころまでは梅雨が連続するため、生産しても乾燥ができず、腐敗し海中投棄するものが多かった。
8・9・10月 イカ漁の最盛期を迎えるが、この間に8月にはコンブの採取が行なわれる。この採取は近世以降の手法であるネジリという棒の先に2本の木の枝を出したものや、鎌などによって収穫する。イカ漁も最盛期にはいると青森・新潟・石川の各県から漁船に家族連れで入稼ぎに来て、各村の海浜の番屋を借りて住み込み、小学校の生徒数も8月から11月までは2、30パーセント増加していた。イカは魚価が低廉で、しかもいっせいに操業するため水揚量も多いので、獲れると価額でたたかれ、常に大漁貧乏の域を出なかった。昭和12年日中戦争の勃発後、大陸方面への需要が増加したことによって、価格も安定するようになったが、漁民の最大の関心はその月々のスルメの建値に集中されていた。これらの生産物の多くは仲買人からの青田借(前借)のため、安価で引き取られることが多かった。
9月 カムチャッカ方面へ出稼中のものも帰り、土産やベコ(隠して持って帰ること)のサケが村中の家庭に多く出回わる。これらの出稼帰りの人たちも11月までは、イカ釣漁に稼働する。
11月 荒天の日が多くなり、出稼日数も多くなり、出漁日数も減り、これから12月までの間に収穫したイカは、越年のための生活費に回わされるならいとなっていた。この時期には、新潟・石川県方面から青田仕込みをしている醸造業者が樽詰の味噌・正油を船に積んで来て、昨年秋に置いて行った分の掛金を集め、今冬の分を置いて帰り、また同地方や対岸津軽・秋田からの家族ぐるみの入稼者も帰り、もう冬籠りの準備に入る。
12月 イカ漁も終わり、後は正月用かまぼこ(かまぶくと呼んでいた)を作るためのホッケとタラ釣漁、またこの時期からは桧山地方北部と噴火湾沿岸ではスケトウタラ漁が始まる。
2、衣服
大正期には女性の普段着はすべて和服で統一されていたが、男性は労働服として木綿ズボンやコールテンのズボン、ズボンの裾を細くしてボタン留にした乗馬ズボンに、上衣は毛糸で編んだトックリセーター、シャツ、襦袢に袖なしや印半纏、刺子などが用いられたが、普段着の和服は紺木綿無地や盲縞が多く、洋服を着る漁民は少なかった。冬期間は肌着として女性はネルの腰巻や毛糸の都腰巻などをし、襦袢、股引などは各家庭で年齢に応じた型紙を持っていて、呉服店からネルの反物を買って、足袋などとともに作り着用していた。また冬期間は男は刺子、ムジリ外套、二重マント(インバネス)にアンカ帽などが用いられ、女は頭巾に角巻、毛布・刺子のほか被布(ひふ)(和製の婦人コート)なども用いられた。
昭和期に入ると、活動に便なため漁村にも洋服が浸透し、3、4年ころには作業服が大いに利用されるようになった。小学校生徒の学生服も、このころは数えるほどしか着用者がなく、ほとんどが紺絣の着物であったが、わずか数年後の7、8年には逆に和服を着ている者の方が少なくなった。このことは急速な洋服化が、この時期に進められてきた証拠とみることができる。履物も下駄・草履からデンプン靴・めがね靴・長靴・ズック靴・皮靴と変化した。昭和5、6年ころから在郷軍人分会・消防組・青年訓練所の組織が年をおって各町村に整備され、制服が定められたことも、急速に洋服化が進んだ要因の一つとなっている。
女子については洋服化は遅々として進まなかったが、家政学校などで洋服の裁断、ミシンによる縫合などを教えるようになってから徐々に進み、12年の日中戦争後は和服の着流しは自粛され、愛国・国防婦人会の正装も筒袖にもんぺ、それにエプロンとなってからは、女性のズボンの着用がめだつようになった。13年「国家総動員法」の施行後は「贅沢は敵だ」の合言葉のもとに、奢侈品の製造は少なくなり和服の着用者は減少した。15年9月には戦争体制が強化され、全道的に本格的な防空演習が行なわれるようになると、その主役が隣組、婦人会におかれ、ズボンに筒袖の防空頭巾のいでたちの女性が多くなった。
17年はじめ男性は国民服、女性は標準服が制定され、衣料も切符制となったことから、全国的に衣料は統一され、地方的な格差がなくなった。
3、食生活
都市の流通市場に遠く、交通が不便で、冷凍設備が発達していない大正末期から昭和前期の道南地方の漁村の食生活は、自家生産される魚を主体に、ほとんが自給自足せざるをえなかった。漁獲は漁業者の仕事ではあるが、それ以外の食品の確保は主婦の最大の仕事であり、常にこのことを念頭において行動しなければ、食生活の全きを期することができなかった。この期には缶詰製品や加工食品も徐々に商店に出回ってきたが、漁家収入が、家族数に比して少ないため、このような高価で量の少ないものを購入して食べる余裕もなく、たまに来客のときに利用されるのみで、ふだん家庭において副食として供されることはきわめて稀であった。それでは村の漁業世帯はどのようなものを食べて生活していたかを調べてみよう。
まず主食である米の穫れない漁村で、しかも金銭収入の少ない当時、米の確保は容易なことではなく、一俵(60キロ入り)買をして暮す家は裕福とされた。なかには毎日一升(1.8リットル)買をして過す家もあった。イカ釣漁業の盛業期は収入もあるので、米の購入も容易であったが、収入皆無の冬期間はできるだけ主食も切り詰め、朝はいも粥と味噌汁、昼はいもの塩煮にイカの塩辛、夜は麦、馬鈴薯、高粱、玉蜀黍などのはいった糧(かて)飯に煮魚か焼魚、魚汁というきわめて簡素な食生活であった。調味料の味噌・正油は晩秋、新潟・石川県方面の醸造業者が青田売で置いて行った二斗樽入が土間に据えてあり、これを使った。各家庭で購入し備えていた食品としては、乾ソバ・乾ウドン・ソーメンなどがあった。肉類は四つ足ものがまだ普及せず、鶏肉が主であり、バター、チーズ等は病人の栄養食品としか考えておらず、一般家庭に利用されることはなかった。
春の山菜採りは主婦の保存食確保のための重要な労働であった。4月末ころから出るカタクリ、コゴミ、ゼンマイ、アカハギ、ウドなどは、すぐ家庭の副食となるし、5月から6月にかけてワラビ、タケノコ、フキ、シイタケ等は乾燥、塩漬にして冬期間まで保存した。5月に兼業としての畑作が始まり、馬鈴薯・玉蜀黍などが蒔付けされるほか、秋収穫の牛蒡・人参・葱・キャベツ等の野菜も蒔付された。また6月には海産物としてワカメが採取されるので、味噌汁の材料として各家庭では大量に格納されたし、ニシン漁の出稼ぎから帰った人たちからもたされた身欠ニシンや、すしニシンも秋・冬のために保存された。
夏期はイカ漁業の最盛期にはいるので、収入もあり、イカや釣魚も多いので総じて副食は豊かであった。出漁した朝にはかならずイカの刺身を食べる習慣があった。またイカ漁の合間にサバ、ブリ、マグロなどの釣漁もあり、この期の家庭の料理は一段と華やかな時期である。また8月中にコンブ採りがあり、自家用だしとして細目コンブが多く格納された。8月初旬には馬鈴薯が掘り取られ、その跡には大根、白菜、たい菜など越冬に必要な野菜がすぐ蒔付された。
秋期10月にはもう越冬の準備である。畑の野菜は月末までに収穫され、貯蔵用のものは居間の隣にしつらえてある室(むろ)に入れて保存され、また畑にも穴を掘って一カ所に埋め、土をかぶせて保存しておいた。11月は漬物の時期で沢庵・切漬(大根を早く食べるため薄塩で漬けたもの)、白菜漬、ニシン漬、イカ漬のほか、大根の葉やたい菜なども糠漬にしたり、乾燥したりして保存したが、粕漬や味噌漬は贅沢なものとしてあまり作らなかった。また11月のイカの終漁期近くなると、イカは塩辛をはじめ一杯漬、酢漬、粕漬等に加工され、冬期間の重要な副食となった。
冬期の12月に入り、イカ釣漁業は終了するが、ホッケやスケソが多くとれるので、このホッケを利用してのいずしやかまぼこが多く作られる。この地方ではホツケのかまぼこが年越しからお正月にかけての必需品であるので、各家庭で作り、日の出や焼かまぼことして利用した。年越しには豆腐も自家で作り、それに貯蔵食料を総動員した。料理としては焼魚、うま煮、鯨汁、平(ひら)(煮〆)、お坪(材料を細かくきざんだ煮〆)などであるが、同じ材料で、味付けも似通ったものが多かった。正月用の餠は4と9のつく日は搗かず、自家に近隣の若い者が集まって搗き、漁家の青年たちで賃餠グループを作って歩く者もあった。
正月のおせち料理はあまり重きがおかれず、なます、きんぴらごぼう、黒豆、かまぼこ、焼魚程度であった。雑煮は薄味の正油に凍豆腐、焼豆腐、鳥肉、かまぼこ、海苔など自家に保存しているものを7種類(七色・七草)入れた。またその家庭によっては乾燥アワビ、いりこなどを水でもどし入れていた家もある。本州地方では草類の七草を確保できるが、北海道でこれを求めることができなかったので、現地で調達できるものを選んで七色・七草にしていたことは生活の知恵ともいうことができる。15日には小正月があり、20日正月でお正月の行事は全部終わり、後は冬籠りの状態で、保存食料をもって金のかからぬ生活を続け、静かに春の訪れを待つという食生活の繰り返しであった。
4、住宅
道南部の渡島・桧山地方の住宅は、明治末期以降のニシンの万年凶漁から、住民の漁業収入は極度に減り、食生活すら満足にできず、まして住宅の新築をする漁家はほとんどなかった。ただ大正年間津軽海峡に面した東部下海岸地方や、噴火湾地方のイワシ定置網漁業に豊漁が続いていたので、この関係者のなかにイワシ御殿という立派な家を建てるものがあったが、これは極めて稀なことであった。
一般の漁家の住宅は、木造平屋建の古い家が多く、とくに松前地方では別図の類例のような家が多かった。海岸の強風を避けるため平屋建が多く、屋根は長柾を葺き、これに石を置いて押えとする石屋根であった。大正期以降には普通柾屋根に変わったが、トタン葺きとなったのは昭和期以降で、きわめて裕福な家庭のみであった。昭和14、5年ころから紙にタールを塗ったルーフィングが発明され、安価で手軽に屋根が葺けることから、漁業者の屋根補修にこれが多く用いられるようになった。
入口をはいっての特色は土間が表から裏まで通し土間になっていて、この土間の居間に面したところに水甕、流し台、ヘツツイが続いており、裏には漁具を格納する掘立式の下屋(げや)があり、これを通って海産干場をへて海岸に面し、便所は外便所であった。屋内間取りはだいたい4室に割り、家長の寝室を海岸に取る家と、道路側とする家の違いはあったが、居間は窓もなく穴蔵のように暗く、その屋根にガラスで空窓(天窓ともいう)を作って明りを採っている。家長の寝室に床の間、仏壇、押入れのある家は少なく、多くの家は押入れが少ないので寝具をたたんで積んで置くという状況であった。調度品も必需品程度で、箪笥を持っている家も数えるほどであった。その例として、昭和初期から12年ころまでの万年凶漁時代に、税金の滞納の差押えが年中行事のようにあったが、差押えは生活必需品の鍋・釜等を除いているので、役場の掲示板に張られる差押え物件は、ボンボン時計、唐紙・襖、障子戸が圧倒的であったことからもその状況を知ることができる。
第6節 日中戦争の勃発
昭和12年7月7日中国北京郊外で発生した中・日軍の接触が日中戦争(支那事変)と化した。この戦争は天皇の宣戦布告がなかったので、当時は支那事変と呼ばれていた。この事件発生と共に第7師団に対し動員令があり、第7師団はそのまま旭川に在留し、予備役、後備役を臨時召集して1個師団を編成して、北支、中支方面に出征することになった。師団が兵員の召集をする場合、師団長が動員管理官となって召集予定の兵種毎人員を地区連隊区司令部(道南の場合は函館)に通知する。司令部は備え付の兵籍から適任者を選び、召集令状(赤紙といわれる)記入の上、各支庁兵事係に交付する。交付を受けた各支庁は急使となって乗用車で各町村に至り、町村長に召集令状を交付する。町村長は保管の兵籍簿と照合の上本人に交付する。この場合、町村は予め職員のなかから急使となるものを用意し、召集令状を急使鞄に入れて自転車で本人宅に向うが、大概急使の到着が真夜中になる事が多く、戸を叩かれた本人は、兼ねて覚悟の前とはいいながら茫然自失して裸のまま立っている人もあったという。
日中戦争の勃発した7月の末には予備役、後備役を主体とした臨時召集、充員召集、教育召集が毎夜の如くあり、これらの人たちは旭川で軍服、兵器を受領し、部隊編成が終わるとすぐ、北支、中支に向けて出征したが、”旭川第7師団“(示村貞夫筆)によれば、この年旭川で編成され出征した部隊は、1個師団分で、北支方面209個部隊、中支方面は14個部隊、計43個部隊で、そのうちで特に有名だったのは、道南出身者の多かった永田部隊、堀越部隊、広辻部隊、角部隊(第7師団後備歩兵第一大隊~四大隊)であった。
この戦争突入により国内も臨時体制に入り、熊石村はこの12年には聖旨奉体記念事業と国民精神総動員運動が重点施策として行われた。聖旨奉体事業とは、前年北海道御巡幸された天皇の叡慮に奉答するため、国民としての自覚を新たにし、新しい村造りに貢献しようという運動で、12年には全道上げて行われ、熊石村では次の重点事項を実施した。
一、学校薬草園ノ造成
一、学校記念植樹
一、学校林ノ植栽
一、神社林ノ植栽
一、村其ノ他記念造林
一、道路河川ノ愛護(各部落出動河川ノ清掃、道路ノ草刈修繕、側溝ノ浚渫)
一、小学校児童結核検診(雲石129名、容疑9名、虚弱16名、相沼84名、容疑16名、虚弱6名)
一、「ジフテリア」予防注射全村施行
一、健康運動 神社境内ニ於テ毎朝ラジオ体操ノ実施 自8月1日~至8月21日
一、納税組合ノ増設
一、備荒財蓄心ノ涵養
一、行幸記念式ノ挙行
一、各戸大麻ノ奉戴
一、各戸国旗ノ掲揚
一、役場学校神棚設置
一、神社前通過ノ礼拝励行
一、青少年団ノ出動、神社境内ノ清掃美化作業
一、郷土警備ノ充実
この運動は明治維新的色彩が強く、天皇、神道崇拝を中心として郷土の団結と美化に努めようとするものであった。
また、戦争の危機突破のため、国民が精神を統一してその難局に当ろうとする動きがあって、10月12日国民精神総動員中央聯盟が結成され、村にも村長を会長として分会が設けられ、この年行った運動は次のようなものであった。
軍人の必ず所持した奉公袋(島谷護氏所蔵)
軍隊手帳(山田修三氏所蔵)
軍隊手帳の内容
国民精神総動員強調週間 自10月13日至10月19日
国民精神作興週間 自11月10日至11月16日
国民精神総動員「防火デー」 12月1日
国民精神総動員産業週間 自12月3日至12月9日
このような戦時体制突入によって村内も村民間に戦時緊迫感が追っていた。毎年行われる青年学校教練査閲は11月8日相沼、9日雲石校で行われ、査閲官は歩兵第26聯隊田村中佐で、雲石校139名、相沼校113名であった。また、在郷軍人の簡閲点呼は7月16日雲石、17日相沼校で行われ函館聯隊区司令部三橋中佐が執行官となっている。この年の徴兵検査では、26名の入営者を出している。帰休兵の召集の外臨時召集によって動員された兵士は、熊石村だけで60名にも達している。
熊石村警防団結成式(昭和14年4月3日)
これら出動軍人の留守家族を守り、應召者を激励するため、この年(12年)7月30日熊石村出動軍人後援会が設けられたが、この会は翌月熊石村銃後後援会と改められた。この会では道費、村費、一般寄付金をもって軍事扶助を行っているが、12年度の支出額は517円余にのぼっている。
さらにこの年10月30日、熊石消防組が改編され、熊石村防護団となった。これは従来の消防組の火防、消火活動から、何時空襲等の惨害に逢うかも知れず、万一の場合その災害を最少限度に止め、住民を守るための広範な業務を担当するためであった。
消防組の最終編成は
組頭1人、部長2人、小頭8人、消防手120人 計131人
であったが、防護団の編成によって
団長、副団長、総務部長、消防部長、警護部長、班長、班員
と変更された。
この防護団組織は昭和14年4月1日国防の一環として全国的に改変されることになり、熊石村警防団として改変、次のようになった。
また、熊石村の陸海軍々人がどれだけ居たかについては、昭和13年の“熊石村事務報告”に計上されたものが最後で、以後は厳秘として発表されなかったので、同年12月末現在のものを次に計上する。
区別 | 役種 | 現役 | 豫備役 | 後備役 | 補充兵 | 計 | 合計 | ||||||||||||
等級 | 将校 | 准尉 | 下士官 | 兵 | 将校 | 准尉 | 下士官 | 兵 | 将校 | 准尉 | 下士官 | 兵 | 将校 | 准尉 | 下士官 | 兵 | |||
陸軍 | 3 | 1 | 2 | 53 | 2 | 6 | 64 | 1 | 7 | 160 | 464 | 4 | 3 | 15 | 741 | 763 | |||
海軍 | 1 | 2 | 8 | 1 | 2 | 8 | 11 | ||||||||||||
計 | 3 | 2 | 4 | 61 | 2 | 6 | 64 | 1 | 7 | 160 | 464 | 4 | 4 | 17 | 749 | 774 |
また、13年にいたって村内出征兵士のなかに2人の戦死者があり、村は村葬の礼をもってこれを処遇し、以後この例に慣うこととした。
戦傷死軍人 | 遺族 | 摘要 | |||||
日時 | 場所 | 官等級 | 氏名 | 住所 | 氏名 | ||
昭和13年 3月30日 午前5時20分 |
北支山東省臨海懸 小官庄ノ戦闘ニテ 受傷野戦病院ニテ 戦傷死 |
歩兵 上等兵 |
篠塚 幸次郎 | 字折戸 | 妻 篠塚 フコ |
凱旋日 月17日 通夜 7月18日 葬儀 7月19日 場所 相沼内蓮華寺 |
|
〃 10月15日 午前8時 |
北支山西省汾西県 石櫃村附近ノ戦闘 ニテ戦死 |
〃 | 高橋 英治 | 字掛澗 | 妻 高橋 ヒロセ |
〃 12月26日 〃 〃月27日 〃 〃月28日 〃 雲石小学校 |
戦死者村葬の状況(昭和13年12月28日執行)
戦死者遺族の悲しみ
日中戦争下の村行政
この年代を昭和12年から16年までとして村の行政を概観すれば、昭和年代前期の漁業の万年不振、特にいか釣漁業の凶漁から漁民は貧苦にうちひしがれてきたが、この昭和12年以降は豊漁に恵まれ、特に13年以降の生産高は従来の3倍以上に達し、漁民生活は一変し、漁業出稼者数も減少し、安定生産として地場漁業が最も信頼されるものとなった。また、漁業収入の増加によって、それまで滞納が多く、村役場の告知板は滞納差押え調書が数十枚となく張り出されていたものが、納税組合意識の■揚によって24の納税組合が結成され、村税は完納されるという、過してきた時代に比べれば夢のような時代と変ってきた。
戦時貯蓄債券
しかし、村民は国家の臨戦体制が村へもひしひしと迫っているのを身近に感じていた。聖旨奉体事業、国民精神作興運動から灯火管制や防空演習、あるいは国債の消化、貯蓄推進運動、銃後奉公会の拠金、出征兵士の見送り、英霊の出迎い、戦時物価統制、と年と共に戦時体制の中に村民一人一人が組み込まれていた。このようななかで、村は行政的には次のようなことが行われている。
昭和12年度
○山内禎介村長桧山鉄道期成同盟副会長として、桧山西部海岸鉄道布設請願に動く。
○この年、雲石尋常高等小学校、相沼尋常高等小学校両校の改築を行う。
工事種目 | 雲石校 | 相沼校 |
本校舎 | 440坪 | 319坪 |
階段室 | 32坪 | 32坪 |
体操場 | 72坪 | |
渡廊下 | 20坪 | (便所)8坪 |
小使室 | 9坪 | 4坪 |
湯呑場 | ||
宿直室 | 10坪 | |
静養所 | ||
昇降口 | 12坪 | 3坪 |
総延坪 | 595坪 | 366坪 |
工費 | 31955円 | 20020円 |
雲石、相沼尋常高等小学校改築
○熊石村漁業協同組合が三分轄され、熊石、泊川、相沼内の三漁業協同組合となる。
昭和13年
○熊石村職業紹介所職業紹介規程を設け、4月1日より活動を開始する。
○方面委員常務委員に佐野幸作氏、副常務委員に武田広治氏選任される。
○12月20日農地委員会が発足した。
会長 山内 禎介、会長代理 安田 多吉
委員 安田 多吉、四方 幸作、遠藤 幸作、佐野 幸作、工藤 才太郎、山本 安造、岸田 定太郎、大塚 忠五郎
昭和14年
○社会教育委員に本間喜八郎、辰野忠治、山下勝次郎氏選任される。
○江差職業紹介所連絡委員次の8名選任さる。
佐野 幸作、荒田 弥六、高田 亀太郎、赤泊 勝雄、辰野 忠治、近江谷 由三郎、田畑 与佐次郎、野上 喜八郎
○村長山内禎介乙部村長に転出し、西田豊平和田村長より赴任。
○夏赤痢大流行し、熊石村では届出患者14名、内3名死亡。この数字以外にも隠れた患者が多数いた。
○8月熊石村自作農創設維持奨励規程できる。
○9月11日の村会で字名改称、地番変更諮問答申あり、実施は昭和15年1月1日とした。
その答申書は次のとおりである。
答申書
昭和十四年九月七日熊庶第三三号ヲ以テ御諮問相成候字名改称地番変更ノ件ニ対スル本村会ノ意見左ノ如シ本件ハ異議ナシ
右及答申候也
昭和十四年九月十一日
熊石村会議長
熊石村長 西田 豊平
熊石村長 西田 豊平 殿
新舊字名對照
舊字名 | 改称字名 | 筆 数 | 戸数 | 行政区 | 摘要 |
横澗 岡下 |
関内 | 754 | 99 | 2 | 久遠郡長磯村及本村境界即チ舊横澗以東、舊丸山ドドメキ沢以西を関内ト改称 |
丸山 使ノ澗 |
西浜 | 746 | 72 | 2 | 舊丸山ドドメキ沢以東、舊幌目便ノ澗境界以西ヲ西浜ト改称 |
幌目 畑中 |
有明 | 693 | 79 | 2 | 舊幌目一円、旧畑中ノ内、畑中一四四ノ一、二及乙ヲ除キタル一円ヲ合併シ之ヲ有明ト改称ス |
掛澗 | 雲石 | 830 | 117 | 2 | 舊畑中ノ内字畑中一四四ノ一、二及乙ヲ合併ス舊掛澗ノ内、勢至堂川ヲ以テ境界トシ以東ヲ分割シテ 根崎ニ編入ス字名ヲ雲石ト改称ス |
中歌 | 根崎 | 527 | 102 | 1 | 舊掛澗勢至堂川以東中歌一円さかさ川ヲ以テ境界トシ根崎ト改称ス |
畳岩 | 畳岩 | 621 | 81 | 1 | 畳岩一円 |
平田内 | 平内 | 479 | 66 | 1 | 畳岩境界以東、平田内川ヲ以テ境界トナシ同川以東ヲ鮎川ニ編入以西ヲ平内ト改称ス |
鮎溜 | 鮎川 | 511 | 52 | 1 | 平田川以東、舊鮎溜一円即チ見市川ヲ以テ境界トシ鮎川ト改称ス |
大■ | 大谷 | 39 | 5 | 舊大■及及大窪一円冷水川以北見市川ニ添テ雲石橋ニ至ル、同橋ヨリ八雲道路ヲ以テ境界トシ字名ヲ大谷ト改称ス | |
見市 大谷地 人住内 |
見日 | 625 | 36 | 1 | 舊見市及大谷地一円人住内川ヲ以テ境界トナシ同川以東ヲ黒岩ニ編入以西ヲ見日ト改称ス |
畑下 黒岩 |
黒岩 | 410 | 12 | 2 | 人柱内川以東畑下黒岩一円即チ冷水川ヲ以テ境界トシ黒岩トス |
冷水 泊川 大澗 |
泊川 | 875 | 149 | 舊冷水、泊川、大澗一円即チ泊川相沼内舊大字境界マデトス | |
五小澗 館平 |
館平 | 396 | 72 | 1 | 舊五小澗、館平一円 |
中歌 津花 喜楽町 泡溜 |
相沼 | 932 | 191 | 1 | 舊中歌、津花、喜楽町泡溜一円即チ相沼内川ヲ以テ境界トナシ以西ヲ相沼ト改称ス |
二股原野 | 占川 | 42 | 9 | 1 | 舊古川岱即チ相沼内川上流一円 |
折戸 野々畑 |
折戸 | 620 | 56 | 折戸及野々ノ畑一円即チ相沼内川ヲ以テ境界トシ同川以東村界(乙部村)ニ至ル |
改称字名ノ起源又ハ語源調
改称字名 | 起源又ハ語源 |
セキナイ 関内 |
茅沢ノ意ニシテ、アイヌ語「シュプキナイ」ヨリ来レリ |
ニシハマ 西浜 |
村ノ西方ニアル長イ浜ノ意ヲ寓シテ改称名称トセリ |
アリアケ 有明 |
舊字掛澗ト畑中ノ境界ヲナス 八雲沢ヲ流レル川ニ架設セル有明橋ノ頭字「有明」ヲ改称字名トセルモノナリ |
ウンセキ 雲石 |
海岸ニ隆起セル数奇ノ岩石ハ海洋ト相搏チ恰モ黒雲石間ヨリ■涌スルガ如シ往昔松前祐致之ガタメ危難ヲ逃レ 遂ニ夷酋ヲ平定スルヲ得、由緒アル村名ノ起源ヲ為セルモノトス |
ネサキ 根崎 |
海中ニ根ノ如キ磯突出セル所トイフ意ニシテ現在天照大神ヲ祭神トセル村ノ總鎮守村社根崎神社ノ鎮座セルヲ以テソノ頭字ヲ改称字名トナセリ |
タタミイワ 畳岩 |
畳ノ敷クガ如キ岩アリ之ヨリ名ヅク |
ヒラナイ 平内 |
崖ノ北方ニ川ノアル部落平田内ニシテアイヌ語「ピラタナイ」ヨリ出デタルモ今回字名改称ニ際シテ田ヲ抜イテ平内トセリ |
アユカワ 鮎川 |
原名「相泊」アイノ風ノ泊ル所、後鮎溜トナリタルモ今回字名改称ニ際シ鮎ノ多ク居ル川ノ意ヲ以テ斯 改称セリ |
オオタニ 大谷 |
昔他ヨリ大ナル■ノ居リシ所ナリト云フモ余リニ汚名ノ如ナルガ故ニ今回字名改称ニ際シ大谷トセリ |
ケンニチ 見日 |
アイヌ語「ケンネニウシ」赤楊多キ所ノ意ナリ和人見日(ケンニチ)ト訛ル |
クロイワ 黒岩 |
黒イ岩ノアルトコロ |
トマリカワ 泊川 |
語源不明 |
タテヒラ 館平 |
昔、番所ノ如キ館ノアリシ平地 |
アイヌマ 相沼 |
アイヌ語「アイヌオマナイ」土人ノ居ル沢ノ意和人相沼内(アイヌマナイ)ト訛ル、後「アイヌマ」トナリタルモノヽ如シ |
フルカワ 古川 |
元、川筋ナルモ高台ノ平野ニシテ古川ノ跡アル所ナリ |
オリト 折戸 |
曲り多キ道路ノ急坂下ノ意 |
昭和15年
○1月1日字地番改正実施される。
○区設置規程を改め十三区とし、5月20日区長及び代理者を任命する。
区名 | 区域 | 区長名 | 代理者名 |
第1区 | 字折戸、泉岱一円 | 西村 末太郎 | 熊谷 栄助 |
〃2〃 | 字相沼一円 | 田畑 与佐次郎 | 荒谷 兵市 |
〃3〃 | 字館平一円 | 加我 長五郎 | 山田 小三郎 |
〃4〃 | 字泊川、黒岩一円 | 大井 幸寿 | 酒谷 長太郎 |
〃5〃 | 字見日一円 | 佐藤 八三郎 | 新木 喜次郎 |
〃6〃 | 字鮎川、大谷一円 | 四方 幸作 | 木村 今五郎 |
〃7〃 | 字平一円 | 山内 常吉 | 西田 仁三郎 |
〃8〃 | 字疂岩一円 | 加茂 万次 | 濱野 藤吉郎 |
〃9〃 | 字根崎一円 | 佐々木 房吉 | 林 義治 |
〃10〃 | 字雲石一円 | 岸田 定太郎 | 赤泊 喜代七 |
〃11〃 | 字鳴神一円 | 万谷 梅太郎 | 山下 勝次郎 |
〃12〃 | 字西浜一円 | 田村 千万蔵 | 阿部 策三郎 |
〃13〃 | 字関内一円 | 戸田 徳太郎 | 佐々木 記吉 |
○2月22日道庁は米穀配給統制を指示し、3月には木炭、7月には砂糖の配給切符制、8月には澱粉、雑穀、10月に石炭、用材の配給統制が実施され、村役場には配給調整係が置かれ、その物資取扱の集約機関として商業協同組合が熊石、相泊の2組合設置された。
○9月13日道庁訓令により町内に存在する男子青年団12団、女子青年団5団を統合し、熊石村男子青年団、熊石村女子青年団と改編し、従来の団を分団とする。
○11月米の代替食料として馬鈴薯2000俵を購入配給する。
○部落合整備を前提として13区を22区とし、各区長、代理者を発令する。
区名 | 区域 | 区長名 | 代理者名 | ||
第1区 | 字折戸、泉岱一円 | 西村 末太郎 | 熊谷 栄助 | ||
〃2〃 | 字相沼一-一七番地三三◯番地ヨリ泉岱ニ至ル道路両側 | 田畑 与佐次郎 | 滝沢 石蔵 | ||
〃3〃 | 字相沼一八-九七番地二一七ヨリ一七九番地一円 | 沢谷 藤太郎 | 油谷 豊作 | ||
〃4〃 | 字相沼一七八番地一円 | 稲船 健治 | 辰野 仁蔵 | ||
字館平一-一九番地一円 | |||||
〃5〃 | 字館平村社八幡神社下以西一円 | 山田 岩吉 | 山吹 享三 | ||
〃6〃 | 字泊川一-一一二番地一円 | 酒谷長太郎 | 伊吹徳次郎 | ||
〃7〃 | 字泊川一一五番地一九二番地一円 | 野上 喜八郎 | 成田 石松 | ||
〃8〃 | 字泊川一九三番地一円 | 大川 寿幸 | 中島 力三郎 | ||
字黒岩一円 | |||||
〃9〃 | 字見日一円 | 佐藤 佐太郎 | 新木 喜一郎 | ||
〃10〃 | 字鮎川、字大谷一円 | 四方 幸作 | 木村 今五郎 | ||
〃11〃 | 字平一円 | 山内 常吉 | 余湖 喜代治 | ||
〃12〃 | 字疂岩一円 | 加茂 萬治 | 濱野 藤吉郎 | ||
〃13〃 | 字根崎一番地ヨリ七四番地一円 | 佐々木 房吉 | 林 義治 | ||
〃14〃 | 字根崎七五番地ヨリ一一七番地一円 | 草野 照 | 藤谷 謙太郎 | ||
〃15〃 | 字雲石、朧橋以東一円 | 赤泊 喜代七 | 有坂 二郎 | ||
〃16〃 | 字雲石、朧橋以西一円 | 岸田 定太郎 | 桜井 甚作 | ||
〃17〃 | 字鳴神鳴神橋以東一円 | 万谷 梅太郎 | 能登 谷兵作 | ||
〃18〃 | 字鳴神鳴神橋以西一円 | 田村 亮治 | 岸田 新悦 | ||
〃19〃 | 字西浜一-八八番地一円 | 平井 幸作 | 砂山 勝蔵 | ||
〃20〃 | 字西浜九三-二一一番地一円 | 田村 千万蔵 | 松田 篤蔵 | ||
〃21〃 | 学関内関内橋以東一円 | 新保 紫郎 | 高橋 昇治 | ||
〃22〃 | 学関内関内橋以西一円 | 横田 友一 | 佐藤 福次 |
○皇紀2600年奉祝記念行事として11月10日各神社学校で奉祝式を挙行、11日各学校生徒で旗行列、午後各学校で奉祝宴、午後4時村民の提灯行列を挙行。
○12月大政翼賛会の下部機関として熊石支部設定が道より要望され、その最下部機関として22部落会が結成される。
昭和16年
○4月大政翼賛会熊石支部が発足。
○4月雲石小学校、相沼小学校国民学校令の施行により国民学校となる。同時に教頭も発令される。
○栄鉱業所大谷地山他の金・銀・銅・鉄鉱探鉱。
○7月企業整備令により商業者の転業指導。
○11月10日村有林施業案編成なる。
○12月8日太平洋戦争起きる。
第7節 戦争と村の産業
日中戦争の勃発する9ケ月前の昭和11年9月から10月にかけ、熊石村は未曽有の大災害に打ちひしがれた。9月6日前夜来の豪雨に各河川氾濫し、特に見市、相沼内の両川の出水多く、6日午前には見日地域流域の河川両岸の田畑氾濫し、永井国太郎、豊島桂一郎、須藤林蔵、酒井藤三郎の4戸が浸水破壊されるという被害を受け、さらに八雲―熊石間の八熊道路も、その後同月中2回の豪雨のため寸断され、翌年春まで道路は閉鎖されるという被害を受けた。
天皇北海道大演習統監中の10月3日夕刻、渡島、桧山を中心として襲来した強風(台風)は、午後11時頃より西南西に変り、次第に強烈となり、翌4日午前1時にさらに強まり、午前3時には気圧726ミリバール、瞬間最大風速は実に38メートルに達するかつてない暴風となった。午前10時頃には漸く天候は■復したが、波浪は高く、最大時には10メートルにも達し、折からの満潮と併せ、さながら津浪のような状況で、船入澗沖出し防波堤を破壊し、澗内繋留の発動機漁船を全滅させ、さらに各所に陸揚中の漁船も転倒、破損が多く、かつてない惨状を呈した。さらにこの台風は波浪が大きく、引浪が強かったので、海岸の矢来のほとんどを壊し、家屋の流失、浸水も多かった。また、道路、橋梁の流失や、水稲、豆等の農作物にも多くの被害を出すという惨状を呈した。
これについて桧山管内10か町村の町村長(厚沢部・東瀬棚・利別の3村は被害なし)は政府及び北海道庁に対し、緊急対策として、
1、罹災者に対し小屋掛料の給与。
1、罹災者に対し就業資金の給与。
1、発動機船小漁船建造費補助並に低利資金の融資。
1、船入澗復旧費国費支弁。
1、国費支弁船入澗急速復旧。
1、海岸護岸、復旧工事補助。
1、船揚場、海産干場の復旧補助。
1、救済事業施行。
1、政府払下急速配給。
1、町村道災害復旧急速承認。
1、上級道路急速復旧。
1、義務教育費国庫下渡金増額配当。
を要望したが、この陳情書に添付された桧山管内の被害状況集計表によれば、人口に比例した場合、熊石村が1番大きな被害を受けていることがよく分る。死者の1名は相沼の稲船淺蔵さんであった。
颱風ニ依ル被害集計表(単位=円)
町村名 | 漁船被害 | 漁具及船具被害 | 家屋被害 | 土地工作物被害 | 農業被害 | 合計 |
江差町 | 7、643 | 5、494 | 29、670 | 33、240 | 7、017 | 83、064 |
上ノ國村 | 9、500 | 5、346 | 24、497 | 52、430 | 57、243 | 149、016 |
泊村 | 2、249 | 2、220 | 6、555 | 3、290 | 46、028 | 60、342 |
厚澤部村 | - | - | 3、345 | - | 37、610 | 40、955 |
乙部村 | 31、080 | 11、075 | 72、265 | 54、770 | 28、610 | 197、800 |
熊石村 | 25、170 | 22、352 | 61、107 | 50、722 | 8、945 | 168、326 |
貝取澗村 | 1、740 | 900 | 8、130 | 1、500 | 5、558 | 17、828 |
久遠村 | 2、600 | 816 | 10、043 | 6、050 | 2、205 | 21、714 |
奥尻村 | 400 | - | 4、010 | 4、250 | 7、253 | 15、913 |
太櫓村 | 5、845 | 1、424 | 9、790 | 30、880 | 18、737 | 66、676 |
瀬棚町 | 3、440 | 3、897 | 6、980 | 26、775 | 5、244 | 46、336 |
東瀬棚村 | - | - | 1、890 | - | 22、618 | 24、508 |
利別村 | - | - | 3、552 | - | 8、176 | 11、728 |
計 | 89、667 | 53、524 | 241、835 | 263、907 | 255、274 | 904、206 |
第一表漁船被害調
町村名 | 項目 | 発動機船 | 川崎船 | 磯舟其ノ他ノ漁船 | 合計 | ||||||||||||
数量 | 流失全潰 | 大破 | 小破 | 計 | 流失全潰 | 大破 | 小破 | 計 | 流失全潰 | 大破 | 小破 | 計 | 流失全潰 | 大破 | 小破 | 計 | |
江差村 | 隻数 | 隻 1 |
隻 1 |
隻 6 |
隻 8 |
隻 2 |
隻 10 |
隻 6 |
隻 18 |
隻 16 |
隻 29 |
隻 7 |
隻 52 |
隻 19 |
隻 40 |
隻 19 |
隻 78 |
金額 | 円 1、500 |
円 400 |
円 215 |
円 2、115 |
円 600 |
円 2、400 |
円 190 |
円 3、190 |
円 1、060 |
円 1、200 |
円 78 |
円 2、338 |
円 3、160 |
円 4、000 |
円 483 |
円 7、643 |
|
上ノ國村 | 隻数 | 1 | 2 | 1 | 4 | 14 | 5 | 5 | 24 | 23 | 17 | 3 | 43 | 38 | 24 | 9 | 71 |
金額 | 1、000 | 980 | 10 | 1、990 | 4、300 | 1、000 | 110 | 5、410 | 1、300 | 755 | 45 | 2、100 | 6、600 | 2、835 | 165 | 9、500 | |
泊村 | 隻数 | 1 | 5 | 6 | 2、400 | 2 | 4 | 13 | 5 | 8 | 26 | 13 | 8 | 15 | 36 | ||
金額 | 900 | 147 | 1、047 | 230 | 40 | 270 | 650 | 200 | 82 | 933 | 650 | 1、330 | 269 | 2、249 | |||
乙部村 | 隻数 | 14 | 7 | 49 | 70 | 3 | 6 | 9 | 88 | 143 | 231 | 105 | 13 | 192 | 310 | ||
金額 | 14、400 | 2、100 | 6、020 | 22、520 | 650 | 900 | 1、550 | 5、280 | 1、730 | 7、010 | 20、330 | 3、000 | 7、750 | 31、080 | |||
熊石村 | 隻数 | 3 | 19 | 32 | 54 | 25 | 5 | 8 | 38 | 35 | 30 | 85 | 150 | 63 | 54 | 125 | 242 |
金額 | 4、500 | 7、230 | 3、200 | 14、930 | 4、780 | 750 | 510 | 6、040 | 2、100 | 1、250 | 850 | 4、200 | 11、380 | 9、230 | 4、560 | 25、170 | |
貝取澗村 | 隻数 | 2 | 3 | 5 | 4 | 4 | 9 | 24 | 33 | 11 | 31 | 42 | |||||
金額 | 500 | 150 | 650 | 55 | 55 | 740 | 295 | 1、035 | 1、240 | 500 | 1、740 | ||||||
久遠村 | 隻数 | 3 | 1 | 10 | 14 | 1 | 1 | 6 | 6 | 10 | 1 | 10 | 21 | ||||
金額 | 1、100 | 150 | 635 | 1、885 | 120 | 120 | 595 | 595 | 1、815 | 150 | 635 | 2、600 | |||||
奥尻村 | 隻数 | 5 | 5 | 1 | 5 | 6 | 1 | 10 | 11 | ||||||||
金額 | 250 | 250 | 50 | 100 | 150 | 50 | 350 | 400 | |||||||||
太櫓村 | 隻数 | 2 | 1 | 1 | 4 | 4 | 10 | 14 | 13 | 5 | 18 | 19 | 6 | 11 | 36 | ||
金額 | 2、800 | 700 | 45 | 3、545 | 1、000 | 240 | 1、240 | 960 | 100 | 1、060 | 4、760 | 800 | 285 | 5、845 | |||
瀬棚町 | 隻数 | 7 | 7 | 2 | 2 | 4 | 23 | 10 | 9 | 42 | 25 | 17 | 11 | 53 | |||
金額 | 1、700 | 1、700 | 330 | 45 | 375 | 1、150 | 150 | 65 | 1、365 | 1、480 | 1、850 | 110 | 3、440 | ||||
計 | 隻数 | 隻 24 |
隻 41 |
隻 112 |
隻 177 |
隻 51 |
隻 28 |
隻 37 |
隻 116 |
隻 218 |
隻 105 |
隻 284 |
隻 293 |
隻 293 |
隻 174 |
隻 433 |
隻 900 |
金額 | 円 25、300 |
円 14、660 |
円 10、678 |
円 50、632 |
円 11、780 |
円 3、280 |
円 1、190 |
円 11、250 |
円 13、145 |
円 4、395 |
円 3、245 |
円 20、785 |
円 50、225 |
円 24、335 |
円 15、106 |
円 89、667 |
備考
一、磯舟其ノ他ノ漁船ニハ発動機船及川崎船ヲ除ク一切ノ漁船ヲ含ム
二、厚澤部村東瀬棚村利別村ハ該当ナシ
第二表 漁具及船具其ノ他被害調
町村名 | 漁具及船具 | 漁獲物流失 | 莚網数 | 計 |
江差町 | 円 4、144 |
円 1、350 |
円 |
円 5、494 |
上ノ國村 | 5、346 | 5、346 | ||
泊村 | 1、900 | 320 | 2、220 | |
乙部村 | 10、598 | 127 | 350 | 11、075 |
熊石村 | 20、305 | 1、185 | 861 | 22、352 |
貝取澗村 | 500 | 400 | 900 | |
久遠村 | 816 | 816 | ||
太櫓村 | 1、424 | 1、424 | ||
瀬棚町 | 3、870 | 27 | 3、897 | |
計 | 48、904 | 2、662 | 1、958 | 53、524 |
備考 一、厚澤部村奥尻村東瀬棚村利別村ハ該当ナシ
第三表 家屋関係被害調
町村名 | 住家 | 非住家 | 浸水家屋 | 其ノ他 | 計 | |||||||
流失全潰 | 半潰 | 流失全潰 | 半潰 | 床上 | 床下 | |||||||
棟数 | 金額 | 棟数 | 金額 | 棟数 | 金額 | 棟数 | 金額 | |||||
江差町 | 棟 5 |
円 2、900 |
棟 7 |
円 1、170 |
棟 31 |
円 8、547 |
棟 21 |
円 3、560 |
戸 26 |
戸 70 |
円 13、493 |
円 29、670 |
上ノ國村 | 22 | 8、650 | 32 | 1、905 | 26 | 8、710 | 10 | 690 | 200 | 100 | 4、542 | 24、497 |
泊村 | 1 | 200 | 10 | 1、500 | 16 | 2、300 | 15 | 25 | 2、555 | 6、555 | ||
厚澤部村 | 4 | 230 | 19 | 1、995 | 1、120 | 3、345 | ||||||
乙部村 | 8 | 6、400 | 25 | 10、000 | 54 | 8、100 | 23 | 2、300 | 32 | 150 | 45、465 | 72、265 |
熊石村 | 9 | 5、076 | 54 | 6、844 | 32 | 10、345 | 65 | 8、744 | 274 | 38 | 30、098 | 61、107 |
貝取澗村 | 3 | 700 | 23 | 2、587 | 18 | 1、020 | 8 | 330 | 8 | 22 | 3、500 | 8、130 |
久遠村 | 7 | 2、820 | 8 | 720 | 3 | 650 | 5 | 200 | 28 | 18 | 5、653 | 10、043 |
奥尻村 | 12 | 25 | 4、010 | 4、010 | ||||||||
太櫓村 | 7 | 3、500 | 20 | 2、200 | 2 | 350 | 1 | 150 | 72 | 80 | 3、590 | 9、790 |
瀬棚町 | 8 | 1、860 | 4 | 180 | 12 | 590 | 4 | 40 | 80 | 75 | 4、310 | 6、980 |
東瀬棚村 | 7 | 300 | 11 | 250 | 1、340 | 1、890 | ||||||
利別村 | 3 | 450 | 3 | 265 | 8 | 320 | 19 | 730 | 1、787 | 3、552 | ||
計 | 棟 84 |
円 33、086 |
棟 186 |
円 27、364 |
棟 232 |
円 43、177 |
棟 156 |
円 16、744 |
戸 747 |
戸 603 |
円 121、463 |
円 241、834 |
備考 一、其ノ他ニハ家屋ノ小破、浸水家屋ノ損害、家具及商品等ヲ含ム
第四表 作物及土地被害調
町村名 | 数量 | 船入澗 | 船揚場 船溜場 |
道路 | 橋染 | 土地流失堤防護岸 | 合計 | ||||
海岸護岸 | 河川堤防 | 土地流失 | 其ノ他 | 計 | |||||||
江差町 | 数量 | 巾3米6 延長545米 |
米 450 |
米 50 |
坪 1、500 |
||||||
金額 | 円 3、500 |
円 |
円 1、800 |
円 |
円 10、000 |
円 500 |
円 7、500 |
円 9、940 |
円 27、940 |
円 33、240 |
|
上ノ國村 | 数量 | 380 | 8、200 | ||||||||
金額 | 2、280 | 1、500 | 5、600 | 4、500 | 16、550 | 22、000 | 48、650 | 52、430 | |||
泊村 | 数量 | 600 | |||||||||
金額 | 60 | 3、230 | 3、290 | 3、290 | |||||||
乙部村 | 数量 | 巾3米6 1、963米 |
1 | 800 | |||||||
金額 | 17、620 | 12、000 | 600 | 17、000 | 7、550 | 24、550 | 54、770 | ||||
熊石村 | 数量 | 39、900 | |||||||||
金額 | 10、822 | 10、822 | 50、722 | ||||||||
貝取澗村 | 数量 | ||||||||||
金額 | 1、500 | 1、500 | 1、500 | ||||||||
久遠村 | 数量 | 巾3米6 327米 |
|||||||||
金額 | 3、450 | 880 | 900 | 820 | 820 | 6、050 | |||||
奥尻村 | 数量 | 1 | |||||||||
金額 | 3、000 | 500 | 750 | 750 | 4、250 | ||||||
太櫓村 | 数量 | 巾3米6 6、948米 |
|||||||||
金額 | 2、000 | 19、340 | 9、540 | 9、540 | 30、880 | ||||||
瀬棚町 | 数量 | 巾3米6 200米 |
130 | 280 | 3、300 | ||||||
金額 | 2、600 | 570 | 800 | 1、650 | 4、150 | 1、000 | 16、005 | 22、805 | 26、775 | ||
計 | 数量 | 巾3米6延長 9、983米 |
2 | 米 1、760 |
米 630 |
坪 13、600 |
|||||
金額 | 円 72、350 |
円 4、950 |
円 34、840 |
円 1、100 |
円 34、250 |
円 9、150 |
円 25、110 |
円 82、157 |
円 150、667 |
円 263、907 |
備考
一、地方費準地方費道路及橋梁被害調附表其ノ二ノ通
二、厚澤部村東瀬棚村利別村ハ該当ナシ
第五表 農業被害調
町村名 | 水稲 | 畑作物 | 計 | 林木被害額 | 合計 | |||||
被害反別 | 減収石数 | 同上價格 | 被害反別 | 損害額 | ||||||
江差町 | 町 | 反 | 石 | 円 | 町 | 反 | 石 | 円 | 円 | 円 |
55 | 1 | 69 | 1、725 | 51 | 3 | 772 | 2、497 | 4、520 | 7、017 | |
上ノ國村 | 553 | 2 | 1、595 | 39、875 | 121 | 0 | 2、518 | 42、393 | 14、850 | 57、243 |
泊村 | 621 | 5 | 1、603 | 40、075 | 86 | 9 | 753 | 40、828 | 5、200 | 46、028 |
厚澤部村 | 732 | 4 | 813 | 20、325 | 640 | 2 | 14、735 | 35、060 | 2、550 | 37、610 |
乙部村 | 230 | 8 | 671 | 16、775 | 97 | 0 | 1、335 | 18、110 | 10、500 | 28、610 |
熊石村 | 2 | 1 | 4 | 100 | 6 | 7 | 135 | 235 | 8、740 | 8、975 |
貝取澗村 | 16 | 5 | 27 | 675 | 8 | 7 | 383 | 1、058 | 4、500 | 5、558 |
久遠村 | 11 | 3 | 75 | 75 | 2、130 | 2、205 | ||||
奥尻村 | 108 | 6 | 155 | 3、875 | 135 | 5 | 3、378 | 7、253 | 7、353 | |
太櫓村 | 189 | 6 | 247 | 6、175 | 515 | 0 | 9、002 | 15、177 | 3、560 | 18、737 |
瀬棚町 | 20 | 5 | 31 | 775 | 135 | 8 | 3、629 | 4、404 | 840 | 5、244 |
東瀬棚村 | 799 | 4 | 559 | 13、975 | 157 | 0 | 8、243 | 22、218 | 400 | 22、618 |
利別村 | 225 | 0 | 180 | 4、500 | 131 | 9 | 3、676 | 8、176 | 8、176 | |
計 | 町 | 反 | 石 | 円 | 町 | 反 | 石 | 円 | 円 | 円 |
3、554 | 7 | 5、954 | 148、850 | 2、098 | 3 | 48、634 | 197、484 | 57、790 | 255、274 |
備考 一、林木被害ハ沿岸ニ造林セル桐ノ被害ヲ主トシテ掲記セリ
表其ノ一 死傷者調
町村名 | 死者(人) | 行衛不明者(人) | 傷者(人) | 計(人) |
江差町 | ||||
上ノ国村 | ||||
泊村 | ||||
厚澤部村 | ||||
乙部村 | ||||
熊石村 | 1 | 5 | 6 | |
貝取澗村 | 1 | 1 | ||
久遠村 | ||||
奥尻村 | 1 | 1 | 2 | |
太櫓村 | 1 | 1 | ||
瀬棚町 | 1 | 1 | ||
東瀬棚村 | ||||
利別村 | ||||
計 | 1 | 1 | 9 | 11 |
備考
一、奥尻村傷者一名八六日死亡セリ
ニ、奥尻村行衛不明者一名八二日午後磯舟ニテ大字青苗村ヨリ字神威脇ニ航行途中遭難シタルモノト認メラルルモ死体遺留品等ハ未ダ発見スルニ至ラズ
三、傷者ニハ軽傷ノモノヲ除キタリ
附表其ノ二 地方費道、準地方費道道路及橋染被害調
町村 | 地方費 | 準地方費 | 計 | |||||||||
道路 | 橋染 | 道路 | 橋染 | 道路 | 橋染 | |||||||
数量 | 金額 | 数量 | 金額 | 数量 | 金額 | 数量 | 金額 | 数量 | 金額 | 数量 | 金額 | |
江差町 | ケ所 1 |
円 2、600 |
ケ所 |
円 |
ケ所 |
円 |
ケ所 |
円 |
ケ所 1 |
円 2、600 |
ケ所 |
円 |
上ノ国村 | 8 | 12、700 | 4 | 5、000 | 8 | 12、700 | 4 | 5、000 | ||||
泊村 | ||||||||||||
厚澤部村 | ||||||||||||
乙部村 | 3 | 8、950 | 1 | 1、000 | 3 | 8、950 | 1 | 1、000 | ||||
熊石村 | 4 | 9、000 | 1 | 1、000 | 4 | 9、000 | 1 | 1、000 | ||||
貝取澗村 | 2 | 4、000 | 2 | 4、000 | ||||||||
久遠村 | ||||||||||||
奥尻村 | ||||||||||||
太櫓村 | ||||||||||||
瀬棚町 | 1 | 1、000 | 1 | 1、000 | ||||||||
東瀬棚村 | ||||||||||||
利別村 | ||||||||||||
計 | 18 | 37、250 | 6 | 7、000 | 1 | 1、000 | 19 | 47、250 | 6 | 7、000 |
倒壊した熊石船入澗沖出し防波堤突端部は12年修理を行った。幸い昭和11年は、このような災害のなかでも前年に比し50%に近いいか釣漁業収入があり、さらに12年は、11年を上回る好漁であった。13年度については、10年度との次の対比表で見る如く2、3倍以上の水揚収入があった。
年度 | するめいか | すけそうたら | 総生産額 | 漁家戸数 | 漁家一戸当 平均収入 |
||
貫数 | 金額 | 貫数 | 金額 | ||||
昭和10年 | 16、920 | 57、527 | 1、267、980 | 190、347 | 851、678 | 855 | 954 |
昭和13年 | 126、978 | 393、318 | 1、462、494 | 277、874 | 1、890、277 | 凡そ 850 | 2、224 |
この豊漁は戦時下で沈滞する村民に活力を与え、さらに翌14年にはいか漁、助宗鱈漁共に前年を上回り、さらに鯣、干鱈の保存食糧としての需要の増加によって、漁業は大いに振興された。しかし、16年以降にいたると青壮年漁業者の召集者の増加、軍需工場への就労、漁船への重油供給の削減等があって生産額はやや下降した。昭和12年には熊石漁業協同組合を地域に即応する形で再編すべきであるという動きが、漁民のなかから起り、同年熊石、泊川、相沼の三漁業協同組合に分轄したが、その組合長は次のとおりである。
熊石漁業協同組合長 脇坂 時太郎
相沼漁業協同組合長 桜井 勧五郎
泊川漁業協同組合長 加藤 誠二
この三組合方式は、戦時中の行政庁の強い指導もあり、昭和20年4月1日設置された熊石漁業会に吸収統合され、会長には村長久保正信が就任している。
一万、農業は各家庭の主食の補給、蔬菜副食を得るための漁家主婦の副業的存在でしかなかった。このようなことから村行政としても、この業種には積極的取組はしなかった。しかし、昭和初期の凶漁によって主食代替として、漁家主婦の農業依存も多くなり、耕地は次第に増加し、昭和13年には耕地面積は百三十三町一反に増加している。このうち、田は十一町六反である。
その後、戦争突入によって食糧危機が叫ばれるようになると、漁業従事者も余暇をこの業に打ち込むようになり、特に昭和15年の米穀統制後は、自家菜園の確保に目を向け、新墾起(あらきおこ)しが盛んになった。また、昭和15年には相沼野々畑部落の自作農創設と水利権獲得の問題も解決され、専業農家も個定する形となった。また、17年以降は見日地区に存在する函館市相馬商事所有地の自作農創設にも努力するなど、農業行政も多くの進展を見せ、昭和18年度における耕地面積二百七十九町四反で、昭和13年度に比した場合には倍以上の耕地面積となっている。
一方、畜産では当地方で生産されていた馬は道産和種とペルシュロン系大形輓馬であったが、戦中は軍用に供されるものが多くなり、ペル系を廃し、和種とアングロ・ノルマン系種馬との交配による小格輓馬の生産が要求された。この交配種は小格でありながら積載力があり、然も粗食に耐えるという利点があり、配合検査等によって規制しながら馬体の改良を行ったが、昭和18年頃の現有頭数は80頭程度である。このほか軍用兎の飼育も要請され、村内飼育は500頭であった。さらに犬、猫の毛皮献納も命ぜられ、村内から犬、猫の姿はほとんど見えなくなった。
商業の面では、米、澱粉、雑穀、砂糖等の統制によって、生活必需品の村内流通機関として、昭和15年熊石、相沼の二つの商業協同組合が創設され、さらに食糧営団出張所も設けられた。昭和16年には物価統制令、17年には衣料切符制度の実施により、商業者の多くは転廃業を余儀さくされた。18年には村内小売業者数は68軒であったが、残存を認められた業者は37軒で、他の31軒は転業を命ぜられた。この転業を命ぜられた者のうち4軒は廃業、18軒は漁業に、炭砿就職3軒、軍需工場就職1軒、事務1、その他4であった。
しかし、戦時中の暗い生活の中で唯一の明るい話題は、熊石町の関内川上流7キロメートル地点に、昭和13年9月探鉱の上堅入坑を採進したところ、幅員3メートル余の鉱床に行きあたり、北海道工業試験場で分析の結果、銅2・36%、銀420、鉛43・7%、亜鉛26・30%の道内屈指の優良鉱の埋蔵地区であることが発見され、小樽市花園町西2丁目23番地隆徳鉱山組合長今与三郎が、企業化を図ろうと、昭和17年2月熊石村に協力方を要請してきた。この計画によれば鉱山鉱夫は一日53人で、選鉱場、飯場、事務所を建設、粗鉱一日50トンを採鉱するというもので、鉱山着手費用に35万円を要し、地元労働者が少なくとも100名以上稼動可能であったので、村当局はもち論、村民も是非この着業を願ったが、戦争苛烈のため諸費材の入手が困難なところから、この熊石町回生の大企業計画は立消えとなり、夢物語りと化したが、同組合から出された計画書を次に掲げておく。
隆徳鑛山調査報文
一、位置及交通
渡島国爾志郡熊石村地内ニ在リ開坑ノ位置ハ熊石市街地ヲ距ル北方峰傅ヒニ登ルコト五粁關内川上流一號澤ニ達ス
即チ函館本線國縫驛ヨリ分岐スル瀬棚線東瀬棚驛下車若松市街地ヲ經テ久遠郡平田内村小川ニ至ル約七里小川ヨリ海岸ニ沿フテ南東約五里ニシテ熊石市街地ニ達ス
又江差線江差驛ヨリ熊石迄約十六里或ハ八雲驛ヨリ熊石迄約十三里乗合自動車ノ便アリ熊石市街地ハ海岸ニ沿イタル細長キ部落ニテ戸數約八百戸ノ漁村ニシテ郵便電信電話局ノ設アリテ日用品ヲ辧ズルニ足ル又關内ヨリ開坑ノ場所ニ至ルニハ關内川ノ流域ニ沿フテ北上スルコト約七粁半ニシテ道路比較的容易ナリ
一、鑛區
鑛區ハ關内川ノ上流ニアリテ東西一里南北一里ノ地域ヲ占ムル四鑛區
渡島國試掘權登録第二二三一號面積參拾五萬貳千坪
同 第二三一五號面積七拾貳萬八千坪
札鑛一三第七二六號 面積九拾六萬壹千貳百五拾坪
同 第七二二號 面積九拾壱萬貳千五百坪
合計四鑛區面積貳百九拾五萬參千壱百五拾坪
一、鑛種
金銀銅鉛亜鉛鑛トス
小樽市花園町西二丁目二十三番地
鑛業權者隆徳鑛山組合組合長 今 與三郎
一、地形
檜山ト渡島ノ國境白水嶽ノ南北ニ位置シ白水嶽ニ源ヲ發スル關内川ハ大小ノ支流ヲ結ビテ南西ニ流シ延長約二里ノ流域ヲ以テ海面ニ注グ開坑附近ノ地形ハ海抜三百八十米内外ナルヲ漸次上流ニ溯ルニ從ツテ六百米内外ニ及ビ地形急峻トナル
一、地質及鑛床
本鑛區内ノ地質ハ西方貝取澗■泉ヨリ漸次南東平田内■泉及見市■泉線ヲ以テ北ニ區分シ其北部區花崗岩ヨリ成リタル交代鑛床トシテ南部ハ水成岩ニ接スル安山岩ヨリナル正規鑛脈トス
鑛床ハ現在開坑セントスル附近ノモノハ■泉線ノ南部地体ニアル安山岩ノ裂罅ヲ充塡シタル正規鑛脈ニシテ約百五十米ノ間隔ヲ以テ一號■ノ二條ヨリ構成シ一號■ハ一號澤ニ於テハ幅員三十尺ニ及ビ漸次白水川本流ニ向フニ從ツテ平均幅員七尺トナリ其ノ延長千三百米ニ及ブ二號■ハ一號■ノ上流約百五十米ヲ距テ幅員平均四尺ヲ以テ九百米連絡ス
以上ノ走向ハ略東西ニ走リ南方ニ向ツテ六十度傾斜ス
此安山岩ヨリナル鑛床ハ第三紀隣接シ石炭層ヲ介在ス然シテ第三紀層ハ海岸ニ向フニ從シテ再ビ安山岩ニ接觸ス
又鑛區ノ上流ニ位置スル即チ■泉線ノ北部ニアルモノハ花崗岩地体中ニ安山岩及石英粗面岩中ニ胚胎スル交代鑛床ニシテ重晶石ノ大岩塊露出スル北部ニ接觸シタル鑛床ニシテ■幅八尺乃至四尺ノ露頭アリテ走向略東西傾斜四十度其ノ延長約百米ニ及ブ
一、鑛量
鑛量ハ溫泉線ノ南部ニアル一號■及二號■ノミニ止メ各澤々ニ露頭シタルモノヲ實測シテ連絡シタル確定的鑛量ニシテ未ダ充分ナル坑内探鑛ニヨリテ其ノ品位ヲ確メザルモ露頭部分ノ狀態ヨリ見テ鉛亜鉛銅鑛ヲ目的トシテ一立方尺ノ重量ヲ四十貫トシテ開坑ノ位置即チ堅人坑道以上ノ水準鑛量ヲ計算スルトキ次ノ如シ
一號■平均厚サ七尺トシ延長千三百米高サ五十米此ノ富鑛部分ノ平均厚サヲ三尺トス
水準上參拾壹萬四千瓲
二號■平均厚サ四尺延長九百米高サ五十米
此ノ富鑛部分ノ平均厚サヲ一尺トス
水準上七萬貳千瓲
此ノ實収七割貳拾七萬貳百瓲
一、運搬
鑛石ノ搬出ハ關内川ニ沿フテ約七粁半馬車道路ヲ開鑿シテ運搬スルカ或ハ開坑ノ位置ヨリ熊石市街ニ設ケタル山道ノ上迄鑛石ヲ引揚ゲ山道ニ沿フ約五粁ヲ土橇ヲ以テ搬出スル外途ナキモ充分選鑛シテ採算價値アル鑛量ヲ確メタル上坑口附近ヨリ熊石市街迄五粁索道ヲ架設スルヲ得策トス
一、私見
本鑛山ハ熊石市街地ヲ距ル僅々一里■ノ地點ニアルガ故ニ事業經營上極メテ至便ニシテ金屬山トシテ有利ノ地ヲ占ム
然シテ各澤々ニ露出スル鑛脈ガ何レモ整然トシテ一號■ハ千三百米二號■縫ハ九百米確實ニ連絡シ露頭鑛石ノ状態ガ頗ル含銀■キ鉛亜鉛銅鑛ニシテ下部ハ優良ナル銅鑛ニ交代スル見込充分ナリ即チ坑道掘進ニ伴ヒ相當優良ナル富鑛帶ニ逢着セシムルコトガ最モ急務ニシテ採算的鑛量ヲ確メ以テ事業計画ヲ樹立スルトキハ充分重要鑛山トシテノ價値アルコトヲ信ズルモノナリ
企業計画書
隆徳鑛山ノ現状ハ第一坑道ノ■押ノ進展スルニ従ツテ鑛量並ニ品位ヲ增加スルヲ以テ第二坑第三坑道ヲ開坑掘進ヲナスヲ本分トシ第一期計■次ノ如シ
一、探鑛
本鑛區は廣汎ニ亘ルガ故ニ地質及岩石ヲ基礎ニ野外探鑛ヲ進メルニ於テハ必ズヤ意外ナル鑛床ヲ發見スルニ至ルベシ(鑛山技師佐藤定氏斷言セリ)
二、坑道
第一坑道ハ■押ヲ以テ出來得ル限り掘進ヲ計ルコト第二、第三坑ヲ開坑着眼ト同時ニ■押ヲ以テ進ミ採鑛場ヲ設クルコト
三、採鑛
第一坑道第二坑道第三坑道ノ■押ヲ進メテ之レヲ貫通連絡セシメ採鑛場ヲ設ケ上向階段掘ヲ以テ採鑛ヲナスモノトス
四、坑内運搬
第二坑第三坑ヲ開坑掘進現在ノ第一坑迄ノ貫通連絡坑道ヲ完成セシメ採鑛シタル鑛石ハ第三坑道ニ漏斗ヲ設ケテ落下シ第三坑外ノ選鑛場ニ搬出スルモノトス
五、選鑛
選鑛場ハ第三坑道ノ附近ニテ選鑛場ヲ設ケテ嚴選シ粉鑛ハ水樋ヲ以テ水ヲ引キ水洗場ヲ設ケテ品位ノ向上ヲ計ルモノトス
六、坑外運搬
第三坑口附近ノ選鑛場ヨリ熊石船入澗迄設ケタル道路約五粁を馬搬スル外途ナキモ品位高上スルニ進ミ熊石町市街船入澗迄五粁索道架設スルヲ得策トス
企業豫算書
一、參拾五萬圓也
内譯
家屋建築費
一、金六萬六千六百七拾圓也
内譯
一、金三萬六千圓也 坑夫長屋四戸建五棟二百圓十坪
(坪一五〇圓)
一、金壷千百二十五圓也 坑夫共同便所二棟計七坪五合
(坪一五〇圓)
一、金參千圓也 坑夫浴場一棟十五坪(坪二〇〇圓)
一、金壷萬貳千八百圓也 係員住宅二戸建二棟六十四坪(坪二〇〇圓)
一、金參千七百五拾圓也 物品配給所壷棟二十五坪倉庫兼用(坪一五〇圓)
一、金壷千五百圓也 山元見張所一棟拾坪(坪一五〇圓)
一、金貳千二百五拾圓也 選鑛場上屋一棟二十二坪五合(坪一〇〇圓)
一、金壷千五百圓也 山元貯鑛場一棟拾五坪(坪一〇〇圓)
一、金壷千五百圓也 山元工作場一棟五坪(坪一五〇圓)
一、金七百五拾圓也 山元鍛治場一棟五坪(坪一五〇圓)
一、金壷千圓也 山元工作場並ニ物置一棟十坪(坪一〇〇圓)
一、金壷千五百圓也 山元坑夫休憩所二棟十坪(坪一五〇圓)
計
地均土工費
一、金六千圓也 七百五十坪(坪當八圓)
計
用水工事費
一、金貳千二百五拾圓也
計
選鑛場建設費
一、金貳萬千五百圓也
計
坑外輪車路費
一、金壹千圓也 延長十五間上家共
計
軌條費
一、金玉萬貳千圓也 十二封度レール半哩及枕木共
計
トロ工作費
一、金壹千五百圓也 七分トロ十台車輪共
計
道路改修費
一、金壹萬圓也 熊石市街船入澗ヨリ山元五粁
計
トラック道路改修費
一、金拾壹萬五千七百圓也 山元選鑛場ヨリ関内港迄トラック道路開鑿費
計
諸道具買入費
一、金四千七十五圓也
計
醫療費
一、金八百圓也
計
土地買収費
一、金壹千圓也 官地借入金共
計
諸道具買入費
一、金四千七十五圓也
計
醫療費
一、金八百圓也
計
土地買収費
一、金壹千圓也 官地借入金共
計
野外探鑛費
一、全參千五百圓也 一ヶ月五万圓當 五月六月七月八月九月十一月七ケ月間
計
坑夫募集費
一、金參千圓也 旅費共
計
流動資金
豫備費
一、金五萬圓也
計
収支豫算書
現在坑道掘進状態ニヨリ確メタル金銀銅鉛亜鉛鑛ヲ目的トシテ一日粗鑛ノ産出ヲ五十瓲トシ一ケ月二十五日稼働スルトキハ此粗鑛壹千二百五十瓲粗鑛ノ實収率ヲ六〇%トスルトキ七百五捨瓲トス此收入瓲算次ノ如シ
精鑛一瓲當り經費
一、金七捨參圓捨錢也
内譯
坑内費
一、金捨四圓參捨錢也
内譯
一、金五圓也 採鑛費爆薬共
一、金參圓也 坑道掘進費
一、金壹圓五捨錢也 材木運搬費
一、金蔵圓五捨錢也 支柱費
一、金壹圓也 坑内運搬費
一、金八捨錢也 坑内修繕費
一、金參捨錢也 排水費
一、金貳捨錢也 消耗品費
計
坑外費
一、金貳捨參圓七捨錢也
内譯
一、金五圓也 選鑛費水洗共
一、金貳圓也 貯鑛費
一、金五捨錢也 輸車路費
一、金四捨圓也 包装費一切
一、金壹圓也 雑役費
一、金貳捨錢也 消耗品費
一、金壹圓也 營繕費
計
運搬費
一、金參捨圓五捨錢也
内譯
一、金捨五圓也 山元ヨリ熊石市街船入澗迄馬車運賃
一、壹圓也 艀積込賃
一、金七圓也 熊石船入澗ヨリ江差迄船賃
一、金七圓五拾錢也 江差細倉間汽車賃
計
事務所費
一、金四圓六拾錢也
内譯
一、金壹圓參拾錢也 係員給料
一、五拾錢也 諸税金一切
一、金壹圓五拾錢也 旅費及交際費
一、金壹圓也 坑夫健康保険費
一、金參拾錢也 消耗費
計
収入
三菱鑛業細倉山賣鑛引受價格
(造幣局札幌出張所ノ分析報告書ニ依ル)
金 一 六拾五圓○五錢
銀 〃 百六拾九圓○九錢
鉛、亜鉛〃 壹百五拾六圓
此ノ引受價格ノ實收七割引トシテ二百七拾參圓也
一、金貳拾萬四千七百五拾圓也
一ケ月七百五十瓲賣鑛高
支出
一、金五萬四千八百二拾五圓也
差引利益金四萬九千九百貳拾五圓也
以上
昭和十七年二月十一日
右
鑛山技師 佐藤 定 ■(角印)
昭和十七年度 隆徳鑛山 探鑛作業計画書
一、位置及交通
(一)渡島國爾志郡熊石村地内ニ在リ開坑ノ位置ハ熊石市街ヲ距ル北方峯傅ヒニ登ルコト五粁関内川上流一号沢ニ達ス
即チ函館本線國縫駅ヨリ分岐スル瀬棚線東瀬棚駅下車若松市街地ヲ経テ久遠郡平田内村小川ニ至ル約七里小川ヨリ海岸ニ沿フテ南東約五里ニシテ熊石市街ニ達ス又江差線江差駅ヨリ熊石迄約十六里或ハ八雲駅ヨリ熊石迄約十三里乗合自動車ノ便アリ
熊石市街地ハ海岸ニ沿イタル細長キ部落ニテ戸數約八百戸ノ漁村ニシテ郵便局電信電話ノ設備アリテ日用品ヲ弁ズルニ足ル又関内ヨリ開坑ノ場所ニ至ルハ関内川ノ流域ニ沿フテ北上スルコト約七粁半ニシテ道路比較的容易ナリ
(二)地形
後志・渡島ノ國境白水嶽ノ南方ニ位置シ白水嶽ニ源ヲ発スル関内川ハ大小ノ支流ヲ結ビテ南西ニ流シ延長約二里ノ流域ヲ以テ海面ニ注グ、開坑附近ノ海抜三百八十米内外ナルヲ漸次上流ニ溯ルニ從ツテ六百米内外ニ及ビ地形急峻トナル
二、地質鉱床ノ状態及從来ノ稼業状況
(三)地質鉱床ノ状態
本鉱區ノ地質ハ西方貝取澗■泉ヨリ漸次南東平田内温泉及見市温泉ノ線ヲ以テ南北ニ區分シ其ノ北部ハ花崗岩ヨリ成リタル交代鉱床トシテ南部ハ水成岩ニ接スル安山岩ヨリナル正規鉱脈トス
鉱床ハ現在開坑セントスル附近ノモノハ温泉線ノ南部地帯ニアル安山岩ノ裂罅ヲ充塡シタル正規鉱脈ニシテ約五十米ノ間隔ヲ以テ壹号■ノ二條ヨリ構成シ一号■ハ一号沢ニ於テハ幅員三十尺ニ及ビ漸次白川本流ニ向フニ從ツテ平均幅員七尺トナリ其ノ延長千三百米ニ及ブ
二号■ハ一号■ノ上流約百五十米ヲ距テ幅員平均四尺ヲ以テ九百米連絡ス
有望鉱山と嘱された関内川の山なみ)
以上ノ走向ハ略東西チ走リ南北ニ向ツテ六十度傾斜ス此安山岩ヨリナル鉱床ハ第三紀層ニ隣接シ石炭層ヲ介在ス然シテ第三紀層ハ海岸ニ向フニ從ツテ再ビ安山岩ニ接觸ス
工業試験所〔北海道〕ニ於テ分析ニ依ル分量
番号 | 品名 | 品位 | 品名 | 品位% | 品名 | 品位% | 品名 | 品位% | 品名 | 品位% |
1号 | 金 | 混跡 | 銀 | 430 | 銅 | 2・36 | 鉛 | 43・70 | 亜鉛 | 14・50 |
2号 | 同 | 同 | 同 | 336 | 同 | 1・60 | 同 | 36・40 | 同 | 26・30 |
三、從来ノ稼業状況
(イ)沿革
昭和十三年九月渡辺留之助氏外二名共同出願ニシテ昭和十六年七月一日試掘許可ト成現在ノ鉱業権者ニ於テ昭和十六年七月十日ニ買收即時着手々続ヲナシタルモノナリ
(ロ)鉱區ノ増減
鉱區ノ増減ナシ
四、資本投下ノ状況
一、地表探鉱費
一、坑道探鉱費
一、火薬庫一棟
一、鉱業事務所一棟
一、鉱夫合宿所一棟五十坪
一、鉱山用道路開鑿〔完成〕
一、鉱業権売收費
一、馬車及厩舎二棟
合計金五万圓也
五、從来ノ採鉱及採鉱作業状況
當鉱山ノ発見ハ附近ノ転石ニ依リ探鉱シ苦心惨憺ノ結果昭和十三年九月ニ至リ現在ノ地点ニ於テ一大露頭ヲ発見シ試掘許可ヲ待ツ許可ト共ニ竪入坑十六米掘進シタルニ実ニ幅員三米余ノ鉱床ニ着脈シ黄銅鉛亜鉛ノ上鉱ヲ出スルニ至レリ之レヲ第壱号坑ト稱ス
爾来野外探鉱ニ専念シ各小ノ露頭ヲ発見ナシタルモ就中第壱号坑下流五十米ノ地点ニ於テ発見シタルモノハ最モ大ニシテ且ツ優良ナリ
最早野外探鉱ノ域ヲ脱シ大ニ坑内探鉱ノ実施ヲ必要トシ併セテ既ニ固定シタル坑道ニ依ル将来ノ採鉱作業ヲ予想シテ左ノ三道ヲ掘進計画スルモノナリ
即チ壱号坑貳号坑参号坑共ニ竪入坑ニシテ現在発見セル鉱脈中最モ優良ニシテ探鉱價値アル脈ヲ三段ニ探鉱シ着脈ノ上何レモ脈毎ニ左右片坑ニ依リ採鉱スルモノナリ
(ハ)最近ノ間産出シタル粗鉱及精ノ各年ニ於ケル種鉱別品位數量並ニ其ノ處分状況
昭和十六年度探鉱量十五
銅二、三六% 銀四二〇 鉛四三、七〇% 亞鉛二六、三〇%
右鉱石ハ山元貯鉱場ニアリ
(ニ)其ノ他参考トナルベキ事項
山元ヨリ熊石港船入澗迄五粁トラツク道路開鑿架設準備中
六、探鉱作業計画書
(一)掘進スベキ坑道
(イ)水平坑道
坑道番号 | 坑道名 | 探鉱作業目的 | 開鑿開始箇所 | 坑道掘進方位 | 坑道ノ大サ | 掘鑿方法 | 当該年度予定延長 | 完成予定延長 |
1 | 1坑号 | 堅入 | 坑口ヨリ16 | 略東西 | 五尺六寸 | 手堀 | 400米 | 400米 |
2 | 2坑号 | 同 | 坑口ヨリ新規開坑 | 同 | 同 | 同 | 600米 | 600米 |
3 | 3坑号 | 同 | 同 | 同 | 同 | 同 | 600米 | 600米 |
七、探鉱作業ニ從事スル鉱夫ノ職別員數
掘進夫二十六名 工作夫三名 選鉱夫五名 運搬夫十名 雜役夫十五名
計五十三名
一日ノ就業時間
坑内作業及之ニ附隨セル作業人ハ八時間制
野外作業ニ從事セル者ハ十時間制
交替制ノ有無
一号坑、二号坑、三号坑、作業ハ三交替トス
一ケ月稼働日數
一ケ月三日間休日ヲ控除シテ二十七日間トス
(ロ)機械掘ヲナス場合ニ於テハ使用スル鑿岩機及其ノ附帯設備ノ種類型式大サ台數當初ハ手掘ヲナスモ今年七月頃ニハ機械掘ヲナスベク目下機械器具ヲ整備中ナリ
(ハ)排水施設ヲナスニ於テハ當該坑道名及排水施備ノ概要三
坑道共水平坑道ナルヲ以テ坑道内ニ両溝ヲ設ケ自然排水ス
(ニ)原動機ノ種類キロワット數台
準備及設備ナシ
第8節 太平洋戦争の勃発
昭和16年12月8日早朝のラジオを大本営発表の臨時ニュースとして、「帝国陸海軍は本8日未明西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」の報道に、国民の多くは遂に来るものが来たと思ったが、続いて発表された「米太平洋艦隊は全滅せり」、「英東洋艦隊主力全滅す」の報に国内はわき返ったが、さらに出された天皇の「天佑を保有し…」に始まる開戦の詔書に、国民は斉しく、その前途の多難と、1億国民総蹶起して国難に当る決意を新たにした。村民は早速必勝祈願に鎮守様に参拝し、村民の祝勝旗行列のパレードも行われた。
村内からは、日中戦争勃発の時と同じく兵籍にある在郷軍人に召集令状が発せられ、青年は男、女の別なく軍需工場あるいは炭鉱等に就労し、漁業者は高齢者が多くなった。また、食糧事情も悪化の傾向をたどるようになり、12月1日には食糧増産実行共励委員に田村亮治、辰野忠治の両名が挙げられて、村内農産物増産の方策を検討している。
昭和17年
昭和17年に入ると3月31日限りで、自治制施行以来、部制、区制として村政の一翼を担ってきた区制が廃止された。これは前年12月村内22の部落会が結成され、臨戦時の村民の連絡協調が強化され、村の出先機関的性格を帯びている区長を必要としなくなったからであるが区長のほとんどはその侭部落会長となっている。
4月15日付では永年空席で乙部八幡社々掌の駒木六郎が兼務していた熊石根崎神社の社掌に長坂文蔵が任命された。
6月29日熊石監視哨の哨舎が老朽化したので、字雲石457番地所有者輪島和喜治の畑地に建立された。
同年6月相沼国民小学校の分校であった泊川分校は、本校の児童数増加もあって独立することが決定し、泊川村内の加我仁三郎外156名(代表加藤誠二)が拠金した1万2千円で1教室を増築し、3学級編成をもって泊川国民学校となった。。
同17年夏以降戦時動員、食糧配給等村内行政もあわただしさを増した。8月31日には江差国民職業指導所が連絡員として
佐野 幸作、鐙谷 達世、新村 畊、加藤 誠二、油谷 治三郎、川口 爽郎、辰野 忠治、田村 順治
の8名を任命し、村内遊休者、徴用出頭要求者の調査を行っている。
9月1日には海軍志願兵奨励委員として
坪谷 治三郎、徳倉 光春、鐙谷 達世、稲船 浅次郎
また、9月17日体力章検定員に 伊藤 正、串馬 竜太
の2名が発令されて、青年男女の体力を検定した。この体力章検定は、百米疾走、懸垂(けんすい)、俵担ぎ、擲弾(てきだん)投げ、二千米疾走、水泳一千米等を行って、その点数合計によって、上級・中級・初級のバッチを貰ったが、初級については10名程度、中級は2、3名であったが、この章のねらいは青少年の戦時体力の向上のため設けられたものである。
同年秋には熊石村森林組合が結成され、村林業施行案の代替施行と木炭生産、建築材の生産に拍車をかける。という如く、村民生活の厳しさが、日一日と強まってきた。
昭和18年
3月村長広川恵蔵氏、前月末から急性肺炎のため自宅で療養中であったが逝去されたので、3月17日村会を開催し、故人の村政に貢献した努力に酬いるため村葬をもって礼することとした。後任村長は久保正信が苫小牧町助役から4月9日着任した。久保村長は小柄ではあるが、バイタリテーで、酒は飲まず、磯釣を好み余暇をこれで過すという人で、陸軍一等看護長で勲六等帯勲者でもあり、特に衛生、庶務面に明るい人であった。
15代 久保 正信
この18年は5月29日にはアッツ島防備の我が軍が玉砕し、当村からは次の方々が戦死した。
衛生兵長 石井 信
工兵々長 岩佐 千代二
工兵上等兵 佐藤 福次郎
歩兵上等兵 井川 喜代治
歩兵上等兵 清水 良雄
同一島で村内から5人もの戦死者を出したことによって、村民は戦争の緊追感を肌に感じながら、10月7日雲石校で行われた村葬に参列して、その冥福を析った。
村は9月定例会で熊石村参与条例が可決された。これは戦局苛烈のなかでの村政運営には幅広い村内の協力を得なければならなかったので、定例7名の参与を委嘱することになったもので、10月15日に次のように発令している。
村会議員代表 大塚 忠五郎
同 加藤 誠二(産業組合長)
村内団体代表 大江 金蔵(関内郵便局長)
同 佐野 麟太郎(熊石郵便局長)
同 宍戸 誠(雲石国民学校長)
学識経験者代表 鐙谷 達世(在郷軍人分会長)
同 遠藤 忠治(商業協同組合長)
この年は国内では決戦に向け軍需生産、食糧増産が優先的に進められた。国民貯蓄運動では組合数は地域22、職場5、その他30、計57組合、貯蓄額は41万438円、国債々券の消化は目標額6万7000円に対し、消化実績は76%であった。
部落会機構の改変により12月28日決戦下で若返りを図り、次のように改選された。
部落会名 | 新部落会長 | 開削部落会長 |
第1相沼 | 西村 末太郎 | 青木 喜平 |
〃2〃 | 泉谷 岩太郎 | 三関 常五郎 |
〃3〃 | 荒谷 兵市 | 米谷 勇 |
〃4〃 | 長谷川 龍瑞 | 福井 吉之助 |
〃5〃 | 桂 菊次郎 | 管野 太輔 |
第1泊川 | 川上 松蔵 | 手塚 石太郎 |
〃2〃 | 手塚 留太郎 | 関口 琢蔵 |
〃3〃 | 杉村 健麿 | 松田 菊蔵 |
見日 | 新木 喜次郎 | 佐藤 八三郎 |
鮎川 | 伊藤 徳治 | 干場 勇 |
平 | 岩佐 又一 | 山内 常吉 |
畳岩 | 荒田 義雄 | 伊藤 憲隆 |
第1根崎 | 中川 良治 | 輪島 伝司 |
〃2〃 | 佐野 秀雄 | 山本 礼二 |
東雲石 | 佐野 庄四郎 | 鐙谷 達世 |
西雲石 | 斉藤 幸治 | 安本 順恵 |
第1西浜 | 平井 幸作 | 砂山 勝蔵 |
〃2〃 | 木谷 留吉 | 小笠原 義一 |
第1関内 | 新保 紫郎 | 橘 宇一 |
〃2〃 | 小倉 冨太郎 | 佐藤 福次 |
この機構改正で部落会は次のようになった。
村と部落会との事務連絡協議の場として毎月20日に村常会を開き、この伝達を受けて部落常会を月1回以上開催している。
また、12月15、16日には桧山支庁の熊坂主任、道庁佐崎主事を招き、門昌庵で部落会指導者練成会も行なわれている。また、12月8日には太平洋戦争(当時は太東亜戦争と呼んでいた)開戦2周年の総蹶起村民大会が3か所で行われ、参加者は1430人にも達している。
また、この年8月20日には熊石村勤労報国隊が設置され、本部長には村長、副本部長、事務局長には翼賛壮年団長の鐙谷達世、幹事吉田政治、松居栄、田村順治、荒井忠資、その外委員39名も発令されている。
熊石勤労報国隊の出動は短期では10月13日から31日まで10名が上磯町の峨朗工業所へ、長期では10月13日から12月13日まで10名が登川砿業所、同じく9名が新夕張砿業所で石炭採掘に出動し、その他女子は農家援農に従事している。一般家庭の主婦には海草の「ほんだわら」の採取があった。この海草は雑海草として省みられなかったが、粉末として麦粉等に混合し、海宝麺として食用に出来たので供出を命ぜられたのである。この年の採取高は7800貫であった。さらに一般家庭、児童、生徒をもって「イタドリ」の採取を行った。これは干燥加工をしてニコチンを加えると煙草の代用になるので、専売局が各地方に呼び掛けたもので、本村では3200キログラム個数451個で、これで得た代金1231円は貯蓄に振り向けられている。
昭和19年
この年になると北千島方面が砲撃されたり、サイパン島守備隊の玉砕、マリアナ沖海戦等で敗戦が続くなかで、国内本土にもB29が空襲する報道のなかで村民は、只国土の安全と出征した子らの無事を折りながら、乏しい配給物資で生活していた。
廃品回収の状況(島谷護氏所蔵=仮装行列)
2月22日には医師児島勝郎、小清水清一外22名が発疹チフス予防委員に任命された。発疹チフスはシラミが媒体で、不潔な体に宿って繁殖する。このシラミが高熱、発疹を伴う病源体をもっており、生命にも危険かある伝染病であった。何分にも石鹸の配給も十分でなく、洗濯も出来ずこのような伝染病が各地に蔓延したもので、村は衣類の煮沸をするよう呼び掛けた。
4月1日には相沼国民学校は1学級増築工事のため、2部授業を行い、また、この日熊石開発期成会が設置されている。これは国策遂行のための協力機関として結成を意図しており、村長を会長に、副会長2名、顧問若干名、評議員若干名、幹事若干名となっている。
この年は勤労総動員となり、前記石炭山の勤労報国隊の出動、女子の石炭荷役挺身隊として函館派遣、さらには八雲飛行場の飛行機掩体壕(えんたいごう)造りの勤労動員に桧山大隊が編成され、爾志中隊、熊石小隊として男子は1か月交替で約50名が働き、労働の間は軍人と同じ扱いを受けた。また貴金属回収や、金属回収も行われ、寺院の梵鐘から燭台、家庭の鍋釜に至るまで、兵器を造るために回収されている。
第9節 物資の配給と村民生活
日中戦争勃発の昭和12年7月の20日頃には連日の召集兵が、在郷軍人服に村民、近隣の寄せ書をタスキにかけ、腰に奉公袋(内容品は軍隊手帳、軍歴書、勲章、賞記、印鑑等の入ったもの)を下げ、見送の人々に送られバスに乗って出征した。送る人々も村長、在郷軍人会、青年団、白いカッポー着に婦人会名を染め抜いたタスキを掛けた愛国婦人会、国防婦人会の人達が手に手に日の丸の小旗を打ち振り「出征軍人を送る歌」(我が大君に召されたる…)、「露営の歌」(勝って来るぞと勇ましく…)、「暁に析る」(あゝあの顔で…)等の唄を合唱して見送った。また、出発前日には壮行会または立振舞の祝宴を開いたが、配給統制時代には酒二升、砂糖が特配となり、近隣が集まって御馳走を作り、祝宴を開いた。妻子のある召集者は訣別のつらさに耐えなければならなかったが、妻の多くはこの席に顔を出さなかった。男子は村内を歩いて寄せ書のサインをしてもらい、女子はサラシに千人針をしてもらった。虎は千里行って千里還ると縁起がよいので、その人の年の数だけ縫えるので、寅年生れの人は千人針攻であった。この真心こもった千人針も戦地ではしらみの住家になって困り物であった。
国防婦人会(会長遠藤キク)、愛国婦人会(村長婦人が歴代会長を勤める)、女子青年団等は機会ある毎に慰問袋を作って、郷土出身の出征兵士に送った。内容品には慰問文や便箋、封筒、手拭、歯ブラシ、歯磨、甘味品やスルメ等であった。
相沼国防婦人会(島谷護氏所蔵)
また、出征兵士のある家では毎日陰膳を神前に供えて、戦地の夫や子がひもじい思いをしない様に祈り、また、戦勝祈願と称し、神社に参詣して、その無事を祈った。日中戦争では1日を興亜奉公日、太平洋戦争下では毎月8日を大詔奉戴日とし、職場では開戦の詔勅を朗読して職員の奮起をうながし、一般は戦勝祈願日としていた。
日中戦争が激化し、昭和14年第二次欧州大戦が始まり、さらに米国の日本に対する経済封鎖が始まると、石油、ゴム製品のほか、国内流通が苦しくなり、また、将来に向って食糧の備蓄が必要となり、昭和15年から物資の統制配給が行われることになった。
在郷軍人徽章と階級章
愛国婦人会徽章(島谷護氏所蔵)
出征の前夜(沢野武氏所蔵)
この年4月10日に米穀強制出荷命令が発動され引続いて、7月1日から米穀の配給通帳制及び砂糖、マッチの切符制が実施され、さらに7月20日には木炭も配給通帳制となった。しかし、この時期には大人1人米1日3合の配給であったので、さして困る程ではなかった。政府は2割節米、米無デー(代用食)の普及を呼び掛けていた。
昭和16年に入ると、4月1日生活必需物資統制令が公布されて、米の通帳制と外食券制度が確立、米の配給は1日2合3勺となり、また、5月1日から酒の切符制が実施されたが、冠婚葬祭や出征兵士壮行会、あるいは乳幼児等には、酒や砂糖、ミルクの特配があった。
同年8月菓子類配給統制が実施され、9月には一般乗用車のガソリン使用が禁止となり、木炭車が利用され出し、6月9日には麦類、10月4日には雑穀(澱粉、大豆、小豆等)の配給統制が実施される等日を追って、配給統制が強化された。特にこの年、米が2合3勺になったのは、一般家庭の食生活に与えた打撃は大きく、朝は粥食、昼は馬鈴薯、夜は米飯が普通となり、さらに野菜を入れた蒸しパンや、澱粉の取り粕のアモを加工したアモ餅等々各家庭がそれぞれ食生活に工夫を凝らさなければ配給は不足するという状況であった。
米穀通帳
17年に入ると主食に継ぐ統制として、2月1日から衣料切符制、味噌、醤油の切符制が実施された。衣料切符は大人1人1年都市は100点、郡部は80点で、各品に各々点数が決められ、背広服1揃50点、国民服は32点、団服32点、婦人単衣(ひとい)着物24点、ズボン、スカート5点、労働衣24点というようなもので、大きな衣類を1枚買うとあとは何も買えない状態で、昭和18年の“熊石村行政報告”による衣料の取り扱いは、
団体名/品名 | 商業組合取扱 | 漁業組合扱 | 計 | 備考 |
軍手 | 1、740 | 8、484 | 10、224 | |
紺織 | 111 | 1、422 | 1、533 | |
丸紡 | 306 | 306 | ||
絣木綿 | 112 | 112 | ||
太綾 | 167 | 167 | ||
綾織シャッチ | 24 | 969 | 993 | |
雲斉ズボン | 37 | 37 | 内乗馬23足アリ | |
作業用服 | 266 | 266 | ||
水中長靴 | 30 | 30 |
で、労働に必要なもの以外の配給はなかった。さらに、この17年には食用油から石鹸、ゴム靴、煙草、塩にいたるほとんどの生活物資が統制され、また、3月には鮮魚介類の統制も行われ、当地に産するほっけ等の鮮魚が都市に送られ、鮮度が下がって不評をかったのもこのころからである。11月には家庭の電気消費規制が行われ、各家屋の安全器(ブレカー)のアンペアが最低のヒューズに切り替えられ、さらに用紙類まで統制され、官庁の出版物にも困るようになった。
衣料点数一覧表(永田富智氏所蔵)
このような統制経済のなかでは食堂経営者、商店経営者の仕事は立ち行かず、転廃業するものが多くなり、企業整備も行われ、18年末の小売業者68軒で、配給物指定店は37軒で、他の31軒は廃業に追い込まれている。
18年は物資の配給もつまり、特に主食では山菜、蔬菜等のかて飯が普通になったが、同年中の熊石村の主食配給量は次のとおりとなっている。
昭和十八年米穀消費状況調
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 計 | |
(1) 指令数量 | 1、180 | 976 | 976 | 1、265 | 1、150 | 1、155 | 1、085 | 1、085 | 1、085 | 1、085 | 1、166 | 1、166 | 13、475 |
(2) 消費数量 | 1、190 | 1、330 | 1、330 | 1、333 | 1、142 | 1、107 | 1、139 | 1、140 | 1、040 | 684 | 1、566 | 1、129 | 13、921 |
(1)ノ(2)ニ対スル過 | △ 10 | △ 354 | △ 33 | △ 63 | 8 | 48 | △ 54 | △ 55 | 31 | 404 | △ 400 | 37 | △ 446 |
申請数量 | 1、300 | 1、200 | 1、333 | 1、190 | 1、266 | 1、371 | 1、311 | 1、340 | 1、335 | 1、376 | 1、330 | 1、383 | 15、735 |
(イ)実際消費高カ指令数量ニ比シ四四六俵不足トナルモ前年度節米ニ依ル繰越高ヲ以テ之レヲ補給充足セリ
(ロ)消費数量が申請数量ニ比シ相当数量ノ不符号ナルハ申請数量消費規正量ヲ以テ満度ノ配給量ヲ見込タルニ対シ消費量ハ毎月百乃至三百程度米不配日を設定シタル数量ナリカ故ナリ
で申請数に対し割当消費数は88・5%で、約12%が不配になっている現況からも、村民の食生活の困窮の状況がよく察知できる。
昭和19年に入ると、3月1日国民職業指導署が国民勤労動員署と改称され、同5日には料理店、カフェーは廃止転業を命ぜられ、婦女子といえども遊休者は徴用や勤労報国隊要員に指名され、勤労奉仕として石炭荷役や軍需工場に狩り出され、4月1日から旅行制限が実施され、列車の特急、寝台、食堂車は廃止され、遠距離旅行者は町村長、警察署長、軍、軍関係工場等の発行する証明書が必要であった。また、同年11月1日には煙草は1人1日6本の配給となった。さらに20年7月からは3本と減り、主食も大人1日2合1勺と減量となった。
第10節 終戦の混乱
昭和20年に入ると戦局はますます苛烈となり、各地域で日本軍の敗戦が伝えられると、熊石の村民も不安と焦慮のなかで、口には出さないが、万一の場合どう生き延びるかを真剣に考えるようになり、また、戦場にある子、夫の無事を念じて陰膳を据える日々が続いた。米の配給は2合3勺から2合1勺に減り、それすら、大豆や大豆粕、玉蜀黎、麦等の代替配給となり、小学校児童を抱えた家庭はどうしたらひもじい思いをさせないですむかと、家庭菜園の造成や山菜、海草採りにかいがいしく働いた。男子は漁船の重油の配給が少ないため、思うようにイカ釣出漁にも出られず、近場沖での出漁の場合は磯舟を利用したり、また可動のできる男女は、転業によって石炭山や軍需工場に出向したり、勤労報国隊、女子挺身隊として石炭荷役や採炭、援農、さらには軍施設工事に働いていた。
20年1月には総動員警備が実施され、非常事態下で警察充実の補助機関として、警防団の班長以上の者は警察補助員に任命され、警察権限を分化して委任された。また、3月国民勤労動員令の発布により徴用者も増加し、さらに5月には国民義勇隊要項の発布によって、村民婦女子にいたるまで戦闘員としての訓練を受けることになり、学校や神社の境内で、毎日在郷軍人の指導の下で、竹槍訓練や防火訓練に励み、家に帰っては裏山の崖を据って防空壕掘をし、子供達は勉強道具と非常携帯食料の救急用品の入った救急袋に防空頭巾を下げて登校していた。
3月には硫黄島の守備隊が玉砕し、4月1日以降沖縄に米軍が上陸、当村出身者の多い同島での日本軍の死闘に、ひたすらその無事を祈り続けていたが、6月29日までにそのほとんどが玉砕し、いよいよ本土決戦、1億総玉砕を覚悟して、竹槍訓練に励んでいたが、7月14日以降、根室、釧路、室蘭等に艦砲射撃と艦載機による空襲が行われ、函館では連絡船のほとんどが撃沈された。この7月14日正午前、米軍のグラマン機が久遠沖から本村沿岸部をかすめ、偵察しながら江差の方向に飛んで行ったが、幸い村には爆撃や銃撃はなかったが、村民は戦争を身近に感じ、その後毎日のように出される警戒警報、空襲警報に、灯火管制の暗い不安な夜を過していた。
8月15日の朝ラジオ放送は「今日正午重大放送がある」との報道に、村民はいよいよ民族自決の時かと、ラジオのある家の前に集まっていたが、正午雑音が多くてよく聴き取れなかったが、天皇陛下の玉音放送で「終戦の詔勅」であることが分った。今まで張りつめていた村民の気持は、ついに負けたか、とその場に座り込み泣き伏す人が多かった。
翌日からは戦争に関係した法令は次々と解消され、村内では大政翼賛会、国民義勇隊、勤労報国隊、挺身隊といった戦争推進、協力の機関は解体され、さらにその核となっていた在郷軍人分会、翼賛壮年団、国防婦人会、愛国婦人会、防空監視哨等の団体、機関も解散した。村役場では上部機関の指示に従い、村内の戦争協力体制を明確にした書類は一切焼却することになり、前浜で毎日書類を焼き、その火で海水を汲んで製塩したといわれている。
(特に村備付の兵籍簿は一番先に焼却するよう指示されていたが、当時兵事主任だった赤泊茂松(現町長)は、将来何らかの形で町の記念物として残そうと、隠し続け、道内各町村で、この時代の兵籍簿が残されているのは熊石町のみである。)
熊石村兵籍簿(熊石町所蔵=記載例部分)
終戦になると、旧軍人や若い女は皆、アメリカヘ連れて行かれて奴隷にされるとか、今にアメリカが来て若い女の子の耳に穴をあけ、それに針を通して珠数つなぎにして連れて行くとか、さらには北海道がソ連軍の占領下に置かれることになったから、早く本州に逃げなければだめだなどの流言蜚(ひ)語が飛び交い、村民の焦慮は大きかった。20日頃から国内にいた兵士が、軍服に外套、毛布を背負って復員してくると、ようやく留守家族にも笑が戻って来た。しかし、外地等の未復員者の家庭には、それまでと異なって戦死の公報がポッンと郵送されて来たり、未復員者の消息はつかめず、留守家族は1日も早く元気で帰郷する日をひたすら待ち望んでいた。
9月には大きな台風の襲来があって沿岸の道路が欠潰したり、畑作物に被害があり、また、終戦による混乱のため輸送が停滞して、割当食糧が届かず、食糧難は日を追って深刻化した。
外地引揚証明書
このようななかで、復員や樺太、外地からの引揚者は多くなり、村内の親戚、知人宅に身を寄せた引揚者は、12月で次のとおりであった。
樺太引揚者 120戸
満州引揚者 6戸
朝鮮引揚者 3戸
本土内都市引揚者 9戸
道内よりの引揚者 3戸
その他 1戸
計 147戸
この終戦の昭和20年の明るい話題といえば、同年7月東京都荏原区手塚町2丁目624番地居住の精密ドリール製作所所長の住吉礼治さんが、郷土の後輩を育てるためにと育英資金1万円を村に寄附し、村会は住吉氏の厚志に対し、感謝状を贈呈している。
第11節 戦争犠牲者
日露戦争から大正年代の尼港事件、さらに日中戦争(支邦事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)に、熊石町の戦争犠牲者は204名の多きに達している。熊石町から現役兵、志願兵、召集兵を含めて、戦争に駆り出された兵員については“昭和22年熊石村事務報告”によれば、復員者状況調として
陸軍 復員者742人、未復員者125人
海軍 復員者125名、未復員者6名
復員者計 867名、未復員者131名
で、実質的には958名が戦争に参加していたことになり、さらにこれに戦死者を加えると、優に1000人を越す村民が動員されていたのである。
戦死者別の状況は日中戦争の戦死あるいは死亡者の発生した昭和13年から21年までの状況を見ると、 昭和13年 2人
昭和14年 7人
昭和15年 8人
昭和16年 11人
昭和17年 14人
昭和18年 20人
昭和19年 16人
昭和20年 32人
昭和21年 85人
計 195人
であるが、昭和21年の85人については20年の死亡者及び終戦処理死亡の確定した戦死者が含まれている。
戦死者の地域別戦死状況を見ると(場所の明確なもののみ)
沖繩本島 35人
中華民国 30人
旧満州国 24人(内ノモンハン事件 7人)
南洋群島 29人(内メレョン島 8人)(内ブラウン島 4人)
濠州、ニューギニア地域 13名(ガダルカナル・ソロモンを含む)
フイリッピン 22名
アツツ島 5名
硫黄島 3名
本州地域内 26名
ソ連抑留死亡 3名
等が主なる死亡地である。この主な戦死地の概況を見ると、昭和14年5月から9月にかけての内蒙古、外蒙古、満州の国境地域ノモンハン、ハルハ河、ノロ高地付近の戦闘はソ連軍との戦闘で、これに参加した日本軍は東北地方編成の第23師団、北海道編成の第7師団が主力となって戦い、23師団は兵員の70・3%、7師団は32・8%の被害を受けているが、特に道南地方出身者の多い歩兵第26連隊の須見部隊、歩兵第28連隊の戸塚部隊に損害が多く、須見部隊は参加人員1、720人に対し、戦死598人、戦傷783人で、参加人員の80%が損害を受け、熊石町でも7名の戦死者を出している。
次に5名の戦死者を出したアツツ島はアリューシャン列島中の島で、昭和17年6月8日第7師団から編成した北海支隊が上陸占領した。指揮官は米川中佐であったが、18年2月山崎大佐と変更した。同年5月18日米軍は2万の兵力でアツツ島に上陸、2千500の日本軍と戦い、5月29日には全員が玉砕したが、そのうちに北海道出身者は864名であった。
次に当町の出身者が13名も戦死しているガダルカナル附近の戦闘については、7師団の第28連隊を主体に編成された一木支隊(一木清直大佐)が陸、海協同作戦によるミッドウェー島占領のため出発したが、失敗のためトラック島に移り、ここから約1000名の先遣隊は昭和17年8月18日ガダルカナル島に上陸、後続部隊の来援を得て、ルンガ飛行場の攻防戦を展開したが、後続補給がないため敗退し、ジャングル内を彷徨し、飢餓とマラリアにさいなまれた不遇の部隊であったが、駆逐艦による撤収でようやく救われ、旭川に帰ったのは僅かに200人であった。
日本の防衛の玄関口である沖繩本島に米軍が上陸を開始したのは、20年4月1日である。兼ねてこのことを予期していた軍は沖繩方面に第32軍の4個師団、5個旅団外を配置して防禦の体制をとっていた。その主力となったのは満州東安で編成された第24師団(師団長雨宮巽=山兵団)であった。この師団は第7師団が人員の補給師団となっていて、北海道選抜の昭和17、18年徴集現役兵が主体で、歩兵第98連隊(原隊旭川28連隊、旭川地区出身者で編成=連隊長金山均大佐)、歩兵第22連隊(原隊旭川26連隊、函館地区出身者で編成=連隊長吉田勝大佐)、歩兵第32連隊(原隊旭川27連隊、釧路地区出身者で編成=連隊長北郷格郎大佐)の3連隊が中核をなし、我が国に残された最強の機甲師団といわれていた。熊石町の出身者の多くは歩兵第22連隊(吉田部隊)に所属していた。米軍との戦いでは24師団は本島の那覇と東海岸の与那原を結ぶ線以南の島尻地区の防禦に当り、特に22連隊は主力を、主戦場となった真壁に置いて怒涛の如く押し寄せる米軍と戦い、5月中旬以降では夜間挺身奇襲で活路を見い出すよりは方途がなく、日を追って戦死者が増加した。沖繩戦の最終段階での6月17日には真壁の西方、真栄里の陣地にあった22連隊の洞窟本部は米軍の爆雷攻撃を受け、連隊長吉田勝大佐以下本部は全滅し、6月23日には軍司令官牛島中将、6月30日頃には山兵団長雨宮中将が自決し沖繩戦は終決を見たが、本町出身者に35名の戦死者を出した最大の戦域となったのは、このような事情からであった。
熊石町出身戦没者204名の名簿は次のとおりである。
字関内
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
福岡 康治 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島首里 | 20・6・15 | 福岡 孝義 |
大須田 松太郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島西原村 | 20・5・15 | 大須田 悟 |
下倉 生正 | 陸 | 兵長 | 中華民国武呉第七九兵姑病院 | 20・3・18 | 下倉 剛 |
川本 直敏 | 海 | 主計兵長 | 南支那方面 | 19・8・8 | 川本 ソノ |
川本 昇 | 陸 | 伍長 | 満州国東安省密山県宝東駅 | 15・4・24 | 川本 ソノ |
蛯名 保彦 | 陸 | 上等兵 | 北支山東省■懸楓代4262部隊東京荘看者療養所 | 18・11・14 | 佐々木 綾子 |
辰野 孝司 | 海 | 水兵長 | ニューブリテン島ラバウル | 20・4・23 | 辰野 寿栄 |
今井 光重 | 陸 | 少尉 | 中華民国華北省東鹿県西良馬西南方 | 15・10・18 | 今井 キミヱ |
野口 実 | 陸 | 兵長 | 中華民国湖南省板塘方野戦予備病院 | 19・10・1 | 今井 キミヱ |
橘 政夫 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島首里 | 20・5・29 | 橘 隆 |
新川 深 | 陸 | 上等兵 | 朝鮮済川島西方海上 | 19・11・17 | 新川 隆雄 |
高橋 昇治 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・3・1 | 高橋 侃一 |
大江 泰三 | 陸 | 見習士官 | 樺太敷香郡敷香町上敷香 | 19・8・25 | 大江 靖明 |
新保 民治 | 陸 | 伍長 | 清国盛京省旅順港 | 明38・12・30 | 新保 タキ |
字西浜
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
析戸 賢治 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島首里 | 20・5・16 | 折戸 敏雄 |
松田 藤蔵 | 海 | 一等兵曹 | 比島クラーク地区山中 | 20・2・28 | 松田 富雄 |
平井 市太郎 | 陸 | 上等兵 | 中華民国陸軍第151兵站病院 | 20・11・14 | 平井 タミ |
横山 富雄 | 陸 | 上等兵 | 満州国興安北省ノモンハン | 14・8・20 | 横山 金郎 |
松田 勝美 | 海 | 軍属 | 横須賀海軍病院 | 16・12・29 | 松田 勝栄 |
森 藤雄 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島真栄里 | 20・6・19 | 森 ツル |
平井 孝一郎 | 陸 | 准尉 | スマトラ島リマプール | 20・12・10 | 平井 松三郎 |
平井 久助 | 陸 | 兵長 | 東支那海北西洋上 | 20・3・24 | 平井 忠夫 |
砂山 三郎 | 海 | 一等兵曹 | 比島方面 | 19・11・22 | 砂山 勝蔵 |
宮下 誠治 | 陸 | 中尉 | 比島方面 | 19・11・11 | 平井 ヨネ |
字鳴神
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
関村 喜久三 | 陸 | 伍長 | 比島ルソン島クラーク山中 | 20・4・10 | 関村 安男 |
佐々木 賢一 | 陸 | 兵長 | 来陽72兵站病院 | 20・8・15 | 佐々木 サキ |
風無 寿沿 | 陸 | 軍属 | 濠州ニューサウスエール州カウラ町 | 19・8・19 | 風無 タミ |
岸田 長吉 | 陸 | 伍長 | 清国盛京省旅順口附近 | 明37・12・1 | 岸田 浩 |
加藤 秀三 | 海 | 一等水兵 | (日露戦争) | 明37・9・19 | 加藤 ヒサ |
坪谷 良太郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島西原村 | 20・4・30 | 坪谷 三郎 |
玉館 初男 | 陸 | 上等兵 | 中華民国湖南省漢寿県平湖(赤山島桃林沖) | 19・6・3 | 玉館 キヨ |
高橋 定五郎 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル島 | 17・12・24 | 高橋 マキ |
岩藤 勝男 | 陸 | 兵長 | 満洲八面通 | 20・8・13 | 岩藤 タミ |
阿部 繁司 | 陸 | 兵長 | 沖縄島幸地 | 20・4・27 | 阿部 精司 |
横田 弘 | 海 | 水兵長 | 小笠原諸島方面 | 19・6・9 | 横横田 重男 |
字雲石
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
山本 広 | 陸 | 准尉 | 中華民国河北省老河口 | 20・3・30 | 山本 スミ |
安本 慧海 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島貞栄里 | 20・6・18 | 安本 順海 |
阿部 定喜 | 陸 | 上等兵 | 比島ルソン島 | 20・2・2 | 阿部 さく |
小倉 権司 | 海 | 飛行兵長 | 南洋群島方面 | 19・4・14 | 小倉 政蔵 |
工藤 常安 | 陸 | 伍長 | 沖縄県幸地附近 | 20・5・4 | 工藤 直保 |
佐藤 由蔵 | 陸 | 上等兵 | 北緯30度東径126度洋上 | 20・3・24 | 佐藤 由介 |
中島 喜代治 | 陸 | 上等兵 | 中華民国河南省第13軍直轄兵站病院 | 20・5・22 | 中島 満郎 |
輪 久満男 | 陸 | 上等兵 | ソロモン群島ブーゲンビル島ヨーホ第103兵站病院 | 18・2・3 | 輪島 孝司 |
平塚 藤一郎 | 陸 | 上等兵 | 金沢陸軍病院泉野分院 | 16・2・22 | 平塚 利昭 |
岩藤 栄吉 | 陸 | 整備兵長 | 比島クラークパンバン川上流 | 20・3・31 | 岩藤 セキ |
高橋 英治 | 陸 | 上等兵 | 中華民国山西省汾西県石櫃村 | 13・10・15 | 高橋 英一 |
高橋 良蔵 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島首里 | 20・5・13 | 高橋 英一 |
字根崎
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
花田 作郎 | 陸 | 曹長 | 沖縄本島小波津 | 20・5・4 | 花田 ヨシ |
野上 喜代一 | 海 | 一等機関兵曹 | ギルバート諸島方面 | 18・11・25 | 野上 ヨシ |
大坂 五郎 | 陸 | 伍長 | 中華民国広西省 浦県永平荘 | 20・6・7 | 大坂 梅三 |
中村 桂一 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島伊敷 | 20・6・19 | 中村 利美 |
草野 吾三郎 | 海 | 兵曹長 | 本州南西海面 | 19・5・31 | 平井 セン |
野上 喜代作 | 海 | 上等水兵 | 佛印東方海面 | 20・1・12 | 野上 キク |
尾山 十郎 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島幸地 | 20・5・2 | 尾山 静江 |
三浦 久吾 | 陸 | 兵長 | ニューギュア島ナングロマロン | 19・9・25 | 三浦 鉄次 |
橘 忠夫 | 陸 | 上等兵 | 満洲国興安省ハルハ河川附近 | 14・7・25 | 岩浦 美代子 |
字畳岩
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
青坂 庄作 | 海 | 軍属 | 門司市大字門司 | 18・10・25 | 青坂 タケノ |
飯田 利雄 | 陸 | 伍長 | 満洲国興安省ノモンハン(731高地) | 14・8・28 | 飯田 庄三郎 |
仙村 清 | 海 | 軍属 | 本邦東北海洋上 | 17・1・1 | 新谷 専治 |
井上 喜代治 | 陸 | 上等兵 | アリウシャン列島アツヽ局 | 18・5・29 | 酒井 敬子 |
新谷 政次 | 陸 | 曹長 | 沖縄本島首里 | 20・5・16 | 新谷 弘 |
中谷 進 | 海 | 二等飛行兵曹 | 台湾東方海面 | 19・10・13 | 中谷 基 |
加茂 久助 | 陸 | 上等兵 | 自宅に於て傷病死 | 23・2・8 | 加茂 久治 |
種田 甚平 | 陸 | 兵長 | 西部ニューギュア州サルミ | 20・2・19 | 種田 英子 |
岩坂 一郎 | 陸 | 伍長 | 東支那海西方海上 | 20・3・24 | 輪島 夕子 |
新谷 信人 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島摩文仁 | 20・6・10 | 新谷 文雄 |
下条 藤吉 | 陸 | 軍曹 | 中国牡丹江省林口県林口 | 20・8・16 | 中島 トキ |
字平
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
酒谷 恭治 | 海 | 上等兵曹 | 南洋群島方面 | 19・8・1 | 荒谷 唯雄 |
荒谷 金作 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・3・19 | 荒谷 唯雄 |
熊谷 政一 | 陸 | 伍長 | ソ連沿海州ウラジオ地区ウラジオ中央病院 | 21・11・10 | 熊谷 ヨサ |
大高 孫吉 | 陸 | 二等兵 | 清国盛京省大寒屯附近 | 明36・3・10 | 大高 政美 |
余湖 峯雄 | 陸 | 伍長 | 中華民国河北省慶雲県紀王橋附近 | 16・9・14 | 余湖 勇助 |
紅谷 勝也 | 陸 | 曹長 | マーシャル群島ブラウン島 | 19・2・24 | 紅谷 勝蔵 |
半洲毛 重次郎 | 陸 | 兵長 | マーシャル群島ブラウン島 | 19・2・24 | 半洲毛 重四郎 |
坂本 博 | 陸 | 伍長 | 満洲国牡丹江省■芬河大長山 | 20・8・15 | 坂本 省三 |
刀祢 邦男 | 陸 | 上等兵 | 札幌陸軍病院 | 17・1・3 | 刀祢 清貴 |
酒谷 一夫 | 陸 | 上等兵 | 中華民国江蘇省浦口県浦口 | 19・12・27 | 酒谷 正之 |
沢口 好男 | 陸 | 上等兵 | 比島ルソン島西方洋上 | 19・4・26 | 沢口 静世 |
小林 孝治 | 陸 | 准尉 | 比島タクロバン飛行場上空 | 19・11・25 | 小林 秀次郎 |
平塚 秀一 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島伊敷 | 20・6・17 | 平塚 秀春 |
佐々木 友春 | 陸 | 兵長 | 中華民国山東省臨邑県玉婁附近 | 18・1・25 | 佐々木 友市 |
字鮎川
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
中村 重三郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島幸区 | 20・5・1 | 干場 ハナ |
右近 安太郎 | 海 | 上等水兵 | マレー半島ペナン沖合 | 20・5・17 | 右近 トサ |
山本 興蔵 | 陸 | 上等兵 | 中華民国山西省晋城県来鳳頭附近 | 15・6・16 | 山本 庄蔵 |
大畑 興三郎 | 陸 | 伍長 | 北千島占守島 | 20・8・20 | 大畑 栄次郎 |
石戸谷 政一 | 陸 | 伍長 | マリアナ島 | 19・7・18 | 石戸谷 アエ子 |
小林 市太郎 | 陸 | 伍長 | 比島ルソン島マニラ東方 | 20・3・8 | 小林 トセ |
佐々木 政蔵 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島オッタカイ島 | 20・4・23 | 佐々木 輝勝 |
中村 豊作 | 陸 | 一等兵 | 満洲国 | 明38・3・3 | 中村 タケ子 |
佐野 梅太郎 | 陸 | 徴用工 | 上ノ国字早川無番地 | 20・3・23 | 佐野 勝雄 |
秋田 米男 | 陸 | 伍長 | 満洲牡丹江第1陸軍病院 | 15・9・27 | 秋田 秋男 |
字見日
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
佐藤 定太郎 | 陸 | 伍長 | 中華民国河南省武陟県王庄附近 | 16・3・15 | 佐藤 チヨ |
宮口 利雄 | 陸 | 伍長 | 中華民国河南省汲県京漢線鉄道附近 | 16・3・8 | 宮□ 利吉 |
成田 晴雄 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島安波茶 | 20・4・10 | 成田 藤春 |
田村 石蔵 | 陸 | 一等兵 | 遼陽衛戌病院 | 大7・4・16 | 田村 ウエ |
手塚 定雄 | 陸 | 曹長 | 中華民国湖北省光化県老河口附近 | 20・4・7 | 笹谷 ムメ |
字泊川
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
荒谷 仁吉 | 陸 | 伍長 | 中華民国広西省平南県 | 20・1・18 | 荒谷 駒蔵 |
加藤 常三郎 | 陸 | 上等兵 | 満洲国興安省ノモンハン | 14・7・8 | 加藤 常七 |
加藤 昌 義 | 海 | 一等整備兵 | ソロモン諸島 | 17・8・7 | 加藤 義治 |
川瀬 要吉 | 陸 | 准尉 | 沖縄本島尻郡 | 20・6・23 | 川瀬 サナ |
熊谷 謹治 | 海 | 軍属 | 西南太平洋ニューブリテン島ラバウル | 20・7・16 | 熊谷 武一 |
小山 富一 | 陸 | 上等兵 | 満洲国奉天陸軍病院 | 17・12・24 | 小山 スミ |
佐藤 喜代三 | 陸 | 上等兵 | 満洲国興安省ノモンハン | 14・8・21 | 佐藤 喜代一 |
坂本 二郎 | 陸 | 伍長 | ソロモン群島ガダルカナル | 17・8・21 | 川上 光男 |
佐藤 喜代治 | 陸 | 伍長 | 南洋群島ブラウン島 | 19・2・24 | 佐藤 喜代一 |
杉村 健二 | 陸 | 伍長 | 満洲国興安省ノモンハン | 14・8・21 | 杉村 ヤスヱ |
杉村 忠雄 | 海 | 一等機関兵長 | 南方方面 | 18・2・8 | 杉村 ツル |
仙島 重信 | 陸 | 上等兵 | 樺太上敷香陸軍病院 | 17・4・27 | 仙島 ハナ |
田村 倉太郎 | 陸 | 伍長 | 中華民国河北省 津県劉 庄口附近 | 14・5・26 | 田村 光男 |
高野 辰義 | 陸 | 伍長 | 南洋群島ブラウン島 | 19・2・24 | 高野 正治 |
土谷 正勝 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・4・2 | 土谷 チヨ |
天満 源一郎 | 陸 | 伍長 | マリアナ島 | 19・87・ | 佐藤 正一 |
中島 幸吉 | 海 | 水兵長 | 硫黄島 | 20・3・17 | 中島 覚三郎 |
成田 源太郎 | 陸 | 兵長 | 比島ルソン島リガール州アンチポロ | 20・3・17 | 成田 トミ |
野上 竹次郎 | 陸 | 一等兵 | 北海道七重療養所 | 16・5・25 | 野上 理八 |
藤谷 仁作 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島首里 | 20・5・20 | 藤谷 精一 |
本堂 玉雄 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル | 17・10・6 | 本堂 民雄 |
佐藤 作蔵 | 陸 | 一等兵 | 清国盛原省 叺舎舎営病院 | 明38・8・27 | 斉藤 ミオ子 |
巽 武吉 | 陸 | 兵長 | 北支平遥県回々阜附近 | 16・3・29 | 巽 ハルヱ |
字館平
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
菅野 廣一 | 陸 | 伍長 | 中国山東省高茫県馬家附近 | 18・2・16 | 菅野 満 |
加我 仁之吉 | 陸 | 上等兵 | 函館陸軍病院 | 19・2・16 | 加我 豊吉 |
須田 久三郎 | 陸 | 伍長 | 新潟県新発田陸軍病院村松分室 | 14・12・3 | 須田 鶴一 |
山田 重 | 海 | 水兵長 | 西南太平洋方面 | 20・1・13 | 山田 盛雄 |
井河 雅博 | 陸 | 上等兵 | ソ連沿海州ムリー地区病院 | 23・2・15 | 井河 寿三 |
山田 勝四郎 | 徴用 | 函館市本町 | 19・7・6 | 山田 義信 |
字相沼
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
青木 兵蔵 | 海 | 軍属 | 南方方面 | 16・12・21 | 青木 兵吉 |
油谷 好雄 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル | 17・11・10 | 油谷 由丈 |
油谷 好也 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島国吉 | 20・6・20 | 油谷 サヨ |
遠藤 策治 | 陸 | 兵長 | マーシャル群島クエゼリン島 | 19・2・6 | 遠藤 幸作 |
上山 溝 | 陸 | 軍曹 | 比島ルソン島 | 20・1・25 | 西田 トシ |
桂川 兵市 | 陸 | 曹長 | 沖縄本島首里 | 20・5・13 | 桂川 兵治 |
門脇 譲 | 陸 | 曹長 | 沖縄本島真栄里 | 20・6・21 | 門脇 一昭 |
沢谷 藤三郎 | 海 | 上等機関兵曹 | 南西諸島方面 | 19・10・10 | 沢谷 沢蔵 |
沢谷 藤蔵 | 海 | 上等兵曹 | 航空機事故 | 20・1・21 | 沢谷 沢蔵 |
桜井 忠美 | 海 | 上等水兵 | ルソン島ニコスニ | 20・2・15 | 桜井 きくの |
桜井 忠雄 | 陸 | 伍長 | 比島ルソン島アンテポロ | 20・5・10 | 桜井 角五郎 |
四平 政太郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島弁ケ岳 | 20・5・17 | 四平 政勝 |
稲船 民弘 | 陸 | 軍曹 | 沖縄本島首里 | 20・3・10 | 佐々木 キヨヱ |
滝沢 俊一 | 陸 | 兵長 | 中国華南省新郷県新郷 | 17・12・25 | 油谷 キサ |
田辺 文治 | 海 | 二等兵曹 | 中邦方面 | 20・10・8 | 斉藤 ツワ |
長沼 正月 | 陸 | 兵長 | 中国湖北省夏 黄口第1陸軍病院 | 20・3・5 | 長沼 葉子 |
西川 市郎 | 海 | 水兵長 | マリアナ諸島方面 | 19・8・2 | 西川 ミヨ |
浜田 正美 | 陸 | 兵長 | 北邦方面 | 16・2・5 | 山田 秀 |
福原 宇佐蔵 | 陸 | 兵長 | 襟裳岬附近 | 20・4・19 | 辻村 孝志 |
三関 常志 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル | 17・8・21 | 三関 常四郎 |
三関 常三郎 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島貞壁 | 20・6・23 | 三関 常四郎 |
阿部 寿司 | 陸 | 兵長 | 旭川陸軍病院 | 16・10・1 | 阿部 ヒサ |
能登谷 静雄 | 海 | 上等水兵 | 硫黄島 | 20・3・17 | 能登谷 ハマ |
滝沢 房三郎 | 陸 | 上等兵 | 清国盛京省旅順 | 明37・11・30 | 滝沢 トナ |
南部谷 益四郎 | 陸 | 上等兵 | 中国満洲東安省虎林県虎頭 | 20・8・9 | 南部谷 一郎 |
船元 広三 | 陸 | 伍長 | ソ連ハバロフスク州ハバロフスカ病院 | 20・12・15 | 船元 健司 |
伊勢谷 隆 | 陸 | 伍長 | 南方ブラウン島 | 19・2・24 | 稲船 イワ |
稲船 高之 | 海 | 大湊海軍病院 | 21・2・23 | 佐々木 キヨヱ | |
門脇 政直 | 陸 | 軍曹 | 中国牡丹江省■陽街附近 | 20・8・9 | 門脇 一昭 |
田畑 豊三郎 | 陸 | 一等兵 | 自宅に於て病死 | 20・5・23 | 田畑 キヨヱ |
西村 亀太郎 | 陸 | 自宅に於て病死 | 17・11・6 | 西村 八重太郎 |
字折戸
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
遠藤 新司 | 陸 | 兵長 | 中国武昌病院 | 16・11・3 | 遠藤 テツ |
篠塚 幸次郎 | 陸 | 伍長 | 中国山東省臨附県小官荘附近 | 13・3・30 | 篠塚 ヨシ |
田畑 与四郎 | 陸 | 少尉 | 沖縄島附近方面 | 20・4・22 | 田畑 市三郎 |
滝沢 与三郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島真壁 | 20・6・19 | 滝沢 常蔵 |
藤村 作次郎 | 陸 | 軍曹 | 満洲国牡丹江 河子 | 20・8・13 | 藤村 礼蔵 |
三上 春蔵 | 陸 | 上等兵 | 満洲国興安省ノモンハン | 14・8・25 | 三上 正太郎 |
町外転出者
戦死者名 | 陸海別 | 階級 | 戦死の場所 | 戦死年月日 | 遺族氏名 |
岩佐 千代治 | 陸 | 兵長 | アリウシャン列島アッツ島 | 18・5・29 | |
岩佐 教輔 | 海 | 上等整備兵 | 京浜南部 | 20・4・10 | |
岩佐 護 | 海 | 飛行二等兵曹 | 比島方面 | 19・11・11 | |
太島 誠 | 陸 | 伍長 | 比島マニラ東方 | 20・6・25 | |
川本 庄蔵 | 陸 | 上等兵 | 満洲国興安省ハルハ河附近 | 14・7・24 | |
小西 勇二 | 海 | 一等機関兵曹 | 比島方面 | 19・6・8 | |
児島 俊次 | 海 | 上等機関兵曹 | 比島方面 | 19・10・27 | |
酒谷 勇 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・5・5 | |
常戸 新一郎 | 陸 | 伍長 | ニューギュア州サルミ | 19・7・22 | |
坪谷 邦彦 | 陸 | 中尉 | 熊本県上空 | 20・5・2 | |
土谷 孝次郎 | 陸 | 伍長 | 比島レイテ島西海岸カンギポツ小山 | 20・3・8 | |
名平 美治 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・4・2 | |
野坂 勝太郎 | 陸 | 上等兵 | 満洲興安北省白銀査チオボー附近 | 14・7・3 | |
畑中 唯雄 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島大里 | 20・6・16 | |
広瀬 秀造 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島国吉 | 20・6・20 | |
沢谷 峯男 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島大里 | 20・6・23 | |
佐野 荘一 | 陸 | 大尉 | 沖縄本島伊敷 | 20・6・10 | |
桜井 秀三郎 | 陸 | 伍長 | 比 島 | 20・3・21 | |
清水 良雄 | 陸 | 上等兵 | アリウシャン列島アッツ島 | 18・5・29 | |
武田 増太郎 | 陸 | 軍曹 | 旭川赤十字病院 | 15・9・12 | |
田中 留吉 | 海 | 軍属 | 南方方面 | 17・7・1 | |
田村 義美 | 海 | 水兵長 | 比島ダバオ島 | 20・5・15 | |
土谷 孝太郎 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル島コカンポチ | 18・1・18 | |
宮本 喜一郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島豊見城 | 20・5・15 | |
寺谷 幸夫 | 陸 | 兵長 | 中華民国武昌159兵端病院 | 20・9・5 | |
荒井 幸四郎 | 陸 | 兵長 | ミンダナオ島バンシヤ東方 | 20・6・25 | |
田村 俊三郎 | 海 | 水兵長 | 横須賀久田浜病院 | 20・12・4 | |
太野 惣次郎 | 陸 | 兵長 | 沖縄本島弁ケ岳 | 20・5・27 | |
川瀬 粂春 | 陸 | 軍属 | 硫黄島北17浬洋上 | 20・3・17 | |
熊谷 忠次郎 | 陸 | 軍属 | 満洲国新京陸軍病院 | 17・6・11 | |
小林 金之助 | 海 | 二等兵曹 | 南洋群島トラック島 | 20・8・11 | |
笹森 金太郎 | 陸 | 兵長 | 中国河北省汲県京漢線鉄道 | 16・2・14 | |
笹森 豊司 | 海 | 一等機関兵曹 | ギルバート諸島方面 | 18・11・25 | |
佐藤 嘉一郎 | 陸 | 兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 20・2・19 | |
佐藤 由藤 | 陸 | 兵長 | 上海第192兵站病院 | 20・11・17 | |
田中 新作 | 海 | 水兵長 | 南洋群島メレヨン島 | 19・12・11 | |
中島 精五郎 | 陸 | 兵長 | ソロモン群島ガダルカナル | 18・1・14 | |
中島 清治 | 海 | 水兵長 | 比島ミンダナオ島 | 20・8・10 | |
林 宇一郎 | 陸 | 伍長 | ニューギュア「ザルミ」休養室 | 19・9・9 | |
藤谷 武次郎 | 陸 | 伍長 | 沖縄本島棚原 | 20・4・13 | |
山田 政義 | 陸 | 伍長 | ソロモン群島ガダルカナル | 17・8・21 | |
中島 幸太郎 | 陸 | 軍曹 | 比島ルソン島クラーク | 20・6・10 |
熊石婦人の戦時生活座談会
開催年月日 昭和61年1月24日
開催場所 熊石町福祉センター
出席者
宇相沼 高野ソノ (70歳)
字相沼 南部谷ハツ(78歳)
字見日 佐藤栄子 (51歳)
字畳岩 長水チヨ (67歳)
宇雲石 阿部サク (72歳)
字根崎 本村キミ (53歳)
字雲石 岩野ナツ (66歳)
司会 島谷町史編纂委員長
左より長水、岩野、南部谷、高野、佐藤、本村、阿部(円内)
島谷 戦争が身近に感ずるようになったのはいつ頃からですか。
高野 物がどんどん不自由になった昭和15年ころからですねえ。
長水 私は15年に結婚しましたが、その頃から急に食糧、衣料品が不足してきましたねえ。
南部谷 私も衣類に困って、漁業に使う綿糸で手袋、足袋を編み、古い天じくやネルで手袋やテッケシを作りましたよ。
島谷 皆さんのなかでご主人が召集された方は。
高野 私のところは昭和18年5月に召集になりました。
岩野 私のところは19年の5月主人がハルピンで召集を受け、私は子供を連れて帰ってきました。
長水 私のところの方丈(住職長水憲貢)が20年の3月でした。
島谷 出征の時はどのような状況でした。
高野 召集令状が来てから出発するまで何日もないので、あっという間に出発なので、家族でお別れする暇もありませんでした。村内の人達が日の丸の小旗を振って折戸の峠の処まで送ってくれました。
長水 私のところは配給の焼酎がありましたので、ホッケのカマブクを作って僅かな人で、立振舞をし船で函館に出発しました。
本村 私は子供の時でしたが、私の家からは6人も軍隊に行きました。雨の降る日根埼神社で武運長久を折って傘を差して出発したのを覚えています。
島谷 留守を守っていた皆さんの生活はどうでした。
岩野 私の家では6人の兄がいましたが、5人まで軍隊に行き、兄は北支の戦争で戦死し、さらに一番上の兄も志題兵で行きまして、肺結核になり、戦地から旭川に帰り病死しました。ですから父母は生活も大変でしたし、出征した他の子の武運長久を折る父母の姿は、痛い程目に焼き付きました。
南部谷 子供が多かったので主食も副食もなく、子供らに何を喰わせようかと、それだけが必死でした。
島谷 食糧やその他のものの配給はどうでした。
高野 出征軍人家族には援護費が来ましたが、それだけでは生活ができなかったし、昭和15、6年頃から配給統制が厳しくなり、総ての物は不足し、バスは満員で乗れないし大変な生活でした。
南部谷 ある物は水と薪だけでしたね。子供たちはご飯を喰べたいと泣くし、畑を蒔いて、キミ、カボチャ、イモ等を穫って補充し、助宗の三平汁等で腹を満しました。
島谷 一番困ったのは何でした。
南部谷 何といっても米と塩でしたね。砂糖等は拝(おが)みたくともありませんでしたよ。
阿部 主食の代替としては、ジャガイモ、カボチャが主食みたいなものでした。
南部谷 米に混ぜてイナキミや、トウキミ、ヨモギ、若芽等手当り次第に喰べさせました。長水 随分ホッケのカマブクを造って喰わせました。一度小手芒の豆とザラメ砂糖が配給になり、この時煮豆を造って子供等に喰わせましたけど、あんなに美味だとは思いませんでした。
島谷 調味料等はどうしました。
阿部 コンブをこがして色を出し、それに塩や何やを混ぜて醬油にしました。
佐藤 イカのごろで醬油を造ったこともありました。
南部谷 鮫油を煮て食用油の代用にしました。
阿部 あの鮫油では下痢して困りました。
南部谷 トウキミの殼を煮つめると甘い汁が出るので、これを砂糖の代用にしましたし、味噌は畑を蒔いているので、自分の家の豆で作りました。一番困ったのは漬物で、塩がないので、カボチャやイモを煮た汁を樽に入れて貯蔵しておいて、これで漬物を漬けました。
島谷 その頃闇米(配給ルート以外の米)はありましたか。
岩野 内地から魚を積みに来る船があるので、漁協に頼んで、船の食用の米を分けてもらいました。
高野 私の実家は青森県なので、何とか子供らに喰わせようと貰いに行きましたが、米は持つことが出来ませんので餅にして背負い、米は沢庵漬の下に入れて荷物として持って来たことがあります。
岩野 衣料は点数があっても買う物がない。両親の古いもので、子供達の頭の先から足の先まで何でも造りました。
阿部 病人が出て病院にいっても薬品がない。怪我(けが)人があって病院に入ったら、傷口に軟膏を塗った上に張る亜麻油紙がないので、新聞紙を張って包帯をしたのにはびっくりしました。それにシラミから伝染する発疹チフスや戦後すぐに天然痘も流行しました。高野 村には(相沼)その頃お医者さんが居なかったので、急患を戸板に乗せ、村の人達が交替で運んで豊浜の病院へ行ったのを覚えています。
島谷 戦時生活で一番苦しかったのは。
南部谷 家族が多かったので食べ物です。
高野 何といっても食べる事でした。
佐藤 朝、晩は粥で、昼はイモでしたからね。
長水 乳幼児を抱えていましたからミルクでした。
本村 男手は皆召集で、何でもやらされ、男手がなく困りました。
岩野 私もミルクがなく、滋養糖(育児混合ミルク)の配給も少ないので、上真粉を煉って飲ませました。
島谷 勤労報国隊に行きましたか。
長水 町の人は19年に飛行機の掩体壕造りに八雲飛行場に行きましたが、女の私達は行きませんでした。
島谷 日本が戦争に負けると思ったのは。
長水 日本が世界を相手にして勝てるとは思いませんでしたが、絶対に口には出せませんでした。
佐藤 桜の木に藁人形を結んで、女に竹槍訓練をさせられた時にそう思った。
島谷 熊石にも米軍飛行機が来たようですが。
佐藤 20年7月14日のお昼直前でしたが、グラマンが2機、北の方から海岸伝いに江差の方向に向って行きました。偵察に来たのでしょうけれども、幸い銃撃はされませんでした。
南部谷 お寺の沢に穴を掘って防空壕にしていましたので、非常食糧のスルメや豆を持って、そこに逃げました。
島谷 終戦の日はどうしていましたか。
南部谷 朝から正午に重大発表があるので聴くようにとのラジオで、唯一日ウロウロしていました。
高野 畑から下ってくると折戸の西村さんの前に沢山人が集まっているので、行って見ると、戦争に負けたと言うのです。私は急に力が抜けて地面に座り込みました。
長水 竹槍の稽古をしていた人がありましたが、在郷軍人が来て戦争に負けたから止めれと言って帰って行きました。
島谷 それからの生活と今当時をふり返って。
高野 主人は復員して来ましたが、6人の子を育てるのに夢中で、さらに主人は昭和32年死亡しました。それからの生活には子供を育てるより目標がなく、大変な生活でした。長水 終戦後、ソ連が北海道へ進駐してくるから内地へ逃れと、軍人や若い女の人は皆奴隷(どれい)としてアメリカに連れて行かれるとか、朝鮮人が暴動を起すとか、色々な流言蜚語があって不安でした。
阿部 女の人は耳に穴をあけられ、針金を通され珠数つなぎにして連れて行かれるという専らの噂(うわさ)でした。
岩野 この様な体験は二度としたくはありませんし、勿論子や孫にもさせたくありません。しかし、今の若い人達はあまりに苦労がなさすぎ、将来が心配ですね。
島谷 種々の発言有難うございまし。この座談会を町史の上に反映して、立派な血の通った町史にしたいと思います。寒中ご多忙のところ本当に有難く感謝申し上げます。